2020年07月14日

不要不急」が問われた (過剰化社会が是正される―病院に患者も来ない)


不要不急」が問われた

(過剰化社会が是正される―病院に患者も来ない)

コロナウィルスが社会に提起した問題は様々だった
そこで浮き彫りにしたのが「不要不急」という標語だった
不要不急とは無用でいそぎでないことを表す語。不要は不必要、無くてもよいこと、またそのさまを表す語で、不急は差し迫っていないこと、またそのさまを表す語である。

現代社会はこの不要不急が多すぎたのである、無くてもいいものまた少なくてもいいものが多すぎたのである
その一つが医者とか病院で患者過剰になっていた
コロナウィルスでは感染関係の医者とか病院とか看護師とかは必要でもその他の関係ない医者ふ病院や看護師は暇だった、それより患者が来なくて収入がなくなり倒産するのがこれから増えてくるという危機になった
つまり病院に医者に行くほどでもないのに行っていたのである
そして本当はいらない薬まで飲まされて金を使っていた 

そこで医療費が膨大なものとなり国までつぶれるとかまでなっていた
病院が街の医院でも老人のサロン化していたいうのがそうである
それは日本では国民保険があり医療費が安いからそうなっていた、でもそれももう国では負担できない状態になっていた
医者がたりないと言っていたが本当は医者が過剰だったということが判明した
看護師でも過剰だったのである、人手不足が常に言われたが実は今になると失業者が増えてそれも解消してゆくというのも不思議である 

医者とか病院の怖さはこのように患者がいなくなると病気になって病院に来てくれ、病院がつぶれるからと切実なものになる
するとどうなるのか?何か故意に病気の不安をあおりいらない薬を飲ませたりいらない治療をする、さらに医者がありもしない病気まで作りだして治療もいらないのに治療して金を稼ぐとまでなるから怖いのである

そういうことは職業にある、消防士が仕事がなくてわざと火をつけて火事にしたことがあった、暇だから火事にした
警察だと犯罪者がいないから犯罪起こしてくれとかともなる
軍隊だと戦争がないと生活にならないとして戦争を起こしてくれとなる
アメリカの軍産複合体では武器を大量生産しているからその武器を売り消化するには大規模な戦争が必要になる、そのために定期的にアメリカでは戦争を起こしていると言われていたのである、極端になるとそうなるから怖いのである

現代文明社会はあらゆることが過剰化したのである、不要不急なものにあふれるようになったのである
新宿の歌舞伎町の夜の街が批判されたけどそれも不要不急であり必要なものとも言えないでも世の中は誰も修行僧のように暮らせない、だからそうした場を否定できない
要するにこの世には特に文明社会になると無駄なものが膨大に増えてくるのである
もしかしたら本当に必要なものはわずかである
それでも人間は生きることができる、それは動物をみればわかる
最低限のもので自然の中で生きているからである

とにかく文明社会はあらゆるものが過剰化したのである、報道でも過剰化した
ニュースはきりなく毎日報道される、そして忘れられる
そこで一貫して連続して追求されるものはなくなる
次々に新しいもの新しいものを求めて報道される、まさにニュースなのである
またあらゆる人が意見を言う、コメンとする

意見は積み重ねがなく、変動し流動する

知識は積み重なってゆく、意見というものは他の意見に必ずしも積み重なってゆくのではない、知識は成長するが意見は変貌する
「過剰化社会」−D・J ブーアスティン

知識と意見は違う、意見は誰でも言うことができる、いいとか悪いとか言うことができるでも知識は体系的であったりまた専門化してくるから簡単に言えないのである
あることに言うについてもその知識の積み重ねがないと言えないのである
いろいろな歴史についてもそうである、知識の積み重ねがないと言えないのである
だから私は何かいちいちコメントするのがめんどうになりしていない
一方的に書いているだけである
対話するということは二三行コメントするのとは違う、深いコミニケーションが必要になる
それは何かネットではしにくいのである
今はこうして毎日プログに書くことに時間をとられて他のことができないのである

過剰というときあらゆるものが情報でも報道でも日々過剰化している
もうインタ−ネットでyoutubeを見たりしているとテレビは見れなくなる
実際私も見る時間がかなり減った、youtubeの方が有益だとしったからである
今は情報に追われる、でも知識は積み重ねでありまた物事を知るには過去から歴史からみることで深く知ることできる、今のことに追われていると深く知ることはできないのである
だから今はある程度情報を遮断することも必要になってくる
情報の洪水にのまれてしまい、かえって真相が見えなくなる
「沈黙」もまた必要なのである、瞑想も必要なのである
ただ現代文明は沈黙とか瞑想を嫌うのであく、それは空白であり真空を嫌うからである
何かで空白を埋めようとするのである
だからなにかかにかある、広告で埋められたり絶えずそこには音があり何もない空間とか沈黙の空間とかは拒否されるのである
それが具現化したのが大都会である、東京とかになると家とビルで埋め尽くされている
仏教とかでも無を説いたときその無の空間が老子なら無用の用の空間がないのである

教育だって過剰化していた、学校が休校になったけど今ならITで学ぶことができる
youtubeとかは教育の道具として優れている
すると自主学習になり能力をかえって伸ばせるかもしれない、なぜならそこでは教えるのがうまい、特別優れた人が教えているからである
つまり並みの先生はいらないとなるからだ
学校という校舎に建物に集める必要もなくなる、ただコミ二ケーションとかは問題になるでも何か学校だけが教育の場所とするのはふさわくしなくなっていたのである
それは明治の時に教える場所が学校しかなかった、その後もそうだったのである
私の家には戦後のことであり貧乏だから一冊の本もなかったのである
戦前はそれよりびどかった、学校に通いなかった人がいたのである
子守りとかあってそうなっていた、今なら後進国ではまだそういう場所がある
ネパールとかだとボールペンもないのである、だからくれと言われた
そういう社会なら学校は不可欠である、でも文明社会ではもう学校に行くことをこだわる時代ではない、学ぶ環境が整っているからである
つくづく知的仕事には大きな家が必要である、書斎でも必要である
テレワークでもそうである、環境が人を作るのである

人間とはまたこれほど仕事をしなければならないのか?
それも疑問なのである、みんながこれほど働いていることも異常なのである
本当はそんなに働かなくてもいいのかもしれない、でも働くことは強制される
それで無職とかニーとは罰せられるべきだとまでなる
俺たちは働いているのにあついらはのうのうと働かないで過ごしているとかなる
自分自身は30年間引きこもりでありで沈黙の行をしていたからまた異常だった
ただ社会もまた異常なのである

いづれにしろ過剰化社会をコロナウィルスが浮き彫りにした、不要不急のことはするなというのはそうだった
つまり現代社会はあらゆるものが過剰だったのである
その過剰が問題を引き起こしていたし無駄な労苦さえ生んでいたのである
そんなに外国からあらゆるもの食料まで輸入することがあったのかとかこんなに交通が必要だったのかとが問われた
交通も過剰だった、もうリニアなど必要なくなった、急激にコロナウィルスで鉄道すら利用しないことに驚いたからである
コロナウィルスが過剰なオーバーツーリズムとか交通を止めた
車だって過剰化していた、道路でも作りすぎたとかある
いらないもの不要不急なものはいらないというときどうしても必要なものには力をそそぐとなるから悪いことではない、食料は自給が必要だとなればそこに人員を集中させるとかなる、すると農家の人手不足も解消するとかなるからだ

コロナウィルスは謎であるがこれほど社会自体を変えることに驚いた
社会は簡単に変えられないからである、コロナ前と以後の世界は変わってくる
津浪と原発事故もこの辺でまるで違ったものとなった
そのうようにコロナウィルスでも社会は変わり時代が変わる
何かあらゆることが過剰化していた、物でも情報でもあらゆるものが過剰化していた
ただそこに足りないものが常にあった、それから物があふれていても今度はその物が変えない貧困化した日本になっていた
あらゆるものが目の前にあるのに買えない貧困である
過剰に物があっても買えないとなるとかえって苦しいとなる
なければないで暮らすほかないがこれだけ物があってもそれが買えない食べることもできないとなる貧困である、これまた矛盾なのである
過剰に物があっても貧困化すればますます不満がつのるだけになる

そういうアンバランスがどうして起きたかというとグロ−バル経済というのにもある
世界から食料まで材木でも何でも輸入する、しかし日本が電器製品でも売れないとか
貧困化してくれば買えないなのである
確かに世界中に物がある、でも買えないとなるのである
そういう時代にどういう社会にするのか生活にするのか考えねばならなくなった
エネルギーでも電気でも過剰に使っていた、でも使えなくる、貧乏がわかるのは人口の
5%が毎月の電気水道料が払えない、それで取り立てする人が嫌になってやめたとかあるそこに一番の貧乏が具体化しているのである
そこが節約できないからである
いづれにしろ過剰化社会はつづけられない、コロナウィルスでそれが明らかになったのである
posted by 老鶯 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月13日

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた (日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた

(日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

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神王TVでここがリスクで注意すべきだとしていた
でも逆にここの民族が感染者が少なく死者数も少なかったのである
欧米人と比べるとその差が大きかった

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人種は大きくこの三つである、イスラム系はアーリアン人(白人)系がまじっている
ペルシャ人は古い民族である、アラブ人は新しい人種である
エジプト人は謎でありアフリカ人の黒人の血とヨ−ロッパ人の混血だとしている



最初神王TVで漢民族とベトナムとかがコロナウィルスのリスクが大きく感染しやすいとしていた、それは受容体が同型でありそれで重症化しやいし感染しやいと警告していた

それははずれていた、ただ何か系統としてこのグループは逆に感染者が少なかった
ただ遺伝子系統として同族グロープを形成したということは確かだった

それから時間が経てこのグループがかえって感染しにくいことが判明した

なぜ日本人は感染者が少ないのか、また死亡者がすくないのか?

それがヨ−ロッパとかに急速に広がり死者数も増えたからなぜだろうと疑問になった
アメリカも白人でありヨ−ロッパ系統である
そしてニューヨークでは白人とアジア系を比べるとやはりアジア系統は半分くらいだという、ただアジア系が感染者が少ないのはすでにコロナウィルスに抗体をもっていたからだという、それは十年くらいの間に渡米した人たちでありその前の人は抗体をもっていないという、そこを調べると人種間でなぜ差があるのかわかるという

推測しているのはなぜ東アジアの人種が東南アジアでも少ないし死者数も少ないのはなぜなのかということである
なぜヨ−ロッパでもアメリカでもあんなに増えて死んでいるのか?
それはなんらかここ十年くらいでコロナウィルスに対しての抗体が作られていた
そのために感染者でもこんなに少ないしまた死者数も少ないとしている

これに興味をもったのは日本人のルーツがどこにあるのか?

古代史とかに興味をもっていたから人種的なものとして同系なのが東アジアから東南アジアである、そこは稲作地帯の文化を共有しているのである
照葉樹林帯の文化がありそれが日本列島とつながり一つの共有した文化圏を形成していた

日本人の起源がわかりにくいのはとにかく縄文人の歴史が古いからである
一万年とかあるとその間に混血をくりかえしてきたともなる
縄文人がどこからきたのかわからていにしろ東南アジアとか中国の漢族が住んだ東アジアとかに連なる地域は人種的にDNAでも共通している
それで今回のコロナウィルスでも抗体をもち感染者が広がらないし軽くすんでいるのかとなる、ただ今後の展開はわからない、重症化して死者も増えるかもしれないからだ

コロナウィルスに関しては様々な情報がすでに出ている、ただ私は理系ではないし遺伝子となるとほとんどわからない、でもインタ−ネットで素人なりに推測できるものがありしているだけである

もともと縄文人と渡来人が結合して日本人になったということは通説である
ただこれも単純ではなく複雑な交差をしている、その中で韓国が実は縄文人の後継者であるとういのもそうかもしれない、つまり日本の縄文人が韓国の祖先の一つだともなる
韓国はそうした地理に位置していたからである、ただこれを言うと相当な反発が起きる

ウィルスは風土病だったというときその独自な風土から生まれた
その独特の風土を共有していたのが東アジアであり東南アジアとなるが気候的には東南アジアは熱帯である、中国などは漢族の地域は温帯なのである
気候的には日本は温帯である、だから風土的には東南アジアより漢族の地域が共通している

とにかくなぜ相馬地域に綿津見神社と山津見神社がやたら多いのかということである
これは海洋民族の安曇氏とかが移住してきたからだとなる
これは明らかに縄文人ではなく渡来人の大きな一団が入ってきた
鉄生産の渡来人は点であるが照葉樹林文化圏に連なる焼畑などの技術でももたらしたからその土地に土着した人たちだったのである

いづれにしろコロナウィルスはいろいろな問題を提起した、人種論にもなる
人種はやはりアフリカ人と白人のヨ−ロッパ人とアジア人になるだろう
アジア人も一つではない、でも人種には類型がある
ただ人種でもその生活形態が違うと全然共通性もなくなる
遊牧民と稲作民は根本的に共有しないからである
でも中国は始皇帝が生れたのは遊牧民の地域でありそれで始皇帝陵兵馬俑からあれだけの馬の陶が現れたのである
そこに砂漠から西アジア系統の人たちが来ていた、だから中国は最初は遊牧民が国家を作ったともなる

ただ日本人の系統は東アジアと東南アジアでありそれに稲作と焼畑の技術をもった人たちが移り住み混血したのである
だからこそコロナウィルスに抵抗する抗体をもっていたともなる
ただ私にはDNAとなるとむずかしくなり理解不可能である

ただどうしても欧米にあれほど蔓延して死者数も多い、その差の説明は人種的なものがあると科学者でなくても推測すると納得する

インタ−ネットを調べればこのコロナウィルスの情報は大量に出るようになった
ただ推測でありまだ謎なのである

2020年07月12日

この世に生まれたこと自体、カルマだった (カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)


この世に生まれたこと自体、カルマだった

(カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)

なんか技術者でもそうである、車の事故を起こしてエアバッグの不具合でタカタとかの会社が倒産したとかある
技術的問題があり死者もでたのでそうなった、アメリカに訴えられたからその補償金でつぶれるともなった
今回のヤマハの電動自転車は何度もすすめた、ただそれの弱点はスタンドがないことと荷台がつけられないことだった
それで近くの自転車屋がスタンドをつけてくれた、それは結構技術的にむずかしいものだったのである、だから最初はどこに置いても倒れていて困った
意外とスタンドがないことは困るのである
でもちょっと直したら倒れなくなった、これは助かった、もしスタンドでも倒れるだけならつけても無駄だった、それを進めるべきものではなかったとなる
何の役にもたたないからである、すると金を損しただけだとなる
そして責任をとれとか言う人もでてくる
でも直ったのでそこの自転車屋はそれなりに技術力があるとして評価する           

地銀のことをいろいろ言ったがこれもまた責任問題になる
投資信託のことをまかせてくださいというから営業の人にまかした
でもそれはいろいろな事情で株とにている、だから損してもその責任は営業の人でも
地銀でも一切とらない、理由はいろいろ言えるからである

結局あなたの責任です!

こうなるだけである、地銀では営業の人でも手数料はがっちりとるが損したとしても一切責任はとらない、損させたのはそれを買った客であり地銀でも営業の人でもないのである株があがると言われて買ったのだから下がったらどうしますか、何もしません
株はいろいろな事情で上がったり下がったりするものですとなるだけである
つまり地銀であれ営業であれ責任一切とらないのである

すると知識のないものはやるな!

株でも投資信託でも知っている人、自分で決められる人がやるべきだとなる
すると営業の人がすすめたとしてもその商品に対して責任をとるのは客である
だからその見極めをできないものは買うなとなる
私自身は株でも投資信託でも知らなかったけどまかせた
でも何も知らなくてまかせても責任は客にあり地銀とか営業にはないのである 

ただトータルでは運よくというか損しなかったので営業の人にでも何も言わない
でも怖かったのはJ-REITがコロナウィルスで暴落したことである
半分になったことである
私はどうして一月に売ったかというとどうしても営業の人を信じられなくなって売ってくれとなったのである
それが功を奏して損せずに済んだのである

何か営業というとき人を媒介するからその人を責めることになる
営業の人が責任をあるようになり責めるとなる
それで裁判になり営業の人が銀行が訴えられたりしたことがあった
それはどうしてもそこに人が介在するから媒介するからその人が責任を課せられる
例えば人を紹介して雇ってもらったりしても紹介した人が責められるということがある
つまり媒介した人が責任があるし紹介してもらった人はその人に責任が課せられるから
下手なことはできないともなる
連帯証人とかなったらその重い責任から逃れられなくなる

だから何か人間はあらゆるところで責任がつきまとっている、だから契約では常に責任を明確にして責任はとりませんと記しておくのである
それだけ必ず人間は責任問題になるからそれに備えるためにそうなる
だから銀行では損したのはあなたのせいであり私たちのせいではありませんとなっているこれは本当なのである、別に銀行に全部責任があるわけではない
そういうものとして売っているからである
それをふまえて客は買うのでありその責任をとれないものは買った方が悪いとなる

ただ投資信託でも保険でもなんでも説明責任はある
医者が手術するにも命にかかわるから説明する、でも患者も良くわからないから医者に従うだけだとなる、そしてそこでミスがあっても医者は責任をとらない
余程のことでないかぎり責任はとらない、その責任を重くすると手術すらできなくなるからである、それでシステム的に責任はとらない、手術してガーゼを残していたとか時々ある、でもその責任を全くとらなかったこと知人で知っている
ただ苦しめられ損になっただけだとなる

原発事故でもあれだけ安全神話まで作り安全だと言ったのに安全ではなかった
そして故郷に住めないまでになったが東電の幹部でも国でも責任はとらない
でも必ず人間社会は責任をとらされるのである
国家の指導部の過ちの責任は国民がとらされる、戦争で3百万人死んだのは国民が責任をとらされたからである、原発事故で莫大な補償金とか事故処理の除染でも何兆円の金は税金として国民にはねかえってゆく
ただそうした大きなことは何か責任として意識しにくいのである

何か買い物でもクレマーがいる、十円二十円のことで文句言うのはその人がそれだけ貧乏だからである、そういう小さいことだと責任が追及されやすいのである
小悪は罰せられやすいが大悪は罰せられずかえって称賛されるのである

(我々は小盗を捕らえるが、大盗には脱帽する)

世の中というものは、自分よりも弱い者に対しては圧迫したり高圧的な態度をとったりするが、強い者に対しては見て見ぬふりをしたり、追従したりするものだということ。
日本で似た意味をもつことわざに、「長い物には巻かれろ」があります。

これは外国の諺だった、この大盗は官僚とか政治家とか何かしらこの世で権力をもったものである、こういう人は税金を盗んでも別にとがめられることないのである
それで自分自身でも家族が公務員だったから知っている
何かこうした地位にあるものは得するのである
それで自分自身も得していたともなるからなかなか責められない
でもなぜ自分自身が介護とかなり苦しんだのはそうしたことがカルマとなっていたのかもしれない、何か金でもそこにカルマがついてまわっているのである  
家族には親族でも必ずカルマがあり親の因果が子に報えるのである
高い地位についたりまた株などでも金融でも世界の富を一人じめするような人がいること自体それが巨大なカルマとなっている、だから大金持ちとかはいい死に方をしないともなる、もの凄い業をカルマをもつようになり最後は家族でも不和となりその報いを受ける
金がないのもカルマであり金がありすぎるのもカルマになっているのだ
だからどこかでそのカルマを払うことが必要でありそうでないと必ず清算を迫られるのである、なぜなら金は具体的なカルマであり責任としてわかりやすいからである

それで夫の借金に苦しめられている女性がプログに書いている
その重圧はいくら支払っても支払い切れないのである
そもそも収入も少ないから払いきれないのである、その借金のカルマはわかりやすい
払っても払っても払いきれない、その借金はシシュポスの神話の岩のようである
もちあげても持ち上げても終わりなく持ちあげる業である
それはまさに借金を返し続けるカルマともにている、借金という重圧から解放されないのである

ともかく人間は常に責任をカルマを負わされている存在である
これから逃れようがないのである、どんな仕事でも必ず責任が課せられている
もう何もしなくても存在するだけで責任が課せられている
住むこと自体が責任を課せられている、原発事故でもそうである
そんなの関係ないよとはならなかった、その地域の責任でありみんなに課せられていたのである、ただそういう自覚がなかっただけだったのである

人間は死んでもカルマから責任から逃れられない

死後裁きにあう


「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められている」

この世は公平ではない、地位高きものも大盗でありでもこの世では裁かれない
裁くことは人間にはできない、裁く権能があるのは神だけだとなる

たいがい死んだら罪も何もなくなる、無となると思う
でも無にならずに裁かれる、あなたがこの世でしたことでも裁かれる
そして怖いことはあなたの知らないことで裁かれることである
隠された罪が暴かれる、それを見逃すことは神がはないからである
死んでもカルマから業から罪から逃れられないのである

そして集団とかは権力のことでありその集団に属していたことでも裁かれる
宗教の集団に属することでカルマから罪から逃れられない、かえってそこで悪は隠されているのである
カルト教団などでは絶対に人の罪のことなど問わないからである
そこにはどんな人間でもいいのである、一票になるとか会員が増えればいいだけなのである

だから神は人の心をみるというときどうして集団だったら見れるのか?

集団に魂があるのか?個々人にしか魂はないし見ることもできない
まず集団が絶対にその心が清いなどということはないからである
その証拠にみんな集団化したものはこの世の利権と利益を求めているたとで一致しているからである、それはあらゆる集団でそうなのである
政教分離に反対するのは神道派でも仏教派でもあらゆる宗教集団で反対だからである
税金をとられることだから一致して反対するのである

カルマとは前世の行為の結果をこの世で支払うことである、生まれた時にすでにカルマを業をもって生れカルマを支払わされる
つまり生まれたこと自体すでに借金を負わされているのだ
だから延々と借金を払い続けねばならいカルマをもっているとなる
そして死んでもやはりカルマは清算できない、一見死ねばこの世から消えるのだから責任もカルマもなくなると思う
でも現実はこの世からあの世は連続している、あの世でカルマは罪は明確になりかえって逃れることはできなくなる、この世ではいろいろな罪であれまやかしであれ何でもあれ隠すことができるがあの世では隠せないのである
太陽より強烈な霊の光に照射されからである、そこで闇がなく逃れられないのである


多重債務の夫と見つめ合う私

延々と借金返済のために苦しんでいる、それも夫の借金である、このようにカルマから脱することはできない、払っても払っても借金が消えないのである
人間はこれとにている、カルマを消すことができないのである

梅雨の日-薔薇(写真5枚)−rose photos


梅雨の日-薔薇(写真5枚)−rose photos


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アイスバーグに蟻がついていた

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アイスバーグ白さの映えて浮かぶかな

一輪のアイスバーグの隠れ咲く

ノウゼンの散り重なりて雷鳴りぬ

大らかに薔薇一輪や壺に映ゆ


三色の薔薇を飾りて壺に挿す外はなお梅雨の雨ししとふる

壺に挿す三色の薔薇我が家に色を深めて外は雨なり

しっとりと雨に濡れたる薔薇三輪庭に咲きにつ我が見ゆるかも

薔薇は一番種類が多いから花として鑑賞するにはいい
アイスバーグという薔薇を庭に植えた、ただ何か枯れるのが多い、土が悪いからだろう
名前があっている、アイスのように白いからだ、本当にアイスクリームの色である

この薔薇は原町のイオンに売っていた、それも三百円もしない安いものである
近くでは一輪でも700円とかだった、花は高くつくがイオンでは安い花が売っている
ただ自転車だと遠いのである、まずフラワーアレンジメントは金がかかる
だから金持ちしかやれないともなる
ただどうしてか私の姉は生け花を習っていた、今は花嫁修業として生け花を習う人は少ないだろう
それを教える家も見かけないからだ、前は近くにあったがその人はずいぶん前に死んだ

三色の薔薇を買った、これは安いから得だった
れで写真にとった、写真も最近こっているにしろむずかしい
でも偶然何か色が違ったようにとれた、これは偶然だった、絞りとかを調整していたらこんな色になった

何かフラワーアレンジメントは壺と関係している、その背景も写真をとるのに工夫が必要である
そういう場を一応作ったがまだ工夫がしかけがたりないのである
いろいろやることができないのだ、家事だけで追われているからだ
暇なく文を書いたり調べたり写真をとったりしている、その間に家事をしていると暇がないのである
介護しているときよりは暇ができたがやはり暇なく追われている

今日も雨であり庭の石が雨にぬれている、まだまだ梅雨はつづく
ただ籠っていても忙しい、結局私は家でもともと何でもしていたからテレワークなのである
こうしてすぐに写真でも文でももインタ−ネットでアップできる
だから実際は一人でこれだけしているのは相当な仕事量なのである
これもインタ−ネットだからできたとなる
ただプログでも簡単のようで時間がかかる、最低でも三時間かかる、他の人は最初は8時間がかったというのもわかる
いろいろ練って出すにはそうなる

それで試しにフェスブックをしよとしただ一回も見ていない、書き込みもしていないし見ていない
時間がなくて見れないのである
プログに出すだけで時間がとられるからだ、他にも文にするのに必ず参照するものがあり時間がかかりできない
私の文は長いからそれだけ労力を必要となっているのだ
だからコメントされても答えることをしていない、プログに書く方を優先しているから答える余裕がないのである

とにかく今日のテーマは薔薇だった、アイスバーグは前に撮った写真だがあとは今日撮った写真である
名前は「三姉妹」とかなるだろう、それぞれに色が違っていたからである
自分のプログで失敗したのは二つのプログに毎日アップすることだった
それが手間になったのである、意外とインタ−ネットの問題は手間がかかることである
だから時間がかかる、それで他のことができなくなるのである
それ必ず校正が必要なのだがそれが完全になされない、直したつもりでも直せない所が必ずあり二つのプログを直すのが手間になるのだ

読んでいる人は感じないかもしれない、でも売っているものでも相当な手間がかっている
でも金をだして買うだけなのである、その労力を考える人はいないのである
youtubeでもそうである、これも編集するとなると相当な手間だとしている
いくら便利になっても何かこうして手間は省けないのである

昨日は神鳴りが何回も鳴った、玄関のノウゼンカズラの花が重なり散った
これは毎日咲いて散っている、これは野馬追が近づくと咲く花なのである

2020年07月11日

荘厳に蘇る春の森(詩) (飯館村の森の復興ー失われたその価値)

                                        
荘厳に蘇る春の森(詩)

(飯館村の森の復興ー失われたその価値)


荘厳なるいつかしの森に春の風がそよぎなる
一すじ清らかな流れのひびき
山の奥から蝶が喜々と舞い飛び来たりぬ
樅の木は神殿の柱のように堅固に立つ
そこに種は落ちて春の日がさしして若木が育つ
老木はここに歳月を重ね朽ちて土となる
森に循環する命の営みはつづく
しきりにさえづる鳥の声が森の奥処にひびきわたる
我々はここに力強く生きる
この木のように強く心は折れない
不壊のごとくに木は立ちここに深く根付く
我々は森とともにあり生きる
ここが我らの生きる場所なり
かけがえのない生き死にの場所なり
その命は森に還りまたよみがえる
春の日が再びこの森に回帰してくる
重々しく大石はここに座をしめ
かたえにキクザキイチゲが雪のように純白に咲く
この大石に神は座してとどまる
その石は厳粛にして口をつつしむ
そこは聖なる地なればなり
時にこぶしの花が天に向き咲き散ってくる
まるで天国の花園から散ってきたように
再び人は還ってくるだろう
いつの日か森は村は再び蘇える
その日は遠くも神は見捨てはしないだろう
荘厳な森は人の心をも作る
我が生も終わりとなりただそれを願うほかなし
そして再びここに生きることを望むなりしも
先祖となりてここを見守る者となりにけらしも


聖なる森の国

清らかに細い流れ
その深き山間より流れ
その岸辺に春の日はさしぬ
キクザキイチゲやカタクリの花
紋鮮やかに山の蝶の舞い来たり
樹々はもの寂びたギリシャの神殿の
列柱のように立つ
樅の木はゴシック聖堂の柱のように
重厚に風雪を帯びて立つ
かつて森につつまれし道
人の踏み入らぬ道
そこに隠された大石
そは聖なる石にもあれ
深く沈黙して不動なり
夏の日に深い木陰に
揚羽はその羽根を休みて 
花を探して花の夢を見る
その村は高原の森に隠されてあり 
森厳な森に囲まれて
春の日のさして新しく木は生えたちぬ
木はすくすくと真すぐに伸びて風にゆれ
流れは心地よくひびきぬ
この地に幸いのあれ
しかしその幸いの日は失われぬ
ただ樹々はなお厳粛に立っている
縄文時代よりの深い森の村
そこはカムイコタンにありしも

飯館村に育つ若木

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こころはここのこと

ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここを離れると回りの景色も消える
ここは回りの景色とともにある場
部分として切り取られた場ではない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・   

故郷は何かと原発事故以降問うてきた、相馬地域でも海から山と広い、そこでまだ知られざる地域がある、それもすぐ近くにあった
要するに本当に人間は灯台下暗しなのである、故郷に住んでいるから故郷を知っているとは限らないのである
かえって今の時代外国に詳しい人がいる、でも肝心の日本を知らないともなっているのだ
飯館は70パーセントが森である、森につつまれている、ただ川とかはない、それがものたりない所でも小川のようなものはある
そして何回も言うように飯館村は広いのである、その広さが特徴なのである
例えば丸森も字の通り森の国でもそれほど広さを感じない、飯館村は平地でも結構広いのである、だからまだ未踏の地がある

そして特徴は森の国であり木の国だとなる、その木でも樅の木がふさわしいとなる
それがドイツの森の樅の木の森に似ている、寒い国だからにている
ただ樅の木の林というのはない、数本の樅の木があるだけである
でもやはりその樅の木がいかにもふさわしいとなる
それはあの荘重なゴシックの大聖堂なのである、樅の木はその石の柱なのである

ただ今回の放射性物質の汚染で森も汚染された、それで生育に影響したという報告もあるでも表だってはそういうことはない、種が落ちてまた新しい芽がでて成長していた
その時森は復興してゆくのだと見た
でも村は復興しない、第一人が住んでいないからだ
別荘として元あった家をこじんまりした新しい家にしても住んでいないからだ
50億円かけた学校でも福島市とかからスクールバスを用意して通わせている
そして5人しかないというからショックである、5人に50億の学校を建てたというのも驚きである、それだけ金あ与えられたからそうできた
でもそれで村が復興はしなかったのである
だから金だけで何でもできるということはなかった

むしろ金が補償金が人の心を分断して村も二つに分かれて争うことにもなった
それで村に住めという村長はやめた、病気でもあったからだ
これは水俣病闘争でも補償金で分断されてだめになったというのと同じである
もう補償金をもらうことは復興の闘争になった
村全体をどうしようなどなくなったのである、そして個々人でも家族でもばらばらになったのである、それは南相馬市でも同じことが起きたからである
遺産相続のようになり兄弟でも争うようになる、それは伊達市でも親族が補償金で争ったというからどこでも起きたのである

天の時、地の利、人の和が勝敗を決めるその人の和が乱れたとき戦いに敗れる
奈良の十津川村では全員心が一致して北海道に移住した
それは補償金を政府からもらってもそれは全員公平に村のために使ったからである
村人が争うことは何もなかったからである
人の和があり成し得たことである
そして放射性物質に汚染されたことも致命的だった
なぜなら森でも放射性物質は消えない、空気になっても循環するから消えない
セシウムが半減するのは30年後としているからだ、ただ放射線量は思ったより減ったことは確かである
だからもう飯館村の復興は30年後でありさらに50年後であり100年後にもなる
天の時をまつほかない、時間が解決するほかなくなっている
それほどの被害でありまるでギリシャ神話の火を盗んでプロメテウスのが過酷な罰を与えられているのとにている

そして人が住まないということはそれがどうなるのか?
そのままにはならない、土地を持っている人は金にしようとしてソーラーパネルにしたり風力発電の工場のようにしたり他にもすでに放射性廃棄物の処理場は作られている
森でもすでに外材にたより森を手入れするものがなくり荒廃したようになる
つまりなんらか人の手が入りそこが生活の場になっていた時に森も活きていたのである
人が住まないからといって元の自然にもどるわけではない、もし人が住んでいれば
ソーラーパネルでも風力発電でも嫌だ反対する人がでてくる
放射性物質の廃棄場でもそうである、でも人が住まないということはその場所と関係なくなるのである

そのことは南相馬市にも影響してくる、一時放射性物質のフレコンバックが破れてもれだした、そういう放射性物質は水とともに流れてくる
真野川にも流れて来る、新田川にも流れて来る、土地はつながっているからである
だから人が住まなくなることは元の自然にもどるわけではない、誰も関心がなくなり
外から来た企業にその土地でも何でも買われて勝手にされても誰も文句が言えなくなる土地をもっていた人は金になればどうなってもいいとなるからだ

つまり心のこころの詩のようになる、そこに心が離れてこころがなくなるのである
人間のアイディンティティはその土地と場所と一体化しているからだ
その場から離れると関心もなくなりその場の持っている意味も喪失する
場とはそれだけ重要な意味をもっていたのである
その土地とが場は生産としても重要だが精神的なものとして重要な意味をもっていた
それは意外とそこに住んでいる人も自覚されにくいものだったのである
だからこそ補償金をもらってみんな一挙に外にでてしまった
でも老人はその場で生きた記憶がありそれが精神に安定をもたらすしまた老人は最後は記憶に生きるからその場を失うことは生きた意味すら失うことなに
東京の高層ビルに住むようになってそれをひしひしと感じともなる

そうした場とは生き死にの場でありそういう場を失った時、人間はアイディンティティを失い漂流者となる、それが現代文明人なのである、都会はまさにそうした場をもたない人たちが過剰に密集して住んでいるからである
そこで自己同一化するものを持たないのである、高層ビルを見上げて人間はただの点となりおしつぶされるようになり死んだら団地のような狭い空間にやはり押し込められる
墓でも森の中とか見晴しのいい土地にあるのがいいとなるからだ
そこは墓参りするにも気持いい場所になるからだ、そこで先祖とのつながりを確認して
一体感を持つのである

場とは先祖とも関係して時間の中で意味をもつものなのである
それで御先祖様が春になると山からおりてくる、その時は田植えの時期であり営々とつづけられた生の営みの中に死んだ人も生き続けるともなる
何かそういうことは工業社会とか商業社会になるとなくなったのである
それで生態系も維持できなくなった、コロナウィルスがその生態系からの逆襲だったという見解もそうである、人間は経済成長一辺倒になりグロ−バル経済で貴重な自然を破壊してずかずかと神聖なる自然の神秘な奥地までも入って動物からウィルスが伝染したとなるからだ
その罰としてコロナウィルスによって復讐されているということも納得するのである

人間は誰も多様な「根元」を必要としている、人間にはその一部を形成している環境を通してその道徳的、知的、精神的生活のすべてを引き出す必要があるのだ

人間が必要とするのは土地の切れ端ではなく、「場所」なのである
それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのである
この意味で場所はお金で買うことはできない
それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによって作らねばならない
彼らの愛情によってスケールや意味を与えられなければならない
そしてそれを保護されなければならない
「場の現象学」エドワードレルフ

この本だけは一番感心した本である、人間にとって場がどれほど価値があり意味があるものかを語る、それは日常的に意識されないのである
だから物とか食料のように意識されない、ただ精神的価値はもともと意識されない
金とならない、それが最も現しているのが景観なのである
景観自体は金にならないからだ、だから人間はそうした景観でもそこに住んでいる人でも価値ないとみて壊されてゆく
それでソーラーパネルになったり風力発電になったりする
今や飯館村は人が住んでいないのだから景観など関係ないとして土地を金にするために
土地を貸して売って金にした方がいいとなりそうなった
そもそもなぜそれまで飯館村が何か他と違うように見えていた感じたのだろうか?
それが不思議だった、それはそこ独自の場があったということである
村全体にあったことである、別に海側でもそういう場所はある
ただおそらくそうた盆地的な場所は日本の原風景だったのである、国のまほろばだったのである

人間は金になるものは意識する、でも金にならないものは意識しないのである
でもそこに精神的価値がありかけがえのないものがあった
それを原発事故で住めなくなって普通の人でも意識したとなる
そして飯館村がいいと見えたのは私は別に飯館村の人と誰ともつきあっていないし知らないのである
だから木戸木があってそこに十軒くらい開拓部落があったことも最近気づいたのである
そこに二三軒しかないと思ったが一部落を形成していたのである

森に隠された村

七曲の坂を上りようやくその村に入った
そこに人の気配もない
森の中にその暮らしは隠されていた
人がでてくるとき何か醜いものを感じる
それはどこでも同じである
人は見ないけど草深く花がうなだれ咲いていた
何か人に見られるのは恥じらうように・・・
人の顔は見ないが広い前の庭に畑に
様々な花が咲いて飾られていた
それを天から神が見ているだけのように
人の暮らしは隠されて平和な村があった
夏の蝶が森深くから舞い出てきてまた去る
そこに人の顔は見ない
ただ森の中に家はつつまれて静まっている
我が心に映るはその花々だけだった
そして私はまたその村を後にしたのである

こんなふうだった、神が人の暮らしをか隠したという時、そこに美だけが映えたともなるそれを証明したのが原発事故だったのである
人間の醜悪さが金をめぐって露骨になり村は二分されて争う
ソーラーパネルが覆い、次に森に風力発電の巨大風車がその景観を壊す
そして放射性廃棄物の処理場ができる
それは村人のしたことではないにしろ醜いものが露骨にむきだしになったからである
ただ人間は貧しいことに耐えられない、ただやむなく貧しくてかえってそのことが
森に隠される村がありえたのである

ともかくかつての隠された飯館村は消失した、村人は金の亡者とも化して二分して争う醜さが露骨になる、そうなると純粋な花すら映えないとなる
ただそもそもそこには人は住んでいない、住まなくなる
老人だけでありやがて消滅する村ともなる、そしてそこが元の森におおわれというのではなく、ソーラーパネルとか風力発電とか放射性廃棄物の処理場とかそんなものしか残されない、かつての村はない、人もいない、何か50億かけた立派な五人しかいない生徒のために建てた学校もむなしいとなる
つまり金だけでは復興できない、金で何でもできるとはならない
精神的価値を形成していたものが失われたのである
場が失われたのである、ただそれは金にならないから意識されなかったのである

ただなぜ人間はこれほど場とか景観を破壊して何も感じないのか?

それを東京とか都会にみる、そここそ全く場所でも景観でも破壊されたむきだしの醜悪さを示した場所だからである
そこまで人間は景観とか場所に無感覚なのである
そうして場所を失い空虚な場で腹は満たしても心は満たされず死んでゆくのである
その墓も団地の様な狭い一室に葬れるだけである
そんなところで死ぬほかないのである、だから死ぬにしてもそんな場所に葬られるのは嫌だとなる、田舎なら一応は墓所は景観のいい場所にあるからである

いづれにしろ飯館村は原発事故で象徴的な場所になった、何かギリシャ神話のような場所にすらなった、それほど悲劇な場所になったのである
そして原発事故の被害はプルトニウムが消えるのは二万年後というようにそのカルマが甚大なものだったのである
それほどの過酷な罰が与えられたとなるのだ、でも依然として日本に原発がありまた事故になり悲劇が繰り返されるかもしれない、それは結局東京をみればわかる
あのような非人間的、自然もない場所でロボットのように生きられるのを見ればわかる
そういねう人たちが非人間化した人たちが金にならないものはいらないと無造作に破壊してゆく、それはグロ−バル経済でも世界の森を破壊したりしたからである
その一つの象徴が飯館村だったともなる、他にもそうした村があり日本がから消失してゆくのである
posted by 老鶯 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月10日

飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる (立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)


飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる

(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)



福島県飯舘村 “子ども5人に57億円”の仰天施設に村民の怒り

女性自身  

2016年10月15日 06:00 


 村広報誌に毎年掲載されている一般会計の決算状況によると、2009(平成21)年度歳出は約44億円だったが、2017(平成29)年度歳出は約177億円で、約4倍に膨れ上がっている。2017年度の歳入は約202億円で、そのうち国庫支出金が約72億円、地方交付税が約52億円、県支出金が約16億円。もともと自主財源比率が3割程度の自治体だが、国・県の補助事業増加に伴い、その傾向が強まっている。

 さまざまな事業の中でも特に目立つのは、公共施設整備と教育・子育て環境の充実だ。
スクールバスは児童・生徒や家族への負担を考慮して移動時間30分程度に設定されているが、福島市から飯舘村までは約1時間かかる。しかも、こども園、小学校、中学校でそれぞれ帰宅時間が異なるため、集団下校させるわけにもいかず、帰りも複数の便を出さなければならない。そのため、多くの費用がかかる

【原発】【福島】菅野飯舘村長「帰還政策」の欺瞞 

生業再生後回しでハコモノ整備

月刊 政経東北
2019/08/26

菅野村長の悪行はこれだけではない。2013年1月、蕨平(わらびだいら)地区住民が、帰還困難区域である長泥地区と同じ財物賠償(土地・家屋などに対する賠償)を求めてADR(裁判外紛争解決手続き)に申立てを行った。蕨平は長泥地区に隣接、場所によっては長泥と変わらない高い線量が計測されており、ADRは訴えを認めた。居住制限区域にも帰還困難区域と同様の賠償を認める画期的な内容だった。

 だが、菅野村長はあろうことか、数土文夫・東電会長に対し、この和解案を受け入れないよう求める要求書を村民に隠れて提出していた。「東電がこの要求を受け入れた場合、住民が帰還しなくなる恐れがある」というのだ。

蕨平の人にあったが不満を言っていたのはこのことだったのか・


一般の人の年間被曝(ひばく)限度量は年間1千マイクロシーベルトを超えかね
ないと報じられる。同じ記事で公表された、他の自治体の線量を見ると、福島市10.50μSV、南会津町 0.09μSV、南相馬市 3.33μSV、いわき市 1.01μSV となっており、飯舘村 24.60μSVという数字が異常に高いことが見て取れる。村民が不安に思うのは自然なことである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県がある
の?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    



菅野村長の飯館村の出身地は中心部の草野ではない、佐須だった、佐須とは焼畑の意味である、飯館村は相当に古い、何か縄文中期の遺物が出て来たとかあった
そこに山津見神社が有名だが綿津見神社も対になしてある
これは相馬地域の歴史で考察した、とにかくこの辺では綿津見神社と山津見神社が多いのである
それはなぜかとなると安曇氏などが最初に広い範囲で開墾した土地だからだとなる
だから佐須とか他にも焼畑地名があるとするとその焼畑の技術はそうした安曇氏とかの海洋民族が技術としてもたらした
その人たちは照葉樹林帯の文化の伝播者だったのである
だから飯館村は縄文時代は今でも山菜を食べていたように山の幸が豊富だった
また狩猟でもイノシシとか鹿をかなりいて食べていた、そういう場所に渡来人系の海洋民族の安曇氏などが入ってきた

私自身が飯館村にかかわったというとき大倉からあの七曲の坂を上って自転車でしょっちゅう行っていたことである、前は本当に七曲がりの道が大倉からありさらに木戸木にでるそこは戦後引揚者が開墾した新しい村である
10数軒の村である、その時私はその村があることに注目していなかった
それより今道に舗装されている所が森になっていて小川が森につつまれるように流れていた、そこは道もないような所であり神秘的な場所だったのである
私はそういう場所が好きだった、今でも近くにそういう場所がありそこに心安らぐのである、自然の中に様々な地形がありその場所は神秘的なのである

人間は意外と近くにそうした神秘的な場所があることに気づかないのである
最近でもそういう場所を私は発見したからである
木戸木は大倉の七曲の坂を越えてまた七曲の坂を越える閉ざされた地形にある
だからこそそこにはもともと人が住んでいないから戦争の引揚者が開墾するために入ってきた、でもそこはわずかの田畑があるだけでありそれだけでは生活できない
林業とかあり何か別の仕事がありそこで生活していた
つまり山には木材とか石材とか資源があり山持ちだとかえって裕福な人がいた
炭を売って生活するとなるとかえって豊かになっていたのである
木材という資源が豊かだったからである

でもそこも舗装されるまっすぐな道ができて神秘的な小川の流れる場所は喪失したのである、ただ飯館村の不思議は高原であり一段と高くなっているからそこは何か別世界に来た感覚になる、森に囲まもているし一軒一軒が森につつまれてあり贅沢だとなと見ていた
そこで大家族で住んでいたとなると確かに貧乏ではあったが空間的には贅沢である
東京の様なごちゃごちゃした場所に大金持ちで豪邸に住んでも環境が良くない場所が悪いのである、それでそうした豪邸でもうらやましいとはならないのである

飯館村は実際広いから地理的に今だにわからないのである
森におおわれた森につつまれた場所である、そこに太い樅の木がありそれが神殿の柱のように見えた、そして若木が生えて春に光を浴びて育とうとしていた
しかしそれを見たとき残念だったのはそこに住んでいるのは老人であり子供は住んでいない、依然として放射線量が高いからである
なぜ放射性物質が減らないかとなるといくら除染しても森に放射性物質は循環しているからである、だから森自体を除染できないからそうなっている
それで子供は50億とかかけた学校に遠くから通っている
他にも箱ものは立派でも肝心の子供とか若い人は住んでいないのである
村のスクールバスで通っている、それにも国から金をもらっているから金をかけている
金をかけていても金があっても金だけでは復興できないものがあった
箱ものは立派でありる、でも肝心の人間が住んでいないとしたらその立派な箱ものを活かせないのである
そういう矛盾は原発避難区域であった、

人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの

その肝心の人が住んでいないから村に立派な箱ものを建てても活きていないのである
むしろ貧しい建物でも例えばそこに学びたいという熱い心の人が集まれば活きてくる
その肝心の人がいないのである
ただ佐須で放射線量を計った時、泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
そこがホットスポットでそうなったと思っていたが実は飯館村は最初の時期にそのくらいあった、全体的にそのくらいあったから驚きである
南相馬市でも二三日20マイクロシーベルとった
樋の下は近くで7マイクロシーベルトとあった、そして南相馬市より福島市の方が放射線量が高かったのである

菅野町長は何かそうして飯館村への帰還を徹底してすすめることで批判された
それで実際は心臓の病気であり交通事故も二回起こしていた
それだけ体に負担がかかっていた、その政策は村民から支持されたとはなっていなかったただ菅野村長派もいるからわからない、外部の人でもフリーのジャ―ナリストが応援している 
菅野村長を批判しているのは政経東北である
私自身も菅野町長は飯館村に住んでいない、孫も住んでいない、飯館村の外から通わせている、それなのに飯館村に住めというのは矛盾していとも思っていた
ただ正直この飯館村の人たちがどう対処するのかわからない面がある 

多額の補償金をもらって喜んでいた人も実際にいたし福島市とかに移り住んでかえって良かったという人もいることは確かなのである
それで新しいこじんまりとした家が古い家の代わりに建っていた
それはどこでも建っているから帰っているのかと見たのである
でもそれは別荘だというのである、確かに大家族で住むのには小さすぎるからだ
時々畑じ野菜つくりして見にきているとか言う
それも不思議なの感覚になる、別荘となればぜいたくだなとも見る
本家は別に福島市にとか建てたとなるからだ

でもそんな別荘地として飯館村がありえるのか?
軽井沢ならわかるがここでそんなことが成り立つのか?
ただ飯館村をどうするのかとなると本当にむずかしい、他の避難区域になったところでもそうである、第一住民自体がどうしたいのかわからない、熱意がない
何かあきらめている感じになる、それを外部からとやかく言うとまためんどうになる
ただ南相馬市では小高は一体なので私は嫌なことでも言った
それで反発された、でも南相馬市なのだから負担にもなるから復興してもらわないと困るから言った

おそらく菅野村長は国よりになり国の方針に従うということで反発されたのかもしれない国としては早く避難区域を解除して補償金を払いたくないからである
それでもう放射性物質の被害はないとしていたのである
ただ放射線量は飯館村ではもともと高かったから減らないのである
それでけモニタリングボスとでも低くなっているがそれは大成建設などがその下の土を掘って低くみせていたことで村民が抗議した
つまり政府では放射線の被害はないから村に住めという方針である
それは菅野町長の態度と一致するのである
私自身は外部であっても土地のつながりで相馬地域として一体だから人が住んでもらいたいのである

フレコンバックの山とか今度はソーラーパネルとか風力発電の風車の風景が嫌なのであるでも人が住まないと何か土地を活かすために金にするために必ずソーラーパネルとか風力発電の風車も景観を乱すから嫌なのである
それらが本当に自然エネルギ―なのかとなると違うということは述べてきた
風車の風は自然の風ではないから植物でも正常には育たなくなる
またソーラーパネルも純粋の自然エネルギーではない、そして税金をとるからかえって高くつくのである、ただこの世に純粋の自然エネルギーは人間には作りだせないとなる
山が荒れたの木材が外材に代わり利益を産まなくなったからである
それと同じように利益を産まないと現実問題としてソーラーパネルでも金になればいいとなるのである、そしてもう飯館村に住んでいないとしたら別に気にするも必要もないとなる、時々昔をなつかしみ別荘に帰ってくるだけの場所になる
軽井沢のようになってしまうのも不思議だとなる

ただコロナウィルス騒ぎで東京のことを書いたけど東京に本当にこれからコロナウィルスだけではない大地震がきて東京に住めなくなる
東京脱出が起こり飯館村とか浪江町とかは空地空家だらけなのだからそこに住めとなる
もしかしたら住ませてください、何でもいいから住ませてくださいとかなるかもしれないそれで東京の人たちは原発事故の罪の償いをする    
それで重いカルマから解放されるとなる、カルマはどこかで苦しみとなって現れるからである、苦しいから嫌だとしてもここで住みここを復興させろともなる
今は復興をあきらめていても時代が代わり意外なことで復興しているかもしれない

とにかくそうしてそんなことに期待するのももう住民は帰らないからである
あきらめているからそんなことでも妄想するとなる
小高でも飯館村でも帰ったのは老人でありやがて介護状態になる
その介護する家族もいないし誰が介護するのか?
結局家族がひきとることになる、そして無人化してゆくともなる
実際に神社でも誰もお参りするものもいない、神様も捨てられたのである
そして人間も捨てられるのである、それは荒寥としたものになる
草ぼうぼうのゴーストタウンならぬゴーストビレッジ、幽霊村になってしまうのである
だから原発事故の無惨さは飯館村に一番被害としてもたらされたのである

何か古い家があった、そこに住んだ人の重さがあった、年輪を重ねた古い木のようにそこにあった、そこはやはり兜屋根であり養蚕をしていた
そして古い碑があり枯れた萱に隠されていた、なんともわびしい風景だった
そのようにわびしいのは人が住んだ所が人がすまなくなるとどこでもそうなる
何かかえって淋しくなるのである
そして幽霊がかつてあった町とか村を本当にさまようようになるのである
幽霊がそうして廃墟と化した町でも村でもさまようようになるのである

いづれにしろ復興といってもそこに住んでいる人たちがもう帰還することをあきらめている、近くでも何するでもなくギャンブルしていたり釣りしていたり何かすることはない
何か仕事をしないということも心が退廃してくる
金があったとしてもその移り住んだ地域でも何もすることがなく役割もない
すると地域から浮いた存在になる、またいつまでも補償金で暮らせない
ではみんなで復興するのかとなるともうばらばらになっている
親も子も祖父母でもばらばらに住んでいる人も多い、家族すらばらばらになっている
そこで復興といっても10年過ぎても明るいものがないのである
未来への芽がないのである

ただ飯館村の森に入った時、樅の木が新たに根付き伸びようとしていた
春の光りをあびて伸びようとしていた、自然は復興している
ただ放射線量は減らない、でもその樅の木が森に根付いて育とうとしていた
そこに未来を感じたのである、飯館村は森の国であり木が豊富だからそうなる
放射線に汚染されても木はと生き続けている、枯れてはいないのである
ただその森も汚染されているから除染もできない、でも森が死ぬことはない、いつか放射線もなくなり元の森に還る、それは相当に長い年月が必要になる
それだけの神話的な深刻な被害として飯館村は記録されるものとなったのである

そして結局復興は先が長いと見なければならない、セシウムが半減するのが30年後と言われた、現実的には10年後でも相当に減った、でも住めるようになるには時間がかかる
おそらく30年後とか50年後とか百年後とかなる、それだけの時間かかかる
つまり時間でしか解決しなくなったのである 
でもまた飯館村に誰かが住んでいるかもしれない、それは元の住民でないかもしれない
何かコロナウィルスのような異変があって都会の人が移り住むかもしれないからだ
そういうことは予測できない、そしてもはや我々老人はその未来を見ることはできない
菅野村長もやはり病気であり引退したのはそのためだった
浪江町長もやはり死んだ、未来を担うものは子供は住んでいないのである
ただ未来は誰もわからない、30年後でも50年後でも百年後でも人が住んでいるかもしれないその時間に期待するほかない、人間ではもう解決できなくなくなったのである

いづれにしろ箱ものだけを立派にしてもそれを活かせない、そもそも住民がそこに住まないからである、そしてなぜそうなったのかというと心が一つになれなくなったのである
それは多額の補償金をもらったことにもあった
それによってみんなで市町村の復興を考えるより個人とか家族単位の復興になったのである
だから現実として子供は別な地域に行きそこの学校に通う、大人も別な地域で仕事をするそれも十年もすぎたらそれが既成事実となりもう飯館村には帰らないのである
それで菅野村長が村に帰り住むということに固執した
実際はそうあるべきであり自分自身もそうあってほしいとなる
でも現実はもうそういうことはなくなった
するとそこに固執することは反発を受けるようになった
いくら村長がそう思っても住民がそう思わないとしたらもう心はばらばらである
すでに心がばらばらでありただ個々人の家族の復興しか考えなくなったのである
それは南相馬市でも同じだったのである
そして家族もばらばらになり老人だけが取り残されたのである

これは奈良の十津川部落とはあまりにも違っていた
心が強固に一つとなり団結して奈良から北海道に移住したのである
国から補償金もらったとしてもあくまでも村全体で使うものためであり個々人家族ではなかった
とにかく村人の心が一つになっていた、だから移住先でも団結して暮らすことができた
補償金は村のために使われただけであり個々人とか家族には使われなかったのである

人間はやはり建物とか物とか金が必要でも心が大事だとなる
第一菅野村長が飯館村に住んでくれといっても本人は福島市のマンションを真っ先に買って住んだと言われる
そして孫がいてもその立派な学校に通わせているのである
つまり本人が住まないのに住めというのは成り立たない
それは浪江町長でも大玉村とかに家を建てた、そして浪江町には住まなくなっていたのである、ただまもなく死んでしまったということである
菅野村長も病気だということになれば強いことは言えない
結局過労になり病気でもあり引退したとなる

こういうことで飯館村は何か建物が立派になってももう住民は帰って住まないのである
そういう規制事実ができあがっているのだから元に戻すことは不可能である
だから森は除染してもできない、すると30年待ってセシウムが半減するとか放射線量が減ることを待つほかないのである
それが50年とか百年にもなるかもしれないがその先は予測できない
意外なことが必ず人間には起こる、コロナウィルスを予測した人は一人もいなかったからである、地震とかはいろいろ言ってもコロナウィルスのことを当てた人は一人もいなかったからである、だから30年後でも50年後でも百年後に何が起きてくるのか予測できないのである、意外と飯館村に東京の人が来て住んでいたとかなるかもしれないのである
そういう変化がコロナウィルスで起きたからである
こうなると立派な建物を50億で建てたということでも無駄になる
第一それを活用する肝心の人が住んでいないからである
また何兆円もかけて除染してもそれが復興になったともいえない
つまり金をそんなにかけても効果的にならなかったのである
だから金があればなんでもできるとなる時代だがここではそうはならなかった

建物があって人があるの、人があって建物が家でも公共の建物でもある
人がいて子供がいて学校という建物がある、それが逆になったともなる

小高でも老人施設があってもそこに働く人、介護士とかがいないから青森に送られている建物が立派でも働く人がいなくなったのである
人が住まないからそうした建物も宝の持ち腐れとなる
5人くらいしかいない学校に50億円も建物に金を費やしても復興していないのである
それは菅野村長のせいというだけではなく住民がそもそも帰らないと決めたのだからどうにもならないとなる、それが現実だったがそれを無視したから反発されたとなる
本当は村長だけが浮いた存在にてっていたのかもしれない、ただ私には複雑な事情はわからない、でも新しいこじんまりした家が建っていたので人が住んでいると思った
それが別荘であり人は住んでいないというのが不思議だったのである


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枯芒に車が埋もれている、ここで時がとまったままなのである
まずいい飯館村では車がないと生活できない
買物もまともにできないからだ

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ここは道に向いて古い碑がある
ここは塩の道だったのか?
ここを上るとこの兜屋根の養蚕農家がある、これは相当に古い
壁は土壁であり古い、こうした廃墟が飯館村にはある
壊された家も多い、その跡地には何も残っていない

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道の駅のまでい館に建った子供館

次々に立派な建物は建った




posted by 老鶯 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月09日

コロナウィルスで観光業の打撃 (旅館やホテルを歴史から見直す)


コロナウィルスで観光業の打撃

(旅館やホテルを歴史から見直す)

sightseengaizu11.jpg

会津の観光収入は相当に大きかった


観光時代でもあった、インパウンド観光で京都などはオーバーツーリズムになり日常の生活すらままならなくなった
それはがコロナウィルス騒ぎでぱったりと人が来なくなった驚きである
こんなに急激に変わることの驚きである
つまり観光業というのはもともと水商売のようなところがあり当てになるものではなかった
でも交通が発達するとそれが過剰化していたのである
そして交通が止められると急激に人の行き来が途絶えたのである
それこそ不要不急だったからこそ一挙に途絶えた
観光しなくてもそれで死ぬわけでもない、食料がなくなるのとは違っているからだ
観光とは生きぬきであり贅沢なものだったのである
それが豊かな時代から起きたことなのである

江戸時代にも確かに観光ブームがお伊勢参りとなって旅する人がふえた
平和な時代になり豊かになると遠くへ旅したいとなるからだ
ただそれにしても観光のようなものではなく一生に一度の旅だったのである
歩いてする旅では遠くになるととても行けないからだ
今の観光はいくらでも交通が発達しているから行ける
遠くが近くなり近くが遠くなるとまでなっていた
常に内部より外に向かってヒトもモノも動く、だからこそこれだけひっきりなしに車が走っているのだ

何か人間は正常と異常の見分けがつないのである、正常とは何かわからない
正常と見えたものは実は異常だった、異常と見えたものは正常にもなっている
戦争時代は戦争することが人を殺すことでも正常でありそれが奨励される
でもそれは異常なことである、人間は本当に何が正常なのか、異常なのかわからない
異常も正常だとなるのが普通である

そもそも東京にあれだけの人口が密集しているのは異常なのことである
満員電車に詰め込まれて家畜のように会社に行くのも異常である
でもそれが習慣化すると異常でもなくなる
それがコロナウィルスでテレワークとかなり別に通勤しなくてもいいとなったとき
別な生活が志向できると気づいたのである
その方が正常だともなり満員電車に詰め込まれる生活は異常だったと気づいた
そして地方で暮らす方がいいともなったのである

観光業も歴史をたどると今の観光のようなことはなかった
お伊勢参りとか神社仏閣をまわるときそれは信仰でありそこで門前町が栄えた
それは観光とにていても観光になったのは最近のことである
高度成長時代の会社の団体旅行は観光の始まりでありそれに答えた大きなホテルができたそれまでは日本は貧乏で観光はなかったろう
汽車で電車で旅行していたのは一部の恵まれた人にすぎない
そもそも鉄道の歴史をみればわかる、ほとんどが物資の輸送であり北海道とかなると石炭の輸送のために鉄道があった
この辺だと常磐炭鉱があり東京に石炭が運ばれた
また日本全国に森林鉄道があり網の目のようにあり木材や石材が運ばれた
それは東京に運ぶものとしてもあった
でも旅行を楽しむ人は一部の恵まれた人だけだったのである

なぜなら私の母親とかに聞いても汽車に乗るのは特別なことであり汽車賃が高いから乗っていないからである、その時貧しいから汽車に乗れなかったのである
だから鉄道を利用して観光旅行などすることは普通の人はなかったのである
だから観光は高度成長時代から豊かになりはじまったものである
ということは日本では観光の歴史は浅いとなる

街道を旅したとしても宿は相宿でありそこで食べて寝て休めればいいとかしかないのである、そして街道を旅していた人はやはりただ遊びで観光で旅するというより何か用事があり商売のためとかであり観光で旅する人はいなかった
だからただ旅する人は特殊な人である、それは僧だったり芸能を売りにするものだったり何か普通の人ではなかった、山頭火などは乞食だったからそういう社会からはずれた人たちだったのである、ただお伊勢参りは農民が主役だったからそれは一生に一度のものとして許されていたのである

だから現代の観光業はそういう時代とは違ったものとして生まれた
第一街道を行くように歩く旅でもない、目的にすぐ着く旅である
となると目的地でグルメするとかが目当てであり旅とも違ってくる
旅とは宿場を点々として泊まりその行程を楽しむまたは苦しんで旅することだからであるその行程がぬけおちたのが現代の旅なのである
だから現代には保養者はいるとしても旅人はいなくなったのである
だから芭蕉のような旅自体を生きてそれは人生ともなり宗教のようなものとして昇華することはなくなったのである
要するに浅薄な旅であり観光は何かもう一つ人生に深みと意味を与えるものとなっていないのである

そして農民にとって旅館とかは湯治のように日ごろの労働をいやす場としてあった
それは観光ではない、また今のグルメ旅とかとも違う、ただ癒すということでは共通しているかもしれない、そもそもホテルがホステルであり病院の役割があった
そこに接待が生れた、湯治もそうだった、温泉はもともと病気の治療の場ともなっていたからである、それで傷ついた鹿が温泉につかっていたとかの伝説が生まれる 

「Hotel」という言葉は中性ロマンス語(フランス語)の「Hostal」から転じたものです元々はラテン語の「Hospitale(旅人や客人を暖かくもてなす)」という意味の言葉です。つまり、「Hospital(ホスピタル)」とは主人が客を持て成す意味であり、親切に「もてなすというホテル業界の根本理念とも言える言葉なのです。

明治以降外国人を受け入れるためにホテルができたということでももともと日本では外国人をもてなすものとして生まれのでありその由来が違っている

とにかく東北では湯殿の碑が多い、それはそこで農民が湯治として滞在したからである
湯殿信仰があったためである

それで芭蕉の句にある

 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな

これは何か深く東北の民に同情していたから不思議である、芭蕉の不思議は「奥の細道」が何か東北という地域と深く一体化したことなのである
心情的にも一体化したからそういう句が生れたのである、現代だと東北を旅してもそういうことにならない、ただ癒されるということはある
でも湯治とは違う、贅沢な旅でありそういう人は東京の人が多く金をもっていて贅沢するというだけである
現代はただ金持ちだけが優遇される時代なのである、農民が湯治で日ごろの疲れをいやすというのとは違う、要するには今の仕事はただ金持ちのために使われるのである
一泊三万とか四万とかの旅館もありそこは金持ち専用になっているからだ
たいがい東京の金持ちが利用することになる、地方ではそんな金持ちは少ないからである
そういうことで何か私は旅に明け暮れたけど常に安宿を探し歩いていた
でも日本にはそうした安宿がない、かえってヨ−ロッパには安宿があった
だからヨ−ロッパは貧乏人でも旅しやいと思ったのである
それでホテルとか旅館でも自分にはいいと見なかった
まず温泉宿にとまったこともないからである、あとは自転車旅行になったら余計に泊まりにくくなりテンと泊まりになったのである

現代はすべて金で価値が決まる、金のないものは相手にされない社会である
でも江戸時代とは何か違っていた、みんな貧乏だからとういことがあったろう
貧乏で平等だったから差別もなかったともなる
何か現代ではあらゆることで金で差別される時代なのである
またそうせざるをえない時代なのである、だからそれでホテルとか旅館を批判しても仕方がない
でも本当の旅人をもてなさない、ただ金持ちの保養にくる人をもてなすのが旅館でありホテルなのである、時代が変わりそうなったのである

だから旅を追及してきたものとして現代は旅人はいない、すると旅から生まれる文化も生れない、芭蕉のような句も生れない、ただ金持ちの保養所のようになっている
旅する人などいらない、金を落とす人しか来るなとなっていたのである
このことを言ってもしかたがない、それは当然だとなるからだ
でもコロナウィルスで観光業がこれほど打撃を受けてこれからをとするのかというとき
旅館でもホテルでもその原点は何だったのか見直すことも必要になる
旅館は旅人もてなす館なのである、金持ちの保養所ではないのである
これも交通の発達とかいろいろなことが重なって変化したのである

でもコロナウィルスで近間の人を呼び込むことになったようにそれは温泉宿がもともと湯治の場であり近間の人の農民をいやすものとしてあったことに帰ったともなるのである
近間の人を客として大事にするということである  
それで5000割引を政府で援助したらすぐに予約で埋まったとういう、つまり近隣の人は泊まりたかったが料金が高くて泊まれなかったということがあるかもしれない、東京や外国人の方が金を落とすとして優遇されたとなるからだ
それは全国的にそうである、京都など特にそうである

何か金だけを優先する資本主義の論理というのが成り立たなくなってきたのかもしれないすべて金で価値を計り人間もそうであり
金のないものは排除されてる社会である,コロナウィルスはこうして今の社会を見直す契機になっている、弱肉強食の資本主義とか金融資本主義とかグロ−バル経済とかが見直される、それがいいものとてし働いた時があったが今は悪い方に働くようになった
そこには人間が生きるのに何か大きなものが欠如しているのだ
人間にとって最も大事なものすらふみにじるのである
原発事故だってそういうふうに金だけですべてを見た結果として生態系が汚染されて住めなくなった、それも同じ根だったとなる

そこで不思議なのは近隣の人が利用できなくて遠くの人や外国人のためとなり5千円割引したら近隣の人が利用した
観光立国というときギリシャがそうである、ギリシャで生産されるものはほとんどない
観光が売り物でありそれで成り立っていた国である
そういう国はもろいということである
ばったりと観光客が来なくなると経済が干上がってしまうのである
5000円割引が大きかったとなるが大きくなるともう無理である、それは東京であれ遠くであれ外国であれ受け入れないと経営できない、一日ホテル維持するだけで何百万かかるとかなるとそうである、するともう維持できないとなり倒産する
やはりこれもホテルとか旅館とか観光を見直すことになる
ただそれにしても極端な変化だったのである、あれだけ中国人であふれていた京都でもぱったり外国人が消えたからである、その変化があまりにも急激だったのである 



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primitive landscape

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2020年07月08日

自然災害は神の意志が働き起きるのか? (あと残されたのは飢饉と戦争だ!)


自然災害は神の意志が働き起きるのか?

(あと残されたのは飢饉と戦争だ)

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 モーゼの出エジプトで起きた10の禍の中に家畜が死んだのは伝染病だった

ブヨの災い

ブヨが大量発生し、人々や家畜が襲われた。アブの災い 
これは農業国だったから起きる、今でも虫の禍に悩まされているからだ
サバクバッタの大群に苦しめられているのも今起きている、それは南アフリカから発生しして中国まで迫っている
ここで伝染病があったとういことは重要である
そこに神の意図があったからだ
自然災害としてではなく神の意図がありその災害は神によって作り出された災害だった

そもそもなぜ自然災害が起きるのか?

この辺は東日本大震災では津波があり原発事故がありまた去年は水害があった
こうして連続して災害が起きるのはなんなのだろうとなる
まず津波の災害だけは今ででも信じられない空恐ろしいものだった
この世の終わりなのかとさえ思うような恐ろしいものだった
それは村ごと消失したりしからである
それで神を恨んだいうのは理解できる
この衝撃は簡単には消えることはない

ではなぜそれほどの災害が起きたのか? 

それは不可解なのだけど人間側の理由としてもともと海だった所に港を作り集落を作り
津波のことを全く考慮しないで住んでいた
第一波が打ち寄せる海岸に住んでいるとなると何か怖くないと海側に住んでいる理屈ではなくてそう思うからである
磯部は500人死んだとか被害が大きかったけどそこはもともと地形を見ると砂州だったのである、となると海だった所に陸地ができてそこを集落にした
それはもともと危険な場所だったのである
でも漁業に便利だからとして住んだのだから人間側の落ち度ともなる
でもあまりにも津浪は恐ろしいものであり何で自然はこんなに非情で残酷だとして恨んだことは理解できる

今回の九州の球磨川の洪水もそれは前にも被害があり必ず水害になる場所だった
でもそのことに対策していなかったのである、50年前とかでその被害のことを忘れていたのである、そして今回もダムが意外と危険なものとして働く
放流することで一気に水嵩が増す、この辺でも原町の高倉ダムが放流した結果新田川が氾濫したからだ、それと同じことが起きる、他でも起きていたからである
ダムは必ずしも治水にはいいとはならない、かえって逆に危険なものにもなる
それで中国では三峡ダムが決壊すると騒いでいる

ここで謎なのは神の意志が働いて自然災害が起きるのか?

ノアの洪水とか出エジプトの自然の変異は神の意志がモーゼを通じて働いた結果である
だから確実に神の意志が働き自然の変異が起きる
ただそれは無闇には起こらない、神の定めた人によりその人を通して自然の変異が起きた聖書の物語とは神に選ばれた者を通じて起きる現象を語り伝えたのである
それは科学的には説明できないのである
旧約聖書となる神の国へ導くものとして神がイスラエルの民を導いた物語なのだ
だからそれを達成させるために神の意志が働き自然現象でも奇跡でも起きた

でも地球に起きる自然災害は神の意志が働いて起きているのか?

これは不可解でありわからない、聖書ではそうだとしても他にも巨大な自然災害がありそれをどう解釈していいかわからない                  
今回のコロナウィルスでもこれは神の意志が働いた結果なのか? 

その原因はわからないにしろ結果として起きたことをみると何か不思議なのは今までのグロ−バル経済とか資本主義であれ経済のシステムとか金融とかそうしたものへの制約をかけた、つまり国々をを分断するように働いた
ウィルスは国境とか関所とか人の移動をとめるもきだったがそれが自由になったときウィルスは伝染し広がったからである
そしてもともとウィルスは動物とかサンクチュアリ―に人間はずかずかと恐れることもなく侵害したからだ
現代は何か本当は人間は入ってはいけない聖域にも関所をもうけず入りこむようになり
そこに動物が生息してそこからウィルスが人間に伝染してきた
それで自然の逆襲だと科学者が言うのも理解できる

なぜこうして不可解なことが震災以後自分の一身上でも起きた、そしてその周りでもこうして不可解な自然現象が起きる
それが何を意味しているのか謎である
ただ津波でも原発事故でも何か神からの働きかけがあり原発などはやめろという神の意志でも働いた、コロナウィルスでは大きくはグロ−バル経済を停止させる働きがあった
また国内でも人の自由な行き来を制限するものとして働いた
だから国内でも遠くより近くへの回帰と東京の大都会からの脱出移動が始まった
もしかしたらそれは次に起きる東京の大災害の予告なのかもしれない

今東京から脱出しなと危険だという警告なのか?

この辺で八沢浦の湊で高潮で震災前に被害を受けた、それも実際は自然の予兆だった
こんな被害にあうならここに住んでいられないとか判断したら津波からも助かった
なぜなら湊の部落は40軒ほどあったがみんな流されて消失した
村自体が消失したからである

磯部村では慶長津波の前にやはり高潮があり支配者の佐藤氏が今の相馬の道の駅の鬼越館に移った、そして今回の津波でその近くまでも津波が来ていたのである
そして磯部村は消失したから空恐ろしいものだったのである
このように予兆を見て逃れていたら助かったともなる

そして不思議なのは原発事故の時に東京に避難した人たちが放射能がうつるとか子供が差別されたりいじめられたのである
それが今度はコロナウィルスで東京の人は来るなとして地方から言われるのもカルマだともなる
特に福島は東電によって大被害を受けたからである
それが今度は東京にカルマとなってそうなったのかとなる

だから神意として自然災害でも起きてくることはありうる、あまりにもモラルが荒廃した結果としてソドムとゴムラは滅ぼされた、それは明らかに自然災害としても神の意志が働いてそうなったのである
今何か歌舞伎町とか水商売関係がコロナウィルスで仕事ができなくなった
そこは性の乱れた場所である
ソドム、ゴムラでも同性愛とか性の乱れがありまたそこは人間が薄情になった都市だっただから神が滅ぼしたと記録される、だからコロナウィルスでも何かそういう神の意志が働いているのかとも見たのである

そしてまた不思議なのはなぜ日本ではコロナウィルスの感染者でも死者が外国と比べてこんなに少ないのだろうかということである
そこにもまた神の意志が働いているのか?
神の意志というとき日本の八百万の神なのかとなるがそれよりやはり一段上の神になる
人間が神と認識できるのは聖書に現れた神である、エホバである、それにはただ名はないのである、名がつけられない神なのである

要するにどうしても津波でも自然災害でも不可解なのである、科学者がいくら説明しても納得できないものとして自然災害も起きるからだ
みんなこういうとき科学者を頼る、でもその科学者が専門家がすべて対応できるのかとなるとできない、それは原発事故でもそうだった
そうして今回も同じでありワクチンという対抗策があってもそれは簡単に作れない
ただこれまでのウィルスはワクチンを作って勝利はしたとなる
だから科学者に頼るほかないともなる、でもウィルス自体は変異したり新種のが出たりと科学者でもみんな対応できていないのである

そして国際情勢を見ると中国とアメリカの対立が激化して戦争になるという人がいる
それは単なる予測ではない、そういう緊迫した対立が起きているからだ
それで日蓮の時代のようなモンゴルが攻めてくるとか内憂外患の時代になっている
日本は貧困化して中高年がリストラされて失業して介護職に転落するとか他に野垂れ死にする人がでてくるとかも言われる
日蓮の時代も道に野垂れ死にした死骸が積まれていたのである
そういう危機的状態が日本に起きて来る、それはコロナウィルスで失業者が増えればそうなるのである
要するに末世であり七難八苦が起きて来る、日本でも地獄の様な状態になる
だからこれからの時代は大きな災難の時代であり変革の時代である
その時代をぬけだすときまた平和な時代がやってくる
それは戦争が終わり日本が団塊の世代を中心になった高度成長時代が来たと同じなのである 

あと残された災難は飢饉と戦争である、だから食料不足が確実にやってくる、日本に外国からの食料が入ってこなくなる、備蓄するのにも米がいいとしても米すらなくなるというなぜなら今は麦でパン食が多い、すると小麦が入らないと米に頼る
すると米が足りなくなり奪い合いになるかもしれない、米は確かに備蓄して日本ではとれる、でも不足するのである   

こうして日本でも食料の奪い合いになり地獄のような状態になるかもしれない、
その時紙幣が紙くずになる、その時また戦争が終わった時のように食料を得ることが第一になる、その時金より銀より食料が貴重になる
超インフレにもなり馬鹿高くなり紙幣の価値が極端に低下する
もう紙幣では何も買えなくなるかもしれない、その時何でも現物でもっている人が強くなるのである
都会でぱ食料でも供給できなくなる、もう水さえも供給できなくなる
つまり紙幣は信用されなくなる前兆が起きている
預金封鎖とか財産税とかそんな話ばかりだからである
つまり紙幣の価値が暴落して信用されなくなることは資本主義そのものの崩壊に向かっている、紙幣がただ紙きれとみなされるような前兆が起きている
銀行が危機だというとき資本主義の中枢が機能しなくなりつつあるともなるからだ

そして地震が来たりしてさらなる災難で混乱する
そこで「東京脱出」がはじまる、コロナウィルスもあり東京に住めなくなるのだ
それは原発事故でこの辺が住めなくなったように東京のカルマなのである
何かこうして起きてくることは大混乱の前兆なのかもしれない
こんなにつづけて災難が起きることが解せないからである
それも地球規模で起きているからである
人類の危機のようになっているからである
こんなとき国と国が争っているときではない、この機に乗じて有利になる、得しようととすることは危険である
コロナウィルスでは人類は協力することが求められているからだ  

そして中国が攻めてくるとかといっても中国自体が国内問題やコロナウィルスでも三峡ダムの崩壊の危機とかでも簡単にできるとも思えないのである
だから中国に対抗する軍事力をもてというのは危険である
日本に今やそんな経済力も力もないからである
もし中国が攻めてくるとしたらそれが第三次世界大戦の引き金になるかもしれない
そこまでリスク中国が犯すのかどうかは疑問なのである

posted by 老鶯 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月07日

仙台市と神戸市で感染者(7月6日) (東京からのコロナの拡散が止められない)


仙台市と神戸市で感染者(7月6日)

(東京からのコロナの拡散が止められない)


仙台市は前から感染者が増えると見ていた、だから仙台市に行くのが嫌だった
どうしても東京とかから新幹線でも仕事でも行き来が多いからである
そしてやはり感染者が四名でた
そして神戸市にもでた、ここも大阪と近いから増えることはさけられない
それで知っている人が東邦銀行に勤めている孫がお盆にも来るなと言ったのは正解だったともなる

とにかくこのウィルスは伝染病は地理と深く関係していることを述べてきた
ただ鹿児島市にクラスターが発生したのは意外だった
福岡市が中心となって感染者が増えた、鹿児島となると東北だと青森だという感覚になるからだ
でもなんらか今は交通が発達しているから拡散することはとめられない
よほど交通がない所でとないと無理である、でも現代ではそういう場所はほとんどないのである
どこにでも人が出入りして秘境の村などない、桧枝岐だって今度は尾瀬の観光が開始されたからやはり東京からでも人が入ってくるからだ

そもそも交通が止められない限りウィルスの拡散を止めることは不可能なのではないか?それほどウィルスは交通と関係して拡散されるからである
仙台市は東北でも東京からでも交通の交差するところでありそこは一番危険だと前から思っていた、それが自粛が解除されてたちまち広がった
東京でも感染者百人が四日つづいている
それも検査数を増やしたから当然でありもともと検査しないから低くおさえられていたのである

コロナウィルスを止めるには交通を止める他に方法がない

こうなるのではないだろう?いろいろ対策しても東京や他県からでも入ってくれば感染してくる
だから東京に行くことと東京から来る人を止めない限り感染をとめることはできない
だから関所が必要になる、そこで止める意外方法がない
東京と地方を考えるとき東京から出るな、東京から来るなってしまう
それで地方は安全だとなってしまう
現実に何かこの辺では感染者が何人かすぐ近くで東京かのライブハウスから行った人が感染した、福島市でも最近一人東京と関係して感染した
感染経路をたどるとこうして東京とか他県から来て感染しているからだ

でもこうなると東京から脱出したい、地方に住みたいという人がでてきているのもわかるそういう人は検査して陽性でないなら受け入れる
でも不特定多数の人が県またいで行き来するのは危険なのである
それは地方の安全を脅かすのである
地方では田舎では感染者が極めて少ないから安全だと見る
確かにみんなマスクをしてる、でもしなくてもスーパーでもそれほどこまない
だから距離がとれる、デスタンスがとれる
それで私はマスクしなくても安全だとなり他の人もマスクしなくてもそれで何か言うこともない、店の人でもそうである、ただ一応マスクをするというだけである

感染病で歴史でも村の境に藁人形を置いたりしたのは他から伝染病をもった人を入れないようにするためである
だから境とか関所とかも今になると意味あるものとして再認識された
江戸時代にもどるような感覚になる
ただ人と物の流れをとめることはできない、なぜこんなに毎日車が通っているのか?
それを見ればわかる、物を運ぶことを止めることはできない
ただ人を入るのを抑えることはできる、特に観光とかなると不要不急とかなると止めた方がいいとなってしまう
歓楽街で遊ぶのも不要不急だからやめなとなる
その他病院でも患者が来なくなったという時もともとそれほど行く必要もないのに病院がサロンのようになっていて行っていたというからそれも不要不急だったのである

何か結局現代は交通過剰でありオーバーツーリズムでもあり何か限度を越していたのである、そんなに必要なものがあるのかともなっていた
なくてもすまされるものでも買っていた、それが見直されたということもある
だからその生活が実際はアブノーマルだからニューノーマルに移行するともなった
ただ不思議なのは時代が元にもどるというか後戻りするというかそういうことがあるのだと思った
江戸時代は沈黙と闇の世界である、交通は歩くことであり後は馬があるだけだった
そういう世界にもどるような感覚になる
すると内輪が近くが大事になり生活感覚も変わる、内輪での人間関係が昔の村のように濃密になる、狭い範囲で生きてゆくほかなくなる
すると近くにあるもので資源でも活かすほかなくなる
昔の自給自足的な生活に逆戻りするともなる、そこで人間が地域が見直されるかもしれない、そこでかえってまともな精神形成が成されるともなる

要するにミニマリストとかが見直されるというよりそうならざるをえない時代になる
もう世界から物が入ってこないしそれを買うだけの経済力も日本になくなる
そうしたら自前で食料でも材料でも供給するほかなくなる
それで外国貿易がなくなるということはない、今までの形ではない別な形での貿易になるそれが何かはわからないがそういうことに否が応でも強いられるということである
それがニューノーマルなのである

原発でも東京からもたらされた、大事故になりこの辺では住めなくなった
東京でなくても東北電力が小高に建設する予定があり工事がはじまるとき事故になって中止になった、だから必ずしも東京だけのせいにすることはできない
でも東北電力と東京電力では違いがあった
東京電力の電力が東京に送るものだった、それもどうして福島に作られたかというと東京の安全を第一にしてリスクをとらないためであり東京のエゴだったのである

でもつくづく人間にはカルマが返ってゆく、そうした東京の身勝手な行為がカルマとなって返ってゆく

東京の人は地方に来るな、福島に来るな!

これこそそのカルマだったともなる
もちろん地元でも金に目がくらんで原発を誘致したのだからカルマがあった
ただそのカルマの責任は故郷に住めないということで支払わされた
東京はそのカルマを支払っていないから今度支払うことを強いられたともなる
カルマは必ず苦しみとなって現れてその時自覚するのである
東京は今はそれを自覚させられているとなる
放射能がうつるからと福島の人を差別したときもそうだった
今度は東京の人は来るな、コロナウィルスがうつるというのがまさにカルマだったのである


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2020年07月06日

SBI証券が大東銀行の株を取得 (福島銀行と同じようになるのか)


SBI証券が大東銀行の株を取得

(福島銀行と同じようになるのか)

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週刊東洋経済7月11日の記事にこれが出ていた
これは予測されたことだったかもしれない、福島銀行がSBIの笠下に入ったからである
SBI福島銀行となり福島銀行の支店がSBIとなれば証券には詳しいのだから当然SBIの証券を売りやすくなる

そもそも今地銀がしていることは証券会社と同じようになっている
そのことを私自身が大東の営業の人がきて金融商品を外国の国債とかUS-REITとかJ-REIT
などを買った経過などを報告した
何か今地銀は証券会社と変わりないのである
様々な証券を売って手数料を稼ぐことだからである
その収入が意外と大きいのである、なぜなら手数料が3パーセントということは額が大きくなると大きな収入になるし確実にもうけになる
そして地銀では絶対に損しないいい商売なのである
みずから投資すれば株を買っても損があるが客に買わせれば別に損することはないからである、損したとしても

客が悪いのであり銀行が悪いとはならない

なぜなら様々な状況で株が上がったり下がったりするからそれは銀行のせいではないとなる
でもどうしても地銀を通して営業するからその営業する人を信頼できなくなる

つまり証券とか株を知らないのだから営業の人に頼る、ところが営業の人が客にもうけさせることを考えているわけではない
また適切なアドバイスをしてくれるとは限らないからだ

結局株でも証券でも自己責任になる

地銀では一切損しないし手数料だけはもらう

だからこの商売は銀行にとってはいいものなのである

それでリーマンショックの時買っていた株が元に戻したで上がりつつあったとき売った
それ以来不信になった、J-reitにその金を回したからだ
その時分散投資と言っていたがそれを守らなかった
ただ株でも証券でも金融商品は売ったり買ったりして手数料が入るのが商売になる
その手数料が高いと客では困るのである

それで奇妙なのはこういう経過がありJ-reitを地銀の営業の人を信用できなくなり一月に売った、何か人が介在するとその人が問題になる
実際は責任は客が負うのだが地銀でもかかわればそこに責任があるとも見てしまうのである、それはもともと銀行は信用できるものとしてあったから今までの見方ではそうなっていたのである、それでゆうちょでも地銀でも経営が苦しくなって保険でも人をだますようなものまで売るようになって問題になった
また収益が得られないからアメリカのCLOとかの危ない金融商品を大量に買っている
それが失敗すると大損になる、農林中金が一番危ないとしているからだ

ただ今回のコロナウィルス騒動で地銀でも積極的に融資しているという、銀行はバブルの時期にあこぎなことをしていた、それで評判を落とした
今回は政府でも支援するから融資しているという、でもそれが不良債権になることを心配している

いづれにしろ地銀のしていることは証券会社と変わりなくなっていた
それならSBI証券の笠下に入り指導された方が証券でも売り安いとなる
なぜなら手数料が安くなるからである、そして証券の専門だから地銀より詳しいからである、地銀はそもそも支店長すら証券のことは知らないと言っていたこからである
それでどうして経営できるのかとなっていたのである

ただ何か銀行でも預金封鎖があるとか財産税があるとか貯金するなとかいろいろ言うので心配になる、それだけ日本の経済が逼迫しているからそうなる
でも何か方法があるのかとなるとなかなかないのである
それで金と銀の投資熱が高まる、それはなぜだろうとなると単純に考えれば紙幣はしょせん紙切れでしかない、金と銀は紙切れではない、貨幣でも紙きれではないから価値になるそもそも貨幣とは貨幣自体に小判のように価値があるものだった
だからそういう貨幣の原点にもどるのくかともみた

もともと金が一番貨幣として価値がありその金があってこそ担保になり銀行が生れた
でもとうして紙幣が生れたかとなるとその金自体を貨幣にするのではなく、金がただあるということでそれを信用にして金との交換証書を作る、それが紙幣になったといういきさつがある
だから金こそが一番貨幣としてふさわしいものだったのである
銀もそれとにているがこれはかなりの量になるから問題がある
でもこれも銀自体に価値があるから今人気になっている

とにかく大東銀行には貯金しているから不安になる、ただSBI証券と共同になることは予測されていた、第一実際今大東銀行のしていることは証券会社と同じになっているからだただ投資先が地元だといっても客からみれば証券会社と同じでありそれなら専門の証券会社の方がいいとなってしまうのである
結局もう地銀の役割は喪失していた、ただコロナウィルスで積極的に地元の会社に融資しているということで株が上がった、頼りにされる存在となった
でもそれでもうけがでない、不良債権化するとなるとさらに苦しくなる
だからSBI証券と共同するようになるというよりその笠下に入って当然だったとなる
それが金融庁が後押しするとなれば余計にそうなる
だからもうこれは避けられないとみる
ただ一面に大東銀行が出て来た記事には驚いたのである

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世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


日本には「孤高」を美化する精神文化があります。孤独がストレスとなっていても、不規則な生活から飲み過ぎ、喫煙、運動不足、肥満などに陥ることもなく、そのストレスを少なからず改善させるほどに、日々の独り身の生活を前向きにとらえ、平穏な心身の状態で行動できている人が多くいるのではないでしょうか。

この記事で日本人が孤高を美化するという精神文化はうそだろう
日本人に言われるのは常に集団ですることき仕事でもなんでも効果を発する
個人になると弱い、一方中国でも個人主義であり個人になると強い、だから英雄が出るのは大陸国家である、アメリカでもトランプ大統領はマスクをしないというとき弱さを見せたくないからだという、日本だったらそんなこと言う人いないからである
日本はとにかく全体に同調して個で行動する人はほとんどいない、同調圧力が強いのである
だから孤高を美化するなどありえないと思う
そういう人は社会からはずれアウトサイダーになる、それをできるのは特殊な異常に個性が強い天才肌の人間だとなる、そういう人は日本人にはまれである

ただ退職したりすると会社とかの仲間もいないしどうしても孤立しやすくなる
地域などでも今はなく受け入れることができない、ボランティアでもそうだがかえって
そういう人は迷惑にされる、それで正論おじさんとか議員をやめた人が何か川をかってにして迷惑だとか訴えられたりする
つまり今は一旦会社でも退職すると用のない人間にされる
それで住宅の隣で何かわめいていて奇怪な行動をしている80くらいの老人に悩まされている人がいる
なんらかこうして迷惑老人になりやすい、現代は老人の居場所がないのである

ボランティアも簡単にできない、ボランティアも権力をもたないとできない
それは自分自身がたまたま無人駅でボランティアのまねごとをしたら駅長やら客からも拒否されたからである、勝手なことをするな、迷惑だとかしかならない
それがある程度役に立っていてもそうだった
誰も認めないから今度は怪しい人だと警察に通報されて職務質問されただけである
でももしNPOとかとして認められて権力をもてばそういうことはないのである
だから個人的にはボランティアをすることは不可能なのである
そして個人的なボランティアには何の保証もないとか言うのもそうである
こういうことが事件化したのが正論おじさんとか退職した議員が川を勝手に掃除したのかなにかで問題になった
奇妙なことは行政の許可なくしたことでそうなった
つまり議員であっても退職したら権力を失うのだからそうなる
つまりボランティアでも何らか権力がないとできないのである
だから退職してボランティアすることは簡単にできない、そして高齢化社会では無用な老人が膨大に増えるのである、そして変な老人として社会では問題にされ排斥されるだけだとなる

「真面目に自分と向き合う」ことは「コツコツと努力する」ことでもあります。こうした性格が、実は最も長生きできる可能性のあることがわかったのです。2011年に米国で発表された、性格と寿命についての80年にわたる男女1.5千人余りの追跡調査研究で明らかにされました(フリードマンHS、マーティンLR、『長寿と性格 なぜ、あの人は長生きなのか』清流出版2012年)

これは本当である、その具体的例が私の母親だった、まず暇なく家事でも何でもこまめに動き働いていたのである
それも93才とかまで家事をしていた、若い時から暇なく働いていた
働き詰めの人生だった、それがすべていいものではなかった、花にも何にも興味もない働き蟻の一生だった、それも本当にそうなると人間も異常化していたのである
ただそうして94までも家事をして用事があり働いていた結果認知症にもならなかった
ただ95以上になり認知症になったことはやむをえないことである
ただ長生きしたということはそういうふうな性格がありまた何より家でする仕事があったからである
嫁にお母さんは何にもしないでいいですよ、ゆっくりテレビでも見ていてくださいと言われる姑は認知症になるというのもわかる
つまり何の用事もなくなるから張り合いもなく脳までボケて来るから怖いのである
そして本当に何か変な恰好してわけのわからないことをわめいている老人のようになる
その人には用事がないからそうなるのである、何の用もない人になりそうなる

だから人生百年時代は何か退職してもその後が長いのだから何か社会にとっても用ある役に立つ人間になることが大事になる、でもそれを見出すことは相当に今はむずかしいのである、芸術家になれととかいっても簡単になれないだろう
では社会に役立つといっても簡単に受け入れられないのである
つまり会社という組織があって権力をもっているとき社会に役立つとなるからだ
それで不思議なのは近くの自転車屋である
病気でありそれも悪い病気でも5年より以上長く仕事をつづけている
今は一軒しか町にないから忙しいのである
また一軒しかないとなれば町にとって困る、隣の市に行ったらお前は来るなと言われたからだ、なにかそういうせこいのが田舎なのである
他の人も言われたからである、ただそこの自転車屋はそういうことはいわない
他で買った自転車の修理もしているのである、なにか商売できる人だからこの辺ではめずらしいとなる

ただなぜそんなに病気でも仕事できるのか? 

それが謎なのだがやはりそれが生きがいとなり周りの人からも仕事してくれという要求がある、そのために死なないともなっているのかもしれない、ボランティアだとそういうことはない、もしそれが周りの人からの要求がありそれを満たしていればいらないとはならないからだ、でも現実に会社を退職したらそういう仕事につくことは相当にむずかしい
なぜなら自転車屋でも長年仕事しているからできる、技術的にもできる
だから簡単に何でも仕事ができるとはならない、自分にしてもこうしてプログで書けるのはやはりそれなりの知識の積み重ねと経験があってできることである
まず退職して一から新しいことを始めることは容易なことではないからだ
だから人生百年時代は金でもそうだがこうして何をするかということでも問題になる
それに備えられる人はまれだともなり無用老人となり迷惑老人になる人の方が多くなるのである、孤高に生きる老人はまれだろう、孤立して無用老人になる方が圧倒的に多いのである
だからこの記事は何かおかしいと思って読んだ、ただいちいち記事の解説でもこうしてすぐにコメントしたりできるのはインタ−ネットでできたことである
新聞の記事の解説でもいちいちすぐに答えることなどできなかったからである
そこが言論でもインタ−ネットで変わったことである

ただ同感することは「修行僧」のようになりやすくなる、なぜならあまりそもそも人と接する必要がなくなるからだ、会社に勤めて入たらそうはならない、会社を退職すると接触するのは妻とかしかなくなる、それで妻の後をついてゆくだけでありそれで妻からも迷惑がられているのが現状だからである
一方で会社勤めしていないから孤独にもなり人とも付き合わないとなるとそこで誰とも話さないとなり「沈黙」していられる、普通は会社などではできないからだ
自分自身は引きこもりで30年間とかそうしてきたからそれが自分にとっては普通だったからただ延長しているだけだとなる
でも退職した人はそうして環境ががらりと変わるから戸惑うとなるのである
ただ人間関係のわずらわしさがなくなり妻がいれば別にそんなに人と付き合う必要もないそれほど孤独も感じないのである、ただ一人だけになると感じる
だから今は自分も一人でありしかたないから一人の女性とは話したりしている
あとは自分自身が「修行僧」なのである、それは前からそうだったから違和感がないとなっているのだ、でも急激な環境の変化に退職すると戸惑うことは確かである

2020年07月05日

ヨ−ロッパや中国の精神形成の歴史 (城壁の内と外)

                                              
ヨ−ロッパや中国の精神形成の歴史

(城壁の内と外)

城壁の上をふみしめ歩みつつ城市に住む心知るべし

大陸というとき、まずその地形を知るべきである、そこはどこまでも平坦な地形がつづくさえぎるものがない、そういう地形に生きることは日本の様な山国に生きるのとは根本的に違ってくる
その感覚を知ることはやはりその土地とその場所と城壁を知ることである
それで長安の城壁の上を歩いた、その幅広いし重厚の城壁である
そこに門があり門の外と内とがあり外に住めば無防備になるから危険である
外的がどこまでも平坦な土地からモンゴルの様に大挙攻めてくる
その地勢は前を遮るものがないからだ
だから城の内に逃げ込めば命が助かる、命が守られるとなる
それはヨ−ロッパの都市でも同じである、都市を城壁で囲む、その内に入れば敵が攻めてきても命が守られる、そうでないと命は守れない
するとその城壁内で城と一心同体になる

日本だったら城と町とは町民とは農民でも分離して生活している
敵が攻めてきても城の中に逃げる町民とか農民はいないのである
ここが大陸と日本の歴史を知る大きな相違である
それはなかなか頭の中で理解しにくい、それで旅でもいいからその土地を踏むことにより歴史を知ることができる
つまり血肉となった歴史を知ることができる、それでなんとか50代で世界旅行をしたから十分とはならなかったが知ったことは大きいことだった

中国とヨ−ロッパはやはり大陸であり似ているのだ、城壁があり塔があるというときそれは敵から守るためのものであり塔は敵の侵入から守るための見張りの塔である
だから中国でも塔が多いのである、それも堅固な塔でありそれが仏塔にも発展したのである、日本の塔は五重塔でも見張りの塔ではない、優雅な塔なのである
どこまでも平坦な大陸に住めば何かそうした高い塔が目印にもなる
つまり遠くから塔が見えればそこが目印となりその塔を目指して来る
ともかく大陸ではそうして城壁に囲まれていればそこで安全が保証されたとなる
それが国全体を城壁で囲むとなり万里の長城が生れた
ただ万里の長城はなぜ急峻な山の尾根のような所にあるのか?
そのような山を遊牧民が上って攻めてきたというのも理解しにくい所はあった
やはり山が防壁となりその上に城壁を作ったという歴史があったとなる

civilizationというときcivilは市民である、その市民というものが日本人にはないのである、それは城壁内で作られた共同意識のことである
その城壁内で命を守るための義務と責任のことだった
日本の共同意識は小さな4、5百人の村のことだった、非常に狭い地域の村が村意識が作られてそれが日本人の共同性を作ったとなる

日本の地形がとにかく山が多くて山でさえぎられている、山が障壁となる
山に閉ざされてしまうのである、国のまほろばとなると奈良の盆地のように山に囲まれた地域なのである
また日本の城が要害となる山に作られたのも地形を利用して敵から守るということに自然となったのである
人間の精神の形成もこうして地形が影響して地理が影響して作られてきたのである

何度も言うけど福島県は地形的に一体になれない、ハマ、ナカ、アイヅと別れていてそこで天候も地形も違っている
阿武隈山脈が高原があり中通りと浜通りはさえぎられて見えないのである
福島県はその地形のために不自然な県となっている
それは日本がの国土自体が山にさえぎられてそうなっているのだ
だからこういう国が一つの国となることはむずかしいことである
八百万の神がいたということは隣の村でさえ山でさえぎられて別な世界になりそこに別な神がいたともなる
だから大和王権が海から船で支配した統一したというのもわかる
とても陸地からだと山にさえぎられて道もないときその全体を統一することはむずかしかったからである

ともかく歴史でもその国土と密接に結びついて形成される、その地形とか地勢とか地理は変わらないからだ、阿武隈山脈が高原がなくなり向こう側は見えるようにはならないからだ、もちろん日本を囲む海は依然としてなくならないからである
中国でもヨ−ロッパでも川が大きな役割を果たした、ドイツのライン河は父なる河となっていることも理解しにくいのである
中国の文明でも黄河と長江が作ったというときもそうである
エジプト文明がナイルの賜物というときもそうである
川は水が流れているというだけではない、道ともなっていて結べものだったからである
エジプトの神殿が河岸に作られたのは港の機能があったともなるからだ

日本人が大局的なものの見方ができないというのも地形からそうなる
常に山にさえぎられて遠くが見えないのである、大陸だったらどこまでも平坦な大地があり遠くが見える、ということは当然大局的な見方ができるとなる
大局的に見て戦略をたてる、日本だと戦術になる、その場その場での臨機応変な対応となる、大陸だと時間的にも空間的にも長期的であり空間でも広い範囲に生きる
だから中国の一帯一路に批判があっても中国自体が大きく一帯一路として見るからそうなる、日本ではそんな遠大な計画ができない、大東亜戦争でもそうした巨大な大陸に攻め入ってもとてもその広大さがわからずに大陸に中国に飲み込まれてしまったのである

ともかくまず世界を知るにはその地理を地形をしることである
でもそれが広すぎて知りえないのである、常にいるのは狭い日本でありそこから世界を見るから理解できない、そこに誤解も生れて来る
中国とかアメリカがどれだけ広い国がとても実感できない、そこで島国根性になり無謀な戦争になったりした、日本は海に囲まれでまた孤立しやすい風土だからである


長安春望<盧綸> 

東風雨を吹いて 青山を過ぐ
却って千門を望めば 草色閑なり
家は夢中に在って 何れの日か到らん
春は江上に來りて 幾人か還る
川原繚繞す 浮雲の外
宮闕參差たり 落照の間
誰か念わん儒と爲りて 世難に逢い
獨り衰鬢を將て 秦關に客たらんとは 


千門があり河がありそこは外界とつなぐ道でもある
いろいろ人生を経て長安の城壁内に老いたということである
その城壁内が安住の地だったとなる

長安の城壁

これだけ広いのである


2020年07月04日

投資は一貫性とルールが必要? (リスクが多く素人はついていけない金融世界)


投資は一貫性とルールが必要?

(リスクが多く素人はついていけない金融世界)


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J-REIT

jreitcc1.jpg

私は一月に売ったから損しなかった
トータルでは損しなかった


私は全く投資など素人であり知らない、ただ貯金していてもしょうがないから利子もつかないから投資したのである
だから銀行員の営業の人にまかせた、また自分にはそこにかかわる時間がないからそうなった
でも何だかわかないけど最初は分散投資すればいいと言ったしそうれはいいのかと素人でも納得した

それでカナダの国債が石油がとれるのでいいとして買った、だか石油の値段が下がり急激に評価が落ちて大損するところだった、実際は損した
ただUS-REITはトランプ大統領になったとき円安になり上がったもうけた

そして一番の失敗はリーマンショックのとき半分になった株が元にもどりあがっているとき営業の人がJ=REITにその株を売って回した
そのまま持っていれば株は上がっていたのである

それ以来営業の人を信用できなくなった                            

それでJリートを一月に売ってくれと言って売った
そしたらコロナショックで急激にJリートが下がったのである
これには助かったと思った
だからトータルでは損はしていなかった

ところが今度は営業の人が株が上がってきたからチャートを見せて買いと言われた
そしたら株が今度は上がってきたのである
こんなコロナウィルス騒動の中に株だけは上がっているのも理解できないのである
でもこれまでの経過でその営業の人が信頼できなくなり断った
なんかこのようにいろいろあってめんどうになったしリスクがありすぎる世界だと思うようになったからだ

結局この経過をみると何かここには投資のルールも一貫性もないのである
分散投資はルールにしてもそれなかった、ゆきあたりばったりで買わせているだけなのかとも見た
なぜそうなるのかとなるととにかく営業している人にはノルマがあり売ったり買ったりさせるのがいいからだともなる
営業の人が何か金融商品を買わせればその時手数料が大きいのである
だからいろいろな商品を買わせるしまた転売もさせる

でも分散投資がルールとなれば悪いということにはならないのである
でもこんなにリスクをる世界が投資だとすると普通の人は簡単にできない
そして最近もってきたのが外国のアメリカの保険だったのである、これも為替の影響が大きいとかなり批判的であり金融庁でも警告していた
だからこうしていろいろな金融商品をもってきても普通の人は素人は理解することがもうできないのだ

ただ常にリスクの恐怖だけがある!

ここにルールも一貫性もないのである、では貯金が安心なのか?
その貯金が今一番安心がないという、インフレになるとか預金封鎖とか財産税がとられて一番危険だとかいう、また国債も安全資産だと思ったらそれも一番危ないとしている
ゴールドを買いとか銀を買えとも言う
つまり紙幣は紙きれになり実物資産が価値がある、不動産も価値がある
でもその実物資産にしても食料を備蓄しろといっても限度がある
だから安全資産はない、方法がないというのが現実なのかとなる

ただ銀行とか証券会社の人に頼むにも頼めないのである
なぜならその人たちは自社の利益優先であり客の損になるものでも銀行が利益になればいいとなるからだ

一体こういう世界は何か誰も信用できない!

普通は何か物を買うにしても製品を買うにしてもその製品がいいとか壊れないとか信頼して買う、日本製品はそれでせれで世界から信用されて高度成長時代を築いたのである
何かリスクがあってその製品の価値がなくなるということはないのである
電器製品でも車でもカメラでも何でもその価値はリスクに作用されない
それより今の住宅は地震に強くなったとか価値がリスクに強くなり高くなっているのだ
だからこれほどリスクに左右される世界についていけないともなる

ただ思わぬリスクはコロナウィルスのようにあるからそれをさけることができない
津浪や洪水や原発事故や何かとリスクはある
でもこうしてめまぐるしいリスクに左右され翻弄される金融市場についていけない
ただ不安と不信と心配ばかりの世界であり精神不安を増大させるだけである

リスクというとき農業には天候に左右されるからリスクがある、何かしらリスクがある
だからリスクのない世界はないともなる
でも金融の世界は天候のようにやむをえないものでなくて人為的に作られたリスクにもなる
株価なども人為的に操作されている、グローバル株式市場は世界をの博打場だというときもそうである
株の上げ下げを操作して莫大な利益をあげている一部の国際金融資本家がいるとしてしいるからだ、そこに莫大な富が集中するシステムである

それでそもそもそういうグロ−バル経済の金融資本主義社会がそうしたリスクを作り出すのであり真面目にこつこつと働いて技術でも改良に改善をつづけているのだから景気が悪くなったり株が上がったり下がったりはしないという人もいる
つまりそうした場は偽りの場であるとみられる
そして陰謀論になって終わるのはそこは巨大すぎてそれを知ることもできないからである

ともかくもうこうした世界市場化しているグロ−バル資本主義経済はつづかない
偽りの経済であり真面目に改良改善と働いている人たちが馬鹿見る世界でもある
富を得るべき人でない人に回って行く世界である
だからやがてそうした金融の世界を信じなくなる
そういうことにかかわる人も信用できなくなる
銀行でも信じられなくなる、そして金すら紙幣すら信用できないとなりインフレになり
紙くず同然になる、そうしてグロ−バル経済は崩壊する
資本主義も終わりとなる、その次は何なのか?
それがこれから模索される、その前に大きく激変するときコロナウィルスとかがあり
その前に津波があり原発事故があった
そういう激動があり次の時代に変わる 



posted by 老鶯 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

コロナウィルスがグロ−バル経済をとめる (森林破壊の歴史があり黒死病で森が回復した)


コロナウィルスがグロ−バル経済をとめる

(森林破壊の歴史があり黒死病で森が回復した)

中世ヨーロッパも人口増加で森林減少で崩壊の危機に。でも、黒死病の登場で人口が急減。そして森が増えたんだそうです。古今東西、人口爆発、農地拡大によって森が無くなっていきま

 きこりのホームページ


これも不思議である、コロナウィルスでも一時空気がきれいになり水がきれいになったとかある
人間の活動が停滞すると自然が回復する、また人口が増えることはそれだけエネルギーが必要になるから燃料としたりする木が必要になる
森が消失していった原因は人間の活動と人口が増大したためである
そもそもレバノン杉が船を作るために喪失していった
そんなに船に木材が必要なのか?そんなに船を作ったのかとなる
これも人間の活動が増大して貿易でも増大したからである
それは現代のグロ−バル経済と同じである,世界的に貿易が増えればそれと同時に森林も目次材需要が高まり森の木が切られる

なぜエジプトとかヨ−ロッパとかで石の建築物が多いのか?

それはもともとそうした建築物は木材で作られていた、ストーンヘンジでももともと木材で作られていたという、というのはイギリスでも森に覆われていたからである
木材がふんだんにあったのである
エジプトのようなサバクノうな乾燥地帯でももともと森があって木材で神殿でも作られていたのである

そしてペストで黒死病でヨ−ロッパで三分の一が死んだというとき森が回復したというのも不思議である、それは一時的でも自然の力が回復して空気でも水でもきれいになって
ベネチアでも魚が見られたとかなる
だからこのコロナウィルスは世界的に経済を停滞させる、活動とめる不思議なのである
それは神意なのかとまでなってしまう
グロ−バル経済は世界的に人間の活動を無限に増大させる、資本主義というのも常に新たな投資する場所を求めるシステムである
金が金を産む、そうして世界を発展させてきたシステムである
でもそれもコロナウィルスで止められ停滞させられて交通もままならないともなった

このままグロ−バル経済を進興させれば森でも破壊され環境も汚染されるままになりアマゾンの森さえ消失してゆくとかの危機になっていた
それは中世にも人口増加でヨ−ロッパで森林が消失していた
それがペストの流行で三分の一に人口がへり森が回復したというのも不思議である
それと同時に富裕層が貴族が没落して庶民が土地を所有するようになり豊かになったということもある、その社会の変化は大きなものだったのである

このコロナウィルスは明らかにグロ−バル経済を停滞させる、止める働きがある
このサイトは文明の発展は森林破壊の歴史だとして説明している
黄河文明は今は土だけの世界になっている、人はヤオトンとか土の穴に住んでいる
でもあそこももともと森林でおおわれていたのである
それは文明が発達したところは森林がありその木材を利用して森林が喪失した
メソポタミアでもエジプトでもそうである、森林がありその木材を利用して建築物がありその木材がなくなり森林が喪失して石の建築物になった
第一石を加工するとなると木を加工するよう高度な技術が必要だからである

また森林は鉄器の発明によってもその木材で炭を作り鉄を作りだしたので喪失していったつまり今砂漠になっている所でももともとは森林が豊富な場所だったのである
鉄器が生れたということは木材を切り加工するのに有利である
斧で木を切れるからである、でも森を破壊するスピードも速くなったのである
だから中国でもそうだけどとにかく禿山が世界では多すぎるのである
韓国でも中国でも山に森がない、禿山である
日本だけは山も森に覆われているのである

いづれにしろコロナウィルスはグロ−バル経済とか世界的に人間の活動をとめる働きがあった、まずこんなことをできるのは人間の力では無理である
そして新宿の歓楽街が危険だとされる、そこに水商売で働く人たちが一万人いるという
その活動をとめろという、またそこから増えてきたからである
確かに差別的になるかもしれんがやはりそうした欲望の活動も止めたともなる
そういうものは不要不急だともなるからだ
ただそういう人たちを差別したりするのではない、そういう場所にやむなく追われる社会の状況があるからだ、それでそういう場所はなくなることはないのである
ただエイズの時も性の乱れだとか批判があったのである

ともかくコロナウィルスは世界の時代の転換をもたらしたともなる
それは簡単に元にもどらないというときそうなる
それに適した生活にする他に対処方法がないのである
つまり中世的世界への回帰、江戸時代への回帰ともなる
そして人間は内面的世界を志向する時代となる
グロ−バル経済は縮小をよぎなくされる、それはもう限界にきていたのである
このままつづけば環境破壊も止められない、危機的状態になっていた
それと同時に資本主義の限界もきていたのである
だから大幅にそうしたシステムも見直される、世界市場とか世界の株式市場化とかそういうものも見直される、そういうものこそ何か環境面からすると元凶だとも見えてしまうからである
つまりこれまでの手法が大幅に変更させられる、確かにそこで不況になるとか恐慌になるとか一時的にはなる、そこに新しい時代の産みの苦しみが起きる
でもそれは新しいニューノーマルへの産みの苦しみなのかともみる

つまり資本主義の終わりとかも良く言われるようになっている
コロナウィルスで新しい時代の模索が始まる、それほどの変化をコロナウィルスがもたらすとするとまさに神意なのかとまでなる
そんなこと簡単に人間にはできない、コロナウィルスも自然の作用でありこれ以上グロ−バル経済をつづけるなとかの警告だったともなる
もしそういこたとがなかったら世界はますます環境破壊がすすみもう原発事故でこの辺が住めなくなるような状態にもなっていた
原発でももし事故が起きなかったら日本中に原発が増えて日本自体また事故があったら滅びるとまでなっていた、それに事故で歯止がかかったのである
これも神意だったのかともなる 

紹介したサイトは一冊の本のように説明しているから参考になる



posted by 老鶯 at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月03日

地方ではコロナウィルスで東京から来るなになった (ノーマルからアブノーマルへまたニューノーマルと変わる)


地方ではコロナウィルスで東京から来るなになった

(ノーマルからアブノーマルへまたニューノーマルと変わる)


その人は糖尿病である、だから孫が神戸にいて働いていてお盆に来るというとき来るなと強く断ったという、その人は東邦銀行の人だった
なぜ東邦銀行の人が神戸で働いているのかその辺の事情はわからない
ともかくお盆でも東京から来るなという人が多い
それだけ田舎でぱ地方では東京から来る人を警戒している
福島市で最近感染した人も東京と関係してなった
最初私の住んでいるすぐ近くで感染した人も東京のライブハウスに行って感染した
最新ではまた一人仙台市で感染した

このコロナウィルスは交通と地理と深く関係している
大都市中心に人口が密集した地帯から広がる、だから大阪の隣の神戸は危険だとして来るなとなった
なぜなら東京でまた100人越えたように潜在的に感染している人が相当数いるからだ
ただ検査しないからわからないだけなのである

一時茨城県から感染者が出ないとみていたらすぐにやっぱり出た
東京圏内だから必ず出ると見ていたからだ
そして東京を抑えなければこれは地方でも抑えられない
なぜなら東京とのヒト、モノの交流が抑えることができないからだ
そういう時代に生きてきたしそうういシステムの中で生きている
ただ本当に不思議なのはITとか通信は人と接しないからテレワークができる
それでますますITが重要になるという
それでも人との交流、物流をとめることはできない
だから交通関係の被害は大きいものとなった
せっかく3月に開通したスーパーヒタチでも人が乗っているのがわずかだからもったいないとなる、それは東京との交通が主なものとしてあるから困る

江戸時代のコレラの感染のことを前に書いた
会津若松を中心にして広がった、東は白河街道があり西は新潟県が北前船とかが入ってきて阿賀野川の交通があり会津若松に人、物が入り広がった
そして田島の方には田島からではなく会津若松から広がったのである
それは東京中心にして拡散するのとにているのだ
それで感染者を出さなかったのは桧枝岐(ひのえまた)だった
ここは交通も閉ざされた地域であり米を食べないで蕎麦が主食でありイモリなど燻製にして食べていた、だから地理的に隔離して交通もなかったから感染しなかった
つまりウィルスは密接に地理と交通と関係しているのである

だから東京の人は地方に田舎に来るな帰るな!
                                        ・       
入らせないために関所を作れ!

こうなるのもまるで江戸時代に還れということにもなる
関所など前時代の不便なものでありグロ−バル化した結果、国境すらないとか世界がなって人、物が交流したのである
それがもう極限に達していたのである、それが急激にコロナウィルスによって否定された国境も関所すら必要なものになったのである
それもかなり厳しく入国制限をするような状態になった

だからコロナウィルスが世界を変えてしまうことの驚きがある
グロ−バル経済すらとめるようになったことの驚きがある
人間の生活は本来どうあるべきかも問われている
そんな外国と人でも物でも自由に行き来する、それはいいこととして推進された
でもそこにすでに弊害が生れていたのである、観光にしてもオーバーツーリズムになり
限界になっていた、それがぱったり止まったという驚きである
今や京都でも閑散としているかえって今ならゆっくり観光できるともなる

いづれにしろ東京を封じ込めろとなってもそれはできない
一千万の人間を東京に閉じ込めることはできない、ただこれもなんらかのカルマだったのかともなる
福島の原発事故のカルマとして東京にこうした災いが生れたのかもしれない
またそもそも東京の様な大都会は不自然でありその不自然さがコロナウィルスに弱かった東京では密集せずに生活できないからである、必ず人と接触するし接触しないて生活できないからである
そして新宿で水商売の人たちからまた感染者が増えたというときもそうである
一万人くらいそういう場所で働いているという、それだけのボリュームがあると感染は防げない、そういう場所も本当は異常だったのかともなる
ただそういう歓楽街は江戸時代でも吉原とかあり人間の欲があるかぎり消えない
でもコロナウィルスでそれも危機にたたされる
自粛が解除されてもそれでまた増える、それは実際予想されたことである
では両立が可能なのかとなるとまたむずかしいのである

とにかくニューノーマルの生活形態に変化するほかないのだろう
不思議なのはこうなるとみんながデスタンスをとり座禅して沈黙する寺に籠る僧のようにもなる、しゃべると飛沫が飛び感染するからである

距離をとれ、デスタンスをとれ、マスクをしろ、大声でしゃべるなとかなると

それが禅僧のようになる生活だともなる、まさに修行僧と同じになる
でもそれもまた新しい時代のニューノーマルなのかとなる
何かこれまでの生活を見直す、これまでの生活が実際はノーマルにみえてもアブノーマルだったのかもしれない、それをコロナウィルスによって気づかされて変えたとともなる
私自身は奇妙なだけど30年間引きこもりであり禅僧のような生活をしていた
人とは接せず沈黙してしゃべることもしないで暮らしていたのである
だから変なのだけどこういう生活は向いているのである
今でも一人くらいとは接しても人と接していない、そうして誰とも接することなく通信でプログを文章を書いている、テレワークなのである
だからこういう生活に違和感がないともなる

何か時代というのは不思議である、高度成長時代があっても自分には会社勤めもしていないしバブルの狂乱も地方では関係なかった、その時株もしていないから関係しなかった
その時自分はアブノーマルな人間だったのである
そして私自身は内面の追求をしてきた、宗教とか哲学とか芸術を内面的なものを追及してきたとなる
それがまたAIで仕事がなくなりみんなアーティストになれということを言う人がいる
高度成長時代は企業戦士であり会社のために闇雲に働いているのがノーマルだったのである
だから時代が変わるとノーマルがアブノーマルになりまたニューノーマルが志向される
このように人間の社会は常に変わってきたのである




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2020年07月02日

梅雨籠り(梅雨から梅雨晴れの日)


梅雨籠り(梅雨から梅雨晴れの日)

ajisaiike1.jpg

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都草スーパーヒタチ来るかな

老鶯の家近く鳴き籠るかな

夏の日や日影に休み昼の月

煩いなく木陰に石の二つかな  


草深く雨しととふり梅雨籠る老鶯の鳴く声今日も聞くかな

草深く老鶯鳴きて雨しとと今日もこの道我が行けるかな  

長々と日影の道の涼しかな我が親しみし通ふ道かな

そちこちにでで虫道をさえぎりて田舎の道を今日も行くかな

この道の人も通らず池映る紫陽花のみそここに静まる   
                          

梅雨籠るという季語があった、これは使ったことがなかった、季語は多いからみんな使えないのである、梅雨の季語でも十くらいある、それだけ日本人は季節の変化に敏感なのである

老鶯というとき何か自分の俳号にしていた、というのは草深い田舎に住んでいるからである、草深いというとき隣の原町とか相馬市はそうはならないのである
一万くらいの町だと草深いともなる

日影に休んでいたら昼の月がでていた、何かこれが自分の生活だった
仕事もしないでどこかぶらぶしていた、そして家に帰れば食事が用意されていた
今違うのは食事の用意が大変なのである、家事も一人だから追われるのである
その間にプログを書くと毎日が何か追われる生活なのである
それは介護になってからもそうであり終わってもやはりつづいている
でも多少余裕があり日影に休んでいると昼の月がでていたのである

川子の道は人が通らない、というよりは今はどこでも人は歩くのを見ないのである
ただ車だけは実際は通っている、どんな辺鄙な場所でも通っている
でも車だと人が通っているという感覚になれないのである
車は人と接触しない、ただ通り過ぎて行くだけだからである
何か車というのは常に遠くに行く、心も常に遠くに行くという感覚になっている
それで近くにあるものを人でも風景でも見ないということがある

今日は農家がありその向かい側の池に紫陽花が写っていた
それを見る人は誰もいない、農家でも人影もみない、何かそれでかえって紫陽花が水に深く映っていた、それを見ていたのは自分だけだったとなる
田舎の道をさえぎるのはでで虫である
この辺が都会とはあまりにも違っているのである

これからまだ梅雨がつづくのか、今日は梅雨の晴れ間なのか、梅雨が今年は明けるのが早いともいうがどうなるのか、梅雨籠りの日がつづいたこの頃であった




人生百年時代の高齢化社会の暗黒 (社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


人生百年時代の高齢化社会の暗黒

(社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


その女性は来るたびにとなりに変な老人がいることを愚痴る
何か異様な恰好して笑ったり何か言うと警察を呼んだりする
そこに何か異常性を感じる、80近い年齢だろう
そして大声でわめいているときがあるという
それが狭いこの辺では住宅だから余計に気になり苦しんでいる
それで騒音でアパートで殺人まであった

何か現代は高齢化社会なのだから老人が社会で問題になる
それは経済的にもそうだしそれだけではない、老後が長くなったせいなのである
それで50歳で一区切りでそれから50年が第二の人生だという人もいる
それだけ人生が長くなるとそれに備える人は経済的にもまたそれだけではない
その長い時間を費やすものがないと変な老人になる

そういう老人は回りで相当に増えているだろう
前は正論じいさんとかがいた、法律関係の仕事をしていて法律をたてに文句を言っていたのである、他にも何か町会議員なのかやめた人が勝手に川の掃除したのかなにか市の許可なくして川を勝手に変えたことでも問題になったとかいろいろある
それは本当に一部であり社会全体では増えていることは間違えない
この人も市町村の議員なのだから議員だったらいうことを聞く人もいたのかもしれない
でも議員でなくなったらただの人となっていたから通用しない
つまり権力をもたないと実社会では何もできないともなる
だから民主主義では一人では何もできない、10人でも100人でも集めれば政治でも動くのである
だからカルト教団でも人を集めるために票するために活動している
NPOで10人集めないとできない、認められないのである
ボランティアをするのにも権力が必要であり善意だけではできないのである
議員という権力を失って何もできなくなったとも言えるのかもしれない
ただその事情はわからないがそういうことはありえる

なぜそうなるのか?

それは老後が長くなってもすることがない、会社を退職するとすることがなくなる
地域でもそうした老人を受け入れることもない、また若い人が老人に頼ったり尊敬したりもしない、ただ若い人が税金を払って生かしている邪魔者、ごくつぶし、無用のものと見ている、だから早く死んでくれという気持ちになっている
そういうふうに老人に対する風当りが強いのである
それは口に出さないにしてもそういう気持はいつか現実に出て来る
日頃からそう思っているのだからそうした念が必ず表に現れる

例えばボランティアでも自分が駅でたまたま無人駅化したので案内などしていた
そしたらそんなことするな、必要ないと地元の女性がどなりつけてきたのである
でもその時、風で遅れたから案内していた                        

でも結局無人駅のボランティアで経験したことは余計なことをするな!

これはJRからも駅長からも常にとがめられた、でも自分のしたことは多少は駅の改善になったのである、でも誰も認めるものはいなかった
それで今度はあいつは怪しい奴だと警察に地元の人が通報したのである
それでみんなの前で職務質問された、ただそれだけだったのである

だからいかにボランティアというのは個人的にはできない、前の正論おじさんでもそうだし議員をやめた人も個人で勝手に許可なくしたから問題になったのである
別にNPOのように集団化してやればそういうことはなかった
何か現代の社会は個人で何かすることを認めないのである
集団化すれば数を集めれば認める、民主主義は多数決だからである
多数がすべてなのである、集団化すれば容認される、宗教でもそうである
何百万人いるんだということで誰も何も言わなくなる、ただ恐怖になるだけである
それがいい悪いなど関係ないのである
そうしてナチスのようにファシズムになるのが現代なのである

とにかく老後が長いという時会社を退職してでは何か地域のために尽くすとかなにか役にたつことをしようとしてもできない、そういうコミニュティもなくなっているからだ
昔だったら村の長老としてその経験と知識で尊重されていた
でも今はかえって機械頼りの社会になる時、若い人に教えてもらう方にてっているからだまた知識が膨大になり教えることも不可能である、それでむしろインタ−ネットで知識を得るという社会になっている

つまり老人の出番がない!

また一方で老人が金がなくて70までも働かざる得なくなっているのも現実である
それで老人がケガする人が増えている、それで老人にとって過酷な社会だともなる
悠々自適の生活などしている老人は少ないのである
人間は金も必要だが生きがいも必要である、人間は死ぬまで仕事を持つべきなのである
それで90過ぎても医者で現役でそのまま一週間くらいで死んだ
そういう人はいい死に方だったとなる

ともかく変な老人が増えるという時これからますます増える、そういう老人を受け入れる社会ではなくなったからである
だからやたら何の役にもたたない老人がいるなと邪魔者扱いしかないのである
でも社会のために地域のために何か役たとうとしても拒否される
犯罪者扱いにされるのである
それが現代の社会であり老人にとっては高齢化社会でも過酷な現実が待っている

その老人は確かに特殊な異様なものであり肯定はできないし同情はできない、ただそういう老人が増えてくることは確かなのである、それが高齢化社会の暗黒面なのである

金のない老人は死ぬまで働け!

暇な老人は社会に用はない、早く邪魔だから死んでくれ!

これが高齢化社会の過酷な現実なのである、そのことは今の40代以上、氷河期世代になるとさらに過酷になる、年金ももらえない、生活保護も雀の涙くらいしかもらえない
現実生活保護は今は厳しい、5千円しかもらっていなとか現実にある
医療費もただではない、わずかでも年金もらうとそうなるのである
つまり老人はもう死んでくれとなっているのだ、それだけの国に余裕はないのである
ますますそれは日本が衰退してそうなる
もし日本が経済的に余裕があればそうはならないけど日本は衰退するばかりであり三等国になり貧困化しているからだ
何か貧困層ではもう十円二十円を節約する戦後まもなくの貧困にも戻っているからだ

人生百年時代は暗黒である

そのことがこれから現実化して表面化してくる、その兆候として変な老人とか死ぬまで働かねばならない老人とか毎日の食もままならない老人が現実に増えている
その対策を日本の経済自体がここ20年賃金があがらないとかで衰退しているのだから何もできないとなる、政府はもう増えるばかりの老人は見捨てる

(社会の負担となり圧迫するから問題)

abstract mountain


abstract mountains


Why I can make a lot of abstract paintings

rough mountain1.jpg

onetreerock1.jpg

この木があると著作権違反になるかもしれない

なぜならこれだか目立つからである

This tree could be a copyright violation

Because this is noticeable

ENLARGE

ketugo111.jpg
強固に結合された岩

firmly combined rocks

waterfallhigh1.jpg

forestshiberia111.jpg

catedoraru111.jpg


私が原画を基に作りだしている抽象画が不思議になる
山の抽象画とかなると何か地球を変形している感じになる
地球の形を変えている感覚になる
地球を改造しているか感じになる

ただもともとの絵や写真は私のものではない
だから一部著作権違反にもなる

でも明らかにそこに自分自身の創作がある
それはパソコンのソフトであれやはり第二次創作でも創作だとも見る
完全に著作権違反と思う
音楽だったら編曲となる、それで問題になったことはある

ただ私の抽象画がこれだけ大量にできるのはパソコンのソフトで機械的にしているからである、何か自分自身でイメージしたものではない
だからこそ大量に作れるとなる


The abstract painting that I create based on the original picture is a mystery
When it comes to mountain abstraction, it feels like the Earth is deformed.
It feels like the shape of the earth is changing
I feel like I am modifying the earth

But the original pictures and photos are not mine
That's part of the copyright violation

But obviously there is my own creation
Even if it is the software of the personal computer, I see it as a creation evenin the secondary creation.
I think it's completely a violation of copyright
If it's music, it's an arrangement, and that has been a problem
The reason why I can make such a large amount of abstract pictures is because I use a computer software to make them mechanical, not something I imagined myselfThat's why you can make a large amount







2020年07月01日

東京都知事選挙で山本太郎の創価批判の演説 (創価会員が公明党に反対して除名された)


東京都知事選挙で山本太郎の創価批判の演説

(創価会員が公明党に反対して除名された)

sokatamsmoto1.jpg


東京都知事の演説で創価会員が公明党に反対して除名されたとか訴えている
公明党がカジノに賛成するとか国土交通大臣がその法案を通すために奔走していたとか
ある
公明党が宗教政党がギャンブルを積極的に誘致するとかなるとありえないことだとなる
なぜなら創価会員は特に婦人部は夫がギャンブルで苦しんでいる人が多いからである
そういうことを批判して除名される、仲間からもコミニュティからも除外されて孤立させられる
山本太郎の説明でコミュニティから除外されることが辛いということを言ったのは的を得ている
なぜなら創価は団地の宗教とも言われ戦後に東京に地方から就職した人が団地などに入りコミニュティとしてつながりを持ち精神的に安定をもった
だから日々の生活でもそうしたコミニュティの中で暮らしているとそこから除外されたら孤立するとなる

宗教というのはもともとそういうものではなかった、その始祖をみれば釈迦は洞窟で悟りを開いたとかそうした集団化しない、それは後に集団化したのである
集団化することによってそれは強大な組織となり寺は治外法権の不可侵の場となり僧兵によって武装までされた、そこは武士の城と同じだったのである
だからそうした寺院から僧兵が生れ武士になったというのもうなづける
それはヨ−ロッパでも同じだった、十字軍とか武装した信者が騎士団を形成したからである

何か宗教というとそうした武力とか権力とか関係ないとみている
ところが歴史をみればわかる、一向宗でも日蓮宗でも強力な組織集団になり政治集団化したのである、だから信長はあれだけ強烈に戦争で皆殺しするようもなった
それは寺院は武装集団であり権力と対抗するものとして認識されていたからである
信長以降は寺は武士集団の下に所属する管理するものとなったのである

創価はそういう武装集団とにているのである、ただ民主主義になったから平和革命だとか無血革命だとやたらにいう、でも一票とることは至上命令でありその一票をとるために池田先生のためだとなり拠点に集まり祈る、これは明らかに政教一致であり憲法違反なのである
だから一票を得れば成仏して得なければ地獄に落ちると脅すのである
完全に政教一致の団体だからである、それは戦争で天皇が神であり現人神(あらひとかみ)として導いたのと同じである
でも創価の創始者の牧口常三郎は戦争に反対して獄死したのである
そういう歴史があっても今と選挙に勝つことが信仰の最大の戦いとなる
権力を争奪することが目的の団体なのである

それでやっかいなのはそれに反対する者はここでも会員がカジノでも何か公明党の政策に反対して除名されたとかいうのもそうである
その人は地獄に落ちるとか烙印おされ除外される、するとコミニュティからはずされて孤立するとなると訴えている
ともかく宗教と政治が一体化すると何かというと地獄に落ちるとか罰当たると云うになるのが宗教の危険性である、それは個人的にもそうなりやすいのである
本当は私怨でも宗教になると神でも仏をもちだして罰が当たるというのは普通にあるからだ、そんなことに神仏がかかわることはないのである
そこに宗教の危険性がある、それが集団化すると余計にそうなる
てぜなら選挙でもそうだが何であれ逆らうものは仏敵となるからである
そうして集団組織で祈る、それはやがてファシズムとなる
宗教は議論とか反対を許さないものだからである            

創価とは本当に前は武装集団であり僧兵であり権力争奪を辞さないともなっていたのである、何か洞窟にこもって修行するとかはない、極めて政治的団体である
だからすべての目標は選挙に勝つことであり一票をとり政治権力でも手中にして日本を支配することである
日蓮の思想自体がそれを容認している、王仏冥合とは王とは権力であり仏は信仰である
それが容認しているのだから政教一致でも教義的に矛盾しないのである

そして東京がその最前線であり東京で勝つことは日本全国でも勝つとなり東京都の都議会選挙でも最大の戦いの場となる
それは宗教団体を認可するのが東京都になっていることもある
ともかく創価があのように増えたのはやはり地方から東京に就職した人達が拠り所を失いそのコミニュティに所属したということが大きい、組織化集団化して座談会とかなにか
家族的なものを形成して仲間意識を作ったのである、団地の宗教と言われたのはそのためである
その成り立ちが本来の宗教より組合とかの感覚になる
でも宗教だからそれがファナティックになりやすい、狂信的になりファシズムとなる
実際は本来の宗教とは何の関係もない、権力争奪を目指す政治的団体である
だからこそ創価会員が公明党の政策でも反対すれば除名され地獄に落ちるとか仲間からも除外されるのである                        
でもカジノに反対するというのは宗教政党だったら当然だとなる
それもできない宗教集団とは何なのだろうとなる

結局民主主義とは数であり数が権力である、だから選挙でも数でありどれだたけ数を集めるかで勝敗が決するとなれば何であれ数を集めることが日々の戦いになる
だから創価では毎日会員を増やすために運動している
幽霊会員が膨大なのである、その人たちは何の活動もしていない、座談会にも来ない
ただ名前だけの会員である、その人たちに一票をいれてもらうことが戦いなのである

やはり宗教というのは弊害の方が歴史的にも大きかった、どうしても明治維新に天皇を神のようにして日本をまとめたことが後の禍ともなった
それを強く感じるのはどんな神社にも小さな社にも武運長久とか鳥居でも狛犬の台座でも刻まれているのである、だからどれだけ小さな神社でも国家神道の中に組み入れられていた、そこで村人は出征して行ったのである
そして神社団体が江戸時代に寺が優遇されていたとなり廃仏毀釈運動になり仏像が破壊された、これも利権争いだったのである
神社でも寺でも利権団体であり権力機構に組み入れられる、寺は本当に江戸時代は役所のようになり優遇されていた、というのは武士の菩提寺ともなるからそうなる
だからその反動として寺に対して明治維新になり天皇を国家神道化して排撃したのである要するに戦争の原因はそうした政教分離ができないということにもあったのだ
天皇は象徴天皇で権力はないにしてもそれをもちあげて権威を利用してきた歴史がある

だから不思議なのは今の天皇は明治天皇から南朝の楠正成を祭りあげている
南朝の復活であり南朝の系統が今の天皇だというのも歴史の継続だとなる
この辺も霊山は南朝の城でありそこから落ち延びた子孫がこの地域には多いのである
ただそうした歴史を今にも尾をひいているのも歴史である
そして明治天皇は替え玉だったというのも万世一系が天皇ではないのである
明治維新の過ちがあったとすればやはり政教分離が成されていなかったことなのである
靖国神社には朝敵となった武士は祀られていないのである
西郷隆盛でも最後は朝敵となり祀られていないのである
日本の国が天皇の臣下であり臣民であり国民ともなっていなかったのである
ただ国民国家というのはフランスでも他でもみんなそうなった
国家はヨ−ロッパてもハウスブルグ家とか貴族のものだったのである
でも国民国家となったとき国民が今度は全員兵士にもなり国同士の熾烈な戦いになった
そして世界大戦で大量の人間が死んだのである

buunchou2.jpg

buunchoukyuu1.jpg

国威宣揚 武運長久

これは戦争の時に刻まれた文字である、これはどこの神社にも刻まれている
これは大倉の山津見神社とかのものである、
とにかく小さな村の社にも刻まれている戦争の歴史なのである


posted by 老鶯 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年06月30日

南相馬市鹿島区の花幸園芸店が閉店 (残した一つの正月の作品)


南相馬市鹿島区の花幸園芸店が閉店 

(残した一つの正月の作品)

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正月の寿春

円は満願、調和、円満
紫菖蒲は清楚な妻
チューリップの大きな蕾
未来へ開く瑞々しい若さ
葉牡丹は田舎的素朴質実
若松は初々しい命の緑
黄色の蘭は無垢なる幼児の色
正月に床の間に映えて
この家を言祝がむ




鹿島区の花幸花屋が閉店した、何か人が入っているのを見たこともないからやっていけるのかなと見ていた、花の種類も少ない、花屋の商売は結構むずかしい
花屋というのは実は相当な知識とセンスが必要である
まず花を育てる土とか肥料の知識が必要である
それは農業で畑で野菜を作るのと同じである、この知識は簡単に身につかないのである
だから農家だとその家のものが跡を継ぐのが有利なのである
親から実地で教えられるからである

それから花屋とかは何か芸術的センスが必要である、だからこの店では生け花の免許をとっていたことでもわかる、生け花の素養が必要なのである
それと美の感覚、芸術的センスが必要なのである
ただ花を売るということではない、花に対してのセンスが必要になる
私自身は花に興味があり高山植物でもずいぶん見て歩いた
それでフラワーアレンジメントに興味をもって最近はじめたのである

ただ花屋というのは結構金もかかるし金持ちの人したできないと思った
だから鹿島区ではあとは「森の花屋」しか残っていない、ここは小高の人がはじめた
ここは大きいけど花が少なくなっている、仙台まで買いにいかないと花は買えない
相馬市の駅前の花屋では仙台まで花を買いに行っていた
そこで病院に行って花を買ったりしていた、そこで写真をとりフラワーアレンジメントに興味をもってはじめた

ただ鹿島区では小さいから花屋でも商売が成り立たなくなる、それで仙台ですら今回のコロナウィルス騒ぎで花屋で花が売れくなくなったとかなっている
国分町で水商売の人が買わなくなったからだという、あういうところには花をふんだんに使って飾りつけをするからである
それからまたコロナウィルスで結婚式とか葬儀でも人が集まるのが嫌われたことで花を買わないということもあり苦境にたたされた
花屋はそうしたイベントとか集まりとかに花を使ってもらえないと成り立たない
だからお盆にはみんな花がを買うがそれだけではやっていけないとなり閉店になった
もう一軒の花屋だって成り立つかどうかわからないのである

この正月の花飾りが記念として残したものともなった
これは自分がいいとして評価したが本人はあまり関心がなかった
他人が評価して本人が評価しないのは変だった
これは和洋折衷で私が評価したのである

何かどうしても通りの店がシャッター通りになる、それは前のように大規模でないとスーパーに人が一局集中したように
小さい店はやれなくなる、それでせっかく鹿島区で真野川沿いに新しい通りができても歩道ができても
一軒も店ができていないともなる、それがもったいないのである
でも花だけが咲いているが人が歩いているのを見るのはほとんどないのである
店とはもともと見せるだったのである、その見せる店がないからどこの通りも死んだとなる

花でも簡単なものはスーパーで買ったりするからである
だから花の専門店となると相当な技量と芸術的センスとかがあって商売しないと成り立たない
それから都会でないとそういう客がいないから成り立たないとなる
自分自身は花が好きだから花屋に興味があった、花とかお茶とか短歌と俳句とか深く関連していたからである
それは日本の伝統であり日本文化だからである、だから花屋はそうした専門性がありスーパーとかにないもので
商売する、それは小さな店でも成り立つとなるがそうした客は都会でないといないから田舎では無理だったとなる
でも田舎でも花の苗とかみんな買っている、原町には相馬でもそうした需要がある
こうしてまた一見店が消失することは通りが淋しなるのである

これも郷土史であり郷土史とは記録として残すことである
これは5年前のことであった
そして「相馬新報」とは地域の新しい報道なのである、古いものと新しいものを知らせるということになる
古いものでも常に発掘したり調べないとわからないのである
それで400年前に700人生波で津波で七百人溺死と相馬藩政史に記録されたのが津波の後に発見された
これがいかに貴重な重大な記録だったかを知ったのである
それから東電では科学者が十数メートルの津波が来ると報告して警告していたのである

でもそれを大々的に知らせることがなくこの辺では津波が来ないとして大被害になったのである
だから知らせるということが報道の使命である
それは地元に密着しないとできない、その土地と深くかかわって報道しないとできないのである
福島県となると広くてそうした土着的密着した報道はできないのである
そこに「相馬新報」の意義がある
そうしたことができたのもインタ−ネットが生れてできたとなる、それは無料で誰でもできるからである
ただ手間だけは省けない、毎日書くことは相当に手間になるからだ
そのことで自分自身が費やされていることでもわかる、本当は一人ではできない、狭い地域でも実際は報告することは多様だからである






2020年06月29日

人間の心理の不思議(少なく要求すると多くもらえる)


人間の心理の不思議(少なく要求すると多くもらえる)


金には私は全くかかわらなかった、第一金を稼いでいないし金は最低限親からもらっていたからである、金を人に呉れたり与えた経験がないからだ
でも金を他人に与えることを経験して不思議だった

その人は最低限の生活である、いつも電気水道がとめられるような最低限の生活である
だからいつも金がたりない、でも要求する時は一万とか二万とかになる
そして5000円とか一万でなく一万5千円とか半端になるときがある
その人はまずその時々に必要な金を要求する、だから高いまとまった金は要求しないのである
今日食べるものも買えないから何千円くれとかにもなる

それで不思議なのはそうしてその時々少なく要求する、5000円だとすると何か私は一万与えたりする、1万5千円だと二万になったりする、それはこまかがないこともある
でもそのくらいいいやとして与える
これは何か人間の心理と関係している
そうして少なく要求する、控えめに要求すると多く与えたい気持ちになる
もし最初から大きい金を三万でも四万でも一気にくれというと与えたくないのである
こまめに少ない金を要求するからこれくらいならいいやとなっている

ところが事業している人で失敗した人の要求する金は百万でもはした金のようになる
軽く一千万でも要求してくるしそれより怖いのは自分の全財産まで世話したから当然のように要求するというより脅迫してきているのである
こういう人とつきあえるのはやはり一千万でもたいした金ではないとなる事業家しかいないのである
だから自分が入院したときその人は近くに住んでいたけど頼らなかったのである
怖くて頼れなかった、事業で失敗しているし多額の借金していたからである
そしたらどれだけの借金を要求されるかわからない恐怖になったからである

でも入院して家を留守にしたとき大金を留守を頼んだ人に盗まれた、それは大金だった
でも全部ではなかった、盗んだ人も全部盗むことを控えたのである
おそらくその人はそうした大金を手にしたことがなかった
実際自分自身も大金を手にして使ったことなどなかった
だから金についてはわからなかったのである

人間は欲深くなることは怖い、欲を控えめにしろ!

これがやはり人間の基本的な教訓なのである、現代はいくらでも欲しいとなる
金でもモノでもなんでもそうである、欲が限りなく増大して歯止がないのである
もちろん最低限の生活している人はただ日々の生活ができればいいというだけである
でも金持ちでもさらに金持ちになりたいとか欲が増大してゆく
それで十億円あっても安心がないという、それが金の性質でありまた人間の欲なのである株などももう何に投資しているかなど関係ない、ただ欲が刺激されて投資する
株が上がるとして金が欲しいというだけで投資している
何かを会社でも何でも育てるという感覚もないのである
ただ欲だけがそこにあるだけなのである、だからかえって損したりすることになる
歯止がきかなくなるからだ

人間の欲は抑えることができないのだからそれを全部おさえろとは言わない
ただ限りない欲を抑えないと危険になる
それは原発事故などの補償金で起きたことである、実際いくらでも欲しいとなり軽く億の金をもらった人がいる、それでも足りないとなり要求する
いくらでももらえるだけもらえとなってゆく
補償金は権利でもらえるのは当然でもその要求がきりなくなるのである

とにかく人間の欲はきりがないし怖い、それが制御できなくなるからだ
原発がこの辺で作られたのもそして事故になったのも欲と関係していたからである
つまり原発は金の成る木だったからである
だからこそ政治家でも官僚でもマスコミでも地元の人でもあらゆる人が群がったのである原発はものすごく欲を刺激するものだったのである
それはそこに黄金の山があると同じだったのである
だからそこに危険性があってもかえりみえることもなくなったのである
つまりその黄金の山に目がくらんでしまったのである

だから人間の欲は怖い、それに歯止めがなくなり遂には殺し合いまでなる
そういうことは人間の歴史が始まって以来繰り返されてきた
人間の基本的な業(カルマ)なのである
だから欲をおさえること控えることを宗教では常に説いてきたのである
でも資本主義の原理は欲を増大させることである
いかに人間の欲を刺激して物を買わせたりすることである
ただ欲というときいいものを作りいい商品を作り売るということは悪いことではない
でも欲には非常に危険なものがある、それが問題なのである
だからすべての欲は否定できない、でも控えめにする、欲を抑えることは必定なのであるそれをしないと人間の争いも問題も解決しないだろう
なぜなら人間の問題は根本的には様々な人間の欲から起きてくるからである 

現代の貧困の問題はいろいろなものがあっても買えないという貧乏になる
これも辛い、目の前にうまいものがあっても買えないという貧困である
前は貧困というときそもそも物がない買いたいものがないとなっていた
今はあらゆるものが欲を刺激するものがあても買えないという貧困になる
だから最低限の生活でも意外と食べものでも選んでいるのである

釣りしている人からカレイをもらった、それは身が厚いものでいいものだった
買ったら2000円くらいするものだった
その半分をくれると言ったら私は青魚が好きだから断った
食べるものがないとしたら普通は断らない、昔の貧乏だったら食べられるものは何でも食べるとなるからだ
その人は前はサシミでもスーパーではなく小売りの魚屋でいいものを買っていたのであるだから今は貧乏人でもそうして食べ物でもいいものを食べている場合がある
ただ最近は果物を食べられないとしているからさらに困窮してきたとなる
私は果物は好きであり贅沢しているからだ
ただ後は別に特別贅沢していることはない、カメラを買ったりしてもそれはプログとかにだすとか仕事の一環として買っているからだ
遊びと言えば遊びだが今や遊びが仕事にもなっている時代だからそれをとやかく言われ事はない時代である

とにかく欲は否定できない、でも私が言っているのはその欲全部を否定しているのではない、体験からもしここに一千万あったら半分の5百万は盗むとかにもなる
また十万を欲しいというとき5万を要求するとか控えめにすることが大事だということである、それが実はあなたの身を救うのである
この辺で起きた問題はきりなく金を要求することになったことである
補償金をきりなく要求してもらう欲が出たことである
それは権利だからまた外からもらうなとは言えないことにも問題があった
でも同じ市内でももらえる人ともらえない人がでてきてもめたのである
そしてそのために一体感はなくなりいがみあうまでになったのである
これはコロナウィルスの給付金でも起きて来る
それはみんな欲が刺激されるからそうなる、もらうことは当然にしてもそこに必ず不公平が生れる、そして争いにもなるから怖いのである

5千円ください⇒一万やってもいいか

二万ください⇒一万ならやる

これが何か人間の心理なのである、多く要求すると少なく与えられ少なく要求すると多く与えられる、それは人間の心理でありまた神に願うときも欲が深くなると与えられないということに通じている、この辺では原発などでとりかえしのつかなくなった事故の原因が原発があまりにも金の成る木であり欲を刺激するものだったからである
そのきりのない人間の欲に対しての罰として原発事故もあったのかともみて書いてきた
とにかく欲深くなった人間がこの辺で多くなっていた
ただそれはここだけの問題ではない、欲は限りなく増大してゆく性質がある
そうなると危険になってゆく、神から罰せられるともなる

資本主義とういのは何かそうして欲を刺激して増大させてゆく原理がある
だからその歯止が必要なのだけどそれがないから危険だともなる
それでコロナウィルスがそうした人間の欲に歯止をかけるものとして現れたのかともみた結果的に中国でも他でも空気がきれいにくなったとか水がきれいになったとかになった
それは人間の活動が極限状態に達していたからだともなる
だからそれをおさえるためにコロナウィルスが現れたのとかもみたのである
posted by 老鶯 at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年06月28日

絵になるスーパーヒタチ(写真)


絵になるスーパーヒタチ(写真)

superhitachiroad1.jpg

superhitachieee1.jpg

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これは真野川で撮った、ただ川面に午後の光りが反射するところを撮ろうとしたが
曇って来てできなかった
シャッターチャンスが一回しかないというときその時々の天候が一回しか経験できないからだともなる
写真はやはり写真をとる場所が大事である
それが旅行したりするとわかりにくいのである、だから地元だったらここが写真をとるのにいいと見て何回も撮ってみるからいい写真がとれる
今回は川面に反射する光がとれなかったが次は撮れるとなる
今は梅雨で曇りだから撮れないと思い撮ったのである

5万で広角レンズ買ったから今試し撮りしている、やはりレンズが広角でないと景色になるといいものがとれないと今まで思っていたからである
ただ私は写真は素人である、レンズのこともわからなかったからだ
ただいい写真を撮るにはどうするのかと考えるようになり広角レンズを買っただけである
本当はフルサイズのカメラでレンズがいいとなっている、そうなるとまた重くなったりめんどうである、金もかかる、どうも自転車だといい場所で写真がとれない
重いと運びにくいのである、今の自転車の欠点は今まででは一番良かったが荷台がないことが最大の欠点だったのである

写真を撮ることは本格的になれば結構な労働になると思った
だから写真をそうして職業にする人が多いこともわかる
それだけた写真の時代ということになる

都草スーパーヒタチ走り来る

都から東京から人をのせてくるとなるが実際はまだ乗る人が本当に少ないのである
だからもったいないともみる、でもこれからは東京中心の社会でなくなるかもしれない
となると新幹線とか高速で東京につなぐということが時代に合わなくなるともなる
コロナウィルスが社会を変える、それが鉄道にも交通に一番影響したからである

専門馬鹿により社会が混乱させられる (コロナウィルスでもそうだったー専門用語を使い通じなくなる)


専門馬鹿により社会が混乱させられる

(コロナウィルスでもそうだったー専門用語を使い通じなくなる)


今回のコロナウィルスでも急に統計で40万人がこのままでは死ぬというウィルス学の専門家が言った
それが専門家会議の代表として言ったようになったから国民は恐怖になった
でも現実は日本は感染者も死者は世界と比べると極端に少ないのである
だからなぜそんなことを言うのかとウィルスをわからないにしても世界から判断すればそんなことを言うのはおかしいというのは常識である
ただ常識からはずれたことを言うのが専門家であり専門馬鹿なのである
専門馬鹿とは学者にも多い、象牙の塔にこもる学者は社会のことがわからなくなる
まだ実験室にこもり研究ばかりしている学者もそうなりやすい
ただ現代社会は無数に部分化した社会であり社会をトータルにわかる人などもういない
そこに必然的に専門馬鹿が普通に生まれるのである
文系でも経済の専門馬鹿がいるし法律の専門馬鹿もいる
そもそもイリイチの指摘したように専門化した社会が現代だからである
社会は無数の職業に分化して専門化してその専門のことはわからなくなり専門家に支配された社会だとなる

要するに専門家が今では司祭である、専門家に従わない限り何もできない社会である
教育にしても教育を専門家とする学校に行かないかぎり何も学べないとか病気になれば医療機関に行かなければならない、勝手に自分で学んだり治療したりしてはいけないともなる、銀行にしても金融の専門家である、投資信託など仕組みが複雑すぎてわからない
だから金融の専門家に従いとなる、ところ地銀などは素人と変わりなかったのである
証券会社ではないからである
そこではやたらと専門用語が出て来る、それで煙にまかれてわからなくなる

それは原発でもありここは原子力の核ということを知れとなるともう普通は不可能であるそれで数学者が

事故の起きる確率は百万分の一だと統計学から計算して言っていた

これも専門馬鹿の典型なのである

なぜなら他の学者は10数メートルの津波が来ると警告していたからである
だから学者でもいろいろな分野の人がいてそれが相互に協議などしないからそうなる
今回でも

このまま対策をしなければ40万人が死ぬ

こさも専門馬鹿の警告だったのである、それが専門家会議の総意として発表されたと受け取られたから問題だったのである

何か文系と理系があるけど総合的なもの全人間として生きることなど不可能な時代であるそれで天才的な優れた人はアウトサイダーになりニーチェのようになりそこで人間回復を計ったのである
なぜなら社会を離脱することによりそこに自然が全面に出てきて人間回復できるとなるからだ
私の場合は天才でも何でもないけど引きこもりであり社会から離れて暮らすようになったそれで自然と一体化するアイディンティティ化する詩などを作るようになったのである
ただどんなことしても人間は現代ではかたよった人間になる
総合的人間になりえないのである、社会人として勤めない人もまたかたよった人間になるなんらかですべての人間がかたよった人間になる
だから別に専門馬鹿だけのことではないのである、文明人がみんなかたよっているし奇形文明だと書いた時もそうだった


そもそも学校からして教科が別れ分裂的思考になる、いろいろなものが一緒くたに教えられ分裂混乱させられるのである、そこからして分裂状態になっているし大人になってもその延長であり同じなのである
そうした分裂状態からナチスが生れた分析するのもわかる
何か一つのなるために一切のことを無視してハイルヒットラーとなるのがわかりやすいからである、それで偽りの一体感に酔うのである
カルト宗教団体でもそうである、そこはファシズムの温床なのである
大衆を相手にしたときはわかりやすいことが第一でありそれでまとめることが第一になるからだ

いづれにれろ人間社会は文明は迷路に陥る、専門家もまたそうした迷路に陥れる人である原発事故でも低放射線は体にいいとかなんとか様々なことを言う人がいる
すると迷路にはいりこむ、右が出口だという専門家もいるし左が出口だという人もいて迷路を彷徨うことになる

でも決して出口に到達しない!

これが現代なのである、それで理系と文系とかいてもその両方に通じる人はまれである
武田邦彦氏は両方に通じているから指標にはなる
もし理系だけのことを言われたら文系は話すこともできない、あなたは何も核についてわからない、ウィルスについてわからないのですから話す権利もなにもないですとなるだけだからである
つまり専門馬鹿というとうけど今の社会は文明はみんな専門馬鹿なのである
それで突拍子なことを言うのは総合的に考えられないからである
原発にしても事故になったらどうなるのか?
そういうことを考えない、生態系の中で生きている人間のことを考えない
空気でも水でも土でも森でも汚染されることも考えないのである
それは全体のことであり人間が生態系に依存しないと生きていけないということも考えない、その周りの全体のことを考えないのである
その全体の中に技術を活用することであり全体を無視してありえないのである
現代文明は全体的思考に必ず欠けてくるのである
私は景観にこだわるときそれは全体のことであり景観が破壊されることは全体が破壊されることに通じているからである

ともかくコロナウィルスでもやはり原発事故と同じような迷路に陥っていた
専門家の指導に頼りかえって混乱する、そしてその出口が見つからないのである
それはそもそも原発でも核でもウィルスでも人間が制御できないのは人間が全能ではないからである、神でもないからである、そこで必ず迷路に迷い込むのである
そこに人間の限界が生じているのである

例えばワクチンにしてもコロナウィルスが変異するというときその変異が限りないとしたら科学者でもそのワクチンを作るのに無限に対応しなければならなくなる
つまりきりないし解決もないとなる、そこに科学者の限界が生じる
もう対応できないということである、そこに人間の限界が生れお手あげになる
それは科学の分野だけではない、経済の分野にしてもそうでありグロ−バル経済などわかる人などいないのである、そこは見えざる神の手によって導かれるなどありえないのである、実際は悪魔の手によって導かれて世界の数パーセントが富を独占しているのが現実なのである、それこそ陰謀論でもなんでもない、事実である
そんな富を独占している人自体が悪魔だとなってしまうのである

要するに文明というのはバベルの塔なのである、文明が専門家して専門用語を使うというときそうである、専門家がいて専門用語を使い互いに意思疎通ができなくなる
違った言葉を話しして通じなくなっているのだ
そしてバベルの塔は崩壊して散り散りにされたとなる
この辺では原発事故後に故郷に住めなくなり家族もばらばらになったのともにている
それはバベルの塔の崩壊ともにていたのである
posted by 老鶯 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年06月27日

原発とソーラーパネルは似ていた同根のもの (人間は景観に無頓着になった、花より団子になった)

原発とソーラーパネルは似ていた同根のもの

(人間は景観に無頓着になった、花より団子になった)

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この馬頭観世音の社に蛍袋が一杯咲いていた
だから珍しいと見ていて今日色づいたのかと写真とりにいったが全部刈られていた
この近辺の草は全部刈られていた
他で見つけようとしたが蛍袋は見つからなかった
意外と蛍袋は咲かない花なのかもしれない
一部でも残すという心がないからこうなるのである
花に関心がなかったからだともみる




新田川ユッサの裏の道の大原に行く所に蛍袋が一杯咲いていたのを紹介した
今日行ったら草とともに刈られていた
それが残念だった、このように何か花でも無頓着であり刈ってしまう
一部でも残せばいいだそういう配慮もない
その草を刈った人は花に関心がなかったからなのとも見る

人間は景観とかあまり重要に見ない、人間は花より団子なのである
もし景観を重視していたらこんなに自然の景観が破壊されるはずがないのである
だからこそ大都会に人は密集して住んでいる
そんな所に住めること自体が人間が何か異常なのである
田舎でも実際は景観とか花とかに関心があるとは限らない
ただ田舎の場合は自然の中で暮らすほかないから自然が保たれていたのであり
意外と田舎でも何かあれば都会化することはありうる

この辺では原発事故以後に風景が大きく変化したからだ
ソーラーパネルとか風力発電の景色となったからである
なぜそうなっているかというと小規模の田畑は維持するだけで手間がかかり何かとれるということもないのである
道具だけでも金がかかる、今度は草刈機を買うために4万だとか人に畑をうなってもらうために5万だとかなんとか金ばかりかかり収穫は正直ゼロなのである
小規模の田畑の方が手間がかかり金もかかるからやめるのは当然なのである
私はただ農業というものを知りたくて金を払っているともなる

ソーラーパネルになるとただ土地を貸すだけで何もしなくて金が入るから楽なのである
何かソーラーパネルも原発とにていた
原発も漁業権を売り船主は原発御殿を建てたとか楽だった、一方で魚をとるとなると船でも高いし金がかかる、すると採算が合わなくなる、苦労も多いし危険もある
すると漁業権を売って金持ちになった方がいいとなったのである
でも結果としてそのために原発事故となりとりかえしのつかないことになった
生態系が水でも土でも空気すら汚染された、森も汚染された
そして住めなくなったのである

この辺では他でもソーラーパネルが問題になっている、これも増えすぎたのである
森の斜面に作りそれで大雨で土砂災害なったときそのソーラーパネルが壊され何らか山を汚染する、もともと景観を汚すことは破壊することは自然にとって問題なのである
自然の景観を壊されることは自然そのもの生態系を破壊するのである
そういう宿命が業(カルマ)が人間にはある、職業とはなんらか業なのである
人間はいくら自然を破壊するからといってやめられないのである
現実に原発で働いていて豊かになった人もいる、そこで働いていた人が地元でも多かったからである、ソーラーパネルでも地元にも会社がありそこで働いている地元の人も相当数いるからである

とにかく山の方に行くとこの辺は依然として荒地が多い、耕作放棄地は回復しない
かえってそういうところはソーラーパネルになりやすいのである
ただ土地を放置しても一文にもならない、かえって税金をとられるだけだとなってしまうからである
ただ田畑は手間でもやはり生態系の維持とか田舎の景観を作ってきたのである
だから田んぼが荒地なになったとき蛙がいなくなり鷺もいなくなったのである
つまり田んぼ水を貯えてそこに虫や蛙がすみ鷺が食料としていたからである
田んぼとか畑は一つの田舎という小宇宙のミクロコスモスでありそこで一応完結した自給自足の世界を形成していた
それは江戸時代から戦後十年くらいはそうだった
なぜなら燃料は山の木材を利用した木だったからである
そういうときは外部に都会に頼る必要がなかったのである
田舎は田舎で自立して生活していたのである

でも現代は電気にたよる、石油に頼る、インフラの道路の整備が必要だとかなり東京都は税金収入が多いから地方交付税として地方に金を回していたのである
すると地方で自立した生活をしていないから東京の人に地方は田舎はいらない、食料も外国から入るからいらないというようになったのである
グロ−バル経済であり日本の税金かかるだけだからいらない、過疎地などは切り捨てろとなったのである
それがコロナウィルスで東京が密集をさけられないということで分散が必要になり地方が見直される結果になった

いづれにしろソーラーパネルは経済的にも電力として有効ではない、なぜならその電力は税金から国民が一割でも二割でも払っていから高くつくのである
そして石炭で火力発電より高くついているのである
それからソーラーパネルは自力で発電できないのである
電力を流して発電させる仕組みなのである
それも効率的ではないのである
だからこれも原発ともにている、自然エネルギーではなかったのである

風力発電も自然エネルギーではない、それは武田邦彦氏などが優秀な科学者が言っているから間違えない、つまり何らかそうした人工的なものは必ず自然そのものではないのである、ただ人間はこうして自然を歪めるのが職業であり業(カルマ)なのである
そのカルマから逃れることができないのである
そういう仕事がないと田舎には住めないともなるからだ
それはだから原発と一見自然エネルギーだなどといっていたが似たものだったのである
つまり景観を破壊する汚すこと自体が自然ではないのである

だから本当の自然は万葉集時代にあったとなる、その清浄無垢の自然の中に本来の神道が生れたのである、それは国家神道とは違ったものである、政治色はないのである
政治だと必ず権力と関係してくるから世俗的なものであり汚れるのである
いづれにしろ人間は景観に無頓着だというときそれだけ美の感覚に欠けているともなる
特に現代文明になるとそれが極端になったのである
日本語が世界の言葉と比べたとき極めて美的だというときもそうである
その特殊性は日本の自然に育まれて生れた醸成された言葉だからそうなった
それが万葉集に残されたから万葉集は貴重なのである

それで神は人間の暮らしを隠したというとき自然の美は景観を損なわれることがなかったのだ
今や東京とか見れば一目瞭然である、むき出しの醜い姿であり人工物に覆い尽くされてその景観は異様だからである
そこがとても地球とすら思えない景観なのである
でもそこに一千万以上が生活している、それが地方と田舎と関係ないならいいが原発をもってきたり今度はコロナウィルスをもってきたりするから問題なのである
ただ地方でも田舎でもまたそういう景観とかは金にならないとして破壊するのである
田舎の場合はただ自然というものに制約されてその中で暮らすほかなかっただけでありやはり景観などに関心かないのである
米と野菜をでも作りそれがいくらになるかは関心があっても景観自体に関心がある人はいないのである
だから景観が破壊されてもそれほど感じないのである
景観自体は金にならないからそうなるのである


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posted by 老鶯 at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年06月26日

交通が発達しても距離が人間の心を隔てる (東京と福島県ー広域社会の共有する自治が必要)


交通が発達しても距離が人間の心を隔てる

(東京と福島県ー広域社会の共有する自治が必要)

何か遠いとか近い感覚が相当に違って来た、江戸時代なら芭蕉の奥の細道のように
みちのくと地の果てのような感覚になっていた
だから平泉まで来るのにそういう感覚で旅して来た
はるばるやっとみちのくの都の平泉に来たな、おりしも五月雨の季節、金色堂はその雨に打たれても鞘堂の中に残っていたとなる
そこに深い感懐があった、それまですでに相当な月日を重ねて旅して来たからである
でも今なら平泉まで新幹線で東京から二時間だとなればその感懐もなくなる
その途中の行程が省かれているからだ

だから距離の感覚が交通の発達で変わってしまった
その距離の感覚が何か錯覚して物事でも理解できなくなる
東京は遠いと思っても実際は近いのだがまた遠いとも思う
福島県はみちのくの入り口にしても今なら郡山まで新幹線で一時間もかからず着くとなれば実際は東京圏にもなる
それで福島県の中心は福島市ではなく郡山市がいいともなる
経済の中心地は郡山市である、それと会津も福島県だから郡山から磐越西線がでているから会津と交通でもつながるとなるからだ

そして東北には奥州には山城が多い、三春でもそうであり二本松は最も山城の形を残している古い中世から受け継いだ防御の城である
防御というとき自然を防御に用いる、山城であれば山が攻めにくいとなる、前に川があれば堀となり自然の防御となる
伊達政宗の青葉城は前は広瀬川であり見上げるような高い所に城を作った
これも防御のためである
東北には平城は少ないのかもしれない、盛岡城でも高台にありそれなりに小高い高台にあるのが多い、相馬の城も低いにしろ高台にあった
やはり山城形態が多いとなる、東北ではそういう点で大阪とか西と比べると歴史的発展として停滞していたともなる
商業が盛んにならないのはやはり平地で庶民が活動しないからだともなる
平城ならそこから町が発展してゆくともなるからだ、山城だと庶民と武士は隔離して生活するからである

一方で大阪城とか姫路城とかは城自体が大きく堅固な守りがあり平城である
平城になるのはそうした自然の地勢を守りに利用するのとは違い、平和な時代だと庶民が生活しやすい平地に城を作ったとなる
でも大阪城は徳川家康に攻められたからやはり戦国時代の城なのである

ともかく江戸時代では江戸とみちのくとなると相馬からだと8日とか歩いてかかった
その距離感覚をもう知ることはできない、交通の発達で実際は東京と福島県は近いのである、福島県は東京圏内にでもあるような感覚になる
それでそうした距離感覚から福島の浜通りに東電で原発を作ったとなる
もちろん東京には作れないこともあったが福島県だとさほど遠くないという距離感覚があったかもしれない、また東京から近くないから事故になっても東京は安全だという距離感覚で場所を設定したとなる

この距離感覚が問題になる、なぜなら私の住んでいる地域は原発のある場所から30キロ離れていた、そこで線引きされて補償があまりされなかったからである
そして30キロというとかなり遠い距離だと思い原発に関心がなかった
でも小高に東北電力でもうすでに工事を開始するところだった
事故がなければ小高に原発は作られていた、そしたら小高からここは20キロにもなる
小高となると相当に近い感覚になる

何か人間は地理に地勢にその見方でも左右される、ただこの地理の感覚が交通が発達すると距離で計れないものが生じて来る
それは平泉まで東京から二時間だとか青森でも二時間でつくとなれば距離の感覚が違ったものになる
それが人間の判断でも誤る原因ともなる

距離が離れれば迅速に対応できない、それで広い帝国になると地方で反乱が起きる
それは中央政府の統治が遠くて及ばなくなるからである
通信もない世界で連絡とることさえ簡単にできないからである
つまり何が起きているかも把握できなくなるのである
今でも東京は実際は遠い、そこで離れていると意志疎通がむずかしくなる
誤解ともかも産みやすい、それで何か急に事件とか緊急ことが起きると対処できなくなる静岡で交通事故をおこしたとき連絡があっても遠いので何が起きたかもわからない、
それで運送屋に死体が置かれていたり何がなんだかわからなくなった
そんな遠くに通うこと自体が苦労だったのである
母はそれで前の夫の息子の私の一応兄になる遺体を前にどうにもならない状態になっていた

そういうことは原発でも起きた、東電の幹部と地元の吉田所長が爆発してどうしていいのかわからなくなり電話で映像でも連絡して指示を仰いでも吉田所長は納得せず独断で実行したとかなる、東電の幹部は東京にいて現場のことが理解できなくなっていたからである東京からその現場の状況を把握することができなくてっていたのである
それは電話でもテレビ電話でもできないものとなっていた
いくら通信が発達しても緊急事態に対応できなくなっていたのである

こういうことは戦争でもあった、現場のことを司令部は理解できない、何をしてもらいたいのかも理解できない、そして関東軍が暴走したりする
もう中央の指令すら届かなくなったのである
確かにテレワークはいいとして果たして緊急事態になれば意志疎通ができるのかとなると問題である、じかにあって話しないと事態を把握できないとなる
結局原発事故ではどう対処していいかわからずお手上げになっていたのである

確かに交通が発達すれば距離は縮められる、でも人間はじかに合ったりして現場でともに働いていないとその場のことがわからなくなる
だからテレワークは平時はいいとして緊急事態に対処できるかどうかはわからないのである
ただ広域社会になると距離の感覚として福島県も東京圏内とかなりその中で自治体でも相互の連携を計り今コロナウィルスでも東京から分散するときそうした周辺地域との関係の中で国造りをせざるをえなくなった
別に首都遷都でも三春辺りが郡山があり森に沈む首都とか計画されていたのである
それがいつのまにか立ち消えになっていたのである
コロナウィルスはそうして再び首都遷都とか具体化するようになった

それで東京をこれからどうするのか?
その未来のビジョンを示して新たな国土を作りをすべきだとすべきなのだということもわかる
その新たな東京圏に福島県も組み入れられるとなるとそこが別な世界として考えて江戸時代のように住めないのである
そもそもかそういうふうに東京では原発でも東京は安全圏として福島に作ったということ自体が間違っていたのである
それは東京と福島県が相当に議論したり協議したりするべきものだったのである
でもそういうことは距離感覚から成されていなかったのだ
ただ東京では福島に作れば離れているから安全だとなり地域エゴから福島県に原発を作ったのである
本当に福島県とまた相馬地域でもいわきでも東京と原発について協議しないのである
ただ一方的に東京から東電によって政府によって福島に作られたのである

コロナウィルスでもそうである、東京からどうしても人の出入りを江戸時代のように止められない、すると東京圏とその周辺はコロナウィルスと戦うために協同せねばならない
でも東京は東京は福島県は福島県でありそこに別々にして考える
東京は東京で原発は危険だから福島に作ればいいとかなり地域エゴになる 

それで福島県の人が東京に原発事故で避難した時、放射能うつるとかいじめられた

今度は東京の人はコロナウィルスがうつるから来るなと言われる

これもつくづくカルマだった、必ずこうして自分たちのしたことがカルマとして返ってゆくのが人間なのである、東京が今やコロナウィルスの感染源でありとめることができないからである、こうなると地域の対立が激化して戦争にもなる、それが戦国時代だった

福島県はまた政府と東電が一体となっているから福島県の知事は官僚出身で中央の言いなりだという批判もある
ここに中央と地方の自治体の反発とか乖離とか生じてきている
それは距離の感覚から人間は交通がこれだけ発達しても克服できないということにもあった
第一東京の人はやはり福島県のことは遠いから安全だと考えること自体が依然としてやはり離れているという距離の感覚からそう決めたからである
posted by 老鶯 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年06月25日

コロナウィルスの感染は交通と密接に結びついている (6月24日の感染者の出た県名)

コロナウィルスの感染は交通と密接に結びついている

(6月24日の感染者の出た県名)

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6月24日20:30時点

会津のコレラの感染が会津若松中心に広がったことを考察した
会津若松に集中してそれから会津田島の方に逆に広がった
今回でも6月24日でも東京が閉鎖されて解除されたがやはり東京中心にして広がっている東京の周辺の人口密集地帯に広まる、群馬でも東京から近いからである

仙台市は危ないと前から私は指摘していた、なぜなら東京は東北の交通の要であり
新幹線でも東京から来る人が多いからである
それで3日前とかに仙台市に行った時は怖かった、必ず東京から来た人交わるからである
今は相馬地域では福島県では感染者がないからマスクをしないでスーパーにも行ったりしている、何か仙台市よりは安全に感じるからである
ただ距離はとっている、スーパーでもこの辺はそんなにこまないから距離がとれる、ソーシャルデスタンスがとれる
都会だとどうしてもこの距離がとりにくいのである

大坂の方だと確かに少ない、でも大阪から兵庫と岡山県に出ている
例え一名でも危険である、なぜなら一名からでもウィルスが相当に広がるからである
一名出たというときそれはアラーとなのである

何か本当にこの伝染病は地理と深く関係している
だから人の出入りが頻繁な所はどうしても危険になる
東京からは継続的に感染者が出て減らないと思う
一千万以上がいるしその首都圏の人口が多すぎるからである
そこを閉鎖することもできないからである

福島県だと中通りが危険である、福島市で増えたことでもわかる
最近でも一人が出たのはそのためだった
浜通りになると新幹線がない、でも東京からスーパーヒタチが通じるようになった
でも本当に乗っている人は少ないのである
だからせっかく東京まで震災から9年で3月に通るようになったのに残念だったとなる

でもまたもし常磐線が原発事故があった双葉とか大熊とかに電車が通らなかったらかえってコロナウィルスには安全だったとか思う
つまり東京から人が来るのもまた東京に行くのも危険である
それですぐ近くで感染した人は東京のライブハウスに行って感染したのである
その家ではガラス窓が壊されたとかでいられなくなり一時的なの仙台に避難しているという、岩手県でも最初一人の感染者にならないように必死だったのである
そういうふうに田舎では村八分になることが本当に怖いからである

とにかく伝染病は本当に地理と深く関係している
また関所のようなものがあるとウィルスをそこでとめることができる
なぜなら空港で外国から来た人を検査したとき陽性の人が見つかる度合いが大きかったからである
空港は関所になっていたからである、だから関所というのも何か人間には必要なものだったと今になると思う

ただ現代では都市封鎖とか交通をとめることはできない、でも首都圏地帯から人が来てもらいたくないとなる、でも観光でも封鎖が解除されたのだから来る
また観光業の人はきてもらわないと生活できないジレンマに陥っている
でも何か急に解除されて人があふれだして観光地でも来るのは危険だと思った
つまりもともと急に都市封鎖のようなことをしたりまた解除して急に人があふれだして来るというやり方に問題があったともなる

そもそもコロナウィルスは簡単に消えない、それでwith コロナの生活をしろというようになった、急激に人の流れをとめたりまた解除して人の交流を自由にして人がどっとくりだしたりすることはいいように見えないのである
そしたらまた元にもどり何の効果もなくなる、だからその辺を見直すことも必要である
コロナウィルスの戦いは長くつづくという認識が必要なのである
だから急激に人の流れをとめてまたそれを解除してどっと人をあふれさせて交流させるというやり方は危険である
かといって全面的に人の流れをとめることはできない、そこに何らかの智慧とか対策が必要になる

何か都市封鎖のようなことをしたのがかえって良くなかった、それは結局一時的効果であり継続しないからである、別にそれでコロナウィルスの感染を止めることはできないからである
だからロックダウンの効果を疑うように外国でなったのである
やはりwith コロナでやって行くしかないともなる
それで一年とか耐えてゆく、それで効果をみてゆくほかないのかとなる
そのうちワクチンが開発されるの期待する、だからこの戦いはすぐには終わらない
都市封鎖のようなことをしても効果がないともなる
継続的な長期戦となればそうなる、ただそれは相当に消耗する戦いになる
今回の解除で人がとっどあふれたことでもわかる、コロナ疲れになり耐えられなくなりそうなった、そこにまた危険がありやっかいだとなる




posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

誰も未来は予測できない (2030年後の日本ー東京から人口が分散)


誰も未来は予測できない

(2030年後の日本ー東京から人口が分散)

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未来は誰も予測できないというときこの予測でも東京に人口がさらに集中する
仕事を求めて若者が東京に集中するというのははずれたようだ
なぜならコロナウィルスでテレワークになりかえって地方へ人口が分散する
それから観光産業もコロナウィルスで大打撃を受けた
観光に頼ることは危険だったとことを知った
ただあとは当たっているからこの予測がはずれたとはならない
でも東京に人口がさらに集中するというのがはずれたとき全体的に影響する
だからこの予測がはずれたことは大きいのである
つまり予測は必ずはずれるのである
未来の予測は人間にはできない、神のみぞ知るとなる 

人間社会は物中心の経済から頭脳労働や知的仕事へシフトする
それは確かである、この頭脳労働は場所を選ばなくなることである
ITの発達で世界中が頭脳が知性が結ばれるともなる
だから東京のような大都会一局集中は必要なくなる
今でもアマゾンなどで通販の発達で地方でボタン一つ押せばなんでも買えるからだ
東京で得られるものは地方でたいがい得られる
一方で地方で得られるものは東京で得られない
自然によって得られるものが東京にはないからだ
それで若い女性が20代の人がここに移り住んだ、それでサイクリングを楽しんでいた
ここは山もあり海もありサイクリングにはいいからだ
都会の車洪水の中よりそういう点ではいいのである

東京への人の移動は実際は明治からつづいていた、なぜなら大正生まれの自分の母方の家族の二人も東京に出ていたからである、私の母は女中として東京に出たのである
大正時代の東京の人口は百万くらいだった、それでも日本では大都会だった
その後継続して地方から東京へ人が移動しつづけてきた
戦後は高度成長時代になり同級生が金の卵として集団就職したのである
この時も東京へ人が移動した
戦前は看護婦になる試験でも東京でないとできなかったとか何でも東京中心になっていたのである
今でもどうしても東京でいなと大学出たりすると就職先がない
東京には多様な仕事があるから東京に集中したのである

でも東京とのハンディキャップは解消しつつある、本当に一番地方で格差があったのは
本すら買えないということだった、仙台まで頻繁に行ったのは本を買うためだった
でも仙台すら本は少なかった、それに気づいたのはAmazonでらゆる本があることだった
古本でもあるゆる本が買える、そうなれば地方で勉強もできる
そもそも本がなかったら研究でもなんでも不可能だからである
文科系なら本で勉強できるからである、それがないとしたらお手上げだとなる
とにかく本の数は膨大であり天文学的数字にもなっていたのである
まず良質な本をそろえないかぎり知的仕事は不可能だからいかに東京との差が大きかったかわかる、そしてインタ−ネットなら学者の論文も読める
それで津波のことなど重要なことを理解した
相馬藩内で津波の前と後で米の収穫高が三分の一に減ったと研究があった
それが何かこの辺では記録がないので証拠なのかとなりそのことを知ることは津波の研究で重要なことだったのである

とにかくテレワークは自宅にいながらどこでも勉強もできる仕事をできる、
報道でもyoutubeとかで様々な情報にふれることができる
また発信もできる、まず自分でもそうだがこのように毎日プログで書いて即座に発信できなかった、雑誌だって一か月に一回くらいだった
それも手間と金がかかりすぎてできない、だから一つのメデアを個々人で持つということは大きな変化であり権力を得ることだった
テレビでも新聞でもそれを発行するだけで莫大な資本と金と手間がかかるからだ
それが一個人でもできるということは大きな変化だった
テレビの六局に情報を独占される時代は終わったのである

いづれにしろ人間は個々人の人生でも予測できない、何か人間はAIで仕事しなくてもよくなる、では人間は何をするのか?みんなアーティストになれとか言うの本当に解せないとなる
高度成長時代は企業戦士で兵士のように会社のために命までささげるように働きそれが普通だった、その時ニートとか引きこもりなどいない
自分はそうだったとしてもそんな人はいないとされていた
今話題にするのはその数が多くなったからである、数十人とか数百人いてもそんな人はいない社会にとっていないとされるからである
何か自分はパソコンは別にしてないかった、最初はワープロだったがその富士通のワープロに通信機能がたまたまついていたので通信の世界に入りパソコンになっても継続していたのである、私は文系でありメカに弱いからパソコンのことなど知らなかった
でも最初のときパソコンのメカを知らないとできないものだったのである
そして一台40万くらいしていて普通の人はやれるものではなかったのである

結局人間は未来を予測できない、未来は常に意外な結果になる

これは間違えない、個々人の人生でもみんな意外に終わったなとなる
こんなはずではなかったとなり終わっている
例えば依然として一流大学に入り大企業に入ることが成功だとなるがそれも変わる
だからそういう規程の路線だけを目指すとかえって失敗したりする
時代が大きく変わるとそうした価値観が変わってしまうからである
みんながアーティストになることだというのもそうである
アーティストとかはもともと食えない仕事であり誰も認めないからである

時代が変わると価値観が変わる

これもそうである、東京一極集中は時代が作ったがこれが逆にコロナウィルスで地方分散時代になる、テレワークの時代になるとかもそうである
テクノロジーでも社会は変わる
それで先に行ったものが後になり後になったものが先になるとかにもなる
大企業とか目指すのは先を行っているうよでも今になるとかえって時代にそぐわなくなるとか変化が起きてくるのだ
人間社会は歴史がはじまって以来絶えざる変化だったのである

明治維新でもそうであり戦後でもそうである、70年くらいのサイクルで大きな変化に見舞われる、そこで価値観もがらりと変わる、今がその時だとなる
津浪や原発事故やコロナウィルスでこの辺では大変化を経験した
これは予測つかないことだったのである
ただその大変化に茫然としているだけだともなった
個人的にも家族がみんな死んだとかもそうである、その急激な変化に突然白髪の老人になったということもある、現実自分自身がすでにそうである

間もなく見事な魚をほとんど船いっぱいに積みましたが、その日はそれまでに一度もなかったほど、たくさんとれたと三人とも話し合いました。

疲労のためにぐったりと弱りはてている、そして(もう危険がなくなったとなると)その恐ろしさの思い出のために口もきけなくなっている私を。船にひきあげてくれた人たちは、古くからの仲間や、毎日顔を合わせている連中でした、――が、ちょうどあの世からやってきた人間のように誰ひとり私を見分けることができませんでした。その前の日までは鴉からすのように真っ黒だった髪の毛は、ご覧のとおりに白くなっていました。みんなは私の顔つきまですっかり変ってしまったといいます。私はみんなにこの話をしました、


大漁として喜んでいたが突然大渦に飲み込まれた結果、突然急激に黒髪が白髪になってしまった、それはこの辺では津波と原発事故で経験したことである
津浪で沖に流されて漂流して助かった人もいるからだ
そして現実に津波は大きな渦を作ったのであく、それはテレビでも放送された
その話をこの辺でも聞いた、水が両側からおしよせて大きな渦を作ったというのであるその近くで30人くらいが死んだのである
だからこの大渦は津波と同じだった、それより津波は空恐ろしいものだったのである

このように人間がこの世に生きるとは想像もつかない恐ろしいことが起きるということである、信じられない変化が起きる、そして突然に老いてしまい人相まで変わり果てて同一人物に見えなかったとなる、現実に人生で人間は老人になると変わり果てる
女性でも華やかにスポットライトをあびても見る影もなく老いて醜くなっているのである
人間は過酷な人生で変身して悪魔のようになる者もいる、人間自体がいつも同じではない、二三年逢わなくても人間は変わる
だから遠くに行ってしまうとその人が何をしているのかもわからなくなる、それで突然連絡がくる
便りがないことは善いことであり便りが来ると悪い事だとなってしまうのである

このように社会で急激に変化する、鬼畜米英として300百万人が満身創痍で戦って死んだのに負けたらアメリカ一辺倒になった、赤から白に突然に変わる
それが社会でも個々人の人生でも起きるのである
そして誰も未来は予測できないのである、コロナウィルスを予測した人はいなかったからである、2020年に大変化が起きるとは言っていたけどコロナウィルスだとは言った人は一人もいなかったからである、そこに人間の限界があったとなる
人間には安心な世界はありえない、常に危険と隣り合わせであり何が起きるかわからないのである、ただその変化は悪いことばかりではない、何か金でも遺産とかで突然入ったりして金持ちになったり何か突然幸運もやってくる
ただ不運がやってくることも確実なのでなのである
そして人間は最後は死ぬだけだとなるのである




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abstract painting( train go)


abstract painting( train go)


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change
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mysterious fish

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2020年06月24日

テレワークの時代へ (そのためには広い家が必要-地方に住むのが有利)


テレワークの時代へ

(そのためには広い家が必要-地方に住むのが有利)

テレワークは実際はすでにyoutubeとかではじまっていた
youtubeはテレワークなのである、インタ−ネット自体が距離とか関係ない世界だからである
youtubeには教育機能があることを見てていて気づいた
教育機能として優れていると見た,テキストだけだとわかりにくいが別にyoutubeで講義していると現実に教室で教えられるのと変わりないとも見たからである
何かそうなると個々人が家でも勉強できるとなる
そこでは超優秀な人が教え方がうまい人が教える、それで他の並みの先生はいらないともなる、なぜなら全国放送できるからである
だから教室で30人でもまとめて教えるというやり方も変わるのかとなる

コロナウィルスは接触することが拒否される、するとインタ−ネットだと接触しないからいいとなる、ただそこにスキンシップとかなくなり人間と人間の連帯が作れないとかなるかもしれない、要するにみんな引きこもりで仕事するのかとなる
自分自身は引きこもりだった
どうしても学校の集団とか会社の集団とかにはなじめなかった
結局底辺化して流れ作業のような仕事しかしなかった
それ以来仕事自体がしたくなくなった、嫌悪するようになり家族に恵まれて旅ばかりしていたとなる
だから人生はまずしたくない仕事を金のためにさせられることほど不幸はないともなる
勉強だって強制させられてやるのと自らすすんでやるのとは相当違っている
興味もってやるのとはその差は大きいのである
強制されてやるのはつづかないが興味があってすすんでやるのは飽きることがないし一生勉強つづけられるのである,ライフワークになる

とにかくインタ−ネットそのものが新しい仕事を生み新しい社会を産んできた
それがコロナウィルスでさらに加速されることになった
何か変だが引きこもりになって仕事するともなった
だからコミニケーションの形も変わる、家が主体となりそこが仕事場になり生活の中心となる
となるとどうしても家が広くないとできない、家の中で仕事するには自分自身がそうである、家は広い、学生時代から書斎まで与えられていた、まず書斎がないと知的な仕事はできないのである、そして家の中で雑音が入ると仕事に集中できない
そして知的な仕事にはそこに余裕ある空間が必要になる
家の中で気分転換が必要になる、私の場合は二階も広いし廊下も広いからそこを歩いたりする、そして創作をする、何かアイデアとかイメージが湧いてくるのである
それで家ばかりにいない喫茶店を利用するというのもわかる
仕事でも知的な仕事になると気分転換が大事になるからだ

いづれにしろテレワークというとき自分自身がインタ−ネット利用すること自体テレワークになっていたのである
そもそもプログでもそうだけどこれもテレワークなのである
もしインタ−ネットがなかったら文章を書いて即座にみんなに読まれるようにならない
旧来だと活字にして雑誌なり本にしてとかその手間が大変なものになる
それは普通の人は全くできないのである
金がかかりすぎるし素人だと受け付けないからである
こうしてパソコンで書いたものが即座にアップして読まれるということがテレワークなのである

だからもし仕事の場所が限定されないなら東京から地方に移住しても仕事はできる
そうすると地方の方がいいとなる、第一家が家賃でも安い、隣の人は一軒屋げ庭が広い、そこにもう一軒家を作ってもまだ余裕がある広さである
そんな家の家賃が4万とかである、それとまた空家が多いからそこを買えば家自体が安くなる、つまり広い家にすめる、そこでテレワークならできる
自分の書斎なり仕事場なりテレワークする場所がもてる
ただ正直それだけで仕事がてきるのかどうかまた勉強できるのかどうかはわからない
なんか引きこもりになり何か人間的な交流までなくなるともなる

もし作家であれ何か芸術家とかであれ創作関係は東京でなくて地方でできる
テレワークでも写真でも絵でも文章でも発信できるからだ
そこで収入になれば別に地方でも生活できる
ただ過疎地域では無理である、最低でも5万くらいの都市の規模に住むべきである
そしてその周辺には自然がある、仙台市でも杜の都とういごとく森につつまれている
ただ5万くらいだとその周辺は自然でも豊かなのである
ある程度都会的な生活ができる、だからテレワークになったら地方の方が生活が充実する
日曜日に若い女性がロードに乗っていた、駅にいたので聞いてみたら私は原町に住んでいるんです、これから飯館村の方に行くんですとはりきっていた
こうしてこの辺だと山から海と変化に富んでいるからサイクリングには向いているのである、若いから飯館村までの坂はきついけど行けるとなる
そういうふうにして自然に親しむこともできる、その女性はどういう仕事をしているかわからないが田舎に移り住んだ女性なのである
20代とするとこれから結婚もして子供を産めば地方の活性化になる
だからテレワークが地方にとってはいいとなる

東京一極集中は限界だった、そして東京はこれから危険である、地震とか災害が起きる
コロナウィルスでも三密から東京では逃れられない、どうしても人が密集してしまうからだ、本当に東京から脱出を真剣に考えるべきである
テレワークによってそれが促進されれば東京の過密と地方の過疎のバランスがとれるとなる
ただ正直飯館村とかになるとまず車がないと生活できない、満足なスーパーもないとかとても環境は良くても生活するとなると別である
だから自分自身がそこに行くときはそこに生活していないから一時的に行くからいいとなっていたのである
自分が住んでいる場所は隣は相馬市は4万くらいの都市であり隣は5万くらいの都市があり普通に生活できる
そして今は買い物に不自由しない、本でも古本でもいくらでもアマゾンで買える
何でも買える、そうなると都会に住むのと地方に住む差がなくなった
わざわさ神田とか水道橋とかの古本屋街に行くようなことはしなくてもいい
居ながらにして勉強はできる、情報格差がなくなったのである
むしろ田舎の方が落ち着いて仕事できるとなるのである




posted by 老鶯 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層