故郷秋思十首(平城宮から陸奥の真野) 一本の寄るべき松や秋没陽 我が町に思える人は誰なれや手伝いの女秋の夕暮その女の名取の暮らし長きかななまりあらわに相馬に帰るも我が町に住みたる人の吉林に帰りてあわれ秋深むかも亡き女(ヒト)の面影浮かび悲しさや我が家淋しき秋の夕暮故郷に死にゆく人やそのあとに想い深まる秋の夕暮故郷の一つの墓所に眠る人結ばる縁(えにし)秋深むかも歳月の過ぎるは早し青春も一時なれや今日も白髪落つ人はみな老いゆくものやあわれかな夫や子と別れ秋深むかもみちのくの真野を思える女もあり平城宮に秋深むかも
はるけくも長安に行きて帰らざる人もありしも秋深むかも
渤海の使い泊まらす長屋王みちのくよりや秋深むかも
なまりは国の手形というとき本当に一旦なまりがつくと消えない、相馬弁と仙台弁のなまりがこんなに違うのかとなまりがいかに国の手形になっているか今でも変わりなかった。仙台に行って仙台弁を聞くことはない、店でも標準語だからである。でも一旦日常の生活では仙台弁が使われているのだ。
ロ-カル線菜の花映えて九州やなまりの強く話す声ひびく 自分はよほどその時暇だった、のんびりと延々と旅していたのだ。九州の果てまで普通車にのり気ままなのんびりとした自由な旅をしていた。それも今はなつかしい、今そういうことができなくなったことが不思議である。旅などいつでも自由にできるものだと思っていたからだ。旅すらいつかは終わる。そしてただ思い出だけが残るだけである。私の家では金持ちではないからお手伝いさんなど使ったことがない、お手伝いさんというとき、一日家で仕事する人である。住み込みの人がいて女中と言っていた。戦前は家事が電化されないときは家事の仕事があったから女中の仕事が多かった。住み込みだと食事は与えられるしお金がもらえる良かったという。
女中はその時いい仕事だったのだ。自分にとってお手伝いさんというのは何なのだろうということ初体験だから考える。お手伝いさんは家の中に入るから家族の一員のようになる。昔の商家でも家内工業でも家族経営だから家族の一員のようになっていた。少人数で規模が小さいから人情的にもなる。大企業や会社になるともうそうした家族的経営はできない、だから今や不況になり簡単に首切りになる。家族経営だと家族の一員のようになるから余り非情なことはできないだろう。終身雇用も実はその日本的家族経営の延長にあった。ともかく故郷で思っている人がお手伝いさんになっていたのも意外だった。
話は変わるが平城宮からは膨大な木簡が発見されている。長屋王邸からも三万とか発見されているからその全容が何なのか知ることはできない、その中で野菜を運んできた一庶民の名が記されていたりする。米を搗いた人夫の名も記されているのが面白い。なぜ名前まで記したのか、庶民の名は普通は記されないからだ。それもまた歴史だったのである。
@ 表 「長屋皇宮俵一石舂人夫」
A 裏 「羽咋真嶋」
B別に、養老元年(717年)の年紀を示すものが出土。
@は米俵に付いていた木簡です。長屋王の宮(家)の米一石を人夫が搗いたという名札で、裏に搗いた人の名前・羽咋真嶋が書いてあります
野菜持ち来し女の名と
米撞く男の名も木簡に記されぬ
長屋王邸の暮らしや
そも歴史なりしも
平城宮の秋の夕暮
長屋王邸では渤海からの死者も来た木簡が記されている。その死者は一旦みちのくに漂着して言葉が通じないからと殺されたのだが生き残った人が長屋王邸まで来たというから長屋王は単なる一貴族の邸宅ではない、宮廷のような役割を果たしていた。皇という字を使っているのもそのためである。平城宮(ならのみやこ)が国際的というとき唐まで長安まで阿部仲麻呂が行って帰らぬ人となった。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 三笠の山の月を偲んだのは有名である。
仲麻呂の想いは遠く奈良にあり三笠の山の月に偲びぬ 唐の国で帰れなくなった想いは奈良にそして逆に奈良から帰らぬ人となった阿部仲麻呂を思うのである。想いとはやはり距離と関係なく通じてゆくものなのだ。空間に隔てられても想いは通じる。想いは外国までも通じてゆく。そこに人間の想いの不思議がある。想いの力の不思議がある。悪くなると想いによって人を呪い殺すとまでなる。その想いは後世まで残ってゆく不思議がある。陸奥の真野を思って歌った笠女郎の歌もそうだったのだ。平城宮を中心にしてその想いは陸奥の辺境の真野から渤海、中国の果ての長安(西安)まで及んでいたのだ。例えば今でも中国の吉林省から南相馬市鹿島区に三年も働いた人と明日帰るというとき話したことがあった。この人は日本語がうまいから話すことができた。吉林省は元の満州であり渤海の辺りだともなる。飛行機で仙台から三時間もかからないとか近いのである。中国とか韓国は本当に近いのだ。やはり近いところと仲良くするのが自然である。アメリカは地理的には遠いのである。戦争という不幸があったがやはりこれからはアジア志向になるのはやむをえない、日本の幸運と不幸は欧米に影響されすぎたことである。脱亜入欧を国是としたのはやむをえないが戦争の原因を作ったのも欧米であった。アジアへの植民地主義への抵抗としての戦争が起こったという一面は確かにあったのだ。だから再びアジアに帰る、アジア重視になるのは時代だったのだ。アメリカ一辺倒の時代は終わりつつある。日本の戦争の原因は極端な欧米一辺倒から起こったことでもあった。その反省からアジアを重視するのは必然的な歴史の流れである。とにかく韓国、中国は本当に近いのである。スリランカなどとなると遠すぎるから親近感が生まれない、いろいろ問題があってもやはり韓国と中国は近いことが一体化しやすいのである。
現代は地方分権というとき心情的にもそうなっている。明治維新以来余りに中央集権国家になりすぎていた。地方の衰退もあるが一方で地方への回帰がある。高齢化社会は地方への故郷回帰が起こってくる。東京のようなメガポリスではアイディティティが一体感がもてないのだ。だから60以上になると故郷志向、自然志向、自らのアイディティティを求めることが強くなる。それは東京のような大都会にはないのだ。あくまでもそこは経済的に機能する場所であり全体として人間のアイディティティを求めてもないのだ。自然と歴史からアイディティティが作られるからだ。そういう点相馬藩というのはアイディティティを作るのに適当な規模なことを再認識した。仙台藩なとになると大きすぎるのだ。相馬藩は自然の境界と歴史的に作られた境界が一致しているのだ。だからアイディティティが形成しやすいのである。人間はあまりに広大になるとアイディティティをつくりにくい、グロ-バル化では文化的にはありえない、日本全国にしても多様でありアイディティティが作れないときしょせん無理であった。人間遂には土となり一体化する場所はやはり故郷であり狭い場所となる。ちょうど相馬藩くらいの規模になるのだ。その中なら一体感をもてるのである。
漢詩-秋思
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/kansi/sisyu/syusi.htm#
渤海と日本の交流
http://www.nihonkaigaku.org/04f/i041001/t8.html