


相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)
墓一つ何を語るや故郷にたずねてあわれ年も暮れにき
高松に我が上り来て知られざる墓地の静けき冬の日暮れぬ
街道よりわずかはずれて成田なる墓地の古りしも冬の日暮れぬ
三十三才ここに埋もれぬ女あわれ二つの姓や冬深まりぬ
ここよりか竹(武)内一族起こりしや街道近み冬の成田に
街道を相馬の殿の行きにしを見送る人や冬の日暮れぬ
熊川の姓は相馬の境より起こりて残る武士の裔
六地蔵街道に古り柳枯れ冬の日長く城に待つかな
相馬藩郷士の多く城勤む人は少なく刈田の道行く
成田の墓地は古い、竹内氏が竹の内から起こったということを書いた。ここに竹内→武内と変わった姓の人の墓もあった。これは明治時代のものでも江戸時代からの継続がある。
安政 (1854-1863) の僧侶らしい墓もある。ここは旧竹内氏の墓であった。江戸時代の墓は個人の墓か夫婦の墓であり一家の墓は明治以降作られた。その名残として岸家と武内家のと両家の姓が記された墓がある。これは鎌倉時代にもあり武家の家では実家の姓をひきづっていたのである。一つの家を姓にした墓の形態は新しいのである。岸タミと刻まれている墓は三十三才と記されていて武内は五十三才である。先に夫が死に明治二十二年に妻のタミが死んだ。タミは若くして死んだ。この竹内氏は竹の内から起こった姓であり相馬氏の系統の姓ではない、例えば熊川という武家は熊村から起こったのでありそこは岩城氏の領地との境であり境川ともある。熊川家老文書として残されているから熊川家は相馬藩で重きを成した人である。日本では姓はその土地の地名からとったものが多い、黒木氏でも黒木という地名が先にあり姓となった。ともかくこの成田の墓地からここが歴史的に興味ある場所として見出された。街道にも近いし相馬の城にも近いというのも魅力なのである。相馬藩では城に専門に勤めた武士は少ない、ほとんどは郷士であり農業をしていた武士だったのである。郷土史はこの成田の墓地のように知られないものが相当埋もれている。もちろん土の下に発見されない過去の痕跡が埋もれている。今回発見した古い墓地でも誰もまだ注目していないのである。郷土史にはそういうことがいくらでもあるのだ。人間の膨大な記憶は忘れられ埋もれてしまっているのである。
磐城-相馬街道(大熊町)
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iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm