2009年11月29日

冬の雲(電動自転車で鹿島から原町へ買物)

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松一本街道に残り枯芒


五本松名のみとなりて冬の暮

三色の冬薔薇映ゆ瀟洒な家

黒竹に映えて暮れにき冬紅葉

駅遠く街のはずれや冬の雲

寝たきりに動かぬ病人冬の雲

街道の一本松のあわれかな枯れつつ残り芒も枯れぬ


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日吉神社のある一石坂を今度買ったヤマハのパスブレイスの最新式で上った。これは坂に強い、距離も百キロはでる。ここの坂はきついから10年間くらい上っていない、歩いて上るとへとへとになる。他でも飯館でも坂上るのに半日かかるからなかなか行けない、これだとそれほど疲れずに行ける。こういう自転車が欲しかった。やっと願いがかなった。これは短距離だと思ったが本当に長距離向きである。荷物をのせても電機で走るから半分バイクだから楽なのもいい、これは長距離でも楽に走れるものなのだ。老人でもこれだと楽になる。機械の力はやはり車が社会を変えてしまったようにその効果は大きい、坂の多い日本には向いている。なぜこのような自転車が日本で作られたかというとやはり日本は坂が多いせいなのだ。山が多いからトンネルも多くトンネル技術が発達した。風車は中東のような砂漠地帯で発明されたのもわかる。風が常に吹いているからである。つまり技術もその国の風土によって開発されることがあるのだ。スポ-ツだってイギリスのようなまるで国土がゴルフ場のようになっているからこそゴルフも発達するのがわかる。

陸前浜街道の五本松に一本残った松は枯れそうになっていた。もう枯れてしまうだろう。
松は枯れても惜しまれるから地名となってまで残る。宮城県角田市藤田(字枯松)とかそこには松がありやがて枯れたが地名化して残ったのである。ここから植松を通りイオンのショッピングセンタ-で買物した。途中の住宅地に三色の冬薔薇が咲く瀟洒な家があった。これは家と花がマッチしていたので写真にとった。その近くに黒竹と紅葉があった。黒竹ははじめて見た。庭作りに興味をもったので黒竹は利用できると思った。庭は狭すぎるからこの竹を活かすことはむずかしい。竹は竹林にならないと感じがでないからだ。


街からはずれたところにどんよりと冬の雲が停滞している。でも街からはずれたというときかえって中心街が寂れている時代である。駅から遠くても今は中心からはずれているとはならない、車時代だからかえって郊外のス-パ-などに人が集る時代である。だからこの句も時代的にあわなくなる。駅から離れている中心通りから離れている、車の時代は全く中心から離れていても影響されないのだ。郊外に店は広がるという時代である。これも矛盾しているといえばそうなのだが車がそういう社会を作ったのである。電動自転車でも便利さを感じたから一旦こうした便利な機械を利用したらもう手放せない、電動自転車でさえその威力を感じたからである。

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老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)


老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)

●家族から見捨てられた人は施設でも価値を認めるのはむずかしい

老人の価値を見出すのは施設などではむずかしいだろう。老人の価値は過去にありその過去を良く知らないと価値が見出せない、だから介護でもモチベ-ションがないから嫌になる。単に介護の給料が安いというだけではない、こんな役たたない老人を世話して使役されて何の意味があるのかとなるのも当然である。現実、子供からも見捨てられた不倫とか迷惑かけただけの女性が最近死んだけど娘は死んでも行くことがなかった。でもそういう人を国では世話しつづけていた。事情を知らなければかわいそうな人となるが実際は大変な迷惑をかけただけの人だったとなる。やはり家族からも見捨てられる人は家族内でも価値あることをしていなかったのだ。老人は社会的に価値あることをした人でなくても家族内で価値を見出すことができる。
男性の場合は社会的価値ある仕事をしたかで判断されるかもしれないが女性は家庭内で価値あるものと認められる。自分にしても家族内で家族を支えてきた過去があるから認知症になっても世話していた。他にも世話になったという人が認知症になっても正常なときと同じ様に接してくれたのはそのためである。老人の今を見れば無惨な姿でも過去をみれば立派であり社会に家族に尽くしてきたとなれば簡単に捨てられない、価値がないものとは見れないのだ。

問題は一旦病院とか施設に入るとその人がどういう価値があるのか見出せなくなる。社会的に価値あるといってもそれを判断することは簡単にできない、だから福祉の観点からただかわいそうだからめんどうみるとかなる。そうなればその人の過去は関係なくなるのだ。でも自業自得でかわいそうな人になっている人もいる。生活保護なども今やかわいそうとは限らない、本当に自活の道を探す前に簡単に受けられるから受ける人も多い、親戚に頭を下げるのが嫌だとかもあり身勝手なことも多い、個々に違っているにしろそういう人も今や相当多い時代なのだ。
個々の事情から人の価値を見分けることはむずかしすぎるのだ。家族だったらそういう価値判断は容易にできる。子供のときから一緒に生活しているし親のことを知り尽くしている。前の例のように子供にただ迷惑ばかりかけた親も普通にいる。そういう人を社会的にめんどうみるとき
「なぜ家族は施設にも来ないとか病院に来ないのか、赤の他人がこれだけめんどうみているのに・・・」となってしまうのはわかる。子供に問題がある場合もあるが大方は親に問題があったからそうなっているのだ。

●高齢者の価値判断は新しい問題


普通老人は必ず社会的に価値は認められない人でも家族の中では何らか価値を認められるからである。第一社会的に価値ある人と認めることはかなりむずかしい、何が社会的に価値あることなのか?例えば戦争を経験した老人80代でまだいる。「俺たち死ぬほど苦労して戦争して日本のために尽くしてきた」と言われてもその戦争は無駄だったとか、かえって日本のためにならなかったとか価値判断する人もいるからだ。では「俺は社長だった、議員だった、弁護士だった、教師だった・・・」いろいろな職業に従事した人もいる。そういう人は金をもっていても本当に尊敬に値する人なのか、価値ある人なのかと老人になって価値判断することはむずかしいのだ。むしろ下働き薄給で掃除婦や農民や職人での方が価値あると判断することもあるからだ。人間を社会的に価値判断することはそれだけむずかしいのである。家族内だと容易になるが社会的価値判断はむずかしいのである。
だから福祉の場合、施設などでは病院などではともかくそうした個々の事情を考慮せずにとにかく患者なのだから病人なのだから弱い人なのだから愛の心をもって分け隔てなく接する、看護する、介護するべきだとなる。例えその人は悪人でも病人だからいたわり介護しなければならないとなる。しかし今問題になっているのは老人は価値がない、そんな価値がないものを若い人が世話してどうなるという問題が高齢化で極端にクロ-ズアップされそれが行き着く先は安楽死させろということまでなる。老人が家族内では価値あるものでも一旦施設などに入ると家族がめんどうみないような人をなぜ赤の他人が苦しい思いして面倒みなければならないかという問題になっているのだ。介護過剰の問題もある。寿命の限界を越えて科学の力で生かし金ばかりくうのが老人だという社会的批判もでてきている。生命はただ伸ばすだけに意味があるのかとか社会的価値判断として老人が問題になっているのだ。昔なら老人は家族なの中で介護されて死んでいったから社会的問題になることは少ない、そんなに高齢で死ぬ人もまれだった。社会的問題としての高齢化問題は存在しなかったのである。老人問題は昔からあったにしろ今のような高齢化社会としての問題はなかったのである。要するに高齢化社会の問題は新しい問題でありだから価値判断もできていない、ただ若い人にとっては負担ばかりふえるから経済的問題として高齢化の問題がクロ-ズアップされているのだ。老人が価値ないというとき、老人に社会の金を税金をそんなに使うべきではないということなのだ。そもそも豊だからこそ介護問題が生まれた。貧乏な時代だったらこんなに長生きもないし老人は早く死んでいたから問題は起こらなかったのである。