2009年11月04日

晩菊(続)(原町まで)


石黙し塵なき庭や冬の月


the silenced stone
no dust in my garden
winter moon


晩菊や近くにあれかし医院かな

晩菊やシルバ-に金を払うかな

秋薔薇に午後の日あたり二輪かな

また来るいつもの池や群れる鴨

ヒヨドリの猛々しく鳴き北風の街に唸るや電線も鳴る


テレビでやっていたけど会津の天守閣から満月が見えていた。今日はここでは見えていない、雲に隠れている。昨日はきれいな満月だった。十三夜の月は満月ではなかった。会津の天守閣から月をながめたどんな気分になるのだろう。

この町の問題は歯医者が五軒あっても内科医が二軒しかないことである。これでは選べないからこまる。車がないと行けないから困る。老人が住みよい場所は医者の問題が大きいのである。医者に恵まれていなければいろいろ困る。だから医者とは何であれ仲良くしろというのもわかる。そうはいっても医者は傲慢な人が多いような気がする。あんなに持ち上げられる職業は他にないからだ。歯医者のようにもっとふえればお客さんになるからもっと増えればいい。

シルバ-センタ-に金を払ってきたがここも国から二割くらい援助されているとか60代では職安に行っても仕事がないからシルバ-に登録する人が増えたとか仕事がないとかで騒いでいる。
確かに仕事がここもないのだ。仕事したくても仕事がない、金が欲しくても金にならないとかどこも困っている。 老後はそんな心配したくないが高齢化社会の問題は先が長くても安心できない、年金も少ないし本当にもらえるのかとかなると安心できないから騒いでいるのだ。景気が良くなれば解決するがもうそんなに景気が良くなるようには見えないから安心もないのである。


今日もいつもの池により隣の市から帰ってきた。老人になるとゲ-トボ-ルとかいつもでなじみの人と出会うだけである。そういう暮らしになる。それが落ち着いていいともなるがやはり新しい刺激は常に必要だともなる。今は意外とインタ-ネットでも意外な人と出会いるかもしれない、こんな人といたのかとプログでしる、全国になるとやはり異才を放つ人はいる。思想的異端は出版の世界からは出ない、文学賞なんかも全く出版社によって売り出され人しかでない、インタ-ネットからはそういうのとは関係なく作品でも発表できるから変わった人でも出れるからいいのである。

no dust というとき英語では全く塵がない感覚になる。これはやはり砂漠のような光景がイメ-ジされる。砂漠なら全く何かがあるかないかでありあるようなないようなという感覚にはならない、あいまいな表現にはならないのだ。ノ-かイエスしかないのだ。そういう厳しい感覚が砂漠の光景なのである。最初にノ-かイエスからはじまる。コンピュタ-でも二進論である。コンピュタ-の原理も自分には理解できない、ただ原理がイエスかノ-からはじまっているのだ。仏教では空となっているのはあるでもないないでもないということとは違っている。