2010年01月25日

検察が絶対的に正しいとしての議論には疑問(小沢の政治と金の問題)


検察が絶対的に正しいとしての議論には疑問(小沢の政治と金の問題)


●田中角栄とにてきた小沢の追求

検察が法律の下に公平に平等に裁くことに意義唱える人はいない、小沢が検察に追求されて裁かれて当然だというのもそれならわかる。ところが検察もその動機は純粋な正義の追求ではない、自民党の時も政治と金にまつわる問題はあったのに追求されずじまいだった。どうしてもこの問題は田中角栄のロッキ-ド事件の再現のように見えてくる。これは中国と国交を回復することでアメリカにしかけられたものだった。だから証人もアメリカ人がなっていたということではっきりしている。アメリカに操作された事件だったのだ。アメリカが日本の司法に介入してアメリカに裁かれていたのである。今になるとそのことは明白である。不正を追及する側に明らかな政治的意図があった。それは中国と国交回復することへのアメリカの危惧が全面的に出た事件だった。その時日本の国力は鰻登りであり日本と中国が国交回復することにアメリカは黙っていなかったのだ。この繰り返しが小沢の追求にはある。検察も権力機構の一部であり正義を追求するとは限らない、自分たちの権益を追求することが第一となる。正義を公平を追求すると見えても裏側で自分たちの権益を守るために働くことはある。検察が国を牛耳る、絶対的権力者という側面が今回は強く出たのである。

●マスコミは一私企業にすぎない

あらゆるものが公平ではありえない、マスコミも私的な企業であり公平はない、自分たちの権益、利益を第一とする私企業なのである。ただ新聞なら一軒一軒配ることで力を持っていた。大勢の人に見られることで力をもっていた。テレビもさらに茶の間で何百万という人を前にして報道できるのだからそれだけで甚大な力を持ったのである。でもその報道は一私企業の味方であり利益を優先する。そこに公平な報道はありえない、宣伝を出す会社の悪口は言わないとかトヨタは批判しないとか創価は批判しないとかいろいろタブ-がある。福島民報なども聖教新聞を刷って維持ししているのだから創価の悪口は言わない、他にも金をもらえばその会社の悪口は言わない、批判はしないのである。マスコミに公平さはない、NHKにもない、まず検察が絶対的に正しい、正義の神のごとくして議論をはじめていること自体疑問なのである。もちろん小沢の政治と金には大きな問題であり追求されるべきものである。これは自民党にも厳しく追求されるべきものだった。でも今回も明らかに検察には政治的意図があり小沢潰し、小沢憎しという私的な官僚や団体の怨念が働いているのだ。だから小沢が追求されるべきものでも政治的意図があり小沢がつぶされることは政治主導がつぶされ第一の権力は検察であり官僚であり政治が変わっても何も変えられないという事態になる。

大衆はマスコミに洗脳されやすい、検察は絶対的に正しいという幻想を信じる、信じさせられるのだ。そこから議論がはじまっているから小沢陣営は民主党は不利になってゆく、別に民主党のシンパでもない自分は何の利益も受けていない、でも検察に疑問はさむことも必ず必要なのだ。今回は民主が政治主導で官僚に変わるというときそのことに脅威を感じたことは確かだからである。検察は絶対的に正しいという議論からマスコミははじまっている。今回は検察もおかしいじゃないですか、小沢だけをこんなに狙い撃ちするのはなぜなのか、余りにも政治的影響が大きすぎる、小沢をまず駆逐することに狙いがあり政治と金の問題の追求は手段ともなる。権力を追求するものは天皇だって宗教だって法律だって何でも利用する。それは権力を得るためき道具にすぎない、お前ら俺たちの言うこと聞かないと罰当たるとかなる。もはや宗教そのものが持つ崇高性はなく、暴力団並のものが宗教で恫喝する。そういう宗教団体がまかり通っていること自体異常である。検察は権力を牽制するもの、制御するものであり自ら権力を私物化して自分たちの権益を守るためだけになったら検察はもはや必要ない、現実にそうなることがありうるのだ。誰でも自分がかわいい、自分たちがかわいい、自分たちの利益を優先する、これは公務員でなくてもみんなそうなのである。だからそれをとりたてて批判はできない、だからこそ常に権力争いは人間から消えないのである。

●権力は絶対的に腐敗する

法律でも宗教でもそれが権力とかかるとき正義や公平さは関係ない、権力者により利用されるのである。勝つためには権力を手に入れるためには何でも利用しろマキャベリズムになる。大衆にしても生活保護がもらいやすいとかいろいろな便宜を図ってくれるからとかいろいろ不純でも自分の利益を第一にしてそれをかなえてくれる団体に入る。それは宗教とは何の関係もない、ただ利益をご利益を与えてくれるから入るというだけである。官僚も検察も巨大な利権集団、既得権の集団であり当然自分たちの権益を第一として守るのは当然だとなる。公僕とかの使命感はまれだろう。国の発展を願い国の舵取りに命をかける、そういう使命感のもとにあればまた違った見方がでてくる。そういうものが今は検察に官僚にあるかとなると疑問なのである。検察によって国民の票で選ばれた政治家の意志が曲げられてつぶされることはあってはならない、それを検察ができるとなると選挙をして権力交代しても結局は検察の力は政治家の上にある。選挙しても無駄だとか無力感をもたらす、ともかく権力を持つものはどうしても公平にはならない、権力は絶対的に腐敗するいうのは司法も権力であり検察もそうだから腐敗しないことはありえない、現実に不正しても検察官は罰せられないのだ。謝ることもしない、人間だから誤謬がある。それは検察官にも必ずあるのだ。

それを検察が絶対的に正しい、検察が国の舵取りするのだとなると常に国の大事のとき検察に左右されてしまい方向を見失ってしまう。検察の役目はあっても検察が絶対的に正しいとマスコミと一体となり議論したり政治的意図が背後にある事をもっと知らせてから議論すべきなのである。 マスコミと検察も一体化して追求する。検察も逮捕権とか権力を施行できる。逮捕した時点で政治家はすでに大きなダメ-ジ受けて国民から糾弾される。あとで間違ったとしてもその時点で政治家はすでに自分たちの意志を政策すら実行できなくなるのである。医者も必ず医療ミスがあるけど権力をもっているから患者は追求できない、インフルインザのワクチンが余っているから65才以上の人にも使用させるとか報道しているのも変である。余っているから売らねばならない、別にそんなに危険性がないならワクチンは必要ない、余っているから使用させねばならない、製薬会社で困るから使用させねばならないとなっているのがそこに明らかにあったのだ。マスコミと製薬会社は利益をともにする、製薬会社の宣伝をしてマスコミも利益を受けているからそうなるのである。つまり何らか受益者になっている人には公正さは期待できないのだ。検察官が大企業に天下りして巨額の金を得るのもそのためである。検察の権力も私的に利用されるのである。


検察のトップになる奴はみんなCIAに留学するからね
そこで脅しや買収でアメリカへの忠誠を誓わされてスパイになる
これを断った奴は決して出世できずに終わる

東京地検は正義なんてものではなく
アメリカの都合によりそれまでアメリカ大使館が収集してストックしてきたネタで
アメリカにとって不都合な政治家を
アメリカの都合の良い時期にマスコミと検察を使って潰すだけなんだよね

田中角栄という国益の為に戦った日本のニッポンの政治家もロッキード事件で潰された
こういう構造を全く理解せずに政治家に潔癖を求める馬鹿の多い事多い事

posted by 天華 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

俳句と抽象画

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抽象画は最初から抽象画があるのではない、最初に明らかに具象画がありそれが抽象画になった。この過程は漢字ににている。不思議なのは具象画では絵にならないものでもパソコンで機械的に加工すると抽象画になりそれなりに芸術性を帯びてくる。これが不思議なのである。
でも明らかに雲という具象があり溜池でも凍った溜池がありそれが抽象画化されると芸術性を帯びてくる。時代によって新しいART(技術)が生まれると必ず新しい芸術が生まれるのである。それは別に天才でなくても新しい芸術が生み出されるのだ。芸術でも技術の力は大きく影響するのだ。

東風吹く

 

東風(こち)吹いて北風(きた)に変わるや浜通り

峠越え海にいでむや東風吹きぬ

苔に雪古木に朽木コ-ヒ-飲む

手水鉢氷の溶けて月優し

 

今日は吹いたのは確かに東風(こち)である。ここでは海の方から吹いてくる。今日はかなりあたたかいから吹いたのだ。その後また北風に変わった。また寒さがもどる。春はやはり風からも来る。東風が吹いたとき北風とは違う、春を感じるのだ。これが車だとそうした風が感じるのがむずかしい。自転車だともろに風を感じるのだ。電動自転車は風にも強いがもろに風を受けるとなかなかすすまない、そういう自然に抵抗するところも自転車は自然なのである。車だったら風も雨も関係なくなる。寒さも関係なくなる。飯館に行った時も寒さやら風や雪の影響をまともに受けた。だから風流があるとなる、「風流は寒きものなり」となるが寒さに弱い、病的になっているから自分にはあとで芯まで冷えてひどかった。風流も限度がある。あんまり辛いと風流どころでなくなるのだ。単にサバイバルとなり俳句とか短歌を作る余裕さえなくなる。山頭火のようにただひたすら歩き水を飲みたいとかなってしまう。この電動自転車は長距離用だからこれでツ-リングしたら面白い、坂を自在に上る旅はしていない、坂を自在に上れば旅の範囲は相当に広がる。近くでも坂の所は行っていないところがあった。ところが今は遠くに行く、一日でも泊まる旅がしにくい、留守番するものがいなくなった。病気ではないにしろ半病人となっているからだ。


茶室のある手水鉢ではないが石をくりぬいて水を入れるものが庭に置いてある。そこに月が写っていた。写真で見たりしていたがなかなかこうして真上に月がきて写ることはなかなかなかった。でも必ず真上に来ることがあり月が写るのだ。コ-ヒ-でも茶道をしているとか、茶道は自然と通じるものだから興味がある。コ-ヒ-を山で清水をくみ沸かして飲む。コ-ヒ-が便利である。

苔に雪古木に朽木コ-ヒ-飲む

こうした古木とか朽木とかをあしらって茶室作りをしている。飯館の七曲りの坂に樹齢200年の栃の木があった。あの樹はあまり何かを感じない、樅の木の方が感じる。樅の木はやはり冬ににあっている。ともかく福寿草の芽も出てきたし春は近くなった。