2009年12月31日

大晦日(自分が給金を払うことなど)


我が払う金の重みや年の暮

給金を我が払いて年の暮

近く住む手伝いの女や大晦日

留まりし石の重さや大晦日

小窓より寒鳥三四羽見えて去る

墓地近く死者を思いて年暮れぬ

街中の通りに面し我が見ゆる行く人誰や冬の夕暮

平穏に今年も終わらず風唸り家をゆすりて荒れにけるかも

 

自分は二十代で働いていたけどアルバイトであり本格的に働いたことがない、一年もつづけて同じ所で働いた経験がない、流れ作業とかしかしていないから働くこと自体嫌悪してきて遂に幸運にも働くことがなかった。もし働くことに生きがいを見出すことがあれば働いていたのである。でも実際に働いている人で現代で働くことに生きがいを見出している人がいるだろうか?働くこと自体ただ賃金を稼ぐものとなっているから働くことを忌避する人が多くなったのが現代なのである。単に怠け者とかそんな贅沢いえるのかとか批判されるがどうしても仕事に生きがいを見出すことは現代ではむずかしいのだ。それにしても自分が人を雇い給金を払っているというのは奇妙である。一人お手伝いさんを雇うだけでいろいろ考えることがあった。今回は一カ月何時間とか毎日きていたから余計にずいぶん働いてくれたなと考える。それでこれだけの給金なのかとも考える。給金を払う方が金の重み、価値を考えた。一カ月間となると結構長かったからである。それも毎日だったから余計にそう思った。これだけ働いてたかがこれだけの給金なのかとも払う方が考えたのも奇妙である。働くこと金をもらうことはそれだけの積み重ねがあってもらいるものである。一方遺産を一気に苦労せず遺産を何億とかもらったり土地を相続して働かず暮らしている人もいる。その金は大きすぎる。毎日せっせっと働いてたいした金が入らない人もいる。その差が大きすぎるのだ。自分にしても小金が遺産として入ってきたからにているところはあった。だから労働の価値がわからない、やっと一カ月働いてこれだけかと給金を払う方が思うのも奇妙なことである。金の価値は株で一時に何億ともうける人もいる。そういう金とこうして一カ月せっせっと働いて入る金は同じ金でも余りにも違っているのだ。だから金とは何なのだろうかと常にその不公平さに疑問をもつのである。

 

街中で通りを見ても人は歩いていない!車が通りすぎるだけで人は歩いていない、だから人のことを思わない、人は見えない、車だけが通りすぎて行く、誰が行くのかもわからない、車社会は今では当たり前ではやはり非人間的なものがある。街の通りは閑散として人も通らない、もちろん駐車場がないから今は不便すぎて買物などしない、みんな車で大きなス-パ-に隣の市でも行ってしまう。大熊町のス-パ-の広告が南相馬市で入ってくる。車だとくると思いだすのだろう。おそらく昔の街道だったら江戸時代だったら誰が旅人で誰が歩いているのか家の中から見ていてもわかった。よそ者かなどすぐわかった。街の通りで買物していたとき近所のものがしていたのだからやはり誰が歩いて誰が買物に来るかわかっていた。今は小さな町では近所もわからない、車で遠くに買物するからである。だから山村だけではない小さな町もさびれる。車が通りをすぎてゆくだけなのである。

でも介護とかなると遠くより本当により近くが助けとなる。認知症の介護では特にそれを感じた。見守る人が近くにいると助かるのである。隣の市の親戚に電話をしてもすぐに来れないから車があってもすぐこれるようでもすぐ近くでないと対処できない、それですぐ隣の人は情ある人で認知症になったことを知っていて話をあわせてくれた。ほかは全く交際がなくなったがその人だけは最後までつきあってくれたのである。それもすぐ近くだからそうできたのである。やはり近くにいること長くいることそれは人間の生活で大きな意味をもっているのではないか?石でも樹でもそこに長くあることにより意味を帯びてくる、仕事するにしてもそこに長く勤めていることで意味を帯びてくる、重みがでてくる。価値がましてくる。それで長く勤めていただけでも月給があがったのは自然の理にかなっていたのかもしれない、派遣などという雇用形態はやはり自然ではない、理不尽な人間を部品のように使い捨てるものである。現代文明は複雑だからそうなったのだがやはり常に車時代が非人間的なものにさせるように機械にはそういうことが常にあったのである。

 

最後になって北風がふきつけて家をゆすった。一年も平穏に終わることはない、そう考えると三十年間平穏だったということは奇跡的なことだった。その反動として四年間は全く平穏が失われたのである。ともかく来年もまたプログがかきづづけますのでよろしくお願いします・・・

2009年12月30日

月明かり(年暮れむ)

 

月満ちて来年に期す年暮れむ

冬の夜や村々めぐり月明かり

一本の松の枯れつつ街道になお残りて年の暮れなむ

 

今日は満月がでている。年の終わりに満月が出るというのもめずらしいかもしれない、月の満ち欠けも人間の体や心に影響する。月は太陽と違い満ち欠けするから月の方が影響しやすい、暦も月だからである。今年もいろいろあり大変な年だった。でもなんとか終えた。どうも家族に認知症をかかえてから邪気のようなものが自分の家族をおおい自分にもおおっていた。実際に御祓いでもしてもらいたいというのが実感だった。でもなんとか一応そうした凶運は脱したみたいだ。まだ懸念するものはあっても最悪の凶運は脱したみたいだ。この凶運はどうすることもできない、ただ嵐を過ぎ去るのを耐えるほかない、どうあがいてもうまくいかなかった。次々に悪いことが起こってくる。その時ただ回りは悪意に満ちたものに感じてしまった。凶運になったらみんなそうなる。認知症とはなんだったのか未だにわけわからない、なんとも不思議な病気だった。これを理解することはまだ時間がかかる。

月明かりの冬の夜である。こういうときビルの明かりで昼間のように明るい都会より田舎は美しくなっている。山村ならよけいにそうだろう。月が村々を照らしだしている。それは絵のように美しい。村々や山村はそのように貴重なものである。大都会は自然と離れているからどうしたって美は消える、いくら人工的に美を作っても美にはならない、美を作り出しているのは自然だからである。その自然がないのだから美は作り出せないのである。ただそこに住んでいる人間はどうかとなるとこれは都会と同じだろう。それはどこでも同じである。ただ自然が豊富ならそうした人間の醜さが覆い隠されるのである。罪はつつむであり罪も隠されるのである。人間の業を隠せ・・・人間を隠せというときこれは日本だけではない、共通して人間が自然の中で醜いものとしてあるそうなったのである。

原町に電動自転車でこの頃買物で毎日行っていた。刃物を研ぐ必要があったり家事もいろいろある。今は一部手伝ってもらっているが今年は遂に石巻まで松島から行っただけで一回も泊まる旅をしていない、4年間の間一回だけ一泊の旅をしたようだが旅ができない、やはり同じ景色だけみていると単調になる。この辺は高い山がないからひきしまらないのだ。会津辺りだと高い山があるから気持ちもひきしまるのである。この辺は景色としては平凡である。やはり高い山を仰ぐと気持ちも高鳴るのである。蔵王が見えるがこれも遠くて高くは見えない、もっと真近で見えないと感動を覚えないのである。来年はどういう年になるのか?やっぱり介護中心になるのか?やはり来年は電動自転車で遠くに行ってみたい、これは長距離用であり人力だけのとはかなり違ったものとなる。坂を楽に上れるから長距離でも今までとは違い疲れないとなるとどんどん坂を上っていろんな所に行きたいとなる。坂をすいすい上るのが気持ちいいことを実感したからだ。

2009年12月29日

年の暮(故郷の墓地をめぐる)

 

高台の川子の墓地の寒さかな

故郷の墓をめぐりて年の暮

街空を烏帰るや年の暮

 

電動自転車だから原町へ最近何回も買物にゆく、そこで川子村の坂を上る、ここは結構な坂なのである。そこに墓地がある。こうした高台にある墓地は目立つ、でも町の中にある墓地や大きな市営の区画化された墓地とは違っている。在の墓地は何か墓地自体に一体感がある。実際に一つの姓から分家して同じ姓の墓があり一体感がある。だから村の墓を見るときは同じ姓があるときこれは分家した墓だとわかる。その姓を中心にして村が作られてきたこともわかる。
成田の竹内とか栃窪の大谷とかがそうであり写真に撮って出した。在ではまた本当に町や街とは違いまだ村としての結束がある。だから介護でも人の出入りが多く助け合っているというのはそのためだろう。ただだから逆にそうした古い村となるとよそ者は入りにくいとなる。寒いというほどではないが寒さがその墓にしみいるように街の墓地とは違って一体感があった。墓地は場所によってかなり性格の違ったものとなる。宗教団体の墓地などは組織化したものでありその土地とは関係ない所を開発して作られたから問題になった。その土地にとってはよそ者であり異様なものとなっていたからだ。その数も多いから困るものだった。そして墓地は簡単に一旦作ったら壊すことができないのが問題だったのである。つまり墓地も現代の人間模様を反映したものなのである。 墓地と土地は結びついたものである。都会だと墓苑を遠い場所に作るから土地と墓地は結びつかない、そういうものは不自然である。都会では何でも不自然なものになるのだ。そもそも自然と離れた生活をしているのだから墓も不自然なものとなってしまうのである。ともかく郷土史研究には墓地をみることがかかせない、それで墓地めぐりをずいぶんしたのである。

 

街空というとき原町で買物したからそうなる。ここは5万くらいの都市だから違っている。空を見たら夕暮れ烏が群れをなして帰ってゆく 、いかにも街の風景である。でもすぐ回りは田んぼなのである。とにかく今年も終わりだ。何か知らないけど「花の雲鐘は上野か浅草か(背景を読む)」のキジに600とかの今アクセスがある。こんなに一つの記事にアクセスがあることはなかった。特に俳句関係ではなかった。キ-ワ-ドできている。年の暮でここに集中したのか?どこかにリンクされたためか、キ-ワ-ドで大量にアクセスしている。いつも読まれているのが「古池や蛙とびこむ水の音の意味」の記事である。これらは常時何人かに読まれているのだ。ただこんなに一つの記事に読まれたことはない、認知症関係ではあったが俳句関係ではない、でもいづれまたアクセスはへる、平均して「相馬郷土史研究」とあわせて200ら250は変わらないのだ。
アクセスふえてどうなるのか?プログも4年間くらいやっているけど何の意味があるのか?
金にもならないしただ作品を発表できるだけというだけである。やはり多少でも金になればやる気もでるということがある。何であれ金になるということは社会に今では認められたことになるからだ。

なんだかんだいっても来年もまた書き続けていることはまちがいない、書くことによって自らを啓発している、創作しているからである。人間は創作する生き物である。何かを創造せずにはいられない、書くということは何であれその人なりのものを出しているのだ。それは福祉関係や若者が新しく農業をはじめた経験を買いていることでもそうである。そういう人はやはり実地の経験から書いているから訴えるものがある。実際に経験したことを書くことは何であれ訴えるのである。そして人間の経験する範囲は非常に狭いからそうした人のプログを読んで仕事とはそういうものかと理解するのである。人間社会が仕事から成りたたっているときそれぞれの仕事を理解しないと社会を理解することはむずかしい。それがなかなかできない、多少インタ-ネットでは仕事の理解は深まるので有益なのである。

 

2009年12月28日

年の暮(俳句短歌を安易に考える疑問)


寒村を月の照らして年暮れぬ


松川(浦)の魚を買いて年の暮

第百五十一段 「或る人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸を捨つべきなり・・・・
徒然草


老後に退職してから暇になり俳句、短歌とかやる人がいる。その人は大きな病院の院長にまでなった女性である。短歌をのせた本を出しているがその短歌はうまいとはいえない、でもその他医者としては優れた女医だった。文章からわかる。患者とのコミニケ-ションが大事であると言っているしその文章は百才を生きるにふさわしいものだった。ただ俳句短歌をはじめろとか言うのはどうかと思った。俳句短歌は意外と短いから誰でもできるし作っている人も多い、でもそこに安易なものとして誰でも作れるものとしてへたくそなものでも何か一角のものとして思い上がる要素が俳句短歌にはあるのだ。なかな小説とか他に長くなると書けない誰でも俳句や短歌を作れることに問題があるのだ。だが第二芸術と言われた。実際病気になっても俳句短歌は書ける、小説などとなると長いし苦しいから書けなくなるのだ。俳句短歌は病気になっても短いから作りやすいのである。介護しても自分が作って出していたように俳句短歌は創作できるのだ。でもそこに余りにも安易なものとして誰でもできるものとして発表しすぎる問題がある。この女性は医者としては優れていたしボランティアとして相談にのっていたことはほめられるべきである。それが一番あっていたからである。その人に一番あっていることを老後にはするべきなのである。ある女性はカラオケに精を出している。大会にでて歌っている。歌が好きだからそうなっている。そういうのはいいのである。
姉は保健婦とか看護関係の仕事に向いていた。性格的に陽気で人と接する仕事に向いていたのである。でも退職してから何もしなくなった。趣味で貼り絵とか暇つぶしにやるくらいで何もしない、台所の仕事もしない、怠け者になっていたのだ。自分の向いたことをしない、家事もしない、・・・・そうした怠け者になったことが認知症になったぼけた一因だったことはまちがいない、公務員とか先生にぼける人が多いというのはこういう人たちはあまり創意工夫する仕事をしていない、毎日同じことをしている。みんなあんな楽な仕事で月給が高すぎると言っている。確かに公務員にはそういう所がある。ぼける人は老後に退職してから自分なりの自分にあったことをしないことにある。俳句短歌でもそれか自分にあっていれば今までやってきたものならいいがこれは短くて簡単だからやってみて、そら簡単にできたでしょうとか言って発表する段になると問題である。医者としては一流でもそういうことまで芸事まで一流になれる人はまれなのである。それは農民でも職人でもいえる、そういう人が俳句短歌が簡単に作れるからと言ってワタシもできたよ、どうすばらしいでしょう、ワタシも俳句短歌に名を残す人かもしれないとなるのは傲慢である。でも俳句短歌ではそういう人が多すぎるのだ。それは結局短いから誰でも簡単にできるからこんなもんだよとなってしまうところに原因があるのだ。そしてつまらないものでも臆面もなく公表してしまうのである。だから俳句短歌には膨大なとるにたらないもののオンパレ-ドになりやすいのである。

今年も終わりである。今年も大変な年だった。でもなんとか一区切りかもしれん、姉が死んで四年間は苦労の連続だった。今日は月がでている。寒村を月が照らしているというときそれが単に外部から見ていたら平和な光景である。しかし現実疎寒村に暮らすとなると全く違ったものとなる。それは恐ろしいことすらある。でも田舎でも街中に住むものと在に農村に住むものとはかなりの差がある。農村では介護している人がいたが近所の出入りが多く助け合っているという、でもマチでは都会と同じであり全く無関心であり助け合うということはない、田舎でもそういう差があり相当違っているのだ。一方でそうした農村に住むとなると相当に拘束されることも確かである。でも相互に助け合うということではいいとなる。寒村を月が照らしていると単純なんだけど実際は今は電機なしで暮らせないし現実は違っている。ただまだ閑散とした所だからそういうふうに感じた。これは山の村より漁村のことだった。でも今日買ったカレイは高すぎた。1800円で高いし子が多すぎた。でも買ってくれと言われると買わざるをえなくなっている。年末だからしょうがないと買った。ともかくあとは当分休みである。このプログもずいぶん長くつづけた。これも短い文でもできるから長くつづけられるのだ。

2009年12月27日

初めて見た相馬市の小野の里

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誰が上る冬の羽山や昼の月


羽山なる山の寂けさ冬深む

冬山の静謐にして小野の里

冬枯れの小野の里かなはつに見ゆ

冬枯れや城より遠き初野かな


相馬の城の後ろの小野の羽山は趣きあるところだった。あそこからさらに丸森へと修験道の山がつづいている。羽山は小高い山であり里山だから身近な山である。ただその山が日本では特別なものとして崇拝された。奈良の三輪山は山自体が御神体であり崇拝されている。羽山信仰は農耕と結びついた信仰である。稲作は山から流れる水から成り立つこともあった。先祖が山に帰る、山に棲むというのもそのためである。山を神聖なものとするのはそれなりの日本人的感性からきている。ヤマトはヤマの国だからである。山の静寂は冬になると一層深まる。山は清浄の領域でありそれが修験道と結びついた。六根清浄と唱えるのもそのためである。

相馬市の城のすぐ近くに小野があったことは意外だった。人は近くをかえって知らないというか灯台下暮らしなのがこれでもわかる。ここはやはり坂だから来れなかった。今度は電動自転車だから行けたのである。だから小野の里ははじめて見たのである。確かに六号線から相馬市を通っているが小野を意識することはなかった。つまりある場所は見方を変えると全く違ったものとして見えるのだ。
大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香久山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
国とは大きな国のことではない、小さな領域がクニだった。小野はそれにふさわしい。山から見たときまさに小野の里が拓けて見えたのである。日本では国見とは高い所に上って見ることである。国見山と南相馬市にもあるがあそこは相当に高い、見える範囲も広すぎるともなる。でも海原も見えるのだからこの歌と共通している。飛鳥では海は見えないのだがここでは海も見えるのだ。さらに初野がありこれは果てる、ハツ野という意味だとか確かに城の後ろが小野でありさらに城から遠い、当時としてはかなり遠い感覚になる。この辺の感覚は小野の山に上ってみないとわからないものだった。ここは本当にはじめて見た景色だったのである。だから新鮮だった、こんな景色が開けたのかという感覚である。60すぎても近くを知らないということがある。世界中を旅しても一番近くを知らないということがある。山でも近くに知らない山があった。小野から丸森につづく山ははじめて見たのである。日本ではいかに山の領域が広いかを近くで再認識したのである。


2009年12月25日

相馬市成田の竹内氏の姓の由来

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丸森
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相馬市成田の竹内氏の姓の由来



「竹の内」は「館(たて)の内」がなまった地名として、城館跡に時々見かけられるものである

武(竹)城について
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/okegawasi.htm

樋ノ口はあるところは竹の内は呼ばれていた。竹の内という地名は全国にある。竹を植えて要害にしたという説がある。この宇多川沿いには大竹があり近くに篠竹があるから竹の多い地域だった。竹に由来することは確かであり竹が舘(たて)になるのか?竹で囲んだ館のあったところとなる。丸森にも竹の内という地名があるから竹の内は一般的にあるある地名である。そこに館があるとなると人がそれなりに中世に要害の地にして住んでいた。そしてそこから遠くない成田の斜面の墓地に竹内氏の墓がある。ここは明らかに竹内一族の墓所となっていることがわかる。下の江戸時代の墓のある所にも竹内氏の墓があり江戸時代からつづいて竹内氏がある。
弘化5年(嘉永元年・1848)である。一月早々、勘定組頭の竹内清太郎氏と面談した池田家老から「二宮氏の仕法が民間に益あることは一通りではない。自分も是非これを聞きたい。代官出府の節は自分からもよく話し合おう。なお富田には自分も面会したい。何時にても罷り越されるよう」という竹内氏の言葉を聞かされた。(日記・書簡2)

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相馬藩政期

他に標葉郷軍者の武内殿・・・・とあるとき武内は竹内が変化したものである。竹内の姓は竹の内がありその地名をとって竹内とした。鹿島区の塩崎の大岩は地名としてあり越中から移ってきてもその大岩を姓としたのかもしれない、その土地の名を名乗ることがよくある。相馬氏は移住しても相馬という地名をこの地につけていないのだ。中村・・・となのる人はいた。中村は村の名だからそうなった。黒木というのも地名として先にありその地名を姓とする武家がいたのである。いづれにしろ竹内の姓の起こりは竹の内にあることは間違いない、竹内氏が移住して地名となったのではない、前から竹の内という地名がありその土地の名を姓としたのである。

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相馬市の高松から小野を回る(俳句短歌-写真)



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寒烏墓守なれや山の墓地


冬日さし古碑の並びて羽山かな

枯蔦や根渡神社の暮るるかな

樅の木に松向かい立つ高松の墓所を尋ねて冬深まりぬ

森閑と落葉に埋もる高松の墓地をたずぬは我が一人かな

分け入りし小野の細道冬深む枯木二本の影なし暮れぬ

冬のくれ小野の細道分けのぼり拓けし里を我が見ゆるかも

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小野町を山から展望する

日立木から相馬市の高松の墓地によった。八坂神社とあり江戸時代の念仏の碑があった。八坂神社は珍しいほうだろう。ここは古い墓地なのかよくわからない、江戸時代の墓が一つくらいあったようだが古い墓地ではないようだ。新しく作られた墓地なのかもしれない、この墓地は外から見えないからわかりにくい、隠された秘密の墓地なのである。その中に樅の木と松の木がありいかにも古そうなのだがそうでもない、むしろここから下りたところの墓地の方が古かった。
ここでは烏だけが鳴いていて墓守をしていた。そんな場所としてふさわしいのだ。

この墓地をあとにして相馬市の城の後ろの西山から南小野の山道を回った。
小野晴雪 分けのぼる小野の細道風さえて雪に晴れたるあけぼのの空
冬のくれ小野の細道分けのぼり開けし里を我が見ゆるかも
小野という領域は広い、小野町もあり地形的には山の傾斜地になっているからあっている。野とはまさに山の傾斜地でありそこから広がる平野なのである。こういう地形は日本には多いから野とつく地名も多い。途中の羽山神社がありここの碑も相当古い、天明(1781-1789)とたしかにあった。不思議なのは近くに丸森になるが天明山がある。この碑とも関係しているのかこの辺は修験道の山となっている。羽黒山もあるからだ。相馬の城の近くに小野がありこの山は丸森につづいている。山深い丸森へとつづく道である。ここからも丸森の方へ行ける山道があった。電動自転車なら行けるだろう。これは坂道に強いから坂の多い日本では相当役に立つ、山道も悪路も上るから凄い、こうして山道を行けるとさらに地理に詳しくなるからいい、相馬の城の背後にこれだけの山がある。相馬の城はこの山際に作られたのである。そして昔の道は小野を通っていた。相馬から東は田町方面は湿地帯だったからである。やはり実地に歩いてみると地形がわかりその土地がどのように発展していったかわかるのだ。
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2009年12月24日

相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想


相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想

 

山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里

芦沼微雨 芦沼のあしの若葉に波越えて汀ぞひろき五月雨のころ (黒木田-岡本-成田)

高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

小野晴雪 分けのぼる小野の細道風さえて雪に晴れたるあけぼのの空

中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風

山上は相馬の城から比較的近いから柴などが燃料として実際に運ばれていた。真柴たく・・・ということで生活的にも身近な山である。黒木田と岡本-成田辺りは芦の沼がまだ多かった。それで五郎右ェ門橋とあるのはやはり開墾されるべき田となるべき地が広がっていたためだろう。城の近くでもそうなっていたのである。小野という地名は野という地名は山の中の傾斜地であるから地図を見ればそこにふさわしい場所となっている。小野の細道とは昔の道は城の北側の高い地域を通っていた。今城のあるところから東側でも相当な湿地帯でありあとから田にされていったから山側が古い道なのである。昔の地形を想像するとき湿地帯が相当に広がっていることを知らねばならない、その湿地帯を通る道はない、だから山側が昔からの古い道である。

成田の墓地を見てそこから急な坂を上ったところが高松でありそこに隠されるように墓地がまたあった。

 

高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月

これはぴったりだった。あの坂をのぼり山の頂上に隠された墓地を見ればわかる。面影すごき・・・地となっているのだ。これも実際に上ってみないとわからない、当時あの坂を上るのは容易ではない、一旦上ったとしても面影すごき・・・として印象に残った。この歌が一番リアリティがあるし今でもその地形そのものは変わっていないから納得する。実際中野村でも淋しい雪の景色が歌われている。城から近くてもこれだけ淋しい風景なのである。そしたら万葉時代はどうなるのか?城もない、何もない、人も本当に住んでいたのかもわからない・・・そんなところで
松が浦に さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」波がたつように人の噂が盛んにたつようなことはありえいない、そんな繁華な場所ではない、そもそも人がそこに住んでいるかどうかもわからない地域だった。城ができた江戸時代ですらこれだけ淋しい場所だったのである。それからさかのぼること700年とかしたら一体どんな景色になるのか?ほとんど荒野になっている。この辺はその頃そんなに開けていないのだ。ともかく狭い郷土史でも地理が地形が基礎になっていることがわかる。高松という場所も上ってみてはじめてわかったのである。

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来

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相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来


水主-五郎右ェ門と尾浜村の松川寺の人別帳に記されている。五郎右ェ門橋とは間違いなくここからきている。ここは尾浜村の五郎右ェ門が開墾した田がありその後橋がかかりその名がついた。松川では塩場とあり塩を作り魚をとり田畑を耕していた。川船も持っていた。ただ人を養うのには田畑を増やすことでありそれで成田の方に開墾地を求めてきてここに田を作ったのでその名が残った。海の方の漁村から平地の方へ開墾して田を作る人もいた。今田も新しく開いた今の田である。尾浜とか原釜の回りは湿地帯でありそこを田にしたのは原釜や尾浜の漁師もかかわっていた。地理的には成田の方が拓き安いからこっちを選んだのかもしれない、これは資料に明確に記されているから由来は間違いない、この人には姓はないから武士ではない、十一人の大家族だからやはり田を新しく開くことで家族を養おうとしたのだろう。人の名前が地名化するときはよほどその人の貢献が大きかったはずである。だから名前が残ったのである。橋を作ったからとか橋だけからこの地名が起こった思えないからだ。

posted by 老鶯 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2009年12月23日

冬の俳句十句(日立木→相馬市→成田の墓地を回る)


冬の俳句十句(日立木→相馬市→成田の墓地を回る)

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六号線離れて橋や冬の雲

旧道や冬菜に古碑のあわれかな

橋古りて相馬の川や冬の鯉

塩地蔵街中にあり冬の暮

窯元に田町通りや冬柳

六万石城下の辻や冬柳

冬深む木の根露に古墓かな

江戸時代墓の数基や冬の暮

隠されし墓所の古りにき冬の雲

名を記す干し柿買いぬ道の駅


江戸時代夫婦の墓のあわれかな我が目を通し冬の日暮れぬ

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相馬市成田の墓地




今日は相馬の道の駅から日立木を通り相馬市に行った。その帰りに中野から成田への坂を上るとそこに墓地があった。この墓地は江戸時代の墓がいくつかあったからかなり古い。天保時代のものがあった。墓所でも江戸時代の墓があればそこは古いのだ。川子の墓は江戸時代の墓はなかった。ここは江戸時代からつづいている墓だった。詳しくは明日また書いてみよう。というのはこの成田の墓地から坂を上りきったところにさらに隠れるように坂道がありそこを上っていったら山に隠されたように墓地があった。この墓地はそれなりに広く墓の数も多かったから意外だった。ここにも江戸時代の墓があるのか明日調べてみよう。この坂を上れたのは電動自転車だったからである。これはかなり急な坂でも上れる、だから今までこんな急な坂は敬遠ししていたから坂の所はまだかなり行ってないところがあり今回の発見につながった。
相馬市というといつも書いていることだが原町とは雰囲気がかなり違ってくる。今日はそれほど寒くはないから寒雲とはならない、このくらいなら自転車でも寒いとはならないし行ける。冬の雲がにあっている城下町だった。城下町といっても堀があるくらいだから情緒があるとはいえない、でもやはり雰囲気が原町とは全く違っているのだ。それは原町は無線塔に象徴されるようにいち早く近代化した街として明治に発展したからである。相馬市は城下町として古いままに残されたのだ。だから街の道などはそれほど変化していない、相馬市に来ると沈んだような気分になるのが不思議なのだ。それがいいのかもしれない、それで今日は冬の雲にあっていたのである。

2009年12月22日

茶の心への回帰


茶の心への回帰



茶を飲みて石に通じる冬の暮

茶を飲みて東洋の心に帰るかな

冬の日に寂けさ味わう茶の心


最近茶道に興味をもったのは庭をリホ-ムして茶室みたいなものを考案したことである。庭と茶道は密接に関係していたのだ。山居を庭に作るのが茶室だった。市中にあっても山居の趣きを作る。岡倉天心が「茶の本」を出して東洋の日本の心を伝えようとしたこともそれなりに茶道には文化の神髄のようなものがあったからこそである。最近気づいたのだけどコ-ヒ-と茶の相違は何か?その味にあった。これは根本的に違っている。これほど違っているものもない、紅茶とも違っている。紅茶もイギリスの文化となったごとくモ-ニングティ-としてイギリスの文化となったごとく飲み物も単なる飲み物ではない、文化なのである。ただ喉をうるおすなら動物である。


不思議なのは動物は人間が飲んでいるように無数の味のついたジュ-スなど飲まないという、水しか飲まないということは動物は老子のように無味を味わう、純粋な水こそ最良の自然そのもの味として飲んでいる。茶道となると抹茶だから普通の茶とはさらにその味が違っているのだ。ただ日常的に茶を飲む習慣は日本人にあり抹茶を飲むとなると普通の人にはない、茶道は意外と一般的ではない、特殊な人の趣味となっている。茶道の作法を知るには相当な年期が必要になるしそうした場も必要である。すると一般の人はなかなかなじめないとなる。自分もほとんどわからない。何か日本の文化といってもなじめない、別な世界のものに感じているのも茶道が日本の文化だというのももう一つ日本人そのものがぴんとこないのである。


『経国集』(天長四・827年)には、嵯峨天皇の宮女が「出雲臣太守の茶歌に和す」として詠んだ漢詩があります。
山中の茗、早春の枝。萌芽を摘み採って茶とする時。山傍の老は愛でて宝となし。独り金鑪に対い炙(あぶ)り燥(かわ)かしむ


827年にすでに茶について語られている。いかに茶の歴史が古いかあらためて知る。それだけ奥深いのである。茗は小さくてよく見えない芽という意味・・・山傍の老は愛でて宝となし・・とあるごとく茶はやはりこんな昔から老人にあうものとしてあった。ここで自ら茶となるものを採取して茶を作って飲んだ。その味わいは買って茶を飲むより一段と味わい深いものとなる。それにしても天皇の宮女となるとこれだけの教養があった。今天皇に仕えてこれだけの漢詩を作れる女性などいない、天皇自身も作れない、天皇自体が今や日本の文化を体現していないのである。昭和天皇は和歌がうまかったから最後に日本文化をプラスにしろマイナスにしろ体現した人だったかもしれない、天皇は権力者ではない、日本の文化の頂点に立つ人としての権威だったのである。

なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに顔にかかれり 石川啄木


お茶は冬にあっている。寒いとき湯気だたちそれがなんともいえず冬らしい。特に冬の朝にあっている。今の時代、八十才でもコ-ヒ-党の人はかなりいる。コ-ヒ-にはコ-ヒ-の良さがあり味がある。コ-ヒ-は街の中の喫茶店とかでケ-キを食べながら飲むのにあっている。ヨ-ロッパの社交となると庭でも全く日本とは違っている。庭というより大勢の人が集う場である。あまりにも広いから日本の庭の感覚とはあまりにも違いとまどってしまう。日本の茶道は対話的であり少人数向きであり庭にしても狭いから何か茶室も禅のように社交というよりは悟りを得るためのようなものと通じている。茶が薬であり僧からもたらされたことでもわかる。コ-ヒ-にはカフィンが入っていて脳を興奮させるものがあるが茶には脳を静める作用がある。その味があまりにも違っている。

炬燵入り茶を飲みつつも石を見て亡き人語る年の暮かな(自作)

茶はやはり畳の上で庭の石などを見て飲むのがつくづくあっている。故人を語るときもコ-ヒ-よりは茶の方があっている。文化は総合的なものとするとき日本の庭や畳の部屋や木の家とか障子とか和合して存在する。今は文化が混合しているから本当の純粋の文化は喪失した。今の時代東洋とか国風文化へと回帰する心がまた起きている。明治維新には西欧文化に対抗するものとして岡倉天心などが「茶の本」を書いたのだが欧米文化一辺倒になって日本人は疲れた。それでまた東洋へ国風文化へと回帰してゆく。

日本は十分に過剰に欧米の文化に服した。そのあとにまた東洋へ国風文化への回帰が起きる。特に老人になるとどうしてもコ-ヒ-党もいいが茶への回帰も起きてくる。やっぱりお茶もいいなとなる。お茶の渋さは石と通じている。日本の庭がいかに石に意味を見出そうとしているか如実に示している。竜安寺の石にしても外国人が見ても何の意味があるのかわからないだろう。有名な庭だけではない、庭にはそれぞれ必ず個性があるのだ。だから庭はわかりにくい、外から見えないしわかりにくい、鑑賞するにも時間がかかりわからない、だから庭は盲点となっている。石というのも単純なものだが個性がありこれも時間をかけないと鑑賞できない、石には明らかにそれぞれ表情があるのだ。その表情をくみとることが簡単にできないのである。お茶と石は通じるものがあるがコ-ヒ-や紅茶はあわないのだ。やはり茶碗で抹茶を飲みその渋さ苦みを味わい文化に通じる。抹茶でないにしろ茶を飲むこととコ-ヒ-を飲むことはその味の違いがそもそも相当な文化の差となっているのだ。ただどちらにしろコ-ヒ-も茶もあたためて飲むとき味わいがあるから冬にあっている。イギリスのような寒いところでスリランカとかでとれた紅茶が文化となったごとく寒いところで文化になった。それは共通しているのだ。

一服の茶をたて別る冬に入る

winter come
a cup of japanese tea
parting man


茶室に逢い飛び石踏みて帰る人我が思うかな年も暮れにき


茶道は集団的ではない、組織的ではない、個と個が対することにある。集団化組織化した現代の大衆文化とは相いれないものがある。庶民的にはただ茶を飲み安らぐものだが抹茶を飲むとなるとそれは大衆的ではない、選ばれたものが入りえる世界である。にじり口から入るとなるとそれは侍も商人も分け隔てなくするもの平等にするものとあるがそこは実際は選ばれたものしか招かれたものしか入れない狭い入り口なのである。実際に東北などでは茶室をもっていたりするのはまれであり親しむ機会も少ない、それは秘密の世界になっているのだ。ただ実際に作法など知らなくても茶の心は日本文化だから日本人なら思想的にどういうものか察知できるのである。
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2009年12月20日

ヤマハ パスブレイス(電動自転車)にのる

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ヤマハのパスブレイスはやはり評判どおりの優れたものだった。まだ長距離は乗っていないがこれは長距離用に作れたのだ。リチウム電池が長時間もつようになったからだ。これは半分バイクになっているのだが違うのは平地ではそれほどスピ-ドがでない、自転車だからスピ-ドが制限されている。ロ-ドよりスピ-ドが平地ではでない、でも坂には強い、どんな坂でも普通より少し力を入れれば上れるのだ。坂では苦労したからこれは凄いと思った。バイクに乗っている人はたいしたものではない、そんなことはすでに簡単にできたことで何ら目新しいことがないとなるが自転車しか乗っていない人はそうではない、自転車からの格段に進化した自転車なのである。自転車からバイクへはバイクも自転車にエンジンをつけてバイクに進化したのだがバイクと自転車は全く別物なのである。バイクはむしろ車に近いのだ。スピ-ドだって車と同じであり早すぎるのだ。そしてすでにバイクになると自ら動かすという感覚はなくなる。自動車と同ように自動に走る。ガソリンで自動に走るから車に近いのである。バイクは早すぎるから途中の景色もゆっくり見ていられない、車と同じく環境にも優しくない、轟音とともに過ぎ去ってゆく、しかしこの電動自転車はやはり自転車でありペダルを自らの足で回さない限り動かない、坂でもやはりそれなりにこがないと坂を上ることはできない、スピ-ドもかえってロ-ドよりは出ないからスロ-な自転車でただ坂に強い自転車となる。自転車は平地だとロ-ドの方がかえって楽だし早い。しかし日本はどこでも坂が多すぎてまいってしまう。それで坂に強い自転車がリチウム電池とかの発達と同時に開発された。これは電機自動車が開発されるのともにている。電池の性能が良くなったから電気自動車も実用車になる。

日本は山が多いからトンネルの技術が世界的に一番となったように自然条件を克服する技術が発展する。この自転車は坂に強いから実用的であるし長距離向きになったのは電動自転車でははじめてである。百キロくらい電池がもつとしたらまた荷物にも強いのでスペア-の電池をのせて走れば一日坂をいくら上っても電池は切れることはない、途中で電池を切らすことがないから安心だとなる。ただ欠点は電池の充電器が大きいのでこれを持ち歩くことは難儀である。ただ荷物にも強いからかなりの距離のツ-リングできる。それを試してみたいが今や介護などでできなくなったのが残念である。この電動自転車が出てから十年くらいたっているしようやく本格的なものに乗れるようになった。パソコンでもデジカメでも一般化したのは最近である。人生の晩年でもこの新しい技術を経験できたことは幸福なことだった。いくら金があってもこの時代に生まれなければこうした技術は経験できないからだ。

これは坂には強いが平地だと早く走らない、速度が制限されている。平地だとロ-ドの方が乗って早く気持ちいい、坂でも急な坂がつづくと電池が切れるから予備の電池がもう一つ必ず必要だ
それでも切れた場合はなんとか自力で走るほかない、そんなに重いというものでもないから乗りきれるだろう。
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2009年12月19日

枯木に月(川子を回り原町へ)

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この前の道に池があり凍っていた。ある程度どこの家か察しがつくだろう
六号線から塩崎の方へ入る道である。

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池凍り二本(ふたもと)の樹に蔵一つ


倒木に祠二つや冬の暮

枯木二本祠守りて古りにけり

声なきも枯木も叫ぶ痛切に

山上に昔舘(たち)あり冬の月

越中の移民の姓や五賀の墓高台にあり冬深まりぬ

黒々と枯木の影や己がじし命を保ち冬深まりぬ

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枯木が二本ある家が六号線から入る川子にある。そこからさらに入りもっと高い所、八龍神社のあるところの手前に墓所がある。ここは真宗系統の越中の移民の墓が多い、五賀などはまぎれもなくそうである。遠藤はもともと相馬市系統の郷士である。ただここには江戸時代の墓はなかった。移民の分家が住んだ所なのだろうか?この道を上った高台に祠が二つ残っていた。この祠は何の祠なのか不明である。でも土地の人が藁に米などをはさんで捧げものしていたから何か昔からあったものなのだろう。ただ謂われがわからなくなっているかもしれない、土地の人でも謂われがわからなくなるのがある。八龍神社は名前がわかっているからまだいい。こういう祠は一体何なのだろうとなる。この祠が凄まじかったのは木が倒れていて枯木が二本あり一本はまるで天に向かって叫ぶように見えたのである。ここは高台であり相当風をまともに受ける。木にも声はないが表情があるのか、やはり耐えがたいように叫び苦しむように見えた。それまでしてこの祠を守ろうとしていたのか?ここは明らかに二つの祠を守る樹であったのだ。
この辺はあまり来ていなかった。ここは坂だから今まではさけていた。今度電動自転車だからこれは坂に強いので上ることにした。郷土史研究でもその場に立つことが一番大事なのである。
帰りは細い三日月がでていた。黒々とした樹にも表情があるのか、デジカメでとった。今日も本当に寒い、冬は寒くないと冬らしくない。ただ部屋も寒くてエアコンをかけた。「風流は寒きものなり」というけどこれだけ寒いと炬燵だけでは体も冷える。でも今年は結構寒さに耐えている。

真野の日吉神社のあるところに冬の三日月が光っていた。あそこには中館があり中世に館があった。
飯館とか合成地名だが館は舘(たて、たち)であり山の上の要害の地に館を作り敵から守っていたのだ。


今日も原町まで行ったのだから体が弱っていたけどまた少し回復してきたのか不思議である。
体の調子いい時期と不調な時期は十年とか二十年単位でみるある三四年は不調だがまた回復することがあるみたいだ。いろいろ負担がかかったから体も不調になっていたのかもしれない、ただ自分の体もよくわからない、そもそも体力がないからこうしてそれなりに60すぎて活動できていることも不思議である。

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2009年12月18日

相馬藩内の人の移動について


相馬藩内の人の移動について

●相馬藩の外部からの移民

南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。

富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html



●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)


塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る


中田氏と大岩氏は一緒に来た

記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。

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●明治になってからの人の移動



相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。

原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html

八沢浦の妙見の祠

http://www.musubu.jp/somahantokushoku.htm

posted by 老鶯 at 20:09| Comment(12) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2009年12月17日

寒雲(飯館の方へ)


寒雲を飯館の方を覆うかな


門なす枯木二本や冬の暮

60すぐ男女二人や冬薔薇


俳句とかでもその背景をよむ力がないと鑑賞できない、それ以上に常に言っているのが地理なのである。地理はわかりやすいようで本当にわかりにくい、福島県がどういう地理なのか地形なのか即座にわかる人は少ない、ハマ、ナカ、アイヅと別れている。気候も違っている。会津は日本海側はいつも雪になっているが浜通りはほとんど雪は降らない、中通りは会津よりは降らないにしても降る、ここでもわずかに雪が降ったらしい、昨夜から今日は本当に寒い、凍えるように寒い、阿武隈山脈のかなたの飯館の方から寒雲がどんよりと広がっておおっている。飯館は阿武隈の地でありここでは度々寒さのために飢饉がありその供養塔が立っている。この句だってこの辺の地理がわからないと鑑賞できないのである。何事地理は大きく作用しているのだ。

60すぎると男女の関係は恋愛関係とか若いときの関係とは相当違っている。うわついたものや激しい性欲とかの関係とも違う。そういう盛んな人もいるが女性でもすでに孫をもっている人も多い、おばあちゃんであり女性の見方も変わってくる。若いときは容姿が第一になるが年取ると容姿はさほど問題ではない、60年で生きて培われたものやその人の性格やら容姿ではないものが魅力を作るようになる。何か落ち着いた関係になる。恋愛も結婚も関係なかった自分だけど女性は必要であり女性的なものが必要なのである。それは若い女性のもたらす魅力ではない、大人となった落ち着いたものとして安らぎを与えるものである。


枯木(柿の木)二本が門のように立っている写真をとった。ぴったりと門のようになっているから面白い。

 

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2009年12月15日

南相馬市鹿島区栃窪の魅力(冬の俳句より)

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水清し竹林に映えて寒椿

栃窪や古碑の並びて冬の雲

山中に命を保つ冬薊

栃窪に数本かそか冬柳

山の村一族の墓や冬木立



山の村落葉に埋もる一族の墓やその裔ここに生きるも

寂けさや木の葉一枚墓に散るそのかそけさや山の村暮る

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相馬藩内の村でもそれぞれ独自の雰囲気がある。栃窪には何でもないのだが一番感じるものがある。栃窪は古碑の村でもある。村には何かしら特徴がある。その土地と地形も深く関係している。栃窪は奥まった所にあるから鹿島区の奥座敷なのである。大谷(おおがい)という姓が多く一族の墓があり落葉に埋もれていた。他に山の中にはこうした一族の墓が残っている。ここも高速道路が通るからかなり風致が乱されたことは残念である。電動自転車はマウテンバイクにもなる、悪路でも坂道でも上る馬力がある。ヤマハのパスブレイスは坂道に強い、都会の急な坂道でも上れるように試行錯誤して作った。だからマウテンバイクにもなり馬力がついているからちょっとしたバイク感覚になっていて楽に上って帰ってきた。冬薊がその山中に残り咲いていた。平地ではみな枯れたがなぜかここに冬薊が咲いていたのは不思議である。山中でこそ保つ命があるのかもしれない、今日はかなり冷えていたが冬らしい冬になった。冬だと余り遠くには行けないからこの辺だと比較的楽に来れるからいいのだ。電動自転車で行動範囲が広がったことは確かである。ここは舗装されていないオフロ-ドでありマウテンバイクには向いている道である。いづれにしろ一つの村は宝かもしれない、それぞれの村に独特の雰囲気がある。一見何もないようでもそこだけが違うものを感じるのである。だから山中の過疎地でも一つの村が失われることは何か貴重なものとりかえしのつかないものを失われたのである。都会の人はそんな効率的でない税金を食う老人ばかりの限界集落はつぶせという。経済的にはそうかもしれないが逆に都会こそなくなっても惜しくないものともいえるのだ。


それは経済的な価値の問題ではない、アイヌでもカムイコタンというとき神の村というごとくそこに村があるということはやはり都会とは違う、別な価値を帯びていて神から見たら都会は失われてもいいが村は失われてはならない価値をもっている。自然にも神秘性があり村にもそれぞれ独自の神秘性がある。別な観点から見ると都会は経済的な価値だけが突出した異様な世界なのである。都会は惜しいとは思わないが村が喪失することは神から見たら惜しいと思うだろう。現代は余りにもすべてが経済的価値観で計られるよになったため様々な貴重なものが失われてしまうことになった。そもそも一つの村の価値を金で換算することはできない、そこに村があるということ人が暮らしているということに無限の価値があるのだ。野生の動物が鳥が自然とマッチして生きているようにやはり自然と調和して活きている村がある。大都会にはそれがないからいくら経済的観点から都会がいいと言っても価値が付加されないのである。だから都会から若者が田舎に移り住むことは経済的観点からした全く意味がない、馬鹿げている。でも別な観点からすると自然の中で生きることが無限の価値を帯びてくるのである。そこには貨幣では金では計れない価値がある。貨幣を越えた価値がある。本当に価値あるものは金では買えない、村の中の農産物を買うことはできても村全体をもっている価値を買うことはできないのである。それは部分ではない全体によって作り出されたものだからである。景観というのもそうである。景観の価値が見逃されるのは部分ではない全体の価値だから価値がつけようがないのだ。それでその全体の中で都会では知らなかった自然の中で暮らす価値の発見を体験する。自分はそこまでする根性もない、性格的にずぼらすぎる。だから田舎にいて都会的な生活をしたり鑑賞しているだけなのである。
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2009年12月14日

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき


病院に行って疲れた。前もそうだったが病院はいるだけで疲れる。車椅子を押したりするのも疲れる。帯状疱疹で三カ所で医者に診てもらった。でも実際診てもらったのは原町の皮膚科だけだった。ここもここでは治療できないということで市立病院の麻酔科に行けと言われて今日行った。すでにウィルスに犯された傷は黒くなり細菌は死んでいる。でも痛みがあるからその痛みをとるために麻酔科で診てもらうことにした。神経ブロックという傷そのものに注射して痛みをとるのは入院しないとできないという。この病気は入院した方が治療がしやすかった。緊急の措置も大事だからである。それも麻酔科のあるところが良かったのである。鹿島区にはそうした大きな病院がないから不便なのである。
三カ所でみてもらったけど一カ所はいつも研修生でありまともにみていない、研修生自体、専門の皮膚科でみてもらった方がいいですよと言っているのだから当然である。今回はむずかしい病気ではないからすぐに傷をみて病名がわかった。それで応急措置ができた。これは研修生でも誰でもわかりできるものである。でも近くの・・・・医院はこれはわからないから皮膚科でみてもらいというのは疑問だった。なぜならこの病気はわかりやすい病気であり専門外でもない、その科で治療している人もいる。だからなぜそこで病名を言い応急措置してくれなかったのか不明である。これは医者の常識として知っておくべきものだからである。専門とは関係ないもののように思える。この結果は医者に行くのが二三日遅れたからである。そして近くに皮膚科がないので週二回ほどくる研修生にみてもらうほかなかった。

田舎は医者に関しては相当不便である。また田舎でも5万の都市に住むものと一万とかの町に住むものと山村の村に住むものとではまた不便の度合いが違っている。医者は通わねばならないのでかなりの手間である。いづれにしろこのように最初からいい医者を田舎では選ぶこともできない、医者そのものがいないのである。麻酔科は原町区で二つしかないからもちろん選ぶこともできない、ここも今日みてもらったがやはり研修生が来ていたのか?でも薬について良く説明していたから一番良かったように思える。副作用について良く説明していた。普通薬の副作用について詳しく説明する医者はまれである。ただ薬をたくさんよこして副作用の説明はしない、そしてわかったことは医者はそれぞれみな診断を違っている。これまでの薬は良くきかいない、この薬が一番きくんですよと言われた。その説明をきいてそうなのかもしれないと思った。
こんなに薬の説明をした人がいない、薬飲んで食欲なくなったんですよというとそのことも説明した。高齢だから薬の量を減らして飲ませますから言われて一種類の薬をもらった。眠くなるとか副作用のことも説明してくれた。こういう医者はやはり一番いい医者だったのかな?薬の知識については医者もまちまちでありわからない医者もかなりいるから薬の副作用などをインタ-ネットで調べている人がかなりある。

いづれにしろ医者がどういう医者なのかみるのもむずかしいし医者と応対するのもやっかいである。まず質問されることが嫌がったりこうじゃないですかなどと患者が言うとお前みたいな素人に言われることがないとあるものは怒り嫌がられるだろう。質問しただけで怒られて手術すらしないと言われたことを前に書いた。手術の失敗を責任をとられることを極端に恐れていたのだ。だから私たちは責任をとりません、とりませんということの契約をさせられたと同じだった。
そして老人は甘くみられる、年ですよということで直りませんとかなる。それも90以上になるといたしかたないとなる、そして病気は薬で治らない、薬をなるべく使わないようにして直せともある。今は薬を余りにも多く多用しすぎるからである。ともかく医者に関しては田舎は不便である。
名医など探すようべくもないしそもそも専門の医者にかかること自体容易でない、ただ医者にも力量の相違がある、でもいい医者がまれだとすると田舎では医者の力量は都会よりかなり劣っていることはまちがいない、都会なら切磋琢磨があるが田舎ではない、田舎では互いに才能でも競い合うとか切磋琢磨する場に欠けているから若い医者は都会にいることを望む。

結局「遠くの名医より近くの藪」とか言われようにどんな医者でも近くの医者の方が役に立つ、そして医者は命にかかわるから大事なのである。応急措置をとらないと致命傷になる場合もある。帯状疱疹は一週間以内に治療しないと薬も一週間以内でないときかなくなるなるものがある。いろいろ医者では苦労した。近くで不親切な医者がいても他でみてもらえばいいとかもならない、ここでは二軒しかない、つまり医者がいないよりいいとかなる。それだけ医者は必要だから医者とは仲良くしておけとなるがこれもむずかしい。いづれにしろ医者の不満も田舎では言えないのである。あいつは医者に文句を言う生意気なやつだとか目をつけられたりしたら医者にもかかれないようになる。それだけ医者に関しては田舎は不利なのだ。

注意-自分は車をもっていない

2009年12月11日

寒雀(みんな貧乏の時代?)


今日も来るお手伝いさんや寒雀


ジョウビタキ窓にながめて雨しとと


都会の人には信じられないだろうけど市営住宅だと3千円とか千二百円とかある。古い住宅が田舎には多いのだ。汲み取り式のトイレだし築50年とかなっている。でも住宅がただ同然なのだ。意外とこういうこと知られていないかもしれない、都会でも市営住宅は格安だけどただ同然で入れる住宅が田舎には多い。ただリホ-ムのため金がかかる場合がある。風呂がなくてそれなりにかかったとかそのままは住めない、田舎にも資産のある人とない人がいる。でも家持ちは多い。田舎は今は特に景気のいい話をきかない、どこかでもうけているとか話をきかない、建築関係でも今はだめである。医者くらいが元から金持ちだけどそれも歯医者がふえすぎてやっとやりくりしているとかワ-キングプアになっているとか開業医もそんなにもうからないとかこう考えると田舎でいいのは公務員と公務員で年金をもらっている退職者くらいだろう。その他景気いいというのをきかない、やはり高度成長時代は相当に活気があった。でも田舎では一人一台とか車をもっているのだから車代には金を使っている。そういう金はあるということで中国人の労働者から見れば日本は金持ちだと見えるのだろう。みんな貧乏の時代、寒雀の時代になるのか?シルバ-センタ-ですら仕事がない、仕事の奪い合いだというのもわびしい。田舎でも介護関係の仕事はふえているだろう。でも給料は高くないだろう。


高齢化社会でも格差社会である。金のある人と金のない人の差が大きい。でも現代では本当に金持ちというのはいなくなったのだろう。小金持ちはいるが本当の金持ちは非常に少ないし金持ちになれない時代というのもわかる。昔は大地主とか恒産があり多くの人を雇っていた。大工とか庭師まで雇っているような家があった。それだけ家を維持するのに金をかけていたのである。だからそこで職人はゆっくりと仕事ができて腕を磨くことができたとかなる。今はみんな手間賃稼ぎの労働になったからだ。金持ちには金持ちの役割があった。金持ちがなければ文化を生まれない、フィレンツでルネサンスが生まれたのはメジチ家が薬でもうけて芸術家を養成したからである。現代の民主主義は平等民主主義であり突出したものは才能でも財産でも怨嗟が激しい、結果的に金が子供手当てとかみんなに平均的に受けるものにばらまくことになる。もし金持ちに金が集中したらその人が芸術趣味があったら大きな庭作りとかに費やす、そこで職人の技術も活きてくるのである。


一句鑑賞

富士の風や扇にのせて江戸土産 芭蕉

江戸と関東と富士山は結びついていた。今では東京から富士山は見えても富士とは結びつかない、江戸土産というと当時は浮世絵などが広まっていたから絵本なと最高の江戸土産だったろう。それを見て想像をたくましくした。現代は別に江戸-東京に行っていない人はいないしいつもテレビで写されているから情報の希少価値がない。江戸時代は情報の価値は今より何百倍も大きかった。本当に村のことくらいしか知らない人もいたろうし知っても範囲は非常に狭いのだ。扇一つでもそこには江戸が富士山が感じられる。富士山もめったに見られるものではない、今や土産の魅力もなくなった。土産はかえって底上げとか高いだけでまずいものが多い。それでも何か土産を買うということで売れる。土産の魅力が薄れたのである。江戸時代と現代を比べるとあらゆるものの価値が違ってしまっている。江戸時代よりこれだけ交通が発達して旅も自由なのに本当の旅をしている人は少ない、いづれにしろ江戸土産の浮世絵にしてもその価値は高い、食い入るよにして見ていた。今は次から次とテレビやら何やらで情報があふれかえって興味を失ってしまうという好奇心も薄れてしまう奇妙な世界になってしまった。あまりにもいろいろなものがありすぎる豊かな過剰化社会で人々が倦んでいる。豊さゆえの貧しさがある。
一方で本当の豊かさを追求できない平等民主主義の弊害もあるのだ。ともかく江戸時代の面白さは現代ではありえなくなった価値の発見なのである。

2009年12月10日

戻ってきた忘れ物

ス-パ-でバッグを忘れたけど今回ももどってきた。携帯がなかに入っていて通じた。とりにいったら今回はス-パ-の中ではなかった。ス-パ-の敷地内で落としていた。だから拾った人の名前が書いてあった。これがス-パ-の敷地の外だったら警察に届けられただろう。でなければもどってこないだろう。ス-パ-には何回か忘れている。でも寄った場所がわかっているのでどこに忘れたかはわかる。行動範囲が狭いからどこに行ったか寄ったかわかる。ス-パ-にしても二軒しかないのだからわかりやすいのだ。そのス-パ-も小さいから忘れてもわかりやすいのだ。都会だったらこういうことはありえない、ほとんど返ってこないだろう。田舎はそういう点ではいい、一方で田舎は狭い範囲で暮らしているからプライバシ-がないとかすべて筒抜けで家のことが知られてしまうというのも本当である。沖縄の島に行ったとき、同じ場所にいて動かないから怪しいと警察に連絡されたのには驚いた。旅をしていてもそんなことされたことなかったからだ。島だからよそ者が目立つのである。どこに暮らしても一長一短はある。田舎は安心社会であるが相互監視社会ともなる。日本は江戸時代から安心社会だったが今やそうではない、外部のものよそ者が外国人でも入り混在化した社会になった。田舎でも安心安全社会とはならない、ただ田舎だと今回のように落とし物、忘れ物などは回るところが限られているから返ってきやすいことはある。ただ今回はス-パ-内ではない、ス-パ-の敷地内でもそこに落としたものを拾った人がいてス-パ-の係に届けたのだからその人のおかげであり感謝している。


これは明らかにス-パ-内に忘れたのとは違う、やはりその拾った人がいい人だった。財布には携帯と金が6千円入っていた。その他カ-ド類もあったからもっていかれると結構めんどうになった。金もとられていないから感謝である。警察に届けたら落とし主にお礼をしなければならないことは確かである。この前はス-パ-のカ-ドを忘れてそれを届けた人がいて二回も警察から電話が来て嫌になった。そのス-パ-のカ-ドはほとんど使っていなかったからだ。警察に届けられるとめんどうになるのである。そんなものは届けなくてもすぐに作れる。そういうものを届けて連絡される方がめんどうだとなる。ありがた迷惑ということもあった。ともかく今回は届けてくれた人には感謝している。田舎で良かったなということであった。高齢化すると明らかに田舎の方がいいのだ。不便ではあるが都会のような混雑した所に住むことが億劫になる。行動範囲が狭い方がいいのである。認知症になっても行動範囲が狭いとある程度暮らしていけることもある。都会だったら認知症でなくても老人になったら機敏に対応できないから迷ってしまうだろう。田舎は活気がないにしろ高齢化社会には田舎の方がいいのである。

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なぜ棚田が作られたか?



なぜ棚田が作られたか?


棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html


棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。

ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。

南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。

山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ


この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。

隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html


棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。




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2009年12月09日

仙台の枯木並木

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仙台に古本買うや落葉踏む

我が貸しぬ金の返らず年の暮

明らけく新地より見ゆ新雪の蔵王まじかに朝の清しも

久々に仙台に来て街灯や枯木並木の通り歩みぬ

仙台の喫茶店に入り本を読む枯木並木に街灯ともる

 

 

半年ぶりくらいに仙台に行った。今年ほどいろいろなことがあったことはなかった。姉が認知症になってからいろいろなことが起こりすぎたのだ。死んでからもその後始末やらなにやらつづいた。庭作りやリホ-ムしたのもはじめての経験であり楽しかったが大変なことだった。自分で金を貸したのもはじめての経験であり金のことにまつわる問題がいろいろ起きた。金も相続したり金のことをこれだけ考えたこともなかった。自分はほとんど社会とは没交渉だったから金でも百万という金さえ自由に使ったことはなかった。金がどういう働きをするのかも実際の生活でわかっていなかった。そして年の暮まで今度は母の帯状湿疹、ヘルペスで寝込んで介護だった。親の介護とか最後の看取りとか葬式とかそのあとの供養とか結構これは大変なことである。これは子であるかぎり普通はさけられないことである。子をもつことも大変なことだが親をもつこともまた実際は最後になると大変なことになるのだ。人間はモノではないから死んでも祀り供養していかねばならない、団塊の世代は団介(護)の世代になっているのだ。

 

新地の駅から明らかに新雪の蔵王見えて気持ちよかった。あそこからだとかなりまじかに見えた。新地は伊達との境の地だったから蔵王が見えるのもふさわしい。新地駅は海が近く牡鹿半島も見えた。地理的にも宮城県、伊達藩の領域に入ってくるのだ。仙台では古本屋で郷土史関係の古本を買った。最近郷土史関係のネタがなくなった。インタ-ネット関係だけでは郷土史関係はわからない、やはり古本に研究したいい本がある。ただ高いので安いのだけ買ってきた。仙台の喫茶店で本を読むのが適している。雰囲気が変われば気持ちも変わる。4年間も旅に出れないから気分転換ができない、精神も停滞してしまう。介護は本当に交代する人がいないと旅はできない、一日泊まった旅が二回しただけだった。つまり一日泊まるだけでも容易ではなくなるのだ。病院に入院していればそういうことはない、在宅介護になると交代する人がいなければそうなるのである。

2009年12月07日

冬籠もり(外の景色が見える部屋)

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小窓より外の景色や冬籠もり


主なき家の淋しき赤々と薔薇一輪や冬の日暮れぬ


物置のように使っていた下の部屋を休息のために利用するようになった。小窓が一つありそこから外の景色が見える。隣の大きな庭が見える。これだけ見ているだけで気分転換になり楽しい。自分の家は前は家にふさがれて外の景色が見えない、いつもいる場所は全く外の景色が見えないところにある。ただ風の音とか雨の音は聞こえる。人間はやはり外の景色が見えるだけで気分いいものになるのだ。空に流れる雲や光の変化だけでもそこにじっとして見ていても自然を味わえる。庭の前も家であり外が見えないから庭も映えない、借景としての自然が欠けているからだめなのだ。だから外の景色が広々と見える家に住んだらまた見える景色が違ってくる。そんな家田舎では当たり前だと言うがそうではない、一万の田舎町でも町と在では全然違っている。町は外の景色が家に塞がれれて見えないのだ。家と家の間が隙間もなく立っているからだ。一万の町でも町はやはり都会のように人との結びつきも薄い、代々住んでいる人も少ない、一方在は人と人の結びつきが昔のようではないにしろ強いのである。一万の町でも人の関係も違っている。これが5万くらいの都市になるとまた相当違っている。それでも郊外は田野が広いから田舎なのである。

「田舎暮らし」というとき農家をイメ-ジしているし山村のような限界集落に住むのが話題になっていて町のなかに5万くらいの街のなかに住むことが話題になっていないのが不思議である。そこも十分に田舎なのだが「田舎暮らし」としてとりあげられていない、そこはさほど都会と変わらないかもしれない、田舎暮らしは特別な辺鄙な所に住むことしか話題にならない、別に5万くらいの都市に住んでも田舎は楽しめるのである。過疎のひどい山村とかには住むべきではない、自分も隣の5万くらいの都市に移りたいのだ。病気のとき車がないから困るのだ。一万の町でも町から離れた在に住めばス-パ-など遠くなるから車なしでは住めないのである。5万くらいの都市に住めば車なしでも十分に便利な生活ができるのだ。それにしてもこのところ仙台に半年も行っていない、何か外に出れない、母が病気になって寝込んだら介護になったらまた外に出れなくなる。介護の問題は自由がなくなることなのだ。温泉に一泊して気分転換したいから介護を交代してくれとか切実なものとなる。介護とは牢獄に入れられたようになる。交代する人がいなとそうなるのだ。今回はお手伝いさんに家事をしてもらいヘルパ-の役もしてくれたので助かった。こんなに助かるものかと実感した。それも一日一万とかではない、まだ一日二時間とかだから安い、そして介護の助けは近くでないとだめである。隣の街が近いといってもここまで来るのが手間なのである。


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東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 菅原道真



この家はなんとも前にも紹介した不思議である。廃屋ではない、一時的に空家にしている。車が庭にあり草ぼうぼうだったが草を刈り掃除していたからだ。だから主がないが主が帰ってくる家なのである。もう主が帰らない家が近くにある。病院で死を待っている女性の家である。跡を継ぐ人もいない家である。主が帰る見込みのある家と全く帰る見込みのない家は違っている。庭に一輪赤い薔薇が咲いているが主が帰るとしたらその薔薇の花も主を待っている、明らかに帰ることがあるのだから完全な廃屋に咲く薔薇とは違う、家族が帰る見込みがあるのだからまだ華やかさが薔薇にある。全く帰らないで放置された家もあり朽ちてゆく家も山村には多い、そういう廃屋は荒れ放題でありあまりにも淋しすぎるのである。

絵の才能が全くなくても技術でア-トで作れるのがパソコンである。枯木の写真を適当にインタ-ネットから探してアレンジした。これでも一つのア-トになっているから不思議である。ア-トは
確かに多様に作り出せるのだ。それは必ずしも才能と関係ない、作り出そうとする意志と関係していることもあるのだ。創造する能力も作り出そうとする意志があれば才能がなくてもできる場合があるのだ。ただ芸術を鑑賞する能力がないとだめだろう。鑑賞する能力も創造する能力と通じているからだ。

2009年12月04日

冬の鳩(つづく介護)


優しさや介護の助け冬の鳩


老人の介護に追わる師走かな

夕暮れむ五本松に落葉かな

認知症の介護からまた帯状湿疹から介護になった。前にも書いたけど介護とか病気になると俳句とか短歌ができやすい、正岡子規のことをNHKで放送していたのでそのことを書いた。
「優しさや介護の助け冬の鳩」この句は何なのだろうと自分自身が作って不思議だった。作った本人が不思議なのだから他の人は何のことかわからないとなるのが多いだろう。鳩のように素直であれというとき鳩は平和の象徴である。冬の日に介護で助けられている。朝に鳩が群れて飛んでいる。そこに深い意味を感じた。鳩は平和の使者なのである。


旧約聖書の《創世記》8章には、ノアの洪水について書かれていますが、
この中にノアが放った鳩がオリーブの若葉を持ちかえり、
これによって洪水が終わったことを知る話があります。


人を罰する洪水が終わったとき、平和がこの世に再びもたらされたとき、鳩がオリ-ブの若葉をもちかえった。だから平和の象徴となった。老人の介護など無駄だというのも一理あるが弱いものをいたわることは人間の優しさを愛をひきだすものでもある。俳句とか文学はこうして背景を深く読まないと理解できないのである。明日死ぬかもしれない人が作った俳句とのんべんだらりと過ごしている人が作った俳句の重みは余りにも大きいのである。病気とか介護は俳句でも短歌でも特別な深い意味を与える。

姉が認知症になってから母も年だったし介護は継続していた。そのなかで今まで経験しないことを多々経験した。自分はこれまで金のことでありほとんど世間とかかわらずにすごしてきた。
金を借りたことも貸したこともない、若いときの一時期を除いて金で困ったこともない、それが金でいすいろいろもめごとを経験した。いかに人間が今金に左右される存在か身にしみてわかった。今回は安く病院に行く方法があり助かった。これは半分ボランティアだった。手伝いさんに助けてもらってもその金はたいしたことではない、でも親戚とかには金ではひどいめにあった。額が半端じゃない、でも要求されても断れない、ただより高いものがこの世にないことを実感した。金で割り切ってやってくれる方が助かる。へたにただで助けてもらったりしたらあとで何十倍もの金額を要求されるしへたに親戚でも何でも頼めないことがわかったのである。困ったときに人に簡単に助けを頼めない、今の時代は金で割り切って頼めることは頼んだ方がよかった。ただ金だけではどうにもならないことがあった。今度は金で頼めたからそうなると気楽だった。


老人の介護というとき必ず良くみていると街の通りを路地でも老人をかかえて歩いている人をよくみかける。これだけ弱った老人がいる老人社会、介護社会になっているのだ。家に一人寝込んだらまた大変なことになる。ただ今度は金で外部から助けてもらえるからいい、家事を負担してもらうとかなり楽だし一人だけやっているのと違うから心強いとなる。まあ、年だからいつ動けなくなり衰弱して死ぬのかわからない、そうなってもおかしくない年だからである。師走は自分だけではない親の介護に追われる人が全国いかに多いか、そういう時代なのである。

2009年12月03日

NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て



●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた



正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。


誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。


●柿の俳句について



子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。

東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。


子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)



柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。

林檎くふて牡丹の前に死なん哉


これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。


薪を割る妹一人冬籠もり


この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm



インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。

2009年12月01日

南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと


南相馬市鹿島区江垂の一石坂 (いちごくさか)のこと

●一石坂 (いちごくさか)の由来

住古女あり年20ばかり、木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく
陸前浜街道の鹿島区江垂の日吉神社まで上る坂は急である。あんな急な坂を上り相馬藩の武士が野馬追いの時も上ったのかと思う。馬にしても疲れてしまうだろう。よく駒止峠とういのがあるが例えば檜枝岐に田島の針生から行く七曲りの坂道をバスで行ったことがあった。ここも延々と坂がつづく大変な難所であったがトンネルができた。日本には延々と坂がつづく峠が多い、八木沢峠もそうである。だから自転車では歩くことになるから容易ではない、馬にしても駒を止める峠だというのは納得する、馬も延々と坂を上ることが嫌になる、もう上りたくないとなるのは人間と同じだった。

昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。
http://blogs.yahoo.co.jp/futamision0801/2210374.html


発見された近道
http://musubu2.sblo.jp/article/28422250.html

つまり歩くならこんな急な坂道でも上ることができるから直線的に行くことができる。でも馬だったらきついのである。徒歩で行く道と歩いて行く道が別れていたというのも納得する。

木履を納め米一石を頭上に捧げこの坂を上りし故一石坂と名づく

木履とは下駄なことなのか?納めたとはどこに納めたのか?下駄を運び米も運んだのだろうか?

日本酒の一般的な容量が一升(一八〇〇ml)。江戸初期に升の大きさを統一し、広さ四寸九分平方、深さ二寸七分の升に入る分量を一升とした。その十分の一が一合、一〇倍が一斗、さらに一〇斗を一石という。

一石は頭のせるとしたらその重さは大変なものである。ここに誇張はあるにしろこの急な坂を毎日のように上る力持ちの女性がいてこの名がついたのである。よくあんな重いものをのせて上れるものだとみんなが見ていたのである。女性だったから余計に目立ったのである。

比べ石 尺石 力石・・これは日本全国にある。力比べが行われていた。そもそもこうした石を持ち上げて一人前と大人と認められていた。江戸時代の生活は人力が基本であり機械がないから人間の力が頼りなのである。庭師が百キロ以上あるような石を人力で立てた時はびっくりした。あんな力をある人をまざまざと見たからだ。そういう力持ちは江戸時代なら注目されたのだ。
今はNHKで放映した麦の刈り取りで鎌一つで出稼ぎに集団がいたが一方でコンバインならその人力の麦刈りより一人の作業量より百倍にも千倍にもるから比べようがないのだ。石を動かすにしても機械を使いばそんな力を今は必要ないから力ない人でもやれることはやれるが庭師とか大工とか建築関係は以前として力が必要である。

●津川の城の伝説(阿賀野川)

麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、 温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。 殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり 人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの 石牢に閉じこめてしまいました。

この話はリアリティを感じる。狐の嫁入りとかを売り物にしているがそれは観光のために作られたここにはない伝説である。でもこれは城が山の上にあり実際に毎日湯を運んでいたのである。これも一石坂ではないが大変な労働だった。当時城は館は高台にありそれで必要なものを下から運ばざるを得なかった。日吉神社のある所も相当な要害の地であり高台なのである。
要するに昔は車もないのだから歩くほかない、だからそうした山や要害の城に物を運ぶことを仕事にしていた人がいたのである。これは湯をくむことをさぼったためにお咎めを受けたのだから当時の下々の生活が厳しいことを示している。歴史は伝説でもその土地の地形から生まれてくるのである。

殿様の病直さむと日々

険しき山道上り城に運ぶ

何故の咎めや残る恨みぞ

若者なれば恋ありて悪しきや

その山道は会津の奥の奥

雪に埋もれし津川かな


郷土史発見-ホ-ムペ-ジ
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm

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枯菊(六号線のレストラン)


枯菊や落ち着く近くのレストラン

池の鴨内装落ち着くレストラン

レストランここに二年ほど枯芒


鹿島区から原町区へ六号線のホテル兼レストランには何回か入った。500円のランチが安いからだ。あのレストランはまだ新しい、二年くらいしかたっていない、老人になると何か落ち着いたものがいい、派手なものは合わない、性格にもよるが一般的にはそうである。枯れた菊でも落ち着いてサ-ビスを受けられるのがいい、高齢化社会に適したものはそうしたものでありそれが全部悪いものではない、若者向きばかりでは落ち着かないし街の雰囲気も騒々しいだけになる。高齢化向きにすることは街全体が落ち着いたものとなるのだ。スロ-社会にもなる。 レストランには滅多に入らないし食事もしない、食事では贅沢しない、そもそも贅沢はできない、家ではどうしてもずっと食事を自分で用意している方だから自分では贅沢な食事ができない、また帯状湿疹でヘルペスで母が寝たきりなので困った。痛い痛いとしぼりだすように言っている。本当に痛い病気らしい、これも相当悪質な病気である。90にもなっているからこれからどうなるのか?

お手伝いさんが来てくれるので本当に助かる。痴呆ではないのでお手伝いさんとまだ話すことができるのでいい、姉の場合は認知症になり知らない人とは話すこともできないし受け付けないからその時は年金で金があったがヘルパ-を雇うこともできなかった。今度は外からの援助を金でできるから救いがあった。金があっても認知症だけは手伝ってもらうことすらできない、全くやっかいな病気だった。ただ家でこうした病人をかかえると陰気になり自由も拘束されてしまうのだ。これは一カ月くら痛むしそれ以後も痛むとかこれまた本人にとっても家族にとってもやっかいな病気である。60以後は病気やら何やら悩まされることばかりになってまた年の暮になった。

今日は電動自転車でビデオレコダ-を買った。このビデオレコ-ダ-の恐怖はハ-ドディスクに記憶したものが一瞬にして消えたことである。パソコンでは経験していたがビデオレコ-ダ-で同じことが起こるとは思わなかった。ディスクに記憶したものはパソコンでも消えにくいがハ-ドディスクは劣化すると突然壊れ消えることが怖い、今や1TBとか遠くできても一瞬にしてハ-ドディスクは消えるからその膨大な量を記憶しても消えては何もならない、その対策はディスクに記憶するしかないのだから大容量のは買わなかった。電動自転車は荷物にも強い、重さを感じない、風にも強いらしい、半分バイクだからそうなっている。これは日常生活にも相当役に立つ優れものである。



ビデオレコ-ダ-買ったのは今度できた山田電機だった。ケ-ズ電機は相当な打撃になる。ところがレストランとかは競争相手ができても競合できる。一つのレストランだと同じメニュ-でありあきる。
別な料理を食べたいとなるから同じレストランに行きつづけることがない、高くてもそうである。一カ所だけのレストランに通いつづけることはほとんどないから競合できるのだ。でも電器は同じ品物であったら安い方を買うだけであり競合できない、安い方に客は流れてしまうのである。