2009年11月15日

冬の樅の木二本

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冬の樅の木二本

はじめて踏み入る山の奥

冬の朝日さして日本の樅の木

それは限りなき寂けさの中に佇立していた

まるで千年忘れられて立っていた

神殿の柱のように厳かに立っていた

石の大聖堂の柱のように立っていた

そこには何の音も聞こえない静寂境

その樹には何がひびいたのか

ただ清らかな水の音がひびく

そのあと木枯らしが吹き唸った

木の葉は舞い散り山路に落ちる

その堂々たる樅の木二本の荘厳

その静粛にして静謐な引き締まった姿

その樹はここにどれくらい立っていたのか

ここに私は踏み入ることなく知らざりき

長年ここに住みこの樹を知らなかった

私は一体何を求めてきたのだろうか

騒音と雑踏の大都会を彷徨い

私は何を求め何を得たのだろうか

ただやたらに衝動にかられ動くばかり

もう老いてすでに死も近いというのに・・・

私は何を求め何を得ようともがいていたのか

虚しい徒労はなおつづいていた

そして今この二本の樅の木に出会った

この樹はここにどれくらい立っていたのか

ここで何もせずに延々と立っていた

雨がふり風が唸り雪が降りここに立っていた

限りない静寂のなかに・・・・・

やがて山は落葉に埋もれ雪に埋もれるだろう

あなたはここでただ静に耐えて立っていただけ

静に無言にただ耐えること

そうして長い年月の中にあなたの真価が顕れた

神殿の柱のように厳かな微動だにしない姿

石の大聖堂の柱のように立っていた

私はあなたの真の価値を知らなかった

そうしてここにあなたは無言に立っていた

そこにあなたの価値は形成された

その歳月は長く人の命よりも長い

あなたは山の奥で風の音を聞いた

数知れぬ風の音を聞いた

その風の音とともにあなたは静まっていった

その限りない静粛な姿が胸を打つ

ただ私は人は無益な日々を積み重ねた

人は社会はあなたのような静寂に至ることはない

冬の日の朝に佇む姿を人はまねることはできない

しんしんとそこには静寂のみがある

posted by 天華 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)

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木枯らしの山路-冬の短歌十首(大倉-佐須-霊山-玉野)


竹の葉に朝露光る上栃窪

朝静か上栃窪や冬の蝶

冬の蝶いづこに消えし分かれ道

山の田を守りてあわれ冬あざみ

木枯らしや落武者追わる古道かな


冬の朝大岩二つ相対すその厳しさや風の鳴るかも

冬の朝大岩二つもの言わず清流ひびき向き合いにけり

冬の薔薇二輪淋しも風吹かれ我が朝過ぎぬ山の道かな

大倉の奥に一軒残る家冬の日さして大石鎮まる

我が来れば朝吹き散る木の葉かな巌静けく滝のひびきけり

霊山に攻防の昔木枯らしに舞い散る木の葉清流ひびきぬ

山上の落合静か木の葉舞い我がまたここにしばしとどまる

玉野なる伊達と相馬の境かな木の葉舞い散り風の鳴るかも

ごうごうと山上の森木枯らしの鳴りつつ暮れて相馬にい出ぬ

縁切れて永久に会わざる人もがな木枯らし唸り木の葉舞い散る

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朝は晴天で風もなかったがあとから木枯らしになった。でもあたたかいから木枯らしでも寒々としたものは感じなかった。栃窪は上栃窪となると奥である。この距離の感覚は車とかバイクでは感じないから困るのだ。一気に到達してしまうからである。栃窪から例の二つの大岩を通り「原生岩」「神座石」見て大倉に出てそれから大倉の奥の一軒残る家に出て佐須に出た。滝が幾筋かあり朝気持ちよくひびき紅葉が盛りだった。途中玉野へ行く道に分かれていた。その古樹の根元に古い碑があった。慶応とか見えたから江戸時代のものだから古いし貴重だとなる。行合道から一路玉野に出て相馬に出た。やはり木枯らしが鳴り木の葉が吹き舞っていた。ここは霊山が炎上して南朝が滅びその落武者が南相馬市の鹿島区真野に落ち延びた落武者コ-スである。卒塔婆峠を来るつまりだったが道がわからなくなっていた。山上では必ず落合にとどまる。ここで流れが落ち合うが人もここで休むのだ。自転車だと人間的リズムだからそうなる。今回は相馬市から霊山回りではなく大倉-佐須から霊山回りで相馬市に出た。この方が楽だった。相馬市からだと延々と坂だったから辛い、下ってみてこんな坂だったのかとわかった。下るのは自転車では気持ちいいが坂だけは難儀する。それで自転車で行くのが嫌になるのだ。おそらくだんだん行けなくなることは確かである。それで電動自転車を買うことになったのだ。
木枯らしがごうごうとなり木の葉が舞い散る、そして永久に縁切れた人とはもはや会わない無常、無情がある。それは親戚とかでもない、若いとき馬鹿げたカルトの運動とか他の人でもいろいろと馬鹿げたことで別れた人はいくらでもいるだろう。もはやそういう人とはこの世でも二度と会わないのだ。確かにまだ死んではいないから会えないことはないが会わないのだ。無情もまたいいのである。いつまでも未練をもつのはよくない、どこかで悪しき縁は断ち切らねばならない、それでなければ悪い親戚でもカルトでも男女の腐れ縁でも断ち切ることができないからいろいろ禍がふりかかってくるのだ。いづれにしろこのコ-スは南朝滅びの落武者コ-スだったのである。

 

簡単な地図

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湯船は岩松氏の伝説地名である。ここまで奥方が逃れお産して湯を使ったから湯船、これは必ずしもいい加減ではない、ここまで逃れることは理にかなっている。卒塔婆峠はどこから入ったのか、地図ではかなりの距離である。ここを行くことはかなりきつい、舗装もされていない埋もれた道になっていた。


冬の樅の木二本(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/33657722.html