2014年05月30日

地元に根ざした土着的メデアの必要性 (南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)


地元に根ざした土着的メデアの必要性

(南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

すでに10カ月もいる地元の津波のことを主に調査研究している人が
南相馬市の博物館にも津波のことを最新の研究から警告しにきていたという。
でもとりあわなかったという。

自分も前に時事問題の深層で松川浦からかなり奥まで津波が来ていて
その砂が発見されたということを書いた。
ボーリング調査でそのことがわかってきていたのである。
それは宮城県でもそうであり実際は科学的調査は進んでいた。
その実績をふまえ東電にも貞観津波のことを警告していたのである。
それを東電では全くとりあわなかった
南相馬市の博物館に来て警告してもとりあわなかった。
ただ一応南相馬市では津波に備えよと広報で出してはいた


ではなぜ南相馬市博物館でとりあなかったのか?
それは津波は郷土史と関係ないと思っていたのかもしれない
野馬追いのことなどが主要なテーマであり
貞観津波のことを言われてもなんのこととなったのだろう。
南相馬市は原発に実際に勤めていた人は思った以上に多かった
そうならば原発にもっと関心があっても良かったはずである。
でも意外と関心がなかった
ただ小高にできるとなると関心がでてきたろう。
それも実際に小高にすでに東北電力で原発が建てられることが決まり
工事がはじまるところだったのである。
それも原町や鹿島では知らない人も多かった。
自分も知らなかったし原発の話しは聞いても関心がなかった
30キロ離れているということで関心がもてなかった


でも相馬藩となると原発が建った双葉地域も相馬藩内だった。
郷土史という観点からすると郷土史的に関心をもつべきだった
郷土史というと狭い範囲のものだと思っているが
実際は郷土史は自然史の段階からはじまるからまず広範囲な知識が要求される
だから郷土史といっても一人の手に負えるものではない広範囲な研究分野なのである
郷土史など狭い範囲だから調べ尽くされて新しいものはないだろうと思っている
ところが実際は灯台下暗しでわからないのである。

最近すぐ近くの神社に「天明」と刻まれた碑があった
そこは子供の頃遊んだ神社である。
そこに天明の碑があることを知らなかった
天明というと大飢饉があり相馬藩が疲弊してどん底に陥った時だったのである。
するとこの辺もその被害がありその碑が建てられて天明と刻まれたのかとなる
町内だから新しい地域だと思っていたのである。

このように人間は最も身近な所が意外と知らないのである。
鹿島御子神社のある脇の墓地にも天保の碑があったが
天明はそれより古いという驚きなのである。

郷土史というときそれはトータルな学問でありそれは別に過去だけではない
過去から現代に通じるものであり歴史から今を考察するのである。
人間は過去を知らなければ現在をしりえないのである。
ある人の一生でも過去がどうだったのか知らなければしりえようがないだろう。
だから津波のことがこの辺では記録もほとんどなく忘れられてしまっていた。
そのことが今回のような大被害になった
磯部や海老や烏崎など見れはわかる、壊滅して土台しか残っていない
そしてなぜあんな危険なところに密集して住んでいたのかと盛んに言われるようになった
それは原初の自然の状態から歴史を還りみないとわからないのである。


もし東北大の学者が東電でも警告してそして南相馬市の博物館にもきて津波のことを警告していた。
そういうことがあったのかと真面目に答えて郷土史をふりかえれば津波の対策もでてきたし
原発をかかえているのから余計に関心をもつべきだったのである
そういう歴史がほとんど相馬藩では記されていないし語り継ぐこともないから
今回の大被害になったともいえる
ただ比較的記録が残っていた宮城県でもそうだったからいちがいには言えない

科学者が言うには千年前のことを言ったりすると笑われるという。
予言者のようになり誰も信じないという。
仙台の海側に住宅地として広がった所は不動産屋に津波があったと警告しただけで
学者に土地が安くなるからそんな警告するなと脅されたということでもわかる

宮城県では伊達藩では慶長津波の被害のことは比較的記されて語り継がれていてもそうだった
ただ女川原発はやはり百年前にも三陸で大被害があったから危機感が違っていて高くしてぎりぎりで助かったのである。
相馬藩では津波のことはほとんど記されず伝えられなかった
それで双葉の原発にしても危機感が地元の人でもなかったのである。

要するに地元の人の危機感のなさが危険な原発を容認した
女川のように原発を建てるにしても安全性を見ていない
金さえもらえればいい、安全だとあれほど言っているのだから安全だ
それより金なんだよとなっていた

そういうのを警告するのはメデアの役目である
でも福島県のメデアは新聞でも雑誌でも原発から金をもらっているからしない
地元だからもっと地元メデアとしての使命があったが成されなかった
なぜそうなるかというと新聞でも雑誌でも金がかかりすぎるのである
新聞は毎日だけど雑誌なんか一カ月に一回しか出していない
するとどうして給料が支払われるのだろうとなる
それは企業とかからの宣伝費とかになる

すると東電の宣伝費だったらそれだけ経営が成り立つとなり
原発の危険性などどうでもいい金が先だ、経営が先だとなってしまうのである。
それで福島民報でも聖教新聞を刷って経営が成り立つような状態である
つまりメデアも経営的には弱い立場だから権力の笠下につくだけである。
それが象徴的だったのは東電で朝日新聞でもなんでもマスコミの幹部を
中国に招待していたとき原発事故が起きたのである。
何かこれも象徴的なことだったと思う。


マスコミでもそうだがメデアは自立していない、その経営は宣伝費でありそれは大会社のいいなりになるということになる。
すると地元のことでも何か企業のことでも批判できないのである。
だからメデアはメデウムであり中間というとき片寄らない報道が大事なのである。
それがマスコミにも地元メデアでもできないのである。
それは例えば地元でも漁業組合を批判することはできなかった

今になると漁業組合は事故前も事故後も破格の補償金を東電からもらっていたことがわかった。
でも地元のメデアで漁業組合のことを批判できたかというとできない
今でもできない、民友では汚染水問題で漁業組合で「苦渋の決断」をしたと
社説で書いている。これにしてもおかしいのである。
一旦どんなものでもそれが団体化して組織化するとタブー化して誰も批判できなくなる。
必ず抗議が団体から来るからできなくなる
そうなると批判されないからそうした組織団体は増長してゆき
今回のようにな大災害とか事故で明るみに出されるのである。
それは韓国のフェーリー沈没事故でも同じだったのである。
カルト宗教団体というのもいかに危険なものになっているからわかる
必ずそうしたものは増長してとめるものがなくなりついには巨悪となり
それを暴いたのは人間ではない津波であり神の力だったともなる


いづれにしろ民主主義ではメデアの報道のもつ役割は大きい。
知らされなければわかりえようがないし危険なものでもそれを暴くこともできない
政府ー東電ーマスコミが結託したとき、その隠された真実を暴くことはできなくなる
地元のメデアはマスコミとも違って地元密着型にならねばならない
郷土史でもやはり自然史から古代史から災害史から様々な角度から郷土のことを検討するべきなのである。
インターネットで発信することが無料なのだから自分のプログもそうしたメデアの一つとして多少の力を発揮するようになる。
そういうことはこれからのメデアでは必要である

福島県でも広いから福島県のメデアだけではないさらにその土地に根ざしたメデアが必要なのである。
それは企業の宣伝費とかで成り立つようでは地元全体のためにはならない

だから「標葉郷」が浪江のもともとの名でありそれは禁断の地だったのである。
こういうことも何か不吉だとして原発を建てないとするものも必ずしも非科学的だともならない、
わずかに残っていた伝説もそうだった
郷土史とは好事家のものではなく総合的なものとして現代に通じたものであり
そういうメデアは相馬藩を基にしてもつべきだったのである
福島県だと広すぎるからかえって原発のことに危機感をもつことはできなかった
中通りまで被害があるとは思いもよらなかったのである。



時事問題深層2005


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)


陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)

 3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

 内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。


--------------------------------------------------------------------------------

この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。
相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです

津波被害はくりかえす
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)
http://musubu.jp/jijimondai25.htm

これは2005年にスマトラ津波が起きた時自分が書いた
今になるとこれを書いたということは今回の津波のにつながることであった
そういう意識は全くないにしろこうして何かの事件に対して記しておくことは
あとあと見直されることがある
そういうことはマスメデアではしていたが個人ではできなかった
インターネットがはじまって個人でそれぞれの記録を記すことができるうよになった

だから意外とこれを記したことは大事なものになっていた
結局歴史は何が大事になるものかあとになってみないとわからないこともある
その時重要なことでなないと思っても重要なことがある
重要だと思われても重要でいないこともある
だから個々人が記す記録などでもあとで重要になることもある
ただその情報が膨大になると結局個々人の記録は忘れられ消失する


スマトラ津波の時、言われたことは盛んにインドネシアでは日本のように
津波を知らないから逃げられなかったのが被害を大きくしたと言われた。
これも他山の石としないことだったのである。
日本が津波国でも逃げないで死んだ人がスマトラと同じように多かったのである。
そして原発事故でも過去にチェルノブエリ事故があったが
あれは日本とは違いソ連の技術は遅れているからな日本は技術は優れているから
事故にはならないよなとみんな日本人は見ていたのである。
これは戦争の時と変わらない、アメリカなんかたいした国じゃないよ、
日本は神国だから神が守ってくもる国だから勝つに決まっているよ
こういう国の奢りが滅びに通じていたのである。


相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。


これは本当は相当に注目する必要があったのである。
もしそんな津波が来たら原発が危険だと察したからである
原発だけではない危険な場所に住んでいた人たちも真剣に考えたらこんな被害にはならなかったのだ

somatunami11.jpg

図を拝借したが相馬地域が黄色であり一番大きな津波が来ていた

地震も仙台より揺れが激しかった、地震の波動は相馬市へ一番強く向かっていたのである。

岩本氏が貞観津波の記述は相馬市のことだったというのも科学的にみると根拠のないものでもないのか?

不思議なのは原発は現代の最先端の科学であり津波のこうした最近の調査も最先端の科学なのである。
どちらも伝説とかとは違う、ではなぜ科学者同士がそうしたことに互いに検討しあい
危険を回避する方法をとれなかったのか?
科学者は科学者と話し合えば話しがあう、なぜなら伝説などを根拠にしているのではない

「津波の砂が発見されたんですよ」
「それは本当ですか、科学者だから科学的に発見されたのだから嘘ではないです
あなたたちも科学者だからわかるでしょう」
「・・・・」


なぜこうならなかったのか科学者はどういう人たちなのか自分にはわからない
人間は科学でも総合的見地かはものを見ることがみんな苦手になっている
専門化しずきている。それが盲点となり事故が起きた。
原発は戦艦大和だったというのはわかる
その指揮官は国の運命をになうような重責だった
そういう意識が国にも東電にも欠けていたのである。

posted by 老鶯 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真



夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真

natugikuuuu1111.jpg

natugikuharamachiii1.jpg

kaidouuumatuuu111.jpg

somashirooo123.jpg

somashirooo123444.jpg
今日も行く黄菖蒲映えて遠くへと
日立木の細道通り菖蒲かな
道の駅札幌のナンバー夏燕


紫と黄色の菖蒲城跡のお掘りに写り相馬市暮れぬ

松が枝の道を覆いて街道や影なし涼し菖蒲咲くかな

クローバーの匂いの満ちぬ北海道旅せし時を思い出すかな

cloverhokai11.jpg


umagoyashiiii111.jpg

 全部クリック拡大しないと見栄えしないです
今回は特に大画面にしているのでクリック拡大してください



昨日は原町へ行き今日は用事あって相馬市に行った。
疲れていたが無理して行った。
梅雨になる前に外に出歩いていないと行けなるなるからだ

つくづく旅をすることは贅沢だった
何が贅沢かというと金を使うからではない
時間を自由に使えるということだったのである
旅をするには常にオールフリーという状態に
常時あることが旅をする用意があったことだったのである。
旅に集中するにはオールフリーの状態でないと旅にならない

だから毎日介護で三食の用意しなければならないとか
何か勤めがあり迫られるものがあり負担になるものがあると
もうその時点で旅する状態にはない
6時になるな、また食事の用意だとなるとそれだけで負担になり
自由な心が奪われてしまうのである


だからつくづく勤め人には旅はできない
保養で旅館でうまいものなとを食べることはできる
でも旅はできないし旅人にはなれない
芭蕉などでも人生そのものが旅となってしまったのは
常時旅する状態にあった
たとえ家にいたとしても旅はつづいていてその家自体が旅の宿だったのである。
現代ではまず旅人となることはできない
江戸時代辺りは歩いて旅するから別に風流人でなくても旅をするようになった
現代はただ便利な車とかで移動しているだけなのである


現代は写真の時代であり写真で記録を残す時代になった。
だから芸術でも写真ときりはなせなくなる
写真がないと何か訴える力に欠けてくるのだ
写真は一目見て感じるものがある
だから大衆的にもなる
そして写真をみてまた見直すことができる
今回の写真は大画面で見ないと迫力がでてこない
クリックしないと鮮明に見えない


今は菖蒲の季節である
日立木の松並木は松の枝が道を覆っている
あれは東松島の鳴瀬川の辺りの白萩とか浜市とかの細い道で
松の枝が伸びて道をおおっていたのを思い出した。
あういうところはなんか車もあまり通らない道に見えた
つまりトラックのようにな大型のものが通らないから
そこが人間的になっていたのである

街道は細い道であり日立木は細い道だからその名残りがある
細い道ということは人間的だとなる
「奥の細道」になるのだ
ただ芭蕉が通った中通りは全くそういう面影がなくなっている
白河の関所の所だけに残っている


クローバーというとき北海道の旅を思い出す
この辺が原野化したとき本当に北海道のようになったのだ
北海道には日本の原初の状態が残っていたのである。
北海道の匂いはラベンダーなどもあるが
クローバーの匂いであり牧草地帯だからそうなる
でも季語でウマゴヤシとかなると馬の肥やしになっていて
これは江戸時代に入ってきた帰化植物だったのである。
これは一面に繁殖しやすい植物だったのである。
昔からそういう風景があり原野化したときその風景がもどった

ともかく晴れがつづいて夏らしい夏となってきた。

相馬の道の駅に北海道の札幌のナンバーの車があっても
何か車だと遠く来ていると思わないのだ
なんかすーとここに一気に来ているような感覚になってしまう。
車がそういう距離の感覚をなくしてしまっているのである
もし江戸時代ならともかく遠くから来た人は好奇の目で見られていたろう
遠くのことを知りたいということがあったからだ
それが今は全然ないというのも遠くがあまりにも近くなってしまったからである。

2014年05月29日

飯館村へ放射線量をは計る (除染の効果が出ているのかー半分以下に減っている)

 

飯館村へ放射線量をは計る

(除染の効果が出ているのかー半分以下に減っている)

ooashora11.jpg


yamasideee1.jpg

iidatehoushasennnn1.jpg

hori555.jpg

ashiharaaaa1122.jpg

ashiharaaaa11.jpg

hyouuuuu111.jpg

飯館では昨日は雷がなり雹(ひょう)がふった
草ぼうぼうの荒野となり何か荒廃した感じだった




jyosennfukano.jpg

jyosennsha111.jpg

八木沢の麓の大葦とかは前は堀を計ったら10以上あったろう。
今は1.2ではずいぶん低い、やはり除染したから減った
でもまた山の中から放射性物質の泥が流れてくるからまたあがる
草むらでも泥のところは2になっていて高かった
それでも低くくなっている
それから山深く入っていったらやっぱり高かった3・52は高い
山の中が高いから放射線量は減ることはないのだ
山を除染しない限りへらない

ただ今までは10近くで問題にしていた

今は1から2くらいか人家のあるところでそうであり
山の中でも高くても3・5とか低くなっている
そうはいっても街内では0・1から0・2なのだから数字的には十倍になる
十倍となると実際は今では高く感じる

ともかく放射線量は何かわかりにくいし実際の被害がどうなるのか?
それが具体的につかめないのである

次に飯館村へ八木沢峠を上り入ったら山の木を全部きったところと
木を半分くらい切ってまばらな木にしたところがあった。

そこでは堀が5だから高い、堀には泥がたまるから高い
山の下の平らな所は2・2とか低い
堀が5だということは何らか山から泥が堀に流れて高くなる
屋根にたまった放射性物質が雨とともに樋に流れて樋の下の泥が高くなっていたと同じである

ただ除染すれば一時的にでもかなり放射線量は低くなっている
その後はまたどうなるのかわからない
1から3くらいの放射線量はどのくらい影響するのだろうか?

こうしたことも素人にはわからないし]どうなるか時間の経過を見ないとまたわからない
1から3くらいだったら老人は住めるのかもしれない
ただ草ぼうぼうであり飯館村は人が住まなくなったから荒廃している


昨日は突然雷雨になりそれが雹(ひょう)がふった、何か異様な雰囲気である
バス停に葦原となっているところはまさしく葦原になってしまった
飯館村には誰も住まなくなるのだろうか?

今日は忘れたバッグをユッサにとりにゆき深野から石神に出たら
そこで除染をしていた。
車に洗面所がついているものがあったがこれで除染しているから放射性物質を洗い流すのだろう。
深野や石神は1なのだから除染が必要なのだろうか?
1くらいだったらしなくてもいいような気にもなる
ただ除染すれば家の回りでもへる

除染は金がかかるし兆もの金をかけるのも無駄に思えるのは確かである
その分補償金にして与えた方が効果的だともなる
そういう自分ももっと補償金の方に回してもらいたいとなるのが本音である
鹿島区では不満でありそれは除染などに金を使いすぎるからである。
その分を補償金に回せば鹿島区の人もあまり文句を言わないだろう。
飯館村の人も補償金をもっともらって他でやりなおしたいと言っていたこともわかる。

飯館村はもうもどって住むのをあきらめている人が多いのかもしれない

やはり草茫々の状態を見ると帰れないとみてしまうだろう。
その点小高などは立派な市役所は開いているし飯館村とは全然違う
だから仮設から出て帰れとも言われる
しかし住めるのに補償金がもらえるからあえて帰らないのである
復興住宅が進まないのでまた一年と二年とか延長されるという
するとまた補償金で金がたまってくる
それで避難民を受け入れた所はどこでも不満になっているのだ
避難民がなぜそんなに優遇されるのだろうかとなる

結果的に国民からは避難民の方が悪いとなり政府とか東電からしむけられていることにもな
あいつら強欲なやつらだ、事故前もそうだったし事故後もそうだとかなり同情されなくなっているのである。
そして政府や東電の批判は責任を問うことがなくなっているのだ。
そういうことも考えねばならないが以前として金だけでも
今はもらってためておこうという意識が避難民では強くなっている
土地も家もなくなり金に頼る度合いが大きくなってしまったのである。
だからユダヤ人のうように金に汚いやつらだと言われるようになる
つまり避難民はそういう境遇に追い込まれてしまったのである。

posted by 老鶯 at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年05月28日

「新田川温泉はらまちユッサ」でバッグを忘れた


「新田川温泉はらまちユッサ」でバッグを忘れた


八木沢峠の麓の太古を回り飯館村へ行った。
その帰りも八木沢峠を下ってきて原町のユッサに回って食事した。
その時、バッグを忘れたのでカメラも入っていたから
その写真が出せない

すぐ気づいて電話したらあったので明日とりにゆく

ちょうど150円で天ぷらを出していた、いろいろな野菜天ぷらであり
安いなと思って食べた。
ここでこんなのを安く出しているのかと思って聞いた
それは水曜日の午後5時からだけ特別出しているそうである
だからそれを知って来ている人もいるようである
あの天ぷらだけで天ぷら定食になるから得である。


原町ユッサの湯に入ったことはない、750円にもなったら入りにくいだろう。
でもあそこは鹿島からも近い場所である
だから行きやすいということはある

あそこはオカズまで食券を買ってからだからめんどうだった
何かちょっとめんどうだとそれに気をとられてしまう。
なれればいいのだがはじめてだととまどい気をとられたのである。

他でも湯だと靴を入れるのともう一つ中にも脱衣場で鍵をかけて
貴重品を入れるからめんどうである

意外とこうしたことが手数がかかるとわかりにくくなり本当は利用しにくい。
食券にするのは出す方では計算とか便利でしいても
利用する方では不便な場合がある
それがほんのちょっとした手間でもそうなる

外国旅行ではそういうことでわからずに失敗の連続だったから
自分では外国旅行はしたくないとなる
簡単なちょっとした手続きでわからなくなるのだ
そして人が教えてくれないということがまたかえって不親切に思えるのだ

現代の社会は人と人がやりとりする前に機械が介在してめんどうになるのである
バソコンでインターネットを利用するにしてもそうである
だから今はスマホとか携帯とかでインターネットを読んでいる人が多くなった
読むだけならその方が簡単だからである

近間だったら忘れ物として本当になくしたことはない
どこに忘れたかだいたいわかるから必ずとってくれている
でも自分は何かに気をとられて忘れるから困る

posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年05月27日

南相馬市は鹿島区は賠償金の他に不満が大きい (不便な所は現代ではますます住みにくくなる)

 

南相馬市は鹿島区は賠償金の他に不満が大きい

(不便な所は現代ではますます住みにくくなる)

鹿島区にあるキクチスーパーと原町市にあるキクチスーバーは同じなのに品揃いから値段も相当違う。
アスパラガスは同じものが日本産で鹿島では240円であり原町では180円だった。60円の差は大きい。
今はメキシコ産がでていないから余計に損である。
他でもシジミなどでも値段がかなり違う。カシマのキクチは何でも高いし品揃いが全然違うのである。
同じものでこれだけ差があることは相当に損になる。
原町には大きなイオンもありこれも品揃いがらさらに良くなっていて新鮮なものが多い。
鹿島はだから生活するには不便だけではなくかえって金がかかるのも損なのである。

現代の生活は不便な所に住むと物価が安くなるのではない高くなり住みにくくなる。

不便という時、5万くらいの都市と一万くらいの町の差が大きくなる。
もちろん村になるとまた大きくなる。飯館村には歯医者もなかった
歯医者は今はどこにでもある。コンビニにより本当に多いのである。
でもスーパーの方が毎日利用するから家計にひびくし重要になる。


鹿島区は東電の賠償金でも割りをくったし不満が大きい
原町より半分ももらっていないし原町と被害は同じなのに30キロで区切られて損したのである。
そして鹿島より相馬市も実際に放射能では同じ被害なのに全然もらっていない。
だから避難している人は賠償金でぜいたくしていると高いものを買っていると見ている。
そして飯館村の人がトマトを栽培している農家で働かせてもらいたいと頼んだら断られたとNHKで放送していたことがあった。
でも飯館村でも避難した人たちは補償金の額が大きいのだから別に働かなくてもいいではないと見られる。

避難者にも浪江の工場を経営している人が浪江の人たちは補償金の額が大きいから
仕事しなくてもやっていけるだろうと言われて仕事ができないと言っていた。
これも双方に言い分はある。でも浪江の人たちはさらに補償金が大きい、
一人十万から今度は5万プラスされるというから一人十五万になるのも大きい。
だからもうすでにいろいろな財物補償を加えると一億円になる人も普通にいるだろう。
それだけの補償金があれば誰も働かなくてもいいと遊ぶだけの人もでてくる。
何か新聞などでも海に流す汚染水問題で漁業組合が「苦渋の決断」をしたとか社説で書いているが
その本音はまた違っている、交渉することによってまた漁業組合に補償金が増加される
漁業組合に入っていない人はうらやましいねえともなる、ここでも金をめぐって互いに離反している

人間は仕事がないということは単に金になるというだけではない仕事には仲間意識をもつとか別な要素が必ず付加されてくる。
仕事しないで毎日パチンコだ競馬だとなってしまったらその人はどうなってしまうのか?
別に金がもらえるのだからいいではないかとはならないだろう。
だから浪江でも田植えをした農民の顔がかがやいていたのである。

そして問題は金があるから働かなくてもいいというとき、それが地元の人に反発を受ける。
つまり普通だったら避難民などは世界では最低のテント生活とかなっている。
ところが原発避難民は避難民様になっている。なんでも病院でも無料だし
介護でも小高の人は優先順位が上になる。
ところが鹿島区では追加補償があったが一人7カ月分10万でも前に一所帯百万もらっているからそれがひかれるから
実質は自分は二人で140万だった。これは嘘ではない
、原町の人は二年間の期間て補償金がもらっているから鹿島区では損だったのである。
だから原発避難民はどこでも金をもらっているからそれで威張っていられるということでもない、
地元の人が避難民のために働かせられる、病院は避難民が優先的になり無料になっているとなると
地元の人たちの不満が大きくなりイワキでは落書きとか実際に不満がいやがらせにもなったのである。

今鹿島区では小高の人たちと交流している人はまれだろう。
なんであいつらは補償金もらって遊んでいるんだということの不満が大きくなっている

実際に鹿島区の老人保健施設の厚寿苑では岩手県の方から介護士でも来ているし
会津とか外部から来ていてやっとやっている。だからみんな利用しにくいのである。
人手不足はこの辺で深刻なのである。
そういうとき補償金で遊んでいるとなると反発がある
実際に助けてくれているのは外部の人であり内部の人は遊んでいるという奇妙な現象が生れたのである。
だから金の社会だけどでは金をもっているからいいかというと避難民の場合は全部はそうならないのである。
別に金持ちでも非難されない人たちはいる。あの人はそれだけ実力で稼いだからとなり非難しない、
でも避難民はそうではないから非難されるのである。
何か地元に貢献するものがあれば地元でも非難したりしない
ただ金があり消費するだけでは非難される、別に今までの状態だったらかまわなかったろう。

いづれにしろ南相馬市は金で分断されてしまったのである。心が一つになっていないのである。
人間は何か得したと思ったら実際は損したとか損したと思ったら得していたとか損得も両面があり
幸不孝もそういうことがある。何が損で得なのかもわからないし幸不孝もわからない。
だから今得だと思っていてもあとで損になっていたとかなる。
原発周辺では事故になる前からも金がばらまかれていて得していたのである。
それが結局損になった。それを反省している人もいる。


今日は帰りは末広亭でエビフライとカキフライの料理を食べた。あそこは高いのでめったに入らなかった。
高見食堂は6時からしかやっていないので困る。
カキフライは大きなものだから本当にのカキを食べた感じたった。
松島でもカキフライが小さくなっていておいしくなかった。
あれだけ大きいと満喫できる。だから牡蠣が好きだから牡蠣料理だったら秋から冬はたまにあそこで食べた方がいいと思った。
にんげん
高くてもたまにならいいものを食べた方が結果的には得である。
うまいものを一回食べるとまた食べたくなる
ネコもそうだった。うまいものを食べさせるとその味を覚えてねだりつづけるのである。

自転車だとなかなか原町への買い物はできない、自転車で帰ると遅くなるからだ。
でもやはり鹿島のスーパーだけでは今の標準の生活にはならないから困るのである。
ともかく大内村の人が郡山市に住んで帰りたくなくなったという気持がわかる。
大内村だったら食べ物でもぜいたくでとない、うまいものがあるときそれが食べられないことがかえって辛くなるのだ。
貧乏な時代は貧乏でがまんするほかないがあるのに食べられないとなるとかえって不満が大きくなる。

人間は貧乏なときはかえって協力するけど豊かになるとしない、自分だけでも贅沢したいとなるとき、
他人は貧乏でも自分は金持ちでいたいという気持が強くなるからである。
一回贅沢を覚えるとと質素な生活はしにくくなる。
一番不便だと今感じるのは食料品の買い物なのである。
車もないから特にそうなる。4万くらいの都市でないとなかなか食料品でも標準にならないのである。
さらに10万の都市で生活している人は4万の都市と比べると田舎だなとなってしまうのが現代なのである。

posted by 老鶯 at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年05月26日

抽象画(海の生き物) (これも外国の抽象画の変化だった)


抽象画(海の生き物)


(これも外国の抽象画の変化だった)


sealaugh1.jpg

海の生き物

sealaugh12223344.jpg

midnightwood.jpg

夜の森

seakkkkk1.jpg

seakkkkk122.jpg

この二つが何か目があり見ている
抽象画から生まれた妖怪である


これは抽象画らしいものになった。
これもただ変化させていたらなった。
偶然の作用であり意図したものはここにはない
ミロの作品は意図して作っていた
これは全く人間の意図したものではない
ただ化学変化の作用したものを選んでいるだけなのである

津波の被害が記録されない空白が作り出される謎 (相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)


津波の被害が記録されない空白が作り出される謎

(相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)

●津波の伝承や記録が希薄であり忘れられる


1677年延宝房総沖地震津波では下川(小名浜)から四ツ倉にかけて死者84人・流出家屋487軒、なかでも江名・豊間両浦で死者44人・流出家屋218軒という被害は、2011年東北地方太平洋沖地震に類似する。同地震でも豊間・薄磯で多数の死者と家屋流出が発生している。

いわき市薄磯地区には、「大きな地震が発生したら津波が来るので薄井神社が鎮座する丘に避難すること」という伝承が残されているが、これは1677年延宝房房総沖地震津波の体験による可能性が考えられる。

tunamizuuuuu1.jpg


慶長津波が1611年であり1677年に延宝房総沖地震津波があった。こ66年後にまた大きな津波があった。
この津波についての記録は岩沼まで被害の記録がある。
でも相馬藩から新地から亘理まではないのも不思議である

慶長津波では相馬藩で700人溺死したとある。でも77年後にも大きな津波が来たのである。
その被害もあったはずだが何にもこの時は記されていない、
慶長津波の前でもその後でも江戸への普請のことでは人数とか記されている。
江戸幕府からのそうした圧力が大きなものであり財政が逼迫して給人が税を支払えないと訴えている。
当時の政治は中央が地方に援助するというのではなく中央が幕府が地方から税をとり労役を課すことだった。
だからそうした幕府からの圧力が強いし負担となっているから相馬藩の政治でも
その負担をどうしたらいいのかというのが課題となる。
だからそこは記録されている。


しかし慶長津波でも延宝津波でも特に延宝津波では何の記録もないのも解せないのである
四倉となると浪江とか双葉とか富岡の隣であり近い、双葉は相馬藩の境であり富岡は岩城藩内ではあった。
それにしても明らかに塩釜まで被害があったら相馬藩で被害がなかったとはありえないのである。
要するにこの時も津波のことは空白状態になっていたのである。
それはなぜなのか不明であるがこの記録の空白が後の世に今回の津波のように大被害をもたらす要因になった。

相馬藩内では確かにわずかだが慶長津波のものと思われる伝承はあった。
しかしそれは地元の人でも知らない、取り上げないものであり津波が海岸に接している人たちにも伝えられていない
、海岸に接して津波のことを意識したのはチリ地震津波のことだったのである。
その時のことを経験してチリ地震津波から津波を推測していたのである。


1793年の「寛政津波」については、<1793年〜1796年がまったくの空白>であり、<飢饉災害として処理された>と記述。1995年、飯沼氏は『仙台平野の歴史津波〜巨大津波が仙台平野を襲う〜』


相馬藩内だけではなく津波については記録されない、空白現象が起きている。
「津波を忘れるな」と警告した碑が残されているのも津波は台風などの被害と違い忘れやすいのである。祖父母ですら経験していないのが普通だからである。すると伝説とか
記録が頼りになるがそれも一行くらいしか記されていないからわかりにくくなる。
ただこの津波の伝承や記録の空白現象が今回のような大被害の要因になっていた。


●女川原発が救われたのは危機意識が違っていた


宮城県ではそれなりに大きな津波被害があったから伝説も残りそれで岩沼に1611年(慶長16年)に発生した
大津波は阿武隈川(※1)を遡上して氾濫し、千貫松まで届いたとか残っている。

この伝説を聞かされて東北電力の副社長だった平井弥之助氏人が女川の原発を14メートルの高さにした。貞観津波まで考慮していたという。


三陸地方は過去に何度も津波の被害を受けていたため、津波の怖さを多くの人々が共有していたと思われる。三陸地方の人々にとって津波は常識であろう

「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」のスライドである。これを見ると、東北電力の方々が津波に関する考古学的調査や津波の数値シミュレーションなどに真面目に取り組んでいたことを理解することができる。東北に生まれ育った人が、原子力発電所が立地する東北の地域の安全環境を守ることを自分達の問題として捉えていたと想像することができる


東京電力の原子力発電所の計画・建設に参加した人の大部分は東北地方と関係がなく、東北からみればよそ者であった。そのため、津波に関する畏怖がなく、立地する地域に原子力災害が及ぶ可能性を想像することができなかった。 仕事のときだけ福島に赴き、任務が終われば東京に帰り、現地への愛着が薄かったのではないか-Riyuu.html

http://oceangreen.jp/kaisetsu-shuu/Onagawa-Tasukatta


要するに津波に関しては宮城県の方が危機意識をもっていた。
それは三陸などでもそうだが明治にも津波の大被害があったのだから違っていた。
津波に対する恐怖の意識があるところだったのである。
これが致命的な分かれ目になっていたのである。
女川の原発すら実際ぎりぎりで助かったのでありある意味で幸運でもあったのだ。
女川の街は壊滅したのでありもう立ち直れないような状態になっている。
その被害を見たら原発の方が残ったというのも皮肉である。
近くの人も津波の時、原発に逃げたのである。
だから奇妙なのは街が壊滅して原発の方が残ったということも何か示唆している。

原発という危険極まりないものでもそれなりに危機意識をもっていれば事故にならない。
ところが一方で街に住んでいる人達は津波に対して女川原発に対してもっていたように危機意識がなかったのである。
もし東北電力が想定した津波の高さを真剣に考慮すれば街だって壊滅することはわかる
しかし肝心の街に住む人たちはそんな高い津波のことなど想定していない、危機意識がなかったのである。


●津波の記録の空白地帯だった双葉の原発


そもそも双葉は夜ノ森が相馬藩の殿が余の森として相馬藩と岩城藩の境となっていたところであり
森であり原野の地域だったのである。
そこは近くに大きな病院もないもともと不便な場所であった。
だから双葉でも浪江でも南相馬市立病院に入院していた人がいた。
片道30分もかけて往復して看病していた人がいた。
南相馬かイワキの方にむずかしい病気はみてもらえないのである。
原発はそうした遅れた不便な地域に建てられやすい、
今でもそうした地域では経済活性化のために積極的に原発でも誘致しているのだ。

原発はまた大都会近くに建てにくい事情もある。
だからそうした辺境地帯が立地条件がいいとしてねらわれるのである。

結局津波に対する危機意識でも東京に建てれば一千万人が常に危機意識をもつ、
その前に危険だからと東京にはとても建てられないからそうした辺境地帯に建てられた
今回の事故でも危機意識を東京の人たちは離れているからともっていなかった。
東電でも事故があっても離れているからという意識になった。
もし地元に住んでいればまた危機意識をもつから違っていた。
ただ一時的に勤めてまた東京に帰るというふうになるから土着意識がなかった。
東北電力には土着意識がもともと地元だからあったのである。
岩沼の津波伝説を聞いて決めたというよりあの辺はもともとそうした津波の危機意識を共有していた地域だった。

だから原発ともなるとそれだけの危機意識をもっていたからギリギリで助かったのである
それだって幸運だったのであり危ない状態だった。
それはまず女川が壊滅したことでもわかる。女川の被害は最悪だったのである。

危機意識というとき、人間は平和な生活が長くつづくともてなくなる。
平和がいつまでもつづくと思うようになる。
でも人間の歴史をみると絶えず天災でも戦争でも起きていて平和な時代はつづいていない、
だから江戸時代は世界史では例外的な状態だった。
戦後は確かに戦争で300万人が死んだというあとにしては平和で繁栄の時代だった。
団塊の世代はそれで恵まれていたとなるが今やそうした繁栄から衰亡の時代に入った。
そして再び天災でも対外的にも危機の時代に入っている。

でも以前として平和になれているから危機意識がないから日本は他国に簡単に侵略されるかもしれない、
危機をあおるわけではないが平和になれると油断が生れそこをつかれて滅びしまう
そういうことは平家であれローマであれ中華帝国であれ常に起きていることなのだ。
危機の問題は急激にやってくるから対応できないのである。

女川にはおそらく原発ができる前に行っている。鯨の解体しているのをみているのだ。
牡鹿半島では鮎川が鯨の基地だったから女川でも鯨と関係していた。
女川という地名も何か気にかかるようになった。
女川はオナミであり男波でありこれは津波と関係していたとか
他にも福島県浜通りにも浪江とかにもあるので言われようになった。
深い入江になっていて逃げ場がない地形だった。
だから津波を奥まで勢いよく上って行ったのである。
ともかく津波というのは実感するためには現場に立ってみる必要がある
なぜなら地形とかと深く関係しているから現場に立たないとわからないのである。
それで女川に行ってみたいと自分でも思ったのである。

posted by 老鶯 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年05月25日

抽象画(BLUE WATER) (抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)


抽象画(BLUE WATER)

(抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)


blueeecool.jpg

blueeecool2.jpg

blueeecool23.jpg

水の勢い

抽象画の原画になるのはインターネットの中にいくらでもある。
ソフトで変化させればその原画はわからなくなるから著作権違反にならない
それは新たな創造になっているからだ
人間の創作には常に他人の応用がありそれがすべて悪いとはならない
明らかに著作権違反となるものがあるが微妙なものもある
だからあまりに著作権を言うと創作の発展にはならない

ただ本当に著作権違反だなというのはなんか自分でわかるんだよな
特に具象画はすぐにわかる
最近料金をとる画像販売が増えている
そこから借用したのであったが注意もされないので出しているのだ
インターネットは他人がどこで使っているかわかりにくいのだ
応用されていてもわかりにくいのがインターネットなのだ


この抽象画の原画になったのは外国だった
一瞬ただの目立たない興味をひきつけないいものに見えた
ただこれはやはり青の一つの抽象画になっていると見た
そういうふうに見るのは自分の芸術的感性である
パソコンはただ機械的に変化させているけどこれが芸術だとは見ない
人間だけがこれは抽象画でも何かを現していると直感することがある
これは一瞬青できれいだなと思ったのだ
このモザイク画のようなものはたいがいこれがいいと思ったものでできない
今回は瞬間的に感じたのだ

抽象画は感じない人には感じないだろう
やはり色にまず感じる、色の感覚が抽象画になる

でもこれは相当単純だから感じない人は感じないだろう
抽象画はこれが芸術なのというのが多い

でもやはり芸術は感性なのである
ある人が感じれば美として意味あるものとして感じれば芸術になる
芸術性は低いにしても芸術の創造を楽しむことができる
芸術は他に二つとないことを作っていることに意味があるのだ

パソコンで作ったにしてもその価値づけをできるのは人間なのである

とにかく自分にとって抽象画は暇つぶしにいいなと思っている
だかち暇な時、パソコンを操作している
やはり何であれ自分だけのものを創造していることは楽しいのである。

津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)


津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑


(鹿島区小島田の真野小学校の近く)


故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に


iminnnhiend.jpg
クリック拡大

字がよみづらいです、要点だけを書き出しました

北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・

越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829) 山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉


大正13年の碑
iminhiii12.jpg

2011031307[1].jpg

ここはこんな状態だった

ただこの辺には家はわずかしかなかった



この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

nenngouuu123.jpg
年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった

この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。

それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。

万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。


自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。

この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。


posted by 老鶯 at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年05月24日

菖蒲と石の庭 (石になじむにば時間がかかる)


菖蒲と石の庭

(石になじむにば時間がかかる)


石に添い菖蒲おちつく濃紫

ayamegardennn111_FotoSketcher.jpg
クリック拡大


庭はそれぞれ個性があるから面白い。家も今はみんな違っている。
昔の家は座敷があってとか同じような間取りだった。今は三階建てとかみんな個性的で違っている。
ただ家にはなにか興味がもてない、庭にはやはりそれぞれの美があり個性がある。
特に石に興味もっているからしげしげと石を見ている。


この庭の石の庭だった。前にある大きな石、後ろの石とあり石が反映される。
前面の石も一つの全体の構成の中にあるのだろう。
その石の肌までしげしげと見る。
これはソフトで加工しているから実際の石とは違っている。


石と菖蒲はあっている。
石とはやはり堅実だとか精神的にはなる。
この石の組み方は平面的である。
前の知り合いの石は何トンとでかく立体的だった。
この庭は門からのぞいて写真にとった
外から見える庭でもあった。
ここに菖蒲を配置したのが良かった


石は本当は一回くらい見てはわかりにくい
石は長い間見ていると心になじんでくる
石はそういうふうに長く動かないものだからである。
ただここの場所は六号線の脇なので環境的にはマイナスである。
家とか庭は回りの環境も影響しているのである。


自分のテーマにしているのは一つは石である。
石も実際相当に多様なのである。
石にも無限の変化があり個性がある
自然の石もあり庭の石もある。
庭の石は人間によって作られているから何かそこに人間の意志を感じる


この辺では原発事故で避難した人が多いけど例えば小高だって浪江だって
この庭と同じようにいい庭がいくらでもあったろう。
それが喪失することはやはり一つの大きな損失である。
だからなにかにやいわれるけど避難者は喪失するものが多いのである。
ただ庭にしても一億円ももらえればまた作れるだろう。

しかし問題は庭にしてもそこになじむ時間なのである。
老人になるとそうした時間がもうなくなってくる
だから家とかでもこれから住む時間が短いから作りたくないとなるのだ

ある土地になじむのは時間がかかるのである。
農家の場合は何代もつづいたところがあるから一代だけでないから
余計にその土地に愛着をもつようになるのである。

 
 

老子の思想と石の心 (2千年前に警告されていた文明の災い)


老子の思想と石の心

(2千年前に警告されていた文明の災い)


●科学者(賢なるものが)が災いをもたらした


賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
 是を以って聖人は、其の心を虚しくし、其の実を満たし、其の志(のぞみ)を弱くして、その骨を強くす。常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ。
 無為を為せば、即ち治まらず無し。(老子・3章)

現代はこの正反対の世界になっていた。賢を求めても人は賢たりえない、この賢の解釈にもいろいろある。科学も賢であり賢が肥大化したものでもあった。人間は賢たらむとしても賢になりえないのだ。何が賢で何が愚かもわからない。愚なるものが賢であったりする。禅では大愚は智者である。人は大愚になりえない、いつまでも小賢しい知恵でたちまわる。老子の思想は禅に通じていたのである。
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。


資本主義とはこの正反対の世界をあくなく追求しているのだ。あくことなく欲望をいらぬ欲望まで刺激されて消費させられる。その時消費とはまさに虚しく消えるものに使っているということである。そういう自分も現代社会に生きることはその中でその体制の中で
強いられるのである。様々な欲望をおさえることがいかにむずかしいか、それは身近な買い物でわかった。毎日買うことに追われている。今や料理でも家事でもいかに買うかでありいかに工夫して自給自足するかではない、農家では納豆まで作っていた時代があった。その時はいかに自給自足するかであり買うということは極力なかったのである。

なぜこんなに買うものがあるのだろうとなるとき、そういうふうに社会が仕向けているということもある。それは資本主義でもある。だからこそ金が現代では命より大事だとなる。そして買うために借金してまで買っている。借金して無理してやり繰りしていることが非常に多いのである。

都会にいれば田舎よりもっと欲望が刺激されるから金が必要になる。現代では金が限りなく必要になるようにできているのである。
自分のつきあった人たちも一見裕福だと見えた人たちもみんな無理していた。多額の借金で成功を装っていたものやいい職人の腕があるのにブラックなものに手を出すとかそこには限りない欲があった。原発もまたこうした限りない欲から生れたのである。
原発の危険性より金、金,金となっているからこそ地元に金がおりるとなればそん危険など考慮するものはいない、小高でも原発できれば金になると歓迎していてすでに工事がはじまるところだったのである。

現代の欲望資本主義は老子の時代からすると百倍千倍とかの贅沢をししているだろう。
それでも足りることはない、足りない足りないと金がない金がないと世界中でそうなっているのだ。
だからどうして2000年前にこうした欲望を制止する思想が生れたのか不思議である。
逆にその時代ならもっと欲望を刺激するほかが理にかなっていたのである。
それでもそういう思想が生れたことは人類の普遍的な警鐘となっているから見直されるのである。


常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ


この知者とは今では科学者にもなるだろう。科学者は実際は恐ろしいものがあったのだ。原発を元となる放射線を生み出すものを作り出したのも科学者である。その知者はまた人類に最大の害を及ぼすものを作ったともなる。なぜなら核が発明されて現実に日本では原爆が落とされたからでる。そして人類は核戦争で滅亡するだろうとまで言われるようになったのである。


●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

老子の思想にはそうした文明そのものを否定するものがあった。ただ哲学としてもあり個々人に適用される。「何も成すなというとき人間にとってそのことが一番むずかしいことなのである。人間は成さなくていいことを成して失敗している。それは個々人でもそうであり社会的にもそうである。原発など作らねば良かった、成さねば良かったと今ではなっていることでもわかる。人間は何であれ成すことをとめられないのだ。それは欲望に発していて欲望がとめられないということもある。資本主義はさらに欲望を刺激して欲望を増大させるからさらにそうなる。なぜこんなに食べるのもが増えてくるのか?
豚から牛から鶏から何でこんなに食べねばならないのか?
日本人はもともと魚介類で満足していたのである。その結果として様々な病気や伝染病も起きてくるのである。

それは動物でも同じだった。ネコに自分が食べている魚の余ったものとかサミシまで一切れなど食わせたらその味を覚えたのでまたねだる。市販の猫の餌だけでは満足できない、いろいろな味を覚えたから欲望を刺激されたからそれを食べたいとなる。
その味を知らなければないなりに満足していたのである。

いづれにしても人間はどんなことをしても成さなくてもいいことを成すように宿命づけられているのだ。それは個々人の人生でもそうである。青春はまさに狂気の時であり若気の至りにならない人はいない、無謀と横暴と狂気になるのが青春である。自分でもカルト宗教団体に青春を浪費したのもそうである。一生を浪費して犯罪者として死刑となりオウムではなったから優秀な人材のなんという浪費だろうと思う。それは過去にも戦争で起きた。優秀な人材は若くして戦場に消えた。その数はまた途方もないのである。
それは成さなくてもいい戦争を成したからである。その善悪は別にして戦争ほど無益なものはないのに人類は戦争をやめられないのである。
兵隊とか警察官などない方が一番いいのである。それこそ無用なものである。自衛隊でも警察でも何も成さない時、一番平和な時だということである。兵隊とか警察官に用がある時は平和ではない、兵隊とか警察官は使われない時平和なのである。

兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬?(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず

兵隊は警察官などはやむをえずしてあるものでありそれらを積極的に活用するようなことは平和な時代ではない、だから戦争を賛美することなどあってはならないことなのである。兵隊がやむをえずあるとうときやむをえず戦うということはありうるからある程度は肯定している。しかし積極的には肯定はしない、やむをえないというとき兵隊をもち得るのである。人間はやむを得ないという時行動する。あえて善を主張し行動するのはかえって社会を乱すし個人的にもそうなる。行動でもなにか間違った行動が多過ぎるのである。
「なぜそんなことをするのか、しなければいいのに」ということが犯罪でも日々ありすぎるのである。それは欲望をおさえられないとか石のような心をもてないことにあったのだ。だから結局石のような心をももつことが至難なのである。
それはようやく死に近くなって悟り石の心をもつことがきるとなる。
ようやく成さなくてもいいことを成さないという境地にいたる。

いづれにしろ原発問題は個々人の思想の生活の問題でもあった。

欲望資本主義の問題でもあり個々人の欲を制御しないかぎり原発はとめることができないということもあった。
「お前は電気なしで暮らせるのか、山なのかで霞でも食って生きていけ、江戸時代に帰れ」とかなるがそんなことはもう非現実的であり今は時代が違うとなるがではこのまま欲望に歯止めがかからないとどうなるのか?
そんなことどうて もいい、社会なんかどうでもいい、俺は俺の欲望を充たすだけだととなっていいのかとなる。そうしたらいつまでも原発は必要だとなりこの問題も解決しないのである。つまり個々人の生活を見直すことが原発をなくす社会に通じる。
社会的に原発をやめても個々人の心が以前として限りない欲望を求めていたら結果的に同じなになる。根本的解決にはならないのである。


●石の心をもて(詩)


石の心

石とは何なのか?
石とは愚かなことをしないこと
石には正心がある
人の心は乱れている
人は必ず愚かなことを成す
人は罪を犯す定め
人の心は鎮まらぬ
人の心は容易に狂気と化してゆく
人の心は感情的に燃え上がり
正気を失い過ちを犯す
青春の狂気と横暴と爆発よ
誰しも若気ののいたりがある
愚かなことを成さぬものはいない
小人閑居して不善を成す
石のようにその身を正してはいられない
集団に理性はなく感情的に動く
そこに思慮深さはなく
容易に煽動されて地獄へも道連れにする
ああ 愚かなること成さぬ石よ
山の奥処にそは千歳鎮まっている
威厳に満ちて傷なくそこに在る
その傍らに延齢草がそっと咲いている
その岩に寄り添うものは可憐な花
謙虚な花である
愚かなることを成さぬ石よ
そは世を離れて山の奥処に在る
そこに所を得て世を忘れる
そこにこぞ幸いのあるを知るべし
その他は世はただ災いと乱れのみ
それはこの世の終わりまで継続される
汝はそこを動かざれ
神しろしめぬその石よ
狂気の世を離れてそこにあれ
人の世の狂気は決して収まることなし
それは次の代も延々とつづく
人はカルマの繰り返し
人は決して愚かさから脱せられぬ
それ故に諺とて変わらぬ人間の真理
人間とは科学が発達しても変わらぬ
科学は原発のようなものを作るも
それ故に破滅するような愚かさになる
何も成さすにいられのぬが人
何も成さぬが良い
老子はついに函谷関に人知れず消えにしを・・・

 

2014年05月22日

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか? (津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)


相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか?

(津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

●慶長時代には海側に住む郷士はいてもわずかだった


青原氏からの質問があって確かに700人溺死の中に郷士もいたの
だから藩で全く津波の被害を無視したという自分の説には疑問だというのもなるほどなと思った。
相馬藩は他より郷士が多い、農民兼侍だったのが郷士である。
だから野馬追いの時は原町とか相馬とかでも街内からでるのはほとんどないのである
農家の在の方から出るのである。
だから海側の村でも必ず郷士の末裔で野馬追いに出ている家がある
ただ慶長津波が起きた時、どれくらいの人が海側に住んでいて郷士だったのか
それはわかりにくい、海側に住んで郷士の人がどれくらい被害にあったのかわからない。

ただ海岸に接した村は比較的後から住んだ人たちが多い。

鹿島区では海老村でももとは海側でなくて後ろの田のある地域に住んでいた。
それが塩をとるとか港ができて海に進出するようになり海老村になった。
右田村も真野川沿いであり湿地帯であり開拓されたのは江戸時代でも遅くなってからである。
大内村は古く山側に住んでいた人たちは今回の津波でも助かった。
そして大内村の出村のような袋村は真野川の河口と海岸に接していたが消失した。
江戸時代に村としてあったが消失したのは真野川の洪水とかで稲作ができなくなったのだろう。

八沢浦も明治になってから開拓されたのでありだから妙見神社が祭ってあった。
小高の井田川は大正になってから開拓されたのである。
だからそういう住むのに適していない場所に郷士が入ったのは慶長時代以前だと
少ないかもしれない、ただ確かに郷士がいないということはありえないだろう。

だから津波の被害にあったら郷士が藩に窮状を訴えたはずである。
でもそうであったら余計に何らかもっと藩で対策を考える、その窮状を記録してもいいはずである。
その辺の事情が記録がないのだからわからないから推測するほかなくなる。
つまり郷士が津波の被害にあったらもっと何か藩でもその窮状に対して
どう対応したかなど記していてもいいということも考えられる。
そのことが700人溺死としか記されていないのだからやはり無視されたともとれる


●伊達藩の政宗の政策に習ったのか?


なぜこういう説が出たのか?それは実際は何ら根拠のないものであった。
ただわかったことはこの説は伊達藩から政宗の政策から出ていたのである。
それをプログに書いていた人がいる。


@領内の金山の管理の徹底、開発の推進→慶長十七年二月より
A徳川家との関係強化→慶長十六年十二月十三日、江戸城は将軍徳川秀忠御前における
嗣子虎菊丸の元服。秀忠よりの「忠」の一字拝領
B遣欧使節派遣による海外交渉・貿易の実現→財政を豊かに。国を豊かにするため。


遣使船サン・ファン・バウティスタ号の建造。これは、石巻・牡鹿地方という三陸津波の一大被災地で行った一大公共事業です

アマーティの『伊達政宗遣欧使節記』の第十二章には「国王(政宗)は大急ぎで船の建造に取りかかるように命じ、その作業に八〇〇人の大工と七〇〇人の鍛冶、それから三〇〇〇人の人夫を投入した。」(翻訳『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』平成22年刊
http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html

ここに公共事業と明確に書いてあるのでこの辺を参考にしていたのかもしれない。
津波被害で伊達藩内だけに目を向けていては復興できない、
それよりも対外的にスペインまで目を向けて津波の被害を克服しようとしたという説である。
そのような大災害の時、外国に目を向けて貿易で復興しようとしたというのも当時からすると
スケールが大きいというかその目的が何であったのかは明確にはなっていない。
徳川幕府に家康に対抗するためにだとも言われる。
まだ天下取りをあきらめていないから最後の手段をスペインの協力をえて天下をとろうとしたともなる。


ただその船の建造も大事業であり今なら復興の公共事業になっていたことは言える。
資金は金山から生れたのか?やはりそれだけの財政の裏付けがないとできない。
その時幕府では援助しないからである。むしろ政宗の弱体化を望んだろう。

つまり伊達藩の政宗がそうした津波の被害の復興をどうしたのか?
それを相馬藩では知っていて相馬藩でもこの際、中村に移転しようと決心したのか。
相馬藩では対外的には伊達が最大の敵なのだからその境の中村に城を移転するのが一番ふさわしかった。
その時、移転するとはり城下町の整備が公共事業的なものとなったことはありうる。
ただ伊達藩のようにそうした記録がほとんどないので資料がないので証明するのはむずかしく推測になるだけである。


不思議なのは


相馬市
「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20111202_04_ebina.pdf


ここの相馬市とは東京の方になっているのはなぜなのか、間違いなのか?
相馬藩について『ビスカイノ金銀島探検報告』で百行くらい記されているというがその内容はわからない。
これが相馬市のこと中村城のことだとすると今の城の所まで津波が来たのかとなる。
川をさかのぼってくることがあるからどういうことなのかわからない。
ただ城は破損し再築中とあれば津波の被害があり再築していたとなる。

ということは慶長津波の前にすでに城はあり工事はしていたが藩士や主君が移動したのは
別に津波があったからではなく津波の前に移転することは決まっていて工事していたともなる
そうなれば別に津波が起きたからではなく前からの計画ですでに工事もしていて津波にかかわらず実施したとなる。
ただ津波の被害があったことが移転に何らか影響していたことは推測される。
でもそうした記録が一切ないから推測の域を出ないのである。


●相馬藩士が慶長津波の後に伊達藩に開拓に入った謎


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/


これは結構大規模な移住だった。中野というのは中村のことである。
なぜ相馬藩での被害も大きいのに伊達藩に藩士が開拓に入ったのか?
伊達藩では積極的な津波復興の奨励策をとり人を呼び込んだ。
だから相馬藩でも入る人がいた。それも藩士だということはそれに従うものは
その家来や従者がいるから侍でないものも従ったのである。
これもなぜなのかというと謎である。


つまり相馬藩で被害が大きいのだからまず相馬藩内の復興が優先されるはずである。
それがなぜ相馬藩士が移住したのか?
ここにも一つの相馬藩の慶長津波のことを解く鍵がある。
相馬藩の被害が大きく復興できないような状態に陥っていたのか?
伊達藩でも被害は今回と同じく相馬より被害が大きかった。
ただ伊達藩では相馬藩より復興策が政宗の陣頭指揮でとられていた。
相馬藩は小藩だから対策がとれなかったのか、資料がないのでわからないのである。


相馬藩士が移住したのは郷士であれ被害を受けて相馬藩内で生活できなくなり
奨励策をとっていた伊達藩に移住した。その時伊達藩でも被害が大きいから人材が必要だった。
それにしても相馬藩内はその時どうなっていたのか?
相馬藩士自体が見捨てて他藩にゆくのか?
これはやはり相馬藩内での慶長津波の結果として伊達藩に移住した。
その理由はわからないにしろそういう激動を体験した。
津波であれ原発事故であれそういう激動の時に人は移動しやすいのである。
避難民であふれるようにそんな緊急事態が起きていたのだろう。

ただ津波の被害を受けてまた津波の被害地に移住するというのも何なのだろうとなる

いづれにしろ相馬藩と伊達藩は敵同士でも密接な関係があり
伊達藩から相馬藩のことが解きあかされることがある。
まさに中村への城の移転が津波の復興のためとか公共事業のためとかの説がでてきたのは
伊達藩に政宗の政策にならったものを相馬藩でも実行したのだという説になったのである
ともかく資料がないので推測になる。
慶長津波が政治にどう影響したのかはこれもあまりにも大きなテーマだったのである。
リスボンが地震で衰退してしまったように甚大な災害は歴史を大きく変えてしまうことがあるし
日本は災害の国だから特に天災が国に影響することが大きかったことは確かなのである。

posted by 老鶯 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年05月21日

ソフトで変化する抽象画の無限 (葉っぱの四季の変容)

 

ソフトで変化する抽象画の無限

(葉っぱの四季の変容)


spting1111.jpg



leavessss1234445555.jpg

fishhhhh123.jpg


autummmm3333344.jpg
autumn333444.jpg



winterllll11.jpg

具象化を模索する抽象

abcddddddeeee.jpg

これはまさに具象化したいがまだなれない抽象である

まだ一つの形にならない状態が抽象画でもあった

これができたのはセロファンというソフトの変化を知らなかった

たまたま見つけたのので試してみた

2000円のpaintgraphicでもソフトは使いこなすのが手間なのである

それはちょうど人間の脳を駆使するのとにているのだ

生涯で人間の脳は二割しか使われないという

それはソフトが使いこなせないと同じなのである

コンピュタターはまさに人間の脳ともなりつつあるからだ

福島第1原発:地下水を海に初放出 汚染前の560トン (東電ー政府ー県漁連は一体である)


福島第1原発:地下水を海に初放出 汚染前の560トン


(東電ー政府ー県漁連は一体である)

osensuiii1.jpg

 東京電力福島第一原発で汚染水の増加量を抑えるため地下水をくみ上げ海に流す「地下水バイパス計画」で東電と国は14日、地下水中の放射性物質は第三者機関による詳細な分析でも基準を下回ったと発表した。第三者による分析は実施の条件になっていた。東電は、福島県や地元漁協などに説明し、来週半ば以降に海への放出を始める。
http://www.asahi.com/articles/ASG5G667KG5GULBJ019.html

県は20日、廃炉に関する安全監視協議会を開き、福島第一原発の汚染水を減らす東京電力の「地下水バイパス計画」を承認した。東電は21日午前、地下水の放出を始める。計画に反対する市民団体は、改めて計画を中止するよう訴えた。
http://www.asahi.com/articles/CMTW1405200700001.html

放射性物質の海洋投棄について、県漁連に許認可権限があるのは、被害者を装う県漁連も東電や政府とお仲間と言うことですね。
ちなみに放射性物質の取り扱いについて法律を所管するのは、文科省、厚労省、国交省、そして新たに環境省、投棄は環境省です。
東電の海洋投棄について所管する省庁は許可を出しているのでしょうか。

それとも各省庁は県漁連に全て許認可権限を委託しているのでしょうか。
http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/211.html





海は誰のものということで漁業権で書いた。
漁業権をもっているものが今回の原発事故で
一番補償金を事故前も事故後ももらっていたのである。
だから原発御殿が建っていたとか磯部の人が批判していた。
それで今回の津波で天罰があたったんだと病院で言っていた。
漁業組合は別に海側に住んでいてもみんなが入れるわけではない
船主が一番権利がある。
一カ月船主は200万東電からもらえるとか言っていた。
その人は松川浦に住んでいても漁業とは関係ないのである
ただ漁業と関係する人が多いかことは確かである。
相馬の病院では浪江の請戸の人が特等室に入っていた。
家を建てるんだとか言っていた。
漁業組合は事故前も補償金が一番多く事故後もそうなのである。


これまで漁業をしてしいる人たちはかえって魚がとれなくて苦しいのかと思っていた。
実際は補償金をもらっていたから違っていた。
つまり原発を建てる時まず漁業権をもっている組合と交渉するのである。
組合で拒否すればまず原発は建てられなかったもしれない
だから漁業組合の責任は重かったとなるが
現実に事故後も手厚い補償がなされてる
汚染水を流す交渉すればまた補償金が増額される
これまで漁業組合にそういうことで批判する人はいなかった
メデアでも批判していないだろう


今回は福島市の市民団体が汚染水を流すなと批判した。
これは左系統なのかもしれないがそのからくりがわかったから批判している


放射性物質の海洋投棄について、県漁連に許認可権限があるのは、被害者を装う県漁連も東電や政府とお仲間と言うことですね。


県魚連と言ってもそれは海に関するすべての権利をもつわけではない、許可する権利ももっていないし権力もない、
それをもっているのは許可できるのは政府なのである。
県魚連ではなく政府がしているともなる。
東電の事故でも政府が最終的に許可するから建てることができる
許認可権は最終的には政府にあった。


ところが海は誰のものかというとき、それは日本国政府でも漁業組合のものでもない、
なぜなら海の領有権は主張しにくい,海に境界はなく世界とつながっているからである。
汚染水は海に流せば世界に影響してくる。
だからその汚染水の被害があれば世界から賠償請求が日本に来るかもしれない
環境問題は一国の勝手は許されないのである。
地球は陸地であれ空であれ海であれつながっているからである。
環境問題こそグローバルな問題であり一国の勝手が許されないのである。
原発だってチェルノブエリ事故でヨーロッパ全土に影響したように
グローバル化するから問題になった。


現代は利権化した団体が力をもち政府と一体化して決める。
県魚連などというと農協からすれば小さいものだと思っていた。
だから原発事故までは関心がなかったのである。
推理小説で犯人は誰かというとき、一番得した人が犯人だというのがよくある。
その得した人を探すとその人が犯人だったとかなる
それを考えると漁業組合が一番得しているから犯人だったともなる
ただ県魚連にしても政府の力が上であり政府が実際は許可しないと
汚染水だって海に流せないのである。
東電と漁業組合だけで決められていたわけではないのである。


どういうわけか東電を批判しないのは右系統になっている。
自分は右でも左でもない
低い放射能は危険ではない、危険だとか言う時科学的にはあいまいであり
右は危険でないといい、左は危険だというからまたわかりにくくなる
政治的に影響させるために誇大化されまた矮小化される
でも左系統が原発事故前は警告していたのは確かである。
「原発を東京に作れ」という本を出していたことでもわかる。
今になるとそれが一番理にかなっていたのである。
でも自分でもそれはSF小説のように見ていたのである。

原発自体に確かに常磐線を通ると煙突が見える時、あそこが原発があるのかと
意識したが30キロ離れていると関心がなかったのである。
ただ親戚とかにやたらこの辺では原発で働く人が多かったのである。
そこで金になるということを常に聞いていたのである。
原発とは地元では金になるということが一番の関心だったのである。
だから原町からも相当数原発で働いていた人がいたのである。
そういう人に個人的にでも10人近くあったかもしれない
ええ、そんなに原発で働いていたのかと意外でもあったのだ


ともかく政府も一体となり「安全神話」が作られていたからマスコミでも東電は批判していない、
東電は金のなる木だからみんな群がってたのである。
要するに原発が何かということを知らされなかったのだ
もちろん専門家は科学者は知っていても素人にはわからないとなり原発は作られた
原発反対の声は極めて小さいものにしかならない
だから日本沈没だとかの小説があったけどそれがSF小説のレベルに見ていたのである。
そのように情報が操作されていたともなる
それは日本の戦争の時と同じだったのである。
負けているの勝っているとか原爆をもっていたアメリカに対して竹槍で戦うという本土決戦をしようとしていた。
それもアメリカについての情報不足だったのである。
情報は常に操作されている。権力をもつものによって操作されるのである。


そして現代では権力化した団体が情報を操作できる。
だからカルト宗教団体でも漁業組合でも農協でも企業でも経団連でも労働者の連合でも
そうした団体組織の意向によって物事は決められてゆく
漁業組合は本当は福島県の漁業は宮城県の十分の一の規模であり小さいのである。
だから東電でも政府でも取り込むのは容易だったとなる
農業でもそうだが今は漁業だけでも成り立たないから東電に負うことになった。
そういう大きな経済の変化のなかで原発も作られていたのである。

shipsssss1.jpg

こういうふうに船が出ていたときがあった

posted by 老鶯 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

抽象画はやはり具象画と切り離せない (具象画⇒抽象化 具象⇒抽象化の作用)


抽象画はやはり具象画と切り離せない

(具象画⇒抽象化 抽象⇒具象化の作用)

matubarauni111.jpg

海ー松原ー大地ー実り



密生する葉のイメージ

leaves5555.jpg

leaves444.jpg

leavessss123.jpg

leavessss123444.jpg 

greenabccc111.jpg

matuubbbbbb1112222.jpg

matuubbbbbb1112222444.jpg

matuubbbbbb11122224445555.jpg

green city

greencity.jpg

抽象画は具象画と関係していないようにも見えた。
でも実際は抽象画もこの世界の森羅万象と関係している
抽象画からこの世界の森羅万象をイメージする


ここでも偶然に何かがソフトを操作して生れる
するとこれは自分がいつも津波の前に目にしていた光景とにているなと思った
海があり松原があり田んぼがあり黄金の稲の実りがある
そういう光景を長い間見ていたのである。
するとその光景がこの抽象画がに見えたのである。


でもこれは説明されないと他の人はまるでわからないだろう。
「これ何なの?」というのが抽象画に多いからだ
でもこれは海であり松原であり大地があり稲の実りがある
そう説明された時そういうものかと見ると安心するというか
謎が解けるとかにもなる
抽象画の意味づけができたことになる


これは原画だったがここから森の樹の葉を抽象化した
これも全く偶然であった。
抽象画は意図してはできない
とにかく化学の実験と本当ににている
納得のゆく抽象画を生み出すにはソフトの操作をしつこくしないとできない

葉の密生では黄色は光になるとかここは操作する。
この葉の密生は説明しなくてもわかりやすいだろう。
そういう抽象画は他からみてもなるほどと了解するが
了解できないものがかなりあるから困るのである。

2014年05月20日

東電社員650人が事故の時逃げていた (現代では真のエリート意識がもてないから責任ももてない)


東電社員650人が事故の時逃げていた

(現代では真のエリート意識がもてないから責任ももてない)

●指導すべきエリートたる東電社員が真っ先に逃げた


 東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故
 調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大
 震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、
 10キロ南の福島第二原発へ撤退していた


朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/articles/ASG5L51KCG5LUEHF003.html


そこで、一番安全と言われる免震棟に行くと、東電社員やガードマンが大勢いたんです。我々が被害状況を話すと、驚いていました。作業員を誘導するより先に、どうして東電の社員が逃げているんだと、作業員達は皆、不満気に話していました
http://ameblo.jp/nukfree/entry-10859394480.html


韓国のフェリー沈没事故で真っ先船長が逃げたとか問題になった。
原発事故でも同じだった。責任あるものが真っ先に逃げた。
原発で下請けやらで5000人から6000人も働いていた。
その人たちのことをかまわず東電社員が率先して逃げた。
それで残った70人が称賛された。
それは東電社員は原発の危険性を下請けや地元の人より知っていたからなのか?
だからいち早く逃げた。
地元の人は浪江町などでは知らないので危険な津島に町長の指示で避難した。
そこは一番放射線量が高い所だったのである。

政府であれ東電でもスピーディでどういうふうに放射線が流れるかわかっていたけど知らせることもなかった。
そんなふうになったのはそもそも放射能について皆目わからないからである。
「安全神話」しか教えられていなかったのである。

韓国の船長が危険を感じて真っ先に逃げたのと同じである。
そういう時は自分だけは助かりたいとうだけになる。
生きるか死ぬかとなるとみんなそうなるだろう。

自分は30キロ圏外で屋内退避だったから爆発したときも外を出歩いていた。
何が起こったのか放射線とは何なのかわからなかったからである。
ただその時は30キロ圏外でも避難しろということで避難した人たちが半分はいた。
あの爆発はやはり衝撃的であり危険を感じた人は感じた。
医者とか看護師などは危険を他の人より感じたから半分逃げたとかあった。
ただ今になるとそれらの人を批判もできないと言われている。
南相馬市立の院長が死ぬかと思ったという時、それほど危機感をもったとき、
看護師でも他の人より危機感をもったことは確かだからである。


●東電社員は真のエリートとの意識をもっていなかった


東電社員は6000人の下請けの人たちや地元の人たちを誘導する立場にあった。
しかし真っ先に逃げてしまった。何の指示もださなかった。
政府でも保安院でもそうだった。
東電社員はエリートで月給も高い、それはそれだけの責任をまかせられていたからである
原発の中では単に掃除しているだけの人とかいろんな人がいるが東電社員は
その中枢をになうものであったから責任がありその責任が問われた。
原発のことを他の人よりわかっていると思われていたからまかされていた。
でも逆に原発の危険性を知っていたからこれは危険だといち早く察して逃げたともなる。
その時下請けの人を誘導しようとか地元の人を誘導しようなどと考えなかった。
自分たちの命が先になっているからである。


東電社員が6000人の下請けの人たちとか地元の人たちを導くエリートだとか自覚していなかったろう。
ただエリートとして上に立ち威張っていればいいんだという感覚だった。
東電社員に優先的に採用された地元の人にもそのように下請けなどには威張っていれと指示されていたという。
東電社員になっていた人には地元の人もいたのである。
地元から採用された東電社員はその時、どうなっていたのか?

そもそも現代のエリートとは何か国家の命運をになうとかそのために働いているという感覚はないだろう。
会社は別に国家とは違う、そこでは利益をあげることであり国家の意識などもたない、
そして教育は戦前とはまるで違う、団塊の世代から受験戦争がはじまった。
それは他者を蹴落としてでも受験戦争に買って得する収入の高い所に官僚でも会社でも入ればいいと教育されたのである。
戦前はすべて国家のためにになっていたが戦後は個々人が個々人の利益を追求すればいいとなったのである。
それは官僚でも会社員でも下々で上でもみんなそうなのである。

そうは言ってもやはり社会は責任をもたされる地位にある人とない人がいる。

原発で掃除だけをしていると事務をしているとか人たちと東電社員は違っていた。
東電社員になった人たちはただ威張って月給も高いというだけではすまされなかった。
そういうエリートであることは常に責任がともなっていたのである。
でも現代ではエリートはただ官僚のように濡れ手で粟の得する立場であり
それに重大な責任が課せられていることを意識しないし教育もされていない
それは中国でも共産党エリートでも得する地位にあり濡れ手で粟の金が労せず入ってくると同じである。
つまりどこでもエリートの支配層の堕落があり腐敗がありそれが庶民にも還ってくる。


●責任あるエリートの自覚をもてない時代


今はエリートとかはいない、侍はエリートとして選ばれたものであり侍はどうあるべきかとか
モラルが侍の家に生れた時から植えつけられていたのである。
庶民はそんなことはまるでない、教育にしても読み書きソロバンの実用的なものだけである。
現代は本当のエリートととかないしエリートがどうあるべきかなどもない、
ただエリートは月給も高く得するからなりたいというだけである。
エリートとは本来は地の塩たるべき人たちだった。
だからその責任とか使命とか自覚してなっていた人がいた。


イギリスでは


ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige、フランス語発音: [n?bl?s ?bli?] とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、日本語では「位高ければ徳高きを要す」などと訳される。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す


こういうエリートがエリートだったのだろう。
現代では大衆社会とか大衆にへつらうことしかない、そうしないと上にも立てない社会である。
だから大衆にこびなければ議員にもなれないとなり大衆をもちあげるから
かえって真のエリートとはならないから大衆もそういう指導者を選んで大被害を受けるのである。
つまり東電社員は別にそんな侍とかイギリスの貴族とかのエリート意識などない。
得をするためにだけあるから危険があればいち早く逃げるだけだとなる。

現代の社会は真のエリートを養成されない社会である。
結果的には大衆化して卑いレベルに合わせた指導者しか生れない。

大衆社会はそもそもそうしたエリートを嫌うし育つ土壌ではない、
むしろ否定するから生れないとなる。卑いレベルの大衆に見合った指導者から生れないのである。
大衆は何を尊敬していいかなとわからない、ただ利益を求めるだけだから真のエリートは育てられないのである。
そうは言っても常に上にたつものは権力をもつものなどは地位あるものは必ず重い責任が課せられているのである。
その責任が日頃から自覚されいてれば別に高貴な義務を意識しなくても責任を果たそうとするだろう。
それで残った70人は称賛されたのである。

ともかく原発は国家的命運がかかわっていたなど東電社員でも地元の人でもそんなふうに思っていなかった。
ただ得をすればいいとしかなかったのである。

いづれにしろ真のエリート意識などもたないにしろ必ずどんな人でも責任は課せられて
る。重さは違っているにしろ課せられている。人間は責任から逃れることができないようになっている。
現代では金持ちは責任があり貧乏人は責任がないというのが明確にある。
人間の価値が金で判断されるとなると何でも金で判断されるとなるとそうなるのである。
だから月給がいくらだとか常に話題になる。そして公務員は批判される。
収入の多寡によってその人の責任が問われるのが現代社会である。

理系の問題は専門化した細部の研究に向いているマニア的な人はいて
その人たちが果たして真のエリートに値するのかどうかわはわからない
だからそういうふう専門分野で技術者として優秀であっても経営では失敗した人がいた。
東電も技術的問題あるにしろ経営で失敗したのである。
国家にしても国家を運営することだから指導者は経営者になっているのである。

posted by 老鶯 at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年05月19日

夏菊、夕鷺、蛙鳴く田 (復興はやはり元の暮らしがもどること)


夏菊、夕鷺、蛙鳴く田

(復興はやはり元の暮らしがもどること)

hamakkkk111_FotoSketcher1.jpg

hamakkk.jpg

matugikuuuu1_FotoSketcher1.jpg


夕鷺のそろい歩むや前田かな

老鶯や夕日のさして藤垂れぬ

主なき庭に牡丹の散りにけり主は我や我に映え散る
千輪の夏菊ゆれて白さます浜街道を走り来れり

水張りし田や蛙の集まりて復興なれや夕べ鳴くかな

yusagiiiii123.jpg

クリック拡大


隣の家も空家になった。その家は庭を塀で囲んでいないかさ丸見えである。
組で三軒空家になっている。空家の数700万軒とか膨大なものとなっている
空家をどうするか大問題となってしまった。
思うにそうして空家となっているのは売られずに利用されるないのは
地主が耕作しないで権利を失ったと同じように権利を喪失させることが必要かもしれない
誰も住まないのにいつまでも空家にして利用されないのはすでに権利を放棄したともなる
ただ財産保全のように空家にしておくことは市長村にとって迷惑であり
市の活性化になもならない、


空家となり牡丹が庭に咲いて散ったけど主はもういないのだからその花を見ていない
そしたらその花は誰に向かって咲いたのかとなる
家に向かって咲いたのかとなる
しかしその家には主はいないてのである。
だから隣なのでその牡丹を見て写真に撮ったりした。
その花は自分に向かって咲いて映えて散ったのである。
主のいない人間のいない家に向かって咲いても映えないのである。

猫は家につくというけど家が空家だったら家についても餌をくれる人間もいないのだから何にもならない、
やはり人につき人が餌がくれるから猫も活きてくる
確かに猫は何か家に収まる、猫が今家にいて番していて待っているというのも不思議である。

人間は自分で利用できなくなったものは土地であれ家であれ庭であれ権利を失うのである
花を結構買って置いたが枯れたりしたので家に来る女性がそういう方面の仕事をしていたのでくれと言うのでくれた。
そしたら生き返ったという。
植物も花も水やりとか絶えずしていなとならないから管理がめんどうなのである。
自分はいろいろ仕事があるから手がまわらないのだ。
この辺でも津波で家を流されて困っている人がいるから空家の利用も考える必要がある


夏菊の季節になった。あそこの夏菊は日立木の畑だった。
風にそよぎゆれたとき生き生きとしている。
浜街道というとき浜とついているから海をイメージする
だから夏菊にもあっているかもしれない、
浜街道は確かに海に面して海に近いのだが実際は海が見えるところはほんのごく一部だった。
ただ海が近いことは確かだからどこでも3キロくらい行けば海には出ていたのである
今回の津波で松原などがなくなりかなり遠くから海が見えるようになった。


相馬市は今までと何ら変わりない風景であり田んぼに白鷺がいる。
その風景は南相馬市ではないからなんとも白鷺のいる風景がなにか昔に還ったような不思議を感じる。
別に今までは田んぼあり白鷺は普通に見ていたのだがそれがなくなると何か新鮮なものになる。
そういうことは原発避難者が故郷を失って経験していることだろう。
前田というのはまさに家の前の田でありそこを夕べ白鷺が歩いていた。

白鷺は夏の季語である。夏菊も白いのが夏らしい

南相馬市でも鹿島区でも今年は田植えをところどころではじめた。
そこに夕べ蛙の声がひびいた。それも一匹とかではない、前のように
蛙の合唱が聞こえた。
そこに水があるので蛙が集まったのだろう
蛙がそういうふうにして増えると今度は白鷺が餌になるから白鷺が飛んでくる。
それは今までの風景でありそれが復興したということかもしれない
ただ放射能汚染米とされて売れないとなるとまた復興とは言えない
三年過ぎて田植えもところどころはじまったり畑も耕されたりしてくると
何か復興してきたのかなと見える。

畑で栃木県の土をもってきてやっているという人がいたがそれは嘘らしい
なぜならそんなに遠くから土をもってくるのは大変だからである。

まあ、浪江でも田植えしたと放送されていたがその顔が輝いていた。
やはり農民は田植えして稲刈りする、その時労働が辛くても喜びがある。
それは漁業関係者も漁師にも言えることである。
確かに補償金はもらっていても一体なぜ自分は魚もとらないのに
海辺に住んでいるのかと言っていた。
魚をとらないとしたらその存在は何なのだろうとなるのはわかる
農民は田植えして畑を耕作して稲刈りして農民であり
漁師は魚などをとっているからこそ漁師なのである。
だから仕事の価値が再認識されたことは確かである

2014年05月18日

原町の道の駅で山野草展 (記憶をたどる花の旅)


原町の道の駅で山野草展

(記憶をたどる花の旅)

hakakurennnn1.jpg

shiraitosouuu11.jpg


八角蓮その花黒く笠の下老いし人と語りけるかな

繊細に白糸草や一鉢に見守りけるや老いし人かな
蘭の花愛でつつ老いぬ一鉢の花によせにし愛しさ思ふ


知られざるヒトリシズカのここに咲く消残る雪を踏みつ来たりぬ

橲原渓谷上流へ花と岩をたずねる
http://musubu2.sblo.jp/article/65440460.html

今年また山の奥処にひそけくも我がたずねむやヒトリシズカを

原町の道の駅で山野草展をやっていたので見た。
知らない花が多かった。
高山植物の類もあったが蘭の種類が多かった。
花は相当見ているのだけど身近な花の種類でもわからないのが未だにある
花の種類はそれだげ多いということである。
特に最近は品種改良したものが出ているから外国産もあるから多くなった
ドイツスズランなどというのも出ていた。葉に筋が入っていた。

千島薄雪草というのは小さい、礼文薄雪草はこれよりは大きい、薄雪草は種類が違うと大きさが違っている。
尾瀬のは大きかった。蛇紋岩に塊り咲いていた。

至仏山霧の流れて蛇紋岩薄雪草の塊り咲きぬ


尾瀬には原始の自然環境に咲いているから特別であった。ただいろいろ花がありすぎて思い出せなくなった。
でも三回くらいは行っている。10回くらい行ったという人もいるから花好きの人には最高の場所である。
デジタルカメラのいいのをもっていって写真をもう一回とってみたい。意外と花は写真をとることが大事である。
すぐにしぼみ色あせてしまうからである。今回買った花もそうだった。


礼文島も花の島で知られているので三回くらい行った。そこに礼文薄雪草が一面に咲いていた。


一面に礼文薄雪草の島覆い夕闇おおい人は去りにき


旅をしても思い出せばいいのだが忘れてしまうのは残念である。なぜならせっかく
苦労して行ったから思い出せないとあとで行ったということすらわからなくなる。
団体旅行などはその場のことを思い出せなくなるだろう。
現代は忙しい旅だから余計に記憶しにくいのである。

ただ現代の旅はデジカメで記録させることで思い出す作業ができる。
自分が行った時は普通のカメラだからあまり写真をとっていないから損だった

北海道の平地でも高山植物が咲いている。宗谷岬の方に自転車で行ったときは
平地の草むらに白山千鳥が咲いていた。あの花は目立つから記憶に残っている。

hakusannchidoriii1111_FotoSketcher.jpg


はるけくも宗谷岬に我が来る白山千鳥の雨しととぬる


千島というとそこも日本なのか、千島薄雪草を見たら感激だろう。

蘭の種類は多い、蘭は南国系統である。でもヒマラヤの奥地、山の上に蘭が咲いていた。
苔むした樹に白い蘭が雨にめれてしっとりと咲いていた。
あんなところに咲くのも不思議だった。

この世には外国まで行けば不思議はいくらでもある。
ただ外国では何でもゆっくり見れないことが問題だった。
だから意外と記憶されないということがある。
ゆっくりその場にいれば記憶されるが早く過ぎ去るだけだと記憶されないのである。
結局記憶されなければこうしたエッセイなども書けないのである。
最後は記憶したものをたどることになるから記憶されていなとそれはもう存在しないと
同じになるから記憶することが大事なのである。


岩手山にも三回くらい上った。
その頂上付近の岩盤に高根釣鐘人参という大きめの花が咲いていた。
その時は濃霧が流れ見分けがつかなかった。
ただその花が高根に咲くから名付けられたのか大きいので印象に残っていた。
平地に咲くの花が小さい、それは秋の野にいつも見ていた。
それにしても人間の記憶は濃霧の中に消えるように消えやすいことだったのである。


濃霧のタカネツリガネニンジン


山頂に濃霧が流れていた
視界はさえぎられていた
その足元の岩盤に
タカネツリガネニンジンが咲いていた
それは霧にぬれしっとりと咲いていた
それは今は遠い記憶となった
その花を定かに思い出せない
しかしその花が名前とともに
時折遠い記憶として浮かんでくる

takanetriganee1.jpg

花は名前も大事である。名前と共に記憶されるのが多い。
電車の旅では駅名だけが記憶に残っていたりする。あとは景色は覚えていない、
なぜなら電車の旅は景色が早く過ぎ去っ消えてしまうからである。記憶が定着しにくいのである。
そして60過ぎるとすでに人の名前を覚えにくくなる。顔もそうである。
いろいろなものの名前が出てこなくなる。
これがひどくなると認知症になると人の顔も名前もわからなくなるのだ
息子娘の名前すらわからなくなり記憶から消えてしまう。

それは何を意味しているのか?その人はもうすでに息子娘でも
記憶から消えたとしたら存在しなくなるのである。
だから認知症というのは記憶がきえてゆく、記憶できない病気であるが老人になると
認知症ではないにしろにたような症状がでてくるのである。
人間の記憶は頼りないのである

抽象画は具象画との相違 (抽象画は形が決められていないから無限の変容がある)


抽象画は具象画との相違

(抽象画は形が決められていないから無限の変容がある)

abcirckeees_FotoSketcher1.jpg
女性の心

これが原画でありあとは変化させた

mountainscry2222.jpg

発光する花

cancer11111.jpg

kanizaaaaa111.jpg

mountainscry.jpg

叫ぶ山々

抽象画の不思議はそれが何を意味しているのかわからない
何かにこじつけて名前をつけてみてもそれとは断定できない

具象画だったら名前が明確につけられる
リンゴの具象画だったらリンゴを描いているのだからそれ意外ありえない

だからこの抽象画は何に見えますかとなる
どういう題をつけますかと見る人に問うことになる


抽象画は何か才能があってやっているのではない
ただパソコンで変化を楽しんでいるだけである
だからもともと才能ではないから
これを描きたいという絵心とも違う.
ただあるものが偶然に生れそれをソフトで変化させて楽しんでいる

結局これもなんだかわからなっかた
例のごとくソフトでランダムに変化させただけである


でも何かを感じる、蟹座というのは確かにこんなシンボルかもしれない
自分は蟹座であり内向的であり内に閉じる傾向がある
まず蟹でも蠍でも星座になっているが不思議である。
人間もそれぞれ神秘的な所がある


ともかく抽象画は無限の変化であり変容を楽しむものなのだろう。
具象画だったらそうした変容を楽しむことはできない
具象にとらわれるから形が決められるからそうなるのである。

蟹座は感性的であり芸術に向いていたのかもしれない
何か女性的でもある。
女性的感性があるのが蟹座なのかもしれない
人間の性格もそれぞれ違っていて神秘的なのである。

最近あった女性は不細工無骨なんだけど話が面白い
若いときだったら近づくのも嫌だったろう
でも話してみると面白いのである
だから女性でも外面的なものだけではわからない
それで結婚に失敗する人が多いのかもしれない

ともかく抽象画は適当なものを作って万華鏡で操作することからはじまる
原画からこんなふうに変化することは予想できなかったのである。
常に抽象画がどんなふうになるからわからないものである。
それはソフトによっても違ってくるからである

八月の石にすがりて  伊東静雄の詩を読む (夏の日の蝶と石ー自作の詩をここから作った)


八月の石にすがりて  伊東静雄の詩を読む

(夏の日の蝶と石ー自作の詩をここから作った)

bbbbbbbb111.jpg
有料のものを加工したからまずいがだした

八月の石にすがりて

さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命(さだめ)を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。


運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり!
白き外部世界なり。


見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木蔭をつくれ。

われも亦、

雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。


詩を解説することはできない、この詩も不思議な詩である。
石と蝶に興味をもって自分も詩にしてきた。
石にとまっているアゲハチョウを見たことがある
これは石をテーマにはしていない

さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる

この意味はわかる。蝶は夏の明るい日ざしのなかで花々を求めて飛んで死んだ
よく蝶が道端で死んでいるのを見ている。
蝶は美しい羽だけを見せて残して死んでゆく、まず蝶ほど不思議なものはないだろう
なぜあのように優雅に飛んでいるのか?




  夏の日の蝶と石


夏の明るい日ざしを一杯に身に受けて
蝶は花々を求めて優雅に舞い飛んだ
そして蝶は道端にその美しい羽を残して死んだ
その羽を旅人は見つけて拾った
旅人もまた旅していた
夏の日に道は別れて遠く誘う道よ
蝶は常に舞うことを宿命づけられている
鳥は翼を与えられ飛ぶことを宿命づけられている
蝶も鳥もとどまってはいけないのだ
風を受け光を受けて飛び舞わねばならない
留まった時に死が訪れる
旅人は旅しつづけねばならない
例え旅しなくても心の中で旅はつづいている
回想の旅はつづいている・・・・
ただ働くばかりの蟻の死は無残だ
ああ 百の千の万の花を見て飛んだ
その彩りは尽きることがない
美しき地球の花園を飛んだ
そこに悔いはなく充たされる
ああ 汝はそのような時を与えられた
まばゆく朝の光を一杯に浴びて散った牡丹のように
汝の生も夏の光の中になおある
汝は醜いもの残してはならぬ
詩人は蝶のように美しい羽を残して死ぬ
舞い飛び歌い笑いつつ神の庭園を逍遙する
石にも夏のまぶしい光がさして
その自然の中で石は夏を感じている
その石は夏の日ざしを受けて光沢をます
石にも夏があり冬の厳しさに生きている
春のあたたかい陽光も受けてなごむ
石は今木陰に影なして涼しく休む
石も雨に打たれ風に吹かれ生きている
ああ 悲しきかなすでに春に生れし蝶の
野辺の道に死にてありしを・・・
かくして夏も来ずに死ぬものもありしを
・・・・・・・・・・・・



これにヒントを受けてこの詩を今作った。
それができたのもインターネットのおかげである。
この詩を知らなかったからである。詩というのは読む人が本当に少ないから知らない詩というのが無数にあるのだ。
それは詩集としても出ない、なぜなら売れないからなのだ。
そこに詩の問題があったのである。
現代ではインターネットなどでいくらでも詩でも何でもだせる、ただ評価はされない。
くだらない詩でも無数にインターネットにだせるものも現代なのである。
ええ、こんな詩があったのかというのが本当に多いのである。
これまで出版された詩集も無数にあるが読まれていないし知られないのである。

この詩には相当深いものがある。


雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。


これも一転して真冬になっているのも不思議である。
ただ飢えているというとき、飢えながら雪原という自然の美の中で死ぬ狼をイメージしている。
それも詩人の死にふさわしいのだろう。
詩人とかは社会では排斥されて認められないのである。
社会とは無残な蟻の集団という側面が常にあった。
働くことがすべて肯定されるものではないのだ
俺は働いてきた、働いているというのは何かと主張する人がいる
それは蟻としで働かされた働くことを強いられたという側面もあったのだ
確かに毎日ダンプで請け負い一台分いくらともらって収入を増やして家を建てたというのもわかる
でもそれは一面蟻のように働かされたという面もあったのだ。
ただそ人は別に遊びもしていたから全く楽しみもなっか人とは違う。

ともかく蟻とキリギリスの話しは今では逆転しているだろう。
キリギリスの面がない人はこれからは豊かな時代は嫌われるだろう。
その点団塊の世代は遊び上手であり苦労しかない働くことしかない戦前の人とは違っているのだ。

いづれにしろ自分も結局蟻とキリギリスでありキリギリスだったから今になると
ただプログに書いてきたようにこの七年間は悲惨な状態になった。
それまでは自分ほど恵まれていた人はいなかったのである。
30年間は旅をしつづけ働くこともなかったのである。
それゆえにこの七年間の苦しみを受けねばならなかった。

でも今になると自分は会社勤めもできない性格だったし人と交際もできな性格だった
だからそういうわずらしいことからまねがれて自然の陽光の中に風に吹かれ
自由に飛んでいたということになる。
学校とか自分にはあわない場所だった
ただ今になると学問とか芸術分野も好きだし理系的な分野でも興味をもって学びたいということがあった
だからこそ自分は工場とか会社で事務などすることもなく野外に常にあったのである。
その期間が長いからそのことが体にも心にも影響している


自分の母親などは若いとき十年間紡績工場で働いていた
そういう環境はいいものではない、それでも百才も生きようとしているがまさに蟻そのものだった。
だから巨大な蟻となって迫ってくる恐怖もあった。
花にも何にも興味がない、ただ働くだけの人間はそれは異常な存在と化していたのだ
巨大な蟻の化け物になっていたのである。
それもそう強いられたのだから批判はできない。これも無残である。
だからたまたま自分が家庭環境でそういう人生になっていたのである。
一カ月とかぶらりとどこへとなく旅ししていてとがめられることもない
食事はいつも用意してあるし何もすることもなかった
これは今になるとよほど恵まれたものだった。
今や食事を用意して自分だけではない介護しなければならないし
近くでも自由に行けなくなったことでわかったのである。
今や自分は蟻にされていることがわかったのである。


ただ自分の人生はそのように恵まれたものだから今は蟻でも全然違っている。
人間とはその一生の時間を何に費やしたかで決まるというときまさそそうだった。
いくら働いていても毎日工場で流れ作業していたり自然とかけ離れたデスクワークをしていたりとしていると
姿勢すら猫背のようになったりしないか?
心の中にも長い間でそうした自然から離れた生活が鬱積されてこないか?
そうしたものは実は知らない間に人間をゆがめていることが還暦すぎるとわかるのである
それは樹とか石とか自然のものとは違ったものとなっている。
自然を感じない人工物になっているかもしれないのである。

もちろん普通に社会人としして働いてそうでない人もいる。
だからいちがいには言えないがそうなりやすいことは言えるのである。
上野霄里(しょうり)氏やニーチェの超人になれる人はいないだろう
世間の価値観にとらわれて本来の原生人間は失われる
社会というのがそんなに大事であり価値あるものかという根本的疑問がある
いづれにしろ最後に人は馬鹿でもわかる
何を失ったかわかる、本当に生きる時間を失ったことが最大の後悔となるのだ。

2014年05月17日

津波でもどった日本の 原初の景観 (松原は人工林であり津波には弱かった)


津波でもどった日本の 原初の景観

(松原は人工林であり津波には弱かった)

●白砂青松の景観は自然林ではなく危険だった


松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮かぶ
干綱浜に高くして
鴎は低く波に飛ぶ
見よ昼の海
見よ昼の海

島山闇に著きあたり
漁火淡し
寄る波岸に緩くして
浦風軽く沙(いさご)吹く
見よ夜の海
見よ夜の海

こういう風景が日本の風景だった。


室町幕府の武将にして歌人、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州に向かう途中に立ち寄った明石(あかし)の海浜を、浜は雪を敷いたように白い砂で覆われ、年輪を重ねた松が強い風に捩じ曲げられた枝々に深い緑の葉を茂らせていると和文で記してい
るのである。



松林の下に自然に生えてくる広葉樹の若木を下刈りすることなどがその典型だといえます。しかしそれは、皮肉にも津波に対する防潮機能をいちじるしく弱めることになってしまいました。

 たとえば陸前高田市の「高田松原」は、まさに日本の「三大白砂青松」の地と呼ばれてきました。しかもここのマツ林は、明治三陸大津波や昭和三陸津波の際には津波の被害も大きく防いでくれました。しかし、明治三陸大津波の際には、「下木として多数の広葉樹が生育していた」(213)そうです。それがその後、昭和15年には「史蹟名勝天然記念物」にも指定され、保護管理区域として「林内で広葉樹が生育しないように、毎年、除草と下刈りが行われ」


マツの単植林が防潮、防災に適さない理由として、一般的に広葉樹に比べて根が浅いという点があげられる。

http://hiroshige724.blog22.fc2.com/blog-entry-124.html

松原は美的観点からだけみれば問題なかった。ただ美的なものではなく防潮林であり
塩害を防ぐ役目も果たしていた。なぜなら干拓して田を広げた時作られたからである。
松原が人工林だったことはやはり田畑もそうだが松原すら自然破壊の産物だったのである。
それが美しいと見えたのは人工林としての庭園美のように見て称賛されていた。
前に書いたけどぶなの木が無用の木ではなく山林にはもともとあった樹である。
ところが杉林になったとき人工林化して洪水に弱くなり土砂崩れを起こす原因ともなった。
ぶなが無用ではなく自然ではその無用と思われるものが有用だった。
それは荘子の思想にあった。そこに中国の大陸的思想があった。

つまり人間の狭い料簡ではとても自然は計れないということである。
人間はそもそも自然を計ることはできない、計られる存在なのである。
だから確率論で一万年に一回しか事故は起きないとか真面目に原発のことで言っていた
科学者がいたがそうした自然を計ろうとした人間の傲慢が津波で打ち砕かれたのである。

山林でもいろいろな樹がぶなでも何でも混合しているのが自然であり単一化しているのは自然ではない、
だからもともと海岸にも原生林がありいろいろな種類の樹が森が形成されていた。
松原だけの単一化したものではなかった。

そういう種々の樹が密生していると今回のように無数の松がなぎ倒されて消失するようなことがないかもしれなかった。
例えば竹林の方が津波には強かった。根が強く広く張っているから根こそ流されなかったという。
それと津波を防いだのは緩衝地帯があった場合相当に違っていた。
四倉は海岸に接して街があっても比較的被害が少なかったのは緩衝地帯の砂浜が広かったからである。
松川浦でも原釜や海にじかに接していたところは被害が大きかった
でも浦に面した所はそこが緩衝地帯となり津波の勢いが弱まり被害が少なくてすんだ。
海岸沿いの道が堤防のようになり浦が感傷地帯となり津波の勢いを弱くした。


●人間が生き始めた時自然破壊が必然的起きていた


要するに自然に手を加えたものはすでに自然を破壊した人工的なものである。
それは人間が住み始めた時からはじまっていた。焼畑農業がこれも森林破壊であり
肥料を簡易に作るために森林を燃やした原始的農法である。
農業にとって肥料がいかに大事か実際にしている人は痛いほどわかっている。
そのために洪水で土壌流出が起こり安くなったのである。

人間が自然の中で生きる時必ず自然破壊が起こりそれが災いともなる。
人間の技(わざ)は必ず災い(技わい)を生むのである。
それはプロメテウスが神から火を盗んだ時からはじまっていたのである。
人間の業(わざ)は自然を破壊しないと生きられないということにもあった。
人間の業は必ず自然を逸脱するものとなりその報復が自然から災害として受ける宿命にある。
だから農業自体が大規模な自然破壊の文明でもあったのだ。
そのことが津波で証明された。
無理して海側に干拓した地帯や人工林の松原が根こそぎ喪失してしまった。
何万本もあった松が陸前高田市では一本も残らなかったのである。
もし自然林だったらそういうことはなかったろう。
欅などは塩分に強いとかなると塩分に強いものが自然にはあり津波の跡でも生育してゆく
松原という単一化は庭園のように人間の美的感覚だけで作られたものであり生来の美ではなかったのである。


そもそも自然は多様性であり多様な植生であり多様な生物が生きるものとして作られていたが
単一化することは自然の文化の破壊だったのである。
米だけの単一生産もまたコーヒーだけの単一生産が危険なのは
外国から食料を輸入できないと飢えに直面することなのである。
現実に東北では江戸に米を商品として作りすぎて天候不順で冷害とかなると飢饉で餓死者を多数だした。
これは多様な食料を作っていれば飢えなかった。
冷害にも強い種は食料となるものが自然にはあるからだ。
食料でも単一化は人間の生物であれば危険なのである。
だから松の人工林である松原や杉林は自然ではないから災害には弱いのである。


●山も松原と同じように単一化された人工林になっていた


カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く
ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。


人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。

bunaaaa1.jpg

ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた
http://musubu2.sblo.jp/article/48417815.html



山も杉林などで一様化し単一の森にした。それで土砂崩れが起きやすくなったのである。
ブナの木を無駄としたのは人間の一方的利便性の追求でありそれが自然のバランスを壊すことになった。
自然のバランスを人間の知恵では計り知れないほど微妙なのである。
人間の体さえ未だにわかっていないというのは生命というのが
地球と宇宙と切り離されず一体として生れたからである。だから津波も天体と月とかとも
関係していたというのも本当かもしれないしまだ人間の力では解明されていないのだ。


津波の予兆というのはいろいろ言われる。津波の前の年が夏が異常に暑かったのである。
あんな暑さを経験したことがない異常な暑さだった。
確かに温暖化で暑くはなっていたがあの暑さは異常でありそれが天体の異変と結びつき
津波と起こす予兆だったかもしれない、月が満ちるとかあるが天体にも何かそういう作用があったのかもしれない、
地球と宇宙も別なものではない、一体だからそう考えるのも不自然ではない。


いづれにしろ人間の知恵は永遠に神の知恵に及ぶことはない、
この世界を人間を創造したもののみが知っているのである。だから万能細胞などありえないのである。
要するに奇跡としかいいようがないのがこの世界なのである。
そしてまた新しい奇跡は神の力によって起こされる。
それがいかなるものかは知り得ない、それも想像を絶するものなのである。
文明というのはあくまでも人間の小賢しい知恵であり技でありそこには常に何か危険なものが生れる。
原子力にしても原子とかを操作するから危険が生れた。
もし神のような知恵があれば可能だが人間にはもち得ないからもう毒が出てとめられなくなり人類滅亡にさえなる。
だから火を盗んだフロメテウスの神話から人類に警告されてきたがそれは便利さの追求のために無視されてきたのである。


●文明は津波に敗れて山河あり


漢詩に「国破れて山河在り」とあるが、今日では「国栄えて山河破れ」となる。

国ではなくもはやグローバル化した世界では文明栄えて山河破れに共通になっている。
今や文明による環境破壊は世界的であり世界自体が狭くなっているからそうなる。

津浪は自然のそうした大きなバランスを保つための作用であり
自然界が悪い意図で人間を苦しめているというのではないのだ
四〇〇年に一回であれ千年単位で起きる津浪も自然のバランスを保つ為の作用であった。

異論はあるにしても原始の状態に自然が回帰するようになったのはそれは
自然の作用であり自然のバランスを保つために津波が起きたともとれる。
自然は無情で非情だと呪ったりもしたが津波によって元の自然がもどったということは
自然の美が回復したのである。

白砂というのは右田浜だろうがどこでも日本ではほとんど消失していた。
松原は松風など吹いて気持良かったが海岸線は防波堤でありブロックの山であり
そこに美はなかったのである。そんな美観より災害に備えるのが先だというのはわかる。
でも津波を防ぐ防波堤を海が見えなくするほど高くするのはどうかと思う。
海が見えてこそ海辺に住むものの良さがある。
確かに松原の景色はこの辺で失われたが変わって海が広々と見えるようになった。
今までは松原とかにさえぎられて見えなかったのである。
草原化して原野化して砂が運ばれてまるで北海道のような風景になった。

ただ3キロも津波がきて原野化したのだからその範囲はつくづく広いと思った。
それだけの広さの土地を干拓して人工化したというのもその労力も大変なものだと思った。
それが一瞬にして失われたのである。

津波で失われた所はもとのままにして手を加えない方がいい、
人はもうそこに住まないで元の自然に返す方がいいという意見の人がいた。自分もその意見に賛同する。
防潮堤とかそんなもの作っても無駄でありむしろ津波が来ない地域に住むようにした方がいいとなる。
漁業するにも港に通うというのがいい、車があるのだから昔とは違うからである。
米だって減反時代だからここでとれなくても他からいくらでも入ってくる。
もちろんそうしたら何で生活してゆくのだとかなるがそれはまた別問題である。


津波はただ否定的なものとしてばかり災害としてばかりとらえているが
自然側からすれば自然のバランスを保つための作用だったとなる。
自然の作用だからそこには必ず美が生れる。富士山も噴火した時は被害を与えてもあのような
優美な姿が噴火によって作り出されたのである。
文明破れて山河は残るのである。津波とは自然から見れば大きな浄化作用だっかもしれない。

ただ否定的な面ばかり主張されがやはり元の自然の状態にもどることは悪いことだけではなかった。
自然の美が回復したということはあったのだ。
そんな美よりここで死んだ人を思いというのもわかる。
ここで死んだ人の気持がわかるかというのも犠牲者になればそうである。
ただそればかりを思いつづけいたら復興もなくなるだろう。
いつまでもそうして暗い気持で生きていいのだろうかという疑問がある
被害者になってみなければそれはわからないというのもある。
それは別に死別は常時ありいつまでも死者のことにこだわるのも問題なのである。
一方で忘れるのも問題なのである。その辺の兼ね合いがむずかしいのである。
妻をなくしした人がペットは死ぬから別れるのが嫌だから飼わないと言う
その真意はわからないにしてもいつまでも死者にこだわるのも問題なのである。


いづれにしろ日本は津波国なのに津波災害に対して甘かった。
女川でも石巻でも海岸に密集して家があり石巻の日和山のところにあんなに
家が密集していたのを不自然に思った。こんなに海岸に接して家が密集していたから目立った。
女川でも地形的にまるで津波を呼び込むような地形になっていた。
平坦な地域がほとんどないのである。

それも利便性からそうしした危険な地帯に住むようになったのは
文明が自然を破壊せずに生きていけないのとにていたのかもしれない。
文明とはそもそも利便性の追求でありそれに歯止めがかからないのである。
科学も利便性の追求であり交通事故があろと車を一割も減らすことは生死にかかわるとかなりできない、
もちろんエネルギーも減らすことができないのである。
人間社会には減らす思想がないのである。
一方で宗教は老子であれ釈迦であれキリストであれ清貧であり物質のあくなき豊かさの追求を戒めるものだった。
人間はどこまでも物質的豊かさを求める時、制御がなくなるとそこに文明の崩壊が起きてくる。
その引き金となるのが今回のような大災害だったのである。

posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津波の跡に残る樹々(それは人間化した木々)


津波の跡に残る樹々

(それは人間化した木々)

matutomorrow1.jpg

seakikiki1.jpg


津波にもめげず立ちにき一本松夏の陽輝き明日を見むかな

津波にも残れる樹々の青葉して朝風そよぎ海の光りぬ
津波跡枯れつつ残る二本の樹のなお立ちて人住まぬかも
痛々し樹皮の剥がれてなお立ちぬ津波跡の家の跡かな

太しくも津波の跡に残る樹の青葉して風に鳴りにけるかも

twotrees11.jpg

kaerekikikik123_FotoSketcher.jpg

kareki22222222333.jpg

津波の跡に残った樹々はいつも不思議だった。なにか普通の樹とはちがう
それは庭に立っていたから人間化した木々だった。
つまりその樹をみて人間のようにみていたのである。
また人間のように見えるのである。

樹皮がはがれているのもいたいたしく傷ついた人間のように見えるのだ。
枯れつつある樹もそうである。そこを離れがたくいつまでも立っている。

自然でも人間が住んで樹があるとそれは人間化してくる
ペットでも人間と暮らしていればほとんど人間化した動物になる。
だから家族の一員のようになり墓まで作っている。
樹はそうでないと思っていたが津波の跡の樹を見ていると何か違うのである。
だからいつも不思議な光景だなと見ていた。

樹でも塩分に強い欅などは残って青葉になっている。
その青葉には風がそよぎ朝の海がまじかに光っている

それにしてもあそこの道の両側に門のように残った樹は力強い
あの辺は相当に海に近かったのだ
だからとても住める場所でなくなっていた。
庭の石が残っている所はまだ被害が少なかった
そこはかなりの距離があったから残ったのである。


右田の一本松は有名になったけどあの松も果たして残るのだろうか?
ただその一本松にも人間を見ているのだ。
ここに立って残ってほしい、生きていて欲しいと人間を見ているのだ
ここに立って生きていれば明日を見ることがある
明日とは何か、それは復興した明日かもしれない
復興とはまた何なのか今はわからない

しかしやはり明日を見たいということがある
その明日はこの一本松が生きることにより明日を人間と共有するのである。

だから陸前高田市でも残った一本松にこだわったのである。
ただあの松は死んだから代わりに人工の松にしたから実際はその松は生きてはいない
死んだ松になってしまっている。
実際に生きていてこそシンポルになりえたのである。
生きているということはやはり違っている、それは人間と同じように
生きているものには感情移入ができるが人工物にはできないのである。
だから植物でもペットでも人間化するのは人間と同じようになるからである。


月でも火星でもそこにあるものはまだ人間化していない
もし人間が住めばそこも石があり山があれば名付けられて人間化するのである
人間化しないところはそこはまさに非情の世界であり火星と同じなのである。
人間化することによって自然も宇宙も価値を帯びてくるのである。

2014年05月16日

夏の日(津波の跡の右田の一本松)


夏の日(津波の跡の右田の一本松)

ipponmat122.jpg

ipponmat1223333.jpg

ipponmat1.jpg

こっちは低い一本松
nosuriiiiii123-thumbnail2[1].jpg

ihaiii111.jpg


クリック拡大

健やかに一本松の立ちぬらむ夏の旭に輝き映えて

朝風のそよぎて砂地広がりてハマエンドウや波のひびきぬ
誰が置く津浪の跡の松の根に壊れし位牌無残なるかな
朝の波光りてよせぬ津浪跡砂地の熱く夏の日さしぬ
海広く津波の跡の草原の朝や雲雀の声のびびきぬ
海よりし鳥の飛びきて草原に朝風わたる津波の跡かな

この家の津波に流され残る石ツツジの赤く燃えにけるかな

stonettjiiii111.jpg


右田の一本松はテレビでも報道しているから結構有名になっているのだろう。
確かに高い松であるが最初はあれとちがう低い松の方を自分は注目していた。
それは凄まじい津波に耐えた姿だった。枝は折れてまるで百人の敵とも
戦い屈しなかったような松の姿だったのである。

このすらりとした松は高いのだがそういうものはあまり感じないのだ
ただ高いということで目立っている

ハマエンドウが砂地化した原野に咲いていた。それは福島民報の写真でも出していた。
地元の人でも見ていない人が結構多い。写真の撮り方もうまかった
でもハマエンドウの写真しかでていない
回りの風景は写していていない、目立ったものを一枚だすだけだから情報が不足している
地元の人の強みは今ならインターネットで何枚もだせることなのである。

それよりその場のことはそこに現場にたたない限り本当はわからないのだ。
だから津波を知りたかったらその現場に立ってみることである。
津波は特に地形が関係していたから現場に立たないとわからないのである。

いづれにしろ原野化すると野生の植物でも生物でも鳥でもかえって住みやすくなるのだ。
これまた被害者には叱られるかもしれないが松原は第二の自然であっても砂浜は消えて
景観としては青松はあっても砂原はなくなっていたのである。
砂も自然であるからあれば美しいとなる。海辺らしい風景にもどったのである。


右田の浜から野球場があった手前の消防の分署があったところの前の家の庭の石は残っていた。
石が好きなので石を見るがあの石もまた個性がありいい石だと思った。
うねったようになっているからだ。
あそこは花も植えたり小屋が建っているからまた家を建てるのか?
あの辺は新しい家が何軒か建っている
庭があってツツジが燃えるように咲くことはそれは人間がまたここに住みたいということなのか、
赤いツツジは人間の情熱を感じる

あの辺まではまだ人が住める地域なのかもしれない
あそこの庭があることは知っていたが中から見ていないからどういう庭か知らなかった
今津波の跡で無断で入って見たのだがある程度原型が残っている庭だった。
距離的に遠いことで庭の石も残ったのである。

2014年05月15日

夏雲雀(小さな畑でも手間も金もかかる)


夏雲雀(小さな畑でも手間も金もかかる)

Ppppppppp111  .jpg

今日もまた畑にありて夏雲雀

小さなる庭に植えにし花咲きぬ近くにありて親しき女かな
妻の死に七年過ぎてあわれかな庭の手入れもままならぬかも
ダイアナの名のあざやかに鉄線の赤きをイギリス思ふ
この道の木陰の長く人まれにでで虫歩み蛙鳴くかな


昨日は午後から小さな畑にいた。
あそこの畑は一反もない、でもその畑を維持するのが手間なのである
肥料は鶏糞で角田まで買ってきたとか苗は高いとか水をやるのに
水を確保しなければならない、水とるところを見つけたとかまた草むしりだとか
ネズミに荒されたとか・・・様々な問題が生れて話しする。
野菜を作って売るどころではない、
野菜を作るのに売るより何倍もの金がかかっている
ただ売らずに食べるにしてもスーパーで買うより作るのが金がかかる

だからそれは金を出して野菜作りを楽しんでいるともなる

農業は今はそれだけあんな小さな畑でも苦労が多い。
手間かかるし金もかかるのである。
その点、米の方が楽なのかもしれない
水の管理はめんどうだがその他は会社勤めの片手間でもできるらしい。
野菜作りは本当にめんどうである
そこでまた一日が過ぎてゆく、そこに夏雲雀が鳴いている

この辺ではまだ田畑も作っているのはわずかである。
農業用水路の放射能の除染するとか市役所の役人が来たけど
そもそも堀を除染しても土が除染できないのだから
除染に効果あるのかどうか疑問である。


近くに親しい人が住んでいると田舎でも住みやすくなる
都会から移住してきてうまくいかないのが仲間になれない
友達ができないので嫌になってまた都会に帰ったというのもわかる
畑でも今は農家でも仕事していないから暇なのかいつも見ている人がいるという。
絶えず誰かに見られているとか見張られているとかの話である。
それも田舎は窮屈だから松山や仙台のような
都会と田舎がまだ混在している所が住みやすいだろう。

ただそこは辺鄙な田舎町より金がかかる

ただ辺鄙な田舎町でも一万くらいだとかえって物価も高くなる
イオンは野菜でも魚でも新鮮であり他も安いがイオンがないとかえって高くつく
だから一万とかの町は今はすみにくくなったのである。
車がある人はいいがない人は不便である
特に医者には困るのである。
糖尿病で目の検査に仙台まで行った人がいる
これも大変だけどむずかしい病気になるとここでは仙台に行く
でも今は電車がないので不便なのである


一人暮らしの人は家も大きいし庭も大きい
だからそれを手入れするだげで手間になる
だから津浪の被害もあって荒れてしまっている
それがもったいないのである。
一人暮らしは家を維持すること自体苦しくなってくる
庭作りしたいと言ってもそれもかなりの手間であり労働なのである。

プリンセスダイアナという鉄線の花は赤くその名にふさわしい。


自分はダイアナ妃がパリのトンネル内の事故で
亡くなったその日に偶然パリにいてその現場、
地下道の入り口の壊れた自動車や供養された花束などを
見たことが、この花への愛着となっている。

http://yasuiga.exblog.jp/20673416


こういう人がいるというのも現代である。
ダイアナという名前を花に残したということはやはりイギリスの王女だとなる
その花を見るとダイアナを思い出すから忘れられないから
死に方は悲劇的であってもいつまでも忘れられない
この花がダイアナとぴったりだったということもある。
ともかく花の種類は多くなっている

2014年05月14日

時給化された労働は本来の人間の労働ではない (時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)


時給化された労働は本来の人間の労働ではない

(時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)

時給が深夜1500円になったのは福島県の「すき家」原町店。原発事故を起こした東京電力福島第一原発からは約25キロメートル。JR常磐線原ノ町駅から約1.5キロメートルの国道沿いにある24時間営業の店だ。

   周辺の外食店はどこも深刻な人手不足に悩まされている。放射線の影響を懸念して、主な働き手だった若者や主婦層が市外に流出したうえ、除染作業などの復興事業の本格化が重なったことで、労働力の奪い合いが起こっている。
http://www.j-cast.com/2014/05/12204475.html


あそこは本当に忙しいのがわかる。時々納豆定食を食べていた。
あそだ働いていたら息ぬきもできない、暇なし働かされる。
普通は働きたくないだろう。
この辺では若い人が流出したこともあるし小高などの原発避難者は補償金で遊んでいて働かない
第一そんな忙しい所で働きたくないのが普通である。
この辺の人で不足はそこだけではない、コンビニでもそうだし全般的なのである。
チェーン店はほとんどそうなっている。


ただ時給千円というのは前は地方では結構な値段だった。
でもそもそも人件費が安すぎたのである。
人間を雇うほどめんどうなものはないし金がかかって当然なのである。
あまりにも人間を大事にしなかったのである。

自分は家でちょっと一時間でも家事の手伝いしてもらうのに大変な苦労してわかった。
そもそも一時間など働く人がないから余計そうだった。
それで犯罪の被害者になった。
ただ人間とは機械のように扱いないし奴隷のようにも扱えない
それが時給いくらだとかそんなふうに人間を扱うこと自体、奴隷化されていたのである。
時給いくらだとかいう働かせ方自体間違っていたのである。
働くのには別な価値観が必要である。
時給いくらだとかで計ること自体、人間無視だったのである。


働くことはそんな時給いくらきかで決められないだろう。
なぜなら働くことはその人の人生の問題であり
ただ一時しのぎの稼ぎとは違ったものだろう。


英語で

workは作品である、自分の作品を作るために働くとなるとライフワークになる。


I work for a company
I work at a company


の意味は違っている。
 
forには全体のためにとか目的のためにとか長い時間の中で働くという意味がある。
電車でも行く先地に行くのはforである。

つまりforは目的地に向かって電車を運転して運んでいるという感覚である。
一方はatは場所とか一部の担当とか部分的なものになる。


I work for the hospital
I work at the hospital


これはforは病院という全体の働いている感覚になる。
atはそうではない、一つの部門とか科で一時的に働いている感覚になる


現代とは働くにも部品化して細分化しているからforの働き方が消失している
for my familyとなれば一人のためではない家族全体のために働いている。
お手伝いさんとかなるとそうではない、ただ賃金をもらって一部の家事をしているのだから
work atになってしまうのである。]それは時給的働き方と同じなのである。

現代は働くこと自体、forという観念はなく時間的にも部分化、部品化されているのだ。

むしろ村だったら村という全体のために働いているという意識が自然と生れていただろう。
自ずと共同意識の中に働いてきた。それは意識しなくても無意識的にそうなっていたのである。
そこではそもそも時給いくらだとかいう感覚はないだろう。
もちろん田植えでも稲刈りでも手間賃をもらうということはあった。
それでも逆にまた自分の家でも田植えや稲刈りで働いてもらうとなると助け合いという意識、
共同性の中で働いていたということもある。

ともかく時給いくらだというのはatの一時的なその場しのぎの働き方なのである。

だから本来は郷土のために働くという時、部品としてではなく郷土全体のために働くということであり土着的な働き方であった。
そういう共同性が喪失した時、時給化された部品化された働き方になったのである。


I work for my homeland

I work at a homeland


この意味は相当に違っている。forは全体であり時間的持続性もあるがatにはないのである。
ともかく現代は全体を共有するとか共同意識が衰退して時間でも空間でも
何でも部分化して細分化して人間自体もそうされているのだ。
アルミニウムの高度な溶接していてもそれが郷土のためだとか意識することはない
でもその人が退職して自転車で郷里を走り回っているとあそこはどうだとか
今なら津浪でどうだとかになり郷里の共有意識で話しているのである。

いづれにしろ現代はwork forという働き方が喪失した時代なのである。

workには機能するとか作用するとかの意味もありそれは自然だったら
自然に機能して作用してゆく働きかただから自然とも深く関係していた働きかたである。
大地に根を張るような働きかたである。
毛細血管のよう細密に土に根を張る植物とにていたのである。

posted by 老鶯 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年05月13日

夏の浜街道(サイクリングしている退職した人と出会う)


夏の浜街道(サイクリングしている退職した人と出会う)

hamakaidouuuu1.jpg


浜街道松影涼し城跡へ

藤垂れて神苑清楚白つつじ
夏の夕草原のかなた海望む

甦る青春の日々夏の月

団塊は解放的や夏の月

故郷をサイクリングにめぐる人夏の日我と出会いけるかな


natumiiii111.jpg


サイクリンクしている人と出会った、年齢聞いたら一年しか違っていない
朝4時とかにサイクリングしているという、その人は車ももっているし
溶接の仕事もしてきた、それもアルミニウムとかのでありむずかしいから金なったという、
誰でもやれるのは金にならない、誰でもやれない特殊な技術をもてば金になる

その人の趣味は多彩である。音楽がもともと好きでフォークソングをしていて
インターネットで楽譜を探してギターをひいているというし釣りもやっていたしと趣味が多彩である。
運動不足なるので自転車もやるようになった。

それでも自分と一年しか違わなかったら自転車も肉体的には辛いはずである。
その人は5万くらいのロードにのっていた。高いものではないが目立つ
自転車の人とはこうして話ししたりすることになる

その人と話ししてわかったことは退職した人が増えて暇をもてあます人もますます増えてくる。
だから前に六号線を鹿児島から青森まで歩いて行くという人がいたことには驚いた。
その人も公務員を退職して旅にでた。もう保養ではない、どこまでも自由に行けるところまでゆく、
それが勤めている時はできなかったので退職したとき一気に束縛から解放されて旅に出たのである。
勤め人にはそういう自由な旅に憧れている人がいる。
だから海外旅行でも退職してバックバッカーのようにして旅している人もでている

要するに退職して暇になりその暇をどうしていいかわからないという人が増えているのだ
ただ貧乏な老人も多い、そういう人はいろいろな趣味に金を使えない,
無理して金もないのにそうした金のかかる趣味をもって泥棒まで人がいたし
そういう人の犠牲になったのが自分だった。
小さな畑を作っている女性もそれは商売とかではない、
ただ農家の人だから畑で野菜や花を栽培するのが向いていたからしているだけである。
でも畑をうなうのが辛いとか頼んでいたしもうやめたいといっているから畑も体が弱くなりやりたくない老人はなる。

ただ確かなことは暇な老人が増えていることなのだ。
その象徴的なのが相馬市の道の駅いつも五六人ただ椅子に座りたむろしている老人である。
同じ部落であり仲間なのだけど何するわけでもなく集まっているだけなのである。
こういう人たちは家族で食事を用意してくれるから食事の時間になると帰る
そして何もすることがないからあのように夕方までただたむろしている

ギャンブルやパチンコに明け暮れている人もいる。

自分のように介護してたりして食事の用意をしているとあんなふうにしてはいられないはずである。
自分は自転車で外を走っても帰ってから食事の用意をしなければならないからのんびりしていられないのである
外食すれば楽だが介護している人がいるとそっちの用意も必要なるからのんびりできないのである。
だからいつも家事に追われているし前のように自由がないのである。


いづれにしろ高齢化社会はこれから様々な問題が顕著になってくる。
退職してから暇だというのもそうでありまた妻をなくして一人暮らしなったとか
病気になったとか年金ではたりないとか金銭的問題も深刻である
国民年金は70歳からもらってはじめて10万とかなるがそれまでどうするのとか
支給年齢75歳にしろとか頼りないのである。
老人間の格差も大きくなる。
国民年金だけでは生活できないのである。
今日会った人は生活的は余裕があるのかもしれない
ただそれほどでもないかもしれない


近くの人は大きな家と立派な石の庭があり300坪の土地ももっている。
すると余裕があるようでも金がかかりないという
それでもいい方でありもう8万くらいもらったって本当に今ではぎりぎりである。
自分は本当は70からもらいたい、すると何とか10万になる。
でも今度は介護保険料がひかれるとかたりなすぎるのである。
それを文句言っても今さらどうにもならない、
働かないでも親のおかげでもらえるしまだ余裕はある

ただ自分はこれまでまともに自由に金を使ったことはない
旅をしても食事はきりつめていたから最低しか食べていない
旅館も安い旅館を探すのに苦労してきた
だから旅したといっても時間で贅沢をしていたが金ではしていないのである。


高齢化社会で感じることは一人暮らしが増えることや何か高齢者同士の共同性が求められているのだろう。
高齢者は一人暮らしなったりすると経済的にも負担が大きくなるから
共同の方が楽になるのだ。
そして一人暮らしは不安にもなるから精神的にも共同性が求められる
ただ道の駅でひがなたむろしているだけの老人ではつまらないだろう
自分にしても風呂などは福祉の湯に一週間一回くらい入ればいい、
家だ水道代も馬鹿にならないし一人だと損なことが多くなってくるのだ

牡丹、ツツジの加工写真 (花の命は短い)

 
牡丹、ツツジの加工写真
(花の命は短い)


botanntutuji1_FotoSketcher3.jpg
botanntutuji1_FotoSketcher2.jpg

クリック拡大

これは拡大しないと見栄えがまるで違う

  • ラステーク


roseeeeee111_FotoSketcher2.jpg

roseeeeee111_FotoSketcher111.jpg

蝦夷紫

ezomurasakiii1_FotoSketcher888888.jpg

ezomurasakiii1_FotoSketcher6666.jpg

tutujiieee1_FotoSketcher2.jpg


大輪の薔薇十数輪に蕾かな

朝日さし牡丹に映えるツツジかな

蝦夷紫その名の良しや我が庭に

ラステーク内より赤らみ十数輪若き日のごと咲き満つるかな



ラステークという薔薇が一杯咲いているのを買った。
それが一万だったがこれは買った時だけが良く映えていたが
あとは花の重みで垂れ下がり見栄えしなかった


次の蝦夷紫というつつじも5000円で買って庭に植えたがこれもすぐに散った
花は切り花でもそうだかすぐに色あせたり散ってしまう
だから一番いいとき、写真に残すとあとでも鑑賞できる
鉢植えでもすぐにしぼんだり見栄えがするのが短いのがある
生き物だからどうしてもそうなる

花の命は短いというときまさにそうである。

今は花が何か品種改良などして増えている
だから花を鑑賞するのも増えている
外国産も増えている
特に春から夏は一番増える
だから花で一杯にできる


写真に出したものは塀のツツジの写真の他は見栄えするのは短すぎた
それでも一時で見栄えする時写真をとっていたからいいのである
今は写真の時代であることかこれでもわかる
デジカメをいつも持って歩いてその時々の瞬間の映像をとらえる。
それはその時しかとれないということがあるのだ


これはfotoskecherで加工したものである。
加工技術も優れているからさらにいい写真がとれるのである
俳句が写生だというときもはやデジカメなしの俳句は普通になる
写真がないと何でも訴えないのである。



2014年05月12日

津浪で再現した真野の入江 (大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)


津浪で再現した真野の入江

(大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)

●津浪が明らかにした真野の入江

manoirieee1.jpg

manooooo123.jpg


vvvmapmano1.jpg

panoramaaaa22222.jpg
真野の入江ーバノラマ写真

クリック拡大


中世において、川津は長田の名前で呼ばれていました。その長田に「長田市庭」と呼ばれる場所があったことを示す古文書があります。永仁七年(1299)二月十一日付の、長田余一昌重宛て大仏宣時・北条高時連署の関東下知状に「市庭村」という地名が、長田西郷に含まれています
http://blogs.yahoo.co.jp/zett_59_turtlehead/11208687.html


島大通りと、島大向かいの学園二丁目あたりは江戸時代以降の干拓地、すなわち中世は「海」とも呼ばれた広い沼沢だったので


「笠津灘」という小字があります。現在のみしまや楽山店が所在するところです。ここも津という名がついていることからして、河港が存在したことがわかります

八日市庭・三日市庭(下市庭)などの市庭(地名)と魚座・相物座・御器座などの商業座、さらに上座・中座・下座の座地名について
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=mietyusei&dd=40&p=23


地名には何か共通性がある。市庭というとき全国的にある。市庭⇒市場になった。
でもそもそも市庭がいつ頃から生れた地名なのだろうとなる。
一般的には中世で継続して使われていた。でも平安時代から奈良時代にもあったのだろう
座となると明確に中世的地名だが東北地方にはないからそれだけ東北地方には商業は発達していない証明でもある。

ところが市庭というのは南相馬市の塩崎村にありこれはそこが海だった時に名付けられたとすると奈良時代までもさかのぼる。
万葉集時代にもなる。
だからそこが真野の草原(かやはら)であり草原は地名だという根拠にもなる
塩崎には船着という地名もあるから船が来ていたのである。
それを証明したのが今回の津浪だったことに驚いた。
船着辺りまで津浪が来ていた。そして船が実際に流されてきたことにも驚いた。
今回の津浪は明らかに奈良時代辺りの環境を再現したのである。

●大内村の曽我船(そがふね)地名の謎

chimeimanooooooo1.jpg


島とつく地名も湿地帯がありそういう場所に名付けられている。島通りというのもそういう地帯だった。
小島田も真野川にそってあり湿地帯であり離れた島のようになっていたのだろう。
そののち開拓されて田になって小島田となった。
北右田、南右田とあるが右田も真野川沿いであり湿地帯でありあとから開拓された。
烏崎村に接した真野川沿いに袋村があったが消失したのは真野川の洪水が度々あって
使いなくなったのだろう。明らかに大内村の人が土地を広げて開拓したのである。


慶長津浪から1611年基点にして歴史をみることが普通になった。
その時代前がどういうものだったかその時の村の状態はどうだったのか
実際にあったのかなかったのかというのが郷土史で重要な問題となった。
慶長津浪の前に小島田に八龍神社があり川子のはそれより古い。
すると烏崎村の八竜神社も津浪にすれすれで残ったが津浪の前に建てられたのかもしれない、
なぜなら慶長津浪の後ならもっと高い所に建てる、すれすれには建てないからである
いづれにしろ小島田でも大内でも津浪の被害にあった。それでも被害が少なかったのは
そこが比較的古い村だった。海老村でも海に面した所はやはり新しい村だった。

ただ烏崎村は特殊であり鎌倉時代から人が住んでいた。それは漁労関係の人が小屋を建てて住んでいたのだろう。

地名から考察すると鎌倉がら船で来た岩松氏が烏となづけたのはそこが空の州だったからである。
何もなかったからその名がついた。実際にそうだったのである。
烏から烏崎村に変更されたのは崖の下に村落があるからそこが崎のようになっていたから変更した。
港があった所はもともと牛島とかの地名であり湿地帯だった。


そして大内村が確かに被害があったかなぜ少なくてすんだのか?
それは大内村は道をはさんで山側と元の海側に住んだ人に分かれていたのである。
山側に住んでいる人も多くそこは助かったから烏崎村のような壊滅状態になっていない
そこに不思議なのは曽我船という地名が化石のように残っていることなのだ

そがふねとはそががさかのぼるという意味で船がここからさかのぼるのが見えたから名付けられたという、
この地名はまず不思議である
普通そんな名前つかない、それだけ船が来るのが見えたから名付けられた。


それよりもソガとはソグからきていて何かをソグである。海の波が寄せてきてソグところであり
曽我船はさかのほるの意味ではない、
黄昏る(たそがれるーソガレルであり浸食する意味であり減退してゆくとかの意味になる。)

塩崎村の船着でも市庭でもそうである。それがいつの時代のものかはっきりしないのである。
ただ奈良時代から発しているというのはその時そこが
海だったことは明らかだからであるそれが津浪で証明されたのである。
大内村はもともと海だった海側に家を作った人たちは古い家ではない、
道をはさんで山側に家があった人たちが大内村を作っていた。
だから大内村は被害があっても村としては残っている。烏崎村は壊滅したから悲惨なのである。
津浪は太古の自然の状態とか歴史的村の発展状態とかを明らかにしたのである。


●東松島の元の鳴瀬町の白萩の地名の謎


東松島の被害状況を見ると元の鳴瀬町の白萩とか浜市とかは津浪で被害が大きく壊滅状態になった。
そこは海からかなり近かった。そこに浜市とあるのは江戸時代にあったとして
もその前にさかのぼるかどうかわらない、牛綱村は後方でありそれは古い。
浜市は新しい、白萩という地名はやはりもともとそこは海に近く鳴瀬川にそってあったから
度々洪水の被害を受けていた。だから萩がはぎとられるという地名になったのは信憑性があるのかもしれない
、白い萩が繁っていたという名がつくのは普通ないからである。

でも不思議なのは浜市方面に漁をするための使う綱を運んだからその名がついたというとき
牛綱村の起源が浜市に由来するのも不思議である。
普通は逆でありもともと牛綱村があって浜市に進出したからである。

「白日別」の「白(しら)」は「しらす」、つまり「治める、統治する」の意味である。



接ぎ
はぎ
歯軋り
はぎしり
剥ぎ取る
はぎとる
端切れ
歯切れ
はぎれ
脛を齧る


古事記」上巻


 波の穂より天(あめ)の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て、帰(よ)り来る神有り。・・・少名毘古那の神ぞ。

萩(はぎ)は剥ぐから生れた言葉なのだろう。白というのは知らすであり治めるだからはぎ取り治めるなのか?
そこはともかく何かをはぎとり住むようになった。
萩という花とは関係ないだろう。

萩と荻はにている。萩の前は荻だったのかもしれない、萩を区別できなかった。


おそらくヨモギ(くさよもぎ)という意味のことをおっしゃっているのでしょうが、上述のように「萩」の原義にあたります。しかしヨモギは、日本では草餅などに使うことから春の香草として知られ、俳句の季語でも春に分類されます。それだけに字に「秋」が含まれるのはイメージにそぐわず、これを字形の似た「荻」で代用して、「萩」の字は国字としてハギの意味で使われるようになったのでしょう(ハギは日本ではよく自生しますが中国ではマイナーな植物のようで、本来の漢字があるかどうかは不明です
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422402179


「 荻の葉のそよぐ音こそ秋風の
     人に知らるる はじめなりけり 」 紀貫之 (拾遺集)


荻(おぎ)には「風ききぐさ」という異名があります。
水辺に繁殖するその草は背丈が高く、細長い葉や茎は風に靡いて
さやさやと音を立てます。
http://manyuraku.exblog.jp/10708377

オギから沖(オキ)という言葉が生れた。荻が繁っているところは陸地から離れたところでありさらに離れた海かオキなのである。言葉は身近なところから意味が拡大してゆくのである。


●大内村は元の海側の家が被害か多いが山側は残った


大内村は道路を挟んで元の海側と山側で明暗を分けた。山側の家は一部被害があり残らなかったがほとんど残った。
道路をはさんで元の海側は北側は残らなかった。
ただ海老村や烏崎村のように壊滅しなかった。
それでも被害はそれなりに大きかった。あそこてトラックの運転手が津浪を来てから必死で逃げて助かったという、
津浪を見て逃げるだけの距離が大内にはあった。
でも元の海側に面した所では家は一部を残して消失した。
もともと海側に家を建てた人は新しい人たちだったのだろう。

大内村から真野川に沿った地域と海に面した地域に進出した開拓した人たちがいて江戸時代に袋村があったが消えた。
真野川の洪水や湿地帯であり維持できなかった。
まず川にそった地域もいい土地ではない、洪水があるからそうなる。

つまり人間はもともとそうした災害のある所には住まない、縄文人も住んでいなかった。
ただ住む土地を広げるために悪条件の場所に進出したのである。
そこは危険地帯であり開拓するのもむずかしいし危険地帯だった。
だから袋村は江戸時代にあったが消失した。
真野川の洪水などで維持できなくなった。

大内村は今山側に蛙が結構ないていた。蛙まで山側に移った。田んぼには水がないし住めない、
山側には蛙が増えるというのも蛙も津浪の後に住む場所を変えて繁殖しているのだろう。
自然の生物は適応力が人間よりあるから繁殖できるのだろう。

大内村は大内氏がはじまりであり大内という姓の家があった。
その大内氏は鎌倉から烏崎に船で上陸した岩松氏からはじまっている
大内村はだから烏崎村や小島田村より古い。
ただ八竜神社は州てに慶長津浪の前に小島田にも川子にも大内にもあったし
烏崎村の八竜神社は慶長津浪の前に建てられたのだろう。

ともかく慶長津浪でも相馬藩内で700人溺死したとなると今回の死者と同じくらいの被害があった。
でもその時は海老村でも烏崎村でも八沢村はもちろん明治以降だから人か住んでいない、
するとその死者の数がかなり多い、すてにそれだけの津浪の被害を受ける人たちが住んでいたことになる。
すでに海側に住んで漁業する人たちかなりいたともなる。
ただ今のように津浪警報もないから急激に来て死者も多くなったのか?
その死者がどうして生れたのか全く不明なのである。

ooouchiiiii1121234.jpg

karsuhhh1.jpg
烏崎でも海が近くても残った家

真野の入江と八沢浦
http://www.musubu.jp/manoirie.htm

posted by 老鶯 at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年05月11日

六号線の夏(狭い道で自転車に乗りクルマに怒鳴られた)


六号線の夏(狭い道で自転車に乗りクルマに怒鳴られた)


大内や藤に夕日さし蛙鳴く

六号線つつじの咲くや行き来かな
新緑やライダー走り去りにけり

今は藤の花とツツジであり新緑の季節になった。六号線をライダーが走るのを見ていると確かに気持がいい。
あんなふうにしてどこまでも自転車でも走りたいなとなる。
ただライダーと自転車はずいぶん違っている。
自転車旅行してライダーの人とあっても話があわない、あうのは自転車の人なのである。
ライダーは実際は車の方と近いのである。
そのスピードでも変わらないし距離も自転車とは比べにはならない
ただ風を切って走っているところなどにている。

車だと風を遮断するから自然を感じられないからだ。

そして車とライダーと自転車乗りは仲間にはなれない
なぜか?それぞれに経験が違ったものとなるからである
ガソリンでもいくらかかるんだよと言われても車に乗らない人は
その費用についてとかいろいろな車にまつわることを話題にしてもわからない
自転車だと共通だから共感しやすいのだ
だから毎日の日常でも自転車の人とあいやすいし仲間になりやすい
自転車での苦労を語るこはになるし楽しさも語ることになるからだ
だから知っている女性は車をもっている人にいつものせてもらっているが
ガソリン代を気にして払っているとか気を使っている
自分でも車もっている人が多くても頼みにくいのである


雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る ・・・・は 小林一茶
雀は春の句だそうだ。。

人間と機械の地位逆転が生じたものであろうか?と
人人人 そこのけそこのけ 車が通る・・・


果たして何時から人間の奴隷化が始まったのであろうか?
明治6年(1873年)7月19日 明治政府 違式?違(カイイ)条例90カ条
今で言えば 軽犯罪取締り法

その中で・・「全て道路は歩行者のもの、車馬による交通妨害は 厳に禁じている・・」ことである。



こういうことを他のブログでも書いている人がいる。普通は車社会を批判しにくい。
ネットではそうした批判が普通に書かれている

なぜそれを今日感じたかというと自転車で頻繁に車が通る所にでてきたとき
突然車のなから怒鳴られたのである。
「遅く走れ、・・・」大きな声が飛んできて走り去った。
あそこは新田川の橋をわたって植松の方にでる道の細いところであり
ぎりぎりに車もすれちがっているところである。
その方向に出ようとしたとき突然怒鳴る声がしてびっくりした
自分は普通に走り横断はしない、すぐに曲がっただけである。
ただ車から見ると横断してくるように見えたのだろう。
早く走っているように見えたのかもしれない

車側から見ると自転車は嫌われている、ふいに横からでてきたりするからである
今回は別に横断はしていないしとまっている
けれども車側からは早く走っていて横切るように見えたのかもしれない
結局現代の車社会はクルマか優先であり自転車は邪魔者になる、歩行者すらそうなる社会である
だからクルマ社会批判もありうる。
この場合、何ら信号を無視したりしてわほたっていないし止まっていてもこういうことがあるのは
そこが道が狭いということもある。だから日本では道が狭いから自転車は邪魔になるのである。


はっきり言って自分はクルマが嫌いである。
今回のようにクルマ社会は非人間的なのである。突然怒鳴りつけて走りさってゆく
運転する側でもぴりぴりしているからそうなる
ちょっと間違えばすぐ事故になるのが車だからである。
そして人間的にも切れやすい人間が作られる
瞬間的にまさにどなりつけて切れて去ってゆく
そこには人間の対話はない、そういうクルマ社会も人間の心に相当影響しているのだ

例えば牛とか馬とか生物と接していれば生物のリズムになる

でも車だとクルマのスピードのリズムになりそれは人間のリズムとは違いすぎるのである
そんなこと言ったってクルマなしで今の社会が成り立つとか恩恵を受けているだろうとかなる
そういうことは言えるからクルマに乗らない人もあまり言えないのである
ただ全面的にクルマをなくすというのではなく自家用車などは一人一台でなくても
へらすことはてきる、そうするともっと余裕ができる

いづれにしろ日本は道が狭いから自転車道路も作れないのである
また坂道が多いというのも自転車に向かいないものにしているのだ。

実際にクルマと自転車は共存しにくくなっている。
そこのけそこのけクルマが通る・・・であり
自転車は邪魔だとか今回のようにあからさまに怒鳴りつける人もでてくるのである。

2014年05月10日

人生は時間を何に費やしたかで決まる (人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)


人生は時間を何に費やしたかで決まる

(人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)

●語学の習得は脳に記憶を刻印させること


人生というのはどんな平凡な人でも才能がなくても最後に60代にその一生が自ずと明らかになる。
つまり人間は決して60代になる人生の最終章になることをリアルにイメージできない、
その歳になるとどういうことになるのかイメージできない。
みんな時間など無限にあると思っていたし時間をつぶすのに苦労していた。
時間なくなることが一番イメージできないのである。

金がなくなるきことは若い時でも俺はフリーターだからニートだから老後は金がないから悲惨だろうなとか、
親の資産があるから俺は大丈夫だろうとか予想している。
金は具体的だから予想しやすいのである。
時間は具体的にもっているものではない、土地がある家がある金があるとか何か具体性に欠けている。
だから金だったら節約もするが時間を節約するということは具体的でないからできない。
そこで時間は常に知らずに失われているのだ。


何に時間を費やすかで人生が決まるというとき、わかりやすいのは語学の修得である。
これは天才は別にして語学の修得には非常に時間がかかる。
英語を日本人は中高校大学で学んでも習得できないことでもわかる。
それはまず学び方が悪いということもある。英語に日常的に触れられないということもある。
そういう悪条件があるのだがやはり語学の修得には時間がかかるということである。
一般的に学問自体が時間がかかるものなのである。
「それで少年老いやすく学なりがたし」となっている
語学はやはり嫌でも暗記だったり苦しくても無理して読んだり書いたりと訓練する度合いが強い。
もちろん他の学問もそうなのだが語学が一番努力を要するものなのである。
だから二カ国語の外国語をものにできる人は極めてまれになる。
一カ国語すら無理なのだからそうなる。

そしてわかったことは記憶は脳は日々の生活の学びの中で作られてゆく度合いが大きいのである。
天才は生まれつき体力的にも能力的にも恵まれているからそういう人は例にできない。
一般的に脳は日頃の訓練で作られてゆくのである。
脳の記録の回路も何も作られていないが時間を重ねて作られてゆく。
だからその人が記憶されることも作られていたのである。


個々人の脳は努力の結果記憶が刻印されたものである


記憶すら長年の積み重ねで作られたものだった。それが語学の場合顕著に現れる。
語学だとどうしても単語を覚えねばならない、母国語のように自然には頭に入らない。
つまり恣意的に意志でもって無理にしてもでも脳に記憶を刻印させねばならなかった。
そういう努力を常にしていなければならないのが語学の習得には必要である。
だから語学の修得には時間がかかる。語学は何か数学などと違い特別な才能というより
時間をかければ習得できるという感覚をもつ、でもその時間は膨大になってしまうのである。
だからとても普通の人は一生かかっても一つの外国語も修得できないのである。


●人間の脳は日々の生活の努力で刻印されたもの


ともかく語学で例えると時間がいかに大事かわかる。今になると時間がないから
語学にさく時間がないからもう英語すら自分は学べないしもうかえって忘れてゆくから語学能力は減退してゆく。
ただそれでも脳に記憶されたものがあるからまだ全然わからないということではないのだ。


人生とは数式化すると

tttttime1111.jpg


まず時間を何費やすかがある。abcdef・・・と費やすべき時間がある。
でもaに時間をかけたら時間は100とか一定だからbcdefには時間をかけられない。
aに50をかけたらbcdefで50を割らねばならなくなる。
人間は与えられた時間が限定されているからあらゆることに均等に時間をかけることはできない。
普通語学ばかりに時間をかけることはできないから英語でもものにしている人は少なくなる。

そしてもう一つは金を何にかけるかが問題になる。費やす金によっても人生は決まってくる。
現代は特に金が大事になるのは時間を金で買うことや金で効率的に暮らせるということである。
金があればもし語学でも専任の講師を雇えばいいとなる。そういことを大金持ちはできる。
すると語学修得の時間の節約にはなる。

それにしてもやはり語学修得には努力が必要であり時間がかかりすぎるのである。
金があっても時間は限られているから金がなくてもその人なり価値あるものに時間を費やせば
人生の最後に収穫、実りをかりとることができる。

その例として本でも若いときはいくらでも読めると思っている。
ところが本はむずかしいのになると若いとき理解するのがむずかしい。
それでもむずかしくてもなんとか理解しようとして読むことが必要になってくる。それは語学の修得とにている。
なぜなら老人になると読む時間とエネルギーもなくなってくるからだ。
そして実際に読んだ本はわずかでありその読んだ本にしても理解できたのはわずかだったとなる。
でも読まないよりは良かったとなる。
そしてくだらない本を読んで時間を費やして失敗したとなる。なぜなら有益な本は読めなくなっているからだ。
本というのは厚いし何度も読まないとわからないことがある。
何度も読んでいる本はいい本なのである。そういう本にしてもなんか何十冊くらいしか残らないだろう。
それほど本も読めなかったのである。

結局自分の場合、青春はカルト宗教団体に浪費された。ただこれもすべてが無駄だとはいえない。
なぜならどんな無駄なことでもそれは経験になっているからだ。
何かをどんなことでも経験することがついには老人になるとできなくなる。
だから馬鹿げたことでも経験することは限られているから貴重だったとなる。
だから自分はカルト宗教団体については内部にいたから批判できる。
つまり内部告発できるのはあることに詳しくなれるのは内部で経験を積んだ人なのである。
官僚だって内部で時間をついやした人が詳しくなれる。
でも一人の人間の経験はわずかだからあらゆることに詳しくはなれないのである。


いづれにしろ青春でもあっというまに終わってしまう。ただではすべて消えてしまったかというと消えていない、
心に脳に記憶された刻印されたものが残りつづけるのである。
だから60過ぎると過去が生々しく甦ってくることが実際になる。
それは青春時代がそうなりやすい、だから自分の姉は死ぬときまで戦争のことを語り死んでいった。
四年間従軍看護婦で働いたからそのことが忘れられないのである。
それも青春時代だったから忘れられない、だから今も生き残っている戦争経験者は90になっても忘れられないのである。
それが生々しく甦ってくることがあるからだ。
戦友の顔だって生々しくよみがえってくることがあるだろう。
もちろん青春時代に悪いことしたことも刻印されて消えないのも怖いことである。

老人になると何でも結果として現れてくる。
それは一人一人違っているにしてもそうである。

自分は旅に費やした時間が100の内、60くらいになっていたかもしれない。だから今になると全く旅ができない、
するとただ思い出す旅になる。その旅も忘れいるのが多いのだが時々よみがえる。
何十年前でもよみがえることがある。何でも時間がたったからといって消えるわけではない、
経験したものがよみがえってくることがあるのだ。

花を覚えるにしても名前を覚えるだけで大変であり季節的にいつ咲くとか名前だけではない
その花がどんなものかイメージする必要がある。
花の名前だけでも百くらい覚えるとなると大変になる。
それが俳句を作る基本にもなる
その花をしるのも毎年毎年花を見ている必要があるのだ
毎年毎年見ていても花は新鮮に見えるし新たな花も知る
花の種類だけでも外国産もあるし品種改良したものもあるしと
花の世界も広大なのである
だからくだらないものに時間を費やしていると花の世界もしりえない
時間がまたたくまにすぎてしまうからである


●石の貨幣の価値を決めるのはその経歴だった


面白いのは石の貨幣の話である。


個々の石貨には価値が厳密に設定されているわけではない。石貨の価値を決めるのは個々の石貨の来歴であり、それを所有している者とそれを譲られる者の話し合いによって譲渡の条件が決定される
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%83%E3%83%97%E5%B3%B6


海中に沈んだ石貨があった。それを取り出して舟でカヌーで運ぶの苦労した。
その苦労を語ることによってその石貨の価値が決められたというのも面白い。
だから一億円の金は同じ価値があるとは限らない、デイトレーダーとかが一日でパソコンを操作してかぜぐことができる。
同じ一億円でも命懸けの仕事で稼いだという人もいるだろう。
その話しを聞く時、命懸けで稼いだ人の話しは価値があり同じ一億円でも中味は全く違っているのである。
要するにその経験の方に価値がある。
俺はあの危険をのりこえて金を残したとか自慢できるのである。
その経験もただ金を残したというだけではない、実際はその人の人生を豊かにして力となっているのであてる。
あんな苦難を乗り越えたということが自信にもなるのである。

電気関係の電設工事の人が財を築いたのは請け負いであり会社員ではなかった。
個人が請け負いもらっていた。だから仕事を増やせば働けば働くほど金になる。
そうして財を築いた。会社員だったら決められているからそんなに財は築けない
ただその時は電設工事でも高度成長時代だからいくらでも仕事があり時代の影響でも
一代で財を残した人が団塊から上の人には多いのである。


ともかく時間がいかに大事かを知らないとあとで後悔してもあとの祭りになってしまう。
インターネットなどでも無料が多い、それはいいことなのである。
なぜなら何であれ時間を費やすものが価値を決めるのである。
本でもインターネットでも金を払うから価値を決めるのではない
そこに貴重な時間を費やすから価値がありうる。
だから無料でもすべて質が悪く読むに値しないということはない
なぜなら無料でもそこに時間が費やされたものに価値があるのだ
もちろんくだらないものに時間を費やせば本でもインターネットでも結果的に何も残らないのは同じなのである。