2010年01月07日

初乗り(仙台で昭和の回顧展を見る)


初乗りやイタリア人の乗り合わす


仙台に店新しく年明ける

新年や我を迎える黒い肌

広瀬川岸辺の枯木つづきつつ長町により帰りけるかな

新年に仙台に行く電車にイタリア人が乗っていた。明らかにイタリア語であり日本人の女性と話していた。ブックオフでは中国人の女性がアナウンスしていた。発音は違うにしても通じている。コ-ヒ-店では色の黒い女性が給仕していた。仙台になるとウエトレスまで外国人になっている。ここでは工場で働いている。とにかくいかに日本に外国人が多くなったか、東京だと本当にここ日本なのかとさえ思うようにもなっているだろう。あらゆる人種の人が入り交じっているのだ。


仙台ではなつかしい昭和20年30年代の催し物が行われていた。飯台一つでその前にテレビが置かれていた。テレビの画面は小さい、ええ、あんな小さいテレビだったのかずいぶん見ずらい、あのテレビを食いいるように見ていた。案内する人が蚊帳を釣って蛍が来たというけど確かに川には蛍がまだいたし蛍狩りをしていた。ほ-たる来い・・・ということが本当にあったのだ。その頃は飯台一つでもにぎやかな家族の団欒があった。その真ん中にテレビが置かれたことが一番印象的なことだった。そしてあらためてテレビがどれだけ社会に影響したか再認識した。茶の間にテレビが入って来たことはテレビ中心の世界が形成されたことだったのだ。テレビなしではありえない、テレビに明け暮れたともいえる。最初に鉄道の影響がこれも大きかった。鉄道村などができたり汽笛一声新橋・・こそ本当に文明開化の音だった。次にテレビの影響が大きかった。そのあとは車だったのである。鉄道→テレビ→車が社会を変えたのである。すでに昭和は遠くなりにけり・・・とかなってしまいつつある。


最近家族を一人亡くしたから特にそうである。子供の頃からその飯台を囲み一緒に生活した人を亡くしたから余計にそう思う。人間はこうして一つの時代が終わってゆく・・そのくりかえしだった。一緒に暮らした家族もなくなるということは本当にショックである。それで施設に入った老人が家に帰りたいというとき昔あった団欒があった家族の生活のなかに帰りたいとなるのはつくづくわかる。家族さえ遂に別れなくなってしまうことはあまりにショックなことなのである。ただ茫然自失しているほかないショックなことなのである。家族がなくなることはすべてが失われるなくなることに通じている。 要するにあとは思い出だけになってしまうのである。まあ、認知症の介護として回想療法としてこういう場で昔の話を聞けば臨場感がでてくるからいいとなる。

今回駅前だけで用をたして帰ったきた、いつも広瀬川を通り枯木にそって長町により帰っていた。仙台はだいたい駅前でほとんど用がたせるようになっている。今日は古本展があり「奥相茶話記」がのっていた福島県資料集の古い本を買った。これは高かった。一万五千円は高すぎたが資料が多くのっているのでしかたなく買った。そもそもこうした資料とか記録はインタ-ネットで公開すべきなのだ。図書館にあってもいちいちとりだして調べるのがめんどうで最近は介護とか忙しくなり一回も行っていない、図書館で調べるのは相当な手間暇なのである。郷土史関係の研究は本とか資料に頼ることが多い、だから手元にそうした関係の資料や本があれば研究は進むのである。インタ-ネットで自分がやったように進むのである。


2010年01月06日

名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得


「名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得

 

「名医」のウソ・・という本を読んだけどいかに医者に対応することがむずかしいか実感したからわかる。それなりに症状とか正確に伝えないといけないとか質問してもいいとか書いてあるけど医者に下手に質問すると嫌がられるし相当にうまく聞かないと気分を害される。医者とはそもそも対等に話せない、気を使いすぎる。ここには確かにその方法が具体的に書いてあるからわかりやすかった。薬も医者がわからない薬剤師もわからないとかめんどうなものなのだ。でも勝手に素人判断で薬を飲むことを中断することはまずい、実際に血のめぐりがよくなる薬を原町の心療内科からもらっていた。それをやめたのがまずかった。脳出血になったのはそのためだったかもしれない、薬はやはり大事なのである。それから紹介状を書くことでその医者のことがわかるというのも本当だろう。原町の皮膚科専門医では南相馬市立病院の麻酔科に紹介状を書いてくれた。神経ブロックの治療はそこでしかできないからだった。そこではもう治療できなかったからである。でもそれは入院しないとできないものだった。だから救急車で麻酔科のあるところに帯状疱疹は入院しないとだめなことがわかった。その南市立病院の麻酔科では薬の副作用を良く説明してくれた。他の薬ではだめだからこの薬を飲めというのも説得力があった。薬の副作用のことを詳しく説明する医者はいい医者なのだろう。その人は研修医らしいが研修医がすべて頼りにならないということではない、研修医は若いから情熱があり一生懸命みるというのも本当だろう。麻酔科の研修医はそうだった。だから副作用について熱心に説明したのかもしれない、年寄りの医者はそういう患者への病気を直すことへの熱情が薄れてしまっているかもしれない、適当にみるということもできる。若い人はどこの分野でも最初は仕事に熱心なのである。

 

それから胃ろうの手術のとき南市立病院で合併症のことを詳しく説明していた。私たちは万全を期してやりますが万が一失敗あります、合併症は万が一生じますと説明していたから手術について詳しく説明する医者は病院はいい病院だというのも本当だろう。でもその医者は一言質問したら「では手術をしない」とにらめつけて言った。その時こちらも医者は怖いと思った。一言だけ質問することはこのように怖いことなのである。だから医者に何かを聞くことは細心の注意が必要である。実際はこの本に書いたように気軽には聞けない、かなりの危険性をともなうものなのだ。「手術をしない」ええ、医者にそんな権限があるのかというのにも驚いた。危険だからやめてくれというのでもない、年だから失敗してもしょうがないとか思っていた。老人は医療ミスししてもあまり責任を問われないから医者は楽だと書いている人もある。一言質問しただけで「じゃ、手術はしない」と怒鳴られたときはびっくりした。そんな権限が医者にあり患者はその時手術をしてくださいともいえないのか?だから医者は怖い存在であり簡単に質問などできないと思った。そんな権力を権限ももっているのかとそれで病院の事務に不満を言ったら名前と住所を言いなさいとさらに脅されたのである。つまり病院には一言も不満など言えない仕組みになっているのだ。権限はすべて病院側にありそこでにらまれたら診療すら受けられないというのが現実である。

 

ただここで私が言っていることはかたよった見方ではない、この本を読んで確かに合併症のことをあれだけ説明していたのだからそれは信頼できると納得したのである。私自身別に他の人でもいい面は誰でも認めるのである。故意に中傷しているのではない、ともかくいくら医者とうまくやれと言っても本当にこれはむずかしすぎる。そこがやはり患者側としては納得いかない、ともかく医者とは仲良くしておけというのは本当である。相手も人間だから好感をもっていればいろいろ良くしてくれるからである。ただ自分はそういうことが苦手だからなかなか医者とは打つくつきあえないだろう。医者だけではないそうしたコミニケ-ションがへただからだめだとなる。

2010年01月04日

寒椿(寝たきりでもボケない老人-義理と人情の老人)


寒椿ぼけずに生きる寝たきりも

療養病棟で一年もいる老人を見舞った。病院にそんなにいるとどうにかなる、ボケる人が多いというのもわかる。でもその女性の老人はボケていない、はっきりわかっているので驚いた。
ぼけたら認知症になったらまずそんなに親しくない人、家族でないなら見舞っても誰かわからない、その人がどういう人かもわからない、認知症は過去との記憶の継続がなくなるのだ。
だからその人がどういう人だったのか理解できない、特に最近知った人は理解できない、昔から長く継続してつきあっていた人はわかる、幼なじみでも遊んでいたとかその人は老人になってまでつきあいが継続したのだからわかる。でもその人は認知症になってから全く来なくなった。他にも子供の頃からつきあっていた親戚もこなくなった。そこに入院している老人は不思議だった。認知症になって頭がおかしくなっても話をあわせてくれた。おかしくなったことを知っていたのである。かわいそうだなと言って話をあわせてくれた。変なことを言っても嫌わずにあわせてくれたのである。だからその人のところにだけは毎日のように行っていたのだ。それで助かった面があった。その人には特別世話になったわけでもない、金を全と貸しているくらいだった。でもその人は律儀であり馬鹿正直なところがあり必ず少しの金でも感謝して返していたのである。そして感謝もしていた。世話になったといって姉がおかしくなっても普通に相手していたのである。たいがい認知症になると嫌がるのが普通だから不思議だと思っていた。あとでおかしくなったことを知っていてかわいそうだとつきあってくれていたのである。認知症の人を家族さえかわいそうだと思う人は少ない、嫌悪されるのが普通である。だからこういう人は特殊であった。

それよりその人の性格自体が現代では特殊だった。わずかの金を貸したからと感謝している恩を感じる人はいない、良く姉は貸していたけど誰も感謝しない、でも返さない人がいたからいつも金を返してもらうのに苦労していた。人間はいくら世話したって恩をいつまでも感じている人はまれである。恩も忘れるのだ。また恩を返す人もまれである。だから恩を徒(あだ)で返すとかもなる。恩と義理など日本人の堅苦しい昔の言葉になっている。恩とか義理もすたれたのではないか?そんな古いことを今や守る人もいない、でもどこの国でも昔から伝えられたモラルはあった。恩と義理を守らないということはその代わりにどういう道徳がモラルで生きるのか?恩受けても恩を感じない、恩を返さない、感謝もしない、そこには荒廃した人間関係しかなくなる。人のために何かするものは助けるものは馬鹿だともなる。そんなことをししても一文の得にもならないとかなる。現実そうなってしまったのが現代の社会なのだろう。だから索漠とした潤いのない世界となっている。義理も人情もない社会となっているのだろう。だから宗教などありえない、宗教の目指すものは余りにも高すぎるからそうした恩とか義理、人情もない人はとても宗教の愛とか慈悲など何かをしることすらできない、宗教団体にもそんなものを追求していない、自分の利益だけを権利だけを追求しているだけである。その人は一見馬鹿のように見えても日本人の古いタイプであり恩と義理と人情の人だったのだろう。だからあまりにも珍しい特殊な人となっていた。むしろこうした人が特殊な例外的になったということ自体、日本人の良さがなくなった。明治人にはこうした人が多かった。明治は本当にあらそる意味で遠くなった。人間そのものが明治人と今の人ではあまりにも違っている。今の人はあまりにも利益人間一方になってしまった。それもそういう社会なのだからやむをえないいえばそれまでだがそういう昔からあったモラルを馬鹿にして自分たちが昔より進歩した人間だと思っている。でもモラルの面では後退しているのだ。だから人間はいくら科学技術が進歩しても人間そのものが変わらないというのは本当である。


こうしてその老人のことを自分が生きている今も世話になったとか感謝している。何かその人のためにしてやることもできなかった。それは見舞いに行ってちょっと金をやるくらいでは返せないものである。ただ一方で多額な金をやった人はそれなりに返したとかなる。ところが恩とか全部返せない方がいいのだ。恩になった感謝するという心が大事である。なぜならその心はいつまでも金銭でも返せないものとしたら死んでも継続する。死んでも感謝の心が継続するということは恩になったことを忘れないことでありその人を思いつづけることになる。その方がかえっていいともなる。これだけの金を払ったのだから恩は返したというよりいつまでも金では返せない恩を継続された方がいいともなる。何故なら他人が死んだらそんな恩などすぐ忘れてしまうからである。いづれにしろいかに自分が困った状態にあったか理解する人はいなかったし助けてくれる人もいなかったことをこれは物語っていたのだ。自分が困った時しか人間は助けてもらうことに感謝しない、それは家族さえそうである。介護とかになると家族でも一人の人にまかせられる場合があり助けがなくなるからだ。


ともかく人間はぼけることとぼけないこと認知症になることとならないことの差が大きい、これは一見たいしことのないように見えるが全く違っている。認知症になったら人間失格である。人間として通じなくなる。この人はだから本当に人間なのだろうかという疑問、廃人になってしまったのではないかとか見るようにもなる。あんな寝たきりでもあれだけわかっていれば恩になったからどうだこうだとか通じているのだから人間としてやりとりもできる。認知症の人にはもはやできない、全部できないというわけではないが人間として通じなくなるから悲惨なのである。

2010年01月03日

寒椿(冬の街道の行き来-原町まで)

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寒椿最期を全うする命かな

溜め池の凍り忘れられる馬頭の碑

枯芒隣の街へ行き来かな

蝋梅や還暦過ぎし男女かな

我が庭に蝋梅の蕾かそけきや母なお生きて家のつづきぬ

今日も見る街道の松枯れにしを朽ちゆく命あわれなるかな

 

最近イオンができたので近道として植松の方を回る。あそこに広い溜め池があり馬頭観音の小さな碑があった。これは普通気づかない、馬頭観音の碑は多いのは当時の交通は馬車であり馬が主役だった。今の車が馬だったのである。だからこんなに多いのだ。これも大正時代であり江戸時代の馬頭観音はまれだろう。明治から大正、昭和、昭和からまもなくも馬車が交通の主役だったのである。小さいとき馬車の後ろにのって遊んだ記憶がある。馬車屋も必ずあった。この道は鹿島から一石坂(いちごくさか)を上る道は坂が多すぎる、その坂もかなりきついから今まではこの道はさけていた。電動自転車になり坂を上りやすいのでこっちの道を頻繁に行くようになった。あそこもなかなか見慣れた風景でも風情ある場所だったかもしれない、意外と人間は近くの魅力に気づかない、かなたは山は飯館の方は雪がふぶいていた。

 

冬の風情もしんみりとしていいものだと思った。それにしても五本松に残っている一本の枯れそうな松をまた見た。あれを見ているともう一年も療養病棟にいる近くの知り合いの老人を思う、一人は胃ろうでもまだ生きている。なかなか死なない、人間は今なかなか簡単に死ねない時代である。93才になってもまたなんとか生き延びている。こんなに人は長生きするものかと不思議である。嵐で倒れる樹もあるが樹も簡単には倒れない、これもいいのか悪いのかわからない、経済的には相当な負担だから社会的に見ると高齢化社会はいいものではない、今年は寒いから寒椿の赤さが映える。寒椿のようにやはり最期を全うしたいとなるがこれがむずかしい時代である。人間の最期は認知症になったり無惨になっている。潔いものもない、見事に死ぬということはまれだろう。認知症になったら早めに死ぬのが救いである。姉も二年半ほどで死んだからそんなに禍とは今では思えない、南田洋子さんも二年半くらいで死んだから良かったのである。介護は長引くから今悲惨なのである。三年くらいならなんとか我慢できるからだ。

庭の蝋梅が蕾となって咲きだした。この寒いときに咲くのが蝋梅である。それを還暦すぎた男女が見ている。蝋梅は確かに長寿の花なのである。庭にリホ-ムしたのは良かった。ここに蝋梅もあっている。老後の生活に庭は必需品である。老後は狭い範囲が生活圏になる。するとどうしても身近に接するものが大事になるのだ。ただこの庭は余りにも狭すぎる。庭を造り楽しむまでになっていない、でも一応庭は庭である。老後は高齢化社会はスロ-社会だとすると茶の湯があっている。茶室に一回も入ったことないし茶をたしなんだこともないが茶の湯のことがわかるのである。日本人ならやはり別に茶の湯をたしなまなくても俳句とか短歌とか庭に親しんでいればわかる世界である。これからは江戸時代の隠居文化とか高齢化社会の文化になる。狭い範囲で濃密な時間を過ごす、やたら移動する時代でなくなってくる。郷土史研究が盛んになるのも必然だった。身近なものの価値を見出す時代になったのである。

 

2010年01月02日

新年に会津のことなど想う


新年にお手伝いさん勤むかな石に葉牡丹風唸るかも


舘岩の曲家に住み雪埋もる冬の長きをまた雪のふる

おやみなくしんしんと雪ふりにけり会津の奥の暮らし思いぬ

会津にも従軍看護婦の友ありし魚送るも姉は死ににき




お手伝いさんが家に来ること家のなかに人が入り家のことにかかわることは他の仕事とはかなり違っている。その家と深くかかわる。単に掃除したり料理したりとかそれだけではないものが生じてくる。家全体、家族とかその家の先祖とかもかかわってくる。現実自ら花を買ってきて大晦日にはその花を供えてくれた。家族の一員のようになってくる。でもこれは変わったことではなく昔ならみんな勤め先は大きな家だった。大地主の家で働くにしろ商家に働くにしろそこは一つの大きな家だったのである。工業だって家内工業であり大きな家に勤めることであった。農家でも・・・・・屋とかあるのはそこが今の会社みたいな存在であった。大きな家だからこそ使用人も一緒に墓に埋められたりしている。大きな商家でもそうなっていた。そもそも人間の歴史は家族から家から出発している。だからどこの国でも最初の国は家が拡大して発展したものなのである。国は家から起こった。日本では国家であり天皇家が最も古い家となって継続したとなるとその家に仕えているのが日本国家となっているのだ。大きな会社組織とかでも明治になってもやはりそうした江戸時代の家が継続されていたのである。武家社会でも家が中心となった社会である。武家に仕えていた女中や足軽とかみんな家に仕えていた、家に働く人々だったのである。それは極めて人間的な世界だったのである。そこは疑似家族となる、大きな家族としての集団形成だったのである。



会津と浜通りとなると相当気候が違っている。だから同じ福島県でも別な世界のようになっている。浜通りは文字通り海に面している。雪はめったにふらないし積もらない、会津では冬はしんしんとたえまなく雪がふってつもる。テレビで舘岩村の曲家の民宿を写していたがあそこには夏に行ったことがある。山の陰の奥深い所である。会津は夏だけ行ってはわからない、冬の雪深い時行かないとなかなか理解できないだろう。冬が長い、雪に埋もれてどんな暮らしをしていたのか、あの大きな曲家で一日泊まって見れば実感できる。そして車もないときの生活がどんなだったのかも想像するといかに雪に埋もれた生活が大変なものかわかる。その時茅葺きの職人が出稼ぎにでた。会津は茅葺きの家作りが盛んだった。何故なら昭和村の方に行ったら山一面が萱が繁っていた。萱が豊富である。もちろんその頃茅葺きの家が主だったからどこでも萱が必要であり萱場山とか萱とつく地名が多くなることは必然だった。あの雪深い時、越後でもそうだが江戸に出稼ぎに行くということがわかる。毎日のように雪降る中で暮らすことは閉塞感をもたらすし経済的にも苦しい。だからその雪の間に雪のない地域に出稼ぎにゆくことが習慣になることは自然なのである。相馬地方にも茅葺き屋根作りの職人が来ていたのである。ともかく浜通りでは確かに雪がふったがつもらない、すぐきえてしまう。雪を積ということが雪に埋もれる暮らしを実感できないのだ。これは雪国に住まない人はみんなそうである。天候でも毎日のように曇り雪がしんしんとふる世界が人間の心にどう影響するのか?それもなかなか推し量れないのである。


会津というと姉は従軍看護婦であり鳥取とかにも戦友がいて手紙のやりとりをしていた。でも認知症になってから年賀も書けず音信不通になった。会津には松川浦でとれた石鰈などを送り喜ばれていた。あういう魚はなかなか向こうでは食べられないだろう。姉は最後までシンガポ-ルで従軍看護婦をしていた四年間を忘れることができず死ぬ直前まで話していたのである。認知症になってもそのことは忘れなかった。85以上になると互いの消息もわからなくなっている。でも戦争の残した傷痕はまだまだ生々しいのである。テレビとかで見てもそうである。失明した人がいたりその人の姿を見たとき戦争は残酷だなとつくづく思ったりする。盲目の障害者まで戦場に駆り出されていたことには驚いた。傷痍軍人も戦争後まもなくは街に出ていた。戦争の現実はまだ本当のことは語られていない、余りにも残酷だから語られないということもある。ともかく身内が死んで何年かはなかなか死者のことは忘れられない、いろいろとひきずるのだ。


ただ戦争のことにしても戦争を経験した人が死ねばその人が語ったことを伝えることとなるからまた違ったものとなる。戦争のことを経験しないで聞いただけの人は冷静に判断するということもかえってあるのだ。戦争に参加した人はやはり自分たちがした戦争を否定することは簡単にはできない、冷静に見ることはできない、事の真実はあとからなるほどなと明瞭になることがある。それが歴史となる。今の時点のことが後世でどう評価するかは本当にわからないのだ。マスコミの判断に追従したことが全く批判されることもある。今の時点の事を評価することは本当にむずかしい。あとで評価することはいろいろなことを冷静に見て総合的に判断するからわかりやすいのである。それは別に歴史的な大きなことでなくても身近な家族とかでも死んでみると自分の親はこんな人だったのかと回想してわかる。生きている時はあんなにしかられて嫌だったけど今になるとその意味がわかったとかあとになってからわかることが多いのである。だからともかく平凡人でも死んでからその人についてわかることが多いのである。

2010年01月01日

2010謹賀新年

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新年や海穏やかに陸荒れぬ

元旦に朝鐘鳴りぬ奥の寺

年明けぬ松風鳴りて雪野かな

千里行く寅年西行思うかな

寅年や晩年なおも飛躍せむ

元旦に墓に詣でて寒椿

新年や梢に高く鳥鳴きぬ

我が庭に葉牡丹植えて新年を迎えて雪や石の鎮まる

穏やかに波にゆれつつ鴨の群れむつまじきかな新年の朝

新年や松風鳴りて朝清し昨夜の雪の残りし野を見ゆ

今年の元旦は荒れ模様だ。昨夜雪がふり今朝その雪が残り今は北風がうなり吹いている。元旦から荒れ模様ということは今年も不況がつづきいろいろ苦しみ続けるのか?不思議なのは海は穏やかである。波もいつもとは違い静かであり鴨の群れがその波にゆられている。海が穏やかで陸が荒れているのはめずらしい、。たいがい海は波がここは荒い、これも例年にないことだろう。寺の鐘を元旦の朝に聞いたのもめずらしい、普通は大晦日だからである。 まず霊前に祈り近くの墓にお参りした。姉が死んで一周忌が終わったばかりでありまだ死んだ人は遠くに行っていない、やはり死んで三年くらいはまだまだ死者はこの世を彷徨っている。だからこそその三四年は死者は生者に相当な影響力を及ぼす、これは迷信とかではなく本当だと思う。実際姉が死ぬ前に親戚の人も二人死んだのである。ここ三四年の間に二人親戚の人が死んだ。それでなぜか自分は関係ないと思っていたが一人の親戚を殺したいくらい憎んだ、その因縁は親戚だから複雑にからまりあっていた。年月が相当すぎていたから自分には関係ないと思っていた。でも突然狂気の沙汰として襲ってきた。それでその人をどうしても憎んだ。憎まざるを得ない、突然通り魔に襲われるようなことを経験したからである。そしてその人をこれほど憎む原因がわかった。二三年前に死んだ人の凄い憎しみと恨みが自分にのりうつったのである。そうとしかいいようがない、今は関係を断ったからそういうことはなくなった。まちがいなく死んだ人は三四年は生きている人に強力影響する、もちろん現実問題として財産問題などで墓でももめるのだ。

今年は寅年だけどまた遠くに旅ができるのか?やはり介護になっているからできないだろう。介護になるとなかなか介護している人から離れることができないのだ。虎というと千里を行くというから電動自転車で旅をしたい、坂をぐいぐい上って遠くまで行きたい、西行は凄い人だった。
「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」その年になって当時旅することは本当に死の危険があった。旅人はやはり旅に死すのがあっている。旅に死ねれば本望だとなる。人間自分のように三十年間旅をしてもあっというまにすぎた。これで旅も終わりなのかということなのだ。まだまだ見ていない所がいくらでもあるじゃないかとなるのが人生なのだ。特に富士山など本当に美しい富士山を見ていなかった。富士山は見る場所が大事だからである。すると日本に生まれて富士山も良くみていなかったなとなりこのまま富士山も良く見ないで死んでゆくのかと思ったときがっかりした。なぜなら富士山の写真をとるために何カ月も寝泊まりしていた人をテレビで写していたからうらやましいと思った。そんなに富士山を見れるのかと思った。車を持っているからこんなことが今はできると思った。人生はつくづく短いのだ。百才を生きてもその間に病気になる。介護になる。そして何もできなくなる。そういう方が多いのである。自分のように幸運だったとしてもそうなのだからこれだけ旅をして仕事もしないでもそうなのである。

葉牡丹を植えたけどこれはなかなかいい、本当に冬ににあうし元旦にもにあう、元旦となるとやはり日本人は初詣でとなるが日本人は農耕民だから一年のはじまりとか季節の変わり目には敏感である。神社に参るとは信仰より習俗である。ただ天皇を現人神としたとき信仰になった。
神社もそこに組み込まれたという歴史がありその問題は継続されているからこれもすんなり受け入れられないものとなった。でも祭りは維持されるべきでありしかたないから元旦には一カ所だけ金は払った。今年も一周忌を終えたばかりであり死者のことをひきづっている。介護もつづいている。体も晩年になり弱ってきた。でもやはり電動自転車で遠くへ行ってみたい、それが今年の願いだ。

今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします

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2010 謹賀新年

posted by 天華 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記