晩菊の色採りどりに夕日かな
八沢浦家の少なく残る虫
墓所静か木立に隠れ木の葉散る
故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ
まれにして秋の林に鳥の合い鳴きかわしつつ飛び去りにけり
寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 西行
故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ
本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。
つづきはここで
老いをともに過ごす人は誰?
http://musubu.sblo.jp/article/33486492.html
鳥が林のなかであい鳴くということこれは極自然なことである。でも人間を考えるときそうした極自然なことが人間にはないのだ。人間が挨拶するとき自然かというと自然ではない、それは実際は嫌々ながらしている。相手に悪いからとかつまり人間は自然な動作もできない、すべてが自然から離れて作られてきたものである。自然の中にあるものは要するに本当に作ったものがない、自然だからこそ気持ちいいものとなるのだ。ただ林の中で鳥が鳥と出会い鳴きあう、それは全く自然なことでありそれが秋の林ひびきあうのは気持ちいいのである。そこで上司にあいさつしたり力あるものにこびて挨拶したりと不自然なことがないのだ。人間の行うことが日々不自然なことであり自然なことが非常に少ない、また人間は機械を使うことでも不自然になる。車に乗るだけで人格も変わってしまう、早くせかされるとか車のリズムに移行するから自然的動作でなくなるのだ。鳥が飛ぶ時は全くその大気と森の枝々を渡るときも自然の中に全く調和している。それが当たり前のように見えても人間はそうなっていない、人間は唯一自然と調和していない生き物なのである。すべての生き物は自然と調和している。人間だけが調和していないから醜いものとしてある。人間の作ったものもやはり調和していない、高速道路でも自然をかなり破壊して調和を乱しているのだ。便利さを追求しても自然と調和しないとき醜いものとなるのだ。
飛ぶ原生の鳥の力 (詩の部)
http://musubu.sblo.jp/article/33490293.html