2010年01月07日

初乗り(仙台で昭和の回顧展を見る)


初乗りやイタリア人の乗り合わす


仙台に店新しく年明ける

新年や我を迎える黒い肌

広瀬川岸辺の枯木つづきつつ長町により帰りけるかな

新年に仙台に行く電車にイタリア人が乗っていた。明らかにイタリア語であり日本人の女性と話していた。ブックオフでは中国人の女性がアナウンスしていた。発音は違うにしても通じている。コ-ヒ-店では色の黒い女性が給仕していた。仙台になるとウエトレスまで外国人になっている。ここでは工場で働いている。とにかくいかに日本に外国人が多くなったか、東京だと本当にここ日本なのかとさえ思うようにもなっているだろう。あらゆる人種の人が入り交じっているのだ。


仙台ではなつかしい昭和20年30年代の催し物が行われていた。飯台一つでその前にテレビが置かれていた。テレビの画面は小さい、ええ、あんな小さいテレビだったのかずいぶん見ずらい、あのテレビを食いいるように見ていた。案内する人が蚊帳を釣って蛍が来たというけど確かに川には蛍がまだいたし蛍狩りをしていた。ほ-たる来い・・・ということが本当にあったのだ。その頃は飯台一つでもにぎやかな家族の団欒があった。その真ん中にテレビが置かれたことが一番印象的なことだった。そしてあらためてテレビがどれだけ社会に影響したか再認識した。茶の間にテレビが入って来たことはテレビ中心の世界が形成されたことだったのだ。テレビなしではありえない、テレビに明け暮れたともいえる。最初に鉄道の影響がこれも大きかった。鉄道村などができたり汽笛一声新橋・・こそ本当に文明開化の音だった。次にテレビの影響が大きかった。そのあとは車だったのである。鉄道→テレビ→車が社会を変えたのである。すでに昭和は遠くなりにけり・・・とかなってしまいつつある。


最近家族を一人亡くしたから特にそうである。子供の頃からその飯台を囲み一緒に生活した人を亡くしたから余計にそう思う。人間はこうして一つの時代が終わってゆく・・そのくりかえしだった。一緒に暮らした家族もなくなるということは本当にショックである。それで施設に入った老人が家に帰りたいというとき昔あった団欒があった家族の生活のなかに帰りたいとなるのはつくづくわかる。家族さえ遂に別れなくなってしまうことはあまりにショックなことなのである。ただ茫然自失しているほかないショックなことなのである。家族がなくなることはすべてが失われるなくなることに通じている。 要するにあとは思い出だけになってしまうのである。まあ、認知症の介護として回想療法としてこういう場で昔の話を聞けば臨場感がでてくるからいいとなる。

今回駅前だけで用をたして帰ったきた、いつも広瀬川を通り枯木にそって長町により帰っていた。仙台はだいたい駅前でほとんど用がたせるようになっている。今日は古本展があり「奥相茶話記」がのっていた福島県資料集の古い本を買った。これは高かった。一万五千円は高すぎたが資料が多くのっているのでしかたなく買った。そもそもこうした資料とか記録はインタ-ネットで公開すべきなのだ。図書館にあってもいちいちとりだして調べるのがめんどうで最近は介護とか忙しくなり一回も行っていない、図書館で調べるのは相当な手間暇なのである。郷土史関係の研究は本とか資料に頼ることが多い、だから手元にそうした関係の資料や本があれば研究は進むのである。インタ-ネットで自分がやったように進むのである。