冬の空梢の高く樹一本
黒々と枯木の影や墓地めぐる
新たにぞ庭に石すえ福寿草
the new standing stone
an Amur adonis bloom open
in my garden
今日も墓地を巡ったが江戸時代の墓は見つからなかった。墓地も新しいのが多いのだ。黒々とした枯木の影が伸びていたから墓地にふさわしい。まだ冬だが今日は実際は春めいていた。電動自転車だと原町まで行っても疲れないからいい、遠いとも思わなくなった。だからどうしても原町へ買物が多くなった。荷物にも強い、重さを感じないから余計にそうなる。
庭の福寿草も開いた。新しい庭の石が映える。この家も古くなっているが庭は新しくした。世の中は絶えざる変化である。今日もだいたい同時に二人近くの老人が死んだ。80才くらいの男だった。どっちも肺炎だった。近くだから知っているからあの人も死んだのかとなる。ちょうど団塊の世代の親が介護となり死んでゆくのが多いのだ。介護、葬式を自らとりしきることが多くなるのだ。このくらいの年だと子供の頃から知っている人が多いからやはり年が違っているとはいえ身近なのである。団塊の世代は非常に死を身近に感じる年になったのである。この次は自分たちの番だということをひしひしと感じてしまう年になった。長生きの時代だから確かに親は生きているのが多いけどその親も次々に死んでゆく、そして今度は自分たちが次々に死んでゆく番だと具体的に感じてしまうのである。
人間は死ぬ人もあれば生まれる人もある、ともかく最後まで死ぬときまで人間は変化を生きざるを得ない、無常は変化のことであり変化することはすべて悪いことではない、庭が新しくなってそこに新しい人が入ってきたりと人も変わる。人間は変化をまねがれえない、新しく庭に据えた石も頼もしいしそこに福寿草が咲くということはまた新しい命が展開されているのである。古いものも忘れてならないものだがまた常に新しい変化のなかに人は生きるのである。