葉牡丹や安い食品分け合いぬ
原町と鹿島の間一本の松によるかな冬の日暮れぬ
一里塚昔の標(しるし)徒歩(かち)行けば原町遠し冬の日暮れむ
淋しさや原町村の宿場かな原の広がり冬の陽没りぬ
春めきて小さき赤き薔薇植えぬ喜ばしきかな命新し
原町と鹿島は距離的に近いから本当に一体になる。実際に勤めているのが原町なのが多い。買物も原町である。街道を行けば塩崎に一里塚がある。もし昔のように歩きだったらどうなるか?必ずその間にあるものが心に残る。歩きだったらその道々にあるものを記憶する。でも自転車すら早いから記憶に留めないことがかなりあった。遠くではそうなる。毎日こうして行き来しているからこそこの一本の松が心に留まるのである。電車の旅でも記憶に留まらないのは早すぎるからである。そして何度も行けるわけではない、すると時間がたてばますます忘れてしまうのである。つくづく生きることは忘却の戦いだともなる。たちまち死んでしまったら人も忘却のかなたになる。ハイチですら200年前は大地震があったことが記憶されていても忘れていたし神戸でもそうである。百年とか二百年単位になると人間はその記憶を留めることができない、生きているときはあれやこれやと騒いでいても一旦死んだらその人のことはたちまち忘れる。
原町が原町村でありわずかに街道沿いに家が並んでいた宿場町だった。道沿いに家はあってもその回りはほとんど原っぱだったのである。大町とは大きな原っぱの意味である。高い建物もない、粗末な茅葺きや板の屋根の家とかであった。「月天心貧しき町を通りけり-蕪村」は全国どこでもそういう町だったのである。月のみが映えて町はみんな貧しい町である。原町村からは野馬追いでも一つの旗しか出ていない、鉄道が通り駅ができて原町は発展したのである。人口だって今の10分の1くらいかもしれない、相馬は城下町だからそれなりに城に勤める侍とか職人が集まっていても原町は雲雀が原に象徴されるように野馬追いで馬を訓練する原っぱ、牧が中心であり家は街道沿いにわずかにあっただけなのである。 原町市史の図では入り口が木戸になっていた。木戸で改められるから簡単に旅人は宿場すら入ることはむずかしい。江戸時代はやたら木戸とか関所とかを通るから大変なことであった。だからよそ者が来ればすぐわかったのである。いづれにしろ原町村は淋しいと言っても当時では新田川から結構長い距離があるから疎間だけでも家がつづいているからにぎやかだったともいえる。でもその外側は全く家のない原っぱだったということは変わりない、今とは余りにも違いすぎるのだ。
葉牡丹というと質素である。貧乏だとかえって人は助け合うということがあった。義理と人情の日本人がいた。今は豊になってかえってそういうことはない、田舎でも部落ではあるが町になるとない、車社会とかあまりにも環境が変わりすぎてしまったのである。でも退職したら社会で争うことなくなるから助け合うということがやりやすくなる。60以上は何らか介護とかその他助け合う新たな共同関係を模索するようになるのかもしれない、それをまた要求されている時代なのである。今日は新しい小さな赤い薔薇を買って植えた。その赤い薔薇が新鮮であり生き生きしたものを感じた。やはり老人とかばかり接していると若々しさがなくなる。今日もあたたかく本当に春のようだった。これも一時的でまた寒くなるだろう。