2009年12月03日

NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て


NHK歴史秘話ヒストリ- 正岡子規を見て



●人間は弱いからあわれみの文学が生まれた



正岡子規は自分でも写生俳句を作ってきたからなじみ深い人である。そもそもあの若さであれだけの文学的業績を残したことはやはり天才だったのだろう。俳句でも若いときなどいいのはできないのではないか?40代でもいいのができていない、60代でいいのができたかなというのが自分だった。若いときは普通は血気盛んであり文学に向いている人は少ない、強い人は短歌や俳句や文学に向いていないというとき、体が丈夫だと強い人は自らの弱さを知って謙虚になることがない、俺は病気になったことがないとか何かで自らの弱さを知ることがないと文学に向いていない、文学では体が丈夫で病気をしたことがないという人は山頭火などがいるが比較的少ない、あれだけの旅行したのだから体が丈夫でなくてはあの過酷な旅はできない、でもそれは例外的存在でもある。啄木でも結核になった結果、自らの天才としての傲慢を砕かれて自らの弱さを自覚する短歌を後世に残すことができたのである。三島由紀夫も弱い人間だったが涙ぐましい努力をして強い人間となろうとして不自然な自決となったのである。公的な要素より私的な自決の要素が大きいのである。老醜の恐怖もありそれを公的なもの愛国心と転化されたからその自決は演技的でもあり批判されることになった。


誰でもス-パ-マンになりたい、でもなれない、ス-パ-マンとは異常な人間である。人間には弱さが与えられていることが他の動物とも違っている。弱肉強食の動物とは違う。人間に弱さがなかったら神など信じない、ニ-チェのようになってしまうだろう。ス-パ-マンは自ら神となってしまうのである。それを神が許すはずがないのである。若いときは体も丈夫であり行動に向いているが文学には向いていない、何か表現することに向いていないのである。正岡子規もあれだけ行動的社交的人間だったから文学に精を出すことはなかった。皮肉なことに子規も啄木も病気の結果あの若さで後世に残す業績を残したのである。 病気になると不思議に自然とか人間の共感が起きてくる。病気になるともののあわれが自然と生じてくる。それは自分自身のことではなくても他者の病気でも特に家族が病気になったりするとあわれだとなり同情するから文学が生まれる。姉も体が丈夫であり病気などしたことがない女性だった。それが頭から体から無惨な結果になり最後は病院でうめくようにして泣いて死んでいったとき本当にあわれだったとなる。それまではあわれみを覚えるような女性ではなかった。そういう人はこの世に結構いる。それでも老人になるとどうしても病気になる人が多くなりあわれだなる。そこにあわれみの文学が生まれることになる。


●柿の俳句について



子規が柿が好きだったというとき特別なことではない、その頃の果物は柿が一番多い、今のように外国からいろいろな果物は入ってこない、大正生まれの母も柿が好きである。干し柿も好きである。果物でも柿は食べられたからである。子規が柿が好きだったというのではなくその頃みんな柿は好物だったのである。

東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、
近くの東大寺の鐘がなったのだそうで
この鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

翌日法隆寺を訪ね、
この風景と結びつけ句を読んだと言われています

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


俳句は短いから背景を知らないと深く味わえない、「初夜の鐘」というのもやはり鐘として心にひびくものがあった。これは茶店のようなところで外で柿を食って作ったかと思った。東大寺の近くの宿だった。そのあと法隆寺にしたのである。これはまた漱石の句の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」からヒントを受けたという。こっちは何か明るい感じがする。この句もいい句なのだろう。


子規泊まる昔の宿や柿の味(自作)



柿の味は日本の変わらない昔の味なのである。現実に柿はKAKIとして世界で通用しているからだ。 ビジネスホテルで柿を食っても情緒がなくなる。昔風の旅館も当時の風景とマッチしていてこうした句ができたのであり今の時代ではできなくなる。なぜか車の騒音とか様々な騒音の世界であり鐘の音のひびきも今とは違っているからだ。これが江戸時代になるとさらにそうなのである。文学もそれができた背景がありその背景が失われるともうそうした俳句もできないのである 。子規は果物好きだったからこんな句もあった。

林檎くふて牡丹の前に死なん哉


これなんかも簡単な何でもない句のようでも死なんかな・・というところが普通の健康な人とは違っている。常に死を意識して作っていたから何でもないようで切実なものとなっていたのである。果物でも林檎でも梨でも食っていた。林檎はその頃みんな食っていたのか?都会だと食えたのか、結構高かったように思う。それなりの収入があったから他の人よりは贅沢していたのだろう。
子規を支えたのは友人でもあったが妹も目立たないが大きな役割を果たした。庭を子規の見やすいように作っていた。庭の花などが慰めだったからである。


薪を割る妹一人冬籠もり


この妹は子規の庵を死んだ後も守っていたという、俳句が写生だというとき自分も写生俳句を基本にしてきたから子規の業績が大きいとなる。他に子規がいい句を残しえたのは死を常にまじかにしていたからである。死は常に目の前にあった。だから事物を末期の目で常に見ていたのである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm



インタ-ネットにこの柿の話はいろいろでていた。それをNHKで説明しただけである。ただNHKでは映像として話を展開するからわかりやすいのである。