2009年12月10日

戻ってきた忘れ物

ス-パ-でバッグを忘れたけど今回ももどってきた。携帯がなかに入っていて通じた。とりにいったら今回はス-パ-の中ではなかった。ス-パ-の敷地内で落としていた。だから拾った人の名前が書いてあった。これがス-パ-の敷地の外だったら警察に届けられただろう。でなければもどってこないだろう。ス-パ-には何回か忘れている。でも寄った場所がわかっているのでどこに忘れたかはわかる。行動範囲が狭いからどこに行ったか寄ったかわかる。ス-パ-にしても二軒しかないのだからわかりやすいのだ。そのス-パ-も小さいから忘れてもわかりやすいのだ。都会だったらこういうことはありえない、ほとんど返ってこないだろう。田舎はそういう点ではいい、一方で田舎は狭い範囲で暮らしているからプライバシ-がないとかすべて筒抜けで家のことが知られてしまうというのも本当である。沖縄の島に行ったとき、同じ場所にいて動かないから怪しいと警察に連絡されたのには驚いた。旅をしていてもそんなことされたことなかったからだ。島だからよそ者が目立つのである。どこに暮らしても一長一短はある。田舎は安心社会であるが相互監視社会ともなる。日本は江戸時代から安心社会だったが今やそうではない、外部のものよそ者が外国人でも入り混在化した社会になった。田舎でも安心安全社会とはならない、ただ田舎だと今回のように落とし物、忘れ物などは回るところが限られているから返ってきやすいことはある。ただ今回はス-パ-内ではない、ス-パ-の敷地内でもそこに落としたものを拾った人がいてス-パ-の係に届けたのだからその人のおかげであり感謝している。


これは明らかにス-パ-内に忘れたのとは違う、やはりその拾った人がいい人だった。財布には携帯と金が6千円入っていた。その他カ-ド類もあったからもっていかれると結構めんどうになった。金もとられていないから感謝である。警察に届けたら落とし主にお礼をしなければならないことは確かである。この前はス-パ-のカ-ドを忘れてそれを届けた人がいて二回も警察から電話が来て嫌になった。そのス-パ-のカ-ドはほとんど使っていなかったからだ。警察に届けられるとめんどうになるのである。そんなものは届けなくてもすぐに作れる。そういうものを届けて連絡される方がめんどうだとなる。ありがた迷惑ということもあった。ともかく今回は届けてくれた人には感謝している。田舎で良かったなということであった。高齢化すると明らかに田舎の方がいいのだ。不便ではあるが都会のような混雑した所に住むことが億劫になる。行動範囲が狭い方がいいのである。認知症になっても行動範囲が狭いとある程度暮らしていけることもある。都会だったら認知症でなくても老人になったら機敏に対応できないから迷ってしまうだろう。田舎は活気がないにしろ高齢化社会には田舎の方がいいのである。

posted by 天華 at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

なぜ棚田が作られたか?



なぜ棚田が作られたか?


棚田について
http://highknowledge.seesaa.net/article/118728697.html


棚田などない方がいい、棚田ほど非効率的なものはない、なぜこんな棚田を山の中に苦労して作ったのかという疑問を書いている。このプログは東京から四国の山間部で農業をはじめた30才の人が書いている。これほどしっかりしているなら東京からこんな辺鄙な場所でも根付くことができる。自分は農業のことを語るのとは実際の経験から地に足をついて語っている。自分は田舎に住んでいても農業のことがほとんどわからないことがこのプログを読んでわかった。農業はこれほど奥深いものなのである。農業とはこのプログのように実地に経験しない限りわからない、この人は東京から来て自然とか農業のことを実地で経験した。そこでは次々と新しい発見の世界だったから東京からこんな辺鄙な田舎に移って農業した意義があった。これだけしっかりしているからこそ農業を新鮮な世界として体験しているのだ。農業をしている人は金にならないとか不満しか言わない人もいる。逆に東京から来てこれだけ自然と結びついた農業に新しい発見の生活をしている人もいるのだ。これも30才だからできたことかもしれない、団塊の世代などが田舎に憧れるのは危険である。体力的にも精神的にも田舎暮らしをはじめるのが遅すぎるからだ。若いなら適応力があるが田舎暮らしをのんびりとなどできない、農業も無理である。やはり地方の大都市が老後には向いているのだ。

ここで私が前にも書いたが棚田を作ることは大変な努力が必要でありなぜこうしたものを作ったのかという素朴な疑問を出している。それは結局、米作りする場所がないためである。ネパ-ルに行ってみればわかる。まるで天に届くような所に家がある。そんなところにどうして住むんだとなる。不便なところへ住むところが拡大化したのは分家したとしても土地がないのだから土地を求めて不便な所へ住むほかないのである。まるでもう耕す場所が天になってしまう。耕して天に至るとは実感である。棚田は天まで耕すとかいわれて美しいというがそれはかえってそうしなければもう耕す場所がないからだった。冗談じゃなくてネパ-ルでは天に達しして天に家があり天に畑を作るほかないような世界になっているのだ。

南相馬市の鹿島区栃窪の上萱(うえがや)も相当山の上の不便なところである。そこは塩の道があっても古い村ではない、戦後に開拓に入った新しい場所なのである。戦後も生活は農地を開拓することがつづいていたのである。だからあんな辺鄙な場所に開拓に入ったのである。今では誰も住んでない、廃村になった。 飯館村でも大倉からの坂を越えた場所にある二軒の家も新しく開拓に入った家であり一軒は廃屋になった。あんな不便なところに昔から住んではいなかったのである。人間はそもそも不便な所には住まない、住む場所がないから仕方なく不便な場所に住むようになる。その不便な場所でなんとか米作りする場を確保するために棚田ができた。それが外から来た人は棚田を作る苦労がどれほどのものか知らずただ美しいと美的なものとして見る。そこに実地に生活してみれば棚田など必要ないという発想になる。地名も実用的なものから名づけられたのであり詩的なものとして単なるイメ-ジでは名づけられていない、そもそも奈良が均す(ならす)から来た言葉であり営々とその土地を耕作に適したものとして均す作業が奈良の都を作ったとなるからだ。平地でもそこに人間の労苦があり住みやすいように作られてきたのでありそこが都となったのである。住みにくい場所でもなんとか住みやすいように努力するのが人間である。それで棚田を作るようになった。米を食べたい、米を作る場所を広げたいということで棚田が作られてきたのである。

山深く棚田に実り営々と労苦のありてここに暮らしぬ


この労苦を象徴しているのが中国の黄土高原なのだ。中国人とは労苦の民である。黄土高原には木がない、日本より索漠としている。黄土高原では土の洞を家として生活していた。中国は沿海部ではすでに文明の最先端の生活をしているが奥地では原始時代に毛のはえたような生活をしている人がいる。鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来た人がいたが今はコンバインの時代であり人より百倍千倍も労働量に差があるのだから原始時代から一飛びに文明時代に突入しているのだ。

隠し田
http://blog.livedoor.jp/apec_pe/archives/cat_971663.html


棚田は隠し田でもあった。隠し田を作るのも棚田を作ると同じ苦労があった。これもなんとか米を税として納めることから逃れるために目立たないように米作りには適さない隠れた場所に作られた。それもわずかな土地である。鹿島区の隠町とかもそうである。越中から来た移民などが隠れて作った田かもしれない、なぜなら移民だからもともと土地を与えられていなかったからである。わずかの土地をこっそりと拓き作っていたのが地名化したのかもしれない、それが字地名として残ったのかもしれない、隠し田の話が多いのも今も税金逃れが多いのと同じなのである。ここにも生きるための農民の必死の努力があったのである。そういう努力は今になると忘れ去られているのだ。農民さえ忘れているだろう。これは農民だけではない、過去の先人の労苦は忘れられ安いのだ。これは別に職業に関係ない、人の労苦は忘れられやすい、老人が話す苦労話も伝えられなくなる。戦争の話などもそうである。戦争でなくてもたいがい今の80才以上の老人は何かと苦労が多い世代だったから苦労話がある。例えば継母(ままはは)にいじめられた話が良く残っているがそういうことを身近に聞いたのでそいうことは昔からあったことだと納得して同情したのである。人間は苦労話でも自分が体験したりしないと実感がでてこないから老人の話でも良くきかないのである。だから前にも書いたように郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまる。それが一番身近な郷土史になるからだ。