2009年11月13日

鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)


鉄道から省みる地元の歴史(南相馬市)

「汽笛一声新橋を・・・」・・明治5年(1872年)9月12日(太陽暦10月14日)に
日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開業し、新橋駅が開業した。

ここから日本の近代化がはじまった。鉄道と共に文明開化がはじまった。鉄道の時代は長かった。鉄道が廃れはじめたのは車社会になってからでありここ二〇年くらいだろう。それまでは鉄道全盛時代だったのだ。必ず駅前には鉄道員の官舎があり南相馬市の鹿島区にもあった。小学生の同級生がその官舎に住んでいた。ここの土地の人ではない、国鉄職員であり各地を回っていた。国鉄というと郵便局と同じく巨大なものであり国鉄の組合は強固であり社会党を支えていたことでもわかる。社会党は万年野党だったけど国鉄の組合の支援で成立していた。中曽根内閣の時(1987)、民営化するときも組合により高額な退職金や年金を獲得したしそれで生活している老人も未だにかなりいる。ちょうどその時まだ高度成長時代であり国に対して要求できた時代であり幸運だった。民営化しても国鉄職員はそれだけの見返りがあったのだ。物流でも必ず駅には引き込み線があり貨物車が入ってモノを運んでいた。鹿島駅にもあった。他でも必ず貨物車を入れる引き込み線があった。貨物も鉄道主体でありやがてトラックに代わるようになった。駅前は街の中心地であった。駅前通りが全国で形成されたのもそのためである。明治から文明開化しえたのは鉄道の力だったのである。それから急速に車社会に移行したのである。大学も駅弁大学とか名づけられたのもそれだけ大学も増えて一般化したためであり駅と結びついていたのは鉄道が交通の主役としては変わっていなかったからである。

芥川龍之介「トロッコ」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

交通が変わることは社会も変わる。江戸時代は北前船などが主役であった。鉄道になったとき海から陸路になった。北海道に移民した人たちは鉄道がないからやはり船で渡った。鉄道はまた資材を山からは木材を燃料としては石炭を運ぶために駅ができた。森林鉄道が各地にあったのもそのためである。葛尾村の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。相当な距離がなり延々と上りがつづくからである。この頃トロッコで運ばれていて芥川の小説に「トロッコ」が書かれたのもそのためでありトロッコは各地で目にした親しいものだった。原ノ町駅も原ノ町機関区であり木材など資材を東京に運ぶために原ノ町機関区が設置されたのでありそれが継続されて今日いたっている。北海道の鉄道は小樽でも最初は石炭を運ぶためであり客を運ぶためではない実用的な目的として作られた。鉄道が観光のためになるのはそのあとである。


人間の社会は交通とともに興隆と衰退がある。船から鉄道から車から飛行機と時代が変わっていった。江戸時代でも街道筋の宿場町は栄えた。原町は原町宿ができて町が拡大した。何故なら野馬追いに参加するのは中の郷では原町村となっていて一つの旗印しか出ていない、姓も一人だけである。野馬追いにに参加するのは街の中心ではなく在の農家からが多いことでもわかる。原町は原町村であり宿場町として発展していった。それから駅前通りが発展してやがて車社会になり六号線沿いに街は開けていった。


原町の名の起こり
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#harana1

田口などは明治の終わりまで家が十軒あまりのところで、昔から伊奈街道の荷つぎ場で店屋はありましたが淋しい所でした。それが荷車で荷つぎするようになって急に家がふえました。
「忘れられた日本人-名倉談義-宮本常一」

交通の変化は大きい、六号線沿いにコンビニができたのもそのためである。家がふえるのもあるが交通の要所からはずれるとさびれてしまうのである。そういう盛衰をくりかえしてきたのが人間の歴史である。そして街には必ず映画館があった。この映画館という言葉もすでに過去だけの言葉となった。
当時「カケモチ」といって、同じフィルムを隣町の映画館と持ち回りで使う方式がよくとられ、 劇場から他の劇場へフィルムをバイクで運ぶ のが常だった。

当時の映画のフィルムは可燃性で、すぐ燃えたり、途中でよく切れたものである
http://www.geocities.jp/moon_roomjp/eiga/eiga.3.htm

フィルムは途中で切れてよく中断していた。フィルムが熱で燃えやすかったのである。それを直すのが腕の見せ所だった。またフィルムは運ばねばならない、これも鉄道で運ばれてきたのだ。テレビならフィルムを運ぶ必要がない、ニュ-スも映画館で見ていた。フィルムが運ばれてくるのだから遅くなっていたのだ。リアルタイムではニュ-スは見れなかったのである。手紙と電子メ-ルのような違いがあったのだ。でも映画館でみるニュ-スは相当貴重だった。動画のニュ-スは滅多に見れなかったからである。この辺では南相馬市の原町区の朝日座が有名であり朝日座を残そうとする運動もしている。映画館は当時の情報と娯楽の拠点だったのである。そしてフィルムは鉄道で運ばれていたのだ。鹿島区で映画館があったところは駅からまっすぐの道ではない、脇に入った細い道である。あの辺にいろいろな店があった。あそこが町の中心通りになっていた時があった。
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posted by 天華 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

冬薔薇(田舎駅)


一輪の冬薔薇に暮る田舎駅

まれにしか電車に乗らず冬薔薇

冬薔薇客のありしや田舎町

駅前も淋しくなりぬ冬薔薇

 

電車はめったにのらない、仙台に行くときだけである。でもまた数カ月三カ月以上くらい仙台にも行っていない、仙台にもそれほど用がなくなったということか、前は本を買っていたけど今は本も買わないから特別行く必要がない。ともかく町自体活気がない、街中の通りに廃屋じみたのがあったり町の中に廃屋があり幽霊屋敷みたくなっている。子供のときから比べたらどこの町も活気がなくなっているだろう。老人だけがふえているのも活気をなくしている。子供のときは子供が群れているだけで活気があったろう。子供の遊ぶ声もしない、にぎわっているのはス-パ-くらいだとなる。この辺では電力供給地帯だから火力発電所に勤めている人が結構多いみたいだ。あとは土建業とか仕事が限られているのだ。土地も駐車場くらいしか活用することがない、土地も家も余っている。早なりミカンも作りすぎて余って安くなって農家もやっていけないという、そういいえばミカンは今年はかなり安いみたいだ。いろいろなものが余っている、作っても売れない不況である。

 

でも新商品が出れば必ず売れる、今度ちょうど近くでヤマハの電動自転車を扱っていたので最新の長距離行ける電動自転車を一五万で買う、これは坂を上れるみたいだし長距離用なので買ってみることにした。自転車は坂を上ることでエネルギ-を消耗してしまうのだ。この自転車は人気があるらしく注文してから一カ月はかかる、電動自転車は売れているのだ。日本も不況でも必新技術の新商品を出せば世界でも売れるのである。自転車は種類によってもメ-カ-によっても走り具合がみんな違っていることが不思議である。宮田の自転車は軽く走りやすい、乗っていて気持ちいい、自転車乗り心地を楽しむものである。走りを楽しむものである。登山は頂上まで上るに苦行であり疲れすぎるから嫌になってやめたのである。自転車も坂さえ軽く上れば遠出も楽になる。電動自転車は半分バイクであり確かに危険な面がある。これは本当の自転車とは違っている。やはりバイクと自転車が違うように電動自転車は本当の自転車とは違う、自転車は人力だけで走るものであり動力をつけたとき本来の自転車ではなくなっているのだ。