2009年10月30日

十三夜の月 (後の月)

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月照らす石の寂けさ死者眠る


十三夜の月こそ静か死者眠る

山頂に滅びの跡や後の月

みちのくに晩年静か後の月

薄雲を通して光る後の月

みちのくの都に逃れ後の月


今日は十三夜だった、確かに満月じゃないけど月が明るく光っている。後の月というのもいい、中国では十五夜であったが一三夜は日本の貴族がはじめたとかなると・・・


中秋の名月は中国で行われていた行事ですが、こちら十三夜の月見は日本独特の風習だそうです。一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦 919年)に開かれた観月の宴が風習かしたものとも言われます。

中国の文化を深化させたものが十三夜の風習だった。月と死者もあっている。十三夜というのはある意味で不思議である。そろそろ冬に入るころだから冬を意識した月でもあるが冬の月でもない、皓々と冷たく光る月とも違う、今日は特にあたたかいからやはり秋の月でありそれも秋として最後になるのか、そうした月なのである。みちのくというと歴史的にも風土的にも幽玄の世界ににあっているのかもしれない、霊山も滅びの跡であり平泉もそうである。そこには京都から逃れた義経など権力闘争に敗れたものの逃れる場所だった。みちのくは政治的な場所でもない、大阪のように商人の栄えた場所でもない。みちのく自体が霊場なのである。恐山のいたこの世界である。日本でもそれぞれの地域で個性がある。沖縄があり九州があり四国があり北海道と・・・変化に富んでいるのだ。その中でみちのくのしめる場はまた独特なのである。太陽より月がにあうのがみちのくになるのかもしれない、十三夜の月は確かに趣深い・・・

プログ見たらやはりまんまるい月ではない、ちょっと欠けている月だった、かえって十五夜より何か幽玄な感じがした。それで切り取って合成したのが下の絵である。こういうとき同時間だからネットは役立つ・・

柿の木と無花果の木の実

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柿の木と無花果の木実のなりて昔よりある二つの木かな

この脇には細い道があり堀があった。それが宅地の整理で全部変わって何もなくなった。ただこの二つの木は子供のときからあったから60年以上とか古い、木はたいだい百年とか昔のままだから人間より長生きする。人間は消えても木は残ったとなる。今の時代目まぐるしく変わるから昔からあるものが尊重されない、人間も老人は尊重されない、でも老人は長い目でモノを見る目が養われる。この木が子供のときからあり今もありつづけている。それだけで感慨深いものがある。たいがい消えてしまうものが多いからだ。学校自体もみんな変わってしまった。小学校はあの場所にあったが校舎は変わった。学校も長くその場所に存続しない、長くあるものは古いものは何か意味を帯びてくる。

老人になると動き回るより一点に集中して見るのが注視するのがあっている。つくづく人間は対象物を良くみていないのだ。石の庭を見たら実際の色は緑でも暗緑色だったとか色合いがかなり違っていた。あそこは毎日通っていて石を見ているのだが光の関係とかで違って見えるのだ。石自体にもそれぞれ個性がある。その個性に気づくのはかなり年数がたち見ていないとわからないのだ。結局庭の良さがわからないのは庭は一回くら見てもわからないからだ。京都に行ってもあわただしく一回くらい見て帰るから庭の良さがわからずじまいになる。一つの絵でもじっくり何度も見ないとその良さがわからない、現代は見るべきものが多くなりすぎて深く見たり考えたりすることができなくなっている。やはり若いときは見えないものが老人になると見えることがある。それは同じ場所にいてもそうなのである。無花果がなり柿がなることはここで何度も見ていた。しかしそれに何か意味あるとは思えなかった。これも写生だが写生には深いものがある。平凡なものありのままが何か心にしみるものとなる。

鹿児島からの通信販売の勧誘



今の世の中って変だよな、鹿児島から「ニンニクダンゴ」の宣伝が電話できた。また宣伝かと思って電話を切ろうとしたが鹿児島ということでええ、こんなに遠いところからと思い、ずいぶん遠いところから大変ですね、鹿児島でニンニクとれるのですか?いいえ、青森から来るんですよ、ええ、青森から、九州から本州の果ての青森と結びつく、これはニンニクダンゴと聞こえたのだがニンニクの卵黄のことだった。ここからは前に扇風機型の暖房器具を買った。それは出始めでいいのが売っていなかった。ここで買ったものもいいものではないが他で売ってないので買ったのだ。それも実は韓国産のものだった。韓国で作ったものを九州で販売していたのである。今の世の中はこんなことめずらしくない、食い物だって世界中から集まってくるのだから普通のことである。でも鹿児島の人と通信販売でもこんなこと話するなんて奇妙である。ここで世間話でもしたら面白いとなる。まあ、買わないから今回は例外的なものだろう。世間話をするには買わなければだめだからな、人間ってモノを売り買いするだけの存在ではない、商売も人間と人間のつながりが大事になる。でも商売だと地元だとやりにくいというのがある。かえってわりきってやれない、すぐにまけろとかなりやりにくいのだ。今の時代、全国的グロ-バルに経済も展開しているのが普通だから何かいい方法がないのかと考える。光電話だと全国通話が一律だからそうした商売がしやすい、一方通信販売の問題は個人情報が知れ渡ることである。住所から電話番号を書かなきゃならないからだ。それでまた電話してきたのである。

確かに今の時代は距離が関係ない、でもこういうことってなんか変なんだよ、もう土地から遊離した人間の時代なんだ、でもそんな人間関係ってどういうことなのか、モノの売買でも通信販売は人間の関係がない、人間の経済ではない、現実はグロ-バルで世界的にそうなっている。モノが来るがそのモノについた人間のことはわからない、もはやモノと人間は結びつかない、貨幣そのものがグロ-バル化を促進する、金だけが絶対的価値基準になる。それが今回の世界的不況の原因でもあった。「ニンニクダンゴ」いやニンニク卵黄だけを売ろうとしている、それも九州の鹿児島からである。電話番号知っているからまた電話かけてきたりするから困るのだ。
インタ-ネットの文字だけのコミニケ-ションより電話のコミニケ-ションは声が聞こえるからいいかもしれない、相手はかなり年配な女性の声だとわかったしこっちでも年配だとわかる。声からわかることもある。
インタ-ネットの出会い系とかプログで自分のことを宣伝している女性が結婚詐欺で殺人を犯していたというのには驚いた。相手もプログを書いていてそれが証拠になっているのも現代的である。プログは今やそれだけ一般的になってしまった。その人のことがプログを通じて記録され残されている不思議である。どんなことしたって一般の人の日記など記録に残されることはなかった。一流の人の作家くらいしか本には残せない、一般人の言行など残し得ようがなかった。出版を通じてしかマスメデアを通じてしか自分のことを宣伝できない、表現できないとすると優れた人でも埋もれさせられたし何か大事なことでも伝わらないことはいくらでもあった。それがインタ-ネットでは自分がメデアになるのだからできるのだ。極めて結婚詐欺殺人事件も現代を象徴しているような奇々怪々な事件だった。自殺者が多いから警察も気づかなかったとかいうのもそうである。プログ、セレブ、自殺、練炭、ホ-ムヘルパ-・・・・とかがつながっている。ヘルパ-というのも家のことが筒抜けにわかってしまうから困ってしまことがある。それが外部にそのまま洩れてしまうのも困ってしまう。自分の家でもそうだがヘルパ-は増えている。この女性にだまされた人も現代を象徴していたのか、大金をもっていた孤独な老人、プラモデル制作のオタク、・・・・淋しい現代の男たちだったのか、事件は時代を写す鏡だというのはこれでわかる。
posted by 天華 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

秋霞(故郷の風景)

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みちのくのとある町なり秋霞

船見えず波打つひびき秋薊

野は枯れて里見守りぬ烏二羽

野は枯れてなお道の辺に月見草咲きしもあわれ月のいずるも

 

秋霞というとこれもぴんとこないしあまり使わない、でも確かに山脈が霞んでいる、はっきり見えない、やはり秋霞なのだろう。秋霞となるとみちのくにふさわしいのか?浜通りは海と山がある。ただ高い山がないので風景をひきしめるものがないのだ。海も瀬戸内海などとは違う、船が全く見えない時もある荒寥とした感じの海なのである。

 

月見草がまだ結構咲いている。月見草は長く咲いている花である。今年はまだ温暖なのか?おりしも夕方になり月が出ていた。待宵草とするのと月見草とするのとは感じが違っている。名前によって人間は左右される。名前からイメ-ジするのが人間なのである。

自分ながらなぜこんなに俳句でも短歌でも書いているのが不思議である。若いときは確かに俳句短歌でも書いていたがこんなふうに軽く毎日のようには作っていないしたいしていいものがなかった。まあ、晩年になりやはりいいものができてきているのだろう。晩年はやはり仕事の総まとめになる。どんな平凡な人でも今まで積み重ねてきた経験してきたものをまとめる時期である。ただこれも時間がかかる、家事だけでも追われると何か落ち着かなくなるし介護する人をかかえたらそういう余裕もなくなる。結局プログをつづけることができたのは確かに俳句短歌は第二芸術だとか短いからできたのである。俳句短歌はプログ向きだったのである。長い文章になるとこんなにはつづけられない、プログがあったからこれだけ作り続けることができたのである。

2009年10月28日

秋薊(故郷の風景)

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秋の薔薇十輪ほどや田舎駅


いつも行く砂利の畦道秋薊

我が庭の塀にとまりて蝶一つ静かなるかな秋の朝なり

俳句は何度も言うが写生である。秋の薔薇は十輪咲いている。ただそれだけでも写生である。だから「鶏頭の十四五輪のありぬべし」のように十四五輪に子規はこだわったのである。そして現代はデジカメは欠かせない、写真そのものが写生の道具になったのが現代なのである。
デジカメでは人間の目に見えないものが見えてくる。今回の故郷のいつも行く何でもない道をただ無闇に無計画にとってまた選んだ。こんなふうにとれているのかと感心する。改めて平凡な風景を見直すのである。だから別に写真の才能がなくてもいいのだ。デジカメならとにかくただ何枚かまずとってみることである。そのあとでいいものを選ぶのがデジカメなのである。
ここも舗装されたりしていたら情緒がなくなっている。今や畦道まで舗装されているから情緒がなくなる。この道は舗装されていないから水たまりができたりもする、自然なものには情緒が生まれる。


最近遠くに行かない、それでも近くの毎日接する風景でも絵になるものがある。人間は身近なものに特別なものを感じない、でも写真にとって良く見たら何か違ったものを感じたのは不思議である。この写真を見るとき、自分が毎日通っている道だということを見る人も知ってもらいたいとなる。こんな道を毎日通っているのだなとイメ-ジされれば何かまた生活の道として他者も意識される。おそらく他の人も写真俳句を出している人が多い、でもそれが何か今一つ身近に感じられないのは想像力が不足しているからだろう。それより本人が何かを発見していないのだ。自分でとった写真を見てはじめてこの道が自分が毎日行く道として実感して秋薊の情緒を発見したのである。

秋から冬(霊山近辺(大石について)-短歌十首)


秋から冬(霊山近辺-短歌十首)



筆甫へとこの道つづく知らざりき鳥けたたまし秋の朝かな

秋となる伊達と相馬の境かな興亡終えてひそかなるかも

霊山の秋こそあわれ南朝の夢は潰(つい)えぬ木の葉散るかな

霊山に寥々と鳴る風の音滅びの跡や冬に入るかも

古霊山奥に巌のものさびて落葉を踏みて陽の落ちにけり

大磐に清流響き大石や稲の刈られて虫の鳴くかな

大石に楮畑(こうぞ)の名の残る昔の暮らし思いやるかな

大石の細道上り下りして高きに棲むや吾妻峰望む

行合道あとにし坂越え佐須にきて大倉に下る秋の夕暮

霊山ゆこの道遠し真野へ行く落武者思ふ秋の夕暮

故郷の大地の上にともに住み冬に入るなり分かち合うべし



霊山へ向かう途中の玉野までの坂は結構きつい、その途中に落合があり川が落合ところでありそこで松房ダムへ向かう道がありそこから丸森の筆甫と出る道があった。ええ、こんなところから丸森へ行けるのかと思い地図を調べた。すると確かに筆甫へ出る道だった。山深いからこんなところから筆甫へは普通は行かないだろう。この筆甫から夫婦岩がありあれここから夫婦岩に上れるのかと思った。この道はまだ行っていないから次に行ってみよう。最近霊山の方は行っていなかった。前は霊山にも何回か上った。霊山の大石にも何回か行った。細道を上る高いところにある。あそこの場所もかなり高い場所になるのでどうしてあんな不便なところに人が住むようになったのか?人間は不便な山の中でも山の高いところでも住んでいる。むしろ不便な所に人はあえて土地を求めて住むようになる。チベットではなぜ家が高い所高い所に移っているのか、それはやはり不便な所に土地を求めて住んでいるからだ。外国に出稼ぎに出るわけにも行かない時代である。今はインドに出稼ぎに行っている人が多い。ともかく上に拡大するほかなかった。南相馬市鹿島区の栃窪の上萱もそうなのだ。あんな高い所に不便な所になぜ人は住んだのか、わずかの土地を求めて住んだのである。大倉でも奥の方に住んでいた人は戦後になって開拓に入った人だったのかもしれない、それだけ新しいのであり奥地に住んでいる人が昔から住んでいたとは限らないのだ。大石でもあのような高いところでわずかな田畑にしかならない、どうして生活していたのだろうかとなる。楮畑(こうぞ)とかあるから和紙の材料を提供していたのか、ここには江戸時代から生活があったのだろう。大石というときあそこには実際に大きな石が多い、霊山から流れが落ちひびく気持ちのいい場所である。 入高野とかの地名もふさわしい地名である。ここでも問題になるのは村の新旧なのである。ここがかなり古い村であった。霊山に由来するからその頃から人が住んでいたからである。根小屋遺跡などがあるのもそのためである。

昔と今考えるとその相違が大きすぎて単純なことすらわからなくなっている。世界中と貿易して世界中の物産が入ってくる時代と村の単位で自給自足していた時代は余りにも違いすぎるからだ。そういう不便な狭い地域でどうして暮らしていたのか、でもそれは車がない時代にしても50年前とかでありそんな古い時代ではないのだ。そういう交通の発達しない狭い地域で生きることが想像できなくなっている。霊山も養蚕が盛んだったのだから現金収入の道はあった。でもあんな高いところに車もない時代に行き来するのは大変である。となると自ずと村は協力しなければ生きていけない、秋から冬となり冬ごもりとなる。やはり貧しい村では協力が必然的に行われていた。そうしなければ生きていけいなのが昔だった。貧しいからこそ人は協力し合う、豊になると協力し合わない、豊になれば協力する必要がないのだ。貨幣経済がこのように発達すれば金があれば何でも買える、人さえ金で買える、金で介護でも何でもやってもらえるとなる。金がなければ互いに協力するほかないが豊かな時代は金がすべてとなりやすいのである。

人間はもともと大地の上で生きている。ところが東京を見ればわかるように大地から全く遊離したのが大都会である。そこに住んでいる人は大地とかどこから食料が供給されるのかとか意識する必要がないのだ。日本の国土すら意識しない、食料は安い中国産でいい、高い日本産はいらない、日本の地方は過疎地に都会の税金を投入するな過疎地はいらないとか日本の国土としての一体感すらないのだ。コンクリ-トの人工の島からしかイメ-ジできない、日本はもう破産するから外国に逃げるべきだとかもなる。日本国土があり日本人があるんだがそういう思考すらなくなる。金だけが頼りの金融資本主義のユダヤ人的思考になる。人間のまともな思考は大地と結びついた田舎からしか起こらない、奇怪に巨大化した大都会から起こり得ようがないのだ。





大石の写真
http://zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g1/3.html

2009年10月24日

虫の声(需要はどこにあるの?)


間借りして貯えもなき虫の声

虫の声いたわる人を望むかな


戦後経済は何もないところから始まった。あったのは人だけだった。人は労働力はいくらでもあった。それが団塊の世代だった。食料もモノも道路も橋も建物も何もない、何もないから満たすものがありそのために豊になるために働いた。しかし現代はモノ余りであり設備過剰であり土地も建物も余っている。技術開発のメリットもそれほど大きいものではない、馬車から鉄道になったり鉄道から車社会になることはメリットが大きいから社会自体を変えてしまった。ラジオからテレビの時代になったのもそうである。その変化は大きすぎたのである。映画からテレビの変化も大きかった。動画のニュ-スは映画館でしか見ていないからだ。テレビが茶の間に入ってきたことは大きな変化だった。地上波からデジタルテレビになるより大きな変化だった。今は技術開発でも大きな変化はないのだ。車でもハイブリット車や電気自動車になったとしても鉄道の移動から車の移動のような変化はないのだ。パソコンにしてもすでに技術的にさほど変化がないから前のように売れないのだ。技術的には大きな変化のない時代になった。だから需要が伸びないというとき社会が成熟社会になりこれ以上設備投資したり公共事業を拡大化したりできない、結局無駄であり自然破壊までして公共事業する意味はない、それはただ国民の負担になるだけである。

では需要がないのかというとそうでもない、住宅需要がいくらでもある。広い庭で広い家に住みたいという需要がある。家一軒建つことがいかに経済の波及効果があるか田舎では建築業者が多いからそうなる。今日は電機関係の人が工事した。家一軒建つことの経済効果は大きいのだ。だからもっと家を建てさせる、広い庭で庭作りを楽しむ、広い家で楽しむことはいくらでもできる。この辺でも住宅用地として用意しても空き地になっているのが多い、でも500万以下の土地や土地込みで一千万ちょっとの建売住宅が出てきたのも不況のためである。土地の値段はまだ下がる、それが不況の原因だという人もいるがむしろ土地は限りなく安くするべきである。農地解放のようにして家を建てさせることが景気回復につながる。それと今や金を持っているのが老人であり老人は先が短いから家は必要ない、多少リホ-ムするくらいしか使わない、少子化で家を建てる人がいないということも需要が増えない、ともかくこの世の中なにかしら需要があり需要自体はなくならないのだ。なぜこれほど高齢化で介護が問題になるのか、ここが実は一番大きな需要となっている。これも豊かな社会だからである。モノは余っている、土地も余っている、道路も余っている・・・もちろん老人も余っているのだが老人が介護として需要がありそこに金を使うのも豊かな社会だからである。貧しかったらそんなことができるはずがないのだ。


結局自分の家の需要も家のリホ-ムより老人の介護をしてくれる人が欲しい、介護の需要だった。リホ-ムの建築業者もおばあちゃんに優しい言葉をかけたりしていたがそれはあくまでもリホ-ムをして金をもらいたいということであり老人そのものの介護をするということではない、建築業者はあまり介護には向いていないその介護自体に価値を見いだすことはむずかしい。介護そのものに価値あるとは思えない、でも金になれば人はそこに価値を見いだす、明らかに今自分の家の需要は介護してくれる、人手であり様々なモノや建物や道具ではない、人でありむしろお手伝いさんでもヘルパ-などでもそうした人の価値があがってきているから介護職などの低賃金なのはわからない、これからあがってくるのではないか、そういう過渡期にあるのではないか、それともやはり介護などは価値がない社会的に無駄なものとして排除されるのか、価値観は常に変動しているのが世の中である。

老人でも格差社会であり貯えがない人が統計でも多い、やはり高齢化社会に準備できる人は少なかった。あまりにも急速な高齢化だったからである。昔だったら虫の声のようにかぼそく生きていてもかまわない、要するに早く信だから長く生きないから虫の声でも良かった。その先の老後を心配する前に虫のようにはかなく死んでいたからである。たいして介護も受けず死んでいたからである。




介護ってお年寄りのお世話をする仕事で本格的な対人間の仕事だから
向き不向きも大きいだろうと容易に想像できる
製造業の派遣などで淡々と作業するのが向いている人にとっては正反対の職業だろうね
介護される方も不安だろうな
難しいねぇ、

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そうだよね
介護ってビスをとめたり部品をくっつけたりする単純作業じゃない
人間に対する深い理解とコミュニケーションスキルが必要とされる難度の高い仕事
それなのに経済的評価は低い
介護職を増やすのは簡単には出来ないと思うよ




人間はつくづく向き不向きあるんだよな、屋根を直したリホ-ム頼んだ人は庭作りから大工も一通りこなすし家に関することはなんでもできる、体もまるで建築業のために生まれてきたような人である。体の作りから違っている。人間はこうして資質からまるで違っていることがわかる
でも家に老人がいてもその人が老人に接する態度は良くないしこの人は全く介護にはあっていない、介護職にあっている人はこの人とは逆に人を気づかう優しいタイプの人だろう。ここではまるで逆の資質が要求されている、でもこれだけあらゆるものが余っていると建物でも余っているのだから何が必要となるとそうした人間に直接に接して癒しとなるような人が価値を帯びてくるということもある。高齢化社会だとその是非はともかくそうした資質は今まで余り価値を帯びていない、やはり競争心の旺盛なガツガツした人がもてはやれたからだ。高齢化社会はやはりこれまでの価値観を変えることがある。そういうことを人類の歴史では経験していないから過渡期だからいろいろ言われているのだろう。



2009年10月23日

晩菊(田舎の労働の価値)


船一艘真近に見えて秋薊

晩菊に日あたり今日は波静か

秋の朝野菊に日あたり沖に船一艘見えて波静なり

漁船が海岸からすぐ近くに一艘見えた。小さな菊の花に朝の日があたっている。最近は秋晴れの日がつづき波も静である。田舎に住んでいると都会と違うのは何か、いろいろな物を日々買って暮らしている。そのモノが金が簡単に手に入る、そのモノを作り出した、モノがどうして与えられるのか見えなくなっているのが現代なのである。流通経路も複雑であり生産している現場もわからない、松川浦から魚売りに来る人は朝6時ころに起きて市場で買い出しするのが大変だという。ところが買う人は買うときしかその売る人に接していないのだ。そうするとその売る人が何で苦労しているかわからない、売りに来るときだけ金を払いば簡単に買えるとなる。
さらに魚は売る人だけではない、とる人もいる。それは今日見ていた漁船がとっている。近海の魚は高いが漁船に乗って魚をとる人がいて魚は買い食べることができるのだ。するとその魚がどうしてとれるのか、食べられるのかを実感として知るには漁船に乗り漁師がどうして魚をとるのか知る必要があるのだ。そこまで知ることはできない、その魚をとる人の苦労があって魚は食べることができるのだ。感謝するとなると魚を売る人があり魚をとる人に感謝することになる。農産物でもこれは同じである。農家がどれだけ苦労して食料を作り出しているかその生産している現場で見たり手伝ったりしないとわかりにくいのだ。でも金があるから買う、買ってやるとか金さえあれば何でも買えるとなっているのが現実である。バナナなどになると地球の裏側からでも来るからさらにわかりにくい、バナナの暑さのなかでとるのが大変な労働だったという日本の若者が言っていた。バナナなんかいつもあるし安いものじゃないか、バナナなんか簡単にいつも手に入るじゃないかとなる。近海でとれる魚はそれなりの価格だからとれればもうかる。

 

でも人間はつくづく労働というのが実感としてわからない世界に住んでいるのだ。屋根を直してもらった職人が梯子をかけて上ったときは見ただけでくらくらした。そこをすいすいと上ってゆく、命懸けだというのが口癖である。確かにそうだから鳶職は賃金が高いとなることが実感としてわかる。一歩誤ったら落ちて死ぬからだ。モノの価値が労働がどういうものなのか知りたかったら労働している人についてあるくとわかる。魚を売る人だったら魚を市場で買うときからついてゆけばわかるのだ。職人の仕事を知りたかったらその職人に一日ついて補助役をやればわかる。ただ魚を売る人についていっても魚をとる現場まで漁船にのりついてゆくことになるからその過程を全部をたどることは大変なことになる。でもそこまでしないとそのモノの価値を実感することはできない、田舎で働いている人は比較的こうしてその労働が見えることがありうる、第一次産業の農業とか林業や漁業も見えやすい、建築土木も見えやすい、工業は見えにくい、ただ部品だけを製造しているところが多いからだ。
ともかく田舎の労働とは何なのか家のリホ-ムやらで具体的に考える、田舎で生きることは都会と生きるとは違う、労働でも田舎の労働と都会の労働は違っているのだ。田舎は社会が見えやすい、それで生きにくいという人もでてくる。労働しない自分が言う資格があるのかとなるがやはり労働の意味を考える人も必要なのである。

晩菊の時期だけど俳句だったら晩菊となるが短歌に季語を入れるのは良くない、晩菊でも作れたが短歌では季語をそのつま入れるのは良くないので晩菊を入れた短歌は作らなかった。

 

2009年10月21日

秋日和(かっこいい、粋な鳶職)


職人の屋根瓦直す秋日和


久しぶり棟上げの音秋日和

仕事あれ男の活きぬ秋日和


梯子を屋根にかけて上ったのを見上げたら目眩がした。急なので上ること自体怖い、もし怖いという感覚になったらビビるから余計危ないことになる。まるで軽業師だ。鳶職は火消しから生まれたのだから危険な職業だった。でもテレビでも火消しが纏をもって燃える火の中でふっている。危険をかえりみない男らしい男の職業だった。鳶職はつづかないので35歳くらいでやめてしまうとか過酷である。相当体力的にも頭脳的にも優れていないとやれない。一人親方になっている人は何でもできないとやれない、だから職人でも優れているから一人でやっていられる。その他の人は一部分をやるだけでありやだから雇われてやっている。一人親方は一人で何でもこなすとするとその人自体人並み優れていないとできない、そういう人を自分の家でまざまざと見ていると仕事の理解が深まる。今は人の仕事が何なのかわかりにくいのだ。会社とか工場とかで仕事していても見えない、仕事が見えない時代である。仕事が見えている時代は江戸時代なら親の跡を継ぐのが多かった。やはり家業を見ているからそうなる。今でも比較的、家業を継いでいるのは医者とか大工とか菓子屋とか陶芸などの部門である。これは親が仕事していることを日常的にみているからそうなる。ともかく今は人の仕事を理解することがそもそもむずかしいのだ。こういう仕事はいい親方に師匠につくことが大事だというのがわかる。つまり見よう見まねで一流の仕事を覚えるからである。ただ今は徒弟制とかなくなり若者は安易な仕事に流れるからいい職人が育たないということもあるのだろう。


屋根の上で仕事していて秋晴れの日であり秋日和だった。つくづく男は仕事であり仕事しているとき男らしい。屋根の上で纏をふっている男が女性に人気があったことが実感としてわかる。
芸能人などよりずっと格好良かったのである。鳶職には今でも簡単になれない、それは生来の資質を持っていないとなれない、まず体力が充実していないとなれない、それに頭脳明晰でないとなれない、仕事の過程でかなり頭使うのである。鳶職とかは一部分の能力ではない、体力をふくめた総合的な能力と資質と体力が必要なのである。そういう人を見ていると惚れ惚れするというのも確かである。自分にはまるでないものだから余計にそう見えたのである。一人親方だといろいろできるから凄いと思う。粋な男だというというときこうした鳶職とか職人のことをさして言っていたのである。今職業というと月給の高低ですべて価値が計られる。仕事の質で計られることは少ないのである。でも職人の世界でも優秀な人はどこの世界でも少ないだろう。
やはり職人として優れている人優れていない人はいる。これはどこの分野でもそうなのだ。優れた人は少ない、どの分野でも同じである。こうした優秀な人でも仕事が与えられないことには能力が発揮されない、それは芸術家でも同じだった。そういう場が与えられなければいくら天才でも能力は発揮できないのだ。フィレンツのルネサンスは天才にそういう能力を発揮する場を与えたから成し得たことだったのである。



鳶職のこと
http://www.jmca.jp/column/dan/dan3.html 

鳶職は危険だから気があわないとだめだというのもわかる。だから気を合わすためには日頃から同じ会社で長く勤めていないとできない、喧嘩するようだったら事故につながる、でも鳶職とか建築関係は気の荒い人たちが多いからなかなか気を合わすことが大変だともなる。一人親方は自由でも大きな仕事はできない、一人でやれることはどうしても限られてくる。ともかく優秀でも仕事がないことには活きてこないのが問題なのである。

2009年10月20日

秋の暮(敵味方塚の意味)


嫌いしも同じ病室秋の暮


恩讐の敵味方塚秋の暮

60代看病多し秋の暮


近くの二人の老人は近くに住んでも嫌っていたので交際はなかった。でも今は同じ病室に向き合っている。年も同じでありちょうど85、6才である。この頃肉体の限界となり脳卒中になる人が多い。近くでまた一人なった。女性である。一人はまだなんとか自分で食べているからすぐに死ぬことはないのだろう。もう一人は胃ろうだから表情が苦しそうである。胃ろうは食事の喜びもなにもないから生きている心地もしないかもしれない、ただ肉体的に延命されているということがあるから悲惨である。ちょうど病院にいる二人は同級生の親である。60代は介護する年代になっている。親が死ぬ時期であり葬式を担う年でもある。団塊とは団介であり介護する人が多くなるのだ。それにしてももう一年近くも療養型の病院にいる。そんなに長くいられるのか?その費用も大変だし看護師だけに負担がかかっている。看護師が過労状態になって追い詰められているというのもわかる。こうした負担は誰かにかかってくる。これがどれほどつづくのか、高齢化の問題は深刻である。

人間は嫌いでも一緒にいなければならない、共に生活しなければならないことが普通にある。嫁と姑などもそうである。この世とはみんな仲良く好きな人だけと暮らすというわけにはいかない、その極端なものが殺し合いも戦争もくりかえされてきた。そして日本では敵も味方も一緒に葬っている敵味方塚がどこにでもある。これは日本的なものであり敗者にも同情するのだからいい風習なのである。外国になると敵はみな殺しとかなるから文化が違っている。だから靖国神社がもともと天皇側についたものだけを祀り西郷隆盛などを排除したのは日本的文化からすると邪道だとなり納得しがたいものがある。東北でもこの辺でもどこでも戊辰戦争の兵士の墓があり祀っている。それで九州から来た人などがそれを見て感心して帰ってゆく、人間死んでみると争ったこともなつかしいとさえなるかもしれない、兄弟喧嘩も年をとればなつかいしものとなったりする。こういう経験は自分にはないが人間は憎むといことは愛すことと同時に起こる場合がある。関心がないものは憎むことすらない、憎むのはその人とやはり縁が生じるからでありそうでなければ全く関心がない、愛と憎しみは一体の感情として現れることがあるのだ。それが敵味方塚ということにも現される。

人間の争いも終わり遂には墓に収まり敵味方塚として葬られる。それが人間がくりかえしてきたことである。別に戦争でなくても家族のなかでもそういうことがある。しかし死んでしまいば争ったことすらなつかしくなるということもあるかもしれない、死んでしまいばもはやその人とは二度と会えない、争うということ憎むということすらこの世にあって縁があったから起こったことである。何も縁がなかったらそういうことは起こらないし全く知らず無関心で終わっているからだ。ここに人間の縁の不思議があるのだ。

2009年10月19日

故郷秋思十首(平城宮から陸奥の真野)


故郷秋思十首(平城宮から陸奥の真野)

一本の寄るべき松や秋没陽

我が町に思える人は誰なれや手伝いの女秋の夕暮

その女の名取の暮らし長きかななまりあらわに相馬に帰るも

我が町に住みたる人の吉林に帰りてあわれ秋深むかも

亡き女(ヒト)の面影浮かび悲しさや我が家淋しき秋の夕暮

故郷に死にゆく人やそのあとに想い深まる秋の夕暮

故郷の一つの墓所に眠る人結ばる縁(えにし)秋深むかも

歳月の過ぎるは早し青春も一時なれや今日も白髪落つ

人はみな老いゆくものやあわれかな夫や子と別れ秋深むかも

みちのくの真野を思える女もあり平城宮に秋深むかも

はるけくも長安に行きて帰らざる人もありしも秋深むかも


渤海の使い泊まらす長屋王みちのくよりや秋深むかも



なまりは国の手形というとき本当に一旦なまりがつくと消えない、相馬弁と仙台弁のなまりがこんなに違うのかとなまりがいかに国の手形になっているか今でも変わりなかった。仙台に行って仙台弁を聞くことはない、店でも標準語だからである。でも一旦日常の生活では仙台弁が使われているのだ。

ロ-カル線菜の花映えて九州やなまりの強く話す声ひびく

自分はよほどその時暇だった、のんびりと延々と旅していたのだ。九州の果てまで普通車にのり気ままなのんびりとした自由な旅をしていた。それも今はなつかしい、今そういうことができなくなったことが不思議である。旅などいつでも自由にできるものだと思っていたからだ。旅すらいつかは終わる。そしてただ思い出だけが残るだけである。私の家では金持ちではないからお手伝いさんなど使ったことがない、お手伝いさんというとき、一日家で仕事する人である。住み込みの人がいて女中と言っていた。戦前は家事が電化されないときは家事の仕事があったから女中の仕事が多かった。住み込みだと食事は与えられるしお金がもらえる良かったという。


女中はその時いい仕事だったのだ。自分にとってお手伝いさんというのは何なのだろうということ初体験だから考える。お手伝いさんは家の中に入るから家族の一員のようになる。昔の商家でも家内工業でも家族経営だから家族の一員のようになっていた。少人数で規模が小さいから人情的にもなる。大企業や会社になるともうそうした家族的経営はできない、だから今や不況になり簡単に首切りになる。家族経営だと家族の一員のようになるから余り非情なことはできないだろう。終身雇用も実はその日本的家族経営の延長にあった。ともかく故郷で思っている人がお手伝いさんになっていたのも意外だった。


話は変わるが平城宮からは膨大な木簡が発見されている。長屋王邸からも三万とか発見されているからその全容が何なのか知ることはできない、その中で野菜を運んできた一庶民の名が記されていたりする。米を搗いた人夫の名も記されているのが面白い。なぜ名前まで記したのか、庶民の名は普通は記されないからだ。それもまた歴史だったのである。

@ 表 「長屋皇宮俵一石舂人夫」
A 裏 「羽咋真嶋」
B別に、養老元年(717年)の年紀を示すものが出土。

@は米俵に付いていた木簡です。長屋王の宮(家)の米一石を人夫が搗いたという名札で、裏に搗いた人の名前・羽咋真嶋が書いてあります

野菜持ち来し女の名と
米撞く男の名も木簡に記されぬ
長屋王邸の暮らしや
そも歴史なりしも
平城宮の秋の夕暮


長屋王邸では渤海からの死者も来た木簡が記されている。その死者は一旦みちのくに漂着して言葉が通じないからと殺されたのだが生き残った人が長屋王邸まで来たというから長屋王は単なる一貴族の邸宅ではない、宮廷のような役割を果たしていた。皇という字を使っているのもそのためである。平城宮(ならのみやこ)が国際的というとき唐まで長安まで阿部仲麻呂が行って帰らぬ人となった。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

三笠の山の月を偲んだのは有名である。

仲麻呂の想いは遠く奈良にあり三笠の山の月に偲びぬ

唐の国で帰れなくなった想いは奈良にそして逆に奈良から帰らぬ人となった阿部仲麻呂を思うのである。想いとはやはり距離と関係なく通じてゆくものなのだ。空間に隔てられても想いは通じる。想いは外国までも通じてゆく。そこに人間の想いの不思議がある。想いの力の不思議がある。悪くなると想いによって人を呪い殺すとまでなる。その想いは後世まで残ってゆく不思議がある。陸奥の真野を思って歌った笠女郎の歌もそうだったのだ。平城宮を中心にしてその想いは陸奥の辺境の真野から渤海、中国の果ての長安(西安)まで及んでいたのだ。例えば今でも中国の吉林省から南相馬市鹿島区に三年も働いた人と明日帰るというとき話したことがあった。この人は日本語がうまいから話すことができた。吉林省は元の満州であり渤海の辺りだともなる。飛行機で仙台から三時間もかからないとか近いのである。中国とか韓国は本当に近いのだ。やはり近いところと仲良くするのが自然である。アメリカは地理的には遠いのである。戦争という不幸があったがやはりこれからはアジア志向になるのはやむをえない、日本の幸運と不幸は欧米に影響されすぎたことである。脱亜入欧を国是としたのはやむをえないが戦争の原因を作ったのも欧米であった。アジアへの植民地主義への抵抗としての戦争が起こったという一面は確かにあったのだ。だから再びアジアに帰る、アジア重視になるのは時代だったのだ。アメリカ一辺倒の時代は終わりつつある。日本の戦争の原因は極端な欧米一辺倒から起こったことでもあった。その反省からアジアを重視するのは必然的な歴史の流れである。とにかく韓国、中国は本当に近いのである。スリランカなどとなると遠すぎるから親近感が生まれない、いろいろ問題があってもやはり韓国と中国は近いことが一体化しやすいのである。

現代は地方分権というとき心情的にもそうなっている。明治維新以来余りに中央集権国家になりすぎていた。地方の衰退もあるが一方で地方への回帰がある。高齢化社会は地方への故郷回帰が起こってくる。東京のようなメガポリスではアイディティティが一体感がもてないのだ。だから60以上になると故郷志向、自然志向、自らのアイディティティを求めることが強くなる。それは東京のような大都会にはないのだ。あくまでもそこは経済的に機能する場所であり全体として人間のアイディティティを求めてもないのだ。自然と歴史からアイディティティが作られるからだ。そういう点相馬藩というのはアイディティティを作るのに適当な規模なことを再認識した。仙台藩なとになると大きすぎるのだ。相馬藩は自然の境界と歴史的に作られた境界が一致しているのだ。だからアイディティティが形成しやすいのである。人間はあまりに広大になるとアイディティティをつくりにくい、グロ-バル化では文化的にはありえない、日本全国にしても多様でありアイディティティが作れないときしょせん無理であった。人間遂には土となり一体化する場所はやはり故郷であり狭い場所となる。ちょうど相馬藩くらいの規模になるのだ。その中なら一体感をもてるのである。

漢詩-秋思
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/kansi/sisyu/syusi.htm#


渤海と日本の交流
http://www.nihonkaigaku.org/04f/i041001/t8.html



2009年10月16日

古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古墳時代-(桜井古墳、真野古墳郡)
古代-(陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎)
平安時代-源義家
鎌倉時代-岩松氏
南北朝-霊山炎上-落武者-鹿島区真野へ




みちのくと都、奈良時代は平城宮だったけど次に京都に移ったがすでにその頃から密接な関係があった。それは古墳時代からはじまっていた。桜井古墳は東北地方では三番目に大きいしまた陸奥の真野の草原と明確に地名を奈良の都から言うとき密接な関係が結ばれていた。陸奥は単なる草原なびく荒野の意味ではない、すでに交易のあった、鉄などの資源を求めて都の人々が来ていた土地であり都の人に知られていたのだ。真野の入江があり船着や市庭という地名が塩崎にあり交易の地として都の人に意識化されていたのである。真野の草原とは今までは草原(かやはら)はいかにも荒蕪の地として草原(かやはら)がなびくだけの人跡未踏の地のように思われていた。その逆が草原の意味だった。草原とは地名であり入江がある湊のことだった。そこには何もない草原(かやはら)だけがなびく地ではなかった。都との交易の地でありだからこそ寺内の古墳から金銅双魚佩(ぎょはい)、がこの地の王なるものに授けられたのである。


西行が歌った束稲山もそうである。こんなみちのくの奥地にこんな見事な桜が咲いているのかと歌ったときそれは桜だけではない荘厳な七堂伽藍があり金色堂もあった平泉に驚いたのである。桜だけだったらどこにでも咲いているからだ。このみちのくの真野の草原もそうだったのである。陸奥の真野は一方的であったにしろすでに奈良の都と密接な関係があったからこそこの歌ができたのである。面影にして見ゆというものを・・・というときそこに赴任した大伴家持のことなのか、そんなに遠くに行ってもあなたの面影は忘れませんよという意味なのか、どうしても一度も行ったこともない地を面影に浮かぶとは思えないからだ。一度実際にその地を踏んだらあとで回想することがある。一度行った地は旅した地は面影に浮かびそれで短歌や詩を書いたりしている。しかし一度もその地を踏んでいなかったら面影に浮かぶことがあるだろうか。これは実際はわたしの最愛の人ならどんな遠くに行ってもみちのくの果てなる真野の草原に行ってもその面影が浮かびますよという意味かもしれない、大伴家持がみちのくに来たとは証明されていないからだ。秋田まで大伴家持が行ったということを学者が書いて本も出している。秋田まで行ったらなら真野にも来たとなるが明確には証明できていない。

平安時代は源義家の時代になるがこれも東北のいたるところに伝説が残っているからよほど陸奥の人々にとって印象深い忘れられない人、影響した人だったのである。次に鎌倉時代になると岩松氏が相馬地域の最初の支配者であったのでこれも鎌倉と密接な関係があったのだ。船で来たというとき磐城からにしろやはりその時は確かに船で烏浜に上陸したのだろう。
岩松氏は南相馬市の鹿島区では最初の歴史として具体的な名前記した人なのである。
その次に南北朝時代がありこの時も都と密接な関係がありその全国的動乱の中で霊山が炎上して鹿島区の真野に落ち延びた人が子孫になっている。それは祭りとしても残されている。霊山が陸奥の支配の宮跡となりその時後醍醐天皇の宮跡が吉野山だから吉野山と霊山は深く関係していたのである。吉野山と霊山の物語は南朝の滅びの物語として共通していた。

北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。

明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。


 歌書よりも軍書に悲し吉野山(東花坊)-南朝や吉野に霊山秋の暮-吉野と霊山は歴史を深く共有していた。だから吉野に行ったとき霊山を思い霊山に来たとき吉野を思うのである。

みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり

これは奈良の平城宮跡に佇んだときもそうである。陸奥の真野の草原を思うことになる。陸奥が国の歴史として共有しはじめたのは古墳時代からであり次に古代からは地名も明確化されるほど密接な関係が結ばれていたのだ。 陸奥を一地域として辺境の地としてではなく日本の歴史に組み込まれて史実として構成することが一地域の偏狭な孤立した歴史としてではない意味をもってくるのである。それはただ中央の歴史に従属するだけだともなるがでもみちのくだけで一つの歴史観を形成することは無理である。アラハバキ族がいたと言ってもそれは歴史の地層に埋もれてしまって知ることもできないからだ。ただみちのくは縄文時代は東北の方が大きな世界を形成して西より進んでいたというのは本当だろう。東北はその後停滞してしまった。百済とか外国の先進文化をとり入れることができなかったためだろう。

みちのくははるかなれども知られけり真野の草原秋深むかも


この歌は何でもないようだけど草原を萱原のにするのと草原を地名とするのではかなり違うのだ。陸奥の真野の草原はいち早く歌枕化したが全部草原は萱原(かやはら)としている。ということは草原を地名とすればこれらの歌を全部否定することになるからだ。だから結構これは歴史的に大きな問題なのである。草原を萱原とすればこの歌はできない、これまでの真野の草原は萱原(かやはら)として本歌とりをしているからだ。万葉集にはこうして史実的に証明できないものがかなりある。だから間違って解釈しているからその後の展開も変なものになっているのだ。現実に真野の草原はここでも萱原(かやはら)だとして写真にその萱原を出して宣伝がつづいていたのである。地名だとするとそうした詩的イメ-ジの草原-萱原ではなく・・・現実に存在した真野の湊であり実用的なものとしてクロ-ズアップされる。現実に存在した場所-湊のことだとなるからその意味はかなり違ったものとなるのだ。そもそも地名は味気ないものであり詩的なイメ-ジでとらえるべきではない、ただそうした場所があったということが大事なのである。草原が萱原だったら場所ではない、ただ萱がなびいている美しい場所ですよとなり湊として交易があったという現実感、実用としての場の存在は喪失するのである。

 

秋晴れ(山上-霊山-佐須-大倉へ秋の短歌十首)

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秋薊枯れつ百輪残るかな


秋の朝日当たり良きや山の墓

南朝や吉野に霊山秋の暮


この道や薊の枯れつ百輪のなお残るかな山上の道

山上に朝水澄みし流れかな我が上りゆく玉野まで

山上に古き碑三つ何語る朝虫鳴きて我がよりにけり

久方に山上越えて玉野かな吾妻嶺望む秋晴れの日

秋晴れに吾妻嶺望み霊山の反りし巌や紅葉しにけり

霊山を我がたずぬれば木の葉はや散りそめにけり滅びの跡かな

霊山の落葉の深き我が踏みて栄の跡も埋もれけるかな

霊山ゆ行合道を我が越えて佐須を去りにき秋の夕暮

霊山を落ち延びあわれ山の道我も下りし秋の夕暮

家まれに秋の薔薇咲く山路かな昔の道を我は偲びぬ

墓一つ移されにけり大倉の墓地のあわれや秋の夕暮


 歌書よりも軍書に悲し吉野山(東花坊)・・・・とあるとき吉野と霊山が関係していたのである。

みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり

畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。

明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。

南北朝の騒乱はわかりにくい、でも霊山が南朝の砦であり吉野山と同じだった。この物語も長くなるが南相馬市鹿島区の真野に落ち延びた一族がいたことは有名である。それは祭りとして残されている。その一行が逃れた道が玉野から卒塔婆峠を越えて大倉に出て真野川そいを今の日吉神社に落ち着いた。玉野から山上には道はなかった。険峻な所だから道がなかった。卒塔婆峠の方を回り鹿島区真野に逃れた。 こういう道も実際に歩いてみないと実感がでてこないのだ。それも車だとわかりにくくなる。あまりにも簡単に容易に行けるから昔は難行した道も実感できなくなるのだ。ともかく相馬から山上から玉野は結構坂で苦しかった。ただ飯館よりはましだったことと意外と霊山は近い。ここも十年以上行ってないので忘れていた。ロ-ドだから楽だったともなる。ロ-ドは意外と老人向きだった。というのも変だが軽く走れるからいいのである。老人になると楽な方が何でもいいのだ。軽く早く走れることがいいのだ。この話も長くなるから今日はさわりだけで終わりにする。

後醍醐天皇の歌に
 まだ慣れぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも ぬるる袖かな(新葉1119)
昨日「横川を入りてあわれや街遠く板屋とありぬ秋の夕暮」この板屋とは板をとっていたのではなく板の家のことだったのか?板屋がめずらしかったのか、そもそもその頃たいがい板屋でありその後トタン屋根になった。板取という地名もあるから板の屋根の家が板屋だった。後醍醐天皇だったら板屋には住んでいないからこういう歌が残った。


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秋薊枯れつ百輪残るかな
この道や薊の枯れつ百輪のなお残るかな山上の道
これは俳句を短歌にしたものだが俳句は写生であり短歌も延長として写生なのだがどうしても感情的なものが短歌には入ってくるから違っている。写生は実際は奥深いものがある。余計なことを語らずそれだけで様々なことを語るからだ。俳句と短歌はにている。だから俳句を短歌にできる場合があるし短歌を俳句にできる場合があるのだ。もともと同じ根から生まれた日本の伝統文芸だからである。


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大倉に下がってくる所に確かに家二軒があった。それが一軒になったみたいだ。それで前にあそこの墓地に二つ墓があった。そのあと一つの墓はなくなった。どこかに移されたのだ。墓もそこに人が住まなくなると移転する。上萱の墓も住む人がなくなり移された。山は人口が減ってゆく、でも不思議なのは今は山では車があれば街まで買物ができるから不便ではない、勤めに出ることもできる。しかしよくよく考えてみると昔は車がない、歩きから荷馬車くらいしか交通手段がない、それなのに山には人が多く住んでいたし大倉の上に入ったのは比較的新しい、あそこも不便だから開拓に入った人がいた。つまり不便なところに土地を求めて開拓に入ったのである。それが山で暮らしが成り立たないと街に下りて来る人が多い、でも山では不便でも山に開拓に入って人が増えていたのが昔だったから何か矛盾している。


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真野ダムへ(大倉)



2009年10月15日

秋の夕暮(相馬市山上村へ)


93の老母なお待つ虫の声


勤めたる女社長や癌になり看病に行く秋の夕暮

霊山へ玉野を通りつづく道相馬の境秋の陽没りぬ

山上の山陰の墓古りて高玉氏やその裔つづき秋の夕暮

佐須へ行く行合道の遠きかな伊達領に入り秋の夕暮

横川を入りてあわれや街遠く板屋とありぬ秋の夕暮


お手伝いさんは勤めていたのは土木関係でありその女性が重機も運転していたというからそこに勤めていた。そこに何度も泊まりがけで看病に行く、そんなに世話になったのだろうか?
友達でもそんなに看病してくれるのだろうか?暇だから行くということもある。雇う人と雇われる人があっても雇った人なのかそんなにまでして看病するものだろうか?それほど何か思い入れがあるのか?今一つ事情がわからない、でもそれだけ看病してくれるとなるとありがたいことだとなる。人間は雇われたものでも世話したものでも立場が逆転することは普通にある。世話したものでも世話されるようになるのだ。やがて誰でも人生の黄昏が秋がやってくる。かつて世話になった上にあった人も秋になるとこうして病気になったり零落している人もでてくるだろう。それが人生の秋なのだ。


相馬の道の駅から山上の方に上って行った。あの辺は行ったことがない、今田とあり今田村があったのだから古い地域である。坂を上ると山陰に墓があり天保の墓などあった。高玉氏の墓もあった。高玉氏は相馬では目立つ、その一族は玉野から飯館の山中郷にも広がった。記録にも残っているからだ。玉野は相馬と伊達の境だった。この辺の道はずっと来ていなかった。
宇多川をさかのぼると横川がありそこをさかのぼると板屋という地名がある。木を切り出し板をとっていた地域だろう。昔だったらここだって近いようで相馬の城のあるところからは遠いのである。


明日あたり晴れるからもう一回行ってみるか、結構疲れるようになったので苦しい、ロ-ドだと楽だがこれは暗いと危険である。つまづいたりしたら大怪我になる。


2009年10月14日

投資信託で大損した責任は誰に?



投資信託で大損した責任は誰に?
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#invest(時事問題の深層40)




投資信託で70万円損した。最初1500円時買って十万配当あったとかでそのままにしていた。そのあと投資信託について考える暇もなかった。家族の介護から死からその後も忙しくてみている暇もなかった。そのうちどんどん株価が下がりあっというまに70万も損していたのである。
これでわかったことは郵便局も、銀行も証券会社と結託してしかけた詐欺的商法だったことがわかった。投資信託は安全だとか専門家にまかせるから安全だとか錯覚していた人もかなりいた。自分もそうだった、いちいち買ったり売ったりしょっちゅうしているものではないと思っていた。だから「長くおいておくのがいいですよ・・」と銀行員のすすめだった。ところがこういう銀行員もそんなこと知ったことではない、手数料が入るから長くおいた方がいいと言っているだけだったのである。この手数料収入は銀行が貸してもうけるところがないとき大きな収入とはなるから証券会社と結託して素人をだましたのである。でも別に合法的であり責任は自己責任だからいいとなる。つまり郵便局とか銀行を窓口としたことがまちがいだった。証券は証券会社がやるべきものでありそこなら株の会社だから安全はないと素人でもわかる。ところが投資信託はあいまいであり窓口も郵便局や銀行だから安全だと錯覚した人が多いのだ。この責任は明らかに郵便局や銀行にもあったのである。そもそも株は素人ではもうからないようになっている。まず情報を分析したり得ることは素人ではむずかしいからだ。そこで素人をだまして株式に参加させて金をまきあげげようとした魂胆、確信犯的組織的結託があったのである。合法的であってもモラル的には大きな問題があった。でもあえて金儲けのためにしたのである。それだけ追い詰められていたということもある。いづれにしろ銀行員の言うことは信じられなくなった。「長くおくとまた株はあがりますよ・・・」長くおけば手数料がいつまでも入るから長くおいた方がいいとなるだけのことで長くおいても株が上がるとはかぎらない、でも今売ると損になるからそうしているほかないとなりさらに手数料はいつまでも入るからこれほどいい商売はないなとなる。まず銀行員はずるいとこの件では思ってしまった。

posted by 天華 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2009年10月10日

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯

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●萱浜も湿地帯だった
萱浜という地名は古くからあった。だからその地名をとって相馬氏が姓とした。
胤往の曾孫・胤久(五郎左衛門)は萱浜村(南相馬市原町区萱浜) に移り住み、萱浜を称したという。金場門馬氏の祖・門馬胤久(五郎左衛門)が行方郡萱浜村を知行して萱浜を称した

相馬の門馬家
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku91.htm

萱浜地帯は地図を見ればわかるように谷地とか渋佐(しぶさ)となっているのはしぶさは砂のことである。海が近いから萱と砂の地帯だった。赤沼とかも沼でありここももともとは湿地帯であった。日本は海の近くは湿地帯だった。北海道の釧路湿原のようになっていたのだ。巣掛場などという地名も残っているから鳥や獣をとっていたのかもしれない、湿地帯であり生業は狩猟などだったかもしれぬ。新田川には一面に萱がなびく光景もあっている。海から鵜の群れが飛んできていた。真野の草原は有名だけどここもそうかなと思うかもしれない、ところが日本全国こうした光景はどこでもあるのだからめずらしくないのだからあえて特別真野の草原は都から見て面影にしてまで見る地かとなると疑問なのである。それは前にも書いた。この萱浜の地形を見ると
桜井古墳がやや高台にありそこから海へと湿地帯が広がっていたのである。川と湿地帯の海に面して桜井古墳があった。泉長者の泉も高台にある。それが何を意味しているのか?桜井古墳の前の方にも小さな古墳がある。桜井古墳が川の側であり海に面していることが特徴なのである。もしかしたら船着場みたいなものだったかもしれない、海から目印となるものだったかもしれない、場所からするとそうなるのだ。海の近くにある古墳は瀬戸内海の五色塚古墳なども海からの目印としてあった。海との関係が深かった。ここの古墳から東海系の土器が発掘されている。東海系の人たちがここに移住したのか何か関係はある。東海からどういう経路で来たかわからない、ただヤマトタケルの伝説で原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(湊)の事とあるとあるからここではないが河口が湊になることがあった。上陸した地点がここだとかなると桜井古墳もそれと関係しているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理でありそれと同時に地形を読むことが大事なのである。この地形は実際に路査しないとわからない、高低などがわからないからだ。萱浜はあとで越中からの移民が移り住んだ。ここは海に近く湿地帯であり開墾する地帯が広く残っていた。条件の悪い地帯だった。移民は条件の悪い地帯を開墾させられた。相馬では真宗系の墓が必ず目立ってある。移民が相馬に根付いて六万石の実りとなったのである。


●鹿島区の大内からも湿地帯

鹿島区の大内村の地形は後ろは山に沿ってある。そこから海の方や右田の方を見晴らすとやはりそこも広大な湿地帯だった。真野川の流域でもありここに不思議なのは曽我船という地名が残っている。ソガとはさかのぼるという意味でここに船がさかのぼって来たからだという、それは伝説的地名であり真野の入江がありそこに船がさかのぼって来るからその地名がついた。これが本当だとすると万葉時代からだから相当古いとなる。真野の入江というのは確かに塩崎(しおのさき)が入江になっていて船着とかがあったのだから船が来ていた。それはいつの時代なのか?地名としても残っている。草原(かやはら)は入江のことであり港だったという説も書いた。ともかく大内村は前は広大な湿地帯だからあそこに村が最初にできることは地形的にわかる。小島田というのもその湿地帯のなかに島のようにできた田のことかもしれない、つまり地形をイメ-ジするとき原初の状態をイメ-ジする必要があるのだ。大内村は閑散としているから古い村とも思えないがやはり古いのだ。第一曽我船(そがふね)とか伝説としても地名が残っていること自体古いのである。

豊臣時代に北郷に田中城代として田中忠次郎郷胤、その配下に滝迫館
大内館、杉の館、赤柴館(栃窪村)があり戦争の折りには各館より出騎していた。(鹿島町誌)

大内に南館下という地名があるのはその時のものだろう。館は中世から戦国時代の地名が基になっている。
大内にも家が少ないように見えても館があった。その館を中心に村が形成された。この頃は田中城が中心であり今の鹿島の町があるところではない、田んぼになっいるところに城が館があってそこが中心となっていたのだ。町はあとで街道沿いにできるのが多い、江戸時代になるとそうである。その前は中心は館であり城であった。だから今から見ると辺鄙な所に多いのである。いづれにしろ歴史も地理であり地形を見ないとわからない、地理とか地形は何度もその地を踏まないわからないから歴史も理解しにくい、高低差や距離の感覚がわからないのだ。

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/32818579.html


注意-著作権について
千葉氏一族について詳しく書いている人から著作権違反の指摘があった。その後メ-ルは来ていない?ここは引用するとき注意が必要。長いのは駄目なのかもしれない、短いならそうでもないかもしれない、それはあくまでも歴史的事実であり創作ではない、でもあれだけ詳しく書いているとやはり著作権があるのだろう。だから二三行とかならいいのだろう。あとは詳しく知りたければリンクすれば問題ないのかもしれない、ただ著作権にはいろいろありめんどうである。特にインタ-ネットではまた本とはちがっているからむずかしいのである。ただここの千葉氏のサイトは相馬郷土史関係で良く書いているから一言御礼と挨拶が必要だったのかもしれない、お世話になっていますとか必要だったのかもしれない、あれだけ詳しく書いている人はそれだけ功績もある。ただ自分だってインタ-ネットでいくら書いてもコメントもまれだしインタ-ネットでは何か功績としてほとんど認められないのが問題なのである。もちろん金にもならないから何で書いているのかわからなくなるときがある。ただ無料でひたすら提供しているだけだとなるからだ。

南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)

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南相馬市原町区萱浜から鹿島区大内へ(実りの秋の俳句)

みちのくの桜井古墳や実りかな

萱浜や移民も交じり実りかな

馬肥えて六万石の実りかな

古碑一つ蜻蛉とまりて字の薄る

故郷の古碑をたずねて秋薊

幹太く一葉松や実りかな

鵜の飛ぶや太平洋と秋の空

萱浜や新田川に萱なびく

なお一つ秋の蝉鳴くキャンプ場

野の花を献げむ二体地蔵かな

村一つ歴史のありや石と柿

常盤木の緑うるわし一葉松秋風そよぎ実りに映えぬ


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南相馬市原町区萱浜の方にゆっくりポタリングした。萱浜は本当に萱のなびく原だった。でも越中の移民が来る前に萱浜の地名があったからそれなり古い。だから江戸時代の碑も一つあった。新田川に萱がなびいていたから萱浜をイメ-ジした。鵜が群れて飛んできていた。そこから金沢の火力発電所のキャンプ場に回ったらニイニイ蝉が一羽まだ鳴いていた。土曜日でキャンプしている人もいた。そこから鹿島区の大内の方にでてきて大内の墓を見た。やはり江戸時代の墓があったから大内も古い。今日は秋晴れであり実りの時である。相馬六万石は越中からの移民が二割くらい交じり実りが増加した。だから墓を見れば真宗系の墓が必ずありその子孫が相馬には根付いていることが明瞭である。


南相馬市原町区萱浜と鹿島区大内の原初は湿地帯
http://musubu.sblo.jp/article/32819227.html


2009年10月09日

モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況


モノ余りカネ余り家余り土地余り人余りの不況

●焼け野原から始まった戦後の経済

戦後焼け野原になったとき文字通り日本には何もなくなっていた。そこに戦争から帰ってきた男たちがあふれ団塊の世代が生まれた。不思議なのはなぜ焼け野原でも何もないのに子供を生んだのか、自然の摂理だからおさえられない、貧乏の子だくさんであり性のエネルギ-はとめられない、貧しい国では子だくさんではないか、避妊を知らないからそうなる。しかし性のエネルギ-はいつも一定なのかもしれない、むしろ先も見えない焼け野原でよくそれだけ子供を産んだという不思議である。私の父は牛乳をもらうために行列して並んでいたとか子供を育てる食料もない時代によくそんなに子供を産んだものだという不思議がある。その当時はみんなそうである。最初にはじめた三文店屋だったが最初の店はモノがあれば何でも売れた、モノを買えれば売れたのである。ただ買う金、資本がないと店も始められないから苦労したのだ。モノがないというとき家庭には粗末な飯台が一つあって食事していた。その他電気製品などはない、暖房はまだ炭だったのである。後進国では今も日本と同じ光景が見られるので興味深い、インドではバラック建ての店でわずかなものを売っていた。あれでも商売が成り立つということは焼け野原から出発した日本と同じだった。袋は新聞紙だった。家でも母が新聞紙で袋を糊付けして作っていたのだ。商品はお菓子でもバラ売りであった。今も駄菓子屋に行けばわかる。ともかくモノを並べれば売れた時代だったのだ。インドのベナレスに行ったとき、そこではまだ炭が使われていたが牛糞が燃料として干されていたり家の中をのぞいたら白黒テレビで子供がゲ-ムしていた。つまり現代の電気製品もすでに入っていた。ベナレスは大都会だからそうなっている。今では明らかにテレビはカラ-になっている。古いもの新しいものが併存しているのがインドであった。牛糞が燃料にしているというときこれは太古からそうだったのだからインドではまだ太古のままの生活をしている人がまだ農村部では多いのだ。ベナレスではガンジス川の辺りで死体が薪を積んで焼かれているのも異様な光景である。まさに太古から現代まで混沌として併存しているのがインドである。

 

続きは時事問題の深層40へ
http://www.musubu.jp/jijimondai40.html#monoamari

●パソコンの記憶は一瞬にして消える恐怖

プログでは保存とかリンク消えていたのがあった。プログは保存するのには危ないものかもしれない、一回さくらのプログで記憶が全部消えたことがあった。サ-バ-で故障したら大変である。一方ホ-ムペ-ジの方はなかなか消えにくいだろう。リンクも消えにくいだろう。記憶もパソコンの方に自動的に保存されるからプログよりは安全である。デジタルビデオレコ-ダ-でも東芝だったがハ-ドディスクに記憶したのが全部一瞬にして消えた。ハ-ドディスクはこのように一瞬にして記憶したものが消えるのだ。この対策をとっていないとすべての努力は水の泡になる。


ここのところはプログ中心であったが本来はホ-ムペ-ジから2000年から始めた。すでに10年になろうとしている。その間に家族の認知症介護が入りプログに本体は移行した。ただ長い文は時折時事問題深層などに書いていた。ホ-ムペ-ジは書いても何が読まれているか把握しにくい、プログは毎日アクセスの記録を見ているので何が読まれているから把握しやすい、ともかく落ち着いてくれば長い文章も書ける。でもまた一人ボケかかっている親がいるのでまだ落ち着かない、ここのところの変化は大きすぎた。

posted by 天華 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2009年10月06日

南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


春なれど北風寒し栃窪の町より遠し車なければ

栃窪の奥に墓地あり秋の朝静に蝉の鳴く声ひびく

栃窪へ車なければ遠しかな粗末な墓に虫の鳴くかな

栃窪に見るべきものの何かあれ古き碑並べ秋の日暮れぬ

栃窪に古き碑並びあわれかな柳は枯れぬ人も老ゆかな

栃窪に我が知る人も死ににけりともに働きしは役場なるかな

役場という名もなつかしき今はなし南相馬市と変わりけるかな

草枯れて昔の道のその跡に古き碑残る栃窪村かな

真野川を上り栃窪大倉へさらに遠き佐須は淋しも

冬の日に木の葉一枚散りにけりその静けさや人知らぬかも


栃窪で一番古いのは冠嶺(さかみね)神社である。御山神社は葉山信仰だから江戸時代のものだろう。 冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い。その前に浮田国造(くにのみやっこ)が最初に記されているしそこに隣接しているのだから古い地域である。栃窪の特徴は「古碑の村」になっている。御山の入り口に碑があるのが象徴的である。その碑はいつもひっそりと草に埋もれている。その碑には藁に詰められたご飯などが捧げられていた。それから上栃窪の方に上ると道に沿い古い碑が並べられてある。あれはあそこに集めて並べたものであり今ではどこにあったのか良くわからない。古い碑などを一カ所に並べることが結構ある。古い墓を無縁化した墓を一カ所に集めるのとにている。でもどこの場所にあったかわからなくなるのは歴史の保存としてはよくない、場所が大事でありその場所にあって活きるものがあからだ。今でも畑の中に古い碑が並んでいるがそこはかつて道だったのである。いつしか道の役目がなくなり碑だけがここが道だったことを示しているのだ。

郷土史研究の基礎は村の新旧を知ることである。八沢浦とかはじめて来る人は古い村と思うかもしれない、上萱などは山の上に孤立してあるし塩の道沿いにあるから古いと思うかもしれないがあれは戦後開拓に入って作られた村だから新しいのである。遠くから来た人は明らかに古い村と錯覚するだろう。外から来た人にはどこがその市町村で古い場所かわかりにくい、城などがあれば目印になりわかりやいのだが何もないとわかりにくいのだ。神社の由来も新旧の目安となる。冠嶺(さかみね)神社の由来を知れば古いとわかる。浮田が鹿島区で一番早く開けた地域である。その次に栃窪も古いのである。栃窪の特徴はやはり「古碑の村」である。金比羅の碑が多いからここから金比羅参りに行き箸蔵寺への道標に奥州栃窪村の人が寄進したとしるからだ。そして鹿島区では実際に栃窪村に一番金比羅の碑が多いのである。記録としても金比羅参りした人のものが残っている。

役場(ヤクバ)というときこの言葉は死後になっていないが今は南相馬市の支所であり鹿島町であったときの役場という感覚とはかなり違っている。役場とは死語になっていなくてもここではすでになっている。役場とみんなが呼んでいたときそこは町のコミニュティの中心としての役割をになうものとしてあったのだ。姉が保健婦として役場に勤めていたし知人も役場に勤めていたし役場に勤めている人が田舎では多い、役場で書類などをもらう時嫌な目にあったとか事務の対応で素っ気ないとか悪評もあった。じも役場というのがなくなってみると何かなつかしくなる。


人間はその時感じなくても一旦なくなってしまうとひとしおなつかしくなるのだ。言葉も死語になった言葉が多いがその言葉のなかにはそうした生活の中で生まれた言葉だった。それが生活が変わり喪失したのである。言葉のもっている実感が喪失してしまったのである。

栃窪村も変わる、あそこに常磐高速道路ができてその下のトンネルをくぐって栃窪村に入る感覚は相当今までとは違っている。何か違和感があり素朴な栃窪村も変貌した。入り口に古い碑が草に埋もれてある感覚とは違ってしまった。常磐高速道路ができればかなりまたこの辺も変容する。高速道路の無料化はその変化に拍車をかける。恐れるのは常磐線が消失するのではないかという危惧である。なぜなら高速道路で仙台まで一時間とかなると鉄道を利用しなくなる。車のない人も高速バスを利用するようになる。すでに東京まで高速バスが原町から出ていることでもわかる。高速道路無料化は鉄道に痛手でありJRは政府に抗議しているのもわかる。常磐高速道路の影響も相当に大きい、交通体系を変えてしまうほどに大きいものとなるかもしれない、火力発電所ができたときも大きな変化だった。ここも環境破壊だったがあそこで地元の働き場になっている。一般の人は環境に考慮しない、小高と浪江辺りに原子力発電所できれば景気よくなるとか建築土木関係の業者は言っている。仕事がない不況の昨今、環境より仕事なのである、収入なのである。環境にやさしいのは鉄道のはずだがますます車を使うとなると鳩山首相の環境政策優先など実行できるのか疑問である。

人間は本当にそれぞれ住んでいる土地のことをわかっているかというとき今はわかっていない、時間と距離の感覚があまりにも違ってしまったからだ。車をもっているものともっていないものとのその土地を認識する感覚がかなり違っているのだ。車をもたないものにとって栃窪すら遠い地域になる。これが自転車もない荷車の時代だったらさらにそうである。栃窪は鹿島区では一番遠い場所になるのだ。その遠さの感覚から詩が生まれる。栃窪にも奥があり墓地がありここに秋の蝉の鳴く声がひびいている。栃窪の奥は本当に奥になるのだ。車だとこういう意識は生まれてこない、芭蕉にしても新幹線で平泉に来たなら「奥の細道」は生まれない、つまり車では奥の意識がなくなるのだ。一気に早く到達しすぎるからである。今の時代そんな悠長なことでは生活できないとか言われるのはわかっているがしかし車をもたない生活の方がとてつもなく長い、それが車なしでは生きていけないとまでなった。その変化は政治の変化より余りにも大きいものであり根本的に社会を変えてしまったのである。

栃窪村の金比羅の碑
http://www.musubu.jp/tochikubo.htm


柿の意味


石に菊寄り添い堅き契りかな

庭広しエンジェルトランペット夕暮れぬ

学童の帰れる道や柿なりぬ

柿食うて里に暮らせる烏かな

 

日本的なもの花でも果実で何か精神的意義が付与されている。菊などは天皇の紋にもなっているから特にそうである。果実でも柿は極めて日本的だからこそ精神的なものとしても見る。
質実なものとか素朴なものとしてみる。柿はkakiであり海外でも通用しているから日本を代表する果物だった。 烏が柿をくわえていた。烏は雑食だから生きて生けるのだろう。熊もそうである。雑食なものは生き延びる。人間も雑食だから生き延びた。今どうしても飢饉とかになるとは思えない、これだけ米が余っているのだから飢饉になるとは思えない、米が生命線としてあったときは不作=飢饉になりやすい、でも外国から食料が入らなくても米だけは確保してあれば飢饉にはならない、最後の生命線は確保されている。最大の不況でも米が確保されていれば飢饉にはならないという安心感がありそこが江戸時代とは違う。日本人の今の不安は柿を食べて里に暮らすことで満足しないことから起きているのだ。生活にコストがかかりすぎ借金生活になる。不況になればその生活が維持できない、不況でも柿食うくらいで満足している生活だったらそんなに騒ぐ必要がないのだ。

 

車を一人一台持つような生活はコストがかかりすぎるのだ。それが経済成長であり文明生活を実現したとなるのだがそれが遂には車なしでは生活できない、車がなかったら死ぬほかない、車を取り上げられたらすべて終わりだとまでなっている。
実際車なしの生活をこれまでしてきた歴史が長い、でも一旦車をもつとそうなる。車はガソリンが石油なのだから石油なしでは生活がなりたたない、石油を確保するために戦争も辞さないとなり実際資源戦争をしてきたのが人間だった。石油自動車文明は必然的に戦争に向かっているともなる。逆説的には柿を食って満足していればそうならなかったともいえるのだ。 果物でもリンゴ、ミカン、ナシ、カキ・・・・とか日本でとれるものだけで今や十分のように思える。別にマンゴ-やバナナでも食べなくても十分贅沢な時代になっている。そういう簡素な生活を見直すことが必要になっているのが現代なのだ。なぜならこれ以上経済成長はない、成熟社会になってゆくからである。

柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm

 

2009年10月02日

虫の声(三千円の住宅と大きい家)


秋深む隣の墓の荒れしかな


三千円の住宅に住む虫の声

名取より移り住みたる人あわれ住宅古く虫の鳴くかな


人間は大邸宅に住もうが3千円の老朽化した住宅に住もうがいづれは死ぬし死ぬことではみんな同じである。確かに大邸宅に住みたいことはわかる。でも一人になったら大きな家は管理するのに大変になる。自分の家がそうでるある。築40年になると瓦屋根とりかえないと地震の時危ないとか家が傾いているとかいろいろ問題が出てくる。地震に弱いのは家自体が古くなると木も古くなり耐久性がなくなるからである。そして家のやっかいなのは大きな家はリホ-ムすると金が大変なのである。瓦直すだけで200万以上とかもはや直すこと自体嫌になった。すでにリホ-ムで建てる以上に使っている。そして壊すとき200百万以上かかるとか家を壊すこと自体それだけの金がかかるとしたら家自体が大きな荷物となっているのだ。むしろ家などない、三千円くらいの安い住宅ならいいとかなる。それならいつでもどこへでも移れるとかなる。大きな家がいいことはいいのだがやはり一人になると管理が大変なになるのだ。そして今やそうなる日は近い。自分の家の宝は何だったのか?本だったのかもしれない、蔵書だったのかもしれない、本にしたって集めても読める本は限られていた。古典全集をそろえてもよみきれない、他の人も全集をそろえても飾るだけで読めるものじゃないのだ。それで本の重さで家が傾いていたのである。知的仕事には本は必須でありやむをえないが本の整理も大変になった。

人間つくづくはかない、この世はしょせん一時の夢、仮住いである。これはすべての人にあてはまっているのだ。大邸宅に住む金持ちでも同じである。永遠にその大邸宅に住み続けることはできない、いづれ死んでしまうしこれもこの世は一場の夢だったとなる。90年生きても百年生きても結局はかない、何を成そうが成すまいがはかないことに変わりがない、この世が無常なことは変わらぬ真理である。その行き着く先は墓だったのである。

まあ、今度は何とかお手伝いさんとかヘルパ-を頼みやってゆくほかない、もう親戚はないし頼まない、もう年であり限界である。でも寝たきりでもすでに病院で一年とか知っている人がいるからすぐには死なないのだろう。いつ死ぬかはわからないのが人間なのだ。

2009年10月01日

母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)

母刀自が老いて寂しく暮らします千駄ヶ谷をば思いやる秋

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)

果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)


あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)


刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。


だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る


今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。

母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html