2017年01月24日

感謝されない労働がなぜ多いのか? (感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


感謝されない労働がなぜ多いのか?


(感謝しない社会が労働の荒廃を生んでいる)


今の世の中はいくら働いても金になっても感謝される職業自体少ない、感謝されないから金にならないという、でも金になっても感謝は簡単にされないだろう。
大富豪に感謝しているだろうか?
あいつはうまくやったな、悪だからもうけたんだよとかなる、株とかでもうければそうである。株はギャンブルるきようになっているからだ。ギャンブルでもうけた奴に感謝などしない、ただ腹がたつだけだとなる

そもそも例えばコンビニで働いている人、スーパーのレジで働いている人、建築現場で汗を流して働いている人すら感謝しないだろう。
感謝される労働は医療関係とか福祉関係である。これは医者でも看護師でも介護士でも感謝されている、いつもありがとうありがとうと言われている職業なのである。
それに見あった給料をもらっているのも医者であり看護師である。
だから感謝されると同時に給料もいいから理想的な職業だとなる
でも仕事自体はきついから社会ではその人たちの給料を高くしているのである。
社会的に認められた職業なのである。一方介護士は感謝される割りには月給が安いからなり手がないのである。

でも感謝される労働は資本主義社会では本当に少ない、いろいろな場所で働いていてもわからないということもある。
それより「消費者は王様だ」というのが資本主義の現状なのである。
つまり労働しているより消費する人の方が偉いのだとなる
そうなれば当然労働している人に感謝などしないのである。
いちいちレストランであれ買物して客がありがとうとか言わない、ありがとうと言っているのはそこで働いている人なのである。
そして金をもっている人が資本主義社会では王様になるのである。

だからみんな労働をしたくないのが現状なのである。ただ金のために働いているということが多いからである。コンビニで働くのも一日立っているとなると疲れるがその報酬は時給いくらとしかならない、誰も感謝などしないのである。
感謝しているのは労働している側なのである。
だから金のために働かせられているということにしかならない
そこで働く生きがいがもてるようには見えないのである。
ただ労働はしてみないとわからないところがあるからいちがいには言えない
ただ資本主義の労働にはそういう傾向が大きいのである。
だから労働に対して嫌悪感をもつ人が多い、奴隷なんだよとか社蓄なんだよなとか言う人が多いことでもわかる。
労働というのは江戸時代であれそういうものではなかった、労働は今とは別な意味があり成されていた。

ともかく感謝されてまた月給がいいというのは医者と看護師くらいである。
ただそこでは過剰な感謝も要求されている、強要されているのである。

 患者の命を医師と共に守り介護する看護師が、なぜ患者が死ぬかもしれないような犯行を?? その動機について容疑者は次のように話しているという。

「患者が自分に感謝してくれずイライラしていた。仕事上のミスもあり看護師に向いていないのではと悩んでいたが、職場に相談する人がいなかった」

病院の怖さはこういうところにある。感謝を強要されるのである。お医者様として尊敬を強いられ感謝を強要される、だから自分は医者にゆくのも病院にゆくの恐怖になった。
感謝は必要でも強制はできない、人間はあらゆることについて強制はできない
ただ恩をかけたものに恩を返さないとかすれば必ずカルマとなってくる、でも恩でも強要はできない、結果としてカルマがその相手にのしかかるだけである。
ここでこれだけきつい労働して尽くしているのに感謝されないとしても月給はそれなりに高いのだからとがまんするほかないのかもしれない。

感謝しろといっても人間は当たり前のことに感謝しない、でもその感謝しないことが危険だということを書いてきた、一体人間は今住んでいる故郷とかに感謝している人はいないだろう。故郷に住めてありがたいなとか感謝している人はいない
それが原発事故で故郷に住めなくなったとき故郷に住むことを感謝するようになる
啄木も故郷から出て望郷の念がつのり故郷の山はありがたきかなとなったのである。

また親に感謝する子供もいない、それは当たり前のことであり妻にも感謝する人はまれだろう。でも一旦死んで今度は全部家事でもしなければなくなると家事をしてくれた食事を作ってくれた母でも妻でも感謝するようになるのである。
そしてこの感謝しないことが意外と危険に通じていたのである。
一尾の魚にまたは一粒の米に感謝しないことは危険に通じていた。
この辺では一尾の魚に一粒の米に感謝するより原発に感謝していたのである。
それが事故になり故郷にも住めなくなったのである。
感謝することは別に神から強要されてはいない、でもそのことに気づかない自覚しないと今回の津波や原発事故のような災いに見舞われる恐怖があった
感謝すべきことに感謝しないことが危険なものになっていたのである。

労働は本来感謝されるべきものとしてあるべきものだった。感謝されずにいくら巨万の富を積んでもそれは万人から奪い取ったものだとか言われていればその富豪自体が危険なものになってゆく、その人たちは他人の労働の成果を奪いとったものだとなるからだ。
資本主義社会が今や格差社会になったとき感謝されないのに巨万の富を積む人といくら働いても金にならない、感謝もされないという人たちに分かれた。
そうなると積極的に労働する動機がなくなり今や人手不足になる、人手あっても働かない方がいいとなる、そういう労働への価値がそこなわれている時代なのである。
もちろんすべての労働が価値あるとはならない、でも何か感謝される労働はいい労働なのである。
ただ金のために働く労働はいくら巨万の富を得てもいいものではない

パチンコ屋で働いてそれが遊ぶ人に感謝されるのかともなる、そういう労働をしているのはまさに借金とか奴隷化しているからである。普通だったらそんなところで働かない、
要するに金のために働くだけだとそれは奴隷なのである。金のためにだけ働かされるのも奴隷だとなる、みんなが会社員でも俺たちは奴隷なんだよなというときそこに現代の労働の頽廃がある。資本主義社会の頽廃がありそれが社会を頽廃させてゆく。

この辺では津波や原発事故でも自分の一身上でも感謝することの大事さを学んだ。
ありふれたものに対して感謝するようになったことはいいことである。
鉄道だってそうだしただそれは当たり前にあり使用しても感謝したことはない、電車賃が高いとか不満を言っているだけだったのである。
それはもう労働するサービスをする人が大事にされて消費する人は王様になる時代は終わるかもしれない、金ですべてを換算する時代も終わるかもしれない、人手不足であり働き手が貴重になってくれば働く人こそ感謝すべきであり医者や看護師のように労働者がなってゆくかもしれない、一方で労働が自動化する方向にあり労働自体が機械に代わる
すると労働を奪われることにもなる、ロボットに機械に感謝する人はいない
そううい社会もどうなるのだろうとなる。
いづれにしろ感謝することがこの辺では自分の一身上でも見直されたのである。


posted by 老鶯 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

abstract picture ( snowy river)



abstract picture ( snowy river)

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抽象画は連作になりやすい、要するに一連の変化としてソフトを操作しているからである同じパターンでも多少変化して作れるからである。
今回は寒いので雪をテーマにした。
この原画もインターネット上にあったのを変化させたのである。

This is because the abstract picture changes into even the same pattern that is because, in brief, I operate software as a series of changes that it is easy to plant over and over to some extent, and it can make it.
Because it was cold this time, I featured the theme of snow.
This original picture changed what had it on the Internet.

タグ:SNOW
posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店



鹿島の仮設のあつみ食堂が1月27日で閉店

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ここは二年間くらいやっていたのか、ずいぶん自分も通った、バイキング形式であり野菜が多いのと日替わりでメニューが変わるから一人暮らしの自分には便利だった。
一人暮らしだと野菜がいろいろそろえられないからだ。

ただそのバンキングでも種類が5種類以上とかあったし一人でやるのが大変だと見ていた客も10人も入らないようだとか見ていた、750円では採算がとれない感じにもなる
その割には労力が加重だったのである。

まず自分も食事の用意するのが面倒なのである。だから外食が多くなる、家事もしなければならないし時間がとられるからだ。
だからあそこで一食バランスのいい食事すると楽だった。
ただちょっと脂っこいのが多いなとは思っていた。

そこは別に暮らしに困っているわけでもなかった。何かカラオケ仲間の集まる場所になっていたのである。常連はそうだった、でもそれだけでは経営的には成り立たない、外からの人は3-4人とか来ていた、でも10人までなるようには見えなかった。
だからいつも見ていて採算とれるのかなと見ていたのである。
750円では安いものだったかもしれない、ただ1000円とかなると入らないということもあったからあの値段にしたのだろう、数をこなせば採算がとれたがそれも一人だしできなかった。外から入る人もそれほどでもなかったともなる

娘と二人でやるということであったが娘が病気とかで一人でやっていたのである。
まずあれだけの料理を出してかたづけとか皿洗いするにも容易ではない
自分の家に来ている人の十倍は働いている、でも金はそれほど変わりなかったと思う
とてももうけにすればそうはなっていなかったろう。
その割には労働が加重だったのである。

やめる理由は足が悪くなったからだと言っていた。年もとっているし何か無理だったのである。自分の家にきている人も70にもならないのに体が悪いと必ず言っている
腰がいたとか持病がある。その労働は皿二三枚洗うだけなのにそれでもそういうことばかり言っている、結局自分がしていることは福祉なのである。
それにしても10万近くとられるのは苦しいとなる、ただその他に役に立つことがあると思い払っている、一人だといろいろ困るからである。

もう鹿島の仮設は実質的には食堂は一軒である、もう二軒あるけど一軒は問題があり入りづらいところであり何か客が入っているのを見たことがないのである。
外から来る人も減ったということもある、一時大繁盛していたからである。
ただその人がやめたのはやはり一人であり老人だったからだとなる

つまりこの辺の問題は高齢化が影響している、それはどこでもそうだがあれだけのことをやるにはそもそも老人では無理ということがあった。
これはこの辺でもとくに人手不足になっていることもある、若い人が少なくなり全国平均より10パーセントくらい65歳以上の人口が多くなったのである。
これが復興の大きな障害になっている。
老人がこうして商売でもはじめても体力的にもつづかないということがある。
だから復興ということが避難解除になった地域でもむずかしいのである。

自分もそうだが老人は楽したいのである。のんびりすごしたいのである。
でもそうしたいためには誰か一人暮らしだったら食事ができる場所とか必要なのである。原町とかあるが自転車だと遠いので苦しい、やはり近くにないと困るものがある
そうなるとやはり小高でも避難区域でもそこに老人でも住みたいとしても何もないとなると嫌だとなる

そこがなくなっても弁当とかになるがやはり野菜が少ないことが問題なのである。
あそこはあれだけの野菜料理を出していることが珍しい、他では定番のものが多く野菜が足りないからである。
ともかく食事の用意が一番手間なのである。まあ、簡単に納豆くらいで食べるのがいいかもしれない、それでも何か食事が手間なので困るのである。

ともかくあそこは自分にとって感謝すべき食堂だったのである。

 あつみ食堂さん、ありがとうございました



タグ:仮設食堂

2017年01月23日

納得いかない死 (生者と死者のつながり)

納得いかない死

(生者と死者のつながり)


死とは個人的な死であれ家族としての死であれ国家的な死であれ戦争で死んだような死であれ死そのものが納得できないもの了解できないものとしてある
死んだ時、燃やされて骨と灰になりなにもなくなる、この変化があまりにも大きいので納得することも了解することもできなくなる
死はみんなこういうものだとしても納得いかないのである。
そもそも人間が死ぬということそれ自体が不自然でありあってはならないと思うのが普通である。死とは本当に理不尽なものなのである。
こなことがっていいのか、死を前にすべては無だとなりただ死の前には人間は無力だとなる、生あるものは死ぬものだとか言ってもそれに納得している人はいないのである。

今になると自分の家族の死は何なのかと問いつづける、それは自分の場合は特殊であり60年間三人が一緒にいたということがそうしている。
そして自分のために二人は無条件で尽くしていくれたのである。
それは実際は母と子だったなっていなかった、特殊な関係でそうなったから他の家族とは比べることができないのである。
だから自分は家族に対しての思いが他の人より強いのである。
だから余計に死にたいして納得がいかないのである。

人間はそうして愛するものが死んだときその人が以前として死んだとは思えない、それは時間によってだんだん忘れてゆくとはいえ60年一緒にいたものが生者から消えることがない、人にもよる、すぐに肉親でも忘れる人はいる、だからその人の事情にもよる
20年すぎて死者を偲んでいる人はそれだけ愛情があったということにもなる
だから個々に違うものとしても死ぬということは人間は納得しないしあきらめることも本質的にはできない、だから死後も死者のことを永遠にいないというよりいるものとてし扱うということがあり供養がつづいている、ただ親子でもその関係はまちまちだから忘れる人も関心もなくなる人もいるのである。

死ということは哲学では解決できない、宗教でしか解決できない、もちろん弁証法でも解決できない、そこに哲学の限界がある。死ななかったのは主、キリストしかいないとなる、お釈迦様死んだからである。
だから死を克服できる宗教はキリスト教しかないともなる
仏教では死を克服できない、ただ仏教には深いものがあり哲学とは違うものがある
無神論者が日本では多いけど無神論者でも立派な人はいる、むしろカルト宗教団体とか戒名仏教とか死者とばかりかかわる宗教は問題である。
日本人が仏教徒とかいうのは嘘である。ただ葬式するためにそうなっているだけなのである。葬式のための仏教なのである。

哲学にしても死者をどうみるかとなると死をどう解決するかとなると解決しようがない、生あるものはみんな死ぬとしかならないだろう。
ただそもそもそうした宗教とは関係なく人間は個々人でも家族でも共同体でも死というものをどう扱っていいのか?また生者と死者の関係はどうなのかということに悩む
死者が死者であることであることに納得しないのである。
墓があるときそこに実際は骨が土となり何もなくなっていた、ではそこに死者がいるのかどうかもわからないのである。でも墓には死者がいるとしてお参りしているのである。
つまり生者と死者は以前として墓を通じて結びついている、切り離されていないともなる死者でも全くないものとしたくないのである。、でもやがてその墓すらお参りするものがなくなるときもうその墓は捨てられ生者との結びつきが断たれるのである。

例えば死者というとき戦争で死んだ300百万人と生者の結びつきはどうなるのだろうか?
つまりこれもいくら死んだとしても死んだものとして生者と切り離して考えられないからどう扱っていいかわからないからそうなっている。
国に尽くした英霊として祀るというときもそうである。
戦争を経験した人は90以上でまだ生きている、その人たちは死んだ戦友のことを今でも思っているのである。戦艦武蔵が最近海の中から発見された。その無残な悲劇がNHKで放送された。生き残った者がそこで死んだ戦友のことを思い涙を流していたのである。
自分の姉も従軍看護婦で4年間シンガポールに今のマレーシアのジョホールバルにいたから死ぬときまで戦争のことを語り死んだのである。認知症になってもそのことだけは忘れずに死ぬまで語っていたのである。
そのことを叫びつつ死んだともなる、それだけ戦争のことは忘れられない記憶として残っていた。
そういう人は戦友が死んではいない、心の中で生き続けているのである。
ただそうした戦争経験者も死ぬと戦死者をその後の世代をどうあつかうかということはさらにむずかしい問題になる

自分の家族だったら母はまだ一年すぎたばかりであり生々しいとういことがある。
そして不思議なのは死者との結びつきがありその関係は強固になった感じもある
自分は家族が死んでから家族のありがたみを知ったのである。
そのことを書いてきた、誰も自分のことを思うものもなく病気でも他者は親戚でも責められるだけだった、それほど他者が非情なのかということでますます家族のことを思うようになった。
それから他者は金しか求めていないこともわかりそのことでも家族を思うようになった。母は自分が60までも食事の用意をしてくれたからである。
今になると全部自分でしなければならない、そしてがっかりするのは皿二三枚洗ってもらうのに金が10万近く払わなければないことである。これも自分が一人だということでしょうがないとしている
それは自分が介護しているときもそうだし病気になったときもそうである。
家に来た人は金を要求するだけで何もしてくれなかったのである。
それだけ自分のことを思ってしてくれる人は一人もいなくなったことで余計に家族のことを思うようになったのである。
今になると母に食事を作ってもらったら涙を流して感謝して食べるだろう。
今年も雑煮も食べられなかった、コンビニのインスタントの雑煮だったからである。

だから奇妙だけど死んでから死者に感謝しているし結びつきが強くなったというのも不思議だとなる
家族がいたありがたみが骨身にしみてわかったからである。
病院では見舞いもなく看護婦から虐待されたし何か自分に対して情をかけてくれたという人はいないのである。これほど他人が非情なのかということで家族への思いが感謝が深まったのである。
だから人間は家族でも死んでみてそのありがたみがわかるのである
それは妻でもそうだったり死んでみないといなくなってみないとありがたみわからない
それは人間はそもそも空気のようにあるものに感謝などしないのである。
それはこの辺が原発事故で故郷に住めなくなったことでずっと書いてきたことである。
失ってみてその価値がわかる、死んでますます家族で結びつき強くなるということもありうる、なぜなら今までは感謝もしなかったが感謝してその本当の価値を知って結びつきが強くなるということである。

原発事故で避難してもし避難した先でユダヤ人のように苦しめられたら差別されたりしたら故郷のことがどれだけなつかしく思うかもしれない、そして故郷あることがどれだけ幸せかと思うかもしれない、それは故郷に普通に暮らしていてもわからないことなのである失ってみて本当の価値がわかる、国だってもしシリアのようになって難民化したら国があることがどれだけ幸せなのかとなる
いづれにしろ生者と死者の問題は人間にとって深刻なるが故になかなか簡単には解決できない、ただ死者が全く無きものとはできないことは確かである


生者と死者は
生前より強く結びつく
その真の価値を知りしがゆえに
寒夜の星のように
星座のように結びつき
永久に輝く

タグ:生者と死者
posted by 老鶯 at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年01月22日

原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった


原発避難者、津波避難者もパチンコ通いで同じだった



業界大手のマルハンもその一つ。全国に300店以上を展開するが、7時開店は石巻店だけだ。「被災したお年寄りから、寂しいので早く開けてほしいという声が寄せられたのがきっかけだった」と相沢昇店長(38)は話す

 売り上げが震災前の水準に戻ったというジョイパークは昨年8月から低レートの専門店に切り替えた。人口が増える見込みのない石巻で生き残るには、自由に使えるお金が多いシニア層を取り込むしかない。


津浪の瓦礫をとりさったところにぽんぽんとパチンコ屋が建った

生活保護費や東日本大震災の賠償金などの 
莫大な税金が 
パチンコ屋に吸い取られる。 
日本人のやる気を奪う 

なぜ、パチンコ屋を廃止に追い込めないのか!!!!

60才以上のじいちゃん婆ちゃんが震災で生きる希望を無くして娯楽として安く遊んでるならわかるが・・・・ 
この中年ナマポ野郎は震災をネタにパチスロやってるだけじゃねーか! 
さっさと原発かマグロ漁船いけや

金はあるから働く必要なんてないんだってさ。かといってボランティアもあほらしいんだと。 
簡単に時間潰せて、運がよければ儲かるパチが一番楽しいんだと。 
競馬は考えるのがめんどくさいそうだ。あと競馬場までの移動。

これ、被災地の閉塞感っていうより、 
義援金や補助金のおかげで、 
仕事しなくてもパチンコしてられる人が増えた、 
ということなんだな。

いわきから宮城、岩手まで、 
パチンコ規制しないとだめだよ。 
機械相手にギャンブル、 
金が無駄になる、話さない、 
ギャンブル中毒、なにもいいことない。 
自治体で積極的に無料の 
公民館、しゃべったり、 
人相手のトランプでも、ボードゲームでも、 
単なるゲーム機でもおいて、人と人の関わり 
作らないと。被災者にパチンコとか、嘆かわしい。 
何にもよいことない。

仕事で行ったことあるけどコレ本当 
あいつら補助金でパチしかしていない 
福島の復興なんて諦めてさっさと核廃棄場所にするべき

義援金や再建支援といった全国(世界)からの善意や血税がパチンコに消えるのか

このことは地元だからプログにずいぶん書いてきた、これは嘘ではない事実なのだから否定しようがない。
この辺に小高の人が大挙避難してきて仮設に住んだとき何もすることがなくパチンコ通いになった。その他風俗とかギャンブルとか遠くに遊ぶ人もいた、補償金がたんまり入ったからである。
何もパチンコに通ったから回りに被害を与えているわけではないからいいじゃないかというけど実際はいわき市でも二万人も移住して家を建てたりしたら病院でも福祉関係でもそんな大勢の人間のサービスはできなくなっていたのである。
それで消費してくれるからいいじゃないかというのもあったがやはり地元の人は反発して実際に落書きとかで原発避難者を責めた。
これも当然だったのである。もちろん原発避難者側にも言い分はある。
でもこういうことはマスコミでは報道しなかった、テレビでは特に報道しなかった。
これはしかし隠しておけない地元では大きな問題だったし外部に対しても大きな問題だった。
そしてボランティアが来てはいろいろと仮設で援助してきたのである。
そして結果的には自分たちはかわいそうなんだから援助されるのが当然だという意識になったのである。マスコミも常にかわいそうな人たちとして外部に報道していたからである確かにかわいそうなことはあったがではパチンコやギャンブルで遊んでいていいということはないのである。

自分も迷惑をこうむった一人である。それは原発の避難者が全部悪いというのではない、親戚の人が介護の時来ていたがパチンコ屋で働いていた、借金してどうにもならなくなりパチンコ屋で働いていたのである。それなりに金になるからだろう
でも自分の家に来ては疲れた顔して何もしないのである。
一週間に一回くらい二三分いて帰るだけである。それも腹ただしかった。
もちろん何もしないというわけではない、なぜでもパチンコ屋にそんなに働いて自分が介護しているのに皿一つも洗ってくれないのか?それが腹ただしかった
ただその後も皿一つ洗ってくれる人が自分の所にはいなかったのである。
今はそのために10万近くも払っているとなる、それだけ他人は親戚でも何かしてもらうことは大変なことなのである。
だからこれもそんなに長くはつづけられないだろう
結局結婚していない人はそれでけ金ではらうと高くつくから損だとなる,でも一人だと何かと困るから金でもたのまざるをえないのである
介護では助けるときは意外と家事が男だとわからないから家事を家に来て手伝ってもらうと助かるのである。ディサービスなど母は嫌っていたし役にたたない、でも介護関係者にしては介護保険から金が出るからディサービスに誘うのである。
そしてそれも結構金がかかるし介護には役に立っていないから税金の無駄だともなる
介護というのは何かそうした無駄が多いのである。
金になっているからと有効に働いているとは限らないのである。

いづれにしろ原発避難者でも津波避難者でも同じような所があった、ただ原発避難者は多額の補償金をもらったから悪質だったとなる
その金もパチンコとかギャンブルに費やされたのかとなる
だからボランティアが来て働いていたけどそういう姿を見て怒っていたのもわかる
何か馬鹿らしくなるのである。
あまりにも過剰な援助であり精神的にもかわいそうな人たちとして認められたからであるそれで避難者は何でも許されると勘違いした人もいるだろう。
俺たちはかわいそうなんだよ、それにケチつける奴はなんなのだ、人間の情もないやつだとなったのである。
人間は援助は必要でもそれに度合いがあったのかもしれない、何でも援助されればいいとなりそれにケチつけるやつは集団で糾弾してくる、マスコミも味方にして糾弾してくるから怖くなるからしないとなる、それが鬱積するから全国的に避難者に対する子供のいじめになったりするのである。

もう一つの大きな問題は老人が避難した人たち多かったことである。老人は何か復興といってもしにくい、老人は楽したいのである。とてもきつい労働などできないのである。
それは自分もわかるから同情した。
でも結果的には復興すべき若い人が流出して老人だけが残されたとなる
そしてますます復興しにくくなったのである。
自分も介護十年もしたらもう介護なとしたくない、後はのんびりしたいとなった。
避難者でもそうして遊んでいたら働く気力もなくなるし老人が多いとなると余計にそうなのである、石巻でもかなりの補償金もらったのである。
保険で一億円もらったとかも聞いた、原発避難者ともにていると思った。
原発避難者と津波の被害者は違っていると思ったがにた所があったのである。

まあ、あれだけの被害があると原発避難者でも津波被害者でも復興というのが重荷になりすぎたのである。津波の跡は壊滅状態になったからである。
そして復興すべき若い人が流出したとき老人だけ残されたときとても復興といってもできない、するとヤケになりパチンコでもしている他ないという頽廃状態になった
ただこれは実は老人の問題として退職してやることがないとか老人が暇になったということもある、それが意外と大きな問題なのである。
老後も長いから相当な時間をもてあましている人が多いのである。
何か高等な趣味をもつことは若い内からしていないとできない
普通に働いている人は特にブルカラーの肉体労働者はそんな趣味をもてないのである。
だから一日暇をもてあまている人が多い
定番はカラオケでありあとはパークゴルフである。だから南相馬市に大きなパークゴルフ場ができたことはいいことである
とにかくこの辺では老人の比率が10パーセントとか増えたからである。

結局老人になると生産活動もしない人が多いし社会にとって負の存在になる。年金だって働いていたからもらえるといってもその金は今働いている若い人が税金からひかれているということもある、その若い人が貧乏なのだからそんな負担をしたくないというのもわかるのである。
そして津波の被害地でもジジババしかいない所に金をつぎこんでもしかたないと官僚が本音を言ったこともこういう状況を見ていたら全部は否定できないのである。
結局のんびりするとか自由になるとかいうときそれは自分だけではできない、誰かがそうさせてくれるからそうできる
自分自体が家族がいたからこそのんびりしていたし自由だったのである。
その家族はほとんど文句も言わなかったからできたことであり他ではできないことだと思う。

でも自分の場合は遊んでいたのとは違う、勉強もしていたし旅でも実際は労働だったということを今では思う、今になると何かそういう旅するエネルギーが消失しているからである。旅することは相当なエネルギーが必要だった、特に自転車旅行となるとそうである。その旅したことにより視野が広がり詩とかも書ける、歴史などの知見も得ることになったのである。
本当の旅は勉強であり注意力を注がないとあとでふりえることができない、記憶に残らないのである。あそこにいい女性がいるなとか気がそがれただけで旅は記憶に残らなくなる回りの景色などもその女性のために記憶に残らなくなるのである。
だから旅には相当な注意力が必要なのである。芭蕉のような旅をしないと旅にはならないのである。だから実際にこういう旅をできる人はまれだとなる
旅人となることは現代では一番むずかしいかもしれないのである。

ともかく現代は寿命が長いから退職してからも長いからそのことを考えねばならなくなった。それは金の面でもそうだし精神的にもその残りの時間をどう過ごすかが意外と大きな問題となっているのである。それは第三の人生となっているからだ
でも結局老人は人生のしめくくりであり総決算である。
それが否が応でもそうなる、自分の場合は旅でも何でもしてきたことなど学んだことなどを作品化することなのである。そのためにあとの老後の時間があるとなる



タグ:パチンコ
posted by 老鶯 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

去年(こぞ)の落葉 (短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


去年(こぞ)の落葉


(短歌も写生だったー俳句文芸は終わりかもしれない)


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冬たんぽぽ今日もここにや住みつきぬ


朝風に頬の冷たき空澄みて枯木の枝の張りにけるかな

去年(こぞ)散る木の葉残りぬ我が庭に動かぬ石を部屋に見つ暮る

去年散りし落葉や我が庭忍び足猫の歩みぬ訪ぬ人もなし

新年に我が挿す菊の花にあれ部屋にさしいる朝日に映えぬ


冬たんぽぽが咲いていた、イヌフグリも咲いた、やはり春なのだろう。
昨日は寒かったけど今日はあたたかである。
人間は住んでいる場所がいいというときそこに家族がいたり友達がいたり何か人でも土地でも住んで気持ちいいというときだろう。
まず家族がいるときはそうである。でも家族がいなくなるとどうなるのか?
それをここ十年家族はいても介護で苦しかったし助ける人もいないので故郷でも住みやすいとは自分ではならなかった。
自分はともかく三〇年間は楽だったから特にそうなった。
でも家族がみんな死んで介護もないので余裕が生れた、そのタンポポがなにかよりあたたかく感じた、人間はそこに住みたいというとき人とか自然環境もありまた他にもある
とても東京がいいというけどあういう所には住みたくない、でも経済的問題があり田舎でも貧乏だと嫌だともなるからむずかしいのである。
大阪から来た人は除染で三年いて田舎は人がいいから長くいたなとか言っていたが住んでみればまた違っている、田舎の姑息さに嫌気がさすだろう。
その人は住んでいるとは言えないからである。

去年散った落葉が庭に残っている、それを気づいたのは昨日だった、でもその落葉は長い間去年からそこにあったのだ、でも気づいていなかったのである。
なんか人間は近くにあっても気づかないことがつくづく多いのである
古い碑なども注意しないと気づかないのである。過去は何かひっそりと埋もれてしまうのである。まず生きている間は人間は騒々しいが一旦死ぬと何も語らないのである。
そしてそんな人がいたのとかみんななってしまうことの不思議である。
人間は生きているとき死んでからの差が大きすぎるのである。
骨になり灰となり無となってしまうことがあまりの変化なのである。

ともかく短歌でも写生である。ありのままを写生することである。この歌はそうだった。写生はいうとき何かそこに感情的なものはあまり付け加えないことである。
この歌にしても写生そのものだからである。
俳句はもう現代では短くて表現しきれない、だから俳句文芸の世界は終わりになるかもれない、ただそれでも芭蕉のような天才が生れればまた別なのかもしれない
でも俳句は表現的に無理があり限界が生れた、でも季語は日本の文化でありこれは変わることなく活きつづけるのである。
俳句とか短歌の世界は結社などあるのもおかしいのである。
俳句は誰でも作りやすいからそれで結社で師匠とかなっていてそれで芸術家だとしている俳句の世界はほとんどディレタントしかいないのである。
もう芸術として成り立っていない、それは自分がそう思うだけだともなるが今では新進の俳句作家でいい人がいるかとなるといないだろう。
ただ自分は短歌は何かまだ表現できるものがあると思った。俳句より短歌の量が多いし表現ができていると自分は思っている

自分の性格は何か異常である、人と接すると異常に疲れるのである。そして三〇年間隠者のような生活ができたのはたまたまそういうことが許される家族環境にあったからである自分には学校も適応できなかったし会社員として勤めることもできない
だから石のように沈黙して人と接しない生活だったのである。
考えてみるとこれも不思議なのだが禅宗の座禅をしていたと同じである。
計らずしてそうなっていたという不思議である、それは精神的に見れば効能があった。
マイナス面も大きかったがプラス面も大きいものがあった。
沈黙するということは自然が大きな沈黙にあるように自然と同一化するには不可欠なことだった。沈黙によって自然を知る、自然と同化するからである。
山でも石でも樹でも沈黙しているからである。
すると沈黙することによって自然のように人間も大きくなるのである。
現代にはこの沈黙が一番欠けているのである
ただこういう生活をするにはアウトサイダーになってしまう。
会社員とかになったらできないのである。自分がそうなったのは社会に適合できないからそうなったのである。






タグ:写生俳句

2017年01月21日

トランプ大統領の就任式の演説の失望 (世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


トランプ大統領の就任式の演説の失望

(世界の盟主としてのアメリカがなかったため)


中国には登録商標を勝手に登録されてトランプ企業の名前やロゴが使えないから恨みがある。 娘のイバンカも痛い目にあい、北京に出した自身のブランドの宝石店も景気低迷と偽物続出であえなく潰れた。 


トランプ大統領は経済ナショナリストというときビジネスの経験で国を運営しようとしている、この情報はビジネスで私的な恨みを中国に日本にもいだいている。
自分の会社をもうけさせてくれなかったとして私怨がある。
もうそんなことで国を運営されたらアメリカ自体もまた世界でも困ったことになるだろう
娘のイバンカも中国で会社運営がうまくいかずつぶれたとかなると家族ぐるみで中国に恨みがあるのかとなる、アメリカの富が外国に奪われているというとき自分の会社がもうけられないのは中国や日本のせいだとなりそれが国家に適用されたらどうなるのか?
トランプファミリーが国家になってしまったらどうなるのか?

トランプにはそもそも国家観とか何もない、国家はビジネスのためにあるというだけになる。ただもうければいいんだというビジネスのために国家があるんだとなったらどうなるのか?
国家はそもそも何のためにあるのか?ただもうけるためにあるのか?
阿部首相でも企業のセールスマンとして世界を渡り歩いているのかともなる。
企業社会になれば原発事故の東電でもわかったように政治家はそうした大企業に天下りして甘い汁を吸えばいいとなってしまう。
国家は私益のためにあり企業は国家を利用して私益を追求する、ただどっちにしろ国家でも企業でも私的利益を追求するものとして共同するというだけになる

アメリカでもそれだけでは世界に通用しないから民主主義を普及するためだとか人権を主張していた。それは表向きのもので裏ではアメリカが中国などに対して圧力をかけるものとしてそうしていた。
ただ世界に通用するために普遍的なものが理念が必要になる、それで共産主義がマルクス主義が共通の理念として労働者よ団結せよとなってソビエト連邦とか中国共産党国家が生れた。
フランスだと博愛、平等、自由がありそれもアメリカでも理念として採用された。
しかしソビエト連邦も崩壊したし中国共産党も一党独裁となり貧富の格差社会になった。フランス革命の理念もEUも移民で混乱してイギリスが離脱するとか失敗した。
グローバル経済も世界的試みとしてあったがそれも軋轢が増して貧富の差が世界的に拡大して反発がありナショナリズムに回帰してゆく流れが世界的に起きている。

そもそも自国が第一だというのは当然なのである。どんな国家でも自国を犠牲にして他国に尽くしたりしない、国家というとき経済的なものだけではなく国家を形成すること自体歴史があり犠牲があったのである。
アメリカでも南北戦争がありそこでアメリカが統一されて初代大統領がリンカーンになっているのだ。日本でも古代には邪馬台国があり百余国が争っていたとある。
国を統一することには内戦があり必ず犠牲がある。
その犠牲がある故に国家は形成されているということをその歴史があるということが国家なのである。

最近西部劇をまた見ているが興味深い、ある州が州になっていない、そこは治安が悪く保安官が数十名しかいないので悪人をつかえまて裁判することもできない、それで判事が苦労している、その判事はこの州は準州であり州に昇格させたいために必死になっていると保安官に訴える、つまりstateとなっていない、州が一つの国家とするとき国家がないのだから準州でありそこは法も通用しない無法地帯ともなっていた。
地図をみると明らかなのである。それは西部開拓の地域になっているからだ。
準州だと大統領の選挙権がもてなかったのである。そういう時代もアメリカにはあったのである。
そういう過程が歴史があってアメリカも一つになっていった、アメリカも広いから一つの国家としてまとめること自体苦労してきた歴史がある。
準州というのがこれだけあったということはそれだけ無法地帯が広がっていたのである。だから法の下に治めること自体がアメリカでは苦労していたのである。
そういう無法地帯に西部開拓時代に移民が入ってきていたのである。

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アメリカの準州だった所

大国になると国をまとめること自体が最大の難関となる,それは中国でもロシアでも前のソビエト連邦が失敗したように同じなのである。
中国が分断されるということはしきりに言われるがアメリカも分断される危機になっている
アメリカは西部開拓以来、西へ西へと驀進してきたのである。そして太平洋に出てアジアにでて日本と出会い戦争になった。アメリカは何かそうして外に出る力が強い国だった。フロンティア精神が旺盛でありそれが世界もその対象となったのである。
でもまた内向きになるというのもナショナリズムに回帰するのもわかる。
別にアメリカなどは一国で資源もあるし石油もシェールガスとかあるし困らないのである一国で成り立つ経済なのである。かえってTPPがアメリカに不利だと気づいたのである。
アメリカは世界から孤立しても鎖国しても困ることはないのである。
日本は資源がないから困るがアメリカは鎖国しても困らないのである。
何か売るにしても売るものは兵器だとかなるとそんなことで世界経済で利するとなると世界でも迷惑だとなってしまう。

ともかくグローバル経済は何か根本的に人間的に見て無理だったのである。
それは各国の文化すら破壊する、日本から車を買うのだからアメリカの農産物を牛肉でもオレンジでも買いとかなる、牛肉などそんなに日本人は食べる習慣もなかったし食べなくても良かったのである。食も文化であり日本の文化は縄文時代から海産物と米で作られてきたからその文化をグローバル経済で破壊されてきた。
つまりグローバル経済は制限されたものとしてそれぞれの国の歴史とか文化を破壊させない程度にすればいいのであり文化を破壊してまでする必要はないのである。
そういうことに世界で気づいたということがありナショナリズムに回帰するのである。

ただトランプにはそうした国の歴史とか文化とかを語るものはなにももっていない、思想がない、あるのはビジネスとして利用する利用される国家観しかない、ただ国家としての理想も語れない時代にもなっているのかもしれない、メキシコの移民に浸食されてアメリカの歴史とアイディンティティが壊されてゆく危機を白人の中産階級が危機感をもった。現実にトランプ大統領の就任式にはその白人しかいなかったのである。
そこはマスコミで報道していたから良く見ていたと思う。

いづれにしろアメリカは国内のことで精一杯になり外に世界のことにかかわれなくなっているのが本音だろう。
アメリカ自体の国家観とか国造りをどうするのか問われているからである。
内戦が起きるとかカリフォルニアが独立するとかもそうである。
自国が分断の危機にさらされていたら外国のことにかかわる余裕がなくなっているのだ。だから高邁な理想など語れない、ただアメリカが得するビジネスとしての国家観しかトランプにはないとなる

でもアメリカ大統領となるとローマ帝国の皇帝を選ぶような感覚になる。日本もその属州のようなものになっている。世界でもアメリカがローマ帝国としてありその州のようになっている感覚がある、だからそういう大帝国の皇帝となるともっと理想を語ってほしいともなるがその余裕もないからアメリカはもう世界の盟主でもなくなっているのかもしれない、まずアメリカ自体が極端な格差社会でありたからこそカリフォルニアが豊かだから独立するとまでなる。カリフォルニアも一国となっても資源的にも食料でも自給できるから困らないからそうなる。かえって準州並の州とは一緒になりたくないとまでなっている。その格差を解消しないことにはアメリカ自体が統一されず壊れてゆく
それは南北戦争時代と同じだとなる。
黒人奴隷が移民であり移民排斥は黒人奴隷解放を拒否する南部だとなり北部と戦争になったとのとにている。

ともかくアメリカにはローマ帝国のような世界の盟主としての期待があった。それも国内問題の方が優先されるとかローマ帝国が没落してゆくようなものと似た状態が起きているのかもしれない,だからトランプ大統領の就任式でも演説でも世界が失望したというのはわかる。ビジネスのことしかないというのが何か淋しいとなる。
ただオバマ大統領はただ理想を語っただけで何もできなかった、それも批判されているから何か実行力があることは期待されている、でも何かアメリカの大統領はアメリカだけの大統領ではないと見ていたから物足りないものを感じたのである。
評価できるのはマスコミからあれだけ無視されても大統領になったことが功績だったともなる。マスコミの没落させた大統領として自分も評価しているのである。
ヒラリーが大統領になることもまたアメリカ国民は嫌がっていたということである。
それは一部の金持ちのための政治になるから嫌がっていたのである。
ただトランプにしても大金持ちなのだからこれからはどうなるかわからない、結局また失望したとなるかもしれない、なぜならトランプが選んだ指導者はみんな大金持ちだからである。そうなると格差社会を批判していたのにそうした没落した中産階級の白人には嫌がられるだろう。それでトランプ大統領はこれから波瀾であり長持ちしないというのはそうなのだろう。

今年は酉年であり酉は夜明けを告げる酉である、だから変化が起きる、新しいことが起きる

酉年に夜明け告げる鶏の鳴く古きは壊れ未来を望む

それもあるが温故知新ということもある。やはり必ず歴史は元にもどりまた前進する。
維新とは復古でありもともとあったものが新しく復古する維新するのである。

また酉という字自体、象形文字で首の長い酒器を表している。ついでに言えば酒という文字は、「酉」の中に入っている液体だから酒である。この2つのことから、古代中国において、「酉」は収穫した実から酒を作り、利を得ることという解釈が生まれたのである。

何か酉年は商売と関係している、酉の市というのもそうである。
商売というときトランプ大統領はビジネスしかないからあっているのかとなる
これもあくまでもそれぞれの解釈なのである。
自分にとっては今年はいい年になる感覚がある、十年間介護とかで苦労したからである。自分の収穫は自分の作品をまとめることである。
それはインターネット上で本作りなど整理することである。
そういう時間が生れたことが自分にとってはいいことになる



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マスコミの報道の独占は終わる (トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


マスコミの報道の独占は終わる

(トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)


 小池を批判する意見もある、小池を評価する意見もある、と事実を報道すればいいだけだ。そして読者が正確に判断できる材料を報道してくれればいい。

 マスゴミはクズだから、世の中のことは全部オレ様が判断してやる、大衆はオレ様に従え、である。だから嫌われる。

マスコミとは何なのか?マスコミは世の中に起きたことを単に報道するのではない、一つの主張をもった団体なのである。だからその主張に従ってコメントする人も司会者も選んでいる、朝日テレビだったらどうしても左寄りになる。
それに適合した人が選ばれる、赤旗のようになっていないとしてもそう誘導されているのである。単に事実を報道しているのではないのである。

世の中必ず人物でも評価する人としない人がいる、それが一方的になると危険なのである石原慎太郎を批判した人はいても目立たないからマスコミで取り上げないから石原慎太郎が言いたい放題になっていた。
マスコミは明らかに第三の権力というように強大な権力集団になっているのだ。
それは報道するという権力をもっていたからである。
報道する権利を民衆はもち得なかったために強大な権力をもったのである。
報道する権利は大きなものでありまたこれまでは金がかかりすぎるから誰も報道もできなかったのである。だからマスコミはそうしたし報道装置をもっているから政党と同じく権力集団だったのである。
政党よりも大きな権力をもっていたのである。
なぜならマスコミに政治家でも出れば顔売れて選挙に有利になるからである。
もしテレビに呼ばれないとかなると選挙に影響していたからである。

新聞でもそれを紙に刷って一軒一軒配るとういことは膨大な金と労力がかかるのである。近くで新聞配達を請け負う家がもうけていて裕福になったとかあり町には新聞配達で生活が成り立つ人がいるし新聞を配達することが仕事になる人もいる。
だからそうした雇用にもつながっているし福島県だけでも新聞社は大きな会社だとなる
それは報道するにもそれだけの金と労力がかかる、そして新聞は紙だとするときその紙を膨大に消費しているのである。新聞紙で自分の家は店をしているとき袋を作るのが母の日課だったのである。
トイレットペーパーがないときはその代わりにもなっていたのである。
新聞紙はまた紙としていろいろ利用されていた、風呂のたきつけなどにも自分が風呂の番だったから使っていた。
それでも新聞は今や紙の膨大な浪費になっている、自然環境の破壊の一因にもなっているとなる

それはインターネットなどが生れて電子化したときそうなった。電子化すると金はかからない、全国に即座にニュースでもなんでも個人的なことでも伝えられる
それでトランプがツイッターでマスメデア、マスコミを通じないで主張を直接伝えるようになったのである。今まではマスコミを通じないと伝えられなかったのである。
でもCNNの取材を受けないというときなぜそうしたかというとCNNという報道機関はトランプに反対する強固な主張をもっていたからである。
そしたら何も事実だけを報道するのとは違う、CNNの見解が入ってくるから拒否したのである。
今回はマスコミはトランプにほとんど反対だから泡沫候補としてしか取り上げなかったのである。取り上げたときネガティブなものとしてキャンペーンとして取り上げたのである性的なものとか下品な奴だとかそんなことしか伝えていない、ではなぜトランプが当選したのかとなる、大統領になったのかとなる

マスコミは自分たちの意向は伝えてもアメリカ国民の意向は伝えていないのである。
白人の中産階級が没落して不満が爆発寸前にあることなど伝えなかったのである。
なにかトランプはとんでもない奴だとしか伝えない、だからなぜトランプが大統領になったのか外国から見ていても不可解だとなる
それはそこにマスコミの主張が入っていたからである。
そして日本でもアメリカのマスコミの意向をそのまま伝えたからそうなったのである。
アメリカ国民の実情と事実を伝えてはいなかったのである。
あまりにも一方的なマスコミの主張のみが伝えられたのである。
そのマスコミはヒラリー派のグローバル経済の勝者たちによって作られていた。
だからそれを中産階級の不満な白人たちがそのマスコミの報道にはのらなかった。
マスコミは常に一方的になりやすいのである。時の権力者側につきすいのである。
サンダース候補が民主党で人気になったときそれは白人の中産階級労働者の不満を吸い上げていたからである。
グローバル経済はアメリカの極一部の人たち、ウオール街の人にしか富をもたらさなかった。アメリカの格差は極端である、そのことにトランプが勝った要因があった。

マスコミはただ事実を報道するのではない、会社の方針があり主張があり報道している。その判断を国民にあおぐのではなくマスコミが自体が決めてやるとなる
だから必ず偏向がある、ナショナリズムの回帰がありその賛否はあるにしろ反グローバル経済が世界的に起きているのも事実である。
日本のマスコミはグローバル経済を主張している、だからトランプには批判的になる。
アメリカはもっと世界のことを考えるべきだという、アメリカだけではやっていけない時代だとか言う。でもグローバル経済でアメリカがみんな豊かになってわけではないからこそ経済のナショナリズムが起きているのである。
数パーセントの人たちるアメリカの富がもたらされたが大勢の人にはもたらされなかったからこそ不満がありトランプを支持したのである。

いづれにしろマスコミは自らの主張をするために報道の権力を有していたのである。
取捨選択もマスコミでするしそして自分たちの主張をするためにテレビでも新聞でもあったのである。それは報道するための権力をもっていたからである。
それがインターネットになったとき事実を伝えるにしても新聞社ではなくテレビでもなくインターネットから伝えたからマスコミでは怒りにもなったとなる
マスコミが批判されるとき中立ではない事実を報道するだけではないから批判される
国民が望んでいるのはメデアとしての機能であり事実を知るためでありマスコミという会社の主張を聞くためでも見るためでもないのである。

トランプ大統領に反対するデモがあったがその事実を報道すればいいのでありこのデモを見るように反対する勢力が大きいとかコメントするべきではないのである。
ただすでにそのデモの報道をするにしても偏りが必ずある、そこにすでにマスコミの主張が入ってきているのである。取材するにしても必ず偏りがある。
すると公平に国民は報道されたものから判断できないのである。

ともかくインターネットでも十万とかyoutubeで見られているとなるとマスコミと拮抗してくるものもある、だからマスコミでは驚異だとなる、するとどうしてもインターネットには否定的な報道になるのである。競争相手になってしまうからである。
アメリカの大統領就任式にバイクのライダーが二〇万人トランプを守るために来るというのをyoutubeで報道した、その後でテレビが報道していたのである。
youtubeの方が速報性があったのだから速報性ではインターネットが早いとまでなっている
人間はみんな記者となる時代である。マスコミの報道の独占は終わったのである。






タグ:マスコミ

2017年01月20日

今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)



今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)


この駅に電車を待てる時のありしばし話しつ寒き日なりし

冬の雨しとしとふりて石ぬらす一人しあわれこもりいるかな


今日は特に寒い、人身事故があって電車が遅れているという電光掲示板に流れていた。
セブンイレブンから六号線を横切り踏み切りを出た鹿島の十字路で交通事故があった。
車はそれほど損傷がないから大きな事故ではなかったのか?

今日の駅にいたのは中学生だった、また一学年で3クラスくらいあるという、そんなにまだいたのか?ただ鹿島区では中学校は一つであり小高の人もまじっているからかもしれない。団塊の世代の時は一学年で八クラスだった。
何かそれもあまりにも遠い話になった。その中学生は塾に通っているという。
インターネットで英語の単語など勉強すると便利だと言ったら自分もしているという
この前はタブレットを見ていた中学生がいた、その女性は受験生だった。
相農で環境科とかで花の栽培を学ぶという、そういう目的をもって学ぶのはいい。

今日はこれだけのことだけどプログは毎日書くのでありこうして日々のことを伝える
それがプログ的だとなる、その日その日の感想を書くのである。
それはその日だけのことでありあとは書けない、そしてそれが記録となり記憶となってゆく、そういうことは今まではできなかった。
だからプログは何であれ一日一回はその日のことを書く、それが勤めである。

それが読んで面白くないとしても自分の日記だからかまわないとなる。
その日にしか書けないことを書いているのである。
一日一回は駅に行くのが自分の勤めともなっている

ともかく駅は待っていることが人間的なのである。待つ時間が人間的時間を作り出している。
バスだとなにか待っていても電車の駅のようにはならないのである。
旅でもこの待つ時間が記憶として残ったりする
急ぐ旅は記憶に残りにくいのである。

タグ:駅で待つ人

2017年01月19日

原発反対するにはどうするのか? (補償金を要求すると逆効果になる)


原発反対するにはどうするのか?


(補償金を要求すると逆効果になる)


この辺ではこれだけ原発の被害があったから原発に反対になる。
ところがなぜ被害にあった人たちがいてそれを訴えても何か効果がないのはなぜなのか?あいつらは補償金が欲しいだけだ、原発乞食だとか言われる
内部でも補償金でももめて争った経過がある。
こういうことしていると外部でもあいつらは補償金でもめている、結局金目なんだよなとなる、外からもそう見られる

もちろんそれだけの被害があったのだから補償金をもらってもいいしもっともらいとう言う人もいる。でもそれにも限度がある。限りなく金がかかって廃炉には20兆円もかかるとか途方もなくなっている、それで国民の不満がある、税金からその金が出るからである。原発の金は途方もない、その金を福祉とかに利用したら介護なとでもかなり改善されるという。その金は一兆円にもならないのである。
ただ原発は実際はこれだけ金がかかるものだと知らしめたことは効果があった。

でも本当に原発に反対するのなら被害を受けた地元でも何か国民に訴える方法を考えねばならない

補償金が欲しい、もっと欲しい

そればかり言っていると効果がないし逆効果になる、どれだけ金が必要なんだとなってしまう。その金でギャンブルで遊んでいるだけじゃないかともなりますます批判が強まり子供のいじめになったりする。

一方で俺たちは補償金などいらない、もらったとしてもこれ以上は要求しない、俺たちは俺たちでなんとか生活する、必死でする、何かそうしたら国民の見方も相当に変わるだろう
そうなるともう地元の人も必死になる姿がありありと見える、原発被害者はあんなに苦労している、極端になると生きるか死ぬかで苦労していると見えたら相当な効果になる
原発被害者はあれほどまでして訴えているんだとなる
補償金をもらっている限りそうした必死さはない、もっと金よこせと言うだけならそういう必死さは伝わってことない、かえって国民からの反発が多くなる

とにかく補償金をもっとくれというとき国民から反発が多くなる
そのことは原発を作ったときから言われてきた。お前たちは金欲しくて原発を建てさせたその時から多額の補償金をもらって潤っていた。
そして事故後もまた補償金をもらえる、そうなるとこういう人たちが原発反対と言っても何か訴える力が弱いのである。
ただ「俺たちは被害者だ、弱者だ」だから援助されるべきだ、そして内部でも補償金でももめて争いがあり多くもらった人たちが少ししかもらわない人を非難する
それも考えてみれば何かただ少ししかもらわない人たちも結局金が欲しいだけなのだともなる、自分もそうだったから反省されるべきかもしれない、ただ額は多いとは言えないものだった、避難はしていないからそうなった。

つまり本当は原発被害者が一番原発に反対する立場にあった。それがかえってできないようになったのは補償金問題だったのである。
もっともらうべきだという人も外部にもいた、もちろん内部では補償金はもらえるだけもらうとなっていた。
極端にはなるが要するに被害というときシリア難民のようになれば世界にも訴えられる
子供が波に打ち上げられた映像とかみたとき世界が同情したからである。
原発の被害も故郷に住めなくなるということで実際は大きかったのだがそれがそれほど訴えないものだった。
なぜならいわき市に2万人が移り住んだとき次々に補償金で家を建てたりいい車を買ったりギャンブルとか飲み屋で遊んでいたりとかあったからだ。
もしシリア難民ともいかなくてもテント暮らしとかになったらどうか?
それを見た人たちは原発事故はひどいない、原発りてどやめるべきだとなっていたかもしれない、でもそんなことはない、なんだかえって贅沢しているんじゃないかと見られたところがあったことはいなめない、避難者にとっては苦しいとしても外からそうみられないところがあったのである。

結局原発に反対するにしても反対する人もただ反対、反対と言っても効果がない、何かそこに真剣さがないし口だけ言っても効果がない、何かそうした問題でも体を張って反対するような覚悟が必要にもなってくる。
それはその人の生活自体まで問われる、見られることになる
ただ補償金だけをもらいたいだけなんだと外部から見られていたら地元で被害があっても訴えない、もともとあいつらは原発でも金が欲しくて建てたんだ、そして事故後もまた金を欲しいだけでなんだとか見られる
だからそのことを書いてきたけど地元でも生活自体が問われたのである。
豊かな生活を求めてきたのが戦後だった、原発もその一つだった。
でもそこに大きな落とし穴が待っていたのである。

ただ原発の被害は故郷に住めなくなるということだけは知らしめたのである。
空気とか土や水とか基本的なものが汚染されるから住めなくなる、空気が汚染されてそれは何十年と減らない消えないのである。
部屋の中の放射能も減っていないのである。空気の中の原発は減らしようがないとかある水とか土が汚染されたら取り除くということがあるが空気はできない、ただ泥に付着したりするとその泥を捨てるということが除染になったのである。
それが原発の深刻な被害だったのである。
事故が起きたら今住んでいる所に住めなくなるということは知らしめたのである。
それが最大の被害だったのである。
タグ:原発反対
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新しい新地駅が復興構想の見本 (発想の転換で新しい街作りー小高や浪江も参考になる)


新しい新地駅が復興構想の見本


(発想の転換で新しい街作りー小高や浪江も参考になる)

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人の和も大事、復興も人でもある


新地駅があれほど変わってしまったのには驚いた。人間は変化が激しいとそれが現実のように思えなくなる。それは津波とか原発事故でこの辺では経験してきた。
津波は本当に現実に思えない災害だった、こんなことがあるのかと夢見ているような気分がずっとつづいているし今もまだその津波の被害の跡に立てばなる

今回新地駅に行って不思議だったのはそこは人間の力で変えてしまって現実のように思えなかった。前の駅とは全く違ったものになっていたからである
何か宇宙ステーションなのかデズニーランドの仮想駅なのかそれも現実に思えないように変わったのである。

そういうふうに駅でも人工的な人間の作ったものでも変わると辺りの風景まで変わって見える、蔵王が見えて白鳥が飛び大きく開けて海が見えてかなたに牡鹿半島と金華山が見えた。景観が抜群になったのである。だから新しい観光スポットになると思った。
おそらく鉄道マニアなどがこれから来るかもしれない。

ただ不満だったのは過去の津波のことがその駅に来たら思うものがない、つまりまるっきり変わってしまって過去の痕跡がなくなっていたのである。
その被害は写真とかで見る他なくなっていた。
するとそこにあった津波で死んだ人たちとかも忘れられるとなる
過去と現在を結ぶものがない、全く新しい空間になってしまったのである。

だから駅員は年取ったひとだけどあういう場所には若い人がふさわしいと思った。
その新しい空間でこれから津波の被害があったにしろ若い人はここで生活して行くからである。だから女高生が電車でおりて歩いてゆくのがふさわしいとなる
それは都会的風景なのである。
違っているのはそこは広い自然的空間の中にあったということである。
だから都会の駅より気持ちいい場所になったのである。

ここはだから小高とか浪江で今年は鉄道が通るというとき復興の参考になる。
新地駅があれほど変わったのはやはりあそこはもともと田んぼであり何もない空間だった海の方に村があったがそれもみんななくなった。
するとその広大な空間が生れ自由に新しい街を設計できるようになったのである。
そういうことが女川町とか他で起きているのである。
街ごと泣くなってしまったからそうなる。何もなくなったからこそ新しい街作りができるとなる
その時そこに古いものにこだわるとき新しい街作りはできなくなる
ただ古いものも活かした街作りが歴史を活かした街作りも必要なのである。
ただ古いものにこだわりすぎると新しいものは作りにくいのである。
それで女川町では若い人にその街作りをゆだねたのである。
老人は口だすなとなったのである。

新地駅を中心としたコンパクトシティはやりやすかった。あれだけの広大な空間が生れたからである。そこに温泉も出たということで憩いの場所になるし農園も作る広さがある。そしてこの辺と違って原発の被害がそれほどなかったことも幸いした。
この辺は原発の放射能被害が致命的だったのである。
ただ原発の補償金など新地ではもらっていないからあれだけ広い敷地にも家はぱらぱらしか建っていないのである。鹿島になると三つくらい新しい街ができるほど住宅地が生れたからである。それは原発マネーがあったからである。

とにかく発想の転換が必要なにる。今までは駅は車社会になり利用者がへり駅前通りもさびれシャッター通りになった。でもこれからはまた鉄道も見直されるかもしれない。
そして駅前に大きな駐車場スペースができた。すると車の人も温泉などあれば寄ることになる
公共的施設も文化会館とも作るというからあそこが新しい一つの街になる
すると鉄道でも車でそこに人が集まり人の流れができることになる
あそこは広場の役目も果たす、外部の人と内部の人が交わる場所にもなる
とにかく景観がいいからそれが最大の魅力になると思う。

それで小高などでも駅中心にこうした新しいコンパクトシティを作るのもいいかもしれない、今までの駅前通りという発想では新しいものはできない
この際、今まであったものを無視して新し街作りを目指す、それで新地駅が見本になる。ただあの駅にしても地元の人が新地町の人が役所でしたはいうわけではない、ほとんどはJRが作ったのである。今はこうした会社の力がないと大がかりなものは作れない時代である。
浪江でも今年中に鉄道も通るというとき小高とも結ばれるからそこで復興のはずみとはなる。ただ新地駅のようにはならない、そこが問題なのである。

でも浪江町でも小高でもまず今までのような街はもうありえいことを自覚すべきである。そういう前の街にこだわると新しい街作りができないからである。
ただ伝統的なもの歴史的なものは継続されるべきである。
だからといって前の街のイメージを強く残りいだいていると新しい街作りはできないのである。
だから若い人に新しい街作りを女川町ではまかせたのである。
原発被害地域ではその肝心の主役となるべき若い人が流出したから復興できないのである
鹿島駅で大阪から除染に来た人がこの辺は人がいいから三年もいたなとか大阪弁で話した大阪弁だともめんるんだよなとか言っていた。
都会を嫌う人もいて田舎が見直される時代でもある。
そういう人が移り住むといいとも思った。
その人は旅の人ではないからこの辺の人とか事情を知った人だから違っている
三年も住んでいたらやはりかなり土地のことに詳しくなる。
こういうときは移り安いということもあるから移り住む人がいるかもしれない。
ただ今のような状態ではとても住みたくないとなるだろう。


飯館村の場合は草野を中心にコンパクトビリッジになるのか?
若者を住まわせるための新しい住宅を作っている。
ただソーラーパネルがそこに大きくしめていたり前のような村の景観が多少壊されているでも飯館村でもやはり新しい村作りをする意外にない。
それがどういうものになるのか?それは町や村でもみんな個性があり違っているから個性的な村作りになる。飯館村だったらどうしても山村だから山を活かす村作りがふさわしいとなる。でも放射能被害で山菜がとることができないなど苦しいのである。
牛を飼うにしても土地の牧草を利用できないとか前のようにはいかないのである。
ともかく発想の転換が復興には必要なことは確かである。
でもそれは一番むずかいしことかもしれない、今あるものから人間は発想しているからである。

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)

タグ:震災復興
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2017年01月18日

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


新装の新地駅短歌十首


(一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


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New station ,SHINCH


all new station

SHINCHI on the Jyoban line

Mt.ZAO in the distance

the snowy severest one

flight of swans in refreshed place

turn around

Kinkasan on the Ocean

in the distance

Shinch station in the future

clear sky in winter


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蔵王
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駅前の開発地 クリック拡大

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新しき街の息吹や新地駅年の明けしも海広しかな

新地駅新装なりて海広く新しき年や金華山も見ゆ

新地駅雪の蔵王の迫り見ゆ白鳥も飛び年も明けにき

新地駅広々として清しかな冬の空澄み電車来たりぬ

新しき新地駅にそおりたちて雪の蔵王の厳しく迫る

新地駅おりたち帰る女高生都会めきたる新装なりぬ

新しき新地駅にそ二本の樹の植えにけるかな冬の日暮れぬ

新地駅電車の待つやうれしかな海広く見え復興成りぬ

新地駅タクシー乗り場に障害者乗る場もうけぬその配慮かな

新地駅昔を想うものもなし悲しく津波被害埋もれぬ


新地駅に今日行って驚いた。全く変わってしまい昔の面影は全く消えて別な町になっていた。雪の蔵王が見えて牡鹿半島も金華山もまじかく見えた、あんなに近くにはっきり見えるのも新鮮である。それは海が広く見えるようになったからである。
そして土盛りして高い所に駅を作ったからである。
だから駅をわたる通路の高架でなくても下のホームからも見える
駅からの景観が抜群になったのである。

そしてもともと新地駅は回りに家がないし海側の港があったところは全部津波で家がなくなった。それで広い土地が自由に利用されるようになり改造された新しい街作りをするようになった。
本当にその土地が広いのである。そこにコンパクトシティのように施設ができる
住宅もできる、温泉も出たということで温泉施設もできる
文化会館もできるとか駅を中心に新しい街が形成されるのである。

何か自分がおりたときそこが全く異次元の別な世界のように見えた驚きである。
宇宙ステーションではないが何かそんな感じの不思議さがあった。
テーマパークというかデズニーランドというか仮想の世界に来たのかとも思った。
こんなふうに変わるものかという驚きである。そこは人工的空間と自然空間がマッチしていたのである。
都会だとこんなに見晴らしがいい場所はないからである。

ともかく雪の蔵王もまじかに見えたし海も広々と見えて金華山も見えたし牡鹿半島も見えた。その景観が素晴らしいとなる、だからここは駅だけでも観光スポットになると思った何しろ広々として気持ちいいし景観がいいからだ。
ここは新しく開発するのには適した場所だったのである。駅前には家がなかったからである。
そして国からも金が出たからである。それは原発の被害がなかったから人口も減っていない、つまり津波だげの被害だったらこんなふうに復興できたのである。
原発の被害地は放射能被害などで復興できなくなったのである。
その差が大きすぎたのである。新地駅と小高駅を比べるとその差が歴然としているからである。

まあ、白鳥が飛んできたのも新しい駅にふさわしかった。またあの駅に行ってみるだけで価値がある。まだまだ整備は完了していないがあの駅には価値がある。
あれだけの広い土地にまだ住宅は建っていない、その点鹿島は新しい家が建ってほぼ完了した。やはり新地では原発などの補償金が出ないことがその差なのかもしれない
新地には原発の被害者、小高でも浪江でも他でも家を建てているのである。
土地が安いと建てやすいからである。

いづれにしろこれだけ変わることには驚きである。なにしろこの辺は常に変化して驚きの連続だったのである。それがまだつづいていたのである。
駅前はどこもさびれたがこれから駅前が復活するという人もいる、駅は他からの人を迎える玄関でありここからその市町村の印象が決まるとうときそれは家でも同じだから玄関を大事にしろという人がいる、玄関は人の出入りがあるから福を呼ぶから大事だと言っているのである。
新地駅はだからその玄関だけは特別立派になった。そしてその前に新しい街が生れて復興するとなる

ただあの駅見たらもう津波のことは忘れられる、わからなくなる、天然ガスのLPGのパイプウラインを仙台までつなぐという大阪から来た人がいたがそうした大工事もある。
その人が掘ったら津波で埋もれた靴とかなにか出てきたというときわずかにそんなことで津波のことを思い出す、でも新地駅から津波の被害を想像するものは何もなくなったとなる
それもまた歴史が埋もれるということで問題があるかもしれない。昔を何か残すことも必要だからである。
ともかくまた行きたくなったのが新しい新地駅である。

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった-新地駅の記憶(詩)


「心に青雲」の日本語と英語の解釈について (文化の基に言葉がある)


「心に青雲」の日本語と英語の解釈について

(文化の基に言葉がある)


例えば、として日下氏は日本語の「潔い」は英語にない(ならない)と言う。Nobleでもgracefulでもなく、強いていえばManly という古い言葉が近いのだと渡部昇一氏が教えてくれたそうだ。

「潔い」にしても、これは対象たる社会のありようが、曖昧にも関わらず、どうしても白黒つけないとうまく人間関係、社会関係が立ち行かないと見てとって

言葉は文化の基底である。だからどこの言葉でもそこに歴史があり思想があり文化があるそれで訳せないのである。そこからして外国に対して誤解が生れる
「心の青雲」では反発するもものがあるが日本文化を尊ぶという点では共感している。

「潔い」という言葉が訳せないというときもそうである。勇む、清しが合体していさぎよいとなったらしい。このいさぎよいは英語でもある、良くフェアという言葉が使われる
スポーツでもフェアプレーが重んじられるから外国にもそうした概念がないということではない、ただ深く読むことがその言葉のもっている一語一語の感覚がそもそも違っているのである。


基本的に英語はイエスかノーになる、あるかないかでありあるでもないないでもないというあいまいな表現はない、白、黒をはっきりする、勝負になれば勝つか負けるかでありその過程ばとうであれ結果がすべてだとなる、それは何を意味しているのか?
でも勝負の過程でフェアプレーしないとラクビーなどでもサッカーでも反則になる。
フェアでないものはすでにルールで決められているのである。
日本では何がフェアでないかフェアなのか明確に決められていない
でもそこに日本の文化があり日本は何でもルール化はしないのである。
それは日本人は異民族と交わることがなかったからである。
大陸では絶えず異民族が攻めてくるし交わる歴史だった。
異民族とは容赦のない戦いとなる、勝つか負けるかであり負けたら奴隷にされるのであるそういう歴史が反映して言葉も文化もある

日本は和をもって尊しとすべしというときそういう国柄だった。勝負でも徹底的に完膚無きまで負かすということはしない、この完膚無きまでとは中国から来た諺だから中国も大陸だからそうして相手を完全に打ちのめすという文化になっていたのである。
要するに異民族同士の戦いは熾烈になるのである。
日本の戦争はこうした熾烈さはなかった。それで敵味方塚とかもある、敵でさえ墓を建てた、明治維新でも薩摩長州が東北に攻めてきても死んだ人の墓が福島県にはある
将棋でも駒をとってそれをまた活かす、中国の将棋でも外国のチェスでも敵をとればもう活かすことはできないのである。
日本は一つの民族であり相手を徹底的にうちのめすという文化はないのである。

ただ聖書には選民思想がありそれはユダヤ人のなかに今も生きている、神から選ばれた民は絶対なのである。神が選んだから絶対なのである。それは別にその民族が優秀なのかどうかも関係ないようにも見える、神が選んだということで優秀だとなる
ではなぜそうなのか?その解答は神が選んだからだとなってしまう、そういう思想や宗教は他にないのである。神が絶対的なものだから逆らうことはできない、神があるのかないのかというあいまいさは許されないのである。
要するにあるかないかしかない、あるでもないないでもないとかならないのである。
厳然たるものして神はあるとなる


言葉はその国の自然とか歴史からも作られてきたのである。
それでクエーンズイングリッシュとアメリカ英語が違っているときその区別は日本人にはつかない、でも英語にも古語がありシェークスピアの英語と米語は違っているのである。そこには歴史の相違が同じ英語でも違うのである。
言葉が文化だというときどうしてもコンピューターが生れたのは英語の発想から生れている。基本的にイエス、ノーで世界を見ることにより生れたのである。
だからアジアの文化から生れなかったともなる
技術でもやはり国の文化があり生れている
日本人は英語を明治維新語でも習ってきたがどうしても感じのように自分の国の文化として融合できない、漢字はもう日本の文化として融合した。そしてかえって明治維新語に漢字でもって西欧文明の言葉を概念を訳したのである。
漢字に新しい意味を与えたのである。英語はそうなっていないのである。
そこに文化の障壁の大きさがある。

自分も単語だけでも自分の詩に合わせようとしたができない、つまり一語一語の意味が感覚がどうしても日本語に訳すとあわないからである。
例えば

stateとは

状態、ありさま、様子、興奮状態、威厳、威儀、荘厳、公式、国家、国

(立っている)状態
個人の(立っている)「状態」を表すほか,自治権のある(独立している)「国家」「州」も表す

謳う, 述べる, 宣べる, 陳べる, 鳴らす, 申し述べる, 申述べる, 言い立てる, 言立てる, 仰せられる, 申し上げる, 申上げる, 申しあげる


この言葉でもなぜ状態とか威厳とか国家まで現しているのかとなる
日本語だったら国とか国家くらいしか表現できないからだ。
クニとはあなたのオクニはどこですかというとき地方のクニのことである。
それは小さな村がクニにもなっていたのである。
でもヨーロッパの成り立ちでは国とは全く違った成り立ちがある。
ローマ帝国のようなものがありstateとはこれにあっている。
だからそもそも歴史がわからないと言葉も歴史から生れているから理解できないとなる

stately

屹屹たる;不昧;弘遠だ;堅手;荘厳;巌巌たる;厳かだ;厳峻だ;屹々たる;清高;いかつい;険相だ;厳粛だ;気高さ;厳威;尊厳だ;巌々たる;厳たる;厳い;重し;儼乎たる;厳威だ;儼たる

stately mountain
stately rock

こういう詩的な表現にも応用される、でもそれがなぜ国家と結びつくのか?
国家とはそれだけ重々しいものとして自覚されていたからなのかとなる

ともかく武道などでも文化である。日本人はそもそも勝ち負けより型とか姿勢を重んじる剣道でも空手でも武道はまず型があり姿勢を見る、その後に勝負がある
外国はまず勝負ありきなのである。勝ち負けしかないのである。フェアなルールのもとに勝ち負けしかない、日本の武道はむしろ型とか姿勢とかが先にある、それで格好いいとかなる、必ずしも買ったから格好いいとかならないのである。

「形」が「力」を越える真理があります。古流で言う「カタチはチカラ也。」

これが日本の武道の基底にある。
でも「柔能く剛を制す」という言葉は中国から来た諺だから中国由来であり老子などの思想の影響がある。欧米だとスポーツでも剛しか見えない、だからこの言葉は思想はアジア的だとなる、アジアの思想と欧米のアングロサクソンとかの思想は大きく違っているのである。
誤解しているのは聖書が生れたイスラエルはアジアなのである。その地中海の向こうがヨーロッパなのである。
だから宗教とかはすべてアジア発祥でオリエントあり深いのである。
だからヨーロッパ的キリスト教とアジア的キリスト教が違ったものになる
アジアの方が本当は深くキリストを理解するともなる
そもそも文化とか文明はアジアが発祥なのである。科学はイスラムが発祥のが多い、ヨーロッパは後進国だったのである。





posted by 老鶯 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2017年01月17日

鹿島駅で出会った人 (新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


鹿島駅で出会った人

(新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


当社は、震災後の福島県・宮城県・岩手県など東北太平洋沿岸地域等における今後の天
然ガスの需要増に対して、長期安定的に天然ガスを競争力ある価格で供給していくことを社会的使命と考え、相馬港に大型 LNG 外航船を着桟させ、これを LNG タンクで貯蔵し気化する LNG 受入基地の建設と、同基地で気化したガスを、当社の大動脈ともいえる新潟
仙台ラインに(宮城県岩沼市・岩沼バルブステーションで)接続させる約 40kmの新規パイプライン建設を進めてまいります。

名 称 :相馬 LNG 基地
建設地点 :福島県相馬郡新地町(相馬港 4 号埠頭地区)
敷地面積 :約 20ha
主要設備 :LNG タンク(地上式 23 万kl×1 基、将来増設可能)、LNG 外航船受入バ
ース、LNG 内航船出荷バース(LPG 内航船受入兼用、将来増設可能)、LNG
気化器 2 基(将来増設可能)、気化ガス用熱量調整設備、LNG タンクロ
ーリー出荷設備、ほか
投資金額 :約 600 億円(接続パイプ)


今日鹿島駅で休んでいた人はガスの配管工事をする人だった。新地駅でしている大きな工事である。
鉄管を通すために土を掘ったら靴とか何か津波で埋もれていたものが出てきたという、津波の痕跡が地中に埋もれてしまった。
そして新地駅は前とはまるで変わったものとなってしまった。駅前開発がすすんでいる

このガスの工事は船を受け入れるためとか配管するために仙台とつながる大規模なもののようだ。新地町の変わりようも激しい、こういうものができれば前とは違う経済効果もあるのだろう。
六〇〇億円も投資することはやはり大きなものになるだろう。

新地駅前の開発では温泉が出たということで施設が作られるとかもありあの辺は前より魅力ある場所になるのだろうか?駅が高く立派になった。
津波や原発事故を契機にかえって新しい開発進んだのもある
それだけの投資が国からも行われたようだ、鉄道工事はJRで四〇〇億円投じて五年半かけて完成した。これも大きな金である、六〇〇億円となるとこれより大規模なのである。
仙台までガスの管をつなぐためにそうなったのか?

その人は溶接していて目を悪くして原町の病院に行く所だった。確かに目が赤くなっているのが見えた、白内障とか言っていたがそうでもないらしい

可視光による青光障害は,遮光保護具を用いず,裸眼で溶接アークを見つめた場合に発生する。症状は,視力が低下する,暗点(視野内の部分的に見えない領域)が生じるなどである

これも職業病の一種となる。インターネットはこういう時便利である。
これだけでもすぐに検索してわかったからである。

この辺はとにかくまだ工事がつづいている、除染が主だがその他にもこうした工事がつづいている、いろいろな人が入れ代わり入ってきているのである。
意外とだから鹿島駅でもそういう人たちに会うのである。
それが何かこの辺がどうなっているのか知ることにもなる
こうした工事はこの辺でまだつづくのか、あと二三年もつづくのだろうか?
除染関係は相当に縮小したが小高とか浪江とか双葉でも向こうの方へ行く人もいるからこの辺が宿舎にもなっているから駅も利用しているのである。

鹿島駅の回顧の短歌十首 (復興してふりかえる)


鹿島駅の回顧の短歌十首


(復興してふりかえる)


鹿島駅八重桜咲きその影に休みて電車待ちし時かな

この駅のホームに白きつつじかな車窓に写し電車は去りぬ

鹿島駅待つも長しやあわれかな秋の薔薇しもここに見るかな

新年や乗りおりする人それぞれに無人駅に活気のいでぬ

復興の電車通りぬそのひびき今日も駅にし我はあるかな

母待ちぬくもりここに娘かな寒き日なれば寒からじかも

遠くより来る労務者駅にいてしばし語りぬ寒き日なりし

鹿島駅昔ストーブありにしと語りてあわれ寒き日なりし

四両の電車とまりて明るしや仙台へ通ず冬の夜かな

帰りきて待つ人あれや今はなし一人帰りし冬の夜かな

駅をおり月影さして我が一人影ひき帰る淋しき町かな

鹿島駅我が老いつつもここにあり年の明けにきまた旅たたむ

遠き国憧れにつつこの駅ゆ我が旅立ちてまた帰り来ぬ

乗り降りの少なき駅や今になほ二両の電車山眠るかな


鹿島駅の八重桜がみんな切られた、それが残念だった、ただ根っこは残っている
それが成長するには何十年もかかる、だから生きている内はもう八重桜の花は見れない
自分はその花の影で休み電車を待っていたのである。

白いツツジというとき田舎の電車はすいている、仙台近くになるとこむがこの辺はすいているから車窓に白いツツジが移っていてその花を写して去ってゆくのである。
何かそれも情緒がある、見送りしたりするのもそうである。

それは田舎駅だからそういう人間的情緒が残っている、東京都とか都会になると混むからそういう情緒もなくなる、新幹線でもそれが早すぎるから人間的に見送りするにしても時間の余裕がないのである。
結局何度も言うが旅は時間をかければかけるほど記憶に残る、だから意外と電車でも船でも待っている時間が貴重であり記憶に残っている不思議があるのだ。
今の忙しい時代は待つ時間がない、それが無駄とされているのである。

鹿島駅のことをいろいろふりかえる、集団就職の列車もここからでた、でも自分は恵まれていてその時それが何を意味していたかわからなかった、自分は大学に行ったのだからその差が大きかったのである。
その後電車はただ遊びとして旅として乗っていただけである。

実際は旅するにしても家をまもり家に家族がいたから余裕をもってできたなどなと思う
一人になったら家があってももう誰も待っていない、だから何かそれが感覚的に変なものとなる、今度は旅たったらもう待つ人もないのだから永遠に帰らないとまでなってしまう感覚にもなる、家があったとしても待つ人がいないとそんな感じになる
家はあってもそれは建物だけだからである。死んだ人が待っているともならないからである。

いづれにしろ人間は最後はみんな啄木のようになる、啄木は最後にあの若さで死ぬとなったから何でも惜しみ短歌にしたのである。本当に日常のささいなことを短歌にしたのである。そういうなんでもないものでも惜しむようになる。
最後は人間はみんなそうなる。普通は若いときはそうならない、いよいよ死ぬ時期がせまればもうみんな何かつまらない日常的なものでも愛おしくなるのである。
自分にとって駅とか鉄道は愛着がありそれを惜しむものとなるのである。


古い駅の写真

鹿島駅も建てた当時と変わらない古い駅なのである。
この写真の駅は本当に古い、何か駅にはやはり人間的なものがしみついている
ただ新しくなるとそうしたものが消える

城でも新しく建てるとそれが博物館のようにもなる、何かそこにあった人間的なものの記憶が消えてしまうことがある。
日本では木造だから新しくなり昔の記憶が消えやすいのである。

2017年01月16日

鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事 (ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事

(ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


武藏野中央公園と中島飛行機など軍需産業だったところも多い。

あれこれ調べていたら、調布にあったジューキミシンも軍需産業だった。機関銃を作っていた。戦後は技術を生かしてミシンの製造に転換した。

それで、てっきり戦前の会社名は漢字表記で「銃器」かと思ったら違いました。東京重機工業株式会社だった。でも、この重機は、大辞泉の@「重工業に用いる機械」ではなくてA「重機関銃の略」の方だよね。広い意味では「銃器」だ。当たらずといえども遠くない

その人は札幌生まれであり東京の大学を出てミシン関係の会社に就職した。
今札幌に帰ったのは生れたところであったからだ。
その人はドイツに8年ではなくヨーロッパを広く回っていた。
それはミシンの会社であり裁縫関係の仕事をしていた。
それで別に外国だけではなくこの辺に良く来ていた。裁縫関係の会社がこの辺では結構多い、福装は有名であり150名が働いていた。ここに女性はこの辺で働いた人が多い。
浪江にもあったとかその人はこの辺を結構知っていた回っていた。

そのように国内だけではない、世界中を回っていたのである。
カザフスタンとかにも行ったとかそれからアジアもいろいろ回っている
それはなぜかというと安い賃金を求めて会社が移動していたのである。
それはテレビなどで放送されるが会社が安い賃金を求めて工場を移してゆくのである。
最初は中国だったが最近は東南アジアでベトナムが安いからいいとか移動しているのである。
その人もそのために世界中を移動していたともなる
そんな人いるのかとこの辺ではそういう人にあまり出あわないから驚きだとなる

でもそういうグローバル化社会をまさに身をもって生きていたのがこの人だったのである最後は生れた札幌に帰ったとなる。何かこの辺にきたのは前にもコネがあり来たと言っていた。
こういう生活しているとどういう感覚になるのか?
もう生まれ故郷も日本もどこの国とかも関係ない、ただ安い賃金を求めて世界を移動してゆく、渡り歩く、要するにどこの国とか関係ない、賃金の安い所などこでも行くという感覚になる、まさにこれは多国籍企業を象徴している人である。
それが今は現実としてある、トヨタとかでも工場をメキシコに作る、それは賃金が安いからである。
それが世界的にグローバルに行われたのが現代なのである。
企業にとってその国々のことなど関係ない、賃金が安ければいいというだけである。
そうしないとグローバル競争に勝てないからである。
福装では中国人も働いている、この前駅から中国に正月に帰ったのを見ている

ミシンで面白いのは銃器の技術を応用してミシンを作っていたのである。
これも意外だが何か技術はどこで利用されるかわからないところがある。
トヨタも最初は紡績関係の会社だったのである。
例えば車でも賃金の安いところで作る、そうするとヨーロッパでもアジアでもメキシコでもその会社員はこの人のように渡り歩くことになるしそういう人が現代のグローバル社会では多いとなる。

しかし自分が国内でも国外でも旅したとしてもこの人とは違う、自分は故郷にずっと住んでいたからである。それで故郷とアイディンティティをもつことを探求した。
この人にはそんなことはない、ただ会社のために世界中を回り歩いていたのである。
だからこの人はそういう一生を生きてどんな感覚になったのかとなる
いくら世界中を渡り歩いてもそこでその国のこと文化とかとはあまり関係しないし理解していないだろう。
なぜなら仕事はミシン関係でありそうした仕事中心に回っているからその国々のことは深くは関係しない
ただこの前あったオランダの大使館に3年間勤めていた人はオランダと深くかかわったことは確かである。それは大使館員であったからであり会社員とは違うからである。

いづれにしろソビエト連邦時代からかかわりカザフスタンまで工場を開くために行っていたというのは驚きである。その頃まだ日本がそんなソビエト連邦まで行っていたのかとなるからだ。
これが現代のグローバル社会の人間なのである。こういう生活は人間としてどうなるのかともなる、何かと深く自然でも文化でもアイディンティティをもつことは不可能になる
日本人としてのアイディンティティすらもてなくなる、ただこうしたグローバル社会を生きた人だったということである、他でも今はそういう人が結構いるのである。

韓国であった人も会社員ではないにしろアルジェリアで石油工場で働く人を集めて入って行った。そこは危険な場所であり実際に日本の会社員が9名とかテロで殺害されたのである。そういうグローバル社会にまきこまれているのが現代である。
そして今度はミャンマーが開国して賃金が安いとなるとこうした会社が進出してゆくからそこに日本人が派遣されるのである。
世界で起きているのはこうしたグローバル社会での問題がありテロも難民問題も起きている
シリア難民をどうしてドイツで受け入れているのか?危険を冒して受け入れているのか?
安い労働力が必要だからである。世界へ安い労働力を求めるより自国へ呼んでいるから文化の相違なと宗教の相違なとでテロが起きたりしているのである。

でも他国へ工場だけを作り働かせるならそういう問題は生れにくい、それでも軋轢は生れてくる、だからそもそもこのグローバル経済社会は世界的な問題でありこれでいいのかとなってナショナリズムが勃興する。
トランプが大統領になったのはアメリカですら多国籍企業でグローバル社会で一番もうけていたと思っていたがそうではないからその不満が大きくなって大統領に押されたのである。グローバル経済社会は自分の国を利するものではないし自国民にとってすべていいものとなっていなかったのである。
だから会社は国民のために従業員のためにあるべきでありメキシコのような所に関税を安いからといって作るべきではない、日本で生産して高くても売れるという主張がある
武田邦彦氏がそのことを言っているのもわかる。
多国籍企業というのがただ自社の利益だけを求めて世界中に進出して安い労働力で働かせること自体が何か反発されて拒否されるようになったのである。

posted by 老鶯 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

豊洲市場と原発事故の問題は同じ構図 (専門家集団に会社でも素人は太刀打ちできない)


豊洲市場と原発事故の問題は同じ構図

(専門家集団に会社でも素人は太刀打ちできない)


これほど多くの東京ガス製造工場で、一様にシアンやベンゼンが検出されたということは「石炭の乾留技術は土壌汚染を前提に成り立っていた」と結論付けざるを得ない。

そもそもなぜ東京ガスの跡地に生鮮を扱う豊洲市場が作られたのか?
そこからしてこの問題が発生している
東京ガスがとても売りに出せるようなものでなかったとして東京都に売れておおもうけした。これもおかしな話だった。

「あんな汚染した土地を売っておおもうけした」

そんなことだったのだろうか?東京ガスの会社の責任も重いとなる、なぜならなんらか会社では専門集団なのだからそういう汚染のことを知っていたからである。
でも利益があるということでその土地を売りおおもうけしたのである。
その会社の責任は相当に重いとなる、なんでも利益になるからといってすべて是認されるわけではない、会社は大きな公共的なものであり社会的責任必ず背負っているのである。
そして何かこの問題も利権がからんでいてはっきりしないにしろ東京都議会の議員がかかわりその利権が金がまわっていた。だから手抜き工事が行われた。
その金はどこにまわっていたのか?石原慎太郎などがその手抜き工事を是認して金がまわっていたかと追求がある。別荘を鹿島建設に高く売ったとかなんとかある。
みんな生鮮食料を扱うことがどういうことか意識していなかった
まず生鮮食料を扱うことはそんな汚染していることが一番の問題になるからである。
それが東京ガスとか東京都議会の議員とか建設会社にゼネコンに食い物にされたともなる

この構図が原発事故と酷似しているのである。何か他の事故でも事故になったりこういう問題起きると原発と比べてきたが酷似しているのである。
そこには様々な人々が利権とかかわっていたのである。
ただここでは住民とかいないし生鮮食料品を扱う人たちは別に利権と関係していない
かえって苦しんでいる人たちである。利権はまわっていない
原発の場合は地元住民とか漁業関係者とか議員関係でもやはり利権があり多額の金がまわっていたのである。
原発は豊洲市場とは比べることもできない何千倍なのか?巨大な利権の巣窟だったのである。天下り先として検察とか警察関係も東電がお得意先だったとなる
こういう構図は何か問題が起きる事故が起きるとかいつでも問題になっているバターンなのである。

原発事故でもこれだけ危険なものなのに生鮮食料を扱う豊洲市場とにていたのである。
生鮮食料を扱うことはまず安全性が第一になる、原発は最初から門とも安全性を第一にするものだった。
でも地権者と県の許可で議論もせずに建てられたとなるとその時から今の災いになる原因があったのである、災いは起きたときすでにどうにもならないという状態になっている
その災いの根を断つのは事故が事件が起きてからは遅いのである。
ただそうした危険なものでも意外と簡単に作られてしまうことが問題だったのである。

民主主義はコンセンス得ることが根幹にある。みんなでそれなりに議論して合意することが民主主義の基本としてある。
では豊洲市場問題でそれが行われていたかとなるとされていない、肝心の豊洲市場で魚を扱う人たちが一番被害があるのだからかかわってもいいようだがそういうふうにも見えない、それは原発でも同じである。そこの住民が一番被害を受けるのだから積極的にかかわるべきであった。それも広範囲にかかわる必要があったが実際は地権者と県で基本的に許可されて建てられたということは今になれば信じられないものとして法律もあったともなる

豊洲市場問題でも地権者は東京ガスでありそこは東京ガスが危険な場所と専門集団だから知っていたのである。でも利益のために東京都に売りおおもうけしたのである。
だから日本でも土地の私的所有権が強すぎるのである。

「この土地は俺のものだ、会社のものもだ、どうしようが勝手だ」

この土地所有権の権利が課題に認められすぎたのである。江戸時代はみんな共有財産として土地でも山でも海でもあった。それが今度は会社だとか組合だとか集団でその権利を得るようになった。それから無数に私的所有権を得ることになり俺の土地は売るのは勝手だとなってしまった。
土地はつながっているから公共的なものとしての役割があるから細分化して私的に所有することになじまないのである。
だからそもそも豊洲市場でも東京ガスが汚染しているのを知っていたのに東京都に売っておおもうけしたこと自体が詐欺であり犯罪でもあったとなる
商品の欠陥を知っていて売ったとなるからだ。買った方も東京都も悪いとなる。
そこにまた利権がからんで東京都の議員などがかかわっていたとかなる

原発でも科学者は原発が危険なことを知っていた。まだ建てられた当初はフクシマ原発の時は危険をわかっていた。日本にはまだその技術がなかったのである。
それでお古のマーク1の原子炉をアメリカから買った、買わせられたともなる。
そしてその原発を利権として利用したのが正力松太郎とかだった、自分の会社読売新聞社をテレビ局を成長させるためにそうしたからである。
これも豊洲市場が利権の場所となっているのとにている
科学者の責任は余り問われないが科学者はやはり東京ガスのように専門家集団であり原発の危険は知っていても知らせなかったのである。
強力な安全神話を作った共同責任者だったのである。

そして日本の技術は優秀なんだとかばかり言っている科学者が国民をだましていたともなる、日本の技術は確かに家電とか他の分野で素材とかでは優れている
でも全部は優れていない、原発はアメリカが今でも優れている、だから日本の技術が優秀だから事故が起きないというとき嘘だったのである。
ただ科学の素人は「日本の技術は優秀なんだ」と科学者が言うとき原発でも同じだと思わせる、それが危険だったのである。自分でも科学に弱いからそう思っていたからである。そういう錯覚をうむからあまり日本の技術は優秀だというのも危険なのである。
ある部分については優秀だというのはいいとしても原発ではそうではなかったのである。そういう誤解をもたらしたのが科学者でもあったのだ。
ただ東京ガスと同じように危険な土地と知っていたのに知らせないことは原発にかかわった科学者でも同じだったのである。でも科学者の責任は現代では一切問われないのである
そもそも豊洲市場では魚を売買する人たちと東京都民でも一番かかわっているのだからコンセンスを得る必要があった。それもここではできていない、原発でもそうである。
広域的に住民のコンセンスを得る必要があったが原子力となると素人などわからないからそのコンセンサスを得る議論する席にすらつけなかったのである。
住民にしても利益を得ればいいとしかなかったのも問題なのである。
素人は素人なりに参加できたかもしれないからである、それは巻町でできていたからである。

素人的にも何か直感的に危険を感じることがある

東京ガスの跡地で大丈夫なの?

原発って危険じゃないの?

こういう疑問は素人でももっていた、でもどっちでも素人は肝心の都民とか市場で魚を実際に扱う人たちは除外されていたとなる。
そこに現代の複雑な文明の問題があった。素人は科学にはかかわれない、法律でも専門的なことにかかわれないから一番被害を受ける人たちのことは無視される
会社だって専門家集団でありたちうちできない、安全だと言われればそうなのかとなり反論もできない,原発だってそうである。
マスコミがあったとしてもそういうチェックする機能は果たしていない、原発でも宣伝費をもらえばいいとかしかないのである。
専門家集団に現代社会は牛耳られていることが問題だということにもなる
一見議員などがいてもそうした人たちも科学には弱い、文系も多い、するとその人たちもチェック機能が働かないのである。別な科学者集団に頼るほかないとなる
現実に最近有害物質を調べたら80倍とか危険状態にあったと報告されている
つまりそこが危険でもその危険も報告されないしチェック機能がないのは原発でも同じだったのである。

科学者の責任は問われない科学万能社会
(日本人の技術は優秀だという思い上がり)




タグ:専門家集団
posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年01月15日

冬深む(正常化した自分?)


冬深む(正常化した自分?)

roseone111.jpg

寒椿雪に散りにき据えし石

平和なり障(さわ)りなくて山眠る

平和なり山の眠りの深きかな

冬深む石黙然と一人かな

冬深む契りを強む森の樹々

何を見む寒星一つ徴しかな

四両の列車明るき冬の夜


凍るごと雪降る庭に一輪の薔薇の咲かむや石の静まる

故郷の老いたる女と親しくも我が家にありて一人なるかな


自分は母が死んで一年とかすぎてようやく正常化したのかもしれない、姉で認知症で苦しみその後も回りは津波だ、原発事故と信じられない異常なことの連続だったのである。
そして常に何かに追いやられていたのである。障りがあったのである。
何かそういうことは人生の中で家族でも誰にでもあることなのだろう。
なぜなら人間は必ず病気になり死ぬからそれが逃れられないから家族でもごたごたするのである。

それはどんな宗教を信じようかカルト宗教団体に入っていようが関係ないのである。
そういう問題から不幸からみんな誰も逃れられないからである。
カルト宗教団体に入ってもいてもそうした不幸になった人は山ほどいるのである。
近くにそういう不幸な人がいて家に住んでいる人はいない
事業が失敗して家がなくなったとかそんな人はめずらしくもないのである。
事業に成功している人の方がまれなのである。

ともかく一人というのはなにかまたこれまで経験しない心境になる
一人も慣れないと淋しいとなる、わかったことは確かに動いて人ごみにまぎれると淋しさもまぎれることがわかった。
それで時々原町に自転車で行くのである。意外と動くということが淋しさをまぎれることになる、大きな家でぽつんと一人でいると淋しさを感じるのである。
動いているとそういうことをあまり感じないのである。
一人は来ているから誰も来ないというわけではない、でも家ががらんとしているのが嫌なのである。

自分で言うのもなんだがここの俳句と短歌はかなり深いものがある。
その深さを読むことがむずかしい、芸術はまず鑑賞すること自体が常にむずかしいのである。だから深く鑑賞できる人はその人は芸術家と同じのように思える
俳句などでも深いものがあっても鑑賞できないのである。
「冬深む契りを強む森の樹々」これは短いから鑑賞できない、別に詩を作っているからだ、それと合わせると鑑賞しやすくなる。
今回庭に咲いた咲こうとしている薔薇は不思議である。凍えるような時に咲くものなのか?
冬薔薇という季語があるから冬に咲く薔薇はある、でもこんなに寒いとき咲くものなのかとなる。
それはまさに自分が一人なのとにている

自分はもともとほとんど人と接しず一人だった。それも何か異常だったのである。
それで介護とかで苦労したのである。社会性がないからそうなった。
でも自分はもともと一人でいるとき精神も安定して平和を感じる
一人でも淋しいとき別に淋しいと感じないときがある。夜はかえって感じないのも不思議である。

今日は本当に寒かった。氷柱が近くで見たのもめずらしいからである。
滅多に氷柱はこの辺では近くでは見ないからである。一部水道が凍結した。
今頃は冬深むの時期である。今年はあたたかったりこんなにもまた寒くなる。
ただ何もわずらわされない平和がある。平和とは結局何もわずらわされないことなのである。
まず自分が病気になったりした平和がないし家族が介護になったりしても平和がないし
また借金などしたら平和がない、もちろんその他で平和がないことはいくらでもある
平和であることが人間はそんなにないということもある
でも自分は30年間くらい平和に暮らしていたのである。確かに家族が平和というわけではないにしろ自分にとってなにもないわずらわされない時が30年間つづいたことは不思議だったとなる、こういうことはまれなことなのだろう。

いづれにしろ冬深む山眠る時である。山眠るというときみちのくが何か合っている。
山眠るというとき高い山ではなく低い山があっている気がする
高い山だと眠るというより冬でも厳しくそそり立つという感じにもなるからだ。
この辺では高い山がない、それが自然としては欠けているからものたりないのである。


タグ:冬深む

本を作る構想ができた 「津波原発事後の教訓」


本を作る構想ができた


「津波原発事後の教訓」


津波原発事故についてはずいぶん連続して書いてきた。それで読み返してみて一冊の本を作る構想ができた。
「津波原発事後の教訓」である。いろいろ書いたが確かに原発避難者からは非難もあったそれもまたこの辺の事情であり原発避難者の見方は当事者として違っていた。
とにかく人間は金になるとうるさいのである。利害がかかわるとうるさいのである。
遺産争いをみればわかる、骨肉の争いになる。

今回のこの辺の津波原発事故は後世に大きな教訓を残したことは確かである。
それは歴史的教訓だった。その当事者となったことで外部から見るものとは違ってくる
前にも書いたようにまず原発は一旦事故になったら広範囲に影響する
30キロ圏内だけではない、飯館村とか中通り、福島市とか郡山市とか白河まで影響したのである。
すると非常に狭い範囲で原発を建てることを決めたこと自体に問題がありそれが後々まで尾をひいたのである。
原発を建てる地権者と県の許可だけで決められたということが異常だったのである。
それだけ回りのものも原発がどういうものか知らなかったのである。

それを知らせるのがマスコミとか学者とか他にもあったが協力な原子力村が形成され「安全神話」が形成されたのである。
原子力となるとわかりにくいから余計に何か危険を言うにてもしにくいのである。
「素人になにがわかる」これは現代は専門家の時代だから何も言うことができなくなる
それは医療関係でも法律関係でも何でもそうである。素人が立ち入れることができない社会である。
マスコミにはそうしたことで危険性を知らせる役目があっても宣伝費をもらってしなかった。マスコミというときテレビでも新聞でも何か公共的のようでも宣伝費で成り立つとしたらその宣伝費を払う会社を批判できない、東電は国並の会社であり宣伝費も莫大だったからである。市町村を買えるほどの大きな会社だったのである。
実際にこの辺では半分が東電の社員のようになっていたのである。
だから原発事故は現代の社会の複雑さから起きたともいえる。

一番怖かったのは日本が震撼としたのは吉田所長が東日本は人が住めなくなる、特に東北は住めなくなると言っていたことである。吉田所長が言うくらいだからそれだけの事故のとき危機感をもったのである。
だから原発は全国的なものとして日本の存亡にかかわる恐ろしいものだと認識したのである。それはチェルノブエリでもすでにわかっていたことである。
ただそれも警告とはならなかったのが日本だった。
原発はロシアとか中国とかアメリカとか大陸だったら広いのだから日本よりは適していた日本は狭いし他に移住することが簡単にできないのである。

武田邦彦氏が言うように一ミリシーベルトを基準にすべきだとしたらそこに住めないとしたらもう福島県の半分も住めなくなる,そんなこといくら科学的には正しいとしても現実問題としてできないのである。
要するに自分は思うにはもう放射能がどうのこうのよりもうその土地に放射能とともに住むほかない、それで病気になっても何になってもどうしようもないとまで覚悟しなければならない、それがた狭い日本だからそうなる、老人の場合はもう他に移り住みたくないということでチェルノブエリではそうなったしここでもそうなっている
それまでの覚悟をもって原発は作らねばならないものだったのである。
そんなに危険なものだったらなぜその前にその危険性を警告しなかったのかとなる
武田邦彦氏も原子力村の一員だったのである。

ともかく原発事故の教訓は後世に伝えられるべき歴史的教訓だったのである。
それは津波でそうだった。なぜこれほど無警戒だったのかというのも今になると悔やまれる、それは別に警戒するものが全くなかったということではなかった。
津波でもスマトラで起きた津波の時も日本だったら警戒しているからあんなことならないよなと見ていたし原発事故でもチェルノブエリのようにはならないよなと日本の技術は優秀だからなと見ていたのである。
今でも右翼系統は盛んに日本の技術の優秀性を言う、確かに日本の技術は優秀な面はあるでも原子力に関してはアメリカがずっと進んでいたし日本には原子炉でもお古のマーク1がアメリカによって買わされたのである。
日本の技術はすべてのもので優秀というわけではなかったのである。

なぜそれが危険かという自分も科学音痴だから日本の技術は優秀なのだなと単純に思う人が多いからである。すると結果的に原発も日本の技術は優秀だから事故など起こらないよなと思ってしまうのである。
それがいかに危険なことか人間の奢りがいかに危険なことかをそれが歴史を見ればわかるその奢りによって滅びたものがどれほどあるか、個々人でも奢りが一番危険なのである。俺は優秀だというときその人は確かに一級の資格をもっていたことで技術的には優秀でも経営はまた違っていて事業に失敗した。技術と経営はまた違っていたのである。
そういう奢りで滅びたことは歴史をみればいくらでもある。
俺は優秀だと身内でも言って最後は認知症になり銀行から金をおろせなくなった、そして最後まで優秀だと言いつつ死んだのも悲惨であり家族だから余計にショックだった。

いづれにしろここでも津波原発事故はそうした教訓を残した、それは歴史的教訓であり後世に伝えられるべきものである。それは世界に対してもそうである。
原発の恐ろしさを知らしめたのである。
しかしそういう教訓を人間は忘れるからまた悲劇が繰り返されてきた。
だからこの辺はそうした悲惨な現実から教訓の場となったのである。

本を出すというとき本を作るのめんどうである。まず流通させるのがむずかしい、電子本になると楽だがそのノウハウがまだわからない。
本は何か一つのテーマで追求したものとしていい、プログだといろいろなテーマに分かれてわかりにくいのである。
だから自分としても一つのテーマで一冊の本にすればわかりやすいとなる
自分にはそういうテーマがいろいろとある。
鉄道の駅の短歌をまとめるとかそれぞれのテーマによって分類して作品化する、それが多くなったから結構な仕事になっているのである。


科学者の責任は問われない科学万能社会
(日本人の技術は優秀だという思い上がり)
posted by 老鶯 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年01月14日

千変万化の流れ(abstract streams)


千変万化の流れ(abstract streams)

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なぜこれほどまでに無限のように尽きずに抽象画ができるのか?
それは抽象画が変化しやすいものだからである。
具象画だったら固定して変わらない、その具象画からも抽象画ができている不思議であるそれはオリジナルなものがインターネット上にいくらでもあるからそのタネが尽きないとなる
世界的になるとその数が膨大になっているからだ。
絵の分野でもそうであり絵は世界的に見てわかりやすいからグローバルなものとして利用しやすいのである。
だから自分で操作していても不思議だとなる


Why is an abstract picture made without running out like this like eternity?
It is because an abstract picture is the thing which is easy to change.
When the seed does not run out because the thing which is original as for it which is mysterious which has an abstract picture from the representational painting which fix it if is a representational painting, and does not change is how much on the Internet, it is; is because the numbers become enormous if become global.
It is so, and the picture looks worldwide in the field of the picture and is easy to use it as a global thing because it is plain.
Therefore it becomes even if I operate it by oneself if mysterious

タグ:流れ streams
posted by 老鶯 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)