寒椿ぼけずに生きる寝たきりも
療養病棟で一年もいる老人を見舞った。病院にそんなにいるとどうにかなる、ボケる人が多いというのもわかる。でもその女性の老人はボケていない、はっきりわかっているので驚いた。
ぼけたら認知症になったらまずそんなに親しくない人、家族でないなら見舞っても誰かわからない、その人がどういう人かもわからない、認知症は過去との記憶の継続がなくなるのだ。
だからその人がどういう人だったのか理解できない、特に最近知った人は理解できない、昔から長く継続してつきあっていた人はわかる、幼なじみでも遊んでいたとかその人は老人になってまでつきあいが継続したのだからわかる。でもその人は認知症になってから全く来なくなった。他にも子供の頃からつきあっていた親戚もこなくなった。そこに入院している老人は不思議だった。認知症になって頭がおかしくなっても話をあわせてくれた。おかしくなったことを知っていたのである。かわいそうだなと言って話をあわせてくれた。変なことを言っても嫌わずにあわせてくれたのである。だからその人のところにだけは毎日のように行っていたのだ。それで助かった面があった。その人には特別世話になったわけでもない、金を全と貸しているくらいだった。でもその人は律儀であり馬鹿正直なところがあり必ず少しの金でも感謝して返していたのである。そして感謝もしていた。世話になったといって姉がおかしくなっても普通に相手していたのである。たいがい認知症になると嫌がるのが普通だから不思議だと思っていた。あとでおかしくなったことを知っていてかわいそうだとつきあってくれていたのである。認知症の人を家族さえかわいそうだと思う人は少ない、嫌悪されるのが普通である。だからこういう人は特殊であった。
こうしてその老人のことを自分が生きている今も世話になったとか感謝している。何かその人のためにしてやることもできなかった。それは見舞いに行ってちょっと金をやるくらいでは返せないものである。ただ一方で多額な金をやった人はそれなりに返したとかなる。ところが恩とか全部返せない方がいいのだ。恩になった感謝するという心が大事である。なぜならその心はいつまでも金銭でも返せないものとしたら死んでも継続する。死んでも感謝の心が継続するということは恩になったことを忘れないことでありその人を思いつづけることになる。その方がかえっていいともなる。これだけの金を払ったのだから恩は返したというよりいつまでも金では返せない恩を継続された方がいいともなる。何故なら他人が死んだらそんな恩などすぐ忘れてしまうからである。いづれにしろいかに自分が困った状態にあったか理解する人はいなかったし助けてくれる人もいなかったことをこれは物語っていたのだ。自分が困った時しか人間は助けてもらうことに感謝しない、それは家族さえそうである。介護とかになると家族でも一人の人にまかせられる場合があり助けがなくなるからだ。
ともかく人間はぼけることとぼけないこと認知症になることとならないことの差が大きい、これは一見たいしことのないように見えるが全く違っている。認知症になったら人間失格である。人間として通じなくなる。この人はだから本当に人間なのだろうかという疑問、廃人になってしまったのではないかとか見るようにもなる。あんな寝たきりでもあれだけわかっていれば恩になったからどうだこうだとか通じているのだから人間としてやりとりもできる。認知症の人にはもはやできない、全部できないというわけではないが人間として通じなくなるから悲惨なのである。