2025年04月27日

蟻穴を出る【燕来る、牡丹・・・】

蟻穴を出る【燕来る、牡丹・・・】

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蟻の巣にスミレやここに営みのありて我が見る小世界かな

蟻運ぶ虫の羽根かな巣までの長き道のり我は追いにき

巣より出る蟻やぞろぞろ仲間かな餌を探しに四方に散る

大輪の牡丹の今年も庭に咲く新しく植ゆ牡丹も咲かむ

路地裏や燕数羽の鳴き飛びぬ街に活気の戻りなむ


何か蟻一匹が虫の羽根を運ぶ、その距離も結構長いと見た。やっと巣がありそこからぞろぞろ蟻が出て来た
そこにはスミレがさいていた。玄関の前にはタンポポが咲き路地裏の家の間を増えた燕が飛び交う
今日は暑かった。春暑しである。こういう時遠出すると危険である。何故なら日射病になることを経験しているからである
この世界の驚異は必ずしも大きなものにあるわけではない、蟻というのは不思議であり脅威でもある
これだけ小さいものが長い距離を虫を運んだ。そんな力がどうしてでるのか、小さいだけにそう見る
またなぜ土の中で冬も生き続けるのかとなる。

2025年04月26日

春の新田川と八重桜の道【春の山、タンポポ、・・】

春の新田川と八重桜の道【春の山、タンポポ、・・】

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新田川の光り流れてタンポポの岸辺に咲きて我が走るかな

新田川光り流れて芽吹きかな八重桜咲き静かに歩む

新田川の岸辺に咲きぬ八重桜土地の女(ひと)の静かに歩む

新田川光り流れて春の山望みなごみぬ家居ともしく

耕しの人の畑に春の山望み新たに流れひびきぬ

はや散りぬ桜の後にほのぼのと八重桜咲き流る川かな



新田川の特徴は浅い流れなのである。川自体も大きな川ではない、川にも特徴がある、この辺で真野川は大きな川であり
それなりに深く流れる所がある。そしてさかのぼると相当に長い、新田川でも飯館の草野から流れるから長いが大きな川ではない
とにかく浅い流れであり青葉城恋歌の瀬音ゆかしきになる。
川にも特徴がある。相馬市の宇多川は水量もともしく川幅も狭く何か川という感じもしない
でも上流に行くと荒々しいものになる。石ごろごろになり何か意外なり急流にもなる
ただ水の量は少ない、浪江の高瀬川は渓谷になって流れるからこの辺では観光地になる

新田川が春の光に反射して流れる、岸辺に芽吹く木があり八重桜咲つづきそこを女の人が歩む、春の山が望まれ絵になっている
桜は散り季節が変わってゆく、






2025年04月25日

桜が散り八重桜に変わるーなぜ悪いことが続くのか 【大原を回り帰るー前田の空家のこと】


桜が散り八重桜に変わるーなぜ悪いことが続くのか
【大原を回り帰るー前田の空家のこと】

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花散りて幻なれや夢の跡

大原の小径にあわれスミレかな

大原や山吹咲きて畑かな


山桜高きに咲くや大原の前田の道を我は行くかな

大原の前田に残る空家かな春となれども人は住まじも

大原になお耕やさぬ荒地かな春となれども淋しくもあれ

大原の人ともにし病院に我がありし日やその人も死ぬ

風唸り夕べの道やかそけくも残れる花を我は見るかな

故郷に夕べほのぼの八重桜今日もこの道我は行きけり



大原の斎藤氏の家は空家でありそこは住むことはない、なぜなら息子は市街の方に住んでいるし農業を受け継がないからである
前田というとき草分けの古い家である。だから家も古いとなる。
南相馬市の病院で同じ部屋でありその時話を聞いた。そして病院の窓から大原の方を見ていた。
一か月は長かった。でも意外と早くその後死んだ。墓は杉の林の中に隠されるようにあった。
大原は結構放射線被害があり田畑は除染したとしても放置されて草ぼうぼうになっている
一分は回復しても何かもともと後を継ぐ人がいないとかで放置され荒地化する
何か空家が目立つのである。それがもったないと見る

ともかく桜は散った、桜の咲く時期は短い、今は八重桜になる、桜と八重桜の感じは相当に違う
何か八重桜だと定着してほのぼのとする感覚になる、あたたかさがある。桜が咲いた時から常に散る予感はする
だから桜が散ったとき夢のようい幻のように見える、俳句でも夢の中で思案して創作していた
ただ花散るや・・・・夢の跡・・・というときその間に別な言葉を入れていたが思い出せなくなった
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡から連想したのだろう

故郷やよるもさわるも茨の花 (一茶)

一茶がなぜそうなったのか、私も家族がいるときは故郷はいい場所だった。でも死んでからはいい場所ではない
店では断れるとか何か拒否される、そこにはやはり悪質な人間がいる。だから私も一茶のように感じた
結局人間どこに住んでも同じである、そこには嫌な人間が悪質な人がいる。その人達から逃れようがないのである
つまりこの世は人間が地獄を作りだす場なのである
だから天国でしか安住の場はないのである

私の不満を言ってもなぜなのかとなれば私の父親違いの兄は5歳まで一緒にいたとしても私の家では後妻に来た子供なので良くしなかった。となれば故郷はいいものではなかったとなる。でも死ぬ前に不思議に家に回ったのである
母親がいて回ったのである、だから兄から比べれば私は相当に恵まれていたのである
そのために家族が死んでから嫌なことが苦しいことが続いている、それもカルマだったとなる
まずいいことが続いて一生は終わることないし悪いことが続いて終わることもない、人間は何かそうなっている
私は余りにも恵まれた結果として悪いことが続いたのである

ただ人間は他人のことをとやかく言う前に自分自身が愛ある人間となりほのぼのとしたものを自ら作り出さないとこの世は良くならない、自分がほのぼのとしたものを愛ある人となれば他者も故郷でも住みよい場所になる
でもそれは至難だとなる、言うは優し行うは難しとなる。


文化(culture)の多様性は土地土地の風土から生まれた 【葡萄は土地の影響を一番受けやすい】


文化(culture)の多様性は土地土地の風土から生まれた
【葡萄は土地の影響を一番受けやすい】

● 土地利用と作物の多様性

日本:​山岳地帯が多く、耕作可能な面積は限られています。そのため、多様な作物が栽培され、地域ごとの特産品が豊富です。​

アメリカ:​広大な平地を活用し、トウモロコシや大豆などの単一作物が大規模に栽培されています。地域ごとの特産品は比較的少ない傾向にあります。​

AIのチャットgptの指摘は的を得ている。アメリカであれ中国であれ平坦な土地が続く、その広大な土地は農業に向いている
だから日本ではの土地と地形の相違で多様なものが作られるがアメリカとか中国とかロシアとかウクライナでもブラジルでも
トウモロコシや大豆などの単一作物が大規模に栽培されていますとなる
満州と言われて地域を鉄道で旅したら延々と作ることなくトウモロコシ畑だった。だからとうもろこしは主食にもなる、米の代わりになる。

それに比べ日本の地形は本当に複雑である。海に囲まれ山また山でありトンネルが多い、大陸の鉄道になればトンネルなどないのである。日本でトンネルの技術が発達したのは当然だとなる。砂漠のような中東で風車が発達したのもわかる
そこでは風が吹きやすいからだとなる。
つまりその土地土地の地形とか風土により文明も文化も作られる。どうしても平坦な土地が続く大陸では砂漠でもそうであり単一の意識が生まれる、だからこそ一神教に唯一の神の信仰でも生まれた。ただエジプトは多神教になったから一概には言えない
でも単一的なものとして意識しやすいのである。

ともかく日本は野というとき山の斜面だとなりそれはどこまでも平坦な大陸とは余りにも違っている。山に閉ざされて交通が不便であり地域ごとに文化の相違も生まれやすい、それで地域ごとに多様な作物がとれ特産品が多いとなる
それは文化の多様性を産み出す、大陸のように単一の物を大量に作るのではなくその土地に見合ったものを作り出すとなるからである。cultureはcultivate(耕す)から来ている。その土地と土地でとれるものがそれが同じ品種でも味が違ってくるとかなる
葡萄でも土地土地によって違った味となりその土地の名がつけられて売られる、それは日本の米でも同じなのである
酒でもその土地土地で米の味が違うようになる。水も関係するから水のいいきれいな土地ではコメの味でも酒の味でも良し悪しが生まれる。会津の方は水がいいからまた米の味でお酒の味でも違ってくる、それは新潟県でもそうである

●葡萄の味の多様性

シャルドネ(Chardonnay)

フランス/ブルゴーニュ地方
粘土石灰質の土壌で育ったシャルドネは、レモンやライムのような酸味とミネラル感が特徴で、上級ワインではバターやナッツの香りが加わります。​

アメリカ/ナパ・ヴァレー(カリフォルニア州)
乾燥した気候と温暖な気候の影響で、洋ナシやトロピカルフルーツのような芳醇な風味が楽しめ、樽熟成によりトーストやバターの風味が加わることがあります。​


アメリカ/ウィラメット・ヴァレー(オレゴン州)
火山性土壌と堆積粘土質が入り組んだ土壌で育つピノ・ノワールは、ベリーやカシスのような果実風味となり、ブルゴーニュとニュージーランドの中間的なスタイルのワインに仕上がります。​

リースリング(Riesling)
ドイツ/ラインガウ地方
粘板岩質の土壌で育ったリースリングは、レモンやグレープフルーツなどの柑橘系の香りとシャープな酸味が特徴で、甘みとのバランスが絶妙です。​

フランス/アルザス地方
灰岩質の土壌で育ったリースリングは、桃やアプリコットなどの白い果実の香りをまとい、酸味とミネラル感が強く、アルコール感を伴った辛口に仕上がることが多いです。​


なぜならばありとあらゆる植物の中で、どんな場所に植わっているかということがはっきりと個性としてあらわれるからです。古典経済学者のアダム・スミスも「ブドウ樹はどんな果樹よりも土地の個性を反映しやすい」と記しています。

ワインの味を決める重要な要素「テロワール」とは?

これらの例からもわかるように、同じ品種のブドウでも、栽培される土地のテロワールによってワインの味わいや香りは大きく異なります。​ワインを選ぶ際には、産地やテロワールを意識することで、より深くワインの世界を楽しむことができます。

つまりこれが文化なのである。農産物は風土と土地と切り離せずある。風なども影響している、寒暖の差とか葡萄でも湖面に反射する光でも影響している。それが文化の多様性なのである。

花でも同じ薔薇でもドイツで見た薔薇は違って見えた。それはその土地の風土とか歴史でも違っているから日本で咲く薔薇とは違って見えたのである。

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】

●歴史も風土の相違で作られる

ラテン民族とゲルマン民族の相違はライン川を境界として気候が違っていることから起きる。フランスとドイツでは風土は違っていて光でも違う、だから光の芸術家モネが生まれてドイツには何か陰鬱な哲学が詩でも生まれたとなる
温かいラテン民族と寒い地域のアングロサクソンにはカトリックとプロテスタントに分かれた、それは風土も関係していていたのである。何故なら寒い地域だとどうしても勤勉になり暑い地域だと怠け者になるからである
プロテスタンティズムが生まれたのは風土とも関係していたのである

「アグリカルチャー(agriculture)」の語源はラテン語の「agricultura」で、「ager(土地)」と「cultura(栽培)」が合わさった言葉です。意味は「農業」で、土地を耕し、作物を栽培する活動を指します。

cultuerは文化でありcultivaて-耕すからも来ている。栽培とも通じている。文化でも日本の俳句は季語が不可欠だという時農業をベースにしている。春は万物が張るからきているし張り田とは田に水を張るから来ている
夏はなずむからきているとか秋は収穫の時期であり商う時期にもなる、冬は増えるからきているのも違和感があるが野菜は冬にとれる増えるのが多いからそうなったとかある。つまり風土と密接に結びついているのである

でも工業となるとそうした自然と分離したものともなる。画一規格化したものを大量生産する。それは風土と関係なくなる
だからグローバル経済になると賃金の安い国で生産する、その土地とか風土とか国が関係なくなる
農業はどうしても風土と切り離せないから多様性が生まれる、文化も生まれる
それで工業化するとその土地土地から遊離して世界の大都市tなると似たものとなる。高層ビルであり車の洪水であり大都会はに世界で共通しているから何かつまらないとなる。高層ビルを見上げてもそこに文化は感じないが古代建築とかゴッシック建築とかはまた様々の様式の教会建築には個性があり文化を感じるのである。文化の基になるのはculture-kultivate(耕す)にあるとなる。









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2025年04月24日

春の夜に死んだ姉の夢を見た―家に通い続ける愛 【布団があたたく姉の愛に包まれた感覚なっていた】

春の夜に死んだ姉の夢を見た―家に通い続ける愛
【布団があたたく姉の愛に包まれた感覚なっていた】

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心のゆくばかりなつかしい女の匂いをかぎ、性欲と悲哀と絶望とにたちまち胸をおそわれ…芳子が常に用いていた蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く

『蒲団』(ふとん)は、田山花袋の

春の夜や姉の寝たる広き部屋その布団に寝てぬくもり感ず

今死んだ姉の夢を見た、姉が死んで13年以上も過ぎた、それも早いと思った、姉と言っても母にもなっていた
子供の時から60年も一緒に暮らしていたからである。姉も結婚しないから私を子供のように見ていたのである
母は脇役であろ女中とかにもなった。それも複雑なのだけどこの家を作ったのは確かに父であったが実際は姉と母なのである
だからこの家の作りは姉が作り姉が中心の家になっていた作りもそうだったのである、間取りも姉の八畳間があり私の部屋はなかったのである。それは個室ではない昔の家で家で法事とかしたから広い間が必要だった
つまり昔風の家で冠婚葬祭を家でしていた。ある農家の家は20畳間なの30畳間なのか広間があってそこで人が集まる
江戸時代なら庄屋のような家となる、そこで役人を接待したりとか公共的なものとしてもあった
襖で仕切られていてもそれを開ければ大広間になるからである。

ともかく私の部屋はなく後から付け足して作ったのである。だからこの家は姉が主役の家となっていた
実際父親が中学の時死んだあとは気丈夫な姉が父親代わりになったのである。だからこそ私は大学にも行けたし大学出ても就職せずとも家に引きこもり旅ばかりしていたとなる。一方で父親違いの兄は五歳まで一緒にいたが良くされず母の実家にひきとられて5年暮らした、そして集団就職で静岡の方に行き交通事故で40才で死んだのである。
その差も大きかった。そのために姉が認知症になり母に暴力をふるい別々に暮らすようになった
その間私は二回病院に入院して手術もした地獄を経験した、でもそれは私の家のカルマでありその家のカルマは必ず長男長女が負うのである、そういう宿命にあるので逃れられないのである

何か複雑なのだけど死んだ人は依然として家にいるともなる。確かに布団という小説はそれを示している
それは若い女性だがそれと似ている、姉の寝ていた八畳間で布団に寝ていて姉の夢を見たからである
太っていてやせた母と違って温かみがあった。だからは私は姉の方の影響を受けたのである
そして60年も一緒にいたということが影響したのである。それは複雑な家族でもやはりそれだけ長く一緒にいたということが
忘れられないものとなり死んで13年以上過ぎても夢に現れその布団がまるで姉のように思えたのである

だから家には死んだ人が生き続けるともなる、それで空家が多いけど空家に入ると依然として幽霊になってその家の人が出てくる感覚になる。幽霊となってもその家に住み着いているのかとも感じる
やはりその家に長く住んだから死んでも離れたくないということはある。家とか土地に執着するとなる
私は最後二人を懸命に介護した。それだけ特別良くされたからである。そのことをわかってくれて死んだから遺影でも笑っていていつも語りかけている。

他では親でも子供を恨んで死んでいる人も結構多いからそうなるとどうなるのか?
その家に親の恨みがこもるかもしれない怖さはがある。ただ今は空家になっているから離れて住んでいるから感じないかもしれない。でも空家でも何か死んだ人でもそこに依然として霊がとどまっているという感じにもなる
家はやはりそこに愛着があり思い出がありそうなる。単なる物ではないのである

姉は別に他人に優しいとはならなかった。ただ自分には特別良くしたのである。母は脇役であり姉は私に過剰な愛を注いだのである。もし姉がいなかったら私はどうなったのかと思う。最悪の人生になったかもしれない、母だけではどうにもならなくなっていたからである。だからこの家には姉が死んでも依然として姉の愛につつまれているとも感じるのである

愛は死んでも残っているとも感じる、愛は消えないとも感じる。ただそれはあくまでも私に対しての愛であり他者には冷たいとなっていたのである。いずれにしろ何か人間は死んですべてなくなるということではない、愛はありつづけるともなる
ただそれはみんなが実の親でもそうはならない、何か私の場合は特別に愛を受けたからそうなったとなる
それは特殊な事情でそうなったのである。確かなことは愛する人が愛される人であれ愛は依然として通い合っているのかとなる
つまり死んでも形はなくなっても愛は通じているのかとなる

でもすべての人はそうならない、実の親子でも今はうまくいかず親を恨み今度は親が年老いて子供を恨んでしんでゆくとか普通にある。だから人が死んですべてが消えるわけではない、愛は依然として残り消えないともなる
それで死者を愛せというときも死んだ人には通じないのいではなく愛すということが大事だと言ったのだと思う
現実に死んだ人でも愛は残り通じ合っている。死んだ人はい依然として愛が継続されているともなる
それは何か説明しにくい、見えないものだからである。

人間は死んだ時点で見なくなり急速に忘れられる。でも忘れられないのはやはり愛してくれた人だとなる
それは実の親でもみんなそうはならないのである。親を恨みまた子供を恨み死んでいる人もいるからである
するとそれは何か必ず影響するのではないか?

つまり愛ではなく怨念が消えず残る!

親戚の女性は実の母親と5歳までしかいっしょにいない、それで認知症になり金があったので施設に入れた
その娘は全く親と思っていないのである。ただ金があるので施設にあづけてかかわりたくないのである
これも自業自得である、また私の母親は継母にいじめられて育てられた
そしてやはり施設に入りそこでないか精神の異常をきたして死んだ、でも母はその人の遺骨を引き取った
大学病院で解剖することを頼んでいたからである。ただ最後に母に悪かったなと謝って死んだのが救いだった
ともかく家族もいろいろいろであり複雑である。ただ別に継母でも愛情を注げばそうはならなかったのである。

何か愛ではなく怨念が残ることは怖いことでもないか、だから親でも粗末にしたりまた子供でも愛さない、何か子供でも親は無条件に愛さない
私の姉は無条件で自分を愛してくれたのである、何か注文したりしなかったのである。
ただそれは特別なことであり他者にはなかなか理解できないのである

故郷に姉の愛あり八重桜

いずれにしろ死んでも母を一般的に忘れられないのは愛されたからだとなる、父親はそうならないからである。
愛の力はどうしても母親にあるからだとなる。


2025年04月23日

古墳に根付く木【春の山、若草、牡丹の芽、タンポポ、山桜、】


古墳に根付く木【春の山、若草、牡丹の芽、タンポポ、山桜、】

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春深む古墳に根付く木一本

家の庭畑のありて春の山

若草に山鳩数羽集まりぬ

朝鳥の飛び来て映えぬ椿かな

牡丹の芽日に日にふくらむ希望かな


海広く朝タンポポの一面に浪打ち寄せて我が走り去る

田舎の小径にあわれスミレ咲く今日行きしは我が一人かな

鹿島なるSAに寄り見る山桜今盛りと咲きにけるかな



古墳の町としてあるけど家の前が庭が古墳になっている。そこに一本の木が根付いている
すると先祖に根づいているつながっているとなるのかと見た
ただ古墳が墓なのかどうかわからないがそれは遠い先祖が生きて残したものであることは確かなのである

家の前が広い庭であり畑があるというのは田舎では普通にある。するとそこで食料がとっると言うことで何か金を持っているより安心だともなる、なぜなら紙幣は紙切れだから預金封鎖だとか物価高で目減りするとかあり安心できなくなった
だから貯金に利子が5パーセントかついていた時代があったが特別恵まれた時代だったのである
なぜなら今でも十年前に貯金したのに満期になり利子がついているからである
だから30年前とかの利子が高くついたとき利子だけでも相当に増えていたのである

だからこういう時代は畑でももって食料を確保しておけとなる
ところが農業は簡単にやれない、もうわずかな畑でも鳥に食われたとか盗まれたとか肥料代がかかるとか種代がかかるとか
苦労が多いが実際の収穫は10倍も費用がかかりわずかだったとなる、素人が簡単にできるものでないのである

常磐高速のSAは人でいつも混んでいる、山の方だから山桜が咲いていた
すでにできてから5年くらいすぎた。それに比べ鹿島駅は壊されるとか言われて小学生は壊さないでと集まりアピールした
明治にできた駅舎で古く鉄道マニアが見に来たりしていたからである

今年は新しく植えた牡丹の蕾が二つふくらんでいるので楽しみである。二三年は葉っぱしか出なかったのに咲くのも不思議である、別な牡丹は30年なのか40年なのか5つつくらい咲き続けている
その土地と合えば咲きつづけるとなる
とにかく花でも咲き続ければいい、米でも野菜でもとり続けられるから恒産となる、でも金融商品は貯金でも紙切れになる恐怖が付きまとっているのである





2025年04月22日

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題 【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題
【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

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富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

能登地震で限界集落に金をつぎ込んでも無駄の問題 
【自給自足の生活の時代は都会の人や税金に頼っていなかった】

都会の人が富んでいようが自分には関係ない、炭焼きで自立して暮らしている、これは炭焼きして自活していた時代であった。戦後十年も炭の生活だった。だからこそ田舎では自給自足で自立していたからこういう自負があった。
国に頼っていない、都会にも頼っていないから都会の人に税金の無駄使いなどともいわれなかったのである。今からすると貧しいのにそういう自負があったということを見直すことになる。おれ達は東京のお荷物ではない、国のお荷物ではない、自分達のことは自分達でまかなっているとうい自負があった。



グローバル化とこのことは何が関係があるのか?なぜトランプ大統領はアメリカファーストというときこの問題と似ている。
グローバル化でアメリカは得していると思ったらアメリカは損している世界に対して関税を高くするようにしたのである。
グローバル経済とは個々の国でも自立するのではなく、世界に依存するということがある。
まず、石油時代になれば日本には石油がないのだから外国から石油を輸入しなければならないのだからエネルギーの面で自立できないのである。すると、絶えず中東のことが問題になる。そこで何か問題が起きると石油が入らなくなると不安になるのである。

そしてあらゆることが石油が関わってくると石油が入ってこないということは国が維持できなくなるともなる。
その点ではアメリカ何でも自立できる供給できるから外国から輸入しなくてもやっていけるとなるからアメリカフアーストになる。ただ車にしても世界にサプライチェーンがあり車でももはやアメリカだけでは作れないシステムになっている
だからアメリカの関税をあげることは自分の国に跳ね返てくるとされる

ただグローバル経済の問題は昔のグローバル経済の問題は昔の自給自足の経済と何か似ている。
アメリカの製造業のラストベルトでは製造業が世界の競争に負けてその誇りを失ったとしているからである。
つまり、それは炭焼きをして、自立して都会に頼らず暮らしていた山村の問題とも似ている。
自律性が失って誇りも失ったということである。

すると今過疎化している山村は炭焼きの時代に戻ればいいとまでなる。またアメリカなら、そのラストベルトでも世界から車を輸入するのではなく国内だけに消費さればいいとなる。それは技術的に劣ったものでもその方が良いというまでになる。
要するに自立性がなくなってしまうことで問題になっている。
そしてそれは精神的にも影響してしてそれは人間の生きる誇りすらなくなってしまう。だから、グローバル経済というのは返って自律性をなくしてその国の地域の誇りすら奪ってしまう。ただ、グローバル化経済でアメリカがグローバル化経済でアメリカが一番得したのかと思っていたら違っていたのである。アメリカはグローバル経済の一番の被害者だと言っていることが奇妙に思えるのである。
グローバル経済でアメリカ人の誇りまで失われたというのはそのためである。

日本にしても、なぜ農民がコメ等作っても金ににならないとして誰もやりたくないそこに誇りを持てない。
その問題も同じ根から発している。今、米が高くなりすぎてそれならベトナムから米を輸入すればいいとかなる。
一部のレストランとかではそうなっている。また日本人は米が高いからパンであれパスタであれ別なものを食べるほか無いともなってしまう。すると、日本自体の文化も失われ、誇りも失われてしまうかもしれない。米というのは必ずしも腹を満たすだけではない。長年の日本で培われた文化だともなるからである。

でも、技術競争は世界で熾烈に行われておりそれに破れたものは。こうして自立性とか誇りまで奪われてしまうのである。
でも、アメリカがグローバル経済で一番損したということは理解できないことであった。
アメリカが世界からグローバル経済によって富を収奪したと思っていたのである。実際はアメリカの富が奪われたと言っているのも意外だったのである。
なぜ日本で米に高い関税をかけているかといえば外国から米が安く入ってくれば食料まで外国に依存するのだから何かあったとき米が入ってこなくなり日本人は飢え死ににしているとなる。それは、食糧を外国に握られているからである。

外国から日本には輸出しない。そうさせたくなければ従いと外国から言われる。実質、外国によって支配されることになる。
だからグローバル経済というのは、世界的経済戦争であり技術戦争でありそれに負けたものは他国に支配され、奴隷化されるということである。それがアメリカでもそうなっているということが意外だったのである。
やはり人間はそうして他国に従属して奴隷のようにされるより支配されるより自立して生きたいということがある。そこに精神の誇りを持ちたいということがある。それは、昔の山村で炭焼きをして、自立して生きているから都会の人にとやかく言われる必要がないというのとも似ている。
なぜ今の過疎地帯が山村は都会の人からいろいろ言われるのは電気であれ水道であれインフラの整備が東京とかでも都会の人がその税金を出している地方交付税で出している。そういうインフラを整えるのに都会の80倍もかかるとかなるからである。

人間というのは、やはり自尊心があり誇りがありそれが失われることに耐えられない。だからこそ国同士でも自立して存在した。独立して存在したい。そのために戦争でもする。そういうことをグローバル経済では、ただ経済中心になり精神的なものを無視しているから問題になる。グローバル経済は精神の自立も奪う武士は食わねど高楊枝とかの諺があるがこれもたとえ貧乏でも、武士には誇りがあるとなる。つまり人間は誇りを最も大事でありそのためには戦う命をかけても戦う性質がある
ただ食うために生きているのではないからである。食料を得るためにだけに物を得るためにあけ生きるのではないからである

そもそも精神的自立性という時日本はアメリカに負けて失ったのではないか、国が独立自立が失った時また個々人でも自立が失ったとなる。それがグローバル経済でアメリカに起きているというのも意外だったのである。
中国の貿易戦争に負けるときそれはアメリカの誇りを失うから耐えられないとなっている。それは中国でもメンツを重んじるとかで同じなのである。日本はアメリカに負けてそうした精神の自立を失ったのである
やはり自国は自国で守らなければアメリカに頼っていただけでは自立はできないとなる
アメリカは日本のために戦うとか世界をリードする時代は終わったとなる。ただそうなると中国、ロシアとアメリカと接して
日本は相当に苦しい立場になる。でも人間は誇りを失いたくない、それがアメリカに起きていたことが意外なのである




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アメリカのテスラなどでは自動運転がすでに行われて実用化しているという、やがて日本もそうなる
つまり電気自動車は通用しなかったとか言われるのは日本車がまだ世界で通用するという偏向報道だと加治将一氏は言っている
すると日本車も将来売れなくなるのかとなる。そうなったら日本は売るものがなくなりどん底になる
そのことは日本では報道されないからみんなわからないという

それは常に高度成長時代にジャパンアズナンバーワンとしてアメリカを見下していた時と似ている
日本はすごいとか礼賛されだけだったがたちまち今や日本ついて悪いことばかり言われる
だから自国礼賛も危険になる、太平洋戦争でもアメリカなどたいしたことがないという傲慢から戦争になったからである
ただその時情報不足があった。それでも外国のことが正確に報道されず日本礼賛になるとき危険である
アメリカがいいというのではなく人間は奢る時危険になるからである。
だから本当の実情を報道を知るべきだとはなる、結局外国は住んでみないと実感できないから判断が誤るのである

posted by 天華 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月21日

親孝行したいときは親はいないは死語になった 【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】


親孝行したいときは親はいないは死語になった
【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】

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年齢を重ねるほど、子供と堂々と距離を置くべき理由|
もう子供に頼らず、静かに一人で生きたい80代の母|オーディオブック



このyoutubuは事実ではないだろう、創作がある。他にもそうしたyoutubuの放送がある
中東の大富豪と日本人が結婚したが何不自由ない生活でも人形のようにされ離婚したとかある
それも事実ではないにしろ別に人間としてそういうことあるから
フイクションとしても全部作り話とも見えない、そいうことは人間の一般的心理としてありえるからである

何かせっかく作った干し柿とか漬物とを息子の家族に持って行ったが息子は子供が受験勉強でうるさいと集中できないからホテルに泊ってくれと言われた。それが余りにも冷たく母は悲しむ。これが家族なのかと悲しむ
でも今の時代そういうことが多いかもしれない、近くの人は常に息子のことで介護されていて不満を言う
実際脳梗塞と糖尿病で歩くこともままならない、杖ついて何かにつかまらないと歩けないのである
でも台所仕事でも洗濯でも自分でしていて息子は手伝ってくれない嘆いている

これは障害者をかかえて育てられて長男にかかりきりになりその弟はないがしろにされたとかある
でもそうした事情がなくても今は一般的に親と子の関係がうまくいかなくなっているのが多いのかもしれない
そのことがyoutubuで訴えているからである。金があるとその金が欲しいだけで親のことなど思ってくないとか放送される
それが他人ならわかるが息子娘でもそうなっている。だから親子とか家族と何なんだろうとなる

私の場合は親二人いたとして特別思っている。それは60年間以上一緒にいて特別良くされたからである
別に働かなくても何も言われなかった、旅していてもかえって奨励されていて働けと言われなかったのである
だから私は家に引き込もり自分の好きなことを追及してきたのである。それが自分の性にあってたのである。
だからそうして生かされたことで特別親に感謝しているからこそ介護でも懸命にしたのである
死んでからも供養しつづけている。
ただ一般的に結婚して子供を持つとなかなか親のことを思わなくなる。新しい家族のこと、妻や息子のことで家族のこと、妻や息子のことで精一杯となるからである。

それにしてもそれが事実でないにしろ何か悲しいものを感じた。親子とはそんなものなのかと思ってしまう。
そして子供の時、いろいろと子供を世話したことなどを懐かしんでいる。でも、子どもはそのことを忘れるというか、そんなに。思わない、ということである。その残された親は一人で暮らして悲しんでいるだけだとなる。

そこで一番感じたのは母親が作ってくれた料理がありそれを干し柿とか漬物を持って行ったが無駄になったとか悲しんでいたことが身につまされた。それはただ店で買うものとは違う。母親の愛情がこもったものであり手作りのものでありそれをお金で買うというだけのものではない親の心がこもったものなのである。
なぜ、そのことを感じたのかというと私の親はみんな死んで私はただ料理が面倒だから買うことだけであり。誰も私のために料理を作って来る人はいなくなったからである。ただもしかして妻がいればその手料理を食べれば母親がいなくても代わりになったから補われてそれほど思わないかもしれない。

でも、今や私のことを思い私のために何かをしてくれる人は一人もいなくなったのである。
だからこそ、余計に親がいたときは良かったとして特別そのことを感謝して思うようになったのである。
そして大正生まれの母親の好物が干し柿であった。貧乏な時代を生きたからである。それで干し柿を遺影に献げているのである。

何か孝行したいときは親がなしと言われたのは。それは親が早く死んでいたからだとなる。今は、必ず高齢化で親は子供は親になってもまた生きている。そしてその親のことを子供は思わない。

親孝行したいときは親は死んでいる
親はいつまでも生きていても親孝行されない

これも時代の変化でそうなった。時代によって家族も変わってしまうということである。だからそれを悲しんでもどうにもならないのかとなる。それで幼馴染が親切にしてくれるのでそれは慰めとなっていた。
つまり現代ではなかなか娘、息子に頼れない時代になっている。その娘、息子にしても。親に遺産があるとすると、それだけが目当てになる。だから一体何のために子どもを育てたのかとなる報われないとなる。

ともかく、こうして高齢化社会というのはいろいろな問題が生じてきている。それは、今までに経験したことがないからである。

寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し

「荘子そうじ」外篇・天地
「男子多ければ則(すなわ)ち懼(おそ)れ多く、富めば則ち事多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」
兄弟が多ければ争いの心配が多いし、富が増えればそれを守るために煩わしいことが増えるし、長生きすれば世の辱めを受けることが多くなる

今なぜ老人が問題になるのかそれは長生きでありその老人でも本当にまともな老人はいるのかとなる
老人をみていると何か心がまがり人格が歪められた人が多いように見える。それはまるでダンテの地獄編を見るようである
結局罪を犯して生きてきてまた人間の愚かさが現れる。体も醜くなるが心も醜いものとして否応なく現れる
つまり人生の最終決算が現れる、罪ない人は一人もないというとき老人は人生の総決算として現れるのである
だから本当は早く方が死んだ方がいいとまでなる。醜さをさらしてまで生き続けるのはかえってうとまれ嫌悪されるだけだとなる

でもそれを自覚している老人はまれである。かえって出しゃばり迷惑をかけても恥じることがないとなる
つまり人間はいくら長生きしても何か人間として完成されない、何かみんな歪んでいる、それは過酷な人生で歪められたこともある。私の母は継母の育てられて歪みまた働きずめで花などいらないとなり人格的ぬ歪んだものとなった
それは同情すべきだがとにかく老人は人格的に歪んでいる人が多いのである

要するに老人だけの問題ではない、別に若い時からすでに人格が歪んでいる人は普通にいる
そしてビジネスで成功する人はサイコパスだとか言われるのもそうである。成功者でも人格的に歪んでいるとなる
またそうしなければこの世では成功しないとなる。だから別にその延長として老人になるのだから当然歪んだ人格になる老人が多いとなる

2025年04月20日

アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命? 【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】


アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命?
【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】



アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ハーバードを恫喝するトランプの「リベラル狩り」に大衆はなぜ喝采送るのか…背景に米国の低学歴層が抱く反知性主義

なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】
【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働

クメール・ルージュ政権は頻繁に、専門家、知識人、仏教僧侶、少数民族だけでなく、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いで誰も彼も逮捕して処刑した。型にはまったように、眼鏡をかけたり複数の言語を話したりといった特徴で知識人と見なされれば、クメール・ルージュに反抗するおそれがあるとして処刑された[71]。、ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

ただ高卒の人で大工さんであり庭師の人はその人も何か人に負けたくないという気持ちが人一倍強いのである。それで大工だけではなく庭師もするようになった。田舎だとやはりいろいろなことを要求されるからそうなったのだろう。だからその人は才能があるのであるただその人は異常なほどに人に負けたくないという気持ちが強いのであ。だから私に対して大学出ているということでそれだけで何か自分が劣っているということを感じでマウントしてくるのである。

そして本に対しても憎しみを持っている整理したりしてこんな本はいらない捨てろとか言っているのである。それは別にそういうことはかつて歴史でも起った。知識人が時の王様を批判したとき憎まれて焚書坑儒があり書物が焼かれたりしたからである。まだ中国で文化大革命が起きたときやはり知識人が農家に地方の農家に働かされるようになったからである。下放ということがなされたからである



アメリカが今トランプ大統領になり何が起きているのか、

アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ラストベルトというときそこは製造業でありITとかコンピューターを駆使したカルフォルニアとかの金融業主体の人達とは違う
何かそうしたものに反発する人達がいる、それは自ら汗をかき物つくりをする人達である
それは工場労働者だけど更にさかのぼれば職人である。最初のアメリカ開拓時代は農民であり職人であり肉体労働者であり
その人たちを賛歌したのがホイットマンだった。体で身に着けて人格を作るとしていたからである。
それは職人気質とかが作られた日本とも似ている。そこに誇りを持っていたのである
またその人達の価値は認められていたのである。

だから不思議なのは製造業のラストベルトというとき錆びついた工業地帯で働く人たちがないがしろにされて誇りすら奪われたとしてその人達を代弁しているからトランプは大学を有名大学でも攻撃している
何かこれが毛沢東時代の知的労働者でも下放されて農村で働かされたと共通している。習近平もその経験をしている
またカンボジアでは眼鏡をかけているとかだけでもまた医者ですら粛清されて殺された
それは始皇帝時代から焚書坑儒があり知識人が殺された。それも恐ろしいことである
つまり今起きていることは時間軸で見れば形は変わってもカルマの再現だとなる

現実の私の家のリーホームした大工さんは本を捨てろとか何か知識人であること自体を憎んでいた
ただ私は別にその人を軽蔑したわけではない、むしろ賞賛していたのである
なぜならその大工さんは庭作りから壁塗りからといろいろできる人でありそれで他の大工さんと違っていたから誉めていたのである。でもその大工さんは知識にうといからわからないからそれで反発した
でも家とか建築のことについて詳しいから感心していたのである

つまり人間には歴史をたどればこういうことがあった。僧侶とかでも反発されてたのは知識人だからである
それが共産主義というときマルクス主義という時知識人が現実に導いたものである
そしたらマルクス主義者自体が知識人であり殺されるとまでなっていた。それもおかしなことである
ともかくアメリカ人はホイットマンの時代に郷愁を持っているのかとなる。ホイットマンのように肉体労働者が賛歌された時代である。それは数字を操作する金融業の人達とは違っていたのである

なにかそれが偽りの労働であり人をだますものでありそれでハーバート大学の人はそうして作り出す投資信託であれ金融商品が詐欺だとして良心の呵責に耐えられず辞めたとかある
また日本の銀行員でもそういうことがあり生きがいを感じられず農業に従事したとかなる
何か労働という時、農民が米を野菜を果物をじかに作るとき天に神に感謝する、そのときそのとれたもの食べるとき買うのとは違い特別な喜びがある。それは大地と結びつき天と結びつくからである

何か労働というものが世界的に荒廃している。『西洋の敗北』エマニュエルドットでプロテスタンティズムが失われてしまって空虚化したというのは理解できる。労働は宗教的行為としてもあったからである、何かトランプ大統領が福音主義者の応援を受けているという時も良き古い時代のアメリカへ復古するということである。それだけ何か精神が荒廃したからだとなる

グレートアメリカアゲンとは復古主義である。それは何か西部開拓時代のフロンテアスピリッツの回帰だともみる
つまり日本だって歴史だとそうした復古主義は必ず起きる。日本なら本居宣長の国風文化の見直しがそれである
また明治以降でもやはり戦前を戦争でもそのとき日本人が一体化したということでなつかしむことがある
そういう復古主義は必ずどこでも起きる。つまり何か世界的にいくらグローバル経済になってもそこに精神の空虚さが生まれていて復古主義が起きるのである。グローバル経済は道徳なき経済でありそれで世界的に物だけがやりとりされるもので精神は荒廃したとなる。

ただアメリカはもともと内村鑑三が留学した時代から金一辺倒の社会でそれを嫌っていた。アメリカは移民の国だからアメリカンドリームの一攫千金を得るために移民がある社会になる。億万長者が生まれる国なのである
ただアメリカには物質主義であり文化ない生まれない国である。それは歴史が短いからである
中国を奈良時代に習ったのは高度な文化があったからなのである。まず漢字はその文化の最たるものであり文明とは文で漢字で明らかにするものだともなるから漢字を取りえれることで遣唐使を派遣したともなる
アメリカに文化を習う取り入れるとかはない、科学技術を取り入れるとしても何か文化を取り入れることはない
だから世界でアメリカを尊敬するということはない、ただ軍事力と経済の物質主義の国だとなる
それは西欧文明とも違たものである。民主主義といってもそれは文化ではない、行詰まっている
とにかくグローバル経済自体が行詰っている。それはやはり文化を創造しないからだとなる



posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月19日

長閑な故郷−古墳の町【長閑、タンポポ、蟻穴を出ず、春霞、桜、チューリプ、、】


長閑な故郷−古墳の町【長閑、タンポポ、蟻穴を出ず、春霞、桜、チューリプ、、】

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家の庭に古墳がある、二つある。それだけ古墳が多い

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蟻穴を出でて喜び遠くへと

家の前タンポポあまた増えにけり

春の日やぽかぽかあたたむ古墳かな

我が里に古墳いくつか長閑(のどか)かな

春霞連なるや山の屏風かな

自転車に走りゆくかなつばめ飛ぶ

竹しなり自転車走る里の道

チューリップ駅の案内模様替え


長々と柳のたれてこの道や桜も映えて菜の花も見ゆ



玄関を見たら蟻が一匹動くのが早いかなりたちまち遠くへと進んだ、それもは早かった、穴から出て喜ぶ動いたのかとなる

今日は23度で暑いくらいである。だから長閑となる。古墳の町とか宣伝しているけど何かぽかぽかとその小さな古墳を春の日があたためる感じにもなる。死者が眠るのかその死者も気持ちいいとまでなる
阿武隈山脈は屏風のように連なり霞む。

駅の案内は新しくした。でも駅はずっとかかわっていない、閑散としている。チューリップがいい、でも常磐高速道路のSAと比べると余りにもその差が大きい、駅に人の出入りは少なすぎる、一人くらい駅に待っているとかなる
そして駅前の自転車屋の人は死んで淋しいとなる。
ただ駅は街と直結している。でも常磐高速のSAから街に来る人はいないのである。分離しているのである
だから街を活性化することにはならないのである







2025年04月18日

桜咲く谷野原ー玉野村−霊山ー飯館村へ【霊山南朝滅ぶ短歌−北畠顕家の死と桜】


桜咲く谷野原ー玉野村−霊山ー飯館村へ【霊山南朝滅ぶ短歌−北畠顕家の死と桜】

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谷野原

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玉野村

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霊山紅彩館

【飯館村】

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木戸木(ことぎ)



かなたへそ峠を越えむ燕来る

峠越え燕飛び交う季(とき)は来ぬ

上り来て朝の耕し金谷原

一すじの滝のひびきや朝桜

大滝の響き芽吹きや登る坂

拓けたる玉野の平地春野かな

梅匂う遅きも玉野の平地かな

玉野にそ梅の匂うや休むかな

君子蘭広間に休む窓映る

【飯館村】

菜の花の匂うや山の穏やかに

栃窪に灯ともりあわれ蛙鳴く




横川の朝にひびける流れかな桜の映えて更に奥行く

石一つ据えて金谷原誰か住む枝垂桜や街は遠しも

老いてなお坂を上るも春なれば他所の桜を見むと欲すも

おのがじし満ち足り咲くや君子蘭窓に映りて我が休むかな

【北畠顕家花と散り南朝滅ぶ】

霊山に春風唸る南朝の城そここにと時は過ぎにき

春風の霊山に唸り武士(もののふ)の城にありしも南朝滅ぶ

霊山の巌黒々と春の風唸り吹くかな武士(もののふ)籠る

春の風唸り吹くかな時は過ぐ山は変わらじ人は変わりぬ

朝の滝轟き桜一時の栄いにあれやはやも散りなむ

朝の道桜咲き継ぐ霊山へ滝そひびきて風の荒らしも

春の風唸り吹くかな霊山に顕家若く花と散るかな

顕家の駆けゆく姿りりしくも花と散るかな風荒く吹く

風荒く朝に散る花顕家の一時映えぬ武者姿かな

目覚めれば花のあまたの散りにけり風吹き唸り夢の跡かな

(木戸木)

木戸木(ことぎ)にそ桜咲くかな十本ほど幾人かここに住むもあわれも



今年が風は強く吹く、自転車だとまともに風を受ける、ただ車だとまたそうした自然を風でも感じないのである
それで自然と一体化しないから俳句でも短歌でも詩も作れないとなる
今回は春風でも荒く吹いたからである。それで霊山についても風がうなり吹いたのである

この道は歴史の道でおある、霊山が炎上して逃れたのがこの道だからである。落武者となって相馬市であれ南相馬市の鹿島区でも逃れた。特に鹿島区では日吉神社があり逃れた一族の根拠地となった。その一族の只野氏の姓が本当に多いのである
50軒とかあり原町区へも相馬市へも拡散している。だからなぜこれほど多いのかとなる、その一族は繁栄したとなるからである
南朝の将軍北畠顕家は21才で死んだ、これは早すぎる一瞬の光芒を放ち死んだとなる。

ただどうして霊山のような山で生活できたのか?前は相当の数の僧が修行していた、でもその食料などどうして供給したのだろうかとなる。山を登り運ぶにも大変だし誰が供給したのかとなるからである

太平記』の物語では、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、「これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから」と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。

これはやはり霊山では食料に苦労したために食料を確保する強引なものになった、それは霊山での経験でそうなったというとき
事実からそうなったとなる

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金谷原では松母姫が死んだ。その碑がある。霊山から逃れてここで死んだ。横川の橋のたもとでここに住んでいる女性と語ったことがある。その若い女性は歴史クラブに入っていて詳しかったのである。

松母姫ここに死すと語りけり横川に咲く桜を見て暮る

電動自転車の問題はバッテリーが意外と早く切れることである。それで霊山できれたのであととで苦労した
坂だと歩くほかないからである

飯館村の木戸木(ことぎ)を回ると暗くなりつつありそこに十本くらいの桜が咲いていた。そこに住んでいた人は何かその桜を植えた話を語っていた。その人はその桜の咲くところで畑仕事をしていた。でも85才とかで体が弱り苦しいと言っていた
だから今はその畑は放置されているしそこに住んでいるかどうかもわからない。
ただあのような不便なところに住んでいて車もないし80才過ぎるとかなると暮らすのも難儀である
なぜなら配達してもらうとかバスをまって買い物しているとか行っていたからである、今そこに住んでいるかどうかもわからない、飯館村ではそもそも原発事故以後二割くらいしか残っていない、それも老人が多いから村が維持できるのかとなる
玉野村小学校でも廃校となり臼石小学校も廃校となりと廃校になる学校が本当に多いのである

ともかく自転車で行くのもだんだん苦しくなる。ただ人間は日ごろ筋肉でも鍛えていると老人でお強化される
なぜ疲れたとなれば冬の間運動しなかったからである。それで筋肉が弱ったのである。だから日頃運動していれば筋肉は強化されるのである。

それにしても今日も風が強く桜はかなり散った。山の方は咲き始めえもありまだ散らない、気候の差でそうなる
ただ飯館村では咲いていてのである












2025年04月16日

アメリカの覇権は終わる―関税問題はそも徴候 【ローマ帝国が東西に分裂したようになる―貨幣も別々になった】

アメリカの覇権は終わる―関税問題はそも徴候
【ローマ帝国が東西に分裂したようになる―貨幣も別々になった】


アメリカが世界の富を集めている、グローバル経済で収奪している。そう、見ていたがアメリカにすれば逆に世界から収奪されているのだということで関税をかけることになった。アメリカは世界から輸入するだけで輸出するものが限られている。
アメリカの製造業は衰退した。世界から輸入ばかりしていたら当然国も貧しくなってくる。
でもなぜアメリカではそんなに輸入できたのかということである。外国から物を買うことができたのかということである。

アメリカの主要な産業はITと農業であった。農業は主要産業でもあるというとき、その広大な土地がそうさせたのである。日本の農家と違ってその生産力は百倍にもなるという。それだけ平坦な土地があり。日本の零細な農業とはまるで違っているからである。その農業にしても関税が高くして買わないとなり農家が大打撃になる 。ブラジルからとか輸入するからとなる
経済は生産と消費があり。いくら作ってもそれが消費されない売れなければ作っても無駄だとな
る。アメリカは世界の巨大な消費地であった。でも自ら生産しないで消費ばかりしていたらその国は豊かにはなれない。
アメリカはそこで行き詰まってしまった。

でも、消費というとき江戸時代の江戸は大消費地であり何か生産しているわけではなかった。侍は別に何か生産していないからである。要するに、ただ消費するだけだったのである。ではなぜそのようなことが可能だったのか。
それは政治的軍事的機能はあり参勤交代でもそれは無駄なようで消費するだけでもやはり経済的効果をもたらしていたのである。それによって宿場町ができてその街道筋も栄えたのである。でも、侍は何かを生産するということはなかったのである。
それとアメリカは似ているかもしれない。輸出するものは少ないにしろ軍事大国であり世界の政治的中心にもなっていたからである。つまり、大消費地になっていたのである。アメリカ人はたとえ、金がなくてもクレジットカードで消費しているのである。だから、その借金も膨大なものになっている。国自体が外国からの国債でその金額も膨大だからもし中国であれ、日本であれその国債を売ればアメリカは窮地に立たされる。

ともかく、アメリカはなぜ高い関税をかけるようになったのか。それはトランプだけの思いつきでもなくアメリカ全体の経済的問題として、必然的にそうなったとしている、売るものがなく借金しても買ってばっかりいたらその国はとても持たない。ただ、アメリカはドルが基軸通貨であり紙幣を刷ればそれでなんでも買えばばいいとなるかなるか。そんなこと続かないわけである。とても金融だけの経済では行き詰まってしまうのである。経済と政治は一体でありその経済を無視して政治だけでは覇権国になれない。アメリカは経済大国だったからこそ、覇権国になりえたのである。その経済が衰退する時覇権国にはなりえなくなる。

その基軸通貨のドルでも。世界的信用を失ってゆく。それはローマ帝国でも東西に分かれたとき別々の貨幣となり衰退したと同じである。つまり、世界的にドルの価値が下がり基軸通貨でなくなり中国の人民元がグローバルサウスでは基軸通貨となってゆくこともある。つまり、アメリカの覇権は失われて、世界も分断されるということになる。
ローマ帝国も政治と軍事力、軍事力で大帝国になっていたが東西に分離して貨幣も別別のものになり、衰退したのである。

だから今、アメリカもローマ帝国のようになってゆくのかもしれない。アメリカのドルはもはや基軸通貨として維持できなくなる。政治力と軍事力だけでは覇権国になり得ないとなる。今、世界はそういう岐路に立たされているのかもしれない。
アメリカの国自体が。内部から崩壊して行く。政治軍事力だけでは維持できず。やはり経済的問題として維持できなくなる。
アメリカは世界から孤立して行くのかとなる。世界の警察とか言われたが、それも維持できない。それだけの経済力もなくなってきている。何か武器すら製造できなくなっているという。だから。軍事力と政治力はその裏付けとして、経済力がなければ成り立たないということである。それは表裏一体なのである。

ただ、そうなると日本の立場は中国とアメリカに挟まれて苦しい立場になる。でもアメリカに頼っていればいいという時代は終わった。となるアメリカはアメリカファーストになり自国を守るだけで精一杯になってしまう
でも中国に従うのかとなるとそれも難しい。中国の属国となり奴隷化されるかもしれないからである。それは日本だけではない。世界的にアメリカに頼ることはできないしパックスアメリカは終わったということである。
それでまた世界が分断されて第三次世界大戦が始まるという人もいる。群雄割拠の戦国時代になるのかともなる?
いずれにしろ日本の外交は相当に難しいものになる。

日本はそもそも。東西を結ぶものとしての地理がある。世界的役割があった。中国に先んじて西欧化したのも、そのためであった。ただ逆に、その東西の狭間で分断されるということにもなりかねないのである。ともかく、世界の覇権は常に移動してきたからやはりアメリカもその覇権が維持できなくなる移動してゆくそれは避けられない。となるそういう歴史の転換点に来ているということを認識する必要がある。アメリカの覇権の一方的関係は終わったということである。その次にどうするのかとなると日本は相当に難しい立場になる。でも、政治的には混乱しているし経済も衰退しているからこれまた危機になる。
すると挙国一致内閣作り対処する他ないかもしれない。右とか左とかで争っている時ではなくなるかもしれない。
確かなことはアメリカの覇権は失われてゆくということである。



2025年04月15日

春の雷の俳句連作 【春の躍動の詩】


春の雷の俳句連作 【春の躍動の詩】

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活動や鳴り響くかな春の雷

新しき事起こりなむ春の雷

停滞を破り鳴りなむ春の雷

日本を新たにせむや春の雷

未来へと四方に轟く春の雷

天来の声轟くや春の雷

春の雷新発見や進みなむ

天才のまた一人い出む春の雷

天よりそ霊感を得む春の雷

不意をつく驚天動地の春の雷

船出せむ海にも響く春の雷

満開の花に轟く春の雷

老骨も蘇らむや春の雷

坂のぼり鍛える若者桜咲く

川流れ場所を移りて桜見る




春の躍動


巨きなる山に挑め

その頂上を極め征服せよ

そして天に上らむ

そこにいくつもの天の宝庫あり

その扉を開けよ

停滞を打ち破れ

一つの場所に囚われるな

灼熱の溶岩の山

海を望みかなたに飛翔せよ

突然は春の雷は鳴りひびき

強烈な閃光が走る

いたるところに桜は咲き

日本よ、停滞を打ち破れ

新しいは発見のあれ

新し詩の起これ

躍動する自然に合わせよ

汝は大いなる山に登り挑戦せよ

果敢にぶち当たりその山を征服せよ

汝は頂上より天翔り神にまみえむ

牡丹の芽は未来へ大きくふくらみ

タンポポはどこまでも咲き続く

大輪の花は遅くも開花する

そして海に出て轟き響く波の押し寄せる

自然とともに躍動する者よ

血は湧き踊りめぐる

神の栄光は自然にあり

その業は限りなく魅了する

そのインスピレーションは絶えることはない

汝は地球を宇宙を詩う者なれ

創造主なる神に習え

常に創造を試みよ

新たな未来は開けむ










2025年04月14日

相馬市の城下町の夕桜【初蛙、燕来る、夕桜、夜桜、春の雷、和紙、、】


相馬市の城下町の夕桜【初蛙、燕来る、夕桜、夜桜、春の雷、和紙、、】

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初蛙我が家に向かい鳴きにけり

初蛙我なお生きむ我が家かな

新しや路地裏にも燕来る

復興や松川浦に燕来る

女高生相馬の城下夕桜

若人の声のひびけり桜かな

城下町老舗の菓子屋夕桜

よどみなく桜に満月昨夜なれ

夜桜に雷の閃光続け様

春の雷あとに満月の光輝かな


移り住み建てにし家や石すえて枝垂桜の色濃く垂れぬ

夕暮れに堀に映れる桜かな相馬の城下灯ともるわわれ

城跡に咲きし桜に夕日さし土地の人なれしばし語りぬ

桜色淡くも染めて城下町店の灯ともり細き道かな

城下町和紙に映えるや夕桜その色しみぬ店の灯ともる



昨日の朝に蛙が大きな声で我が家に向かい鳴いた。冬眠から目覚めて鳴いた。それがなんともいい感じだった。
空家が増えているから人が住んでいなければ家も死んでいる。蛙が鳴いても空家だったら活きてこないとなる

松川浦から相馬市に行った。曇っていたが夕べになり晴れて来た。桜は満開だった。黒橋を相馬高校の学生が走り上っていた
柔道部で訓練していた。城跡の桜は満開で夕日がさしていた。相馬高校は城跡のすぐ近くにある
相馬女学校というと古いので長刀(なぎなた)を習っているのはやはり城下町であり侍の伝統があるからそうなる

城跡と言っても何かそこで歴史を感じるものがない、城があれば感じるが何にもないから感じにくいのである
ただ町割りとか城下町になっているから南相馬市の原町区とは違っている

何か和紙というのが日本的でありその感じが何となくいい、曇っているようくすんでいて真っ白なものとも違う。また厚みがあるも違う、ざらざらした肌触りもある。何か城下町であれ和紙が似合うとなる。

またお菓子屋というのはその店独自のものを味を売っているので生き残る、普通の店はスーパーができてシャッター通りにな

っても生き残る。何か丸森の金山とか街の中心でなくても菓子屋はあり成り立っているのである
それは自家生産であり独自の味をつくりだしているかなのである。同じものを売っていないからである

近くに原発避難区域から移住した人の家でもすでに十年とか過ぎるのか石をすえ枝垂桜が咲きその色も濃くして落ち着くとなる

家に帰り夜になって稲妻が走り雷が轟いた、春の雷である。それも三回くらいつづけざまに光った。
なんか今年は風が吹き雨がふり雷がなり稲妻が走る荒れ模様である

そしてたちまち桜も散ってしまうとなる。なんか波乱気味なのか、穏やかではない、ただこれからどうなるのかはわからない

よどみなく桜に満月昨夜なれ

昨夜は満月が満開の桜に輝いていた。今日は一転して雷であり稲妻が光った。変化が激しいのである

それから今外で見たら満月が輝いていた。これだけ自然の変化が今日一日であった

春の雷あとに満月の光輝かな

日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少な


日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少ないから大規模化できない
【人間は自然の風土地理を無視して生きられない】


文明は基本的に地理とか風土とかにより作られる。日本は海と山の国である。平地が少ない、だから海彦山彦の神話になる。そこに平地で暮らす人々がいないのである。平地の民が大陸では普通である。山により遮るものなく大きな川がさえぎるものとなりそこが境界となる。それで日本は実は農業に向いていないと最近大規模農業を始めた若い社長が言っていた
山間部は平地がないから大規模化できない、未だにそうしたところの農業は零細な農家が多くそれで農業では今は苦しいとなる

大規模農業法人が実現するとすれば、地域には少ない人しか住まないことになる。例えば、人口1700人の北竜町で考えてみれば、1700haの水田を1法人が300ha経営するとすれば6法人で可能だ。各法人が数人、たとえば、5人の正規従業員を雇っても、全員で30人に過ぎない。つまり、生産性、コストを追求するとなれば、結局のところ、少数の人間しか住まない地域となる。

日本で大規模農業は可能なのか?

中山間地が多い日本では共同で農村を維持してきたが、企業的農業だけでは農村は守れない。また企業が参入しても採算が取れず出て行けば農村が消滅してしまう。一方で小農は自然を有効に活用し、食料自給率の向上や食の安全を保障し、農村を守る

何かテレビでは農業の会社経営者が法人化して収入を上げて若い人が働いていることを報道した。つまり大規模化して機械化してスマート農法で生産性をあげ効率化する。それは山村部ではできないとしている。平地ではないからである
中国でも麦を収穫するのにコンバインで一気に刈り取りできたが山間部が平坦でないのでできないんでやはり出稼ぎの人が人力でしていた。そこには中国でも機械によらないで人間がするほかないほかないのである
それで平坦な地でも機械で田植えできない所が残りそれは人力でしていると聞いた
何事すべて機械化できない、必ず人間の手が必要になる。それはAI化でも同じである。全部答えを出してくれわけではないのである。そこに幻想を抱じすぎると問題になる

人間はそもそも風土の影響とか地理地形の影響から逃れられない、これはいくら科学技術が発達してもできないということが農業は特に風土とと天候とか地形とか自然条件により規定される度合いが強いからそうなる
工業製品を作るようなわけにはいかないからである。自然を相手にしているからそうなる。農業は文化の基だからである
cultureはcultivate(耕す)から来ているからである。それでワインでもその土地の風土により味が違って名前でもその土地の名前で売り出している。まさに文化なのである。農業は工業製品のように規格化できないのである。また機械化にも限度がある制限される。その土地にあった適正を追求してあったからである。


それで大規模農業で成功した例をあげていたがそれもうまくかないとネットで読んだがそうなのかと納得がいく
ではどうすればいいのかとなると私には深く追求していないのでわからない。でも農業は自然と密接に結びついているからなかなか機械化できないことは理解できる。
そもそも気候であれ地形であれ地理であれ変えられない宿命的なものである。山を平らにできない、だから自然条件に制約されるのである。それで野というとき平なところではなく山の斜面を指している。山が多いのだからそういう地形が日本には多い
入野という地形がそうである。その野とは山の斜面のことなのである。そこに棚田があり段々畑があったりする
それは地形に適応してそうなったのである。

ともかく日本は平地が少ない、だから農業するのにも向いていないというのもわかる。飯館村の木戸木(ことぎ)で畑を作るのに土地を平らにすることで苦労したというのもそうである。奈良はならすからきているとか平坦にするということで苦労する
奈良とは実際は今の平坦な広い地ではなく山間部の斜面の野が起源なのだろう。田にしても県(あがた)から始まりそこが最初の
国の行政に組み入れられたからである。

何か農業は大規模化すればいいとか素人から見ればそうなのかとみるがやはり人間は定められた自然の条件に適合しないでは生きられない、それで行き詰まるのもわかる。海彦山彦の国だったという時縄文時代から日本で暮らすとなると自然を変えることもできないからそうなる。自然災害でもなぜ津波の被害が甚大になったのか、それは海側が魚をとるのに便利だからである
相馬市の磯部では被害が一番大きかった。村は壊滅して誰も住んでいない、なぜそうなったのか、磯部村の家が密集している海岸に集落が作られた。その後ろは田である。つまり田を作る平地には家はまれである。

もともと海であり海を埋め立てて田にした。そして津波で元の海になったのには驚いたのである。海を田にすること埋め立てすることは自然に逆らうことなのである
だから縄文時代にそうして海だったところには人は住んでいない、縄文時代の遺跡は発見されないのである。
要するに人間はいくら科学技術が進歩しても自然に逆らっては生きていけないのである。それは傲慢なことであり自然から復讐されるとなる。山に平地にできないしその自然条件を変えることはできないのである
科学技術にも限界がありそれを過信することは危険になる。

また別に米でもアメリカから輸入すればいいではないかとなるがそれにも限度がある。食料は安全保障でもあり外国から輸入できなかったらどうなるのか、外国に経済でも頼りすぎることは問題なのである。食料がなければ今度は外国に言いなりになる
独立も失われるである、だから中国では一年以上の食料を備蓄している。日本では一か月しかしていないというのも問題である。だから安い米を安易にアメリカからでも輸入するのは危険である。グローバル経済が何でもいいわけではない、その土地に見合ったものとして生活するように神が定めた。それを無視できないのである。日本は車だけ作っていればいいとなれば結局外国に食料を頼れば支配されることになる独立は失われるのである。

また過度なグローバル経済は文化も破壊する、その土地土地に見合ったものとして作られてきたものを破壊する
そもそも工業製品のように一様化できないからである。農業は特にそうであり過度なグローバル経済は文化を破壊する
それは人間の生活を豊かにするわけでもないのである、なぜなら人間は必ずしも物質だけなものだけに生きるのではなく精神的なものも求めているからである。だからグローバル経済が今うまく機能しなくなったのは人間の精神的な面も影響している
貿易は必要でも土地土地の国々の文化まで破壊するときもはや人間の生きる意義まで失われるとなるからである

posted by 天華 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月13日

日本列島桜の旅−短歌連作‐【記憶する旅をしろ】

日本列島桜の旅−短歌連作‐【記憶する旅をしろ】

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九州(平戸)

外国へ海は開けぬ平戸にそ朝の桜や按針の碑あり

入江にそ潮寄せける城ありぬ桜の咲きぬ日本なるかな

(瀬戸内海)

船の行き電車の行きぬ瀬戸内や桜咲き継ぎ駅いくつかな

日本列島浪打ちひびき桜咲く港いくつや蜑の船いず

瀬戸内の潮流れて島々や桜の咲きて鯛のとれるも

桜咲く天守望むや人盛り船の行き来に瀬戸内栄ゆ

明石城春の夕陽の映えにつつ船の行き来や桜装う

大阪城城跡広く夕陽映え集う人にし桜散るかな

淡路島城に月光り残る花一夜泊るもあわれなるかな

(京都奈良)

京都なる八坂神社の古りにける枝垂桜の優艶に暮る

古の奈良の都や古き壺飾れる店や桜に暮れぬ

花開く唐招提寺朝訪ね鑑真の死すは日本なるかな

(東海道)

日本列島浪打ちひびき桜咲く港いくつや蜑の船いず

太平洋陽は昇るかな桜咲く東海道に城いくつかな

小田原城海を望みて花盛り一夜泊らむ波の音ひびく

打ちひびく波の音かも伊豆の海朝の桜や富士を望みぬ

(東北)

小峰城(白河)小さくあわれ一本の桜のいわれ悲しくもあれ

二本松城をまじかに畑に人菜の花に桜錦なるかな

二本松夕暮れあわれ花の散る後そ訪ねて少年の碑かな

気仙沼大島に桜咲きそむる海を望みてなお寒しかも

古風なる城門入りて弘前城枝垂桜夕暮れるかも

日本の果て稚内に来ぬ六月に桜の咲きぬ旅の終わりに



40年前とかに九州の平戸に行った。そこが印象的だったのはこの辺の太平洋の海と違っていて入江になっているから
それが外国に通じていると直感した。按針の碑などがあったから実際そうだった。
とてもこの辺の海は外国に通じているとは感じない、荒涼とした海原でありいつも船二三艘くらいしか見えないからである

瀬戸内内海にしてもこの辺の海とは違う。島々がありその間を潮流があり船が行き来する。だから大きな船が島の間の水路から迫って来た時は驚いた。そんな大きな船が近くに迫って来たからである。


瀬戸内海には◎潮流(潮の満干で起こる流れのこと)が速い
瀬戸内海は小さな島がたくさんあるのが影響して潮流が速くなり、複雑な流れをするので海底の養分がかき混ぜられてプランクトンが増えます。
栄養豊富なプランクトンが生息していて、それを食べる鯛が成長しやすい環境が整っています。そのため、瀬戸内海で釣れる鯛は大きく、重量のあるものが多いです。

瀬戸内海は島が多いからまた太平洋とは違っている。絶えず船が行き来している。大きな船も行き来する

天離(あまざか)る夷(ひな)の長通(ながぢ)ゆか)ゆ恋ひ来(く)れば明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ

(柿本朝臣人麿)


瀬戸内海は海の道路にもなる。大きな船でも絶えず行き来しているからである。水道というのも水の道であり船の道なのである

 入川は福山城の外堀と海をつなぐ運河で、満潮時には外堀まで船で入ることができました。現在の御船町辺りには藩船をつなぎ留めるための御舟入(船溜まり)が設けられ、その周囲は船奉行をはじめ、船頭や水主(かこ)の屋敷に当てられていました。また川沿いに市が開かれ、活気のあるにぎやかな港町が広がっていました。

福山城が建てられて間もない頃ころ
,当時は,城のすぐ近くまで海水が入り込こんでいた ため,人々が生活に使う井戸水に塩分が混ざっていました。そこで,水野勝成は,城下町に芦田川の水を利用した上水道を整備することにしました。これは,江戸の神田上水などにつぐ全国で5番目の上水道でした。

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福山城の前はかなり海が迫っていた。日本の海岸は海が入り込んでいた.縄文海進がありその海が埋め立てられて田とになったり町になった。だから相馬藩で小高に相馬氏が最初に作った城が浮舟城と言われたのか、海が近く中世には海運が盛んだったのである。田になっている所は湊になり船の出入りがあり蔵院などあった。
南相馬市でも鹿島区の古代は塩崎に船着という地名がありそこまで海であり海岸の山で製鉄が行われて船で資材など運んだのである。現実に十四年前の津波で船着という場まで海の水が押し寄せたからである。

だから福山城の前はかなり海に近く江戸時代なると城まで水路が伸びて船運があった。入船町があるのもそのためである
他に四国でも現実に船が城まで入り城が港の役割をしていたのである。今治城とか高松城がそうである
何か相馬がその瀬戸内海の城を見て参考にしたという時小高城が海に近いから真似たとなる。

ともかく福山城で印象に残ったのは鉄道の駅があり今は城が駅なのかとも見た、つまり駅を降りるとすぐに福山の城に着くからである。旅という時目的地にアプローチする経路でかなり印象が違ってくる
もし船で入り城に入ればその感覚はまるで違ったものになる。だから福山の城でも海が見えないし海を意識できなかったのである。すると昔のことが実感できなくなるおが問題なのである

瀬戸内海はまた東北の太平洋とはまるで違っている。島が多く島で結ばれ古代からすでに船で行き来があった
だから大きな船が島の間の水道に汽笛を鳴らして入って来た時は驚いた。明らかに瀬戸内海は交通の海である。

日本は海に囲まれている。だから海と切り離せない地形であり地理である。東海道でもやはり海と通じている
吉田城でもアプローチが街から市電で来たが実際は川があり橋がかかり海が近かった。
海が相当に近い海に接しているともなる。でも市外から市電で来たので海を意識できなかったのである
だから旅は歩く旅であれ自転車の旅であれバイクの旅であれ電車の旅であれ船の旅でも印象が相当に変わるのである
海から城を望み城が港となる時城の役割を直感的に理解する。

春の風海より吹くや橋わたる旅人着きぬ吉田城かな

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大阪城の地理でも北側にはいくつか川が流れており、淀川を伝って京都に行くこともできます。
川を下れば海もすぐ。瀬戸内海を通じて西国ともつながっているので、とても便利な場所です。

海と川をつなぐという時川が道の役割をしていた。日本では森が多く道がない時川が道になっていた
だから城でも川を道として到達すれば港の機能があったとなる。
大阪も水路があり江戸でも水路があり海から舟で行き来した。ベニスとも似ていた。特に瀬戸内海は交通の海であり
大阪は地理的要衝になったのはそのためである。それは江戸城でも似ているのである。

東北に来ると小峰城(白河)となると小さい、東北の城は西のような豪壮なもながない、それだけの経済力もなかった
たた会津の蒲生氏郷の城は七層だったから見応えがあった。今の会津の城はそれから比べるとこじんまりしているからである
何か侍の娘が人柱として犠牲にされたというここがありその乙女桜の木がある。
何かこの城はおもちゃのように小さく見える。東北には大きな城はないのである

二本松城は塀しかないのか、山自体が城になっている、すぐ近く畑で働く人がいて桜に覆われていた
その景色が背後の安達太良山に映え景観がいいのである。

城跡に高く登りて春の日や四方見渡す福島県かな

廃藩置県で会津県と二本松県と磐城県が構想されていたことは納得がいく、二本松は地理的に福島県の中心に感じるからである

気仙沼となると津波の被害がひどかった。その前に大島に登った時桜が咲き始めいた。ただ寒かった。それは津波の前であり
津波の後は行っていない。津波の後は親の介護ともなり十数年旅していないのである
その後は何か旅しずらくなった。コロナ騒動もあったとか旅できなくなったのである、そして円安で外国人が押し寄せているしホテル代も高くなったからたびしずらくなったのである

桜がなかなか見れないのは咲く時期が短いからである、それでも私は稚内でも桜を見たのである。それは自転車で行き見たのである。それは6月だったのである、桜前線は6月まで日本列島を移っていたのである。
また韓国の古都慶州でも桜が咲いていたから日本列島だけではない韓国まで通じていたとなる

旅はまず旅を計画をして旅を実際に経験して旅を回想する、そこで盲点なのが旅を回想するとき忘れることである
30年40年過ぎると忘れる、だからいかにして記憶する旅をするかが問題になる。それで写真とかが役に立つ
でもデジカメがないときは記録するのも簡単にできなかった。すると頭に記憶されたものでたどるほかなくなる
でも簡単なメモでも思い出すに役に立つ、それを見て思い出す作業をするのである
ここでまた全国の桜の短歌を作ったのは思い出すことができたからである。


桜前線の短歌






















2025年04月12日

桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】


桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】

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梁川に攻防ありぬ要衝の地そも古りにしや春に訪ねぬ

攻防の拠点にあれや訪ぬれば何かありなむ春の梁川

阿武隈川蛇行し流れ渦巻きぬ桜の咲くやはるか来たりぬ

阿武隈川流れたぎちぬかなたにそ吾妻山望み春の日暮れぬ

大張や桜の咲きて白石へその道知りぬ夕暮るるかな

正宗の初陣の地なり丸森を治めて名づく筆甫なるかな

正宗の海を望むや磯山に椿の赤く映えにけるかな

金山城春の夕暮れ伊達思い相馬思いぬ我が帰るかな

丸森や夕べ桜の心染むともしびあわれ相馬に帰りぬ

桜咲く伊達と相馬の境かな玉野の家々古りにけるかな



伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって17代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[4]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった

伊達氏が本拠を米沢に移してからの梁川は、蒲生氏を経て上杉氏の領地となります。上杉氏支配の段階に梁川城跡は、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修が加えられました(図1)。北三の丸に残る桝形虎口や大規模な堀跡・土塁などは、この当時の姿を良く残しています


なお伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。



梁川は地理的に要衝の地だからこのように会津の蒲生氏と上杉氏と伊達氏がかかわったのである。その館があった所に池があったとか鎌倉時代にさかのぼる古いものである。ただ今はその遺跡でも土手くらいしか残っていないのである

ともかく伊達氏の起こりは福島県の伊達市である。宮城県ではないのである。だから正宗初陣の地は丸森なのである
金山城は相馬氏と伊達氏が交代で城主となった歴史がある。だから相馬藩の一部であったのである
それで相馬総合病院にその丸森の人が私が入院して同室だった。
その人がんだちゃと言った


東北人のずーずー弁は共通している
んだが語尾になる、

んだ
んだす 秋田県
んだちゃ 宮城県
んだは共通している、東北は蝦夷の地域である
ただ宮城県は仙台は商都でありそれでその語尾は

だっちゃ、だっちゃ、

となる、この語尾が特殊なのだ、これは大阪弁のように押しが強い語尾なのである
んだは口ごもるような言葉である、そういう傾向が東北人にはある
宮城県は伊達藩は正宗が出たように特殊なのである
あのような芝居かっかたような人はいないからである

んだちゃはんだ+だっちゃなのである。それは金山城の下に住んでいれば二つの方言が合体してできた方言だとなる
新地の人もだっちゃというとき新地は伊達領だったからである。それで訛りは国の手形となった
どこの土地の出身か訛りでわかる。


ともかく梁川では会津でも米沢藩でも伊達氏もかかわった。それは地理的要衝の地だったからである
丸森の木材資源でやはり米沢藩と伊達氏と相馬藩は三つ巴の争いがあったのもそのためである。
現実に丸森の金山城は相馬藩と伊達氏が交互に城主になっているからである

1564年(永禄7年)または65年(永禄8年)に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。

天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。

そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。

伊達政宗が領内検地した際、最初に記入した土地である由縁で「筆の甫(はじめ)」を意味して名付けられたとされる。

ともかく丸森は相馬の延長上にもある。梁川となると相馬藩からすれば遠くなるが丸森は相馬藩と一体ともなる地理なのである
だから正宗が丸森が初陣の地となりさらに海に出て山元町の磯山に正宗が休んだ場がある。その時正宗は広い海を見たのである
でも仙台とか松島とかそっちの方が伊達藩になったので伊達市になっていることがピンとこないのである

また伊達と相馬の境となっているのが玉野村でありそこは相馬藩なのである。それはやはり伊達氏と早い時期から対立してそうなったのである



丸森町】筆甫(ひっぽ)キリシタンを守ったマリア観音堂(2016)

ここが詳しいので参照

角田から丸森へ阿武隈川を行き大張村から梁川へ 
(新緑と残雪の蔵王と阿武隈川―短歌連作)











2025年04月11日

仙台市の夕桜【夕桜、花曇り―和紙の魅力】 kyoutsakura.jpg


仙台市の夕桜【夕桜、花曇り―和紙の魅力】

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仙台や人の往来夕桜

仙台や60万石夕桜

仙台の店店のぞく夕桜

城の跡謂れを語り夕桜

みちのくの黄金の御仏夕桜

墨汁の和紙ににじまむ夕桜

みちのくや今日も暮れゆき花曇り



桜が咲いてから風が吹き曇る、桜の季節でも天候は毎年変わるから違って見える
仙台市は何か特徴がない、商業都市であり観光には魅力がない、城下町でもそれも何か明確ではない
つまり特徴がないのである。第一青葉の季節はあっても桜は余り咲いていないからである。

今日も花曇りでありみちのくにふさわしのか、和紙は使わないがそれは実用品ではなく特別なものとなり
アートに使うとなる。和紙は曇った感じにもなるから花曇りにあっているのか、和紙自体が芸術品だとなる。
和紙自体が作るのに紙漉きがあり相当に手間であり苦労なのである
だから貴重になったのである




2025年04月10日

近辺桜の俳句【朝桜、タンポポ、スミレ、落椿、花曇り】


近辺桜の俳句【朝桜、タンポポ、スミレ、落椿、花曇り】

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十羽ほど山鳩集う朝桜

玄関にタンポポすみれ人迎ふ

朝桜椿百輪と映えにけり

相馬藩六万石や花曇り

奉納や二宮神社に桜かな

我が市に観光客まれ花曇り

夕暮れの小径や数輪落椿

淋しきや桜の咲くも空家かな


今日は花曇りだった。相馬藩は六万石である。小藩である。二宮神社は二宮尊徳を祭っている。この辺では常に語られる。
でも二宮尊徳は相馬に来ていないのである。その弟子は二宮仕法を学んで実行したのである。

写真はカメラにより映りが違う。ただきれいに映るのはレンズも重く持ち歩くのがめんどうになる
ただ写真を追求するとカメラとレンズに左右される
フェスブックは写真中心である。だから投稿するとききれいな写真をアップしたいとなる
カメラは持ち歩くと重いと嫌になる。だからカメラはいい写真撮るとなると結構苦労になる

私の場合はそこまで凝ってはいない、でも映像の時代であり写俳(写真+俳句)という分野が生まれたことでもわかる
正岡子規の写生俳句と写真は相性がいいからである
小径の椿の写真は方向を変えて撮ったら違った風に撮れた。撮り方によって違ってくる

それにしても空家が目立つ、桜が咲いても空家なのが淋しいとなる
玄関にはタンポポとどうしてかスミレも咲いた。どこからか種が飛んできてこんなところにも咲く
桜の咲く時期は短いから見逃してしまう。だから見れない桜がいくらでもあるとなる
この辺は外国人の観光客は来ない、今や日本国内をゆっくり旅もできない
つくづくこれがグローバル競争に負けることであった。円高では貧乏人も外国旅行できたができない
日本は貧乏国になったからである。






2025年04月09日

春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある


春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある

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春日さし昔大路と我が歩み古思ふ都の跡かな

春の日や無量光院跡その池に映す影や夢にしあらむ

御池にそ春の陽まぶし影映す無量光院夢の跡かな

みちのくの浄土にあれや大池に春日耀ふ仏いますらむ

大池に映りきらめく春の星いくつや美し浄土なるかな

大泉が池岸辺広く礎石かな柱太しも春の日暮れぬ

みちのくの都の跡の大池に映す桜やたちまち消えぬ

みちのくの都の跡や若草に春の光や虹の切れ端

みちのくの都の跡や我が歩み古思ふ春の暮かな

藤原の三代の栄華金色堂まばゆく映えて春の夢かな

金色堂螺鈿の光り御柱に細工こまやか仏輝く

風荒れて義経堂の桜かな波乱の一生みちのくに死す

春の日にはなやぐ女なお若く桜に映えて大和撫子

(北上川)

北上川流れや遠く石巻海にそい出や春の風吹く

北上川蛇行し流るその岸の広々として春の日さしぬ

北上川広き岸にそ遊ばんや春の雲浮き心なごみぬ



平泉だと近くだから何回も行ける、それで四季に行っている。春には虹の切れ端が残ったのを見たのが印象的である
平泉の魅力は堂塔伽藍が焼失してもそのあとに何か残されたものが自然の中にありそれが美となっている
大都会だと自然の中に映えないのである。だから残されたのは無量光院跡であれば何もないのである
でも前に池があったことをイメ――ジする。それがかえって美しく見える
平泉は都だったしてもイメージしないと浮かんでこないのである

ともかく美は自然と調和するところにあり、大都会のビルの谷間や雑踏には映えないのである
いくら人間が人工的美を作り出してもやはり自然のなかにこそ本来の美がある
不思議なのはなぜ太平洋戦争とかで300万人死んだのにそれが語られないのか?
でも会津の悲劇は語られるのはなぜかとなる。それは美があったからかもしれない
悲劇であっても人一人の悲劇が語られる、そしてその後は純白の雪に覆われたのである

太平洋戦争とかでは原爆の悲惨な跡とか東京の焼野原とか言葉を失う情景である、そこでは言葉にできない余りにも無残なものになっている。失礼にはなるが会津の場合は確かに悲惨なのだがそれが語られるのは美しい自然がありそこで繰り広げられた悲劇だったからともなる、そしてその戦の後はまた純白の雪に包まれたのである

人間の暮らしを神が隠したという時そうした悲惨な悲劇でも自然があれば純白の雪に包まれ消されるということがある
それが救いとまなる。でも現代の戦争はそういうことがない、東京の焼け野原は余りの無惨でありそこには自然がないから
自然に包み隠されることがないから醜悪なものがむき出しになった無惨がある
そもそも大都会は美は消失した場でありそれで空襲でさらに無惨なものとなったのである

まず大都会はそもそも美は消失した場所でありそこには醜悪なものがむき出しになっている
つまり自然に包み隠されているとき本来の美がある。だから大都会から生まれてくるのは醜いものとなる
カルト教団でもそうである。そういう場所には美は全く生まれない、山で修行した僧とは余りにも違っている
そこではだから美がなく心も浄めらえることはない、殺伐とした世界なのである

それと比べると平泉は確かに堂塔伽藍は消失したのだがそこに自然があり自然の美が映えているのである
都会でも盛岡市とか岩手山が映え弘前市だと岩木山が映える、そこには美がある。仙台市とかなると大きくなり美が消失する
それでも広瀬川とかありそれが潤いを与えているのである

北上川は大きな川である。その全容はわからない、ただ北上川は石巻まで通じて舟運もあった。それは陸奥を貫き流れているとなる。








2025年04月08日

南朝滅ぶ霊山の桜【山桜咲く大倉村‐佐須村ー石戸村ー石田村】


南朝滅ぶ霊山の桜【山桜咲く大倉村‐佐須村ー石戸村ー石田村】

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桜はや散りにけるかな滝ひびき落ち延ぶ武士(もののふ)南朝滅ぶ

もののふに巌の黒くも硬きかな夕べ桜の霊山に咲く

(親王桜)

丸森に形見と残る桜かな南朝語り夕暮るるかも

顕家の死ぬも早しも朝に映ゆ花の散りしも南朝滅ぶ

霊山を守れる城の巌硬く黒々として桜咲くかな

霊山を城と守りぬ月光り闇に咲きにし桜なるかも

横川に桜の咲きてあわれかな松母姫を土地の女語る


清らかに巌にひびく流れかな朝に見上げぬ山桜かな

風うなり山桜散る山間に流れの清く朝の空澄む

石田村桜に一つ大岩やここに暮らし歳月思ふ

大倉村佐須村あわれ咲く桜ここにも栄えし家のありしも


霊山神社は霊山の麓でも山を登った所で隠されるようにある。そこに北畑顕家の像がある
霊山から落ち延びた道は歴史の道である。その末裔が南相馬市の鹿島に住んだ。日吉神社は末裔の只野氏など落ち延びた武士が
祭った神社である。とにかく鹿島区には只野の姓の人が本当に多いのである。只野一族の町だともなる
それは南相馬市でも相馬市でも只野の姓の人がいるから繁栄したとなる

霊山城は十年存在したが炎上して南朝は滅びた。その落ち延びたとき扮装したのでそれが祭りとして残っている
宝財踊りである。


松母姫碑(福島県相馬市山上字横川)
 北畠顕家の愛妾として、萩の局、松代姫、松尾姫などの名が知られている。この松母姫碑は、松代姫の母のものといわれてる。

「浜通り霊山落城の痕跡をたどる」研修会を開催しました

これも霊山から落ち延びて残した遺跡である。それを横川の橋で桜の咲くのを見て土地の娘が語った。
相馬市の方にも落ち延びたからその途中でここで死んだのかとなる
顕家は21才で死んだ。余りにも早い死だった






2025年04月07日

満開の桜となるも夕べ風荒く吹く

満開の桜となるも夕べ風荒く吹く

夕風に咲きにし桜ゆすらるる落ち着かぬかな心騒ぎぬ

咲きそめし桜と見るもたちまちに満開となり夕風唸る

たちまちに桜満開さにあれど夕べに風の荒く吹くかな

昨日土手の桜を見たら一分二分咲いたのかと見た。今日見たら満開だった。これも早いと見た
夕べ夜に相馬市の方に行ったら風が温かく寒くなかった。だから温かくなったと思った
ともかく桜は咲いたなと思ったらすぐに散るのを予感する。何か最初から風が荒く吹いたことで今年は特にそのことを感じた
つまり桜は見ていても違ったものになる。また場所によっても感じ方が違うし天候の影響もある

桜の咲く時期が短いので桜は遠くだとなかなか見れないのである。大河原の方の一目千本桜でも去年行った時もすでに散った後だった

我がたずぬ千本桜の散る後やはるばる来しもむなしかりけり

桜は別にどこでも咲いているでもなかなか見れないのは咲く時期が短かすぎる。その短いゆえに桜を見ることを見のがすのである

未だ見ぬ桜の多しも日本にそ生まれ惜しむは桜なるべし

プログのいい点は時々刻々の変化を伝える、実況中継することである。なぜなら原町の桜でも早く咲き鹿島相馬市と桜前線は移ってゆく、その変化を伝えられる。でも別にそんなにプログを日々見ている人はいないだろう

どうしてか盛岡の桜は見ていない、桜咲く時期にうまく見れないのである。でも青森の弘前城の桜は見ている

船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)



2025年04月06日

原町の小川町に初燕【牡丹の芽、桜、鶯、落椿・・・】


原町の小川町に初燕【牡丹の芽、桜、鶯、落椿・・・】

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牛越城


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(鹿島区)

若草にノスリの飛ぶや朝開けぬ

十輪ほど朝の小径や落椿

誰が参る墓地にあまたの落椿

水無川清く流れて朝桜

牡丹の芽太しや庭の石重し


(原町)

小川町流れのひびき初燕

小川町桜に流れ初燕

原町や電車の音に初燕

夕鶯いづこに隠る藪深し

風唸り桜咲きそむ牛越城散るも早しや一時の城


昨日は初燕を原町の小川町で見た。初燕は感動的である。「旅路来て赤絵の町や初燕」有田町に来た時は初燕を見た。
初燕をどこで見るか今回は原町の小川町で見た。それもふさわしかった。原町は新興の市でありそれが似合っていたとなる
牛越城にはすでに桜がさいていた。そこは5年で終わった。城というより館があったとなる。

今日は朝周りを廻った。小径に椿が散っていた、あそこの道はいい道である。何か田舎は小径がありいいのである
水無川も流れて桜も咲き気持ちいい、鹿島区にも燕を見た。ただ土手の桜はまだ咲いていない、でも他で咲いているのもある。
咲く時期が違っている。


水無川が今日は流れて桜が咲く、結構水は出ていた。ここの水は清らかである。
ともかく桜は咲いた時から散るを予感する、咲く時期が短いからである

ひさかたの 光のどけき 春の日に静心なく 花の散るらむ 紀友則

静心なくというとき咲いた時から散るのが早いからそうなる。そして桜は咲く場所とか近くでも多様である
それで咲く時期が短いからなかなか見れないのである。桜だと車の方がいい、いろいろな場所に咲くからである
有名な桜の名所も多様だからである。とにかく花見の時期である、相当桜を見てきたがとても日本全国でも近くでも見切れない
それは早く散っていしまうからである


2025年04月05日

会津の悲劇はなぜ起きた【秋月悌次郎詩碑に寄す】 【明治維新は薩摩長州の横暴も美化された過ち】


会津の悲劇はなぜ起きた【秋月悌次郎詩碑に寄す】
【明治維新は薩摩長州の横暴も美化された過ち】


有故潜行北越帰途所得

行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん


碑の一つ無念を語り雪の降る
会津のもののふの義と忠の心
天皇にも通じるや残さる御歌
王城望み涙流るる悲憤の詩
その悲愁は満ちて雲惨澹たり
国破れて拠るべき無し
その悲涙は氷結して氷柱となる
その慟哭は地に響き天にも達せむ
血をもて地に記されしものの地歴
時を経て天地神明にして正さるべし
会津の峰々秀麗にし連なり
英峰は凛と隠れて聳えぬ
その碑に寒風吹きつくも
峠の道に後の世の形見と残しぬ
そはまた猪苗代湖浪打ち響きつ
白鳥の真白く映えて
その岸に忠節と松は立ちにき
その心は乾坤にも記さるるかな

会津の悲劇がなぜ起きたのか、それは明治維新が何だったのかともなる。それはいろいろ言われるようになった。
確かなことは歴史が勝者の記録であり敗者はないがしろにされる。明治維新は薩摩長州が勝利したのだから時の政権によって
美化されたのである。何か吉田松陰がテロリストと言われるようになったのもそうである
松下村塾はテロリスト集団が集まる場所でありそれが政権を取った人達、高杉晋作の奇兵隊に属していた伊藤博文などが
美化して語られるようになった。それに拍車を駆けたのが司馬遼太郎の小説でありそれは事実でもなく架空でも信じるようになった。そして水戸黄門でも水戸光圀とは実際の人物はかなり悪辣な人物だったというときそのギャップに戸惑う
テレビで架空の人物が作られそれが事実のように思わされる。その弊害が大きいものだった。

明治維新とはやはりマルクスの言う階級闘争だった。それも侍階級のなかでの階級闘争だった。何故なら明治維新の主役は侍の中でも下級武士でありその人達は貧しく身分で生まれつきで未来は決められて上に上がることができなかったからである
身分制社会というときこの辺の野馬追祭りで再現される。なぜなら侍であった家からしか野馬追に出れない、そして身分制社会の厳格な復活の祭りなのである。旗指物でも先祖伝来伝えられたものであり勝手に作れないからである
だから御行列が始まる時自転車でその脇を通ったらひどく叱られた。つまり無礼者として刀で切られることもありえる
そういう身分制が復活するのが野馬追いなのである
そうした身分制社会の厳しさがありいくら侍でも下級武士はその身分制社会で不満が鬱積していたのである。
それは福沢諭吉でも下級武士であり能力があっても上に上がれない不満があった。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は侍の中での上下関係があり身分制があり不満があって生まれた言葉である。ただ会津では侍が薩摩長州軍に責められているときヤーヤー一揆があったのは庶民でも税金に苦しめられてそうなった
だから身分制社会の不満は庶民いもあった。
身分制社会というとき会津市内に徒の町があるというとき東京の上野の御徒町(おかち)と同じである。馬を持たない足軽とかが住んでいた町だとなる。つまり身分によって住む場所も違っていたのである。そして相当に貧しかったのである。冬でも炭すらまともに使えない極貧だったともなる。

明治維新とは何かとなればこうした身分社会に不満な人達が上に上がるために起こしたものでありそれで奇兵隊となると別に侍でなくても成り上がるために足軽であっても参加したのである。そして伊藤博文が首相にまでなったことでもわかる。
彼らはそうして成り上がるために幕府を倒そうとしたのである。要するに侍の中での権力闘争だったのである。
尊王とかはただそうして錦の御旗として薩摩長州がでっち上げたものである。
なぜなら別に会津でも尊王であった

孝明天皇宸翰(こうめいてんのうしんかん)とは、1863年(文久3年)に、八月十八日の政変を行った礼に、会津藩主松平容保に送られた宸翰である。同時に、御製も送られた。これを松平容保は、竹筒に入れ生涯誰にも見せることなく、亡くなった。

たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる

「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ」

「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」

孝明天皇は公武合体を願っていた。その時会津藩と薩摩藩が官軍で賊軍は長州と藩と攘夷派公卿だった
孝明天皇は36才で急死した。それは長州よりの何者かによって毒殺された疑いがあるとしている

いずれにしろ長州と薩摩の横暴暴虐が明治維新として勝者になったので讃えられるようになった。でも平和裏に大政奉還を徳川幕府が言っていたのだから政権交代できたのである。だから別に会津でもそれほどの犠牲者を出す必要はなかった
それは長州の過激なテロリストと薩摩が合体してそうなった。第一徳川幕府でも明治維新はできた。薩摩長州が先導した結果
会津であれ東北列藩が犠牲になった。そしてその後の戦争も征韓論を主張した吉田松陰や西郷隆盛などにより日本が実行して
太平洋戦争へと向かう原因となっていたのである。薩摩長州の過激な思想が受け継がれてそうなったともなる
歴史は連続継続しているからである。








2025年04月04日

庭の奥に咲く白椿ーみちのくの桜は一分咲き(短歌)


庭の奥に咲く白椿ーみちのくの桜は一分咲き(短歌)

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雨しとと奥に隠れて白椿咲くを見てをり一人籠りぬ

奥に咲く白椿にそ雨雫曇れる日にや籠りけるかな

隠れ咲く白椿かな奥ゆかし我が一人家に籠り見るかな

一つ木に赤と白との椿咲く調和してそ美しきかな

みちのくの桜は一分咲きにしもなお冷たく風の吹くかな

家の前タンポポ咲きぬ通りをたまに人行く街に住むかな


昨日もその前も雨だった。だからめずらしくかなり川に水が出た。結構山の方で雨が降ったのかもしれない
何か冬は家に籠りまだ寒くなり家に籠る。窓から白椿が隠れるように咲くのが見える

椿でも一本の木に二色の赤と白とが咲いているのもめずらしい。その家は医院であrったが空地になった
ただ椿の木は残っている、結構広いと見たがその土地を利用する人はいないだろう
その周りの家も二軒ほど壊され空地となった、とにかく空家と空地が街中でも増えて来るのである

ここの桜は一分咲きである。風が冷たく吹いてきた。昨日よりはあたたかいが風が冷たかった。自転車だと風とかを常に感じる
タンポポが家の前に咲いた。通りをたまに人が通るがほとんど通らない。
ともかく外に出にくいから籠っているとなる

プログとかはその時々のことを放送するのに向いている。桜が咲くのは場所によってずれがあり桜前線があり北上する
西の桜が散ってもみちのくの桜は遅く咲きだす。その変化がいいのである
北海道の稚内では6月に咲いていたからである。

2025年04月03日

国とは何なのか、自然境界から作られた国 【福島県はなぜ地理的一体感を感じないのかー行政的人工的に区切られた県】

国とは何なのか、自然境界から作られた国
【福島県はなぜ地理的一体感を感じないのかー行政的人工的に区切られた県】


そもそも国とは何なのか?クニは区切るに由来するから区切らている一地域だとなる
それで会津のことを語って来たが

会津嶺の国をさ遠み逢(あ)はなはば 偲(しの)ひにせもと紐(ひも)結ばさね

会津嶺というとき会津は山また山の国である、奈良も国のまほろばとなったとき青垣山に囲まれた地域である

倭(やまと)は 国(くに)のまほろば 畳(たた)なづく 青垣(あをがき) 山隠(やまごも)れる 倭(やまと)し美(うるは)し」

これも山で区切られた一地域のことである。つまり山々が自然境界となった一地域が国なのである。日本の場合はそれだけ山が多いからそうなった。
だから福島県を太平洋に面した浜通りがあり中通リがあり会津があるけど一つの国となる地理的一体感がもてないのである
浜通りなら阿武隈山脈(高原)に遮られて中通リの福島市の吾妻山でも見えないから地理的一体感をもてない
つまり人間はまずその地理からアイデンティティ化して精神も形成される。だから心ーこころはここのことなのである
その住んでいる土地と一体化する。だからなぜ日本に小国という地名が多いのか、それは小さな範囲でもそこが国と意識されたからである。国とは今のような大きなもではない。

江戸時代の藩ならある程度は国と意識されたかもしれない、会津は会津藩で大藩である伊達藩も60万石の大藩である
でも伊達藩となると大きすぎるのである。だから違和感を感じるのはなぜ新地が伊達藩に属していたかである
海岸沿いで平坦な地であり何か区切られる地形でもない、ただ阿武隈川は大きいからそこで境界を感じる
つまり地理的には阿武隈川で区切らてそこで別々の国が形成されるとなる。

それはライン川でローマ帝国が侵入できなかった自然境界となったのと同じである。ラテン民族とゲルマン民族の境界となったのと地理的に似ている。たしかに阿武隈川を渡った岩沼から北になると仙台圏に入ったと意識する
それで不動産業の人が岩沼から仙台市の土地は二倍とか高くなると言っていた。岩沼からは仙台圏になるのである
だから地理的に見れば新地は自然的境界でないから正に不自然なものを感じるのである
境界でわかりやすいのは宮城県と山形県の境界が面白山がありそのトンネルが長いからそこで山形県と宮城県の境界だと意識しやすいのである。それで春でも残雪の山が見えるから山国で寒い国だとも意識する
トンネルをぬけると雪国だったともなる。
大陸では平坦な陸地がつづくから大きな川が境界となる、その川をめぐって国が民族が争ったからriverはライバルになる
何か地理がわかりやすいのである。日本は山が多くて地理がわかりにくいのである。

とにかく国とは行政的に区切られた人工的なものではなく本来は地理からみて地形とかに制約されて醸成されたものである。
江戸時代のは藩は地理的に一体感を持つものとして藩があった。ただやはり伊達藩とかなると大きくなりすぎていた。
相馬藩でも古代は磐城国であり今でも磐城太田駅とかあり磐城とつく名が相馬藩内にある。それは浜通リは地理的一体感を持つ地域だからそうなった。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも 

この大和は奈良の一地域を指していたのである。それが日本全国に拡大したのである。だから一つの小国が拡大したともなる
ただこの歌は天皇が王が治めるとなった地域であり王が存在して国として意識されたというときまさに国は一地域が囲まれてた地域としてありそこに王が存在して国となった。その王とは天皇だとなる
ただそれは今の国家とは違う相当に狭い範囲である。それは小国とある地名のように狭いのである
そこを国として意識したのである。言ってみればa small humanised countryとなる
だからその時天皇は雲の上にいるような人ではない身近な人だったから庶民と直接は語りかけたとなる

大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島

この香具山は高い山ではない、低い山であり飛鳥という一地域である。全国に国見山がる。南相馬市にもあるがそれは結構高く海岸が相馬市から双葉の方まで見えるのである
でも香具山は152メートルしかない。つまりその山は極めて人間の生活に親しい山なのである
だから小国というのにふさわしいとなる。

ともかく飛鳥―藤原京―平城京と拡大した時その規模も拡大したのである。そうなると人間的サイズではない大きな国と変化したのである。その国は江戸時代の藩から大国家となり何か人間的な小規模の小国の感覚が失われたのである

バス停や小国降り立ちスミレかな

霊山かあ福島市に行くと小国町がある。小国というとき全国にあり狭い範囲を国として意識したのである
うまし国ぞというときそれは人間的なものであり今の巨大国家とは似ても似つかないものだった
江戸時代の藩はまだ自然境界内にありアイデンティティ化することがあったが伊達藩でもすでに巨大化すると地理的一体感なくなえる。だからなぜ新地が伊達藩なのかともなる。
だから廃藩置県になったとき何か不自然なものを感じる。福島県は大きすぎるからである
そして浜通リは吾妻山も見えないしまして会津は全く見えない遠い地域になっている。それで一体感を感じないのである

いずれにしろこうして国は地理的一体感がある狭い地域のことであったが今や仙台市でも百万とか東京でも一千万とかなればそれはクニでもありえない、その巨大都市は怪物的都市であり人間的範囲を越えて東京タワーから眺めれば眩暈がする
国見どころではない。そこはどこなのか別な惑星にでお来た感じになる。それは人間の住む場なのかとなってしまったのである

廃藩置県では二本松県とか磐城県とか会津県とかになる予定があった。それは江戸時代の藩に基づいたものでありそれだと地理的一体感をもてたのである。人間が一体感を感じるのは狭い範囲になる。それが余りにも拡大化して一体感が感じられなくなったのである。つまりもはや人間的感覚をはるかに超えたものでありそこで人間同士でも一体感をもてないあからそこからカルト教団とかナチス的なものが生まれて来たのかとなる。何かヒットラーでも題目でも唱えると偽装でも一体感を演出できるからだとなる






2025年04月02日

人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難 【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


人間は環境の影響が大きいー他者の家族の理解の困難
【不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ】


不幸の原因

●家族の影響
●時代の影響
●その人の資質(遺伝)

何かその人を見ていると不幸だなと感じた。50才くらいで結婚しない、ただこの世代は本当に結婚しない人が多い
その理由はこの世代は氷河期世代で恵まなかった。それもありこの世代の人は本当に不運だった
でも時代の影響はまねがれない、戦争で死んだ若い人も多数いたからである。団塊の世代は辛うじて戦争後に生まれて助かったとなる。つまりわずかに生まれた時代の差でそうなったのである。戦争中は20代で特攻隊で死んだ人がいる
それも悲惨だったのである。だからどういう時代に生まれるかで人生もかなり決められてしまう

その人を見ているとつくづく不幸だなと見る。その家族と付き合う中で分かったのである
その母親は団塊の世代であり同世代である。その母親は子供は厳しくしつけた方がいいとしてその考え方が変わらないのである
老人が頑固だという時考え方が変えられないのである。それで確かに学校で体罰が普通に行われていた
廊下にたたされたりもした。それは団塊の世代でも同じだったのである。その時は学校でも家庭でも子供は厳しくしつけるべきだとなっていたのである。だから今でもその考えは変わらないのである
でもその息子は親が介護になっても優しくしない、それで母親が嘆いている。この家族の不幸は発達障害の子供を持ったことである。それでそ長男に母親がかかりきりになってしまった。弟はないがしろにされたということがある

その人は建築土木現場で働き今は介護施設で働いているのも奇妙である。なぜなら親を介護しているからである
ただ介護といってもまともにしていないから母親が文句を言うのである
とにかくその不幸は家族の影響と時代の影響があり不幸なのである。その人の資質はわからない。でも不幸だと見る
それはその人がどうのこうのではない、環境が悪くて不幸だとなる

私の母親も幼児期は警察署長の家に生まれたから恵まれていたのである。でも事業に手を出して失敗して母も病気になりそこに後妻の人が入って来てその女性が異常なほど気が強く母親はいじめられたのである
子供の時弁当を残したら実の母親ではないから食べられないのかとその弁当を捨てられたのである
その後も紡績工場で働いたが一汁一菜でありそれで十年くらい働いていたのである。働きずめだったのである
そいうこともあり花など興味なく何か趣味もない、ただ働く働かされたのである。ともかくその時代は貧乏であり子供は家の家計のたしになるものとしてあった。今でも貧乏な国はそういうことがある。子供は働き手なのである
私自身も子供の時は店の配達で働いていたのである
つまり時代の影響でありまた家族に影響でそうなった。これらは運命的でありどうにもならないとなる

時代の影響家族の影響は逃れがたくある。その人は時代が氷河期世代であり家族環境も悪い、資質はわからないにしてもいくら資質が良くても才能があってもそんな環境では伸ばせないと見た。
だからどんな家族に生まれ育つかが相当に影響する。カルト教団の家に育った人は全く洗脳されてまるでナチスのようにもなり
紅衛兵にもなっていた。他が全く見えないのである。純粋培養されてそうなった。だから家族の影響はあまりにも影響が大きい

確かにその人の資質はある。でもその人の育つ環境をみるといかに生まれ育った環境の方が大きな影響があったとみる
人間は環境の影響の方が人間形成にしても大きいのかと見る。人間は環境が悪いと打ちのめされる。
いくら資質が良くてもそうである。だから教育でもそもそも環境の影響が大きいとなる
どういう家に育つかでその人も作られてゆく。ただ本当に他者の家族のことでもわからにものだと思った
それを理解するには結構長い時間も必要になる。そして他者の家族でもまた個人的なものでも理解するようになる

ともかくその人を作るのは生まれつきより環境の影響が大きいと見る。特にどんな家族に生まれるかが大きな影響を受ける
ただ家族でもわかりにくいのである。ヨーロッパで貴族から天才が生まれたというけどそれは家庭内で教育があり家庭教師がいて才能を伸ばしたとなる。でも労働者階級からは天才は生まれなかったとなる。
とにかく人間の幸不幸はなぜ生まれるのかこれも謎である。私の父親違いの兄は私の家では良くしなかった。その原因は東京で実の父親が工場の事故で死んだことにあった。そして今度は兄も交通事故で40才で死んだのである。そのことで私は恵まれたから心痛めている。

ただなぜこうして不幸な人がいるのか?それはいくらでもいるだろう。ただどうしてそうなっているのかわからないことがある
例え悪い環境に生まれても育っても立派な人がいる。その人はやはり本当に優れた人だとなる。悪い環境なら別に特別な人に成らなくてもそれだけで立派だともなる。人間はどうしても環境が悪いと歪められるからである
そうして悪い環境でもまともに育てば立派だとなる。

人間はその人を見るときなかなかわかりにくい、私自身の家族もまた他から見たらわかりにくいからである
だからこそ

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。トルストイ

それぞれに不幸であるというときその不幸も様々であり違っているのである。それが簡単にわからないのである。
まず障害者を持った家族は何らかで不幸になる。その負担が大きいからである。それだけではない不幸になる原因はいろいろある。貧困はわかりやすいがそれだけではないろいろな不幸がある。それが他から見て分かりにくいのである
だから本当は家族を理解することが大事になる。でも理解すること自体簡単にできないのである

,正常なコミュニケーションのなさ家族では,各成員が担う役割に柔軟性がなく,
特定の人物に偏った役割や責任が課せられており,以下のような適切さを欠いた様々な役割が存在していることが述べられている。

これなのか、その一人の人に負担がかかるということは確かである。もし障害者を兄弟にもたなければ負担は分担できたからである。それで一人に負担がかかってしまったのである。そこに不幸があったとなる。
また家系因縁もある。先祖がかかわることもある

先祖代々呪ってやる」というセリフがあるように、強力な怨念は先祖のみならず家系全体へ影響を及ぼす

これは間違いなくある。親戚で私に最後に『ひどい娘だわ』と恨みの言葉を残し直ぐに死んだ人がいる
その娘は本当にひどい人だったのである、だからその怨念が必ず影響する
それで介護でも恨みを残し死ぬとやはり後で怨念となり影響するから困るのである
私の場合は感謝して死んでくれたから死後でも供養できる。遺影は笑っている。恨んではいないからである
これは軽く見ているが恐ろしいことかもしれない。

とにかく不幸という時様々であり理解すること自体簡単ではないのである。貧困だけなら金で解決できるかもしれないが様々な人間関係の中で不幸がありまた幸福があるのは人間なのである。ただ正直そこまで他者が家族に入ることは嫌になる

何か家族の泥沼に引き込まれる。私の家族も一人が認知症になりもう一人も介護になり自分自身も病気で入院二回したとか泥沼になった。その時かえってそうした時今度は金を盗られたとか他者から責められてさらに苦しめられたのが現実だったのである。つまりそういう泥沼に引き込まれるからかかわりたくないというのも現実なのである
カルト教団では確かに相手にするにしても一票を得るとか不幸な人を助けるふりして自分の利益を計るとなる
まともに付き合えば自分に跳ね返ってくる。泥沼に引きずり込まれる恐怖がある。

いずれにしろ問題をかかえない人も家族もいないのかもしれない。ただわかりにくいのである。だから何もできなくても理解することが必要になるがそれもまた簡単にはできないのである。










2025年04月01日

モータリゼーションに適合した商売が生き残った 【鉄道は東京の山の手沿線くらいしか機能していない】


モータリゼーションに適合した商売が生き残った
【鉄道は東京の山の手沿線くらいしか機能していない】


【地方創生が失敗する最大の理由】東京の鉄道資本主義/駅前が中心ではない/
モータリゼーションは90年代から/無料の駐車場/日産低迷


このyoutubeが興味深かった。鉄道の駅前は廃れたのはモータリゼーションのためだった。
駅前の活性化は鉄道に頼ってもできない、駐車場を作り車中心にしないと活性化できない
駅前の活性化とか言う時何か鉄道中心に考える、鉄道をもっと利用しろとかなる
でも鉄道が機能しているのは東京の山手線くらいだとしている。それで東京では東京では地方より車の所有者が少ない。車をもっていないのである。車がなくても生活できるのである。

つまり、駅前を活性化するとなればもっと鉄道に乗れとなるが現実にはそれはできない。
商売で成功したい会社はみんなモータリゼーションに適合した会社であった。大型店はイオンをはじめとしてみんな郊外に大きな駐車場を持ってそれで繁栄したツルハ薬局とかヤマダ電機とか大型電器店でもそうである。
そのために駅前通リは廃れた。それはモータリゼーションの結果であった
だから駅前の活性化は鉄道に頼るより大きな駐車場を作るべきだというのである
鉄道にこだわっていては活性化できないという。それも確かにそうである

鉄道は一本の線でありそれでは用がたせない、縦横に走れない、だから買い物でも鹿島から原町間まで行くのでも電車だと不便なのである。便数も少ないし駅に降りてもそこから用を足すのはめんどうになる。
だから私は自転車で原町に行き買い物する。他の人は車で買い物することに鹿島だと用が足せないとなる
駅前通りが廃れたのは街の通りでも廃れたのはモータリゼーションの結果である。

相馬市は駅前通りは城下町なので作られなかった。でも商店は駅から離れた地区に集まった、駅前通りには集まらなかったのである。その中には広い駐車場を作ったからである。つまり駅前通りで用を足す人はまれになる。
必ず大きな駐車場がないとそこに人が集まらないのである。仙台市ですら駅前のデパートとかが廃れて郊外のショッピングモールとかに車で行くことになる。それだけ車社会でありそれに適合しない商売は成り立たなくなったのである

もはや駅を中心とした街作りはできない。駅ですら大きな駐車場が必要だとなる。つまり車中心に発想することになる
そうしなければ商売が成り立たない社会である。だから別に商売でも駅前通りとか街の通りとかを中心に発想する必要はない
郊外でもいいし辺鄙な場所でもいいとなる。なぜなら車で行けばいいとなるからである、それで必要になるのが駐車場になる。
なぜ磐城太田駅前の総菜屋は客が並んでいるのか?それは離れた場所であり駅前とも全く関係ないのである

その店で売るものがいいから車で遠くから買いに来るのである。また東北中央道で前の店は廃れたがソフトクリーム屋は有名で依然として繁盛している、つまり交通の変化の影響を受けなかったのである。そのソフトクリームを食べたいとなり必ず寄るからである。つまり今の商売は場所に影響されない、これまでは商売は場所に立地に影響されていた、だから駅前とか有利だったのである。でも車社会になると場所の影響がない、車で遠くでも行くからである

ただ常磐高速道路ができて鹿島のSAは賑わう、レストランもあり賑わう、それはSAがあとはいわき市の方に行かないからここで用を足す人が多いからである。でもここは全く街とは関係ないのである。繁盛する場所はSA内だけであり街に波及しない
駅前通りができたのとは違っている。でもモータリゼーション化すると車に適合した社会となった。
車社会を批判しても現実は車社会に適合しないと生きていけなくなったのである。

そもそも車を持たない運転できない人は劣った人にもなる。江戸時代なら馬を持っている人が侍であり馬を持たない人は足軽となり御徒町(おかち)となると馬を持たない歩く人たちが住む場所だったとなる。つまりその身分制は馬を持つ人と持たない人の差でそうなった
だから今は車を持たない人は劣等な人達だとなる。何か自転車だとニートとか障害者とかまた今やトラックの運転手でも怪我したとか老人になり自転車に乗っている。だから確かに車が運転できない人は劣等者になる

だからどこでも駅前通りとかは寂れている。致命的なのは大きな駐車場をもてないことである。だから車社会では不便になり
駅前通りは廃れたとなる。だからいくら鉄道を利用しろと言っても無理である。それは例えば仙台市まで遠くに行く時便利かもしれない、それでも仙台市に行く時車で行っているのである。仙台市の郊外のショッピングモールがあるとしても車でないと行きにくいからである。どうしても鉄道で行けば駅前が中心になり用をたすとなる
とにかくこのyoutubeはわかり安く説明していた、本で読むとなると何か簡単に理解できないことがある
youtubeだと要点がつかみやすいのである。モータリゼーションのことは常に言われてきたことだがそれを明確化して説明した。

とにかく時代に遅れると適合しないとかは技術の進歩と関係している。技術の進歩で大きく社会が変わる。
インターネットでも社会がこれほど変わるということにも驚いた。70以上の人はスマホでもしていないから
現代の情報社会から取り残されることはある。それは車を否定しても車社会になったらそれに適合しな人は劣った人にされてしまうのである。それが結構怖いことなのである。

例えば石器時代の人が鉄の時代になった時依然として石器を使っているとなるその差が大きいのである
今は情報化社会でありこれに適合しないと取り残されるともなる。70才以上が不利なのはIT社会に適合できない
スマホすらできないとなる。それで情報弱者になる。社会から取り残されるともなる
こういうことは常にあり老人はこれまで経験したことで有利でも新しい社会に適合できなくなる
それで時代から取り残されるとなる。そうなるとますます老人は役に立たないとか無駄だとされる
ただ老人は社会の変化についていけない、そういうことが常にあり不利なのである

何か街の活性化というとき通りとかを考えるが車社会に適合しないと活性化しないのが現実である。歩かない社会になっているからである。それで南相馬市でもか鹿島区でも真野川沿いに通りを作ってもほとんど人が通らないのである
またどこの街の通りでも人が歩くのを見るのがまれなのである。これまでの街は歩く人を対象に作られていた
その肝心の歩く人がいないのだから活性化しないとなる。ただ大きな駐車所がありそこに車を止めて街の通りを歩くということはある。でもどうしても郊外の大型店で用を足すとなる。ただ老人が増えると車が乗れなくなると買い物でも不便になる
だから高齢化社会でかえって車社会は不便なものとなる。それで何らかの変化がまた生まれるかもしれない。






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介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない? 【介護が主になる社会が成り立つのか】

介護の重圧で社会崩壊−介護しても報われない?
【介護が主になる社会が成り立つのか】

総務省の調査によると、年間10万人以上が介護を理由に離職しているといわれています。介護離職の最大の問題は収入が絶たれることで、その後の生活が困窮することです。

もう限界だ…「年金月13万円」60歳元サラリーマン、88歳父と85歳母を残し、初めて実家から出る決意をした絶望的事情


今介護で苦しんでいる人がどれだけいるのか?それは自分も身をもってしったからわかる。まず仕事ができなくなるという時
仕事に集中できなくなるからである。注意散漫になってしまう。そして、仕事を辞めると収入がなくなり苦しくなる。
介護は片手間でやれるようなものではない。全精力が介護によって奪われてしまう。それを私は親2人で経験している。一人は重い認知症であったしそのもう一人は五年くらい寝たきりであった。私自身は別に仕事もしていないし、金には恵まれていたけれどもその間に何か集中してやれることができなくなった。それだけ介護に精力が奪われてしまうのである。

今知っている人は母親が歩くこともままならず杖ついをついてやっと歩いている。その息子は建築関係の仕事をしていたがそれをやめて介護関係の仕事をしている。親の介護をしなければならないのに他人の介護をしているというのも奇妙である。

また、隣の人は22、3歳で祖父の。介護をしている。ただ親2人は働いているから。金銭的には余裕があるかもしれない。ただ貴重な若い時を介護に費やすというのどうかと見ている?ヤングケアラーも問題になっている。

ともか、ともかく地方の仕事が介護になるという時そんなことで社会が成り立つのかともみる。これからますます介護される人は増える。団塊の世代が多いのだからそうなる。私自身の場合でも約十年間くらい介護に費やされた。
それはやはり、並大抵のものではなかった。だから仕事をしていて介護と両立するということは、かなり難しい。
なぜならその消耗度が大きいからである。それでも、親が死んで介護も終わってからでも何か何年かは尾を引いていた
精神的に相当に消耗したのである。それ以来、私は自由に旅していたが全く旅もできなくなった。

ただ、私の場合は特別恵まれていて、自由に旅したからそれで恨むことはなかった。でもほかの人は皆そうでないから介護することに相当な不満が生まれる。だから、知っている人は親の介護をなおざりにしている。それで親は嘆いている。
介護の負担は金銭的なものも大きいが、また精神的負担も大きいのである。だから介護は仕事と両立することがなかなか難しい。その人は金銭的にももともと貧困家庭でありそれに加えて、介護になった時金がないので余計に苦しくなったのである。

ただ、隣の人は金銭的には問題ないし、仕事もしていないのだから負担はないが、何か青春の貴重な時間を介護に奪われているという問題はある。ただ、それは気づかれていない。あとで損したとなるかもしれない。ただ、ニートとか引きこもりが増えているからそういう人だとするとそれが仕事にもなるのかとなる。
ともかく介護が主な仕事になるというときそれは事実でありでもそんな社会が成り立つのだろうかとかなる。

介護の問題は結構時間的に長いことである五年は確実にかかり十年も介護している人もいる。つまり、すぐには死ないのである。今は医療でも手厚くしているから簡単には死なない。その人は体が苦しいから死にたいと言ってもすぐには死なないのである。だから、本人にとっても苦しいとなる。簡単に死ぬわけにもいかないのである。
介護は実際は 2人いると楽になる。交代でできるから、楽になるのである。でもそれだけの人を確保できることは、なかなかない。それで、一人の人に負担がかかってくるのである。そしてまたそれぞれの家庭状況でも違ってくる。

私の場合は特別よくされたから当然だと思って介護していたのである。でも、ほかの人はみんなそうではない。それでその人はなぜ親の介護をまともにしたくないかといえばそんなに親によくされていないからである。それは兄弟に精神障害者を持ったために、そうなったのである。本当はその障害者が一番世話になったのだから面倒見ればいいのだが、それができないから悲劇だったのである。つまり介護というのそれぞれの家庭の事情によってさまざまな問題が起きてくるのである。

ともかく、介護は家庭内問題として解決し得なくなり社会問題となるのである。その数も多いからである。特に、団塊の世代が介護になる時数が多いから社会の重圧になる。そして不幸なのは団塊の世代の子供たちであり氷河期世代であり恵まれない時代の人だった事である。その人たちの数も多いから、老人になった時、さらに深刻な問題となってしまう。
金銭的にもさらに苦しくなる。
これが個々人の家庭の問題ではなく社会問題になる時それだけの数の人が介護していれば社会自体が生産的活動はできなくなってしまう。そして、ますます日本貧困化してくるという問題がある。
だから、介護が主な仕事になるというとき、そんな社会が成り立つのだろうかとなる。

介護の苦しみの根源は、「報われない」ということにあるのではないかと思います。

どんなに自分を犠牲にしても誰からも褒められない。
感謝の言葉もない。
良かれと思ってしたことが、受け入れられない。

献身的に介護しているのに、ひどい言葉をぶつけられることさえあります。

誰もわかってくれない介護のつらさをどうするか?ギリギリからの解放

確かに。報われないということが大きな問題かもしれない。 別に私の場合は。報われたのである。死ぬ時 感謝してくれたからである。 それは元々私は特別よくされたから介護することも当然だと思っていたし結果的に相手も感謝してくれたから救われたのである。 だから、私の場合は介護て報われたとなる。 でも、ほかの人はどうかとなればみんな事情が違うから私のようにならないのである。

例えば、ヤングケアラーとこなれば後で親を祖父母でも、恨むようになるかもしれない。 その時々に人間はすることがあり、それをしないとあとで永遠にできなくなってしまう。 だから、あの時青春時代をその時間を奪われたとして、恨むようになるかもしれないのである。 そして、そのことを介護したからとして 何か人から褒められるわけでもないし。 スキルを身につけるわけでもない。 ただ、何かしらの経験したことで無駄ではないかもしれない。 でも時間は貴重でありその時の時間は帰ってこないから後で恨む時間を奪われたとして恨むかもしれない。  

つまり、介護は報われないということが大きな問題になる。例えば、ほかの仕事なら何かスキルが身につくとか勉強していれば、何か将来のために役に立つとかある。 それが介護にはないから、問題ともなる。 将来介護の仕事するからと言ってそれは確かに多少役立つにしても別に介護の仕事につくわけではないから。 また、介護が社会人とって価値ある物として見られていないから 介護の経験もただ浪費なのかとなってしまう。

2025年03月31日

会津の心(詩)ー【風土と地理から見る会津−会津は古代から一つの国だった】


会津の心(詩)ー【風土と地理から見る会津−会津は古代から一つの国だった】

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会津の心

会津の土を踏み
会津の山を見上げ
会津の大川の流れの岸に立ち
そのひびきそ良しも
城の街中にありぬ
あわれしとしとと雨降り
桐の花は濡れ誰が眠る墓や
更に奥に激流は磐を打ち轟き
鬼百合四五輪燃え咲きにけるかな
七つ岳や夏の日映えぬ
蒲生岳鋭く聳えて燕飛び交う
会津の古沼に潜むは何そ
会津の奥残る曲屋に
白い蕎麦の花咲き
なお暮らしのあれや
落葉踏み社の古りぬ
立木観音真直ぐに立ち厳しく
土地の人々祈りけるかな
歴代の会津藩士の墓所や
何を語るや共に眠りぬ
しんしんと雪は降り
悲しくもあれ踏みにじられし歴史
その傷痕は深く消えず残りぬ
会津の深き雪を自ら踏み
会津の心を知りぬ
水清く雪清く心洗われる地
その真白き雪は穢れを拒む
一本の古木や芯太く年輪重ね
この地に根付き直ぐに立ち
強くも直き心にしあれ
人の心もここに養われぬ
ならぬものはならぬ
その意志強くも立ちにけるかな


会津とは何かというとき地理と風土から見る。ただ行政的単位ではなく風土と地理に根ざして育まれたアイデンティティ化したものとしての国を見て心を見る。それで(風土)のように見る。それが色濃く現れているのが会津だとなる

会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね

会津は東北では一番古い地域であり国として意識されていたのである。茨城県とかでも国として意識されていない
つまり東北では一番古い場所であり国として意識された場所だとなる。

四世紀の始めに、崇神(すじん)天皇が四方の敵を討つために、四道(しどう)将軍を派遣した。大彦命(おおひこみこと)は北陸道をすすみ、武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東国に進軍した。そして、二人は会津で出会った。それで、「相津(あいづ)」の地名ができた。

斉明天皇4年(658年)4月に越国守であった比羅夫船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している

日本海側は太平洋側より早く開けた。それは海が比較的穏やかであったからである。それで安倍氏が飽田・渟代−秋田、能代まで船で行ったとなる。つまり日本海側から交通でもあり開けた。逆さ地図で見れば韓半島でも大陸でも船で行き来できたから
出雲に国引き神話が生まれたのが必然だった。渤海国などの交流もあったのもそうである
何か交通でも錯覚する。日本海は何か今になると陽が沈む淋しい地域に見える。でも古代でも江戸時代でも船による航海が盛んであった。それは日本海が冬でなければ太平洋とは違って穏やかだったからだと見る
北前船も日本海側を行き来したからである。

また一方でなぜ毛野氏が大きな勢力を持っていたのか?それは日本では最初は縄文人は山とか森に棲んでいた
毛野氏の領域は高い山もある山間地域である。飯館村でも縄文中期の遺跡が発掘されたとか山側が古いのである。

志賀高穴穂朝の御世に瑞籬朝の五世孫賀我別王を以って国造に定め賜う

毛野氏でも賀我は加賀別王がかかわり浜通リの南相馬市の鹿島区に浮田国造が設置されたのはなぜだろうとなる。
賀我別とは今の加賀地方であり日本海に接している。毛野氏の勢力が大きいからこそ浮田国造が設置された

いずれにしろ会津も山深いけど栃木群馬県も山深い。それも高い山が多い。山が多いから日本の地理はわかりにくいのである。
会津は山がそれも高い山ひしめいているから浜通リからするとさらにわかりにくくなる。
舘岩となるかなり奥地だが隣に栃木県の山が聳え群馬県と連なり山また山なのである。
会津は東北で唯一国として意識されたのは群馬栃木県の山側の毛野氏の領域がありそこが日本海側にも通じていた所である
青森の三内丸山の縄文遺跡からヒスイが発見されたのもそのためである。
会津はやはり東北で最初の国となったのは日本海側からみれば納得する。また毛野氏の栃木県と群馬県と山つづきであり
そうした地理から古代に大塚山古墳に三角縁神獣鏡が唯一発見された

会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
それだけ古い地域だったのである。

こうして空間軸と時間軸で解読する。会津がわかりにくいのはまた日本がわかりにくいのは山が多いから見遠し効かない、それでわかりにくいのである。ただその地を踏まない限りその土地のことは理解できないことは確かである。
日本国内でもそうだが外国だと余計にそうなる。実地にその地を一回でも踏まないと実感できないのである

ともかく会津は古代から一つの国として意識されていた。それで桐の箪笥とか会津塗とか木地師の歴史がある。あとはソバが有名である。落人の里として知られる桧枝岐とかなると隔絶していて米は食べず蕎麦が主食だったとなる

一つの国として文化も養成された場所だとなる。それはドイツとも似ている。そこも風土的に歴史的に形成されたからである
寒い地期なのも似ているのである。ただドイツにしても平野が広いから日本とは違う、日本は大和であり山が多い。
その山が多いいから山に遮られて地理がわかりにくいのである。

なぜ会津であれボッシン戦争でうまく対処できなかったのか、それは余りにも融通性がない真面目実直なのが東北の武士であり
それで横暴な薩長軍にうまく対処できなかった。うまく交渉すれば白虎隊が二本松少年兵の悲劇はなかったとされる
世良をうまくおだててもあしらえば悲劇はなかったとする。東北人には何かそうして交渉するにも商人的なものがなく
悲劇になったと明治維新という過ち(原田伊織)で言っている。明治維新でうまく立ちまれずそれで会津の悲劇も生まれた
それと比べると伊達政宗は芝居気があり秀吉との交渉でもうまくいったのである。ただ伊達政宗はとても東北人と思えない人だったのである。だからめずらしいとなる。

会津でも融通性がないというときならぬものはならぬというときただ頑固になっている。そういう気質は風土と山国で培われたのかとのなる。海に面していれば開放的になるのか、伊達政宗は海に面してそうなったのかとなる
その場所に寄り形成されるものがあることは確かである