伊達政宗の紋章
伊達政宗は海と縁が深い、海を望み最後はスペインにまで使者を派遣た。だから海の色がにあうのである。東北であの時代にヨ-ロッパまで目を向けたこと自体例外的だった。その後も東北は海外に視野をもったことがないからだ。だから伊達政宗は海と結びつくのである。
伊達政宗の紋章
伊達政宗は海と縁が深い、海を望み最後はスペインにまで使者を派遣た。だから海の色がにあうのである。東北であの時代にヨ-ロッパまで目を向けたこと自体例外的だった。その後も東北は海外に視野をもったことがないからだ。だから伊達政宗は海と結びつくのである。
大地に深く根を張る樹々の列
樹々は争わない、平和の連帯
互いにののしり憎しみとがめることはない
樹々の枝の影は静かに交差して
人と人との間にも国の間にも争いは絶えない
樹と樹はいまだかつてその争いを知らない
大地の上に深く根を張り力強く連帯する
樹々は何かに向かって攻撃することがない
それぞれ己の内に充足して立っている
敵に向かって連帯するのではない
静かに深く自らに充足している平和の連帯
これこそが正に揺るがざる連帯
その信頼の握手には嘘偽りがない
信頼に満ちているからこそ無言である。
それは一時的なものではない永続的である
ののしりとがめにくしみ恨みねたみがないこと
すなわち争いがないことは奇跡的である
人間はなぜ調和しないのか平和がないのか
そもそも平和がいかなるものか知らないから
平和の見本となるものがないから
その見本は樹々にありその内実を知ること
樹々が造るのは荘厳な神の宮居である
神は争う所には決して存在しない
日々争いに乱される場所調和なき世
人はそこでいくら働いても疲れるだけ
そこに真の実りはなく虚しくされる
人は切なくも連帯を欲し平和を欲している
人の世界には見つけがたいもの
内なるものに力強く連帯する樹々を知れ
その平和の連帯を知りて人の連帯もある
その聖なる神の宮居に日々花は献げられる
連帯する樹影
田舎の連なる中の一本の枯木
夕日に長い影を帯びている
いつまでも長い影を帯びている
悠長な時間に記憶させるかのように
それぞれの木に癖があり
一本一本が違っている
人間にもそれぞれ性格があり癖があるように
枝と枝の影がもの言わずまじりあっている
互いに触れることもせず交じり合う樹の強さ
大地の上に立ってゆるぎないそのひきしまった姿
大地の上につながっているその簡素な姿
人は絶えず協力連帯を叫ぶ
しかしここでは深い沈黙の中に人知れず
互いに大地の上に強く結び合っている
連帯を叫ぶものに連帯はなし
連帯は声なくもありその連帯は持続的で強い
本当の連帯とは個々に独立した連帯
ここに立つ一本一本の樹は独立して立ち
深い沈黙の中に連帯している
静かなるもののなかに真の力が宿る
騒擾の中に真実は宿らない
その結びつきは声に出さずとも
根は大地につながり強固である
ここでは連帯を叫ぶ必要がない
連帯は敢えて己を主張することではない
己のエゴを殺すことが連帯に通じる
本当に愛しているものは言葉で言う必要がない
それほど連帯は強固なのだから
枯木の影が交じり合う写真がうまくとれてなかった。木は影からその表情を知ることができるの一面である。
これネットから拝借した。煉瓦の建物がありマッチしている。建物はここでは消している。
シルバ-センタ-に梅の木があり梅が咲いていた。そこでいつも仕事している人がいる。障子張りをしていた。シルバ-センタ-も民業圧迫だとか問題も多い、仕事はもともと生きがいを作り出すとかボランティアなものだった。でも現状はそういう余裕ある人が少なくいくらかでも収入のたしになるということでやっている。ここは国からの援助をもらっているから税金を出してやっているからと問題視する人もいる。60以上の退職者でも格差が大きい。
明日も来る手伝いの女春の月
ともかく禍に悩まされ翻弄され続けてきたのが自分だった。でも本当に禍は消えたのか、そうともいえないだろう、今日は梅も咲いていたし春だった。召使い、お手伝いさんとかで淋しくなった家の補いができる。結局人間の代わりは人間しかないのだ。ただその人間もいろいろである。召使とかお手伝いさんなどヘルパ-など誰でもできるものともいえない、洗濯とか掃除とか料理とかあるが性格的なものも評価の内に入る、総合的に理想的な召使とかお手伝いさんとかヘルパ-になれる人はいない、料理もうまくて他にもいろいろ気がついて性格もいいなどという人はいないのである。工場で流れ作業で部品を作っている人とかレジの仕事などはあまり人間を総合的に評価したりしない、ロボットのように扱われている。ところが召使、ヘルパ-、お手伝いさんとかは総合的に評価される、総合人間であることが要求されている仕事なのである。
こんなもの下働きの仕事にすぎないとはいえない、極めて人間的な仕事である。だから「執事たちの足音」というプログにはつくづく感心したのである。
冬田の中の石巻線、短歌十首と詩
曽波神とは何の神様だ
これも未だわからんな
佳景山とは欠けた山だったと
そんな山しかこの辺にはねえのか
涌谷では黄金がとれていた
奈良の都に知られていた有名な場所だ
それも遠い昔だな
ちょっとでも砂金がでてきたんだってな
ここには涌谷城の石垣が残っている
こんなところにも城あったのか
まだ訪ねたことはねえな
今はただ冬田が広がっているだけだ
小牛田についたな
小牛田は相馬にも碑があるし
山神様でなじみの場所だけどな
ここからでていた栗原電鉄は廃線になった
最後に記念に乗ったのが良かったな
石巻線も廃線になるのか・・・
平泉と言えばまだ遠いな
束稲山は都に知られた山だ
品井沼は大きな沼だった
この辺も昔は広い湿地帯だったな
ここも伊達領になったんだよ
なんだかオレも旅ばかりしていたけど
年とってしまったな
近くでも知らない所がまだまだあるんだよ
一生かかっても行ききれない
そのうち死んでしまう
遂には近くでも見納めになる
石巻線はその頃廃線になっているかもな
召使、お手伝いさんは極めて人間的な仕事
(プログの紹介)
イギリス最初の小説の主人公が、召使だなんて。
『パミラ』で初めて主人公の内面描写が描かれたという
召使いは、主人の私生活のなかでは永遠の「第三者」である。召使いは、優れて私生活の証人である。
(『ミハイル・バフチン全著作〈第5巻〉小説における時間と時空間の諸形式 他―』より)
しかし、その聖なる家庭の中を、じっさいに「手を使って」清めているのは、われらが召使いです。礼拝堂を掃き清める信者のように、召使いは室内の床をはき、磨く。
目立たず、ひっそりと。控え目に、勤勉に。わたしは、「召使いこそが、家庭の神聖性を体現している」と思うのだ。
(執事たちの足音)
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/60b08f650005074efba2f2c0d7438724
執事たちの足音
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/60b08f650005074efba2f2c0d7438724
冬のオリンピックはやはりフィギュアスケートが面白い
氷上のダンス
http://poems.minna-no.jp/poems/view/33544
ライサチェクはロボットみたいで全然面白くなかった。
やっぱり芸術点の方が文化を現しているから高くするべきなんだ 、技術にこだわりすぎると芸術性はおちてくるからな
インタ-ネットだと例えば詩でも「樹」に関しての詩を世界中から集める、それができるとまさに樹のオリンピックになる。インタ-ネットだと必ず言葉から検索するから自ずとそうなってしまう。本を買う場合でも「連帯する樹影」というのを詩で書いたが他に樹について書いていないかと検索したら「 樹木たちはこう語る」とかの本が出ていた。それでこれをアマゾンで買った。それなりにいい本だった。インタ-ネットに出ていないと本からアマゾンで買うことが増えたのだ。だから本を買うことが実際は増えているのだ。本好きの人にとってはアマゾンの古本が魅力が大きい。あらゆる本が安く買えるから買ってしまうのである。
いづれにしろオリンピックは世界中の人が見ている。でもこれが単なる文化がないものだと力だけを速さだけをそうした肉体の機能だけを争うとなるとつまらないのである。スポ-ツにも文化であるとき見る方も興味をもつのである。
雪の野に離れて一軒誰か住む夕暮れるかな人も見ずして
今日もまた雪踏む道や吾も想う雪国に住む人の暮らしを
夕暮れの雪野に離れ家淋し点々とつづく犬の足跡
今日も朝から雪だった。結構またふって積もるのかなと思った。こんなに雪降るのも浜通りではめずらしい。夕暮れも雪景色だった。その雪景色で見る家も違っていた。清らかな雪の中に家がある。その家に誰が住んでいるかわからない、むしろどういう人が住んでいるかわからないほうがいい場合が多い。知らないからこそ雪の中で一軒の家と雪だけの景色になる。そこに美が生まれる。雪はこの辺では美的にしか見ない、すぐ消えるからだ。雪で難儀することはほとんどない、今日も午後からは晴れていたのだ。雪国の暮らしは実感としてここではわからない、ただ雪がいつもあるということ雪に埋もれて家があるということそれが長くつづく感覚はどういうものになるのか?めずらしくこれだけ雪の日を体験したから思ったのである。雪は幻想的にすることは確かである。暮らしとしてはただ難儀するもの早く消えてほしいものとなる。でも雪に苦労しない人はロマンチックだとなる。いづれにしろここでは雪国の情緒はわからないのである。
近代デジタルライブラリの二宮尊徳の相馬藩の記述
刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まずうちて
日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
/%E6%9D%91%E3%81%AE%E9%8D%9B%E5%86%B6%E5%B1%8B
村の鍛冶屋や野鍛冶は刀ではなく鎌や鍬を作っていた。農民の注文でも作っていた。鍛冶屋は昔はどこでもあった。鍬や鎌は農民にとってはこれだけ左右するのかもしれない、唐鍬とはそれだけの効果がある鍬だったのである。大工でも道具にこだわるし農民も道具にこだわるのは当然である。それがNHKで放映していた鎌一つで麦刈りに出稼ぎに来ている農民だった。コンバインと比べられていたがその相違があまりにも大きかった。鎌だけで刈るのとコンバインでは比べようがない、百倍から千倍とかもはや比較にならない、原始時代と20世紀の差を見たのである。
実際に相馬は二宮尊徳なしでは語られない場所である。二宮鎌とか二宮鍬が農家に残っていてそのことから二宮仕法のことなどを語ると子供でも興味を持つし具体性が帯びてくる。
そこから具体的に歴史がイメ-ジできるのである。歴史はやはり話だけでは文章読むだけでは具体性にともしいから興味がもてない、仁宮尊徳は確かにあまりにも有名だから知っている。
相馬藩でも実際にかかわったから有名なのだけど農民でなかったりするとわかりにくい、歴史は家からはじまっている。家々には何かしら必ず親でも先祖でも残すものがある。家宝となるものがある、例えそれかその家だけのものであり他の人には意味ないものでもその家にとっては意味あるものがあるのだ。そこから家訓となるものが生まれたり別に大きな代々つづく家でなくてもあるのだ。だから郷土史は祖父母から聞いた話からはじまると前に書いたのである。野馬追いの旗は一番わかりやすいがこれもすでにどういう謂われなのかわからなくなっている。二宮鎌とか二宮鍬とかあったこと自体すでに二宮尊徳が信仰の対象のようになっていたのである。
郷土史でも資料をまずそろえないと郷土史研究はできない、相馬藩政記など読む人は特別郷土史に関心ある人であり電子化すべきなのである。そうすれば家で研究できる。図書館でいちいちとりだしてはコピ-していたら手間暇でできないのである。買うとなると高すぎるのだ。だからこういう資料は電子化すべきなのである。つまり南相馬市でもそうだけど立派なハコモノの図書館に莫大な金をかけるのではなく電子化とかに金をかけるべきなのだ。そうすればわずかの金でできる、個人に委託してもできるくらいなのである。その金額の差が大きすぎるのだ。自分にしてもこれだけ提供できるのはインタ-ネットがあってこそだった。
福島県(浜通り)の東風(こち)について
今日は東風(こち)吹く
光明るく今日は春北風(はるきた)吹く
東風はかなた海より吹く
東風は海に誘う風
しかし山越えて東風は
丸森や阿武隈山地に吹くも
はるか会津には海よりの風は吹かじ
蒲生氏郷は会津の山に閉ざされ死す
山国の人となりて死す
東風は浜通りでは海より吹く風
「東風(こち)とは漁師ことばで春一番の前に「ふっ」と吹く風の事を」言うとか。
いずれにしても、道真公が使った言葉なのだから、彼の生きた当時にはあった言葉、あるいは、彼の生きた地域(それとも宮中?)では使われていた言葉であることは間違いない。
漁師の言葉だとして、それをも道真は知っていたのか、それとも、元来は漁師らの言葉であっても、教養ある人も使うような言葉として流通していたのか。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/03/post_9.html
この説は漁師らの言葉にするには不自然である。何故なら京都も盆地であり海から遠いのである。だから日常的に漁師と接することがないからこの説は納得できないのである。ただすでに東風をコチと呼んでいた。京都には東山があり東山となると感覚的にここでは海から吹いてくる風になる。海がないところでは東の山から吹いてくることになる。海に面した地域ではそもそも東山がないからその感覚がわかりにくいのである。ましてや風は本当にわかりにくい、風向きが常に変わっているし一度旅したくらいでは体験できないからである。)「コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか」という説がもっともらしい。早く春の風がこっちに吹いてきてほしいからなづけたのかもしれない、これは海が見える所でなづけたのとも違う。
「大伴家持が任地越中で、越中ではコチ(東風)の語がないことも珍しく思ったらしく「東の風越の俗の語に東の風をあゆのかぜと謂ふ」と言い、次の和歌を示してくれている
東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)漕ぎ隠る見ゆ
越中では東風をあゆのかぜと言っていた。全く違った言葉だった。風に関しては方言がありその土地に独特に吹く風があった。南風がハエというのも全然違っている。東風(こち)は山国で吹いてくる風である。その感覚は山国に四方が山で囲まれている地域に住んでいないとわからないのだ。さらに海に面していても日本海と太平洋は表と裏でありこれも全く違っているのだ。太平洋から東から太陽が昇るのと日本海に沈むのとはあまりにも感覚的に違っているのである。あゆのかぜ、東風がどういうふうに吹いてくるのかもわかりにくいのだ。
御蔵島の風
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/fl-wind.htm
東風(こち)吹くや海より奥へふきそよぐ
東風(こち)吹くや海より山へ吹きそよぐ
峠越え東風吹き来るや海に出む
東風は海より山に吹いてゆく、丸森だと峠を越えて吹いてきた東風もある。この時京都などよりこの風は太平洋から吹いてきた風だと意識した。おそらく丸森の人も海を意識するだろう。ところが京都とか会津では海を意識することはない、できないのだ。 丸森だったら「峠越え東風吹き来るや海に出む」と意識する。丸森は阿武隈川でも狭隘な谷間から流れて広々として太平洋にそそぐことをすでに意識する、海を意識するのだ。川からも海を意識する。伊達政宗の初陣の地が丸森であり自ら名づけた地が筆甫である。相馬に出て初めて海を意識したともある。丸森では海を意識する。
京都とか会津は海を意識できない、もちろん仙台の青葉城は太平洋さえ望めるのだから海を意識する。伊達政宗がさらに要塞として瑞巌寺を海のすぐ側に配置したことでもわかる。日本は地理が複雑だから風にしても多様だしそれが簡単に肌ではわからない、地域的なものは風土はわかりにくいのだ。
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 蒲生氏郷
氏郷を相馬に想う冬の日にはだかる山や会津にうもれぬ
この山風も山に閉ざされた会津で生涯を終えたことから感じねばならない山風である。海に面していれば春の風は海からそよぐ東風になるが山国では違っている。日本では海に囲まれていても山彦-海彦の世界が別世界になっているから文化的にも理解することがむずかしいのである。
東風(こち)の地名
北海道松前郡 松前町 東風泊(やませどまり)
青森県西津軽郡 深浦町 東風股沢(ひがしかぜまたさわ)
宮城県牡鹿郡 女川町尾浦 東風浜(こつはま)
山形県酒田市 北俣 東風当田(だしあてだ)
茨城県那珂市 東風谷(こぢや)
千葉県富津市 東風谷(こちゃやつ)東風谷田(こちややつだ)
千葉県山武郡 芝山町 東風山(こちやま)
長野県伊那市 東風巻谷(ひがしかざまきだに)
愛知県知多郡 南知多町内海 東風畑(とうふうばた)
山口県下松市 東風浦(こちうら)
山口県周南市 東風石(とうふうせき)
香川県三豊市 詫間町粟島 東風浜(こちはま)西東風浜(にしこちはま)
愛媛県八幡浜市 東風脇(こちわき)
愛媛県越智郡 上島町 東風浜(こちはま)
大分県佐伯市 東風隠(こちがくれ)
長崎県対馬市 東風防島(こちぼうじま)東風泊(こちどまり)
東風泊鼻(こちどまりはな)東風泊湾(こちどまりわん)
熊本県上天草市 東風留(こちどまり)
鹿児島県鹿児島郡 三島村 東風泊(こちとまり)
沖縄県島尻郡 八重瀬町 東風平(こちんだ)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/54348075.html
東風をヤマセとしているのは山から吹いてくるからだろう。北海道の松前だとそうなる。
千葉県富津市 東風谷(こちゃやつ)となっているきはやはりこちゃとはこちがなまったものでありコチが基本としてある。これは漁師言葉なのか、京都でなぜこの言葉が一般化したのか?漁師言葉だとすると瀬戸内海とかで使われた言葉が京都に入り一般化したのかもしれない、ただ地名としてはここで瀬戸内海は出ていないから不明である。言葉は大和言葉は奈良京都を中心にして広がっている。沖縄とか青森に平安時代の言葉、京都の言葉の尊敬語が残っている。そんな遠い地域に古語が残されていた。こちも京都辺りから遠い地域に広がった言葉なのか?越中であゆのかぜと東風を言っていたのは東風に代わる地名もあるだろう。東風(こち)というとき京都で使っていた言葉が一番古いと考えてしまう。
団塊の世代が生まれ育った時代
戦争で失われた、たくさんの命。
それを補うかのように生まれてきたのが、団塊の世代。
戦争は終わった。その補いとして人口をふやしたのは自然の摂理だったのだろう。同じ世代の女性と話したらあの当時のことがそれぞれ違ったものとして体験している。その女性は農家であり5人姉妹であった。その末っ子であった。それでミルクを買っていたのではなく母親が乳が出ないからと親戚の女性に乳をもらっていたという、こんなこともあったのかと思ったがこういうことは昔から良くあったのだ。乳母(めのと)というのが武家には必ずいた。これは実際に母親が乳が出ないというのではなく武家一族郎党と結束を固めるために敢えてそうさせた。なぜならそうすればその武家の一族が家族のようになるからだ。その子供にしても乳母は母代わりになっているからだ。そうでなくても大家族制だったら庶民でも乳母役になる女性はいたのである。ミルクは買えないからそうなったのだ。学校の給食は脱脂粉乳だった。これで吐き気をしたことがあった。これはひどいものだったのだ。
脱脂粉乳について
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1997280.html
団塊の世代はすでに60以上であり若い人が昔話ばかりしているとなじっているが60以上になればみなそうなるし今までもそうである。でも団塊の世代はまだ社会で権力をもつ立場にいるから昔話ばかりではない堅実の問題に対処しろとなるのかもしれない、60-65くらいまでは今や老人に扱われない、現役の人が多いからだ。団塊の世代は小学生時代まではほとんど戦前の延長であり生活自体そうだった。何故なら燃料は炭だたからだ。これは生活の基本がエネルギ-が炭ということは江戸時代と同じである。炭は山の木で作るから山ととは密接な関係が結ばれていた。山村でも金持ちになるのは炭焼きをしている人であり炭を売る人だったのである。炭焼きをしている人より炭を街に売る人の方が金持ちになったかもしれない、大量に売ればそうなる。炭とか石炭とかがエネルギ-だった。家は裸電球一つくらいしか電気製品はない、葛尾村なんかは電気が通ったのはずっとあとである。裸電球すらなかったのだ。要するに小学生時代までは江戸時代と基本的に変わらない生活があった。
だから小学時代までの経験はかなり貴重であった。あういう経験はもうできない、中学時代辺りから急速に変わっていった。テレビができたときが大きな変わり目だった。高度成長時代に入り田舎からも中学卒業者が金の卵として東京に大量に送られて行った。その時大学に行く人はクラスで数人である。半分は中卒だった。農家で育った人は相当貧乏だったみたいだ。カバンがなくて困ったとかいろいろ不自由なことを言っていた。小学時代はみんな貧乏だった。だから差はなかった。モノがそもそもない時代だからそうなったのだ。ただ中学時代頃から差がでてきた。豊になりはじめた人が出てきたのだ。自分の家も早くから豊になったから中学時代、玉子焼きとか弁当にありうらやましがられた。今思うと立派なカバンも買ってもらったとかそれで隠されたりいたずらされたりすることがわかった。つまりカバンすら満足にもてない人が多かったのである。ただそのあとはみんな高度成長の恩恵を受けて豊になったからそういうことはなくなった。大量の中産階級をもたらしたのが高度成長時代だったのである。玉子焼きが食えないのは玉子がまだ商品化されていない、放し飼いで農家でニワトリがいてもまだ農家では食べていても街の人はそれを買って食べることがまだできていなかった。玉子も食べていないのかとなるが玉子は病人くらいしか食べられない貴重なものでありそれは戦前からの延長でありそうなっていた。「巨人・大鵬・玉子焼き」というとき巨人、大鵬はテレビが普及した結果、人気になったのである。その頃のテレビ熱は凄いものだった。子供のとき相撲でも食い入るようにして見ていたのである。玉子焼きもその時食えるようになったことで食生活が豊になり始めたものとして出てきたのである。
モノがない時代は長かった。もったいな時代は長かった。人類史上モノがあまりモノが捨てられる時代は最近のことである。戦前はさらにモノがない、鉛筆が極端に短くなっても使っていた。そのことはインタ-ネットに出ていた。鉛筆すら満足に使えないしノ-トさえ紙さえ貴重なものだった。モノがない時代か戦前もそうだし戦後も十年くらいはつづいていたのである。子供時代の思い出として屑鉄拾いがありこれは実際に金になった。鉄が不足したのは朝鮮戦争の時であった。戦争のために日本が資材を提供することになったからである。これで好景気のはずみができたのである。 団塊の世代はモノの窮乏時代からはじまりモノを満たすために企業戦士となりがむしゃらに働いたのである。そして今やモノが満たされる時代になった。モノ自体にそれほど価値がない時代になった。そのモノを満たしたことに次代のものはあまり感謝していない、モノがすでに生まれたときあふれていたからモノがあるのが当たり前だから感謝しない、モノでももしモノの窮乏時代だったらモノ自体に感謝して使っているのである。捨てるようなことは江戸時代のようにしない、徹底して紙切れ一枚まで何度も使う、現実、紙漉きは古雑誌とか古紙を材料にして紙漉きをしていたのであり木から紙を作っていたわけではなかった。あらゆるものを無駄にしない徹底したリサイクルが迫られていたのである。
夕闇の雪に映えつつ枯れし松
五本松の枯れているけど一本立っている松は今や不思議である。90何歳とかで生きている老人も今は多い、その松ににあっている。あの松を見ると必ず家でもそうだがそうした老人をイメ-ジする。松は極めて人間的なのである。これが高い樅の木とか杉だとかなるとそうはならない、松は人間が立っているように昔から見ていたのである。あの松はいつか倒れるのだろうか?
まだ死んだわけではない、生きているのだろう。なんとか生きているのだろう、これは死にかかった老人にも言える、倒れれば死ぬのか?あのように立っている限りあんなに枯れていても生きているのか?ともかくあの松は今や不思議である。90才生きているとどうしして生きているのか自分でも不思議になるらしい、そんな年を生きている本人さえ想像しなかったからである。
相馬より会津へ (白河街道-詩と文)
太平洋望む浜通り
阿武隈山地のさえぎりて
中通りに出て会津は遠しも
歴史を秘めて雪に埋もれぬ
七層の黒川城の威容かな
奥深き会津山国の城
歴史はここに積み重なり
代々の藩主はここに眠りぬ
その奔騰する川の流れや
迫る峰々隆々として険し
断崖絶壁にひびきわたれり
鬼百合こそここに熱く燃えて咲け
会津に入り福良の蔵の宿
茅葺きの家並み残り菖蒲咲き
猪苗代湖波うちひびきあわれ
境の松の枝の長々と垂れにける
関所もあれ勢至峠や秋の一部落
殿様清水にその名残や偲ぶ
一面に月見草咲き家まれに
道は郡山へつづきけるかな
遥なり残雪の飯豊連峰
桐の花咲き雨しとと墓所ぬれぬ
藍色の猪苗代湖に秀峰磐梯山
我が望みつ相馬に去りぬれ
阿武隈山地を我が越え行けば
太平洋の海の風そよぎ涼しも
船も行くかな松島牡鹿半島へ
伊達政宗は海を望み想いは外国(とつくに)へ
蒲生氏郷が最初に築いたという黒川城は七層の黒い城だった。あとで江戸城の城をまねて白壁の城になった。最初の七層の城の方が山国、雪国ににあう威容のある城だった。七層となると今より高いからそうなるし黒いということがいかにも奥深い山国に来た感じになる。
勢至峠から福良で蔵の宿に泊まったことがある。猪苗代湖の岸辺の道を行きそこに松の枝が長々と垂れていてそれは境の松でありいかにもふさわしい松である。今は会津に行くのに福良の方をまわる人はいない、だからこちらは取り残されたようになっている。ただ昔を偲び旅をするのにはこっちがいいとなる。秋の日磐梯山の山影がここに伸びてくる。その時まだ宿場町にふさわしく茅葺きの家が通りに何軒かあったものさびた町である。昔を偲ぶにはこの街道を行かないとわからない、秀吉もこの道を行き会津若松に出た。
自転車で行ったから延々とつづく街道の記憶が残りこうして詩に書ける。福島県の地理は浜通り、中通り、会津と別れている。浜通りからすると会津はかなり遠い、それはまず阿武隈山地が障壁となってさえぎるからである。まず中通りまで出るのが容易ではない、中通りから出てまた遠い、電車で行くと岩沼から郡山に出て会津になるがこれも乗り換えがあるからめんどうになる。それより昔はどうしても阿武隈山地を越えないと会津には行けないからその行程は遠いのである。阿武隈山地と中通りでは気候もかなり違う、福島市は盆地であり冬は寒く夏は蒸し風呂のようになる。それがはっきりはわかるのは阿武隈山地を越えてゆくとき涼しい風が太平洋から吹いてきたときだった。自転車だから歩いて坂を越えるから特にその風には救われた感じがした。涼風は太平洋から吹いてくる。ここで気候が変わるのだ。
浜通りと会津はこのように隔絶されているのだ。だから地理的には宮城県までの海沿いを通じて塩釜や松島、牡鹿半島に結びつくのである。相馬藩にいかに宮城県関係の神々が勧請されていたことでもわかる。館腰という駅名があるがあれも神社であり相馬にもあった。宮城県のそうした神社に相馬からお参りに行っていた。山神も多いが小牛田神もそうである。船で塩釜の寒風沢に行き来した記録も残っている。金華山の碑もある。会津の方からそうした神々はもちこまれない、それだけ交流が少なかったのである。ただ木こりとか茅葺きの屋根葺きとか出稼ぎで来ていて住み着いた人も記録として残っている。やはり会津藩との交流は地理的に隔絶されているから少ないのである。
人間はやはり自分の住んでいる地点がコンパスの中心になる。自分の住んでいる場所から世界をみる、相馬から磐城、中通り、会津、宮城県の仙台、塩釜、松島・・・と見るのである。それでもこれだけの視野をもつこと自体、江戸時代だったらむずかしいことになる。庶民は会津などに行くこともない、宮城県にはお参りで行っても会津までは行かない、だからその地理感覚は狭いのである。もちろん伊達政宗のようにスペインまでその視野を拡大化したことはあった。東北では例外的なことだった。これだけ交通が発達しても日本は山国だからその地理がわかりにくいのだ。会津は特に山国だからわかりにくい、峠また峠である。山が障壁となり閉ざされた国が大和(やまと)の国なのである。
猪苗代湖や会津街道の御前桜などの詩
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm
相馬野馬追いとヨ-ロッパ戦争の叙事詩(ミルトンの詩より)
さて今や厳しき命下る
勇ましき喇叭高らかに響き・・・と鳴りわたれば
彼の大いなる 旗を掲ぐべしと
丈高き天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う
彼ただちに煌めく旗竿より
帝王のしるしをひろげぬ
いと高く掲げられ風になびきて流星のごとく輝く
天使の紋章勝利のしるしなど
宝石と黄金の光ゆたかにちりばめられたり
この間喇叭は戦いの調べを・・・と吹き鳴らしたり
今や群れいる全軍の将兵一せいに喊声をあげ
地獄の底をつんざき
かなた老いたる夜との国土をも震駭す
たちまち薄暗をすかして見ゆ
一万の幟虚空にそそりたち
華やかなる色どりもてはためけるさま
同時に巨いなる林のごとく槍もそそり立ち
群れなす兜 密集せる楯の列限りなく続けり
やがて彼らは整然たる方形陣を成して
横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ
前進を開始したり
ミルトン(失楽園)
この詩と相馬野馬追いの祭りが酷似していた。
勇ましき喇叭鳴り渡り
→勇ましき法螺貝鳴りわたり
天使ゼイゼルこの高き誉れは我がものぞと思う
→妙見の神、北斗七星の旗を高く掲げ殿の誉れを得むと
横笛 縦笛のド-リア風の調べに合わせつつ前進を開始したり
→相馬流山の軍歌をひびかせて誇らかに前進せり
今や城より出て主君から厳しき命下る
馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり
相馬の山々、大地、海にも木霊して
藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)
先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く
相馬流山の軍歌の雄々しくひびき
藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ
武田菱の旗の護衛に北郷の大将の紫の母衣(ほろ)鮮やかに
先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる
雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う
主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ
この時老将も勇みかつての武勲の蘇る
人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも
山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷
代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち
今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり
夏の大空に法螺貝はひびきわたり
村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり
相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう
三百年つづきて変わらず君主をいただき
相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな
旗の役割
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm
ヨ-ロッパというと日本と相当違っているように見えるけど共通点がかてりある。城があることや紋章が豊富なことは旗印が豊富なことににている。このミルトンの詩もまさにそうだった。野馬追いを詩にしたとしても違和感は全くなかったのだ。野馬追いの魅力は相馬藩のすべての力が結集することあった。そこが一番の魅力なのである。祭りにはそういう村や村々が藩が一体となるものがあった。今のようにすべてがばらばらとなってしまったとき、老いも若きも雲雀が原にすべて結集して一つとなることが魅力なのである。現代では世代もつながりがなくばらばらであり地域もばらばらであり総合につながりが希薄になる、ということは実は大地とのつながりも自然とのつながりもばらばらであり一体化しないことにも通じている。現代はあらゆるものが分割して部分化してばらばらになりすぎたのである。そのことが生きる力すら喪失させてしまっているのだ。これからは総合的な全体としてのつながりを回復することにある。それは自然と一体化して成される必要があるのだ。それを再現するのが相馬野馬追いやその他の各地の祭りなのである。そんなことは旧弊な昔にもどることであるとかなるが人間は常に一体化するものを目指す、大地(自然)と人間とが総合的に一体化することが人間の回復(ルネサンス)なのである。現代文明はあまりにも人間がばらばらになり部品化して生命力が疲弊してしまったのである。
平和の祭りならいいが戦争で一体化していいのかともなるが今の時代とは違う価値観の中で生きていたのだから今の考え方を時代を見ることはできない、ともかく当時はどういう感覚で生きていたのか、戦場に向かったのか、やはり今でも野馬追いに出る人は馬にのって先祖代々の旗をなびかせて出陣する人は当時の感覚を実感するのである。会社員とか事務員とか工場で働く人とか商人とかとは違う、何か誇らしいものを感じる。馬上の雄姿を再現する。だからおそらく金がかかるけど年に一度、昔に帰り侍に戻ることがやめられないのだろう。そうでなければなかなか野馬追いも文化財の維持だからというだけではつづかないだろう。別にこれを賛歌しても今の戦争賛歌とは違ったものである。
辛うじてこれだけは残っていた。結局「今日の一句一首」と「相馬郷土史研究」を二つに分けたときいくつかの記録が消失した。二つにそのまま残したおけば問題はなかった。別々にして一方だけにしたとき消失したのである。プログはホ-ムペ-ジのようにオフラインでは同じ様にみれないいし記事が無数に分割しているから消えやすいのだ。二つのプログに同じものを必ず記録していないとまずかった。プログは記録するには危険だった。この詩も結構貴重なものだった。あとは回復できなくなった。
雪の朝黒々固まる烏かな
何を食う雪食む烏朝明けぬ
雪に鳥浪のひびくや朝の海
松が枝に雪の重さやひびく浪
松が枝の雪にたわむや蔵一つ
喜多方に蔵のいくつもそちこちに積まれし雪や冬の長しも
俳句はまず写生である。これらもただ写生しただけである。この辺ではこうして雪が積もることがめったにない、だから雪の中を自転車で海まで行ってきた。雪景色はめったに見れない、会津とか雪国では雪の中で暮らしているからうんざりしているけどここでは雪は新鮮なのである。この雪は山では相当つもった。山の方があんなに白くなるのはあまり見たことがない、海も松原もこんなに雪になることはない、めずらしいから写真にとっておいた。
松が枝→雪にたわそ→蔵一つ・・・・これも何かここで考えない、作らない・・見たままなのである。こういう光景は蔵の街の喜多方などではいつでも見ている。ここではめったに見れないからめずらしいのだ。浜通りには雪の情緒はない、雪国の情緒はない、雪国には独特の情緒が作られた。ただそれも他からはわかりにくい、それも地域的奥深い文化なのである。福島県では会津は一つの別な国なのである。会津の城は最初は黒い城だった。それが江戸城をまねて白壁の白い城になった。黒い城の方が感覚的には良かった。山国と雪国にあっていた。とにかく会津の地理はわかりにくい、会津を知るならどうしても冬を雪の世界を知らないとわからない、だから一冬でもここで過ごせばわかるのである。浜通りは関東と気候はさほど変わらないから同じである。会津のようなところは雪を知らないと理解できないのである。
烏が一段と黒く目立ったのが今日の朝だった。実際に雪でも食うしかないような雪景色だった。烏が本当に黒いと自らも意識したかもしれない、確かにこれだけ雪がつもれば雪一色になれば黒さらに黒くなる。
喜多方は蔵の喫茶店がいい、会津は城だけど喜多方は蔵である。最近何か会津も遠い、会津は日帰りとなるとやはり遠い、なぜこんなに近くても行けないのか未だに納得がいかない、余りにも自由だったからそのギャップが大きいのである。人間は今までの暮らしとか価値観ががらっと変わると簡単には適合できないのである。
白鳥にはヨ-ロッパの湖にもにあうし魅了される。白鳥は純白であり聖なる鳥なのである。醜い人間を思ったらただ悲惨である。最近認知症の家族をかかえてから人間の醜い面をまざまざとみて翻弄されつづけてきたから余計そうである。すでに四年くらいたっているから結構長い、それでも月日がたつのは早い、いつのまにかプログを書き始めてから5年近くすぎていたのだ。
ホ-ムペ-ジを始めたのは2000年だからすでに10年はすぎているのだ。これもいつのまにかに過ぎた。その間につくづくひたすら反応もなく書き続けた。書くことに魅了されて書き続けた。これだけ書ける場など誰も与えてくれないのである。自分をいくらでも表現できることはインタ-ネットの強みである。雑誌にしたってわずかしかのせられない、個人で発表することも大変である。インタ-ネットは発表すること自体は簡単であり何の苦労もないのである。ただそのあと評価とか反応を得ることは本当にむずかしい。インタ-ネットでは誰が認めるのか、評価するのかということが問題である。目安はアクセス数だけになってしまう。でも毎日感じたことを書けるのはインタ-ネットしかない、それもプログが一番便利なのである。一つ一つの記事が読まれたかある程度判断できるからだ。トップペ-ジからくるとわからないのは問題だが平均して何が読まれているかわかる場合がある。これはホ-ムペ-ジではなかなかむずかしい。ともかくずいぶん書いてきたものである。途中認知症関係が多くなり読む方も書く方も混乱したがやむをえなかった。
これまで書いたものをやはりまた編集して整理する必要が出てきたのだ。インタ-ネットではプログで書いたものが一部消失して復元できなくなったように消える危険があった。ホ-ムペ-ジは消えにくいがプログが危険である。前も一度全部サ-バ-で消えたことがあったのだ。どうして
urlから記事が出てこないのか?こちらの落ち度なのか、記事が消えるということはありうることだった。とにかく10年書き続けたのだ、書いたものをもう一度整理する必要が出てきた。
20代であれ俳句とか短歌で何らいいものを作っていない、でも一つか二つはあったかもしれないが余りにも幼稚でありだから誰も認められるようなものではない、結局芸術は天才でない限り
年数がかかるのだ。いいものを作る秘訣はこの世の汚れに染まらないことが一番肝心なのである。ひたすら純粋を目指して身辺も純粋であること、汚れないよう努力することなのだ。世の汚れというときそれはいろいろある。女性で汚れてゆく人もいるし金で汚れてゆくこともあるし名声を求めて汚れてゆくこともある。余りにも汚されるものがこの世には多すぎるのだ。結局才能がどうのこうのよりそうした世の汚れに染まるためにだめにしてしまうのである。才能がなくても世の汚れに染まらないなら凡人でも本当の美を神が創造した美を知ることができるのだ。
消えるプログの記録の危険
かといって出版はみんなできない、インタ-ネットの強みはこうして毎日いくらでも書けることであり全国に自由に放送できることなのだ。普通だったら狭い地域、10万くらいの都市に住んでいれば郷土史などその人数内でしか読まれない、ところが郷土史でも全国を相手にするから読まれるのである。これが大きな今までのメデアとの相違である。全国の人を相手にしているんだということはやはりやる気を起こすのである。アクセス数は最近また増えてきた。相馬郷土史関係では70くらいになっている。これはでも他から相当数アクセスししているから地元の人は少ないだろう。野馬追い関係などもっと書けばアクセス数はあがる。本プログの今日の一句一首は200を越えている、プログで便利なのはコメントを即座につけられることである。メ-ルはスパムでとめることができない、かえってプログに書いてもらうと即座に反応できる。誰かが読んでいるというだけでもやる気にはなる。
旗巻峠-伊達と相馬の攻防の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/27366573.html
戊辰戦争東北の一つの哀話(白河の遊女の墓)
http://musubu2.sblo.jp/article/27039464.html
このほかにも消えて復元できないものがいくつかある。書き直すことができるものもある。
ミルトンの詩と酷似していた相馬野馬追いなどはもう一回書けば復元できる。書いたことを忘れてしまいばなかなかむずかしい。なんとか試みはしてみる。
白鳥や雪に暮れゆく声もなし
白鳥の純白夕べ雪つつむ
白鳥のしみなき白さ雪つつむ
白鳥の寄り合い白し声もなし
一つ松群れにし鴨やこの池になお雪ふりつ春は遠しも
一つ松群れにし鴨やこの池になお雪ふりつ都は遠しも
白鳥は神の鳥に一番ふさわしい、白いことは汚れない純白でありその貴品はまねることはできない、真野川に白鳥はいる、他にも白鳥は今はいる、でも最近わかったことは何でも日々見ていないとその美はやはりわからないのだ。時間の中で会得するものがある。富士山でも毎日見ていればその美がわかる、旅をして一日見たくらいでは自然の美、人間の作った美もわからない、今日は夕方になるころ雪がまたふった。ここは今頃雪降るんだけど結構雪がふる日が多いかもしれない、でもつもらないからたいした雪ではないから電動自転車で買物に行くことができた。それでまた帰り道、平凡な池によって帰る。その池にはいつも鴨が群れている。そして鴨というといつも
百伝う 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 大津皇子
百伝う 磐余の池に 末長く 群れつつ鴨の あらじ哀しも
鴨というとなぜこの歌を何度もとりあげることになるのか?それだけこの歌が鴨を歌うことでは一番の秀歌でありそれも古代だから今では歌いないものとなっているから価値があるのだ。この池がどういう池でどこにあったのかわからない、百伝う 磐余の池・・・・代々伝えられた古い謂われのある池なのである。そこには平和に末永く仲間と共に群れてあるべき池だったのである。そういう池はみちのくにはない、春は遠しもとしたがこれは時間感覚で遠いとなる。ここに長い時間が流れている感覚である。一方ここに距離的感覚として都は遠しもとしても成り立つ、貴人が流されてきたみちのくという遠い地にあって都を偲ぶのである。
都を偲ぶというとき万葉集では大和になる。
葦辺ゆく 鴨の羽交いに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ 志貴皇子
今年はやっぱり寒い、梅などでも開くのはまだまだである。みちのくだと関西からすると大和からすると一カ月は遅れるから季語の感覚も違ってくるのだ。 古代では今より寒かったことはまちがいない、大和はやはり日本人の拠り所となる最初の国だったのである。今日は建国記念日だった?じゃ大和を思うことはふさわしかった。
製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的に考察(時事問題の深層40へ)
http://musubu.jp/jijimondai40.html#seishi
グロ-バル化の過酷な就職難の時代
●江戸時代の職業は世襲
生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城
高卒でも就職できないことをNHKのクロ-ズアップで放送していた。製造業は時代の波を受けやすい、不況の影響を受けやすいから農業とか介護の分野に仕事を広げて就職させて地元密着型にすべきだという意見がでていた。トヨタのリコ-ル問題でもそうだがその影響は下請けなどでも大きい。製造業は一旦落ち目になると簡単にリストラされて職を失う、地元に工場を誘致してもグロ-バル化の影響で仕事を失う、仕事は継続性がないと安定性がなく社会も安定しない、江戸時代は代々親の職業を継ぐことが多いから仕事に関しては安定していた。親の職業を子供の頃から見ていて受け継いだ。侍にしても親の跡を継ぐのであり全く異業種から入ってきて侍になるのではない、代々受け継がれたものを受け継ぐことが仕事であり仕事を選ぶことはできない、仕事はインドのカ-スト制のように生まれた時から日本でも決まっていたのだ。そこには今になると洗濯屋は未来永劫まで洗濯屋なのかという理不尽があった。でもカ-スト制でも仲間の連帯感が強いから助け合いがあるから社会的安定をもたらしたという面はあった。日本でも江戸時代は大工だったら大工同士で職人同士で農家同士で結婚することが多かった。同じ職業の人が結婚するから代々その仕事を知っている人が結婚するからうまくいくということがあった。江戸時代までは職業選択でそれほど悩むことはありえなかった。だから社会的に安定していたのである。「あなたの好きな職業を選びなさい」と言われてもとまどってしまう。一体自分は何に向いているのか自分で判定することは若いなら無理である。そして今は職業が見えない、親がどういう仕事しているのか見えにくいのだ。だから親を模範にすることはできない、江戸時代なら親を模範にして入れば良かったのである。そこに親子のつながりも自然とできたのである。江戸時代までは仕事は代々受け継がれるものであった。 田でも畑でも何代も受け継がれて耕していたのである。江戸時代までは農業社会であった余計にそうなった。
●労働者のモラルの崩壊へ
採用側は、パート優先で労賃を切り下げようとしており、若い
労働者を長期にわたって育成する姿勢などなくしているのが現実である。
欠員が出ても、即戦力となるパート経験者で補充する。
http://www2.odn.ne.jp/~oginaoki/seito15.html
終身雇用の時代は、入社後に教育をし人材を育成することが可能だったが
今は終身雇用が崩壊しつつあり、しかも高卒の離職率が高い。
高度成長時代には会社が即戦力ではなく教育をもになっていた。それは結局江戸時代が子供の頃からすでに家庭が職業教育の場となっていたことの代わりとなった。家庭中心から教育は学校へ会社へとか移っていったのである。 今の若者は会社ですら仕事を受け継ぐ教育すらされない、ニ-ト、フリ-タ-、派遣とかになり仕事を通じて社会性やら人格形成ができないのである。経済的にも問題だが社会的にそうした人間形成の場から放逐されたらどうなるのか?みんなアウトサイダ-になってしまうのか?・・・・・という単に職業が食うためだ賃金をもらうためだというだけではない、社会の基礎をモラル的にも作っていくものだとしてあるときこれは深刻な問題となる。これは社会の崩壊に通じてゆくのではないか?終身雇用だったらそこに安定した社会が一応形成されていた。日本が企業社会、会社社会となっていてもそこに安定がありそれなりのモラルも形成された。長期的視野で人生設計もできた。それが今やできない、そのあとに何が起きるのか、遂には暴動のようなものさえ起きてしまうかもしれない、やけくそになり無法化してしまうかもしれない、するとますますそうした日本人でも不穏分子が外国に追放ささるかもしれないのだ。グロ-バル化とはそういう厳しい過酷さを世界的に実現してしまう社会である。グロ-バル化には経済合理性の追求でありそこにモラルを追求できない、労働力でも安ければいいというだけで労働者のモラルを培うものはない、働くということにはただ賃金を得るというだけではない精神的要素も大きくあるから問題なのである。職人気質というときやはり仕事を通じて人格が形成されたからである。
●中国人の研修生と同列化する就職難の過酷さ
明治時代から急速に社会が変化して職業は自ら選び自分に適したものを才能を伸ばして職を得るものとなった。福沢諭吉の「学問のすすめ」はまさに学問で立身出世をして官吏にでも博士にでもなれるということを示したのである。でも反面そこから職業を選ぶとなると自らの才能を伸ばすことを強いられた。親の仕事を受け継ぐことではない、厳しい勉学やらを強制されるし才能や実力ないものは生きていけない厳しい社会になったのである。それは欧米に追いつけということでも余計そうなった。そして日本人はそうした懸命の努力の結果欧米に追いつき豊になることができた。そして今は中国が日本や欧米においつけということで凄まじい追い上げをして日本は中国に追い越され属国になってしまうとまでなってしまった。製造業や商業は厳しい競争の世界である。他国に他社に負ければたちまち職を失う世界なのである。世界的不況でその製造業が一番影響を受け職を失ったのである。それはすでに中国などが製造業で日本の代わりになっているから余計にこの失業は一時的なものではなく長くなる。不況ではなく日本の衰退となっているから今までの一時しのぎの対処ではおいつかない、日本の製造業がもはやグロ-バル化の競争に一人勝ちはできない、むしろ中国などに追いこされとって代わられるとなるとそこで失業問題はさらに深刻になるのだ。 グロ-バル化とは実際は相当に厳しく過酷なものであった。中国人の研修生が一杯の所に高卒の人が一緒に働かねばならない、これがグロ-バル化の現実だった。
中国人の方が日本人より懸命に働く、日本人は日本人というだけで何の特権もない、労働力として中国人が安価で使いやすいとなる。日本人は10万で保証も何もないというから現在の雇用状況がいかに厳しいか実感した。ニ-ト、フリ-タ-は逆に役たたず、用なしとして外国に中国に追放されるかもしれない、移民一千万となれば現実的にそうなる。 グロ-バル化の是非はともかくそういうことが現実化することであった。だから高度成長時代の方がみんなが企業戦士にならなくてもいい、ニ-トとかフリ-タ-、派遣でもいてよかったのである。そういう余裕が社会にあったのである。でもほとんど全員が正社員でありはずれた人はほんのわずかだった。今になると逆なのである。なぜこんなにニ-トとかフリ-タ-とか派遣が多いのか?それはもはや自由に個性的に生きる人たちではない、社会からはじき出された人でありグロ-バル化になれば日本には無用となり日本からもはじきだされる恐怖が迫っている。そしたらよほど自分の能力を磨かなければもはや日本ではやっていけない、底辺労働は中国人や外国人の低賃金でまにあう、日本人でも同列でやってもらうとなる。それは日本の物価からしたらあまりにも過酷だとなる。
石に雪家に籠もりて珈琲飲む
つつがなく家に籠もりて冬障子
冬障子の中は金箔の障壁画
石二つ晩年静か冬障子
幸せはいづこにあれや石二つ耐えつつ北風唸りけるかも
幸せはおそらく北風に吹かれてじっと耐えている石にある。何かに耐えなければ幸せはないのだ。幸せはそうした長い忍耐のあとにやってくるのだろう。苦労したから苦しんだからそのあとに幸せがある。冬があって春がくる。寒さの峠は越して春になってくるのだろう。今日は風は吹いたが寒くなかった。晩年はあまり動き回るのが向いていない、人によっては違う、スポ-ツとかする人もいるがどうしてもじっとして回想したり思考したりするのが向いてくる。
冬障子に写る竹
http://blog.goo.ne.jp/kurumiruku1016/e/fd7dc854e3f649e43ee5f05b18f145e3
もの言わず石にしみいる寒さかな
物言えば唇寒し秋の風 芭蕉
もの言わず石にしみいる寒さかな
俳句の鑑賞として対称的なものとして類似俳句とは違う、類想俳句である。共通性を見出す鑑賞方法がある。芭蕉の句はもの言うと何かとさしさわりがでてくる。だからもの言わない方がいいという日本的なものなのかもしれない、日本人は自分を主張しない、外国人は常に自分の正当性を主張する。異民族と絶えず交わっていたから自分の正当性を主張しないと生きていけない、だから謝ることはない、謝ったら負けになり財産は没収され命までとられる。日本人はかえって何か言うと生意気なやつだとか責められる。何か自分を主張して言えない文化があり何も言わなくてもわかるとか空気を重んじないものは排斥されるとかもの言えない文化がある。文化というとこのように奥深いのである。もの言わずただ寒さが石にしみいる、これももの言わぬことの類似した俳句となる。これも理屈というのではない、一つの類想俳句である。二つを比べて鑑賞するとより深くみることができる。 ものを言っても寒しでありもの言わなくても寒しであり人の世は生きにくいとなる。
川上とこの川下や月の友 芭蕉
これも類想俳句になる。芭蕉の方は隅田川だからかなり船が行き来しているから川上でも川下でも友を思う川になっている。北上川となると確かに平泉があり交通があったとしてもなかなか川上と川下がそれほど人が通い結ばれていたとはならない、それで冬の月になったのである。
とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも 西行法師
平泉は冬になれば一転してこのような歌がにあう場所だった。皓々と冬の月が冷たく冴えわたり光っているということにもなる。
今日は立春とはほどとおい、しみ入るような寒さだった。
雪の松島-俳句短歌-政宗のこと
走り去る電車や雪に椿かな
みちのくに金の障壁画冬鴎
抹茶飲む観欄亭や冬障子
鴨群れて観欄亭や冬障子
秀吉の威勢及ぶむ冬障子
政宗の伊達も威勢や冬障子
松に雪観欄亭に藩主の座
さしだせし名器の茶碗松に雪
みちのくに島の少なし冬鴎
松島や雪に散り赤し椿かな
尋ねざる奥松島や雪となる
松島や雪また雪や夜の更けぬ
塩釜に海見つ墓所や冬深む
雪となり夕べ遠しや石巻
北上川上の遠きや冬の月
松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも
松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る
小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな
老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海
文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな
大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり
夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも
石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に
葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな
勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな
さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな
小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも
歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。
今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。
これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。
蝋梅に墓に雪積む朝かな
蕗の薹近くで探す退職者
蕗の薹がもうでていた。各地でも出ている。自分の通る道ではみかけなかった。やはり同じ道を行っているからみかけなかったのか、ちょっと道をそれたような所にある。なんでも蕗が一杯しげるところには蕗の薹がでる。そこを知っていて蕗の薹一杯でていたと退職者が言う、退職者というより現役をしりぞいた60代の女性だけど町に住んでいても近くにそうした食べるものを探して料理して食べているのだ。それが楽しみなのである。ともかく田舎だと半分が退職者かもしれない、そしてますます退職者が高齢者だけが増えてゆくのが田舎なのである。なぜなら田舎に住みたいという都会の退職者も増えているからだ。田舎の空家を探している人も多いだろう。都会では蕗の薹を探すことは無理である。また蕗の薹を探すということはやはり退職者は何か生きがいを求める。仕事という会社という生きがいがなくなると新たに生きがいを求める。そのために田舎暮らしが生きがいを与えるだろうという幻想を持つことになる。それが戒められるのもわかる。
そもそもその女(ヒト)は実家は農家でありもともと田舎に住んでいた。それと女性だと地域に溶け込みやすいことがわかる。シルバ-センタ-とかで仲間作りもできるし趣味でも仲間を作ったり仕事でも家の老人と仲よくなり簡単な仕事をさせてもらったりと女性の場合家に入るのも適合力がある。男性はなかなかこうはいかない、退職しても地域にも何か生きがいある場を見出すのもむずかしいだろう。これは人にもよるが女性の場合は適合力あるなと思った。
老後をどうするかは高齢化社会の大きな課題である。高齢化社会の問題は各地でいろいろ起きてくる。NHKのクロ-ズアップ現代の「フ-ドデザ-ト-食の砂漠」というのもそうだった。近くのス-パ-がなくなることは影響が大きい。ここでも遠いがショピングセンタ-がイオンができたことで二軒のス-パ-が影響しているかもしれない、通りはほとんど店が消滅した。水戸とかあんな大きな市で買物もできないとなるのはひどい。車が利用できないとあのようになる。今の社会は車を利用できない人のことを全く考慮しないのである。だから車の運転できない老人は弱者になる。特に一人暮らしの人は買物すらできなくなるのだ。自分も今度は蕗の薹を探しにでかけよう。確かに蕗の薹はある所にはあるのだ。この辺でも近くにあるのだ。
江戸時代の職人の世界では腕一本で勝負していた。 大工調べでは、ある大工のところへ同僚がいくのだが この前俺がいったらあいつ本を読んでいるんだ 字が読めるだけじゃなくて書けるのだ ヤナ奴だね ことによると算盤もはじけるんじゃなかろうかと問いただしたらすまねえって謝るのだ
要するに、学があるのは職人として恥ずかしいという感覚だ。
例えば、飛騨には昔から「貧乏したけりゃええ大工になれ」という諺がある。高山に近い国府町の岡村利衛門邸を作った広田藤兵衛という大工は、施主から与えられた材料で仕事を始めたが、どうしてもその材料に満足できず、色々工夫してみたがうまくいかない。そこで施主には黙って、高山八軒町あたりの材木店へ足を運び、やっと気に入った材料を見つけて普請した。そして、何喰わぬ顔で仕上げて帰った。
どっちみち、大工は貧乏するようにできている」という言葉を残して。こういう言葉の奥にひそむのは、すさまじいばかりの「誇り」なのである。
(飛騨の匠)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujii/s_hidatakumi.html
男一匹、銭を持ってる訳じゃない。境遇に恵まれてる訳じゃない。ただ自分を信じて、腕一本で、たくましく根を張る伊佐次の生きざまに胸がすく。
戦前は職人が腕一本で多くの会社を渡り歩くのが当たり前であった。これくらい短い歴史の中で年功序列・終身雇用・首にされにくい制度が日本の文化によるものだというのは無理があると思う。
昭和の日本には、旧きよき時代を腕一本で支えつづけた男たちがいた。 頑固一徹に磨き上げられた熟練の手技。 愚直なまでにひたむきに昔ながらの手仕事 ... 昭和の男たちは自信と誇りに溢れていた
職人は腕一本の人であり今でもそういう人はいる。そういう人をまじかで見たとき今も腕一本の人がいると実感した。前にも書いたけどその人は庭作りもできるしリホ-ムできる大工であった。いろいろできるからめずらしいし仕事できる人だと見ていた。腕一本というとき腕が太くないと力仕事になるから職人にはなれない、畳職人でもそうだし職人は腕を使うのである。戦前から江戸時代にさかのぼるとそういう腕一本の職人が巷にあふれていた。その人たちは気っ風が良く威勢が良く職人気質であり町の中を誇らしげに自信に満ちて歩いていた。こんなことをなぜ今思うのかというと今はそういう仕事に誇りをもっている人が少ない、見えない、絶えず聞こえてくるのは仕事への不満、こんな仕事したくない、給料が安くてやっていられないとか不満ばかりなのである。職人の世界でもそうだろう。「大工は貧乏するようにできている」・・・貧乏より仕事に誇りをもち仕事にひたすら精を出す、そんな人がいたこと自体不思議になる。大工でも今は会社に雇われている人がいるのだから月給を給金をもっと高くしてくれとなる。自分の収入に今の時代満足している人はいないのである。「腕一本オレはどこに行っても食える」昔は一つの会社に勤める終身雇用などない、そんな保証を求めない、腕さえ良ければ仕事はある、それが誇りとなっていたのだ。一般的に仕事に誇りをもつというとき戦前から江戸時代の方がそういう人が多かった。まだ仕事は細分化されていない、職人でも一つのもの完成品として作っていた。一つの部品を作るのではない、完成品を作っていたことにある。字が読めなくても算盤ができなくても良かった。腕一本仕事一筋に励んでいれば良かったのである。仕事に誇りがもてないということはかなり深刻である。仕事が人生でもありもしその仕事に誇りがもてないとすると人生そのものが否定されるからだ。それで仕事しないニ-ト、フリ-タ-などが増えたのかともなる。
仕事してオレは仕事に誇りをもっている、腕一本で生きている、給金は安いけど仕事が生きがいなんだという人は極めて少ない、嫌々ながら仕事して鬱病になったとか鬱病になる人が実に多い、それは仕事に誇りがもていない、仕事に充実感がないことなど日々の仕事に原因しているのだ。仕事に満足しない人は賃金が安いと訴えることになる。目的は仕事ではなく賃金を多くもらい別なことをすることなのである。なぜ現代の文明の空気が濁っているのか?爽快感がないのか?仕事に誇りをもてない人があふれているからだ。こんな給料で仕事していられるか・・・そういう声しか聞こえてこない、それは否定できないにしろ社会全体がどんよりとした曇り空、鬱病的空になっているのは仕事に満足している人がいないことなのである。仕事がいやでも金のためにはしょうがないとかそういう人が日々仕事しているからこの世はますます鬱病的になっている。出版社で売れる本を作れと言われできないからとやめた人が鬱病になった。売れなければ価値がない、その人の作るものも価値がないとなることが多い社会である。売れなくても価値あるものを作り出すことに意義がある、それができれば鬱病にはならない、現代はまさにそういう点で病的であり社会の空気も鬱病的に濁っているのだ。「腕一本どこでもオレは生きてゆく」そんな颯爽として生きている人がいないのである。ニ-ト、フリ-タ-、派遣と比べると余りにも違っている。そういう人たちがあふれている社会と腕一本で生きてゆくという人があふれている社会はあまりにも違っている。仕事に誇りをもてない人が余りにも多すぎるのである。
働いたら、負けだったのか。
俺はマンホール開けては中に入る仕事をしているが、
もう腰をいつやられるか心配で心配で。
着ている服は役所と同じだから公務員と思われているかもしれんが、
派遣会社からの契約社員で、保険も、年金も手取りの17万から出さなければならない。
腰など痛めてしまったら、労災も出ないだろうし、会社からは放り出されるだろうし
考えると鬱になる。
もう安月給でマンホール持ち上げて臭い中に入るの嫌なんだよーっ。
こんな仕事についた俺はまさに負け。
働かない方がまだいいかも。
マンホ-ルだけではない、こういう人が現代では多いのである。月給が安いこともある。それより仕事に誇りがもていなことが日々憂鬱になっている。それは医者の世界でもあれだけ崇められている人でも給料が少ないとかいろいろ不満なのである。それは逆な見方として自分の腕に誇りがもてないからなのだ。むしろ医者自身より機械の方が優秀なのじゃないかとか思っているかもしれない、オレなんか偉そうにしているけど人間のほんの体の一部しかわからない、でもわかったように偉そうにしていないと医者はまずい、医者もこんな給料じゃやっていけないよ・・・とか必ず金の問題としてすべてが提起されるのが現代なのである。年収一千万でも不満なのか?やはり不満なのだから今の時代、自分の仕事に心から満足している人はいないのである。
要するに自ら働いているのではない、働かされている、働きたくないのだけど金のためにしょうがない、食うためにはしょうがない、人に使役されてもしょうがないとかそうしたいやいやながらの労働に満ちているから鬱病の時代なのである。その影響は社会全体に及んでいるから空気まで濁ってしまうのである。
秋日和(かっこいい、粋な鳶職)
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=33101295
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 |