新年や海穏やかに陸荒れぬ
元旦に朝鐘鳴りぬ奥の寺
年明けぬ松風鳴りて雪野かな
千里行く寅年西行思うかな
寅年や晩年なおも飛躍せむ
元旦に墓に詣でて寒椿
新年や梢に高く鳥鳴きぬ
我が庭に葉牡丹植えて新年を迎えて雪や石の鎮まる
穏やかに波にゆれつつ鴨の群れむつまじきかな新年の朝
新年や松風鳴りて朝清し昨夜の雪の残りし野を見ゆ
今年の元旦は荒れ模様だ。昨夜雪がふり今朝その雪が残り今は北風がうなり吹いている。元旦から荒れ模様ということは今年も不況がつづきいろいろ苦しみ続けるのか?不思議なのは海は穏やかである。波もいつもとは違い静かであり鴨の群れがその波にゆられている。海が穏やかで陸が荒れているのはめずらしい、。たいがい海は波がここは荒い、これも例年にないことだろう。寺の鐘を元旦の朝に聞いたのもめずらしい、普通は大晦日だからである。 まず霊前に祈り近くの墓にお参りした。姉が死んで一周忌が終わったばかりでありまだ死んだ人は遠くに行っていない、やはり死んで三年くらいはまだまだ死者はこの世を彷徨っている。だからこそその三四年は死者は生者に相当な影響力を及ぼす、これは迷信とかではなく本当だと思う。実際姉が死ぬ前に親戚の人も二人死んだのである。ここ三四年の間に二人親戚の人が死んだ。それでなぜか自分は関係ないと思っていたが一人の親戚を殺したいくらい憎んだ、その因縁は親戚だから複雑にからまりあっていた。年月が相当すぎていたから自分には関係ないと思っていた。でも突然狂気の沙汰として襲ってきた。それでその人をどうしても憎んだ。憎まざるを得ない、突然通り魔に襲われるようなことを経験したからである。そしてその人をこれほど憎む原因がわかった。二三年前に死んだ人の凄い憎しみと恨みが自分にのりうつったのである。そうとしかいいようがない、今は関係を断ったからそういうことはなくなった。まちがいなく死んだ人は三四年は生きている人に強力影響する、もちろん現実問題として財産問題などで墓でももめるのだ。
今年は寅年だけどまた遠くに旅ができるのか?やはり介護になっているからできないだろう。介護になるとなかなか介護している人から離れることができないのだ。虎というと千里を行くというから電動自転車で旅をしたい、坂をぐいぐい上って遠くまで行きたい、西行は凄い人だった。
「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」その年になって当時旅することは本当に死の危険があった。旅人はやはり旅に死すのがあっている。旅に死ねれば本望だとなる。人間自分のように三十年間旅をしてもあっというまにすぎた。これで旅も終わりなのかということなのだ。まだまだ見ていない所がいくらでもあるじゃないかとなるのが人生なのだ。特に富士山など本当に美しい富士山を見ていなかった。富士山は見る場所が大事だからである。すると日本に生まれて富士山も良くみていなかったなとなりこのまま富士山も良く見ないで死んでゆくのかと思ったときがっかりした。なぜなら富士山の写真をとるために何カ月も寝泊まりしていた人をテレビで写していたからうらやましいと思った。そんなに富士山を見れるのかと思った。車を持っているからこんなことが今はできると思った。人生はつくづく短いのだ。百才を生きてもその間に病気になる。介護になる。そして何もできなくなる。そういう方が多いのである。自分のように幸運だったとしてもそうなのだからこれだけ旅をして仕事もしないでもそうなのである。
葉牡丹を植えたけどこれはなかなかいい、本当に冬ににあうし元旦にもにあう、元旦となるとやはり日本人は初詣でとなるが日本人は農耕民だから一年のはじまりとか季節の変わり目には敏感である。神社に参るとは信仰より習俗である。ただ天皇を現人神としたとき信仰になった。
神社もそこに組み込まれたという歴史がありその問題は継続されているからこれもすんなり受け入れられないものとなった。でも祭りは維持されるべきでありしかたないから元旦には一カ所だけ金は払った。今年も一周忌を終えたばかりであり死者のことをひきづっている。介護もつづいている。体も晩年になり弱ってきた。でもやはり電動自転車で遠くへ行ってみたい、それが今年の願いだ。
今年もプログを書き続けますのでよろしくお願いします
2010 謹賀新年