2018年09月19日

銀行とは何なのか? (江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)


銀行とは何なのか?

(江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)

現代の社会をみるとき江戸時代から明治に変わったときどうなったかを見ないと根本的にあらゆることがわからない
ここの変化が新しい日本を作ったからである
銀行を例にとれば銀行とは何なのだろう?
それはまず銀行はなかった、江戸時代はそれとにたものとして頼母子講とか金貸しとか両替商があった

北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った    

三組両替および番組両替には酒屋および質屋などを兼業するものも多かった。

三井は呉服店であり銀行を兼ねた、

三井炭鉱を中心とする石炭事業はやがて三井鉱山会社、三井銀行、旧三井物産となった

銀行は何なのか?それを知るためには江戸時代から知らなければ理解できない
銀行とにたものとして両替屋とか質屋とか頼母子講とかがある
銀行とにたことを酒屋がしていたりしたのは酒屋が当時は主な産業であり金になる会社だったからだとなる 養蚕業でもうけた人も銀行をはじめていたのである。
銀行とは最初そうした事業を起こした会社の中にあったのである

銀行とはもともとこうした多機能なものであった、三井がなぜ銀行業にもなったかというと呉服屋でもうけた、資金が資本が生まれたから銀行業もするようになった
石炭事業でも成功して銀行業もするようになったのである
金融業は銀行はもともとは事業が先にありそこで蓄えた資金が資本となり事業を拡大したのである
ただ頼母子講とか金貸しとか質屋とかにはそうして事業して金を貯えるということはなく銀行の役割とは違うものである
でも銀行だって金の出し入れとかしていた両替もしていた
ただ金を資本としてまた事業を展開するということはなかった
つまり資本主義とはまず資本蓄積があり事業がありそれでもうけてまた新たな事業をはじめる、その役割を担ったのが独立して銀行となったのである

だからもし銀行の役割が何なのかとなると両替屋的機能とか金貸しの機能とかあった
でも近代的資本主義の銀行の役割は事業をして金を貸して投資して利益を出すことにあった
つまり銀行が生まれたのがそもそも事業家からであったことがそれを示している

銀行はその後事業家からではない、一般庶民から金を集めるようになった
それに利子をつけるようになったのである
そして銀行は事業家,会社に金を貸して金をもうけたら利益を出したら利子をとり還元して預金者に利子を払っていたのである
だから高度成長時代は会社がうなぎ上りに成長したから銀行の預金には7パーセントとかの利子がついていた、だから貯金するとそれが十年二十年とかさらにすぎると確実に倍になっていたのである
その時また事業を起こす人が多かったがその事業もまた成功しやすかったのが高度成長時代だったのである

銀行がなぜ今もう必要がないとか利子もつけないしただ金を集めてどうするんだとなっている、ただの貸金庫なのかとかその必要性が問われて銀行員は無駄だとされる
投資信託を売りつけて確実に手数料をとるあこぎな商売となる
それは銀行とはなになのか?銀行の役割が何なのか?それが今問われている
ふりかえると事業家が銀行家にもなったことでわかるように事業するための金を貯える
それが資本となりファンドとなり新たな事業を展開することにあった
地銀だと地元に密着して事業をする人に会社に資金を提供することにあった
それが高度成長時代はできていたのである

銀行はもう前のように会社のことを知り地元のことをしり投資することができない
目利きする人がいない、それで投資信託とかを売るようになる
銀行というのがその役割が喪失したというとき何か事業を起こす人は今はインタ−ネットとかでもクラウドファンディングとかで資金を集めている
それは銀行がしていたことなのである
銀行とはそもそも三井でもそうだが事業家からはじまっていた
他の機能があるにしろ近代的銀行の始まりは資本主義社会では資本を蓄えて金を蓄えてそれによって新たな事業を展開することだったのである
それができなくなったらただ金を集めてどうするのだ、利子もつけない、貸金庫なのか?その役割が失う、そして銀行員はいらない、リストラされるようになる

例えば地銀は津波と原発の復興事業にどうかかわるのか?
地方の産業の衰退にどうかかわるのか、その資金をどう活かすのか?
それが見えないのである、資金がある人は金がある人は金持ちは銀行家にもなる
何かそういう責任が課せられる、金をもってもそれを有効に活かせないとしたら金持ちとしての資格がないと批判されるのである
それと何か銀行も似ているのである
今地域にはいろいろな問題がある、でも地銀がそういう地域の問題にどういうふうにかかわっているのか見えない、だから大手の銀行が農業が成長産業だとして銀行員も派遣されて農作業しているのである
農業も事業だからその事業を開拓しているのである
金を集めて金をどう生かすのか、それが活きた金となるのか死んだ金となるのか?
それは個人的にもそうだが銀行にも問われているのである。

posted by 老鶯 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

東京まで行って医者に診てもらう人


東京まで行って医者に診てもらう人

腰が悪いと前々から医者に行っていた、仙台の医者にも行った、そこは前に小野田病院にいた医者であった、その医者が今度は東京の医者に診てもらいという
その医者は同じ大学で弟子にあたるとかで連絡をとったという
その病院にはこの辺にはない機械があるから良くみてもらいという
それで連絡して薬をだすようにするという

それにしても東京に行くというのは大変である
良く福島医大に通っていた人はいた
それで一番近道を知っていて通っていた
今は高速ができたから早くなる
とにかく病気というのはいろいろあり難病があると仙台でも直せないのか?
わからない病気があるのかとなる
一人は白内障手術したけどもう二か月入院している
それは糖尿病であり手術のうまい医者にみてもらっているからである

その女性の息子は実は今東京の八王子で働いている、でも息子には合わない
援助もしてもらえない、そして常に自分が金を出すことになる
でもそんな人を雇うとどうなるのか?仕事してもらっているのではない
ただ援助しているだけだとなる、へたすると介護までさせられるようになるかもしれないただ仙台の医者は金がないと言ったら一万貸してくれるとまで言っているという
そこまで金の心配までしてくれのかとなる
ただその女性の性格がそうしてめんどうみてもらうようなコミ二ケーションができることには感心している、だからこそそこまでしてくれともなる
自分等は医者でもそんなコミ二ケーションができないからである
そういうコミ二ケーションできる人は助けてもらえることがあるからだ

東京まで行くとなると常磐高速でさくらバスが出ていて5時間くらいで行ける
その人はバスは気にならないらしい、自分も乗りたいと思ったが何か疲れるので東京にも行きたくなくなったのである。
とにかく現代とはもう広域社会である、ええ、金もないのに東京まで行って医者に診てもらうのかとなる
知っている人は東京の親戚を頼り人間ドックに入った
東京だと違うとなるからだ、人間は病気になれば藁をつかむ思いでなんでも頼る
だから東京までも行くとなる
福島医大に仙台の医者から行くなと言われたという、実験材料にされるから行くなと言われたという、それで東京まで行く
ただこれも一面贅沢だなとは思う

ともかく病気の人が高齢化社会では増える、それで医療費とか福祉の負担も増えるのである、何らかの病気になる人が増えてくるからだ
それで昨日のNHKで縁切り自殺のことを放送してい
その人は67歳ですい臓がんになり東京で自殺したのである
それは東京だと行方不明者となり無縁仏として始末されるから迷惑にならないからだという、その人は迷惑になることを相当に気にしていたである
治療費も一か月5万かかるとかで気にしていた
何かそういう考えるのもわかる、ただその人は身寄りがないというのではない
一応内縁の妻とかいたのである、もう一人の人はちゃんと夫もいたのに
突然行方不明となり自殺して消えたのである

人間は最後は介護とかなったら長い、普通に5年くらいはかかる
そしたら身よりがないとなったら誰が世話するのか?
他人は金にしか興味がないからだ
それなら一層死にたいとなる、猫は死ぬ時期になると行方くらますという
人間だってそうなりたい、自殺はすすめられないがあまりにも今は死ぬことが簡単ではない、助けられるのはいいが介護になったら世話する人がいないのだからかえって苦しむだけだからである
おそらく今までは介護といっても一年くらいだったろう
でも戦前でも脳梗塞だと5年生きたとか知っている
その時おむつもなく藁でしていたという、そんなでも5年生きていたとなる

人間は最後はたいがい悲惨である、金があっても直らない病気がある
もし病気が直るなら誰でも金があればいくらでも出すとなってしまう
その人はそもそも東京まで直るのかどうかわからない
ただ医者がそれほど親身になってくれるということで行くという
でも自分にも常に負担になるから困るとなる

2018年09月18日

月曇る(秋の夜の相馬市)


月曇る(秋の夜の相馬市)


 mooncloud111.jpg
この写真は相馬市のだてやのものではない



家の跡松一本残り落ちし柿

街道の松一本一本秋没陽 

月曇る相馬の城下路地の道

月曇る着物店かな城下町

月曇る着物の柄や衣替え

月曇るスナック一つ路地裏に


残る蝉奥に聞こえて家のあり夕暮れあわれ柚木村かな

ここにある三本の松我知りぬ秋の夜静か月曇るかな   


家の跡が空き地になりそこに一本の松がある、それは家がなくなってもずっとある
何年もある、近くなのだけど誰か住んでいたのだけどそれがわからないのだ
これも不思議である、近くに柿が落ちていた

今日はロードで夕方に相馬市に行った、途中坂になり歩いた、浜街道の日立木の松並木のところである
歩くと確かに景色は違って見えるのだ、つまり一本一本の松を見て歩くのである
自転車でも一本一本の松は見ない、車だと過ぎ去るだけである
街中を歩くときも一軒一軒の店を必ず見るのである、車だと通りすぎるだけなのである

夜の街と昼の街は見え方が違う、夜にしか見えないものがあるのだ
かえって夜だと店でも電気で明るくなり目立つのである
それで相馬市の夜の街を歩いたのである。
そこに着物店があり「だてや」とあった、いかにもこの辺らしいとなる
だてやは伊達氏であり伊達政宗である、仙台屋というのもあるがだてやというのはわからなかった
つまり昼間ではこの着物店はわからなかった、見えなかったともなる
今回デジカメをもっていかなかったので写真はインタ−ネットから拝借した 

衣替えというとき今は夏から秋である、衣替えとかなると女子高校生などは衣替えがある
しかし着物は日常的に着ていない、ハレの日のものとなってしまった
でも江戸時代から明治でも着物は日常的に着ていた
すると衣替えというのはそういう時代のものであり季語になった
現代は着物が日常的なものでないから衣替えという言葉も死語になってしまうこともある

当初は、貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ定められていました。

・4月1日から5月4日までが袷(あわせ)という裏地付きの着物
・5月5日から8月末までは帷子(かたびら)という裏地なしの単衣仕立ての着物を着用
・9月1日から9月8日までの1週間程、また袷を着用
・9月9日から3月末までは綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)を着用

このように細かく定められていたそうです。   

今日は月が曇って光っていた、それがなんとも相馬市の城下町にあっていたのだ
相馬市の不思議は何度もプログで書いているがしんみりしていることである
それはやはり城下町としての歴史がありそれが残ってる
原町市には相馬市に感じる情緒を感じない、だから何でもないようだが店でも城下町にふさわしいなと見る
陶器店でもそこで飾っているものが見るのが楽しいとなる
店とは見せるだったのである、店で見る楽しみがあった

そして相馬市は城下町であり雰囲気的に古風な店があっている、陶器店とか着物店とかお茶屋とかである
原町にもあるのだけど何か相馬市の城下町とは違う、着物店が呉服店があるのだけど相馬市の着物店は街全体の中に調和してあるとなる、ただそれは外部の人には気づきにくい、相馬市は雰囲気が違うのである
それでなんとも月が雲の中に光っているのがにあっていたのである
陰々とした感じなのである

帰りは五本松の脇道を通る、その五本松も日本は枯れてなくなり三本しかなくなった
でも秋の夜にその松は夜でもあることを知っている、闇の中でも知っているから見えるのである。
認知症になると常にもともと知っている人と場所ならなんとかわかるが地理的感覚がわからなくなる
それで知っている人がそばにいないと不安になる、でも闇の中でもこの松のように知っていれば見えるのである
ここに松があることを何度も見ているから知っているから見えるのである

2018年09月17日

愛国心とは何なのか? (利他の精神なくしてありえない)


愛国心とは何なのか?


(利他の精神なくしてありえない)


●経営者と愛国心


利己、己を利するために、利益を追求することから離れて、利他、他人をよくしてあげようという優しい思いやりをベースに経営していきますと、会社は本当に繁栄しますよくなります。


会社経営でもこういうことを必ず言っている、つまり自己の利益だけを求めていたら会社は成り立たない、繁栄しない

でも反面ブラック会社というのがある、それはまず雇う人を社員をただのロボットのように見ている、だから非正規社員として雇う、時間給で人を雇う

それはセブンエレブンとかコンビニとかで雇われる人がそうである

会社ではもうそこに人件費を払いたくないから自動化して無人化したいのである

JRでも無人駅を増やしているのもそのためである

人のコストが一番高いからそうなるのである


そしてセブンエレブンなどではチェーン化して出店するオーナーは会社から搾取されるとある、そこでは会社の利益になることだけを追求してオーナーとかやそこに雇う人はロボットの方がいいと考えているのである

そういうところに愛社精神もロイヤルティも育たないだろう

それが高度成長時代の会社とは違ったものになっている

高度成長時代は企業戦士となり愛社精神が強かったのは会社が終身雇用であり家族のことまでめんどうみる共同体のようになっていたからである

時間給などではない、全人生を考慮して雇っていたのである

ただそれが可能だったのは高度成長という経済が成長して給料が毎年上がっている時だったのである。


経営者になるときただ利益をあげることを至上命令とする、利益があがらなければ社長はやめさせられる、そこに利他の精神などがあるのか?

事業に失敗した人はなぜだったのか?

その人は利他の精神が全くなかったのである。なぜ事業を起こしたのか?、自分が優秀だということを見せたいために事業を起こした

技術的には資格をもっていて優秀だったからである

でも利他の精神など全くなかったのである

ただ金持ちを相手にして金をもうけたいというだけだったのである

だから自分が苦しい時その人は一つの荷物をもつ気がなかった

つまり社長でも何かそうして人に尽くす気持ちがないとできないのではないか?

社長とはただ威張って社員をこきつかい利益をあげるだけを目的として

自分が偉いということを見せるだけなのか?

そんな人が社長だったらどうなるのか?

そこに利他の精神が愛など全くないのである

要するに社員は奴隷であり客は金を得るための道具だとなる


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」


上に立つものはこうならないと指導できないだろう、ただ威張っていたいという人が経営者になれるのかとなる

モラル的にそうでなければ上に立てるのか?ただ人に仕えさせて威張っていたいとなる人が社長になれるのか?

そんな人に人はついてゆくだろうか?


●格差社会は愛国心を喪失させる


愛社精神と愛国精神でも通じるものがある、国家でも富裕層と貧困層とかに二分すると格差社会になると愛国心は喪失する

みんな自分だけの利を求めるとき国は二分化して分裂する

特に官僚とか政治家とか上に立つものが自分たちだけの利益を求めて社員でも国民でも奴隷のようにみるとき国家でも会社でも忠誠心がなくなり衰退してゆく

ローマ帝国が崩壊したのは貴族が贅沢して奴隷を使っていたからだとなる

そこになぜキリスト教が普及したのか?

それは極端な格差社会だから平等の愛を説くキリスト教が普及したのである

格差社会は国を分裂させる、いづれ国民の不満が爆発してフランス革命のようになる

貴族もギロチンにかけられる、そういう恐ろしい反乱が国民から起きてくる

それは中国などの歴史でもそうだった、極端な格差社会になると金持ちが盗賊に襲われて殺される、そして盗賊が皇帝になったのである


このようなことを自分も経験したので書いてきた

極端な格差社会になるとモラルはなくなる、金持ちはみんな不正でもって金持ちになるとみられる、だから奪ってもいいのだとなる、そこには何の罪の意識もなくなるのである

第一上に立つものが雇う人でも時間給でロボットのように扱う

そこに愛社精神とかは生まれない、奴隷なのである。良く俺たちは社畜なんだよなという時そうである、雇われる社員は奴隷だと思っているからだ


国家にしても国民を政治家とか官僚とかが奴隷のように思い扱えば国家への忠誠心とか愛国心は喪失する、中国では民という漢字は目をつぶすというとき怖いものがある

あれだけ人口が多い大国になると人民とかでも支配者は奴隷とみているのである

そこで皇帝が神のようになり国民から税金をとり酒地肉林とかあくなき欲望に走るのが中国の歴史だった、中国の欲望の強さは地下まで死んでまで自らの権力を誇示して生きようとしていたのである。始皇帝の兵馬俑とかがそうである

それが中国の歴史だったのである、だから中国には愛国心が育ちにくいのである

愛国心といっても国を利用して利己的に私的に欲望を満たすことである

その時国民が犠牲になっても大量に死んでもいいのである

それは共産党国家になっても同じだった、何兆もの富を蓄えた共産党幹部がいたからである、それは昔の王侯と皇帝と変わりないのである。

そういう国家が果たして力をもちえるのか?いくら数が多くても愛国心があるようで実際はもちえないのが中国だとなる


アメリカはどうかとなるとアメリカはホイットマンの詩のように平民の国なのである

そこに王様はいないのである、みんな平民なのである

ただ黒人奴隷はいた、そこに人種差別がある、でも平民の国であるから愛国心もあるとなっていた、そこでも対立争いはあったにしてもやはり愛国心があった

でも今はアメリカでも格差社会になる時愛国心は失われる

アメリカの国家は多国籍企業の言いなりに動く、国家は大企業の使用人のようになる

そして株でも金融でも一部の富裕層に富が集まる、その格差が大きすぎるから国としての統一感がなくなる、何パーセントの富裕層が富を独占する、そういう国になると愛国心は喪失するのである

つまり愛国心とは何かとなるといろいろあるにしても利他の精神が基本になるからだ

それが失われたとき愛国心は失われる、だからアメリカでも中国でも愛国心をもつことはむずかしい、国が巨大すぎるからである。

アメリカで富裕層が愛国心を説くのは矛盾している

なぜならアメリカの貧困層が増大していてわずかの富裕層に富が集中している

まず貧困層に富を分け与えるのが先だからである


●宗教が愛国心の基


日本という国は島国であり一つにまとまりやすい国であった

天皇というのは中国の皇帝とは違う、日本の精神的シンボルのようなものであり地下まで帝国を維持しているような強欲なものはない

そんな権力をもちえなかった、天皇とは逆に飾りだともなっていたのである、実質の権力は侍がもっていて天皇はもっていなかったからだ

ともかく愛国心というとき別に宗教に関係なく宗教者は熱烈な愛国者である

日蓮がそうであり内村鑑三でもそうだし手島郁郎もそうである

キリスト者にもいろいろあっても別に日本文化を否定しない

それは宗教はもともと利他の精神から起きて来たからである

仏教でもそうだし宗教は利他の精神を説くから愛国心も利他の精神から成り立つから共通しているのである

国を愛すとなるとそれは大きなものだから利他の精神なくしてありえないからである


現代は愛国心が失ったという時、上も下も利他の精神がなくなったからである、ただ利己的な利益を求めるだけであり金を求めるだけであり

会社でもそうだし組織団体でもカルト宗教団体でもそうである

自分たちの所属する組織団体の利益をもとめひいては自分の利益になる金になることを求めることになったとき愛国心も喪失したのである

だから戦争はいいものではないにしても国のために死んだ若い人たちには愛国心があった、強制された面もあるが愛国心はあったからできたことである,今はそもそも国は常に否定されている

ただ利己的な利益を求める金だけを求めるだけになっているからだ  


旧約聖書:箴言:15章:17節


野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる


現実はたらふく肉を食べたい、どんなことをしても食べたい、相手を殺しても食べたいとなっている

つまり肥えた牛がいれば奪い合い争いとなり殺し合いになる

この辺でも補償金でもめたのもそうである、原発は金の産むものでありそれで誘致されたのである

危険性などほとんど問題にしていなかった、ただただたらふく肉食べたい、金が欲しいとなっているだけである

そして今度は補償金で争い憎みあっていたのである

野菜を食べて互いに愛し合うことはかえってむずかしいのである

そもそも歴史でも人間の争いはたらふく肉を食べたいということで起きているからである。

互いに肥えた牛を奪い合うことになって争うからである

肥えた牛とは今では石油とかいろいろある、原発でもそうである、それは金になるからである

だから利他の精神を説いても実際はむずかしい、どうしても事故の利益が優先されるからである。

そして富裕層が自分の富を手放したくない、そこで金でいろいろ工作してくる、政治家に働きかける

政治家も肥えた牛を食べたいから富裕層につくとなる、だからこれを実行することは簡単ではないのである。

原発でも地元でもあまりにも欲が前面に出てそういう人がいたからこそ原発は歓迎された

そして事故になりとりかえしのつかないことになったのである。


●日本精神の新たな復活

   

日本精神に再び立つべし



いさおしく御国のために果てにしを今誰か思ふらむ


大和の国にその英霊の浮かぶも悲し認められざるかな


何故に我が死すをかえりみて嘆くらむ              


今民をかえりみる者なし


ただ我が利のみ追いて金のみが力なり


我が社のみの利を求めて民を思わじ


あらゆるものの上から下も求むるは利のみなりき  


心はたやすく金で買われ心は踏みにじられる


すめらぎの誠の道を再び正しうるわしき国を作らむ


日本は再び立たむ正しきを貫く独立の国として


その誇りをとりもどせ、金に計れぬ誇りをとりもどせ


何を恐れむ神の御意の国に宿らば恐ることなし


さらば霊峰富士のさらに映えて国は栄えむ


国を守るは武器にあらじ日本精神なり


誠の道を貫く古来よりの日本精神なり


核兵器にても国は守れざるなり


日本精神と民の力こそ国を守るなり


その民を虐げる者は国を食いものにする者なり


国の富を貪る者よ、民を貪る者よ、呪わるべし


故にこれらを撃つべし一掃すべし


日本の民の力の再びよみがえり立つべし


再び維新の時なり、改める時なり


心ある者は立て、そして戦い、武器を持つにあらじ


大いなる変革の時は再び来たれり  



日本精神とは何なのか?これも今は明確ではない、日本精神は侍精神だという人もいた、何か日本の歴史の中で伝統的に血肉となったものである、それが失われたのは日本が戦争に負けてアメリカ一辺倒になった、そうさせられたということである

金の価値観しかなくなったためである、何か獣のように欲をむきだしにして貪り食らうというだけである

弱者も貪り食らう対象となる、貧困ビジネスもある、弱者とみればつけ入る、もう日本人の良さは消失しているのである

そして核武装が言われるが武器で国が守れるのか?

もう核戦争になると人類滅亡になる、つまり核武装してもそれは自国でも他国でも滅亡なのである

だから今やそんなことしても無益だとなる


ともかく戦後70年で大変革の時が来ている、それはあらゆる方面に及んでいる

結局戦後70年とは明治維新があり70年過ぎて太平洋戦争があり焼野原になり復興してまた70年過ぎた

大きな変革の時になったのである、それは世界的にもそうである

明治維新と戦後の焼け野原を思えばまだその変化は小さいとなる


確かに東日本大震災でもその被害は大きかった、でも戦後の焼け野原を広島の原爆から立ち直ったのを見ればまだましだとも思う

その時は食べるものすらなかったからである。

かえって戦争では既得権者が一掃されて復興したとも言われる、既得権者が居座っていると改革はできないからである。

それが一掃されたので新しい日本になった、ただそれはアメリカ主導でなったのである

だから今度の改革は日本主導でしなけければならない、それは戦争の時のように独立するとなると厳しいものになる

中国が大国化してアメリカがいてロシアがいるからである、その挟間で日本は苦しむからである

ただそういう時期にきているからもう改革は避けられないしもしそれがでなければ日本は衰退して中国であれロシアであれ今度はアメリカが衰退しても属国化することは変わりないのである。


弱者化すると個人的にもそうだが周りの国が攻めてくる、弱者は奴隷化されやすいのである

あからさまに自分が弱者化したとき借金した人が奴隷にしようとしていた

でもその人もまた借金で奴隷になっているのは因果応報である

奴隷として人間を使おうとするものはやがて奴隷として使われるのもカルマなのである

歴史でも弱者と強者は逆転するからである、それも人間の法則なのである


江戸時代でも隣の藩は敵であり助けたりしないのである

弱体化すると好機になり攻めてきて支配されるのである

日本も弱体化するとロシアが攻めてくるし中国も攻めてくる

その前に日本には耕作放棄地とか使用されない土地があり誰が持ち主かもわからない土地が膨大にある、そういうところは中国に買い占められたりしている

空白地というのはそうなりやすいのである

その土地を使用ししても文句を言う人もいなくなるからだ

そのうちに外国人が住んでそこは日本でなくなるということにもなる

だから日本は少子高齢化でそういう危険性も高くなっている

日本の国力が衰退すれば自ずとそうなってしまうのである




タグ:愛国心とは

2018年09月16日

岩沼で脱線事故


岩沼で脱線事故

acidentrail1.jpg



一時間くらい遅れた、脱線事故はめずらしい、それでも一時間くらいしか遅れなかったのは早い事故処理だった
信号の故障?は何度かあったが脱線事故は今までなかった
まず脱線事故は日本の鉄道ではめったに起きない

なぜ起きたのか?

石を誰か置いたのではないかと言う人がいた、そういうことでしかなかなか脱線事故は起きないとは言える
ただ遅れがそれほどなかったから良かったとなる

それから梨の忘れ物があった、これは置いておくと悪くなる
一応原町駅に連絡した
忘れ物は駅にはある、これも連絡は必要である
タグ:脱線事故

2018年09月15日

温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか? (温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


温暖化は嘘なのになぜこれほど報道されるのか?  

(温暖化はかえって地球にとっては生命にとってはいいものである)


日本人は「事実を知りたい」のではなく、「空気にそった希望していることを繰り返したい」と言うことなので、NHKは大潮の時を狙ってツバルに撮影隊を送り、地盤沈下を起こしている2、3の民家の映像を流して、あたかもそれがツバル全体のように見せた。完全なヤラセ報道だ。

人類の歴史をひもとくと、温暖化は善、寒冷化は悪である。中国の王朝の崩壊は、寒冷化と軌をーにしている。寒冷化すると飢越になり、農民は食べられなくなり、王朝に対して反乱を起こす。ロ−マ帝国の崩壊もそうである。中央アジアが特に寒冷化に敏感である。地球が寒冷化すると、まず中央アジアで食えなくなり、遊牧民が移動を始める。フン族が西進してゲノレマンを追いはらい、ゲノレマンはローマに入り込んで、ローマは滅んだ。
蒙古帝国の興隆も寒冷化が原因である。
21世紀の我々にとって真の脅威は温暖化ではなく人口増加である
そのための食料不足である


温暖化というとき温暖化は善、寒冷化は悪であるというのは科学にうとくてもわかる、南国は果物が豊富で人類もアフリカから生まれて別れたというのも納得がいく、なぜならアフリカはあらゆる生物の生息する所であり今でもそうである
そういう場所から人類が最初に生まれて地球に散らばったというのは納得がいく
四大文明でも中国を除いては暑い国に起きた、暑い所は植物でも豊かに繁茂するから動物の食料が豊富だから住みやすいのである
東南アジアとか暑い国ではなまけものだというとき日中暑くて働くことができない、日影で休んでいる他ないのである
ところが寒い国ではドイツとかイギリスなどでは寒いから勤勉に働くということがある
勤勉の思想もプロテスタンが生まれた土壌になる
イギリスの産業革命でもそうである、資本の効率化とかをできるかぎり追及をする、機械がそこで不可欠になり機械の発明が行われる一方でカトリックはイタリアとかスペインとか地中海沿岸に広がる、そこは比較的暑い地帯なのである
南と北ではそもそも気候が違うから違った文化や文明が生まれるとなる

だから温暖化というのは別に地史的にみても温暖化しているとき生命は植物でも豊かに繁茂して餌が豊富だから動物も生きやすい熱帯化しているとき恐竜など大型動物も生息できた、あれだけの巨大な動物を養うのには植物でも豊富でないとできないからだ
この辺ではフタバスズキ竜とか海竜の化石が発見された、そんな巨大な海竜がいること自体温暖でなければ生きられないだろう
そういう巨大生物が生きていたときはこの辺の山の奥でサンゴ礁の化石が発見されたりしている
つまり沖縄とか同じように熱帯の環境だったのである 

ジュラ紀という地質時代(今から2億1000万年年〜1億4000万年前)はとても暖かい時代で、シダやソテツなどの植物がたくさんあってそれらを食べる恐竜がたくさんいました。つぎの白亜紀にも植物食の恐竜はたくさんいます。植物食の恐竜がたくさん増えたことから、それを食べる巨大な肉食恐竜も飢えることがなくなったので、増えていったと思われます

寒冷化することは植物の生長にとっても良くない、最悪なのは氷河期でありその時地球の生命すら絶えるという危機になっていた
でも温暖化で地球の生物が滅亡するようなことはない,かえって日本だって今まで寒い地域で南国のようになり南国の果物でも栽培できるとなり食料も豊富になる,寒冷化の方が飢饉になりそれで民族移動が起きたというのがわかる
モンゴルは中国から入るとかなりの高地であり冬は酷寒である

1 年で最も寒い日は 1月18日で、平均最低気温は -28°C、最高気温は -17°C です。

それでモンゴルに羊を飼うことを習いに一年とか住んだ人は冬は一回りやせるという、それほど厳しいのである
そういう厳しい所だから住みやすい所を求めて食料豊かな所を求めて民族移動する、それが征服戦争にもなっていたのである。
どちらかというと寒い国から温かい国への民族移動が多いだろう
日本はどちらかというと寒い地域もあるが比較的温暖であり照葉樹林体もある、だからこそシベリアとかから日本へ移動してきた
南相馬市の鹿島区の海老では丸葉車輪梅の南限の地として有名だった
これは奄美大島が原産でありここに種が流れ着いて自生した、つまりこの辺はまだ暖かい地域だから南国産の花でも根付いて咲いたとなる、それで万葉集の真野の草原(かやはら)の歌はここをさしているというときそれは気候からみても納得がいくとなる
人間社会は気候とか風土の影響が大きいからそれで歴史も文化も作られるからである

地球温暖化は地球的規模でみれば悪くないのである、ただ今年のように暑いと死ぬ人もでてくる、だから個人的には暑い所には自分は住みたくない、何か頭脳でも麻痺してしまうからである、かといって寒い北海道も嫌なのである
体力的にどうしても弱いと気候的には自分が住んでいる場所はいいとなる
地球温暖化をなぜこれほど騒ぐのか、その意図は何なのか?それはヨーロッパ主導の見方だと言う人もいる
これ以上二酸化炭素の排出とかが増えるとヨ−ロッパの気候も脅かされて住みにくくなるからだという
ヨ−ロッパはやはりそれだけ気候的にも恵まれているからだとなる
ただなぜこんなにNHKまで巻き込んで大々的に宣伝するのかとなるとその理由が良くわからないのである
利権がかかわっているからだというのがその見方である

環境問題でも何か騒ぐとそこで研究者に御用学者に金が入ってくる、研究費が入ってくるから危険性を主張する
何も怖いことはありませんよとなると研究も必要ないとなるからだ
そういうことがいたるところにある、それを武田邦彦氏はyoutubeで絶えず指摘している
何か絶えず不安あおるのが商売になりやすいのである
この世が終わるというカルト宗教団体が過去にも出ていた
そして恐怖のあまり財産を全部なげだして死んだ人、自殺した人まで結構いる
そういう商売になるのが不安をあおる商売なのである
週刊誌でも過激な見出しになるのは不安をあおって本を読ませるためだとなる
それはyoutubeでも同じである、地震がいつ来るとかこの世がいつ終わりになるとかなるとたいして内容がなくても人間心理的に不安を覚え読むようになるのである
そしてyoutubeでも視聴率を稼ぎアフェリエトで宣伝費を稼ぐとなる
だから本当は利益がかかわると公正の報道も判断もできないとなる  

人間は科学的判断をすることは普通は苦手である、原子力だってもう科学的に素人はわからない、では科学者が専門家はどう判断するのか?御用学者になって政治家の言うままになるとか官僚の言うままになる
それで安全神話をも作られた、政治家、官僚、御用学者、マスコミが一体になって安全神話が作られた
そうなればもうどうにもならないくなっていた、それを正す者はいなくなった排除されたからである
そして報道機関とは何か?
報道機関は既得権益をもつ連合体なのである、だから報道機関同士で批判したりしないのである
暗黙の了解があり既得権化している、そして報道機関は俺たちが報道の権利を行使するのであり俺たちの許可なしでは何も報道されない、事実すら報道されないとなっている
それは新聞とかテレビだと誰もそれだけの装置を持つことができないメデアになっていたからそうなっていたのである
そこには莫大な金がかかっているからである

ただ既得権というとき報道機関だけではない、様々な組織団体にありそれが圧力となって報道も歪められる、電事連とかでもそれは労働組合でも原発推進になる既得権の団体である、だから原発には反対しない、自分たちの給料がどこから出ているからわかっているからである、そして電事連からマスコミに膨大な宣伝費が流れていて一体化して安全神話が作られたのである
現代の科学はサイエンスではないという、それは利益と利権と密接に結びついたものであり科学的なものもそのために利用される
そこで御用学者も研究の予算をとるために実際は危険でないのに危険をあおるのである
こうして科学も本来のサイエンスではなく利益追求のみが優先されるとき歪められて安全神話が作られ大事故になりとりかえしのつかないことになった  

この辺では漁業権を東電に売り渡して事故前も事故後も多額の補償金をもらっていたことを指摘して批判してきた
これもまた利権と結びつきそうなった、こういうことはあらゆる所にあり無駄に金が使われているのだ
社会の既得権化したものを壊すことは容易ではない、それは明治維新とか戦争か巨体な天変地異でも起きない限りできない
安全神話を崩壊させたのは未曾有の津波だったからである
そして中国でも約人民解放軍が支配してから70年すぎ日本でも戦争から70年すぎて既得権化したものの崩壊が起きる
銀行もそうだった、社会全般に既得権をもつものの崩壊が起きる、70年ごとに大きな変革が起きる
それで今日本で地震が頻発しているのである

いづれにしろNHKでもなぜ温暖化の危険をこれほど言うのか?
その意図は何なのかとなる、やらせ報道までして温暖化を言うのはなぜなのか?
北極の氷がとけていなのに溶けていると報道する
そこまでしている理由は何なのかとなる
それは科学的ではない、何かの大きな意図が働いてそんな悪質なやらせ報道までしている
そして水につかっていたのはツバルの島のほんの一部だったのである
映像で判断する危険は全体の一部をきりとり放送することにある
一部だけが極端に強調されてそれを真実だと見させるのである
でも映像の影響力が大きい、人間は一部の切り取った映像で即座に判断するからだ
それでイラクの湾岸戦争では油にまみれた鳥をみせつけてイラクのためにそうなったということが全世界に伝わり
イラクが悪しとなったのである、それも報道による操作だったのである。



初秋(常磐高速のセディティ鹿島に行く)


初秋(常磐高速のセディティ鹿島に行く)

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鹿狼山(がろうさん)が見える



故郷や先祖の墓地に実りかな

開業し三年ほどや秋の蝉

高速に鹿狼山見え初秋かな

東風(こち)なおも吹いて飛び交う秋燕

酔芙蓉ほの赤く咲き町眠る

虫の音や社一つの何語る

月細く虫の音聞きぬ草深し


常磐高速のセディティとの開業は平成27年(2015)でありそれは東日本大震災の後だった、だから約3年ほどすぎたとなる
あそこの特徴は高速を車で来る人がとまるだけで街の方にはほとんど来ない
あそこで休養してすぐに去ってゆく
だからあそこは街とは離れて孤立した場所にも見えるのである
それが駅とは違う、鉄道の駅はもともと駅ができて街並みができるというほど影響していたのである   

原町は旧街道が中心の通りで宿場町だったのである
それが鉄道ができたとき駅前通りができたのである
街が鉄道によって変わったのである、それだけの影響があった
相馬市は駅前通りにはならず城下町のままだったのである
駅前通りは明治になって鉄道ができたとき生まれたのである
では高速となるとそういうことは全くない

ただ町の中心部から離れたところにあり町自体とは関係しないのである
だから高速は市町村を活性化するというのとも違う
道の駅でも相馬市だったら街の中心部から離れた田んぼの中にある
原町は街の中にあるから活性化することはある
高速道路は道の駅なのだが何か違っていた
つまり車社会が街の商店街をシャッター通りにしたということがある
それは前のように街の通りとは関係しないからである
だから車と鉄道はそもそも街に影響するにしても違ったものになったのである

高速のセデッティから鹿狼山が近くに見えた、この辺では高い山がない
鹿狼山(がろうさん)は400メートルくらいでこの辺では一番高いのである
高速からの眺めはまた違っている、ただ一回も高速を通る経験をしていない
東京までバスで行こうとしたが行かない、何か介護になってから気力がなくなったのである、旅するにも気力が必要だなと今は思った

まだ風は東風である、でも確かに秋なのである、今日は午前中は雨で寒かった
午後は晴れたのである、日ざしは強い、あれだけ暑かったのは日ざしが強いことがわかる日ざしが強いということは太陽の影響で暑かったのだろうか?
氷河期となるなら太陽が影響しているから温暖化とは太陽の影響なのだろうか?

酔芙蓉が街中に咲いている、そして小さな町は静かな眠りにつく、田舎の夜は静かなのがいいのである、何かうるさい所は住みたくない、老人になると余計にそうである
何か疲れやすくなっているからだ
ともかく故郷とは何かということを私は震災後追求してきた
それはやはり先祖というのも関係している、親に育まれたところだとなる
その親が先祖がいて実りがあった
ただその先祖が悪いことでまた原発事故で住めなくなったこともある
だから避難区域になったところではもう住めなくなった
そしてたら先祖もそこにはないとなる、避難区域では今住んでいいる人たちだけではない先祖も住んでいたのである、その先祖の住む場所も奪われたとなる

それは限界集落で廃墟になった村でもそうである
誰もお参りもしない社がある、それも何か淋しいなとなる
そこは山の中にあり家は朽ちてゆく、そういう廃墟趣味の人がyoutubeで放送している
何かそこには幽霊が住んでいるような雰囲気になるのである

金をめぐる結末 (認知症になり金のことがわからなくなった)


金をめぐる結末

(認知症になり金のことがわからなくなった)

家族二人はある時金で激しく争ったし金をためていた
一人は思った以上ためていた、それで驚いたということもある
今は誰でもそうだが金を第一の価値としていたことには変わりない
では結果的に最後はどうなったのか?

二人とも認知症になった
そして金のことがわからなくなった
銀行から金をおろせなくなった
通帳とハンコをもってゆけばおろせたのだがそれがわからなくなった
できなくて銀行員に笑われたのである
そのことも驚きだった

人間いくら金をためていても認知症になったから自分の金さえ銀行から下せないし
金のことがわからなくなる
金をためこんでいても金のことがわからなくなる
これは何なのだろうとなる
ただ最後まで金にはこだわっていた、金が大事なことは知っていたようだ
でも自分がためた金をどうすることもできなくなっていたのだ
金のことが証書にしても通帳にしてもその意味していることがわからなくなったからである
だからこれも信じられないことだったのである
そんなことがありえるのかという驚きだった

次にもう一人も認知症になった
こつこつと一円も無駄にせず金をためていた
大正生まれであり働くことしか関心がない、何か趣味などはない
だから家事を94歳までしていたのである
遂に寝たきりになりボケた、認知症になった

そして大金を盗まれたことを言った
その金額は実際相当な額だったのである
でもそれを言ったら笑っていたのである。
これも信じられないことである
一円にこだわり何も使わない人がそんな大金を盗まれて笑っていたのである
認知症になり金にこだわらなくなったのである

そもそも金、金、金・・とこだわってきたのにこんなことになることは何なのだろうか?これも不可解なことである
ただ金のことがわからなくなったということでもなかった
どういうわけか死ぬ一二か月前に孫にいくらやれと自分に支持したからである
それが遺言になって私はそれを実行した
その時正気にもどってそう言ったのである

人間はどれだけ金にこだわり生きているか?
金が今や生活のすべてだともなる、でもその最後に金のことがわからなくなる?
これも信じられないことである

死ぬときはもう金のことばどうでもいいとなるのか?
認知症にして金のことは忘れさせるのか?
大金を盗まれても笑っているのがそうである
あんなに一円にもこだわっていてこつこつためた金を盗まれても笑っていたのである
もし正気だったらどうなったのか?
両方とも恐ろしいことになったかもしれない

一人異常に気が強いから何か事件にもなったかもしれない
でも最後の金の結末は金のことを知るにもわからない、そしてどうでも良くなり笑っていたという不思議である
人間は最後死ぬときになると金のことなどどうでもよくなることなのか?
ただ遺産を狙う人はそうではない、その人は金のことに無頓着わからなくなっても
遺産をもっているとなるとそのために認知症になっても人はその人にまとわりついて金をとろうとするのである

そうなった人を知っている、その人の悲劇は娘でも実際には育てた言えないからである
母親という感情がない娘である、なぜならその娘は育ての親が病気になったとき
何もしない、ただ幸いにその育ての親は病気ですぐ死んだ
だから介護もなにもなかった、娘は何もしない、そして「ひどい娘だわ」と言って死んだのである
その娘は今実の母親を施設にあづけているけど何の愛情もない
ただ金があるので金が目当てなだけなのである
金があるからかかわっているだけなのである

ともかく人間は今は金をめぐって泣き笑いがあり金にまつわり事件がある
でも最後に金の結末はどうなったのか?
二人とも認知症になり金のことがわからなくなったというのも皮肉だ
それも神の計らいなのか?神からの罰なのか?
人間死ぬときになったらもう金のことは関係ないとなるのか?
いい方に見れば死ぬときは金から解放されるとなるのか?
ただ地獄の沙汰も金次第となり金から離れられないのが人間である
ようやく屍となり金から離れるとなる
金の心配はなくなるとなる 

結局人間は悲劇であり喜劇であるのもまた結末なのである 
人間にとって何が大事なのか?
それはみんな金だと思っている
だから金にこだわりつづけて生きる
でも最後に死ぬときに金は何の用もたさなくなった
なぜなら金のことがわからなくなったからである
それは認知症になってわからなくなったからである
本当はそこで金にだけ価値とすることがすべて崩れたともなる
家族なら金で結ばれているのではない、愛情で結ばれているのが家族だからである

でも人間は金にこだわる、金が親子でも家族でもかかわる
その金によって愛情で結ばれている家族が分断されるのである
金によって人間は争い分断される、それはこの辺の原発事故の補償金で分断されたことでもわかる、結局金は欲でありその欲によって争うことになる
でも認知症になると金のことがわからないのだからどうにもならない
銀行から金をためこんでいてもおろせない、これほどショックなことはない
つまり全く金にこだわっていても無力化したのである
人間死ぬときとかになると無力化されるのかもしれない
もう老化したり認知症になることは死ぬということは無力化することである
ある意味で白痴になることでもある、最後人間はどんな人でも無力化される
それが人間の最後であったともなる


2018年09月14日

ニチニチソウ(俳句は写生であり説明しない)


ニチニチソウ(俳句は写生であり説明しない)


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この回りも荒地

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隣は荒地

三色のニチニチソウやレストラン

カタバミにニチニチソウに蜆蝶

赤黄白バラ一列に映えて咲く

同じ道通りて聞こゆ秋の蝉


高見食堂で食事した、ニチニチソウが三色咲いていた
これはいいなと見た、街中はあまり花は見ないからだ
あそこは結構いいものを出す、広いからゆったりする
レストランとはレストであり休む場所だから狭いと嫌になるからだ
食事はくつろいでしたいからである
そこの花壇にはカタバミの花も咲いていた、良くみないと見えないものだった

原町の郊外に畑が薔薇を一面に植えた所があった、これはいいなと写真にとった
ところがこの辺では必ず荒地になっている所がある
その隣は荒地なのである、たたはもともと何か野菜を植えていたけど震災以後荒地化してバラを植えるようになったのかもしれない、薔薇は売ることもできるからだ

この辺の問題は荒地になっていることなのだ、近くでも半分くらい荒地になっているから草がぼうぼうと回りから生えてきて困っているのである
でもそれが荒地のままなのは畑で野菜作るにしろ花を作るにしろ手間だから金にもならないからやらないのである
塩崎の津波をかぶった所は広いが部落の人が草を刈っていた、定期的に刈っている
それは金をもらっているからしているという、そうなのかと納得した
他では金をもらえないから草も刈らずに荒地化しているのである

これはここだけではない、全国的に耕作放棄地が問題になっているのだ
近くの知っている人の畑の隣は家族の人に車に乗せされて這って畑仕事していたが
遂にやめた結果草ぼうぼうになったのである

ともかくこの辺の問題は畑では荒地化しているのをどうするのか?
それが大きな問題である、それは他でもそうである
少子高齢化とかもあり跡継ぎがいない、金にならないし手間だからやらない
すると荒地として放置されたままになってしまうのである

ニチニチソウには季語はない、ここでも俳句が写生であることを示している
何も作り出したものがない、ただありのままを俳句にしただけである
カタバミが咲いている、ニチニチソウ咲いている、そこに蜆蝶が飛んでいたと見たままだからである
ところがみんな何かとそこに理屈みたいなものをそえる、それで俳句をだめにしている
説明をしているから良くないのだ、つまり写生ではカタバミとニチニチソウと蜆蝶とあればそのものが説明している、説明させるのである
だからそれがなにかにと修飾しないことなのである
だから写生俳句はつまらないようで奥深いものとなるのである

2018年09月13日

北海道地震でも災害に文明社会の弱さを露呈 (電気も水道もとまればパニックに)


北海道地震でも災害に文明社会の弱さを露呈

(電気も水道もとまればパニックに)

北海道地震では電気がとまったことの影響が大きかった
東日本大震災でも牡鹿半島とかの集落では津波の被害があり裏山の清水を利用して
木をとり米を炊いて部落で協力してしのいでいた

それができたのはまだ清水が裏山に流れていたとか燃やす木があったとかしたからであるもし東京のような所で電気が止まり水道が止まったらどうなるのか?
幸い東日本大震災ではこの辺も津波の被害があったが電気も水道も私の住んでいる地区は止まらなかった
それでご飯を炊いてオカズは味噌汁とかノリがあり一週間ほどすごして二週間目に米がなくなり町で古米を支給して助かった
二週間たち隣の市に自転車で買い出しに行った
その時ガソリン不足で車が並んでいてガソリンが手に入らなかった
そうなると自転車の方が有利だとなっていたのである

現代社会は便利すぎて災害に弱い、不思議なのは災害に強いということはどういうことなのか?それを江戸時代にふりかえると江戸で火事が多いから何ももたない、家も長屋でありただ家事になったら逃げる、長屋は焼けてもいい、延焼しないように火消しは壊すだけである、まず命が大事ということでそういう生活を日ごろからしていたのである
物をもたない、家もないから身一つで火事になったらいち早く逃げる算段をしていた
そうなると津波が来ても身一つとにかくいち早く逃げる、とりあえず何ももたず命を先にして逃げる、すると助かる度合いが大きくなる

つまり不思議なのは災害に強いということは何もなければ身一つ逃げるなら命は助かる
別に命があればまた長屋は建てられるし道具もわずかだからそろえれば同じ生活を開始できるとなる
電気も水道も使うわけでもい、井戸水を使えばいいとなる
だから災害に強いということはその災害に備えるということでも考え方が江戸では違っていたのである。
とにかくできるだけ早く身一つで逃げる算段をしていた
それは津波の時だとそういう日ごろの生活が生きてくる
家とか物に執着すると命が助からないのである

電気とか水道とかガスとか交通でも電車から車からと今は便利である
でも災害になると違ってくる、車は道路に対する占有率が高くなるから渋滞になりそれで逃げ遅れて津波で死んだ人が多い、むしろ歩いたり走ったりして逃げた方が良かったとなっていたのである。特に都会では渋滞になりそれが命とりになったのである
江戸の火事でもそうだが津波に対してもまず身一つでもできるだけ早く逃げることが命を守ることだったのである

現代文明生活は便利である、その便利さがかえって災害に弱くしているのである
つまり電気がなくなったら何もできない、米すらたくこともできない、水道が止められたら水も飲めないとかなる、その時井戸があれば水が利用できるともなる
裏山に木があれば燃料として利用できるとかなる
それは戦前までとか江戸時代になるとそうして自給自足生活だった
だから電気もないし水道もない、でも日ごろからそういう生活しているのだから困ることもないとなる
車だってないのだから身近にあるもので生活しているから困らないとなる

現代文明社会は災害とか一旦原発でも事故になったら壊滅的な被害になる
電気はあまりにも便利なものであり電気なしではありえない社会になっているからだ
原発もまた石油もいらない、石炭もいらない、安上りにできるとかで始められた
しかし一旦事故になったら住めなくなる壊滅的被害になる
そういう怖さが現代文明社会にはある、それは皮肉なのはあまりにも便利な社会だからその便利さが奪われたときもうお手上げになり打つ手がなくなるのである

それで東京とか大都会では電気も水もとめられたらもう何もできない
いかに東京を脱出するかが問題になる、でもその時道路も破損したりして車で避難できなくなる、渋滞にもなる、それでその時自転車が有効だと言われたのである。
自転車でとにかく都会を脱出することが生き伸びることに通じる
東京のような大都会は地震でも災害に弱い、八方塞がりになる
逃げ場がなくなるのである、だから被害が大きくなる

東京のような所だとあれだけ家が密集しているのだからその家がビルが凶器となってくる高層ビルが倒壊したりしたら被害が大きくなる、それは神戸地震を見ればかわる
5000人も心死んだけどそんなに死ぬこともなかったかもしれない
都会だと被害が大きくなるのだ

いづれにしろ日本は自然災害の国だということを東日本大震災より自覚させられた
でもその対策はかえって文明化して脆弱になっている
電気が水道がとまればもう打つ手がなくなる、井戸水もないし備蓄しているとしてもそれだもたりないとかなる、燃料がなくて米もたけなくなる
現代文明生活は意外とあまりにも便利な生活ゆえに災害に弱いのである
電気に頼り水道に頼り車に頼りとなるが車だってガソリンがなくなったり使いものにならなくなったり渋滞で障害物となり津波では多数死んだからである。

だから鴨長明の方丈記に記されたように簡素な生活ならかえって地震にも強いとなる

大きな家を所有するためにあくせく働いたり心を悩ませたりするのは無意味ではないか。最小限の物と住まいで、好きなことに静かに打ち込める環境があればそれでいいじゃないか。そう言って、自らが実践している

これは江戸の長屋と同じである、つまり日本はつくづく地震洪水から災害の国でありそれでそうした生活方法の方がいいともなっていたのである
だから井戸とかも利用していた方が良かったなとも思う
井戸は東京ですらいたるところにあったからである。
つまりあまりにも便利な生活になれて今まであった生活をすべて捨てたことにも問題があった、便利すぎることは危険にもなっていたのだ
原発などもその最たるものである、そんな危険なものを地震国日本に50基も作ったということは災いの種を作ったとなる

だから今の便利すぎる現代文明社会は日本だと地震とか津波で崩壊してしまう
東南海地震がきて津波が来るとそれが現実化してしまう恐怖になる
ただではもう江戸時代にも戦前にも戻ることはできない,するとどうなるのか?
もう死んでも仕方がないという諦観の悟りに生きるほかないともなる
なぜ日本では無常観が生まれかというと本当に自然災害で津波で一瞬にしてなにもかもなくなりという恐るべきことを経験してきたからだと思った
日本と国がどういう国か東日本大震災で自覚させられたのである。


電動自転車だと充電が必要である
でもノーパンクタイヤの災害用自転車だと脱出用にはいい
3万くらいで買えるとしたら用意していた方がいいかもしれない



posted by 老鶯 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

岡和田から横浜に移り住んだ老人 (都会で増える “呼び寄せ高齢者)


岡和田から横浜に移り住んだ老人 

(都会で増える “呼び寄せ高齢者)

そもそも兄弟の数が減っているので、地方にすら子どもが残っていないから、都市に出ている子どもが世話をしなきゃいけなくなるという。
また一方で、遠距離介護とは違って、Uターンをして介護をするということも、これまであったと思うんですけれども、特にここ10年ぐらい、地方の経済が非常に疲弊していまして、Uターンをして介護をしようにも仕事が見つからない。


その人は電車で来たのではない、車で駅に来たのである、駅には車の人も来るのである
男が二人に老女が一人だった
その老女は私は岡和田に住んでいたんですよと言った
横浜の息子の所に移住したのである
誰もめんどうみるものがなく故郷に住んでいられないで娘や息子の住んでいる場所に引き取られる老人も増えている
逆に老親が故郷に住んでいて横浜から娘が移り住んだ人もいた
それは特別な事情があったからである

なぜこういうことが起きるのか?
知っている人で二人とも娘がいるのだが東京に住んでいる
すると老夫婦でも取り残されたり一方が死んだりすると一人になる
するとめんどうみる人がいなくなる
すると娘とか息子の住んでいる所にひきとられるのである

そうなる人も多いのである、それは結婚は広域的になっているからだ
それで息子であれ娘であれ遠くに住む、ばらばらになっているのが多いのである
昔は実家が長男が継ぐとか実家を守る人がいたが今はいない
それで跡継ぎがいなくて墓じまいしたとかなる
墓も実家があって守られるがそれがなくなると墓も守る人がいなくなるのである
この前は駅前の老女も日立市の甥子の所にひきとられた
そこは空き家になった、そういう人も増えているのだ

広域社会というのはグロ−バル社会でもそうだが物資の流通は盛んになる
でも人間の交流は離れた時点で疎遠になるのである
それは家族でも血縁でも同じなのである
では地元で故郷で誰か周りでめんどうみるかとなると田舎でもいないのである
隣近所で助け合うなど今はない、田舎でも金の世の中になればそうなる

何かこの辺で原発事故以後家族がばらばらになったというとき飯館村の人が嫁の実家の京都に移り住んだとか普通にある、結婚も広域的だからそうなる
そして住み慣れたところを離れてゆくのはつらいともなる
そして農村社会であり田舎なら人のつながりがあると思うがなくなっているのだ
盛んに絆が言われたがむしろ外部との絆は生まれたのである
内部の絆はこの辺は補償金問題とかで分断された
それは広域社会になると外部とのつながりは交通の発達で生まれた
でも内部でのつながりは希薄化したのである

ただ遠くの親戚より近くの他人という諺は今でも生きている
何か困ったことがあったら遠くになると簡単に来ることはできない
結局老親でも近くに息子娘の住んでいる場所に引き取る他ないとなるのである
遠くにいてはめんどうみれないからである
つまり広域社会であれグロ−バル社会であれ矛盾を生んでいる
田舎に住んでいた人が東京とかで暮らすのは年取ってからは嫌だしそれで精神を病むということもあるだろう
これも現代社会の矛盾なのである

abstract river and mountain


abstract river and mountain

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私の抽象画が無限に作れるのはインタ−ネットでも雑誌の写真でも無限に映像があるためである
それを変化させるから無限になる
でもそれが創作品となるのか?著作権違反になるのか?
そこに微妙なものがある、でも原画とにてもにつかないものならもうわからないから著作権違反にはならない、その元の画像と似ているなとなると問題が生まれるだろう
ただ別にインタ−ネット上で指摘されたことはない
というよりインタ−ネットではそうした著作権違反がわかりにくいのである
世界的になると余計にそうである
私はこれで金銭的利益を得ているわげではないから指摘されないということもある

It is because there are infinite images in Internet and magazine pictures that my abstract painting can be created indefinitely
It changes infinitely because it changes it
But is it a creative item? Will it be a copyright violation?
There is a subtle thing there, but it will not be a copyright violation since it does not know if it does not matter with the original picture, so it will be a problem if it becomes similar to its original image
I have never been pointed out on the Internet separately
Instead, it is hard to understand such copyright violations on the Internet
It becomes unnecessary when it becomes worldwide
Sometimes I am not pointed out because I am not getting monetary benefits by this

2018年09月12日

人間から仕事を奪ったら何が残るのか? (高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)


人間から仕事を奪ったら何が残るのか?

(高齢化社会、AI化社会で仕事が奪われるとどうなるのか?)

人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
それが起きたのは原発事故以後漁業関係者にもあった
そのことは補償金問題などで私は指摘してきた
現実に魚をとることを仕事がなくなったとき漁師はなぜ自分はここにいるのかわからないと考えたのである
ただ漁業関係者は事故前も事故後も一番手厚く補償金がもらえたから全く生活には困ることがなかったのである、魚一匹もとれなくても困らなかったし今もそうである
船主になると立派な家をいち早く建てたからである

それとは別に人間から仕事を奪ったら何が残るのか?
これは意外と人間にとって重要な問題である
たいがい別に人間は食べるために仕事をしている、金を稼ぐために仕事をしている
だから普通は仕事の意義など考えないのである
考えているのは給料の多寡である、どさだけ稼げるか金になるかを常にみているのである
でもこの辺で起きたことは一時的に仕事をしなくても良い状態になったのである
仮設に住んで補償金で暮らせるから仕事はしなくなった
その時何が起きたのか?毎日パチンコ通いだったのである、あとは競馬であり競輪であり他のギャンブルに東京とか仙台にも行っていた
結局何もすることがなくギャンブルになった
そして外部の人が復興の仕事をしたのでありボランティアも多数来たが被害にあった人はなにもしなかったのである。
そういうことができる社会になっていたのである
大手の建築会社が建売の家を一週間くらいで組み立てるから別にそこで地元の人が今は働かなくてもいいようになっていたからである。

だからかわいそうだと毎日のようにボランティアが炊き出しやらなにやら来ていたが仮設に入っている人たちは毎日パチンコ屋通いだったのである
だから何がかわいそうなのかとも思った
その時NHKやらマスコミはテレビで盛んにかわいそうだと連日報道していたから全国の人もかわいそうだと見ていた
確かに津波の被害者はかわいそうだったというのは本当である
でも原発避難者は補償金をもらえた、人によって額は違っても一か月百万以上もらっていた人もいたのである。
それでかわいそうだかわいそうだというのには違和感があったがそれを公に言うことはできなかった、NHKでもマスコミは原発避難者の味方だったからである

ただここで問題にするのはそういうことではなく人間から仕事を奪うとどうなるのかということである、それは定年後にも起きているしAI化でも起きると予想している
身近なところで考えてもそうである、漁師から魚をとる仕事を奪ったら何が残るのか?
その人はただ港でうろうろして何もしなくなったからである
その人は役目がなくなったのである、人間は役割があって与えられて生きている

漁師の役割は何ですか?

魚をとることです

魚はとらなくても金を与えます、仕事はしなくていいです

私は何のために生きているの?

あなたの役割は仕事は魚をとることです、それがなければ不必要な人です

俺はここには必要ないいらない人間なのか、とするとここに住む理由もなくなる?

こういうふうになってしまう、何か漁業関係者はもう漁業を生業とするより実質は東電の社員と化していたのである。そして補償金で不労所得者になっていたのである
そういう人を地域から見ればどうなるのか?

何の役割があるのか?

漁師はもともと地域の人たちに魚をとり売るにしても与えることにあった
それが地域での役割だったのである。ただ高価な魚は新鮮なうちに東京に運ばれて高く売られていたから地域の人のためにだけあるのではなくなっていた
でも地域の人に魚を供給することが仕事であり役割なのである
そのために尽くすのが漁業関係者であり漁業権もそのために与えられていたのである。
東電に漁業権を売り不労所得者になるためではなかったのである

これは特殊な事情でこうなったが他でも人間をみれば人間から仕事をとったら何が残るのか?
農業という仕事がある、その女性は畑で野菜を作っている、そのことは私のフログで度々紹介してきた、その女性は根っからの農民であることを知った
農家の生まれであり農業を体で知っているともなる
でもその畑で野菜を作っても相当て赤字であり金にはならない、金をかえって使うのである、それを自分が援助したとなる
そしてその女性に何の価値があるのか?
それは畑で野菜を作ることにあった、畑で仕事することにあった、そこにはカンナなどを植えて咲かせて映える、周りに荒地が多いからそこで美観を作り出すことも仕事となっていたのである、金にはならないがやはりそれも復興の仕事になっていたのである。

他でも自転車屋でもそうである、この前は古い自転車でタイヤが癖になりのめりこんでいた、その歪(ゆが)みをなおすのに大変な苦労をした
それを自分は見ていたのである。自転車屋の仕事は結構熟練がないとできない、技術者なのである。
そしてこの人から仕事をとったら奪ったら何が残るのか?
その人は他に何ができるのか?何もなくなってしまうかもしれない。
そこで自転車屋をしていることが街の中の重要な役割となっているのだ
なぜなら今や一軒しか街に自転車屋がなくなったからである
だからこの一軒なくなると本当に困ることになる
なぜなら自転車屋は修理が多いからである、それが主な仕事ともなっているからだ
ただ売るだけではない、修理が必要だからアフターケアが必要だから他の商品とは違うからである。だから通販では自転車は普通は買いないのである
ただ仕事は身近に見ていると覚えることがあると思った
自転車屋の後継ぎは息子が多くなるのはそのためである
人間は見よう見まねで覚えることがあると思った
だから江戸時代はたいがいそうして親の跡を継いだのである

いづれにしろ昨今しきりにAIのことを言うがそこで人間の仕事が奪われることを言う
そして人間は仕事がなくなるからみんな芸術家にアーティストになるとかいうこと自体がありえないことだった
仕事がなくなる奪われるということが人間にとって何を意味するのか?それは相当な変化であり人間は暇を有効に活かせるのかともなる
ただそれは豊かになれば起きてくることである
暇が生まれる、スコーレが生まれてスクールになったからである
現実に暇な人は増えているのが現実である
仕事をしないニートも多いしどこにでもいる時代である
それから定年後に暇の問題が起きてくる、その数も団塊の世代とかで何千万にもなるからそれだけの人が年金暮らしとか働かないで暮らせるのか?
そういう時代にすでに突入しているからである

人間は仕事がなくなり役割がなくなることは実際相当に重大な問題な問題である
それが家族の一人が認知症になったことで前にも書いてきた
一人は趣味もなにもない働きづめの大正生まれの女性だった
一人は公務員であり55歳くらいで退職してそのあと仕事はなくなり何もしなくなった
家事すらしない、ただ趣味をしていてもそれもあったものではない
三食は用意されているし家事もなにもしないのである
そうしてテレビなどばかりみていてたがボケてしまったのである
一方奴隷のように働かせられた女性は94歳頃まで現役として家事をしていたのである
そうして95以上になってボケたけど百歳まで生きたのである
だから役割がなくなる仕事を奪われることは認知症になることにつながるから笑っていられないのである。認知症ほど残酷な病気はないからである
もう人間ではないとすら見られからである

人間は仕事をして役割が与えられより高等になると使命感をもって仕事をすることに生きがいが生まれるからである
人間は何か意義ある仕事をしなければ生きる価値がなくなるのだ
家事でも仕事でありそれすらしなければ女性として何の価値があるのかとなる
畑で野菜を作っている女性から畑仕事を奪えばその女性に何の価値があるのかとなる
人間は仕事をもつことにより価値を作り出している
ニートとか無職で遊んでいるとかがいいことではない、有名な女優の息子は覚せい剤を
38になってもやめることができなかった

一か月百万の金を与えられていたという、だから仕事をしなくてもいい身分だったのである、でも仕事がないからこそ価値あることができないからこそ薬で堕落したのである
何か社会で有意義な仕事を見出していればそうはならなかったのである
バーとか資金援助されてしたりしていたが仕事とならなかったのである
だから人間に仕事がない役割がないことは本当に深刻なことなのである
そのことで今ニートであれ退職者であれ少子高齢化で本当に仕事をしない人が膨大に増えた、そのことが社会問題化する、それは人間は暇を活かすということはギリシャのように一部の天才しかでぎなかったことでもわかる
だから暇を活かすということはこれからの社会の大きなテーマとなる
AI化によって仕事を奪われるとういことは相当に深刻であり経済的問題だけではない
精神的問題としても深刻なのである。
それは高齢化社会で現実化している、でも趣味が仕事になるということは簡単にはできない、趣味でも相当な訓練が必要であり簡単にはできないからである
高齢化社会とかAI化社会の備えができていないから深刻になるのである。


posted by 老鶯 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

原発が日本に作られた経過 (正力松太郎からテレビで宣伝されることで始まった)


原発が日本に作られた経過

(正力松太郎からテレビで宣伝されることで始まった)

原発はなぜ日本で50基以上も作られたのか?
地震国の津波もある日本にもたらされたのか?

それは政治的意図があり安全性より優先された
政治的意図とはアメリカの意向があった
日本はアメリカの従属国だから逆らえなかった


衆院議員に当選した正力松太郎・読売新聞社主とCIAは、原子力に好意的な親米世論を形成するための「工作」を開始する。原潜、読売新聞、日本テレビ、保守合同、そしてディズニー。正力とCIAの協力関係から始まった巨大メディア、政界、産業界を巡る連鎖とは

1958年ディズニーの科学映画『わが友原子力(原題Our Friend the Atom)』の放映、そして東京ディズニーランド建設へと続いていく。その連鎖の一方の主役が正力であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった。

正力松太郎は結局は総理大臣にはなれなかったが、初代科学技術庁長官に就任、
アメリカの原発製造企業(その多くは原潜や原子力爆弾、戦闘機なども
製造しているGE社などだった)から原子炉を購入して始まったのが日本の原発政策
だった。


原発には最初から不純な動機があった、安全性とかも追求されていない
湯川秀樹博士が原発は時期が早いとしてまだやるべきではないと言ったのは科学者として原発の危険性を知っていたし日本がまだ原発に対しては未知であり技術的に無理があったからである
ただそうした無理があっても強行されたのは個人的な欲と意図があったためである
そしてアメリカの意図もありマーク1という旧式の原子炉が与えられたのである

ここでメデアとかマスコミが原発の宣伝部隊となったのである
ここからすでにマスコミとかは事実だけを報道するのとは違う、明らかな意図があり放送する,だからこそディズニーの科学映画『わが友原子力』の放映をした
映画だと庶民に親しみやすいからである。
テレビでも親しみやすいからである、ただまだその時テレビは普及していない、だから映画だったとなる、アメリカではテレビで放送されていたのである


ここでその映画見られる、他では映らなくなっている、ここも削除されるとか書いてある
科学技術というのはもともと両側面があった、それは人間の歴史が始まって以来そうだったのである、石器を発明すればそれは強力な殺傷武器となり大きなマンモスでも倒すことができて人類は増えたし世界中に広がった
それで最近はマンモスを追って日本へシベリアからやってきたブリヤートが縄文人だったとかいう説がでてきている

石器の発明はまさに画期的なことでありそれは原発とは比べようがなくても同じ性質のものだったのである
なぜならその石器は平和的に使えば強力な生きる手段となる
でもそれを悪として利用すれば人間でも殺すことができるし現実にそうなった
原発でも同じである、それを平和利用すれば強力な生活の手段になるが悪く利用すれば今度は石器のようにはならない、人類が滅亡するほどの協力な武器となる
また今回の事故のように平和利用でも事故になればもう人間は住めなくなる
平和利用でも原発事故で人類は滅びる恐ろしいものだったのである
つまり文明の発展とは逆に大量殺戮の時代でもあった
強力な科学技術兵器がそれを可能にしたからである

1958年はまだテレビは普及していない、白黒の小さいものでありその時テレビの前に群がったことを覚えている、つまりテレビが出たときものすごい反響があった
みんな食い入るようにテレビを見ていたのである
だからテレビがその時放送の主流となっていったのである
その時はテレビの番組というよりテレビで映画のように動画が見れるということで大人気になったのである。
それまではメデアはまだ活字の時代であり動画は映画館で見るほかなかったからである
そして当時はまだ蒸気機関車でフィルムが運ばれてきていたのである
テレビは電波だからリアルタイムで報道できる、ニュースでもそうである
その相違は大きかったのである
人間は今何が起きているのかを知りたい、そのことでニュース番組が今でも視聴率が高いことでもわかる

いづれにしろ原発の危険性が無視された、そしてチェルルブエリで事故が起きたときも日本では危機感がなかった、ロシアはずさんなのだとか技術力がないのだとか日本は違うとか日本の科学技術力を自慢していたのである
だからこそ「安全神話」が作られていたからである。
人間はグロ−バル化しても国際化しても日本は外国のことに敏感にならない
スマトラ津波の時もあれも日本のように津波の備えができていなかったのだと言っていたそして東日本大震災が起きた、その時日本は津波の備えができていないので同じように信じられな被害になった

日本は島国で海外事情にうとくなる、そのことはこれだけ情報化しても変わらないのかもしれない、陸続きでないということは常に外国に対して危機感がもていなのである
外国がいつ攻めてくるかわからないという危機感を持てないのである
外国を知らないから島国で誇大妄想的にもなる、奢りにもなる
それが太平洋戦争の敗因にもなっていた、インパール作戦では突然大河が現れそれにはばまれて苦しみ敗北したとかある、日本にはそうした大河がないからそうなった
予想もつかない事態に地理に遭遇して敗北したとなる

そもそも日本が地震国で災害多く津波もあるという自分の国のことを考慮しなかった
そして安全よりまずアメリカの押し付けとか正力松太郎の野望の道具として原子力が使われたりしていたのである。
その動機が不純だったのである。自分の野望の達成のためとかなればそれは日本国民を無視したものだからである、そういう不純な動機にも問題があった
原発はそういうものでなく国の運命を左右するようなものだった
そして50基もの原発が日本に作られた、そして地震が最近頻発しておびえていなければならないのだ
その最初の責任の発端は正力松太郎にあったとなる
この人が力を持ったのはメデアをテレビで放送できたからである
それで読売巨人軍が大人気になったのもテレビ放送ができるようになったからである
ともかく戦後十年すぎて60年くらいはテレビの時代だったのである。
みんな茶の間でテレビを見ていることは影響が大きかったのである

だから不思議なのは今茶の間でyoutube見ていることである
ええ、誰でもテレビ放送できるのとなる、それが結構見ているのはやはり動画だとわかりやすいからだと思った、文章だとわかりにくいし大衆は読まないからである。
ただより深く知るには文章なのである
でも映像の力は本当に大きいなと実感する、その宣伝力も強大なものとなる
だからこそマスコミが大きな力をもったのが20世紀だった
ナチスが生まれたのはラジオだったという思想家がピカートなどがいた
テレビの前はラジオだったのである、子供の時は粗末なラジオがあるだけだったのである飯台一つにラジオがあるだけの生活だったのである
ラジオにもそんな宣伝効果があったとしたテレビの映像がどれだけ庶民に影響してかおしてしるべきである。

テレビによって世論が形成されたし政治家でもテレビで有名になった人が司会者とかが参議院選挙とかでトップ当選したのはテレビでなじみになっているからその影響力が大きいから有名人となりあれだけの票を集めたのである。
それは本でも「冠婚葬祭」とかの本がベストセラーになり百万部売れたり芥川賞の「あかづきちゃん気をつけて」などが売れたのは宣伝力だった
中味はどうでもいい、それを本屋の目立つ所に置くだけで売れた
なぜならそもそも本屋には本の数はその時でも膨大なのにわずかしか置いていなかったからである、本屋に置くだけで目立ったから売れたとなるのだ
今は情報化社会になると目立つことがむずかしい、様々な情報があり容易に個人でもテレビ放送できる時代になったからである
一局のテレビ放送から千局万局の放送となったらもうある一つのものが目立つことはできなくなったのである





posted by 老鶯 at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年09月11日

人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる (責任から逃れられない、カルマから逃れられない)


人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる

(責任から逃れられない、カルマから逃れられない)

人間以外の被造物が世界(被造物同士)にたいして責任をもたず、人間だけが世界にたいして責任をもつ。それは、人間だけが神を前にして責任を釈明し、責任をとらされる存在だから、つまり超越と人間との独自の関係ゆえである。

キリスト教と生命科学ー責任概念を中心にして

人間の謎はいろいろあるが人間のみが責任をもち責任を負わされ責任を果たすことを要求される、人間は生まれた時点ですでに重い責任(カルマ)を背負ってくるからだともなる人間はこの世に生きることは責任があるというときもう存在するだけでもそうである
空気を吸い水を飲み動物を植物を食わねば生きていけない、存在ふることは他の生命があって生きられるのである、だから何かを食べるだけで責任が生じている
食べ物でも食料でも大事にせねばならない責任が生まれるている

一体動物であれ植物であれ鉱物であれそれらが何であれ責任を問われることはない、
残酷に他の動物の肉を食べるからとそんな残酷なことをするものは死刑だとはならない、犬猫を飼うものでも犬や猫が勝手に子供を生んでも
そのために野良犬になり野良猫になってもその親に責任があるとはならない、むしろそれを飼う人間の方が責任を社会から問われるのである、生物で責任をとらされるのは人間だけである
それはなぜなのか?その答えはかなりむずかしいものとなる

これまでも原発事故のことで責任のことを書いてきた
一体原発事故の責任は誰にあるのか?
それを追求してきた、また責任をもちうるのは誰なのか?
責任をもちしるのは問われるのは資本主義では金をより多くもっている者であり
金の額に比例して責任が重くなる
だから江戸時代では十両盗むと打ち首になった
金はわかりやすい責任の具体的な指標とるからである

なぜあらゆることに人間は責任を問われるのか?また責任を課せられてそれを負うのか?それはカルマ論ともなり不可解だとなる、それは神学的哲学的問題にになるからだ
人間はあらゆることに責任があるというとき責任をとらされる
借金することは自由である、でも必ず返すことを要求される、責任が借りたときに生じていたのである。返さなければそれ相応の責任を負い江戸時代に遊女に売られたとか現代でも過酷なとりたてにあう
人間は何するにしても責任が問われる、恋愛なら好き嫌いで別れたとしても子供ができれば責任をとらされる、結婚は大きな責任の上に成り立つ、財産があれば離婚すれば金で支払うことになる

人間はあらゆることに責任が課せられ責任を負うことが定めである
人間は極端になれば何でもする自由がある
親鸞のように千人殺してみなさい、それであなたの罪深さを知りなさいともなる
つまり千人を殺す自由がある、でもその責任もある
その責任を果たせる人はそうしてもいいとなるのだ
要するに人間にだけまた自由が与えられているのだ
動物はただ本能的に生きるだけであり自由はない、自らの意志で決断するとかはない
ただ本能に導かれて行動するのであり動物には人間のような自主的に決断するものはない
人間は自由であるから何をしてもいい→人間には責任がある→責任を負わされる

例えばカルト教団に入るのも自由である、ではそのカルト教団がどういうものなのか?
入る人はただみんなが入っているからと容易に入る
でもカルト教団に入った人は必ずその責任を課せられる
自分はそんな責任を負うことはないと思っても課せられる
オウムでもそうだった、そこに入った人は高学歴の優秀な学生であり優秀な人たちだったでも結果的には麻原にだまされたとか逮捕されてからは言うようになった
そして最近幹部がみんな死刑になった
その死刑になる時責任の重さを知らしめられたのである。
その時後悔してもどうにもならなくなっていたのである
だから行為の結果というのはカルマは厳しいものになる
そうしたら安易な行為はできないとなるのだ

人間は自由である、何するにしてもカルトだろうが何だろうがその教義を勝手に解釈して殺人集団になってもいいとなっていたのである
しかし人を闇雲に殺した結果としてみんな幹部は死刑になったのである。
その時その過ちを悔いてもその責任を負わされたのである。
もちろん死刑には疑問があるにしろ実際にそうなったときその責任の重さを自覚したことは確かである、世の中はやはり外から見ても厳しいものだと自覚する
目に目を歯には歯をであり殺したものは殺されて当然だともなる

江戸時代には庶民は侍になりたくなかったという、それは侍は責任のために切腹させられたからである,それが責任の取り方だから庶民はそんなことは嫌だとなり侍になりたくなかったのである。
侍がなぜそれほど責任を課せられていたかというと今のような民主主義などない
身分社会だから侍が模範となる社会でありその模範となるべきものが悪を成したら厳しい処罰として切腹させられたのである
責任者がはっきりしていたのが江戸時代だったとなる

責任というときいろいろある,あらゆることに責任が問われ負わされるのである
原発事故では漁業組合とか船主の責任が問われた、それはそれだけの金を事故前も事故後ももらっていたからである
つまり漁業権をもつ権利があったのだがその権利を行使したのはいいとしてでは原発事故になったら責任が問われた
なぜ漁業権を東電に売り渡したのだ、その責任はどうするのだ
事故後もなぜ手厚い補償金をもらいつづけているのだと問われる
このことは双葉や大熊の町民にも問われたのである。
他にもいろいろな責任が問われた、政府でも官僚でもマスコミでもあらゆるものの責任が問われた、それはなぜなのか?

権力を持っても権利をもつものは責任が問われる負わされる

責任をもつものはまたそれだけのことを行使できる権力をもつものなのである
江戸時代には庶民は何の権力もないから侍が政治を行うのだからその結果の責任は侍がとらされていたのである
だから権力がないものは責任もないのである
報道でもそもそも江戸時代には報道などない、瓦版などがあったとしても報道に値しないだろう、とすると情報でも侍がすべてもっているのだから庶民は何もできない
でも明治以降は新聞でもなんでも報道する権利を与えられた
だからこそ今度は報道する権利をもち権力をもったものには責任が問われる
マスコミに風当たりが強くなったのはテレビでも六局しか報道の権利を与えられなかったからである、出版でも必ずしも自由とはならなかったからである
情報は報道はマスコミが独占していたからである

となれば権力をもつのだから責任が問われ負わされるのである。
でもそういう自覚をもって報道していたマスコミはない
だからこそ政府と官僚とマスコミなどが一体となり強固な安全神話は作られたのである。
責任が誰にあるのか?それはまず権力をもったのもが問われてしかるべきなのである
報道もできないとか何も言う権利もないとかなればその人に責任はないのである
それは江戸時代と同じであり責任をとるべきは侍となりその侍になっていたのが政府であり官僚でありマスコミでありまた電事連とかの労働組合でもあり権力をもつものがみんな一致して安全神話を作ったのである
だから今はこうして権力は団体になり組織になり会社になりその責任が分散されてあいまいになり結局誰も責任はとらないとなったのである。
侍のようになっていたら切腹するべきものだったのである。
でも東電の社長であれ誰も責任はとらなかったのである

責任とは権力ももつものが一番責任がある、その地位にある人が普通は一番責任がある
でも誰も責任はとらないのである
責任はとらなくても必ず人間社会では責任をとらされるのである
原発事故後は人は住めなくなった、荒れ放題になりゴーストタウンになった
その責任はそこに住む人もとらされたのである。
誰かが必ず責任はとらされる、それが人間の宿命である、カルマだとなる 

自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである

自己決定権というけど銀行で投資信託をうりつける、確実に手数料が入る
でも営業の銀行マンは私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言った
そうか、プロならまかせていいのかと思いまかせて失敗だった
地銀などまず証券のことなど素人並みであり知らなかったのである。
適当に選んで投資したのだが分散投資とかするのは方法として間違っていないしそのことを言っていた、でも株が上がったとき投資信託に回した、Jリートに回した
その株をもっていればリ−マンショック以来もっていた株だからかなり利益を出したのである、分散投資のルールを自ら守らなかった
そして責任を問われるのは決めたのは自分であり自分がとることになった
自己決定するにしてもそれが専門でもないし知識がないし経験もないからプロに頼むのである、結局自己決定権を銀行は自らの利益のために奪って他者の金を投資した
その責任はとらない、手数料だけはとるというだけだったのである

ここにも誰が責任あるのか?それが問われる,どこでも責任問題がある
だから契約がこまかく規定しているのは責任を逃れるためなのである
家が雨漏りして直してもらって結構な金をとられた
でも雨漏りは全然直っていなかった
そうならば最初から直らない場合は金は払わないとして仕事させる契約すべきだったとなる、無駄な金を払っただけだとなってしまったからである
それはどこきょ分野でも医者でも常に人間は責任を問われる、そうなると何でも簡単には引き受けられないとと普通はなる、でも原発は恐ろしいものでありそんなものが事故を起こしたらその責任は誰がとるのだとなっていた
現実に補償金は払ったとしても誰もなんらか罰せられることはなかったのである

人間は何かするにも常に責任が問われるとき責任を自覚して仕事をしないと後で責任が問われるから慎重にもなるし真剣にもなる、何でも簡単に引き受けられないともなる
戦争でもどうして起こしたのか?結果として3百万人死んだ、その責任は誰がとるのか?もしそうなら戦争をするには相当な深慮遠謀が必要だったとなる
その結果の重大性を考えれば戦争が強いられとしても簡単にはできない
その犠牲をみれば戦争をしない、もう苦しくても戦争はしないという選択もあったと思うからである、男は戦争で死ぬのが当たり前だという理屈は成り立たない
ともかく行為の結果として必ず責任が問われる、だからこそ簡単に行為に踏み切ることはできないともなる

家族でも何か困りごとがあれば災いがあるとしたら家族の誰かがその責任を問われ負わされる、自分はその責任を負わされたことを介護とかで苦しみそのことを書いてきた
自分はただただ病気になっていても責められるだけだったのである
それも自分のカルマとしてその責任を負わされたのである。
でもそれが宿命でありカルマだったとなるからどうにもならなかったのである。
人間は責任からカルマからのがれられないのである
自由である、権利を主張してもいい、でもそれには責任が課せられる
自由や権利ばかり主張しても重い責任があるということを知るべきである

それはあらゆるところにある、明治以降私有権が認められたが結果として私有する権利はある、でも山でも土地でも所有することには責任が生じる
山は入会権として村人がみんなで管理していた
でも私有権が認められると山は無数に分割される
でもその分割した所有した山の一部分を守るかとなると守れない
なぜなら山とは全体のことでありそうした私的所有だけで守れないものだからである

この辺では荒地になっている所がまだ多い、また全国的に耕作放棄地が増えている
ではそのままにしていいのか?そんな土地を所有していることができるのか?
それは美観的にもいいものではない、何もできずに荒地にしている人には私有する権利があるのかとなる、それは空き家の増大でも言えた
それで法律が変わりそうした放置された空き家には税金が高く課せられることになった
つまりただ放置しておくと税金を高く払わなければならなくなったのである
私有権が与えられたからとそれで何でも自分の利益にしようとするができないのである
疎の私有する権利が与えられてもではその土地を有効に活かして利用できないものは土地をもつ権利がないとなるのだ

ともかく人間はあらゆることに責任が課せられる、負わされる
インタ−ネットとかでも発言が自由になれば責任を負わされる
何を言ってもいい自由である、でもその発言には責任をもてよとなる、負わされるのである、そう自覚しなくても今やそうなりつつある
それは誰でも発言できるようになっから権力を与えられたからだとなる
ただでは無数にあるプログで発言してどれだけの責任があるのかともなる
マスコミだとテレビでは真実が報道されないのは必ず様々な団体から抗議が来るからである、盲人のことを言えば盲人団体から抗議されるしカルト宗教団体を批判すればその団体から抗議がくる、こうしてもう何も真実は報道されなくなったのである
それぞれの団体が権力をもっているからである

でもそれぞれの団体にもただ権力をもつだけではない責任が課せられ負わされているのである、数が多いからとあらゆることが通るのかとなるとそうはならないからだ
だからその団体組織でもあなたたちは誰が責任をとるのかと問われるのである。
あなたたちは数が多いからと責任が免責になることはないのである。 
今は江戸時代と違うから庶民でも民主主義の社会では責任をとらされる
庶民にも権利が与えられれば一票でもそうだし権力をもたさればそれを行使したものには責任が問われるのである。責任が課せられて責任を負わされる社会なのである。
ただ数が多いと責任が分散されるのである
戦争でも国民に責任があったとなると国民全部に責任があるとなる
結果的には誰も責任がないとなっている

原発事故でもそうである、原発を誘致した地元の人にも責任があり原発を選んだのは国民だとなり国民全部に責任があるとなり結果的には誰も責任がないとなる
そういうことは日本では多い、責任の所在を明確にしないのである。
そして日本ではまた同じようなことが起きてくる
どうしても責任あるものとはその権限がある者でありすべての人に等しくあるとは思えないからである。、そして情報でも正しい情報を与えらなければ判断しようがないからである。複雑な社会になればもう自己決定権があるとしてもできないのである
原子力のこと放射能のことがわかるのかと言われればわからないとなりどうにもならないすると専門家にまかせる、まかせられた専門家が責任をとるとなる
でも実際は専門家も責任はとらなかったのである


タグ:責任論

2018年09月10日

さくらレンタルサーバーで警告メール (レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)


さくらレンタルサーバーで警告メール

(レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)

internetcheck1.jpg

2009.04.24 Friday 

アクセス解析を見ていたら「osnfw.sakura.ad.jp」というホスト名のアクセスがあった。
これは、さくらのレンタルサーバーの中の人だと思う。

理由は、以前もこのアクセスがあって、その後に警告メールをもらった経験があるから。
第三者に通報されると即座にチェックされて、【重要・要返信】というタイトルのメールが送られてくる。

でも、今回は利用規約には違反していないだろうから、警告メールは送られてこなかった。
普通にサイトを運営しているのだから、大丈夫だろう。

以前はすぐに該当ページを削除したら、許してくれたけど。

そんなに悪いことはしていないのに…。

osnfw.sakura.ad.jpからのアクセスが最近あった、忍者のアクセス解析に出ていた
ただこの解析は全部は出ない、アメリカからなぜ70人もアクセスがあったのに
最近は二三人しかない、一人だけは熱心な人がいるのも不思議である
抽象画の部にアクセスしているのだと思う

ただアメリカから私のホームページにアクセスしている
これもわからないが日本語だアメリカの人が詠むのか?
古代関係にアクセスしている、これは日本人としか思えないのである

最近私はホームページでもプログでも整理している、時間ができたので整理しているが
量が膨大になったので整理するにしても作業が大変になる
自分自身が書いたものが本当にわからなくなった
こんなこと書いていたとか不思議になる
人間は自分で書いたものすら忘れている、忘れやすいのである

いろいろ詩とか俳句と短歌でも整理する必要がある
詩では別にプログを作ったがこれも忙しくなるのでアップしていない
量が多すぎるから整理できないのだ

たださくらのレンタルサーバーからのアクセスで気になるのは警告メールが来たりしたのはなぜなのか?
その理由がはっきりしない、著作権違反とかもある
そんなにフログなどを見ているのか?
なかなか見れないだろう、なにしろさくらは安かったからである
だから最初数が多かったのである
何かこういうことがあると不安になる

インタ−ネットは不安である、一番の不安は何かの調子で一瞬にして消えることである

またレンタルサーバーとかプロバイダーによって削除された消されたいう報告もある
都築詠一氏の(心に青雲)のフログはそういうことがあったらしい
過激な思想と批判があったからだ、でも死んでしまったのである
そしてログは10分の一くらいしか残されなかったのである
それでふりかえり考察することができくなったのである

だから私もいつ消されるのかと不安になるし一瞬に消されるのではないかという不安がある
例えば創価など批判するとここは組織的に力をもっている
するとそういう団体からさくらのレンタルサーバーに批判が来るかもしれない
そして一方的に消されるという不安があるのだ
なにかここにインタ−ネットの問題もがある
ただ著作権違反だとかしやすいし過激な思想の団体もプロパガンダしやすい
実際にテロがインタ−ネットのサイトを通じてイスラム国などからあったからである
つまりあらゆるものの自由はまた危険なのである

でもレンタルサーバーでもフログを提供する会社でもどういう責任があるのか明確ではない、勝手に会社の都合で消されたり削除したりされるとしたらどうなるのか?
そのルール―が何なのかもわからないのである
インタ−ネットの法律はない無法地帯だともなるからだ
でも会社の意向で消すときは連絡してもらいたいとなる
その理由を言い警告した後にこちらでも処置するとなる

ともかく一回さくらのプログで機械の故障かなにかで消えたことがあった
でもバックアップしてあったので回復した
それから手続きができなくてせ電話で連絡して料金を払い消されないですんだ
それは一日も余裕がなかった
入院していて見ていなかったからだ
そういうふうにインタ−ネットでの手続きはめんどうだからそういうことが起きる
つまりインタ−ネットには様々な危険がひそんでいるのだ
それは操作がめんどうでありわからないことが多いからだ
技術的障壁が大きすぎるからである

ただ最近はめったに通信ができなくなることはないから安心ではある
通信は安定したからである
でもhttpsのsslの認証のことがわからないからまた困るのである
感嘆に移行すると不具合ができているから困るのである
さくらは意外と大きな会社で今は北海道辺りにデーターセンターがある
だからバックアップがあるから記録が簡単には消えない、それが安心なのだが
それでも理由もなく一方的に削除されたり消されるのが怖いという不安が依然として残るのである。

個人は弱者である、だから巨大なの組織団体の力がインタ−ネットでも働いたらどうにもならない
国自体が中国では関与しているから自由な発言は中国にはない、そうなるとインタ−ネットでも規制されて
真実は報道されなくなるのだ
経済活動ならレンタルサーバーでも大勢を組織団体を優先する
それで経済的にしめあげられれば組織団体からの圧力に屈する
それでマスコミには真実は報道されなくなったのである
それがインタ−ネットでもありえる
インタ−ネットでも今は多数がしているのだから影響力がでてきているからだ
でもそうしたフログは極一部である、まずインタ−ネットでは読まれることが至難だからである
不思議なのはくだらないものでもyoutubeになると見られているなと思った
気楽に見れるからである、それで個人が放送局になっているからマスコミに個人で対抗しているのである


金には責任がつきまとっている (補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


金には責任がつきまとっている

(補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


資本主義とは金の世の中である、金であらゆる価値が決められる、江戸時代だったら身分社会だから金ですべてが決められるのではない
いくら金があっても商人でも侍にはなれないのである
でも幕末になると侍が貧乏になり侍の身分も売られたりしていた
金が実質的に力を持つようになった

金とはなになのか?金にはいろいろなものがまとわりついている
ここでは金とは明らかに責任なのである
江戸時代でも十両盗んだら打ち首にされたとか厳しい
それは金の額で責任を問われていたのである。

時代劇で金をもらったからと殺人をする、金をもらった分を返さなければならないから嫌でもしたというときもそうである
金をもらうことは責任が生じるのである
それが悪い金でもそうである、資本主義社会になったらもう金ですべての価値が計られる金で計られないものは価値がないものとされる
人間でもそうである、いくら地位があっても収入が低ければその人には価値がないのである、江戸時代の身分社会ではないからである

金というのはもらえばいい、高くもらえばそれだけいいと考える
盗むにしても多ければ多いほどいいと考える、でもその額によって責任も本当は違ってくる、でも少額でも高額でも差別がないということがあるが本当はそうではないと思う
金の額によって責任が課せられているのだ

ある人は墓を守ってくれと3百万円を受け取った、跡継ぎがいないからそうなった
でも自分も関係していたが自分は知らなかった
だけど自分も関係した実家の墓だったが今になるとそんなものを引き受けないで良かったとなる、墓を守るということは簡単なようで簡単ではない
そこには死人が埋まっていて簡単に墓を廃棄もできないからだ
その家の持っているカルマすら背負うかもしれないからだ
実家ばどうも何か悪いカルマを背負っている、それを前に書いた
だから前は墓参りしていたしかかわっていたが今は一応兄である死んだ人の墓を自分の墓の脇に作って供養している
金はなんでももらえばいいと思うが何か必ず責任か課せられているのである

この辺で起きた原発事故の補償金でもそうだった
一番もらったのは船主である、漁業組合関係である
この補償は手厚かった、事故前も原発を建てるとき漁業権を東電に売り渡したから
補償金をもらん魚などとれなくても生活できていたのである。
そして原発御殿が建っていたと今では言われる
このことは追求してきたが何が問題だったのか?

そもそも漁業権は海は誰のものなのか?
そのことから問われる問題だったのである。

補償金をもらえばいい、高ければ高いほどいい

こう船主であれ漁業組合関係は思って補償金をもらっていたのである
だけど今になるとなぜ漁業組合は東電に漁業権を売り渡して金をもらっていたのか?
そのことが批判される、それはなぜなのか?

金をもらっていたからだ

そこに責任が課せられていたのである。漁業権の権利はあるが権利にはまた責任が課せられていたのである
そしてその権利をたてに補償金をもらっていたことに大きな責任が生まれていたのである海は誰のものか?漁業組合のものだとなっていたからだ
ではもし漁業権とか海を自治体で協議していたらどうなるのか?
例えば漁業権を東電に売り渡すにしても自治体で議会でも協議して漁業組合に7割とか補償金を配分してあとの3割を自治体でもらうとなっていたらどなっていたのか?
自治体にも責任が生まれ自治体となれば市民全員にも責任があったとなる
でもすべて補償金は漁業組合でもらうことになった
だから原発事故が起きたときその責任が重く問われた

なぜ勝手に漁業権を東電に売り渡したのだ

権利をあるのがわかるがその責任はどうするのだ

だから金には必ず責任が課せられているのである
大工さんに頼んで雨漏りの修理をしてもらったが実際は全く直っていなかった
でも金はあとからあとから足りないととられた
そして結構な金が無駄になった、でも責任は全くとらない
金を損したというだけである

資本主義社会では金の社会である。金をみんなできるだけ欲しい何でも欲しいとなる
でも金の額によって責任が課せられている
金のある人が資本主義社会では責任を課せられている、身分ではない,社会の責任というとき金を持っている人、富裕層になればなるほど責任が課せられているのだ
だから富裕層がタックスヘイブンとか税金逃れしたりすることは許されないのである
金があるからとそれを浪費することも許されない、社会のために使うことを要求される
だからいくら金があっても有効に使えない者は金をもつ資格がないのである
銀行も何かわからなっかったが大金持ちでありその金を今は貸付先もなくうまく使えないつまり銀行は金をもっていてもその金を有効に使えないのだから不要だとなってしまうのである

ともかく原発事故の補償金でもなぜこれほどもめたのか?
双葉とか大熊とかは多額の補償金をもらった、億の補償金をもらった人が多いだろう
その人たちがいわき市に2万人とか移住して家を次々に建てたとき地元の人が不満になった、なんであの人たちは家を建てられるのか?
こっちにはそんな金などないのにうらやましいとなりその不満で事件も起きたのである
つまり双葉でも大熊でも実際は金をもらえるということで積極的に原発を誘致した
そして事故後も補償金をもらい新しい家を次々に建てている
でもいわき市の人は補償金はもらっていないのである
そして双葉とか大熊とかは積極的原発を誘致して金をもらったのではないか?
その責任はあるのではないか?
それは全国的にもそれを言う人たちはいた
事故前も事故後でも原発では勝ち組なんだよとか盛んに言われたのである。

つまり金には何であれ責任がつきまとっている
自分の住む所でも原発の補償金をもらっている、正直一人70万はもらったのである
隣の相馬市は6万くらいしかもらっていない、いわき市でもそうである
だからもし自分の住んでいる所でもっともらっていたらお前も責任があるのにそんなことが言えるのかと責めらても仕方がないのである
金にはこうして常に責任が課せられているのである
ただ原町になると3倍もらっているとか言われる、それは30キロ圏内であり強制避難区域になったからである、だから原町の人は文句を言わないのである。
そして南相馬市は補償金によって分断されたのである




posted by 老鶯 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年09月08日

仙台が下りで東京が上りの違和感 (震災以後は中心は仙台、東京から地方都市へ中核が移る)


仙台が下りで東京が上りの違和感

(震災以後は中心は仙台、東京から地方都市へ中核が移る)

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中央集権ではない国では、ありえない表記であり、一般にはnorthern-bound(北行き)、western-bound(西行き)といった方角や、大阪方面、仙台方面といった主要都市を示す言い方しかない。ついでに、東海道線、奥羽本線といった路線名を付けない国もあるので、説明が必要かもしれない。

東日本震災以後、この辺で双葉や大熊や富岡区間などが不通になっている
それで仙台行きが出ているがそれが下りになっているからなにか感覚的にぴったりしなくなったのだ
東京方面が不通になり余計にそうなったが今はそうでなくても違和感が生まれてきている

それはなぜなのか?

仙台行きが中心でありあとは名取から仙台空港行きがある
だから相馬地域では常磐線は仙台が上りの感覚になる
仙台からは新幹線も出ているし新幹線に乗る人が多い
ここでは常磐線はそのつなぎのようになっている
3倍に収入が増えたというとき外部から入ってきた人が多くなり利用したからだろう
ともかく仙台は東北の中心であり東京のような感覚になる
だから震災以後仙台が下りになっているのは合わないのである

それらのものが、江戸に運ばれると、都から江戸に下ってくるという意味で「くだりもの」と呼ばれるようになったのです。

 茶は「くだり茶」、酒は「くだり酒」、そのほか「くだり醤油」や「くだり傘」など様々な生活用品が江戸に入ってきた。
 上方のものは、とても上等でしたので、江戸の人たちからも人気がありました。
 しかし、上方以外の品物は質が良くなかったので、江戸にはあまり入ってきませんでした。

「くだりもの」に対して「くだらないもの」とよぶようになりました。
 質が良くないために、江戸には、「くだってこない」という意味です

これは京都中心にまだなっていたからこうなった、京都から下ってくるものはいいものなのである
東京が中心なら東京から下ってくるものがいいものだとなる
東京中心の中央集権になればそうなる

ただ電車は上りというときそれは中心に向かっているのだ
下りは中心から離れることである
だから東京から西でも東京行きになると上りになるのである
その感覚は明治の東京中心の社会から生まれた方向感覚なのである
地方からお上ぼりさんというように中心に上ってゆく
それが東京だったのである。京都にも使われていた

でも今になるとすべてが東京中心の社会ではなくなっている
今は東北では仙台が中心だから仙台に行くことが上る感覚なのである
そこは交通の中心地でもあるし東北の中心になるからである
そもそもだから時代とともにこうした方向感覚も変わる
地方の中核都市がありそこが中心となるべきなのである
東京一極集中の時代は終わっているからである

外国にはパリがありロンドンがあっても電車では東京のような中心へ向かうという感覚はない、ただ方向をさしているだけなのである
こっちの方が合理的であり合っているのだ
だからこの辺では特に常磐線の双葉とか大熊で途切れたから中心は仙台になった
そこへの往来が一番多いからである。 
タグ:上り下り

砂の川、砂の回廊 (Sand River A sand corridor)


砂の川、砂の回廊 (Sand River A sand corridor)

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Water permeates the earth

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evening mountains

最近抽象画を休んでいた、これは二次三次の加工作品だから実際はいくらでもできる
それはなぜか?
ビッグデーターがインタ−ネットになるからである
きりなく写真もある、絵もあるとしたらその変化するのも無限だとなるからだ
ただ常にパソコンの操作することで疲れるのである
何十回も操作してやっとできたとかなるからだ
しかしこの変化の芸術は無限である


Recently I was absent from the abstract painting, this is a secondary tertiary processed work so I can do as much as I can
Why is that?
The big data will become the Internet
Because there are pictures as well, if there are pictures, that change is infinite
Just being always tired by operating a PC
It is because it got to do it by doing dozens of times
But the art of this change is infinite

タイの画家に会う (原町の高倉に住んでいる人の友達)


タイの画家に会う

(原町の高倉に住んでいる人の友達)

今日駅で会った人は変わっていた、私は芸術家です、ア―ティストですというから何のか最初のみこめなかった
出身はというとタイだという、タイからアーティスト?
確かにスケッチブックをもっていて絵を描いていた
それはタイの古い家だった、それから飯館村の山津見神社に行って狼の彫刻を作っていたその写真を見せてくれた

その人を案内した人がまた変わっていた、そんな人がなぜここに来たのか?
その人がどこかで知り合い訪ねてきたのである
その人は芸術家でも有名ではない、貧乏芸術家だという、自称芸術家なのかもしれない
でもヨ−ロッパ辺りも回っているという、放浪の芸術家となるのか?
それなりに彫刻までできるのだから技量はあるのだろう

でもその人を案内した人は震災以後高倉に住み着いたのである
六年もたつという、結構長い、その人は郷土史に興味をもっている
それが相当に詳しい、たいがいこの辺のことを知っている
岩松氏のことも知っていた、基本的なこの辺の歴史を知っている
南朝の落ち武者がこの辺に住んでいることも知っていた

その人は何をしているのか?高倉のあやめ園に住んでいるという
あの辺を通ったらプレハブとかあったからそこに住んでいるのかもしれない
何かこの辺ではそうした変わった人も移住して住んでいることがある
震災以後いろんな人が入ってきたからである
そういう人も受け入れやすくなっているからである
第一小高などは空家だらけだから誰でもいいかち住んでもらいたいということがあるからだ

ただあの人もタイの放浪画家芸術家とにていて定職を持たない人だろう
第一タイにそんな放浪画家みたいな人がいるのかとなる
タイなら今ならいるとも思った、なぜならタイは東南アジアでは一番豊かになっているからである、物価も高くなっているから豊かになるとそういう人も出てくる
駅とはいろんな人が来るということを知る
田舎でも国際化している、この辺は震災以後いろんな人が入ってきたからである
そのことをここで紹介した、駅はやはり街の玄関であり出会いの場なのである
特に小さい駅だとかえってこうして話したりできるからである

この前来たフランス人も小学校の教師であり日本の文化に興味をもっているから平泉まで行ったのである、その人ともちょっと話しただけだが日本文化に興味をもつ人がふえてくるようになる、中国人だって最初は買い物だけど今は日本文化に興味をもつ
つまり観光でも日本文化に触れたいという人がふえてくるのである
芸術家なら余計にそうなる、そのタイの放浪芸術家も日本に長いのか?
日本文化に興味があってきている、スケッチしり彫刻したりしているからである
ただこの人は今まであった中では一番めずらしい人だったとなる

その人は英語がしゃべれる、それもどれくらいの能力なのかわからない
でもちょっとした話は英語で通じる、ただむずかしくなると通じない
英語ができるということはやはり知識人でもあるのだ
タイには行っている、タイは東南アジアでは最も発展した国である
だからそうした人がいても不思議ではない
普通はベトナムとかネパールとかフィリンピン人とかとも会っている
その人たちは観光には来る人はまれこである
金稼ぎにくる、タイの人は観光に結構今は来ているからだ
だからタイにはそういう人がいても不思議ではないとパ思ったが
それにしてもやはり変わった人も日本に来ているなとつくづく思った
都会ではそういう人もたくさん今は来ている、田舎ではなかなか会えないが
駅であったということがやはり田舎でも国際化しているのである

2018年09月07日

ミャンマーが中国人に席巻される (マレーシアのジョホールバルは姉が従軍看護婦で4年過ごした地)


ミャンマーが中国人に席巻される

(マレーシアのジョホールバルは姉が従軍看護婦で4年過ごした地)


大陸・中国からの大量移民が、ミャンマーの伝統文化、歴史的価値観を軽視し、中国の文化、伝統を押し付ける事態に発展しているからだ。

 今では、毎朝、旧王宮の美しい壮大な堀のある街の中心部で、太極拳の練習をする中国人が大挙し、大音量の中国の音楽が鳴り響く。天空のミンドン王におかれては、さぞかしお悩みのことだろうとお察しする。

 結局、古の王都は、現在人口120万人ほどだが、その半数以上に相当する約60万から70万人(中国人

前回、「ついに頓挫か 中国人100万人マレーシア移住計画」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53936)で、マレーシア第2の都市、ジョホールバルに移住計画を企ててきた中国が、マハティール首相の誕生で苦境に立たされている様子をお伝えした。


東南アジアの歴史は戦争の時日本が深くかかわった
この記事で注目したのがジョホールバルである
シンガポールの対岸にありシンガポールは昭南島と戦時中言われていた
イギリスが支配していたときジョホールバルには赤十字の病院がありそこを日本軍が落としたことは大きな戦績であり西欧列強に勝ったことで記念すべき戦いだったと評価するのもわかる
東南アジアへの日本軍の拠点となったからである
ビルマへのインパール作戦などもイギリス軍を日本軍が追いやった結果としてビルマが最前線になった、日本はビルマまで侵攻することはできなかった

そのことをジョホールバルで四年間従軍看護婦として姉が死に物狂いで青春時代を過ごしたのでそのことが認知症になっても忘れることができなかった
そして死ぬ間際までその戦場のことを語りうなされるようにして死んだのである
最後は千回くらい同じことをしゃべりつづけたのである

東南アジアというときカンボジアに行ったがアンコールワットの壁には中国人の兵隊が彫られている、その時から中国人は関係していたのである。
カンボジアでは中国人がバイクを貸してカンボジア人を使っている
格安で5ドルくらいで雇っている、なぜならバイクを貸しているからである
つまりそこで中国人は資本家となっているからである
その時経営がわからなくてももし金があれば資本があればバイク十台くらいでもそれを貸せば安く地元の人を雇って経営者になれるとも思った
それくらい物価が安いのである。カンボジアは今でも十分の一くらいで安いのである
そしてそこの宿にもビルマ人がヤンマー人がいたのである

ともかくジョホールバルというとき日本が戦争でイギリス人を追い出したことから始まっている、イギリス人でもオーストリア人でも捕虜になったから今でも恨んでいる
日本はアメリカと戦争しなければ負けることはなかったのである
そして今は中国人が経済的に発展して東南アジアを席巻する、もともとベトナムでも漢字を利用していたとかあり中国は常に影響していた地域である

それにしてもミュンマーでも

古の王都は、現在人口120万人ほどだが、その半数以上に相当する約60万から70万人(中国人

それにしても多すぎるのではないか?
中国人に国がのっとられるてしまうのか?それだけ中国の力が強くなっているのだ
日本だって沖縄辺りが中国人にのっとられるとかなる
それを沖縄人は望んでいるのだとかも言う
中国がこのまま巨大化するとどうなるのか?それは日本でも大きな問題となる
アメリカは衰退しているから中国が次の支配者となるとか騒がれる
ただインドが経済成長してくると対抗する勢力となる

いづれにしろネパールも一時イギリスに支配されたから英語を話す人がいる
東南アジアでは英語が話す国が多いのはイギリスに支配されたからである。
インド自体がそうだったからである

今日本の企業がベトナムに進出している、中国は物価や人件費が高くなりすぎたからである、つまりまだ遅れているのはミャンマーとかネパールは最貧国なのである
ベトナムもそうだったがだんだん豊かになってゆくだろう
貧乏な国とはグローバル経済では工業化できない国なのである。
中国は工業化に成功したからこそ経済成長して巨大化したのである

東南アジアではタイとカンボジアには行ったがマレーシアのジョホールバルには行っていない、それが失敗だった、それから介護十年とかで海外も日本でも旅ができなくなったからだ
だからジョホールバルには姉があれほど語っていたから行ってみる義務があるようにも思えるから行きたいのだがなかなか今度は前のような気力がでてこないのである
そして暑い所が苦手になったのだ
でも短い期間で行けば行けないことはないかもしれない、それは何か自分の義務のように感じているからである
姉の場合戦争に負けてからもジャングルに逃げたとき最も辛酸をなめたのである
食べるものないとか苦しんた、ジャングルに逃げて日本兵が生き延びた
その苦しみはもう想像を超えているのである
posted by 老鶯 at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

実り(近間を回る)


実り(近間を回る)

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朝風に風車の回り実りかな

墓もうで深野に休み実りかな

めぐれるや長野深野の実りかな

珍しき蝶のとまるや森の道

前畑に落ち着く菊や古りし蔵

一本の松の変わらず秋の蝉

森に鳴く蝉の余韻や夕暮れぬ


右田の風景は変わった、前は「故郷は実りに松に漁の船」となっていた
松と実りと海に漁師の船がでているという風景だった
それが今や風力発電の風車が回っている
これもこの辺の風景としてなじむのか?
風で回るから自然の影響があって電気が起きていることは意識する
すると何か自然と融和しているのかとも感じる

風車はここだけではない、どこでも設置された、そして台風で倒れたのもあった
だから意外と日本では災害が多いからソーラーパネルでも壊されるということがある
日本は災害の国である、原発でも地震とかで北海道で電源が予備の電源になったり怖いのである、東日本震災以来本当に日本は災害の国だということをみんな意識したのである
だから原発など日本に向いていなかったのである

今日は深野(ふこうの)の方をまわり橲原に出て帰ってきた
大原から橲原の道は森の道である、あそこは車がまれにしか通らない
考えてみるとあそこになぜ道を作ったのかともなる
飯館村でも前にも書いたが大倉から坂を越えた共栄橋があるところの道は森に隠された秘境の道だった、それも原発事故前に道にして消えた
何か公共事業として必要でなくても道を作ることがある

なぜそうなのか?田舎では土木建築関係の会社が多いからである
それで今回の津波原発事故では特需のようになり仕事が生まれて土木建築関係は豊かになった、一時は仕事がないと倒産するとか減っていたが持ち直したのである
相当に金が入った土木建築関係者がいる
補償金をもらってさらに仕事で収入があった人もいたからである 

田舎だと蔵ある家は普通にある、蔵があると何か違っている
それは古い家だと見るからである。そして蔵があると落ち着くということがある
ただ今は蔵はそんなに利用していない、原町で見せてくれた蔵には孫の写真が飾ってあるだけだった、ただ蔵には古い農家だと郷土史の資料になるようなものが埋もれている場合がある

一本の松というとき小島田から金沢へ坂を上る所の池の岸にある
でもそこも池あるとしても変わってしまった
ソーラーパネルになったり廃棄物の処理場とか家も建ったので変わってしまった
あそこはいつも通るので気になる場所だったのである
ともかくこの辺は変わりすぎたのである
だから変わらないものが貴重になったのである

深野(ふこうの)はこれも実際はありふれた名だけど地名の名の影響もある
長野と深野はつづいているからどこが境かわからない
ただ大原にはソーラーパネルになったり田んぼも荒地になっているのがほとんどである
長野深野は実りがあった、この辺は放射性廃棄物の置き場になったところがまだある
それはいつかたづけられるのか?景観として良くないのである
荒地になっているのが良くないのである、田んぼにしなくても何か荒地を利用する方法があってもいいと思う
ただソーラーパネルになるのは土地を貸しているだけで金がもらえるとなるからもう田んぼでもめんどうで金にもならないとなると土地利用のためにそうなる
それは土地をもっていれば所有権があり何に使ってもいいとなるからだ
だからこの辺では荒地化したところはソーラーパネルになりやすいのである

まだ夏のかもしれない、今日だって蒸し暑い、だから秋になっているのだが秋の蝉という感じでもない、やはり気候がおかしくなっているから俳句が季語の芸術だという時それが狂ってしまうのである



タグ:風車 実り

2018年09月06日

2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


このサイトの地図を是非見てください

この一か月間の地震が起きたのを地図で示している
すると東北の太平洋岸の地域、沖に集中していたのである
ここから安平町の方へ地震が起きることがつながっている
この一か月間の地震は良く見ていれば予想できたかもしれない

十勝沖地震と津波はまた違った方向なのである
そこにも確かにこの一か月間で何度か起きている
しかし東北沖の地震の頻度が多かった

これは何か法則性がある
西日本の方は熊本で起きても太平洋の沖のようには起きていないのである
すると西日本の方には法則性が感じられないのである

東日本大震災の時も実は震源地でこのように一か月前辺りから地震が頻発していたが
注意していなかった、それで失敗したということがあった
この地図は一日感覚で動画として見せる地図である
一か月間を見ていればここに法則性がある

この地図は見ておくべきだったとなる
その他いろいろ地震予測があるがこの地図はわかりやすいのである
posted by 老鶯 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

自然災害もカルマなのか? (カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)


自然災害もカルマなのか?

(カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)

なぜこんなに地震であれ洪水であれ起きてくるのだろうか?
自分自身の災難についも延々と書いてきた
なぜこんなひどい目に合うのか?
それの答えはないがやはり自分のカルマだったとしか言いようがない
カルマが意識しないうちに自分自身にも家にもたまっていたのだ
何か自分は他者と社会と遊離してしまっていたことも原因だったのだろう

個人的にも必ず誰でもカルマが蓄積されている、もう人間はカルマから誰しも逃れらなない、60以後には総決算が強いられる
カルマは必ず苦しみとなって現れるのである
それを隠すことができない、借金を隠してもそれが必ず現れる
そして家族にも周りにも多大な迷惑をかける
そのカルマは決して一人にはとどまらない、家族でも周りでも巻き込むのである。

では自然災害とは何なのか?
これもカルマなのだ、カルマというときその土地に関係している
その土地にカルマがたまっているときそれを放出する時、自然災害が起きる
地震でもそうである、カルマが放出されると苦しみは一応治まる
苦しみとなってカルマが現れるがそれが放出されると一応治まる
ただりその苦しみは相当なものになる
犠牲者も死人も続出してカルマは放出されてその土地はまた安定期に入る

地震の謎は一つの場所に連続して起こらないことが特徴ではないか?
何か熊本にあったら北海道にあるとか予想のつかない所で起きているのだ
十勝沖地震は津波でも予想されていたが今回の安平町などの地震はそれと違ったものだったからである
たいがい予想した地震が起きるとは限らないし的外れになり意外な所で起きているのが地震なのである

いづれにしろ現代はもう仏教でいう末世なのではないか?
世界的にもキリスト教だと終末が近いのではないかともなる
それはカルマが日本でもそうだが世界でも蓄積されてもう放出しないと耐えられなくなっているのかもしれない
そういう時にノアの箱舟とかあったり自然災害が連続して起きる
日本は科学的にもそうした時期にきている
地殻の活動期でありそれは周期的にやってきてエネルギーを放出するときまた安定した時期がやってくる

2018年から何年かは危険な時なのかもしれない
こんなとき東京五輪などやるべきではなかった
なぜなら東京五輪にはやる意義もなくなっていたからである
ここに予算をつぎ込むのは日本をかえって衰退させる
それからカジノも中止になる、日本にまた大きな災害が来たら地震がくるとなれば
外国人も来ないからだ、外国人をいくら金もうけでも際限なく受け入れるのは問題だからである
北海道でも外国人が多いがこういう地震があると外国人も来るのを控えることになる
それでは観光で困るとなるがやはりあまりにも外国人に頼りすぎるのはどうかと思う
日本人が自分の国土でゆっくり観光ができないのもおかしいと思うからだ

ともかくカルマが放出されると安定期に入る、だから何かこの辺は原発事故でも大被害だった、そして住めなくなった
だからこの辺はそんなにこれから何であれかえって大事故とか大災害があるとは思えない大災害が起こるのは東京だと思う、南海トラフとかの大災害が来るかもしれない
そして日本国土の再編成が始まるかもしれない
東京には今度は住めないと地方へ分散する
もう放射能汚染された福島でもいいやとかもなるかもしれない
遷都のことが言われたがそれが大災害で実現するかもしれない
大災害でも起こらないととても大変革は無理だからである
日本が戦争に負けて焼野原になったとき復興したエネルギーのように日本は変わるかもしれない、何かそういう時期に来ている
天変地異はそういう時期に起きて日本の国土を一新するということもあるからだ
それはもういろいろ言っても決断できない
天変地異が人間を決断させるのである

世界史を見てもそうして気候変動とか自然災害で民族移動が起こり世界が変わったとういことがあり気候変動とか自然災害が世界を変えてしまったからである
日本がそういう時期にきていてまた世界もそういう変わり目にきている
だから経済恐慌とかも起きる、もう資本主義は少数者が悪魔のように金を集めている
それを正すためにもそうした世界恐慌とかが起きてくるし資本主義の宿命として起きる
個人的にも金がだまりすぎることもカルマなのである。
その時泥棒が入ったり何かその金をめぐって事件が起きるのである。
だから2018年から何年になるのか変動の時期であり大きなことが自然災害でも起きるし経済的にもそうだし大きなことが起きてくる
そこで極端な富の偏りとかが是正されてゆく、その時アメリカ一辺等の支配も終わる
もちろん中国が次の支配者になるのでもない、世界がまた変動して国産関係も変動してくるからである、そういう国際関係も変動する時代になったのである
posted by 老鶯 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

山形の大学生が折り畳み自転車で来る (駅前のドアと盲人の標識のタイルは完成)


 山形の大学生が折り畳み自転車で来る

 (駅前のドアと盲人の標識のタイルは完成)

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ここにある八重桜の根っこもなくなる



 折り畳み自転車で来た人がパンクで駅前の自転車屋で直してもらった
 それが古いものでさびついていたしタイヤを交換したり
 ブレーキを直したり大変な作業になった
 タイヤが古くて癖になっていてもどらないのが苦労だった
 それでもなんとか直した
 一万で買ったというがもう使えないようなものだった

 駅前の自転車屋は何か好感がもてる、接客がいいのである
 普通は自転車は愛想が悪いのでとっつきにくい
 あの人はそうではない、だからいつも人がいて話しているのである
 この前は駅で電車賃のこまかがないと交換してもらったりした
 あの自転車屋は駅前の案内所にもなっている
 津波で死んだ人の碑をその学生は見に来たというので説明した
その学生は大船渡出身だったのである
だから津波に関心があったとなる

 駅前の半自動ドアは入り口も直した
 冬になると閉めれるからいい
 盲人用の標識の黄色タイルも直した
 今は一人が浜吉田から通っている

 今工事しているのは駐車場と自転車置き場である
 写真の所が駐車場でありその脇に自転車置き場を作る
 駐車場の所が自転車置き場になると思ったが
 金を払って駐車する場だった
 駐車場は鹿島駅ではたりないのである
 駅舎の前は一時的にしかとめられないからだ
 それが駅の問題なのである

 あそこには八重桜が咲いていたが根っこが残ったがそれもなくなるだろう
 すると思い出の桜は何の痕跡もなくなる
 一本あった八重桜も切ったからである
 それも淋しい、何かこの辺ではそうして思い出になるものが消えてゆく
 津波で右田の松原は消えたしいつもゆく原町への金沢への道もソーラーパネルになったりして変わった
 ただ池の所の松一本は残っている
 でもまたそこには廃棄物を処理する会社ができたから風致は乱された
 ともかく思い出の場がなくなるのは淋しい

 変わらずに松一本や秋の蝉

 何か駅前でも木があったりとするいいのだ、それは思い出の風景として記憶されるからである、駅は高速のSAとは違って自然でも映える場所だとなるからだ
 それで鉄道が好きなのである。鉄道が写真になるのはそのためである
鉄道には情感がある、それは鉄道には人間の長い時間の中で人間の情はしみこんでいるからである、そこが高速とかとは違っているのである。




安平町の位置 (北海道地震の被害の地域の地図)


 安平町の位置

 (北海道地震の被害の地域の地図)

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 苫小牧には何度も行っている、電車だと三つに分かれていた、一つは千歳空港のある千歳線である、意外なのは安平町は苫小牧から近い、そこにも電車が通っていた
 それから高山植物が小高い山で見れるアポイ岳へ行く様似駅までの日高本線が台風の大雨の被害で不通になった

 日高本線・鵡川〜様似間の復旧を断念 JR北海道、地元と協議へ

 私は千歳線と日高線には乗ったが安平町に行くのには乗っていない、ただ室蘭本線には乗っている、苫小牧から線路がいくつかに分かれていたから三つの路線が出ていた
ただ日高本線は復旧不可能となった
苫小牧からは本当に景色は北海道になる、湖もあり原始的なものが残っている

今回起きた地震は室蘭まで影響したことも地理的にわかる、でも室蘭は遠いとも感じる
苫小牧には相当に近い、隣の街の感覚である、ただ北海道の距離感覚は本州の二倍くらいの感覚になる

北海道ではたいがい千歳空港から回る人が多いからなじみのある場所である
ただ安平町には寄っていないしなじみがなかった
ても苫小牧の隣だったのである

北広島とかも近い、そこは広い地域である、そこは自転車で通過した
北海道はほとんど全部回ったから地理的にわかる
ただ安平町は小さな町でありわからなかった
でも苫小牧の隣だからあの辺だったのかとなる

今回の地震では結構被害があった、札幌もあったし室蘭まであったということはやはり安平町からそれなりに近いということがあった
室蘭は遠いようにも感じるがやはりそれくらいの距離までは震度が高かった

ともかくあの辺はなじみの場所であり思い出す、あの辺のほとんどは回っているからイメージできる、湖とかも多くいい場所だった

何か今日本列島は自然災害が多くなった、もともと日本は自然災害が多い
でもこれほど東日本大震災から災害が多い国だということを知らしめられたことはない
それで日本には無常観が生まれたことを実感した
いつでもどこでも常に自然災害があり死んだり家が壊されたり流されたりするのが日本だったのである。

自分の家も床上までに二回洪水で浸水被害にあっている、今回の津波の被害はまねがれた北海道の泊原発も電源がとまって予備の電源になったから心配した
原発は地震でも怖いものなのである。
大規模な停電もあり停電になるとその影響は大きい
ごはんがたけなくなったり料理ができなくなるとその影響が大きい
今の社会は電気がなくなるパニックになる
通信網もたたれたりするからだ

コンビニに行列ができたのもわかる、電気がとまり暗い中で買いだめしているのはここと同じだった、ただすぐに品物はなくなった
ここでは二週間外から物資が入らなかった
その時丁度米も一週間分があり電気も通っていたからなんとかしのげた
あとで古米を町で配ってくれたのでも助かった
それにしても東日本震災以降は日本列島は災害が多くなった
みなさんも気をつけて備蓄はしていてください

早めの復旧を願います
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人間の道の回復(詩) (現代文明批判)


人間の道の回復(詩)

(現代文明批判)

道の辺に芙蓉の咲きぬ
ゆったりと大らかに咲きぬ
その道は田んぼの中を
農家につづく
農家の庭は広い
あなたはその道を歩くがよい
今はここに車が通っていない
昔のようにその道を歩くがいい
歩けばその家までは遠い
その道を歩いてやっとつく
そして人は近くでも
道で結ばれていたことをしる
車の通過するだけの道ではない
人と人を結ぶ道なるを知る
芙蓉がゆったりと咲いている
時間と空間をその道を通じて
人は体得する
人は道を記憶して
道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない
永続する場所となる

この詩をイメージしたのは小高に行ったときだった、そこはまだ人が住んでいるのが少ない、だから車も通るのが少ない、田んぼはないが草ぼうぼうである
すると芙蓉が咲いている、するとそこは江戸時代にもどったような気分になった
これも変なのだけど街中でも不思議だった
江戸時代に戻りたい知りたいなら車がないと江戸時代になるのだ
感覚的にそうなる、江戸時代に戻れないのだが車がないと空間も時間も違って見えるのだだからどうして時間感覚が空間感覚が作られるのかというとそれは環境が影響していたのである、現代では明治から機関車が走りやがて電車となり特急となり新幹線となる

それからモータリゼーションの時代になる
車時代になると何か常に車が猛スピードで走りぬけてゆくから時間が早く過ぎる感覚になる、そしてキレル感覚になるのだ
道にしても歩いてい行けばそこは人間に空間を体に刻むとか記憶するとかなるが車で突っ走る時体にも脳にも記憶されないのである
つまり空間を体験するというか記憶することができないのである。
だから現代の旅は浅薄なものになりあとでふりかえると記憶するものがなくなるのである
現代の人間は没場所性の中で生きている、都会を歩いていてもそこに何か記憶しない
記憶に残るのがどういう場所なのか?
例えば原町に行く道は自分にとっては日々の生活道路である
そこに一本の松がある、それは変わらずある、そこに秋になり蝉の声がひびく

一本の松の変わらず秋の蝉

そんな句ができる、その松はここに変わらずあったからである
ただそれも回りは相当に変化した、新しい家が建ったりソーラーパネルになり変わった
労務者の仮設も建っていた、この辺はそうして自然すら変わった
右田の松原は永続的な自然だと思っていたが津波で根こそぎ消失したのには驚いた
だから本当に変わる、無常をこの辺では経験したのである。
変わらないものかあるというとき安心するとなったのである

道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない

記憶するというとき場所が記憶するのである、場所がないと記憶されないのである
都会では没場所性だから記憶されない、なんか茫漠たる雑然性の中に人工空間のなかに人は埋没して群衆として記憶からも消えてゆく
群衆とか大衆という概念は明治以降生まれたものである
江戸時代には群衆でも大衆でも存在しない、民衆というのはまた違ったものである
大衆化が現代の特徴だというとき大衆はマスコミなどによって新たに作り出されたものである、大衆というとき何百万とかが単位になる
テレビではその何百万を対象として放送する、番組編成する
テレビによってマスメデアによって作り出されたのが大衆だともなる
テレビがなければ大衆はまた存在しないからである。

NHKの大河ドラマでもそうである、NHKがかって歴史像をドラマで作る
そこで歴史の歪曲が起きる、でも見る人が多いからそれで歴史が誤認されるのである
つまり歴史番組でも何の番組でも多様な作り方があるからだ
報道でもそうである、今ではインタ−ネットで自由に報道番組も作れる
すると多様な見方が生まれる、これまではテレビを通じてマスコミが大衆を導く
テレビが判断したものを大衆が受け入れるようになっていたのである。
その中でもNHKが一番影響力が大きいからNHKが言っているかじゃないかということで大衆の権威となっていたのである
それに反逆する者が今度はyoutubeで放送するようになった
それで相対化される、今ではマスコミのマスメデアの報道が絶対化されていたのである

汽車が通るようになり電車でもそして車時代になってもそういう機械は道具はまた人間性を奪うものとして働く、つまりそういう機械によって空間でも時間でも切り取られという感覚になる、電車でも歩く時代からすると空間をきりとることである
歩く経験とは相当に違うのである、車でもそうである、車は空間を切り裂くように走るからである、そこでの空間の体験は記憶に残らないのである。
また空間の体験は電車でも車でもあまりにも早く距離を短縮することは距離感覚がなくなる、すると空間の体験も浅薄になり記憶されないものとなる
だから現代は便利な機械によって人間的な深い体験ができないということにもなる
だから旅でもその場所の体験ができない、ただ空間をきりとり一過性に過ぎてゆくだけだとなる 

だから短い距離でも歩いた方が空間を体験して記憶に残るとなる
何か今や歩くことが新鮮な体験であり人間発見であり自然発見にも通じているのである
それだけ人間の原体験となる歩くことすらしなくなったからだとなる
自分も歩く旅はしていない、自転車の旅が主だからである
ただ自転車で名古屋から伊勢から奈良に行き飛鳥に行ったとき伊勢と奈良が空間的に通じたという感覚になった、それは相当な距離だったが自転車で行った結果結びついたという感覚になった、これは電車で行ったらそうはならないのである

昔の道は一つの場所であり、他の場所をつなぐ一片の土地だった

昔の道は基本的に場所の延長だから、それはその道を通るすべての場所の性質を拾い集めて道そのものや終着地の地理だけではなく道の傍らの地理にも結びついている
現代の道は乗り物の延長でありそれは場所を結びつけることをしない
周囲の景観とも結びつかない

現代の道はどこからでも始まるけどどこへもつながらない・・・
(場所の現象学)

現代の道はただ物資の輸送の距離の短縮なのである
だから高速道路とかなるとただ車が流れ作業のように流れてゆくだけで景観とは切り離されるのである。一種の長いベルトコンベアーなのである
その場所の風景と切り離されてただ距離を縮めるものとしてある
それは物資を車で運ぶベルトコンベアーなのである
それはやがて自動運転で現実に本当に人が乗らない車が物資でも運ぶベルトコンベアーになる、それは近い将来にそうなる
ただそこでは物資を運ぶのであり人間的体験は省かれるのである

2018年09月05日

AI化時代に対応しないと遅れをとる (情報の集積化で答えを出す)


AI化時代に対応しないと遅れをとる

(情報の集積化で答えを出す)

AIとは何か?それはインタ−ネットしてみていればわかる、膨大な情報がある
それを検索して結びつける、人間の知能は今までなぜ限られていたのか?
それは情報の量だったのである、情報が限られていれば学術論文などを書くにしても
いくら知能が高くても独創性があっても無理なのである。
情報量が多ければそれだけですでに有利な立場にたてるのである
それはあらゆる分野で言えるのである、理系、文系を問わず情報量によって優劣が決まる例えば学者がいたとすると欧米の学者の知識を本を紹介する、翻訳するだけで学者になれたということがある
明治以降はヨ−ロッパの文明を取り入れるためにそうなっていたのである
そこに学者の独創性はそれほどなくても良かったとなる
インタ−ネット時代になると直接外国の知識にふれることができるからそれがなくてもできるとなればただ紹介するだけでは認められなくなる

情報量が勝負だというとき最近をそれを実感したのはこんなに本があるのかという驚きである、その本の読み方が変わった
インタ−ネットの検索のようにして本を探す、すると探しているものに合った本があるという不思議である、まず本の数は本当はインタ−ネットの出る前から膨大なものだった

ただ本があることを知らなかった

それは出版されていたのだがその本のあることを知らなかった
だから私は一週間に一回ほど仙台に行っていたのは本を買うためだったのである
でもその仙台の大きな本屋でも本は限られていたのである。
それで知的探求には地方では相当なハンディキャップがあったなとふりかえる
学問とは確かに自分で思考することだが知識は情報量で優劣が決まる
いくら独創性があっても情報量がたりないと足りないものが生じる

それはなぜなのか?

今回本を買ったがこんな本があること自体不思議だった
それは自分が今まで追求してきたことをよりわかりやすく書いてあったのだ
他にも自分が探求してきたことを書いてある本があった
それはその本の一部なのだがそうだった
今回の全体的に自分が探求したことを書いてあったので驚いたのである。
本は前は高かった、古本が極めて少ないし買えなかった
今はアマゾンで古本を探すと安いのでいくらでもある
それで千円以下だとまるで蒐集するように買っている、それはインタ−ネットで検索するのとにている
ではなぜそういうことが起きるのか?

それは人間でも知識でも世界的になると広い
すると同じようなことを追求して考えている人がいる、それはインタ−ネットでもそうである、同じようなことを追求して書いている人がいるからだ
するとそこでそうした知識を結びつけるとそれだけ物事を深化して見れるのである
だから人間がインタ−ネットとかでAI化しているのである
AIの強みは膨大な情報量を処理できることなのである。
それは桁違いの情報なのである。人間はもうそうした膨大な情報を処理できない
それで株式情報でも膨大だからとても人間では予測できない
AIの方がずっと有利になるのである。

AI化というとき人間が何もすることがなくなるのではなく人間自体がAI化してくる
インタ−ネットの情報検索であれ本であらゆる本がボタン一つで買える
ただ学術書となると高くなる、でももし大学に授業料を払うより文系ならそうして本を買った方がいいとなる、情報量で優位にたてるからである
私のインタ−ネットの写真とか絵を利用した抽象画創作も全く絵の才能がないのにできた理由は膨大な写真でも絵でも抽象画でもインタ−ネット上にあったからそれをソフトで操作しただけなのである
ただ最近その操作に疲れたので休んでいるともなる、それは全く化学実験と同じだったのである。

現代は勉強するには知識を探求するには向いている
それはもうインタ−ネットできればどこでも可能である
最近はスマホでもアクセスしているからパソコンがなくても知識は吸収できるしパソコンがあれば全国にも世界にも発信できる
だから情報分野ではインタ−ネットをしないことはもう相当なハンディキャップを負うことになる、時代に乗り遅れてしまう
図書館不要論がでるというときその場所まで行きそこでまた本を探して読むというのが手間なのである、それで私は介護になってからでも終わってからでも家事に時間をとられるから行っていないのである
その場所まで知識を得るために行かねばならないこということはそれだけ時間の無駄なのである
だから当然本屋は消滅してゆく,図書館も不要論がでてくる
それは知識を探求する人はインタ−ネットしている人はわかる
AIはむずかしいにしてもある程度理解できる
医療分野でも膨大な情報量を処理することなのである
膨大なレントゲン写真から癌を見つけ出すとかその情報量によって効果を発しているのである

まず古本だけでも膨大であり安いから買える、今回買った二冊の本は自分が追求していることを語っていたということで驚いた
つまり人間は一人で考えることには限界がある、一人の知識には限界がある
それだけ知識の分野は広いからそうなっていたのである。

場所の現象学(没場所性を越えて)−エドソール・ルレフ

この本は私が自分の住んでいる場所からあらゆることを発想してアイディンティティを作ってきたようにそのことを明快に書いていたから驚いた
つまりまさにぴったりの本だったのである
ここでは住んでいる場所がいかに大事かそこをベースにして人間が形成されることをわかりやすく書いてある
現代はの場所が没場所化している、そこに人間存在そのものが希薄して意味なきものとしている、マスコミでもそれは没場所性の報道なのである
私がプログで地域の報道でもするとき没場所性にはならない、土着的な報道となっているのである、こういうことは今まではできなかった
メデアをもたないからできなかったのである。

大衆的アイディンティティはそれは集団や個人の経験から発展したというよりも世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内側性をむしばむ
大衆的アイディンティティが象徴や深い意味に基づかず気まぐれで寄せ集め的に生み出されたまことしやかで作為的なステレオタイプに基づくものだからである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

Massedia tries to build up a fake world of a false place in a place the recipient can not directly experience

報道とは何かというときそこも土着性が必要だったのである。
その住んでいる場所から物事をみる、でもマスメデアになると全国的とか福島県でも広いから没場所性になる、そこに何が真実なのかも事実なのもかすら明確なものとならないし何か意味づけることもできない、ただニュースとして一過性に流れて消えてゆくだけだとなるのである、場所には永続性があるから場所をもたないものはただ一過性になってしまうのである
また直接的な経験ではないからフェクニュースになりやすい、世界的ニュースになるともう完全な没場所性になるからフェクニュースでも真実になる、その場所のことを理解することは不可能だからである
何か起きるというとき take place であり場所と関係していたからである。

2018年09月04日

公益を目指すべきが個益になり社会は分裂分断 (原発事故でもそうであった、ただ公益共益が何かは決まっていない)


公益を目指すべきが個益になり社会は分裂分断

(原発事故でもそうであった、ただ公益共益が何かは決まっていない)

人間の経済活動でも社会活動でもそもそもは公益を目指すべきものだった
ところが資本主義であれ民主主義であれ私有権とか個人の権利のみを主張して認めるものとして明治以降変えられた
だから今になると江戸時代が遅れた封建制で民はただ税を納める搾取する対象として見られていた
入会権でも山で採れるも山菜でもまた木材でも共有する共益になるものであり個益は許されない、だから何か古いものが常に遅れたものとして西欧化されたとき見るようになった入会権とは別に遅れたものではなくその当時の人がみんなで仲良く生活するために考えた知恵から生み出されたものである
人間はそもそも公益とか共益なしでは生活できないからである。

資本主義が自由市場主義で市場の原理にまかせる、見えざる手にまかせるというとき私有の追求になった、公益とか共益は自ずから個々の私有とか利益を求めるとき達成されるとしたルールだったのである
でもそれがうまくいっているかとなると公正な世界市場などありえなかったのである。
それはアメリカを中心にして金融で支配される世界支配のための金融になっていた
第一ドルがアフリカの奥地まで通用することがアメリカが支配していることなのである。実体経済と関係なくドルという紙幣をすれば世界を支配できるとなるからだ

なぜこの辺で原発事故でいろいろもめたのか?
それはやはり公益とか共益とかなくなりみんな個々人の利益を求めるだけになったからである、補償金でも個々人に与えられたからである
本当は自治体に与えられたものなのだが個々人に与えられたから個々人はその金で自分の勝手に使うとなりそうならめんどうな苦しい避難区域に住みたくないとなり外に出たのである、それだけの資金があったし金さえあればどこでも住めるとなるから外に出た
もうばらばらになってしまったのである 

いわき市に二万人も双葉や大熊や富岡の人たちが避難して次々に家を建てたというとき地元では不満になった、そこで家など建てられない人たちも多いからである
なんてあの人たちはよそから来たのに家を建てられるのかとなった
その家も建て売り住宅の会社だからできた、そんなに多くの家を地元の大工では建てられない、ほとんど外部の会社が一週間くらいで組み立てて建てたからできたことである
でもいわき市の人たちから見れば双葉とか大熊とかの人たちが公益共益として原発を積極的に誘致したのである
それが事故になって住めないとなっていわき市に避難したときあなたたちはあなたたちで原発を誘致して決めたのだから放射能汚染してもそこに住めともなる
それがあなたたちの責任だともなる、何か今回の原発事故は距離に比例して責任が課せられていたのである。飯館村をのぞいてはそうである
20キロ内は避難区域になり30キロ内までは補償金がもらえた、ただ30キロからはずれても鹿島とか久ノ浜は多くはないが一応補償金はもらえたのである

例えば公益とか共益というとき漁業権でもそうである
それは漁業者だけが持つ権利になっていたとき漁業者は漁業権を東電に売り渡して原発御殿を建てていたとなる
今でも原町でもこの辺でも立派な家を建てているのは船主であり漁業関係者だとなる
原町で大きな石の庭を作ったのを見たがそこは船主の家だった
トリチウムを海に流すな魚が汚染されるというけどテレビで死活問題などと放送しているけど漁業関係者は特に船主は生活には全く困らないのである
まず30年とか楽に補償金で生活できる、それだけ原発事故の後の処理はつづくからである
魚を一匹もとれなくても困らない、むしろトリチウムを流すなと交渉して補償金をつり上げることができるのだ、これも矛盾しているのである
それはこうして他でもそうだが組合も一見労働者のためのように見えて私益を追求しているからである。利権獲得のために動くからである
電気関係の電事連も原発で働き収入を得るのだから原発に反対はできない
そこは労働者も利益共同体となっているから電事連からマスコミに巨額の宣伝費が出ていたのである゜

山でも私有権をが明治以降認められた結果無数に分割されて共同で何か利用できなくなった、共益というときグロ−バリゼーションでもそうである
自由市場競争が公正な世界を作るというのもそうではなかった
結局アメリカ一極の金融支配でありそれに対抗しているのがロシアとかだったが排斥される、シリアの問題も実はシリアではIMFに加入していない、ドルが通用しない社会主義国家だったのである
それにアメリカでは不満がありロシアに対抗して反政府運動が自由の旗印のもとに行われた、その結果はいいものではなかった、ロシアの支配下にあった方が良かったのである
なぜならシリアに行った人がシリアの人は素朴だとと何度も言っていたからである
それなりに貧乏でも平和に暮らしていたのである。
それが欧米とロシアの対立で壊された、クリミアでもアメリカ側の金融支配がありそれが対立の原因になるし中国でもそうである
グロ−バリゼーションによって後進国でも利することはあるが金融でも支配するためにある

公益など世界レベルにはない、アメリカとかに利するものとしてグロ−バル社会があるとなるからだ
この辺でもなぜ地域社会が破壊されたのか、それは何度も書いてきたけど公益の共益の共同体を越えて金だけがばらまかれたためである
漁業関係者がそうであり原発事故の補償金でもそうである
地域共同体を越えて金がばらまかれた、すると一億円とか以上もらえればも自治体のことなど考えない、その金で外にでて楽して暮らした方がいいとなったのである
それも放射能汚染があるから悪いとはされないからである。
そうして自治体は破壊されて崩壊したともなる
補償される権利があるとしても自治体の復興のために使われたわけではないのである。

いづれにしろ公益とか共益といってもそれが何なのか?
原発でも別に金になればいいとしか考えない人もいる
原発は金になるものとして受け入れて賛成していたのである
それは市町村でも公益的な共益となるものとして賛成していたのである。
例えばソーラーパネルでも最近自然を景観でも破壊する抑制するべきだというときもそうである、
ソーラーパネルは原発事故のために安全な電源として奨励された
それは公益にかなうものとしていたるところに設置された
でもそれが公害にもなりつつある、だから公益共益とはなにかということが実際はわからないのである、一般的には便利なものが公益共益的なものとなる
民主主義だからみんなが多数のものが決めたことは公益になるとしても結果的にならないこともある

いづれにしろ会社でも会社の利益のみを求めたらそれが社会に認められて成功するとはならない、事業を始める人でも失敗したがその人の経営理念は自分が優秀だと認められたいということからはじまり田舎では金にならないから金持ち相手に全国相手に事業を起こしたのである。
そこに共益とか公益はなかった、自分の利己的エゴから始まったともなる
だからその事業が失敗しても同情しにくいのである

公益的とは何か共益は何かはまた共生とは共存とは何かにも通じている
自分は景観を大事にしてもそれは金にならないから金になるなら公害があってもいいとかなる人がそれなりに多いからである。
だから公益とは何かというとき多数がいいと思うものが公益なのかとなる
多数であれば何でも許されるのか?
その公益を決めるのはどうして決められるのか?
それが結構むずかしい問題なのである。
例えば小さな畑で野菜を作っている人は農業はそれが利益を産まないにしても公益性がある、環境の保存とか景観の維持とかがある、それはこの辺では原発事故以後荒地化しているのが多いからである。農業は自然と深く関係しているから公益性がある
荒地になっているよりはそこに野菜を作り花でも咲かせると景観的にいいとなるのであるそれは公益であり共益になっているのである。
でも利益を生まないものには投資しない、銀行でも金を貸さないのである。
どうしても経済優先だから原発だって誘致された、それは公益共益でもあったからである
だから公益共益とか共生とか共存とかは思想的問題であるのかもしれない
一つの価値観を共有することで公益とか共益は何か決まる
もし車などいらなくてもいいとして暮らすこともできなる
その為の不自由があまりにも大きいからそうならないだけでありもしみんながそう決意すれば車がない生活が公益に共益になるのである
原発だってみんながいらない決意すればそれはできる
でも原発とかなると国と関係して国際関係とも関係してくる
アメリカには逆らえないとかなり日本ではやめることができないとなる

ともかく共益とか公益がどうして決められるのか?
それをよくよく考えてみるべきであり人は公益共益を優先して生きるべきものであり
それがなくなりただ私有とか私権とか私益のみの追求となるとき共同体でも破壊されてしまうのである、金だけでもそうしたことは解決しないのである
かえってこの辺の補償金で分断されたように公益共益を損なうものとなる
ただ人間は便利なものぜいたくを追求する、それが公益出り共益になりやすい
人間の欲は限りない、それを抑えろといっても反対されるだろう
なぜ原発が金のなる木だったからこそ積極的に地元でも誘致されたのである
小高の腕のいい大工さんでもそうである、家を建てて借金していたから原発を作れば金になるからいいと言っていた、その息子でもいい車に乗っていたりした

つまり人間の欲を抑(おさ)えろということは共益にならない、共益になるのは人間の欲を満たすものだとなってしまう
そんならお前は寺で肉も食べない最低限の生活をする出家僧になれ、修道院に入り世俗的欲をたつ生活をしろとなる、それは共益とはならない、便利なこと豊かな贅沢な暮らしができることが共益だからである
ただいくら欲を抑えられないにしても限度があった
人間の欲は切ないからである。いい家が欲しい、いい車が欲しい、いいものを身につけたいとかうまいものを食べたいとか今はきりなく欲望が拡大する
欲望はさらに高い地位につきたいとか自分を優秀にみせたくて事業した人もいる
人間の欲望は経済的なもののに加えて地位が欲しい名誉が欲しい、優秀であると認めさせる、そのためにしのぎをけずっているともなる

ただ公益共益というときそうした利己的動機を否定するものが公益共益にもなる
利己的なもの個益を否定して公共のために共同体のために尽くすということもある
実は共同体にはそうして公共のために全体のために共同体のために犠牲が強いられることがあるのだ、人柱伝説などでもそうである、公益事業のために犠牲が強いられる
戦争で3百万人が死んだというときもその戦争は共同体の命運を賭けたものであり犠牲が強いられたとなる、それはその時はみんなが戦争に積極的に公益と思って参加したとなるからだ、だからただ便利になるからとか欲望を満たすためにだけではない、他の理由でも人間は死ぬまでの犠牲を払うともなる

戦後はギブミチョコレートとなりただ日本人は欲望の追求となりなりふりかまわず世界にトランジスターを売りに行ったとなる、そして高度成長になったのである。
資本主義ではその欲望が肯定される、欲望があった方がいいとされるからである
今の若者は常に欲望がかえってたりないから駄目だともなっているのである
そのために人は働くとなるからである、でも何が間違ったのか?
その欲望も限度を越えたとき危険な原発も積極的に誘致されたとなる
もう欲望の故になんでもいい金になればいいとなっていたからである
現代ではみんな金の亡者になっているからである
何かそこに歯止めがなくなっているからである、それで原発は積極的に誘致されたからである、そして事故になってからは補償金をもらえばいい、もうそれがすべてだともなる
何か復興とかは関係なくなっていた、何か公益とかではない、自分たちがどれだけ補償金をもらえるかもらうかしか関心がなくなったのである
それも共同すれば共益になる、だから共益というのは何なのか?
それが問題だからみんなで考えねばならないのである。


posted by 老鶯 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年09月03日

民族でも国でも衰退する時他国の他民族の侵攻を受ける (世界史の法則を知るべき)


民族でも国でも衰退する時他国の他民族の侵攻を受ける

(世界史の法則を知るべき)

もしもある民族がすでに活発さをを失っているならば、その民族は遅かれ早かれ必ず他のいっそう生活力の強い民族の襲来を受けその結果歴史が示すように大規模な異種交配がまったく自然に行われるいたる
(天才の心理学−E.クレチュマー)

民族の力が衰退する時、こういうことが起きる、それは歴史を見ればわかる
ローマ帝国が衰退した時にゲルマン人の移動がありそれによって新たな文明文化が生まれ天才も生まれる、
国の力でも何か衰退している時、世界史的に考えるとそれは民族の新陳代謝の時だともなる、それは世界的に見たとき一つの国にだけ神は特別なものとして見ていない
世界史という観点から民族の移動とか交代で新陳代謝を計り新たな文明を築くことを望むとなる

個人的ににも経験したのともにている、自分の家が病気とか介護とかでがたがたになったとき弱体化したとき攻めるには一番いいのである
相手が病気になったり何か困っていればそこにつけ入れ安いのである
それが自分の家で起きた、弱体化したことで攻めてくる
家は泥棒に占拠されたり事業に失敗した人は借金をせまる、脅迫にもなる
異常人格化した親戚はこういう場ではとがめられもしないのである
弱者に対するとき一番人間の本性が出やすいのである
それで若い人が父親が認知症になったことで頼った親戚が神のようになったと言って
そのことをインタ−ネットで書いていたことがあった

頼る者がいないから何かに頼らずにいられない、若いから余計にそうだった
家自体が乗っ取られたようになったのである。
そんなときつけこむのがカルト教団でもある、弱みにつけこむとき会員にしやすいからである。その人たちは会員増やして勢力を拡大して幹部が議員になったり地位を得ようとしている、同情など全くないのである
でも藁でもつかむように人は苦しい時頼る者がないとき頼るのである
自分もそういう状態になってひどい目にあったからである

この世界は弱肉強食の世界である、それはなぜなのか?
動物でも弱肉強食である、弱い物は駆逐される、食べられる、子孫を残すにしても強い種を残すために熾烈な争いを雄はするのである
それはより強い種を残すためにそうさせているのである
それは人間でも同じなのである。
民族単位でもなぜそうした異種が交わる時より強固な民族が形成される
日本は島国だが日本語がオーストロネシアと狩猟民で遊牧民のツングースと交わり日本語が形成された経過がある
他にも中国の江南んとかの交わりもあったとなる

そういうことは明治にも起きたのである、西欧列強の侵入によって日本が危機にたたされたとき日本民族は試されたのである。
その時日本民族が西欧列強の植民地にならなかったのはそれだけの民族の国家の力があったからだとなる、でなければ東南アジアと中国のように植民地化されていたのである。
それは信長の戦国時代でも起きた、スペインとかポルトガルとか植民地にされることもあったが侍の時代であり武力があるから怖くてできなかったのである

中国とか朝鮮を見ればわかる、その時中国は衰退して欧米にでもなすがままになっていたイギリスにアヘンを売りつけられて植民地化されていたのである。
朝鮮などは国の体を成していなかったという、だから歴史があってもそういう状態になっていたのだから他国が支配されてもどうにもならない状態だったのである
つまり中国でも朝鮮でも日本の戦争のことを非難するが世界史的に見れば神の摂理が働く弱体化した国は民族は他の強力な民族によって侵入される
それは世界全体からみたとき民族の力を弱ることを防ぐためだともなる
そういうふうに弱体化したとき必然的に強壮な民族が侵入してその民族の力をかえって強化するからである、そしてそこに天才が生まれるというのもわかる
天才というときとても一個人のことではない、バックグランドがあって生まれるからである、そうして民族が文化が交わるところに天才が生まれる
ヨ−ロッパでなぜ天才が多いかというと異人種が文化が交わる地域となっていたからである、それぞれの国が個性がありそれが交わりその交わった地域に天才が生まれたというのもわかる

なぜ今こういうことを言うかとなると今の日本は民族が明治から興隆したが衰退の時期に入っているということが見られるからである
経済的なことだけではない、何か民族の力が弱体化している
民族の力とは経済力だけではない、アメリカとベトナムが戦争してなぜ強大なアメリカに負けなかったのか?経済力だけではない、また軍事力だけでもない、何か民族精神としての力があったからだとなる
ただ民族精神を高揚するのはそれが前のように戦争に結びつくから危険でもある
日露戦争はみんな今も賛美している
でも内村鑑三が日露戦争に反対していたのである。宗教の立場から反対していた
そのことでまた批判された、天皇に対しての不敬事件があった
日露戦争がこれほど賛美されることはまた危険なのである
日本は強いのだという奢りが怖いのである。奢りから滅びにいたることはいくらでもあるからだ、個人的にもあるし国レベルでもそうなのである
太平洋戦争の敗北は日本の奢りがあったからである
原発事故も日本の技術は優秀だから事故はないと安全神話が作られたのである。それは奢りだった
日本は半導体とか他の技術は優れていても原発はアメリカの方が優れていたのである。
日本は未熟な技術で原発を作ったから事故になったのである。
ただ国が民族が弱体化すれば必然的に他国や他の民族の侵攻をうけるのは世界史の法則なのである、要するに日本が侵攻しないなら欧米が侵攻したとなるからだ

そしてこのことを歴史をふりかえるのは今日本が衰退している?
そうならば日本は他国の侵攻を受けやすいということである
それは日本の危機だともなる、その衰退している弱体化しているというとき経済力だけではない、日本の極端な少子高齢化とかも影響する
つまり日本が衰退しているというとき他の国でも民族でも侵攻を受ける
それは戦争でなくてもヨ−ロッパの移民でもそうだが新たな民族が侵攻してくる
それはその国が民族の力が衰えているからだとなる
世界史的にみれはそうして国でも民族でも新陳代謝が行われるのである。
今日本は衰退しているというとき弱体化しているというとき侵攻を受けやすいということである
だから日本を建て直す時でありそれは大きな変革が必要だとなる
それができないとなると日本は他国にまた民族の侵攻を受ける
でもそれが世界史の法則であり日本だけを神は見ていない、世界史として見るからやむをえないとなるのである。