2010年01月15日

石川議員逮捕の裏側(検察の暴走を止めるのは誰なのか?)

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石川議員逮捕の裏側(検察の暴走を止めるのは誰なのか?)


田中首相のロッキ-ド事件も中国と国交回復したときアメリカが検察を通して陥れた。その構図は今になるとはっきりしている。今回も歴史はくりかえすで検察と官僚を通して小沢を追い落としを図る。これは別に陰謀史でもなく今になると素人にも明確に見えているのだ。アメリカと結託した検察の構図が見えてきている。検察は正義の見方ではない、時の権力によって左右されるのが検察である。また官僚の権益や既得権の維持に働く自分たちの組織の既得権、権益を守るために働く、すべての組織は自分たちの権益を守るために働く、権力を動かす力があるものと結託して権力の構図ができあがる。アメリカは巨大な権力だからこれに左右されるのは素人でもわかる。もちろんそれに対抗して中国が大きな権力を左右するものとして台頭してきた。今回の逮捕劇は複雑ではない、見え見えなのである。金沢とかいう自民党にだきこまれた元秘書は民主党に公認されなかった私怨がありうさん臭い人物だった。それも見え見えなのである。検察の強引さも自分たちの権益維持と背後のアメリカとの結託であり自民党を復活して生き残りを図る無謀な権力行使にでた。小沢を追い落とすためにマスコミと組みドラマを演出したのである。検察は西松事件では自民をうやむやにしたし検察は自民に甘い、利害が一致しているから甘いのである。政治と金の問題を公平に追求してはいない、小沢憎し小沢に検察の人事をにぎられ小沢の言いなりになるより検察の権力を示して小沢を追い落とすことを実行した。権力と権力の全面的対決が起こった。


自民党は正義を主張しえるのか、検察に見逃されて検察と結託して自分たちの古い政治勢力の復活を図る。やっぱり既得権を破壊しようとすれば西南戦争のように戦争にもなる。既得権を守るために法の正義などない、権力と権力の戦いがあるだけである。その権力は正義ではない、検察の利権、官僚の権益、アメリカの権益を守るために法を盾にする。政治と金の問題は自民党にもありそこは曖昧にされたからである。国民は今回は検察の横暴を見ている。前のように簡単に騙されない、マスコミにものせられない、インタ-ネットでもそのことは明らかにされている。検察の権力が絶対的なものなのか?

これに対抗するためにはどうするのか、法律で立法府、議員の方が権力的に優位に立てるのか?そういう戦いであり正義のための戦いではない、素人にもその構図が見えすぎているからだ。検察が政局を左右して日本を支配できるのか?民主党は自分たちを選んだのは国民だというのもわかる。検察は誰に選ばれたのか?アメリカなのか、公正な法なのか、そしたら検察権力が一番上なら選挙も必要はない、検察が法の名のもとに絶対権力をもち支配できてしまう。しかし法を作るのは選挙で選ばれた議員であり議会である。民主主義において検察権力とは何なのか問われている。誰も今回は検察の権力行使を法による正義の行使だと単純に認めないだろう。創価も権力奪取を目指したけどやはり選挙に勝てないと権力を手中にできない、無血革命で権力奪取しようとしても選挙があるからできなかった。検察は自ら選挙もなしで権力を与えられている。しかしその権力は正義の法を実行するものではない、それを制御するものは誰なのか?検察の暴走を止めるのは誰なのか、国民は検察にもマスコミにものせられず注視する必要がある。


追記

西南戦争は国民軍と武士階級を維持しようとするものの戦いだった。武士にはとてもかなわないと思ったが国民軍が勝ち国民軍が武士の役目を果たすことになった。国を防衛するのも国民になった。江戸時代までの政治は武士がとりしきりお上が決定することでありその他は何ら政治に関与することはできなかった。国民意識などもなかった。つまり革命というとき既得権を廃止する戦いだったがそれは武力で行われたのだ。国民軍が勝ったとき国民が権力を手中にしたのである。

でもその後三権分立の民主主義が施行されても権力は国民にあったとはいえなかった。その最たるものが検察だったのだ。検察は神聖犯さざるべき権力となっていた。民主主義は法治国家だから法を第一にする。ところがその法も人間が決めて人間が判断するものだから絶対ではない、特に国家の重要事とを決めるとなると法は無力なのである。民報では比較的公平であるが国家的政治問題になるとそうはいかない、だから検察は江戸時代のお上になっていた。国民が選挙で決めたものでも国の方向を決めるような大事は検察が官僚が決めるのであり国民はそれに従いばいいのだということになっていた。検察をおさえる者が権限を有する者がいない、検察は絶対権力になっていた。天皇すら今や小沢の天皇発言で権力を失っていたことが判明したが検察だけは以前として江戸時代のお上だった。検察もやはり権力であり権力は絶対的に腐敗するというとき法だけでは監視できないから監視する仕組みを作る必要がある。つまり検察官を検察する、尋問することが必要なのである。


検察の強大な権力は常に国民の側にいるべきで、
検察の意に沿わないような政治状況・社会状況が出現した時は、『独善に陥る危険性があるため、
検察権の行使は慎重であるべき


検察のトップになる奴はみんなCIAに留学するからね
そこで脅しや買収でアメリカへの忠誠を誓わされてスパイになる
これを断った奴は決して出世できずに終わる

東京地検は正義なんてものではなく
アメリカの都合によりそれまでアメリカ大使館が収集してストックしてきたネタで
アメリカにとって不都合な政治家を
アメリカの都合の良い時期にマスコミと検察を使って潰すだけなんだよね

田中角栄という国益の為に戦った日本のニッポンの政治家もロッキード事件で潰された
こういう構造を全く理解せずに政治家に潔癖を求める馬鹿の多い事多い事


今回の石川議員逮捕の意見の例


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091108/1257679366
http://blogs.yahoo.co.jp/mvbzx0147/23702699.html
http://www.the-journal.jp/contents/yamaguchi/2009/03/post_53.html
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-1991.html
http://askazeera.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-8cd1.html
http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/nhk-49a4.html

posted by 天華 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬の暮(原町の路地裏)

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冬の日や蔵に眠れる宝かな


色違う五つの石や冬の暮

原町の路地裏行くや冬の暮

冬の暮原町村の昔かな

冬の灯やここまた通る裏の道

原町は原町村であり淋しい宿場町から発展したのである。大町とかは原野だったのだろう。残された絵を見ると本当に街道沿いに家が並びそこだけが家がある淋しい宿場町だったのである。野馬追いにも一つの家しかでていない、明治以降鉄道ができて急速に発展したのである。
この黒門のあるところは何なのか?本町の辺りであり何かの記念なのか、何か謂われがあるのかただ石を並べるだけで落ち着く、石には心を鎮める作用があるのだ。庭作りはこると手間がかかる。でもこれでは芸がなさすぎる感じもする。砂利でも小石でも並べたりすればいいだろう。下をコンクリ-トにしたから何か石を展示するだけのようになった。石屋かと思った。黒門は何なのか?何か意味があるのか、それなりにここに石を置いただけでやはり何か効果がでてくる。


原町には路地が多い、そこにこうした石を置くだけで路地にも魅力が出てくる。ス-パ-とか大通りだけに街の魅力があるのではない、路地裏にもある。そこに歴史的謂われがあればもっとよいとなる。路地裏とか街道沿いは人間的なのである。人間の匂いがする、義理と人情の世界である。だから一杯飲み屋とかがあっているのである。つまり街でも村でもその場にあったものがあれば生きてくるのである。

江刺市でも蔵の街として街作りをしようとしている。NHKで写していた。嫁に来て50年とかいう女性が蔵を案内した。そこには思い出の品がつまっていた。蔵とはそうした思い出のものが貯えられた場所である。実用的なものとしては防火とか金庫の役割も果たしていた。今になると思い出の品物をしまっておく場所である。旧家だと江戸時代の宝物、資料などがでてくるから郷土史発掘の場所となっている。つくづく嫁とは女-家であり女性は家と一体化する。だから施設に入ってもそこには家がない、暮らした家の思い出がないから家に帰りたいとなるのだ。認知症になっても思い出の家に住んでいれば症状も和らぐことがありうる。施設ではそうした記憶と一体化していないから回想してもなかなか記憶が蘇らないということがある。女性は家が家族が暮らしの中心であり仕事は男である。田に力はやはり仕事のことである。女性にも仕事に向いた人もいるが一般的には家庭の中でこそ女性の資質は生きる。それがなくなるとき生きがいが喪失するのである。