2014年06月30日

紫陽花の抽象画 (抽象画がわかりやすい紫陽花の写真からの加工の変化)


紫陽花の抽象画

(抽象画がわかりやすい紫陽花の写真からの加工の変化)

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これは大きくしないとはっきりしません

紫陽花は七色に変化するから写真を色にパソコンのソフトで分解するとわかりやすい。
淡い色でありパソコンにその色が出やすい、色の特徴が出やすいということである。

ただこれまた自分ながらこんなことに変化するのは常に驚きだった。
新しいものはやはりそこに驚きがある。
紫陽花を見ていれば別に驚かない、いつものように咲いているなと感じるだけである。
でもパソコンで加工変化させたとき抽象画にしたとき、これも紫陽花なのだなという驚きがある。
それがいくつも変化するパリエーションがあるからだ。


だから抽象画はパソコンで新しい分野を作った。
具象画から劣るにしてもやはり新しい芸術をパソコンは作り出したのである。
パソコンと抽象画は相性が一番良かったのである。
俳句をパソコンを作ったりできないがこの抽象画の分野はパソコンが一番得意とするものであことがわかったのである。


ただパソコンで抽象画にしてもそれを見るのは人間の眼であり鑑賞眼である。
だから紫陽花というものの美を見ないものはやはり抽象画ても見えないだろう。
それなんなのとなる。これは芸術一般がそうである。
ただ具象画が一般人でもわかるが抽象画はわかりにくいのである。


人間の世界は常に新しいものの創造である。
紫陽花でも新しい品種が作られているように新しいものを作り出さない限り停滞する
それはあらゆる分野でそうであり農業でも変わらないと思っているが変わっている


絵画でも印象画が生れた時は驚きであった、それも絵の具が新しく作られたことで
新しい画風が生れたのである。だから技術の革新は社会全般に及ぶ
実用の世界にも芸術の世界にもそうだしだからパソコンの発明は最大の発明だったことがわかる。

紫陽花の季節(紫陽花変化-抽象画へ)


紫陽花の季節(紫陽花変化-抽象画へ)

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紫陽花や夕べ穏やかな流れかな

紫陽花や外に出られず雨しとと時の移りに色の変わりぬ


紫陽花の季節である。今日も雨がふった。
この句を作ったのはちょうどテレビで流れの辺りに咲いている紫陽花を移していて見て
即興で作った。テレビで見て俳句を作ることや写真で見て作るのはまれである。
俳句が写生だという時、その場の雰囲気はなかなか感じ取れない
動画だと水が流れているな、ああ、穏やかに流れている水だなと思った
というよりは何かあまりにも穏やかな日がなかったので
穏やかであったらなとと常々ずっと思うことがありああ、穏やかな流れだなと思って作った。

それとこの季節は外にでにくい、だから家にこもることが多いが紫陽花は色を変わることを楽しむことができる。そこが紫陽花の不思議である。

それで今回は紫陽花の写真からまた万華鏡で変化させたら不思議な変化をした。
抽象画はやはり新しい芸術なのである。新しいものとは驚きをもたらすものである。
芸術の一つの革命でありこれはパソコンから生れたのであり
別に特別の絵の才能から生れたのではない、天才から生れたものでもない
パソコンの技術が生み出したものでありこういうことがあるものだと感心する


人間社会とは常に新しいものが生れこと想像することなのである。
それは実用的にも植物工場とか津波の跡に農業の新たな試みだとかされている。
何かを発明して創造しない限り社会は停滞するのである。
だから今世紀最大の発明はコンピュターだったのである。
それは社会の広範囲な分野に広がり芸術の分野までは広がったからである。


新種の小さい紫陽花もまた品種改良で作ったものでありこれも一つの新しい価値の発見、創造なのである。
こういう新種を作るとやはり売れるのである。
花の世界でも野菜でも米でも農業の世界でも常に同じではない、やはり創造が要求されているのである。そうでいなと世界から遅れてしまうのである。


新しいものがどこから生まれのか?
それはやはり新しい技術から生れることが多い。
印象派が絵の具を新しく作ったということでもわかる。
つまりどこの世界でも技術の開発が必要なのである。
一見文学とかは関係ないようでも必ずこうした技術の影響が受けるのである。
パソコンで書いているのと原稿に書くのはあまりにも違っているからである。

連続してここを見てください
http://musubu.sblo.jp/?1404129808

補償金で分断された原発事故周辺 (金ですべては解決できない、金以外の価値が問われる)

 

補償金で分断された原発事故周辺

(金ですべては解決できない、金以外の価値が問われる)

●補償金で分断された南相馬市


宮城県とか岩手県では補償金がそもそももらえないのだからそれでもめているという話しは聞かない、でもあれだけの被害だからその後どうするのだろうと外から見る。
補償金がいなとしたらどうするのだろうと見る。
その点原発事故周辺は補償金をもらっているからいいと外から見られる
ところが補償金というともらっているのは双葉と南相馬と富岡とかであり
郡山市とか二本松市とか福島市ではもらっていない
そこには避難してきた人たちが大勢いる。飯館村も入っている。
補償金で福島県内でも分断されるようになった。
原町の人が福島市で車を傷つけられたというのはそういうことがあるから本当なのかもしれない。


南相馬市内でも補償金で合併する前の三つに分断された。
小高は避難区域になるから一番もらっている。原町はまちまちでも一人十万二年分とか
30キロ圏外になった鹿島区とは違ってもらっている。
ただ原町は広いので本当のことはわからない。
鹿島ではもらっても少ないので一番不満が大きい。

今の世の中金の社会だという時、金でもめる、。金で争う、日々金である。
そういう社会が極端なものとして原発事故周辺で現れたのである。

自分もここ6年間とかは金でもめてきた。
遠い親戚でも「おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えてどなり散らして去って行った。
これは極端にしろ現代の典型的な人間なのである。
どこでもそういう人間が普通になっているのが現代の社会である。

だから原発事故周辺でもそういうことが極端な現象として起きているのだ。
確かに補償金をもらうのだから楽である。

ところが金があるだけで問題が解決するかとなるとそうではない
金があることで責められる、それは原発事故周辺でなくてもそうだった。
特に原発事故周辺では同じ被害者なのに差別があるのかとなる。
一時は鹿島区に市の方で調整金として鹿島区に一所帯百万を出すことを
ものすごく反対していた人が原町区の人にいたのである。
でも今になると原町区は別に補償金を鹿島区より倍以上もらっているみたいなのである。この辺は最初から補償金でもめていたのである。


そしてこの辺では補償金で遊んでいると毎日バチンコだと今もそうなっている。
そのことも批判される、イワキの方では飲み屋で札びらを切っているとかも批判された。この辺でも俺は金あるんだと小高の人がみせびらかしているとかもある
つまり一部であっても補償金が入って原発事故で得したと思っている人もいるのである。だから今は避難民に仮設に住んでいる人に同情している人はいないだろう。
ただあいつらはただ毎日補償金で遊び暮らせるからいいとか思っている。
それでボランティアと地元の人が喧嘩したことがあったというのもわかる。
ボランティアにすれば遊んで暮らしているのに助けるのは馬鹿らしいと思うのは当然だからである。
そのボランティアももう泊まるところがなくなったので来ない


原発事故周辺はただ金のこと補償金のことしか頭にない
何か具体的に復興事業にたずさわり仕事しているという感じが見えない
宮城県では植物工場を作り新しい農業をはじめるとか
若い人がかえって農業をする人が増えたというのも驚きである。
何もなくなったので新しものをはじめるにはいいと言っていた。
原発事故周辺ではそういうことは一部にあっても何か積極的ではない
放射能汚染の影響が大きいからだ。


●「金でめんどうみてもらへ」最後は現代ではなる


結局避難区域になればどれだけ補償金をもらかということが最大課題になる。
何か復興するということより補償金をいくらもらうかにエネルギーが費やされる
そして浪江とか避難区域ではすでに帰らない人には土地とか家の補償をしてくれると決めた。だから若い人はその金で一億円とかもらえれば他で暮らそうと決めた人も多いだろうつまりもう避難区域には帰らないと決意する人が多くなるのだ。

小高でももう還りたくない人や高齢化の影響で農業を継がない人が40パーセントかとであり若い人も流出するから帰りたくないというと言う人が多い。

ただ小高の人は中途半端になったのである。
帰らないとすると土地とか家を補償してもらう必要があるが警戒区域解除されたからできないのである。そこに小高区の問題があった。
「小高の人は小高に帰れ」というとき家がないから土地がほしいというとき、小高に家も土地もあるではないかと言われる。
でも実際は帰りたくないとなれば土地とか家の補償してもらい別に家を建てたいとなる。
では金があるからと言ってすべて問題が解決するのかとなるとならない

いくら金があってもここで他より働く人が集まらない
医者も看護師も介護士もそうであり建築関係でも人が集まらず復興住宅建設も遅れている家を建てるにも土地がない、土地は簡単には売らない、すると金があっても有効に働かないとなる。
そして何度もいうけど「金でめんどうみてもらへ」と言われるのである。
浪江の会社経営の人はお前らは補償金をもらっているから仕事をくれと頼んでも断れるというのもわかる。
おそらく頼んだ人は今まで仕事していた仲間だったとしてもそうなる。
「金でめんどうみてもらへ」となるとき何か現代を象徴しているのだ。
金があれば困らないと見られてしまうのである。

結局金がかえって互いに協力できないものに働いているのだ。
金で反目し合い金で分断されたのが原発事故周辺なのである。

でももしこれが世界で起きている避難民のようになったらどうなったか?
その怒りは大きくテロにもなる。
事故を起こした東電や政府に対しての怒りは大きくなり抗議も激しくなる
補償金でかえって内部で分断されて怒りの矛先が政府や東電に向かないのである。
だから東電の社長や幹部は海外でのうのうと今も暮らすことができるのである。
検察だって全く何もしないのである。
ただ原発事故被害地域は補償金でいがみあい分断されているだけだとなる。

南相馬市に関しては地域が三つに分断され複雑化したことである。
南相馬市として一つとして対処できなくなったことがある。
でも何か南相馬市として一体感を保つ一つとなる政策が必要だったのである。
小高だけが手厚くされたりするのはかえって良くなかったのだ。
もちろんそれは政府とか東電に決められたということもある。
でも何らか市の方でも対策して市として一つとしてまとまることを考えねばならなかった

確かに小高は補償金をもらっていいように見える。
でもこれからお前たちは金をたんまりもらっただから「金でめんどうみてもらへ」と
極端だがそうなる。
要するに金によって協力できなくなったのがこの辺なのである。
それは別にこの辺だけではない社会そのものがそうなっていたのである。
「お前らは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」
それが現代の社会だった。本人が死にそうでもそうなる、あとは福祉でめんをとみてもらへとなる。
そのことは自分がここ6年間で嫌というほど経験したことである。

こういうことは別に普通の社会でも今までもあった。そういうふうな暮らしになった。
ただそれがこの辺では極端なものとして露骨に現れたのである。
金というものは否定できないものであり金がいらないとかにはならない
ただ金以外の金にならない価値がかえって問われることにもなった。
これはここだけの問題では世界中にあてはまる問題になったのだ。


●広域社会は金が頼りでありコミニュティは簡単に崩壊しやすい


例えば


「一億円やるから自分の住んでいる故郷からでも離れて住みますか」


こう問われたとき、これ幸いともうここには住まない、貧乏暮らしは嫌だとか田舎は
嫌だとか姑と一緒にいるのは嫌だとかマイナス面ばかりを感じて生きていた人は
一億円もらえば出るということがある。
一億円の方がそういう場所に暮らすより価値があるとなるのだ。
この辺では放射能汚染で帰れないにしてもそうである。

一方で金に替えられない価値というのも同時に問われる。
それはそれぞれに違うにしろ農家だったら代々生きてきた土地とのつながり仲間とのつながりとかある。
かえってそういう金には替えられない価値も浮き彫りにするのである。
自分の場合は自然の愛着であり石への愛着だったりする。
それは別に金にはならないけど自然とアイディンティ化することに価値があった。


一般的に金で計られるとき、そこでは金の切れ目が縁の切れ目となる。
兄弟でも遺産相続で骨肉の争いとなったときすでに兄弟もなにもなくなる。
何か子供のときからあったつながりも御破算になり憎しみだけになる
親子の間でも親を財産をもらうものとしてだけ見る人も多い。
その時は親子でも金だけの関係になっているから金の切れ目が縁の切れ目となる。

ましてや他人になるとほとんど他人はその人の財産のみに眼をつける。
それが一番わかりやすいからである。
現実に自分が病気になったとき、死ねば財産がどうなるのかとかそれだけを眼をつけていた人とは切れた。
そういう関係は必ず切れる。

故郷との関係でも長く住んでいてもそこに金だけを求めるとしたらその土地とも人との縁も切れる。
この辺はそういうことがきれいごとではなく具体的な現実問題として問われるている。
その選択にしても現実問題でありきれいごとですまないのである。
だから除染など無駄だから一億円もらって他でやり直したいという選択もでてくる。
それを批判はできない、それもまたその人の選択だからである。


ただ思うに小高でも浪江でも飯館村でもそれは一人の問題ではない、町全体村全体の問題であり心が一つにならないと解決しない、もうすでにこうして補償金だけが問題になっているとき、心もばらばらでありコミニュティも崩壊している。
現代社会とは広域社会になり金の社会になったとき、簡単に崩壊しやすいということがあった。金があれば便利な楽なところで住んだ方がいいとなる。
誰も苦しい不便な所にあえて住む選択をしなくてもいいからである。

江戸時代あたりはそれができないからかえって結束が強くなり相馬藩でも飢饉でも回復したのである。それは他に簡単に移れないそこで生きる他ないという選択しかできなかったからである。移民があったとしてもその人たちもわざわざ苦しい場所に移ってきたのはそれなりの事情があったからである。
だからかえって豊かな広域社会ではコミニュティは簡単に崩壊することにもなったのである。

posted by 老鶯 at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月29日

天明と記された墓は移民の墓ではなかった (歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)



天明と記された墓は移民の墓ではなかった

(歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)

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*道号(阿号・誉号・釈号・日号) 生前雅号とか別名を持っている人がありますがそれと同じです。

中国では名の他に字(あざな)を持ち、その人を尊ぶ場合字を用いました。

この字の事を道号といいます。最初は禅門に始まったのですが、他宗派でも用いられるようになりました。
本来は仏道を証得した者が称するものですが、現在では一般の人の戒名として用いられています。 


信士、信女は、優婆塞、優婆夷の意訳で、ともに五戒、または十善戒を保ち、清洋で、正を信じ、邪を信じない仏弟子をいい、信心の篤い者に、


この墓は天明と記されていたが移民の墓ではなかった、他に真宗系の移民の墓はあった。天明の大飢饉の時に移民を呼んだのであり天明に死ぬということはないだろう
これはもともと地元に住んでいた人である。

蓮華道とあるのは僧侶なのかもしれない、ただ信士、信女とあるのは一般の庶民である。江戸時代の後期にはそういう墓が多い
ただ墓を建てられる力を財力をもっていたのは僧侶だとするとこの辺はわからない。


蓮華道信士
姥善信女?


これは僧侶とも言えない、ただ蓮華という戒名は普通の人はつけないからわからない。
何か特別な人であったから僧侶でなくてもこの戒名がついたのか謎である。

ただこれは真宗系統の移民の墓ではない、そこが大きな間違いだった

天明の時期にこの地に来たとしてもすぐに墓を建てられた人はいないし死んだという人もいないだろう、移民が来たのはもっとあとである。

いづれにしろ相馬藩では移民の墓が必ずある。墓地をたずねれば五分の一くらいが移民の墓だということは本当に多い。それだけ移民が入って来たということであり
自分の主張したことは別に誤っていない
そういう歴史的背景は事実だからこの墓についてはそうでなくても
その事実から今を見れば自分の主張していることは間違ってはいない


相馬充胤がここでこの土地のものに石碑を建てられて感謝の意を現したということは
それも歴史的事実である。
でも慶長津波で藩主が復興のために努力したということは一言も記されていないし
そうした事実もないし何の記録もないのである。


この墓が移民の墓ではなかったにしろ他に移民の墓はこの墓地にあった。
だから自分の主張していることが間違いではない
ただ天明の墓が古いと思い良く見なかったの失敗だった。

posted by 老鶯 at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月28日

北萱浜に残された移民の天明の墓の語るもの (苦難の歴史が再び甦る)


北萱浜に残された移民の天明の墓の語るもの

(苦難の歴史が再び甦る)

相馬充胤の時代(天保4年大飢饉ー二宮仕法を取り入れる)
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu35.htm#mitutane


天保6(1835)年 47,244俵  
天保7(1836)年 4,348俵 領中大凶作


これだけ減った。あらゆるものが半分になったのである。

相馬充胤の時代が詳しく書いてある。天明と天保の時は大飢饉だった。
天保は注目していなかったが天保も大飢饉があった。
その時から二宮仕法を取り入れるようになった。

天明の大飢饉から50年すぎてまた大飢饉になっていたのである。
結局こうなると元禄時代辺りは日本全国が繁栄した時期だったが
そのあとは江戸時代は飢饉に苦しんでいたとなる。
となると実際は江戸時代も飢えに苦しんでいた悲惨な時代だったとなる。

そもそも現代のような飽食の時代には貧乏とか飢えとかのことが苦しみがわからないから江戸時代はいい時代だったとか勝手にイメージしやすいのである。

人間が生きるということは実際はいつの世でも厳しいものがあったのだ。
現実に戦前だって貧乏だが祖父母の時代になるとその暮らしも想像できなくなる。
50代は自分でも大正生まれの人が生きていて話を直接聞いている。
食べるものは梅干しとご飯と味噌汁くらいでありまともなものを食べていないのである。だから良くやせいるのに病気にならなかったとか思う。
体の弱い人はとても生きていけない、長生きできないと思った。
戦後は豊かになってこういう赤貧に耐えて生き延びた人だから長生きしているともなる。戦争でも生き残った人たちはやはり丈夫な強い人たちだったともいえる。

戦後の高度成長時代とかは日本は回りにも恵まれて経済に専念できて豊かになったのである。他国との戦争などがあると国民は日露戦争でも太平洋戦争でも苦しんだ。
そういう苦しみを高度成長時代はなく大きな災害も対外的にも平和であり豊かになった。高度成長時代は日本の黄金時代だったのである。
その時代が今回の津波や原発事故の災害で転換期を迎えた。
つまり戦争の時や戦前の貧乏時代や江戸時代の大飢饉のような苦難の時代に逆戻りしたのである。


高度成長時代は恵まれた特別な時代として歴史化するようになる。
自分もその間に旅などできたのもそういう時代背景があってできた。
これからそうした高度成長時代の延長気分でいたが日本は苦難の時代に移る。
だからニートだとか老人だとか生活保護者だとか障害者だと社会の弱者や負担になるのはかなり厳しいものとなってくる。
社会に余裕がなければ福祉社会などありえないからである。
この辺で原発事故で補償金もらって働かない人に風当たりが強いのもこの辺では実際遊んでいると働いている人から見ると他より厳しくなる
なんとか災害でも原発事故でも復興しなければならないというとき、ただ補償金だけもらってあとは生活保護で楽すればいいということは許されないだろう。


そして高齢化の問題がのしかかってくる。
もう高齢者だってめんをとみられない時代がすでにきている
この辺では老人ホームには入れない、500人待機者がいるなど入れない
するとどうなるのかというと本当にうば捨て山になる
例えは小高だって若い人が流出していないとなると帰っても老人だけでどうするのだとなりその人たちは実はうば捨て山になる。
手厚い福祉など受けれない、金がいくらあってももう人手も集まらないしできない。
そして小高などはいくら金があってもそこに住む価値がなくなっているのだ。
金も金が活きる場所ならいいが回りにも医者も何もないとなると金を使いようもないのである。


要するに日本のいい時代は終わったのである。高度成長次代か日本の黄金時代でありそのあとは落ちてゆくだけなである。そういう落ち目のとき、津波原発事故が起きたのであるつまりその落ち目にトドメをさしたということである。
だから補償金で楽しようとしてもこれからはできない、こういう場に生きることは江戸時代の大飢饉や戦争などと同じ苦難を受けることになる。
それが嫌だとなり若い人は流出してゆく、広域社会になった時、誰も楽な方に流れてゆくのである。

そして取り残されるのは老人でありうば捨て山化してゆくのである。
介護でももうこの辺ではできない、施設に入れない、医療も延命治療そのものができない、そんな余裕がないからうちきられるのでる。
それはやはりまともに医者にもかかれない時代にもどるということである。

借金して見栄を張る生活ももうできない、容赦なく厳しい現実がつきつけられる。
そういう厳しい時代に入ったことを知るべきである。
そういう厳しさは歴史には常にあり高度成長時代は歴史的には例外的幸運の時代だったとみられるようになる。

いづれにしろ萱浜に残った天明の碑は飢饉の時に移民してここで働いた人の記念だった。それが無惨な津波の跡に残っていた意義が大きい。

その墓が今訴えている

「俺は越中から苦労して相馬までやってきてこの地を懸命に開拓して働いた、そしてこうして墓を建てることまでできた、俺たちの苦労を知れよ、お前たちは楽しすぎたんだよ、この世を生きるというのは厳しいもんなんだよ、飢饉の時は食うや食わず人肉を食ったとかその厳しさを知れ、なんでお前たちはありとあらゆまものを食っているんだ、外国からもいくらでも食べ物は入ってくる、魚からサシミから豚から鶏から牛からそんなに食う必要があるのか、魚は食っていたけどそんなに食べて糖尿病とか贅沢病になっているんだよ、お前たちはそれだけ恵まれた時代に生きたんだよ、お前たちの生活は殿様以上なんだよそれでまだたりない、たりない、金がほしい借金したり原発を誘致したりしてこのざまだ、天罰なんだよ、お前たちはあまりにも欲深い、飢饉の時代を思いしらせてやろう、そうすればその贅沢がどれだけとんでもないものかわかるだろう」


結局人間は歴史もカルマであり親の苦労を子供も同じように経験するようになる。
歴史でも同じなのだ。先祖の苦労をやはりカルマのようにさせられることになる。
その時はじめて先祖の苦労も身をもってわかるのである。

ともかく北萱浜は特別移民が集団で入り藩でも援助したところだから天明の墓があった。天明ー寛政ー文化と連続して墓が残っていたのである。


北萱浜村は天明三年(1783)の凶作により村の復旧非常に困難なため、短期間に集団的な入植を計り、二宮仕法により復興計画建て、他村からの出役、係役人も多く予想を越える成果をえた。
村民が感謝の意をこめて相馬充胤公の碑を建てた。

こういう事情があったので天明の時代から庶民でも墓を建てられたのである。

ただこれを読むとこの北萱浜でもそれなりにすでに開拓されて人が住んでいて稲作もしていた。村の復旧が困難ということは村があったからこそである。
何もない原野とは違っていたのである。
だから慶長津波でも萱浜でも人が住んでいて被害があったが語り継がれることはなかった。相馬藩では慶長津波のことはほとんど語られていない、伝説も柚木村に残っているくらいであ。それも慶長津波のことかどうかはわからない、慶長津波のことだということは断定できないのでてある。それだけの資料がないからだ。

墓というのはつくづく最後まで残るものだから簡単に捨てられないということがこれでわかる。家なくなっても墓は残るのである。無縁仏になっても墓は残っている。
ただ一つ墓が残り「俺はここで苦労して生きたんだ」と訴えるように津波の跡に残っていたのである。
ただあそこに墓地があることを知らなかった。津波の後に知ったのである。
ただ津波の跡まで残っていたから余計にその墓が重みをもって迫ってきたということがあった。

天明の時代から墓があり歴史の連続性を感じた。だからその墓は今に生きるものへの励ましともなる。人間の営みの連続性を感じるからだ。
先祖も苦しみ頑張って生きた自分たちも頑張ろうともなる。
だから郷土史というとき、それは空間的な広がりではなく時間軸から見直す作業なのである。

ただその飢饉のときも、良い種を伊達藩から仕入れたりしているから伊達藩は相馬藩より進んでいたのである。だから伊達藩の信仰の碑が小牛田の山神などが多いというとき、良い種などを仕入れるに行ったということもあった。
会津でも伊勢参りで他藩の農業に学びにゆく実用的なものがあった。現実にそうしていい種を仕入れるということもあったのだ。
その頃はもう伊達藩との戦争もないのだから協力していたのである。


それにしてもその飢饉とか戦前の貧乏とか戦争の時代から比べるとあまりにも違いすぎるちょうどいいや補償金で遊び暮らしてあとは生活保護だとか何かその過去の苦労を感じさせるものが全くない、震災関連死がとりざたされているが飢饉とか戦争から比べれば食料もありあまるほどあるし住むところも保証されているしそんなことで死んだのかとなる。そんなに過酷だったのかともなる。
だから原発事故周辺は特に何か異常な世界になっている。
過去を歴史をふりかえればそうなるのである。

 
posted by 老鶯 at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる (天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)


津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる

(天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)

南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使−二百年の時を超えて
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0URWX0YHQ0X01.html

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天明と記されている


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湊家とあるのはここに湊があったからだろう

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ここは一家で死んだのでしょうか
夫の名前はでていない
こういう悲惨な被害は津波であった
冥福をお祈りします

死んだ人はやはり60以上が8割くらいいるから多かった



半信半疑で海を見つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住人作成のメモより)。

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みついたので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記されている。


かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。


ここで海を見ていたという時、海岸では海だけを見ていると津浪が来るのはわかりにくい、海から離れた所だと何か異様な感じがした時、津浪が襲ってきてそれが見えてそこであわてて逃げて助かったという話しを直接自分は何人から聞いた。
津浪を見てから逃げて助かったというのは津浪はまだ見えてから逃げれば助かることがあった。
ただ好奇心で見ていた人は死んだのである。この変は400年もの間津浪がないのだから
津浪についての伝承も何も予備知識がない人がほとんどだったのである。
津浪はどんなものだろうと海岸に見に行った人はかなりいる。
磯部では津浪を見に行って水があがってきたので逃げたという。
一回目の津浪は低い津浪だったのである。二回目に大きな津浪が押し寄せたのである。


ただ不思議なのは調査では津浪が見えない地域で逃げて助かったというのもある。
それはなぜか?ここの報告のように津浪を見に行って死んだ人も結構いたということもあるのかもしれない。
津浪が見えて助かったのは何キロか離れた所である。かえって海岸地帯は家が密集していれば津浪は見えない、だから警報ですぐ逃げた人は助かったからそういう調査がある。
まず津浪警報がでて津浪を見にゆくかなどとのんびりかまえていたら逃げる時間がないということもある。津浪はいかに早く逃げるかが一番肝要になっていたのである

萱浜(かいはま)であんな海近くに墓地があるとは思わなかった。
それで墓をみたら「天明」と刻まれた碑があったことである。
これは相当に古い墓である。自分が相馬藩で見た限りでは庶民の墓では一番古い
屋形の北原に田中城の城主だった相馬氏の墓は確かに慶長と時代が記されているから古いでも庶民の墓で天明と記されているのはみていない
たいがい碑なら古いものがある。文禄とか元禄とかはあった。
ただ庶民の墓では見たことがないのである。
ではなぜここにこんな古い庶民の墓があのか?
それは明らかに真宗の念仏の墓だから移民して来た人の墓である。
「寛政」の墓も二つ見つかったからこれも庶民の墓としては古い。
萱浜が新しい場所と思っているけど古い地域だったのかなと思った。


1781 天明 01
1788 天明 08

1789 寛政 01
1800 寛政 12

1804 文化 01
1817 文化 14
1818 文政 01
1829 文政 12
1830 天保 01
1842 天保 13


北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという

天保というとこのあとである。ただ天明の飢饉が有名であり一番被害があった。
だから天保の大飢饉というのは史実的にはよくわからない。
天明の飢饉があって越中や北陸などから移民がやってきた。
そして萱浜は低い所と高い所があり低い所はあとから開発された場所である。
そこは今回津浪で被害が大きい所である。

ここで問題になったのが慶長津浪の伝承がこの萱浜でも残っていなかったかということである。
ただ慶長津浪から1611年だから150年とか過ぎれば伝えられにくい、特に移民だと元からそこに住んでいないのだから伝えられないということもあったかもしれない。
北原の津神社は慶長津波と関係していたのかと考察したがこれも定かではない
慶長津波の百年後に建てられたとかあり何も伝承も残っていないからだ。

ここでの墓の謎はなぜ移民の人が天明と刻んだ墓を残し得たかということである。
北萱浜は条件の悪いところである。でもその条件の悪い所に入植した人たちがかえって豊かになったという。やはりそれだけ苦労して豊かにしたのだろうか?
人間は条件が悪ければそれだけ努力しなければならなくなる。
だからヨーロッパでも寒い所ドイツで資本主義のプロテスタントの勤勉の思想が生れて繁栄した。
歴史にはそういう逆説がある、南国のように食料に恵まれた所ではかえってなまけものになり勤勉の思想は生れないのである。

つまりあそこに文明と刻まれた墓、次の寛政と刻まれた墓があるのはそこが豊かな地域とすでになっていたからである。
庶民が墓を作ったのは江戸後期である。それが文明という早い時期に墓を作ったということは当時としては豊かだからできた。

もう一つの原因として湊と地名があり湊としての機能があり漁労があったことでも豊かになっていたのかもしれない、海側はそうした湊とか漁労とかが農業以外にあり豊かになる要素がかえってあった。
だから南海老村は北海老村から下海老村から上海老村と別れて発展したのである。
そこでは塩場があり塩をとっていたからそれだけ発展したのである。

萱浜にも江戸時代から松原があったのだがなくなっていた。
明治から戦前にもあり写真が残っている。
萱浜はそれなりに古いということである。右田浜より古い歴史をもっている。
金沢も元禄に開拓されたから明治に開拓された八沢浦より古いのである。
金沢とか古磯部は入江でも小さいから開拓しやすいという条件があったからともいえる。

萱浜での津波の被害者を見ると60歳以上の老人が多い、今回津波の犠牲者になったのは60パーセント以上は60代以上であり高齢者が多かった。
萱浜の犠牲者を見てもそうである。
それで
「かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。」
まさにこれは別に津波被害者だけではない原発事故周辺でも言えることである。
小高などでも若い人は帰らないとか外に流出していることが問題なのである。
老人だけ残ってどうするのかという問題である。

ともかく津波では郷土史的には見えないものが見えてきたということはある。
あそこにあんな古い墓地があることに気づかなかったのである。

萱浜の古さ思いぬ津波跡天明と記す移民の墓かな

苦難の歴史が再びよみがえる
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=100715575
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2014年06月27日

抽象画(翁草ー隠された花)


抽象画(翁草ー隠された花)


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地下の鉱脈

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翁草

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隠された山

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これもインターネットのなにかあったのを加工した。

最初のは見れば加工したのがわかる、ただ次のはわからない。
これだって全く予想しないで生まれた抽象画である。

ただ抽象画も結局は具象画を離れてはありえない
抽象画でもこれはなんだろうとなると具象的なものと関係づけるからだ

翁草というのは本当に不思議な花である。
だからその花をイメージしたのである。
これも全く偶然に生まれたのである。
抽象画の常に予想もしないのが生まれることである。


南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人 (建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)


南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人

(建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)

●他の地域に応援を頼んでも限界がある


南相馬福祉会が運営する特別養護老人ホーム福寿園(南相馬市原町区)。待機者数は、同市小高区の同ホーム「梅の香」が再開の見通しが立っていないことなどを背景に、震災前の2倍の約500人にまで膨らんでいる。
 県老人福祉施設協議会が相双地方にある9つの特別養護老人ホームの入所待機者数を調査したところ、今月5日現在、合計2208人に上っている。介護職員の不足で需要に対応しきれていないのが現状だという。

南相馬市原町区の介護老人保健施設ヨッシーランドは、大震災の津波被害で入所者や職員合わせ36人が犠牲になり、1人が行方不明になった。
 施設を運営する慈誠会は、津波による被害で2度と犠牲者を出さないため、新たに8キロほど内陸の山林に施設を造る計画を進めている。だが、開発申請の許可などに時間がかかり、事業再開予定は当初の平成27年度から、28年度にずれ込む見通しとなっている。
 担当者は「28年度再開という目標でさえ、一番肝心な職員の確保に見通しが立てばの話だが」と付け加えた

福島民報社

6月24日 2:07 ・
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=785883351442461&id=187705544593581


南相馬市の鹿島区に三階建ての厚寿園ができたけどそこで働いている介護士は地元の人ではない、福島県内でも会津とか塙とかいろんな地域から来ている。岩手県からも来ているという。立派な建物を建てても中で働く人がいないのである。
この辺は人手不足が深刻である。どこでも人手不足で募集しても人が来ないのである。
だからもう介護とかは特にもう建物や制度や国に頼っても限界に来ている。
介護を国で制度化して介護保険制度をもうけたけどもう高齢化社会で介護者が増えてゆくし限界に来ている。もうそうした立派な建物を作っても中で働く肝心の人がいないのだから致命的である。
ショートスティで利用したが中はホテルのようになっていて個室だっからトイレもあるしこれは病院と違っていいなと思った。

その建物は厚寿園は立派でも働く人がいないのだから建物も活きてこないのである。
介護の人手不足は全国で深刻でありもう介護自体人手不足で成り立たないしまた人手が集まらなくて会社自体が倒産するところもでてくる。
それは建築関係だけではない、どこでも専門的なスキルを要するところは人手が集まらないのである。

介護士は専門的だというが医者や看護師とは違い別に家でもできる。もともとは家族で介護はしていた。介護施設などなかったのである。だから介護士という職業は専門的なものとしてスキルあるものとてし見られないから社会的地位も低く給料も安いのである。
介護は家族労働の延長としてやっていたのでありそんな看護師とかの専門性は必要ないものだった。それが制度化して施設を作りして入れるとなるとコストがかかりすぎる。
だからもう施設でまかなえきれないとなり在宅介護にシフトしてきた。
しかし今の家族は大家族でないし家族で見れないということで施設が頼りになるようになった。しかしそれもできないからまた在宅でしてくれとなった。

その在宅で介護できる余力のある家庭はまれなのである。
介護の負担は認知症でもしてきたし大変な負担になる。もうつききりになり外出すらままにならないことが負担なのである。
楽な方でも完全に束縛状態になるから辛いのである。

それで様々なことが孫まで介護させられて犠牲にされるとか仕事している人がやめて犠牲になるとか介護地獄で家庭が崩壊さえしてゆく。
老人の介護で家庭や社会が負担に耐えきれずそのために衰亡してゆくというのも異常なことである。
老人過剰、病人過剰、介護者過剰で社会自体が衰亡してゆくなどありえなかったろう。
老人や病人や障害者や介護者のためにある社会、福祉社会というのも異常な社会である。もちろん強者だけが生きていける社会も進歩した社会ではなかった。
戦争に負ければみな殺しにされたのが奴隷として生かされることは進歩だった。
ただ弱者のための社会など存在しなかったろう。
そんなことをしていたら国も滅びるし社会自体が成り立たないからである。


●国や行政頼みはもう限界


南相馬市とか津浪や原発事故周辺で変なのはボランティアが働いてボランティアにやらせて地元の人は遊んでいる、パチンコだ競馬とか補償金をもらって遊んでいる。
それで地元の人と外部の人が喧嘩したということもあった。
それも当然だろう、ボランティアにやらせて被災者様は遊んでいるというのも変だった。今でも建築工事関係者で働いているのはほとんど外部の人たちである。
地元でそれだけまかなう人手はないからだ。
最近ボランティアが泊まる所がない、閉鎖されたからもうボランティアは来ないという。それももうそういう時期に入ってきている。
ボランティアはもう必要ない、地元の人が働くべきなのである。
それも小高とか仮設に入っている人は金があるから働かない、それは今もつづいている。でもそういう時期は過ぎている。
ぶらぶらしているのも健康に悪いとか言われるから介護で働かせるようにするのもいいとか意見があった。それもそうである、介護は医者とか看護師とは違うからできる。

そもそももう介護自体が介護者が増えて限界にきている。だから年金制度と同じく介護制度自体が破綻しつつあるのだ。そういうものはもともと無理だったということもあった。


この病人と何のかかわりもない地方公共団体が医療制度というものをこしらえて病人とその家族に幻想をもたせるのはおせっかいである。
この病人と面識あるものは国や地方公共団体にまかせて援助の手を引いてしまう。
これは人間のつきあいを薄れさせる。

介護保険制度はもう限界でしょうね。

ばっくれる事業所があったり、途中で投げ出された利用者は大迷惑!
第三者評価とか情報開示なんかで質は計れない。当てにならんわ!
おかげで、この忙しいのにヘルパーで入ることに。
介護保険は廃止してしまえば。


情報開示なんて全くの無意味。
単なる天下りの就職先確保のための制度。
しかも、強制なのに超高額。
しかも、超高額なのに資料はほとんどこちらで揃える。
もうわけがわかりませんね。
われわれは食い扶持をなくすことにはなりますが、本当に一度廃止になったほうが長い目で見たらみんなのためなのかも知れません。


時論公論  「揺らぐ介護保険制度」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/67283.html


こうした介護の制度化などは国でする、官僚が管理する、そこに膨大な金が蓄積される。年金でもそうであり莫大な金が役所で管理する、その金を管理することで官僚に金が回ってくる。得するのは官僚だけだともなる。
事務処理だけでも膨大な手間であり金がかかるということである。
役所はすべて事務処理のためにありそのための手間賃をもらうのが公務員だとなる。

すべて役所頼り制度に頼っていてあらゆる問題が解決できるのかとなる。
年金問題でも介護でも医療でもすべて役所まかせになったとき、その巨額の金が役人に回り勝手に使われ破綻するということもある。
国で保証するといってもすべて国でできるものではない、だから国ではどう考えるかと言えば税金をあげる、消費税をあげる、何も役人の腹を議員の腹は痛まないのである。
税金の膨大な無駄は直接自分が腹を痛めないからである。
他人の金は人は無関心である。相手が億の金を盗まれようが無関心である。
あそこにはあんなに金があったのかとくらいしかない、しかし人間は自分の金だったら百円でも盗まれたり失うと痛みを感じるのである。
百億円の金でも他人の金だとどこかに消えても無関心になる。


●「金で解決しろ」「福祉に頼め」では解決できない


これは自分も嫌というほど経験した。
自分が苦しんでいる時、今は隣近所は関係ない
必ず「福祉に頼みなさい」というだけである。行政に頼みなさいというだけである。
しかし逆にその人がそういうならその人が困った時もやはり「福祉に頼みなさい」と名だけである。
さらに現代は極端化するとどうなるのか、それを自分は嫌というほど介護や自分が病気になって経験した。
母が倒れた時、遠い親戚だけど
「おばちゃんは金があるんだから金でみてもらいなさい」
血相変えてどなりちらして去って行った。これも異常なことだ自分には何かこの七年間は一身上でも異常なことの連続だったのである。犯罪にもあいこの世の非情を一身に受けた。それは外部的にも津浪やら原発事故と異常だった。異常な世界を地獄の世界を生きてきたのである。

でもこのことは実際は現代を極端化したのもとして自分の身にふりかかってきたのである
ではこれが自分だけのことかというと社会全体がそういう社会になっているということはみんな気づいていたし金しか頼ることができないということはすでに小さい時からそう親からも言われてきたし親もそうして生きてきたのである。
だから結局この辺で原発事故が起きたのも地元の人たちにも責任がある。
金の社会になった時金をもらえれば原発でもなんでも積極的に誘致すべきだとなってしまっていたからである。
それぞさが地元でもいかに欲深いものとなっていたか、ここだけではない、全国でもサラ金などから借りている人が八人に一人もいるということでもわかる。
借金している人が実に多い社会なのである。
ある人は会社経営して成功を装っていたがやはりかなりの金を裏の金融から借りていたのである。
その人に今度は病気なのに金の要求されたからひどかった。
そういう苦しみの連続だったけどそれは今の社会が実はそうでありみんなそうした社会で苦しんでいるのが実情だったのである。


この辺では小高などが補償金をたんまりもらっているからと鹿島の人から非難される。
これも今の社会を象徴している問題である。原発作る時も金であり事故後も金でもめている。絆など実際はなくなっていたのである。
だから浪江でも小高よりもらっているから会社経営している人が仕事をくれと頼んでも
「あんたちはたんまり金もらっているだろう」と言われて相手にされないとかなる。
つまり自分が「おばちゃんは金をもっているんだから金でめんどうみてもらへ」と言われたのと同じである。極端にしろ一身上でも回りでも極端な現象としてこの辺では現代の問題が露骨に現れる場所となっているのだ。

だから小高の人が補償金をたんまりもらっているというとき
「あんたたちは補償金をたんまりもらっているんだから、金にめんどうみてもらい、金で解決しろ」となってしまう。

それが極端にしろ現代の社会がここでは自分の一身上でも起きたのでありそれは自分だけではない、みんなに起きてくる社会的要因があったのである。

つまり「福祉に頼め」「金でめんどうみてもらい」が現代の社会である。
何か頼んでもその本人はそういうだけでありみんなそうなってしまうのである。
だからいくら立派な建物でも制度を作っても仏作って魂入らずのように社会の問題は解決しない、巨大な仏像が救ってくれるわけでもいない、建物が救ってくれるわけでもない、そこにいる人が救わないとしたら助けないとしたら根本的に助けられない。
金でめんどうみてもらへと言っても金があっても人手が集まらないとかなっていることでもわかる。

すべては金では解決できない、こんな社会になったから津浪でも原発事故でも起きたのだと最近は思っている。
こんな社会がつづけば最後は人類の滅亡でありその日は近いのかもしれない
そのことが自分の一身上にも起こり回りにも起こったのである。

つまり社会そのものの転換点にきている。それがこの辺は津浪や原発事故で極端なものとして現れたのである。
それは大きな社会の変革を要求されている。でも部分的には介護が限界にきているということなら現実そうだしわかりやすい例として現実化しているのである。
国とか自治体とかでいくら介護制度や介護士でやろうとしてもできない、限界がきているそれは年金制度もそうだけど破綻しつつある。制度そのものが破綻しているのである。
そうなると個々人で自営手段をとるほかないし助け合えるものは助け合って生きろとなる制度とか自治体ですべてまかなえきれないからである。

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2014年06月26日

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来? (元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)


南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来?


(元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)

●神社でも津浪のことは伝えられている(相馬市の諏訪神社の謎)


いわき市泉町にある諏訪神社は平安時代にその由来を持つ神社である。

天文年中(1532ー1554)に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。現本殿は寛永八年に泉藩の藩主本多忠籌公により建てられ。諏訪跡宮、若木神社、秋葉神社、判官社、金刀比羅神社、足尾神社も境内末社として祀っている。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍


諏訪神社もたいがいは古い神社である。この神社も多い。相馬市の諏訪神社は樹齢500年の姥杉とかあるからいかにも木立に囲まれて古い感じがする。


大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
また、次のような郷土史研究もある。
<大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ


あんなに海から離れた所にそんな伝説があるのか謎である。あそこだけは離れすぎているからだ。岩沼の千貫松は津浪が来るとリアルにイメージできる距離である。
相馬市の諏訪神社は想像もできない、ただ神社は遷座することがあるから海近くにあっても遷座すれば磐城の諏訪神社のように不思議ではない。
新地の地蔵森の伝説にしても離れすぎているのが謎なのである。


太東崎先に運気が立ち上り、漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。

漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。
 漁師は驚きあわて、奇像を抱いて住職に届けたところ、住職は一目見てそれが飯縄不動尊だと悟りました。

つまり飯縄寺の前身・万蔵寺と無動院飯縄寺は別の場所にありました。これが一つの敷地で同居するようになったのは元禄の大津波だという話があります。
 『岬町文化史年表』によれば、―――飯縄寺は往古、大東岬の上にあったが、この津浪の害を受けて、現在地に移築した。―――
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=3981694


●残された津浪の俳句と南海老村の伝説の共通性


まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)


爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり

http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2008/03/index.html

 

荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した

山本荷兮(慶安元年(一六四八)〜享保元年(一七一六))
http://yahantei.blogspot.jp/

この津浪を俳句にしたのは貴重である。これも一つの記録である。古くなるとそれは文学的価値より歴史的価値が高くなる。末の松山でもそうである。まさに「波こさじ」という距離にあったことが証明されたから全国から注目された。
津浪は四百年五百年に一回とかなるとなかなか経験しない人は理解できないものとなる。でもこれだけの被害なのだから何かしら人々の心に残り伝えられてゆくのが普通である。
だから南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説は津浪を語っているのではないかと考察した。


藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


青い光を発す・・とか垣の如きもの路に横たわる・・荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまったとあるのと同じである。
これは津浪を見ているからこの表現があったとも見れるのである。

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり

「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」
これもまた不思議なの句である。スマトラ津浪でも地元の人は魚が人を食ったので当分魚を食わなかったというのもわかる。それだけの人間が死んだからである。
その死んだ人間を食った魚を食えないというのも心情的にわかる。
魚はいつも人間に食われていたが津浪では魚に食われるはめになったのである。
仏像が海中から青い光を放ち現れたのを祭った由来を語るものが結構多い。津浪ではそういうことがある。
貴重な仏像でも石碑でも神社の神体も鳥居もみんな流されてしまったからだ。

 
●八沢浦近くの柚木に残された津浪の伝承
 
八沢浦の柚木(ゆぬき)には津浪の伝承が残っている。

ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという

これは南海老村に近いし民間に伝承されたということで貴重である。そこは八沢浦から少し上った所でも近い、慶長津浪の時は八沢浦は今回の津浪でわかったように柚木の蓬田まで来ていた。だからすでに今回の津浪でわかったようにそこまでが八沢浦だとしたら
もっと奥まで津浪は来たはずである。
八沢浦は今回の津浪の来た所まで八沢浦で海になっていたからだ。
だから近すぎると思った。
地蔵森とか諏訪神社とかは遠いのである。そういう近い所に津浪の伝承が残っている。
小伝承が相馬藩では一番なにか慶長津浪の切迫感を残している。

あとは相馬藩政記では一行七百人溺死としか記されていないのである。

この伝承の謎は当時の八沢浦からしたら近い、すぐ近くである。
普通津浪の伝承は遠い地点に津浪の達した地点に残りやすい。
なぜこんな近くに津浪の伝承が残ったのかというのも問題になる。

ただ八沢浦は海のすぐ近くでも前に山があって意外と被害が少なかった場所があった。
そこでは裏山がありすぐ近くで津浪が来たのを見て必死に逃げて助かった人がいた。
だから「急ぎ坂」という伝承が残ることは納得できるのだ。
津浪の恐怖の余り「津浪がおさまってくれ」と念仏を唱えるのも理解できる。
だからこの伝承には信憑性がある。

相馬藩では他にこうした民間の人が伝えるものがほとんどないのでそれは何故なのかと探求してきた。

磐城の神社でも津浪の被害があり移ったとかの伝承がある。神社にもそういう津浪に関する伝承も残っていない。そういうなかでこれだけが残っていることも不思議である。

まだまだ津浪のことは民俗学でも伝説でも探求されなかった。岩崎氏の「本邦小祠の研究」でも一言も津浪のことを記されていないし今回の口碑でも知っていた人が相馬藩でどれくらいいたのかともなる。他にもあったが伝えられず忘れ去られたのかもしれない。
だからそもそもこの伝承が良く伝えられていたとなる。
でも相馬では四百年も津浪が来ないのだから注目している人はいなかった。

ただ科学者が貞観津浪の砂を松川浦からずっと奥でボーリング調査で発掘したということがあって報告された。それからフクシマの原発でもそのことを報告して危険を訴えたがとりあわなかった。
自分も科学的実証があったのだから注目したのであり津浪のことについては無関心だったのである。

ともかくインターネットはキーワードから調べられるから家にいてもある程度できる。
ただもっと深く調べるにはインターネットだけでは無理だろう。
図書館はまず調べるのがめんどうであり時間がかかりすぎるのである。
だから自分は介護やらで五年間くらい行っていない、コピーするもの手間だし時間が何でもかかりすぎるのである。

posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)


老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)

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老鶯や夕べ青田に奥の家


夕鷺やなお田を移り餌漁る


八沢浦の奥、柚木の方は青田になっていた。あの辺に境田とあるのは宇多郷と北郷の境があったためだろう。
柚木は鹿島なのか相馬市なのかわかりにくい、あそこに相馬市の仮設住宅がある。

この辺で経験していることは未だに不思議である。その一つがいつも書いているけど
南相馬市の鹿島までは原発事故で田畑が耕作できないから原野化している。
津浪によっても広大な地域が原野化している。確かに一部は田も畑もはじめたがわずかである。
ただ相馬市にの領域に入ると普通の今までの景色と同じになる。
今は一面の青田になる。だから今は二つの世界を行き来することになる。

一つは原野化された自然の世界でありもう一つは前と同じ日本の田畑がある世界である。
そこで何が起きたのか?
普通の田畑のある世界を見直す結果になった。
原野から普通の田畑のある世界に入ると別な世界に感じるのである。
特に一面の青田の景色は原野の景色とは全然違ったものなのである。


老鶯などというとそれは夏の季語である。夏鶯ともいう。そうした季語は実は長年の日本の田畑のある世界で作られたものである。原野に今の時期、鶯が鳴いていても何かしっくりこないからである。つまり老鶯などとなると老いたともなり人間の感じがでてくるからだ。そして実際に二つの世界を行き来してわかたっことは一面の田のある景色は原始の自然とは違う、人間化した自然である。大地すら人間化した景色としていたのである。


だから鶯でもそうだけど鷺だって夏の季語であり鷺は特に田に必ずいるがそれは人間化した自然であった。もし本当の自然だったら津浪の跡の沼のような所で餌を漁る。
アフリカのような所にいる野生動物は田にいる鷺とかは全然違うのである。
鷺は田があって人間に養われているような感じになる。
だから原野の一面の葦原から一面の青田の世界に入ると何か違うなといつも思うのは
その自然が人間的な空間になっていてほっとするからである。


ともかくこの辺の状況は未だに変わっていない、まずこの原野化した風景が元の一面の田になったとき元の状態にもどったことになる。
でも津浪のあとはもう田にもどらないとすると別な景色になる。
そこがソーラーパネルとかになると嫌である。一部はなっている。
それは自然のエネルギーとしても自然の景観を破壊するから嫌なのである。

老鶯が鳴いて青田があり奥にまだ知らない家が隠れるようにあった。田舎ではそういう家が多いのである。だから住居としては贅沢である。


いづれにしろ警戒区域では人は住んでいない、また故郷から離れて住む人はどういう心境になるのか、このことも想像して書いてきた。
故郷とか家は土地でも普通にあるものだがら意識したりしないのである。
それが故郷から先祖代々いた家から離れて例えば東京とか大都会に住んだら相当な違和感がある。ただそこで故郷は何だったのだろうとか家はなんだったのだうかと今まで考えないことを考えることになる。
この辺では今まで普通にあった当たり前のことを考えざるをえなくなったのである。
だから自分のプログもこうして書くことが多くなるのだ。
普通の世界にいたら当たり前でありそこが新鮮の感覚にはならないから書くことも少ないいつもと変わりないとなると新鮮なものがないからである。
だから人は旅したくなるのである。

北海道には原野があるからこれはいながらにして北海道だなと見ていたりする。

鷺でも夕べ青田を移ってきて餌漁っているのは原野ではない、田は人間によって作られた景色である。その田ごとに鷺が飛んできて餌を漁るのは人間に飼われているようにも見えたのである。
鴎だったらそういうふうには全く見えない、その餌は全く変わりない人間化していない自然から得ているからだ。
海というのはもともと人間化できない所だった。ただ入江となると何かほっとする。
その入江が埋め立てられて田になったとき、その風景は八沢浦のようになくなった。
八沢浦は今は一面の葦原になってしまった。茫々たる原野になってしまった。


この辺の変化は津浪だけではない、原発事故からもたらされたのである。津浪の被害地だけが原野化していればそれほどではないが全部が原野化しているから相馬市とは全く違った世界となってしまっているのである。

2014年06月25日

津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された (相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)


津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された

(相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)

●全国の津神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。


「角宮」は別称「津の宮」とも言われ、別所池から下流の広大な耕作地域を潤す水源として水神様が祀られています。

また、阿蘇神話の伝説がある穿戸羅漢山の真下に位置し、「角宮」には阿蘇大明神の家来だった鬼八が落とした角が祀られているとも言われています。
鬼の角が落ちたことから、どんなに激しい夫婦喧嘩でもたちまち収まり(角がひっこむ)http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/kanko/post-2.html


名称から、式内社津神社に比定されることもある。
『式内社調査報告』では、国府が近いことから、
式内社・国津神社であると論じられている。

長崎県壱岐市石田町池田西触19
http://www.genbu.net/data/iki/tunomiya_title.htm


広島県福山市津之郷町大字加屋

利根川を臨む津の宮の鳥居

 香取神社から徒歩40分。
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/katori2.html


宮津の地名は、当神社の祭神を海辺に祀り、宮の津と称せしにはじまる。現境
内は、宮の津即ち宮祭る港の址なり、海中の巌を今日も遺す。此巌は神の依代
で、万代の巌又は『波越巌(なみこしいわ)』と呼ぶ。


津守(西成区);難波津を守り、住吉大社の神職を務める津守氏(津守連のちに宿祢)が
いた。

ひさかたの 天の探女が 石船の泊てし高津は 淺せにけるかも〔292〕


敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
http://yoshi-bay.com/index.php?id=114

大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首 いまだ詳(つばひ)らかならず
大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し

巻二(一○九)



千葉県道253号香取津之宮線香取市香取
http://www.jorudan.co.jp/bus/highway/busstop_%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE.html


かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

 第10歌集『青海波』に収録されている歌である


祭神
 上筒之男命(うわつつのおのみこと)
 中筒之男命(なかつつのおのみこと)
 底筒之男命(そこつつのおのみこと)

 通称 津明神・楫取津神社
 例祭日 四月第一日曜日
 鎮座 いわき市岩間字輪山249

寛元四年、領主岩間次郎隆重が領内海産業の興隆を祈願し、摂津国津の宮の分霊を勧請したことに始まるという。古来、「輪山28」の地に鎮座していたが土砂崩れにより崩壊、昭和十三年現社地に遷宮した。
http://iwakinokamigami.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html


津の郷があり津神社(つのみや)ともいう、津の宮は宮津ともなる。津神社とツノミヤ神社は違う。宮は津に湊に祭られた。津が湊となり宮が祭られた。
単純に津神社もあり津とあっても区別がある
ともかく古代では津は湊である。天然の湊である。
だから松川浦の津神社(つのみや)は下に大津とあるからそこが船着き場だった。
その湊を守る神社でありもともとは津浪とは関係ない
ただ津浪の時、そこに上れば助かるというのは別に津浪のために祭られたのではなく
そういうふうに津浪が来た時、そこは坂を上れば助かる場所にあったからそういう言い伝えが生れた。盛んに津浪の故に祭られたというがそういう謂われはない。

磐城市岩間の津明神が、摂津国津の宮の分霊を勧請したとありこれはもともと津神社の基が摂津にあったことを示している。
角とか書かれていてつのみやと呼ぶ場合もある。単に津神社ならそこが湊があったかどうかわからないがツノミヤと呼ぶならそこには湊があった。

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津神社(旧村社)

鎮座地   福島県いわき市勿来町九面九浦九九
祭 神   海津見神 ワタツミノカミDSCF0100.JPG

宵 祭   11月 2日
例 祭   11月 3日

 本 殿     春日造
末 社   八坂神社  大塚神社  稲荷神社

 由緒沿革   九面湾に面した黒浦山に鎮座し、海の守護神とし  
て奉斎されたものである。 宝暦五年の棟札には「奉造立九面明神」 とあり、
天明八年の棟札には 「奉督改津明神」とあり、九面明神から津明神となったことが伝えられている。


広島県福山市津之郷町大字加屋

この住所も不思議である。津之郷町とあり加屋とあるのは伽耶なのか?
単なる萱なのか?津之郷町とあり加屋があることの謎である。
津守とあるようにもともと津神社は湊の守り神から発していたことはまちがいない
ただツノガノアラシトとかがありツノガが角となり津之郷ともなるのでまぎらわしい。


●鯨と津浪は関係していた

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烏崎の津波に流された津神社にあった「鯨大明神」

「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」
http://shonan-fujisawa.jp/newpage4288.html


『利別川の鯨』

この口碑伝説は更科(1955)によって記録された.
「十勝川第一の支流利別川に、フンべポネオマナ
イ(鯨の骨のある川)という川があるが、この川はある
年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、
鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところである
という。(音更町・細田カタレ姥伝)」
フンべポネオマナイの場所は,明らかに
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf


実は、このクジラの座礁は大地震の予兆として有名だ。昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上 げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

 琉球大名誉教授の木村政昭氏(地震学)が言う。
 「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。≫


 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。

なお小鯨は、福田小学校から北西に7〜8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-81.html


泉(原町)の津明神は地名をとって大磯神社とも呼んでいるが昔、大鯨がこの浜に上った時、祭られたという


新地の伝説と原町の泉、鹿島区烏崎の津神社は鯨と関係しているから慶長津浪との関係があるかもしれない、津の宮と津神社は違っている。津の宮となるとき宮が津にあり港を守る神社となり津守と関係している。
だから津の宮となると高台にあるのが多い、高津となると高津の宮となりそこが津を守る神社があった。松川浦には大津があるからそこはやはり船が寄った所なのか
それでその大津を港を守るものとして津の宮神社が建てられた。

烏崎の津神社は鯨を祭り鯨の祭りをしていた
そこに鯨明神という碑と金比羅という碑があった。それは明治時代に建てられた。
鯨と津浪が何か因果関係がある。それでインターネットなどで調べ列挙した。
これくらい集めると鯨と津浪は関係しているとという証拠になる。

烏崎の津神社鯨を祭り鯨の祭りをしていた。
鯨を祭っていた神社だともなる。

烏崎の牛島の津神社は低い場所にあり鯨を祭っているから津浪と関係しているともいえる港ととしてあそこはまだなかった。
烏崎の山際が港だったからである。津浪はめったに来ないので鯨の神となってしまった。
高台にあればもっと古くからあった神社になるからだ。
八竜神社はぎりぎりで津浪からまねがれて残った。
それは別に慶長津浪を体験してあの高さに建てたのではない
古い神社は高台にあり津神社でもツノミヤと読んだりすると湊を守るものとして高台にある。


●津神社は貴船や安波様と合殿になったきが多い


新地町釣師のあんばは、現在津明神と合殿である。もともとあんばさまと呼んでいる所は海の出っ崎の地名あるから安波のお宮はもともとそこにあったらしい。


棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某のこの月この日に海中より出現したという、


豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・


「本邦小祠の研究 岩崎)


津神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩


今回の津浪で神社のことも話題になった。特に相馬では津神社のことが実は津浪神社のことだと言われてそうなのかと不思議に思った。
でもよくよく調べれば津神社は津浪の神社という証拠は何もない、津浪に由来する神社という言い伝えも文書もないのである。
確かに相馬氏の松川浦の神社はツノミヤとかツノミツ神社と言われる。津神社ではなく
ツノミヤかツノミツ神社と言われる。ツノミツだ津に満つるだから津浪に由来したのもかとなる。ただこれも三代実録に列挙された由緒ある神社とも言われる。
この神社に逃げれば津浪から助かると言う言い伝えがあり実際に逃げて助かった人たちがいた。でもあそこは原釜の低地から高台にありまず低地の原釜は人が住んでいなかったろう。神社は比較的もともと高い所に建てられる傾向がある。
海側は特に高い所に建てられる傾向がありそういう神社は古い。


八竜神社は各地に多くこの辺でも実に多い、それは今回の津浪からまねがれたものが多いそれは古い神社であり慶長津浪の前にも建てられていた。そして数も多い。
それは縄文人の遺跡とも関係しているともあり古いから津浪からまねがれた。
縄文人は縄文海進があり海だった所には住んでいないからだ。

ところが津神社は相馬藩内では多いのだろう。日立の海にもあるが津神社自体は全国的にあったとして散在しているしまれであろう。
なぜ伊達藩内、宮城県には見当たらないのも不思議である。

浪江の棚塩の津神社の謂われはなぜ702年とか大宝の時代なのなのか?
そんなに古い謂われをどうしてもっているのかとなる。
海中から現れたという時津浪と関係しているのか?

津神社は目立たない神社である。貴船神社は結構あり有名であるがそれと合殿になったり安波(あんば)様と一体化したりして津神社の名も消えている。

ただ相馬藩内の海岸に満遍なくあるということはそれなりの意味をもっているのかもしれない。
鹿島の烏崎の牛島をのぞいて比較的高い出鼻にある。原町の北原の津神社は本当に高い所に隠されるようにあった。
この津神社が目立ってあるのは相馬市の松川浦の津神社(ツノミヤ、ツノミツ)である。
それと鹿島の牛島の津神社も隠されるようにはない、港に近くにあった比較的大きな神社だった。

小高の角部内にある津神社は何なのか?これも角宮とあるごとく津神社と関係していたのか?
ここに津神社が祭られて角部となったとしたら慶長津波の時に名付けられたのか
その時地名化していたらここは重要な地域である。
角のように海に出ている所でもあり地形から名付けられたのか
ただ津神社が祭られていることから地名化したとなると慶長津波以後なのか
時代的には特定できない

烏崎の津神社は慶長年間に建てられているから時代的にも慶長津浪を記念したものだろうあとは時代が早かったり遅かったりしているからだ。
慶長年間に建てられ津神社は相馬藩内でも明確にはわからないからだ。

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2014年06月24日

夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


老鶯や日々草の茂り深しも

畑に人働きはじむ夏雲雀
畑に人海風涼し夕べかな
夏の日や我が里めぐり夕燕


分かれ道道標ありて草むしぬ栃窪村へ夏の夕暮

分かれ道道標ありて旅心湧きにけるかな
我が庭の紫陽花の色変わりにつ人も変わりて我とあるかな
住み替わる家にしありや庭残し百合は咲きにき主変わりぬ


浜街道の横手の古墳あるところから栃窪村へと通じる小さな道標がある。
そこには栃窪村へと記してある。ただあれは明治以降のものだから
古いものではない、それでも街道から栃窪へゆくのは相当に遠い。
車だからそうした遠い感覚が失われただけである。

毎日自転車で買い物とか狭い範囲を行ったり来たりしているだけである。

でも何か自分は旅してきたから旅は家にいてもつづいている。
分かれ道はやはり旅心が湧く、ここで道は別れる、それは道は未知なのである。
その未知に誘われるのが旅なのである。
だから分かれ道は印象に残るのである。
昔も分去(わかれさり)が地名化していたように印象的な場所だから地名として残った。
歩いていたからそこで人と人は別な方向に行きあとはなかなか会えない、永久の別れともなるのである。


夏は今は梅雨だけど遠くに旅したい季節である。ただ暑いとバテるからだめである。
昨日はからっとして風も涼しいから自転車で気持ちよかったのである。
自転車はまともに日差しを受けるから暑いと余計にバテる。

人間は本当に無常なのだ。無常とは常ないことなのだ。この辺は全くあまりにも激変して無常そのものだった。
近くに家を建てたのは烏の人だとか隣の人はイワキに移り老人ホームに入ったとか
一人は死んだとか近くでも次々に変わる。
会う人も次々に変わるのである。家族だって死んだしこれも変わるのだ。
家族すら本当に無常であり常ない関係である。

無常こそ現実でありそれをさけることはできない、人生は無常だということを前提にして生きるほかない、それを避けようにもさけられないのである。
いやおうなく無常を生きるほかないのである。

だから旅が人生だったという時、旅だったら一時泊まりまた次の宿へと移るから旅自体が常住ではない無常を生きることになる。

それが原発事故で避難区域ではもう故郷にも住めないはとなる無常が町全体のことになってしまったのである。
津浪の跡が葦原になったのも無常であり原発事故の街が無人化したのも無常である。
こんなことになることなど想像もしなかったから無常を特に感じてしまう。

人間の世は別にこの辺だけではない、こうした無常があり生きてきたのである。
ここだけであるのではないし今だけであるのではない、常にこの世は無常であり
変わる世なのである。


わずかにこの辺でも畑で働きはじめた人が見える。働く人がいないことは何か欠けている。田畑に人がいて働く人がいて土地も生きている。ただ機械がそこにあるだけでも活きてこない、人がいてこそ生きる。
家だって誰も住まないと空家のままでは活きてこない、この空家も膨大に増えているのだ庭残してそこにユリの花が咲いている。そこにまた新たな人が住み始める。


草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉


草の戸とも違っていたがそれとにている。家も無常であり永遠に住むことはできない、
それで家の始末に困る人もでてきているのだ。

なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか? (津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか?

(津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


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●相馬氏統一の前の中世の館

一国一城になるまえは各地に館があり城となっていた。中村城に移転することによって中央政権体制がでる。そこで相馬藩内で38もの館があったが廃止された。
ここには抵抗があった。特に有力な豪族は海側に港をもち物資を運び財力があった。
小高の村上や塚原がそうであった。
だからこそそこをおさえるために村上に城を築いたが地元勢力の反発がありすぐに中止した。何か不吉だからということではない、在地勢力の抵抗があったためである。


標葉郷 泉田館 両竹館

小高郷 岡田館
中之郷 泉館 泉氏から岡田氏へ
大甕館 岡田氏
北郷
上海老輪蔵館


輪蔵館 反畑にあり 往昔この地に一切経蔵あり。故に輪蔵館と名づく
天文弘治の頃、桑折上野直家この塁に居る。
直家は田中城主桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


●津浪の二年後に役金を課して民を苦しめる


はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします


最近の小高城の発掘で小高城に火事がありそれは戦闘の結果らしいとか報告があった。
中村城は岡田館などがあるように中世の館とも違いそれほど防備に重点をおいていない城だった。


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加

慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない
中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ

慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える
http://musubu2.sblo.jp/article/89007433.html

財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。

寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた
それで新田開発を一人十石限りとされた

慶長津波から50年くらいたってこういう状態になった。


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える

慶長18年は慶長津浪から二年後である。その時どうして給人、寺社方、職人まで役金、税金を課してのか?
給人、寺社方、職人とでているが寺社方というのは中世では仏教や修験者の勢力が大きかった。ここで気になるのは寺社方であり職人である。
●南海老村の大工の善次はその役金への不満の象徴だったのか?


南海老村の伝説は善次という大工が中村城の天守閣の造営にかりだされていた。
それが九十九部という仏教の修験者がかかわっていた。
それは確かに南海老村には輪蔵館という寺社の館がすでにあったのである。


輪蔵館 反畑にあり、住昔この地に一切経蔵あり、故に輪蔵塁と名づく、けだし仏閣ありか、天文弘治の頃、上野直家の塁に居る。直家は田中城桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日(寛永2年9月10日)は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4


武家天野氏羽衣の来由

天野尾張同筑後正常あり、正常義胤公に仕えますます戦功を積んで加田を賜る。
その後天野備後なる者、勇猛の士なり。利胤公の世、牛越後経営の時に当り公の
慮に違へ采地を没せられて下海老村に蟄居す。
荒川某数々備後の過無きを訴え君公之許す。
天野家塁世功あるをもって采地二十二石賜ふ。爾後下海老村に居り代々天野新兵衛と号す方今新兵衛高祖祖父天野新太郎となる者、村絆官管船官となる。
力量抜群、槍柄二を合わせその先に載せ槍柄を取って是を揚ぐ。
一時米を運船に積む。米包多く積みその中につき一包抜く。又これを入れるること元の如し。その他人目を驚かすこと算・・あらず。以て美談となす。

下海老村の地図
http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/ebimuramap111111111.jpg


下海老村 倉庫海岸にあり、この郷の税米を収め江戸に運船す

下海老村には湊があり船で江戸まで米が運ばれていた。それはすでに相馬氏が中村城に移転して地域を統一したときである。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日

この時代に慶長地震と津浪が起きているのだ。

そのことは何一つ記されていない謎である。
その時確かに下海老村もあった。そこには湊もあった。
そして重要なことは津波のあったときかもしれない、
そしたら慶長津浪のことはなぜ一言も記されていないのだろうか?

その時生きていた人物の由来も明確に記され慶長津浪のあった利胤の時代にこれだけのことが記されている。それでなぜ甚大な被害のあった津浪のことが記されていないのか?
今回の津浪から見ればその被害はやはり壊滅的だったはずである。
それが何一つ記されていないのはなぜなのだろうか?


ただ一つ南海老村の大工が確かに中村城に移転したとき、天守造営にかかわっていた。
そこで海水で洗うと怪異が起きたというのは津浪で死んだ人たちがいてその死んだ遺骸などを海水で洗ったものなのだろうか?

慶長十八年に財政困窮したというのは慶長十六年で津浪の被害が甚大で影響したのか?
でもそこにさらに役金を課すということはどういうことなのだろうか
そのために南海老村の輪蔵館支配下にあった善次という大工は中村城の天守造営にかりだされたが領主は輪蔵館にありひきとめられたということもあるのか?


●やはり津浪の被害は相馬藩の当時の政治事情で語ることを禁止されたのか?


いづれにしろ慶長津浪のことが一行だけ七百人溺死しか記されていないことの謎は
解明しようがない、ただその前後に何があったかは詳しく記されているのだ。
不思議なのは慶長津浪の後にも下海老村に湊があり船が運行して米が積まれて運ばれていたのである。
もともとそこには塩場があり塩もとっていた地域である。
津浪があっても塩とることには影響されない、むしろ塩をとるのは津浪の後の方がやりやすいということもあった。ただ湊が破壊されることは船が使えないので打撃だった。
でも下海老村の湊は津浪の後も使われていたのである。
その当時の湊はどうなっていたか不明である。
今のような護岸のある港ととは違う、それでも米を積み出すくらいだからそれなりに港の機能はあったのだろう。

不思議なのはすでに慶長津浪のあったときはそこに住んでいた人物の由来もはっきりしているしその子孫も明確だし今日までつづいているのである。
それがなぜ慶長津浪に関して何も伝わらないのかが大きな謎なのである。

慶長津浪の後の二年後に役金を課しているということそれに不満があったことが記されないことに影響しているのか?
つまり相馬氏にとって津浪の被害を訴えられて役金を徴収できなくなるから津浪の被害のことを無視して記さなかった。それはその時の政治情勢でそうなった。
相馬氏のその時の最大の課題は秀吉や家康との関係を良くして領地を安堵してもらうことだったからである。そのために今の時代だったら津浪の被害があったら外部から援助されるがその時はそんなことはない、だから牛越城の時改易される取りつぶしの危機も経験しているからそっちの方が政治の優先課題であり津浪の被害は無視されたのである。

ただそれにしても相馬氏では無視してもそれだけの被害があればその土地のものとか何か記してもいいはずである。現実に伊達藩では津浪の被害にあったその土地の支配者が記している。それすらないということがとをいうことなのか解明しようがないということである。
「津浪の被害は語るな、口外するな、・・」
何かそういうことが相馬氏から強制されていたのかともなる。

だからただ一つ南海老村の天守造営にかりだされた善次の伝説が津浪を語っているのかとなる。
新地の地蔵森や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪のことだったらしい。
慶長津浪のことは何か相馬藩ではほとんどわからない、資料も伝説すら残っていないのである。
柚木の急ぎ坂とか・・・が慶長津浪のことだとすると南海老村に近いし八沢浦の被害からみればありうることである。
地蔵森や諏訪神社より慶長津浪の伝説としてはありうる。
それにしたってもっと何か具体的に伝わるものがあってもいいはずなのである。
それが一切ないということがあまりにも不可解であり謎なのである。


南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://musubu2.sblo.jp/article/99130060.html


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと・・・

葬礼と関係しているから津浪で死んだ人たちがいたことが伝説化していたのか?
ここがなんか伝説にしても津浪の被害を語っているように思える
なぜなら今回も津浪で流された家族の遺品を懸命に探していたからである。



円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


転々として大いなること茶銚のごとし



これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる


これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。

posted by 老鶯 at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月23日

津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌(右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)


津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌

(右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)

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右田の松原の残骸である。ここの松は太かった。
だから江戸時代からあったみたいなのである。


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八沢浦

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夏菊に朝日の眩し沖に船
葦原に夏の日眩し石ごろり
浜街道海風涼し陽のまぶし
老鶯や街道細く草深し
街道の細道木陰の深きかな
興亡の鬼越館や夏日没る


(右田浜、海老村)


右田浜松原ありしその松の残れる太しここに集める

海老村に津浪の後や残りたる家の社や草に埋もれぬ
海老村に社の鳥居海向くも跡形もなし何を偲ばむ


(八沢浦)


庭の石残りて一つ目立つかな夏の日まぶしく葦原広がる

葦原に沼の生れてほしいまま鬼ヤンマの飛びにけるかな
葦原に夏の日そそぎ瑞々し海風そよぐ八沢浦かな
八沢浦葦原となり風吹かれ揚羽一羽の舞いわたり消ゆ
八沢浦葦原となり我が望む夏の蔵王の迫りくるかな


(相馬市⇒日立木)


田町通り女子高生の歩むかな柳そよぎし夏の午後かな

城跡に木陰の深き石垣の残りて古りぬ訪ぬ人かな

餌あさる夕べ田の面に鷺の二羽日立木村の古りにけるかな

相馬市田町通り

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日立木村と青田と鷺(夏の夕べ)



海老村から八沢浦に出ると一面の葦原となり沼がすでに三年すぎて古くなっている。
津浪の後の変化は自然が生き生きするということである。
葦原が夏の日ざしを受けてつやつやゆと瑞々しく輝いていた。
八沢浦は相当に広く感じた。あそこは一時海になった。今は葦原である。
葦原は日本の原初の風景だった。これは飯館村でも山でも葦原になった。
日本では葦原瑞穂の国だから本当に葦原に覆われていたのだ。
そういう原初の風景に津浪の後にもどってしまった。


ただ八沢浦の海に一番近いところに30軒も家があるとは思わなかった。
10軒くらいはあると思っていたが30軒は多かった。
その家も根こそぎ流出した。あそこは土台すら残らず沼になってしまった。
こういう変化はいくら無常の世だとしても想像もできないものだった。

八沢浦からは蔵王が見えたが写真ではうまくとれていない、八沢浦からいつも蔵王は見えていたのだ。八沢浦八景があり古歌が残っているからここは名所だったのである。
それが津浪によって一時昔の入江が甦ったから観光としては魅力を増したのである。
八沢浦に注目している人は松川浦とは違いなかった。
でも自分は前からここが入江になっていたらどれほど美しいだろうと何度も書いていた。それが実際にそうなったときほど驚いたことはない、それを言えばここで死んだ人をどう思うんだと批判される。

でも正直まずその死んだ人より八沢浦が本当に入江なっこことに驚嘆したのである。
ごちゃごちゃと瓦礫が流れていたらそうは見なかった。
右田などは瓦礫が流れて泥海になっていたのである。八沢浦は昔の入江のようになっていた。岸辺に瓦礫が流れ着いても入江のようになったのである。


八沢浦を出て相馬市の方にゆき城跡をめぐり田町通りの柳を見る。それはいつもの行程である。あそこは絵になっている。通りがないとやはり街は生きてこないのである。
スーパーにはそれがないのだ。ただ買い物するだけなのである。
相馬の女子高生が歩いているのも絵になっているのだ。
相馬市の市民会館もそうした城下町にふさわしい造りで完成していた。
相馬市は城下町であり原町とは雰囲気が違うのである。

浜街道の道は相当に細くまがりくねっている。でもそれが街道だからこそそうなっている今日気づいたのは木陰が深くなっていて街道は涼しい、もし日ざしがまともに照りつける道を歩いたら苦しい、ところが街道は道が細く木陰が多く涼しくなっていた。もちろん
松並木などもあるから涼しい道だったのである。
六号線とはまるで違ったものとして街道があった。


その街道を通り日立木に出ると鷺が二羽まだ明るく餌漁りしていた。
それがまた何とも不思議に感じるのだ
葦原というのは原初的風景であり青田は何か人間的風景でありほっとする。
葦原はやはり茫々とした感じになる。青田は何かそこに人間の営みがあり
日立木村があり薬師堂があり人間的なものの温かみを感じる
だから津浪の後は南相馬市は原発事故でも田畑をまだわずかしか作っていないから余計に感じるのである。


鬼越館はあそこもまだ相馬氏が統一されないとき、中村に城を移転するとき、敵対した館だった。
そういう歴史を知ればまた見方も違ってくる。中世の館をやはり知っておく必要がある。


2014年06月22日

なぜ南相馬市では小高だけが特別批判されるのか? (南相馬市は賠償金で分断され、避難区域も金でコミニュティも解体された)


なぜ南相馬市では小高だけが特別批判されるのか?

(南相馬市は賠償金で分断され、避難区域も金でコミニュティも解体された)


南相馬市全体からみると賠償金問題でこれほどもめたのか?
それは小高と原町と鹿島でその額に大きな差があったからである。
小高は避難区域になったからその額が大きい。一年で一千万とかもらっている人もいるだろう。一人十万だけではない、家とと土地ももっていれば賠償対象になる。
一時的に避難区域に帰るだけでも4,5万もらいたいというからいたりつくせりなのである
そしてなぜ小高が他の避難区域より浪江町などより批判されるのか?

それは南相馬市内だけど特別扱いになったからである。
もちろん避難区域になり住めないから特別にそうなったことはわかる。
しかし浪江町や飯館村とは違って住めないというものでもないし
放射線量は鹿島とか原町とかとさほど変わらないし相馬市とも変わらない
むしろ放射線量は福島市などの方が高いのである。
小高区は帰れる状態にあるけど帰らないというのは帰ると賠償金がもらえなくなる。
また働くとその分引かれるから働かないとかなっている。
それもおかしなことである、そうさせられているということもある。

ただ南相馬市の問題は小高、原町、鹿島と合併する前の地域にその特有の問題が生れたのである。

それでも原町と鹿島でどうして賠償金に差があるのかというのも納得いかない人たちはいる。確かに避難区域になって避難した人が多いが鹿島区でも半分は避難したのである。
そのことは同じなのである。でも二年分が賠償の対象になり鹿島区は7カ月分だけである。これも内訳はまた実際に避難した人は高いとか原町区でも地域によって別れている。
だから原町の人がどれだけもちらっているかは実際のところはわからない。
賠償金を聞いてもいくらもらっているか言わないからだ。
自分は二人で140万だったということは嘘ではない、あとはもらえない。


だからおかしなのは最初に市長が鹿島区も避難区域にならない屋内退避地域だから市の財政から一所帯百万を出すことに決めた。そのことについて原町区の人が激しい不満をもった人たちがいた。市の財政から出す必要がないと主張したのである。
これも何か鹿島区の人から見れば納得がかいない、現実に今になると賠償金は東電から政府から原町区の人には一人十万で二年分とか手厚いのである。
この詳細は確かにまちまちでありわからないしにても鹿島区よりは倍以上は手厚い補償金がでている。
だから鹿島区の人からみれば今になるとそんなことを主張していた人たちがいたことが納得がいかない。
その時から南相馬市の一体感はなくなっていたのである。

原町区と鹿島区では別に放射線量でも避難したことでもさほど変わらない被害だった。
それが原町区と鹿島区では差別が生じたのである。

だから南相馬市では鹿島区の人が一番不満をもっている。
その不満が仮設に住んでいる小高区の人に向けられているのだ。
同じ地域に住んでいて賠償金に差がありすぎるからだ。

最初は小高の知っている人が十万で手伝いさんに雇ってくれないかと来た人がいた。
今は小高のが鹿島の人をそれくらいの金で雇っている。
その人は足が悪いとかなっているので頼むようになった。
小高の人はそれだけ金があるということである。
小高の人に雇われるのが鹿島の人だということになる。
ただそのことは悪いことではない、金が鹿島の人にも回っているからだ。
それでも小高の人は働かず働かせられるのは地元でも賠償金がもらえない人たちだとなり不満になる。

そして小高の人たちが特別批判されるのはまず南相馬市だったら同じ南相馬市の市民ではないかと合併後はなっている。それぞれの区域分けができたとしても事情が違っていても同じ南相馬市民ではないかとういことがある。
そこで区域分けして差別することで分断されたのである。

ともかく南相馬市で一体感を保つための方策、政策が必要だったが市長も行政でもできなかったのである。

金というのは必ず欲が生れるからそこでいがみあうことになる。遺産でも兄弟がいがみあいばらばらになる。それと同じことがここでも起きたのである。
相馬市でも避難している飯館村やその他浪江の人たちでも良く思っていない
常に金をもらっているのには相馬市の場合は何にももらっていないから余計にそうなる。ただ小高の人たちが南相馬市内で批判されるのは浪江町とか飯館村のように放射線量が特別高くないのになぜそんなに賠償金がもらえるのかということがあった。
それは警戒区域に指定されたから小高の人がしたのではないから小高の人の責任ではないというのもそうである。

でも実際金がからむとそう見ないのである。

だから南相馬市でも市長でも行政でも何らかの対策を打つ必要があった。
それが全く無策でありそれで分断されたままなってしまったのである。確かに小高はもらいすぎているのだからその分を鹿島に分けるとかが必要であった。
そうはいっても小高には小高の人の言い分があり欲があるからそんなことにはならない。浪江とか飯館村だともう一億円もらっても当然だというのはある程度わかる。
まず浪江とか飯館村は住めるような状態ではないからである。
そしたらこれかからの生活派とをなるのだということで一億円必要だとなる。
実際に飯館村では除染費用に一見5千万をかかるという。
そんな金を使っても山林が全体の70パーセントの飯館村で除染しても無駄だから
一億円配って他で生活させるべきだというのもわかる。

しかし小高の場合は住める条件が整っているのだからそんなに賠償金が必要なのかということになったのである。

いづれにしろ南相馬市はこうして一体感がなくなった。それこれからも尾を引くから困るのである。浪江町ではお前らは金あるんだから仕事しなくてもいいだろうと仕事を与えてくれといっても会社の人は仕事を与えてくれないと言っていたことでもわかる。
これからも小高の人は金をたんまりもらんたから仕事しないで暮らせるだろうとか言われるかもしれない、南相馬市でそういうふうに一体感、助け合うということがなくなったのである。

だからこれからはそういう南相馬市民のしこりをどうするかも問題になる。

こうした問題は現代特有のものとして起きたのかもしれない、広域社会に金の社会になったとき、地域のつながり自体が薄れ金さえあれば別にどこに住んでもいいという感覚になっていたのかもしれない。
そういう人はもともと故郷であれそこに住んでいる場に愛着がない、だからたまたま住んでいても一億円やるから他に住んでくださいというとき、それは好都合と他で暮らした方がいいとなった。姑と一緒に暮らすのが嫌だからかえって離れて暮らせるからとこの際他に移り暮らしたいと言う人もいる。

つまり何かそこに住まないければならない、そこが他にない価値ある場所とはならない、金さえあればこの際移り住んだ方がいいというのは何かそこに愛着あるものがない。
広域社会になったとき、金さえあれば便利なところに移り住みたいとなるのが当然だとなる。

だから現代の人間のつながりはそもそも広域社会になると薄れていて金の方が大事になる。金をもって他に移った方が便利でいいしサービスもいいとなれば移る。
何かそこで暮らさなければならないという価値観がない社会になっている。
「俺はどうしても野馬追いに出たいからここで暮らす」というのも一つのこの辺の価値観になる。そういうものがない人は簡単に故郷でも長く住んでいても愛着なく捨てる。
知っている人は自分は若いとき苦労して土地を買い家を建てたからここを離れたくないというとき、その愛着はまた違っていた。
でも家も土地もない住宅に住むような人はそんな感覚をもたないだろう。
一億円くれるなら他で住んでかまわないともなる

ただ人と人のつながりがあり家族ありとか友達がありとかはある。
だから小高の人は体が悪くなっても息子のところにはゆきたくないという。
過疎地でも子供のところにゆきたくないと仲間と一緒にいたいと限界集落に住んでいるのと同じである。

ただこの辺で変に思うのは若い人でももう金をもらって外に流出することは故郷の人たちでも仲間でも家族すら捨てることになる。
要するにそんな関係でしかなかったのかということもある。
何か困ったら結束して助け合うとかいうことがそもそもなかったからこういう困難な時にかえって簡単に見捨ててしまうことになったのか?

だから子供を苦労して育てても親なんか簡単に捨てるとなると馬鹿らしいとも思うかもしれない。
また故郷にしてもそこで育てられた人も別に故郷に愛着を長く生活したところに愛着をもたないということはそれなりに尽くした人たちを簡単に見捨てるということにならないか何かその辺が変だなと思った。
例えば相馬市の看護学校は地元の人を育てるために優遇している。
それは地元に看護師となって貢献してくれると思いそうしている
医者でも福島県に勤務してくれるなら学生は無料にするのはここで尽くしてもらいたいからそうなる。
それがそうして世話になったのに福島県外の方に簡単に勤めるとしたらそんな人に援助しても何にもならなかったとなってしまうだろう。


いづれにしろこの辺は土地や家族や仲間のつながりや一体感が何であったのか問われる。様々なことが問われる様々なものがテーマとなる場所になったのである。
宗教的哲学的な場所でもある。
なぜ金があれば故郷とか家族でも友達でも簡単に捨て去り他に行ってしまうのか?
何か金以外の価値があった、それは目に見えないものでもあった。
それが何なのかが明確にならないにしてもそういうものは金では計れないにしてもあったその価値あるものが何であったのか問われるから宗教的哲学的に考えさせられる場所になったのである。


だから女川だったか、ボランティアにここで働くならずっとめんどうみる。
でもここで働き骨を埋めるくらいの覚悟で働いてもらわないと困る。
それができるのかと何度も問うていたことでもわかる。
それだけ女川辺りでもう街自体が崩壊してしまっているから真剣になる。
20パーセントとか流出して住めないと判断されるからそうなる。
そういうところで働くのそれだけの覚悟も必要になるし連帯感をもつことにもなる。
まるで城とともに討ち死にするような状態になる。
それだけの一体感、生死をともにするようなつながりが要求される場所になっている。

そんなことに耐えられないと地元の人すら流出しているからそうなる。
そういうこともこの辺では問われているが結局若い人は住まないというとき、
すでにコミニュティは崩壊している。
めればもともとそれだけの人のつながりも故郷に対する愛着もなかったのだとなる。
金さえあればどこでもいい便利な方がいいという価値観が勝った社会だからこういう状態になったとき、簡単に故郷は捨てるし金が唯一の価値となり分断されてまったともなるのだ。

posted by 老鶯 at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月21日

時間の哲学 (時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)


時間の哲学

(時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)

●機械によって節約された時間


D=MX


Dはdistanceで距離である。Mはmachineで機械である。Xは運ぶ量である。

例えば距離が2D=2MXとはならない、なぜならMが変化するからである。電車だったら普通車から急行へ新幹線となり2D=MXとなりうるのはmachineの能力が倍になっているからである。運ぶ量が二倍三倍となってもMが変われば距離に関係ない

Xが三倍になったとしてもmachineの能力が技術が進めば二分の一三分の一となりるから労力を減らせる。要するに機械の能力の進歩によって距離にかかる負担は距離が伸びてもふえることにはならないのである。

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そういうことはすべての労働にあてはまる。機械によって労働の負担が減ってゆく。
すると能率をよくするためにはさらなる機械の開発が必要でありそこにエネルギーが注がれる

それは技術者や頭脳集団が進めるのであり普通の労働者はできない
だからそういう開発をする技術集団が収入が多くなる
本一冊を流通させるには電子本やインターネットより十倍以上のコストがかかった。
活字を組んだり製本したり一冊一冊書店に並べるのすら手間だった。
そういものが全部はぶかれことはそこに働く人たちも失業するとういことである。

ではその人たちがどこで働くのかとなるとその関連業者にゆくにも
簡単にIT業界にゆくわけにいかないから失業してしまうのである。

農業まで機械化されて労働の負担がへった。今は農家に嫁いでも重労働をしていない、
田の縁(へり)を田植えしていたというのは機械でできないところを人手でしていた。
それは中国でも麦刈りは人力でしていた。ところがコンバインになった時、機械は人手でやるより千倍とかの効率でする。その差はあまりにも大きいとなる。
その時出稼ぎで麦刈りしていた人たちは相当な数が職を失うことになった。

でもコンバインでできない複雑な地形のところを人手でしていた。
つまり田の縁を田植えしていたと同じなのである。
いくら機械化しても人間でしかできないことが残る。
でも機械のおこぼれを人の手でしているというのも主役が機械になり脇役が人間になる。人間様が機械に使われ機械の補助役のようになるのも奇妙である。


機械が主役になるというのも人類の歴史である。機械が時間まで変えた。
江戸時代は時計がないから時間感覚も大雑把であり日の出、日の入りとか太陽の運行に合わせていた。時計ができたとき、時計という機械に時間を合わせるようになった。
機械に合わせた時間が生れて現代の文明社会が生れたのである。
機械の時計により世界共通の時間が生れたのである。
時間はそもそも日本でも江戸時代はその土地の暦があったように違っていた。
ましてや国が違えばもう時間も違ってくる。

時間が労働量で決まった時代もあった。

牛で耕作してどれくらい畑をうなったかなどで時間が決まる。
それは牛の時間になる。牛が機械の代わりをしていたときは牛のリズムなのである。
だから牛のように今からするとゆっくりした時間になるのだ。
その時、牛は重みのある欠かせないものとして人間にあった。

トラックは一台運んでいくらという請け負い勘定になる。一台で一回運べばいくらである。その運んだ回数で金がもらえる。運んだ回数が時間であり量も時間になる。
ところがトラックが大きいとかスピードが出るとかなると一回で倍の量が運ぶことできる。そうなると小さいトラックより時間が短縮できる。そこで時間が短くできたとなのだ。それは人間で決めた時間なのである。


●機械に追われる文明の時間


結局現代人が余裕がなくなったというとき、機械に追われる時間になったからである。
時計という機械に追われる時間なのである。一秒一秒刻まれる時間に追われているのだ。牛には牛の時間があったが車には車の時間がある。
車はまず停止することができない、遅くすることもできない、一定の速さで走ることが要求されている。車という機械の時間に合わせねばならない
ところが自転車は遅く走ることができる。これがなんとも不思議なことである。
遅く走ったとき何か心にゆとりが生れたのである。
時間を遅くすると景色すら違ったものとして見えるだろう。
そこに時間の不思議があった。

時間を早くしたり遅くしたりするのは自然ではない、人間なのである。
自然が時間を早くしたり遅くしたりしない
太陽が一時間で沈んだりはしないのである。

矛盾しているのは機械により時間が奪われたということもあるが機械により時間も作り出されていることである。なぜなら家事も機械化すればそれだけ余裕が時間が生れる。
だから一番時間を節約できるのは外食して弁当食べることなのである。
そしたら皿を並べたり洗ったりする時間も必要なくなる
まず家事の最大の手間は食事の用意と料理になるからだ。
さらに金があればお手伝いさんを家政婦を雇えばまるごと時間を得ることになる
だから文明社会は機械によって労働力がはぶかれたから失業するとかまた金によって奴隷的に働かせられるが一方で金があれば時間を得るということもある
時間に関してもそういう両面の働きをしているのである。


ただ皮肉なことはD=MXなのである。距離を2倍にすることは一見機械の発達によって
労働量が減らないように見えるが実際は数学のようにはなっていない
世界から物を運ぶときの負担は実際は大きいのである。

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現代文明の特徴は運ぶ文明でもある。世界中から物と人を運ぶのが文明である。
その負担が確かに減ったのだがそのコストが大きいのである。
ただ運ぶことが麻痺するとき、現代文明は崩壊の危機にたたされる。
原発事故で外から物が入ってこないとき、ガソリンなくて車が動かなくなったとき、
食料すら入らなくなり危機にひんしたのである。


要するに現代は江戸時代などから比べたら千倍の量を物を運ぶ文明なのである。
その運ばれた物を売り買いするようになるから金が力をもつ、自給自足のような社会ではそもそも買うものがない、納豆まで農家で作っていたら買う必要かない、労働でも村の中で協働していたらそんなに金は必要ない、現代は常に外から運ぶ文明なのだから金が必要になり金が力を持つ用地なったのである。
その金を得るにはとをするかというとこれも常に今度は外に向かって外国までも物を運び売る必要が出てくる。そのためにいくら機械化されても労働力は増加して絶えず時間に追われる文明なのである。


時間はそもそも概念でありだからいろんなこと言うが結局時間のことはわからないし定義できない、一方空間はわかりやすい、距離であり距離は計れる。
時間は考えるとき、常にAからB地点へゆくの物を運ぶのにどれくらいかかるとか何かするための時間なのである。何かを移動したり何かを仕上げるのにいくら時間がかるとか
または距離がありその距離をどのくらいの時間で行けるとかなる。
電車だったら何時間、車だったら何時間とか新幹線で何時間とか飛行機で何時間とか
考える。


●時間とは何かをする仕上げる時間である


だから何もしない時間とか時間を遅くするという志向から時間を考えることはない
時間を遅くすることなどできない、地球の時間を遅くしてやろうとしてもできない
実際は早くすることもできない、時間自体がそんなふうに距離ではないから空間でないからできない、だから時間はもともと計れないのである。
時間は実際は具体的あるものではない、空間でもない、時間はそもそも人間が作り出したものである。空間はもともと神が作り出したものである。
空間は共通認識されやすいが時間はそれぞれの時間であり共通ではないのだ。
時計は共通にしたようでも時間はそれぞれの時間であり共通していないのである。

だから一時間の内に何々をしなさいしあげなさいというとき、その時間とは時計が刻む時間である。でも機械によって仕事を早くできたりもできるし長い距離でも機械で早く到達できる。すると一時間でできる到達できることが30分でもできたとしたら時間が30分ちちぷたことになるのた。
だから時間を伸ばしたり縮めたりすることがそもそもできるのかとなる。
時間というのはそもそもないしただ人間で決めた一つの概念だということでもわかる。


だから何もしない時間とか時間を遅くするということ何なのかとなる。
何かをして何かを達成するのが時間の概念としてある。
でも何もしない、達成しない時間とは何になるのかとなる。
それは何かを仕上げる達成する距離をゆくという時間ではない
何もしない時間などももともとない、常に何かを仕上げる達成する距離をゆくのが時間としたとき人間がそう決めたとき、何もしない時間が生れたのである。
何かする時間があって何もしない時間が生れたのでありそもそも何もしない時間そものもがないのである。時間とは常に何かするための時間であり何もしないための時間はただ何かをするために何もしない時間が生れたのである。

石が何もしないというとき、それは何もしない時間ではない、ただ石が在るということである。だから千歳の岩とかいう表現は本当はないのだろう。

I am waitaing for.....という時、誰かを待っている時間である。目的があって待っている。恋人を待っているかもしれないし、仕事するために人を待っているかもしれない。電車にfor Tokyoとある時、何々行きであり目的地につくための電車でありただ漠然として待っているのではない、明確にその時間は目的化して時間がある。
でも岩にはそんな時間はない、誰かを待っているとか何かを待っているとかいう時間はない、そういうふうに思う時は人間が思っているのである。

岩自体には時間はない、ただ在るだけなのである。

時間は関係なく岩が在るということなのだ。つまり在るということは時間に左右されないのである。
石が何もしていないというとき、人間は絶えず何かをしているから何もしないという時間が石に例えられているだけであり石が長い時間をもっているということでもない、ただ一カ所に石が変わらず存在しているというだけである。
要するに人間は絶えず変化するから無常の世である、石は変化しないいつもそこに在るということで時間の変化からまねがれているのである。
石は変化しないから無常からまねがれている。


老子が何も成さずして成る・・というとき、それは自然界は物質は生まれ時、人間が成してなくても何もしなくても在ったのであり成っていたのである。自然界とか物資界は人間が何かを成したからと言って何かなるわけではないという意味である。
すでに成ったものとして在るのでありそれを手を加える成す必要ないという意味である。

木が成長したり果物が実ったり稲が米になったり野菜が成長する花が咲くには時間がかるというとき、それは時間があるからではない、時間によってそうなるのではない
木が成長するのは成長する力が大地から環境から与えられているからである。
果物が実るのもそうである。時間のせいで実ったりするのではない。
時間があってももし大地とか土の栄養分がなければ実ったりしないだろう。
成長してゆるのは時間があるからではない、実るための環境があるからなのだ。

時間というのはそもそも人間が作り出した概念であり時間は自然界にはないのである。
いくらじかんがあっても成長する環境がなければ成長しないのである。

つまり時間だけがある世界はない、何か作用する世界があって時間がある。
木が成長して野菜や果物が実り稲が実りとなるからそこに時間が生れているのだ。
時間とは常に単独では存在せず何かに付随して時間が生れているのである。
もし人間だっていつまでも体力があり若いようになっていれば時間など感じない
時間などなくなるということもない。

だから天国では時間はない、それはいつまでも若いからだとういう。
病気にも老化にもならない体になっているから時間もなくなっているのだ。
時間によって消耗することもないのである。


●時間がたてばすべて忘れる時間が解決するとはならない


人間は確かに百年前とか四〇〇年前とか千年前とかの時間で計るけどそれも人間が作った時間であり変化したから時間がある。
なぜなら太古の自然の状態のままにあったら何ら千年たっても時間の変化を感じられないのである。それでも時間というのは人間が作り出したものでありもともと自然界には時間はないのである。
だから時間がなくなるということは自然界にはいな、ただあるところ在る物が移動したり砕けたりすることはある。ただ時間はそもそもないのだから時間がなくなるということはないのである。年とったとき時間がないというとき、何かをするための時間がないということである。若い人なら一万回できることが百回しかできない、仕事量のことなのである。時間があるないではなく何々ができるできないことが若者と老人の差なのである。
若者には一万回やれる体力と知力があるが老人には百回しかやる力しかないのである。


四〇〇年前の慶長津浪のことを最近盛んに言われているけどそれがどういものかよくわからない、それは四〇〇年の時間が過ぎたからではない、その津浪がどういうふうに作用したかわからないということである。だから時間がたっても当時のことが詳しく記録されていたり何か証拠があれば今でも生々しくイメージできるのだ。
それは時間と関係ないということもできる。作用した現象が大事であり時間がたっても
そうした作用した事実が痕跡として残り記録されていれば時間によって忘れたり消耗されこともないのである。
だから時間が経っても千年たっても二千年たっても歴史の重要な事件が忘れらず昨日のことのように語られるのはその作用したものが時間で消耗しないからである。
だから時間より人間はその作用したことをどうみるかなのである。

相馬藩では一行七〇〇人溺死としか記されないないから慶長津浪のことは探りようがない。それは四〇〇年という時間が過ぎたからではない、その津浪に関してどう見たかということである。それが語られなかったのはどうしてだったのかその時社会状況が問題になる。

要するに人間の問題でもすべてを時間のせいにすることはできない、もう時間が過ぎたら嫌なことは忘れればよいとなれば人間は忘れる、そういうことは津浪の被害で起きている。いつまでもそういう悲しいことにはこだわりたくないという心情が働く、だからついにそういう事実が自然の作用があったということまで忘れる。
それは時間の問題ではなく人間側の態度であり時間がたったからではない
みんな時間のせいにしたら何があっても嫌なことだったら忘れろとかなり時間が解決してくれるとなってしまうからだ。

もちろん時間の浄化作用があり嫌なことも恨んだこと忘れるのはいいとなる。
そういうことをいつまでも根にもっていたら生きるのも苦しいだけだとなる。

すべてを覚えている必要はない、でも時間のせいにしてみんな忘れていいのかとなるとそうはならない。だから時効制度はただ時間を制限しないと処理できないので事務的に決めただけである。それで殺人が時効になるわけではない、それは来世にすらその罪はもってゆくものだとすると消えないともなる。時間で忘れられるならすべてが時間で消失するならそんな罪のことなど深刻に考える必要もないだろう。
時間がたてば消えるんだから時間しだいだとなる。時間がたったらすべては許されるともなる。時間に効用があっても時間にそんな万能性があるのかとなる。


レイテの水を飲んで忘れ生れ変わるというのもわかる。それは時間で忘れるのではない、忘れる水を飲むからである。何かによって作用したことは時間では消えない、それは忘れる水を飲む、薬を飲むことであり時間がたつからすべてを忘れるということではないのだともかく時間のことはいくら語っても語り尽くせない、それは時間は物ではなく人間が作り出した概念だからいくらでもどんなことでも言えるからそうなっているのだ。



参考になるもの

ブラックホールでは時間は止まっていると言われます。
つまり、変化がなければ時間は生まれないのです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEB_wKVTDCoAHBVoAPR7?page=2&qid=1189635431

時間そのものが多様に解釈される。
ブラックホールには時間がないというとき、時間がない世界あっても不思議ではない
何も変化しないいつまでたっても暗闇しかなければ時間もないとなる
そこにもし光が生れれば時間が生れる、物が現れれば時間が生れる
暗闇一色の世界に変化が生れたからである。

ここはの説明はわかりやすい、物理学と数式になるとわかりにくい
ただ文系でも理系的思考を取り入れることは可能である
そうすると物事を多面的に見れることも確かである
ただそれは自分にはむずかしい、科学的な知識の差が大きすぎるからである。

2014年06月20日

月見草(人よ、ゆっくりすすめーでんでん虫の詩)


月見草(人よ、ゆっくりすすめーでんでん虫の詩)

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開け放つ窓よりひびく夏雲雀

夏の日や遠くより人来る夕燕


紫と白の菖蒲の咲き前畑にカボチャを作る農家ありしも

自転車のスローに走り草深く月見草咲き夕べ帰る道

千歳なる磐によりにつ乱れざるひとりしずかのここに咲くかな

原町は鹿島と違い活気が違う。かえって車が増えたような気がす。小高方面からの車が多い。そして仮設のプレバブがまた何カ所か作られ増えた。まず一〇〇〇人くらい泊まれるのを見ている。外部から働きに来ている人はどのくらいいるのか?
五〇〇〇人くらいいるのだろうか?
確かに最盛期より半分以下になったとしても以前として仮設のプレハブは増えている。
これだけ外部から来ているとレストランなどは外食する人が多いから繁盛しているように思える。
すき屋で鰻丼を食べた。時給一二〇〇円とかあった。郵便配達の募集のビラも配られたりとこの辺は人手不足が深刻なのである。
て も賠償金をもらったりしている避難民などは働かないだろう。
そもそも時給などでは働きたくないのはわかる。
ただこの辺は働くにしても今までとは事情が違うから他とは一緒にできない事情がある。
そもそも自分は働けというのは矛盾していることはある。

でも介護になったり自分が病気したりして自分自身が心に余裕がなくなっていた。
絶えず何かに追われる生活だった。
料理すること家事でも手間なのである。
一番楽なのは弁当と外食することである。
今日は自分は外食で母は弁当だった。すると何もすることがないから時間ができて余裕が生れる。
自転車で外を出歩いて帰ってから食事の用意をすると何か落ち着かなくなる。
時間的にゆとりがなくなるのだ。


自転車でゆっくり走ってくるのも気持良かった。
人間は今か絶えずなにかにせかされている。現代はどんなことしたって余裕がもてない社会である。車がひっきりなしに走っている状態がどなんことしても余裕がもてない環境なのである。そのスピードとリズムが人間的でないのだ。
もし車で時速30キロくらいにすると事故など起きないかもしれない
それだけ心にみんな余裕がもてるからである。
ただそれにはせかされないことが条件なのである。


ともかくここ6年以上心に余裕がもてなかった。のんびりした気持になれなかった。
今日はゆっくりといつもの道を夕べ帰ってきたが心に余裕が生れていた。
自転車は早く走るのも爽快だがゆっくり走るのも気持がいい
車だとゆっくり走ることすらできない、常に早く走っていなければならない
とまったりすることもできない、その状態がまさに現代人の心なのである。

旅でも早く早くせかされる旅は旅ではない、風の吹くままとかゆっくり行ければ旅なのである。
結局早いから急ぐから欲が出るから事故も起きる争いにもなる。
何事ゆっくりすすめることが現代ではできない。
一刻一秒を争っているんだ、ぼんやえしているんじゃねえ邪魔だとなる
自分はそういうリズムに学校時代からずっとなじめなかった。
ただ大学は遊びの場だったからそういうことを感じなかった。
だから会社勤めなどできない自分だったがそのまま老人になっていた。


人間は自然のリズムからすると全く今やはずれている。すべてがめまぐるしく早すぎるのだ。
常に例にすれけど山であり樹であり石であれ動物であれ牛であれそのリズムは悠長である。とにかく人間だけが忙しすぎるのだ。蟻のようにはいずりまわって休むことがないのである。ただこの辺の事情は違うにしろそういう忙しいせかされる社会になじめなかった。たから今日はゆっくり走って心の余裕が生れたので気持良かったのである。


人よ、ゆっくりすすめ


のろのろと歩む
でんでん虫の急がざる
今日一日でこの道を渡ればいい
時間は決められていない
途中で休むものもいい
疲れたら休む
さてまた行くか
まだまだ道は遠い
夏の日は夕べなお明るい
急がば回れ
田舎の陽はゆっくり落ちてゆく
月見草は草むら深く咲き
また雨がしとしとふってきた
人よ、ゆっくりとすすめ
事を成すも目的地につくも
かえってゆっくりなるがよい
せいては事をしそんじる
早く行こうとすれば到達しない
ゆっくり行けばかえって到達する
その歩む行程に意味があり
道の辺に咲く花々を見るもよし
一歩一歩踏みしめ歩むがよい
汝は動かざる千歳の磐を思へ
その不動の心に習へ
岩のごとくに心乱れざるべし
その磐により可憐な花の咲く
その花の神に見守られてありしかも

2014年06月19日

金より時間が貴重だった (その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)


金より時間が貴重だった

(その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)

●金ではすべては充たされない


現代はほとんどの事件が金にまつわるものである。毎日が金、金,金である。
人間は空気を呼吸しいるように金を呼吸して生きている感じになる。
金があればすべてが充たされるという感覚になる。
こうして不遇なのはすべて金がないから金さえあれば充たされる願いがかなえられる
そう思っている人が大半である。
何かできないのは貧乏だったからであり金持ちの家に生れていればこんなことはなかった金持ちの家に生れれば勉強もできたとか常に言われる。

しかし金があっても勉強などできないし頭が良くなるわけでもない、
ある人は金持ちで二人も家庭教師をつけていても一向に頭か良くならないと言っていた。要するにその人の生まれつきもあるしいくら教えようとしても学ぼうとする意欲がないと勉強はできないだろう。

自分なんかもまず勉強は嫌いだったし興味を覚えなかった。
それは性格的な甘えもあるのと能力がないというより他の何か欠けていたのである。
能力というとき人間は頭脳だけではない体力と性格とか総合的なものが影響してくるのだ体力が充実していれば頭脳だって働くのである。

だから天才的な人は柔道何段で東大で医学部出たとかの人がいる
そういう人は生まれつきに優れているのだと思った。
ただこの人はこれだけ生れつきが恵まれていても45歳くらいで病気で死んだというのも不思議である。
こんなに恵まれても最後は病気に呻吟して死んだのである。
つくづく人間の運命はわからないと感じる

自分の姉も体力的にも性格的にも強く優れていた。
だから自分で優秀だと最後まで言っていたが実際認知症になり痴呆になり死んだから
これも信じられない最後だった。
認知症になることはどんな優秀な人でもなり最後は痴呆になるのだから信じられないことなのだ。
だから人間は最後までみていないとわからないものだとつくづく思った。


人生は、長い長い台本の演劇です。
どんな悪役も、あなたのドラマに必要な配役であり、
とくに家族は、重要な役回りです。


http://yuriel88.exblog.jp/19395620/

これなんかうまい表現である。人間は死ぬまで最後までわからない長い長いドラマなのである。最後にどんでんがえしもある。だから死ぬまで人間のことはわからないとなる。

金持ちになりたいと金がほしい、金さえあればこの世の中どうにでもなる、能力も金しだいだとなる。
能力も生まれつきもあるがやはり能力とは天才でない限り積み重ねであり努力がものを言うのである。
何度も言っているが自分は俳句とか短歌を若い時作っていたけどただ五七五とか子供のように言葉を並べたくらいにすぎなかった。
だから今になると啄木のような感性をあんなに若くしてもちえたのか不思議である。
啄木は相当にいいかげんな遊び人的なところがありそれでも自然への感性を若くしてもっていたことの不思議である。
だから自分にはその辺がどうしても理解できないのである。
天才は普通の人には理解できないものをもっているのだ。


でも人間の使う時間はみんな同じであり限られているのだ。金持ちは確かに金をもっている。ほしいものは買うことができるかもしれない、でも特別時間を長くもつことはできない。時間はみんな限られていて特別長くもちえる人はない。
百年生きても百年で時間は尽きるのである。天才だって時間を長くもてずに早世した人も多い、天才も凡才と時間は同じくしか与え散られていないからなんでもできるとはならないのである。その間にやれることは限られているのである。

●能力より何に時間を費やしたかで人生は決まる


自分が旅できたのは金があったからではない、自由な時間を与えられたからである。
旅するにしても宿泊費はかかったが最低限しか使っていない、だから安宿を探すのに苦労した。それは外国旅行までつづいていたのである。
だから旅行先でうまいものなど食べたことがない、腹を充たせばいいというだけである。泊まった宿では食事しないで安い外食ですましていた。

だから貧乏旅行だったけど時間が与えられたから長い旅ができたのである。
単に観光旅行するならいいが旅人となると一カ月くらいきままに旅する人である

だから現代では観光旅行の保養の旅行になるから食べ物にこだわる。二三日だったら旅にならないからだ。
旅人になるには金よりそうした時間が与えられないとできない
それで鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。
退職して自由な時間を持てたから憧れの自由な旅に出たのである。
ところが意外と退職して自由になったから何でもできるように思えるができない
気力も体力も病気になったりまたは介護になったりと時間が奪われる
現実に自分は家族の介護になってから自分ひとりで全部家事をまかせられて一日たりともそれより一日も自由にでかけられなくなったのである。
つまり完全に自由を奪われたから近くすら自由に行く時間を奪われたのである。
だからつくづくどこにでも自由に行けた時がめぐまれていたなと思った。
それは金に恵まれていたということではない、時間に恵まれていたということである。

他の人は会社勤めになれば自由な時間は会社にささげるからすでに奪われているのだ。
家族をもってもそうである。ただそれはそれなりの時間を費やすからそこに価値を認めて費やしているとなる。
だからすべての人が旅に時間を費やすのがいいとはならない。

ともかく何かするにしても何か学ぶにしてもすぐに時間がすぎてしまうのである。
楽器一つをものにしようとしてもそれも時間がかかるからたちまちすぎてもうできなくなる。いろんなことをものにする時間など人間にはない
どんな才能のない人でも江戸時代になぜ親の職業をつくことができたのか
すべての人が継げないにしても親のやることを身近に見ていて時間を費やせばむき不向きがあっても時間をかけるから会得するものがあったとなる


つまり


成果=xtである。ある人は成果=atとなる。ある人は成果=bt・・・となる。
t=timeである。abcd・・・は様々な分野に時間を費やすということなのである。


●時間についての格言

[三年飛ばず鳴かず]

会社でも事業でも何でも一からはじめるのはむずかしい
会社を事業をはじめた、すぐに成功だなんていかない
いろいろなことを学び試行錯誤して成長してゆくから
そこにも時間がかかる、何かを会得するにはともかく時間がかかる


三年くらいは事業起こしても何ら利益もないし何ら得る所がないかもしれない
ところが自分もそうだったが急いで成功しようとしている
事業をはじめたら成功すると思っているからうまくいかないのだ
現代にはそうした時間の余裕をもてないのである。


若者と老人の最大の違いは何か?
若者はこれから何かをするできる時間と体力や気力などがある
老人は金があっても何かをする時間や体力や気力がなくなることである。
でも若い時このように時間の貴重さを意識してい人はまれである。
時間などいくらでもある、暇でしょうがないんだよ、どうしたら暇つぶせるんだ
そういうふうに思っている若者が多い、自分も若い時そうだった
会社勤めもしないと暇で暇でしょうがなかった。
そこからどうしても小人は不善を成すになるのである。
ところが老人になるといかに時間が貴重だったかを知る
何かをすべき何かを学ぶべき時間がなくなってしまうのである。


[少年老い易く学成り難し]


これも全くそうだった、勉強などいくらでもできると思った。本などいくらでも読めると思った。そのうち時間が過ぎて読んだ本もわずかであり語学もものにならなかった
つまり勉強する範囲が実は膨大なものでありとても一人が学ぶ範囲は本のわずかなのである。古典にしたって無数にありそれだってわずかしか読んでいないのである。


時間だけは神様が平等に与えて下さった。

これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

- 本田宗一郎 -

何かをやって
時間を損するということは絶対にない。
貧乏旅をすれば、
大学を二つ出たようなものだ。
- 永倉万治 -

人間何をしようと時間がすぎる。その費やした時間が人生である。
貧乏旅行でも旅には変わりがない、そこで見聞したものが後の糧になる。
本を読むより実地に旅した方が何かを学べるということで共感する

何かをやって時間を損するということは絶対にない。

これもそうなんだよ、何かを必ず人はする、その費やした時間が人生である。
たとえ雑学でも一分野に時間をかければ独自の学が成ることはある

今になるとつくづく旅でもできないから余計にそう思うようになったのである。
いづれにしろ時間を費やしている時は意外とその意味がわからない
老人になるとこういうことに時間を費やしてこういうことを自分が学んだのだとわかる
例えばカルト宗教団体に入ったことは間違っていてもそれも経験なのである。
そんなこと長くやっていれば別だが人生の一過程として時間を費やしたのが無駄だとは言えない
若い時のやったことアルバイトだろうが馬鹿げたことに見えても無駄にはならない
それは人生の一つの経験だということである。
そして人間は経験できることが極めて限られているからそうなる
出会う人も実際は極めて限られている
馬鹿でも最後にはこれが人生だったのかとわかるしわからさられるのである。


だから労働する時間は貴重である。その労働時間が意義あるものとならないと人生自体無駄だったともなる。俺たちはただ奴隷なんだよなとか金のために働かせられているんだよなとなるとまさにそこに働く意義を見いだしていないのに貴重な時間を費やしていることになる。
時給いくらとか時間を切り売りするような働き方は何か人間を時間的にも部品化しているのである。
それで時給を高くしても今度は人が来ない、労働環境が大事だとなるのは当然である。
そこで働く仲間とか何かの目的に向かって働くとかが大事になる。
ただ時給いくらで使い捨てのようにされるのでは馬鹿らしいとなるのだ。

人生は何が有意義かは個々人でも違っているのだ。

自分が病気で介護で苦しんでいる時、全く助けることもなくパチンコ屋で働きエステが忙しいからと一時間だけいて金をくれとだけ言って東京に去った遠い親戚とか何かおかしいのである。そういう人は強制されてそうなってもいるのだがどっちが今大事なのか?
そういう人は要するに何か苦しい時はその働いている所で人に助けてもらえとならないだろうか?
働くこととはそれだけ貴重な時間を費やすことなのである。
「バチンコ屋がエステでこっちは忙しいんだよ、休むこともできないよ、お前のことなど知らないよ」と吐き捨てるようにして金だけくれと去って行った。
こっちは病気で介護で困っていても何の配慮もないのである。
その人にとってどんなことがあってもパチンコ屋やエステが大事なのであり休むことはできない、自分が死ぬようになってもそうである。
だからそういう人はそれだけしてそこで働くのだからそこが一番大事な場所なのだから何かあったら助けてもらうのもその会社とかになる。
つまり働くことはそれだけ人生の貴重な時間を費やすことなのである。
だからソローは森の生活をした時、そこに人生の貴重な時間を費やすべきものとしてそこで過ごした。労働はみないいものではなく金持ちに働かせられているとか拒否したことでもわかる。

2014年06月18日

抽象画ー花の内部(inside flowers)

 

抽象画ー花の内部(inside flowers)

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これもインターネットから加工して変化させたものである。
インターネットの抽象画は特にパソコンのソフトで作ったものは
加工しやすいのである。
それは今までの絵画とは違うパソコン特養の色や光を出すからである。

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花から蝶へ変化するのが良くある
花と蝶は具象でも結びついている

立葵(南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)


立葵

(南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)

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鹿島区も旧街道通りと駅前通り新しい区画整理された道がある
そこで店が散在しているから利用しにくい
美的景観とすると真野川沿いの通りが並木があり花も植えられているので
自分としてはいい感じだなと思って通っている

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墓地の前に復興住宅の団地ができたが
墓地の前にあういう都市化した団地がでることは予想もできなかった
それでも絵のようにマンションのように外装を良くすると
何か落ち着いたものになる
でも墓地の前にはにつかわしくなかった。
でも土地がないのだからどうにもならなかった

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岩沼の二木の松は歴史も活かされた通りである
車が多くても人の歩く道が整備されていた



街の角曲がりて赤き立葵

街を行き色変わり咲く立葵

人住まぬ家の庭にしツツジ咲き赤きも誰も見ずに虚しき


立葵が街の角を曲がったら咲いていた。今頃が立葵の季節なのか?この花は街の中に咲いてもあっているなと思った。街の中だはあわない花があるだろう。
菖蒲はあわないと思ったが真野川沿いの新しい通りの並木道に咲いていた。
あそこは道の両側が歩くようにできていて並木道になっているから他とは違っている。
鹿島区はもともと浜街道だったところと駅前通りと区画整理でできた
新しい通りがある。福祉関係の建物が集まっているのは新しい所である。
あそこで福祉の湯は便利なので利用している。
温水器などが壊れたし地震で壊れたのを修繕していない、直すことが金もかかるしめんどうになっ。家は古くなるとリホームしたりするのでその金が大きいのである。

家族が住む家にしてもその住む人も変わってくる。
子供が育ったり家族が死んだりして変化すると家も変わる
その変化で無用になってゆくものがかなりある。
空家が全国で700軒もでてその利用に困っているというのはそのためである。
近くの空家の庭を見たらツツジが赤く咲いている、でも見る人がいないとしたら何か虚しいとなる。
要するに利用されないものを放置していることは市全体でも良くないのである。
何事使われていることによって生きてくる。
空家のままだ死んでしまうし邪魔になってしまうのである。


震災から三年すぎて思うことは仮設の時代は終わったということである。
すでに長すぎたとも言える。ぶらぶらただ遊んでばかりいる三年間は長い。
これから警戒区域解除になるまで二年は長いのである。
だからなんか仮設の店や食堂などあるがそれも合わなくなっている。
街というのは変化を好むのだろうか?田畑がある環境が変化を好まない
でもその田畑すら津浪で原発事故で耕作されず原野化している。
津浪の被害地には家は建てられないだろう。
ではそのままにしていいのかとなる

何かもう悲しいというだけではない利用方法を模索すく時期に来ている。

これだけ変化したということは新しいものを一から計画しやすい
そもそも市街地を魅力なくなったのは商店街がさびれたからである。
商店街は買い物が不便なのである。品物がないというだけではない
小さな街でも店もばらばらになっていて買い物しにくいのである。
街には街の魅力作りが本当できないことはない

そのために新しく街をデザインして新しい街を作るほかないだろう。
そのために区画整理して新しい通りが生れた。
真野川沿いの通りは並木があり花なども植えてあった。
あそこを歩けば通りであり魅力がある
スーパーは便利でもそうした自然を取り入れた通りは作れないのである。
ただ旧街道の道と駅前通りと新しい道とばらばらになって店が散在しているから
街自体が活きてこないのである。
街は鉄道全盛時代は駅前がにぎわうしと必ず変わる

だからそれは今にはじまることではない、どこでも古町という地名があり
それも近くにありいかにすぐに町が古くなってしまうかわかる。
それは時代が変わりそれに応じてにぎわう場所が変わってくるからだ。

いづれにしろ3・11の震災以後は変わらないと言っても変わることが要求されている。
街自体のグランドデザインを作り直すことが要求されている。

そんなこと個々人には関係ないというが市役所などでは考えざるをえないだろう。
そして市が衰退してゆきことは個々人にも影響するのだ。
確かに不利な条件が重なっているから困難を究める
そんなことを考える必要もない、自分たちには関係ないということもある。
ただ何かを構想することはイメージすることは一銭もかからないということはある
こういう街になってほしいという願望はもつことができる
そのイメージが実際に現実化するということもある


浜通りは変化に富んだ地形だった。海があり川があり山がある。
だから海ゾーンと平地のゾーン、街のゾーン、山のゾーンに分かて市作りを考える
海のゾーンは津浪の被害地だから何もなくなったのだから
新しいものを一から作り安い
街はできているから頭で構想するようにはいかないからいつまでたっても変わらない

でも鹿島でもばらばらに店があること原町ではシャーター通りの店が駅前通りに多いのは外から来たら相当にイメージが悪くなる
なんかゴーストタウンのように見えるだろう。

そして小高はここはそもそも街を再生できるのかどうか
まず今までとは違う全く違った発想の街作りが要求されている
それより小高では街が存続できのかという厳しい状態になっている
でも塚原に公会堂ができて集まる場所ができたとか復興しつつあるのだろうか?

いつまでも宙ぶらりんではいられない
仮設に長くいることで補償金暮らしがいいとか板についている人たちもいる
金を見せびらかしている人もいるというから反感をかっている
補償金で遊んであとは生活保護がいいとか言うのも虫が良すぎるだろう。
小高は本当に小高に住むのか?嫌なら原町や鹿島でも住むのか
そういう選択が迫られてくる、別に小高に住まなくても原町鹿島に住むなら住むように備える必要があるだろう

それでも今までのように仮設的な暮らしや考え方では受け入れられない。
かといって高齢化社会では新しいものを考え作ることは不向きだというのも問題なのである。

本当は市に住む人がそれぞれの立場で知恵をしぼることなのである。
いろんな人たちいてその人たちもいろいろな経験を積んでいて何かしらできるということはある。
それが活かされていないということがある。
だから総合デザイナーのようなリーダーが必要になることもある。
それは市長がやるのだがそれも頼りないと評判が南相馬市でも相馬市でもそうであった
だからよそから市長に立候補してもらうということも市民が考えたのである。

そもそもこれだけの被害があり変わるとどうしていいのかなかなかリーダーシップをもって市を変えることは至難になる。
ただ観光面などからみると食べ物は放射能汚染だが景観とか自然の美には変化がなかった自然が汚染されて緑が赤茶けたとか花がしぼんだとか水が汚くなったとかなったら
もう住むことはできなくなっていた。放射能汚染にはそういうのが見えないのでわからない不思議があった。
だから観光面では必ずしもマイナスばかりではない、観光なんかまた先の先だというのは言える、でも常磐高速道の開通に期待している人はいる。


いづれにしろこんな災害にあったら宮城県でも福島県でも市民力というのが試される
小高や浪江とかでも町民としてそもそも維持できるのかということがある
現実に住むのをあきらめて若い人は帰らないとなり分散して町の消滅の危機にある。
ただ小高でも住むのをあきらめるなら原町鹿島でもそこにコンパクトシティ化して住むというのも考えられる。
ただすでに小高に帰ることはインフラも整備しているから帰る人は帰る
でもそこで新しく町作りすることは高齢者だけになると苦しくなるだろう。

いづれにしろ市民の知恵とか力の結集とかが要求されている。
そして小高と原町と鹿島ではそもそも前から別々の町であり街作りが望まれていたのである。
それが津浪原発事故で混乱状態になってしまったのである。

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

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慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

posted by 老鶯 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月17日

相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発で火を放つ (津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)


相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つ

(津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)

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野馬土手で囲む前はもっと広い原があって馬が放牧されていた。
原町は原という地名が多く広大な原があった


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桜井古墳の前まで津波がきていた


●牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。


村上城から牛越城へさらにまた小高城へとなぜ転々と城を移転せねばならなかったのか?
村上城で火事があり不吉だとしてとりやめたのは岡田氏や館がありこれも泉氏と同じ理由で火をつけられた。各地にまだ相馬氏に反抗する勢力があり統一されていなかった。
この動乱の時に慶長津浪が起きた。
慶長津浪のことはただ700人溺死としか記されていないが海老村の大工の善次も輪蔵館から人夫として中村城の天守造営に出されていた。
そのことが泉氏と同様不満があり善次はとめられたが無理して行こうとして怪異があり
不慮の死を遂げた。
それは明らかに牛越城築城に泉氏が反対したと同じ理由があった。
牛越城の時はまだ慶長津浪は来ていない、しかし海老村の伝説は明らかに中村城の天守造営と記してあるのだから慶長津浪がありその後のことにしても何らか慶長津浪の記憶がある時だったのである。

慶長津浪の後の数十年、30年から40年くらいは原野のままに放置されていた。
そこは湿地帯にもなっていたから人は入りこみにくい状態だった。

ただ萱浜に「巣掛場」とか地名があるから狩りの場になっていた。

その後大規模な野馬土手が作られた。これは今の原町の市街をつつみこむように作られ周りに木戸がいくつも作られた。それが大木戸として地名化している。
これほど大規模な馬の放牧地を作り馬を重んじたのは戦国時代の延長として相馬藩が伊達に対抗するための軍事訓練の場として作った。
これは軍馬であり戦争するための馬なのである。
戦国時代は馬が最大の武器となるのだから馬の飼育には力を入れた。
鎌倉武士が平家に勝ったのは騎馬軍団をもったからである。
だから鎌倉時代とかその後南北朝時代、戦国時代は馬の時代だったのである。
放牧地が広大な牧が各地にあったのだ。
だから江戸時代は何か田んぼが広がる景色のように見えるがその前は牧が広がっていたのある。

だから相馬藩の野馬土手は実際に広大なものだった。
そこで気になったのが桜井古墳から上渋佐まで野馬土手が広がっているのだが
上渋佐で微妙な線を描いてとまっている。
あそこまで津浪が来ていたのである。
津浪が来た線でとまっているのはそこは原野になり湿地帯になっていた。

慶長津浪の後にまだまだ開拓されていないから田畑は少なかった。
ただ萱浜の巣掛場木戸というのがあったとするとずいぶん海岸近くまで広がったいたとなる。
巣掛場辺りは今回の津浪をもろに受けた被害の大きい所だった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。

これをよく読むと野馬土手を作ったのは馬を囲いこむためでありそれまではもっと広い原野がありそこを馬が駆けていた。野馬土手がないから馬が田畑まで入りこんだのである。それだけ広い馬がいる原があった。モンゴルの草原ではないにしろそれは日本にしては広大な広さである。
田畑より牧の方が中世には広いということがあった。
その牧に放した馬を家に連れて帰る絵を見たがその家に帰る道も長く農家が一軒ある。


●人馬三千余名死すー人馬一体となり死す


今回の津浪では野馬追いに出る家も津浪の被害があり野馬追いのことが語られた。
海老村では妻をなくした人が弔いの野馬追いに出るのが放送された。
浪江からも野馬追いに出て復興の野馬追いになった。相馬藩の祭りとして相馬藩が一体になるものとして復興の野馬追いになったのである。


相馬藩御経済略記:同年10月海辺津波御領分ノ者700人溺死

相馬藩政紀第一(御年譜利胤):10月28日、海辺生波にて相馬領の者700人溺死

相馬市「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

青森県沿岸「南部・津軽の海辺の人屋溺失して人馬三千余死す」(『駿府記』)
宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」(『宮古由来記』)

仙台藩の歴史が記されている「伊達氏治家記録」にも仙台藩の領内で津波で1783人が死亡し、牛馬85頭が死んだという記録が残っている。

相馬藩の記録では牛馬の死は記されていない、伊達藩では85頭まで記されている。
青森県沿岸で人馬三千余死すとある。野馬追いの地で馬のことが記されていない。
牛馬の数をそこまで詳細に記したことはやはり牛馬を重んじていたのだろう。
牛馬も死んだと記しているだけでも津浪には相馬藩より関心があり記した。

宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」

宮古市では騒動まで起きたというから生々しいものとして残っている。
騒動が起きても不思議がないほどの大被害だった。
何か物騒な状態になっていることが記録されたということは
食うや食わずで家も失った人たちが津浪の後に彷徨っていたはもなる

相馬藩では700人溺死だけでその他何かてがかりになるものが残されないないのが
慶長津浪のことを解きあかそうにもできないのである。
ビスカイノの報告が唯一の資料ともなる。これにしても城が破損したということは記されている。その他のことは不明である。


海辺津波御領分ノ者700人溺死


ここに津浪と記してあるのはなぜだろうか?相馬藩で津浪ということを知っていたのか?
これは当時記したものではなく後から津浪が一般的になり記したものなのか
生波と記したのはこれはその時津浪ということを知らないから記した。
だからこれはその当時に記しことになる。

いづれにしろ津浪に関しては相馬藩では何ら資料がない、だからいくら探るにも限界がある。相馬藩ではその歴史はいろいろい記されている。
でも津浪に関しては何一つ記されていない、700人溺死しか記されていない
ただこの数は伊達藩の死者と比べてみると死者数の数は今回の津浪より数が多い感じがする。それほどの被害だったのである。
在地の豪族が相馬氏の政治に不満をもつことは語られている。
実際に事件もありそのことを記されている。
ただ慶長16年に起きた津浪に関しては記されていない。

伊達藩でも詳しく記したのはたまたま伊達藩内に来ていた人たちだった。
それで津浪のことが全国に伝えられこの時から津浪という言葉が一般化した。
外から来たものは津浪を伝えるのにはばかるものがなかったが伊達藩でも伊達政宗が一言も津浪について言及していないように津浪の被害を隠していた。

誤解しやすいのは貞観津浪と慶長津浪が混同していることである。
貞観津浪の伝説が慶長津浪の伝説だとしている。
岩沼の千貫松の伝説も貞観津浪のことだろうというのもそのためである。
相馬藩の新地の地蔵森でも諏訪神社でもとても津浪の来るような所にはなく
奥の方になっているからだ。


●慶長津浪の明確な年代は本当はわからない?


慶長三陸津波を起こした地震は古い地震で謎が多い。発生したとされる時期も一般に採
用されている1611(慶長16)年の他に、1614(慶長19)年、1616(元和2)年など

慶長16年と記されていても慶長年間と記されているのもある。だから年代も明確ではない慶長年間なのがまちがいないというだけである。


慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

慶長年間というのはこれだけの地震の被害もあった。大地震が連続して起きていたのである。文禄からはじまり慶長年間は地震で象徴されていた時代である。
この時は戦国時代だったのである。動乱の時代でありそれに地震や大津波でまさに末世の様相を示していたことは今回の津浪は日本の動乱の時代のはじまりなのかもしれない。

算命学 2011


国家を揺るがすような強烈な出来事が起こってもおかしくは無いのです。
貯蓄・防災・危機管理の徹底など、いざという時の為に備えは万全にしておきましょう


これは2011年1月に占いの人のプログに書かれていたのである。
プログの特徴は日付が記されているからそこから個人であれ歴史を読むことができる。
だから20011月の3月11日の津浪の前と後では時代が明確に区別されるのである。

1611ー2011とかアメリカのビルが破壊された9・11とか何か11は不気味である。
1ははじまりであり開始でありだからその前に大規模な破壊が起きることはありうる。
ただ占いも不安をあおり金儲けにしているものもいる。
それでも2011ー3・11という数字が並んだことは不気味だった。
となると2111が最高に危険な年になる、人類滅亡の年になるのか、その時は自分は死んでいるからどうでもいいともなるが・・・

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2014年06月16日

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)


中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?

(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

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鬼越館の近くまで津浪が来ていた。
浪の浸食により移動したと記されているが何かしら慶長津浪も関係していたかもしれない
なぜなら鬼越館はいつ建てたか不明となっているからだ


●佐藤氏が磯部館から鬼越城へ


築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。

好信の子佐藤宮内為信は永禄9年(1566年)伊倶郡小斎城代となり移ったが、天正9年(1581年)謀叛を起こして伊達氏に仕えた。これは父好信が郡左馬助の諫言により三ヶ村の所領を没収され、天正7年(1579年)無念のうちにに病没したことを恨みに思い、郡左馬助を討って亘理元宗を介して伊達氏に属したもので、伊達氏においては家格を一族に列せられた。
 鬼越館を築いたのは、相馬氏の家臣であった佐藤伊勢守好信である。佐藤氏は磯辺・日下石等6ヶ村を領し、もともとは海岸近くの磯辺館を居館としていた。しかしそこは波浪による浸食が激しくなってしまったため、永禄6年(1563)、鬼越館を築いて移り住んだ。『相馬氏家譜』には「伊勢好信、磯辺の館より立谷東山館を築いて住居」とある。この立谷東山館というのが、この城館のことであると思われる。
 天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm

立谷家の「鬼越館」の近く立谷邑中屋敷に1335年頃に立谷の館を構えました、今も館の後が残っています(道の駅そうま)の西側500メートル当りで外堀も残っています、

佐藤好信は源義経の家来であった佐藤忠信・佐藤継信の子孫を名乗る。今の福島県浜通り地方を中心に活躍し、その名に恥じぬ勇名を馳せた。

もとは富岡城(楢葉郡)にいた岩城氏の重臣であったが、相馬氏の武勇を慕い富岡右京進・富岡美濃らと共に相馬領へ来て相馬顕胤・盛胤の二代に仕えた。草野直清・青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、それを妬んだ別の家臣の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。これを恨みながら、まもなく死去したという。


佐藤為信

佐藤 為信(さとう ためのぶ、天文 (元号) 天文11年(1542年) - 天正19年(1591年))は相馬氏の家臣。佐藤好信の嫡男。
小斎城代として重用されたが、父・好信が讒言により減封され、果ては憤死に追い込まれたことを恨みに思い、讒言した家臣を討って相馬氏から伊達氏に寝返った。その際伊達氏の一族に迎え入れられている。佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、兜の八幡座を鉄砲にて射抜かれ討死。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。その他には、松ヶ江辺に夜討ちして敵を脅かす事、両三度に及んだと言う。この様に海(水)上とかの活躍は、奥州相馬氏の南北朝時代(北朝方としての相馬文書)とか、戦国時代の史書を探せば、未だ有るかも知れません。尚、相馬氏には「奥相秘鑑」と呼ぶ史書が有って興味深いが、これ等は近世期の編纂資料で有って、果たして天文年間の正確な資料でしょうか。小高城からの出騎の項に「神岡館」と有るのだが、これは「福の隷書体」を「神と誤って」表したものでしょう。正しくは「小高町の福岡字有山」に有った「福岡館」でしょう


相馬氏と水運ー4(東奥中村記)半杭正幸
http://red.ap.teacup.com/hangui/2915.html

半杭氏も海運に注目して残された文書の記録に間違いあることを指摘しているのだから
磯部館が山側の鬼越館に移ったのはいつかは確定できないのである。
津浪だったのを浪の浸食としたとういのはありうるのである。

●在地勢力を支配下に置くことに相馬氏は四苦八苦

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この記録の中に何か慶長津波のことが隠されている。相馬氏は小高に本拠地の城を置いていたが村上に城を移転したが火事があって縁起が悪いと原町の牛越城に移転した。
それはもしかしたら塚原や村上などで湊を支配していた岡田氏などの抵抗にあったのかもしれない。ここは自分たちの領地だとかなり火をつけられたということもある。
相馬氏は領地がまだ安堵されていないから秀吉にとりいることや後に家康にとりいることに必死だった。牛越城では実際に領地を没収される危機に直面していたのである。

慶長津波を考える場合、こうした当時の戦国時代の相馬藩内は中世以来の豪族が館をもち支配していた。だからこうした有力な豪族を支配下に置くことに腐心していた。

特に古代の宇多郷、今の相馬市地域はまだ伊達氏の影響力が大きかった。
もともと今の相馬市地域は伊達氏が一時支配していた地域でもあり相馬氏が進出することには抵抗があった。
小高を中心とてして北に向かい相馬氏の支配を確立しようと腐心していた。
だから今の鹿島区は北郷であり小高から見て北になるから北郷になった。
一連の城の移転は小高では湊を所有していた岡田氏をおさえようとする動きであり
牛越城は今の泉かんが跡にやはり湊をもっていた泉氏をおさえるために作られた。

そして中村城移転はこうした在地の中世以来の豪族を相馬氏が支配することだった。

今の相馬市地域は伊達氏がまだ勢力をもっていた。伊達氏をおさえるためにはどうしても中村に城を移転せねばならなかったのである。
佐藤氏の息子が丸森の金山城の城主となって伊達氏に寝返ったとかでもわかる。


天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。


これなども小高に湊がありその小高ら磯部の湊へと船にのって夜討ちしたということはそれができる船の運行があり湊があったということである。
小高でも磯部でも今のような砂浜ではなく入江のようになっていたのだろう。
だから湊にしやすい船が入りやすいものとなっていた。

ただこうした記録もどこまで史実なのか半杭氏も書いているようにわからないのだ。
鬼越館でもいつ作られたかも実際は不明なのである。だから年代通りでもないことがある。鬼越館の名は鬼は鬼門であり北を意味しているから北風が吹きつけて通りすぎる所となるから位置的にはそういう場所である。
ただ慶長津波の前の数十年間は戦国時代の激動の時代であり相馬氏の支配は確立していない、伊達氏に一時黒木氏が加担して鹿島の田中城で戦いがあったように伊達氏と相馬氏の争いは鹿島から中村地域移動したのである。
相馬氏はまだ相馬藩として支配を確立していない有力な豪族のおさえるために四苦八苦していたのである。


●相馬藩は財政難で慶長津波のすぐ後にも高い役金を課していた


時代的にはずれているから慶長津波とは関係ないとなるがそれでも慶長津波の近くに
波の浸食が起きたというが時代がずれて記されているかもしれない
文書に残っているからとすべてが正しいとはならない、そこには粉飾があり年代もずれている場合があるからだ。実際に記述の間違いを半谷氏は指摘している。

なぜ慶長津波のことが記されなかったかというとそれは伊達氏でも伊達政宗は一言も津波のことに言及していないのは相馬氏と同じだった。
当時の藩主と津波の被害を公にできない事情があった。
ただ伊達藩では慶長津波のことを他の氏が記している。

記録したり宣伝したり何か伝えるにも権力が必要になる。権力あるものは集団は大宣伝ができるから真実は曲げられる。
マスコミもまた一つの大きな権力である。メデアは権力だというときそうである。
常に権力によって情報は操作されるのである。原発でも批判は封じ込められていた。
本を出すにも確かに出ていたが隅の方に冗談のようにSF小説のように置かれていたのである。
本を出版するにも権力が必要なのである。
それだけの被害にあったのだから本来は被害にあったものが直接訴えればいい伝えればいいのだが
権力かないとできないということもあったのである。


三本塚周辺の開発


慶長年中、比屋
海上より潮押揚海辺村々之者人馬多潮水におぼれ横死、田畑殊之所外荒所罷成候所、元和之頃、御上より荒所開発望令族開発可仕由御触、右ニ順て家友、当初へ取移三今之屋敷(二ツ屋敷)ヨを構へ住し、熟地見合、田畑十五町余り開発,子孫へ伝え候(佐藤家家譜)

この津波の後、相馬地方の相沢、大友、柴崎氏が当地の荒地開発にあたっと言われます


佐藤家とは相馬氏の磯部の伊達氏寝返った佐藤氏一族のものなのか?
ここに相馬氏の武士が移り開拓したとなるのか?
相沢氏は伊豆の相沢郷が出自であり柴崎氏は千葉の我孫子に柴崎城があり相馬柴崎とあり相馬氏系統である。
佐藤氏も磯部館の伊達氏に寝返った佐藤氏なのか、何か相馬氏とつながりある所に開拓に入った。
不思議なのは相馬藩内でも伊達藩と同じような慶長津波の被害にあったのにこうした開拓に入ったという記録は一切ないのである。

中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。

寛永八年(1668)百姓の騒動があった。
切腹させられ給人が6人ほどいた。

百姓どもが訴訟申し上げたのは給人衆の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草を刈る所、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなっていて]困ったからである。
(奥相馬秘鑑ー森鎮雄)



慶長津波の後に起こったことを知るてががりにこの記録はなるだろう。
相馬藩ではまず慶長津波の後でも財政難で役金が給人からとらねばならなかった。
そもそもこんな財政状態で津波の被害の復興などありえないだろう。
相馬藩では寛永八年(1668)頃まで50年後まで津波の跡は開拓もされず放置されていたのである。給人がこういう状態のとき、相馬藩を出てよそに出る武士もいたというとき、それが相馬氏一族の相沢氏とか柴崎氏だったのである。
ただ慶長津波から50年たつと盛んに郷士の開発が行われて在地の土地の住民に迷惑にさえなって切腹させられた武士まででてきたのである。
約50年すぎて相馬藩では活発に津波の跡でも開発が盛んに行われるようになった。
それまでは放置されていたのである。

つまり伊達藩と相馬藩は慶長津波の対処が違っていたのは事情が違っていたからである。こういう財政難でも津波の被害を訴えたりそれを取り上げたりまた津波の被害のことを
外に言うこともはばかられた。
当時は戦国時代でありなるべく藩が力あるものとして外部に見せねばならなかった。
それで伊達政宗がハデな演出して伊達者と全国で知られるようになったのは実際は藩は貧しい農民が主なのだがハデに装うことによって隠していたのだと言う人がいた。
陸奥には西のような豪商もいない農民が主体の社会だったからである。


●慶長津浪の被害者の忘れられていたが思い出さされたこれもカルマ


慶長津波のことが文書に記されなくてもやはり慶長津浪に由来するものがその時あった。新地の地蔵森の伝説や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪の時のだという。
慶長津浪に関しては本当に記録も伝説もほとんどないのである。
それは相馬藩の戦国時代の特殊な事情がそうさせたのである。
伊達藩は伊達政宗の支配が完成していていた。ただそれにしても伊達政宗も慶長津浪には言及していないのである。
それも外にそうした困窮状態を口外することが戦国時代では不利になるという意図があった。でも内部では津浪の跡を開拓する作業すでにはじめていたのである。
そこはすでにもともと田畑となり開発されていた場所である。

相馬には荒地の方がもともと多かったのだろう。
だからこそ相馬氏の相沢とか柴崎氏とかが伊達藩の開拓に入ったのである。
相馬藩ではそもそも相馬氏が在地の豪族をまだ完全に支配していない、統一していなかった。そこで津浪の後にも役金を徴収していたのである。
だから給人が反乱を起こすような所では伊達藩でも外に出て領地を得て開拓した方かいいとなって移住したのである。
なんらかそういう不利な所に移住するには事情がある。
越中などの移民にしても飢饉の後の荒地に来るのは来る方に事情があったのである。

相馬氏にとって慶長津浪はやはり財政難に拍車をかけたしいいものではなかった。

ただそれで在地の勢力がそがれたので津浪の後に中村城へ移転を結構できて統一できたというプラスの面もあったのである。
そして津浪から50年後は盛んに郷士の開拓が行われて在地の農民や漁民や山民が迷惑になり訴えるようになった。
50年という津浪の跡の原野でも塩分はなくなり開拓して田にもできたのである。

慶長津浪の被害者は不運に不運が重なったのは戦国時代という中で起きたことである。
まず津浪が起きた2年後に役金を課しているということ自体、相馬藩で津浪の被害者を
援助するとか復興するとかありえない状態だった。
津浪がさらなる財政逼迫を生み幕府で助けるわけでもないしかえって江戸城普請とか参勤交代とかで出費がかさむ。給人にしてもまるで暴力団への上納金のように役金が払えないと暴動まで起きることが実際に画策される。

何か海老村の善次の伝説はこうした当時の事情があり天守造営にかりだされたのだがその土地の支配者が輪蔵館などが出したのだがその館の支配者にとってはしたくないことだった。でも一方で行かざるを得ないという事態に追い込まれていた。
そういう板挟みの中で津浪の被害の後に天守造営にまつわる伝説が生れた。
支配者同士の争いで戦争で民衆が犠牲になることは世界でもあった。
権力をもっているものがさらなる権力をえるために戦うがそのために民衆が犠牲になるということがある。


原発事故でも権力をもつものが政府指導ではじめてその土地の民衆が利したとしても
やはり犠牲になったということはいえる。
結局この世の中今だって弱肉強食の世界は変わっていない。
相手が弱った時攻められる。そういう経験を自分もしてきたから人間は怖いと思う。
相手が弱ったから同情するということはない、戦国時代は特にそうだったのである。
常にその地位が脅かされていたのである。相馬藩も牛越城の時、改易になるのを辛うじて逃れた。その領地も地位も安泰ではなかった。
そういう時慶長津浪が起きたのであり犠牲になった民衆は犠牲にされ忘れられたのであるその数は多かったが例えは太平洋戦争で三百万人死んだと一手も四〇〇年もたてばその一人一人のことなど忘れてしまうだろう。
いつまでも戦没者供養などしていないだろう。三百万人死んでも忘れられてしまう。

今回はすぐに犠牲になった人たちの供養碑が建った。それは四〇〇年後にも残るだろう。ただ四〇〇年後がこの辺がどうなっているかなど想像もできないのである。

慶長津浪と同じ規模の津浪が襲ったからこそ四〇〇年前のことを考える。
もしまた日本が戦争があって何百万人死んだとなればまた太平洋戦争のことでも真剣に考える。
歴史もカルマであり繰り返しなのである。カルマは本当に個々人でも厳しいものがあり
逃れることができない、何か先祖のカルマを津浪の被害で意識されたということがあるのだ。
人間は常にカルマを負った存在だということを津浪が意識させたということはある。
津浪でも四〇〇年でも定期的に起きるものでありそれは科学的にそうでありそうた災害に人間は備えることができなかった。
個々人でも何代も前の先祖が戦争で人を殺していたからその償いのために看護師になっているとか言う人もいた。長い眼で見れば歴史でもありねその地域地域にもある。
地域の独特のカルマがありその中で生きている。相馬藩は津浪が起きた時、こうした特殊で戦国時代の事情があって津波の被害者は忘れられてしまったのである。


参考にした本


「仙台平野の歴史津浪」ー飯沼勇義

飯沼氏は実際に津浪のことを警告して仙台市にも訴えてしいたし南相馬氏の博物館にも来て津浪を警告していた。でもとりあわなかった。

郷土史というと好事家が暇で研究しているという感覚になる。
でも実際今回の津浪で郷土史というのは郷土全体を視野にした長い歴史を探求するものでありそこには重大な使命が隠されていたのである。
盛んに地名まで津浪と関係あるのではないかとか神社は津浪をまねがれたとか様々なことが津浪で浮き彫りにされた。
日本では災害が大きな歴史の中に組み込まれていたのである。
ただ災害は百年に一回とか四〇〇年に一回とかなると忘れる。
それが忘れたことが災いにつながっていた。

カルマは個々人でも意識されない、でも今回のように同じことが起きればカルマを意識させられるのである。
例えはアメリカが日本に原爆を落としたことはアメリカのカルマである。
でもアメリカ人はそのカルマを意識しない
それがそのままでありえない、アメリカにも原爆が落とされた時深刻にヒロシマに原爆を落としたことを真剣に考えるようになる。
9・11のビルの崩壊もそうしたカルマが現実化したということはある。


posted by 老鶯 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月15日

文化の時代は方言が見直される (ちゃっこいはなぜこんなに東北で使われているのか)


文化の時代は方言が見直される

(ちゃっこいはなぜこんなに東北で使われているのか)


ちゃっこいは宮城県の方言
http://musubu.sblo.jp/article/91044080.html

地元でもわからなくなった方言
http://musubu2.sblo.jp/article/91010809.html


●ちっちゃこいーちゃっこいは広い範囲で使われている

chakoiii1.jpg

ちっちゃこいは関東から茨城県から福島県の中通りまで広がり
福島市を境として宮城県からはちゃっこいに変化した。

ということは福島県は茨城県とか関東の影響が大きかったのか
中通りは特にむしろ古代は茨城県の影響が大きかった
ただ方言はいつそんなに広範囲に広がったのか

どうしてちっちゃこいが北海道まで広がったのか?
それは明治以降なのかそれとも最近広がったのか
北海道だと明治以降だろう
ただ方言がみんなしゃべるようになるまでは相当な時間が必要である

北前船が京言葉をもたらしたというときそれだけ交流があり
時間的にもあったからそうなった。

ただ物が入ればどうしても他の土地の言葉が入り安いのは確かである。
その物を言う入ってきた土地にない時があるからだ
それで漆(うるし)がJAPANになったことでもわかる


ちゃっこい

石巻ちゃっこいバッグ展
ちゃっこいけどアツい。
好きなんです、川崎が

 「いずれ古里に戻りたいんです。好きなんですよ。川崎が」。一関市川崎町出身。現在は岩手大学農学部に在籍し、盛岡市に住む菅原花さ
ん。ストレートに古里への愛を語る一方、


ちゃっこい村のでっかい花火大会
岩手県・東磐井郡川崎村


ちゃっこい店

岩手県盛岡市南大通1丁目10−31

宮城県牡鹿郡女川町にオープンした『女川ちゃっこい絵本館』


『ちゃっこい仙台駄がし chacco(¥500

ちっちぇ、ちっちぇけ とも言います。
小さい という意味です。


「あんやぁ〜、このびっきちゃっこくてめんけごど」
(あら〜、このカエル小さくて可愛いこと〜)
http://www.hougen-love.com/dialect_akita/akita_chakkoi.php


みちのくちゃっこいギャザリング***知って話してネットワークづくり♪♪♪

秋田県

浅虫温泉にあるちゃっこい温泉宿、宿屋つばき - 温泉

おらんどのちゃっこい博物館「向山駅ミニミュージアム」がオープン

ちゃっこい。

先日、北海道から上京してた義父がこう言って、
パートナーも普通に「そうかぁ、ちゃっこいのか〜」と。
ちゃっこい??茶色っぽい??

どうやら「小さい」と言う意味らしいです。
ちゃっこい・・・かわいい。



ちっちゃこい


今日の福島弁(中通り)「ちっちゃこい」


小さい」を横手゛弁で
"ちっちゃこい "って言うんだ
チッチャ に わざわざ "こい"って付けるんだな

"ちっちゃこい わらし "
"ちっちゃこい 車 " (軽自動車)
こんな 感じだな


あんなちっちゃこい子が、こんなに成長するんだな....えっ??

北海道の陸別町


日曜日モリタさんと青梅のちっちゃこい山をハイキング

ちっちゃこい字めっか 訳) 「あの小さい字見えるか(山形県)


●宮城県の影響が大きい相馬地域

ちゃっこい、ちゃっこいとよく言う相馬生れの女性がいる。
でも相馬生れの同年代で「ちゃっこい」と聞いたことがない
そんな方言あったのかといぶかった

それでわかったんだけどその女性は宮城県の松島の男性と結婚していた。
それでその方面の方言をしゃべるようになった。
その男性は相馬に来てからも宮城県の方言をしゃべっていたのである。
そういうことは相馬出身でも名取の方に長く暮らした人がだっちゃ、だっちゃと語尾につけるので目立った。それは明らかに仙台弁なのである。
この辺ではだっちゃなど言わない、んだ、んだとしか言わない

ちゃっこいという方言は広い範囲に広がっている、インターネットで調べたら宮城県から岩手県から秋田県から青森県には確実に広がって使っている。
それからちっちゃこいとなると東京とか茨城県でも使われている
北海道でもちゃょこいとちっちゃこいが使われている。


小さい⇒ちっちゃい⇒ちっちゃこい⇒ちゃっこい

と変化した。福島弁で福島市や中通りでもちっちゃこいを使っている
相馬では使わない、「ちんちぃ」という言葉を使っていたような気がする

ちっちゃいという方言はちっちゃこいとなり関東から中通りを通り宮城に入り岩手県から秋田県から青森県に広がった。
ちっちゃこいとちゃっこいはもともと同じ意味である。

方言は狭い一地域のもののように思えるが実は関東から福島県の中通りを通って仙台から青森まで広がっていた。それは昔から中通りは奥の細道の通路であり人と物が入る道だった。相馬の方は浜通りは関東の方とは通じるのは遅い。

それにしても方言はそんなに広く広がるものなのか?
それはいつごろからそんなに広がったのだろうか
江戸時代からなのか明治とか戦前なのか、交通が発達したら方言も広がるのか?

相馬生れの女性は毎日顔をあわせていてちゃっこいという言葉を聞いていたからいつのまにか無意識にしゃべるようになった。
普通方言はその土地に生れていなと簡単にはしゃべらないだろう。
だから方言はそんなに広がると方言ではないようにもなる
関東から東北から北海道までちっちゃこい、ちゃっこいを使っていたら方言なのかともなる。
方言の研究はそもそもむずかしい、調査するにしても直接聞くとなるとむずかしい。


●方言は文化であり文化の時代は地域性を追求する時代


ただなぜ方言に興味をもつかというとそれがその土地独特のものだからである。
方言は文化であり標準語は文化ではない、国々の言葉みんな違っていて文化である。
人間社会は地域性があった方がなんでも面白い。みんなどこに行っても同じじゃないかとなるとつまらなくなる。
海外旅行したってどこでもグローバル化で一様化したら面白くない。
ベルギー人が「自分はベルギー人」だというときベルギーという国にこだわっている。
ベルギーってなんなのだというと他からわかりにくいからだ。

文化の時代というとき地域性を出すことが魅力を作る。だから言葉だってもてなすのにも標準語ではなく方言があたたかみがでてくる。東北は全国になるとずーずー弁はしゃべりたくないということはある。
でも方言がないと何かその土地の特徴が出せないのである。
これからの時代は何でも地域的なものにこだわる文化の時代になる。
自分は自分の生れた土地にこだわり自然を基に詩などを書いてきた。
必ず自然にはその土地独特の景観とか地勢とか石でもある。
そういう土地土地の自然と一体化してゆくアイディンティティ化してゆくことが文化なのである。

一時は東京化してどこに行っても同じだとなり旅もつまらないとなった。
それは地域性が消失してしまったからである。
その土地の個性を作り出すのは自然である。
その自然は樹や石でも山でも長い眼でみないと会得できない
旅では一時的に滞在するだけだから深く見れないのである。

いづれにしろ東京一極集中になったら面白くない社会である。
経済効率はいいにしろ地方は衰退するから文化も衰退する。
自分は東京の大学に四年間いたけどその後は故郷に帰った
それからは地元志向であり主に自然との一体化を計ってきた。
それは文化面だけではあるがそうだった。

もちろん全国を旅していたが基点となるのは故郷の自然だった。
いづれにしろ経済効率性を追求すると多様な生活は失われる。
山には山の暮らしがあり海には海の暮らしがありということで
文化の多様性が保たれていたのである。

こうして地域性を追求するとき、津波や原発事故は相当に打撃だった。
地域の衰退に拍車をかけて村も町すら消滅する危機になった。
土地のものを食べさせようにも放射能汚染でできないとか
苦しい立場にたたされたのである。
だから津波原発事故地域はその将来像を描くことは本当にむずかしい。
町自体村自体が消滅するとなるとゼロからまた作り直すのは容易ではないから
町から人が流出してゆくだけである。

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一九七〇年代からふりかえる (高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)


一九七〇年代からふりかえる

(高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)

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●団塊の世代の大学生活

案外忘れられてるけど卓上電卓がオフィスに普及したのも最近なんだよね。
70年代からじゃない? つまり団塊が社会人デビューしたころは算盤上等なわけで
電卓はあっても値が張るわけで、まだまだ算盤やら手計算がメジャーなわけだ。
いわんや簿記なんか分厚い帳簿を引っ張り出さなきゃいけない。
経理だろうと人件費計算だろうと大量に人間がいたわけだ。

書類がコンピューターでデジタル化した。だから相当書類が減った。書類の整理だけで大変な労力がこれまではあった。そういう所が省力化すると人手がいらなくなる。
本や情報もデジタル化すると効率がいい、ただ本なんかはやはり本としての良さがあり
なくならないだろう。ただコストがかかるということで衰退してゆく。

今や自分は忙しくて図書館などで調べられない、図書館は何か調べ物するには効率が悪いし時間がかかりすぎるのである。
町とかに図書館があっても小さすぎて役にたたないのである。
インターネット化すると郷土史の研究が全国的ネットで結ばれるメリットがあった。
郷土史研究はマイナーであり本で調べるのがむずかしい分野である。
大学で論文を出していたのでそれを読んで参考にした。
一般の人が大学と結ばれるのもインターネットではできる。
今までは情報にアクセスするには壁があった。
大学には一般の人は入ることはできなかった。
ただまだまだ情報や論文を公開している大学は少ない。


それにしてもずいぶん時間がすぎてしまった。遠い昔になってしまった。
団塊の世代も歴史的に語られる存在になっているのだ。
高度成長時代を作ったのが団塊の世代である。
大学時代に車に乗っている人がいたがあの時車は贅沢であり車もっている男性は格好いいと女性から見られていたのかもしれない。
車はそんなにみんながまだもてるものではなかったろう。
ただその頃から急速に普及し始めていたのだろう。


自動車の普及が急速に進むなか、1968年日本の自動車生産台数が世界第2位に躍り出ました


日本の技術の開発のスピードは意外と早かったなと思う。その時すでに世界二位というのは驚きである。集団就職の時代であり人手がたりな金の卵として田舎から大量の労働者が東京などに送られた時代だった。
この日本車もすでに世界で通用していたのである。

●団塊の世代でもすでに大学は大衆化していた

クラスで田舎では大学に入れたのは4,5人だった。
集団就職が三分の一くらいいたようだ。
それでも大学だと私立はマンモス大学であり凄い数が集まっていた。
この時大学は特別なものではなく大学の大衆化がはじまっていたのである。
3000人とか入る大講堂で講義しているのも異様な風景だった。
高校からするとあまりにも違っていたからとまどい勉学の意欲を失う人もいて
全学連など学生運動に身を費やす人もいた。


大学はレジャーランドとか言われた時代であり毎日マージャンをしている人もいた。
大学で授業にゆくやつは遊ばないやつだとうとまていたのも不思議である。
大学とは高校と違って遊ぶ場所だったのである。
マージャン大学、パチンコ大学にもなっていた。
パチンコはその当時本当にヤハなものだっ。
誰でも手作りできるようなもので板の箱でただ釘を打っているだけのものだったのである。
その釘の調節で出るのと出ないのを調節していた。
そのころからみるとぶいぶん変わったなと思う。


高校では考えられない落差がありとまどう人も多かった。
高校は毎日通い遅刻も許されない、大学は授業に出るのも出ないのも自由だというのはあまりにもその差が大きかった。
かといって自主的に勉強している人はまれだったのである。
文系は特にそうでありそれでも卒業できたのだからでたらめな大学が多いとういこともあった。
それでも社会に出ると学歴で判断されることが多い。最終学歴はあとあとまでついてくる理系ならともかく文系なら学歴などほとんど関係ないものだったかもしれない

そういう大学で自由に過ごしたのに卒業したら企業戦士として会社人間となったのも不思議である。全共闘の闘士は今度は企業戦士に変身したのである。

●高度成長時代から労働欲減退の衰退の時代へ

その時丁度高度成長期で経済は鰻登りで波にのっていた。
給料は毎年確実に上がっていた。だからメーデーなどの賃上げのパレードは祭りとなっていた。
労働組合もその時最盛期であったのはそれだけの賃上げが確実に要求すればあったからである。
それは日本経済が家電分野でも自動車でも世界の最高レベルにありプランドとなっていたからである。
今になると高度成長期は日本の黄金時代だったともなる。

現代の経済状態はアベノミックスとか金融で経済を活性化しようとできない、
なぜなら世界で売れるものが作れていないからだ。
家電でも中国韓国においつかれているしこれは日本製でないとだめだというものがないのである。そうしたらいくら金融で経済を活性化しようとしても無理だろう。


紙幣をすって紙をすって景気よくなるなら苦労しないよな


これ本当だと思った。日銀で一兆円でも紙幣をすっても景気良くなるとは思えない。
日本はどうみても衰退社会に向かっている。高度成長の黄金時代から少子高齢化とか非正規雇用が一千万とかまともに働く場所すらなくなっている。
その一つが引用したパソコンなど機械化により労働力をはぶいている。
2001年にwindows xpがでたとき急速に普及した
農家でも田植え稲刈りも機械であり片手間に農業をしている人が多いしそれでもできる。あとは専業農家に田んぼでも頼んでいる。

高度成長時代は会社人間であれみんな働く意欲があった。
それは物質欲が強い時代だったからだろう。
ギブミーチョコレートからはじまった戦後があり物質欲が異常に高い時代だった。
戦後の何もない焼け野原からはじまっていたからである。
その物質欲、欲望に高度成長が火をつけた。
その時、若年人口が多く人手はいくらでもあったがそれでも人手不足の時代だったのである。


●機械化がすすみ底辺化した労働者

現代は非正規の人が多いという時、機械化により労働力がはぶかれ会社の正社員にもなれず、底辺労働化した時代である。
高度成長時代はどんな大学出ても会社に就職できていた。正社員になれたのである。

今後何十年も新卒は6割しか就職出来ず、その多くは非正規の仕事か数年以内の早期退職になって、

毎年数十万人以上の若者がニートやフリーターになるんだぞw
氷河期やニートを含めたらやがて1000万人を越えるぞ。
大卒や弁護士や会計士の資格の有る人ですら就職難なのです、
それ未満の学歴の人には更に就職先は有りません。


大学などは今やこれだけ数が多くなれば価値がない。大学でて当り前とまでなっている。そうした非正規労働とかブラックな企業で働くとかが問題になるとき、高度成長期のような労働意欲が衰退しているのだ。
そして別にテレビでも車でもなんでも一応もてるしそれが特別ほしいという物欲も衰退している。そんなもの安く誰でも手に入るという感覚になった。
つまり団塊の世代のような物質欲も今は衰退している働く意欲もない
そして働く場所がそうした底辺労働しかなくなっていることもある。

つまり現代は物質欲の減退した時代になっているのだ。テレビがほしい、車がほしい、マイホームがほしいという欲望が希薄化した時代である。
そういうものはすでにあり充たされている人が多い。
だから経済を活性化させようとするとき高度成長のような物質欲を刺激してもすでに充たされているとなるとそれはできない。
日本ではすでにそうした物質欲を刺激して経済成長を計る時代は終わっている。
そしたら何をもって経済成長するのかとなる。

だんだんモノではなく心を豊かにするものを求めてゆく時代になる。
中国でも経済成長とする世界旅行がプームになったことでもわかる。
物を買いにもくるがやがて日本文化というものに興味をもつようになる。
つまり文化の問題がクローズアップされるようになる。
その日本文化というのが明治維新以来の欧米化で衰退してしまった。
だから日本人自体が日本の文化を見直す時代が来る。
こういうことは奈良時代や平安時代にも起こったことである。
インターネットは事業化してもうけようというビジネスに利用するという風に騒いだが
本来インターネットはそういうツールではない
情報の共有とか格安で自力で発信できるとかビジネスの金儲けとは違ったコンセプトで作られた。
だからインターネットを金儲けしようとすることにあわないのである
それは何か知的なものとかハードからソフトへと移行するツールでもあった
それはハードの物作りよりソフトなものが要求されている


ともかく人間は働くという自主性が労働にあるときはいい,でもたいがい非正規でも働かせられているという受け身にさせられている。だから働くことに生きがいを感じない。
また働く場所でも人間はただ部品のように付け替えさせられているだけであり機械と代わりないとなる。時給いくらというときそれは人生の貴重な時間を切り売りしている。
労働がworkというとき、作品になるのだから働くことが自分の人生の作品を作るような働き方でないと自ら働くとはならないだろう。
ただ強いられて働かせられているというのは人間本来の労働ではない、
そんな贅沢がいえるかというのもあるが豊かになればやはり労働の質も変わってゆくのである。


ともかく現代の問題は過去から考えないと見えないのである。
すでに団塊の世代は過去になり歴史となりふりかえる時代になっているのだ。
60まで生きれば個々人も一つの歴史を生きたとなりふりかえる。
そしてその時自分はどう生きたのかどういう時代を生きたのか自ずと理解できる。
その人の人生が個々人でもどういうものだったか否応でも解答が出る。
だからでたらめに生きた人は過去をふりかえるのも苦しくなるだろう。
ただ人間は過ちを犯さない罪を犯さない人間はありえない
でも最後は後悔が多くなるというのが人間の繰り返しだったのである。

posted by 老鶯 at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年06月14日

慶長津波で相馬藩の湊が喪失した (小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


慶長津波で相馬藩の湊が喪失した

(小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


小高ら中村へー戦国武将相馬義胤の転換点
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

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●中世は思ったより船運が盛んであり大きな湊が各地にあった

慶長津波のことがなぜ一行しか記されなかったのかということを探求するには
慶長津波の前後の相馬藩内の政治情勢とかどういう暮らしをしていたのかということを知らねばならない。
その時代は戦国末期であり秀吉や家康と相馬藩はかかわり四苦八苦していた。
相馬藩の領土すら安堵されていないし領地を失う危機も経験している。
相馬氏は相馬藩内を統一支配する状態にはなかった。
だから中世以来在地の館をもった有力氏族が力をもっていた。
その筆頭になるのが岡田氏であり中村城では別個に岡田館をもったことでもわかる。


小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」


その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。
そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

磯部もすでに大きな湊があり船の出入りがあった。八沢浦にも七荷というから七つの種類の荷を運んだのだからすでに中世にそうした湊があり海老村とも関係していた。
八沢村はなく海老村の領域になっていたからだ。
それで善次という大工が津波の被害にあった地域に住んでいて中村の天守造営の時、怪異があったというのは何か津波を示唆しているかもしれない、中村城移転の時、天守造営が行われたからである。

宇多の湊も岩切と同じである。海に通じて川があり川さかのぼってそこに市が開けた。
河原は市になりやすい,また河原宿というとき野宿する場として適地だったのである。
自分も自転車で旅してテントで良く河原に泊まったから河原は泊まるのにいい場所なのである。当時はもっと堤防もなく河原は広かったからだ。

村上城から牛越城から中村城へ移転するときは同時に相馬藩内も激動の時代だった。
その時に慶長地震津波が起きたのである。

牛越城も新田川から舟を利用して河口の古代の泉かんが跡がある所に出るから湊があったもともと桜井に古墳すら川と海が交わる所あり何らかすでに交通の要所としてあった。
古代に泉官衙であった泉廃寺跡に物を運ぶために運河を作っていたことでもわかる。
「大磯の湊」というのもあったということは古代から延長として利用されていた。
それほど川の交通が重視されていた時代なのである。
交通の要所をにぎるものが権力をもつというのは世界的にもそうである。

その湊を管轄して支配していたのが岡田氏であり泉氏などの有力氏族であった。
それらの在地の豪族を牽制するために牛越城が作られた。その位置は確かにそうした背景を物語っている。


●網野史観の忘れられた海民が津波で大勢死んだ


前にも書いたけど海の視点から歴史を見ることが資料などが残らないで見えないのであるそのことが大きな歴史の欠落を生み誤解が生れる。
それを覆したのが網野史学であった。



漁業をやれば必ず魚を売らねばならぬ、これは塩の場合も同様で漁業や塩業をやれば必ず商業と廻船がそれに結びついてくる。


明和7年(1498)の大地震と大津波は伊勢から関東にいたる海辺の湊に大きな被害を与え、一時的に太平洋水運に破壊的な影響を与えたと推定される。


「漁村には資料が少ない」という声をこれまでしばしば見にした。
確かに漁村には火事、津波などの天災が多くそのようなこともあろう。
紀州熊野十八浦の連合によって形成された「岬会合」の二百冊近い貴重な日記類は
1945年の南海大地震の津波のために流出したという
密集した家並みの一軒に火事がおこるとあっというまに燃え広がるのも漁村に大いにありうる。


由利千軒、草戸千軒・・・何々千軒と言われる所はかつて栄えた町があって現在では消え去った時につけられる名称です

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


山野河海等は元々“無主”の地としての特性を持ち、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立します



つまり検地すことにより石高がわかりその土地の生産高が決められていたがその範疇に入らない人々がいた。百姓と農人は明確に別れていたのであり百姓とは百の仕事をもつ人たちだったというのもそのことを物語っている。多様な仕事をしていた人たちである。
田畑ばかりを作っているのではない、松川浦の和田の人は牡蠣をとったり鰻をとったり
田畑も作り馬も飼っている。海ではそうした多様なものが成り立つ環境があった。
そして船が出入りするから湊になり物資が運ばれて都市機能をもつようになる。
都市はギリシャでもそうだが海運と関係して貿易によって栄い都市化してそれはポリスとなり国家に成長した。


ただそういう海と関係した歴史は資料が残りにくいから見逃され忘れられ今になるとどんな暮らしをしていたかも海側がわからなくなったのである。
そして津波によってそうした湊が壊滅状態になり丸ごと失われたことがあった。
それが相馬藩内でも起きたのだ。その時そうした湊を支配していた岡田氏とか泉氏は大打撃を受けた。
しかしそのことがかえって相馬氏の支配を強化できて中村城への移転で中央集権体制の相馬藩が作られたのである。中世の相馬藩内の館が38もあった時代から一つの城へとまとまる政治体制が中村城移転で完成したのである。

ここで慶長津波がそうした激動の相馬藩にどう影響したのか?
それは岡田氏とか泉氏とか湊をもち力をもっていた氏族の力がそがれた。
湊は壊滅して喪失した。その後そうした湊は再建されずわすれられていった。

ではなぜ相馬藩では一行700人溺死としか記されなかったのか?
単なる漁労民とかではない、湊機能がありそこは都市機能さへもっていたとなると
その被害は甚大であり何かしらもっと記されてもいいはずである。
岡田氏や泉氏でもまた磯部館もあったのだから何らか伝えるものがあってもいいはずだがなかった。

そのことは当時の政治の情勢と深く関係していたのである。
相馬氏にとって慶長津波はかえって中村城へ移転して支配を完成する好機となった。
村上でも牛越でも何か反抗があり牛越では領地を失う危機にさらされていたのである。
それは岡田氏や泉氏の反抗があった。
その時慶長津波がきてその力をもった湊が壊滅したのだから反抗するところではなかっただから中村城への移転が慶長津波の後に本格的に決行されたのである。


●慶長津波によって戦わずして在地の勢力を統合できて中村城が作られた


結局慶長津波によって相馬藩は各地を在地の勢力を一つに統一できたとまでなる。
だからこそ復興のために支援するとかそんなことを一切記さない
復興などする必要がなかった。湊を復興したらまた岡田氏や泉氏が力をもち相馬氏に統一することがむずかしくなるからだ。
戦国時代そうして敵対するものの権力をそぐことが常に行われていた。
それは現代の感覚ではわからない、それが戦国時代だったのである。

だから岡田氏や泉氏がいくら慶長津波で大被害を受けたことを訴えてもとりあわなかった。ただ一行700人溺死とそっけなく記すだけだったのである。
また津波の被害のことを語るのは禁止されたということもある。
その時の政治の最優先課題は相馬藩の領地を安堵することであり相馬藩を統一することであった。
もし岡田氏や泉市のために復興のために力を注いだら岡田氏や泉氏を利するだけであり
相馬氏にとっては危険になる。

ただそういう権力構造の中で湊で働いていた人たちは犠牲になり忘れられていった。

それで海老村の九九部が津波の犠牲者を供養したのだが善次という大工が中村城へ移転した天守を造営のためにかりだされた。
海老村には輪蔵館という館もあったのだからそれは寺社系統であり海老村も津波の被害にあったから大工はその津波の被害の方で仕事をすることも強いられていたがどうしても主君の命令に従わねばならないと無理をしたが呪われて死んだのである。

慶長津波のことが記されなかったのは相馬藩内での権力闘争があり岡田氏や泉氏の台頭を相馬氏が恐れた。それで津波の犠牲者のことは語られなかった。

それでも今度は逆に漁労民だけではない、湊がっあってそこに働く人が死んだならやはりその数が多いから何かしら伝えられてもいいとなる。
そのことは他でも・・千軒とか多賀城辺りでもそういうことが津波で起こった。
だから相馬藩だけではない゛千軒が一瞬にして消滅して消えて語られなくなってしまうことが歴史にはある。草戸千軒などは最近の発掘調査でわかったのだからポンペイと同じだった。一瞬にしても千軒が消失して記憶か消える。
それは津波の跡を見ればわかる、土台しか残らず一軒の家もなくなる。
そこに村や町があったことも全くわからなくなる。

相馬藩は特殊な事情としてその時内部で権力争いがありそれが津波のために犠牲になったこ人たちのことが無視された。相馬氏は中村城に移転して相馬氏の支配が確立したのである。

もし相馬氏の支配が確立していたら復興事業もありえた。それができなかったのは相馬氏主導の体制がまだできていなかったからである。
だから伊達政宗はすでに強力なリーダーシップをもったのはそれだけ伊達藩をまとめる力をもっていたからなのだ。
第一スペインまで視野に入れて船まで自前で建造した。瑞巌寺は見張り塔もあり武士の城であり寺だった。海に面した城でもあった。
そういう大きな船を作れるということはそれだけの船の海運の進歩がすでにあったのである。

ただ相馬藩内は津波でそうした湊機能が壊滅した。それが語り伝えられなかったのは例えば石碑一つ建てるにしても金がかかる。今より金がかかるからできない、そんなことより大阪の陣への出兵、江戸城普請に力を注ぐことが領地を安堵することだから腐心していたのである。

歴史は権力争いで犠牲になるという時、それは民同士が戦うというより権力者が己が権力を死守ふるために戦う、民衆はどっちについても暮らしは同じだとなる。
だから明治維新後、会津でもヤーヤー一揆が民衆から起きた。会津の城で白虎隊が討ち死にするが民衆にとって城は命かけてまもるものではない、領主が変わるだけであり民衆の暮らしは変わらないからである。

相馬藩では権力争いで津波による犠牲者は無視された。では支配下においていた岡田氏や泉氏などはなぜ記録を残さなかったのか、被害にあった人たちは語り伝えなかったのか?
結局語り伝えるにもそれだけの力が必要でありその力がなかったともなる。
文字として記すにも民衆は文字を知らないとできないし語り伝えるにしても相馬氏が支配するとそれを訴えることになるから禁止されたとかなる。
相馬藩の場合そういう特殊な事情で慶長津波の被害のことが記されて語りつづけることができなかった。
ただ他にも全く何も語られることもなく消失した千軒というのがあるのだから以前として謎は残る。


会津のヤーヤー一揆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/96.html

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2014年06月13日

原発避難者は老人だけ帰っても住めない (茨城県の息子の所に行くという人)


原発避難者は老人だけ帰っても住めない

(茨城県の息子の所に行くという人)

仮設に住む小高の人はまだ64くらいだけど脳梗塞をして足が不自由とかで手伝いさんを頼んだ。車の運転はできるという。何もできない状態ではない。
だから週二回くらい簡単な家事をしてもらいばいいとなる。
息子は茨城県にいておくさんも息子の所にいる。
将来は息子の所に行くという。
おくさんもいるし体もそういう状態ではそうなる。

これは一つの例だけど原発避難民は結局小高すら帰れる状態にインフラも回復しても帰らない人が多くなるのではないか?
なぜなら体が弱るとどうしても支える人が必要でありその息子や娘に頼らざるを得なくなる
近くの人も一人で暮らしていたが買い物などを頼んでいたができなくなり
息子のいるイワキの施設に入った。
施設でもどこでもいいとはならない、やはり息子や娘のいる近くがいいのであ。


その人は家も小高にあっても住まない、その家は空家になる。
小高でも警戒区域が解除しても帰る人は少ないだろう。
農業だって老人ばかりになってやりたくない人が50パーセント近くになっているのだ。
高齢化というのが津波や原発事故被害地域に大きな影響がある。
もともと跡継ぎがいなくて困っていたのである。
その跡継ぎの子供が避難区域や津波の被害地域から去ってゆくと
残されるのはこうした病気もちの老人だけになってしまう。
そういう人たちがどうして町を維持できるのだろうかとなる
ただ世話されるだけの人がいて世話する人がいなくなるからだ
そんなところに老人すら帰らないだろう。

だから小高でも帰るのに帰らない、ましてや浪江とか双葉とか飯館はは余計もあきらめている
将来をになうものがいないということはそれだけ深刻だった

要するにもっと補償金をもらって他で生活することに傾き計画する
避難区域にはもう帰らないが補償金だけは多くもらいたいという考えになってゆく
老人はいくら帰りたい、先祖代々住んでいた場所に住みたいと思っても
老人だけでは病気もちなどが多い老人だけの町など成り立たないだろう。
やはり最後は子供が頼りで出て行ってしまうだろう。


津波被害地域でも原発事故被害地域でも


ここでどんなことがあっても生きてゆくんだ


何かそうした強い動機が働かないのである。

不思議なのは相馬藩内に飢饉の時に越中から移民してきた人たちは強い意志があった
それはここで生きなければ死ぬ他なかったからそうなったのである。

今回はそんなことはない、別にどこでも生きていけるし他に移った方が楽である
するとそんな強い意志は働かないから故郷といっても帰らない

例えは浪江の津島辺りでも貧しくても開墾して開いた村だから団結が強いと報道があった。それは貧しくても苦労をともにしたという経験があり村人の結びつきが強かった。
でも一旦原発事故でばらばらになればもうそんな強い意志とか団結はない
一億円の補償金をもらって他に移り住んだが方がいいとなる

だから人間は金があると裕福になるとかえって団結がなくなる
ともに苦労したという時団結が生れる。
困窮した時団結が生れる、危機の時も団結しないと乗り越えられない
家族でもそうであり必ず病気なったり困窮するときがあり
その時、協力するから家族なのである
それがない家族は例え血縁でも弱く崩壊しやすい


要するに現代が広域社会であり金があればどこでも生活できるとなると
故郷がどうだこうだというまえにそのつながりも希薄であり
こういう危機の時は容易に解体しやすい要素をもっていたともなる
大内村でも郡山市の方が便利で帰りたくないとなっている
補償金をもらって暮らしたいとまでなる
何か故郷でも留めるものが希薄である
家族いればまた別だけど家族すらばらばらになってしまったからである
そうしたら故郷に留めるものは何かとなる。


自分の場合はそもそも都会が不向きだからいる。
混雑したところもいやだしそういう性格的な面がある
田舎は人間はいやでも自分は都会向きではない
この辺の自然環境は気候的にもいいし
地形にしてもかなり海あり山あり変化に富んでいる。
だから詩のテーマにしてきた。
芸術はそもそも田舎でしか生れない
自然が芸術の基としたら大都会にはないからである。
ただそれだけでは引き留める動機とはならない
家族がばらばらになったのが致命的だったかもしれない。


いづれにしろ広域社会であり金の社会になったとき
そもそもその土地に土着するというのが希薄になっていた。
田舎でもほとんど会社につとめているのあり専業農家はまれである。
そういうところではもう土地自体が生活の糧ではない
会社が移動すれば家族も移動する
そういう社会状況の変化が津波や原発事故で最後のとどめをさしたとまでなる
つまりもう津波の被害地域や原発事故の避難区域は元にはもどらない
老人だけ帰るといっても誰も世話する人がいなければ帰れない
そこではうば捨て山になり死ぬ覚悟が必要になる
それより息子娘のいる所に行くとなり町は復興しないだろう。
「絆」と盛んに言われたけどその絆がもともと希薄になっていたから
津波や原発事故で容易に解体してしまったともなる


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2014年06月12日

津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た (人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)


津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た

(人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)

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子供のときから今に至るまで繰り返し見ているのが、大きな波に呑み込まれる夢だ。
パターンは色々だ。
海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる。

ガラス張りの旅館のロビーの、そのガラス戸いっぱいに津波が打ち寄せ、窓を破って押し入ってくる。

それでもいったん呑み込まれると、体は波に囚われたままいつまでも浮かびあがらず、もう少し、もう
少しで顔が出ると、我慢しているうちにどんどん息苦しくなってくる……。

http://blog.livedoor.jp/taeko_asano/archives/361351.html


溺れる(溺れそうになる、誰かが溺れている)夢は、精神的に追い詰められたときによく見る夢であると言います




人間は水に溺れる夢を見るのは誰でもある。一面が海になっていて取り残されてもうだめだ、死ぬんだなんて夢を見る。
水にのまれて必死になって泳いだりして浮き上がろうとするがもう助からないという夢を見る、たいだいもうだめだというとき目が覚める。


海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる


ここまで大津波として夢を見る人はまれだろう。
津波は普通は経験できないし見ることもできないものである。
海の水が押し寄せてきたとしてもそれは津波とは普通は自覚できないだろう。

自分は地震とか火事とか炎につつまれて苦しんでいて脱出するような夢は見ない
ただ水にのまれる夢は何度も見ている
一面が海になってもうどうにもならないという夢も見る
それは何か津波とにているが津波という意識はこれまでもなかった
普通に他の人も見ているだろう
一面が水に囲まれ海に囲まれ絶体絶命になっている
そういう夢は津波とにている
ただ海側に住んでいて津波を今まで考えたこともないし意識したこともない

相馬では400年もこんな巨大津波などなかったのだから誰も津波など来ないと思っていた

ただ自分は今回津波が来た小学校の前で何度も海の水がおしよせてその水に飲まれる夢を見た。
それが今回ちょうど鹿島小学校の前で津波が止まったのである。
その鹿島小学校の前で海の水がおしよせて海の水にのまれ溺れもうだめだという夢を何度も見た。
それは小学校の前だというときその前が家がまれであり田んぼになっていて海に出る
もしかえってそこに家が多く建っていたらそうしたし夢は見ないだろう。
海が近くても住宅地化していたり工場地帯とかなっていたら海がさえぎられるから
海の水がおしよせるような夢は見ない


水におぼれる夢などは何かに追われているから追い詰められているから見ると言われる
もう脱出できないというのはそういう心理状態にあるから見ると言われる
でも何かそうでもない、別にそういう心理状態の時でなくても見ている
だから鹿島小学校前でそういう夢を何度も見たこととが津波が来てから不思議になった。
海から離れて街に住んでいてもそういう夢を見る、そしたら海に接して荒い波の音を聞いてくらしていた人は怖くないのかといつも思っていた。
海を身近に毎日見ていたら何かその海にのまれる夢は日常的になる
海から4キロとか離れてもそういう夢を見ているからだ。

一面が海になるのと違ってその夢が場所が特定されていたことが不思議なのである。
ただ漠然と水にのまれ溺れる夢ではない
鹿島小学校のじき前でそういう海の水にのまれる夢を見たのである。
その鹿島小学校の校舎のある前で津波は止まったのである。

鹿島小学校の近くが住宅が何十軒かあり津波の被害にあった。
あんなところでも床上になり被害が大きかった。
津波の後でもたいして家が破壊されていないからたいしたことないと見ていたのである。しかし津波の被害にあった人は今も津波の来た海の方向が怖いと言っている。


不思議なのは仙台辺りでも石巻でも直接太平洋に接して住宅地になっていた。
石巻などは日和山の前など過密に家が密集していてこんなに家が密集していいのかと通りすぎたことがある。
その密集した家が根こそぎ津波で流された。
そこは入江でもない太平洋に直接面していたのである。

なぜあんな危険な所に人は住んだのかと津波の後に盛んに言われるようになった

そもそも弥生時代になると稲作がはじまり江戸時代辺りから開拓事業が拡大した。
伊達藩でも相馬藩でも海側に原野を開拓したのである。
でも慶長津波では相馬藩内は原野の所が多かった。
でも津波が来ていて危険な場所だという認識はあったはずである。
でも日本では土地がないから米を作るために海側を開拓してきた。
有明海でついに開拓する場がなくなったとき、農民は満州に移住した。
そこでも米作りしていたのである。
日本の宿命は土地が狭く耕作地がないから農業には限界があった。
その限界を突破するために海側を開拓して土地を広げた。
そういうことを可能にしたのは文明の力だった。
それだけの技術力が生れてできたのである。


縄文人が海を埋め立てるのを見たら驚き神罰があたるよとか言ったかもしれない
それは自然を恐れないものであり自然とともに生きていたからそう言った。
自然への畏れが常にあった。弥生時代になるとそういうことなくなった。
ただ米をそうして拡大して作ることによって急速に人口が増加したのである。
人口が増加したのは文明の力だったのである。
縄文時代だったら人口は増加できないのである。

弥生時代になり稲作文明になったとき、すでに自然への恐れは弱められた。

今回の津波ほど自然の恐れを感じさせたことはなかった。
自然の力はとても人間の想定できない力をもっていると驚いた。

古代では人間の夢を尊んだ


 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。

 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。

「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)
http://d.hatena.ne.jp/hyakkenn09/20140427/1398575416


これは興味深い、夢は神の御告げのような役割を果たしていたのだ。
それだけ人間の夢は不思議でありその夢を解くことが要求された。


人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい


津波は400年に一度となるとみんな忘れてしまい相馬藩では伝承などほとんど残っていなかった。
しかし津波のことを忘れていても海にじかに接して住んでいれば何か海への恐怖感が日常的にあるのが普通である。それが海に接してすむ人たちになかったのも理解できないということはある。


例えば

海に接して住んでいる人にこんなことを言った。

「わたしは何度も鹿島小学校の前で夢を見たんです
海からの水がおしよせてその水にのまれて溺れそうになる夢です
目が覚めると夢がさめてそ助かったなと何度見ていたのです」
「それは何なんだろう、あんなところに海の水が押し寄せるということはない
かなり離れていて海も見えないんだけどな」
「いや、小学校の前は家は少なく田が広がり海に通じている、だから海が近くに感じることもあるんだよ、前に住宅地があって海がさえぎられていると見えない
だから海を意識しないこともある」
「でもそんなところで海の水にのまれるとはなんなのだろう、
俺たちのように海に接して住んでいればわかるけど遠いからな」
「だからこの夢はなんなのか不思議だろう、この夢を買ってくれ」
「そんな夢を買えるか、海を見て俺たちは毎日暮らしている
海を恐れていてはここに住むことすらできなくなるべえ」
「それならいいですが、何か災いが起きなければいいんですが・・」
「俺を脅すつもりか」
「いいえ、その夢を何度も見たから言ったまでです」

ともかくあの地点ということが自分の夢では明確だった。漠然としたものではなかったのである。


住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ


これだけど恋人が波がよるのにも寄ってくるのが見えるというのはこの辺ではありえないいつも荒々しい波が防波堤に打ちつけていて荒寥としていた。
西の海とは違い穏やかな海ではない。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、波ばかり。


曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるともしれない呪。


中原中也

この辺ではこういう海だった。人魚は沖縄だったらふさわしいだろう、実際にジュゴンがいるのだから空想でもなかった。
その海とはあまりにも違っていたのである。

いづれにしろ文明が発達するとそうした人間の夢でもそんなもの意味ないよとかなる
でも鹿島小学校前で自分が何度も海の水がおしよせてきて溺れる夢を見たことの不思議である。それは明らかに今になると津波だったのである。

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2014年06月11日

原発避難民の求めているものは第一に土地 (金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)


原発避難民の求めているものは第一に土地

(金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)

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土地と家も失い仕事失う、そして金だけが残され頼りとなる



原発避難民のことがいろいろ問題になるけどその本質的な問題は何なのか?
こういうことは故郷を失うとか先祖代々の土地とか家を失うとか経験したことがないことが起きたためにその本質が何か見えないのである。
金はわかりやすいから補償金が問題になる。
何でも金に換算すると現代では余計に具体的になるからそうしているだけである。原発避難民で一番の今の問題は一様に言うことは

家を建てるが土地がねえか


このことである。一億の金があっても土地は簡単に買えない、一億出せば買えるじゃねえかというが必ずしも土地は手に入るとは限らない、今は土地が高くなるから別に生活に困らない人は売らないのである。それは別に原発事故になったから売らないということではない、土地は田舎では簡単に売らない、特に田畑は簡単に売れないようになっている。
田畑を売ると農家全体に影響するから売れないのである。
農家にとって土地は唯一食料を生み出すものであり土地を手放せば農民という立場はなくなり無産者になり仕事も失うのである。

もちろん現代では田舎でも実際は専業農家は少なく土地に全面的には依存していない、
それでもやはり土地は農家の人は簡単に手放せない規制がある。
だからそういう規制をとりはらい自由に会社でも設立して農業をやらせようとする
政策を自民では打ち出しているがどうなるかうまくいかない。
農協改革も打ち出したがスムーズにはいかない。

不思議なのは津波でもう使えない土地が膨大に生れた、土地を失った。そこは空き地となり原野化している。その土地もどう使っていいかわからない。
以前として所有者がいて市でも勝手にできないだろう。
国や市で適当な値段で買ってもらいたいということはあるだろう。
だから特区にして土地の売買を自由にして土地を活かす方法をとるべきだという意見もある。

でもそういう土地が今度はソーラーパネルだらけになったらどう感じるだろうか?
実際に勝手に小高辺りで農家の土地にソーラーパネルが設置されて怒っていた人がいた。景観としてはいいということはない、やはり白砂青松の風景は良かったとなる。
ただ経済になると景観だけからは論じられない。
自分は火力発電所でもない方が景観的には良かったとなるがそれは許されない。
人間は景観だけでは生きていけない、だから京都の古い町家の前に高いビルが立ちのしかかるようになっているのも現実である。
土地利用にすればビルの方がマンションの方がいいのである。


原発避難民がもし故郷に町でも村でも住めなくなったらそれは何を意味しているのか?
そんなことを考えることもなかったろう。当たり前にあったものがいろいろ失った。
土地とか家とかは当たり前にあるものだったし仕事だって農家だったら当たり前にあるものであり仕事がなくなることなど考えたこともないだろう。
でも仕事まで奪われたのである。だから浪江の人が田植えしたとき、農民の顔は輝いていた。仕事はただ金をもらうためにあるのではなく人間の生存の基本としてある。
つまり補償金をたんまりもらっても仕事がないとする毎日ギャンブルになっていたら
その人は博打打ちになってしまったのかとなる。現実にそうなっている人がいる。
仕事がないし金はあるからそうなってしまった。
そんな生活を見ていたら子供はどうみるのか、とを育つのかとなる。

どうしても温泉街の市では何か歓楽街的なものが生れその性格もそういうものが培われる。すべてではないにしろ何か育った環境に人は影響されやすい。

近江出身の人と外国旅行であったとき、外国までいってねぎるのがうまいと思った。
外国なになると簡単にハデ着ないのである。そういう交渉ができるしやはり近江商人の末裔かともなる。東北人はあんなことはできないし自分はまねるべきではなかった。
なぜなら外国は日本との金の差が十倍とかあるのもありねぎるべきではなかったと反省している。
ただ人間はいかに旅でもちょっとのつきあいでもつきあう人に左右されるかということである。だから別に人間の性格とは生まれつき作られたものではない、その土地の影響で作られてゆく側面もある。

大阪に生れれば大阪人気質が作られる。「もうかりまっか」が挨拶になる。
そううい人たちと日々接していれば東北人だってそういう気質になる。
一方で農民とばかり接していればやはり素朴な人となるだろう。
自然を相手にばかりしていたらそううい気質が作られてゆく。
商売には向かないのである。だから東北人は歴史的に農民が多く商人気質が養われなかった。日本人自体が商売がへただというときそういう環境になかったからだろう。
イスラム商人や中国人ば商売がうまいというとき、常に他国と交わる環境にあったからそういう気質が養われた。

仙台は昔から東北では商いが盛んな都市だったから宮城県人は東北人ではないと言われている。伊達政宗は東北人とは思えないスケールの大きさがあったのは農民的気質ではないからだ。会津などの山国気質とも違った性格の人間だった。

結局原発避難民というのは何になったのか?東北人なぜもっと政府とか東電に抗議しないのかと全国から一面言われる。もともと東北人はおとなしいからだろう。
それは言える。でもその気質だってこんな状態になると変わる。

今度は沖縄のような権利を主張して政府や東電から補償金をとる交渉を常にしていかねばならないからその気質も変わってゆく、それはいい面と悪い面がある。

土地も家も奪われてしまったら金だけが頼りになり金の依存することが大きくなる。
するとより金第一の価値観に生きるようにされてゆく、今までなら田畑があり別に金にこだわらなくてもそれなりに生きればいいとかあったがそうはいかなくなる。
土地も家も仕事すら奪われたなればそうはならない。
だから金に汚い、強欲なやつらだとなりユダヤ人ににていると批判される。
それはそういう立場に追い込まれたからそうなっている。
素朴な農民なとではありえない立場に追い込まれた。

ユダヤ人も土地がもていならか国々を放浪して金融で身をたてていたのである。
何億ともらったらそういう考えにもなってゆくだろう。
その金をいかに活かすかが問題になる。投資などもする必要が出てくる。
金だけに依存するとそうなってしまうのである。


ただ原発事故周辺地域にもそういう影響があり前の状態とは大分違っている。
原発事故でもなくても膨大な土地を失っている。すると土地に依存するより
何か別なものに依存する、仕事とするほかなくなってくる。
放射能汚染で土地も利用できないとすると余計にそうである。
だから浜通りの未来は何なのかというときその産業を仕事をどうするのかということも
大きな問題になる。
今まで違ったことが要求されてもそんなことに簡単にできないし老人はもうできない、ただ年金とかで細々と生活するほかないとなる。
だかかかえって若い人はこういう故郷を見捨てて流出する。


いづれにしろ当面は原発避難民は金をもらうだけもらい将来に備えるとう発想しかできないだろう。ただ手に職をもつ人は有利だろう。なぜなら大工でも仕事が山ほどあり仕事ができるからどこに移ってもいいとなる。
農民は土地から切り離されたら仕事がしにくい、ただ土地を借りてしている人もいる。
牛を飼うことをはじめた人もいる。だからすべてではそうではないが土地から離れたら仕事がしにくいのである。


いづれにしろこういう大きな変化には人間はまず翻弄されるだけでどうしていいのかとか簡単にできない、ただ思うに現代社会広域社会であり移動しやすい社会だから土地に縛られていた社会でないから土地を基にした共同体はコミニュティは崩壊しやすかったのかとも思う。
この辺の職業で多いのがトラック運転手であることそのことを証明している。
現代は広域な輸送社会になるからそうなる。
原発事故でも一番困ったのが他から物が一時的に入ってこなかったことなのである。
広域社会で生きているから他から物が入らなくなったら生活できなくなるのである。
広域社会ということは金が物言う社会でもある。
もともとそういう社会になっていたから容易に故郷とかもばらばらになったのかもしれない。
何億もらったらどこでも暮らせるのだから暮らしやすい所に暮らそうともなる。
若い人は特にそうなってしまうだろう。老人でも東京の人は地方都市に移りすみたいとなるとき金があるからそうなる。住みやすい所に金があれは住めるとなればそうなる。

だから大内村から郡山市に避難した人はもう帰らない人が多い。
補償金で便利と所で暮らした方がいいとか他の都市、東京に移り住んだ人たちもそうである。東京の暮らしがいいと言う人たちもいる。
それが幸せがどうかはわからない、そもそも幸福感など計り得ようがないからだ。
だから江戸時代がどうのこうのというとき、現代と比べること自体間違っているのだ。
その時代時代の幸不孝があり計り得ないのである。


現代は借金している人が8人に一人とか本当に実際は多い。それも裏の金融機関から借りているというから借金生活が多い。それだけ金がかかる生活だからそうなっている。
現代の標準の生活するだけで金がかかりすぎるからそうなる。
何で毎日こんなに買うものがあるんだろうとなる。
オカズも何でも買っているからそうなる。
要するにもう食事の用意なんかめんどうだから弁当がいい外食がいいとなればそれもできる。すると手間もはぶかれ自由な時間が生れる。

現代はそういう時代なのである。そのためには金が必要だとなる。
金持ちは介護で高い施設にやれば苦労せずにすむ、たいがいそうしている。
貧乏人はできない、すると負担が大きく時間も奪われるのである。
ただすべてが金では解決しない、その一つ土地の問題だった。
金があっても簡単に土地は手に入らないのである。

posted by 老鶯 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

yatumimap1.jpg


西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

posted by 老鶯 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降