2010年01月31日

NHKの無縁化社会を見て・・・・


NHKの無縁化社会を見て・・・・


●無縁では暮らせなかった過去の社会

無縁化社会というとき歴史をさかのぼると逆に無縁であることができない時代があった。どんなことしても無縁では生きられない、江戸時代なら無宿者となるけどそれはまさに無縁になることは特別なこととして認定されていたのである。現代の無縁は普通に暮らす人が無縁の中に死んでゆくことなのである。そもそも無縁のはじまりは商売するとき、神社の境内とかで強制的に特別地域として無縁な場所を市を作り出した。そこなら商売していいとなった。商売することは全く土地のものではないよそ者が入ってくるからである。無縁の場所、特区を作らない限りよそ者は外部から入ってこれない、それほど過去は無縁社会とはほど遠い社会だった。そもそも無縁では暮らしていけない、ところが現代は無縁が一般化したのは貨幣経済がグロ-バル化した結果でもある。貨幣でもその無縁化した特区では通用しても村の中で全部貨幣が通用して生活していけたわけではない、村での共同労働があったり村の中では貨幣がすべてではない、でも今は貨幣が金がすべてになってしまった。現実に地方の小さな町であれ村でさえ回りとの関係なくても金さえあればあらゆるものをまかなえる。金で必要なものを全部買えるまかなえる。極端な話、通信販売とかインタ-ネットがあれば家から出なくても必要なもの買えるまでになっている。ということは隣近所とか回りと無縁化しても金さえあれば生きていけるともなる。

●金で縁を作る社会

NHKの無縁化社会というのは現代を象徴しているものだろう。自分にとっても身近だからひしひしと感じるものがあり自分の未来とも通じていた。ただ不思議なのは大手銀行に勤めていた人は施設に入っているからそこで世話になっているから一人とは言えない、金があるから施設に入っていられる。無縁化社会は逆に金さえあれば有縁を保てる社会でもあるのだ。もし財産家だったら手伝いさんであれ他にも使用人として雇うことができる。その人たちは毎日来てくれるから孤立することはないのだ。一日一時間でも手伝いの人に来てもらえば毎日様子をみてもらえるから安心だとなる。現実一人暮らしで金がない人でもそうしたことを市でしてくれる場合もある。ともかく無縁社会でも逆に金があれば無縁化から逃れられるということがある社会なのである。家族や親戚のつながりよりかえって金で雇ったヘルパ-とかの方が親身に世話してくれたとかの報告もある。金の切れ目が縁の切れ目というけど金が縁をつないでいるという面も現代にはあるのだ。金を貸しているけどその金を返してくれないから縁が切れていないというのも不思議である。一応今やまだ金の縁で切れていないのである。

●過去の社会にもどることはできない矛盾

現代は様々な条件で無縁化しやすい社会である。また無縁は自由でもあるから自ら無縁を望んで生きることも考慮せねばならない。そもそも歴史をふりかえれば無縁に生きることはできなかったからである。土地から離れて生きることもできない、拘束された社会である。だからこれだけ無縁が広がったということはグロ-バルに広がったということは現代を象徴しているのだ。その極端なことが日本から無縁化する若者が増えているという、日本に未来を見出せず外国で働く人が増えているという。それはまさしく日本そのものからも無縁化してゆくことが可能な時代を象徴している。それはグロ-バル化したときすでに起こっていたのである。無国籍人間とかコスモポリタンだとかそういう人間が憧れとなっていたのである。これはまた無縁化社会とは異なる現象かもしれないが容易にグロ-バル化の時代はある場所とも日本すら離れ無縁化できる社会なのである。一方で土地とのつながり、家族でも大家族制がいいとか過去への郷愁からアイディンティティを求める人が増えてくる。会社から退職した人たち、団塊の世代などは故郷回帰志向が起きてきている。それは人間として自然なことである。でも故郷に帰れないという人たちも多くなっている。若い人はどうしても閉鎖的な田舎の有縁拘束社会より無縁化を目指すのが自然である。一方老人になると逆に有縁な家族や土地や地域とのつながりを求めるのが自然なのである。でも一旦都会に出たらそれができない、田舎で暮らすものと都会で暮らすものは別なものになっていたということがNHKの放送で実感した。つくづく人間は一旦破壊したものや時代が変わると元の社会を郷愁してももどれないものである。大家族制がいいと言ってもそういうことはもはやつくりえない、それは別な形態と変化する。他人同士の共同生活とかになっている。金の社会になったとき、貨幣経済の社会になったとき、地域貨幣とか作り出してもうまくいかない、むしろ皮肉なことに金で人間のつながりが作れるということにもなる。それも一旦破壊した変えてしまった社会は元に戻すことがいかにむずかしいかを示している。


秋田出身の人は両親も死んでいるし家も土地もなくなっている。ただ墓だけが残っていたがその墓には入れなかった。やはり故郷にはすでに頼るべきものがいなくなっていたのである。 実家の墓も実家はないが墓だけが残ったのである。その墓は一応まだ墓参りしている人がいるし縁故のものも生きているからこうはならない、でもいづれこうなってしまうかもしれない、やっぱり跡継ぎがないと家も最後は墓だけが残り無縁化してしまうのである。

 

故郷に墓のみ残りあれかな参る人もなく形見なるかな


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2010年01月30日

枯草(故郷に住むということ)

 

枯草の道踏みしだき幾度もここに来たりて我が歩むかも

行き通う道に墓あれ誰ならむ故郷に住み冬深むかも


一カ所にいて旅もしないと時間が長く感じる。今時間が短く感じるのは外国までも移動する時間が長くなったからである。リヨンのことを放送していたけどここに寄ったけど自分の場合、外国旅行は楽しめないしただ行ったというだけで外国はわからなかった。言葉がわからない、地理もわかりにくい、その場に立ってもわからないことだらけで印象に残らないことが多かったのである。そして覚えていることも少ない、そこに何があったかも覚えていないことが多かった。今日テレビで見てリヨンはあんなところかと再認識した。絹織物で栄えてベルサイユ宮殿に住んだマリ-アントワネットの衣装もここで作った。それを知るとフランスの歴史全体として浮かんでくる。古い館も隠されるようにしてありそこに住んでいる人もあり川沿いに椅子に座り憩う人々がいたがどこに川があったかも記憶していない、外国はそれほどわかりにくい所だったのである。だから外国旅行を楽しめる人はよほど慣れた人か留学しているとか長く住んでいる人しか楽しめないように思った。ここは京都の西陣と比較して語れば興味深いことになる。外国の歴史でも日本の歴史と共通性があるからだ。

 

故郷というと何もないけど枯れ草の道を毎日踏んで歩いていたらそこに記憶が刻まれるのである。そしてなぜか故郷は墓と結びつく、墓とは過去であり先祖でありその人たちも同じ故郷の土の上で一体として生きている感じになる。そういう感覚は都会にはない、都会の墓はまた別なものだろう。都会では土地との一体感はないのだ。それでもそこに長く住んでいれば愛着がわくから郷土史をプログで書いている人が多いのである。あるところを知るには何度も歩み記憶に刻まないと知ることができない、通りすぎるだけになってしまうのである。何でもない道でも何度歩いていればそこに記憶が刻まれて意味あるものとなってゆく。ところがただ通りすぎるところは記憶されないから意味ももたない、忘れるということは意味を持ち得ないことになる。戦争のことでも忘れれば意味もなくなる。郷土史というときやはり土の上に郷土史が成る。その土の上、土の下には先祖が眠っているのである。そういう感覚は都会にはない、特に東京とかなるとない、歴史は基本的には記憶である。その記憶が消失したら歴史は成り立たなくなる。現代は情報の洪水だけど次から次と情報が流れても忘れることが多すぎるのだ。何か記憶に深く刻まれないのである。江戸時代あたりだと一つ一つの出来事や人との出会いとか記憶に深く刻まれていた。遠くから来た人と出会うということもまれだったろうし人と人は親密に交わっていたからである。現代の交わりはテレビとかインタ-ネットとかバ-チャル空間での交わりが増大した。でもそこに本当の交わりはない、確かに情報の交換はあるが親密な交わりはない、それでネット空間で無視されたから秋葉原のような事件起こしたとかいうのも現代である。


働いたら、負けだったのか。
俺はマンホール開けては中に入る仕事をしているが、
もう腰をいつやられるか心配で心配で。
着ている服は役所と同じだから公務員と思われているかもしれんが、
派遣会社からの契約社員で、保険も、年金も手取りの17万から出さなければならない。
腰など痛めてしまったら、労災も出ないだろうし、会社からは放り出されるだろうし
考えると鬱になる。
もう安月給でマンホール持ち上げて臭い中に入るの嫌なんだよーっ。
こんな仕事についた俺はまさに負け。
働かない方がまだいいかも。


マンホ-ルで働く人など注目していない、でも地下からの声のように失礼かもしれんがモグラなのか?そういう人もこの世には働いている。インタ-ネットではそうした様々な人の声にあふれている。確かにマンホ-ルで一生働くとなると嫌だろうなとなる。でも誰かがやらざるをえない、無数の職業があり実際はそうして働く人たちを現代文明は実感としてしりえないのである。現代の労働は何らかこれだけではない、疎外されている。むしろ江戸時代の村で暮らして働いている人たちの方が仕事の充実感はあった。連帯して働いていたからである。ただ過去はただ現代からイメ-ジしているだけだから本当の所はわからない、毎日贅沢している現代と江戸時代とは比べようがないのだ。江戸時代の人が現代に生まれたら二度と江戸時代にはもどりたくないとなるだろう。

 

ニ-トとかフリ-タ-、派遣がなぜ今こんなにいるのか?それを書いたが回りにこれだけ仲間がいることは仲間外れにはならない、みんな働かないじゃないか、オレもその一人だよ、めずらしくもないよとなるが高度成長の真っ盛りの時代は回りにニ-ト、フリ-タ-、派遣もいない、仲間が誰もいなかったのである。だから孤立したアウトサイダ-になっていたのである。時代が違うとつくこうも違うものかと驚くのである。

2010年01月29日

高度成長時代こそニ-ト、フリ-タ-、派遣が望まれた(労働なき富は増大した)


高度成長時代こそニ-ト、フリ-タ-、派遣が望まれた(労働なき富は増大した)


●高度成長時代は企業戦士一色の時代

鳩山首相のガンジ-の「労働なき富」を引用したことで批判されているけど現代の状況は奇妙である。なぜ不況なのにニ-ト、フリ-タ-、生活保護者がこんなに多いのか、その人たちはなぜ食うに困らないのか?生活保護制度がなかったとき飢え死にした人もかなりいた。老人でそういう人がいた。子供がいたがめんどうみなかったのである。生活保護がないから乞食していた人も多かった。時代をさかのぼり現代と比べるとなぜこうなっているのか不思議である。高度成長時代にはみんな馬車馬のように働いた。電機洗濯機がテレビが車がマイホ-ムが欲しいと必死で働いた。高度成長時代は熱病に働いた時代である。大学出て全共闘とか学生運動した団塊の世代は卒業するとみんな猛烈な企業戦士となったのである。過剰なほど労働一色の社会だった。労働すればするほど収入も増えたし望むものも得られた時代だった。その時、ニ-ト、フリ-タ-とか言われる若者はほとんどいない、いたのはいたとして極わずかだから話題にもならない、常に話題になっていたのはエコノミックアニマルとして世界にも批判された企業戦士だったのである。その頃を今の状況と比べると不思議なのである。実は高度成長の時こそもっとニ-ト、フリ-タ-とかがいても良かったのである。なぜみんな企業戦士になってしまったのか解せないのである。あの時と比べると確かに豊になったが逆に不況とか日本経済が衰退期に入ったとかまるで違った状況になっている。その時なぜニ-トとかフリ-タ-が増えているのか?これは正社員になれない派遣とかも同じである。高度成長時代は派遣もいない、終身雇用であり必ず月給が上がっていたのである。だからこそロ-ンでマイホ-ムを買ったのである。今のような日本経済が衰退するとか失業の深刻さとか低賃金とかこうした経済状態の悪化しているときこそ後進国のように食うためにはどんな仕事でもする。戦前とかはそうであった。仕事など選んでいられないはずなのだがそういうこともしていない、仕事をしないでもそれなり生活している不思議である。

●高度成長時代こそニ-ト、フリ-タ-、派遣が望まれた

 

今ふりかえると高度成長の時期こそニ-トとかフリ-タ-、派遣でも自由に働いて遊ぶことに重点を置いた人がいることがふさわしかったのである。確かに金の卵とか人手不足でありそういうことを許されない状態にあった。でも逆に企業戦士一辺倒の社会はファシズム的異常な世界ではなかったか?ファシズムは一つの価値観に染まった社会である。別な価値観を許容する余裕がない社会である。それだけ高度成長するときはかえって今より先の見通しもあったしもっと自由に生きたいとか望む若者がいても良かったのである。ヒッピ-などがいたり農業に従事した若者がいたがそれは企業戦士のアンチテ-ゼとしての意義があった。みんなが企業戦士、企業の価値観一色に染まることは異様なことだったのである。今になって高等遊民になるとかニ-トとかフリ-タ-とか労働を否定する価値観をもつ、またそういうふうに生きようとする若者が多いのが不思議なのである。なぜなら今のような時代こそ逆でありみんな企業戦士となった高度成長時代のように日本では外国に負けないように働くことを志向せねばならないからである。高度成長時代はあえて働くななどと言う必要もない、みんな必死になり働いた。だから働きすぎるなと言う時代だったがそんなことを受け入れられる時代ではない、猛烈に働いたのである。 今の時代、働きたくても働けない、遂に働くことをやめたとかやむをえず働かないことを選んでいる。みんな働いているとき、もう少し働かずのんびりしようやなどと言うことはできない、働くことがすべての価値であった。その通りに道路も舗装されていないから次々に仕事があった。その仕事は必要なものであった。今では過剰な道路となり公共事業となりその労働自体の価値が問われている。どうしても社会的逆転現象が今見られる。高度成長の時期こそ企業価値一辺倒であるよりその価値を否定する一部の人がもっといて良かったのである。でも現実はそういう人はほとんどいなかった。数百人はいたとかなるがそれは現代と比べれば全く数にはならない、無きに等しいものだったのである。

●高度成長時代は「労働なき富」が増大した
この時代は「労働なき富」を必然的に生み出した時代でもあった。土地があがり何もしないのに株も上がり貯金の利子も高いから別に鳩山首相は特別にしてもそうした成り金はかなりいて「労働なき富」の恩恵にあづかった人は多いのである。なぜ鳩山首相だけが責められるのか?自民の議員にもそういう人が多いのである。「労働なき富」を全部否定的にすることはできない、自分も若いとき底辺の労働で這いずり回ったしそこに労働の意義を認めることはできないからその後労働はしていない、流れ作業とかでありそれは天職とかとはあまりにもほど遠い、機械的作業であり何ら生きがいもない仕事である。だから豊かになった時代、仕事がないのに失業中なのに仕事を選んでいるというのは当然であり豊かだからこそそれができるのである。誰しも生きがいある仕事をまずしたいのである。出版社に勤める人は売れる本を作れと迫られてできずにやめたとか本当に生きがいある仕事を選ぶことなど至難なのである。だからこそ労働しない、自分の時間をもつことこそ現代では文明社会では一番自分を生きることになっているのだ。しかし現在のような不況になると日本自体が沈没、衰退となるとそうはいかない、「労働なき富」労働しない人は批判される。高度成長時代時代と違って豊になれない、いくら働いても豊になれない、すると「労働なき富」の所有者は批判される、金をもっている老人も貧乏な若者から批判される。逆にニ-トとかフリ-タ-や派遣もなぜ働かないのだ、えりごのみしている時かと批判されるのである。
どうしても高度成長時代の方が今のニ-トとかフリ-タ-がもっといても良かったがほとんどいなかった。それがふりかえると今と逆であり今の時代こそ高度成長時代的働く人が必要とされている。何故なら世界から取り残されてしまう日本になってしまってきたからである。こういう時代は「労働なき富」で生活する人とか格差には敏感になり労働しない人は目の敵にされる。 でも過剰な労働から過剰な無駄な公共事業があったからそれは労働がありすぎた無駄があった。「労働なき富」より労働過剰の無駄があったのである。そして今求められる労働は高度な知的労働である。誰でもできる機械的労働は中国や世界に移った。すると残されたのは機械的労働ではない、高度な知的労働となってしまう。その労働は相当勉強しないとなれないからその要求も高まっているからますます怠けてはいられない厳しい時代になっている。すると底辺労働者や機械的労働者は中国などに追放されるというグロ-バル化した競争社会の適者生存になる。つまり働かざる者、労働なき富を得るものなどは批判される。許容する余裕がグロ-バル化の適者生存社会ではなくなってしまうのである。派遣は外国の低賃金に派遣されてしまうようになる。そこしか働く場所がなくなってしまう厳しさがグロ-バル化の適者生存なのである。そういう矛盾を時代をふりかえると感じてしまうのである。
posted by 天華 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春の短歌十首(病院に一年寝たきりの老人)


蝋梅の家の中より庭に見ゆ家に死なめや石も落ち着き

春になり花二つほど買いにけり新しき庭部屋より見ゆる

手水鉢に月の写れる春なれや誰かたずぬる人もありなむ

病院になお生きにつつあれかな春になるとも立つこともならじ

病院に一年寝つつ春なるも何か思わむ何か見るべし

病院に一年寝つつ春なるも隣は誰そ手編みする女

病院に一年寝つつ春なるも看護師忙し思うべきかな

癒されず遂には死なむ人なれや春になりしも報わざれなむ

白鳥の餌を待ちつつ鳴きにけりその声ひびき冬も長しも

この川に長くもあれな鴨の群れなお飛びたたず冬の長しも


 

療養型病院に一年も寝たきりでいる老人、その女性を思ったらずいぶん長い。姉の場合は8ケ月くらいだからこれも結構長かった。見ている方も長く感じるし本人はもっと長く感じている。一年も世話する看護師とか介護士とかも大変であり長いなと感じる。それ以上に十年とか寝たきりの人が現在ではいる。それで今日陪審員が加わって福島県での介護殺人の判決がでる。介護が長すぎることが死ぬまでの時間が長すぎることが現代の介護の問題なのである。あわれだというときそれが延々と終わりなくつづくように見えるとき耐えられなくなる。あわれという感覚が喪失してしまうのだ。今自分があわれだと言っているのは自分が苦労して介護しているわけでないからである。下の世話を毎日していたら嫌になる。家族も病院に入っていると楽なのだ。実際に家族は何もしていない、何の苦労もしていない、かえって金を自由にできたらしく金を使っているから腹ただしくなる。一番苦労しているのは病院で世話している人なのである。そしてそのための費用が大変なのである。一人30万とか介護保険から払われているがそれもいづれまかなえきれなくなる。介護はこれからますます大変になる。数もふえるし病院にも入りきれない、あんなふうに一年以上も世話してもらえるのか?そういうこともできなくなるときどうなるのか?在宅で世話するのは理想だけどその犠牲になる家族は耐えられるのか?それで介護殺人がこれからも数が増えてくる。

 

人生最後のときはみな病院で迎える。それも長いのだ。自宅だったら庭があればそこで花を見たりもできる。病院ではそれがない、でも最後の場所は病院なのである。そこで死ぬまでの時間過ごすのである。それも長くなる。一年も寝たきりの気分はどうなのだろうかと思ったときずっしりと重いものを感じた。それは本人もそうだが回りの人も世話する人もそうなのである。その人は家族でないにしろ世話になった人だけどその姿はやはり現代の介護問題を象徴していたのである。

河原に群れている白鳥と鴨を毎日見ている。白鳥は夕方になるとしきりに鳴く、餌をもってくる人を待って鳴いている。白鳥が飛び立つのはまだまだである。冬もつくづく長い、春は名のみの時期でもある。旅行に行かないと家にばかりいると時間がたつのが遅い。鴨の群れにしても長くいる、

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子

この鴨も長く磐余の池に群れていたことがわかった。古代の時間は今よりずっと長い、そして同じ場所にいる時間が長いのである。その鴨が今日のみ見てやと死んでいったのが大津皇子だったのである。実際は今日のみ見てやと別れる時間が長いのである。大津皇子の場合は若いからそうではなかった。無理やりに引き離されてしまったのである。

2010年01月28日

春風(自由な旅の日)

 

春風や峠を越えて吹いてくる

毎日電動自転車で原町に行っている、買物は毎日ある。六号線の坂を一つ越えれば原町である。でもこれは峠とは言えない、坂に過ぎないがやはり日本の地理は坂や峠が境となっている。外国ではライン川のように川が境となっている。日本は坂や峠である。坂や峠を越えると別な世界が見えてくる。今日は東風が春風が吹いた。風が全然冷たくない、あったかい、東風(こち)はまだ寒さを感じる風であるが今日の風は寒さを全然感じなかった。ただあとから北風に変わったのかびゅ-びゅ-風が吹いたが電動自転車は風でも推進力があるからなんとか進んでゆく、これだけの風だと普通の自転車では立ち往生である。このヤマハのパスブレイスは荷物にも強いから役に立つ自転車だった。一旦便利なものを使いはじめるとやめられない、原町は前も近かったがこれでさらに近くなった。となると原町での買物の方が多くなるのも困る。便利になるとどうしても中心が変わってしまうのである。車だったら近くより遠くの便利なところになってしまうのである。そしてますます近くがさびれるから困る。そんなふうにして近くのス-パ-が撤退して買物ができなくなって車のない老人が困っている。車の影響はそれだけ大きいのである。

ともかく今年は春の来るのが早いのかもしれない、寒さの峠を越えたのかもしれない、となると遠くに行きたいが簡単に行けないのが問題だ。4年間ゆっくりと遠くに行ったことがない、それまではどこまでも外国までも時間を気にせず行けた。それが行けないのがショックだった。こういうこともあるのかとショックだった。これまでふりかえって恵まれすぎたことがわかった。勤めていたら自由には旅はできない、期間は限られている。みんなそういう生活をしてきたのである。認知症の介護をしていたときは8時まで帰らねばならなかった。それでも実際はできなくなっていたのだ。誰もみている人がいないし暗くなると不安になり騒いでいたのである。あの状態がつづけば8時までも帰れない、明るい内に帰ってこばならないとしたらどうなっていたのか?そのことが毎日ショックだった。それは余りにも自由だったことか全く自由がないというショックだったのである。それがいつまでつづくのだろうと考えたとき暗澹たるものとなった。こんなことあるのかというショックだった。今もやはり認知症の介護でないにしろ留守番がしっかりできないから自由にでかけられない、自由も与えられないと得られない、自由を求めてニ-トとかフリ-タ-になるという時代だったが実際はそんなにうまくはいかなっかた。様々な不自由に縛られるようになったのがニ-ト、フリ-タ-だったのである。自由は誰かの犠牲の上に成り立っていた。旅するにしても誰かが食堂で食べるにしても食事を用意してくれたからだし交通機関を使うにも誰かが毎日そこで働いているからである。

ゆふ空から柚子の一つをもらふ 山頭火

柚子はただでもらってもいいようなものだった。農家にも一杯なっているし、でももらうとなるとなかなかできない、だからゆう空からもらう、自由な旅するとなるとこれが理想なのである。人に何かしらしてもらうとなると自由な旅にはならない、乞食していたがそれも嫌になるだろう。とするとゆう空からもらうのが一番理想なのだ。そのように妄想したからこの句ができたのである。それは実際に鳥のようになることであり人間にはできない、それでも60才まで自由に旅して死んだのだから往生したとなる。歩いた旅人としては最後の人だったのである。今は歩く旅はできない、あの人は歩いて旅しているなと思っていても途中から便利な鉄道とか利用している。だからここであったホ-ムレスは仙台から東京まで紙袋下げて歩いていたからあれは凄いと思った。そういう経験をまだしていない、だから自分も自由に旅したとしても楽でありたいしたことをしていなかったともなる。それだけの体力がなかったのである。

2010年01月27日

福寿草(人生は絶えざる変化だ)


冬の空梢の高く樹一本

黒々と枯木の影や墓地めぐる

新たにぞ庭に石すえ福寿草


the new standing stone
an Amur adonis bloom open
in my garden


今日も墓地を巡ったが江戸時代の墓は見つからなかった。墓地も新しいのが多いのだ。黒々とした枯木の影が伸びていたから墓地にふさわしい。まだ冬だが今日は実際は春めいていた。電動自転車だと原町まで行っても疲れないからいい、遠いとも思わなくなった。だからどうしても原町へ買物が多くなった。荷物にも強い、重さを感じないから余計にそうなる。


庭の福寿草も開いた。新しい庭の石が映える。この家も古くなっているが庭は新しくした。世の中は絶えざる変化である。今日もだいたい同時に二人近くの老人が死んだ。80才くらいの男だった。どっちも肺炎だった。近くだから知っているからあの人も死んだのかとなる。ちょうど団塊の世代の親が介護となり死んでゆくのが多いのだ。介護、葬式を自らとりしきることが多くなるのだ。このくらいの年だと子供の頃から知っている人が多いからやはり年が違っているとはいえ身近なのである。団塊の世代は非常に死を身近に感じる年になったのである。この次は自分たちの番だということをひしひしと感じてしまう年になった。長生きの時代だから確かに親は生きているのが多いけどその親も次々に死んでゆく、そして今度は自分たちが次々に死んでゆく番だと具体的に感じてしまうのである。

人間は死ぬ人もあれば生まれる人もある、ともかく最後まで死ぬときまで人間は変化を生きざるを得ない、無常は変化のことであり変化することはすべて悪いことではない、庭が新しくなってそこに新しい人が入ってきたりと人も変わる。人間は変化をまねがれえない、新しく庭に据えた石も頼もしいしそこに福寿草が咲くということはまた新しい命が展開されているのである。古いものも忘れてならないものだがまた常に新しい変化のなかに人は生きるのである。

2010年01月26日

亡き人を想う短歌



亡き人の思い出語り古りし家北風鳴りて今日も暮れにき

亡き人の思い出深く我が家に二人となるもあとはつづきぬ

我が家を支えて長き六〇年姉は死すかも菩提弔ふ

我が姉の菩提弔う勤めかな故郷に住み老いゆけるかな

六〇年の歳月長き姉とあり炬燵に入りて我が思うかな

この家を我が建てしと誇りしを姉亡き今は何か悲しき

人は死し何を残すやあたたかき情ある人の思い出にあれ


姉が死んでから一周忌終えてもまだまだ遠い存在とはならない、六〇年も一緒にいたことが影響したのである。変わった家族でも六〇年の歳月は重いのである。矛盾しているにしろ何であれ六〇年も家族として一緒に暮らすことの重みと意味は大きい。死んだ人は誰でも不思議に哀惜される存在と変わる。生前そんなに惜しまれる人でなくても死んでみると惜しいとなる。なぜなら死んだ人とは二度と会えないからである。ただ今となると思い出を語るだけになる。ただ死んだ人を語ると不思議とその人がいるように思えてくる。死んだ人もその時生きている。もし死んだ人でも何も語らないとしたらただ忘れられてゆくだけである。そして家とか庭は単なるモノではない思い出を残している、思い出を作る場所として大事なのである。家には思い出があるから古い家でも大切にする気持ちがわかる。古い家だとそこには長い物語がどこの家でもあるのだ。施設にはそうした物語がないから思い出がないから「家に帰りたい」となる。その家がないとしても昔元気だったころの家に帰りたいとなるのだ。姉もこの家を自分が建てたと自慢していた。今になるとなんか悲しくなる。炬燵に入っているといつも隣にいたのだからやはりいるように思える。でも死んだ人が理想的な人かというとそうでもない、ただ死んでみると人間はみなあわれなものとなる。生きているときは嫌な所はだれにでもある。死んでみると嫌なところも消えてただ惜しまれる人となる。死者でも死者と語っているとき心の中でも語りかけているときは死者も生きているのだ。死者を思わない人は死者に語りかけない、忘れてしまうのである。

認知症になってからは疎まれたし親しい人もよりつかなくなった。でも死んでみるともう・・・ちゃんは来ないなとか淋しく悲しく思うこともあるかもしれない、でも認知症になったからといって一回も来ないのは冷たい、せめて生きているときちょっとでも声をかけてくれれば喜んでいたのにと思うが病気が病気だけに責めることはできない、いづれにし人間の死は死んですべてが終わるわけではない、いろいろと尾をひくものなのである。なぜ三〇年前以上に死んだ実家の人のことを思うのかも不思議である。死者というのもそう簡単に消える存在ではないからだろう。

悪い面では恨みとかも残していることもあるだろう。人間は常に死者と語りつづける存在である。それは歴史を学ぶと同じなのである。歴史は過去でありその過去との対話は絶えることがないからである。そして歴史とはそれぞれの人によって語られみんな違ったものとして語られるのである。その立場やら生い立ちやら場所によって違ったものとして語られる。歴史は一様なものとして語られることはない、それが歴史なのである。

 


五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする
  

 古今集(夏、、読人しらず)と伊勢物語(60段)に登場。伊勢では女性の改悛の場に使われている。すぐあとの 0240 式子詠は、またまた妖しい雰囲気

かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の 夢の枕ににほふ橘

誰かまた花橘に思ひ出でん我も昔の人となりなば(藤原俊成)

この辺では橘はなじみがない、関西では奈良でも橘はなじみが深い、やはり南の国である。人間は死んでしまうとどうなるのか、そのあとのことがまだつづいている。死者もだんだん時がたつにつれて嫌な事は忘れなつかしいものだけになってしまうのか?それでにおう橘が歌われたことがわかる。


自分にとって姉は悪い思い出とはならない、悪い思い出を残している人もいる。そういう人はやはり死んでも思い出はいいものとはならないし供養もあまりしたくないとなる。だからつくづく生前にいい思い出を残しておけとなる、冷たい仕打ちをされたことを今も語っている人がいる。継母だったからだ。そのことで実の親でないことで劣等感をもっていた、でも別に実の母親のように愛情をそそいでいればあとでいい母だったと偲ばれたのである。最後はでも後悔したのかもしれない、目は見えなくなり冷たい仕打ちをした継母を看取った。養老院に入ったので世話になったからと大学に解剖されて骨になって我が家に来た。それも30年前だったがなにか悲しいが最後に言った言葉は良かった。冷たい仕打ちをした継母だったが感謝の言葉を残して死んでいった。人間はその最後に一生をふりかえり反省することがありうる。罪を悔いることもありうる。それで救われた気持ちになる。認知症になるとそういうことがなくなるので残念である。

人間は一生の間にそれぞれいろいろなことがあるものである。人間は死んですべてが終わることにはならない、そのあともつづく、「怨霊供養」という碑を墓の中に建てているのをちらほらみかけるのはやはり恨みを残した死者を供養するためだろう。だからともかく人間の最後を看取るときは大事でありむずかしいのだ。自分の家は最後は悲劇だったけど二年半で死んだということは思った以上短かかったから今になるとそれほど迷惑だったとも思えない。そもそも60年も一緒にいた女だったから思い出が深いのである。

2010年01月25日

検察が絶対的に正しいとしての議論には疑問(小沢の政治と金の問題)


検察が絶対的に正しいとしての議論には疑問(小沢の政治と金の問題)


●田中角栄とにてきた小沢の追求

検察が法律の下に公平に平等に裁くことに意義唱える人はいない、小沢が検察に追求されて裁かれて当然だというのもそれならわかる。ところが検察もその動機は純粋な正義の追求ではない、自民党の時も政治と金にまつわる問題はあったのに追求されずじまいだった。どうしてもこの問題は田中角栄のロッキ-ド事件の再現のように見えてくる。これは中国と国交を回復することでアメリカにしかけられたものだった。だから証人もアメリカ人がなっていたということではっきりしている。アメリカに操作された事件だったのだ。アメリカが日本の司法に介入してアメリカに裁かれていたのである。今になるとそのことは明白である。不正を追及する側に明らかな政治的意図があった。それは中国と国交回復することへのアメリカの危惧が全面的に出た事件だった。その時日本の国力は鰻登りであり日本と中国が国交回復することにアメリカは黙っていなかったのだ。この繰り返しが小沢の追求にはある。検察も権力機構の一部であり正義を追求するとは限らない、自分たちの権益を追求することが第一となる。正義を公平を追求すると見えても裏側で自分たちの権益を守るために働くことはある。検察が国を牛耳る、絶対的権力者という側面が今回は強く出たのである。

●マスコミは一私企業にすぎない

あらゆるものが公平ではありえない、マスコミも私的な企業であり公平はない、自分たちの権益、利益を第一とする私企業なのである。ただ新聞なら一軒一軒配ることで力を持っていた。大勢の人に見られることで力をもっていた。テレビもさらに茶の間で何百万という人を前にして報道できるのだからそれだけで甚大な力を持ったのである。でもその報道は一私企業の味方であり利益を優先する。そこに公平な報道はありえない、宣伝を出す会社の悪口は言わないとかトヨタは批判しないとか創価は批判しないとかいろいろタブ-がある。福島民報なども聖教新聞を刷って維持ししているのだから創価の悪口は言わない、他にも金をもらえばその会社の悪口は言わない、批判はしないのである。マスコミに公平さはない、NHKにもない、まず検察が絶対的に正しい、正義の神のごとくして議論をはじめていること自体疑問なのである。もちろん小沢の政治と金には大きな問題であり追求されるべきものである。これは自民党にも厳しく追求されるべきものだった。でも今回も明らかに検察には政治的意図があり小沢潰し、小沢憎しという私的な官僚や団体の怨念が働いているのだ。だから小沢が追求されるべきものでも政治的意図があり小沢がつぶされることは政治主導がつぶされ第一の権力は検察であり官僚であり政治が変わっても何も変えられないという事態になる。

大衆はマスコミに洗脳されやすい、検察は絶対的に正しいという幻想を信じる、信じさせられるのだ。そこから議論がはじまっているから小沢陣営は民主党は不利になってゆく、別に民主党のシンパでもない自分は何の利益も受けていない、でも検察に疑問はさむことも必ず必要なのだ。今回は民主が政治主導で官僚に変わるというときそのことに脅威を感じたことは確かだからである。検察は絶対的に正しいという議論からマスコミははじまっている。今回は検察もおかしいじゃないですか、小沢だけをこんなに狙い撃ちするのはなぜなのか、余りにも政治的影響が大きすぎる、小沢をまず駆逐することに狙いがあり政治と金の問題の追求は手段ともなる。権力を追求するものは天皇だって宗教だって法律だって何でも利用する。それは権力を得るためき道具にすぎない、お前ら俺たちの言うこと聞かないと罰当たるとかなる。もはや宗教そのものが持つ崇高性はなく、暴力団並のものが宗教で恫喝する。そういう宗教団体がまかり通っていること自体異常である。検察は権力を牽制するもの、制御するものであり自ら権力を私物化して自分たちの権益を守るためだけになったら検察はもはや必要ない、現実にそうなることがありうるのだ。誰でも自分がかわいい、自分たちがかわいい、自分たちの利益を優先する、これは公務員でなくてもみんなそうなのである。だからそれをとりたてて批判はできない、だからこそ常に権力争いは人間から消えないのである。

●権力は絶対的に腐敗する

法律でも宗教でもそれが権力とかかるとき正義や公平さは関係ない、権力者により利用されるのである。勝つためには権力を手に入れるためには何でも利用しろマキャベリズムになる。大衆にしても生活保護がもらいやすいとかいろいろな便宜を図ってくれるからとかいろいろ不純でも自分の利益を第一にしてそれをかなえてくれる団体に入る。それは宗教とは何の関係もない、ただ利益をご利益を与えてくれるから入るというだけである。官僚も検察も巨大な利権集団、既得権の集団であり当然自分たちの権益を第一として守るのは当然だとなる。公僕とかの使命感はまれだろう。国の発展を願い国の舵取りに命をかける、そういう使命感のもとにあればまた違った見方がでてくる。そういうものが今は検察に官僚にあるかとなると疑問なのである。検察によって国民の票で選ばれた政治家の意志が曲げられてつぶされることはあってはならない、それを検察ができるとなると選挙をして権力交代しても結局は検察の力は政治家の上にある。選挙しても無駄だとか無力感をもたらす、ともかく権力を持つものはどうしても公平にはならない、権力は絶対的に腐敗するいうのは司法も権力であり検察もそうだから腐敗しないことはありえない、現実に不正しても検察官は罰せられないのだ。謝ることもしない、人間だから誤謬がある。それは検察官にも必ずあるのだ。

それを検察が絶対的に正しい、検察が国の舵取りするのだとなると常に国の大事のとき検察に左右されてしまい方向を見失ってしまう。検察の役目はあっても検察が絶対的に正しいとマスコミと一体となり議論したり政治的意図が背後にある事をもっと知らせてから議論すべきなのである。 マスコミと検察も一体化して追求する。検察も逮捕権とか権力を施行できる。逮捕した時点で政治家はすでに大きなダメ-ジ受けて国民から糾弾される。あとで間違ったとしてもその時点で政治家はすでに自分たちの意志を政策すら実行できなくなるのである。医者も必ず医療ミスがあるけど権力をもっているから患者は追求できない、インフルインザのワクチンが余っているから65才以上の人にも使用させるとか報道しているのも変である。余っているから売らねばならない、別にそんなに危険性がないならワクチンは必要ない、余っているから使用させねばならない、製薬会社で困るから使用させねばならないとなっているのがそこに明らかにあったのだ。マスコミと製薬会社は利益をともにする、製薬会社の宣伝をしてマスコミも利益を受けているからそうなるのである。つまり何らか受益者になっている人には公正さは期待できないのだ。検察官が大企業に天下りして巨額の金を得るのもそのためである。検察の権力も私的に利用されるのである。


検察のトップになる奴はみんなCIAに留学するからね
そこで脅しや買収でアメリカへの忠誠を誓わされてスパイになる
これを断った奴は決して出世できずに終わる

東京地検は正義なんてものではなく
アメリカの都合によりそれまでアメリカ大使館が収集してストックしてきたネタで
アメリカにとって不都合な政治家を
アメリカの都合の良い時期にマスコミと検察を使って潰すだけなんだよね

田中角栄という国益の為に戦った日本のニッポンの政治家もロッキード事件で潰された
こういう構造を全く理解せずに政治家に潔癖を求める馬鹿の多い事多い事

posted by 天華 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

俳句と抽象画

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抽象画は最初から抽象画があるのではない、最初に明らかに具象画がありそれが抽象画になった。この過程は漢字ににている。不思議なのは具象画では絵にならないものでもパソコンで機械的に加工すると抽象画になりそれなりに芸術性を帯びてくる。これが不思議なのである。
でも明らかに雲という具象があり溜池でも凍った溜池がありそれが抽象画化されると芸術性を帯びてくる。時代によって新しいART(技術)が生まれると必ず新しい芸術が生まれるのである。それは別に天才でなくても新しい芸術が生み出されるのだ。芸術でも技術の力は大きく影響するのだ。

東風吹く

 

東風(こち)吹いて北風(きた)に変わるや浜通り

峠越え海にいでむや東風吹きぬ

苔に雪古木に朽木コ-ヒ-飲む

手水鉢氷の溶けて月優し

 

今日は吹いたのは確かに東風(こち)である。ここでは海の方から吹いてくる。今日はかなりあたたかいから吹いたのだ。その後また北風に変わった。また寒さがもどる。春はやはり風からも来る。東風が吹いたとき北風とは違う、春を感じるのだ。これが車だとそうした風が感じるのがむずかしい。自転車だともろに風を感じるのだ。電動自転車は風にも強いがもろに風を受けるとなかなかすすまない、そういう自然に抵抗するところも自転車は自然なのである。車だったら風も雨も関係なくなる。寒さも関係なくなる。飯館に行った時も寒さやら風や雪の影響をまともに受けた。だから風流があるとなる、「風流は寒きものなり」となるが寒さに弱い、病的になっているから自分にはあとで芯まで冷えてひどかった。風流も限度がある。あんまり辛いと風流どころでなくなるのだ。単にサバイバルとなり俳句とか短歌を作る余裕さえなくなる。山頭火のようにただひたすら歩き水を飲みたいとかなってしまう。この電動自転車は長距離用だからこれでツ-リングしたら面白い、坂を自在に上る旅はしていない、坂を自在に上れば旅の範囲は相当に広がる。近くでも坂の所は行っていないところがあった。ところが今は遠くに行く、一日でも泊まる旅がしにくい、留守番するものがいなくなった。病気ではないにしろ半病人となっているからだ。


茶室のある手水鉢ではないが石をくりぬいて水を入れるものが庭に置いてある。そこに月が写っていた。写真で見たりしていたがなかなかこうして真上に月がきて写ることはなかなかなかった。でも必ず真上に来ることがあり月が写るのだ。コ-ヒ-でも茶道をしているとか、茶道は自然と通じるものだから興味がある。コ-ヒ-を山で清水をくみ沸かして飲む。コ-ヒ-が便利である。

苔に雪古木に朽木コ-ヒ-飲む

こうした古木とか朽木とかをあしらって茶室作りをしている。飯館の七曲りの坂に樹齢200年の栃の木があった。あの樹はあまり何かを感じない、樅の木の方が感じる。樅の木はやはり冬ににあっている。ともかく福寿草の芽も出てきたし春は近くなった。

2010年01月24日

春めく雲(福島県-浜通り-中通り-会津の気候)

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海の方春めく雲や浜通り


福島県は地理的にも気候的にも三つの地域に別れている。浜通り-中通り-会津である。
飯館に行ったらどんよりと空は曇り雪雲が厚く垂れていた。さらに阿武隈地を福島市や二本松市に行けば雪が降っていたのだろう。飯館まではあまり雪は降っていないがそれでもここよりはふる。風花の飯館であったが中通り雪になっていた。会津となると毎日が厚く雪の雲がたれこめて雪に閉ざされる。中通りは雪国のイメ-ジはない。会津は全く雪国である。だから福島県では会津は相当気候的にも地理的にも異質である。会津のことは同じ福島県でも理解しにくい、むしろ宮城県の方が浜通りでは理解しやすいのである。会津は雪国であり山国である、山がひしめきあっている。それも2千メ-トル級の山が相当ある。だからこの山を知ることができない、浜通りにはこうした高い山がないから自然的には平凡だが住みやすいとなる。気候的に見たら浜通りは退職者が住むには適しているが自然は平凡だとなる。自然もある程度日常的に接していないとわからないのだ。

日本は山国だから山で閉ざされていているからわかりにくい、地理がそれだけ複雑すぎるからわからない、会津は本当にわからない、それだけ広いのである。浜通りは地理的には平坦でありわかりやすいのだ。阿武隈地になるとわかりにくくなる。山に入ると地理がわかりにくくなるのだ。日本は狭い国だけど地理が複雑だから福島県だけでも理解するのがむずかしい。福島県を自転車でも隅から隅まで旅行しても一回くらいしてもわからない、そもそも飯館から川俣に出るとわかりにくくなっている。地理がわかるということはそれだけむずかしいのである。そういう点日本はいくら旅してもあきないということがある。大陸のように満州のようにただ平坦な地域がつづくところは嫌になる。山もなにもない、時々汚い川があるだけなのだ。満州などに住みたくないと思った。地理的変化がまるでないのだ。遊牧民の草原は見るべきものがあるがトウモロコシ畑だけが延々とつづく平坦な世界はあきてしまう。ともかく福島県はこの三つの地域に別れて気候も違っていることをまず理解しないとわからないのだ。


俳句も写生だというときこれは必ずしも才能ではない、技術的なことが最初にある。なるべくありのままを忠実に俳句にしようとすることが第一になるからだ。何か特別に作り出そうとはしない、ありのままに心がけことである。「土盛れる墓の五つつや冬芒」としたときこれもありのままである。土を盛った墓が五つあるといことが写生である。その五つの墓がどういう墓なのかはわからない、説明はしない、できないのだ。それをイメ-ジするのは読者だとなる。

昔は一人一人こうして石の墓を作る金がない人は葬られていた。あとは卒塔婆を建てるだけだった。これなら簡単だけど一人一人こうして埋めていたら数が増えるから一家の墓にした方がいい、そして時代が立つにつれ死ぬ人も増えるから墓がふえすぎたのである。すでにこれ以上墓をふやすことは限界に来ているのだろう。ともかく人間最後に残るのは墓だから墓には哀愁が満ちているのである。

抽象画にするとパソコンのソフトで加工すると写実でなくてもそれが絵となっている。全然絵を描けなくても抽象画として芸術性を帯びてくる不思議がある。この抽象画も最初は浜通りだから空と雲を具体的に描き次に中通りは黒い雲を描いた、それだけではいつものごとく絵にならない、不思議にこれを加工すると抽象画になるのだ。抽象画になると拙い絵も一つのそれなりの芸術品になっている不思議を経験するのである。これは才能でも何でもない、本当に技術的なことなのである。

2010年01月23日

冬の短歌十首(風花の飯館村)

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大石に重なる石や冬深む


風花や大石眠るひそけかり

土盛れる墓の五つつや冬芒

誰が眠る松風鳴りて残る雪

飯館の溜め池はみな凍るかな

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川上に残れる雪や朝清し巌の静か鳥飛びたちぬ

飯館に蛹一つのあわれかな風花舞いて池の凍れる

池凍り蛹一つや松風の鳴りて残れる雪に暮れにき

池凍り松一本やここにあり道はつづきてしばしとどまる

飯館に夕暮れ迫り奥の峰雪ふりこめて隠さるるかも

飯館に喫茶店一つ我が寄れば風花静か舞いつつ暮れぬ

飯館の喫茶店に入り焼きたてのパンを食しぬ冬のくれかな

清水汲みコ-ヒ-を沸かし我が飲みぬ雪の残れる流れの岸に

雪雲の厚く垂れこむ飯館や飢饉の碑のここに残れる

使用人もともに眠りぬ墓一つ飯館静か冬深まりぬ

山陰に雪の残れるこの道を行く人一人街にいでにき




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電動自転車で大倉に出て飯館の七曲りの道を上り草野に直接出た。あれだけの坂を上ったからかなり電池を消耗した。でも飯館まではなんとかもった。ヤマハのパスブレイスは一番いいのはさほど疲れず遠出できることなのだ。半分バイクになっているからだ。途中もゆっくり人間的ペ-スで行けるのもいい。飯館はやはり標高が相当高いから寒い、一時雪がふり厚く雪雲たれこめていた。でもここもそんなに雪は降っていなかった。雪は溶けたのか?わずかに残っているだけだった。飯館では寄るところは決まっている。アグリという喫茶店で焼きたてのパンを食べる、あのパンはおいしい、次に道の駅の物産店によりキコリのホテルによる。あそこは高いから眺めがいい、遠くの峰が雪にふりこめられて隠された。やはり飯館からさらに西になると雪が降っているのだ。浜通りの方に帰って来たら雲は切れて明るい空が広がっていたからだ。


ともかく一本の松があそこでも必ず立っていて親近感をもつ、それから山の陰には雪が残っていたがそこを
出たらすぐ街になる。街といっても街という感じはしない、でもス-パ-などがあるから一応街なのである。
飯館は石の村とかなっているが確かに石が多いのかもしれない、あいのさわの近くの大きな石は目立つ、一つだけ大きな石がありあの石は特徴がある。その石を中心にして石が重なっている。飯館村というと実際何もないが何かここは広々としていることが気持ちよさを作り出しているのだ。窮屈ではない、家も点々と広々として悠々として住んでいる。他から来た人もそう言っていたから何もないのだが広々としていることが特徴なのである。川俣辺りは何か窮屈な土地なのである。

何も見るものがないからまた墓を見て歩く、飯館で江戸時代の墓をまだ見つけていない、飯館に古いものを見つけるのはむずかしいのか?葛尾村では明暦と元禄の墓を見つけたから意外だった。飯館ではまだ見つけていない、ただ一つの墓の前に名前だけを記された道標がいくつも埋まっているのを見た。これは使用人だと思った。家族だったらそんなに埋め方しない、昔は使用人も家族のように一緒に仕事して墓もその使用人の家の墓に葬られたということがありうる。大家族制でありその中には使用人も入っていたのである。現代だと搾取されていたとかこき使われたとか言うがともかく墓まで一緒だということは使用人でも因縁が深くなっているのだ。近代的会社ではそういうことはありえない、江戸時代から明治までそういう大家族の拡張したような家で働いていたのが多かった。それは商家でもそうである。それは今にはない人情のある、人間的な社会だったともなる。派遣とか何とか今は人情などない、あまりにも経済合理性だけの乾いた殺伐とした社会である。だからこそそうしたものをふりかえり見直すことも必要なのである。
いづれにし飯館はやはり飯館村として合併しないで残った方が良かったのかもしれない、南相馬市と合併すると南相馬市飯館区となるのでめんどうになるし小高区鹿島区ではいいことなかったとか、原町にいいところはみんなもっていかれたとか不満となったから飯館村は残った方が良かったのかもしれない、ただもし南相馬市と合併していれば市長選挙も一緒になるから一体感はやはり生まれたのである。

2010年01月22日

野馬追いに出ていた石田三成の旗印

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千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)


相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

義胤は久保田移封を受け入れる決心をするが、利胤は江戸に上り実力者本多正信を頼み、その仲介もあって家康・秀忠に謁見して弁明し忠誠を誓うなど奔走し、宿敵であった伊達政宗の取り成しもあって、10月には利胤に本領が安堵され相馬藩が成立した。
なお、江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


mitunarii123.jpg 石田三成は最初に相馬の地を踏んだ。奥相茶話記には田中城のことで記録されている。その三成は徳川との争いとなり相馬藩の初代の利胤は名前を三回も変えた。時代は戦乱の時代であり名前もその都度権力者に媚びて変えねばならなかった。最後にまた利胤ともどった。今の時代だったら簡単に名前は変えられない、当時は権力者は今とは違う、上下の関係が厳しかった。江戸時代の特徴は人間と人間が向き合い政治が行われている。だからその人柄などが大きく作用することがあった。これほど自分に影響あるものに気を使うのはそのためだった。

「大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久という武将が用いていたものを三成が気に入って使ったものだそうですが、一体どういう意味があるのでしょうか。
元暦元年(1184)木曽義仲の横暴に、源頼朝の討伐軍は近江国粟津原で合戦に及んだ。この際に、為久はただ一騎で敵陣の駆け込み、その矢で義仲を射止めたという

これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味だそうです。

石田家の家紋は「九曜紋」ですが、三成は関ヶ原合戦時に「大一大万大吉」の旗印を用いていたのはたしかでしょう
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50592921.html

相馬藩の野馬追いの旗に石田三成のこの旗印が出ている。三成は徳川時代は悪者とされていた。とするとこの旗印を野馬追いで使っていたら徳川家に知られたらとがめられる。そういうことは徳川の時代になり関が原の戦いも過ぎて忘れられたのかもしれない、石田三成は相馬藩と最初から縁が深いが故にその旗印を受け継いだ。この旗印にしても木曾義仲を討った時からあったとすると旗印の歴史も古いのである。石田家の家紋が「九曜紋」であったことは千葉氏や相馬氏と同じである。細川家も九曜紋であり九曜紋は多い。そういう共通性もあったのか、この旗印の由来ははっきりしている。
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黒に日の丸は藩主のいる場所を示しているから重要な旗である。その前に三成の旗が使われていたからやはり初代藩主利胤と密接な関係があり徳川の時代になっても使われていた。
野馬追いの旗は種類が多すぎて困る。でも何を意味しているのかわからないのが多い。役割の旗などはわかりやすいが家々に伝わる旗の由来がわからない、やはり野馬追いは旗祭りというとき旗の由来を知らないと興味も薄れる。どうしてもこの旗印どういう由来があるのか知りたくなるがそうした詳しい説明は出ていない、つまりもし今も石田三成の旗印が出ていたらこれは石田三成の旗だとわかる。これも木曾義仲を討ち取った時、すでに用いた旗だというから随分旗印は古い。鎌倉時代からいろいろな旗印が出ている。野馬追いを全国から見に来たとき必ずこれだけ旗印があるのだからその出身地と関係している旗印がある。するとその旗印を見てこれは自分の出身の武将も使っていた旗だとか親近感や興味が湧くのである。石田三成の旗が用いられたのはこれだけ相馬藩と因縁深いものがあったからだとわかるがその他はわかりにくい。でもこうして由来がわかると野馬追いの興味が深まるのである。

原町市史の図の一部を出したが著作権の問題があるかもしれない、ただ説明するのに拝借した。
図でも変えればいいのか、著作権をまねがれる方法があるかもしれない・・・
posted by 天華 at 22:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2010年01月21日

冬の暮(原町村の宿場町)

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葉牡丹や安い食品分け合いぬ

原町と鹿島の間一本の松によるかな冬の日暮れぬ

一里塚昔の標(しるし)徒歩(かち)行けば原町遠し冬の日暮れむ

淋しさや原町村の宿場かな原の広がり冬の陽没りぬ

春めきて小さき赤き薔薇植えぬ喜ばしきかな命新し

 

原町と鹿島は距離的に近いから本当に一体になる。実際に勤めているのが原町なのが多い。買物も原町である。街道を行けば塩崎に一里塚がある。もし昔のように歩きだったらどうなるか?必ずその間にあるものが心に残る。歩きだったらその道々にあるものを記憶する。でも自転車すら早いから記憶に留めないことがかなりあった。遠くではそうなる。毎日こうして行き来しているからこそこの一本の松が心に留まるのである。電車の旅でも記憶に留まらないのは早すぎるからである。そして何度も行けるわけではない、すると時間がたてばますます忘れてしまうのである。つくづく生きることは忘却の戦いだともなる。たちまち死んでしまったら人も忘却のかなたになる。ハイチですら200年前は大地震があったことが記憶されていても忘れていたし神戸でもそうである。百年とか二百年単位になると人間はその記憶を留めることができない、生きているときはあれやこれやと騒いでいても一旦死んだらその人のことはたちまち忘れる。

原町が原町村でありわずかに街道沿いに家が並んでいた宿場町だった。道沿いに家はあってもその回りはほとんど原っぱだったのである。大町とは大きな原っぱの意味である。高い建物もない、粗末な茅葺きや板の屋根の家とかであった。「月天心貧しき町を通りけり-蕪村」は全国どこでもそういう町だったのである。月のみが映えて町はみんな貧しい町である。原町村からは野馬追いでも一つの旗しか出ていない、鉄道が通り駅ができて原町は発展したのである。人口だって今の10分の1くらいかもしれない、相馬は城下町だからそれなりに城に勤める侍とか職人が集まっていても原町は雲雀が原に象徴されるように野馬追いで馬を訓練する原っぱ、牧が中心であり家は街道沿いにわずかにあっただけなのである。 原町市史の図では入り口が木戸になっていた。木戸で改められるから簡単に旅人は宿場すら入ることはむずかしい。江戸時代はやたら木戸とか関所とかを通るから大変なことであった。だからよそ者が来ればすぐわかったのである。いづれにしろ原町村は淋しいと言っても当時では新田川から結構長い距離があるから疎間だけでも家がつづいているからにぎやかだったともいえる。でもその外側は全く家のない原っぱだったということは変わりない、今とは余りにも違いすぎるのだ。

葉牡丹というと質素である。貧乏だとかえって人は助け合うということがあった。義理と人情の日本人がいた。今は豊になってかえってそういうことはない、田舎でも部落ではあるが町になるとない、車社会とかあまりにも環境が変わりすぎてしまったのである。でも退職したら社会で争うことなくなるから助け合うということがやりやすくなる。60以上は何らか介護とかその他助け合う新たな共同関係を模索するようになるのかもしれない、それをまた要求されている時代なのである。今日は新しい小さな赤い薔薇を買って植えた。その赤い薔薇が新鮮であり生き生きしたものを感じた。やはり老人とかばかり接していると若々しさがなくなる。今日もあたたかく本当に春のようだった。これも一時的でまた寒くなるだろう。

 

2010年01月20日

南相馬市長選挙渡辺氏の敗因


南相馬市市長選挙渡辺氏の敗因


●近くの地下歩道は高架歩道橋で十分だった

渡辺市長の敗因はやはり600億という借金を作ったこと、ハコモノ行政で無駄が多かったことかな、近くの都会並みの地下道は必要なかった。小学生の安全なら高架橋でまにあった。その高架歩道橋のことに気付いていなかった。小島田から塩崎に行くところはここより人が通らないから高架橋だった。それを良くみていなかった。高架歩道橋で十分だった。これだったら百分の一でも千分の一でまにあった。地下歩道は一年近く工事していたからその額も軽く億は越えていた。
これは工事業者のための工事だったとしか言いようがない、今でも利用しているのはわずかである。距離的に長くなるからかえって自転車なら待っていた方がいいのである。つまり高架歩道橋で十分だったのだ。その無駄は余りに巨額すぎたのだ。公共事業を減らすなというのも一理あるが無駄なものに使っていては住民も利益とならない、図書館だって豪華すぎるしこれもハコモノ行政で批判された。やはりすでにこうしたハコモノ行政に不満がたまっていたのである。


近くの地下歩道は必要だったのか
http://musubu.sblo.jp/17471729article/.html


南相馬市鹿島区の踏み切りで交通事故
http://musubu.sblo.jp/article/29848104.html


●ハコモノ行政は時代遅れ

産業廃棄物問題でも議会でもめていたし裁判にもなっていたのだからこれも敗因の大きな要因となった。産業廃棄物問題は全国で問題になっているしこれをすでに地方地方で解決すること自体むずかしくなっている。国レベルでちゃんとした基準を作り国レベルで取り組まないと汚染だけがすすむだけである。これに取り組んでいるのが暴力団関係だったとかでは困る。
いづれにしろ600億円もの借金にしたことはやはり大問題であり失政だった。やはりコンクリ-トから人へという民主党の政策は方向としてはまちがっていない。もちろんそれは景気を良くすることにはつながらないとも反論はある。しかしJALの問題にしてもいらない地方空港を業者のために作らせたり膨大な借金を作りそのつけが国民に回ってくるのではやりきれない、ダムにしてもそうである。公共事業の無駄は今や時代にそぐわない、景気刺激策にはいいというのはやはり時代的にそくわなくなってきた。コンクリ-トより人というときやはり人間の価値はモノにあるのではない、人が一番実は価値あるものである。ハコモノの会館を作っても例えばその中で芸術的活動するとき実際は芸術を作り出す人の方が大事なのである。その人そのものを支援した方がいいのだ。だから農家に個別に支援するというのも今までにはない発想となる。善し悪しは結果はどうなるかわからないが時代的にはモノ余り時代には人そのものに支援することはまちがっていない、人が死ぬと巨大な空虚が生まれる、その穴埋めはモノではできない、事故で子供をなくしたりしたら確かに億の金をもらってもその子供自体は帰ってこない、それでモノを買っても穴埋めはできない、ところが子をなくしたらその代わりになるのはやはり人間である。また子供ができたとか子供を別にもらったりするとその穴埋めができる。その時人間こそ価値あるものでありモノには価値がないのだ。その時人に金を使うべきでありいくらモノで満たそうとしても満たせないのである。


●コンクリ-トから人へはやはり時代の価値観の変化

人が価値があるというとき確かにいろんな分野で人より機械が価値ある時代である。例えば中国で麦を収穫するのにコンバインと人では千倍くらいの能力の差がある。一方は鎌一つで出稼ぎに来ていた。麦を刈れる量はとてもコンバインとは比べることもできない、それほどの差があれば人間の能力は余りにも差がありすぎるから人間の価値はコンバインに比べたら無きに等しいとなってしまう。でも一方で人間の価値が高まる分野もある。介護とか福祉の分野では人間そのものの価値が高まる。これは全部機械でやれる分野ではない、人間と人間が直接向き合う現場だからである。お手伝いさんでもヘルパ-でも単に掃除、洗濯、料理だけするというものではない、前にも書いたけどその先祖とか家族に深くかかわるものとなる。将来は介護も看護もロボットが大きな役割を果たすというのもありうる。持ち運びとかはそうだろう。でもロボットに人を慰める心をもつことはできないだろう。どんなに機械化しても人間でしかできないことは残るしかえってその人間にしたできないことが今度は機械化されると価値が相当高くなる。何を言っているんだ、介護士の給料は最低だよ、そこでは人間の価値は認められていないとなるがそれはまだ過渡期であり社会的に価値が認められていないからだろう。看護師だって最初はあまり価値が認められなくても今は認められている。時代によって価値観は変わる、重いモノを運んだりする力仕事は機械の方が効率化されていいだろう。でも必ず人間にしかできないことが残る。そういうものは逆に価値が高まってくるのだ。ハコモノの会館より価値あるのはそこで芸術を演じ創作する人そのものが価値があるのだ。コンピュタ-にしたってコンピュタ-そのものの機械の価値よりコンピュタ-を通じて新しい価値を創造する人が価値あるのだ。コンピュタ-そのものは最初は馬鹿高いが今や誰でも持ちえるものとなったから余計にそうなのである。


民主党がすべて肯定されないにしろやはり自民公明政権を国民が否定したことは時代だったのだ。官僚支配もそうだし検察の行き過ぎもそうである。検察を止めるものがないこと、検察が絶対的に正しいというマスコミなどと一体化した議論もおかしいのだ。そういうことに挑戦しえたことも政権が変わったからなのである。

posted by 天華 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春北風(はるきた)

 

春北風(はるきた)に向かいて走るロ-ドかな

塀の内畑の広く冬菜かな

原町に今日も買物冬の暮

 

北風なのだけど寒くない、その北風に向かってロ-ドで走る。電動自転車は坂とか風や荷物に強いが平地では遅い、やはり本来の自転車の走りではない、スピ-ドがでない、平地ではロ-ドがいいのだ。自転車は本来は平地に向いた乗り物だった。だから平地の多いフランスとかドイツとかに向いているのだ。

 

農家だと長い塀がありその中に広い畑があるのは普通である。これも狭い庭と見晴らしのきかない家に住んでいるとうらやましいとなる。相当に気持ちにも影響する。心も悠々としてくる。ただ今は町から遠いと車がないと不便だから車のない人は町内にすむほかない。ここで黄色の蝶が飛んだ。でも今日は大寒だから初蝶にはふさわしくない、冬の蝶なのだろう。季語もいろいろあってむずかしい。冬の水があれば寒の水もある。寒の水となると寒さがさらに感じる水であり冬の水となると澄んだ冬の水となる。ともかく俳句は写生に徹すればそれなりのものができるだろう。塀の内-広い畑-冬菜・・・これは全く写生に心がけてできたのである。何の作為もないのだ。これも平凡となれば平凡になってしまう。写生の句は誰でもできるから誰かが同じものを作っているのではないかと常に思ってしまう。冬菜というと一般にみかける。でも塀の内となるとまた違っている。そこに着目したわけである。

電動自転車だと原町に買物に行く回数が増える。鹿島だけでは買物はたりない、原町の駅の近くに惣菜やオカズに野菜に果物でも安い店がある。あそこに何回も行っている。鯛焼きが5個で300円でありス-パ-では一つ百円である。中味はあんこは変わらない、するとス-パ-で買うのが損になる。値段の差が大きいのだ。鹿島は商店街も廃れ方がひどい、余りにも閑散としてしまっている。これも原町が近いということにあった。原町で買物をすます人が多いのである。車がないときはたまにしかいかないがこうして便利になるとどうしても買物に行くようになるのだ。いづれにしろ鹿島と原町は近いから一体なのである。買物とか何度も用事があり行くところは生活的にも一体化するのだ。相馬市はまだ遠いからなかなか行けない、それで生活的には一体化していないのである。

2010年01月19日

冬の草(冬に墓所をたずねる)

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(鹿島区台田中)

文久の墓に名明らか冬の草

冬の草踏みて調べる郷土の墓

冬の草趣味もなくして長寿かな

江戸時代名もわからじや冬の草

虻一つ墓をとびかい春近し


郷土史関係で墓所があれば立ち寄り調べている。台田中は古いが天保と記されているものであり法印のものでそんなに古いものではない、屋形の寺には古いものがある。一番古いものを目にしたのが葛尾村の落合の明暦と元禄と記されたものである。あんな山奥に古いものがあったのは意外だった。ここに渡部惣右エ門とあるから姓もある。でも「釈」とあり真宗系統の移民だとすると武士とも思えない、ただこの墓は文久にしては立派である。これも名前しかわからない、他にも江戸時代の墓があったが名前もわからない、 他に中田とかありこれも越中の移民系統の分家なのかもしれない、真宗の移民の墓は二三割あるからいかに多いかわかる。

 

なぜ墓にひかれるのか?墓はともかく単に資料を読むのとは違う、墓にはやはり故人が確かにそこに埋められたのだから何かしら故人がそこに生き続けるものがある。墓だけになってもやはり何かを留めようとして墓がある。それが資料を読むのとは違う、墓には生きたものの哀愁を感じる。ここから誰であったのがどういう一生を送ったのかわからない、それでも墓は資料を読むのとは違う、墓はまたその場その場によって違ったものとなる。場のエネルギ-が発散される。歴史は塵だというとき場のエネルギ-を感じることは大事である。歴史的場に立つことはそれ故大事なのである。ただこれも一回くらいそこに立ってもわからない、特に短い時間だとわからないのだ。外国では特にわからない、それが何を意味しているのかほほとんどわからずじまいになる。

 

大正生まれとか戦前の人は働くことしかない、だから働かせるのがいいというのは本当かもしれなかった。花にも興味なくて狭い庭に豆を植えて豆を食べた。こういうのも異常なのだ。まあ、大正生まれとか戦前生まれは苦労が多いから冬の草にあっている。生命力もしぶといのだ。
90で選挙に行き回りのことに関心をもって訴えているのだからやはり長生きしすぎたともいえない、寝たきりの老人とはまるで違った老人もいるから一括りに老人も語れないのである。

この墓地に虻が一匹飛んでいた。すでに張るの兆しがある。明日はあたたかい、今年は寒かったがそろそろ春の兆しがでてくる。でもまだ春隣とかはならない、春近しとはなる。まだ大寒はすぎていないからまだ寒さは来るだろう。

 

 

湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)


湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)

台田中の田中城は中世の中核的館として存在した。だからこそここを中心にして伊達氏と相馬氏の争奪戦が起きた。台田中には館の内という地名もあった。館とつく地名は鎌倉時代以降にさかのぼるものであり古いのである。館とつく地名があったら中世からある地名となるから注意する必要がある。城の前は館がその地域の中核的存在でありその館を中心にして村落が形成された。竹の内も同じである。相馬市の・・竹の内もそうした中世の館があったところでありそこから姓となった。そのあと相馬氏系統の渡部氏が成田に土着したから竹内-武市は竹の内という地名から姓としたのである。相馬氏系統に竹内氏はいなかったからである。つまり竹内氏の方があとからきた相馬氏系統より古いとなるのだ。台田中もそうした古い堀をめぐらした館であった。そこで人々は生死をともにする生活をしていたのである。

「館(たち)」「館の内」「堀の内」という場合の方が多かったと思われるわけである。鎌倉中期からこれらの土豪は所領拡張の争いから山城を構えて社会不安に備え、南北朝の争乱の後はいよいよ堅固な防備の城を築いた。

嵐山町誌156 武士に関係あるもの 城
http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2009/08/156_fcab.html

南北朝時代から戦国時代と争乱の時代になり山に砦、館を築くことが多くなった。霊山城はその象徴である。

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

田中城は大淵とあるから相当な湿地帯が囲みその中の高台に城があった。台田中となるのはそのためである。台(ダイ)と今でも言っているからダイという地名は各地にあり日本は湿地帯が多いからその湿地帯から高くなっているところは住むに適していたのである。ここも台の回りは湿地帯であり容易に近づけなかった。その後この湿地帯が田になっていったのである。だから田中城となった。ここにも冬の陣から夏の陣と長い戦いになった。石田治部少輔三成はは秀吉の臣下の有名な三成だった。三成は太閤検地のときも相馬氏と関係していた。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)石田となるのはここから来ている。


元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


その後相馬氏は徳川につき大阪の冬の陣、夏の陣に参加する。ここで堀を埋められたことで大阪方は戦意を喪失したということでもわかるようにいかに堀が重要な役割を戦国時代に果たしたかわかる。だから堀の内、竹の内、館の内・・・とかは重要な地名であり姓となったのである。田中城は相馬地方では重要な城であり歴史の興亡の地点だった。慶長6年(1601)「田中院殿陽山吉公大居士」と戒名があり南屋形の川子内の御壇に北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓がある。鹿島区の町にある陽山寺はここから起こっていたのである。なぜならこの時田中城主の叔父にあたる僧もともに戦ったからである。僧侶も僧兵となるごとく寺は武家と一体化していたのである。武家の菩提寺として寺は武家と一体だった。相馬地方で墓を調べても古くても元禄である。これは葛尾村の落合で発見したがこれが実際に見たのでは古い。あとは百年後とかずっとあとなのである。相馬地方で残っている碑で墓ではそんなに古いものはなかった。

台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/17460671.html

2010年01月18日

冬の日(蔵の話)


冬の日や蔵に眠れる宝かな

冬の日旧家に眠る宝かな

冬長く蔵に眠れる宝かな

蔵多く物語秘め冬長し

喜多方に蔵の喫茶店積る雪

我が庭に手水鉢ありて氷張り厚くとけじも今年は寒しも

 

「 蔵の郷土館齋理屋敷」「 ほらの吹く蔵」・・・蔵でいい例が出てこなかった。蔵のある家に暮らしていないから蔵がわからない、蔵は農家なら必ずあるし珍しいものではない、町でも蔵がある。喜多方は蔵で有名である。蔵の喫茶店に入ったことがある。なかなか風土にあっていい。蔵を利用したものは各地にある。旧家とかには確かに宝が眠っている。その宝はモノとは限らないのだ。物語が貴重な宝なのである。すでに旧家でなくても二代くらいしかつづかない家でも旧家になる。旧家となると相当古い家をイメ-ジするが日本の家はそんなに長く残るのは少ない、すでに茅葺きの家はわずかである。家というものより物語が宝となる。

それぞれの家にはやはり家の物語があるのだ。その物語はまだ発見されて語られていない、野馬追いなどでも旗の由来などは相当古いのだが語られていない、わからずじまいになっているのが多い。そういう旗にも一つ一つに物語があるのだがわからなくなっている。すでに我が家でも三人死んでいるから三人の物語がある。古い家ではそれこそ先祖をたどれば数が多いから物語も多くなる。それも郷土史になる。郷土史はまず一番家に関心があるからそこからはじまる。祖父母の話を聞いて昔に関心をもつのである。

 

人間誰だって60年も生きればいろいろな思い出が残る。集めたものも残る。何かしら執着するモノが残る。それでゴミ屋敷になるのがわかる。なかなか捨てられないのだ。捨てようとしても本でも読まなくても捨てられない、何か愛着が生まれている。本はやはりモノとしてもあるからそうなっているのだ。物語はそもそもモノが語ることだから一つ一つのモノが昔の記憶がなにかしら付着していればそうなる。認知症になったとき特別なモノに執着する、そのモノを離さない、それは大事な思い出の品だった。実は記憶が一番大事なものとなっていたのだ。そこに大事な記憶がつまっていたからそのモノにこだわったのである。そのモノは今も残っている。でもなんだからそれを見ていると今になると悲しい、人間は一方で常に記憶は忘れられてゆく、一般の庶民のことなどすぐに忘れられてしまう。毎日人が死ぬ、その度にその人の記憶は忘れられてゆく、何も痕跡もとどめずわすれられてゆくのも多い。人間が生きても個々の記憶も忘れられのが早い。記憶しきれない、最後は墓だけとなり何才で死んだとか記されていないからその人のこともわからなくなる。記憶もまた無常なのである。

今年は特に寒かった。それで手水鉢に氷が厚く張ってとけない、こういうことはめずらしかった。氷が張っても普通はとけていた。それが厚く張ってとけない、永久凍土とういうのが氷河期の地球の記憶として残っている。地球にも過去の記憶が記されている。化石も記憶である。それは何万年前のことであり人間の膨大な記憶もその時はみんな消えてしまのうか?記憶も無常である。いづれにしろ死者でも誰かが語らなければその人はさらに記憶から消えてゆくのだから本当に消失してゆく、その人の存在は消えてゆく、その人について何か語られれば生きている。それは家族でもそうである。消えやすい記憶だから何度も執拗に語らないと戦争の悲惨さもやがて忘れられる。そしてまた同じように戦争が起こりうる。人間の記憶は消えやすいのである。

 

2010年01月17日

南相馬市市長選挙終える(争点は産業廃棄物問題)


南相馬市市長選挙終える


 南相馬市原町区大甕の産業廃棄物処分場建設をめぐり、産廃処理業者、原町共栄クリーン(同市、新倉春彦社長)が建設に反対し建設予定地の一部を買収した 住民ら6人に3億円の損害賠償を求めた訴訟で、地裁いわき支部(鈴木尚久裁判官)は29日、請求通り6人に総額3億円の支払いを命じる判決を言い渡した。 住民側は即日控訴した。
http://ameblo.jp/penynetpics/entry-10200240041.html
 (2009年1月30日 福島民友ニュース)

産業廃棄物の場所
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col18198.htm

これをやめると金を払わなければならない、この工事の中止で会社は11億円損した。今回の南相馬市市長選挙の争点の一つはここにあったのか?住民側は3億円払うとなると大変である。それで桜井候補側は住民側だったのか?渡辺氏は会社側についていたのか?一人はそのことを聞いて渡辺氏に入れた。産業廃棄物ではここでもいろいろもめていた。東京から産業廃棄物が運ばれて田んぼや海が汚染されるとか桜井候補が産業廃棄物が住んでる近くで問題になり反対の立場で議員として運動していた。確かに東京から産業廃棄物をもちこまれるのは問題である。場所はなかなかわかりにくい所だった。ここだと確かに海に汚染物が直接流れる。他に作っても必ず汚染されたものが流れるのだ。魚は食べない方がいい、ダイオキシンで汚染されて食べられるものではないとかインタ-ネットのサイトにあったのでびっくりした。ええ、魚も食べられないのかとショックになる。ここのサイトは何も安心して食べられなくなる。こうした汚染のことは公にされないからわかりにくいのだ。現市長の渡部氏がすすめた大きな立派な図書館などいらないというのが大方の人の意見だったみたいだ。600億円も借金財政なのに無駄だった。そんなに必要性があるものではなかった。文化的なものなら街作りでありところどころに路地裏でも庭を造り木を植えて石を置くだけでも安らぎの場所が作れる。ITの時代に立派な図書館は無駄だったのである。

今回の選挙では争点が明確でなくて正直どっちに入れていいかわからなかった。情報不足であり市長選挙を知ったの二三日前だった。こうなると調べて考えている暇もなかった。だから本当にどっちにしていいかわからなかった。渡部氏の政策もいいと思うのがあったし桜井氏については政策もわからない、ただ今日来た90才の老人は政治に関心がありいろいろいつも言う。その人がなぜ桜井氏に投票したのかその理由もよくわからなかったが産業廃棄物のことで桜井氏にいれたのかもしれない、もう一人は逆に渡部氏に入れた、市で会社に金を払うようになるから税金の無駄になるからということなのか?ともかく今回の選挙はここが争点だったのか?良く調べられずどちらに投票していいのかわからないが一応批判票ということで投票した。投票率も50パ-セントとかと言っていたからみんな関心が薄い、結局何が争点かもわからなかったからだ。

90才の老人は子供手当てなど必要ない、子供には金がかからない、俺たちは子供を生んだが金などかからない、俺たちは先がないんだから老人に金を使うべきだと言っていたし90になってもまだ生きたいということを常に言っている人だった。現実に背も曲がっていないし投票してきた人だった。これも時代が違うのだから子供に金かかる時代なのだから90なっても老人に金を使いというのは疑問である。もう一人は投票所にも行くことができなかった。最近は寝てばかりいるからだ。いくら老人に金は使うなと言っても90になってもこうして選挙に行く人がいるのだから数ではどうしても老人を味方にしないと選挙に勝てないから老人に金を使うなと政策的には成りにくい、ただ民主党は子供に金を使うべきだとしたのはやはり方向としては正解なのだろう。若者は老人の奴隷だとか常に不満を延々と書きつづけているがそれもわかるのだ。
老人はあまりにも生きることに強欲であり節制がない、長生きすることはいいとしてもその負担が若い世代にのしかかるとしたら社会全体の問題になるからだ。

 

もう一つは粗末な施設でもいいから安くて入れる老人施設を作ってくれというのは切実だろう。療養型とか老健とかもう満員で入れないという、なぜか、皮肉なことに一旦そういう施設に入ると手厚い介護をするから長生きになる。すでに一年も脳出血の人が寝たきりになり介護されている。そんなに長く入っていられるのかと思う。このまま死ぬまでとなると実に長くなり金もかかるのだ。一方で今日近くの老人が肺炎であっけなく死んだ。こうして簡単に手もかからず死ぬ人もいる。これが不思議なのだ。
その人がどういう人だったその生前のことなど関係ない、簡単に死ぬ人は死ぬのである。でも死なない人はなかなか死なない、寝たきりで十年とか死なないのである。この差は大きいのである。


渡部氏が財政赤字で公務員をリストラするというのもこれも地方では影響が大きいだろう。地方で金を使うのは公務員である。理髪店に来るのは公務員が多いというのもわかる。公務員がお得意さんになっているところは飲み屋とかでもかなりあるだろう。地方では公務員がいないと余裕のある家庭はなくなる。そしたら消費も落ちるしみんなが困ることになる。公務員はいらないと言っているのは都会の人である。それは地方交付税など都会 で税金を使っているから常にそういうのだろう。こうした問題も地方から考えると違ったものになる。それでも600億円の借金をどうするのか、国で支払ってくれるわけではない、夕張のようになる危険性もある。だから図書館に金を使ったのは無駄だった。地方が自力でやれという時代に無駄はできないのである。
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枯木の影

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それぞれの枯木に癖あり影写す


黒々と影交わりぬ枯木かな田舎の町に我が住みつきぬ

長々と枯木の影の真昼間に前の畑に伸びにけるかな

蝋梅の墓の近くに濃密に匂いてここを我がまた行きぬ

真野川の土手にある桜の枯木の十数本は今ただ影が伸びているだけである。でもあそこに樹があることは落ち着く、その影が黒々と交わっている。こういう小さい町にいると人の暮らしは本当は濃密に交わる。でも町と在では相当違っている。在はさらに濃密な交わりになる。都会だったら別に枯木の影を見てそんなふうには感じない、ビルとか車ばかり通る道ではそういうのんびりした時間感覚がない、木一つでも回りの環境に左右されているのである。田舎では時間がゆっくり流れているのだ。悠長な時間がまだあるのだ。時間の感覚は住んでる場所で違ってくるのだ。良く見ると一本一本の樹にも表情がある。癖がある。これも人間と同じかもしれない、石もそうである。石一つ一つにも表情があり人間を見るのである。樹もこういう田舎でこそのびのびとその本性を現して生きているのかもしれない、騒々しいビルの谷間では活きてこないのだ。仙台の枯木並木はそれなりに都会に融合して活きている。今はともかく見るべきものがない、蝋梅は墓の所に今年も咲いてにおっている。それ意外代わり映えしない、でも今日は市長選挙だった、これは日記のカテゴリ-でちょっと書いてみよう。

2010年01月15日

石川議員逮捕の裏側(検察の暴走を止めるのは誰なのか?)

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石川議員逮捕の裏側(検察の暴走を止めるのは誰なのか?)


田中首相のロッキ-ド事件も中国と国交回復したときアメリカが検察を通して陥れた。その構図は今になるとはっきりしている。今回も歴史はくりかえすで検察と官僚を通して小沢を追い落としを図る。これは別に陰謀史でもなく今になると素人にも明確に見えているのだ。アメリカと結託した検察の構図が見えてきている。検察は正義の見方ではない、時の権力によって左右されるのが検察である。また官僚の権益や既得権の維持に働く自分たちの組織の既得権、権益を守るために働く、すべての組織は自分たちの権益を守るために働く、権力を動かす力があるものと結託して権力の構図ができあがる。アメリカは巨大な権力だからこれに左右されるのは素人でもわかる。もちろんそれに対抗して中国が大きな権力を左右するものとして台頭してきた。今回の逮捕劇は複雑ではない、見え見えなのである。金沢とかいう自民党にだきこまれた元秘書は民主党に公認されなかった私怨がありうさん臭い人物だった。それも見え見えなのである。検察の強引さも自分たちの権益維持と背後のアメリカとの結託であり自民党を復活して生き残りを図る無謀な権力行使にでた。小沢を追い落とすためにマスコミと組みドラマを演出したのである。検察は西松事件では自民をうやむやにしたし検察は自民に甘い、利害が一致しているから甘いのである。政治と金の問題を公平に追求してはいない、小沢憎し小沢に検察の人事をにぎられ小沢の言いなりになるより検察の権力を示して小沢を追い落とすことを実行した。権力と権力の全面的対決が起こった。


自民党は正義を主張しえるのか、検察に見逃されて検察と結託して自分たちの古い政治勢力の復活を図る。やっぱり既得権を破壊しようとすれば西南戦争のように戦争にもなる。既得権を守るために法の正義などない、権力と権力の戦いがあるだけである。その権力は正義ではない、検察の利権、官僚の権益、アメリカの権益を守るために法を盾にする。政治と金の問題は自民党にもありそこは曖昧にされたからである。国民は今回は検察の横暴を見ている。前のように簡単に騙されない、マスコミにものせられない、インタ-ネットでもそのことは明らかにされている。検察の権力が絶対的なものなのか?

これに対抗するためにはどうするのか、法律で立法府、議員の方が権力的に優位に立てるのか?そういう戦いであり正義のための戦いではない、素人にもその構図が見えすぎているからだ。検察が政局を左右して日本を支配できるのか?民主党は自分たちを選んだのは国民だというのもわかる。検察は誰に選ばれたのか?アメリカなのか、公正な法なのか、そしたら検察権力が一番上なら選挙も必要はない、検察が法の名のもとに絶対権力をもち支配できてしまう。しかし法を作るのは選挙で選ばれた議員であり議会である。民主主義において検察権力とは何なのか問われている。誰も今回は検察の権力行使を法による正義の行使だと単純に認めないだろう。創価も権力奪取を目指したけどやはり選挙に勝てないと権力を手中にできない、無血革命で権力奪取しようとしても選挙があるからできなかった。検察は自ら選挙もなしで権力を与えられている。しかしその権力は正義の法を実行するものではない、それを制御するものは誰なのか?検察の暴走を止めるのは誰なのか、国民は検察にもマスコミにものせられず注視する必要がある。


追記

西南戦争は国民軍と武士階級を維持しようとするものの戦いだった。武士にはとてもかなわないと思ったが国民軍が勝ち国民軍が武士の役目を果たすことになった。国を防衛するのも国民になった。江戸時代までの政治は武士がとりしきりお上が決定することでありその他は何ら政治に関与することはできなかった。国民意識などもなかった。つまり革命というとき既得権を廃止する戦いだったがそれは武力で行われたのだ。国民軍が勝ったとき国民が権力を手中にしたのである。

でもその後三権分立の民主主義が施行されても権力は国民にあったとはいえなかった。その最たるものが検察だったのだ。検察は神聖犯さざるべき権力となっていた。民主主義は法治国家だから法を第一にする。ところがその法も人間が決めて人間が判断するものだから絶対ではない、特に国家の重要事とを決めるとなると法は無力なのである。民報では比較的公平であるが国家的政治問題になるとそうはいかない、だから検察は江戸時代のお上になっていた。国民が選挙で決めたものでも国の方向を決めるような大事は検察が官僚が決めるのであり国民はそれに従いばいいのだということになっていた。検察をおさえる者が権限を有する者がいない、検察は絶対権力になっていた。天皇すら今や小沢の天皇発言で権力を失っていたことが判明したが検察だけは以前として江戸時代のお上だった。検察もやはり権力であり権力は絶対的に腐敗するというとき法だけでは監視できないから監視する仕組みを作る必要がある。つまり検察官を検察する、尋問することが必要なのである。


検察の強大な権力は常に国民の側にいるべきで、
検察の意に沿わないような政治状況・社会状況が出現した時は、『独善に陥る危険性があるため、
検察権の行使は慎重であるべき


検察のトップになる奴はみんなCIAに留学するからね
そこで脅しや買収でアメリカへの忠誠を誓わされてスパイになる
これを断った奴は決して出世できずに終わる

東京地検は正義なんてものではなく
アメリカの都合によりそれまでアメリカ大使館が収集してストックしてきたネタで
アメリカにとって不都合な政治家を
アメリカの都合の良い時期にマスコミと検察を使って潰すだけなんだよね

田中角栄という国益の為に戦った日本のニッポンの政治家もロッキード事件で潰された
こういう構造を全く理解せずに政治家に潔癖を求める馬鹿の多い事多い事


今回の石川議員逮捕の意見の例


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091108/1257679366
http://blogs.yahoo.co.jp/mvbzx0147/23702699.html
http://www.the-journal.jp/contents/yamaguchi/2009/03/post_53.html
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-1991.html
http://askazeera.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-8cd1.html
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/nhk-49a4.html

posted by 天華 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬の暮(原町の路地裏)

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冬の日や蔵に眠れる宝かな


色違う五つの石や冬の暮

原町の路地裏行くや冬の暮

冬の暮原町村の昔かな

冬の灯やここまた通る裏の道

原町は原町村であり淋しい宿場町から発展したのである。大町とかは原野だったのだろう。残された絵を見ると本当に街道沿いに家が並びそこだけが家がある淋しい宿場町だったのである。野馬追いにも一つの家しかでていない、明治以降鉄道ができて急速に発展したのである。
この黒門のあるところは何なのか?本町の辺りであり何かの記念なのか、何か謂われがあるのかただ石を並べるだけで落ち着く、石には心を鎮める作用があるのだ。庭作りはこると手間がかかる。でもこれでは芸がなさすぎる感じもする。砂利でも小石でも並べたりすればいいだろう。下をコンクリ-トにしたから何か石を展示するだけのようになった。石屋かと思った。黒門は何なのか?何か意味があるのか、それなりにここに石を置いただけでやはり何か効果がでてくる。


原町には路地が多い、そこにこうした石を置くだけで路地にも魅力が出てくる。ス-パ-とか大通りだけに街の魅力があるのではない、路地裏にもある。そこに歴史的謂われがあればもっとよいとなる。路地裏とか街道沿いは人間的なのである。人間の匂いがする、義理と人情の世界である。だから一杯飲み屋とかがあっているのである。つまり街でも村でもその場にあったものがあれば生きてくるのである。

江刺市でも蔵の街として街作りをしようとしている。NHKで写していた。嫁に来て50年とかいう女性が蔵を案内した。そこには思い出の品がつまっていた。蔵とはそうした思い出のものが貯えられた場所である。実用的なものとしては防火とか金庫の役割も果たしていた。今になると思い出の品物をしまっておく場所である。旧家だと江戸時代の宝物、資料などがでてくるから郷土史発掘の場所となっている。つくづく嫁とは女-家であり女性は家と一体化する。だから施設に入ってもそこには家がない、暮らした家の思い出がないから家に帰りたいとなるのだ。認知症になっても思い出の家に住んでいれば症状も和らぐことがありうる。施設ではそうした記憶と一体化していないから回想してもなかなか記憶が蘇らないということがある。女性は家が家族が暮らしの中心であり仕事は男である。田に力はやはり仕事のことである。女性にも仕事に向いた人もいるが一般的には家庭の中でこそ女性の資質は生きる。それがなくなるとき生きがいが喪失するのである。

2010年01月14日

寒風(紙漉きのことなど)


キ-ボ-ド打つ手の寒く夜の更けぬ


我が家に手伝いに通ふ女ありて石に葉牡丹氷張るかも

寒風の中を帰れる手伝いの女(ヒト)を見送り今日も暮れにき

山上に炭焼きの烟紙漉や昔の暮らし寒さ身にしむ

お手伝いさんとかヘルパ-とかが最近使う人が増えているだろう。家事すらもちょっと手伝ってもらうと楽になる。女中と昔は言っていて必ず金持ちの家では雇っていたのだ。電化されていないから掃除、洗濯、料理でもそれが一仕事だったからである。江戸時代に女中であった。
武家の女中とか奉公人とか足軽とかいたが身分が明確であり主人に仕える人、使われ人は言葉使いから違っていたし住む場所も違っていた。武家屋敷の奉公人や女中が住んでいる部屋へ入ると一段と低くなっていた。暮らしも別々だった。食べるものも違っていた。今は別に暮らしでも食べるものはそれほど差がない、何かあったらいいものでも分けてやったりしてしいる。別にそうしなくても住居には差があっても食べ物にそれほど差はないのだ。毎日家にちょっとの時間でも来てくれると何か頼もしいと感じる。それでわかったけど一人暮らしでも家族が少なくてもお手伝いさんとかヘルパ-とか雇っていると孤立しない、共同生活みたいになってくる。南相馬市長選挙の立候補者がグル-プリビングのことを言っていたけどそういうのも模索する必要が出てきている。ただ家に仕えるとなると家には必ず家の歴史がありその中に入るということもある。そこが新たに共同生活するのとは違っている。


それにししても寒い、車だと見送るということがない、歩きだとか自転車だと見送るということがある。車だと何かキレてしまうのだ。別れるときでもその人を見ている。遠くに消えるまで惜しんで見ていた。それは茶の湯の出会いと別れでもあった。車で来て車で帰ったりすると茶の湯の心もわからないような気がする。寒いというとき相馬市の山上とかなるとそこでも炭焼きと紙漉の仕事があった。紙漉きは冬の寒いとき冷たい水で紙漉きをするから冬の風物詩だった。今年は寒いから昔はこんな寒いとき紙漉きしていたんだなとか実感がこもる。紙漉沢と名前が残っているがこれは寒いとき一段と感じる名前だったのである。昔は自給自足だからこそかえって自分の暮らしに誇りをもっていた。炭焼きしていれば山の中でも食べていけるという自負があった。それがなくなったとき、無駄な公共事業で都会の人の税金で生活しているとか批判されるようになったのである。だから現代の経済は全体に歪んでいる、自然ではない、不調和なのである。それは大都会だって歪んでいるのだ。やはり自然に則した生活から離れた結果こうなったのである。

今部屋をエアコンであたためていない、二酸化炭素で空気が悪くなり頭痛くなるからだ。
「風流は寒きものなり」というとき、やはり寒いからこそ感じるものが失われる。寒いからこそ紙漉きのことが心にしみるのだ。でも食器洗うにしてもお湯を今は使っているから霜焼けにならないから楽である。キ-ボ-ド打つのも手がちょっと痛くなっている。これくらいはたいしたことはないが寒いとそれなりにいろいろ苦しいこともでてくるのだ。寒さが苦手なので暑い所に移住したいともなるが季節の変化がなくなるのでどうかなと思う。

冬は冬なりで楽しめるものがあるからだ。四季がない世界を考えられないのである。

2010年01月13日

既得権を奪われるものの犠牲(小沢は既得権の破壊者)


既得権を奪われるものの犠牲(小沢は既得権の破壊者)(時事問題の深層40)
http://musubu.jp/jijimondai40.html#kitoku

キ-ワ-ドで意外と驚く場合がある。「酒販店 自殺」などとあるとびっくりする。それでそのキ-ワ-ドで検索するとそれなりの記事がでてくる。やはり自殺している人がいるとわかった。そして酒販店は既得権者の最たるものだったということに気づいた。そして今の社会の状態はどうなっているのか、JALの問題でも既得権をもったもの議員が地方にいらない空港を作ったりして今日の結果となっている。公共事業は大きな既得権としてあった。日本には様々な既得権がありそれで官僚が天下りとかで富の収奪があったりマスコミも既得権に守られて大きな権力をもつことになった。なぜなら新聞でもテレビでも新聞を配る、テレビで何百万の人に知らせる力をもっていてテレビ局で世論を操作できたからである。広告でも何百万人に知らせることができることで収益をあげていた。そしてその権力故に力をもつことができたのである。それは出版社でも音楽の著作権をとりしきる会社でも同じだった。既得権によって守られていて報道は規制することもできたし収益を独占できたのである。作家などは出版社の奴隷でありもうけていたのは出版社だったとか報道する権利はこうした巨大な既得権をもったものによって支配されていたのである。


そういうものが民主党の小沢主導で破壊される。民主党がこれは革命だというのはそういう面があった。創価などの宗教団体も巨大な既得権をもった団体でありビジネス化権力利権団体でも税金を納める必要はない、他の宗教団体でも税金を納める必要がない、これも既得権だったのである。つまり日本にはそうした既得権の上にあぐらをかいたものが支配する結果、膨大な借金国となった。無駄な公共事業でも既得権をもっているものに金をだし続けねばならなかった。公共事業が必要であっても有効に働かなかったのである。その既得権の構造を変えようとすれば抵抗するものがでてくるのはしかたがない、それを変えること自体容易ではない、西南戦争のように武士の権益を階級を守る命をかけた抵抗もありうる。小沢はそういう既得権を破壊しようとしているから恐怖している人たちが多い。天皇も一つの既得権でありそれを守ることで利益を得る人があったから小沢氏が天皇のことで文句を言ったら抵抗があったのである。

最近はプログの方が中心で本サイトのホ-ムペ-ジは2カ月ほど書いていなかった。ともかく延々と書き続けていたのが自分だった。ただホ-ムペ-ジが結局いくら書いても読まれているかどうかわかりにくい、前はキ-ワ-ドで調べていたが一つの記事に反応を得るわけにいかない、時事問題の深層でも一ペ-ジに量が多いしタイトルが別れているからどの記事が読まれたかわかりにくい、プログは一タイトルごとに読まれたことが確認はできる。コメントはないにしろこれは読まれているなと一応反応があるのでホ-ムペ-ジよりはいいと思いプログ中心になった。でも長くなるとやはりまとめるのにはホ-ムペ-ジの方がわかりやすくなる。長い文や論文はホ-ムペ-ジがいいのである。
posted by 天華 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市長選挙の街頭演説を聞いて


南相馬市長選挙の街頭演説を聞いて


●渡辺氏の政策

南市長選挙はこれが合併して二回目なのか?合併して4年でありその評価は鹿島区ではいいことがなかったとかある。合併するとどうしても中心となる街が得をする。もともと小高と原町と鹿島があったときすでに原町が中心となっていたから当然だったのである。近くで街頭演説ししていたけど市営住宅の利用のことを言っていた。鹿島区にも市営住宅が百軒くらいある。それが築50年くらいになって老朽化してぼろぼろになっているのをかなりみかける。それを改築したりして利用することなど訴えていた。現実に3400円で入っている人もいる。2000円のもあるとか安いのである。ただリホ-ムしないと入れなくなっている。風呂を設置するのに十万かかったとかかかる。なぜこんなに市営住宅が多いのかというと当時家をもてる家庭がまだ少なかった。そして高度成長期で人口はふえたのだからこれだけの市営住宅が必要になったのである。それが今や半分は空家であり老朽化してどうするのか問題になった。市営住宅の数を見てもいかに高度成長のときは人が多く活気があったかわかる。原町では駅前通り地域に6000人住んでいたのが半分になったとかその影響が著しい。

今や少子高齢化で田舎は老人社会になる。渡辺氏はその解決策としてグル-プリビングとかの政策を提示していた。みんなが施設に入れるというわけにいかないのでその前に小グル-プで共同生活をする。そういう所を市で応援するということだろう。これも一人暮らしの人が65才で二割になるとか切実な問題となってくる。自分もその一人になってくる。今は大家族でないし子供と一緒に暮らすのをさける人も多い時代だからそうなる。つくづくゲ-トボ-ルなどしている元気な高齢者が多いのに少しでも介護で困っている人を助けてくれればいいとか思ってしまった。つまり高齢者同士が何らか助け合わないと高齢化社会は若者に負担ばかりかけて高齢者は責められるだけになる現実があるからだ。ただこの政策は具体性に欠けるしいろいろ実行しても問題が生まれている。女性同士はすでに行われているが男性は省かれているのである。一人暮らしでは男性の方が多くの問題をかかえるかもしれない、それにしても600億円も借金財政になっているとはここも財政は逼迫している。

●二人の立候補者の経歴

二人の立候補者の生い立ちは桜井氏は岩手大農学部を卒業後、農業に就いた。自宅近くで産廃処分場の建設が決まり、それに反対することで政治に参加するようになった。鹿島区の橲原だって自然がきれいなところである。特に橲原(じさばら)村は橲原渓谷があり特に水がきれいな所だった。でもここでは反対運動をしていなかったようだ。こっちの方が反対運動をしてもいいように思えた。田舎では農学部というか農家の人が市政に参加することが普通である。
一方渡辺氏は東北大中退でも一級建築士だとすると建築土木関係になる。建築関係は親の跡を継ぐ人が多い、親の仕事を見ているからそうなりやすい、医者もそうだが第一子供が仕事に興味を持つのはその仕事を良く見て知っていないとどの仕事についていいかもわからない、自分に向いたものに自由になれということ自体余りにも親の無責任なのだが現代はそうなっていてニ-ト、フリ-タ-が増えたともなる。職業を具体的にイメ-ジできない時代なのである。二人の目指したものは田舎では実際の職業に結びつきやすいものだった。建築土木関係と農業が田舎の仕事の基本になっているからである。それに医療や介護が働く場になったのである。そしてここでも建築土木関係の仕事、公共事業がなくなったことが一番の問題なのである。だから小高と浪江に原子力発電所ができればいいとかなる。前は反対して中止になったとかあるが今なら賛成する人も増えてくるだろう。どうしても経済優先になるからだ。ただそういう問題があれば政策的にわかりやすいから投票もしやすいとなる。今回は特に政策もそれほど違いがないとなるとどうして選ぶのか迷う人も多いだろう。


●公共事業(図書館建設の是非など)

公共事業で前にも書いたのが鹿島駅の踏み切りのことだった。一年近く工事して都会なみの立派な地下歩道を作った。今見ると入り口が二つあり実に立派なのである。これは二つも地下道を作ったからかなり費用もかかった。今でも夜蛍光灯がついて明るくしているから維持費がかかる。その割にはここを利用する人はわずかな人なのである。小学生が通るから安全面では良かったとなる。でも新しく住宅地にした真野川沿いの下に鉄道の下に車を通る地下道を作る方が先決だったように思える。現実踏み切りでは事故も起きた。あそこは車が通りにくいからだ。自転車で通ってもいつもすれすれになり通りにくいのである。公共事業とかは別に減らす必要はない、田舎にとってはある程度無駄なものでも必要なことがわかった。それで生活している人が多いからだ。公共事業は減らさないで有効に使う方法が必要なのである。民主党のコンクリ-トから人へというときやはりそれも税金の使い方を問題にしたのである。総額がなかなか減らせないのだ。

合併して市議会は26名になったがこれで組織票をもつ人は有利になった。26名の内公明と共産が4名というのは多い。鹿島区では公明は最近一人もいなかった。地域が広がって組織票をもつと有利になる。 渡辺氏は自民党公明だったが今回は無所属である。自民となるだけでイメ-ジ的に悪くなる。ただ渡辺氏が有利になっている。でもやはり民主主義は必ず権力の癒着が生まれるから時々交代しないと腐敗する。そのために選挙がある。民主党はただ「政権交代」をかかげて勝った。さほど期待しなくても「政権交代」は権力が変わるのだからこれまでの権力の癒着を変えるだけでも効果がありそれが民主主義なのである。

最後に渡辺氏は図書館建設を功績として主張しているが立派な図書館がIT時代に必要だったのか?情報化はハコモノを作ることではない、最近インタ-ネットで自分が郷土史研究をしているように費用は極端に少なくてすむ、一人でさえ資料のデ-タ-ベ-ス化すらできる。膨大なハコモノを作る必要がない時代なのである。結局これも公共事業優先の延長だった。公共事業は地元ですらそれを使う人より事業者のためであり有効利用していない、それが財政赤字になるのが問題なのである。ただ公共事業費は減らすべきではない、有効利用であり今までのただハコモノを事業者のために作るというだけでは地元の人すら納得しないだろう。

新図書館建設工事入札


>市と同社の担当者が市文化センターで話し合い、市側は「入札が成立するために
>何が必要か、市と市民が望ましい提案を検討してほしい」と依頼した。


たかが1市民の意見だが、俺は建設しないのが望ましいと言っておこう。
更に言うなら何で今?この原材料高の時期にわざわざ高値出して造る理由も分からない。
1年前と今とで完成までの費用がどれだけ差があるか計算してないの?出来ないの?


この地区もそろそろ若手の議員を輩出すべき。

30代くらいで何もしがらみのない奴がいいな。
もう土建屋がらみの議員はいらないって。
そんなやつが議員になったって、一般市民には何の恩恵もないよ。
次の選挙のときは、皆でロートルじじいどもを追い出して俺たちの代弁者を送り出そうや。



駅前だから高校生の待合室、たまり場になるんでは、最近図書館に忙しくて行っていない

図書館は調べものするには不便なんだよ、資料があってもそれを引き出すの面倒なんだ

コピ-もめんどうで手間暇かかりすぎる、図書館は本のただ読みとか待合室とか暇つぶしとか

にはいい、でも意外と何かを郷土史でも研究するとなると手間なんだよな

ただ郷土史は資料を良く読まないとだめだし資料は大事である

だからこそそうした資料はいつでもインタ-ネットでも読めるようにしておく必要があるんだよ




近くの地下歩道は必要だったのか

http://musubu.sblo.jp/17471729article/.html


南相馬市鹿島区の踏み切りで交通事故
http://musubu.sblo.jp/article/29848104.html

posted by 天華 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2010年01月12日

松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

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松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

●政宗の松島を賞す漢詩

中秋月を松島に賞す   政宗
  
今宵月を待って吟きょうに倚(よ)れば
  
蒼海茫々一気濃(こまや)かなり
  
思ひ見る清光佳興しきりにして
  
道人も緩く打たん五更の鐘

この漢詩も佳作なのだろう。五更の鐘とは朝四時頃とある。蒼海茫々としてあるごとく瑞巌寺は海に面した寺だった。BSの朝日テレビで放映してたように瑞巌寺は政宗が建立したものであり伊達家の菩提を禅宗の寺だった。武者隠しなどがあるからそもそも戦国時代から寺は武士の菩提を弔うことを第一とした建てられていた。また金沢の寺町とかあるけど要塞としての役割もあった。城の延長として寺があった。だから戦国時代が終わると役所の役割も果たしたのである。瑞巌寺がどうして青葉城近くに建てられなかったのか、海に面して建てられたのか?やはり政宗はスペインに支倉常長を派遣したように海を意識していた東北ではめずらしい英傑だった。戦国武将で漢詩を作ったのは政宗くらいしかいないということでもいかに文武両道の達人だったかわかる。文に優れていれば武に劣るし武に優れていれば文に劣るのが普通だからだ。

●瑞巌寺は第二の城だった

例えば、参道が途中で屈折して本堂が見通せないことや、庫裏の「煙出」は事実上の望楼であること、巨大な武者隠しの存在や矢弾の貫通を防ぐ厚い畳など、単なる菩提寺とは思えない防御が整えられている
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002888_1.htm?page=2


大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』

ここは寺というより第二の城郭だった。しきり民衆の安寧を祈ったというのも違うだろう。東北の民は貧乏だったし伊達家が華々しく装ったのは無理をしていた。それは参勤交代が影響していた。江戸では見すぼらしくしたくない、諸国の大名と威勢を張らないとならない、伊達者というとき派手にしたその裏はかえって東北の貧しさ故だった。これは宮本常一の指摘である。これは別に一国のことではない、個々人でも家族でも見栄を張るのは普通である。近親者にそういう人いたしそういう人は普通にいる。実際に金がないと思えなかったのである。実際に見栄を張って家業が倒産したとかもある。つまり江戸で伊達者とか派手な姿をみていれば事情を知らない人は豊かな暮らししているのかと錯覚するだろう。その頃情報が不足している。でも実際に東北に来た人は仙台でも貧しい街だったと驚いている。実際に東北を見た人はすぐに貧乏だとわかったのである。東北の民衆は疲弊していたのである。東北にはそもそも関西のように豪商が育つことはなかった地域である。中産階級が育たない、侍と貧乏な農民しかいなかったのである。だから会津が薩長に攻められても町民は傍観していたしかえって歓迎したというのはそのためである。会津の北にむしろ喜多方が町人の商人の街として栄えることになったのである。喜多方-喜び多い町になったのである。

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』
瑞巌寺も豪壮なものにししてもやはり民衆の犠牲があった。殿様の間を作るのは普通だがその臣下の集る間まで作るのはまれだろう。ここは伊達家の重臣が集る場でもあった。だから仏教的色彩より武家的な豪壮なものとして作られている。安土桃山文化の華やかな色彩が黄金の襖に残された。それ以上にここが第二の城だからこそここで政宗が家康の幕府に攻められたら自害まで覚悟していたのだからやはり第二の城のような作りになったのである。

いづれにしろやはり民衆的な寺ではなかった。そもそも寺は民衆的な場所ではないのだ。武士にはたいした戒名をさずけるが民衆は姓も戒名も格が落ちるとか差別があった。それで明治時代になり民衆が豊になり立派な墓を造りたいとか武士と並ぶ格の高い戒名をさずけてもらいたいとかなった。これも馬鹿げているのだ。また廃仏毀釈が起こったのは神社側が江戸時代に武士社会で不遇だったからその恨みだったというのもやはりそれだけ寺が武家の菩提寺として優遇されていたからである。だから瑞巌寺に参るとき伊達家の菩提に参るのかということにもなる。歴史的にそういう性格の寺になっているからだ。純粋に僧が修行する寺とも違うのである。仙台の定禅寺通りも有名で度々書いてきたけどやはりここも政宗が禅宗を学んだから禅寺があったところである。宮城県には禅宗が多いのもそのためである。

●伊達政宗の側室に朝鮮人?

伊達政宗にしても歴史的人物ならいろいろな見方がでてくる。政宗の側室は多い。
新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、
朝鮮人女子某
朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏である。文禄・慶長の役で秀吉は朝鮮が陶工を連れてきたことは知られている。女性も連れてきていたのだ。女性は戦国時代では戦利品の一つだったのである。側室というのも政治の道具として女性が使われていたから多かった。必ずしも色欲からではない、戦国時代の習わしだったのである。ただ今からすると和歌もうまいし漢詩もたしなみ武将として優れているし政治家としても抜群だとなるとそういう人は今の時代にはいないのだからいかにその当時は総合的人間として育つ環境があったことを証明している。現代ではこうした総合的人間が育たない、育てられないということにかえって後退しているのである。武士の教養はやはりその生活そのもの城の中で武家の屋敷で自ずと育つ環境に庵たのである。学校とかでは養われないものが日々の生活の中で養われていたから違っていたのだ。安土桃山時代は国際的な時代でもあった。武士の間では絢爛豪華なものが好まれたのである。

滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているから明らかに伊達藩から朝鮮出兵の折りその技術が伝わり作られたのである。伊達藩と相馬藩は常に密接な関係があったことの証明である。
松島は古くは中世は霊場であった。

だから鎌倉後期にこの島を訪れた一遍上人(時宗の開祖)の高弟、他阿弥陀仏(たあみだぶつ)は

紫の雲の迎いを松島や仏みるてふ名さへなつかし

と詠んでいる。

(松島三句)

みちのくの松島に満つ淑気かな

松島に鴨の百羽や暮れにけり

冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺

冬の短歌十首-東北の歴史的地政学

http://musubu2.sblo.jp/article/33693754.html



雪の松島-俳句、短歌-政宗のこと http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html



2010年01月10日

陸奥凍雲の空(訓読風短詩)

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陸奥凍雲の空


長々と凍雲棚引く陸奥の空

今日も寄る真野川の岸辺に

群れにし鴨や静かなる日々

鴎数羽飛びきてうかがいしも

奈良の都は遠く遥けき船は来じ

古の辺境の地冬の眠りの深し

北風鳴りて老母待つ旧家に帰る

訓読風短詩
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/goyou/kanngetu.html

ここは四行詩になっている。その中味はあまり感じるものがない、ただ漢詩は韻を踏むから簡単にできない、相当な訓練が必要である。漢詩を作る素養があれば詩の世界はさらに広がる。
自然は毎日同じように見えるけど冬でも長々と今日は凍雲が棚引いていた。雲の様子でも雲は天才であるというごとく表情が毎日違っているのだ。だからデジカメは毎日持って歩いた方がいい。なぜならその雲の様子でも一日限りで終わる場合がある。あとは見れないのだ。明日はまた違った雲になっているのだ。同じ場所に住んでいれば同じ景色だから写真にとることもないとなるが雲は違っている。毎日違った雲がでているのだ。今日出た雲は長々といかにも凍雲らしく棚引いていたのである。真野川の橋をいつも渡っている。そこには鴨がいつも群れている。白鳥も最近来ている。やはり鴨は冬の季語なのだろう。みちのくの冬もいい、南国だと冬がないから変化がなくなる。冬は心静まる、茶の湯に向いた季節なのだ。みちのくは風土的に茶の湯があっているのだ。

寂しさのたへたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里 西行
この歌に一番あっているのがみちのくなのかもしれない、でも日本海側には住むべきではない、冬は雪に閉ざされてしまう、福島県でも会津もそうである。気候的には福島県の浜通りとか宮城県がふさわしい。退職者が住むとしたらやはり気候が一番問題である。ただ庵をならべる人が誰になるのか?それにふさわしい人は誰なのか?そういう人を隣に庵をならべるとは限らない、それはどこに住んでも同じなのである。ともかく大都会は冬でも眠らない、冬は大地も眠る、英気を養うために眠る、それが自然のリズムなのだ。冬でも眠らないから疲れる、鬱病になる。文明には停滞した時間、眠る時間ないのである。神経がすりへってしまうのも当然である。冬は眠り休む時間なのである。


2010年01月09日

相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)

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相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)


墓一つ何を語るや故郷にたずねてあわれ年も暮れにき

高松に我が上り来て知られざる墓地の静けき冬の日暮れぬ

街道よりわずかはずれて成田なる墓地の古りしも冬の日暮れぬ

三十三才ここに埋もれぬ女あわれ二つの姓や冬深まりぬ

ここよりか竹(武)内一族起こりしや街道近み冬の成田に

街道を相馬の殿の行きにしを見送る人や冬の日暮れぬ

熊川の姓は相馬の境より起こりて残る武士の裔

六地蔵街道に古り柳枯れ冬の日長く城に待つかな

相馬藩郷士の多く城勤む人は少なく刈田の道行く

成田の墓地は古い、竹内氏が竹の内から起こったということを書いた。ここに竹内→武内と変わった姓の人の墓もあった。これは明治時代のものでも江戸時代からの継続がある。
安政 (1854-1863) の僧侶らしい墓もある。ここは旧竹内氏の墓であった。江戸時代の墓は個人の墓か夫婦の墓であり一家の墓は明治以降作られた。その名残として岸家武内家のと両家の姓が記された墓がある。これは鎌倉時代にもあり武家の家では実家の姓をひきづっていたのである。一つの家を姓にした墓の形態は新しいのである。岸タミと刻まれている墓は三十三才と記されていて武内は五十三才である。先に夫が死に明治二十二年に妻のタミが死んだ。タミは若くして死んだ。この竹内氏は竹の内から起こった姓であり相馬氏の系統の姓ではない、例えば熊川という武家は熊村から起こったのでありそこは岩城氏の領地との境であり境川ともある。熊川家老文書として残されているから熊川家は相馬藩で重きを成した人である。日本では姓はその土地の地名からとったものが多い、黒木氏でも黒木という地名が先にあり姓となった。ともかくこの成田の墓地からここが歴史的に興味ある場所として見出された。街道にも近いし相馬の城にも近いというのも魅力なのである。相馬藩では城に専門に勤めた武士は少ない、ほとんどは郷士であり農業をしていた武士だったのである。郷土史はこの成田の墓地のように知られないものが相当埋もれている。もちろん土の下に発見されない過去の痕跡が埋もれている。今回発見した古い墓地でも誰もまだ注目していないのである。郷土史にはそういうことがいくらでもあるのだ。人間の膨大な記憶は忘れられ埋もれてしまっているのである。

磐城-相馬街道(大熊町)

http://hyakkaido.travel.coocan.jp/
iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm

2010年01月08日

橲原村冬の短歌十首(村に生きる意義)


村に生く人の絆や冬深む


橲原に隠さる墓地や冬木立


街にのみ我が通いつつ橲原に久しく行かじ冬深まりぬ


橲原に生きにし人のあわれかな粗末な墓や落葉に埋もれぬ

この村に生きつつあわれ名もなきに粗末な墓や冬の日暮れぬ

橲原の入り口にし立目石バス停一つ冬の日暮れぬ

橲原に増えし一二軒家の灯や誰か住むなれ冬の夕暮

橲原は町より遠き車なき我に遠しも年は明けしも

橲原の樵の選ぶ木にあれや柱となりて我が家を支ゆ

鹿島町町誌に残る鹿島村橲原田なれあわれなるかも

鹿島区の奥座敷なれ橲原や水透き通り冬の静けき

橲原に何をし見なむ山の上に蛍袋や草深きかな


最近は電動自転車で原町の方へ毎日のように買物とかに行っていた。やはり今は山の村と街の交流は経済的に少なくなっている。昔なら炭焼きとかあり薪を供給したり密接に生活の中に山村も結ばれていた。もちろん家を作る木材を供給していたから山は資源で豊になっていた人もいたろう。日本に森林鉄道が多かったのもそのためである。それが外材となったとき失われた。40年前はまだ橲原に樵(キコリ)がいて地元では地元の木材を利用してしいたのだろう。自分の家はそうだった。地元の産物を利用しているときは地産地消していれば人間のつながりも強いものとなる。それが今までの村や町の生活であった。橲原や栃窪は鹿島区の奥座敷である。特に橲原渓谷は水が清らかである。ここは奥座敷だから茶室のようなものがあって心安らぐ場所としたい。ただ高速道路がここにもできたから風致は乱されたのが残念である。産業廃棄物の場所になったことも残念である。あれには反対した人もいなかったみたいだ。橲原村はやはり鹿島の奥座敷だからあそこはまずかった。どんなところもどうしても経済が優先されるのだ。地元の人も経済が先になるから自然は無視されるのである。

橲原には何もないのだが橲の字がめずらしくて検索している人が多いことに気づく。どうしてこういう字をあてたのか謎である。橲原というとやはりなぜか墓地が気になる。杉木立のなかにある墓地は自然石の粗末な墓である。ここの墓が行き来して心に残る。今風の墓がある方は普通の墓である注目していない、杉木立の中に隠れるようにしてあるのでいつもその墓地のことが気になっていた。でもその墓地には江戸時代のものはない、明治以降のものである。というのはここは江戸時代から村があってもその後開拓に入った人の墓かもしれない、江戸時代の墓があればそこは古い墓地である。だから墓地を見るときは江戸時代のものがあるかどうかまず見るのである。葛尾村の落合に元禄時代の墓があったのは意外だった。あういう山の奥でも古い地域なのである。

橲原で気になるのは入り口の立目石くらいだろう。そこのすぐ近くに新しい家が増えた。普通新しい家は山村では今はなかなかふえない、それでその家のことが気になる。都会だったら一軒新しい家が建っても気にしないが山村だと気になる。そんなこと気にしてどうなるんだというがやはり田舎では新しく住む人は注目されるだろう。監視さえされるようになるのが田舎である。田舎では特に農山村漁村など職住一体だから強固な一体感があって生活していた。だからよそ者は入りにくい場所だった。でもそういう村での生きる意義は存在感は重かった。貧乏でもそうだった。いや貧しいから余計に互いに支えあって生きていたのだろう。


町との交流では江戸時代の鹿島村の時、橲原田という地名を町誌に残しているのは面白い、鹿島村で田を拓いて住んだというのもその頃鹿島村でも田にすべき土地があった。その土地を求めて移住した人がいた。そうしか考えられない、普通だったら町に移住する人は職人とか商人である。町がたいがいそうして成り立っていた。 それが田を拓くために鹿島村に移住しているのだからいかに土地があれば田にする歴史が長かったことを示している。ともかく田舎では一体人が何しているのか気になる。それは普通の感情であり変わった人は住みにくい、それは良くとれば人がその土地に生きる意義を自然と問うためだろう。山村などでも石一つも何か意味が与えられて存在している。人間となれば余計にそうである。そんなむずかしいことなど誰も考えて生きていないというのもそうだが一方で限界集落など経済的効率的に考えたら必要ない無駄だというとき東京に生きることこそ存在意義が見出せない、人間は巨大な社会の部品と化して流砂のように土地との結びつきも失い、人間は無縁化社会になりやすいのだ。


NHKの無縁化社会というのもつくづく現代はこれは一部のものではない、そういう傾向は全体に広がっているのだ。会社から離れたら職住分離では土地からも社会からも結びつきがたたれる。東京などでは本当に人間の根源的アイディンティティ-存在感が見出せない世界である。経済的価値が肥大化した異様な世界なのである。だから限界集落や過疎問題を経済的合理性からだけ議論していることが何か歪んでいる。そなむずかしいことはどうでもいい、そうした村を支えているのは都会なんだよという都会の主張が一方的なのである。あんたもしょせん部外の人と言えばそうなんだがしかし常に行き来しているのはやはり山村的な所だったのである。



冬木立の村(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/34630977.html


橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語
http://musubu.sblo.jp/article/12899121.html