2014年04月29日

今回の津浪災害の責任論 (一体この世の問題の責任は誰にあるのか?) 今回の津浪災害の責任論 (一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)

 

今回の津浪災害の責任論

(一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)

●責任は個人にとどまらず必ず他人に負わされる

NHKのクローズアップ現代で生前に障害がある子供のことがわかるようになった。
それで中絶する人も多くなったがあえて産む人もいた。
その判断には悩んだというのもわかる。
障害者を産んだら生涯めんどうみなければならないのか社会でどう受け入れられるのかと悩んだ
それはすでに一個人の問題ではない、社会の問題でもあった。
社会で障害者をどう受け入れるのか、そんなやっかいな子供を生んでくれるなという
社会の要請もある。社会での負担も大きいからである。
すると産むか産まないかは個人ですら決められない、
個人ですべて負担しきれないからそうなる。
障害児を産み育てることは他人が無関係ではない他人もかかわる問題だったのである。

だからつくづくあらゆることの責任は誰にあるのかとなる。

離婚にしてもその影響は子供も一番受けるし回りも必ずまきこむのである。
離婚は別に二人だけの問題であり二人が責任をとればいいとはならない
子供も大きな傷を受けるし影響も受ける、回りも大きな影響を及ぼす
必ず離婚でも回りをまきこみ混乱させる。
親戚も混乱するしいがみあいにもなる。
だから離婚も二人だけの問題ではない。
その責任は二人だけではなく他者にも及ぼすのである。
そしてあまりにも無責任な結婚と離婚が多すぎるのである。
その責任は本人は負わない、離婚してすぐ生活保護を受けるとかするものもいる
そうした個々人の無責任な態度が社会の負担となってゆく


これは借金でも同じである。
見栄から借金しているのが実に多い、身の丈にあった生活をしていれば借金する必要はなかった。
でも借金して見栄を張り成功者を装っていた。
その責任は本人がとらない、他者に責任転嫁される。
その被害者が自分でもあった。
病気の時まで相手は借金で追い詰められているから自分を助けるところではない
「金をだせ、金をだせ・・」と請求される
弱者であり前からの関係もあり助けるものと思って頼った。
そしたら軽く一千万の機械を買ってくれとか要求してくる
何か頼めばそれだけの金を要求する
もし車を頼めば一回百万もとられるかもしれないような恐怖だったのである。
相手はそう思っていなくても事業している人の金銭感覚はそうなのである。
だからとても頼めないと思っていたがなりゆき上頼らざるをえなかったのである。
こうして人は自分の責任をとらない、他者にその責任をおしつけるのだ。
自分の弱さにつけこんで火事場泥棒にもあったし
こうして借金の要求をされて苦しめられたのである。
脅迫罪とは実際には害を与えなくても恐怖心を与えたことで罪に問われている。
だからこうして恐怖心を与えたものも罪に問われる
恐怖心を与えたものは何も感じていないのである


●津波災害の責任を誰に問うのか

今回の津浪原発事故の責任も一体誰の責任なのだろうか?
天災となれば責任は人間側にはないからあきらめるほかない
でも簡単にそんなであきらめつかないからいろいろ責任論がでてくる
古代だったら天皇に責任があったとか王様に責任があったとか
王様自体が責任をとらされて殺されたということもあった
それだけ被害が大きいから犠牲が必要になったのである


●津浪は天災だから責任が問いない
●津浪を警戒しなかった住民が責任がある
●津浪を警戒しないで逃げない住民に責任がある
●気象庁やマスメデアがNHKが適切に警告しなかった
●これは無念の死者の怨霊
●人心の乱れによる人間世界に対する罰としての災害
・・・・・・・・・

その責任を問いば一つではない、様々な複合要因でそうなったとなる
死者の怨霊とかは馬鹿げて非科学的だとも現代では批判される
でも相馬藩で700人溺死と一行しか記されないことが
今回の津浪の被害を大きくしたことにも通じていたことは確かである。
その責任は誰にあるのか、為政者にもあったとなる。
400年前の人に責任があるのかとなればそれはもう問うことはできないにしろ
400年前まで責任を問うのが歴史だということも認識されたのである。
その因果が400年前までさかのぼって問われたのである。
歴史の因果とはそうし千年でも二千年でも現代に影響しているということなのだ。


人心の乱れもそんなもの自然が起こすことであり科学的な法則として起こってくる。
プレートは人間の世界とは関係ない地球の規則的運動であり人間の世情とかとは関係ないというのもある。
でも本当にそうなのか?人間界が乱れる時自然も乱れることはありうる。
自分の一身上のことも関係ないのか?
なぜ自分はこんな非情な目にあわねばならなかったのか?
それはお前のカルマであり自業自得だとも言える
でもそうした非情があり呪いつづけたとき津浪原発事故が起きたのである。
他人の一身上のことなど関係ないというが自分にすればそうではなかった
そういう非情な目にあったときやはり自然も非情になり怒ったともとる
だから古代に無念に死んだ人の怨霊を恐れたというのもわかる
その怨霊と自然災害を関連づけたのもわかる。


貞観津浪や慶長津浪といった大津浪が起きた時は日本の歴史では混乱していた時代である
蝦夷征服で大和政権に殺された蝦夷の怨霊が問題になったのもわかる。
慶長津浪では戦国時代でありここでも時代は乱れ混乱していたのである。
その時は人心が乱れ殺された人たちの怨念に満ち満ちていた時代だったのである。
戦国時代から鎖国の300年は貧乏でも人心は安定していたのである
だから大災害も比較的起きていないのである。


明治維新以降は西欧化され日本的なものが否定され日本人の心は乱れた。
三回も大戦争があり犠牲者があった。
太平洋戦争では300万人死んだとか犠牲者があった。
明治以降は人心が歴史上最も乱れた時代なのである。
戦後60年は経済成長の時代であり確かに平和がつづいた。
ただこの高度成長時代は金だけが唯一の価値となり人間は非情化した
だから人心はやはり乱れていた。
そうして60年後に津浪原発事故が起きたのである。

 
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2014年04月28日

人間は自ら痛みがないと無責任になる (100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)


人間は自ら痛みがないと無責任になる

(100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)

津浪で家を流され家族まで失った人たちがこの辺でもかなりいる。
でも不思議なのはそうした同じ小さな町に住んでいても津浪の被害のない人は
その痛みを感じていないことなのだ
だから海老の浜で別荘があり他にも家があって流されたな・・・
あの別荘は一千万で売り出していたけどゼロになったなとか
そこで家族や家を失った人たちの痛みを感じないことなのだ
なぜなら津浪で何の被害もない人は感じないのである。

でももし人間は自分の金を百円でも千円でも盗まれたら頭に来る
それは金持ちだって同じなのである。
それは自分の金だからである。

ところが他人のものになると一千万で売り出された家も津浪で流されたな
もったいなかったなとかは言っても本人は全然痛みを感じないのである
だから被害にあった人からすればずいぶん非情だと思うだろう
現実に村自体消滅したような所でも同じ地域に住んでもそういう面がある
そうしたら他から来る人は興味本位で見に来る人はいくらでもいる
観光気分で来る人はいくらでもいる

それでも千円でも寄付しろとなるとそうはならない
なぜなら自分の出す金だから痛みをともなうからだ
すると千円でも寄付すれば痛みをともなうことになる
そしてその金がどういうふうに使われるか千円寄付した人でも考える
よそ事としてではなく自分の痛みがあるから真剣に考える
その寄付がどこかに寄付を集める人に勝手に使われるとかあると
千円でも寄付した人は怒ったりするのだ
それだけ寄付した人は当事者意識が生まれている。

ともかく何でも自分で金を出さない人は自分に痛みがともなわない
例えばある人は一千万盗まれたとか言っても何の痛みもない
それは他人の金で自分の金ではないからだ
でも盗まれた本人にすれば金持ちでも痛みがともなう
なぜ官僚が莫大な国の税金を無駄使いするかというと
国民の税金であり自分の金ではないからなのだ。
何兆円の金でもそれは自分の金ではない
もし自分の金から出していたら千円でもどう使われるか真剣になる
そういうふうに痛みをともなわない金は無駄に使われやすいのである


なぜ人は他人の苦しみに無関心なのか?
それは自分が何の痛みも感じないからなのだ。
人が殺されても痛みを感じない
でも自分がその被害者になったら死ぬまでも延々と恨みつづけるだろう
ついに復讐して殺すということもまでも毎日思いつめる
でも他人は痛みがないからそんなに恨んでも無駄だとか他人事として言うだけである。

だから同じ地域に住んでも家族が死んで家が流された人たちの痛みを共有していない
それは自ら何ら痛みを感じていないからである。
むしろ家と土地ある人はこの辺は値段が上がって良かったなとかなる
人間はつくづくそうして利己的なものなのである。

他人が一千万盗まれようが殺されてすら無関心なのである
盗まれる方が殺される方が悪いんだとかなり無責任でいられる。
それは自らが何ら痛みを感じないからである。
だから日常的に他人の苦しみには無関心なのである。
津波の被害者もあんな危険な所に住んでいたのがあまりにも無警戒だった
住んでいる人もにも責任があった
原発事故でも周辺地域は責任があり自業自得だとか言われるのである

具体的に金を払うということは金持ちでも痛みをともなっている
ただその金がどういうふうな金なのかでまた相当に違っている
百万円を建築現場で汗水流して危険を犯しても稼いだ金と
遺産のように何の苦労もしないで入って来る金は違っている

だから若い時苦労して土地と家を買った人は
その家に特別愛着があり離れたくないという

ところが遺産として家をゆずり受けた人にはそういう気持にならない
なにか家に住んでいても間借りしていたよう気分なのである。
その家を建てるために何か努力したわけでもなく
痛みが苦労がともなっていないからである。


でも結局、津浪の被害にしても家族や家を流された人たちが
その現場に立ってどういう思いになるのか?
それはその本人しかわからないのは被害のない人には痛みがないからなのだ
故郷を離れて避難した人たちでもあいつらは補償金でぜいたくしている
それらは国民の税金であり、多少でも自分でもその税金を出している
なんであんなに補償金がもらえるんだとかなる
反面避難した人たちもなぜこんな苦しみを受けねばならないのかということがある
その痛みもなかなか他者にはわかりにくいからである

つまり人間は他者に同情するとき、自らも痛みをともなわないとできない
それは一つの犠牲になる。
千円でも寄付すれば痛みがともない犠牲ともなる

つくづく他人の金だと無責任になる痛みをともなわないからそうなる
金は具体的に痛みをともなうものだからわかりやすいのである
どんな金持ちだって勝手に金を出さないのはそれなりに痛みをともなうからである
身銭を切るというのはそれだけ痛みをともなうのである。
それは貧乏人だったら百円の寄付でもすれば痛みがともなう
その差はあるにしても金持ちが全く痛みをともなわないかというとそうではない
その度合いは違っていても痛みがある


人間が他人の苦しみや不孝に無関心なのは痛みをともなわないからである。
少しでも自らが痛みを感じれば無関心ではなくなる
百円でも千円でも寄付すると痛みをともなうから違ってくる。
その時苦しんでいる人と不孝な人と共有するものがでてくる。
ただ口でかわいそうですねとか言ってもそこには痛みがともなわないからだめなのである
現実はその女性は口だけでは盛んに心配しているんだよとか言っているけど
全く愛情もなにもなかった
だから自分たちが借金で追い詰められるようになったとき
入院して苦しんでいる自分に借金を要求してきた。
一種の恐喝だったのである。
それには弱い立場にあったから逆らうこともできないから恐怖だったのである。

痛みをともなわない同情は同情にならない
でも千円だって人間は寄付したなくないのが普通である
自腹を切る、身銭を切ることがいかに少ないかでもわかる
他人の金なら税金なら湯水のように使うが自分の金だったらそんなことできないのだ

だからボランティアなんか無駄だというがそうでもない、
泥を運び津浪の被害の家で手伝ったことはそれなりに労働という痛みをともなっていたからだ。
だから人間は自ら痛みをともなわないと不孝な人たちとかかわれないだろう。
ただ歌を歌ったりしていたのでは痛みがともなわないから同情したとはならない
かわいそうですねとかは誰でも言うことができる、でも痛みをともなうことはできない

百円すら寄付することをしぶるのが人間なのである。
ただ何か痛みを犠牲をともなえば不孝な人たちと深くかかわってくる
それは大きな犠牲ではなくても百円の寄付でもそうだったのである。
百円すら一体どう使われるのだろうかと無責任にはならないのである。
一兆円とかでも自分の出した金でないとなんら関心がないのは自分の金ではないからなのだ。
この世のことを考えるときやはり金というのは具体的わかりやすいから例にされるのである

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2014年04月27日

歴史もカルマだった (個々人にも国にも報いは必ず来る)

 

歴史もカルマだった

(個々人にも国にも報いは必ず来る)


歴史は繰り返すという時それは個々人のカルマと同じだった。
カルマの法則は厳しいし逃れることができない
カルマを意識しないことが多いがいづれは意識される
相馬藩政記に慶長津浪で相馬藩内で700溺死と一行記されていた。
それが見逃されていたのである。
それが今回カルマとなって同じ被害が生まれた。

しかし400年前の慶長津浪のことを知っている人はまれであり
海岸に接して住んでいた人もほとんど知らないだろう。
でもすでに400年前でも人が住んでいたからそれだけの被害があったのである。
この事実がほとんど看過されていたことの不思議である。
例えカルマは意識されまいが忘れていようが必ず現実化して起こる
カルマはいづれ個々人でも集団でも国単位でも意識される
カルマを逃れることごまかすことができないのである。

700溺死とあるときその頃の相馬藩の状況は戦国時代であり戦争のことや
跡継ぎ問題が主要な政治のテーマだった。
だから誰々が・・戦いで死んだとか跡継ぎの問題はことこまかに記されている。
しかし慶長津浪で死んだ人たちのことはただ700溺死としか記されなかった。
そこに為政者の大きな問題があった。
報道でも報道されないことが多々ありそこにマスメデアの問題が指摘される。
歴史でも常に戦争のことは大きく記されるが日常的な庶民のことは記されない

ドラマでも面白いから戦国時代のことは多く放送される
その他のことは放送されにくい、地方の歴史は全国版ではドラマ化されにくいのである。
今回相馬藩で津浪が起きたことか注目されたのは実際に津浪の被害があったからである。
だから相馬藩内で起きた700溺死という事実は大きな一つのカルマになっていた。
それが今回の津浪で否応なく意識されたのである。


個々人でもいづれはカルマを意識させられる。カルマの特徴は意識されないことなのだ。
自分になぜこんな苦しいことが起きるのだろうというときカルマか関係している。
この7年間の自分の苦しみも自分のカルマを清算させられるために起きたことが意識させられた。
なぜなら自分はそれだけ親に世話になりカルマを積んでいたのである。
なぜこんなに介護で苦しまねばならないのか?
そう問うとき、それは自分のカルマだったのである。
なぜ個々人でもこんな目にあわなければならないのかと問うとカルマだったことがわかる
カルマとは法則であるから原因があれば結果として必ずでてくる。
だからカルマから誰も逃れることができないしカルマの清算を要求される
借金がごまかせないのと同じく厳しくカルマの返還を要求されるのである。


歴史のカルマというと国でも大きいからわかりにくい、でも今回のように災害も単に自然の作用であり
人間にはどうにもならないとういことではなかった。
もし400年前の相馬藩内で700溺死ということを絶えず意識させられていたら
こんな大被害にならなかったかもしれないのである
カルマの特徴は個々人でも国単位でも意識しにくいのである。
わかりやすいのはアメリカが日本に原爆を落としたことは逃れられないカルマなのだ
だからアメリカは日本を恐れている、それはあまりにも歴然としたカルマ立ったからである
そのカルマはいつか返すことを要求される。
アメリカに原爆が落とされてカルマが清算されることになるかもしれない
そういう恐怖をアメリカからぬぐいさることができないのである。


戦争は何なのか未だにわかりにくい、善悪でも判断しにくい、戦争自体が人類のカルマになっているからだ。
だから何度も戦争というカルマをくりかえし人類は滅びるということも予言される。
日本の戦争にしても全部日本の非があるわけではない、
全体の当時の世界の政治関係で起きたことなのである。
だから日本だけを責めるのはかたよっているしアメリカも責められるべきなのである。
喧嘩両成敗なのが歴史でも同じなのである。
一方的に日本だけの非を責めるのは偏ったものとなるのだ。


ともかくカルマは意識されないことが一番の問題なのである。
歴史的に相馬藩内で700人溺死したという事実は大きなカルマだった。
ただそのカルマは400年の間に意識されず忘れていったのである。
当時の相馬藩の指導者も何か後世にとって重大なことかを記さなかった。
ただ跡継ぎ問題や個々の戦争のことばかり記していたのである。
その時700人溺死した民衆の苦しみを何も記さなかった。
それがある意味で怨霊ともなり今回の大被害にもなった。
何らの供養するものもなくただ忘れられ消えてしまった無念があった
だからカルマの報いは必ず来る
意識されなくても忘れてもまた再び歴史は繰り返し事実として起きてくる。

 
 
 
posted by 老鶯 at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月26日

慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡 (この事実の重みを知っていたのか)


慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡

(この事実の重みを知っていたのか)


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも

今回の津浪の被害で盛んになぜあんな危険な海岸に接して人が住んでいたのだろうと何度も言われる。
今になるとそれは当然である。
ただ浜通りなどではほんとんど津浪のことが語られないのだ。
確かに伝説のようなものが二三残っていた。
それについても知っている人は極まれだったろう。
でも相馬藩政記に700人溺死と記されていたことは今になると重大である。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この事実は今回の津浪と同規模だったのである。
この事実に一番驚愕しなけれはならなかったのは誰か?
それは今回津浪の被害にあった海岸に接して住んでいた人たちだった

津浪は毎日海を見ている人にとっては本当と一番怖いものである。

相馬藩でも宮城県でも海に面していても例えば自分の南相馬市でも
海岸に接している住んでいる人たちとそうでない人たちがいた。
海をじかに見て毎日暮らしている人たちとそうでない人たちがいた
今では松原などがあり海はさえぎられて見えない
海が見えないということは海を毎日意識することはない

ところが海に直接面して日々海を見て暮らしている人たちがいる。
この辺の浪は荒いからその浪の音を毎日聞いて寝る人たちもいた
その人たちにとって海は怖くないかと感じていた。

ただ自分もよく小学校前までゆくとそこからは人家が少なく
田んぼが海まで広がっているのでその小学校前まで浪にのまれる夢を見ていた。
今から思うとそれが津浪だったのである。
自分の住んでいる街は海からは相当離れていると思っていた。
だから海に対する意識は海に接して海を毎日見て生活している人たちと
海が近くても海が見えない浪の音も聞こえない
地域に住んでいる人たちの意識は相当に違っている。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


慶長津浪でこれだけ死んだという事実を知っていれば恐怖感は違っていた。
それが毎日海を見て荒い浪の音を聞いて眠っている人たちが
この事実を知っている人はいたのか?
郷土史を研究している学者でも自分でも知らなかった。
この一行が注目されたのは今回の津浪か起きてからだったのである。


ただ時事問題の深層で相馬市の奥まで津浪が来ていてその砂が
ボーリンク調査で発見されたということを興味本位で自分も書いていた。
そんなところまで津浪が来ていたのということはあったが真剣に考えなかった。
それは貞観津浪の砂だったのであり400年前の慶長津浪ではなかった
もし400年前の砂だったら歴史的記載の事実と一致するから危機感をもったかもしれない。
貞観津浪のことは国史にも記されて京都の人たちにも知らされていた。
だからそのことは全国的に知られていたのである。
だから東電に警告したのは貞観津浪のことであった。
慶長津浪のことではないし相馬藩政記に700人溺死と記されたことを例にしていない


結局歴史の重大な事実でもそれが注目されていなかった
相馬藩政記にはことこまかに跡継ぎ問題や戦争のことは記されている。
でも700人溺死という事実は注目されなかったのである。
そのことに一番恐怖すべきは海岸に接して住んでいる人たちだった。
松川浦であれ海老村であれ烏崎村であれ萱浜であれ・・・
その海岸に接している人たちはその事実を知っていれば恐怖しただろう
それは宮城県地域ではさらにそうだった。


結局本当に当事者になるのは同じ地域でも地域によって違っている。
原発でも毎日原発の煙突を見て暮らしている人とそうでない人たちは危機感が自ずと違っていた。
南相馬市でも30キロ離れていたから自分では危機感をそれほどもたなかった。
となると危機感をもつべきだったのは津浪でも原発事故でもすぐ近くに住んでいた人たちとなる。
ただ飯館村などはそうした危機感とは遠い所にあった。
それは原発というものがどういうものかわからないことにあった。

津浪の後には被害者は海が怖くて近づけないとか津浪がトラウマになって
精神障害に陥っている人たちが紹介された。
それはこの辺でも3キロ離れたところで津浪の被害にあった人は海が怖くて近づけないという
何か幽霊でもさまよっているようで夜が怖いとか言う

実際に津浪の被害にあった人達とあわない人たちの差も同地域では大きい。

「八沢浦が元の美しい入江にもどった」ということを書いて被害者がここで泥に埋まった
子供の死体を発見されたのだと正気なのかとも批判された。
つまり同じ地域でも津浪の被害にあった人たちとあわない人たちは違っているのだ。

これは別に津浪でなくても日頃でもそうである。
人はいろんな困難に出会うし苦しみがある。
でも自分に関係がなければ無関心なのである。
あそこの家で何かあったのとかなるだけなのである。


だから今回も海老の浜が津浪の跡にタンポポが一面に咲いていて
明るさに満ちていたなどと俳句にした。
以前としてそんなことが言えるのかと被害者の立場にたてばそうなる。
ここで家族や家を失った人たちよすれば何が明るさに満ちているとなる
以前としてそこに長くいられなかったとかなる。
では自分もそういう気分になれというのだろうか
暗く沈んで悲しいふりでもしていろとなるのだろうか?
これもまた疑問なのである。
あえて喜ぶ必要がないけどやはりタンポポか一面に咲いていることは明るく感じたのである。
津浪の被害にあわない人たちは同じ地域でもそうなるからその差が大きいのである。


同じ地域に住んでいてももっと海側に住んでいた人たちは今になると
津浪のことを知って恐怖すべきだったとか言われる。
それは浜通りでも松川浦とか海老村とか烏崎村とかは海に接して家が密集していた。
だからその人たちと海から離れて住んでいた人たちの感覚は違っていたからである。
人間はやはり当事者意識が生まれるのは同じ地域でも違っていた。
犯罪でも近くで凶悪な犯罪が起きればテレビのニュースで遠い所で報道されるのとは
違った危機感をもつのと同じなのである。


歴史とはもともとは事実を基にしている。
その事実が忘れ去れる
何が事実かもわからなくなる
今になれば


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この慶長津浪の事実がいかに重大なことか再び事実でもって証明されたのである。

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芽吹き(六号線を朝走る)


芽吹き(六号線を朝走る)

rokugousen.jpg

六号線朝に走りて芽吹きかな
六号線軽快に飛ばし朝桜
六号線真っ直ぐに走る朝燕


六号線を相馬市まで朝に自転車で飛ばして走った。
軽トラックもっている人にコメリに苗木があるからと行った。
軽トラックには二人しか乗れない。
三人で行ったので自分は自転車で往復した。
かなり飛ばしたのであとで体が痛くなった。


ただ自転車でも早く走ると爽快になる。
電動自転車は坂でも軽く走れるしスピードもでる
すると見える景色も違ってくる。
芽吹きの樹々や桜がまだ映えている。
それらが視界に入ってきては遠くを目指して走る
相馬市までは原町の倍はあるので遠い

人間の感覚では道とかスピードで見えるものが違って見える。

六号線は何かゆっくり見て歩く道ではない
車の道だから飛ばす道である。
そこから見える景色は違ったものとなる。
走る速さとともに景色が移り見ているのだ。
ただ車ではそうした景色を見る人は少ない
なかなか危険だから景色を見ていられないのである
だから自分は景色を見たいから車には乗らない

車に乗っている人は電車に何十年と乗っていないという
乗り方すらわからなくなっているというからそうなのかと思う
一旦車を乗ったらそれだけもう電車は不便なものとなっていたのである。
車については自分はほとんどわからないのである


一人暮らしの老人が三人集まったのは境遇が似た状態になったからである
みんな一人暮らしでありそれぞれに困っていた。
男二人は家事や料理で困っていたから女性の人に教えられたりして役立つ
その女性は話を合わせるのがうまい
いろいろ惣菜を作ってくれるので今は買っている
75才の老人は車を二台もっている
だから軽トラックがあり荷物を積むのに便利である。
何かしら補い合うものがあり集まった


ところが人間はそうして何か困ることがない人や補いあうものがない人
そういう人は人が困っていても無関心なのである。
だから夫婦である人は一人暮らしとか独身とかのことに無関心である
そういう人は何ら協力しようとはしない
食事でも家事でも困らないからである。
ただ一旦妻が死んで家事に困ったりすると違ってくる
なんとか助けが欲しいとなるが
そういう人にふさわしていのは夫婦ではない
一人暮らしの女性がふさわしいのである


自分は自然と深く交流したいとなるとき、庭作りをしたかった。
ただ庭は狭いのでここではたいしたことはできない
狭い庭でも結構な労力が必要になってくる
水をいちいちやるのも手間になる。
それは家事全般を一人でやっているからである
一人は介護だからなおさら忙しくなる
介護はショートスティで休めるかと思ったら休めない
なんらかの連絡が必ずくるのである
近くだからこそ対応できて自転車で行けるからいい
遠いとまためんどうになる


六号線は実際は東京まで通じて活きたものとなる
だから本当は前とは違っている。
長距離トラックは走っていない
でも車の数が減っているようにも見えないのである
こんなに近くでも車を使っていたのかとわかる
それだけ車社会なのである
ただ車をもたないものは車について理解できなものがあるのだ
だから実際の生活では取り残されているという面がある

車がないと現代では弱者であり貧乏人になる
とういうわけかだから車がない自転車の人と親しくなる
普通は貧乏人と貧乏人が親しくなるのとにている

ともかく天気がいいから外出して遠出に向いている季節である
自分の場合はやはり自転車で走っている時は一番気持いいとなる

 

2014年04月25日

タンポポの原になった海老の浜の朝


タンポポの原になった海老の浜の朝

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タンポポの明るさ満ちて朝の海

タンポポの野に満ちわたり朝雲雀

コチドリやタンポポに映え朝の海

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海老村の津浪の跡にはタンポポに埋めつくされていた。
これもまた不思議な光景である。
これも批判があるかもしれないが海老村は何か海としての魅力が欠けていた。
右田浜は松原があり魅力があった。
海老村は前は漁港とか船が出入りして海と関係していた。
その後は海が見えても海の生業はなかった。
だから海老となっていると何か海と関係しているようでもなかった。
砂浜もなかったから余計にそうだったのである。

だから津浪で全部家が流された時、元の原野に還ったら
そこから海が全面的に見えるようになった。
家があるときは海は家にさえぎられて見えなかった。
松原があるときも海は見えなかったのである。

海老村は海岸に接した方ではない方がもともと広かった。
そこには高台もあり今は家が次々に建っている。

海岸に接して家が密集したので被害が大きかった。
なぜ海岸に接して住んだかとなれば
やはり海の生業があり便利だったからである
それは烏崎村でも同じだった。
八沢村でも海岸に接して30軒もあったのだから
もともとあそこには港とあるから海の生業があった
それらが根こそぎ津浪で消えた


コチドリがあんなふうにしてまじかで見たことかない
そもそも砂浜が消失していたから海の鳥が観察しにくかったのである。
津浪の跡が原野化して海の鳥が飛んできてコチドリとわかった。

千鳥は有名だけどこれは万葉集でも鳴く声に注目されていたのである。
でも現代では千鳥の鳴く声を聞くということは自分にはなかった。
そういう静寂の風景が失われていた。
また砂浜などがないから余計に千鳥が見えなくなっていた。

だから津浪の跡が元の自然に帰るというのも不思議な光景なのである。
こんなことを書くとここで死んだ人をどう思うのかとかなるが
一面にタンボボ咲いているとやはり気持いいとなる。
そこで家族を失った人はまた違った感想になる。


海老村の不思議は高台に墓地だけが津浪からまねがれ残っていたことなのだ。
この逆だったら良かったのである。
墓地が残っても肝心の生きている人間の棲家が失われてはなにもならなかったのである。
津浪は海老は高い所にあってもあそこは津浪が高く襲ってきたという。
だから被害も大きかったのか、今でも無残ななぎ倒された松の跡が残っている。


とにかく春も終わり夏めいてきた。
霊山にも上ったから今は結構健康を感じる
この世で健康ほどありがたいものはない
特に60以降は本当に健康が一番大事である。
金があっても健康なくなると悲惨なことになる
なんかまだ自転車旅行でもできる感じだ。
電動自転車だと楽だからできるかもしれない
体が痛くなることはあるができないことはないかもしれない
やはり海の見える所は朝が気持いいのである。

 

2014年04月24日

原発事故と酷似していた韓国フェリーの沈没事故 (事故が起きる原因には共通性があるのか?)


原発事故と酷似していた韓国フェリーの沈没事故

(事故が起きる原因には共通性があるのか?)




今回事故起こした海運会社の安全教育費は年5万円
宣伝広告費には年1200万かけてたらしい

「電源喪失」が転覆の原因になったのではなかろうか?


50センチ以上重心位置の上昇したケンチャナヨ改造の船、
3倍以上の過積載、バラスト水を減らして海流の複雑な海域を
遅れを取り戻そうと高速航行・・・


そんな事故ってあたりまえの状況下で、日本の造船技術で装備した
フィンスタビライザーが必死にバランスを保っていのだけれど、
超汚染塵のケンチャナヨ整備で装置の電源喪失が起きたら?

http://ai.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1398264738/


合計173隻のうち、セウォル号のように日本で造られた旅客船は17隻だが、
海洋水産部はこれら17隻が全て中古船であることを把握している。

船が古いほど内部の操縦装置が腐食しており、故障を起こして事故原因となる可能性が高くなる。

古い船が増えた決定的な理由は、政府が1990年代以降、船齢制限を緩和し続けてきたことだ。
1984年から91年までは沿岸旅客船の船齢は20年に制限されていた。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1398042935/l50


 旅客船「セウォル号」の沈没で、韓国の検察は、船を保有する
清海鎮海運の株式の約40%を保有する実質オーナー、
兪炳彦(ユ・ビョンオン)氏の関連企業など関係先約10カ所の家宅捜索に着手。
系列会社13カ所の役員約30人を出国禁止処分とした。



沈没した主な原因


●老朽化して機械が故障しやすくなる

●外国製だとその技術を導入しても使いこなせない
●安全よりコスト重視になる
●社長や幹部が巨大権力(政府など)と結託する
●カルト宗教団体などかからむ

今回の事故の原因が原発事故と酷似していることに驚いた。
まるでその原因が数式のように化学反応のように一致している不思議である。
マーク1の原子炉はアメリカから導入した古い型のものであり危険だと言われていた。
それでもあえて導入した。
そしてすでに40年とかたち古くなっていたのである。
何でも機械は古くなると事故が起きやすい、原子炉だけではない配管なども古くなり
そこから放射能がもれるとかの事故になりやすいのだ

今回の韓国船は日本製だったけど日本には問題はなかった。
でも改造したりしたことが事故につながった。

安全を計る時は自前の国産でないとできない。
外国では環境も歴史も風土も違うからそれに合わせることが外国製だどできないのであ
日本の鉄道は国土が狭いから線路の幅が狭くなる。それは大陸のように広い土地でないからそうなる。
風土の制約を必ず技術でも受けるのである。
するとその国に見合った技術を養成するのはその国の技術者だとなる。
外国人にはできないのである。


「安全よりコストが重視になる」というときこれも東電と全く同じだった。


今回事故起こした海運会社の安全教育費は年5万円
宣伝広告費には年1200万かけてたらしい


東電は千億くらいの宣伝費を惜しみなく使っていた。それだけの財源があった。
つまりそれだけの経済的権力をもつことが安全をないがしろにする。
コスト重視とするには安全をないがしろにしても宣伝費でごまかすことができる
だからマスコミの宣伝費用に湯水のように金が使われた。
中国に幹部かマスコミの要人を招待していた時、原発事故になったのも何かの因縁だったのである。


そして東電は政府権力と完全に結託していた。
韓国でもこの船会社のオーナーから献金を受けていたとかが問題視される
それは東電でもまるで政府を金で買い取ったように
検察から警察からあらゆる官僚の天下り先になっていたことでもわかる
これも原発事故の原因と酷似しているのだ。


さらに不可解なのはキリスト教系のカルト教団とも関係していたということである。
これも加わるとオウムのように創価のように奇々怪々になる。
背後にカルト教団が介在していたということもやはり現代では権力操作で不可欠になっている
なぜ高校生が船長の命令で船内にとどまっていたのか?
その肝心の船長は脱出していたのである。
その高校生もカルト宗教団体の生徒だったのか?
だから命令に忠実で船内に待機するように言われて待機していた。
それよりも高校生だから先生でも何でも命令に従順だからそうなったととれる。

このカルト教団は企業化して社長が巨額の資産家となっていた。
これもカルト教団に共通していることである。

そんな危険なことが許されていたのは政府へに献金をしてワイロを送り権力を操作できたからだとなる。
そもそもカルト教団などは権力をもち権力を操作して富を社会の地位を得たいというのが動機である。
そのためには企業化するということがある。
政治経済の実験をにぎることは権力を操作することができるからである。


不思議なのは


「電源喪失」が転覆の原因になったのではなかろうか?


原発事故でも何度も全電源喪失、電源喪失と叫ばれた。
ここも同じだったのである。今の機械は電源が喪失すればもう終わりである。
手のほどこしようがなくなということである。
電源喪失とエネルギーがなくなるということである。
世界も文明も電源喪失で終わりになるということである


この世で重大な事故が起きることは世界的に共通しているかもしれない
戦争などが起きるのもこうした仕組みのなかで行われる。
支配者は権力を操作して大衆を動かすことを考えるからである。
だから天皇が実はカルト宗教団体の教祖であったという昭和天皇批判も今はなされている
日本国民がカルト宗教団体化していたという見方も成されている。
教祖のために死ぬというのはオウムでも他でもあるだろう。
実は船長がいち早く信者かもしれない人たちを見捨てたように
日本でも指導者は国のためになど死なない

だから戦犯でも生き残り戦後も権力を得た政治家がいる
岸信介とか松力正太郎などがそうであり中曽根首相もそうだった。
そういう人たちが原発を導入したのである。

だから世界的にみても権力を操作したいということで国はゆがめられる。
共産主義とか大儀名文を言っても現実は権力を得たい求めることがあるからそうなる

それは何も幹部だけではない、底辺層でも同じである。
なぜこんなに貧乏なのだとかなぜ損ばかりしているのだとか
なぜ低賃金で使われるだけなのかとか大衆の底辺層には不満がくすぶっているからだ。
そういう人たちの不満をテコにして権力を奪おうというのか世界でも常に起きているのだ

「社会主義は魅力ある目標ではあるが、権力の集中は、資本の集中と同じ程度に危険である」。


権力を集中させないために三権分立が生まれた。富の集中でも権力の集中でもそこに腐敗が生まれる。
絶対的権力は絶対的に腐敗するというのも真理である。
カルト宗教団体でも巨万の富と財力が集中させて何をするのだろという疑問をもつべきなのである。
宗教にそもそもそんな巨大な権力が必要なのかという素朴なの疑問である。

結局権力を求めない人が欲のない人が権力のある地位につけばそうはならない
だからみどりこに治めさせよと聖書には書いてある。
みどりごは欲がないから権力で悪さをしないからそうなるのである。
猫や犬にでも治めさせろともなる、なぜなら猫や犬も欲がないからいいのである。
人間の欲望は限りなく権力をもてばまた権力を自分の欲望のために使うだけになる。
そういうことは人間の業として繰り返してきたのである。
でも人間の欲望は消えることがないからやはり同じことが繰り返される。

宗教せあぜこれほど権力の道具のうよにされるのか?
拝めばなんでもかなえてやれる、女も金も地位も何でも手に入る、それが大衆カルト宗教になっているのだからどうにもならない
そうだからこそあれだけの数が集まり権力化してゆくのである。
それが原発事故や今回の韓国のフェリーの沈没事故にもつながっているのである。
人間は欲で滅びるという時、今回の津浪でも原発事故でも韓国船のの沈没事故でもそうであり
巨大な文明的災厄が起きて滅びる運命にあるのだ。

posted by 老鶯 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年04月23日

飯館村の大倉から佐須村へ (放射線量は高い所で5だったーなぜ帰りたくないのか?)


飯館村の大倉から佐須村へ

(放射線量は高い所で5だったーなぜ帰りたくないのか?)


00007.jpg

この下の土はとっているからみんな低いのである。
これを大成建設の社員がしていたと飯館村の人が見ていたのである。


1.25.jpg

このすぐ近くではこれだけあった
たいがい放射線を計るモニタリングボストは低い値にある

ただ大倉村は低い 、ダム周辺の一部は高い

5.10.jpg

5.09.jpg

佐須村の牧草地ではこれだけあった



2011/08/17
21:40

福島原発事故後、大量のネプツニウム239が飛散し、総量は76兆ベクレルとIEAEに報告された。
このネプツニウム239が原発敷地の正門付近と飯館村と差がないくらいの値が観察されたという記事を英語で読んだ。

ネプツニウム239は極めて短命(半減期が2.4日)でβ崩壊して半減期2.4万年のプルトニウム239になるので、今はほぼ全量がプルトニウム239になっている。
http://sakuradorf.blog.fc2.com/blog-entry-136.html

放射線量というのも実際は計られないものもあり自分にはわからない。
計っているのは主にセシウムなのだろう。プルトニウムのようなものは計られていないからどう判断していいかわからない、
原発敷地の正門付近と変わりないものが値が観察されたということは恐ろしいことである。
飯館村はそれだけ被害が大きかった。
ただ前にも計った時は草野辺りでは半分に減っていた。
それはあくまでも主にセシウムなのである。他は計られていないのだ。


真野ダムでも泥の所は5マイクロシーベルトだった。前は7くらいだった。
泥の所はそんなに減っていないのだろう。
放射線量はバラつきがかなりある。
佐須へ入ると泥の所で5あり放牧場の草地で5あった。
これは高いのだろうか?
今になると5という数字は高く感じる
住める所は南相馬市では0・1とか0・2だからである。
その数字から比べると1でも高い数字に感じる。
一時は佐須でホットスポットがあり20近くあったので驚いた。
そういうところがあったが今回はわからない。
ただ5があるところがあるのだからやはり高いしそこでは牛は飼いないだろう。
また田畑も耕作できないだろうとなる。


木材を前に計った時は3だった。今回は1・7だったから半分近くには減っていた。
これだって薪にしたりするとまた放射能が出るから困るのである。
林業も痛手であり飯館村はやはり深刻である。

真野ダムの水を南相馬市の鹿島区と相馬市で飲んでいる。これも不安に思っている人がかなりいる。
あそこの泥にはセシウムがかなた堆積しているだろう。
セシウムは泥から離れない、固着しているという。
だから5から下がるのは時間がかかるのかもしれない
泥となり流れればいいのだがそれにも限度があるのかもしれない。


いづれにしろ人が住まない飯館村の大倉から佐須を通ると何か不思議である。
要するに前にも書いたけど人が住まなくなると自然が活気を帯びてくるのも不思議である
何かポッポッポッと鳴いていたのは何の鳥なのだろう。
あれは山鳩の鳴き声ではない、あんな鳴き声聞いたことがない
人が住まないということは自然に生きる野生生物を動物でも脅かすものがいないから
住みやすくなるのだ。
それであんなに車が通る原町から飯館村の八木沢峠へ行く道に羚羊がのそっと顔を出したのには驚いた。
あそこも人が住んでいないから人が脅かされないから出てきたのである。
猿でも逃げるのは逃げてもこちらを見て吠えてにらんでいた。
人間が邪魔なんだよな、ここを通るなと威嚇しているようである。


人間がいなくなると野生の動物が元気になる。
いたるところに穴がほられているのはイノシシがしているのだろう。
なぜなら田畑も原野化しているからイノシシにとっては好都合なのである。
カヤネズミとかこの辺で増えているのもそのためである。
ネズミの繁殖力は凄まじいから減ることがないという。
原野化するとそうなってしまうのである。
ネズミの天敵もまた増えてくるのである。それがノスリだった。


飯館村ではまだ人が出入りしている。洗濯物干していたり車もある
だから完全に無人の村とは違っている。
ただなぜ飯館村の人が帰らないという人が多いのか?
原発避難者の村では浪江町とかでもそうなるのか?
それは原発の放射能汚染問題だけではない
現代の社会構造そのものの問題があったのである。


つまり限界集落とにているのだ。
昔だったら自給自足であり村の単位も5人組とか10軒20軒単位の村さえあった。
なぜそんな小さな単位で生活できたのかという疑問がある。
それは自給自足の村だったからである。
別に機械も使わない、田植えでも稲刈りでも村の人たち総出でやった。
茅葺きの家を作るのにもそうである。
村の人力で自給自足でまかなっていたから小さな単位でも生活できた。
そして医者もいなくても他の便利なものがなくてもそれが普通だったのである。


今はあまりにも便利な社会になりそのインフラを整えるだけで莫大な費用がかかる。
だから限界集落となるとインフラの整備に電気でもなんでも180倍かかるから
そんな村に税金をかけないほうがいいと都会の人たちが言うのである。
なぜなら炭焼きや薪を燃料としてガソリンにも電気にも頼らないなら
自給自足なら税金もかからないから都会の人たちは何も言わないだろう。
それがあまりにも違う社会だからそうなった。

そしてそこに住む人もスーパーがないから医者がいないから住めないとか
いろいろ現代の便利なインフラを最低限求める
そうするとあのように村に人が住まないとますます人が住まない

昔の自給自足なら10軒20軒単位でも住めた。
みんな自給自足だからそれで住めたのである。
現代は小さな単位では人口では住めなくなっていたのである。
だから町とか村とか全体が崩壊すると住めなくなってしまった。
葛尾村(かつろう)村は1800人とか少ない、
でもそれでもなんとか村を維持できる人口だったのだろう。それもぎりぎりだった。
それは原発事故周辺でなくても津浪の被害地域は村ごと町ごと壊滅的になったのだから
やはりインフラの整備をするにも莫大な金がかかるし住めないとなった。

漁村でも昔だったら山村と同じなのである。
自給自足的生活でありそんなに便利なものを求めないからそこに住めたのである。
津浪の被害があってもまた住んだということは危険でもそこで生活できるから住んだのである。
今はあれだけ町や村自体が壊滅するとそこには住めないとなる。

人間は贅沢になれると元の質素な生活にもどれないことも原因しているのだ。
食べ物だってそうである。

それで霊山の近くのソフト屋はうまいから今も繁盛している。
あういううまいもの一度食べるとまた食べたくなるのだ。
それがなくなると住むのも嫌だなとなる。
だから川内村から郡山市に避難して補償金で生活している人が帰りたくなくなったのである。
自然があるから住みやすいとか考える人は外部の人はそうでも
内部ではそうではない、厳しい生活だからかえって楽な方を選ぶということもあるのだ。

ただ南相馬市とか相馬市と比べると川内村とか飯館村には歯医者すらないのだから
相当不便な地域だったのである。
だからそういうことが起きたし飯館村でも帰りたくないというのはそういう理由もあるだろう。
それでも今は車があるから一応それなりの現代的生活はできていたのである。
ただもう便利な生活になれた贅沢になれた現代人は限界集落的になると
もう住みたくないとなってしまうことがわかる。
そのことが三陸とか津浪の被害地でも同じことが起きているのである。
そこには小さな漁村が点々とあり山村と同じくもともと自給自足的な生活をしていたのである。
だから東北が復興できないという時、神戸は復興しても東北はできないというとき
そうした事情があり神戸とは違ってるからなのである。

posted by 老鶯 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年04月22日

グローバル化時代には世界が他山の石となる (なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか)


グローバル化時代には世界が他山の石となる

(なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか?)

 


他山の石(たざんのいし)の意味
他の人のつまらないおこないであっても、それを参考にすれば自分を成長させる役に立つこと。

「他山」…他人
「他山の石」…他の人のつまらないおこない

「友人の失敗を他山の石とする」 


 

これは中国的大陸的発想なのだろう。中国は広いから他山の石とかは普通にある。
他山の石となると関係ないように見えても中国という広い国でも関係しているということが成り立つ。
日本人的島国的発想は他山の石をそもそも認めにくいのである。
村という小さな単位が生活の基本にあったから遠い国の価値もない石などに価値を認めない、何の関係もないと関心をもたない。
それが日本人の島国的偏狭性を作り出した。

ただ世界がグローバル化したとき、世界があらゆることで他山の石となってしまった。

毎日のように世界の出来事がニュースで流されるから他人事ではなくなる。
それでも日本人はそういうことを他山の石として価値あるものとして自分たちの生活に影響するものとしてとらえていないのだ。
それは島国的閉鎖的環境で培われた国民性である。

日本から離れた国で何が起ころうとそれが自分たちに何の関係があるのだと思ってしまう国民性である。
大陸は陸続きだから隣の国に異変があれば必ず影響する。
その危機感覚は相当に違っているのだ。だから外国の情報に対しては敏感になる。

日本は海に囲まれていたから海が障壁となっていて守られているという感覚になっていた
しかし日本は海についても他山の石だったのである。

なぜスマトラのあの大地震震度9があり大津波があったとき、それを他山の石としなかったのだろうか?
そのことが今になると不思議なのである。
絶えず報道していたのは津波に対する警戒態勢がなかったとか日本ではありえないことだったということばかりだったのである。
日本ではみんな逃げていたからあんなに死者は出なかったろうとという報道が体制だった
スマトラでは津浪に無警戒だったとか日本ではありえないとか思っていたのである。
津浪国でありながら他国の津浪を他山の石としなかったのである。


それは原発事故でもそうだった。チェルノブエリの事故も他山の石にすることはなかった。
日本の技術は優秀だという先入観があり安全神話が官民一体となり作られていた。
日本の技術が優秀だという時、すべての技術が優秀ではなかった。
それをとりちがいていたのである。カメラでは優秀でも原発という総合技術になると優秀ではなかったのである。
総合的な面ではアメリカの方が優れていたのである。


現代ではあらゆることで他山の石が要求される時代である。世界中のことに関心をもつことが要求される。
グローバル化がいい悪いということがあっても現実に世界が狭くなり結びついているから無関心ではいられないのである。
だから何が他山の石になるかわからないのだ。
一見つまらない世界の事件が他山の石となり日本にも参考になるし影響してくる。
そういう時代に否応なくさはんせられているのが現実なのである。


だからなぜスマトラであれだけ巨大地震があり大津波があったのにそのことについて日本でも恐怖しなかったのか?
いろいろな面から探求していないのか不思議だった。
日本ではそんなことが起こらない、警戒態勢があるから起こらない、人はそんなに死なないと思っていたのである。
あれだけの津浪が起こったのだから日本でももっと警戒すべきだった。
日本では津浪国でありあんなに人が死ぬことなどありえないと思っていたのである。
つまり他国の友人の失敗を他山の石とする とすることができなかったのである。

現代は世界中で起きることが他山の石とすべき時代となっている。
「あんなこと外国で起きているけど日本じゃありえないよな・・・・」
そういうふうに見ている人が多いのである。
でも世界に起きることが即日本にも起きるし影響するのがグローバル化の時代なのである。
グローバル化がいい悪いという面があっても世界が一体化することはさけられないのである。

それは自然現象でもそうなった。スマトラは日本との地震の関連性はプレートは違うし関係ないよと専門家さえそう見ていた。
でもあれだけの津浪の被害を見たら日本は震度9の地震が近くで起きたらどうなるだろうと真剣に検証してもいいはずだったのである。
日本人は海のことにもっと関心をもっていいはずだがなかったというのも不思議なのである。
スマトラも海に囲まれていたし日本も同じだった。

いづれにしろ日本人の島国的発想はグローバル化時代では危険である。
日本人は卑下することもないけど何か日本人は優秀なんだとか特別なんだという意識が
醸成されやすいのが日本の島国的環境なのである。
そういう面はあってもまた反面大陸的発想がないが故に他山の石的発想がない故に
日本は世界から孤立したり自画自賛になりやすい国柄なのである。
日本のいい面はいい面として認めることは否定しない。
でもあらゆることで日本が優秀だとはならないのである。


スマトラのように津浪であんなに死んだようなことは日本では起こらないよな
チェルノブエリの事故のようなことは日本では起こらないよな
日本は津浪国だし日本の技術は優秀だからな・・・・


こういう発想が日本人にあったからこそ津浪と原発事故が起きたともいえるのだ。
だから中国とかインドとか大文明を作り出した国に学ぶべきものはかなりある。
ところが現代だと中国でもインドでも何か後進国として見ている。
何も学ぶべきものがないとなってしまっている。
欧米から学ぶべきものはあっても中国とインドにはないと思っているのだ。
それは技術的な面ではそうでも文明は技術だけではない総体的なものだから
大文明を作り出した国に学ぶべきものはやはりあるのである。

ともかく諺など日本でもいろいろあってもそんなもの哲学とか宗教からすると低いものだと思っていた。
でも最近、いろいろ自分の一身上で深刻な経験を積んで諺(ことわざ)がいかに
人間の普遍的経験から生み出したものであり今も通用しているか身にしみてわかった。
「金の切れ目が縁の切れ目」というとき、これも全くそうだった。
金だけのつながりは必ず切れる。親戚でもそうだしそうういことは時代が変わっても変わらなかったのである。
むしろ現代では金がすべてになるときその言葉が最も適用されている時代になっていたのである。
他山の石もむしろグローバル化した現代にこそ最も普遍的なものとして通用するものとなっていたのである。

posted by 老鶯 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月21日

韓国フェリー沈没事故はなぜ? (緊急時には津波でんでこが助かりやすい)


韓国フェリー沈没事故はなぜ?

(緊急時には津波でんでこが助かりやすい)


今回の韓国のフェリーの事故でも真っ先に船長が脱出したのもそうだった。
何かその時恐怖心にかられて冷静な判断ができなくなっていた。
そんなときはまず自分の命が大事だとなり乗客のことは関係ないと逃げた。
そして乗客にしてもただ待機していろと言われてその命令に従っていたのである。
このことが命取りになっていた。
ただいち早く船から脱出して海に飛び込んだから3時間で冷体温になり死亡するというから
すべて脱出して海に飛びこむことが助かることではなかった。
でも逆に助かるためにそうする人もでてきたかもしれない。

船長自体が判断できない状態になっていたのだから船長の命令に従うことが最高に危険なことでもあった。

危急の際は船長でも信用できなくなる。船長自体が自分の命の方を大事にするからだ。
だから韓国ではこのフェリー事故のように指導者が真っ先に危急の際は
戦争でも逃げ出すとネットウヨからこんなことがあり言われる。
そういう国民的体質があるからだと盛んに言われる。
それも一理あるのかもしれない、韓国人の体質的なものとして国民性として培われたものがあるかもしれない。

ただ日本だって批判できないところがある。

現実に原発事故では原発が爆発した時ど、とっさにいち早く逃げたのが東電社員がいたという噂がたった。
一方で必死の覚悟で原発に残った人たちがいて称賛された。
そしてその時、政府の指導者も東電の幹部も住民には何の指示もしなかった。
スピーディは明らかに動作していてどこが危険かわかっていた。
でも浪江町の人たちは一番放射能が高い津島に町民が集団で避難したのである。
それは町長の指示であった。町長は別に政府や東電から指示されたわけではなかった。
結局誰も適格に避難指示を出してくれる人がいなかったのである。
だから緊急時には今回の船長のように指導する人自体が真っ先に逃げるということが起こりうるのだ。
何が起きたか指導者も判断できなくなっているからだ。
だから緊急時には船長の言うことを「待機して動かないで下さい」ということで待っていたら
全員死んで船長だけが逃げて助かったとかなりうる。
船長が万死に値すると今では言うが船長もそうした緊急時に自分の命が大事になるから
そうなったのでありそれは他のことでもありうるのだ。


津波でんでこ・・の教えは緊急の時は自分だけが助かるために相手のことをかまわず逃げろと教えた。
緊急だからもう自分が助からないからそうなった。
一見非情のように見えても老人の家を回って若い人が逃げるのが遅れて死んだということが結構あった。
それは普通だったら人道的にも称賛される行為なのである。
でもそんなことしてでは称賛されるかというとそうでもなかった。
なぜなら若い人の命の方が老人の命より社会にとっては大事だとなるからだ。


そして突然不意に起きることは予備知識もなにもないから判断できない。
その船では避難訓練もしていなかったことも致命的だった。
避難訓練してもそうした緊急事態に的確に行動することは至難である。
だから津波で助かった人は津波が来るのを見て必死で逃げて裏山にでも駆け上って助かった人がかなりいた。
テレビでも津波が足元に迫ってきていて必死に逃げる映像が見ていた。
あれでも逃げれば助かるということであった。
八沢浦でも一キロくらい離れている家の人が裏山の崖に上って助かったという。
それは津波を見てから逃げて助かったのかはわからない
しかし危機一髪で助かったことは確かである。
そこには裏山があったことで助かった。


他でも離れた場所では津波を見てからトラックで必死に逃げたとかして助かった人たちがいる。
海の人だと津波が来るというとき海が近いのだから海の方を見ていただろう。
でも海岸に接していたら津波か来たのが見えないから助からなかった。
大川小学校の悲劇は川から津波がさかのぼってきたのだけどそれか見えない死角の場所にあったからである。
川をさかのぼってくる津波を見たら逃げていたかもしれないのである。
そして今回のフェリー事故と同じように先生の誤った指示に従わされたことにあった。
だから先生の指示に従わない自力で裏山に逃げた生徒は助かったのである。


これらのことから導き出される教訓は何なのか?
緊急の際は船長であれ先生であれ政府の指導者であれ何であれ誤った判断するということである。
人間はいろいろ知識があろうが万能ではない、そこでいろんな判断の過ちが起きる。
例えは新米の医者になった人たちがどんな判断を下すか怖いだろう。
医療ミスが実際には日常的に起きているのは結局名医になるにしろ様々な失敗してしかなれない、
だから医者は何人か殺して一人前になるというのも現実なのである。
人間は万能ではないから常にミスを犯すし事故も起きるのが当然なのである。

だから原発事故だって起きることは予想できていたけど権力でもって隠していたのである。

一面人間は師弟不二とかカルト教団とか団体組織に属して命令にしたがっていることにならされている
人はそもそもが救いなど絶対にない、それらは船長か真っ先に脱出したように
会長なんか会員のこと乗客のことなどあとにして真っ先に自分が脱出する。
何百万の会員などもともと自分たちが権力をとるための駒にすぎないから当然なのである。
そんな所で命令に従うだけの人間はその船もろとも地獄に沈んでゆく。
戦争中もそういうことは起きていて日本人の上官は威張っているだけだったという反省があった。
そもそもそんな戦争に従順に従った国民も悪いと批判される。


いづれにしろ人生には緊急なことが突然起こる。するとそれに対応できずに判断を誤る。
一つの教訓としては船長であれ、先生であれ、政府の指導者であれ、・・・・
緊急の時はその人たちもその緊急事態に的確に対処できないのである。
だからそういう上に立つ人の命令にしたがっていたら命を落とすことになる。
でも社会はカルト教団なら教祖を絶対視しているし上の命令が絶対になる。
会社でも上の命令は上司の命令には逆らえないとう学校だったら
先生の命令には従いとかそういうことで日常を暮らしているから習慣化することが怖いのである。


津波でんでこ」とは別に津波だけではない、緊急の時は自主的判断の方が助かる率が高い。
もちろんそれでも助からないことはあるが率が高くなるということであるからそれに賭けるのが判断としてはいいとなる。
専門家の判断に従うのがすべて悪いともならない、自分は医者にみてもらわずに病気を悪化させたことでもわかる。
こうして自分で判断することも致命傷になることもある。
だからこれがいいという一つの判断や指示はない、緊急の時はみんなそうなるのだ。
ただ習慣的に船長は船のことを一番知っているからと命令にしたがっていればいいとかなると判断を誤るということである。
そういう緊急の時はそもそも船長すら判断できなくなっているのだ。
真っ先に乗客のことなどあとにして逃げたことでもわかるのだ。
そういうことを考慮しないと命は助からないのである。


posted by 老鶯 at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2014年04月20日

芽吹き(街の中に来る山鳩の写真をとった)


芽吹き(街の中に来る山鳩の写真をとった)

allsean1.jpg

全体の場面を分解したのが下の写真


mebukiyamahh1.jpg

yamabatttoooo111.jpg

クリック拡大

残る花朝に散りしを惜しむかな

街に来し山鳩見つく芽吹きかな
山鳩やタンポポに映え街の中


シャッターチャンスが次々にあるのには驚く、
デジカメ時代になってから何か常にいい写真をとろうとすることがある。
そして自然はこれほど写真になる、
絵になるものがあるとはきづかなかった。
デジカメがない時代はカメラにはほとんど興味がなかった。
それはカメラを簡単にとるのがむずかしかったからである。
そしていい写真がとれなかったのも原因している。

デジカメになってから適当に何枚もとってそれを選んだり加工すると絵になるものがとれる
だからデジカメによって自然を新たに発見するようになったということがある。
それでもいつもデジカメをもっていないからあの場面はとれなかったなと後悔することがかなりある。
その自然の風景は二度と見れないものもあった。
鳥なんかもなかなかすぐに飛んでゆくからいいのがとれない

今回とれたのは長く山鳩がとまっていたからである。
それも町の中の空地にとまっていたからとりやすかったのである。

一万くらいの町だと自然は街の中でもあるし畑もあったが今は荒地になっているのが残念である。
写真で発表するということで何か単に俳句や短歌を発表すのと違っている。
デジカメによってより芸術的に伝えられるのである。

都会化すると自然は消失する。この辺は空地が町のなかでも多かった。
でも家が次々に建ってその空地もうめられてゆく。
それでも未だに宅地となる空地は多いのである
その空地にタンポポとか咲くのである。
東京などになると空地すらないから自然がない
もっとも贅沢なのが東京では何もない空地でも空間なのである。
もしその何もないものがあればそこに自然がありうるのだ
この辺はすぐ海であり山であり自然は豊富だからデジカメにとれるものはいつでもある
春はやはり一番自然が生き生きしているから写真をとるには一番いい季節である。

でも今日も東風が冷たく寒い、コタツがないといられなかった
なんか今年は冷夏になるかいうけど本当かもしれない
こんなに今ころ寒くなるのかということがある。

2014年04月19日

人によって場によって時によって価値は一定していない (自分にとって手料理の価値は大きいー個々人へのサービスへ変わる時代へ)


人によって場によって時によって価値は一定していない

(自分にとって手料理の価値は大きいー個々人へのサービスへ変わる時代へ)

これまでの価値観はあるモノに対しての価値は変わらない、世界中でモノの値段は均一化されつつある。
どこでもどこで買っても値段は同じだという世界である。
だからスーパーなどが均一化して安く売るから繁盛した。
「安ければ売れる」というのが価値観だったのである。
でも本当に価値というのはそんなに均一化した単純化できるものだろうか?
価値というのはどうして作り出されるかである


最近手伝ってももらう女性は料理を作ってもってきてくれる。
その手料理が自分にとっては何ともうれしいのである。
その手料理は他では買えないものなのである。
今日はスイトン料理を作ってくれた。
これは一回そういう料理をしている食堂で食べたことかある。
これは食料不足の時戦時中に工夫して作られたものだった。
それで母も普通は食べなくなっているが食べたのはおいしかったのだろう。
食欲がなくてもおいしいものは食べるということが病気でもあるからだ
自分もその料理はおいしかった。
だから千円払ったしそれたけの価値は十分あったのである。
前にはアシタバの天ぷらをもってきてくれた。
これも変わった味だなと食べた。


ところが別に妻がいて手料理を食べさせられている人は
いつも食べているのだからそれがありがいたという価値観がない
当たり前のこととして食べていて文句を言ったりしているのである
自分もこれまではそうだった。
今になって食事でも全部自分で作って出す方になった
その時、鍋物などが作れなくて食べれなくなったので悲しくなった。
手料理を食べられなくなったのである。
だからほとんどオカズは買って食べていたのである。
だからそういうものをもってくれる女性がいることの価値は自分にとって大きい


前にも来ていた女性がいたがありきたりもの買ってくるだけであった
女性だから何か手作りの料理でも作ってきてくれてもいいと思ったが
そんなことが全くない、心使いが全くないのである。
自分の所に来たのは実際に強盗だったり人の気使いがない異様な女性たちだった
それは信じられないものだった。
地獄の中に引きづられて出れなくなったような閉塞感に苦しんでいたのである。
自分が病気でも同情など全くしない、借金しているから入院していても借金の要求であった
こんな人達ばかりなのだからこの7年間は地獄の苦しみだったのである。


その女性にも問題がありいい面ばかりではない、でも比べると地獄で仏にあったという気分にもなるのだ。
その気持もやはりこんな異常な人たちに囲まれることによって価値観が変わってそうなったのである。
津波の被害にあった人が貯金などしない、今生きていればもうけものだというふうに考え方が変わったのと同じである。
その人の価値観は様々な体験を経て変わるのである。

ある人に対する価値観も人それぞれによって見方が変わってくるのだ。
もう一人の人もその女性と友達関係にあるが娘が一週間に二回来て料理などしてくれる
だからその女性とは毎日電話のやりとりして頻繁に行き来してもその女性の手料理を食べていない
その男性は妻を六年前になくしても料理に苦労していてもまだ娘がいて料理してくれている
自分は全く料理してくれる人がいないからまたその女性に対する見方も変わってくる
人に対する価値観もその人の事情によって経験によって違ってくるのである。


要するに人が人の気持がわからないのはそういう立場を経験しないからなのである。
確かにその男性は妻をなくして一人暮らしは同じである。
でも娘が一週間に二回来て料理してくれるから違っていたのである。
人間にはこういうことがいくらでもあるだろう。
相手のことがその境遇でもわかりにくいのである。
それはそういう境遇になっていないし経験していないからわからないのである。

ありきたりのを売っているだけのものを買ってくるような女性はかわいいくても全く
何か根本的に人に対する心使いがまるでないのである。
もちろんそうしたくないからそうなったともとれる
だから自分の病気に対しても何の心使いもなかった
もともと何もしたくないのでありしかたなく一カ月に一回義理で来ていただけなのである
あういう人がどうしても事業に成功するとは思えなかった。
妻であってもそういう人は夫を助けることはできないと思った。

いづれにしろ人間は顔だけ見ていると外見だけで判断すると女性でもあとで失敗する。
それで離婚が多いのかもしれないのだ。
美人でかわいい顔していたけとこんな女性だったのかと裏切られことがあるかもしれない。
それは介護の時などに露骨に現れやすいのである。


人間の価値観は一人一人実際は違っているのだ。
だから値段が一定しているということはかえって不平等なのである
ある人が千円払うしある人は二千円払ってもいいのである
金持ちの場合は定価ではなく本当のものに金を高くても払う。
要するにもしかしたらこれからの時代は個々人への
サービスが大きな価値を生む時代になるかもしれない
大量生産で大量供給してもモノあまりの時代は売れないのである
個々人へのサービスは多様になるからその価値づけも一人一人違ってくるから
値段は一定しないのである。


だからポランニィーが黄金と塩が等価に交換されていたとか全く今の経済感覚とは違った価値観の経済があった。

中央スーダンの首都クカでは、糸に吊るされた子安貝とマリア・テレサ銀貨との等価が、毎水曜日に市場において公示された。
(人間の経済ーほランニィ)

これはその時々によって価値が違っていることなのである。
次の水曜日にはまた違った等価が公示される。
そういうふうに時価は今でもそうだが変わってくるのである。
その場その時によって価値観は変わるのである。

贈与経済でありそれはその時代の価値観であり今の価値観とはまるで違っていたのである
そういう経済にもどるということもこれからは考えられる。
若者と老人の価値観は天と地のように違う場合がある。
老人にとって失ったものは青春でも健康でもとりもどけないから悲惨なのである。


というのはもの余り時代の価値観はそういうふうに個々人へのサービスに変わる傾向があるからだ。
価値観は個々人で違っていて多様化するのである。
だから定価で安いからいいとは限らないし選ぶとも限らない
現実に今は不景気時代がつづいたといってもいいものは高くても売れていることでもわかるのだ。
すべてが安ければいいとはならないのである。
老人にはモノは売れない、老人が欲しているのはそうした個々人の心使いであり
それが手料理を提供してくれた女性の価値が高くなるということか一つの例なのである。

posted by 老鶯 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

抽象画(女性的なるものの反映)



抽象画(女性的なるものの反映)

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この世が男性的なものと女性的な要素の結合した世界観かあった
だからヨーロッパでは男性名詞と女性名詞を分けている
男性的なものと女性的なものを意識して分けたのである

一方で男性的なものと女性的なものか結合すると豊かな世界が生まれる
一人の人間は男女かかわらず必ず男性的なものと女性的なものをもっている。
だから肉体だけではなく精神的に男女は一体化するのである。
posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

昨日の桜の写真のつづき (細部を写し記憶するデジカメの時代)


昨日の桜の写真のつづき

(細部を写し記憶するデジカメの時代)

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人間の眼で見えないものが写真から見える。
赤い桜は瞬間的に印象的に目に入る。
ところが背後に芽吹いている樹があり
脇に白い花が咲いている樹があることに気づいていない
これは肉眼では見落としやすいのである。
ぱっと鮮烈に赤い色の桜が視界に入ってくるから
そこだけに人間の注意力がそそがれる

しかし背後に芽吹きの樹があり脇には白い花の樹があり
それらもこの写真の中に入っていて一つの絵となっていたのである。

つまり絵を描くことができる人だったら
背後の芽吹きの樹でも白い花の樹でも目立つようにバランスよく描くことかできる
ただ瞬間的には赤い桜の花しか印象に残らないのである。

だかちデジカメは細部を写し残すことに意味がある。
人間の眼では見えない細部が写されて記憶されているからだ


ともかく現代は写真ときりはなしてあらゆることが語られなくなった。
写真で記録を記憶を残す時代なのである。
デジカメ時代でありこれは明らかに一つの新しい時代を作ったのである。
インターネットもこのデジカメなくしては活かされなかったのである。

2014年04月18日

南相馬市鹿島区栃窪村の桜ー短歌十首 (午後にたずねて・・・)


南相馬市鹿島区栃窪村の桜ー短歌十首

(午後にたずねて・・・)

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これも桜なのか、鮮やかである。
寒緋桜なのか?

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スクールバスで児童一人がおりた

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ここで背後の菜の花が写っていないのが致命的
だから見た目とは違っている。


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ここでも後ろは菜の花だが写っていない

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ここで石の橋を渡る




川の上磐の硬きにすみれかな
磐を打つ流れのひびき芽吹きかな
山に来て磐の硬くすみれかな
山吹やイノシシ駆けて原野かな


大きなる柳の長くしだれけりここにし長く人も住むかな

道分かれチューリップ映えこの道をさらに遠くへ我が行かむかな
児童一人スクールバスをおりにしを栃窪淋し春の夕暮
栃窪に放射線計る三年の過ぎて田畑の荒れにけるかも
栃窪に午後の日さして石一つこの家に咲きし桜散るかな
栃窪の夕暮れあわれ名もしれぬ墓のあまたに花の散るかな
菜の花に枝垂桜や古碑並ぶ栃窪あわれ街の遠しも
栃窪に蔵ある農家この夕べ桜の映えて流れひびきぬ
大倉に人の住まじも鶯の鳴く声聞きつ帰りけるかも
大倉へ細道残る草萌えてこの道行きし昔の人かな
大倉へゆく道遠く石の橋ここに残るや春のくれかな
なつかしき昔の道や人歩む姿も見えて春のくれかな
一時や高みに咲きぬ山桜はや散りにしを見過ごしにけり
我が里の桜をなおも見なむかななお見ざりき桜ありしも

故郷を離れ散り散り満開の桜も散らむ帰れざるかも

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コントラストの調整で鮮やかになった

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南相馬市で村らしい村というのはどこか?大原村は軒数も百軒以上あり多いから古い農家がある。
ただあそこも川俣までの幹線道路があるから一見わからなかった。
ただ原町区の大原はその道路だけではない、その両脇もかなり広いから地名のように大原になっていた。
実際に椿の垣根に囲まれた農家があった。
村らしい村とはやはり代々の農家があるところなのである。
そこに桜でも大きな木があるということは気か育つに歳月がかかるからその家も古いとなるのだ。

栃窪村は家々を見ると古い農家があり村らしい村である。軒数もそれなりに多い。
橲原村は軒数が少ないから農家数も少ない、自分が見て回った限りでは寺内と小池とか石神でも
その他海辺の村でも何か村らしいものを感じなくなっている。
石神などは実際原町の郊外化した街の延長のように見える。
今はそもそも村らしい村がないというとき、炭焼きとか貧しくても
自給自足していたとき一番村らしい村だったのである。
その時は車もないからその村で自給自足するほかなかった。
それで屋形村の農家では納豆まで自家生産していたことでもわかる。
自分の家でその土地でとれたものでまかなっていたのである。
車がないのだから町までも遠いからそうなっていた。

今は村というのはどこでも街の郊外化しているのである。
そこで自給自足している家などないのである。

今回発見したのは細い道があり古い石橋があった。それは昔大倉の方へ通じていた古い道だった。
これは見逃していた。今の車の道の前はあのような細い道だったのである。
古い道が残りそれが地名となることもある。
都路村の古道は家が集まった中心地にある。古道は町の中心地だったのである。
栃窪村はあの古碑が並べてあるがあの碑も実際はあそこにあったのものではない
道が新しく作られてあそこに他からも集められたのである。
古い碑は昔の道にそってばらばらにあったのである。
それがあそこに集められるとあそこにあったという錯覚を生むのである。

それは大倉がダムになる前の道でありそれは真野川にそってあった。
今も立石にゆく道がそうであり新しい道は上の道路になった。
ダムがないときがありそれはずいぶん昔になったのだろう。
でも自分はその時も自転車で大倉村を通っていた。
谷底にありその村の家はダムの底に沈んだのである。
その時ダムの底に沈んだ家は多額の賠償金をもらった。
それで大倉御殿ができたとか騒いだ。
この辺でも大倉ぱっぱが近くにいると聞いたとき街の方へ移住した人なのである。
]今度は放射能汚染で人が住まなくなった。
そしてイノシシが夕暮れにでてきた。イノシシが増えたことは確かである。
そんなにイノシシはみかけなかった。


真野川渓谷は芽吹きであり山桜はもう散りはじめていたし散ってしまったのもある。
桜はやはり咲く時期が短いから見れないのである。
近くだって見る時期が短いから見れない、見ようと思うと散ってしまっているのが桜なのである。

桜の特徴は山桜だと高い所にも咲き孤高の趣きがあるが染井吉野とかになると人間臭い花なのである。
栃窪村内になっている上萱でも桜が一本残っているがそれも何か昔ここに住んでいて人を懐かしんで咲いている。この桜はここに住む人になじみその花も見ていたからそうなった。
津波でも庭に残っている木はペットと同じように人間の情が通じたような不思議なものを感じた。
人がいなくなって何か淋しく取り残された人をなつかしんでいるような人のようにも見えて残っているのだ。
木も人間化していたのである。
自然のままの野生の木とは違っているのだ。


浜通りで自然環境で恵まれていたのは海と山があったことである。
海だげではない、山の村があり山の感覚がある。
今回は海は危険で恐怖を覚える場所となった。
ただ海はもともと安定していない、不安と動揺の世界である。
浪は山や磐のように安定しないものである。
水そのものが実は一定のものとして動かずに収まるものではない
水自体が流動的だから危険なものとしてあった。
それで溜池すら決壊して死んだ。
この辺の溜池でも大きいし土手が決壊したらその下の家が流され人も死ぬのである。

一方山は石でも安定しているからそれはモラルの象徴になる。
動かないということ不動だということは信頼とか誠実とか正直とかに通じるからである。
海にはそうしたものがない、もともと不安と動揺の世界だったのである。
だから今になると余計に山の方にゆくと何か安心した気分になるのである。
もともと人間のアイディンティティが山や樹や石には見いだされるが海には見いだされないのだ。
もともと人間の心とは相反するものが海にはあった。
だから天国には海がないというのも不思議だけどそういうことがあるのかもしれない。
水そのものが流動的だから危険になっているからだ。
だからこそノワの洪水も起きたのである。
海のようにあれだけの流動的なものがあればそれは危険に通じているのだ。
海の水位が温暖化で高くなれば島が消えるとか陸地も消える所があるとかなってしまう。


現代は写真て伝える時代である。デジカメはいいのを買うといい、その差がかなり大きくなる。
ソニーの6万くらいで買ったRX1002はそれなりに高感度のカメラなのだろう。
今までとは写りが違っている。
そしてわかったことは必ず写真はそのままでなく見栄えよくするために加工する必要があったのである。
加工するということはまた絵のようにするソフトの活用もある。
とっただけでは見栄えしないのである。
ただ写真技術もこれも技術を向上させないといい写真はとれない。
だから写真も芸術になっている。
眼で見たようにとるには結構めんどうであり技術がないとできない
それは今のデジカメよりレンズなとで工夫しないととれないことがわかった。
そうなるとまた時間も手間もかかるからなかなかできない
しかし写真にしないと今の時代は訴えないのである。
だから写真俳句や短歌が生まれたのである。
これは文字だけでないからインターネットでしか発表できないのである。

2014年04月16日

桜の季節 (めまぐるしく変わる近辺の様子ー変わる価値観)


桜の季節

(めまぐるしく変わる近辺の様子ー変わる価値観)

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南相馬市鹿島区の駅前通りの花屋

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川子の森の芽吹き

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駅前の通りの花屋や春の花
新来の人と出会うや燕来る
丘の上の桜やかなた海望む
春の日や津波に残る命かな
津波にも残る命や花見かな
復興や蛙の鳴きて増えむかな
津波跡海を離れて花に月
観音に春の月影祈るかな


山雀のさえづりひびきわたりとぶ新たな命の芽吹く森かな

人住みし跡は沼なり八沢浦春の月影さして静まる

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海老の富士旅館の庭のイルミネーション
(海をイメージささる)



毎日なんか忙しい。また一日介護保険更新でショートスティで新しくできた施設に泊まった。
あそこの施設で働く人はほとんど外部から来た福島県内の人である。
ここでは常に書類を何枚か書きハンコもいくつか押す、そうした書類の事務作業も結構あるからそれもめんどうなのである。
東電の賠償金の事務作業もまだあった。

家事も料理から掃除からいろいろある。これもまた一仕事なのである。買い物もまたなぜこれほどあのかと思う。
今日は夏の下着二枚近くの店で買った。一軒衣服売る店あるけど前に一回だけ下着買ったけど買っていない、
通販でスポーツウェアの下着を買った。そういうものはこの辺では売っていないから便利である。
それから花屋でまた3000円くらい花を買った。
花屋もこの町では一軒しかない。
すぐ近くだから便利だけど高いし花の種類が少ない、相馬市の花屋のように仙台に買いに行っていないからである。
あこでは種類が多かった。

ただなんか本当に年取ると近くが大事になるなと思った。

それは例えば津波で近くに被害にあった人が助けられたのは近くの他人だった。
親戚がいても助けてくれなかったという。また一人暮らしで助け合うとしても近くでないとうまくいかないのだ。
原町や相馬市が近いと思っても車で来るにしても遠くなるのである。
「遠くの親戚より近くの他人」になる。

何か老人の価値観は変わる。実際は価値観は年齢によっても時代によってもまた今回の災害でも変わる。
だからこれまで価値があったものも価値がたちまちなくなる。
津波で家も流され家族が死んだ人は貯金をしないとか今生きているのがもうけものだとか
先をかんがえなくなったというのも大きな価値観の変化なのである。

人への価値観も常に変わっているのだ。ある女性はなにか見栄えが良くない、
太っていて不細工すぎるのである。でも老人になると違うそうした外見より
中味で性格がいいとか料理がうまいとかの価値が大きくなるのだ。
それは若い時もそうなのだがそういう価値が見えないから結婚に失敗する人が多いのかもしれない。

人間関係も身内の一人が死んでから目まぐるしく変わった。
人間関係も死ぬまで一定ではない、絶えず変わっているのだ。
だから二代も関係がつづくのはよほどのいい関係である。
なぜならそうしたい関係を保つのには双方の努力が必要になってくるからだ。
そうしないとたちまち人間関係ももろく崩れてしまうのだ。
ここて七年間ほど激変したことはなかった。
一身上でも回りでもそうだったのである。


とにかく自分は毎日こんなに今になり忙しくなるとは思っていなかった。
なんか毎日暇で暇でしょうがなかった。暇をつぶすのに苦労していた。
それで旅行などばかりしていた。
今やその暇がない、それが一番良くわかるのが語学を勉強したいと思うがその番組を見る時間がないのである。
英語でもドイツ語でもやりたいと思っているのだができない。
結局語学というのは一番時間がかかるから忙しくなるとできなくなる。
だから暇な時もっと勉強していれば良かったとなる。
老人になると時間もなくなるが根気もなくなる。
何かに集中できる気力もなくなるのである。
だから若い時もっと何をしていれば良かったとかみんな後悔している。
そして若い時も時間もそれだたけいくら金があってもとりもどせないのである。


価値観が変わるというとき、高齢化社会でも変わる。老人向きの社会というのはまだ用意されていないのだ。
近くが大事になるということは昔の小さな商店も見直されるということがでてくるかもしれない。
スーパーに何かモノを買うというだけで買い物する付加価値がない。
小さな商店だったら多少会話があったり気づかったりしてくれるから違っているし老人にはやさしいとかなる。

そういう高齢化社会になると例えば北海老のニコニコ堂のことを書いたがあそこは隠された癒しのスポットだと書いた。
山陰の回りが畑で元は納屋を改造して作ったものだった。喫茶店があんなところにあるのは不思議だった。
車もほとんど通らないから静かである。
でも問題はレシピが都会的なものであり若者向きなのである。
もっと前の畑でとれたものを料理するとか何か田舎的なもの老人向きだったりしたら時代にあうかもしれない
その場がもとは農家でありそういう場所なのである。
だからその場所を活かすものが必要になる。
老人や地元の人が入りにくいとなると時代にあわないということもあるかもしれない。
つまり都会的価値観と田舎的価値観の融合が必要だとなる。
それがあそこではできる環境があるから言える。

いづれにしろ津波というのがどれだけ価値観を変えたか?
やはり海の方が怖いという人が被害者はもちろん言うし海を恐怖する人が増えた。
しかしこの辺は海があることで良い面があった。
だから海を活かす町作りが志向された。
復興というとき昨夜は満月であり八沢浦の方を回った。
蛙が少ないが鳴いていた。
これも増えれば復興になる。田んぼも作る人も今年は増えるみたいだ。


桜はまだ盛りだが散ってしまったのもある。
川子の高台から見る眺めはいい、海が見えて桜が満開であった。
あそこの森も近くにあるから規模は小さくても憩いになる。
海が見えるとき松原があるときはあんなふうに海が広々とどこも見えなかった。
だから浜吉田まで津波がきたと言う時驚いた。
あそこがあんなに海が近いのかと思った。
常磐線でも海が見えるところは限られていた。
それも今回の津波で景色まで変わってしまった驚きなのである。


ともかく人間の世界は本当に変化であり無常である。
こんなに何でも変わってゆくことについていけない人もいるだろう。
自分の墓地の前にあんな復興住宅の団地ができるのも想像もつかなかった。
まるで街中が都会化してしまったのである。



2014年04月15日

津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない (八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)


津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない

(八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)

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名付ければ「命拾いの崖」なのか



八沢浦で現場で津波の被害の話を聞いた時ある程度実感した。
津波の被害はその現場に立たないとその恐ろしさが実感しにくい

「浪が前からも横からもきてここで合流したんですよ、
あそこの家の人はあの崖によじ上って助かったんですよ
白石から移り住んだ家族は何人か一緒に死んだからかわいそうでした
海岸沿いには30軒家がありましたよ
もう私等は貯金なんかしませんね、生きていたのがもうけもんですよ
家も何も流された人の気持などわかりっこないですよ
いくら言っても他人事ですから・・・・・」


前に書いた八沢浦は前に丘があるとないので明確に明暗を分けた。
意外と津波はみんな一様によせてこない、それを目の当たりに見たものと
見ないものの差は大きい。
一時テレビでも津波が渦巻いていたとき恐ろしかった
あそこでも崖の前で津波が前からも横からも押し寄せた時、どれだけ恐ろしかっただろう。
というのは八沢浦では海老でも崖の所や高い町があった所に高く寄せてきたという。
その浪が海老から下った鶏足神社がある坂でさえぎられて弱まって助かったという人がいた。
なぜあそこに津波が高く寄せたのかわかりにくい。
津波は一様な高さでは寄せてこない、ある所では高く寄せてきていたのだ。
それは海底の地形とも関係していたとか複雑である。


とにかくあそこの崖に上って助かったというとき、あそこの前の津波は空恐ろしいものだった。
その崖にしてもギリギリの線だったから津波にのみこまれる恐怖におののいていた。
その時助からない死ぬと思っていたかもしれない、その恐怖がどんなものだったか
想像もできない、ただなぜ自分が今回その話しで
ある程度津波の恐怖を感じたのかというとあそこの崖を見たからである。
あそこのぎりぎりで助かったということがあの地形を見て崖を見て実感したのである。
あの崖の上に逃れて助かった人が戦慄するさまがイメージできた。
だから津波の被害はその現場に立って被害を受けた人から聞けばある程度実感できる。
その高さと地形の関係が一目瞭然になるからだ。
だから津波の被害にあったビルを三陸の方で残すべきだというのはその高さ実感できなくなるからだ。
思った以上に津波は高いから想像できなくなっているのだ。


津波の被害は今でも残っている。こんな大きな石が流されてきたとか残っている。
それよりやはり津波は高さがわかるとその恐怖をイメージしやすいのだ。
あそこはあの崖が高さを示しているから実感しやすかったのである。
だからあそこの崖の上に立ってみて津波のことを想像すると空恐ろしいものがよみがえってくるだろう。
実際に「こんなに高いところに津波がおしよせた」ということが実感できるのがあの崖の上だったかもしれない、
あそこは何かそういう点で津波を知るのにわかりやすい場所に見えたのである。

posted by 老鶯 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月14日

相馬藩六万石の夕暮れの桜 (写真は加工した方が美を示す不思議)


相馬藩六万石の夕暮れの桜


(写真は加工した方が美を示す不思議)


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浜街道日立木までや夕桜
月満ちて六万石も花盛り

夕鶯の余韻残りて闇深む

城跡のお堀に写る桜かな夕暮れあわれそぞろ歩みぬ
城下町桜に夕陽歩む人細道入りて生業のあり
春の陽の没りて余光の長きかな紫に染む雲の棚引く

山の端に陽の没りてのち長きかな紫染まる春の夕雲

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元の写真

下は変化加工したもの


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元の写真より変化させた方が雰囲気がでている
春らしい感じが空や雲にでている



相馬市の不思議は何かいつも沈んだような静かな気持になることである。
原町ではそういうことはない、何かにぎやかな感じになる。
街自体があまり拡大しないでこじんまりしているからかもしれない。
高いビルもない、城下町だったので原町のように駅前通りが発展したのではない
もとのままの城下町の町並みのままなのである。

ただ城跡といってもなにか城があったという感じもない
確かに石垣など多少残っているがあれで城だったという感じもない
大手門にしても馬一頭が通れる狭さなのである。
何か城という感じがしない、六万石だったらそんなものかとなる


だからなんか相馬市はいつもしんみりとする場所なのである。
だから夕暮れの淋しい感覚があっている。
街にはそれぞれなんらかの雰囲気をかもしだしている。
仙台でもそうだが盛岡などは街としては何か古風な所があって違っている。

いづれにしろ外から相馬の城跡を訪ねる人はまれだろう。
それだけの目立ったものがない魅力がない

ただ本当に会津でも城を新しく建てたけどそういうものがいいかどうかはわからない
そういう新しい城を訪ねると一時明治維新で荒廃した城の感じはなくなる
新しく建てたからまた昔の栄えている頃の時代にもどったのかとも思う
城が博物館になるときそうである
そこに歴史の無常観はなくなってしまう。
平泉ではただ一つ金色堂が往時の栄として残っていたから場所の「五月雨のふりのこしてや光堂」だできた。
そこに歴史と人間の無常があったからその句ができた逆説かある。


写真がそのままで自然を現しているとは限らないことが今回の写真加工でわかった。
紫色に染まった雲が写真では何かぱっとしない、こんなんじゃなかったのにとも思った。
それで加工してみたら紫色に美しく変化した。
ただ実際に見た空もこんなに紫色にはなっていなかった。
ただ紫色がテーマとなり春らしい雲なのだろうと加工した。

写真でもその時雰囲気を景色を全部現すとは限らないことなのだ。
人間の眼で見た感じを全部を写真でとらえることはできないのである。
だから人間が描く絵はその人の眼でとらえた心眼でとらえて描くから絵になっている
ただ写真にしてもそれが自然を写すとは限らないのだ


人間はだから常にメイクすることが必要なのである。
才能があるなしに関係ない、常に何でもメイクしていくのが宿命なのである。
ただ何も人間側で努力しなければ美を発見されないのである。
才能がなければ努力しても無駄だというのもある。
でもこうして写真を加工してみるとやはりそれは新しい美の発見であることはまちがいない。
それはパソコンの技術によって新しい美が発見されたということにもなる。
だからartは技術なのである。

こうして毎日メイクしてプログに出すことは才能の開発なのである。
そしてSTAP細胞が話題になっているが真偽はわからないにしても
科学でも何かこうして実験を重ねていって新しくメイクしてプロデュースするのは
美の世界とも共通しているものでもある。
人間は絶えずどんな分野でもそうしてメイクしてプロデュースしてゆくのが宿命なのである。
それを怠ればたちまち停滞して旧弊ななかに留まるのである。
才能うんぬんよりこうして絶えず才能を開発することが大事になるのだ。


ともかく六万石でも今花盛りであり栄はあるとなる。


北海老のニコニコ堂喫茶店の春 (山陰の隠された喫茶店)



北海老のニコニコ堂喫茶店の春

(山陰の隠された喫茶店)

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菜の花や元は納屋なり喫茶店

広き庭蝶のめぐりてなお去らじ
春日さし坂を上るや押し車
春日さし山陰の道猫歩む
春の雲喫茶店の窓人集ふ
若き人喫茶店に入りチューリップ


菜の花の窓辺に写り喫茶店元は納屋なりなごみけるかな

山陰の畑の道や知られざるショジョウバカマに馬酔木の咲きぬ

山陰の喫茶店に入り春の日の過ぎゆく時の遅くあるべし

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クリック拡大で鮮明に


住所が海老となっていれば普通は海と関係していると思う。
実際に津波の被害で壊滅した海老村は海辺の村であった。
だからあの山陰が海老だとは思っていなかった。
あそこは街から近くても隠されたような場所だった。
あの喫茶店ができてあの道をはじめて通った。
大きな溜池もあり八沢浦に出る。

辺りも特別目立つものもないがもともと古歌にも読まれたいい場所だった
それは今回の津波でその浦が再現されたから驚いた。
海老村の北海老でも八沢浦の浦が入り込んでいたのである。
でもあそこは全く海が見えないから山陰の隠された秘密の場所のように思えるのだ。


そして春になって広い庭に花が咲いていた。蝶も一羽飛んでいた。
チューリップも咲いていた。何か菜の花がにあっていたのはあそこはもともと納屋を改造したものだからである。
農家の雰囲気がその建物にも回りにもある。
近くにも畑があり道を歩むとショウジョウバカマと馬酔木が咲いていて春だった。
畑もまるで隠されたようにあったのである。

だからあういう所に喫茶店があるのはめずらしいと思う。
なぜなら喫茶店でもたいがい六号線とか車が頻繁に行き来する所にある。
そういう所が入りやすいからある。
でもあそこのような雰囲気を味わうことはできない。

あそこは車はほとんど通らない、騒音がないのだ。
だから車の時代では何か隠されたような場所になる。

今は車が山の奥まで通っているから意外と騒々しい場所になっているのだ。
八木沢峠の麓の大葦とかバラ坂とかは秘境だとして書いた。
それが全くあそこがそんなふうに全く見えないのは頻繁に車が通るからである。
車が通ればそこはにぎやかに思えるのが現代なのである。


あそこは街から近いのに隠された場所となっていたことの不思議である。
時間もゆっくり流れている感じになる。
坂を押し車を押して上る老人が見える。畑にも老人がいる。
それも何かこの辺の生活感がでている。

なぜ時間が早く感じるのかというと車が時間をせきたてて早く感じさせているのだ。
もしゆっくりと人間が歩いていれば歩くことが時間の単位となり遅くなるのである。
何が現代は常に時間に追われるのは車とか電車でも時計でもテレビ番組の情報などでも
伝える速度が早すぎるからである
次から次と画面に現れては消える、それが何か常にせきたてられるような感じになる


だからテレビ番組でも気になる番組を録画して10回くらいみていると
それが不思議に記憶に定着して新しいものをかえって発見する。
次から次とニュースを追っていたら次から次と忘れてしまうだけになる。
そしたら何が大事なのか何を記憶すべきなのかすらわからなくなる。

いづれにしろあそこは街に近くても癒しの空間になっていた。
入るのは若い人が多い、近くの人は入らない、でも自分は喫茶店が好きだった。
旅をしていると喫茶店に休みたいのだが今はなかなかない
喫茶店は相当に贅沢なのになった。だから料金が高いのはやむをえない。
あそこでも高いにしても庭を楽しんだり風景や雰囲気にいやされる空間なのである。
だからあそこでぼんやりする時間はかえって貴重だともなる。
その場所が価値を作り出しているごとがある。
あそこの価値は明らかに場所の価値なのである。


ただ名前は平凡なのである。だから「レスト ハイド」とした。
イギリスにロンドンにハイドパークがあるからそれとにている。
隠された場所なのである。

2014年04月13日

八沢浦の津波の被害にあった人に聞く (海岸沿いには30軒くらいあった)


八沢浦の津波の被害にあった人に聞く

(海岸沿いには30軒くらいあった)

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30軒くらいあった
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旭化成の工場

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流されてきた石

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この崖の上に逃げて助かった

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高い場所でも海に近く前にさえぎるものがなく被害を受けた。

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古歌にある長岩も完全に津波でくぐった
割れたようになっているのは前からそうだったのか
津波の衝撃のためなのか?


八沢浦でもここは前に障害となる山もない、距離的には一キロもないかもしれない、だからもろに津波を受けた。
海岸沿いに30軒くらいあったという、10軒くらいしかないと思っていた。
八沢浦は海老村とか烏崎村とかと違って被害が目に見えて見えない
磯部でもそうだけど村ごと壊滅したところは悲惨そのものである。
何も言わなくてもそこに立てば一目瞭然である。
でも八沢浦はそんなに家が密集していなかったように見えたのである。
ただ港とあるから港の機能があった。


江戸時代は浦になっていたから船が行き来していた。荷物を乗せる大きな船も行き来したから港となっていた。
だからそこには家が昔からあったとなる。
ただ八沢浦は明治に開拓ささたのだから明治以降にできた村だと思っていた。
一部は北海老村になっているから30軒流された家は江戸時代から港があったときから住んでいた人がいるかもしれない、
あそこは北海老村であり八沢村ではない、そこが間違いやすい。

旭化成の工場がある地点も高いようだがぎりぎりだったのかもしれない、あそこに建てたのは土地がなからだろう。それで助かった。
工場は土地がないからあういう土地としては価値がないところに立つことがある。
あの丘があるおかげで津波が防げてその背後の家は被害が少なくて家も残ったのである。

一方で前に何もない、海岸沿いとそこから一キロも離れていない写真にとった場所は家も破壊されてない。
この家は結構高い場所に建っていたのである。
でも前に何もなくもろに津波が押し寄せたからひとたまりもなかった。
浪が一方からではなく横の方からもおしよせたという、浪がこの辺で合流したようになり強さを増しておしよせた。

津波は地形によって変化するし強さの度合いも違っているのだ。
そしてあの崖によじのぼって助かったという、あの崖の下まで津波が来たのである
あそこて津波を見てから逃げたのか?それだけの距離があり時間あって助かったのか?
後ろが山であり津波を瞬間的に見てとっさに逃げたのか、でもほとんど時間はないから
津波警報がでてから逃げたのだろうか?

この辺は詳しくわからないがあの崖の上に立って津波が来るのを見ていたらどんな気持になったのか?
それは経験した人しかわからない、あそこでは海に面した崖の上の家族が子供をふくめて何人か死んで墓があった。
白石から移った人だったという。これも不運としかいいようがない。


その女性が言うにはいくら津波の怖さを言っても理解してもらえない、忘れられると言っていた。
津波の被害を近くであったとしても被害にあわない人はその怖さや苦しみを理解できないのである。
現実に自分も八沢浦が津波の被害にあったとき、それが江戸時代の浦のようになったので
入江になったので美しい八沢浦がもどったと報告した。
そしたらここで子供も死んで泥から取り出されたのだとか批判された。
しかし自分はいつもあそこが入江になっていたらどれだけ美しいかといつもイメージしていた。
正直そのことの方に関心があったから実際にそうなったとき浦になみ春の光に浦浪が光りよせたとき美しいと思った。
浦浪というのはこの辺では見ないのである。荒々しい浪しか見ないからだ。

そして八沢浦は家がまばらにしかないと見えていた。でもあの海岸沿いでも30軒もあったのである。
だからそれなりに瓦礫も流れてきたのである。
海老とかとは違ってもやはり被害がかなりあった。
その海岸沿い港は土台すらなくなって沼になってしまったのである。
津波が土台まで運んでしまった。それだけ強い浪が襲ったのである。
コンクリートの土台がえぐりとられるほどの津波の猛威だったのである。


その女性が言うには

「私らは津波の被害にあってから考え方が変わってしまいましたよ
もう貯金などしない、命があるだけでもうけものです
今を生きることです、明日のため将来のために用意して生きることはしません」


津波の被害にあった人は実際に人生観まで変わった。あまりの衝撃に命が助かっただけで良かったとなり
将来のために貯金などしていられない、死んでしまってはなにもならないとなった。
現実に家も何もなくなった人が多数いるからだ。
その人たちにとっては今生きているということが幸福になっているのかもしれない。
明日のことなど考えられないとなった。
これはそういう経験した人としない人の差は大きいのである。

人間はどんな体験でも苦しみでも経験しない人は理解できないのである。
だから津波の被害にあった人は被害の苦しみを言うけど介護の苦しみを言ってもたいしたことないよと言っている。
これもやはり自分としては納得いかないのである。

その人は介護の経験がないからそう言っているのだ。
それはみんな同じなのである。経験してみないとどんなことでも津波すらこれほどまじかにあっても
経験しないと実際に被害にあわないとわからないのである。

だから津波の被害にあった人と同じ町に住んでいても津波の被害にあわない人の差がものすごく大きいのである。
同じ町でもなんら被害がない人は無関心なのである。
でももしなんらかの津波によるダメージを受けたらこんなことにはならない。
自分は地震や原発事故での被害を受けているが津波の被害を受けていないから
津波に関しては何か同じ町に住んでいても他人事なのである。
だから面白がって写真撮って報告しているのかともなる。
津波の被害にあった人にしてみれば腹ただしいともなるのだ。

それは事故や事件でマスコミが取材するのとにている。
マスコミにとってそうした事故や事件は格好の餌であり別に助けるわけでもない
同情するわけでもない、報道して視聴率をとることが第一とされているのと同じである。

自分の場合は地元だから津波のことを関心をもって何が起きたのか追求している。
これも一つの郷土史だということもあるからだ。
郷土史として記録しておくことも必要だからである。

その女性はすでに仮設に一年いて家を建てたから良かったという、仮設にいても将来がない
仮設は早くでるべきだと言っていたのは同感である
復興住宅にしろ小高に帰るべきであり仮設ははやく去るべきところなのである。
近くで烏崎の人が家を建てたがこれもほっとしているだろうなと思う
家もなくなってどうしよかと途方にくれていたのだから家ができたということは安心する
その人も家が建てられたから安心したと言っていた。

ともかく港は前も防波堤が台風で決壊して海の水が流れたこんで被害があった。
干拓した場所だから低い場所だった。
その時、ここは危険だと感じて他に移れば助かった
でも人間はなかなか長く住んでいる場所から離れられない
よほどのことがない限り離れられない
自分もここが不便で嫌なことがあっても土地と家があるから離れられないのである
だから人間と危険なところでも住み続けている傾向があるのだ。

posted by 老鶯 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月12日

早春の流れ (fotoskecherで写真を絵に変化させる)


早春の流れ

(fotoskecherで写真を絵に変化させる)


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新田川上流

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橲原の滝

これは写真の方が良かったみたい


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大古の森の流れ

写真にとったものをfotoskecherで変化させた。不思議なのは写真より光の具合が春らしくなっている。
そうだとすると写真は忠実に自然を写していないのか?
カメラのせいなのか?人の眼で感じるなら明らかにこうして加工して変化させた方が
春らしい光なのである。


とすると写真をなんらか調整しないと自然をそのまま現さないことになる。
自然をそのまま写真にしても見栄えがないことがある。
この三つは絵画化して成功した方だろう。


パソコンのソフトで変化させるという時、別なソフトだとまた違ったものになるから
不思議である。
コーレルエッセンシャル4は使えなくなりfotoskecherを無料なので試してみた。
これは印象画風とかないが他は同じような効果がある。
たからこれでも絵画風にできる。
使い方も簡単だった。

桜や梅を見てめぐる相馬の春


桜や梅を見てめぐる相馬の春

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fotoskecherで変える

同じ写真でも加工するとかなり違ってくる。
これは明るい日ざしを感じる。
色も鮮やかにできるからこのソフトは無料なので得である


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クリック拡大

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残雪の蔵王を望み朝桜

燕来て喜び飛び交う街の空
隠されて一畑に人梅匂ふ
大石に梅ふんぷんと匂い散る
ゆくりかに進みし船や春の海
家々を桜で飾りひなの村
一村は花に染まりて夕暮れぬ
城下町路地裏細く夕桜
春の灯や復興住宅に住みはじむ
春の星きらめきあいつなごむかな
大石のここに動かず春の星


海よりの朝風吹きて雲雀鳴き野は広々と沖に船見ゆ

津波にもめげず立ちにき神社の樹なお海のぞみ春の日さしぬ
神社にはなお樹の根を張り残るかな磯部の村は大方消えぬ
残雪の蔵王かなたに明けく見えてこそあれ朝桜咲く
ここにしも長くもあれな大石に梅の匂いて散りにけるかな
朝日さし木蓮の白さまぶしかも桜も映えてときめきにけり
桜咲く家の栄やめぐる村跡継ぐ人の守るべしかな
夕日さし枝垂桜の長々となお優艷に色を見せしも
みちのくに桜は咲けど北風の今年はなおも吹きつつやまじ

三年を鹿島に過ごす小高の人桜の下をともに歩みぬ

とことわの磐にこそあれ紛々と梅のにおいて散りにけるかな

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この石はなめからで丸みを帯びていて大きくどっしりとしている。
何か入り口にあっている。
ただ石でもそうだが写真だけでは感じられないものがある
実物をゆっくりとながめないとそこから発している気は感じられない
大きさもわからないから写真で感じるには限界がある

下の石の庭を加工したものは写真よりいい
ということは絵の元も写生であり写真だから絵になりやすいのである
写真はもともと絵なのである。



磯部から新地の方に回った。新地も気持いい場所である。田舎だと家々に桜が咲いているのが結構みかける。
桜の木があるということはそこは古い家である。なぜなら桜の木が育つまでには時間がかかるからだ。
だからそれなりに家がつづいて栄えたということがある。

自分が注目するのはあとは庭の石である。石にはよくみると個性がある。
今回見た石はどっしりとして落ち着いていた。それが農家の入り口にあり
梅の花が匂っていた。そしてその梅の匂いはその石にゆっくりと流れて散ってゆく
十分に匂いに満たされて散ってゆく、そういう時間があって心豊かなものとなる。
石は定着して心を養う象徴なのである。だから忍耐の石となる。
今は春であり石にも春風がそよぎ春の日がさし梅の匂いに十分にひたされている。
梅はすでに散り始めていた。


日本では桜咲く時が一番いい時である。木蓮の花も満開でありこの花も風にゆれ澄んだ空に今咲き誇る。
木蓮と桜が一緒に咲いている庭が新地にあった。
農家には広い庭があるから気持いい。そこにゆったりと落ち着いた石がある。

とにかくこの辺では津波原発事故で変化が激しすぎたのである。
だから石のように動かないことが幸せになった。
故郷に住めなくなった人が多いのだから動かないでいられることが幸せになった。

そしてすでに鹿島でも仮設に住んでいる小高の人も三年になる。三年はそれなりに長いのである。
どんな心境になってしまうのか不思議である。
川の土手の桜の下を散歩しているが鹿島に三年いたということもなじんだということもある。
ただ仮設には生活感はない、ただ一時的な仮の宿にすぎない
でも復興住宅が一部完成して人が入り灯がともると生活感がでてくる。
そこは仮設とは違ってくる。だから仮設というのは早めに去るべき場所なのである。
何か宙ぶらりんになってしまっているからだ。そこいてはいつまでも復興はないのである。


それにしても今年は今日も北風が吹いてうなっている。昨日もそうだった。
この風は普通は相馬の空っ風というように3月に吹く風である。
今年は4月に吹いている。だから小さい畑を作っている人は自転車でゆくから嫌だと言っていた。
農作業は天候に左右される、農作業するにも天候の影響があり雨風になると
仕事したくなくなる。これは建築関係もにている。屋根を作ってしまいは建築関係は仕事ができる。
農作業はできない。それでも草取りなど雨の時でもしていたのを子供の頃みていた。


いづれにしろ今年のは花見は何かこの北風でいつもとは違う。この北風で穏やかな花見になっていないのだ。

2014年04月10日

津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

posted by 老鶯 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)


八沢浦と磯部の地形と神社

(津波との関係は・・・)




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蒲庭に行くところ

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この熊野神社江戸時代に祭られたのか


磯部村

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寄木神社


 窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所とは、谷戸や窪地、湿地などのことである
http://matogrosso.jp/suribachi/suribachi-12.html

仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-7a92.html


権力者によって作られ街はかえって整然としている。権力者が真っ直ぐな道路を作る時必ずそこに住んでいれば障害が生まれる。
でもまっすぐな道路を作ることは便利になる。
だからローマ帝国ではまっすぐな道を作った。
日本でも大阪には緑地が少ないという、江戸にはそれなりに緑地があるのは
幕府の権力が強く緑地を残したということもインターネットで読んだ。
寺は武士に所属する官僚のような役目をになっていた。下部権力構造として幕府を支えていた。
でも権力者の都合で不便な土地に移転させられた。

不便な所に住むのは草分けとかではない、あとから入ってきた人や草分けから分かれて土地を求めた人は当然悪い土地、
不便な土地に住み着くことになる。
いい場所はすでに開墾されて人が古くから住んでいる土地だからである。

縄文時代は人は自然にさからなわないで逆らえず住んでいた。
まず稲作のために海を埋め立てたりできない、そんな技術力がないから自然条件に適合して生きる他なかった。
だから湿地帯とか海の平坦な地には住まない、だから津波が来るような場所には住まない
高台に人が最初に住んだという時、平地はヨーロッパでも湿地帯であり
害虫やその他のバイ菌などが発生するので高台に住んだのは同じである。


八沢浦では明治になって開拓された。江戸時代までは入江であり浦であり海が奥まで入り込んでいた。
それは今回の津波で一時その江戸時代の風景が再現されて驚いた。
それで妙見神社が海近くに祭られていて流されたのである。
神社の関係では熊野神社がこの丘の反対側の小高い丘にあり祭られていた。
八沢浦は明治時代以降住み始めた人が多い。
でもここは江戸時代から住んでいたかもしれない、熊野神社は古いからである。
ただ前は入江の海になっていた。でも小高い丘だからそこには住めた。

今回の津波でこの丘が防波堤になりその反対側の家は流されたりしなかった。
浸水しても家は残り今も住んでいる。

津波が来た時も津波がきた瞬間でも裏山に逃げれば助かった。
実際逃げて助かった人もいる。逃げ場家の後ろだから逃げやすい。
神社まで逃げなくてもちょっと上れば助かった。ここでは人は死んでいないだろう。
津波は地形によってその影響がかなり違っていたのだ。
新地相馬の火力発電所が海岸にあって被害が少なかったのはちょっとした地形の差にあった。
原町火力発電所はもろに津波をかぶってしまったのである。


蒲庭から古磯部の入江に牛頭天王神社が高台にありこれ津波からまねがれた。
古磯部となると磯部より古いから古がついた。
もともとはここが磯部の地名の発祥地である。
松川浦の方には後から人が住んだとなる。
ここも開拓された浦沿いに人が住んでいて津波で流された。
ただここは丘があり丘にもともと人が住んでいたところである。
だから磯辺小学校のある丘に住んでいる人には被害はなかった。

稲荷神社と寄木神社もこの丘の所にあり津波の被害からまねがれた。

神社は一般的に高い所にある。それは八沢浦にしても前が海であり低地には建てられない、
牛頭神社もそうである。あそこも入江だったからである。
磯部は砂州のような低地でありそんな危険な所に神社は建てられない。
だからこれらの神社は津波が来るすれすれではない、余裕ある高さに位置していた。

ただインターネットではしきりに学者でも津波の被害を経験していたから
その津波の被害の経験から津波の来ない高さに神社を祭ったというのは違っている。
もともと神社は津波を警戒して建てられた形跡あるものはわずかである。
津波は今回でも400年に一回くらいしか来ないとすると川の洪水のうよには警戒しない
もともと古ければ古いほど高い所に建てられる傾向かあるのが神社である。
高いところはそもそも理屈なしで神様がいるにはいい場所だからである。


津波は地形の影響が大きいという時、日本ではそうした警戒感がなく津波に流されるように街を作っていた。
磯部でも砂州のようになっている所に家を密集して作ったので壊滅した。陸前高田市でも三陸でも津波をもろに受ける場所に作っていた。
それは百年前とかにも大被害があってもそうしていたのである。
そこは仕事するのに便利だから同じように人が海近くの低地に生活するようになった。

そして今回の津波の被害を大きくしたのは稲作とも関係あるのかもしれない
海老村でも漁業するより稲作をする場所として最初に南海老村があり北海老むらになり
上海老村とか下海老村とかに分かれた。
海老村というと漁業の村のように思えるが実際はその前は稲作をしていた田んぼだった。

それは烏崎村でも一見漁業の村のように見えても袋村が消えたように開拓して田を作り広げていたのである。
漁業だけで村が生まれ発展するということはなかなかない

海はそもそも危険であり船を作る技術なとが進まないと住めない地域である。
それを象徴していたのか鳴瀬町の牛綱村だった。
漁業で使う網のつなを作り浜町に運んでいたからである。
浜市とあっても背後に農家がないと成りたたないのだ
漁業だけで生活するのは初めは無理だった。


そして浜側に家が密集したのはその後ろが広い田んぼになっている。
その田んぼでは米をとるので家を建てにくい、すると海側の狭い地域に家を密集して建てたということもある。
日本では土地がすくない、田んぼにする土地が少ないから苦労してきたのである。
家として確保する土地より田んぼとして土地を確保して家を建てるというのが順序だったかもしれない。
それで海岸の砂州のような危険な場所に家か密集したということもありうる。

posted by 老鶯 at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月09日

新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す (相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)


新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す


(相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)

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鹿狼山の花木山でそこの庭を管理する人と話しした。
その人も新地の海沿いで一メートルの津波の被害にあっていた。
でも家は流されず住んでいる。

面白かったのはあそこは広く太平洋が見える。牡鹿半島も金華山も見える。
あいにく今日は晴れて天気がいいのだが見えなかった。

「ここは海が近いから海の景色がいい」
「あの船があの辺にくると何時になり船がすれ違う時、2時半なんですよ」
「ええ、そうですか、確かに船はゆっくり進んでいるからまるで時計の針みたいだな」
「あそこの火力発電所の所ですれちがうんですよ」
「なるほど、自分も太平洋フェリーには良くのりましたよ、あそこですれちがって
汽笛をどっちも合図のために鳴らすんですよ、ずいぶん接近してすれちがですよ」
「私は乗ったことがありませんから・・・」

自分は太平洋フェリーには北海道の苫小牧に行くのに10回は乗っている、
たいがい梅雨の時期が嫌なので船に乗って北海道を旅していた。だから北海道には一番行っている。
名古屋にも何回かわからないが3回くらい行っているかもかもしれない、
一回は自転車で行って奈良まで行ったから遠かった。だから太平洋フェリーはなじみなのである。
船旅はのんびりしているからいい、疲れないのもいい、ゆっくり眠れるからいいのである。高齢者でも船の旅は楽である。


その人の話で興味深かったのは病院の話である。

「あそこに渡辺病院が建ったんですよ、あそこはみんなが欲しがる一等地だったんですよ」
「あれがそうですか、自分も南相馬市立病院に一カ月入院していました、あそこの病院もながめがいいですよ、
海が見えて船が通るのが見えるんですよ、あそこは一番高い建物だから見えるんですよ、
大原の方も見えましたから、大原の人と一緒だったんで話しして暇つぶししていたんですよ、
建物が立派だ気持いいのは確かですよ、でも看護師や医者が集まるのか、それが問題ですよ」
「相馬市立病院ではもう限界でしたよ」
「あそこは迷路で建物継ぎ足し継ぎ足ししていましたから、あそこは入院しても眺めが良くなかった、気晴らしになりませんでした」
「あそこは眺めはいいですよ、新地の一等地ですから」
「この辺では病院が大事ですよ、双葉や浪江から来ていましたから、・・・科はないから南市立病院に来るほかなかったんですよ」
「相馬市立の院長は双葉出身ですよ、双葉高校ですよ」
「えっ本当ですか、それは知りませんでした、双葉高校は一回甲子園にも出ました
あそこになぜ高校があるのか、6000人くらいしかいないから、そんなところから優秀なお医者さんが生まれたのは驚きです、
何かと双葉の人達は評判が良くないですから
すると原発事故の双葉と関係していた、実家は双葉にあったんですか」
「福島医大で腕はいいですよ」
「確かに相馬市立病院で・・科は三人もいましたから、南相馬市病院では一人若い人にまかされていました、
その人は原発事故騒ぎでやめたようです K先生には実際にみてもらったしお世話になりましたけど・・・」


この辺ではまず東大に入ったなどという人は何年に一人もいない地域である。東北大に4,5人入ればいいとかなっていた。
そもそも地元から医者になれる人は相当に優秀な人である。歯医者はほかにいるが他の医者は少ない、
たいがいよそから来た医者である。
だからよそから来た人だと思っていた。それも双葉の人と聞いて驚いたのである。
まず医者の価値は高い腕がいいければまたさらに高くなる。地元から腕のいい医者が出れば
そして勤めればかなり助かるし地元に貢献することになる。

それで地元で奨学金のようなものを出すからその条件として地元に勤めるようにしてもらいたいと医者の養成に必死なのである。
もちろん看護師もたりないからなんとかしてくれとなっている。
それで南相馬市の最近できた老人健康施設が新しくできたが百人収容できるが
働く人は会津だとか福島県内からの応援ではじめた。十人の介護士を募集しても人が集まらないのである。
だから渡辺病院で集まるのかという疑問がある。
建物は立派でもそこで働く人材を確保できるのかどうかが問題になる。


「双葉というと自分の父親は酒屋に丁稚奉公していた、葛尾村(かつろう)村の出身で双葉の新山の酒屋で働いた。
その隣が原発事故以後有名になった大きな酒屋で話題になった
今でも街の中で大きな煉瓦の煙突があるから街の中心みたいになっているんですよ」
「そうですか、K院長は双葉出身ですよ」
「それは知らなかった、てっきりよそから来た人だと思っていた」
「ああ、そろそろ船がすれちがうころです」
「本当にすれちがっています」
「今日はちょっと遅れたな」
「あの船を見て時間がわかるのは本当に面白い」
「今日は牡鹿半島も金華山も見えない、晴れても見えない」
「まあ、なかなか見える日は少ないです」

「高速道路がこの前にできていたんだ」
「今年木の11月には全線開通です」
「それは復興にとっては大きい、すぐ前にあるからここにもよりやすい
東京当たりからもここは眺めがいいから来るんじゃないですか」
「まあ、三年目ですけどなんとかやっています」


あそこの花木山で一番面白いのは確かにあの船を見て時間がわかることだった。
何も見えないが船の進み具合で時間がわかる。毎日見ているからそのことに気づいた。
本当にまるで船は時計の針のうよになっていたのである。
高速道路もじき前にできていた。いつのまにできたのかと思う。
急ピッチで工事をしていたのだろう。
この常磐高速道路がつながると鉄道代わりになるしそれ以上のものになるから復興には大きい

いづれにしろk院長が双葉出身だったということで何かこれも原発事故と関係していたのかと思う。
もちろん新地にも双葉の人が土地を買って家を建てたということも言っていた。
縁故が相馬藩内に多い、結婚しているのも相馬藩内が多い。ただ今はとんでもない遠い所に嫁に行っているから変わっている。
それでも縁故をたどってゆくと田舎ではまるで織りなされた糸のように人が関係しあっているのだ。

新地も自分の父親の前の妻は新地出身だった。現在でも新地の人を知っている。それは悪い面で知ってしまった。
田舎はだからあいつは誰々の子供でその親はどうだったとかたどる。するとなかなか悪いことが本当はできにくくなっている。
信用は一代だけではなく二代三代とつづいて築かれているからだ。

農家などはその土地に根付いているから余計にそうなのである。
農家では三代つづかないと農家として認められないというのはそのためである。
一代だげではその土地のものとして認められないのである。
だから本当は田舎では悪いことはできないのである。その話しが一代だけで終わらない、
恨みで次の代でも受け継がれたりするからそうなる。

ともかくK院長が双葉出身だということはかなり重要なことかもしれない。
それは今回の原発事故の当事者にもなっている。よそごとではないものとなっている。
ただ双葉出身者でもそういう腕のいい医者が輩出したということは誇りだろう。
田舎の高校はレベルが低いからである。だから医者になれるような人はなかなか出ないのである。
歯医者は多いから別である。

いづれにしろ双葉となると全国で知れ渡ってしまった。町長も有名になり参議院選に出たが落選した。
双葉は何かと悪い印象をもった人が全国で多かったろう。
まず双葉高校となるとそんなところからも医者になれる人が出れるのかという疑問をもつだろう。
でも一回はこの辺では出たことがない甲子園に出場した高校だからこれも不思議である。
医者でも看護師でも地元で確保できるのにはこしたことがないし力強いものとなる。
相馬看護学校を作ったのはそのためである。

そういう地元に貢献してくれる人材養成がこの津波や原発事故で特にみんな感じたのである。
若い人が流出して老人ばかりとりのこされるような恐怖を感じたからである。
ここで育ててもみんなよそに行ってしまっては何になるのだとなる。
それは地元でそれだけ困っているからそうなったのである。
職業でも仕事でも土着的であるべきだというとき、医者でもそうなのである。

東京のようなところだったら郷土意識地元意識もない、ただ機能的に腕がよければいいとなる。
土着的というとき医者という職業でも地元全体にかかわるものとして仕事する必要がある。
要するに原発で働く東電の人たちにはそういう意識はまるでなかった。
ただ東京に電気を送るために土地を借りているという意識しかなかった
だから事故になっても無責任だし作る前も無責任だった。
どうけ東京には被害が及ばないとか安心していた。
だから原発は東京に作るのが一番良かったし理にあっていたのである。
それは東京でも地元であり巨大にしても運命共同体になる。

福島なんか離れているからどうなってもいいとかの意識では責任もって原発を稼働はできない
故郷とは運命共同体のことかもしれない、戦国時代だったらそうである。
勝つにしろ負けるにしろ運命共同にするほかないからである。
日本も戦争で負けたにしろ間違った戦争にしろ運命共同体だからやむをえないとなる。
それで外国人を労働者にいれても運命共同体としての責任がないから便宜的なものだから
あとあとやっかいなことになるというのも現実にヨーロッパでは起きているのである。


原発を作るにしろ作らないにしろそれは地元では運命共同体という意識をもつ必要があったのかもしれない、
戦国時代なら生死をともにしたから運命共同体だったけど今は故郷といっても都会化しているから
そういう意識も薄れていた。だから危険な原発のことを真剣に考えることも地元でもなかったのである。
そして運命共同体としての基礎となる故郷すらなくなったのである。
そしたら何がその町の絆となるのか?そんなことまで問われることになった不思議がある。
原発を作ることはどういうことなのかこの辺では問われたし他でもそういうことが問われているのである。



この双葉高校の同窓会長でもあった田中清太郎元町長が、町への原発誘致を推進した

双葉高校はイワキに継ぐ進学校だった。創立も古い。だからやはりそれなりのこの辺では高校だったとなる
http://getnews.jp/archives/239731

posted by 老鶯 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年04月08日

ソフトの加工で変化する抽象画 (フォトショで変化させたー蝶の抽象画)

 

ソフトの加工で変化する抽象画

(フォトショップで変化させた-蝶の抽象画)


神秘の森の蝶のまぐわい

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コーラルエッセンシャルズ4がビスタのパソコンが壊れ使えなくなった。
WINDOWS8にそもそも対応していない
エッセンシャル4で面白かったのは画像を絵画風に変化させることだった
あの機能はエッセンシャル4にしかない
印象画風にするなどは他にはない
ソフトを選び使うことがむずかしい
その窓口がない、仙台のヨドバシカメラの人はソフトに詳しい人がいた
ソフト専門の売り場である。
どういう系統のソフトかを知っていた

フォトショプが画像の加工にはいいとしって体験版もあると聞いて試した
確かにこれは意外と使いやすくなっていると感じた
ただ印象画風とかイラスト風とかの変化はないよたいだ

ソフトが変わると別な変化ができる
つまりソフトによってみんな違った加工になるのだ
それがパソコンの面白さである。
一回使っただけだからわからない、絵画風に変えるのにはものたりないようだ

元の絵を変化させて三つ作った、何か違ったなるのがパソコンソフトの面白さである。
無限の変化をバリエーションを楽しむことがてきるのだ

これもなかなか暇がないとできない
自分は介護から家事全般からしていると忙しい
今日も事務手続きを二つしてきたりと何かと忙しいのである
なんかこうした趣味的なものでも時間をかけないとできない
才能ではなく開発能力なのである
それがパソコンのソフトなどでは特に必要である。
自分が全く絵が描けないのに絵を楽しむことができる
バソコンは能力開発させるものがあるのだ。


ただすべて買い物でもパソコンだけでできるかと言ったらできない
店が不用になるかといえば店に店の役割がある
なかなか体面的にどんな分野でもガイドしてくれるものがないとわからないのだ
そういうガイドするプロがこれからは必要になる

例えば観光だってそうである。
ガイドされないとはじめての土地でもわからないのである
外国では特にそうだった、何になのか全くわからずじまいのが多かった
それが今になると行けないからもったいなかったのである

posted by 老鶯 at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか (津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)


八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか

(津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)

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高台にある鹿島区川子の八龍神社


八龍社
大同元年(806)上栃窪村 八龍明神 天津彦火々出神 近代冠嶺神社
永長元年(1096) 江井村(館内) 八龍社 大綿津見神 江井氏の守護神
永亭(1437) 馬場村 八龍大権現 大綿津見神
文安2年(1446) 萱浜村 八龍大権現
天文十三年(1545) 小島田村 八龍大権現
元亀元年(1570) 萩迫村 八龍大権現 綿津見神
天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現
烏崎村 八龍社?

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川子の森山の八龍社ができて何十年後に烏崎村の八龍社ができたのか?
順序としてはそうなる可能性が強い
ただ百年後とかではないからその時間差が何を意味しているのか
30年後とかに作るのか
神社がなぜ作られたのか不明なのが多いのである。



津神社

大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

慶長年中 烏崎村 (牛島) 津大明神
享保年間 北原村(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


烏崎村の八龍神社は津浪が来た水位ですれすれで残った。
これは何かと不思議に思うのは当然である。
慶長津浪の後に作られたから津浪を知っていて祭ったからあの高さに作った。
急な石段を上るからそういうふうに見える。
しかし神社の謂われは意外と古く、東北でも古い。
古代にもさかのほり大同村とかあるように蝦夷の大和王権の征服と関係して建てられた神社が多い。
鹿島神社もそうである。
これは国津神系統である。征服神である。

その他の無数の神社は何を祭っているのか、何に由来しているのかわかりにくい。
しかし調べてみると古い時代のものであることがわかる。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に起きた津浪の前にできたものが多いのである。
八龍社にしてもそうである。烏崎村には慶長津浪の起こる前に南北朝時代に霊山から逃れた桑折氏などが住み、
その系統の遠藤氏がすでに住んでいた。
だからいつ建てられたのかというと慶長津浪より前だと推測する。

その重要な手がかりが川子村の高台の森山にあった。
そこの八竜社は目立たないので新しいと思ったが古かったのである。神社は新しいようで古いのである。


天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現


これは慶長津浪の前にできたものである。
その後、20年後に慶長津浪が来ているからこの時間差が何を意味しているのか?
一つの予測としては川子の八竜社ができて次に順序としては烏崎村に作ったと推測される。
ただこの逆もありうるが順序としてはそうなる。

八竜社に共通しているのは綿津見神である。
海の神であるから海と関係していたとしてもあとはまた違ったものとなっている。
自分の予測ては慶長津浪の前に建てられたのであり偶然に津浪のすれすれで残った。
もし本当に慶長津浪を知っていて建てたならもっと津浪を怖がるから高く建てるということも考えられる、
すれすれでは危険だからである。
慶長津浪の高さがその時烏崎でどのくらいの高さまで来たかはわからない。
だからなんともいえないことはある。

一方津神社を見ると


大宝二年(702) 棚塩村(浪江町) 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)


貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神


この津神社は何なのか?これも貞観津浪とかは関係ないだろう。
津神社というのは岐阜県にもあるからこれも津浪とは関係ない
津とついているからと津浪とは関係ない


確かなのは烏崎村の牛島の津神社は明らかに津波を記念した神社だった。
なぜなら慶長年間に祭られたとすると時代的にあっているからだ。
海岸沿いにあるのはおかしいとなるがそこが鯨を祭っていたというのは
津波で鯨が打ち上げられたからかもしれない、そういう例は他にもある。
それで鯨を祭るようになったのかもしれない。
だから海岸に接してあってもとかしくないのである。


享保年間 北原村(原町区)(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


この神社は慶長津波から百年後に建てられている。
これは高い所にあり今回の津波でもあの高さまでは来ない高い所である。
それはなぜなのか?なぜ百年後にあそこに建てたのか
慶長津波と関係していたのだろうか?
もし慶長津波を知って建てていたらあの高さに建てれば津波は来ない
だからこそ建てたとなる。
でも百年後になるとする津波の記憶もうすれているはずである。
なぜそのころ建てたのかという疑問になる。
伝承として伝えられたからあらためて建てたのだろうか?

相馬市の津神社(つのみや)は津波が来たとき逃げれば助かるという言い伝えがあったという。
あの高さでも危険ではあったがまねがれる位置にあった。
だから津波と関係して建てられたのだろうとなる

結局相馬郡では慶長津波でもその伝承は二三残っていたとしても希薄だった。
だから津神社にしても津波の伝承は明確に残されていない
神社が津波から残ったのはただ偶然だったともなる。
平地で津波か来た地点にあった浪分神社などは明らかに津波の来た地点を示していた。
その他はどこまで証明できるのかかてたむずかしい作業である。

posted by 老鶯 at 00:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月07日

海老村に残った二本の松の根 (津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)


海老村に残った二本の松の根

(津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)

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家消えて津浪の跡に土筆かな

津浪跡根のみそ残り松二本海老村消ゆも土筆生えにき
凄まじき津浪を語る松二本根のみ残りて春北風(はるきた)唸る

場所替えて海老村の人のこの町になお根づきつつ生きるものかな

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山の激流を感じる庭である
この庭は見物である
ここからは海も一望できる


壊滅した海老村は三年過ぎても何も変わらない、その時のままである。
ただ春になり土筆が生えていた。
なんか今回の津浪や原発事故周辺の不思議はかえって
自然の方が復興していることなのだ。
津浪の跡にも土筆が生えタンポポも咲いていた。
土筆が生えたということは自然は復興しても人間の方は復興したとはならない

原発事故で人が住まなくなった飯館村行く山の道には羚羊がでてきた
人間世界の不思議はもし人が住まなくなったらどうなるのか?
それは元の自然が回復してゆく不思議である。

人の世界は消えても自然は元あった自然に回復する
それは東京のような大都会でも未曾有の災害が起こり巨大な街が消失しても
その跡にはやはり自然が回復してゆく
野が森が海が回復してゆくことは美しい自然がまたもどってくるということなのだ
この辺は別に美しい自然はあった。ただそこにさらに元の自然にもどってゆく


いづれにしろ海老村の跡は津浪の起きた時と同じであり何も変わっていない
だからよそからきた人はこれを見れば津浪のすさまじさを一目見てわかる。
この二本の松の根は残された。
海老村は墓地を残して消えた。でもその住民はこの土地にまだ住んでいる
三陸の方では住まない人も多くなっている。
こうしていつまでも荒れ果てた状態になっているのか?

復興とは何なのかこの辺では三年過ぎても同じである

変わったのは富士旅館である。
その庭か芸術品なのである。
激流か流れてその上に石の橋がかかっている
石がごつごつした山の磐の道が作られている
ここは旅館なのだろうか
まだ人は泊まったり使ったりしてはいない
ただ前に家がなくなり海が一望できるしこの石の庭は圧巻である
春北風(はるきた)がまだ唸っていた

posted by 老鶯 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所 (鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)

 

南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所

(鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)

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南相馬市で増えたのは宿泊所である。
小池にも最新式の設備があるホテルができた。
レオバレスはこれから建つ、でも工事関係者か来なくなったら
利用する人もいなくなるように思う。


それでも建てているのはやはり除染とか原発関係の仕事が長くつづくからだろう、
廃炉に三十年とかなればその先は普通の建築の仕事とは違う。
ここからも原発に通っている人はいる
浪江ではその工事関係者の宿泊する場として街を残そうとしている
それだけの需要が先が長くみこめるのだろう
確かに津浪関係の仕事などは終わるが原発は終わらない
いつ終わることのない作業がつづけられる
それは何か徒労にさえ思われる
延々と非生産的な作業をつづけねばならない
それは一つの罰ゲームのようにも思える


フレハブは建築会社で一時的に建てたものだから取り壊される。
それにしても南海老から北右田辺りに新しく建っていた
プレハブの簡易宿泊所の駐車場には
全国の車のナンバーがあったのに驚く。北海道から京都まである。
全国から労務者を集めているのだろう
あそこはもとは電子部品を作っていた工場跡地だったみたいだ
その工場もやめてその敷地を貸した

これだけ外部の人かまだ来ているのだから原町の湯は外部の人の専用の湯にもなる
そこにどういう人が入ろうと疲れをいやす場も必要だから断るわけにはいかない
「入れ墨お断り」と書いてあるのはそういう人達か入ってきている場なのである

 

人集めにはぼ関係の人が集めているのもあるだろう
そういうことはうるさいといっても人手かたりないとなるとそうはいかない
そういうふうにして集められて廃炉作業で死んだ人たちがいるだろう
そういう人は身寄りがないとかかもしれない
身寄りがないということは厳しいことになる
死んでも訴える人がいないから闇にほうむることができる
病院だと実験台にされかとは解剖用として使われる
身寄りがないということは無宿者扱いにされる
それは現代でも同じだったから恐怖なのだ

原町でも相馬でもレオパレスはあった。
でも鹿島にできると何か都会化したのかとも思う
田んぼの中にできるから奇妙な感じになる
あれはアパートとも違った感じになるからだ

posted by 老鶯 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

人間は実際に現実に直面しない限り実感しない (廃炉作業や外部から働く人達と地元の人の問題)


人間は実際に現実に直面しない限り実感しない

(廃炉作業や外部から働く人達と地元の人の問題)

前に書いたことあった。仮設の食堂でボランティアが地元の人がなぜ働かないんだと
喧嘩になったとそのことが現場にいないからよくわからなかった
前よりは外部の工事関係者は減っている、でも実際はその仕事にかかわらないとわからない、
そこで外部から来て働いている人はどう思っているのかわからない

湯であった人は別に入れ墨もしていないけどちょっとした失敗でその人が大きな声でどやすのでわかった。
親分肌の人だったみたいだ。
ただその人のことはほとんどわからない、年は結構とっている、50はすぎているだろう。
歳の人も結構きている。あの人は現場で肉体労働だろう。
13時間働いているいうことは底辺の労働者であり断れないのだろう

この辺は何かあっち系統の人たちが目立つということがあるかもしれない
地元でもそういう人がいたけどその人にはそういうものは感じなかった
あの人とは一瞬目があって殺気を感じた
そこにいた時間はこくわずかだったがその人が13時間働いているということは何だったのか、
それ以上のことは全くわからない。
話しもほとんど聞いていないからだ


ただ南相馬市でも現場ではそうして誰であれ過酷に働いている人たちがいる。
それが自分でもそうだが補償金で働かない人はわからない
ただボランティアの人達と地元の人達が喧嘩になったのはそういう背景があったのだろう
それはずっと自分も書いてきたけどそれも自分の身にふりからないから自分も同じであった。
お前も廃炉作業で働けよと言われたらできない

でも実際に廃炉作業で死んでいる人は9人とかすでにいる
そのことはかなり重い事実なのである。
もっと死んでいるかもしれない
その死に対して地元の人達も無関心だろう
現実に毎日パチンコとかで遊んでいることも確かにある
別に補償金でそんな危険な作業をしてくてもいいからだ

ただ考えてみると今回の原発事故の原因は地元の人達にもあった。
だから責任の一端はある
もちろん故郷に住めないとか責任をとらされたから被害者だという意識が強い
でも加害者だったという面も原発周辺にはあった

だから聞いた話では建築関係の仕事をしている人は
車に仙台のナンバーをつけているという
南相馬市に住んでそんなことできるのかと思ったができるらしい
というのは税金は福島県に払うからである

つまり外部の人はあんなに補償金をもらっている人達に反感を抱いているからそうなる
だから南相馬市で原町に住んでいるということがわかり
福島市で車を傷つけられたというのは本当のことかもしれない
福島市は放射線量が南相馬市などより高いのにもらえないからうらやましがっている
相馬市も同じであり補償金で贅沢して働かない人達を非難していた

この辺は何かそうした内部の人たちと外部の人たちとの軋轢がある
イワキではそれでいだずらされたり被害もでていた

南相馬市内部でも複雑に補償金が配布されていて対立しあう。
鹿島区でももらっている人はもらっているという
18カ月分もらっている人はいるらしい
寺内では一軒はもらっているとかまた塩崎とか烏崎でももらっている人と
もらっていない人がいるとか本当のことは誰も言わないのでわからない

原町でも全部がもらっているわけではなく六号線沿いなどはそんなにもらっていないらしい
石神辺りでも隣がもらっているのにもらえないともめたりしている
都路では人家が多い方がもらって人家が少ない方がもらっていない
これは放射線量と何の関係もない
東電では人が多く住んでいるとその人たちに抗議されると困るから補償金をはらった


補償金で福島県内でももめているし南相馬市とかの内部でも分断されてもめている。
外部から働きくる人たちはまた内部の人に不満があるのかもしれない
俺たちは誰のために働いているんだとかあるかもしれない
もちろんそういう底辺層で働く人たちはただ金になればどこでも働く他ないという事情がある
そういう事情をなぜかかえたかはわからない

ただ自分でも8人が廃炉作業で死んだとプログに書いたとしても何か深刻さが全然ないのである。
ちょうと自分とは無関係のニュースの事件やドラマを見ているのと同じである
何か当事者という感覚がないなのである。
補償金で暮らしている人も仮設は窮屈でも廃炉作業して死んでいる人かそれだけいるということを深刻に思わないだろう。

もちろん自分は津波で家族を失っていないからそういう人たちのことも深刻に考えない
ただ近くで知り合った人があの辺は被害もないと思っていたが意外と深刻な被害があったんだと知った

近くでも災害でも当事者にならないと実感しないのが人間である
八沢浦が美しく蘇ったとというとき、ここて子供まで死んで泥から探し出したのに
何なのだというと言われたときもそうだった
その当事者にすれば生きるか死ぬかの経験だったのである。

人の出会いでもインターネットだけではわからないだろう
湯であった人から何か殺気のようなものを感じた
人間は何かの気を発している、それか文字だけだとわからないのだ
人間の出会いはちょっとしたことだけでも火花を散らすことがある
だから道ですれちがって当たっただけで因縁つけられて殺人事件まで起きる
だからちょっとした人の出会いでも危険が人間にはつきまとっているのだ


なぜ当事者としての感覚をもてないかというとやはり現場にいないということがある
もし一緒に働いていて死んだ現場に立ちあいば衝撃を受ける
でもその現場にいなければそういう衝撃はないのである。
だから気楽にニュースでも娯楽のように見ているのだ
津波のあれだけ悲惨なニュースでもそうなる場合がある

自分も近くでもそうだった
家族が死んだ人がいるのに感じなかったのである
自分が感じたのは津波とか原発のことより自分自身の一身上のことだった
だから人間はそうした現場で苦労していないと危険を感じないと実感しない

ただあういう人と一緒にいるのは正直嫌である
建築現場は別に原発の廃炉作業でなくても過酷である
歳とったらそんな肉体労働はしたくないだろう
だから怖いと見えたその人も死にたいという言っているのは嫌になっているのだろう
その人のことは実際は二三言話したの聞いただけであり全くわからない


いづれにしろ原発事故周辺でも廃炉作業とかしているのはほとんど外部の人たちである
内部の人たちはそれなりに責任あったのに働かないことに対して
外部の人たちはどう思うのか
そういうことは何かかかわらないからわからないのだ

ただ正直今の時期は桜が咲くから桜を見ていたいとなる
そんな過酷な現場では強制されない限り働きたくないとなる

でもこの辺では復興というとき、やはり地元の人たちが働かないで外部まかせではまずい
「なんか、外部の人たちが入ってきて治安が悪くなって困るな」
「なにを、お前たちかそんなことが言えるのか遊んでいるくせに」
「俺は毎日13時間働かせられいるんだよ、その苦労がわかるか」
そんなふうに大声でどつかれたら多少はこの辺どういう状態にあるのか実感するだろう
わずかの時間でありほとんど話を聞かなかったけど自分のちょっとしたミスから感じた

貧乏でギリギリの生活をしている女性もそうだがまた過酷な労働を強いられている人も現実にいる。

外部から来た人たちのなかには強制されたように奴隷のうよに働かせられている人たちもいるかもしれない、その事情はわからない。
建築工事関係の人たちが除染もそうなのか何か雰囲気が荒っぽくなってしまうだろう
ただかかわらなければ別に感じないのである

除染というと相馬市の今田でもしているという、相馬市でもしているのかと意外だった。
山の方だから放射線量が高くしているのだろう。
この辺はこうしてまだまだいろいろな問題の地域でありいつまでつづくのかと思う
だから避難区域の人たちは何かいろいろ問題がありすぎて帰りたくないという気持もわかるのでてある。
でも実際小高の人たちも原町でも鹿島でも留まるということはまたむずかしいのである


ともかく今は桜の時期だから桜を楽しみたいというのが偽らぬ自分なのである


posted by 老鶯 at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連