(鹿島区台田中)
文久の墓に名明らか冬の草
冬の草踏みて調べる郷土の墓
冬の草趣味もなくして長寿かな
江戸時代名もわからじや冬の草
虻一つ墓をとびかい春近し
郷土史関係で墓所があれば立ち寄り調べている。台田中は古いが天保と記されているものであり法印のものでそんなに古いものではない、屋形の寺には古いものがある。一番古いものを目にしたのが葛尾村の落合の明暦と元禄と記されたものである。あんな山奥に古いものがあったのは意外だった。ここに渡部惣右エ門とあるから姓もある。でも「釈」とあり真宗系統の移民だとすると武士とも思えない、ただこの墓は文久にしては立派である。これも名前しかわからない、他にも江戸時代の墓があったが名前もわからない、 他に中田とかありこれも越中の移民系統の分家なのかもしれない、真宗の移民の墓は二三割あるからいかに多いかわかる。
なぜ墓にひかれるのか?墓はともかく単に資料を読むのとは違う、墓にはやはり故人が確かにそこに埋められたのだから何かしら故人がそこに生き続けるものがある。墓だけになってもやはり何かを留めようとして墓がある。それが資料を読むのとは違う、墓には生きたものの哀愁を感じる。ここから誰であったのがどういう一生を送ったのかわからない、それでも墓は資料を読むのとは違う、墓はまたその場その場によって違ったものとなる。場のエネルギ-が発散される。歴史は塵だというとき場のエネルギ-を感じることは大事である。歴史的場に立つことはそれ故大事なのである。ただこれも一回くらいそこに立ってもわからない、特に短い時間だとわからないのだ。外国では特にわからない、それが何を意味しているのかほほとんどわからずじまいになる。
大正生まれとか戦前の人は働くことしかない、だから働かせるのがいいというのは本当かもしれなかった。花にも興味なくて狭い庭に豆を植えて豆を食べた。こういうのも異常なのだ。まあ、大正生まれとか戦前生まれは苦労が多いから冬の草にあっている。生命力もしぶといのだ。
90で選挙に行き回りのことに関心をもって訴えているのだからやはり長生きしすぎたともいえない、寝たきりの老人とはまるで違った老人もいるから一括りに老人も語れないのである。
この墓地に虻が一匹飛んでいた。すでに張るの兆しがある。明日はあたたかい、今年は寒かったがそろそろ春の兆しがでてくる。でもまだ春隣とかはならない、春近しとはなる。まだ大寒はすぎていないからまだ寒さは来るだろう。