2017年11月22日

最近は買って使えないものが多い (使えたのは中古のパソコンだった)


最近は買って使えないものが多い

(使えたのは中古のパソコンだった)

何年前だったかソニーのアクションカメラAKA-LUA四万で買った,その時四万で安いと思った,ビデオカメラは高いと思っていたからだ
ただ時代が変わりつつありビデオカメラはデジカメにもついている
技術の進歩が早いからわからなくなっていた
これは今一万くらいで売っている,かなり前だから高かったのである。

ただこれは本当に不良品だったのである。それで交換してもらった
このビデオカメラはyoutubeは本当に故障品であり使えないものだったのである。
ソニーでそんな製品を出すとは思っていなかった
これは自転車に乗って写そうとしていた
でもそもそもが前もビデオカメラは一番早い時期から自分は使っていた
でもそうして撮ったものを編集もできないしうまくいかなかった
ビデオカメラはうまく利用できなかったのである。

次にASUSのノートパソコンも三万だから安いと買ったが故障した
簡単にパソコンは壊れないと思っていた
これも安いからしょうがいと思ったし通販だから修理に出すこともできなかった
結局何にも使えず終わった

それからレンジは近くの量販店で買ったがいろいろな機能がついているように見えたが実際はそれはただそう見せているだけであり普通のレンジとなんら変わりなかった
そして中が一部壊れていた,ただ今も使えるが一万のと同じだったのである。
これは三万でありいろいすなことはできないのである。
レンジはそれでも使えているからいい
前の二つは全く使えないから損だった

何か最近はこうして買っても使いこなせないのである。
それで十万くらいは損になった,何か今の電気製品は使いこなせない,特に通信関係は使いこなせない,わかりにくくなっているからだ
だから老人は技術に追いつけなくなっているのだ
それで時代から取り残されるということもある
ただ自分はパソコンは二十年以上している
最初はワープロの通信機能がついたものからしているのである
それは今の通信ができるパソコンの最初のものだったのである。

だからその通信世界のことが理解できなかった,今は普通にしているがニフティとかあの頃通信は普通の世界ではない,マニアの世界だったのである。
ただ自分は富士通の親指シフトでワープロをしていた関係でそうなっていたのである。

その頃のパソコンは必ずソフトで不具合がありいちいち初期化して使っていたのである。今は滅多にパソコンは壊れない,通信でも通じなくなったりログは消えたりしない
安定して使えるのである。
自分がパソコンをはじめたのはワープロが出たからであり富士通の親指シフトが文章が打ちやすいからここまでやれたのである。
パソコンの問題はやはりキーボードであり文章を楽に打てないと嫌になりギブアップする人も多いからだ
パソコンに慣れるかどうかはキーボードを早く打てるかにかかっている,その他いろいろあってもそこが基本でありそこに慣れる人はパソコンに親しむのである。

それで買い物だが一番役に立ったのがwim7の中古のパソコンだった,二三万だったが使える,ソフトの関係で買ったのだが二年以上使っているが壊れないのである。
ウィルスにもやられていないのである。
今や中古でもパソコンは技術的に安定しているのである。
だからこれは得しかたなと思う,パソコンの中古品は今は壊れない,安定して使える

結局何か老人は新しいものを買っても使えないということになる
今まで使ったものは使えるが新しいものが使えなくなっているのだ
消費しろと言ってもできないのである。
若いときはいろいろなものに挑戦できるができない
機械でも新しいものを買っても使いこなせないのである。
多機能テレビとかもあり今はテレビすら操作するのがめんどうなのである。

こういう時代になると老人は本当に不利である。社会から取り残される
現実は自分は車を運転しないから社会のことがわからなくなっていたのである。
車社会になっているとき車のことがわからないとしたらもう生活できないのである。
たまたま仕事もしないから車なしでも生きてきたのである。
ただ今の社会のことは車をもたない人はわからなくなるのである。

それはパソコンでも言える,インターネットのことなどわからない人は今や取り残されるそんなものなくてもいいとか言っても社会はインターネット社会化すると車社会と同じように社会のことがわからなくなるのである。
情報でもテレビだけ見ているだけで偏ったものとなる
だからyoutubeで製品の紹介しているからそれを見て買うとういのも今の時代の買い物なのである。
ソニーで不良品のようなものを出しているとは思わないからである。
そして今は製品が多機能化して使いにくいから老人は相当に気をつけないとだめである。
今老人が不利なのは技術の進歩が早いのと様々なものが理解しにくくなっていることなのである。若い内は新しいものを利用しやすい,その時代のものを吸収しやすい
ただ体験が不足しているので深く物事を見れないのである。
だからすべて若い人が有利となるわけではない,老人になると深い見方ができる
理解力と鑑賞力がついてくるから評論に適しているのである。

遺された家の問題 (思い出があるから捨てられない)


遺された家の問題

(思い出があるから捨てられない)

家は何か暗い所は良くない,自分の家は北向きに通りがあり店をしていたときはそこは街のメインストリートだった,でも今になると店になったところは広くあるが暗いのであるだから店としては良くない場所だった,ただそういう風水的なものとは関係なく角であり人通りがあったから繁盛した,繁盛する店は立地が関係している
誰でも暗い店には入りたくないのだ,シャッター通りになった所などは何か暗いのである
ただ日本は狭いところに住んでいるから路地裏とか入り組んだ所があり日当たりが悪い所が多い,田舎でも小さな町でも街内は日当たりが悪いのである。
家の間に空間がないから長く伸びている,それは都会だと鰻の寝床とか言われる所以である。

風水的に飯館村などは一軒一軒が離れて住んでいるから庭も広いし森につつまれているから理想的な住まいだった,何か飯館村にゆくと雰囲気が違うからその気を受けるのである花が咲いていてもそれはこの辺で咲いているのとは違ったものに見える,より自然の中で高山植物のように咲いている感じになるのだ
そこは清浄な気が流れているからそうなる
だから飯館村が不便だとしてもそこに住んでいたら心もやはり浄化されることがある
ただ一方人間関係が濃密になり人間の嫌な面が露骨に見えるということもあり嫌になるということもある

いづれにしろ家だけではない,海側に住んでいれば必ず海の気を受ける,それが心に影響する,海はやはり人間の心を開放的にするからだ
山はどうしても閉鎖的にする,だから海側に住んでいる人と山側に住んでいる人は気持ちが違ってくるのである。

家というのはそれぞれの家で作りが違う,家は何かその家の人間関係も示している
だから家長がいた時代は家長中心に家が作られていたのである。
横座とかもあり上下関係が明確にされて家が作られていたのである。

主人が不在のときも他の者はこの席にすわらず,また横座を譲ることは隠居を意味する。

これも時代だった,家長というのは今はない,みんな平等となったのが現代である。
そして個人化して個室化したのである。今は座敷もないから個室化して家族という形態も変わった,ということは家族の結束力もなくなり個々別々になったともなる
家というときイエは日本では建物だけではない,イエがもつ意味は大きかったのである。
家というのも代々受け継がれたり歴史があれば重みが生まれる,代々つづく家はやはり
何かつづく原因がある,ただ外国でもヨーロッパとかでも一代限りであり長くつづく家が受け継がれことはないという,家の重みがないという,個人主義の社会だとそうなりやすい,家が重要なものとはならないからだ

いづれにしろ自分に遺された家の問題は大きい,ただ空家化しているのが八百万軒もあるから消滅する家が膨大になる,それだけ昔のように家が存続できない,受け継がれない時代なのである。
それで近くの家で蔦が家にからまり遂に家に住めなくなった人がいた
家がいたんでそうなったのだ,それで車で生活していたのである。
買い物はコンビニに車で来ていたのだ這ってコンビニに来ていた,でも誰も助けるものがなかった,そして最後はどうなったのか?
わからないがその老人は死んだのである,今は更地となっているだけである。
つまり自分の家に住めなくなることもあるのだ
それは片づける力も掃除することもできなくなればそうなる
買い物するのもやっとであり後は何もできないとなれば家は汚れ放題になり住めなくなる

現実に自分の家はいたるところゴミがたまっていた,布団は汚れて落ちないものとなり腐るような状態のもあった,使わないとそうなってくるのである。
布団も干したりしないと使えなくなるのである。
とにかく無駄なもの捨てたい,でも捨てるのにしのびない,それで遺品を整理して泣いていたというのがわかる,やはり人間は簡単に物でも捨てられないというときそこに思い出が残っている,家には特に残っている,だから家には霊が住んでいるともなるのである。死んだ人は家から離れられないともなるのだ

エプロンの出てきてあわれ六十年我が家に働く母なりしかも

つまらないものでも何かそうした思い出が遺されたものにあるから捨てにくいのである。

タグ:遺品整理
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2017年11月21日

遺された母の手紙に感動 (ただ謎が残る手紙の草稿である)


遺された母の手紙に感動

(ただ謎が残る手紙の草稿である)

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 がんばりのきく年はすぎたれど生きてる限りがんばらねば

 おたがいに法身大切にがんばべーな時命の日がきいるまで


この手紙が母の引出しから出てきた,ただこれは手紙の草稿であり誰に出そうとしたのかもわからない,姉とはいつも連絡していたがその頃死んでいたはずである。
姉が死んでからのことだからもう九十四才くらいになっているとき書いた
がんばりのきく年はすぎたれど・・・とあるからである。

姉のお骨が家にあると書いてあるからだ

この手紙の不思議は

●誰に出そうとしたのかわからない?

●母の手紙であることは間違いない

●母にして書いていることがまともである

まずこの手紙が母が書いたものかどうか?それは間違いないだろう,まずこうした悪筆であり前からも良く読めない字を書いていた,そして辞書をもっていてひいていた
そこでその辞書でひいた字を文面に書いていた
だからどうしてもこれが母の手紙であることは間違いない

でも謎としては誰にあてたのか?それが不可解なのである。こういうことを言う相手は相当に親しい人でないとありえない,でもみんなその時姉も死んでいるとするとありえないのである。姉とは死ぬまで交流があり手紙のやりとりをしていた
だから手紙を書こうとすれば姉しかいないのである。
友だちもいないしあとはそういう人はいないからだ
その時は認知症になるまえであり正気だからこれだけのことを書けた

ただわからないの法身などという言葉を使っているのか?これは結構むずかしい仏教用語である。母はそういう学はなかった,尋常小学校出であり字は書けても信仰もないしこんなむずかしい言葉を使うはずがないのである。

そして短歌を知っていたということの不思議である。そもそも短歌などと全く縁がない人だった,だから短歌というのを知っていたことが不思議なのである。
確かにこの短歌は短歌とも言えない,でも明かに短歌を知っていてこう書いていたのである。

前にも書いたように母はまず働きづめの一生だった,だから花に関心がない,庭を作ったらそんなもの金かかるから作るな血相変えて怒っていたのである。
だからここに書いていることが本当に謎になる
そういうことだか短歌ということを知っているとは思わなかった

この短歌はあまりにもつたないものだが母の心がにじみでている,だから文学とは別に文章がうまいへたでもない,その人の真心を伝えるものだということがわかる
ここには母の真心がにじみでているのだ

母は実家が事業をはじめて倒産してから苦労した,原町紡績で十年間糸取りした,それから女中になるために東京に出た,そこで結婚したが夫が事故で死んだ
そして自分の家に嫁いできた,自分の家では母を歓迎したとはいえない,連れ子もあり冷たくした,自分の家には何か負の暗黒面もあったのである。
そういうことはどこの家でもある,なにもかもいい家族はないだろう。

この手紙で一番感動したのは姉とは六十年間も長く一緒にいた,でも争いがあり自分には憎しみあうものとして見ていた,現実に姉が認知症になったとき暴力になりひど目にあい一緒にいられなくなったのである。その時母は姉を憎んでいた
でもこの手紙を読んだら姉を死んで悲しんでいるしいたんでいるのである。
このところが自分にとってうれしくて泣いた
最後は悲劇的に終わったが六十年間一緒にいてやはり愛しあっていたのだと思った

母は自分のことはあまり関心がなかった,愛もあまりなかった,でも自分は二人の愛を受けていたからそれでも良かった,だから自分が一番悲しかったのは最後に離ればなれになり一緒に住めなかったことなのである。
それは認知症がもたらした悲劇だった,でも最後は姉も正気にもどり母も姉が死んでからその死をいたみ悲しんでいたのである。

これは本当に感動したし泣いた,そして自分は救われた,自分の家族は複雑だけど愛し合う家族だったとうれしかった,自分は家族の過分な愛を受けていたのである。
だが最後は悲劇に終わった,でもその悲劇が実は家族の本当の愛を知らしめるものだったのである。
だからこの遺された草稿の手紙は誰にあてたものか?それはまさに死んで自分にあてたものだったのである。それによって自分は救われた気分になったのである。

この手紙はだから遺された財産より貴重である。ただ自分の家族は理想の家族ではない,金にもこだわる家族だった,それで大喧嘩したこともあった,そして何かケチであり困っている近所の正直な人に金を一二万貸していたがそんな金をくれればいいと思った
なぜなら金は相当にあったからだ,だからそれが自分の家の負の部分としてカルマともなったとなる

ともかくこの手紙の草稿には本当に泣いた,そして自分はしみじみこの家に家族に生まれて良かったと感謝した,つまり家族愛にはぐくまれていたことを感じた
複雑だしこのことは他の人にはわかりえようがないのである。

でも人間の深い意味は悲劇によって示されるというのも逆説である。
それでシェークスピアは悲劇を書いた,キリストは「悲しむ者は幸いである」と言った
悲劇の中に人間が悲しむことのなかに深い意味があるからそうなった
これを理解することは本当にむずかしい,自分もこれだけの苦しみをへて家族がみんな死んでようやく理解したからだ

母は腰が九十度に曲がった時,苦しみ自殺しようとした,それも苦しみでありそこからも生きたから良かった,自殺したら本当に後味が悪いものとなり良い評価にはならなかった

がんばりのきく年はすぎたれど生きてる限りがんばらねば

おたがいに法身大切にがんばべーな時命の日がきいるまで

ここにその気持ちが現れている,命の日が消えるまで・・・・なのだろう。
九十四才の頃に書いたからこうなっていたのである。

人間のことは死んでみないとわからないことがある,生きている時はわからないのである死んでみてそうだったのかとわかることがある,しかしその時この世にその人はいないのである。だから一層その人のことがわかったときその人のことを偲ぶことになる
家族でも身近でも人間の心はわからない,そんな人だったのと意外なのである。
何か文章でも書かない無口な人は余計にその人の心がわからないのである。
母は寡黙であり目立たない人でおとなしい人だからそうなっていたのである。

人間は死んだ人でも今生きている人を励ますものである。
がんばらねば・・・というとき母は頑張り屋だったからだ,母は懸命に腰が曲がっても生きた,百才生きぬいた,そのことが今になって自分も感動した
その意味は大きいことをこの遺した手紙の草稿でわかったことは大きな収穫である

ここで言えることは人間はどんなに苦しくてもがんばって生きねばならないのである。
それが死者からの母からの最後のメッセージだったのである。

2017年11月20日

あちらこちらいたんでいる築五十年の家 (手紙は残るがメールはどうなるのか?)


あちらこちらいたんでいる築五十年の家

(手紙は残るがメールはどうなるのか?)


今日もお客さんが来るというので家の掃除と直し方した,障子張りとか壁紙はりかえとかした,でもうまくいかなかった,ぴったりと張れない,しわができている
それから布団も古くなっていた,衣服でも古くなると汚れが落ちなくなっていた
もう切れないから捨てるほかない,なんとか無駄なものは捨てたいのである
本も読まないのは捨てて身軽になりたい,でもまた利用するかもしれないと捨てられないことがある

築五十年になると壁も何か汚れている,土壁だから何か汚れている,土が落ちたきたりする,ゴミがしらゆるところにたまっている,樋が壊れて水漏れしている,これも直そうとすると屋根が高いから足場を組まないとできない,するとまた金かかかる
何か家というのは維持するのに金がかかるのである。

でも放っておくわけにもいかいな,雨漏りすると家がいたむからである。
ただ自分の家は昔風の家だから二階に座敷があり広い,八畳間だから広いからゆったりする,狭いと圧迫されるので嫌なのである。
その部屋は一番贅沢な部屋だったのである。
眠りやすい部屋は広い部屋なことは間違いない,廊下も広いから余計に広く感じられるのである。

何か物を書くとするとこの家はいい,私設図書館のようにもなっているからだ
狭い窮屈な所だと人間の思想も狭いものになるかもしれない
やはり人間は住んでいる場所とかいつもいる場所に影響されるからだ
家にいる時間は長い,特に老後はくつろげる家がないと苦しいとなる

老人の贅沢は何か?それは例えば冬なら暖炉があってあたたまり昔を回想することなのである。自分の経験したことを回想することなのである。
自分の場合は日本でも外国も旅したから回想して詩にしたりしているのである。
回想することは楽しいのである。旅では苦しいことがありその時は夢中で何を見たかもわからないことがある,でも後でふりかえるとその場所のことが別な意味あるものとして蘇ることがある,一方で忘れることも多い,人間はとにかく忘れやすいのである。

人間はやはり家がないと安定が得られないだろう,旅をするのもいいが老後は家がないと安定しない,冬は特に家であたたまり回想するのに一番向いている
老後というのはその人がたどった人生をふりえかえり自ら味わうことである。
だから別に苦しいことがあってもあの時は苦しかったなとか思い出にもなるのである。
人間はなんでも過ぎ去ると別な風に見るのである。

自分はとにかく十年間は介護やら自分の病気やら周りからは責められるでは苦しかった
そこに津浪と原発事故が重なり四苦八苦していたのである。
今はなんとか落ち着いている,それで母の唯一の孫が来る
姪子になるがほとんど話したこともないから自分にとっては疎遠なのだが
母が死ぬとき孫に金払いと金額まで大声で言ったので驚いた
なぜなら金のことが認知症のになりわからなくなっていたからである。

認知症の不可解なのは時々正気にもどる,特に死ぬ間際に正気にもどることが多いことは確かだろ,すると認知症の人を馬鹿だとしても扱いないのである。
死ぬ一カ月前くらいに遺言のように大きな声で言ったからそれを守らないと怖いと思った人間は死ぬ間際に言うことの言葉の重みが大きい
別にそれが正式な文書にして遺言でなくてもそれを守らないことは恐怖になる
そのことで母は死んでもまだ生きている,その言葉は活きているとなる

母と孫はずっと手紙で連絡はとりあっていたのである。だからただ血のつながりがあるという関係ではない,子供生む時からも手紙で連絡はしあっていたのである。
ただ直接合うことはほとんどしなかった,だから自分も直接合うことはずっとなかったのである。

母遺す(のこす)手紙を見れば孫の書く手紙の文面何を伝えむ

母あわれ引出し見れば残したる手紙の類や何か伝えむ

人間死んだら何を遺すのか?これも財産もあるが手紙なども残る,写真も残る,手紙は何かを語っている,すでにその手紙でも二十年前くらいのことだからである。
でも電子時代になると手紙のように残るのか?プログなどは死んでもログとして残っていた,でもメールなんか遺(のこ)るのかとなる
電子空間は確かに記録されているのだが手紙のようなものとは違う。
手紙も一つの記録であるが手紙は二十年三十年でも残る,メールとかは残らないだろう
瞬間瞬間に消えゆく感じになる

いづれにしろ築五十年とか自分の家族でもみんな死んだしその後のことをどうしたらいいのかとなる,自分としては身軽にしておきたいということはありいらないものは捨てたいので整理しているのである。

森と山と河(forest and mountains and river)


森と山と河(forest and mountains and river)

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2017年11月19日

家政の道徳(詩) (道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)


家政の道徳(詩)

(道徳なき経済で社会も衰退し破壊される)

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玄関に置く壺に咲く対なる鶏頭の二つ
長くも咲きて枯れじも
人の交わりも長くあるべし
誠実にして日々勤めつつ
使う者も仕える者も
誠実に勤めべし
巌のごと主は不動なれ
人よ,いづこにあれ良心に恥ざれ
良心を汚すと心は乱れぬ
例え罰せられずとも
良心は痛み苦しむ
村も街も会社も国も誠実なるべし
そして山も大地も木も石とも
人は調和して活きるべしかな
正当な実りはそこに神から与えられる
しかし過剰なる富は与えられじ
相応の富のみ等しく配分されるべし
富をむさぼる者,わたくしする者
それは許されざるべし
上に立つ者の責任は重く
厳しく罰せられべし
人は金により従わすことならじ
人は権力によって支配されじ
良心に従い心の安らぎを得る
社会の安定もまた同じなりしを


【経世済民】は「世の中を治め、 国民の苦しみを救うこと」


道徳を忘れた経済は、罪悪である。

経済を忘れた道徳は、寝言である。

人道は一日怠れば、たちまちすたれる。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

「οικονομία(オイコノミア)」という言葉は「オイコス(家)」と「ノモス(法、ルール)」という言葉を組み合わせた言葉で、家族や仲間、国や地域などの共同体のあり方を考えるという意味なんだ。
つまり、「Economy(エコノミー)」=「経済」とは自分だけの幸せを考えるのではなくて、「どのように生きたら世の中のみんなが幸せになれるか」を考えることなんだ。

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。


経済というとき何なのか?エコノミーの語源がオイコノミアであり家政だというとき狭い範囲で考えていたのである。
家政というとき一番身近だからそうなった,まず経済を国家単位とかさらにグローバル単位になると大きすぎてわからかなくる,誰も世界が株で動かされている社会を理解できないのである。それで結局何か極一部のものにユダヤ人だとかロスチャイルドだロックフェラーだとかが支配しているとなる,つまり世界の富が何パーセントかの人達によってにぎられて世界が操作されているとなる陰謀論になるのである。
世界的経済のことなどわかりえようがないし株のことも普通の人はわからないからである見えざる手によって導かれる世界市場とはまさに逆に見えないからこそサタンの手によって導かれるのである。巨額の金の流れは見ることがもはやできない
それで巨額の金が税金逃れのためにタックスヘイブンの国にあづけられるとういのもそのためである。

家政という単位だったから経済は見ることができる,まだ村とかポリスなら見える社会である。もう経済は個々人では見えない世界で操作されている,だから富は世界の極一部の人達に集まり操作されるとなる
そこにはモラルもなにも通用しない,悪魔的なものが世界を支配するとなる
「道徳を忘れた経済は、罪悪である」であるというときまさにこの世が罪悪の社会,ブラック化した社会となる

ブラック会社のことを良く言われるけどそこでモラルが通用しない,雇う人にも雇われる人にもモラルは通用しない,雇う人はただ安く雇いたいとういだけであり人を人とも見ない,だから時給とかで安くこき使い使われる方も奴隷なんだよとなる
でも人手不足になるともうブラック会社が倒産している,会社も起業できなくなっている働く方にするとそれはいいことになる,つまり雇う人をを大事にしないものはつぶれるとなるからだ,つまりそこにはモラルが道徳がないから当然の結果だとなる
モラルが関係しないようで結果として現れているのである。
モラルがなくなるとき荒廃するとき家でも村でも街でも国でも成り立たなくなる

プロの経済学者の多くが「非現実的」な特定の前提の下で研究を進め、そこで証明された事柄を政府に提言し、それに基づいて「現実的」な政策が展開されているのである。

これなどもまさに非現実化しているとき経済が何かグローバル化すればそれを現実のように見ることができない,マネーゲームとなるものもそうである。
そして学者が経済学など役にたたないというとき非現実化している提案をしているというのもそうである。グローバル経済になるとその実体を見える人はいないからである。
エコノミーが家政単位だったら手にとるように見えるからこそモラルも通用するのであるそのモラルも自然にも通じる,二宮尊徳はそうして自然と通じる農業を基本にしていたからそこにモラルと一体化していたのである。

自分の詩のなかでもこれは自分が家政の中で感じたことを詩にしたのである。
人を使うにしても使う方でも使われる方でもやはりそこにモラルが必要になる
だからそういうことが江戸時代では侍に奉公する中で培われたというのもそうである。
相手が身近に人として接するからそうなったのである。
つまり家政の延長としてそうしたモラルが養成されたのである。
人と人が上下の関係なく信頼関係が結ばれたということがあった
現代社会はそうした関係はない,時給でロボットのように時給として雇うという関係だけなのである。そこにモラルもないから雇う方でもそういうロボットのようにしか人を見ていないから遂に雇う人もいないくなり会社が成り立たなくなる,それは道徳,モラルの喪失による結果だともなる

ただ等しく配分するといっても実際は人間は平等ではない,平等にしたらかえって不公平になるのである。真面目に働いた人が能力がある人と不真面目な人と能力もない人が等しく配分されることはかえって不平等となり社会は衰退するのである。
富でもすべて悪いとはならない,それ相応の配分の富だったらそれは公平なのである。
でも貧乏人は自ら努力もしないで才能もないのにただ等しい配分だけを求めることがあるのだ,それもモラルとしては許されないのである。

いづれにしろ理想の経済といってもその逆としてブラックなモラルなき経済が世の中を支配する,グローバル経済とか資本主義でもそうしたモラルが喪失しているから陰謀論になる。誰もグローバル経済のことなど理解できないからである。
こういうことを言う自分だって経済のことはわかっていない,ただ家政を自分一人でするようになって感じたのである。
家政というのはいろいろあるから大変なのである。家事もあり財政もありとその家政は政治でもあり一国を運営するものともにているのである。
だから家政というのはエコノミーの基本にあるからそこから考えるとわかりやすくなるのである。

誠実にして、はじめて禍(わざわい)を
福に変えることができる。術策は役に立たない。
(二宮尊徳)

誠実なことが実は使用する人でも使用される人でも不可欠である。でも富める人と貧乏な人ではそれがありえない,なぜなら貧乏な人は等しい配分を要求しているからである。
するとまず富める人は貧しい人に等しく配分せよとなるからだ
でも富はその人の相応に配分されるというときその相応がむずかしいのである。
それは個々によっても違ってくるからである。
だからみんな平等だ,なんでも平等にしろという共産主義は理論的にも現実的にも無理であり失敗だったのである。
要するにかえって不平等になり特権階級を生んだのが共産主義だったからである。
貧乏にも貧乏になる原因がある,その原因を無視してみんな平等だというのは無理だったのである。

ともかく人間は良心をもっている,だから良心にはじることをすると苦しむようになっている,人をだましたりいろいろ悪事を行うと良心がいたむ,それで心が乱れる
もし人間に良心がなかったらどうなるのか?それはもう本当にこの世は地獄になるだろう
ただグローバル経済社会となるとそうした人間の良心も傷まない,それは見えない世界でありそこに悪魔が活動しやすいからである。
天文学的な金を操作するということ自体がそうなのである。
家政とか村とか小さな共同体単位ならそういうことはないのである。
江戸時代はそういう社会だから二宮尊徳の道徳の経済が成り立っていたのである。
ただ現代でもモラルが喪失する荒廃すると社会も成り立たなくるのは同じなのである。

本当に人間は富で金だけで支配できるのか?力によって支配できるのか?
いくら国が大きくてもその力によってすべての国を支配できるのか?
アメリカが世界を支配できたかとなるとできなかった
力だけでは支配できないのが人間なのである。
また民主主義となると選挙だがこれもまた数だてがすべてとはならない,そこにモラルが欠如すると数の論理がまかりとおると社会は破壊されるのである。
そういうことは国家間の大規模戦争でも起きてきたのが現代だったのである。
数が権力となったのが民主主義だっからである。数が大衆がモラルを破壊したのである。数だけが目的化して破壊したのである。それはカルト宗教団体ともにていたのである。
そこは数だけがすべてになるからだ,モラルも関係ない数だけのマスだけが権力化してくるからである。
posted by 老鶯 at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2017年11月18日

水の力(詩) シーパアーとランドパワー


水の力(詩)

シーパアーとランドパワー

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絶えず生々流動する水
万年雪の氷河の峰より滴る水
その水源から川の物語がはじまる
遠大な流れの物語がはじまる
谷間を流れ碧い淀みをなし
その深みにひそむものは何か
神秘の色に静まりぬその川の上
しかし水はまたやむことなくて流れる
その巌の間を激流となり轟く
激しく磐を打ちひびき流れる
青春の暗き激情か奔騰する流れ
遂に滝となり山々に轟きわたる
やがて平野に河は流れ下り
大地を潤し恵みを与える
ナイルは豊かな恵みを与える
三千年の文明の栄をもたらしぬ
そして大河は街と街を結ぶ道となる
物資は運ばれ人々は結ばれる
かくて大河は穏やかに河口になり
老いの安らぎがそこにもたらす
しかし河は終わるも水のドラマは終わらない
水は躍動して活きている
水は絶えず流動する力である
水は時に津波となり河に押し寄せる
陸に押し寄せて街をのみこむ
ノワの方舟を浮かべる水の力なり
津浪の恐怖は人々にその恐怖を植えつける
水は常に生々流動してとどまらない
海は老いることなく水は老いることがない
船は波にゆられ旅人も波にゆられる
その心はいつも波にゆられている
真っ赤なハイビスカスが咲き朝の見晴らす大洋よ
新たな島にまた船でわたる
海は常に未知の世界へ誘う
島には異国の船が漂着する
それが伝説となるも海の成せる業
水平線を望めば船影が見える
海より湧くように千の船が浮かぶ
海は陸のように跡を遺さない
海底深く船の残骸を沈めるも
その宝も沈みし船は幻なりしを
波は高鳴り潮は流れやまず
帆は風を受けて船を進める
かなた波にゆられて未知なる国へ
鳥が翼を休めるは一時なり
マストにとまる海鳥よ
望むは大海と島と船なり
絶えず生々流動する水よ
それは人間の心でもある
深き入江は休息の港
船のごとそこにしばし心を休める
しかしまた船は港を去り大海に出る
朝日は輝き上り海は船を迎える
波にゆられ心もゆられて
旅の日は終わらず探検の日はつづく
旅人は常に新たな島を地を踏む
そこに知られざる花を見て人の生業を見る
沖縄の遠き小島のあわれかな
井戸の水は枯れて村は移りぬ
島は外部との交流なしでは生きられない
島と島を船が結ぶ
水は激しく流動してやまない
河はまた大地を穏やかに流れて
人と人を街と街を結ぶ
河は文明を作り海は島々を国々を結ぶ
海を制するものは陸をも制す
シーパワーにランドパワーよ
世界の雌雄は海で決する
ギリシャはペルシャ帝国に船団を編成して勝つ
七つの海を支配しイギリスの栄あり
陸の帝国は万里長城を作り国境を作る
そのために中国人民は莫大な労役にあえぐ
海には国境は作れない,海は自由に航行する世界の道
だから光りあれの次は水のあれになる
最初に水が地球をおおうなりしを
躍動する水よ,衰える知らぬ水よ,循環する水よ
地球は水のめぐり活きるなり
陸は老いても海は老いることはない
水は万物を浄化する奇跡であり
海は常に若々しく荒々しく陸に対峙する


人間の歴史をふりかえると陸を中心に展開されてきた,エジプト文明がそうである。陸の文明は川と一体となり作られたのである。エジプト文明はナイルの賜物というときそうである。ナイル河なくしてエジプト文明はありえなかったのである。
ただエジプト文明は地中海があっても海には広く乗り出さなかった,陸にとどまったのである。レバノン杉とか利用するためにその辺までは進出したが地中海の航海はしなかったのである。

人間の歴史は陸を中心に長く展開されたのである。海に乗り出す船の技術がなかったからである。ただ地中海がありそこが船の技術を発展させた,そこは海なのだけど大洋とか大西洋とは違う内海だったからである。それが航海の技術を発展させたのである。
それでギリシャは最初の海洋国家ともなった,ローマとか対岸の中東にも植民都市をもったからである。そこからギリシャのコインが発見されるからである。

イタリアのナポリとかフランスのニースでも新しい都市というギリシャの植民都市の名である,ギリシャ語なのである。そしてギリシャは陸の最大帝国ペルシャと戦争して勝った
それは船団を利用して勝ったから海洋国家として陸の帝国に最初に勝ったとなる
ギリシャはまた島が多いから島を結ぶ航海に適していたのである。

それからローマ帝国に対抗したカルタゴも海洋都市国家であり軍港があり船の技術でローマに抵抗したのである。ローマは陸の帝国だが地中海に進出したからカルタゴと争うようになった
ランドパワーというとき中国でもそうである。万里長城を作らねば敵に攻め入れられると国境を作るために莫大な労力を費やしたのである。
ランドパワーを維持するためにはそれだけのエネルギーが必要だったのである。
そこでエネルギーが消耗してしまうのである。

地中海ではベネチアなどの都市国家が栄えたのもシーパアーがあったからである。
ランドパワーの歴史がつづいてもシーパアーの力もあったのがヨーロッパだった
バイキングなども貿易もしていたとういからシーパアーの力をもっていたのである。
ただ野蛮的なものではなく貿易をしていたからそれだけの国ではなかったのである。

その後もやはりランドーパワーの戦いだった,ナボレンでもそうだし第二次世界大戦はやはりランドパワーの戦いだった,ただ太平洋戦争というようにその時アメリカはシーパワーの国となり日本に勝ったのである。
大航海時代からすでにシーパアーは地中海によって養われていた,そしてコロンブスが新大陸のアメリカを発見したのである。
イギリスが七つの海を支配するというときもシーパアーによっていた

日本の歴史をふりかえっても邪馬台国がどこにあったかというと九州や奈良説があるがやはりそれも地理が関係していたのである。
瀬戸内海は地中海とにていたから船の交通があったからである。
ただ不思議なのは大阪から奈良の盆地に都が作られたことである。
そこでは三輪山が御神体になる山の文化となったのである。それが日本的な特殊性だとなる

明治維新でも薩摩とか長州とかが主導権をにぎったのはやはりシーパアーでもあった
薩摩は中国ともすでに貿易していたのである。
海外の進出も九州とか瀬戸内海とかを中心に展開されたからである。
だから会津となると山国でありそうした地の利がない
幕府でもやはりランドパワーに依存していたのである。
坂本竜馬が海援隊を組織して会社のようなものを作り商船をもった
そういうことは会津などではしにくいからである。
東北はランドパワーでありシーパアーをもち得なかったのである。
江戸幕府も船をもったが遅れたのである。

いづれにしろランドパワーの国は河が交通路となり文明を築く,エジプトはナイル河があり中国は黄河があり揚子江がありヨーロッパでは大きな河が交通路になり結ばれて発展する,河が人々を結ぶ,封建制の王権に対してもハンザ同盟とか商人都市国家を形成したのである。それは河で結ばれていたからである。

世界史でも日本史でもどうしても歴史をみるとき地理がわからないと根本的なことがわからないのである。世界となると広すぎるから日本的感覚では理解できないものとなる
砂漠はないし大草原はないから交通の果たす役割が理解できないのである。
シルクロードとなると長大な道だけどそれも砂漠とか草原を通るから自然の道があるから生まれたとなる,ランドパワーは陸の道から形成されたのである。
でもシーパアーの時代になったとき過去のものとなったのである。

日本の謎は海に囲まれていてもヨーロッパのようにシーパアーが発展しなかった
そして不思議なのは山が多いから大和(やまと)というとき山の国から起きたとなる
海に囲まれていても山の国となったのである。
海に囲まれていても太平洋と地中海ではまるで違ったものだったからである。
ただ韓国とか中国とかの交流は古代から行われていたのである。

その後日本が鎖国したのはなぜかなとる,シーパアーとして発展しなかった
それは山国ということもありそれが影響したのかもしれない
海を渡って貿易するというシーパアー国になりえなかった
日本は山が多く盆地のように閉ざされてしまうこともある,海に囲まれていても精神的にもそうなりやすいともなる
日本は平原とかがないから大きな河もないし交流が山でさえぎられ阻まれるのである。
そうなると大きな統一国家を作ることが困難になる

それで面白い指摘は蝦夷国家襞日高見国家が形成されなかったのは日本海側の新潟県とか秋田県とかが山にさえぎられて交流できず大きな国家形成ができなかったためだというのもそうなのかとなる
福島県は阿武隈山脈がありこれは低いにしても福島市とか中通りとはばまれる
それでかえって地理的には仙台に近く交流も活発になるのである。
交通でも便利だからそうなる
人間社会は歴史でも地理的影響が大きくそれで歴史も決まるともなる

伊達政宗は東北ではめずらしく海に展望を求めた,家康に対抗するためにスペインに船を派遣したからである。そういう発想はなかなか東北ではできない,ただ宮城県は良港が多いからそういうことができたのも地理である
福島県にはそうした大きな港はないからである。入江とか島がないからである。

ともかく水の力は驚異的である。それが津浪で実証された,ノアの方舟もありえると実証された,それだけ水は地球を作ったとなるのである。

船の旅は日本で相当にした,東京から沖縄まで行ったのが一番長かった
貨物船のような船で一週間かかった,その時飯食べるのが楽しみであり飽きた
だから世界一周とかの船旅があるが飽きる,だから食べ物が良くないとまた飽きる
同じようなものを食べていると飽きるのである。
この船旅もまた時間の余裕がないとできない,この世の中金だけあってもできないことが相当ある,会社員だと時間がとれないのである。
自分の場合は時間だけはあった,だから旅しつづけたのである。

外国は五十才から行ったから遅かった,でも地中海を船で行った時は気持ち良かったのである。今はいろいろ旅を回想するだけである。
日本は島が多いから島を船でわたる旅は楽しいとなる,それは沖縄が船旅を楽しむにはいいとなる,日本は島国だけど旅するには変化があるからあきないのである。
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2017年11月17日

切れる老人はなぜ? (役割喪失が認知症になる恐怖)


切れる老人はなぜ?

(役割喪失が認知症になる恐怖)

東京・中野区の有料老人ホームで、入居者の83歳の男性を浴槽で溺れさせて殺害したとして、25歳の元職員が逮捕された事件で、元職員は「男性が風呂の床を汚して掃除しないといけなくなり、怒りがピークに達した」などと供述していることが警視庁への取材でわかりました。警視庁は、突発的に暴行を加えたと見て調べています。

亡くなった藤澤さんは、大阪・箕面市にある現在の関西学院千里国際中等部・高等部の設立に携わり、平成3年から7年間にわたって初代の校長を務めていました。 


切れる老人になるのはなぜか?がまんする抑える働きは前頭葉にあるといわれる,前頭葉は理性を司る,脳に命令する働きがある,感情的なものを抑える働きがある
認知症になると前頭葉の力が衰えて感情が爆発して切れて暴力になるのである。
認知症でもいろいろ性格があるし症状が違うのである。

なぜ今高齢化社会で老人がこれほど問題になるのか,それはこれだけ大勢の人が長生きすることを歴史上経験していないからである。
そしてそうした老人が長生きすることに社会でも備えられていないからなのだ
それは日本だけではない世界的ににも長生きに対して備えがないのである。

それは経済的な面だけではない精神的な面でもそうなのである
退職してから20年30年生きるとしたら長いのである。それに経済的にも精神的にも備えられる人は極わずかなのである。
切れる老人というときそれは老人の精神的問題である。

今の社会は老人にやさしくない,敬ってくれないとか老人は邪魔扱いだとか不満になる。能力中心の社会になると能力がないものは老人は無駄であり邪魔であり経済的にも負担になるだけであり社会にとっていらないものだとなってしまうのである。
会社を退職すると老人の居場所は家になるがそこには妻しかないない,すると妻を相手にしか威張れなくなる,誰も会社のときのように部下がいて敬ってくれないのである。

もう人間は年取っただけでは誰も敬ってくれないし特別扱いはないのである。
ただ現代社会だと金がある老人は金があることで表面的には尽くしてくれる
でも教育関係で校長とかしていたいろいろな役職を経験した老人が施設に入って25才の介護士に無惨に殺されたのである。そこは金持ちが入る地位ある人が入る施設だったのである。だから必ずしも金があっても地位があった人でも特別扱いされるということはないのである

かえって低姿勢で世話になるという謙虚な気持ちの人がやさしくされるとうことがある
おばあちゃんでもいろいろいるが私は介護され安いように努力しているんですよと言っていた女性がいるけどそういう人はそんなひどい目にあわないだろう。
何か世話になるのに地位があるとか金があると傲慢になっていたからそんなひどいことになったのかもしれない,その事情はわからないが金持ちは親を金がかかる施設に入れることが多いのである。だから金持ちだからといって老後は幸福になると限らないのである。

はっきりいって本当に病院とか施設とか恐怖である。老人が弱りいじめられる場所だということを経験しているからだ,それは金持ちでも地位ある人でも変わりないのである
そこに高齢化社会の暗黒面が露骨に現れるのである。
だから孤独死で誰にも世話されずに死んだ方がいいというのもわかる,特に身寄りがないとかそういう人が増えると本当に病院とか施設は恐怖の場所になるのだ

ともかく切れる老人とか邪魔になる老人とかが膨大にこれから増えてくる,すでに増えている,そして認知症になる人が800百万人とか空恐ろしい時代になる
認知症になる原因はわからないけど大きな要因として社会で家族でも役割がなくなることなのである。
自分は家族で女性二人を介護したけど一人はひどい認知症になって無惨に死んだ
そのことが今でも自分のトラウマとなり自分自身もそのことでその衝撃が消えないのである。

それは優秀な女性だったが最後の死に方があまりにも無惨だったからである,その優秀さも最後があまりに無惨だったのであ帳消しにもなった,それだけ人間の最後はやはり影響する,だから成仏にこだわる仏教のこともある程度は理解する
でも人間の最後はみんなみじめであり無惨なのが多いのである。
自分の母親は百才生きて最後も安らかに死んだ,楽に死にたいということをいつも言っていたがその願いだけはかなったのである。

いづれにしろ切れる老人の問題は社会的にも家族的にも役割が喪失することなのである。女性でも家事をししていれば家族に役立つものとしてワーキングする,機能する,すると認知症の予防になることは確かなのである。
何もしないテレビばかり見ているとかなると認知症になりやすいのである。
脳が働かなくなるからである。料理するのは結構脳を働かす,一人は料理もなにもしなかった,もう一人は94才頃まで料理していたし家事をしていたからだ

だから男性でも女性でも役割がなくなることは深刻なものになる,楽でいいというがそうはならないのである。そして男性の場合は会社とか退職すると社会的役割も喪失する
地域で何か役割をもつこともできないしボランティアでもなかなかむずかしいものがある社会ではそういうものを受け入れにくいからだ。
これまでは長生きした老人は少ないし価値があった,村とか狭い社会ではその土地のこに通じていて長老とかなり敬われたのである。
その土地に根付いた農業の場合はいろいろ教えることがあった,今はそういう社会ではないから何か地域で教えることもないのである。

自分の場合は会社勤めしていないがライフワークとして追及したものがあり今それをプログで表現している,だからこれからは会社一辺倒ではなくそれぞれかライフワークをもつ必要がある,退職してから長いからである。
ただそこまで人生設計している人は少ない,それは高齢社会と長寿社会というのを人類史上でも経験していないからである。
だからそれに備えられないのである。経済的にも退職してから百年生きることに備えられる人がどれだけいるのかとなる
それは経済的にもそうであ精神的にもそうなのである。
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2017年11月16日

ドイツのライン河の詩 (河の文明−ヘルダーリンの詩を読む)


ドイツのライン河の詩

(河の文明−ヘルダーリンの詩を読む)

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さわやかなる秋の朝,マインツに船はよる
古い教会のマルクト広場に市がたつ
色とりどりの菊の花が所狭しと並べられる
ラインの岸辺の街の一つ
ポプラの直なる樹々が風にゆれる
悠々とラインは下流へと下る
河は街と街を結び
自由なる商人をはぐくむ
またもの寂びた古城は何語る
城壁は崩れ王の悲劇の物語
ここより下りてケルンの街よ
名高き双塔が天に聳え立つ
その建築の合理性と気高さよ
重々しく貨物船がラインを下りゆく
かなたオランダもイギリスも望まん
一望するドイツの広らかな大地よ
その胸に抱かれてラインは流れぬ
厳かにゴシックの大聖堂に祈りは献げられる
かなたまで鳴り響く鐘の音よ
その千年の石の重みよ
ここにキリストの信仰ははぐくまれぬ
聖歌はここに荘厳に鳴りひびきわたる
バッハのカント,重厚なベートンベンの音楽
ネッカー河畔の晩秋の哲学者の道
落葉を踏みて深い思索にふける
ドイツは生みぬ世界的哲学者を
ハイデルベルグは中世の最古の大学
ここに学びの歴史は始まる
修道士ありて勤め学問の始まる
ドイツの深き森よ,実直なる樅の木よ
その森厳なる大地に育まれしもの
そこより荘厳なる楽が鳴りひびきわたる
ラテンのフランスと分かつライン河
霧深きドイツの大地と黒い森
独自の文化はここに育まれぬ
ドイツにとどまらじ限りなき霊感を生む地球よ
国々の精神はその土地土地の地勢により作られる
それぞれの土地の魂(たましい)を歌いあげよ
剣を捨て国と国は争わずそれぞれの詩を示せ
その時地球はパラダイスとならむ
国々はただ神の与えしもの
国土は神より賜りしものと知るべし
国は国のものにあらじ神のものなり
国はその国のもののためにのみにあらじ
国々はその神に与えられた天分を果たすもの
地球は壮大な一つものにあれ
誠の詩人は大いなる地球を歌うものなれ
天上の国を歌うものなれ地球を讃歌せよ
ただそれぞれの土地は人の心をしばりつける
しかし詩はその鎖たちきり解き放つ
自由の鳥は境を越えて飛翔する
その憧れはやむことなくも
ペガサスとなり大鵬となり天翔る
その翼は不死鳥となりて燃え上がる
そして天空の星座となり連なり
地を離れて永遠に輝く・・・


ヘルダーリンというとドイツの国民詩人になるだろう。それは父なるライン川を詩にしたからである。
日本人にとって外国がわからないというとき例えば四大文明が河から生まれたというとき理解できないのであるエジプト文明がナイルの賜物というときそうであるか。ナイル河と離れてエジプト文明はありえないからであるその他のインダス文明でも中国の黄河文明でもそうである。
インドのガンジス川を理解せずしてインド文明を理解できない、ヒンズー教でもガンジス川をアイディンティティとしているからである。
日本が世界の文明を理解できないというときこうした大きな長大な河がないからである。
日本の川は山が迫り短いし外国人が滝だというときそのことを語っている
外国の川は流れているのかいないかのかわからない、運河のように見える、現実に川は運河の役割を果たしていたのである。それは最初の交通路になっていたのである。
だからエジプトの河岸からピラミッドに通じていた、港の役割を果たしていたのである。
ナイル河を運行していた船はすでに大きな船だった、その距離も長いから河は最初の道だったのである。
その長大な河に沿ってエジプト文明が成立したのである。

ナイル河の岸辺の神殿に船はよりぬ
月影に照らされてヒエログリフの文字何語る
はるかなる遠き日よ、月影に浮かぶ神殿
船は去りゆく、静かなるナイルを下り・・・
星辰はきらめきピラミッドが砂漠に影なす

船でよった神殿は月影に照らされて神秘的だった、こうしてともかく河がいかなるものか日本人にはわからないのである。ナイルが洪水になってもその泥は肥料となり麦が作られたのである。そしてすでにビールも作られていたのである。
ナイル河とかインダス河とか黄河とか揚子江になると長大な河が一本大地を貫き流れている感じになる
でもヨーロッパの河になるとセーヌ河がありライン河があっても支流がありその支流も日本のような支流ではない、船が運航できる河なのである。だからこそ河が交通路となり商人が行き来してハンザ同盟とか商人の同盟がヨーロッパでは生まれたのである。
ヨーロッパは河が道路となり結ばれたのである。

河というときバイキングとかがセーヌ河を上ってきたのである。バイキングは船でイギリスとか地中海とかまで航海した商人でもあった,川は海からの交通路であり入口にもなり出口にもなっていた、だからライン河の出口にオランダが独立した、オランダは河と海で結ばれた国だったのである。
河といきうとき下に流れるだけのものとみているが海から見ると川を上るものとなる、アイヌでも河口は河の尻として地名化している河で怖かったのは津波がまず川から上ってくる、それは早く上ってくる、あの多賀城の小さな砂押川でも津波がさかのぼってきたから驚いた、海というものがその小さな細い水路に海の水を押しだしてきたのである。
海から来る水の圧力がもの凄いものだったのである。

河は気高く泡立って流れている−ライン河こそは
更にこのすばらしい仙境の最大の魅力だ
何千回となく曲がるたびに その都度
前よりももっと新鮮な美を展開して見せる
(バイロン)

雪の峯は大地にそそぐ
この上もなく清い水を 生まれながらに
あなたが純一なのは そのためなのだ
根源の近くに住む者は その場を離れない
そしてあなたの子なる もろもろの街
ネッカルのほとりの街
それらの街はみな思う ここにまさる住処はどこにもないと
(ヘルダーリン−漂白)

雪の峯とはアルプスの峯である、氷河と磐のアルプスから清涼な清水の一滴である。
それがラインの上流であり源である。ここではアルプスに通じている、そして黒海で交わる
あとはギリシャがヨーロッパ文明の礎の国としてある
ただ今と違ってヘルダーリンは世界を旅していない、視界は限られているのである。
今は別に特別な人手でなくても世界旅行ができる恵まれた時代なのである。

ライン河沿いの街をその子として表現しているのは面白い、実際にそういうものなのである。
河が産んだ街なのである。こういう感覚は日本では生まれないのである。日本の国は国造りでは海から生まれたからである。
イザナミ、イザナギは海の神だったからである。

美しきラインの眺め
山を離れたその後で
満ち足りながら よき営みの内に
あこがれる思いを鎮める
父なるラインは土地を拓き 愛する子らを
みずから築いた都市に養う
(ヘルダーリン−ライン)

根源の近くに住む者は その場を離れない

こういう表現もこの時代密接にドイツの大地と結ばれていたから生まれた詩である。
深くドイツの大地とアイディンティティ化されていたからこういう詩が生まれる
それは自分でも自分の住む場所でそうしてきたからである。
根源とはthe fundmental deepest homelandとなる

そして河が街を養うという感覚は河の文明なくしてありえない表現なのである。それはいかにく深く河と結びついているかを知らねばならない,それはナイル川でもそうだがガンジス川でもそうであり黄河や揚子江でもそうなのである。
河がまさに文明を産みだしているからはそういう表現になったのである。
ヨーロッパの都市は一つの国であり街は独立した市民のものだった,そういう都市が多いというときそこから文化が生まれたのもわかる,その都市を作ったのが河だったのである。

■文明はなぜ砂漠地帯に発生したのか?
 
   文明の成立の第一条件は多くの人間が集まり、大社会を作ることにある。集まるための条件の第一は、移動が楽だということだ。砂漠は一般には酷暑乾燥の過酷な土地で、旅行するのも命がけだと思われている。しかし、点在するオアシスを結んで行けば意外と楽である。足もとは砂だからどこでも歩くのは比較的容易だ。砂漠というと歩きづらい「砂丘地帯」を連想させるが、砂ばかりとは限らず、土漠、岩漠などもある。反対に歩くのに難儀するのは、湿潤地帯ではなかろうか?
http://home.e08.itscom.net/21water/bunmei.htm

このサイトでは移動しやすい所に人が集まりやすい所に文明が生まれたという説である。日本はいたるところ湿地帯だから移動しにくい,それで文明を作りにくかった、道がないと大きな国は作りえないからである。大きな国は移動しやすいと作りやすいということがある、それでローマ帝国は道をはりめぐらしたのである。

いづれにしろそれぞれの国はその国土から生まれた,国の精神もそうである。大和魂でもたましいというときその土地から生まれたものなのである。土地から離れて魂(たましい)もありえないのである。日本なら万葉集が日本の国土と一体化したものだった
なぜなら大和とは山の戸口でありヤマトは山を神とする国となるからだ、日本では山にその根源を置いているとなる
三輪山は山自体が御神体になっているからである、それが日本の根源なのである。

ただ日本でもそうだがその国土を歌う詩人は生まれていない、日本の詩人でもそうである。何か芸人的詩人なのである。
ヘルダーリンのような詩人は生まれていないのである。
俳句とか短歌ではどうしても詩としては短いから大きな詩となりにくいからだ
そして現代とは工業とか経済とかに席巻された時代である。
だからシュペングラーの言うように西欧文明の没落とかなる,その本が数からははじまっている
人間は言葉でも商人の言葉となりただ機能的言葉となり本来の詩語だった言葉が数字のようにもなったことを嘆いている
言葉が死んだというときそれが現実の自然の像とも結びつかないからである。
だからそもそも根源なるものから人間は乖離して人間としての像を持ちえないのである。

言葉は本来自然の事物と石でも樹でも山でも一体不二のものだった,だから荘厳なものとして言葉はあった
神聖なものとしてあった,ロゴスとしてあった,言葉は今や貨幣なのである。ただ商業的経済的なものとしての流通物なのである。
そしてその貨幣に人間はけがされて貨幣が神のごとくなってしまったのである。
真実の言葉はそういうものではない、それは大地と自然と一体化したものであり荘厳なものだったのである。
一面言葉をもって人間となったともいえるからだ
だから言葉を軽んじることはできないのである。言葉を軽く扱うことは危険なのである。
それは魂までも心をけがすからさである。だから宗教は山に籠り沈黙の行をしていたというのもわかる

それぞれの国の栄はもともとそれぞれの国土から生まれていた、河の文明は河が都市を街を産んだように河が文明を作ったのである。その大河が日本にないからそもそもその文明を理解できないとなる
外国人が日本は温泉だというときまさに山の国、火山の国、地震の国だからこそ温泉があり日本の国土から生まれた恵みだったとなるそういう恵みはそれぞれの国々に与えられている、砂漠の国にはなにもないかというと石油が与えられていたからである。
神はそういう点公平だったのかともなるのである。
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人手不足倒産時代 (特に飲食業が人が集まらない)


人手不足倒産時代

(特に飲食業が人が集まらない)

低価格のラーメンチェーン「幸楽苑」を運営する会社が人手不足で人件費が上昇し採算が悪化しているとして、全体のおよそ1割に当たる50店舗余りを今年度中に閉鎖すると発表しました

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

人手不足で休みます

幸楽苑が原町にあるけど二人だけで忙しい,この辺は原発事故で若い人が減ったとかあり人が集まらない時給を高くしても集まらない,それは全国でもそうである。
働く人がいなくなれば会社もやっていけない,しかしもともと飲食業とかしたくない仕事がこの世に多い,だからそうした飲食業は給料も安いとなると人も集まらない
何かそうした仕事は機械化してゆく,事務関係でもAI化してゆく,つまり給料もあるが人間がやりがいを感じないこともある,自分は流れ作業しか仕事していないから仕事のことがわからない,そういう仕事は金をもらってもしたくない,人間の尊厳を傷つけるのである。

こんなことが人間の仕事なのか?そうして遂に自分の場合は仕事をせずに一生終わったのである。ただそれは特別恵まれたからできたことでありニートとか今は普通だけど団塊の世代はガムシャラに企業戦士として働いたのである。
それは何か高度成長時代は働く意欲がみんなあったのである。上昇気分があった,経済成長が国全体として高揚したものとなっていたのである。
日本はアメリカに戦争に負けても経済では勝ったとかなっていたのである。
だから国民全体が今とは違って働く意欲があった,それは仕事がいろいろあっても全般的に言える,そして給料も毎年上がりマイホームとかいろいろ将来への望みがありそれが目標となりかなえられるとなっていた

そもそも時給で働かせることは人間の尊厳を傷つけていないか?
人生は時間を何に使うかで本当に決まる,時間が一番大事なのである。それが安く切り売りされている,でもその時間がもしただ切り売りするのではなく何か自分のスキルを仕事を身につけるならいい,例えば大工なら職人なら職人として仕事を身につける,それが誇りになる,職人は仕事をするというときその仕事に関して専門家だという自負がある
他でも仕事は一人前にになるには修行をする,それはその仕事でスキルでも何か社会で給料だけではないものを身につける,それで社会からも大工なら大工として認められるし自分もそのスキルで誇ることができる
飲食業などはチェーン店などではそうしスキルは与えられたものであり機械化している感じになる

要するには本当は誰でもできないものがあるにしても誰でもできるものでありロボットでもできるのじゃないかと見られる職業が人手不足となる,そうして機械化するとAI化するのである。それは人間はこんな仕事したくないとなるものなのである。
だからたいがいの人か人手不足というときただ奴隷が欲しいだけなんだよとなる
時給2000円くれるのが当たり前だとなる,それも人間になるとそうなるのである。
人間は「俺は機械じゃない」とかなる,そういう人間の尊厳を傷つける労働が多すぎるからである。

では仕事は「俺は機械じゃない」という仕事をしている人は少ない,江戸時代だったら職人は手作りだから一つ一つ丹精こめてその人の技量を活かして独自のものもう作っていただから下駄すら作った人の名前がついている,今でも近くの包丁を作っている店はいい包丁だとして知られている
何かそういうことが江戸時代には手作りの社会だから多かった大量生産の時代になるとそういう仕事がなくなった,みんな型にはまったものを大量生産するだけだとなった,それは人間も同じような型にはまった人間の大量生産だったのである。

それは学校という場がそうした大量生産に向く型にはまった人間を訓練する場として作られたというのもそうである。
江戸時代の寺子屋は机でもばらばらであり自由だからである。
この大量生産の時代は命も安価となったのである。
戦争で大量に何百万人も死んだというのも現代社会の大量生産の結果だという人もいるのがわかる,ナチスをそうして批判している思想家もいる
今まではそんなに大量に死ぬ戦争はなかったからである。

ともかく飲食業でも人手不足でみんな倒産するというのも困る,飲食業は社会にとってただ腹を充たすだけの場ではない,憩いの場だと社交の場だとか気分転換の場だといろいろある,人間のすることはまず一つの機能だけをすることはないのである。
人間の仕事はただ部品を作るということではない,だからロボットのように人間を使うことはできないのである。
自分は外食することが多いから飲食業に関心をもっている
飲食業は実は他者と区別できる,同じ品物を売っていないのである。

料理はみんな店で違っている,最近鹿島の仮設の食堂が一軒残っているけどメニューを変えた,500円のカレーがうまいなと思う,いい肉も使っているから500円では手頃である。そのカレーはそこだけのカレーなのである。
そういうものが別にチェーン店だけではなくても作れるのである。
だから飲食業が誰でもやれるとはならないし個別化できる,他と違ったものを作れるということである。それで人を集められるということがある
ただ商売は場所だから都会のようにある程度人がいないといくらうまいとしても人が集まらないのである。
商売にはいろいろな要素がからんでくるからである。

サービス業ってのはそもそも半分虚業じゃないの? 
単に自分がやればできることを他人にやらせてるだけの商売は特に

別に飲食業がなくても自分でも作れる,でもそうしたら人間の生活は豊かなものにならない,豊かさとはただ食べるだけのことではない,雰囲気とか仲間と親交をあたためるとか人間が食べるというとき腹を充たすだけではないのである。
鉄道の駅だってただ電車に乗るというだけではない,そこは出会いと別れの場であり人間的情をはぐくむ場でもある
つまりメカニカルなだけではない,ヒューマンな場なのである。そこが自動化して無人駅になってもだから駅員が必要だともなる,人間的な場にする必要があるとなる
harurr234.JPG

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メニューをかなり変えた ラーメンでも盛りがいい,いいものを食材に使っている
仮設はここ一軒しかないから淋しいとなる
やはり何軒も食堂でもあれば選べぶからいいのである。
そこに仮設商店街の利点があった


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2017年11月15日

慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた? (海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)


慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた?

(海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)
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相馬氏進出の径路

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

慶長三陸地震(けいちょうさんりくじしん)は、1611年12月2日(慶長16年10月28日)

ここでその大意は書いた,その後は補強になる,相馬氏がこの地方に進出してきたときすでにこの辺を支配していた豪族がいた,だから相馬氏と敵対したのである。
それが海側にいたのはすでに海運がありそこからの貿易の収入があって力をもっていた
小高はすでにそうした湊の施設があり船の出入りがあった
現実に今回の津浪では駅まで津浪が来ていた,小高城で海が近いのである。
そして小高には船が相当数出入りしていたのである。船をもっている人達が船主がいた
船主が船をもつことは土地をもつことと同じように力をもつのである。
原発事故で事故前も事故後も補償金をもらって困らないのが船主であった
だから原発御殿が建ったとか周りからねたまれていたのである。
そのことは反面いかに船主が力をもつかということを証明しているのである。

どういうわけか慶長津浪が来る前に相馬市の諏訪神社でも松川浦から神社が移動しているのである。そして舟繋ぎ伝説が生まれた,船が流れてきてとどまったという伝説である。それは小泉川がありそこをさかのぼってきたのである。
まず津浪は川をさかのぼる,それで驚いたのは仙台の多賀城の砂押川である。
あそこに津浪がさかのぼってきたことは驚きである。
その川は小さいしそして海が近いと思わなかったのである。
ビルとか建物にさえぎられていたから海が近いと見えなかったのである。

末の松山は古歌に波こさじかとありそこまでは津浪が来なかったのである。
これはまさにそこまで津浪が来なかったということを短歌で記憶されていたのである。
ただそれは貞観津浪のことだった,慶長津浪はまた違っていた
貞観津浪は京都の方から多賀城に都の人達が来ていて記録されていたのである。

相馬地方でも総合的に見ると鬼越館は磯部館があったのだが鬼越館に慶長津浪の前に移っている,高潮のために移ったとあるがその近くまで今回の津浪が来ていたのである。
津浪の前触れを感じたのか?それも不思議だとなる
北郷では今の南相馬市の鹿島区では海老に伝えられた大工の話も津浪を語っているのかもしれないことは指摘した

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

鹿島町誌にある伝説は何を語っているのか?

大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る。

なぜここに大原と出てくるのか?大原は相馬氏進出の径路で書いたように大原から小池と相馬氏は進出した,支配してきたからである。
山側から片倉村から入り太田神社に入り小高に進出してきたのである。
海側には海運を業として力をもった豪族がいた,岡田氏や泉氏や磯部館のあとで鬼越館に移った佐藤氏などが敵対したのである。
それで牛越城建設に泉氏がその負担を強いられたから火を放ったのである。
つまり慶長津浪が来る前に相馬氏は相当な地元の豪族の抵抗にあっていたのである。

だから不思議なのは中村に城を移転するというのも慶長津浪の一カ月後とういのも何か津波によって敵対勢力がそがれた結果だともなる
そういうことは他でもあったからである。戦国時代は相手が弱ると好都合なのである。
弱肉強食の世界だからである。そういう経験を自分もしているからだ
相手が困ることは借金でもなんでも申し込みやすいし相手を従わせやすいのである。
だから津浪で被害があったとしたら敵対勢力が弱体化するのだから相馬氏にとっては都合がいいことだったのである。

伊達政宗の時代でもあったが慶長津浪は伊達藩にも打撃だったから今の相馬市は中村は伊達氏がその当時支配していた,それで鬼越館の佐藤氏は伊達氏についていたのである。
伊達氏の勢力も津浪でそがれたとなると中村に城を建てやすかったとなる
そこで海老の大工が天守造営に行かされるのに抵抗したのはその土地の豪族の館をもつ支配者の命令でもあったが板挟みになり悩んだのである。
つまり大原と関係しているのは大原は相馬氏の勢力下に入っていたからなのである。

慶長津浪の記録は700人溺死としかないけどその当時の情勢をみると津浪の影響で敵対勢力が津浪で弱体化して相馬氏がこの地を支配できたというのもイメージできるのである。総合的に見て判断するとそれが有力だとなるのである。
posted by 老鶯 at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2017年11月14日

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎

(南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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相馬氏の系譜

相馬師常(千葉常胤の子)
相馬義胤(相馬師常の子)
相馬胤綱(相馬義胤の子)
相馬胤村(相馬胤綱の子)
相馬胤継(相馬胤綱の子、廃嫡される)
相馬師胤(相馬胤村の子)
相馬胤氏(相馬胤村の子、下総相馬氏)
相馬重胤(相馬師胤の子、陸奥へ下向)
相馬師胤(相馬胤氏の子、下総相馬氏)
相馬親胤(相馬重胤の子)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤の父

1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
        相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
           |
      +―相馬重胤―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤――――――
      |(次郎左衛門尉)   
      |
奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。

@五輪塔は藪の中に埋まっており,由来を知るものがいなかったこと
A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと
B八竜寺の山門礎石といわれる大石があったこと
C八竜寺は有胤の菩提寺であったこと
D有胤の居館が西殿にあったこと
E八竜寺とその所蔵資料が約二百年前に焼失したことが伝わっている

この系譜を見れば次郎とか五郎とか六郎とか九朗とかあり兄弟である。
ここで明らかなことは

A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと

これは間違いなのである。そして高平胤直という人物はこの高平の地名を姓としたのである。重胤が陸奥に下向したからである。

地方の武人の通称に何々左衛門とか右衛門とかなるのは元は皆京に出て禁衛の兵士になったもののしるしで今なら下士官相当の役にすぎぬのだが田舎に帰ると社会上の地位であった(柳田国男全集16)

鎌倉幕府が成立するときにその前は平氏の勢力が強かった,だから胤平などはその平の一字をとったのかまたは高平胤直がいたからその高平の平をとって名前としたかもしれぬ
どちらかというと平氏の姓はとられていないから高平の平をとったのかもしれない。

八竜(龍)神社は多いし鎌倉時代に普及した,だから寺もあったとなる,相馬有胤の菩提寺であったことは高平という姓の人がいることでもわかる
ここに土着して住んだのである。

D有胤の居館が西殿にあったこと

なぜ西殿なのだろうか?

殿館(とのたてさま)の起源

殿は文字のごとく長者の建物に対する敬号である。家号の属する土地である。
建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚った意味である。
すなわち御屋敷ということであります
これが遂に移り変わって直接人の名を郡長殿とか局長殿とかいうように人の名を意味するようになったのは甚だしい変遷であります
南北朝頃の文書に諸国の侍に出した感状などを見ると人の通称に殿の字をつけたものがあらわれかかっている

一例を言えば河野武蔵殿とかなっている,これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある、武士の住宅を館というのは東北の方言で西国に行けば京都を私淑して武家も皆殿と呼んだのである。(柳田国男全集20)

高平に西殿とか御屋敷とか古館とかさらに海側に館前とかがある,ここには相馬氏関係の館があった

相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏

泉氏は相馬氏が来る前に存在した土着していた地元の豪族だった,だから西殿から海側の館前までなんらかのつながりがある。
この辺には確かに館がありその館に属して人々が住んでいたのである。

上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。
 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。

鎌倉時代末期から南北朝時代とありちょうどここに相馬有胤-相馬胤平などがここに殿を館を構えた時期なのである。それは相馬氏がここに移住してその信仰ももたらされたとなる,この辺で鎌倉時代のものがあるのはまれだから貴重だとなる 
そしてなぜ西殿なのか?それは東から見て西にあるからとなる,すると西殿とは東から見てそう名付けられたのである。でも東には泉という地名と館前という地名がある。
そこにも人が住んでいたのである。西殿があれば東殿があっても不思議ではないのである

西殿とか御屋敷とか古館とか中世の石塔がある所までは津浪は来ていないのである。
相馬氏と対立勢力が地元にあり泉氏はその一族だった
それは海側の東にあり慶長の津浪で館も流されたのかともなる
慶長津浪は1611年に起きている,その前に泉氏は相馬氏に不満があり牛越城に火を放っているからだ

牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

泉氏は進出してきた相馬氏と対立関係にあったのである。西殿とか御屋敷とか古館とか地名が残っている一体,中世の石塔群がある一帯がそうである。
これはかなり後になってからの事件である。1611年に慶長津浪が来たからである。
もし津浪が来たとしたら泉氏の住んでいる場所は海側なのだから被害があった
西殿中心の相馬氏の住んでいる場所は津浪の被害がなかったともなる
何か西殿一帯には相馬氏が勢力をもち対立するものとして泉氏があってもめたとなる
牛越城5年ほどで終わり中村へ城を移したのである。

いづれにしろ高平の柳町の五輪の塔は実に立派であり貫祿がある,それがだから
相馬有胤―相馬胤平の墓だというのもそれなりにイメージできる
まずこんな立派な墓だったらそれだけの名のある人でないと遺せないからである。

ともかく時代がたつと全く忘れられてしまう無情である。

西殿と名のみ遺して忘らるや跡形もなく木枯らしの吹く

あの辺はしょっちゅう自転車で通るから気になる場になっていた,川子の御堂がある所もそうである。買い物に自転車で原町に行く自分のルートになっているからである。
やはりそういう身近な場所には興味をもつのである。
今回は何か遺された史書と辻褄が合う,千葉氏の研究とういサイトから引用した
ここでは著作権違反のことを指摘されたことがあった

そういうことがあるのでまたあるかもしれない,引用に問題がある,ここに書いてありますよというリンクだと問題がないのである。
だから指摘されたらリンク張るだけにすればいいとなる
リンクは許されているからである。

複雑化した無人駅の鹿島駅の問題 (NPOが駅で事業するために申請していた)


複雑化した無人駅の鹿島駅の問題

(NPOが駅で事業するために申請していた)

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NPOやNGOを名乗る団体が増え、石を投げれば当たるほど増えた観があります。
ところが仕事や普段の生活で関わっている人以外で、これらが何なのか詳しく知っている人は少ない。
何となくボランティアしてそうとか、社会に役立つことをしているという程度だと思います。

NPO法人に認定されると税制で優遇されるので、同じ事をやるならNPOにした方が儲かります。

こうして石を投げれば当たるほど、日本にNPOが増えました。

NPO法人が胡散臭いという空気が生まれる理由

全ては法律の不備が原因だし、簡単に設立できるハードルの低さが胡散臭い連中を呼び寄せてる原因とも言える。こうして考えるとそもそもNPOに法人格を与える必要などないのではないだろうかとすら思えてくる。

NPO法人は設立時に最低でも10名必要である事や、平均的にも6か月の設立にかかる期間がある事、また、審査の厳しさがまるで比較にならないなどの点から、同じ法人であっても、社会的信用度が圧倒的に違います。
NPO法人と名乗る事が出来るだけでも、それだけで最大のメリットと言えるのです。


鹿島駅の問題は複雑になっていた,駅はどこでも駅だけでは成り立っていない,街全体が関係している,その自治体と地区と商工会とJRが関係していた
駅前のトイレは福祉関係の人が毎日掃除してぴかぴかに磨いている
それは市で金を出していたのである。
前の花壇は地区の人が花を植えて手入れしていた,そして駅の掃除は商工会の女子部がしていた,それはJRから金をもらっていたが理由がわからないがやめるとなりもめている
JRで金を払っているということが意外だったのである。
鉄道はもうからないから維持するのが苦しいから自治体とか地域でかかわり維持するために努力してもらいたいということなど放送されていたからである。

今日前の自転車屋から聞いた話ではタバコ吸う駅の外の部分を利用して何かやりたいという人が新潟県の人でいたという,それも良くわからないがもともと鹿島駅はそれなりに人の出入りがあるから商工会で観光関係が入る予定だったがしなかった
そこで最近何かに利用しようということで動きはじめた
JRで金を払うこともあり市の方でも実際はそういうこは知っていたのである。
ただ個人的に自分が聞いてもわからなかった,その担当者を自転車屋の人は知っていた

そしてNPOがすでに鹿島駅で事業するために市に申請書を出していたのである。
するとNPOとは何なのかとなる,何か評判が悪いこともある
ただこの辺の特殊な事情でNPOの人達が相当数入っている
その人たちはやはり利益になるものを探している
だから駅でJRからも金をもらえるとなればとなり申請したのかもしれない

ただNPOとは何なのか?Nonprofit Organization(非営利組織)となっている
この名称がまぎらわしい誤解を生んでいるのである。
ボランティアでもそうだがもともとボランティアとも共通しているものがある
今回の震災や原発事故の被害地域にはボランティアが多数働いたからである。
でもNPOはボランティアの組織された団体であるが個々人のボランティアもいる

つまりNPOは誤解しやすいのはボランティアのように見ているからそうなる
でもその動機はボランティアに由来しているともなる
ボランティア精神とはその人の自主的な意志でしいてる,老人が増えると何か社会に役に立ち生きがいをもちたいということが動機になる

ボランティアとはまず利益を考えない 自由意志でする

ここが営利的に仕事している大方の会社とその設立動機も違っているのである。
自分が駅のボランティアをはじめたのは偶然だった
駅が無人化したので困っている人がいて案内はじめたのである。
別に利益を求めていない,それが何か自分には面白かったのである。

●鉄道が好きである
●地元に住んでいて地元を案内する
●生きがいを見いだす

自分のボランティアする動機である。こういうふうにボランティアとはその人が自主的に強制されないでやるものでありそれをすること自体に興味と生きがいを感じるからする
別に報酬もいらない,そういうことがNonprofitだからこそそうなる
つまりボランティアの原点はそこにあり利益を得るためではないのである。

だから今外から来る人が多いというとき例えばそういう人がボランティアするとなると収入が必要になる,みんな自腹でやっていけない,老人などはそういう人がいたが若い人もNPOにはいる,すると収入になるものを探すとなる,それは市から金が出たたり税金も払わないでいいものとなりそれでNPO法人になるのも増えてきた,それだけ数が多いのだから不正もでてくる,それでNPOは何かうさん臭いとなってしまったのである。

でも市とJRでもそうだが信用されるには団体でないと許可されにくいのである。
自分も失敗したのは家政婦とか雇う時,組織化して団体化している法人だったら信用できる,そこでは共同連帯責任になるが個人的に雇うとその人にはそうした責任が生じないのである,組織として団体としてもそうした個人契約は責任をとらない
だからそうして雇った人が犯罪を犯しても盗んでもその責任は雇った人にあり自分は大損になり何の補償もなかったのである。
現代は見知らぬ人と頻繁に交わる社会だからどこで信用を得るかが問題になる

するとどうしても組織化した団体化したものを信用するとなる,個人は信用されないし責任をもてないなからである。大会社であれ市の職員であれ不正があれば会社が市が自治体が負うようになるから責任をもたされるから信用するとなる
ただNPOでもNGOでも組織化団体化すると政治団体化して政党の運動のようになる弊害がある
現実になっている,そういう場にはなんといっても巨大な政党とか宗教団体でもかかわりやすくなるからだ
NPO法人でも10人も必要であるからだ,それは一つの小さな会社組織になっているのである。

だから鹿島駅でNPOで申請を出したことはその人たちが駅にかかわりすることになる
そして金は市とかJRから出るようになる,NPOの有利なのはそうした優遇があることなのである。
ただ動機としては自分のような本来のボランティアいいともなる
地元に住んでいれば地元を良くしようと無理しなくても働くからである。
つまり土着的精神が自ずと発揮されるからである。
ただ外から来た人達でもこの辺では多いが違った視点でみるからこういう事態では必要なのである。

木の葉散る (俳句はまず写生でありそこから各自イメージする)

木の葉散る

(俳句はまず写生でありそこから各自イメージする)

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木の葉散るまた一枚や石の上

枯蔦の這いて庭にはねじれ石

イワヒバに石の静かに冬薔薇 


一枚また木の葉が庭の石に散る,その石はその木の葉を記憶する,その木の葉とは一人一人の人間をイメージする,写生とはあくまで写生でありそこから各自がイメージするのである。
この辺だとどうしても原発事故で避難区域になり人の住んでいない村や町をイメージするつまりそこには家があっても庭があっても人が住んでいない,でも庭には石があり同じように庭の木の木の葉が散っているのである。
でもそれを見ている人は誰もいないのである。
そこでは庭は死んでいる,石でも死んでいるというのも不思議だが人間化した石だからそうるのである。

枯蔦が這いねじれたような石がある,これも実は人間をイメージする,そんな人が自分の家に入り込んだとなる,他にもイメージすることはある,あくまでも写生はそうした説明をしない,詩だと長いから説明する

例えば

木の葉が散る
今日も一枚散る
庭の石に散る
石は記憶する
その一枚一枚の
木の葉を
ここに静かな
時は流れ
我が一人いる

こんなふうに詩とは説明になる,俳句はこうした説明がないからかえって鑑賞するのがむずかしい
俳句はだから最も鑑賞力が試されている芸術である。もちろん芸術は絵でも音楽でもそうだけど鑑賞力がないとわからないのである。
だから自分がしている抽象画でも自分で絵を作れればいいのである。
やはり俳句でも絵でも音楽すらそうなる,音楽でも演奏できる人とできない人ではその鑑賞力が違ってくる,芸術はそれだけ奥深いものだから鑑賞すること自体がむずかしいのである。

ともかく急に今年は冬になった,昨日は寒かった,季節の変化が今年は本当に激しいのだ何か天候であり津浪でもそうだが異常気象というかそういうものを感じる
これまではそんなに季節でも変化を感じていなかった
今や老年になると家族が死んだり病気になったりとかいろいろなものが変化しやすいのである。その変化に耐えられなくなるのだ

東京とか都会に出た息子や娘の所に介護のために引き取られる親がいる,逆に田舎に移り住む人もいる,そういう変化が意外と老人になるとあるのが現代なのである。

いづれにしろ狭い世界だと庭のようなものでもそこは一つの世界である。するとそこでは記憶しやすいということがある,田舎でもいくら狭くてもすべてを記憶することはできない,一部しかできない,全部を知ることもできなからだ
人間は記憶することが大事である。記憶されたものが最後は人生になるからだ
記憶は消えやすいのである。一方で人間は忘れるから生きていける
苦しいことも忘れてなつかしくさえなるのが人間なのである。
苦しいときはそんなことはありえない,ただただその苦しみを負い逃れられないのであるでもそれが終わるとそうした苦しみも忘れるのである。

今年は秋はたちまちすぎたから秋深しなど感じなかった,秋があっても短く冬になったのである。これまでは秋というのは長く感じていた,それは平和なときだった
その時は三食つきであり家事もなにもしなかったから長く感じたのかもしれない
今になると家事でもやることが多いから時間が早く過ぎるのである。
一般的に老人になると時間は早くすぎてゆく,何か追われるように過ぎてゆく
無常迅速になる,なぜなら知っている人でも死ぬ人も増えてくるからである。

えっあの人も死んだのと驚くことが多くなるのである。
そしてしばしその人のことを考える,あの人なんなのだったのか?
最後は会社も倒産してその土地は売られ家もなくなった
そして夫も死んで次にその妻も苦労の末に心筋梗塞で死んだという
ただ介護もしないから外から見ると楽だったなとみる
心筋梗塞で死ぬ人も結構多い,これは急に死ぬから驚くのである。
その人は20万で葬儀をしたという,前はおじいさんは町会議員とか地元の有力者だったが
今はおちぶれてしまった,そして金借りにきたのである。

ともかく金のない人が多すぎる,みんな金に困っている,というのは老後が長すぎるからそうなるのである。90とか100まで生きる金を用意できるのはごく一部だからである。
自分だって今は金はあってもそこまで用意できないのである。
人生百年を生きることは金銭的に容易ではないのである。
そこでもうどうにもなちなくなる人が増えてくる,それが高齢化社会だとなる

2017年11月13日

東京から地方へユーターンする老人 (東京の高齢化が深刻になってくるから)


東京から地方へユーターンする老人

(東京の高齢化が深刻になってくるから)


地方へ住みたいという人が増えてくる,それがNPOで東京で募集しているが最近は二十代と三十代が増えているという,そしてみんな真剣だというから退職して田舎でのんびりしようとする人達だけではない,地方で仕事をもって定着したいという人が若い世代でも増えているのである。
これは意外でありそういう傾向が生まれてきたのも現代である。
なぜならみんな地方には仕事がないとかなんとか地方を離れたい田舎を嫌だというのが言われてきたからである。

ただ退職した人かが移住する場合はまた違っている,松山市が一番人気があるということでもわかる,松山市は三十まんととかの都会である。仙台並である。
そういう地方の都会に移住するのは東京からでも抵抗感かないのである。
まず辺鄙な田舎など今はとても住めない,医療でも福祉でも買い物でも東京と比べたら差が大きすぎるからである。そうした生活した人が辺鄙な田舎で生活することは無理であるそれも体力も弱る老人になれば余計にそうなる
松山市などは市電も走っているしそこに花曇りの日に三日遊んだがいい場所だった
だから人気があるのがわかる

でもそうした地方の都会だけではない最近この辺でもユーターンする六十代以降の人が増えているかもしれない,この前合ったのは集団就職した人であり東京弁をしゃっべっていたからわかった,土地のなまりがなくなるのでこの人は東京に長くいたのだとわかる
なまりはやはり国の手形だともなる,標準語化しても地方ではやはりなまりが出るからである。

最近聞いた話ではその人は東京の土地を売って帰ってきた,ここに住んでいた人であり事情があり夫婦で帰ってきた,妻の方がここに住んでいて兄弟も住んでいるからここに帰ってきて住むことになったのである。
一人は東京生まれだからこうした地方の田舎都市に住むのは違和感があるかもしれない
その人は介護とか家の事情があり帰ってきたからまた違っているがそういう人も増えるかもしれない,つまりここではすでに原発事故で若い人が流出して65才以上が齢化率が35パーセントとか他より高い,そしてこうして東京から地方へ60代以降の人が移住する人が増えるとなるとますます高齢化率が高くなるのである。
その人も70に近いからである。

これも地方都市で問題になる,つまり老人ばかり増えることは自治体の負担が福祉とかの関係で増えるかもしれないからだ,福祉関係では人手不足である,特に小高などでは介護士などが集まらなくても施設を再開できないのである。
それは全国的にそうなのだがこの辺はさらに65才以上がさらに増えてくるのである。
ただ人が増えれば金を落とすから経済的にはいいのかもしれない,しかしその反面福祉関係で金を使うこになるからいいことばかりではないだろう

都会から地方への高齢者の移住」へ向けて政府・自民党が本格的に取り組み始めた

東京の「待機児童」数は約1万人だが、東京の「待機老人」数は約12万人である*4。そして今後、東京の「待機老人」数は急増すると予想されている。なぜなら、東京は地価が高いから、東京にはもはや余っている土地がないからである。

団塊世代のなかで進学・就職期に3大都市圏に移動した者のうち、地方に戻った者は4人に1人の割合であり、その大半は20歳代後半から30歳代にかけて戻った者である。残る4人に3人は、3大都市圏にそのまま定住し、老後を迎えつつある。

こういうこともあるからやはり一旦都会に生活基盤があると元の田舎にもどることがむずかしいのも事実である。
何か移りやすい人のコネが家族でも親戚でもあればいいがそういうものも変わっているからむずかしくなる

地方に若者が移住しやすい所が人がよそ者を迎える体制ができている,世話する人が周りにいる所だというのもわかる,このことは田舎では不可欠である。
田舎の案内人になる人がいてその人を頼れば楽になるからだ
ただ老後になると精神的には田舎の方が環境的にはいいとなる
それは好みなのだけど騒々しい所が嫌になるからだ,だから東京とかの都会に介護のためでも子供に呼び寄せられたのは認知症になるとか悲劇になる

自分はもともと静かな所でないと住めない,老人になってますますその傾向が強くなってきた,老人は一般的にそうなりやすいだろう,騒々しい所が苦手になるのだ
だから今は旅行すらしない,介護で消耗したこともあるが原町辺りまでしか行っていないのである。
どうしたって老人は精神的には内省的になる,内面の充実に向かう,これまでの経験したことの意味を深めるということに向いているのである。
だから住んでる場所でも家でも定着する所が安定していることが必要になる
ある程度の金の余裕も必要になる,ただ老人は金を使わなくなる

自分が最近今までの延長で電気製品とかビデオカメラとか他にも買ったが使えないのである。要するに今までしていることはできるが新しいものを取り入れることができなくなったのである。だから老人は消費できないとなるのだ
ただ本など前よりアマゾンで安いの買っているのである。
それも全部詳しく読むのではなく拾い読みしているだけなのである。
いづれにしろ老人のライフスタイルは変わる,だからこれだけ高齢化社会になる老人のライフスタイルが一般的になることもありうる
高度成長時代は若者向きの消費とかなになっていたのはそれだけ若い世代が多かったからなのである。高齢化社会は何か落ち着いた生活とか成熟した社会に変化する
それは悪いことではないのである。
posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題

2017年11月12日

南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎 (明和だから天明の飢饉の前のものだった)


南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎

(明和だから天明の飢饉の前のものだった)

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荒井山広徳院宝持寺 北森山にあり,天明の頃,寺廃す
故に塩崎村田中山慈伝院に合す:文政六年慈伝院を江垂村普陀落山観音寺に合す
(鹿島町誌)

元禄宝永中戸数四十,三十八戸 天明三二十二戸 同年 戸数十六戸


慶長けいちょう1596.10.27〜1615.7.12 
元和げんな1615.7.13〜1624.2.29 元和偃武
寛永かんえい1624.2.30〜1644.12.15 寛永寺 寛永通宝
正保しょうほう1644.12.16〜1648.2.14 
慶安けいあん1648.2.15〜1652.9.17 慶安の変
承応じょうおう1652.9.18〜1655.4.12 
明暦めいれき1655.4.13〜1658.7.22 明暦の大火
万治まんじ1658.7.23〜1661.4.24 
寛文かんぶん1661.4.25〜1673.9.20 
延宝えんぽう1673.9.21〜1681.9.28 
天和てんな1681.9.29〜1684.2.20  ※辛酉革命
貞享じょうきょう1684.2.21〜1688.9.29. 
元禄げんろく1688.9.30〜1704.3.12 
宝永ほうえい1704.3.13〜1711.4.24 
正徳しょうとく1711.4.25〜1716.6.21 
享保きょうほう1716.6.22〜1736.4.27 享保の改革
元文げんぶん1736.4.28〜1741.2.26 
寛保かんぽう1741.2.27〜1744.2.20 
延享えんきょう1744.2.21〜1748.7.11 
寛延かんえん1748.7.12〜1751.10.26 
宝暦ほうれき1751.10.27〜1764.6.1 宝暦事件
明和めいわ1764.6.2〜1772.11.15 
安永あんえい1772.11.16〜1781.4.1 
天明てんめい1781.4.2〜1789.1.24 天明の大飢饉
寛政かんせい1789.1.25〜1801.2.4 寛政の改革
享和きょうわ1801.2.5〜1804.2.10 
文化ぶんか1804.2.11〜1818.4.21 
文政ぶんせい1818.4.22〜1830.12.9 
天保てんぽう1830.12.10〜1844.12.1 天保の改革

川子の御堂の由来は何なのか?あの御堂には何を祭っているのかもわからない
鹿島町誌にある寺があったところなのか?
その僧侶の戒名が記されていてそれが明和となっている
明和というと天明より前である。天明の飢饉より前に寺があったのか?
天明の頃に廃したとあるのは飢饉で寺が成り立たなくなったのか?
そういうことはありうる

天明になり戸数が半分以下になっている,それは相馬藩では共通している,だいたい半分に戸数は減ったのである。そうなると寺を維持できなくなり廃した
そして塩崎村の田中山慈伝院に合したとなる,その後は江垂の寺に合した
ということはこれは天明の飢饉が関係してこうなったのか?
ただここには寺があり僧侶の戒名が記されているが天明の飢饉の前に死んだのである。
ただその後にその寺はなくなり墓だけが残ったともなる

川子というとき何か村としては小さいし由緒がはっきりしない,大内村には館という地名があり中世からあった,真野の江垂は中館がありここはこの辺では南北朝の争いで霊山が炎上して逃れた武士が住み着いたことで知られている
塩崎村とか川子村はその中館から分村したものとなるだろう。

地形的にもおそらく前は丘陵になっている前は湿地帯であり津浪で塩水に浸り塩崎まで船着まで津浪が来たことには驚いたのである。この辺では低い場所だったのである。
塩崎と船着とかいうことが津浪で現実にそこまで海だったことが証明されたのである。
八龍神社は高い所にある,烏崎でも高いところにあり津浪でぎりぎりで社が残ったのである。あれも本当に不思議だった,八龍神社があれば相当に古いのだと思う
鎌倉時代に普及した水を司る神だからである。

川子には五賀とかの姓の人がいる,右田にもいた,それは古閑(こが)であり越中の人である,人か住んでないな荒地の意味である。
越中とかからは天明の飢饉で移住した人が相当数いる,墓地を見れば本当に多い,真宗だから南無阿弥陀佛となるからである。三分の一くらいがその墓になっているとき江戸時代からその子孫が相馬藩内に住んだのである。

そういう移民は相馬藩内でも悪い土地を与えられた,だから開墾するのに苦労したのである。ただどこにでも真宗系統の移民がいるから川子が多いというわけではない,散らばって相馬藩内に入った,ただそこは土地としてはいい場所ではなかったのである。

ただあそこに明和の碑が墓があったことは意外だった,まず天明より前だとこの辺では相当に古いとなるからだ,他の碑もみてみたが字がわからない,不明になった碑も墓も多いのである。
タグ:川子
posted by 老鶯 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

コンピュターが抽象画を作っても鑑賞できない (川の抽象画)


コンピュターが抽象画を作っても鑑賞できない

(川の抽象画)

Even if the computer creates an abstract picture it can not be appreciated

(Abstract picture of river)

shadowforest.jpg
shadow of forest
snowforestt1.jpg
snowy forest
winterriverrr11.jpg
snowy river
flowpppppend.jpg

flowwwwwwwwturnnn1.jpg

flowwwwxxxx1.jpg

flowing image

redandblue.jpg

hot and cool


川の流れというときすべての川は違っているかもしれない,川にも個性があるのだ
それは山でも同じだけど実際の山を見てもわからない場合がある
それで不思議なのは川でも山でも抽象画にしたときこんな山も川もありだなと思った
それが抽象画の不思議だった,それはコンピュターが生まれてできた芸術だったのであるコンピュターが見る眼を与えたのも不思議である。
機械が創造しているというのも不思議なのである。

でもコンピュターは川とか山とか認識しても芸術的に鑑賞はできない
川とか山を様々な観点から認識できないのである。
だからコンピュターが川とか山を作り出してもそれを認識できないのである。
認識できるのは人間だとなる
ただ川というのが現実の世界,自然にあってそれが基となって抽象画も見ているのであるだから抽象画でも具象画と通じているのである。
それで全く具象画と自然と通じないのはなんだろうとなり鑑賞できなくなることが抽象画にある,でもそれもやはり色の組み合わせであり一つの芸術なのである。


Every river may be different when it is a stream of rivers, the river also has personality
It is the same in the mountains, but there are cases in which you do not know even if you look at the actual mountain
That's why I thought that there were such mountains and rivers when I made abstract paintings in rivers and mountains
It was a wonder of abstract paintings, it is strange that the computer was born and the computer was given the eye to see.
It is strange that machines are creating.


But even if the computer recognizes rivers and mountains, it can not be appreciated artistically
We can not recognize river and mountain from various viewpoints.
So even if the computer creates a river or mountain it can not be recognized.
It is human beings that can recognize
Just a river is a real world, in nature and it is based on the abstract painting as well, so even abstract paintings are familiar with concrete paintings.
That is why it will be impossible to appreciate what is totally unrelated to a concrete picture and nature, but it is also a combination of colors and it is one art.

2017年11月11日

木枯らしに時雨(川子の御堂)


木枯らしに時雨(川子の御堂)

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ジャンパーにぽつぽつ音して時雨かな

柿なりて御堂一つや旧き家

冬の蝶隠れて見えず飛び去りぬ

明和の碑川子の御堂や銀杏散る


風樹々をゆすり吹き鳴り時雨ふる木の葉も舞いて飛び散りにけり

風鳴りて木の葉吹きちり時雨ふる山頭火の影遠く消えさる


最初ぽつぽつとジャンパーに時雨の音がした,それから木枯らしが吹いて木の葉が吹き上がり舞い散った,川子に御堂があった,何の御堂かわからない,でもその脇の碑には明和とあった,戒名だから死んだ僧侶なのだろう
あそこが意外と古かったのである。なぜなら天明より前だからである。

その前に家があり柿がなっていて落ち着いた風景になる
ただあの辺は家が少ない,だから一部落があったのかとなる

とにかく今年の天気は本当に変わりやすい,急激に冬が来たのである。
時雨というとぽつぽつと降るのが時雨と思っていたが一雨降った
でも明らかに時雨の雨だったのである。

時雨というとき山頭火が時雨を俳句にしていた

後ろ姿のしぐれてゆくか

音はしぐれか

大樟も私も犬もしぐれつゝ 山頭火

犬もしぐれつというとき山頭火らしいとなる,野良犬のように旅したからそうなった
ただ時雨というとき静寂の中にぽつりと音がして時雨をイメージする
ところが今日のように時雨のときは雲がかたまり流れて嵐のようになるときもある
木枯らしと時を同じくして時雨になる,だから今日の時雨は一所雨になったのである。
雨が風とともにふり樹々をゆすり風が唸り木の葉が舞い上がったのである。
だから急激に冬が来たのを肌で感じた,家では二階にいたら下から木の葉が吹き上げられた

今日一日の変化は激しかった,電車も一時遅れたらしい,それで二両の電車の写真を撮ろうとしたがとれなかった,代わりに時雨と木枯らしの写真をとったのである。
これは動画ではないから良くわからないが時雨の雨が筋になって写っている
ともかく冬が急激に襲うように来たのである。

山頭火の時雨の句の意味 (旅人になれない現代)

冬来る(今年は急激に季節が変化する)


冬来る(今年は急激に季節が変化する)


木の葉散る眠るは誰や墓地のぞく

故郷に見送る人や柿なりぬ

晩菊や孫連れ歩く小径かな

晩菊に午後の日ざしや裏の路次

舞い上がる下より木の葉風鳴りぬ

冬日さし全集のページめくるかな

我が椅子のここに動かじ冬の雲

昼時に二両の電車や冬の山


今年は季節の変化が激しい,ここ何日かは晩菊とかを見ていた
しかし今日は二階にいたら木枯らしであり風が朝から唸っていた
そして下から木の葉が風で吹き上げられた

自分はただそこで座る椅子があり休んでいる
外を見ると冬の雲であり何かこうして動かないことが安らぐようになった
だから老後は住む家と住む場所とか誰と住むとかが大事になる

全集のページを読み直しめくるとそこに冬の日がさしてくる,こういうことは電子本ではできない,そうして読んだものはなぜか記憶されやすいのである。
電子本とインターネットは検索するのには便利なのだがなかなか記憶しにくいのである。なんでもいい面と悪い面が人間には生まれる,だから自分は電子本にはなじめない,本のが読むのにいいのである。

ゆったりと定席の椅子にすわり本を読む,それが幸せな時である。
外を見ると冬の雲が動かない,何か動かないことが落ち着くとなる
結局年取ると何か動き回ることは苦手になる,じっとしていることがいいのである。
だから家でゆったりする場がないと落ち着かないとなる
家事を一人でしているからその家事が手間になるときがある
でも機械化しているからコツを覚えればなんとかできる

one cloud in winter
the still one
on my sitting chiar
in stability

とかなる

自分のプログの検索は

検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示

これだった,なかなかプログでもインターネットは操作がわかりにくいのだ
だから検索するのがむずかしい,ここで季語を入れれば関連したものが出てくる
そしてタイトルを押すと全文表示できるから便利である。
季語をキーワードとして入れると検索できるのである。
これは自分にとっても便利だった,何を書いていたのかもわからなくなったからである。

「二両の電車」と入れると一連のものとして読める





タグ:晩菊 冬来る

便利な自分のプログの検索方法 (キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)


便利な自分のプログの検索方法

(キーワードを押してタイトルを押すと全文表示)

キーワードを入れてタイトル(題名)を押すと全文が表示されます

これはわからなかったけど便利である

自分のプログは膨大なので自分さえ何を書いたかもわからなくなった
だからこの検索方法は便利である。

二両の電車と入れたら一つの連作として作品化できる
他にもそうして分けてまとめることができるのが便利である


検索窓でキーワード→タイトル(題名)を押す→全文表示
タグ:検索