2009年11月29日

冬の雲(電動自転車で鹿島から原町へ買物)

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松一本街道に残り枯芒


五本松名のみとなりて冬の暮

三色の冬薔薇映ゆ瀟洒な家

黒竹に映えて暮れにき冬紅葉

駅遠く街のはずれや冬の雲

寝たきりに動かぬ病人冬の雲

街道の一本松のあわれかな枯れつつ残り芒も枯れぬ


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日吉神社のある一石坂を今度買ったヤマハのパスブレイスの最新式で上った。これは坂に強い、距離も百キロはでる。ここの坂はきついから10年間くらい上っていない、歩いて上るとへとへとになる。他でも飯館でも坂上るのに半日かかるからなかなか行けない、これだとそれほど疲れずに行ける。こういう自転車が欲しかった。やっと願いがかなった。これは短距離だと思ったが本当に長距離向きである。荷物をのせても電機で走るから半分バイクだから楽なのもいい、これは長距離でも楽に走れるものなのだ。老人でもこれだと楽になる。機械の力はやはり車が社会を変えてしまったようにその効果は大きい、坂の多い日本には向いている。なぜこのような自転車が日本で作られたかというとやはり日本は坂が多いせいなのだ。山が多いからトンネルも多くトンネル技術が発達した。風車は中東のような砂漠地帯で発明されたのもわかる。風が常に吹いているからである。つまり技術もその国の風土によって開発されることがあるのだ。スポ-ツだってイギリスのようなまるで国土がゴルフ場のようになっているからこそゴルフも発達するのがわかる。

陸前浜街道の五本松に一本残った松は枯れそうになっていた。もう枯れてしまうだろう。
松は枯れても惜しまれるから地名となってまで残る。宮城県角田市藤田(字枯松)とかそこには松がありやがて枯れたが地名化して残ったのである。ここから植松を通りイオンのショッピングセンタ-で買物した。途中の住宅地に三色の冬薔薇が咲く瀟洒な家があった。これは家と花がマッチしていたので写真にとった。その近くに黒竹と紅葉があった。黒竹ははじめて見た。庭作りに興味をもったので黒竹は利用できると思った。庭は狭すぎるからこの竹を活かすことはむずかしい。竹は竹林にならないと感じがでないからだ。


街からはずれたところにどんよりと冬の雲が停滞している。でも街からはずれたというときかえって中心街が寂れている時代である。駅から遠くても今は中心からはずれているとはならない、車時代だからかえって郊外のス-パ-などに人が集る時代である。だからこの句も時代的にあわなくなる。駅から離れている中心通りから離れている、車の時代は全く中心から離れていても影響されないのだ。郊外に店は広がるという時代である。これも矛盾しているといえばそうなのだが車がそういう社会を作ったのである。電動自転車でも便利さを感じたから一旦こうした便利な機械を利用したらもう手放せない、電動自転車でさえその威力を感じたからである。

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老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)


老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)

●家族から見捨てられた人は施設でも価値を認めるのはむずかしい

老人の価値を見出すのは施設などではむずかしいだろう。老人の価値は過去にありその過去を良く知らないと価値が見出せない、だから介護でもモチベ-ションがないから嫌になる。単に介護の給料が安いというだけではない、こんな役たたない老人を世話して使役されて何の意味があるのかとなるのも当然である。現実、子供からも見捨てられた不倫とか迷惑かけただけの女性が最近死んだけど娘は死んでも行くことがなかった。でもそういう人を国では世話しつづけていた。事情を知らなければかわいそうな人となるが実際は大変な迷惑をかけただけの人だったとなる。やはり家族からも見捨てられる人は家族内でも価値あることをしていなかったのだ。老人は社会的に価値あることをした人でなくても家族内で価値を見出すことができる。
男性の場合は社会的価値ある仕事をしたかで判断されるかもしれないが女性は家庭内で価値あるものと認められる。自分にしても家族内で家族を支えてきた過去があるから認知症になっても世話していた。他にも世話になったという人が認知症になっても正常なときと同じ様に接してくれたのはそのためである。老人の今を見れば無惨な姿でも過去をみれば立派であり社会に家族に尽くしてきたとなれば簡単に捨てられない、価値がないものとは見れないのだ。

問題は一旦病院とか施設に入るとその人がどういう価値があるのか見出せなくなる。社会的に価値あるといってもそれを判断することは簡単にできない、だから福祉の観点からただかわいそうだからめんどうみるとかなる。そうなればその人の過去は関係なくなるのだ。でも自業自得でかわいそうな人になっている人もいる。生活保護なども今やかわいそうとは限らない、本当に自活の道を探す前に簡単に受けられるから受ける人も多い、親戚に頭を下げるのが嫌だとかもあり身勝手なことも多い、個々に違っているにしろそういう人も今や相当多い時代なのだ。
個々の事情から人の価値を見分けることはむずかしすぎるのだ。家族だったらそういう価値判断は容易にできる。子供のときから一緒に生活しているし親のことを知り尽くしている。前の例のように子供にただ迷惑ばかりかけた親も普通にいる。そういう人を社会的にめんどうみるとき
「なぜ家族は施設にも来ないとか病院に来ないのか、赤の他人がこれだけめんどうみているのに・・・」となってしまうのはわかる。子供に問題がある場合もあるが大方は親に問題があったからそうなっているのだ。

●高齢者の価値判断は新しい問題


普通老人は必ず社会的に価値は認められない人でも家族の中では何らか価値を認められるからである。第一社会的に価値ある人と認めることはかなりむずかしい、何が社会的に価値あることなのか?例えば戦争を経験した老人80代でまだいる。「俺たち死ぬほど苦労して戦争して日本のために尽くしてきた」と言われてもその戦争は無駄だったとか、かえって日本のためにならなかったとか価値判断する人もいるからだ。では「俺は社長だった、議員だった、弁護士だった、教師だった・・・」いろいろな職業に従事した人もいる。そういう人は金をもっていても本当に尊敬に値する人なのか、価値ある人なのかと老人になって価値判断することはむずかしいのだ。むしろ下働き薄給で掃除婦や農民や職人での方が価値あると判断することもあるからだ。人間を社会的に価値判断することはそれだけむずかしいのである。家族内だと容易になるが社会的価値判断はむずかしいのである。
だから福祉の場合、施設などでは病院などではともかくそうした個々の事情を考慮せずにとにかく患者なのだから病人なのだから弱い人なのだから愛の心をもって分け隔てなく接する、看護する、介護するべきだとなる。例えその人は悪人でも病人だからいたわり介護しなければならないとなる。しかし今問題になっているのは老人は価値がない、そんな価値がないものを若い人が世話してどうなるという問題が高齢化で極端にクロ-ズアップされそれが行き着く先は安楽死させろということまでなる。老人が家族内では価値あるものでも一旦施設などに入ると家族がめんどうみないような人をなぜ赤の他人が苦しい思いして面倒みなければならないかという問題になっているのだ。介護過剰の問題もある。寿命の限界を越えて科学の力で生かし金ばかりくうのが老人だという社会的批判もでてきている。生命はただ伸ばすだけに意味があるのかとか社会的価値判断として老人が問題になっているのだ。昔なら老人は家族なの中で介護されて死んでいったから社会的問題になることは少ない、そんなに高齢で死ぬ人もまれだった。社会的問題としての高齢化問題は存在しなかったのである。老人問題は昔からあったにしろ今のような高齢化社会としての問題はなかったのである。要するに高齢化社会の問題は新しい問題でありだから価値判断もできていない、ただ若い人にとっては負担ばかりふえるから経済的問題として高齢化の問題がクロ-ズアップされているのだ。老人が価値ないというとき、老人に社会の金を税金をそんなに使うべきではないということなのだ。そもそも豊だからこそ介護問題が生まれた。貧乏な時代だったらこんなに長生きもないし老人は早く死んでいたから問題は起こらなかったのである。

2009年11月28日

陸奥真野郷の地政(地勢)の考察(歴史は地理である)


陸奥真野郷の地政(地勢)の考察(歴史は地理である)


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南相馬市、相馬市の歴史は古代では原町区の桜井古墳があるにしろ史実的には浮田国造の次は万葉集の「陸奥の真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを-笠女郎」からはじまっている。この歌を何度も考察したように草原は萱が繁っている原ではない、地名だった。反論が出てくればいいのだが、自分一人よがりにはなっているがどうしてもこの草原は萱が繁っているとはならない、地名だとするとその場所はどこになるのか、真野の入江と言われた塩崎になる。そこに船着、市庭という地名が残っている。史実的には浮田という地名は一番古いことになる。草原という地名は史実的には確定できない、地政(地勢)学的に歴史を考察するとなぜ浮田という地点が最初の国造(くにのみやっこ)が置かれたのか地理的には納得する。鹿島区では一番いい適地なのである。ここから米作りがはじまったことを納得する。浮田から右田の方向は海に近くなり古代は海が真野川深く入っていたから田にすることはむずかしい地域だった。浮田を基点として栃窪の山の方への開墾がはじまった。


桜井古墳のある場所も原町区では一番住み安い場所だった。でもなぜそれでは金銅双魚佩が発見された前方後円墳が寺内という高台にあったのか?浮田は平地であり寺内から小池は高台になる。浮田国造は毛野氏の系統であり真野郷となって中央大和政権の平城宮(奈良)に知られたときは大伴系が主流となって真野郷に進出してきたのである。その前に物部氏系統が東北では大きな勢力をもっていた。桜井古墳は物部氏系統のものらしく東海から移動してきた人たちが作ったともとれる。この地域でも大和政権の進出にともない争いがあった。蝦夷と言われるのは不明であるが大和政権に逆らうものが蝦夷でありあまりにもおおざっばでありその中には物部氏も入っていたとか異民族も入っていたとか謎なのである。


地理的に見ると真野の入江から大伴系の大和政権が入り今の日吉神社のある高台を越えて寺内に進出した。浮田国造のある場所は平地であるがここは毛野系統や物部氏系統の支配下であり抵抗があり進出できなかった。でもここで大和政権の大伴氏系統の君が真野郷を支配した。「陸奥の真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを-笠女郎」の歌は地名として大和政権内に所属したという宣言でもあったのだ。当時は地図も何もない、地名が中央の奈良に知られることだけで深い意味があったのである。そこが単なる萱の原ではない、萱の原が面影に浮かぶとかではない、そんな地帯は日本全国いたるところにあり特別めずらしくもなく美しいとなる場所でもないのだ。草原(かやはら)とは地名であり萱が繁っている場所ではない、そももそ陸奥の真野は萱が繁って面影にみるほど美しい場所ですよなどと伝えない、美しい入江とかとして伝えることはある、前にだからカヤは近江の方言で入江ということもありうるしカヤは伽耶国からとったともなる。当時は百済の前に伽耶の影響が大きかったし渡来人が技術者として大量に移住しているし陸奥にも主導的な役割をにないきているからである。


次に地政学的には日吉神社のあるところは天然の要害であり南北朝時代に霊山が炎上して南朝が滅び、その時桑折氏が逃れてきて住んだ。中世で舘と呼ばれるところはこうした山の要害の地が多い、山城からやがて平城になる。でも南北朝時代の前に鎌倉時代に岩松氏が最初に鹿島区の屋形を根拠地として支配した。浮田が平地で最初に米作りが行われた適地だったように次は屋形から田中城のあった地域に開けていった。田中城は堀が巡らされていた平地の環濠集落が発展したものだった。岩松氏に代わり桑折氏が支配して次に相馬氏の支配に変わったのである。歴史が地理だというとき小地域でも日本は平坦な地が少ない、日本の地形は海あり山あり谷ありで複雑なのである。この一地域でも海と山と平地の攻防があった。真野の入江があったということは今の地形と相当違っているがこの地形にそって歴史が展開されたのである。だからこの地形を読み取ることが大事になる。郷土史がまず地形を読むことからはじまる。でも実地に歩いてみないとわからないから歴史を理解することはむずかしいのである。

2009年11月25日

冬の日(この世の縁)


縁切れて遠くなりにきその姿思い浮かばじ芒枯れにき

縁遠く縁深くなる人の世や冬の日静か憎しみも消ゆ

人の世の縁の不思議やめぐりあい分去(わかれさり)に立ち冬の日暮れぬ

みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを(笠女郎)があるけどこの草原を萱の原にしても萱原から人の面影など浮かばないのではないか?枯芒のなかで人の面影は消えてしまっている。粛条としてそこには何もない、親戚の縁でもはかなく切れることもある。縁遠くなりまた縁深くなる人もある。これが人の世である。長い縁でも死んでしまいばはかない、でもいつまでも死んだ人の面影を追いつづける人はいる。なかなか忘れられない、そういう人がいることは死者にとっては幸福なのか?たいがい死者も時がたつにつれてその記憶も定かでなくなり忘れられてゆく、人間とは無常である。憎むにしても実はその人と何らか縁があるから憎むのである。そうでなければ憎むことすらしない、全くの無関心でありその人のことを思い浮かべることもない、愛することは憎むことでもあったことがわかる。何ら関心がなければその人について何ら干渉しない、完全に無視するだけだからだ。あの人を死ぬほど憎むというとき本当は死ぬほど愛しているからこそかもしれないのである。それほどに縁あるからこそそうなっているのだ。実際に縁がない人は互いに簡単に速やかに忘れてしまうからである。ほんの一時の出会いで全く忘れてしまうのである。

分去(わかれさり)は街道のいたるところにあった。そこで人はめぐりあい分かれ去って行った。冬の日に分去にたたずみ分かれ去った人を思う。もう永遠に会わない人のことも思う。
静かな冬の日に思う。「さよならだけが人生だ」というのはまさしくこの世とはいくら深い縁でもみんな死んでゆき別れてゆくだけだとなる。愛することも憎むことも縁があったから起こることでありそれも一時でありあとはただ別れ去った道からその人を思うだけになる。

縁というのは実際死んでからもつづいている。先日、親戚の今は関係ない一人の女性が死んだ。この女性は不倫だなんだと迷惑かけただけであり災難を残しただけだった。だから娘からも見捨てられて死んだ。当然といえば当然の最後だった。でも墓参りをどうするのかと言っていたからやはり何かまだ縁をもちたいのかもしれない、縁は墓参りでつづいているのである。墓参りする人はそこで死んだ人の縁を継続させる装置なのだ。ともかく死者を思わない人は墓参りもしないからである。その時全く縁が切れてしまったことになるのだ。

2009年11月21日

鴨(文机のこと)



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一室や茶の花挿しぬ文机

門を成す枯木二本や陽も没りぬ

鴨群れぬ異なる模様や夕暮れぬ



下の一室があいたのでそこに文机を通販で買った。通販は前は買わなかったけどこの頃買っている。これは一万ちょっとだから買った。こんなに安いものは地方では売っていない、おりたためて作りはいいものである。中の材質は相当悪い、中国で安く作ったものだろう。でも見た感じは悪くは見えないから別にいいだろう。家には部屋が5つほどあるが今使っているのは三部屋くらいである。三人いたときはみんな使っていたから三人いると部屋数は実際は五つくらい必要になっているのだ。この家はすでに一千万以上リホ-ムしている、リホ-ムだけには金かけている。通販というのは便利である。車かないと隣の市から実際は宅配で送られてくるから千円以上とられるから遠くから運んでもらっても送料はかえって安いのである。本にしても何かモノを書いていて調べるとき必要なとき千円以下だったら買っている。この買い方も今までにありえないことである。本の買い方自体変わってしまったのである。本屋に行って買うのとはまるで違う、誰でも調べ物があるときどうししても今までは百科事典とか本で調べる他なかった。今はインタ-ネットである、インタ-ネットに出ていなくても本の世界はインタ-ネットより膨大な蓄積があるから本を注文すれば知識は何でも手に入る時代である。ただ金がかかるからアマゾンの古本で安いの買っているのだ。

インタ-ネットは知識関係では相当な変化をもたらした。今までならこの文机で筆でで書いていた人もいた。もちろん万年筆で書いていた時代が長かった。しかしその時間は何か時間的に悠長なのである。筆で書いていたら本当に悠長である。「つれづれなるままに日がな机に向かいよしな仕事を・・・」とかなる。今はどうか日がなパソコンに向かっている。ここにもパソコンをおく、そして通信でネットとつながりモノを調べたり書いたりしている。これは実際は今までにありえないことである。作家がこの文机に向かい小説などを書いていた。でも今はこうしてすぐにプログに書いて発信する。それをみんながしている。そんなことが当たり前となってしまった。


今日買ったのは「生きられた家」という本であった。この本だって通販でないと手に入らない本である。この本の感想を今ここで書けばまたここから一室から発信されるものが増えてゆく、インタ-ネットの時代は発信することが膨大に増えてゆく、気軽に発信できるからだ。要するにこの世の中にそれぞれが語ることは無限にある。自分にしてもこれほど書いてきたけど書き足りない、毎日いくらでも書くことはあるのだ。一つの室がふえただけでもそこにまた何がしかの別な世界が生まれ書くこともふえてくるのだ。この本で西洋では家具は固定化して古いものが尊重される。古いものが価値がある。それは家自体が石であったり古びないからである。だから家具もその古い家とともに何代にもわたり使われる。日本では今や蓄三十年で建て替えとなると家具も長くは使わない、江戸時代辺りだと材質も良く職人が精魂こめたモノを作っていた。そういう職人技も今はない、単なるすべてが便利なモノとなっている。一時的に便利に使うものとなっている。だから現代はモノの価値は低い、模造品が無数にあるのもそのためである。ヨ-ロッパではアンティ-クが価値あるものとして文化となっているが日本では骨董となるがそれは家具ではない、陶器類であり家具は長くは使わないのである。


鴨が二種類、交じって川に群れて浮かんでいた。胸が白い鴨と普通の鴨である。「鴛鴦に 美をつくしてや 冬木立 -蕪村」この句と類似俳句になるが冬に一段と色が美しく映えるのを視覚的にとらえた秀作だった。鴨は冬の季語だった。これは秋の季語とまちがいやすい。絵は描けないから写真でとるほかない、他にちょうど柿の木が二本門になっている家があった。これも写真をとれば写俳になる。近くでも良く観察すると見ていないものがある。見るべきものがある。これだけ狭い世界でも俳句や短歌を作りつづけたことでもわかる。狭いと言っても相馬藩内だけでも実際は相当広い、隈なく歩けば一生も費やされてしまうだろう。今の時代グロ-バル化で世界大に視野が拡大化しても深く見ることができないという問題に直面している。海外旅行が浅薄になるのは深く観察することができないからである。

2009年11月18日

冬の朝

四十雀三四羽群れて飛び来る寒き雨ふり餌ともしかも

一本の小松静に山茶花の白き花かな朝に茶を飲む

故郷にたれか訪ねむ街道の一本松や冬の日あわれ

冬に入りなお咲き淋し月見草老いて弱りて生きる人あり

冬の薔薇一輪あわれ田舎駅電車待つ人二三人かな

静かな冬、その朝にコ-ヒ-を飲み茶を飲む、今はどっちかというとコ-ヒ-である。コ-ヒ-も茶も実際は心落ち着かせるために必要なものである。ジュ-スとかでは茶にはならない、心を落ち着かせるものでないとだめである。イギリスは紅茶である。ともかく人間は心を落ち着かせるためにそうした単に喉が渇いたからと飲むものでないものが必要だった。それが文化的生活になった。お茶はもともと薬だった。お茶には心を落ち着かせる作用がある。老人が認知症の人が妄想を見て不安になったときお湯でもお茶でも飲ませればいいというのはそのためである。
今我が家には一人減ったので部屋が多い、それで一部屋あいたところから隣の庭をみている。広い庭で紅葉の木がある。そこに四十雀が飛んできていた。広い庭だから来たのだろう。四十雀はめったに街に来ない、山に餌がないときは来るのか、家でも外の景色が見えないと閉塞されていやだ。二階からは家にさえぎられて窓から外の景色が見えない、都会だったらそういう家が多い、ビルとか家ばかり見ているのは圧迫されて嫌である。時々書きものしてもその場から外の景色が見えると気持ちいいし頭の疲れもとれる。隣の庭でも広く樹が多いと安らぐ、狭い庭だと木が少ないからシジュウカラも寄らなかったのだ。
一本の街道の松に寄ることがここ数年なかった。昔の街道は六号線から遠いので行かなくなった。でもあそこに一本松が枯れそうにあるのを思い出した。松は極めて人間的であり一人の人間のように思えるのだ。だから忘れていたその松に今度は寄ることにした。月見草は今年はまだ咲いていた。これも長く咲いていた花である。

2009年11月17日

みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


伊達の領広がる春や海の風

霊山に木枯らしうなり木の葉舞う南朝滅び逃れし裔かな

山国の城にしあれや会津藩雪に埋もれて京は遠しも

政宗も天下を狙う青葉城夢はついいて北風唸る

政宗の陣を張りたる名護屋城韓国望み冬の海見ゆ

義経も政宗もまた会津藩も無念を残すみちのくの冬

政宗の大軍率い繰り出しぬ天下制覇も春の夢かな

支倉を欧州に派遣その船に夢をたくして望む海かな

みちのくに蝦夷の恨みや木枯らしのうなり吹きつつ森の鎮まる

みちのくに南部藩あり一国や城跡静か冬に入るかな

伊達藩に相馬は抗い境の木北風唸り木の葉舞い散る

(丸森-戊辰戦争の碑)
伊達藩の防ぐもあえなく討ち死にや墓に無念や木の葉舞い散る


弘前に朝雪の降り最果ての城跡訪ね我が去りにけり

朔北の蝦夷の地なれや浄らかに雪はふるかな弘前の朝

 


東北でも弘前までとなると相当遠い、弘前城は最果ての城である。雪でも信濃の雪でも会津の雪でも越前越後の雪でも京都の雪でもみな違っている。一茶の生まれた信濃はどんよりと曇って雪に閉ざされる陰鬱な所だった。それとは対照的に弘前の雪は明るかった。朝に降った雪の光景は忘れることができない、本当に雪に浄化された光景だった。雪の感覚も場所と時で相当みな違っているのだ。旅をするときやはりその場所を歴史的見地から見ないと印象に残る旅はできない、日本だとその人にもよるがそれなりに歴史をさかのぼり見ることができる。一応城があればここは江戸時代にさかのぼる。それにしても津軽とか弘前になるとみちのくでも最果てである。実際青森県は最果てであり秋田県でも東北では遠い、みちのくというとき福島県と宮城県の範囲でありそれ以外は本当に化外の地域だった。それがわかるのは伊達政宗が日本歴史上はじめて中央の政治に影響力を及ぼしたことでもわかる。秀吉と渡り合ったがかなわなかった。それでも伊達藩の領域は東北では最大になった。伊達藩から東北を見るときどうなるのか、相馬に住んでいれば相馬藩として見るのだが伊達藩から見るとまた視点が違ってくる。伊達藩が拡大化したとき最初伊達郡でありここでは海を望んでいない、政宗は若いとき海を望むことがなかった。山国の人だった。やがて領地が松島や石巻に拡大したときそこが東北で唯一の内海と島があり太平洋に開けていた。それで太平洋をわたり支倉常長を欧州に派遣する事業を計画しえた。


そういう壮大な世界的視野をもつことができたのも海を望み船を作り得る内海と島を持つようになったからである。相馬から仙台まではそうした大きな内海がない、入江がない、だから太平洋だけが荒寥として広がりそこから太平洋に乗り出して欧州まで渡る視野がもてないのだ。もちろんそこには宣教師の力を借りたからできたことでもあった。ともかく政宗がそれだけの大きな視野をもち得たのは松島などの内海に領地を広げたからである。会津を見ればわかる、山国に閉ざされて海を見ることがないから閉鎖的になり時代から遅れて最後は悲劇となった。海でも太平洋と瀬戸内海を比べるとあまりにも違いすぎている。それから伊達藩は一見大藩でも実際は商人は力をもちえなかった。豪商とかは東北ではいなかった。西では豪商がかなりいて明治維新を応援したのである。東北はそれだけの経済力がなかった。薩摩も中国の貿易で経済力があったのだ。やはり経済力が基盤にないと大きな力となりにくい、実際個人的なことになるが百万円という金を今まで自分は自由に使ったことがなかった貧乏性である。それで自分の自由に庭作りした。金があれば小規模でも文化は作れる。個人的には家作りでも庭作りでも最大の事業だからである。その個人的なものを拡大化したのが大きな文化、ルネサンスを起こしたのである。フィレンツェのメジチ家がそうである。財を蓄えて文化に費やしたからあれだけのものが作りえた。それは天才の成果だけではない、そのバックに蓄えられた財とか技術とかを運用する力があったためである。だから豪商は立派な庭を残したりするのもそのためである。一個人でも何億とかあれば自分なりの庭作りができるからやはり東北には財がないからルネサンスは起こらなかったのである。

いづれにしろ東北は権力争いに敗れたものが逃れる場所であり中央の政治で覇を唱えることが遂にできなかった。そういう風土でもあった。だから芭蕉のような敗者に同情をよせる詩人には合った場所だったのである。

月さびよ明智が妻の話せん   義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

木曽殿と 背中合せの 寒さかな  又玄

東北には古代からそうした敗者が葬られた場所だった。蝦夷森と各地にある。これは東北だけではないがやはり東北には多い、いづれにしろ東北にしても実際は相当広いのだ。とても一くくりで語れるものではない、すでに福島県自体が大きい、会津は山国であり古代から別の一国であるから福島県を歴史的に一つの国と見ることができないのである。

2009年11月15日

冬の樅の木二本

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冬の樅の木二本

はじめて踏み入る山の奥

冬の朝日さして日本の樅の木

それは限りなき寂けさの中に佇立していた

まるで千年忘れられて立っていた

神殿の柱のように厳かに立っていた

石の大聖堂の柱のように立っていた

そこには何の音も聞こえない静寂境

その樹には何がひびいたのか

ただ清らかな水の音がひびく

そのあと木枯らしが吹き唸った

木の葉は舞い散り山路に落ちる

その堂々たる樅の木二本の荘厳

その静粛にして静謐な引き締まった姿

その樹はここにどれくらい立っていたのか

ここに私は踏み入ることなく知らざりき

長年ここに住みこの樹を知らなかった

私は一体何を求めてきたのだろうか

騒音と雑踏の大都会を彷徨い

私は何を求め何を得たのだろうか

ただやたらに衝動にかられ動くばかり

もう老いてすでに死も近いというのに・・・

私は何を求め何を得ようともがいていたのか

虚しい徒労はなおつづいていた

そして今この二本の樅の木に出会った

この樹はここにどれくらい立っていたのか

ここで何もせずに延々と立っていた

雨がふり風が唸り雪が降りここに立っていた

限りない静寂のなかに・・・・・

やがて山は落葉に埋もれ雪に埋もれるだろう

あなたはここでただ静に耐えて立っていただけ

静に無言にただ耐えること

そうして長い年月の中にあなたの真価が顕れた

神殿の柱のように厳かな微動だにしない姿

石の大聖堂の柱のように立っていた

私はあなたの真の価値を知らなかった

そうしてここにあなたは無言に立っていた

そこにあなたの価値は形成された

その歳月は長く人の命よりも長い

あなたは山の奥で風の音を聞いた

数知れぬ風の音を聞いた

その風の音とともにあなたは静まっていった

その限りない静粛な姿が胸を打つ

ただ私は人は無益な日々を積み重ねた

人は社会はあなたのような静寂に至ることはない

冬の日の朝に佇む姿を人はまねることはできない

しんしんとそこには静寂のみがある

posted by 天華 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)

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木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)


竹の葉に朝露光る上栃窪

朝静か上栃窪や冬の蝶

冬の蝶いづこに消えし分かれ道

山の田を守りてあわれ冬あざみ

木枯らしや落武者追わる古道かな


冬の朝大岩二つ相対すその厳しさや風の鳴るかも

冬の朝大岩二つもの言わず清流ひびき向き合いにけり

冬の薔薇二輪淋しも風吹かれ我が朝過ぎぬ山の道かな

大倉の奥に一軒残る家冬の日さして大石鎮まる

我が来れば朝吹き散る木の葉かな巌静けく滝のひびきけり

霊山に攻防の昔木枯らしに舞い散る木の葉清流ひびきぬ

山上の落合静か木の葉舞い我がまたここにしばしとどまる

玉野なる伊達と相馬の境かな木の葉舞い散り風の鳴るかも

ごうごうと山上の森木枯らしの鳴りつつ暮れて相馬にい出ぬ

縁切れて永久に会わざる人もがな木枯らし唸り木の葉舞い散る

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朝は晴天で風もなかったがあとから木枯らしになった。でもあたたかいから木枯らしでも寒々としたものは感じなかった。栃窪は上栃窪となると奥である。この距離の感覚は車とかバイクでは感じないから困るのだ。一気に到達してしまうからである。栃窪から例の二つの大岩を通り「原生岩」「神座石」見て大倉に出てそれから大倉の奥の一軒残る家に出て佐須に出た。滝が幾筋かあり朝気持ちよくひびき紅葉が盛りだった。途中玉野へ行く道に分かれていた。その古樹の根元に古い碑があった。慶応とか見えたから江戸時代のものだから古いし貴重だとなる。行合道から一路玉野に出て相馬に出た。やはり木枯らしが鳴り木の葉が吹き舞っていた。ここは霊山が炎上して南朝が滅びその落武者が南相馬市の鹿島区真野に落ち延びた落武者コ-スである。卒塔婆峠を来るつまりだったが道がわからなくなっていた。山上では必ず落合にとどまる。ここで流れが落ち合うが人もここで休むのだ。自転車だと人間的リズムだからそうなる。今回は相馬市から霊山回りではなく大倉-佐須から霊山回りで相馬市に出た。この方が楽だった。相馬市からだと延々と坂だったから辛い、下ってみてこんな坂だったのかとわかった。下るのは自転車では気持ちいいが坂だけは難儀する。それで自転車で行くのが嫌になるのだ。おそらくだんだん行けなくなることは確かである。それで電動自転車を買うことになったのだ。
木枯らしがごうごうとなり木の葉が舞い散る、そして永久に縁切れた人とはもはや会わない無常、無情がある。それは親戚とかでもない、若いとき馬鹿げたカルトの運動とか他の人でもいろいろと馬鹿げたことで別れた人はいくらでもいるだろう。もはやそういう人とはこの世でも二度と会わないのだ。確かにまだ死んではいないから会えないことはないが会わないのだ。無情もまたいいのである。いつまでも未練をもつのはよくない、どこかで悪しき縁は断ち切らねばならない、それでなければ悪い親戚でもカルトでも男女の腐れ縁でも断ち切ることができないからいろいろ禍がふりかかってくるのだ。いづれにしろこのコ-スは南朝滅びの落武者コ-スだったのである。

 

簡単な地図

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湯船は岩松氏の伝説地名である。ここまで奥方が逃れお産して湯を使ったから湯船、これは必ずしもいい加減ではない、ここまで逃れることは理にかなっている。卒塔婆峠はどこから入ったのか、地図ではかなりの距離である。ここを行くことはかなりきつい、舗装もされていない埋もれた道になっていた。


冬の樅の木二本(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33657722.html

2009年11月13日

鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)


鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)

「汽笛一声新橋を・・・」・・明治5年(1872年)9月12日(太陽暦10月14日)に
日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開業し、新橋駅が開業した。

ここから日本の近代化がはじまった。鉄道と共に文明開化がはじまった。鉄道の時代は長かった。鉄道が廃れはじめたのは車社会になってからでありここ二〇年くらいだろう。それまでは鉄道全盛時代だったのだ。必ず駅前には鉄道員の官舎があり南相馬市の鹿島区にもあった。小学生の同級生がその官舎に住んでいた。ここの土地の人ではない、国鉄職員であり各地を回っていた。国鉄というと郵便局と同じく巨大なものであり国鉄の組合は強固であり社会党を支えていたことでもわかる。社会党は万年野党だったけど国鉄の組合の支援で成立していた。中曽根内閣の時(1987)、民営化するときも組合により高額な退職金や年金を獲得したしそれで生活している老人も未だにかなりいる。ちょうどその時まだ高度成長時代であり国に対して要求できた時代であり幸運だった。民営化しても国鉄職員はそれだけの見返りがあったのだ。物流でも必ず駅には引き込み線があり貨物車が入ってモノを運んでいた。鹿島駅にもあった。他でも必ず貨物車を入れる引き込み線があった。貨物も鉄道主体でありやがてトラックに代わるようになった。駅前は街の中心地であった。駅前通りが全国で形成されたのもそのためである。明治から文明開化しえたのは鉄道の力だったのである。それから急速に車社会に移行したのである。大学も駅弁大学とか名づけられたのもそれだけ大学も増えて一般化したためであり駅と結びついていたのは鉄道が交通の主役としては変わっていなかったからである。

芥川龍之介「トロッコ」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

交通が変わることは社会も変わる。江戸時代は北前船などが主役であった。鉄道になったとき海から陸路になった。北海道に移民した人たちは鉄道がないからやはり船で渡った。鉄道はまた資材を山からは木材を燃料としては石炭を運ぶために駅ができた。森林鉄道が各地にあったのもそのためである。葛尾村の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。相当な距離がなり延々と上りがつづくからである。この頃トロッコで運ばれていて芥川の小説に「トロッコ」が書かれたのもそのためでありトロッコは各地で目にした親しいものだった。原ノ町駅も原ノ町機関区であり木材など資材を東京に運ぶために原ノ町機関区が設置されたのでありそれが継続されて今日いたっている。北海道の鉄道は小樽でも最初は石炭を運ぶためであり客を運ぶためではない実用的な目的として作られた。鉄道が観光のためになるのはそのあとである。


人間の社会は交通とともに興隆と衰退がある。船から鉄道から車から飛行機と時代が変わっていった。江戸時代でも街道筋の宿場町は栄えた。原町は原町宿ができて町が拡大した。何故なら野馬追いに参加するのは中の郷では原町村となっていて一つの旗印しか出ていない、姓も一人だけである。野馬追いにに参加するのは街の中心ではなく在の農家からが多いことでもわかる。原町は原町村であり宿場町として発展していった。それから駅前通りが発展してやがて車社会になり六号線沿いに街は開けていった。


原町の名の起こり
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#harana1

田口などは明治の終わりまで家が十軒あまりのところで、昔から伊奈街道の荷つぎ場で店屋はありましたが淋しい所でした。それが荷車で荷つぎするようになって急に家がふえました。
「忘れられた日本人-名倉談義-宮本常一」

交通の変化は大きい、六号線沿いにコンビニができたのもそのためである。家がふえるのもあるが交通の要所からはずれるとさびれてしまうのである。そういう盛衰をくりかえしてきたのが人間の歴史である。そして街には必ず映画館があった。この映画館という言葉もすでに過去だけの言葉となった。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

当時の映画のフィルムは可燃性で、すぐ燃えたり、途中でよく切れたものである
http://www.geocities.jp/moon_roomjp/eiga/eiga.3.htm

フィルムは途中で切れてよく中断していた。フィルムが熱で燃えやすかったのである。それを直すのが腕の見せ所だった。またフィルムは運ばねばならない、これも鉄道で運ばれてきたのだ。テレビならフィルムを運ぶ必要がない、ニュ-スも映画館で見ていた。フィルムが運ばれてくるのだから遅くなっていたのだ。リアルタイムではニュ-スは見れなかったのである。手紙と電子メ-ルのような違いがあったのだ。でも映画館でみるニュ-スは相当貴重だった。動画のニュ-スは滅多に見れなかったからである。この辺では南相馬市の原町区の朝日座が有名であり朝日座を残そうとする運動もしている。映画館は当時の情報と娯楽の拠点だったのである。そしてフィルムは鉄道で運ばれていたのだ。鹿島区で映画館があったところは駅からまっすぐの道ではない、脇に入った細い道である。あの辺にいろいろな店があった。あそこが町の中心通りになっていた時があった。
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冬薔薇(田舎駅)


一輪の冬薔薇に暮る田舎駅

まれにしか電車に乗らず冬薔薇

冬薔薇客のありしや田舎町

駅前も淋しくなりぬ冬薔薇

 

電車はめったにのらない、仙台に行くときだけである。でもまた数カ月三カ月以上くらい仙台にも行っていない、仙台にもそれほど用がなくなったということか、前は本を買っていたけど今は本も買わないから特別行く必要がない。ともかく町自体活気がない、街中の通りに廃屋じみたのがあったり町の中に廃屋があり幽霊屋敷みたくなっている。子供のときから比べたらどこの町も活気がなくなっているだろう。老人だけがふえているのも活気をなくしている。子供のときは子供が群れているだけで活気があったろう。子供の遊ぶ声もしない、にぎわっているのはス-パ-くらいだとなる。この辺では電力供給地帯だから火力発電所に勤めている人が結構多いみたいだ。あとは土建業とか仕事が限られているのだ。土地も駐車場くらいしか活用することがない、土地も家も余っている。早なりミカンも作りすぎて余って安くなって農家もやっていけないという、そういいえばミカンは今年はかなり安いみたいだ。いろいろなものが余っている、作っても売れない不況である。

 

でも新商品が出れば必ず売れる、今度ちょうど近くでヤマハの電動自転車を扱っていたので最新の長距離行ける電動自転車を一五万で買う、これは坂を上れるみたいだし長距離用なので買ってみることにした。自転車は坂を上ることでエネルギ-を消耗してしまうのだ。この自転車は人気があるらしく注文してから一カ月はかかる、電動自転車は売れているのだ。日本も不況でも必新技術の新商品を出せば世界でも売れるのである。自転車は種類によってもメ-カ-によっても走り具合がみんな違っていることが不思議である。宮田の自転車は軽く走りやすい、乗っていて気持ちいい、自転車乗り心地を楽しむものである。走りを楽しむものである。登山は頂上まで上るに苦行であり疲れすぎるから嫌になってやめたのである。自転車も坂さえ軽く上れば遠出も楽になる。電動自転車は半分バイクであり確かに危険な面がある。これは本当の自転車とは違っている。やはりバイクと自転車が違うように電動自転車は本当の自転車とは違う、自転車は人力だけで走るものであり動力をつけたとき本来の自転車ではなくなっているのだ。

2009年11月12日

冬あざみ


船見えず今日浪荒れて冬あざみ

太平洋小湊一つ冬あざみ

故郷に根付き暮らさむ冬あざみ

 

あざみは長く咲いている花というより草なのか、しぶとい花と言えない花である。昨日の余波か太平洋の浪は荒れていた。太平洋と日本海と瀬戸内海とは相当違っている海である。太平洋はあまり船も通わない荒寥とした海である。古代から航路は日本海にあったからだ。港らしい港となると松島辺りだけでありあとは点々と小さな湊が隠れるようにしてある。

 

故郷からは常に出て行く、住む気にはならなかった。一カ所にいるとやはり新鮮味がなくなってくるのだ。だから四、五年全く旅しないということは三〇年間旅してきたのだからこんなことになるとは思わなかった。でも六〇以上になればどこか一カ所に落ち着くのが普通だった。それは故郷でなくてもいい、この年になるとやはりどこかに腰を据えて落ち着き仕事をしたいとなる。

故郷ととなると仕事でもたいがい建築土木関係や農業でも何代かつづいている家が多い。
それで墓の仕事でも家の建築でも親がその仕事を請け負い建てたりする。次にその子供が跡を継いでやる。するとあなたのお父さんはいい仕事をしたとか、この仕事はずさんだったとか父親の代までその責任を問われる。墓を工事したのは三〇年前以上でもこれを建てた人は誰だ、土台をちゃんと作っていなかった、ずさんな仕事だと新しく頼んだリホ-ム業者に言われる、そしてこれが百万では高すぎると聞いて高いのに工事がずさんだとなり疑問に思うようになる。

三〇年前の仕事などすでに忘れていたが今になりその工事のいい加減さが問われたりする。
都会だったら誰が工事したかもわからないから問われることはもうないのだ。田舎だとそうした無責任なことをするとあとあとまで責任が問われる。同じ狭い場所で生活がつづくとそうなるのだ。だからあまり無責任な仕事はできない、狭い地域だから悪い評判がたつと仕事がてきにくくなるからだ。

人間どこで死ぬのか、死ぬ場所は人間にとって大事である。骨を埋めるというのはそこで自分の仕事を完成して死ぬということにもなる。旅ばかりしていたらそうはならない、あちらこちら転々としていたらやはり人間として完成する仕事はできない、遂に故郷で死んでゆくのが運命だったのか、東京のような大都会には今や行く気すらしない、結局そこには何の魅力も感じられなかった。東京砂漠であり何か得るものがなかった。人間東京に行ったからといって人間は変わらない、そもそも外国をいくら旅しても人間そのものは変わらなかった。一年くらい留学すれば外国の文化のことが肌でわかったかもしれないが旅だけでは無理だった。それだけ外国を理解することはむずかしいのである。死んだ家族の菩提を弔うということもあり遂に自分もここで死ぬようになるのか、自分もそんな年になったということである。

2009年11月11日

秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)


秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)

伊達の将相馬の将や冬の暮

米沢藩古地図に残る冬の暮

十一(ジュウイチ)の入山上の森に鳴くその声聞き入る夏の夕暮

相馬より分け入り上る山上に流れの清し秋の朝行く

山上に流れの清し蝶の飛ぶ秋の朝かな奥に分け入れる

筆甫(ひっぽ)へと山分け入りてつづく道我が立ち止まる秋の夕暮

みちのくに攻防終えて静かなる北風吹きて城の跡かな

大倉は玉野の隣卒塔婆の峠の道や秋深むかも

大倉の奥は佐須なりその昔行き来淋しく冬となるかも

墓一つ標とあるも消えにけり大倉の奥冬となるかも

山上に落葉を踏みて佇みぬ中村近しも我が下るかな

三〇戸紙漉沢の昔かなその水澄みて冬に働く

山上に中村近しも薪運ぶ昔にあれや冬の日暮れぬ



自転車で前は山上から霊山辺りは相当行き来していた。ここ十年以上は行っていなかった。自分の仕事は旅することだった。例えば山上には入(いり)山上となると山上の上流地域になる。その辺に橋がありそこでいつも休んでいた。その時森の中から聞こえてきたのが十一(ジュウイチ)の鳴き声なのである。これは相当前でもめずらしいから記憶していたのだ。ジュウイチジュウイチと低音で鳴いてもこの鳥の姿を見ることなかなかできない、暗い森の中で姿を見せず鳴いているから神秘的である。あそこでこの鳥の声を聞いたが他では聞いていない、これなども相当暇人でないと鳥の観察もしにくいだろう。暇人だからその声を聞くことができたのである。

山上は宇多川の上流でも真野川などと違って川は短いからすぐ山に入り清流になっている。街中を流れている水は澄んでいないが山上に入るとすぐ清流になっているのだ。紙漉沢という地名が残っていて実際に三〇戸も紙漉をしていたのだからこの地名が残った。
冬は紙漉に大切な谷間の湧き水が冷たく澄む最適な季節。 紙漉は冬に行われる。冬は農家も仕事がないから仕事になり良かった。相馬では障子紙を作っていた。三〇戸もあるということはそれだけの需要があった。障子ならそれくらい必要になる。障子なら字を書く紙とは違いそれほど高等な紙とはならないから大量生産できたかもしれない、紙漉となるとぽつんと一軒二軒とかになっているが実際は三十戸もあったのだから村全体が紙漉の村となっていたのだ。

紙漉の俳句
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


山上から薪なども運ばれた。ここからなら馬車などで城のあった中村は近い、今は相馬市となっているが元は中村市であり中村駅だった。京都の大原などは相当遠いし奥地でありあそこから大原女が薪を運んだということが地理的にわかりにくい、山上だったら地理的にわかりやすい、城のある中村に山上からは障子の紙や暖房や燃料の薪や炭、松川浦からは魚が供給されたことは今でも簡単に想像できる。玉野村の隣は大倉だけど大倉にとっては佐須の方が身近だったかもしれない、川が昔は道となっていたからそうなる。ただ卒塔婆峠は南北朝時代からあったのだから一番古い道であり大倉と玉野は行き来があったのだ。玉野村より大倉が早く開けた。岩松氏の時すでに大倉はあったからだ。岩松氏の伝説の地名が残っているからだ。つまり鹿島区の屋形から一族が大倉に逃れたからである。この辺では卒塔婆から筆甫に行っていない、まだ相馬藩内でも未知の道があったのである。
だから次はここを探索してみよう。





冬の雨(金色堂)

冬の雨濡るるや静か石二つ

冬の雨濡れてものさぶ石二つ

冬の雨姉亡き後や石二つ


冬の雨近くの店の灯の親し




平泉(冬)

三代の栄華の跡や冬の雨

みちのくや冬の雨ぬる弁慶松

みちのくや金色堂に冬の雨形見と残る栄華の跡かな

みちのくの都はいずこ雨しとと枯野を濡らし暮れにけるかな


冬の雨でも今日は強く風交じりで降った。今は静になっている。新しい庭でも石は年数をかけないとなじまない、日がさし風に吹かれ雨に打たれて石の重みがでてくる。だから石を見るには時間がかかる。もちろん樹もそうである。自然は長い時間をかけないと見えないのである。時間の経過のなかで見えてくるものがある。外国旅行が意外と記憶に残らないのはやはりそこに積み重なった時間がありその時間を経験できないから浅薄な印象しか残らず終わっているのだ。一年くらいそこに滞在すれば明らかに違ってくる。これは京都などでもそうである。長く滞在すれば見えてくるものがある。現代のようなただ早く早く通りすぎてゆくような旅では印象に残るものが少ないのである。


近くに一軒の惣菜屋がある。今や商店街は喪失した。でも老人になると近くが大事になる。現実手押し車でス-パ-で行けない老人もいる。あそこに一軒店の灯がともっている。あそこかなら雨の日でも歩いて行けるとかなる。老人も80以上とかなると近くの灯がより親しいものとなるのだ。車社会でもそうなってゆく、車社会は近くをかえって疎遠なものにしたのである。

芭蕉が平泉を訪ねたのは五月雨の時期だった。五月雨や降り残してや光堂-となったがこれが秋から冬に訪ねたらまたかなり違った印象になった。みちのくの夏と秋とでは相当違っているからである。弁慶松とか弁慶にまつわるものは無数にある。今みちのくの冬の雨にぬれて淋しく立っている。平泉と言っても残っているのは金色堂だけである。おそらくだから世界遺産にもならなかった。 千年の都からはほど遠い三代の栄華でありはかなく消えたのである。でも文学的滅びの跡として格好の題材となったのである。

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2009年11月10日

高齢者の二つの事故の意味するもの(福島県内)


福島県須賀川市でアンテナをとりつけ作業の61歳のアルバイトの男性が屋上から転落死

福島県双葉で伐採の男性落下して重体-北双広域シルバ-人材センタ-会員-72才
福島民報社-2009-11-10

この二つの記事はやはり高齢化社会の問題を浮き彫りにしている。61才で危険な仕事に従事していた。アルバイトというと若い人かと思ったら60以上の人だった。なぜこんな危険な仕事についたのか、やはり金になる仕事ならいいと安易にはじめたのか?、事情はわからないにしてもこういう危険な仕事はそう簡単にやるべきではない、鳶職のような仕事であり自分も屋根を直したりしてもらったがその人はプロであり慣れている。つくづく体の作りから違っている。もともと体が普通の人と違って丈夫であり資質的にそういう仕事が天職なのである。梯子をかけて上ってゆくとき自分が見上げただけでくらくらした。よほど慣れていないとまた自信がないとできない仕事である。若いとき一時そういう仕事をして死に目にあった。ちょっと足場がぐらつき不安定になると落下の危険があるのだ。ビルの上だから余計そうだった。一命をとりとめたのも運が良かったというしかない、こういう仕事は本当に危険であり日頃の訓練が必要なのである。アンテナとりつける電気工事の人は梯子をのぼるのにも腰に落ちない安全のためのひっかける道具を使っていた。つまりこういう仕事は日頃から親方につき訓練して安全策をとりコツを学ぶ必要がある。職人はいい親方についてその仕事のコツを学ばねばならない、そういうことしないでいきなりアルバイトとかでやると慣れないから危険でありこういうことが起こる。ここで見えてきたのは60以上でもこうした危険な仕事をしなければならない高齢者がいる。優雅な退職者は公務員とか少ないのである。高齢者も格差社会なのである。

シルバ-センタ-というのも現代を象徴していた。高齢者は職安に行っても職がないからシルバ-センタ-に来る、シルバ-センタ-で仕事の取り合いになっているというのも現代のせちがない時代を反映している。桜の木の伐採していたというがこれも慣れた人ならそんなに危険ということはないだろう。この人は経験者だったのか?でも72才という年はいくら経験者でも危険なのである。その年まで働かねばならないのかという疑問がある。楽な仕事ならいいがやはり危険な仕事だから疑問になる。鳶職が35才でやめているとかそれだけ危険なのである。現代は60以上でも働かざるをえない人が多い、それが高齢化社会の実体である。今回の事故はやはり高齢化社会を象徴した事故だったかもしれない、シルバ-センタ-では保険をかけているから保険金がでる、アルバイトの方は出ないかもしれない、そこが民間とは違っている。
シルバ-センタ-と言っても実際は働くことを生きがいとするより切羽詰まって金が欲しくて働いている人が多数なのである。だからこそ危険な仕事もしているのだ。田舎だと家賃が3400円という市営住宅に住めるとかそういう点では金がかからないにしても金をとる職がない、米一袋運ぶといくらとなるが女一人では運べないので二人でなんとか運んだとか言うのも女性だと金になりにくい、一袋運ぶとなると男だって辛いだろう。とにかく高齢者でも恵まれた人と恵まれない人の格差が大きい。この事故は高齢化社会が甘いものではない厳しいものであることを象徴していた。こういう仕事はどうしても若い者向きである。それを老人がするいうことは危険だったのである。

土方の採用って本当に適当なんだな
これで仕事中に死んでたら、どーなったんだろ?


建設現場の事故で複数が死んで、全員が偽名だったて事があったな…

市橋容疑者のように犯罪人でも簡単に仕事につける場所が建築土木関係である。でも経験ない人が入れば危険は大きい、経験があり訓練されていて適応能力がある人はいいがなければやはり事故で死ぬ人もいるがそれもうやむやにされるのか?アルバイト死んだ人は身元がわかっていても保証はでないだろう。ここで派遣など働く場所がないなど言っているのは甘いというのもわかる。まだぎりぎりに追い詰められていないからなのか、危険なところなら働く場所はあったのである。


posted by 天華 at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。

知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)


この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。
いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

2009年11月08日

空蝉(うつせみ)の意味-一本松


悲しさや鳴かざる蝉を手にとりぬ


この道に二輪咲きにし秋の薔薇一輪散りて夕暮るるかも

この道に木の葉の散りて夕暮れぬ行く人もなく一本の松

五本松に一本松のなお残る久しく行かじ冬となりしも


人間は生きているときは話つづける、騒ぎつづける。しかし死ねばぱったりと何も言わなくなる。姉が火葬場で燃やされるときひぐらしが鳴いていた。それで蝉のことを俳句にしたことを思い出した。俳句は短いからその人がどうしてその俳句を作ったかの背景を知らないと鑑賞できない文学である。人間もはかない蝉である。一時騒いでも死んだらぱったりと何も言わない、騒がなくなる。認知症で騒ぎすぎたが死んだらもう何も言わない、まさに空蝉(うつせみ)の・・・・・になってしまう。虚ろな蝉とはここから来ていたのかもしれない・・

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも 465

人間は60年も一緒にいればなかなかその人は消え去るものではない、何かわからないが残るものがある。以前として存在感がある、存在し続けている何かがある。まだ一年すぎたくらいでは消えない、丁度9月ころに死んだからヒグラシの鳴く季節だった。それから秋風となり回想する。この歌の感覚である。

一本松は極めて人間的なのである。人間のように思えるから人間に語りかけるようになる。それは昔から同じ感覚であり今も変わらないのだ。今はただ余りにも騒々しいからそうした一本松も忘れられているのだ。昔の街道に五本松という地名が残っている。こういう地名はどこにでもある。でもそこに五本松が残っていることは少ない、すでに街道は脇道となっている。六号線は国道であり昔の街道はここ何年か行っていないような気がする。あそこには一里塚もある。あそこはやはり遠回りになるのと坂がきついから行かなくなったのである。それであそこに残っている枯れそうな一本松を今思い出したのである。


2009年11月07日

秋の林(鳥の声)


晩菊の色採りどりに夕日かな


八沢浦家の少なく残る虫

墓所静か木立に隠れ木の葉散る

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ

まれにして秋の林に鳥の合い鳴きかわしつつ飛び去りにけり


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 西行

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ

本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。



つづきはここで

老いをともに過ごす人は誰?

http://musubu.sblo.jp/article/33486492.html



鳥が林のなかであい鳴くということこれは極自然なことである。でも人間を考えるときそうした極自然なことが人間にはないのだ。人間が挨拶するとき自然かというと自然ではない、それは実際は嫌々ながらしている。相手に悪いからとかつまり人間は自然な動作もできない、すべてが自然から離れて作られてきたものである。自然の中にあるものは要するに本当に作ったものがない、自然だからこそ気持ちいいものとなるのだ。ただ林の中で鳥が鳥と出会い鳴きあう、それは全く自然なことでありそれが秋の林ひびきあうのは気持ちいいのである。そこで上司にあいさつしたり力あるものにこびて挨拶したりと不自然なことがないのだ。人間の行うことが日々不自然なことであり自然なことが非常に少ない、また人間は機械を使うことでも不自然になる。車に乗るだけで人格も変わってしまう、早くせかされるとか車のリズムに移行するから自然的動作でなくなるのだ。鳥が飛ぶ時は全くその大気と森の枝々を渡るときも自然の中に全く調和している。それが当たり前のように見えても人間はそうなっていない、人間は唯一自然と調和していない生き物なのである。すべての生き物は自然と調和している。人間だけが調和していないから醜いものとしてある。人間の作ったものもやはり調和していない、高速道路でも自然をかなり破壊して調和を乱しているのだ。便利さを追求しても自然と調和しないとき醜いものとなるのだ。



飛ぶ原生の鳥の力 (詩の部)
http://musubu.sblo.jp/article/33490293.html

2009年11月04日

晩菊(続)(原町まで)


石黙し塵なき庭や冬の月


the silenced stone
no dust in my garden
winter moon


晩菊や近くにあれかし医院かな

晩菊やシルバ-に金を払うかな

秋薔薇に午後の日あたり二輪かな

また来るいつもの池や群れる鴨

ヒヨドリの猛々しく鳴き北風の街に唸るや電線も鳴る


テレビでやっていたけど会津の天守閣から満月が見えていた。今日はここでは見えていない、雲に隠れている。昨日はきれいな満月だった。十三夜の月は満月ではなかった。会津の天守閣から月をながめたどんな気分になるのだろう。

この町の問題は歯医者が五軒あっても内科医が二軒しかないことである。これでは選べないからこまる。車がないと行けないから困る。老人が住みよい場所は医者の問題が大きいのである。医者に恵まれていなければいろいろ困る。だから医者とは何であれ仲良くしろというのもわかる。そうはいっても医者は傲慢な人が多いような気がする。あんなに持ち上げられる職業は他にないからだ。歯医者のようにもっとふえればお客さんになるからもっと増えればいい。

シルバ-センタ-に金を払ってきたがここも国から二割くらい援助されているとか60代では職安に行っても仕事がないからシルバ-に登録する人が増えたとか仕事がないとかで騒いでいる。
確かに仕事がここもないのだ。仕事したくても仕事がない、金が欲しくても金にならないとかどこも困っている。 老後はそんな心配したくないが高齢化社会の問題は先が長くても安心できない、年金も少ないし本当にもらえるのかとかなると安心できないから騒いでいるのだ。景気が良くなれば解決するがもうそんなに景気が良くなるようには見えないから安心もないのである。


今日もいつもの池により隣の市から帰ってきた。老人になるとゲ-トボ-ルとかいつもでなじみの人と出会うだけである。そういう暮らしになる。それが落ち着いていいともなるがやはり新しい刺激は常に必要だともなる。今は意外とインタ-ネットでも意外な人と出会いるかもしれない、こんな人といたのかとプログでしる、全国になるとやはり異才を放つ人はいる。思想的異端は出版の世界からは出ない、文学賞なんかも全く出版社によって売り出され人しかでない、インタ-ネットからはそういうのとは関係なく作品でも発表できるから変わった人でも出れるからいいのである。

no dust というとき英語では全く塵がない感覚になる。これはやはり砂漠のような光景がイメ-ジされる。砂漠なら全く何かがあるかないかでありあるようなないようなという感覚にはならない、あいまいな表現にはならないのだ。ノ-かイエスしかないのだ。そういう厳しい感覚が砂漠の光景なのである。最初にノ-かイエスからはじまる。コンピュタ-でも二進論である。コンピュタ-の原理も自分には理解できない、ただ原理がイエスかノ-からはじまっているのだ。仏教では空となっているのはあるでもないないでもないということとは違っている。

2009年11月02日

残る虫(2)


残る虫化石のごとく地名かな


今日も聞く小さきものや虫の声

晩菊や老人歩む孫を連れ


南相馬市の鹿島区の烏崎に「船着」「市庭」とあるのは一体いつの時代なのか、そこが海だった頃の地名であることは間違いない、しかし船が入ってきたとしてどういう船なのか?何かその船が具体的に浮かんでこない、鳥打沢が海に面していて鉄を生産されたところだがそこに大船という地名が残っているのも船が出入りしたからなのか、平安時代までは烏崎は入江だったのか?地名は化石のように古いのである。

2009年11月01日

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?



●米沢藩が玉野村にかかわった由来

相馬市の玉野村は米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の境界争いで有名である。
ここに相馬と伊達の境の桜がある。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  相馬二編返し


天文の大乱の際、伊達稙宗の娘婿、相馬顕胤は稙宗の側につき、度々晴宗と合戦に及びました。それ以降は伊達氏と争うことが多くなり、天正十八年(1590)までの五十年間に三十数回もの合戦がありました。桜は、伊達と相馬の境界を定めた桜として植えられたもので、もともとは相馬街道(川俣町と飯館村)の境界、水境神社にあったものです。

川俣の方にあったとすると川俣の方で争いが激しかったのか、玉野村も米沢藩時代から境界争いの地だった。なぜ、米沢藩なのか、玉野村は最初横田大学という人が会津西部大沼郡金山谷の横田城から上杉氏に仕官した、それで上杉氏の城であった梁川城に配属された。そこに大学舘、大学曲輪(くるわ)と称されたとありそれだけ重きを成した人であった。相馬の城でも岡田館とかすぐそばにあるのと同じである。この時まだ伊達家の領地とはなっていなかった。その後伊達家が進出して領地化して玉野村にかかわることになった。最初にかかわったのは上杉氏であった。玉野村にはその後も伊達藩からも相馬藩からも入植がありともに住んだのである。上杉氏系統が一番古いのである。
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伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)


伊達政宗の前は梁川城を伊達氏は根拠としていた。

●玉野村が前は笹町-その由来の謎?

玉野村の前は笹町と言われていた。そこに昔から家が集まり建っていたとあり最初に入植した人々が住んだ。玉野村となる前に笹町があった。ではこの笹町の由来は何なのか?笹が繁っていたから笹町となったのか?それとも他に由来があるのか?

西館は笹町城とも言われた。名門葛西氏の家臣、笹町新九郎経尚の居館、本姓は千葉氏である(岩手県東磐井郡室根村)

『倒れ墓』と呼ばれる葛西氏家臣笹町彦三郎安頼の墓があり、牧山長禅寺の住職栄存法印(?〜1681)との因縁話が伝えられています。(石巻)

「懸田氏は源義家公の六男、陸奥六郎源義隆より出ず、十四世の後裔を高松近江守定隆と為す、定隆正中二年(1325)四月を以て、杉野目郷高松城に止住し、高松と称す。建武二年(1335)北畠顕家の命で高松城から懸田城へ移り、懸田氏を称した」と記されている。懸田氏は南朝方として活躍し、懸田城は霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点となったのである。

戦国大名葛西氏の家中に掛田氏がいた。掛田氏は葦名氏に仕えていたが、故あって葦名氏のもとを去り、葛西氏に仕えるようになったという。

 正長元年(1428)、懸田氏は宇多庄をめぐって相馬氏と結んで結城白川氏と対立し、伊達持宗の調停によって和睦しているが、その後も対立関係にあったようで、永享二年(1430)幕府内で「懸田退治」が議されている。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kakeda_k.html

高松の地に入り次に掛田(懸田)に入り掛田を名乗ったのである。その土地の名を名乗ることは在地の勢力化したということである。この掛田氏が相馬氏と争ったということはすでにここから境界争いが始まっていたのだ。笹町の地名の発祥は不明にしても葛西氏に笹町氏とか笹町城とか現実になるのだから由来がここにないとはいえない、地名からだけ歴史を解釈すると歴史的考証としては誤る場合がある。掛田(懸田)とはかかるであり山にかかるとか山の上にある田である。県(あがた)-上田でもあった。日本では最初に田が作られたところは平地ではない、山の上の水に恵まれた地域だった。平地に大きな田を作るようになったのは大きな土木工事が大きな溜め池などを渡来人などの技術でできるようになったからである。奈良とは均(なら)すであり
耕地としてならしてできた都だったとなるのだ。


●玉野村がなぜ三っつの藩の境界争いに

玉野村はやはり地理的要因で三つの藩の争いの場所になったのだ。米沢藩も伊達藩の前に領地として所領していた。そのあとに伊達と相馬がかかわってきた。だから最初に米沢藩が玉野村を所領していた。米沢藩の人がいち早く入植していたのだ。ここは交通の要所でもあった。相馬から坂を上ればここから平坦なところがつづき石田や大石につながる。だからもともと石田郷の枝村としてあったことがわかる。ここはまた米沢藩で重視したのは相馬から塩などが運ばれる所として宿駅としてもうけたこともわかる。ここは宿駅となるべき村だった。なぜなら相馬から坂を上ってくるとどうしてもここで休みたくなるからだ。ここは地勢的な自然の境界なのである。

慶長3年(1598)上杉氏家臣横田大学は相馬海岸と伊達郡を結ぶ往還の中間地点に、「人馬疲労ニ難堪ヲ憂ヒ」、宿駅本玉野村を開いた

中世はここは急な坂だから卒塔婆峠を通り大倉に出た。それは霊山城が炎上して桑折氏などが南相馬市の真野に逃れた道だったことでもわかる。ここはまた山の入会権でもめたということは木材の供給地であり山の中まで境界争いしているのはやはり木材を確保するために争ったのである。当時は木材は相当な資源だったのである。飯館村の大倉は最初に所領したのは鹿島区の岩松氏であった。玉野村は浜通りではない梁川城や石田-大石から所領化されたのである。ではなぜこれも玉野村となったのか?高玉氏が山上にあり墓も残っていた。高玉氏が進出して玉野村となったのか?それは定かではない、地名からすべて解釈すると歴史考証的には過ちを犯すからだ。飯館村は合成地名だから分解すれば元の地名の痕跡がわかる。でも笹町からなぜ玉野村になったのかは不明である。みちのくの真野の草原の草原(かやはら)を地名としたとき真野郷となる前に草原(かやはら)という地名があったから歴史に残った。笹町も最初に人が移住して住んだ一地点名であった。ただここは最近知ったので詳細に調べないとわからない、その暇もないからできない、玉野村から山上地域には何か謎が多い、境界は歴史を研究する場合に重要になるからだ。ここは自分にとっては未知であり予測するのにも知識がたりないからおおざっぱなことしか言えないのである。

宇多郡玉野とその北東部における争論の歴史地理的考察 
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1978/1/6-248.pdf

ここは詳しい、一万で詳細な研究書を出している。その一部がインタ-ネットのに出ていたので参考にできた。要するにインタ-ネットに学術書の研究論文が公開されていれば自宅でも素人でもかなり調べることができるのだ。図書館とかに行くと調べることが手間なのである。厚い本を引き出しては参照するのが手間なのである。だから今は暇がなくなったので図書館には5、6年以上一回も行っていない、なぜなら図書館では一日はりついていないと調べることができないのだ。本をもし十冊調べるとなるとかなりの手間であり労力なのである。つまり自宅で調べそれを発信しない限りもはやあとは何かできない、郷土史研究も最低近辺の町誌とかそろえて参考にしないとだめである。これを図書館でやると手間がかかりすぎるからだ。今までは暇だからできたが今やできなくなったのである。

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補足


相馬藩政史に相馬 昌胤(そうま まさたね、寛文元年7月7日(1661年8月1日) - 享保13年10月6日(1728年11月7日)の時代に巡見使が坂本まで来てそれから相馬の城まで来た 。昌胤君御見舞とあるからこの時病気だったのか、その後笹町御休-草野御泊とあるから玉野村の笹町では休みそれから卒塔婆峠を通り大倉に出て草野についてここでは一泊した。とすると相馬から歩いて笹町で休みそれから大倉に出て草野まで来た。この行程は一日だったのだろうか?一日で歩けるものかという問題がある。その前に相馬のどこから出発したのか問題になる。馬ならこのくらいの道は行けたから一日の行程だったのかもしれない、歩くとなると一日では無理だろう。相馬から塩の道では栃窪を通り助けの小屋があったのはやはり一日では越えられないからあそこで泊まることがあったからだろう。とすると馬でも結構な距離になるからこの記録はさらなる検証が必要だろう。いづれにしろ玉野村がこの時はまだ笹町と言われていたことは確かである。

注-これはグ-グルのブック検索の「相馬藩世紀1」に出ていた。



残る虫


夜に鳴く虫の音かすかふけゆきぬ


残る虫近くに住める人思ふ

数匹の虫の音ひびき田舎の夜


遠くばかりに旅していたのが介護になってから近くを意識するようになった。近くというとき隣の街でも遠かったことである。車があっても7キロくらいの距離でも車できてもらうことが手間でありなかなか来れなくなるのだ。タクシ-だと5千円もかかる。それで高いというとやはりその地点まで行き往復するから結構な暇になるからですと車持っている人に言われた。それだけわずらわすことになるからだ。だから介護とかなると近隣とか自転車で通える近くがいいとなる。町内から離れたザイになるとまた車がないと来てもらうことは手間になる。車がないということはやはり介護とか仕事とかでは田舎では大変になる。虫の声を聞くのは遠くではない、近くで耳を澄まして聞くのだ。東京辺りだと虫の音も車の騒音とかで消されてしまうだろう。ともかく生活範囲が狭まった。老人になると一般的にこうなるのだろう。老人は近くが大事になるのだ。過疎地からコンパクトシティを作り老人を移すべきだというのも一理あるかもしれない、やはり狭い範囲で便利なのが老人向きの社会である。隣の街は5万くらいあってもここはいろいろ不便なので困るようになった。その最たるものは医者とか病院が極めて限られていることなのだ。車があれば隣の街に行けるがないから不便になるのだ。車がないということは現代では弱者になってしまうのである。介護とか病気とかならないらほとんど不便を感じなかった。別に車がないとしてもやっていけたのである。特別車が欲しいとも思わなかったのである。