冬の日や蔵に眠れる宝かな
冬の日旧家に眠る宝かな
冬長く蔵に眠れる宝かな
蔵多く物語秘め冬長し
喜多方に蔵の喫茶店積る雪
我が庭に手水鉢ありて氷張り厚くとけじも今年は寒しも
「 蔵の郷土館齋理屋敷」「 ほらの吹く蔵」・・・蔵でいい例が出てこなかった。蔵のある家に暮らしていないから蔵がわからない、蔵は農家なら必ずあるし珍しいものではない、町でも蔵がある。喜多方は蔵で有名である。蔵の喫茶店に入ったことがある。なかなか風土にあっていい。蔵を利用したものは各地にある。旧家とかには確かに宝が眠っている。その宝はモノとは限らないのだ。物語が貴重な宝なのである。すでに旧家でなくても二代くらいしかつづかない家でも旧家になる。旧家となると相当古い家をイメ-ジするが日本の家はそんなに長く残るのは少ない、すでに茅葺きの家はわずかである。家というものより物語が宝となる。
それぞれの家にはやはり家の物語があるのだ。その物語はまだ発見されて語られていない、野馬追いなどでも旗の由来などは相当古いのだが語られていない、わからずじまいになっているのが多い。そういう旗にも一つ一つに物語があるのだがわからなくなっている。すでに我が家でも三人死んでいるから三人の物語がある。古い家ではそれこそ先祖をたどれば数が多いから物語も多くなる。それも郷土史になる。郷土史はまず一番家に関心があるからそこからはじまる。祖父母の話を聞いて昔に関心をもつのである。
人間誰だって60年も生きればいろいろな思い出が残る。集めたものも残る。何かしら執着するモノが残る。それでゴミ屋敷になるのがわかる。なかなか捨てられないのだ。捨てようとしても本でも読まなくても捨てられない、何か愛着が生まれている。本はやはりモノとしてもあるからそうなっているのだ。物語はそもそもモノが語ることだから一つ一つのモノが昔の記憶がなにかしら付着していればそうなる。認知症になったとき特別なモノに執着する、そのモノを離さない、それは大事な思い出の品だった。実は記憶が一番大事なものとなっていたのだ。そこに大事な記憶がつまっていたからそのモノにこだわったのである。そのモノは今も残っている。でもなんだからそれを見ていると今になると悲しい、人間は一方で常に記憶は忘れられてゆく、一般の庶民のことなどすぐに忘れられてしまう。毎日人が死ぬ、その度にその人の記憶は忘れられてゆく、何も痕跡もとどめずわすれられてゆくのも多い。人間が生きても個々の記憶も忘れられのが早い。記憶しきれない、最後は墓だけとなり何才で死んだとか記されていないからその人のこともわからなくなる。記憶もまた無常なのである。
今年は特に寒かった。それで手水鉢に氷が厚く張ってとけない、こういうことはめずらしかった。氷が張っても普通はとけていた。それが厚く張ってとけない、永久凍土とういうのが氷河期の地球の記憶として残っている。地球にも過去の記憶が記されている。化石も記憶である。それは何万年前のことであり人間の膨大な記憶もその時はみんな消えてしまのうか?記憶も無常である。いづれにしろ死者でも誰かが語らなければその人はさらに記憶から消えてゆくのだから本当に消失してゆく、その人の存在は消えてゆく、その人について何か語られれば生きている。それは家族でもそうである。消えやすい記憶だから何度も執拗に語らないと戦争の悲惨さもやがて忘れられる。そしてまた同じように戦争が起こりうる。人間の記憶は消えやすいのである。