2014年07月31日

花の抽象画(flower abstract)(ラベンダー、ノウゼン、立葵)



花の抽象画(flower abstract)(ラベンダー、ノウゼン、立葵)


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ラベンダー


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立葵


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のうぜんかずら


万華鏡は花になりやすい、ソフト的にそうなりやすい
ラベンダーは花の匂いがなんともいい
立葵は柱のように真っ直ぐ伸びる
のうぜんかずらの紋様もできた


タグ:抽象画

文禄二年 総士禄高調の謎 (原町は深野や大原が先に開墾された)


 
文禄二年 総士禄高調の謎


(原町は深野や大原が先に開墾された)


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相馬市史6参考

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新地地ある文禄の碑と関係あるのか

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大原が多い

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文化と記されている

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立派な石がここには多いのはなぜ?


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深野(ふこうの)の墓地に天保と記されている

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野馬土手に囲まれていた周辺部に士禄が記されている





原町区

大原 15
かや浜 12
高平 8
牛越 8
太田 7
高倉 7
かうの草 (深野ーふこうの)5
しふさ(渋佐) 2
牛来 1

北郷 5
北郷 かしまに 1
小池
山下



文禄二年といったら1593年でありこの辺では一番古い。こういう時代の記録だから貴重である。文目で計算しているがここではその土地に在住した農民とか侍、郷士など士禄である。原町区と鹿島区(北郷)だけをとりあげたがその地域が非常に限られている。
北郷(鹿島区)だとかしま(村)と小池しかでていない、これはどはういうことなのか?
文禄時代にはそこにまだ士禄を調べる人たちが住んでいなかったのか?
小高やしねは(浪江)もでている。小高はもっと地域がでている。小高は相馬氏の最初の城があったところだからむしろ北郷などより鹿島より古い歴史をもっている。相馬氏関連としてはそうである。
ここで不思議なのは大原が一番士禄にのっている人が多かったことである。今なら大原ははずれている山側にある。そしてかや浜も多い、それはなぜなのか?
これは今の中心地域はもともと原っぱでありあとで野馬追いの馬の放牧場になった。
早くから開拓されたのは雲雀が原から放牧場になった広い範囲がありその周辺地域が先に開発された。だから大原はその牧から相当離れている。
大原に近接するかうの草(深野ーふこうの)もそうである。高倉も山側であり離れている。今の原町の中心部は原っぱでありあとから開発された地域である。
そこは宿場町として発展したのであり田畑にした地域ではない。原っぱの中に宿場町が生れたのである。

ただなぜかや浜が意外と多いのか、あそこは今回津波で壊滅したけど高台の方は残った。それでも被害があった、それでもかや浜は早くから開拓されていた。
だから慶長津波の来る前からかや浜は開拓されていて村を形成していたのである。
ただ津波で壊滅した低地はあとから開拓された。
文禄時代になるとまだ相馬氏がこの地に勢力をもって支配していたとはならない、
小高城があり村上に移り牛越に城を移し中村城に移ったがこれらは慶長年間であり文禄ではないからだ。文禄になれば相馬藩政記でも記録にないことが多いだろう。

だから北郷という名は小高城があったとき、小高から北にある郷として名付けられた。
小高に相馬氏の最初の城があったのだから小高が古いのである。
太田神社も基点となった所である。そこから北だから北郷になった。
その北郷はただ北郷となっていてかしまと小池と山下しか地名がでていないのだ。
他はまだ相馬氏の士禄にはないということは支配するものとしてなかった。
相馬氏の士禄を与えるものが侍が住んでいなかったのかとなる。
小高は地名がでているからだ。
そしてなぜかしまと小池だけがでているのかということなのだ。
屋形とか海老とか横手も浮田もでていないのだ。
小池が意外と先に相馬氏の支配下にあり開拓されたとなる。
その理由の推測として中世の館(たち)が相馬藩内に38もありその館の支配下にあったものはまだ相馬氏に服属していないから士禄が与えられなかった。
特に北郷は小高よりも原町よりも中村よりも相馬氏の支配下に入るのが遅かった。
田中城がある田中領分とあるからそこは文禄時代に相馬氏の領内になったのだろう。

今回なぜこの記録に注目したかというと小池原の墓地を見たら文化、文政とか古い墓があったからだ。あんなところにどうしてあるのだろうと不思議に思った。
そこには家というのもまばらであり今でも原っぱなのである。なぜあんなところに古い墓があるのか?それもそれなりの石を使っているし戒名も明確に刻まれている。
橲原(じさばら)と栃窪とかこうした古い墓地があり今は使われていないものがある。
でも粗末な石でありいつの時代かもわからない、橲原(じさばら)の今は使われない墓地は明治時代であり開墾に入った人たちの無名の人の墓である。だから石も粗末で小さいのである。戒名もはっきりしないのである。戒名も今でもそうだけどつけてもらうにはそれなりの財力がないとできない。
だから小池原の墓地は不思議だと思った。あそこは墓地でも捨てられた墓地であり後がつづいていない、たいがい古い墓地でも必ず今の人の墓が継続して作られているのが多いからである。なんらかでその子孫が絶えたのかとなる。そもそもあそこには家がまばらでありそれだけの墓地を作る村があったとは思えないのである。
だからどういうわけであそこに古い墓地があるのが謎である。
推測としてはむしろ小池より深野(この草)とか大原より開墾に入った人たちかもしれない地理的に連続していて大原と深野は文禄時代から開墾されて士禄が与えられていた人たちが住んでいたからだ。

郷土史研究で大事なのは村の新旧なのである。古いと思っていたところが新しいこともあり新しいと思っていた土地が古くから人が住んで開墾されていたとかある。
今回の小池原の墓地は新しいと思ったが古いということでもわかる。
深野(ふこうの)も大原も原町の中心部より古い、かや浜も古かったのである。
深野の台地に広い墓地があり岡田氏などの墓があった。天保と記された墓もあったが
天保よりも文化文政の小池の墓は古いのである。
そして深野の不思議は野馬追いに21騎が出ていて旗印が出ていたことである。
そんなに深野に野馬追いに出る人がいたのか?侍がいたのかとなる。
何か特別の事情があったのかとなる。
雲雀が原で出会った人も甲冑競馬に出ていたという深野の人だった。
いづれにしろ郷土史が墓地をみる必要があるというとき墓地は具体的だから郷土史を実感しやすいのである。

タグ:文禄
posted by 老鶯 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年07月30日

夕蝉(墓地の俳句二句)


 
夕蝉(墓地の俳句二句)

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夕蝉や小池の奥の古き墓
深野の墓地広々と夏の暮

仮設住宅があり小池原とあった。そこに墓地があり古い墓があった。これは開拓に入った土地かと思ったが江戸時代の墓だった。まず墓は時代をみる。そこに江戸時代のがあれ歴史的に価値がある。その墓地は古く江戸時代から住んでいたことがわかる。
「文化」「文政」「嘉永」とあったからここが意外と古い場所だった。
何か小池の奥であり開拓に入ったような場所に見えたからだ。

次ぎにその道を高速道路の方にでると深野になる。深野(ふこうの)は台地がありそこが意外と広い。あそこはあとから開拓された土地だろう。
そこに墓地があり広かった。あそこに墓地があるということも意外だった。
「天保」と記された墓があったからこれも古い、ただ小池原よりは新しい。
だから小池原のあの墓地が古いから意外だった。
郷土史で大事なのが村の新旧である。そこがいつ開かれていつ人が住みはじめたかがポイントなのである。それが墓地を見ると具体的になるから墓地をみることが大事なのである
このことは郷土史研究につづきを書いてみよう。資料と合わせる必要があらだ。
ともかく暑いので家にいられない、クーラーないから特にそうである。
それで外を歩いていた方が涼しいから夕方に歩いている。
今回は意外な発見があった。たいがい見ているが墓地は意外隠され所にあるからわかりずらいのである。



 

2014年07月29日

野馬追いの写真の絵画化


野馬追いの写真の絵画化

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posted by 老鶯 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

試しです


試しです

調子悪い
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野馬追いー俳句十句 (野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)


野馬追いー俳句十句

(野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)

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若衆の家紋鮮やか陣羽織
夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
旗指し物二頭そろいて風を切る
大将や真夏日さして赤き母衣(ほろ)
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士
鬼百合や兜の角に引き締まる
ノウゼンや男祭りに燃えるかな
ノウゼンや後続の絶えぬ旗の列

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この句になった写真や絵を出したからどれかにあてはまる。

野馬追いではやはり伝統を意識する。今は侍など別に特別なものとして扱われないし侍の家の出がどうのこうのも話題にならない。ただ野馬追いの時は話題になる。
家紋つきの陣羽織を若い者が着れば家を意識する。野馬追いは何らかで家を意識する。
旗指物でも侍だった家に受け継がれたものだからである。
だからどこの家に野馬追いの旗がたち行列に参加していまか気になる。
今回は北海老に旗がたったのを見た。その旗をたどってゆくと鹿島区の行列に参加して
予備演習の神旗争奪戦にもでていた。それが今度は雲雀が原の神旗争奪戦にも出ていたのである。あそこでは屋形とか海老の人が集まり訓練していたみたいだ。

今回は写真でも田んぼではない草原をバックにしてとれた。そもそも野馬追いは雲雀が原の十倍の広さで放牧した野馬を追う行事なのだから草原にあっていたのである。
草原を疾走する野馬がいたのである。今はそうした放牧された馬となる北海道の競走馬を育てる所くらいしかないだろう。北海道には草原があるからそれが見れる。
馬が活躍するのはモンゴルのような草原であった。
ただ不思議なのはなぜ中世にはこうした牧が日本でも全国的にあったのかということである。その後、そうした牧の原は田畑に変えられたからである。中世の農家、鎌倉時代ではそうして広い牧に馬を飼っていたのである。それは農耕馬ではない、戦闘用の馬なのである。日本全国にそうした広い原で馬が飼われていた。
それが江戸時代になりほとんど田畑化してなくなった。
おそらく人口が増えてゆくと田畑の方が必要になり戦闘用の馬はいらなくなったのだろう人間は戦争ばかりしていないからである。

戦闘用の馬は農耕馬になっていった。農家には必ず馬を飼っていて農耕馬としてあった。戦闘用の馬は江戸時代は平和な時代から必要ないのである。
ただ相馬野馬追いは中世からの野馬追いの儀式が継続されていたのである。
それは今盛んに戦国絵巻の再現だとか出陣の法螺貝だとか言ってまるで戦争ふるような感覚になるが実際は違っていた。
法螺貝だって馬を追うために鳴らしていたかのかもしれない、野馬追い行列は戦争に出陣する儀式のようになっている。
それは結局観光化した結果、戦国絵巻ということを宣伝して人集めする羅うになったからである。
野馬追いは江戸時代でも神事であり地味なところもあった。
だから一般の人は柵の間からこっそりと見せられていたのである。
そもそも江戸時代は300年戦争がない平和な時代なのだからそんなに対外的に軍隊を見せる必要がないのだ。伊達氏と戦うわけでもない、だから出陣式とも違うのである。
示威行進とも違っていた。戦国時代なら示威行進があった。それも終わったらそんな示威行進をする必要もないのである。

いづれにしろ勇壮な戦国絵巻だというのは明治以降に作られた見せ物と化した結果、ドラマのように見せるようになったのである。
歴史の真実は本当にわからない、ドラマや小説を歴史の真実だと思うようになったのは現代である。映画化すると映画が歴史の事実だと思って見ている。
虚飾が虚構でも歴史の真実はわかりにくいから事実だと思ってしまうのである。
坂本竜馬が有名になったのは司馬遼太郎の小説だったのである。それも真実はわからないのである。

野馬追いに参加したのは城勤めの人が中心であり郷士などは自由に雲雀が原に集まってきたという。中心は殿様がいる中村城下の侍が中心だった。そのことも変わったことである今は中村城下から街から野馬追いに出る人はほとんどいない、城勤めの侍は明治時代になるといなくなったからである。その代わりに農家の郷士だった人たちが主役になっていった。その変化も大きい、なぜなら中心となるべきものがいなくなり周辺に残った郷士の祭りになったということである。
今では殿様自体が地元に住んでいないし野馬追いの時だけ呼んでくるのである。
野馬追い祭りがあるからまだ殿様として残されているともなる。
他はほとんど殿様は消えたからである。

いづれにしろ祭りは何でもそうだが男が燃えるということがある。祭りに命をかけるということも実際に他で起きている。それだけ熱くするものがあるのが日本の祭りなのである野馬追いに出る人は限られていてもなぜ金をかけても出るのかとなると理屈ではない、侍の血が騒ぐとかなる。普通はそんなことを感じなくても祭りには感じるとなる。
祭りの時にだけ感じる特別な感情があるということである。

ただ時代が変わったのでそれも消失してゆくことがある。例えば中村神社の神輿を担いで本陣山に上るのは祭りのハイライトでるある。でもその神輿をかつぐのは氏子でもはないどこかの会社か工場の人たちだったのである。会社の人に頼まない限り神輿をすらかつげないのである。なぜならあれをかついで上るのはそれなりの体力のある若い人が必要になるからであ。そういう人が氏子として集められなくなっているからである。
だから過疎化で祭りが絶えるという時、祭りは若者が受け継ぐものでありその若者がいなくなれば絶えるということになるからだ。
現代はそれだけ地域のつながりも希薄化しているからそうなる。

野馬追いの祭りは真夏にふさわしいのだろう。祭りというとやはり夏なのだろう。
あの大将の赤い母衣が日がさして一段と赤くなっていたのである。
あの母衣は戦闘の時は中心にあり目立つ必要があった。だから赤がふさわしかった。
ただ紫のもある。大将の目印としては赤が目立つから赤にした。
真夏の光にひるがえる旗や映える兜がにあう。今夏は夏の雲入道雲は出なかった。
いつでも入道雲が出る頃に野馬追い祭りがある。梅雨明けを宣言する祭りでもある。
野馬追いは何か写真でも絵になりやすい。生きている絵巻物だとは言える。


posted by 老鶯 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2014年07月27日

雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻? (相馬野馬追いのいろいろな話)


雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻?

(相馬野馬追いのいろいろな話)

ノウゼンや祭り男の燃えるかな

本陣をめがけて風に伝来の旗をなびかせ駆け上るかも
りりしくも本陣めがけ駆けのぼる兜の映えて旗印かな

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白鷺が先導しているようで格好いい
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これは鹿島(北郷)だけどこれも白鷺なんだろう(同系統なのか)

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北郷勢の行列

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北海老の旗

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□の旗に注意

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同系統の旗

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イノシシを先頭にした行列

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中村神社の神輿が本陣を目指し登る

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放れ馬 が疾走する

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最初浪江の大堀で相馬焼を露天で売っていた人がいた。その人に聞いたら白河で相馬焼をの窯をはじめているという。三軒ではじめたという。もう帰れないと言っていたから
その三軒は白河でこれから生活するようになる。浪江の大堀辺りは放射線量が高いから
帰らないと決めたし他の人も帰らないとなると浪江の大堀の相馬焼は消える。
あそこは高瀬川渓谷もあり景勝の地だったから残念である。
それでも相馬流山の民謡の踊りをしたのは今年は標葉(しねは)郷の婦人部であり浪江の人たちだった。浪江の人は避難してばらばらになっているのだけど何か一つになり練習して晴れの舞台で勢ぞろいして踊りを疲労した。相馬流山は軍歌である。

弟が甲冑競馬に出てきるという人が今年は危ない落馬するかもしれないと言って見守っていた。というのは馬を借りて今回は出場したからだという。
馬というのはやはり人馬一体となるまではなれるのには相当時間かかる。
馬は生き物でありその生き物と通じ合うにはやはり人間と同じように合わせる必要が出てくるから時間がかかるのである。馬は家臣と同じなのである。

今日出会った人で一番興味深かったのが旗をたてて走る甲冑競馬は旗が風で走りにくいだろうと言ったらそうではないかえって走りやすいのだという。
ええ、そうなのと不思議だったが理由を聞くと風を受けて人間も浮くようになるので馬は軽くなり走れるという。馬にとっては風で騎馬武者も浮き上がるので走るのに楽だというその人は若い時甲冑競馬に出ていたから経験で知っていたのである。
それは自転車でも追い風になると早く軽く走れる。また板をもっていたとき風であおられた経験がある。その時浮き上がるほどの風は力を持つ、それは船の帆の働きとにているのだ。ただみんな走りにくいと見ているだろう。
こういうことも馬のことが良くわからなくなっているからなのだ。
馬に乗るということをもう経験している人はまれだからそうなる。
今回も落馬した人が三人ほどいた。
救急車も三回くらい出動した。馬は結構危険であり乗る人も近寄る人も危険である。
馬はかなり野馬追いでは興奮している。だから放れ馬になり乗り手がいない馬が疾走していた。

今回は帰りに南相馬市博物館によったが北海道の伊達市で見つかった屏風図は興味深い。あれだけのものが今頃発見されたというのも不思議である。伊達市は亘理から北海道に移住したので伊達市になった。その伊達市から野馬追いの屏風絵が発見されるというのも不思議である。北海道に武士の末裔は多く移住した。伊達市はそれだけ一団となって移住したから伊達市になった。もともと相馬藩と伊達藩は争ったといっても戦国時代が終わるとかえって親交が深くなった。地理的にも隣り合っているのだから不思議ではない。
この屏風絵などが残っているのは江戸時代中期に描かれたとありその頃から野馬追いは知られていて伊達藩の人が通って描いたのである。

ボランティアで説明する人がいて野馬追いは軍事訓練とか戦いのためにあるのではなく、野馬をまさに追う神事だったという。それが今回の屏風絵でわかり説明していた。
野馬を追うために戦陣のように陣容をたてて放牧した馬を追いこんでいる。
その馬を転がして焼き印を押して神社に奉納するのである。
それを見ている人がいるが柵の隙間からであり神事だから全部を見せなかったという説明があった。


ただし日本には去勢技術は渡来しなかったため、自然増殖のままではオスウマが増加しすぎ、発情期のオス同士の
闘争が激化して群れが不安定となる。こうした牧の管理上の便宜より、野馬追いで若いオスを
捕獲し、これを軍馬に充てるというシステムが採用されていた(福田 1995:119-120)。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/13038/1/AN00041730_v59_p15-28.pdf

つまり野馬追いは神事であり今のように見せ物として行われていたものではないのだ。
だから旗を見せるなどということもない、戦争の訓練というものでもない、放牧した馬を追い込み焼き印を押して神に献げるのが目的だったのである。
なんか戦国時代の絵巻物として盛んに相馬武士の勇壮な姿を宣伝するがそれも違っていたそれは見せ物となったときそういうふうに特別誇張して宣伝されるようになったのである自分も戦国時代があり戦争のための訓練として野馬追いがあると思ったのである。


京都市登録無形民俗文化財にも登録されている賀茂競馬(かもくらべうま)は、天下泰平と五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する行事。平安時代、宮中武徳殿で5月5日の節会に催されていたものが起源で、その様子は『徒然草』などにも記されている。
現在では左方右方に分かれた2頭ずつで6番の競馬が行われ、2頭の馬が古式に則り、境内の馬場で速さを競い合う。左方の勝ち数が多い年は豊作とされている。


くらべうまであるというときもこれは馬に乗るにしても流派がありその流派の披露だったという説を言っている。2頭の馬が古式にのっとりとはそういうふうな乗馬の姿を披露していたのかもしれない。
ともかく歴史には本当に誤解が多い。そんなに戦争ばかりなかったけど面白いから戦争に注目する。人間はそんなに殺し合うことなどしたくない。でも歴史でも何でも自分に火の粉がふりかからない限り殺し合いでも面白いとなるのが人間である。
他人の不孝がテレビでドラマのように見ているのもそのためである。
相馬野馬追いとなると戦国絵巻の再現だとしきりに地元でも宣伝しているがそれは現代になると観光化してドラルのように見せるからそうなるのである。
実際は伊達と相馬は大規模な戦争はしていないのである。
自分自身にしても戦国時代の軍事訓練だとばかり洗脳されてきた。
伊達と戦うためだと詩にもしたがそれもそうした現代になりかえって誇張されたものが真実だと思うようになっているからなのだ。

ただ放牧された馬を戦陣を組んで追うこと自体が戦争の訓練にも通じていたのである。
モンゴルなどは別に戦争しなくても遊牧民でありその生活そのものが戦争になっても別に訓練しなくてもそのまま移動すれば戦争することができたのである。
遊牧民は馬でも羊でもそうした動物を集団でかいならし移動させる。それは何かその生活自体が戦争の準備だという側面があり戦争に強い集団が自ずと形成されていたのである。
野馬追いで気になるのはやはり旗印である。今回はどういうわけか鯰の旗印が気になったどうして鯰の旗印があるのだろうとなる。野馬追いには旗印が本当に謎になるのだ。
なぜあんなにいろいろな旗印があるのだろうかとなる。
その解明はほとんど不可能である。由来がわかる旗印自体が極めてまれなのである。


鯰の旗印は二つあり帰り馬で見たがデジカメの電池が切れてとれなかった。
どこの村の旗印なのかわからない、どうして鯰になったのかも不思議だとなる。
いづれにしろやはり野馬追いで雲雀が原に人が集まると地元の人も集まりそこで情報が集まる。あれが弟だとか自分も前は甲冑競馬にでていたとか生々しい話しが直接聞けたりする。そこに祭りの意義がある。なぜ祭りに魅了されるのか?
祭りに血が湧くのが日本人である。祭りには何か歴史でも文化でも何かを血肉化したものがあり理屈ではなくて日本人の血が沸かせるものがある。それでフランス人が日本の祭りを見て歩いたというのは正解だった。祭りに日本人の何かが結実しているのである。
だから祭りで死ぬ人がいてもでる。金がかかってもでる。今日も落馬した人を三人見た。野馬追いも一面危険なのである。救急車が三回くらい出動した。


それでも祭りには何かそういう理屈とか危険を越えても参加したいものが働くのである。
見る方にしても祭りは血が踊るということがある。見るだけでなくプログでも伝えようとして見るのはただ見ているのとは違う。伝えようとする時、明らかに祭りに参加しているのである。野馬追いは写真好きな人が相当来ていた。雲雀が原内に入れる許可を個人でとっていたひと150人とかいたし報道陣をあわせると300人以上いる
この許可証は5月ころにとるものでなかなかとれないという。
それだけ写真をとるのに熱心な人がいるのが野馬追いなのである。

タグ:野馬追い
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2014年07月26日

野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区) (撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)


野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区)


(撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)

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北郷(鹿島)副大将の家

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北海老村で見た旗がここに出ていた


夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士

草原に風のそよぎて馬の行くその旗鮮やか夏の日映えぬ
忘れらる馬も家臣や着飾りて練り歩くかないななきひびく
大将の真紅の母衣(ほろ)の夏日さし一段と赤く迫りすぎゆく
真夏日の黄金の兜にさし光り前へ前へと進む行列
家々の旗印映えて夏空に御神旗あがり馬いななきぬ

北郷の副大将の家に宇多郷(相馬市)が合流して明日は雲雀が原に相馬藩の武者が集結するそこからいい写真を撮ろうとして待っていた。あそで知っている人は写真をとるために待っていた。野馬追いは街中を通るのでなかなか絵になりにくい。
田んぼの中を先祖伝来の旗をなびたせて出る時、何か昔がよみがえる。
野馬追いは街中から出るのはごくわずかである。ほとんど農家からでる。
それは相馬藩は郷士であり農民だったからである。
そして500騎出るとすると多いように思えるが相馬藩の人口からすれば一パーセントにも満たないともなる。だから意外と地元でも野馬追いに出る人を知る人が少ないのである。


野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている。今回は北海老で旗がたったのを見た。その同じ旗印が行列にも出たし明日の雲雀が原の神旗争奪戦の予備演習の旗取りにも二つの同じ旗が出ていた。するとあれは北海老から出たものだということがわかる。馬はどこの村から出るのかわかりにくい、ほとんど旗見ただけではわからない。
今回は北海老で見たからわかった。ただ行列だけに参加したり旗取りには出ない家もあるからどこの村の旗なのかわかりにくいのだ。


撮影ポイントでとったがあそこは田んぼだったが原発事故で田畑を作らないので草原化したのである。何度も書いているようにこの辺は田畑が草原化してしまったのである。
ただその風景が野馬追いとか馬にはあっているのだ。
もともと原っぱで馬は放牧されていたからである。雲雀が原はそういう広大な馬の放牧場だったのである。十倍以上も広い放牧場だったのである。
だからこうした草原が原っぱに馬は放たれていたのである。
だから草原から吹いてくる風が涼しく馬も気持いいとかなる。
モンゴルの草原や平原に馬はあっているのだ。
今年は女武者が多かったみたいだ。夏菊が咲いて絵になっていた。
野馬追いはやはり馬の時代がよみがえるということがある。
馬がいなないたり糞でも汚れたりする。

今は一時的に競馬馬を借りるのが多いがそれでも馬がこの時用があり馬が人間と一体化してあった時代がよみがえる。馬は機械とは違うから人間と同じであり家臣にもなっていたそれは昨今のペントブームと同じである。動物も人間に飼われれば人間化するのでてある
ともかく野馬追いは意外といい写真がとれない、それは動いているし一年で一回したシャッターチャンスがないためだった。いくらいい写真を撮ろうとしてもそのチャンスが瞬時だからいい写真がとれないのである。
今回はねらいをつけてとったからいいのがとれた。
あそこで待っていればいいのがとれる。あういう場所は今はなかなかない。

明日は雲雀が原だけとここになると混んでいるしさらにいい写真をとるのがむずかしくなる。でもプログに出すとなると行かざるをえない、原町になるとどこでどう撮るかがわからなくなる。そして絶えず動いていて一回限りだからいい写真がとれないのである。
今回は撮影ポイントで待っていたらかとれたが原町ではうまくいかない。
デジカメだから数をとればいいのがとれるということはある。
ただやはりいい場所でねらっていることがいい写真をとるには必要である。
ともかく野馬追いの写真撮影は意外とむずかしいのだ。

タグ:野馬追い
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2014年07月25日

八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗 (行列の前からはじまっている野馬追い)


 
八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗

(行列の前からはじまっている野馬追い)

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この旗は□だけの模様のが二つあった。旗帳で調べたが北海老にはない、カラーではないので正確ではないが北屋形に斜めの線が二つ入ったのが出ていた。
海老村が南海老から北海老から上海老、下海老と別れたのは海に面して湊や塩場ができて人口が増えても養えたからである。
ただ八沢浦の方に伸びているから八沢浦だと勘違いしてしまう。
八沢浦は明治になって干拓されたのである。
だから屋形からの山のつつぎはその裏でも八沢浦ではない、海に面した所は昔は湊であり八沢浦のような干拓した田はなかった。
北海老にはニコニコ堂の喫茶店のある所も海老だった。屋形村と接しているからあそこが海老村の内だということでわかりにくくなる。

なぜ斜めの線が二つ描かれた旗が海老村にないなのか?
北屋形にあるとなるともともと北屋形が本家としてその旗主であり海老村にあとで分家した人がいたのかもしれない、ただあそこは北海老村でも何かあそこに野馬追いに出る人が集まる。上の方にもいくつか旗が立っている。
だから北屋形の人も集まるからあの旗がたった。
黄色に黒地の日の丸は出ていない、カラーの旗帳でないから判別できない、
ともかくあそこの旗は北屋形の人も集まっている
だから北屋形の旗が出ているのである。
北屋形も八沢浦に面している。
北屋形も海老でも海とかかわっていたのである。

この旗のたった所は前に山があって津波がさえぎられてさほど被害がなかったみたいだ。津波は地形に左右される、八沢浦は地形が入江になって入り組んでいて複雑なのである。だから海の近くでも前の山にさえぎられて助かった部落もあった。
南海老村が壊滅したのは前にさえぎる山がなかったから直接津波を受けた所は村自体が壊滅したのである。烏崎村でもそうだし磯部村でもそうである。
つまり津波から逃れる助かるには高台も必要だが前に山のあるような地形に家が立っていれば死んだり壊滅したりはしなかったのである。
そういう村にはなっていなかった。
津波のことなど全く考えて家も村も作っていなかった。
いづれにしろ野馬追いは野馬追いの行列だけではない、その前から野馬追いに出る家に旗がたつ時からはじまっている。その野馬追いに出る家がなかなかわからないのである。
相馬藩内でも広いからどこの家から出てその家の旗印がどういうものか知ることができないのである。
ただ今回は北海老村の家に旗が立ったのを見た。あの家は古い家だなとわかった。


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夏の南相馬市鹿島区の喫茶店ニコニコ堂 (そこは山陰になり穴場だった)



夏の南相馬市鹿島区の喫茶店ニコニコ堂


(そこは山陰になり穴場だった)

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いつのまにアーティチョークの育ちしや久々に来ぬニコニコ堂かな
山陰に喫茶店あり風涼し街より離れてしばし休みぬ
窓の外に羽を休めぬ蝶を見ゆ喫茶店あり夏の日暮れぬ
喫茶店街より近し山陰に燕の飛びて夏の日よりぬ
山陰に喫茶店あり影なして風の涼しもしばし憩いぬ
山陰に烏の二羽や北海老の喫茶店かな夏の日暮れぬ



標準和名はチョウセンアザミだが、日本には朝鮮半島経由で入ってきたわけではなく、地中海地域からオランダ経由で入ってきたと考えられている。江戸時代に既に日本に入ってきていたというのは驚きだが、定着しなかったのは周知のとおりだ。
そんな不遇のアーティーチョークであるが、世界では万能植物として重宝されているらしい。中世フランスでは媚薬として王侯貴族がこぞって買い求めたというが、亜鉛が多く含まれていることを考慮すると


こんな大きなアザミには驚いた。春に行った時からすでに3ケ月からニコニコ堂には行っていなかった。自分がゆくのは今は決まっている。スーパーでありあとはローソンでアイスコーヒーをあそこは五十円高いが見晴らしがいいので気分転換に飲んでいる。
意外とその場の雰囲気が人間の心に作用する。人間はただ飲み食いすればいいというものではない。腹を充たせばいいというものではない、常に人間は飲み食いするにしても五感で感じているのである。その場の雰囲気に左右される。
景色がいいところで飲み食いするのと大都会の雑踏で飲み食いするのでは違うのである。胃袋をみたすだけになるとそれはもう人間ではないだろう。

だから鹿島の北海老の山陰にあるニコニコ堂が近くに住んでいて穴場であり意外な所にできたなと思った。今は介護など忙しいから用事があるからたいがい六号線沿いで用をすます。六号線そいでは景色を見ていいということはない。
あそこは街から離れているというのでもない、六号線から意外と近い場所にある。
だから車だったら不便を全く感じないだろう。
最初は海の方をながめられる喫茶店がいいと思っていた。そういう喫茶店があったがあそこは津波に流される前にやめていた。景色がいい場所だったが客が入らずやめたのだろうそのオーナーは外部の人だった。それでその家を売り出していたが流れてゼロになってしまったのである。

アーティチョークというのは結構ロ-マ時代から品種改良としてあんな大きなものになった。品種改良はロ-マ時代から行われていた。それから朝鮮経由で入ったとあり朝鮮アザミとされた。日本には朝鮮経由で入るものがあるからそういんう名がつきやすいのか?
これは食べる野菜としてもあった。これを花として鑑賞するのは向いていな感じだった。野菜だったらこれだけ大きいのだから食べるのにはいい。
中世でも媚薬として使われたとか歴史を紐解くと興味深い。
インターネットの時代は知識の時代だということは確かである。
必ずアーティチョークとあればそれに詳しい人がいるし食用にしている人もいる。
現代では素人でもインターネット時代になると知識の時代だということがわかる。
知識が食べ物でも付加価値を生む、食べ物でも花でも植物でも単に食べるだけではない飲むだけではない、知識があって飲み食いすることが現代的なのである。

そして大事なのが雰囲気が付加価値を生む、六号線沿いが用事だけになるがここは憩いの場所になる。そういう雰囲気があり穴場だったのである。街から近いのに山陰に隠されるようにありクーラーもしていないで窓をあけていて涼しい風は入ってきていた。
街中は暑いがあそこは涼しい、でも今は暑いことは暑い、家にクーラーがないので家にいられない。涼を求めてあそこに行ってみた。
近くにはラベンダーを植えている家がありそれが匂うのもいい。

ともかく自分の行動範囲は本当に狭くなった。毎日買い物であり近辺にしか行かない。
自分は旅行していたときは喫茶店が好きだったというよりは休んでそこで一句ひねるとかしていたのだ。だから喫茶店が必要だったが今ではめっきりへった。
今はほとん飲み食いだけの場所だがそこは何か騒々しいから嫌なのである。
立地的には飯館村でもアグリなどの喫茶店はパンもうまかったしよかった。あの雰囲気でパンを食べると余計にうまいのである。
喫茶店は雰囲気が大事である。でもやはり六号線のような人が往き来するところに入りやすい。みんな暇人じゃないからである。
仕事とか用事をもったらなかなかゆっくりしていられないのである。
あそこも夕方五時で終わるから昼間ならそれりのメニューで食べ物を楽しめる
ただ食べることよりあそこではあの雰囲気を味わい休むのが憩うのが向いているのだ。

あそこは隠された穴場である。ただちょっと不便だからどのくらい入っているかはわからない。でもかえって雰囲気とか付加価値がある所だから意外性がありそういうところが
こういう忙しい時代にははやるとかもあるかもしれない、ただ飲み食いだけならどうしても六号線沿いになるのである。


2014年07月24日

原発避難民の風当たりはますます強くなる (介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)



原発避難民の風当たりはますます強くなる

(介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)

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鹿島区に仮設が集中している

避難住民の皆さんを対象に、公的負担でヘルパーなどの介護スキルを身に付ける職業訓練を行う。そして、医療や福祉の現場に就職してもらう。その収入は義捐金減額の対象としない。もちろん、除染作業や瓦礫処理作業による収入も減額対象から外す。
http://blogos.com/article/74517/


これは一つの避難民の具体的な仕事を与える工夫だろう。
どこでも今は介護で苦しんでいる家庭が多いからである。
介護自体が無駄だという議論があっても現実問題として苦しんでいるから放っておくわけにはいかな。
自分の問題にしてもこうした原発事故の避難区域でその矛盾をかかえた
介護していて親戚の人がパチンコ屋に借金返すために勤めていて何もしてくれない
それも借金だし深い関係があまわげでないからその人にとやかくは言えない
でもパチンコ屋がにぎわいそこに勤めて借金を返そうとする
その労働自体が有意義なものとなっていない
有意義も何も金になればいいではないかというのが現代だから仕方がないと言えるのか?
「地元でも他でも困っている人がいる、そんなことかまわず補償金があるしそんなこと知らねえよ、めんどうなことにはかかわらねえ、もともと知り合いでも何でもないからな」
介護問題では自分より困っている人は他でもいくらでもいる。何かそうしたこの辺の矛盾のしわ寄せが自分にはあった。
パチンコ屋通いしている人はそんなことを考えないだろうがいくら金があるからは言って遊びたいものは遊べばいいとはならない。それはこの辺の特殊な事情でそうなっているのだ。

「俺はもう年だし東京の方に行って遊んであとは生活保護だよ、今さえよければいいんだよ」

こういうい人がいたけどこれも無責任な話しだなと今になると思った。
生活保護をいちがいに批判はできないけど生活保護となれば市の世話になるしみんなの世話になることになる。
今は遊んであとは生活保護だという時、市のみんなの世話になるということではないか?
それは結果的に回りのものの負担になるということなのだ。
それほど負担をかけないで死んでくれたらいいがまた介護となると負担がかかる。
補償金がうちきられ生活保護になった時点で回りの負担になるのである。
そんな人を回りで市でかかえるとなると負担が増えるだけなのである。
こういうことは原発事故周辺ではかえって厳しい目が向けられる
人手不足が深刻であり介護でも外からの人でまかなっている
地元の人は避難民でも遊んで暮らしているというのも外からの目が厳しくなる
それでボランティアと遊んで暮らしている避難民が喧嘩になったというのもわかる。
もう避難民はかわいそうな人ではない、医療費はただ介護でも優先的であり
何でも優遇される時代は終わっているのだ。
なぜならその結果として回りの負担が増えているからだ。
介護にしても施設に優先的に入られるとしたら他のもっと困っている人は入れないから
負担が回りにくるのである。

この辺はいろいろなことが問われる場所になった。補償金があり金があるんだから別に遊んでいてもいいではないか?それか十人くらいの変わり者の単位だったらそういうことは問題にならない。それが多数なった時、問題になったのである。
そのことが市町村全体に影響するらヴになったからである。
それはイワキでも二万人も移住した結果、補償金で遊び暮らす人が問題になったのと同じである。数が少なければならなかった。
それが南相馬市ではなぜ鹿島区が大きな問題になっているかというと原町区は仮設住宅がすくない、鹿島区に仮設が集中して小高の人たちが移ってきたからである。
そして鹿島区では補償金が少ないことで小高の人に対して不満が大きくなったのである。原町の人があまり不満ではないのは原町に仮設が少なくて目立たないし関係しないし
鹿島区より補償金をそれなりにもらっているかららしいことがわかった。
原町区と小高区の人はもめていないのである。
鹿島区の人と小高の人が仮設が多いことで目立つからもめることになる。
それはイワキと同じだったのである。
金さえあればいいというのが現代社会だけどではその労働にしても金がもらえてもその労働自体に意味がないとなるととをなるのか?
それは回りにその影響がでる。介護の例がその良い例である。

「お前たちは毎日パチンコ通いで遊んでいるけと介護で苦しんでいる人たちがいる
働く人もみんな外から来ているんだぞ、お前らはよく遊んでいられるな」

三年も過ぎると風当たりが強くなってくる。だから小高の人が小高に帰れというのは別に自分が思っていることではない、鹿島の人はみんな思っているのだ。
それで車がパンクさせられたというのは本当かもしれない、イワキのように鹿島区では
そういう排斥が具体的なものとして起きてくるかもしれない
三年過ぎたということも影響している。これからまた二年もそうして遊んで補償金をためていることも批判される。
確かに具体的にはどうすればいいのかとなるとできないという面はある。
でも小高の人たちもこのまま遊んで暮らしていればいいんだとなると反発はますます大きくなりいやがらせも具体的にでてくるかもしれない。
だから小高の人と鹿島の人は何ら協力していない、それでも金があれば何も困らないからいいじゃないかともなる。でも実際はそうはいかないのである。
現実に回りに負担がかかっているのでありそれが金では解決していない
その金でもフィリッピン女性に使われたり東京だ仙台に費やされるとなると地元には回らないことなる。

ともかく行政でもなんらか手をうつべきであるが小高の人たちもこういう状況を考えないとこれからますます反発は強くなる、それが何か険悪になり事件が起きてくるかもしれない。イワキで起きたことと同じことが起きるかもしれないということである。

 
タグ:原発避難民
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松川浦の「松け江村」の謎 (松が浦の浦はあとからできたものなのか)


松川浦の「松け江村」の謎

(松が浦の浦はあとからできたものなのか)
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地図を見ていくと面白い、インターネットだと本のようではなく海岸線をたどってゆく、どういうわけ三浦半島は浦とつくごとく浦が多い、ここは浦が多いし現実に人々が浦で古くから生活していた。何か江とつく地名は少ない、面白いのは江の浦という地名があったなぜ江の浦なのかとなる。江が先にあり江の中に浦がある。
それは地形的にそうである。江川とあるとき、川が江になっている。江はもともと中国では川であるから不思議ではない、でも江川と二つつくと何なのだろうとなる。
海岸線に川はあるところが江となりやすい、江が広い範囲のものであり川がその中にある江の浦も江が広いからその中に浦がありうる。
浜野浦とか浜浦も浜という広い地域があって浦があった。
ただ浜とつけられた地帯は非常に多い、日本には浜清み・・・という万葉集にあるごとく浜の多い国だった。その浜は白砂の浜であり美しかった。そこには防波堤などなかったのである。

だから「松け江村」もそういう地形の中にあった。松川浦はもともと江でありその中に川が二つ流れ込んでいてそこに松ケ江村がある。浦と認識していたのではなく最初は江と見ていたから松ケ江村となった。
松川浦とはあとから名付けられた名前である。川をつけているのはやはり二つ川が流れ込んでいるからだろう。
それで万葉集の松が浦の歌が松川浦を歌われたのかどうか疑問になる。

浜というのは海岸線をたどるとわかるがそこは砂浜のつづく人が住んでいないような地帯である。だから浜というのは新しい地名だというのがわかる。九十九里浜などが典型的な浜である。どこまでも砂浜がつづいて人気がないのである。
ハマというのは端(はし)であり間(ま)である。だから人が住んでいないよう地帯だった。かえって人が住んでいないと浜市とか浜町とか市がそこに開かれたかもしれない、河原も中世では人が住んでいないので市になっていたからだ。

日本の地名が多様なのは地形が複雑だからである。大陸のようにどこまでも平坦な地が山もない何もない平坦な地がつづく風景はない、変化に富んでいるのである。海あり山あり川ありと変化に富んでいる。こういう風土は世界的に少ない。満州に行ったらどこまでもトウモロコシ畑でありこんなにトウモロコシを作ってどうするんだと思った。
平坦な地帯が延々とつづきその中を馬車一台ゆく、そして小さな村があり川は泥川である何か見ていて変化でなくあきてしまった。ただ広いというだけなのである。
あういうところに住んでいたらあきる。地形に変化ないからだ。
日本は狭くても地形に変化があるから自転車で行ってもあきないのである。
相馬藩内だけでも相当に変化に富んでいるのだ。だからまだ未発見の土地がある。

いづれにしろ松川浦を歌われた東歌も謎でありそれが松川浦だとは確定されない。
万葉集自体が謎が多いし東歌自体もどうしてできたのか謎であり解明されていない。
方言があるといってもそれが松川浦地帯の方言かというと「なも」は東歌全体にあるのだから東は浜名湖辺りも東になる。名古屋もそうであり広い範囲なのである。
そこで「なも」が使われたとしてその広い東の共通的方言だったら方言なのかとなる。
そもそも方言はほとんど青森でも沖縄でもそうだが大和言葉を変化させたものであり
だからこそ大和言葉の古いものが辺境に残っていたのである。
すると万葉集時代に方言があったということはすでに全国的に大和言葉が普及して方言化していたとなる。そしてそこから方言になるのは時間がかかる。
東歌ができたのはそれだけすでに東でも大和言葉が普及した結果だとなる。
それもさらに辺境の蝦夷のみちのおくの地域で使われたというのはどういうことなのだろうとなる。
つまり松川浦まで東の方言があることはそんなに広く使われているものだろうかとなる。

タグ:松が浦

2014年07月23日

原発事故で失われたもの(飯館村を例にして) (補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)


原発事故で失われたもの(飯館村を例にして)


(補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)

●働くと帰還すると損だということの矛盾


たとえば震災前に月収30万円だった夫が妻と子供2人と暮らす場合、30万円プラス40万円で70万円が支給されている。新たな要求に基づけば月収分の30万円プラス慰謝料35万円×4人分で140万円、計170万円が毎月支払われる計算だ。ここには財物損害、いわゆる失われた資産などの補償は一切含まれない。(避難区域)
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31912093.html

夫婦二人と子供三人の家庭でN市の仮設住宅に避難している個別事例。月額で70万円。この主人は半分を生活費として奥さんに渡し、残り半分を自分が使う由。自分の使う分でレクサスをローンで購入し、残りはパチンコに使う(といっている)。(飯館村)
http://blogos.com/article/74517/

原発事故で起きてきたことは何なのか?津波でもそうだが当たり前にあった生活が失われたことである。そもそも故郷に住んでいることこそ当たり前であり故郷が何かなど普通の人は考えたこともないだろう。その当たり前のことが当たり前の生活が失われたことなのである。
津波もあるが原発事故の結果故郷全体が失われたことなのである。
津波だったら被害が大きくても海岸地帯だけの被害ですんだのである。
避難区域になった所は住めなくなったし未だに田畑は原野になっている。
そして不孝なのは実は故郷を失って苦しんでいるのではない、かえって多額の補償金で楽になり仕事を失っても補償金で遊んで暮らしているその人間の堕落にあったのである。
人間の悪い面が多額の補償金をもらって露骨に現れたのである。
もともと田舎に住んでいる人たちが素朴だとかない、今はどこでも金が第一になっているそういう広域社会に住んでいる。だから金さえあればいい暮らしができる。
それが避難民に露骨に現れたのである。
レクサスを買いギャンブルに毎日興じている。東京まで行ってギャンブル風俗に行っている人までいるし仙台にも遊びにゆく、仮設にフィリッピンの女性が来ているとか、何か補償金の額が大きいから遊び人間になってしまったのである。


では避難民が働こうとするとその分が補償金からひかれるとか働くと損になるというのもそうした遊び人にさせる。それが避難民にとっては馬鹿らしいから遊んでいた方がいいとなる。相馬市でトマトを作る農家に雇ってくれと言ったら飯館村の人が断られた。
これは冷たいなと外から見る人にはなる。でも実際は多額の補償金をもらっているのだからお前たちは働く必要はない、それより相馬市では原発の補償金はもらっていないから津波の被害者が優先だというのもわかる。浪江でも工場経営者が元の仲間に仕事をくれと言ったらお前らは補償金をたんまりもらっているのだから仕事しなくてもいいだろうと言われた。確かに工場経営者だったら軽く億の金がもらえる。牧場経営者で5億円もらった人がいるとかその額が大きいのである。
「お前らは仕事しなくてもいい、補償金で遊んでいろ」となるのも変なのだけど現実にそうなっている。


一方で外からでも避難民を受け入れたところではそういう人たちに対して不満になる。
イワキでも福島市でも全然補償金をもらっていないからである。なんだあいつらは補償金でぜいたくして毎日パチンコにゆき遊んで暮らしている。俺たちは何ももらえず働いている、あいつらのために働かせられているとまでなる。やはり避難した人たちは何らか避難した先では周りの人はが働いているから生活できる。でも避難民は補償金で働かないからそう言われる。
その補償金の額では内部でももめているのだ。双葉とか大熊とかイワキに補償金で新しい立派な家を建てた住宅地が出現した。しかし道を挟んでまだ仮設に住んでいる人たちがいる。それは広野町とか補償金が少ない人たちなのである。
都路村でも道をはさんで補償された者とされないものでもめた。南相馬市でも鹿島区は30キロ圏外で補償金が少ないから不満である。それで小高区の人たちが仮設が大勢住んでいるのでその人たちをうらやみ車をパンクさせたと聞いた。
それがもっと激しく起きているのがイワキである。2万人も移動したらその軋轢は激しくなる。

●ギャンブラーになった避難民


原発事故周辺では何が起きたとかというと補償金が多額な故に内部でももめているし外部からは遊び人だと批判される、では補償金をもらっている人たちにしても言い分はある。なにしていいかわからないし金があれば遊んでいる方がいいとなる。帰還する意欲をなくさせているのである。仕事するにしたって農民だったら簡単にできないし仕事しない方がいいと普通はなる。だからギャンブルになった。
田舎に住んでいたからといって普通はその人たちが今は素朴だとかいい人だとかない。
つまり人間の醜い本性があからさまに現れてしまったのである。
金があるんだから遊んでいればいい、何しようと勝手だとなる。
だから避難民は浪江だったら一人35万にしろとか補償金を要求するだけの人たちになったそういう人たちをみている時、いろいろ理由はあっても今は嫌になるだろう。
それで大内村に住んでいた外部の人は嫌で去ってしまった。


つまり当たり前にあった生活が失われた、その当たり前の生活とは何だったのか?
それは実は人間の本性たる悪が隠されていた生活だったのである。
田舎の人が素朴だとかいい人だとかはない、ただ今までだったら貧しい人は貧しい人なりに生活していた。飯館村は県民では一番所得が低くかった。飯館村が原発補償金もらっていたろうと言う人がいたけどないと思う。何か目立った施設もなかったからである。
そこは一軒一軒森につつまれて隠されるようにあった。
その時人間の生活は隠されていてそうした人間の悪い本性が露骨に出てきていなかったのである。
確かに場外馬券場とかはあったからギャンブルはあった。でもそれは全体ではない、一部である。ただ場外馬券場は鹿島区にもあり田舎に住む人がギャンブルをしないということはなかったのである。それが原発事故で露骨になり全体に波及してしまったのである。
だから避難民はギャンブラーとなり遊び人となってしまったのである。

そのことの影響の方が今になると大きい、教育上もよくないしそんなことばかりしていたら人間がどうなってしまうのか?
毎日家でも博打の話しばっかりになったらどうなるのか?
そのことの影響が今は大きいのである。それは別に避難民でもない回りの人にも影響するなんだあいつら補償金で遊んで暮らせる、俺たちは働くのが馬鹿らしいよなとなる。
生活保護者の方が俺たちより金をもらっているから馬鹿らしいよなというのともにている

ともかく自分にしてもこういう人たちばっかりになったら嫌になるしそういう話題ばかりしかないとしたら嫌になる。現実になっている。確かに外部から人が入ってにぎわうのだがそれも何か普通ではない、プレハブとか労働者でも大勢きていると何か治安が悪くなるとか心配するのもそのためである。やはり田舎だと一軒一軒土地があり広い敷地に住んでいるのがあっている。ただそれを今までは当たり前としてみていたのである。
だからそれを特別なものとしては見なかったのである。でも仮設に住んでいる人たちと広い敷地の農家に住んでいる人たちはあまりにも違っているから意識するようになったのである。


●神は人間の生活を隠したー飯館村がその例だった


だが,不死の神々は,優れて善きことの前に汗をお据えなられた、
それに達する道は遠く,かつ急な坂で,
始めはことに凹凸がはなはだしいが,頂上に到れば
後は歩きやすくなる――始めこそ歩きがたい道ではあるが.
(『農耕と暦日』289 - 292 行)

この引用箇所における「優れて善きことの前に据えられた汗」というのは,
ゼウスの「正義」(ディケー)を実現するための「仕事」(エルガ)に他ならない
「怠惰な生を送る者に対しては,神も人もともに憤る」
(『農耕と暦日』303 行)とあることからも,
今の世の人間たちと神々との関係は,決してよいものとは言えない.
神々との関係を修復するために,ゼウスが人間たちに唯一残した道―
それこそが「仕事」(エルガ)なのである.

【主要参考文献】
廣川洋一『ヘシオドス研究序説』(未来社,1975)

http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/research25/002.pdf


仕事とは単に金を得ることだけでない、他にもいろいろ仕事には意味と意義があった。
そんなこと普通は意識していない、深く考えて仕事している人はいないからだ。
ただ金になればいいとかは常に意識させられる。でもでは多額の補償金が入ってきた時
金があれば働かなくてもいいとなる。その時人はギャンブラーとなり生きる価値すら失ったとなる。そんなやつらは目障りだから追放されることにもなる。
もちろん仕事がすべて肯定されるわけでもない、仕事にもいろいろあるからだ。
ただ今回の原発事故では仕事が奪われた当たり前にあった故郷がなくなったとか当たり前にあったことの意義が問われたのである。


もう一つはヘシオドスが「神は人間の生活を隠した」というとき人間の生活が自然の中に隠されてあったとき良きものであったのだ。人間の本性は本来悪であり田舎の人間もやはり悪であり欲望も深い、ただそういうもの欲望でもおさえられてその本性が隠されて暮らしていたときそういう悪は隠されて見えない、だからそもそも日本の神道でも罪はつつむであり自然の中につつみかくされたとき覆われてみえなくなると意識したと同じである。日本の自然はその自然が神道の基なったごとく美しかったのである。
それが文明化して都会化したとき人間の生活がむきだしになり日本がもっていた本来の美は真直なる美は失われたのである。



隠された村


深い森につつまれて飯館村はありぬ
花はのどかに咲き日は静かに過ぎてゆく
人々の生活は山間に森に隠されてありぬ
その醜い人間は森の中に山の中に隠されありぬ
小鳥は本然の歌をここで歌い
その声は森にひびきわたり暮れぬ
自然に飾られて何も飾らぬ村よ
石はそこに寄り合い誠実の日がある
人々の欲はそこにおさえられて
森が深く息づき本然の生を養ふ



こんなふうになっていたのが飯館村だった。飯館村は何か違っていた。それは他より森とかに隠されていて本然の自然が深く息づいていたからそう感じたのである。
自然の神秘性がありそう感じたのである。
それが失われたとき、人間の悪が本性が露骨に現れだけとなってしまったのである。
そのことが最大の悲劇であったのだ。金では買えないものが飯館村全体にあったが失われたのである。
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2014年07月22日

2014年7月22日 南相馬市鹿島区の状況(写真) (野馬追いの準備ー仮設ー除染のホテループレバブーソーラバネルなど)


2014年7月22日  南相馬市鹿島区の状況(写真)


(野馬追いの準備ー仮設ー除染のホテループレバブーソーラバネルなど)

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この家に野馬追いの旗立ちにけるかな駒も勇みて出陣まちぬ
旗立ちて風にはためく北郷の宇多郷迎え出陣するかも
若竹の伸びにけるかな水無川今日勢いよく朝に流れぬ
朝の川流れ轟き藪萱草ここに咲きなむ鳥の音ひびく
合歓の花朝日のさしてこの道の奥にしひそか家のありしも
今日一日ひまわり畑に陽のさしてその色明るく映えて充たさむ
立葵ダリヤの花や朝に映え燕飛びかう農家の前かな

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野馬追いは26日にはじまる。それで屋形の方に旗がたった。この家からは野馬追いに出るのだなとわかる。野馬追いはすでにこの時からはじまっている。野馬追いに出る家は限られているからわかりにくい。野馬追いは外から見ると一番誤解しているのはみんなが出る祭りだと思っている。でも相馬藩内で500騎出たとしても全体から見れば10万人の人口から見たらわずかなのである。だから意外と野馬追いに出る家も人も知らないのである。
みんな出れるように見えても出れない、侍だった家しか出れない、街の方からほとんど出ない、郷士だったから農業していたから農家から出る。
野馬追いの祭りは他の祭りとは何か違っている。町民全部とか市民全部が祭りにでるわけではないから見るだけになるから違っている。

ただ野馬追いでは意外といい写真がとれない、動いているし行列でもすぐ終わるからシャッタッチャンスだと思ってもすぐすぎてゆくからとれないのである。
そこが意外と盲点だったのである。野馬追いは写真をとるにはいい。
特に旗祭りというように旗がいろいろあってそれが写真になりやすいのである。
それから野馬追いは馬祭りでもある。馬は今や競馬のようなものでしか生きていない
野馬追いでは馬が生き返る、馬が活躍した時代がよみがえるのである。
一年間馬を飼っている人もいるが今は競馬馬などを借りるのが多い。
それでも結構金がかかるのが野馬追いなのである。それでも出たいというのはやはり祭りだということである。

水無川が雨がふって勢いよく流れていた。若竹が伸びていた。仮設住宅が見える。
この仮設はやはり仮の宿だから早く引き上げるべきである。でもあと二年くらいはいる。そもそも田舎に住んで思うことは農家が田舎ではやはり中心のように見えるのだ。
古い大きな木がある庭があるということはそれだけの歳月を積み重ねて農家がある。
街内はそうした家が少ない、代々つづいているのは農家なのである。
だから小高でも浪江でも飯館でもそうして長い歳月で作られてきた農家が結構まだ多い。するとそこを離れてまた一から土地を買い家の歴史を作ってゆくことは大変になるのだ。もちろん現代は農家でも農業中心ではないからそういう時代は終わったとしてもやはり農家には重みを感じるのである。

仮設は仮の宿でありそんろふうに暮らすのは風流人のうよなアウトサイダーならいいが
これだけの人が仮設暮らしというのも異様である。
仮設で感じたことはどのくらいの人かいるのか?もし2000人でもいるとするとその数がすごい、人口は1000人でも2000人でも増えることは市町村にとって大きな影響力があると思った。購買力もましてくることはある。でも広域社会になった時、別に一つの町で2000人増えようが食料などを手に入れることに困ることが全然ないのである。
だからかえって食料はぜいたくしているのである。
広域社会になると外からいくらでも食料が入ってくるから困ることはない、ということは何か困るから助け合うということもなくなる。小高の人が2000人いても鹿島の人と協力すくということはなかった。協力しなくても困らないからそうなる。
それで鹿島の人が小高の人の車をパンクさせたということを聞いた。補償金で鹿島の人は不満だからである。

水無川の上流は何か落ち着く場所である。あそこにはいつも合歓の花が一杯咲く、あの道を行けば家がひっそりとある。ただ最近何か騒がしいのである。
小池に作られたホテルは全国の人が集まっている。除染であれまだまだ仕事がある。
大型クレーンが通りプレハブの宿泊所はそちこち増えた。そして農家の畑にソーラーパネルが作られていた。これも何か景観を乱すので嫌なのである。
これも国から補助金をもらいるから作っている面がありその補助金詐欺もあった。
とにかくまだまだ復興で国から金がでるからこの辺は外部の人が集まっている。
それでにぎわっているといえばにぎわっているか何か前のように落ち着きがないともなる農村的田舎の風景が乱されている。風紀的にも乱れるということがある。
やはり仮設とかプレハブとかでは人間は落ち着かないだろう。

ともかく何かこの辺は以前として変化が激しい、何か落ち着かない、二年後に小高の人がされば落ち着いてくるだろうが今度は淋しいともなるかもしれない。
ただやはり人間はそれぞれの市町村で根付いて生活するのが落ち着くのである。
変則的な生活は精神的にも乱れるのである。
小高は小高での町作りをするのがいいのである。それが放射能汚染でできない、それと浪江が警戒区域で住めないことは小高に影響するから困るのである。
だ。から小高は還りたくない人が多く原町や鹿島に家を建てている人もいる。
そこが南相馬市の一番の問題なのである。
小高をどうするのかそれが一番の問題でありその住人がどうするのかも問われる。
ただ老人が多く補償金で遊んでいればいいとなると外部からも南相馬市内でも小高なんかどうでもいいとなるだろう。
金あるんだから金でめんどうみてもらとなってしまうのである。

2014年07月21日

松川浦の地名の謎 (松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)



松川浦の地名の謎

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)

●松川浦は松ケ江村が基の地名

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

1908年(明治41年)1月 - 松ヶ江村、飯豊村、磯部村の三ヶ村組合により河口の掘削を開始。
1910年(明治43年) - 掘削が終了し、河口に板橋を架橋する。
1913年(大正2年)8月 - 台風で板橋が流失し、渡船にて河口を横断し始める。
1951年(昭和26年)3月27日 - 松川浦県立自然公園が指定される。
岩子小学校は、松ヶ江小学校に合併され、岩子分教場となった

「松」がつく地名は、マツ族の根拠地だったのかマツラ 2 で紹介した松浦は、苗字でこそ「マツウラ」と読むが、地名の場合は、地元では「マツラ」といっている。 ... があって、それが松浦をはじめとする《マツ》系の地マッパラマッハラマツザキ名を西から東へと移動させたのではないかということである

地名・苗字の起源99の謎: あなたの祖先はどこから来たか
http://urx.nu/ajqO

松は松ではない、当て字である。松川浦の地名はまず松ヶ江村から発していた。
このマツは何を意味しているのか、末羅国のマツラがもとになっていのであり松ではない、ただすべてにあてはまるわけではない、古代郷名としては飯豊郷があったのだからこの地名が古いのだからその辺から歴史的になぜ命名されたかを探る。
ここで注目したのは松川浦ではなく松ケ江となっていることなのだ。この江とは何かなのかとなるとわかりにくい、入江ともあり江はよく使われる。江の島となると江の中にある島となる。江とは海でありその中に島があって江の島となった。これは地形的にわかりやすい。江とは広く背後に海とつながっている時に江となるのだろうか?

「浜、浦、潟、港」が現在の地形になったのは比較的新しい時代で、大半がこの千年位の間に形成されている

浦が新しい地形の地名だというのはなぜなのか?では江は古いのかとなるとそういう感じもない。エには江をあてたがこれは中国の漢字が入ってあてたのである。エでなくエィとか何か違った発音だったかもしれない,エミシのエもエである。エは縄文時代からあった言葉でありそれは何かわからなくなっている。ウミはミが水であることがわかるがエだけだったら何か語源がわからない、だからどうしてエに江をあてたかわからないのである。ここで問題にしているのは松ケ浦が浦になっているけどもともとは浦ではない、江であった。江として認識されたから松ケ江村となっていた。

ここが万葉集の松ケ浦なのか、それがどうして証明されたのかまだ研究していないのでわからない。ただ東歌だということは方言が使われているからまちがいない、東歌だということが貴重になっている。それは地元の人が残した歌だからである。
つまり短歌を作ることは結構万葉集時代にはむずかしいと思う。それだけの素養がなければ歌いないだろう。方言を使って短歌にしたことはそれだけの知的発展があってできたのである。なぜなら縄文時代とか弥生時代とかには詩は残されていないからである。
もちろん文字もないからではあるがやはりそれだけの知的進歩がなかったためだとなる。

●江と浦は違ってている

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そもそも松川浦の歴史はいつからはじまっているのか?津宮(つのみつ)神社については考察したけどそれは渡来系のツノガノアラシトのツノであった。それは産鉄族の一団が吉備や近江から移動したことは考古学的にも証明されつつある。その中核となったのが渡来系だからその関係の神社が祭られることになった。角部(つのべ)とはまさにそうした一団が住んだらか名付けられた。三代実録にもあるというときそれは古い神社になる。
しかしその時、松が浦という地名は存在したのか?飯豊郷は存在した。飯豊郷がありその中に松ケ江村が生れたのである。だからわけもなくマツと名付けたのではない、やはりそれなりの謂われがあるとなる。松ケ江とつけたときもそうである。浦でなくて江だったということは松川浦の地形を見ると浦というより江の地形なのだろう。
浦となると地形が陸地により深く入り込んでいる感じになるし何か一段と人間臭くなり生活の匂いが濃くなってくる。霞が浦というのもやはりその回りには相当人が住んでいた。
では松川浦にどれくらいこの歌が謳われた時、住んでいたのかとなる。むしろ新地の手長明神のあるところが縄文時代から貝をとって暮らす人たちがいた。松川浦にはそういう伝説がない。
江とはもともと中国の漢字が入ってきてあてた。中国の江は河であっても湖であっても広大であり海を思わせるのである。琵琶湖も広いが太湖になるとその三倍はあるとかスケールが違ってくる。中国では河も海の感覚になるのだ。だから江は浦と違って海を思わせる広い感覚なのである。江の島はまさに広い海の中にある島なのである。松江にしても広大な江であり海である。松川浦とにた地形でもある。
現在の大阪市内に相当する草香江などもそうでありそれは広い湾であり海なのである。

今回の津波で松川浦はまさに磯部が壊滅して広い海に江になったことに驚いた。
日下石(ニッケシ)まで海になったことに驚嘆した、松川浦は浦という感覚より江の感覚だった。八沢浦は江の感覚ではなく浦である。だから江と浦の感覚は違っている。
近江と言った時も江であり琵琶湖を海のように見ていた。江州が近江だった。
ただ霞ヶ浦というとここも広いのにどうして浦なのかとなる。
陸地に深く入りこんでいたから浦だったのか?その区別もなかなかむずかしい。
浦というのが新しいという時,西は古い地名が残っていることになる。
江という地名が多いとなるのかもしれない、ともかく感覚的に浦となったとき、松が浦となったとき、人間臭いものが感じるのはやはり地名に何かそうした理屈ではない長年の日本人の生活が地名にしみこんでいるからそう感じる。それだけもう地名は理屈だけでは語られないものとなっている。

●田舎の人間関係は万葉集時代と同じ見張られている

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌

 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ 我がもほのすも

ただこの歌の意味はわかる。近くに住んでいる人は街内から一キロも離れていないが田んぼの中にあり回りは農家なのである。親戚もいて監視されていると憔悴したように言う。もう一人の女性も絶えず見られていて何かと言われるので嫌だという。
田舎は見ていないようで見ている。何かそうなりやすいのだ。だから小さな町でも町内と農村地帯になると違ってくる。農村地帯だと四六時中監視状態になる。
今でもそうなのだがら万葉時代になれば余計にそうなりこうした人の噂に悩まされて恋愛もできないようになっていた。人の目が絶えず注がれていたからそうなる。
それは今でも変わらなかったのである。田舎では「部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった」こんなふうになる。
万葉時代はもっとひどいから人ごとしげみ・・・・でありこれから逃れることはできない、閉塞された時代だった。それは江戸時代もそうだった。現代は田舎は同じなのだがやはりこれだけ時代が違うといくらそうでも万葉時代や江戸時代とは違うのである。
世界の情報が入ってくるしそうした外からの働きかけを拒否できる時代ではないからだ。


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この漢詩は中国らしく雄大である。その隔つ感覚のスケールが違うのである。江を挟んで向こう岸は別な国の人になる。河は海なのである。だから中国人的な発想と日本人の狭い田舎の発想とは古代から違っている。万葉集でも非常に狭い範囲で生きていたが故の悲哀がにじみでている。それも日本では今も継続されている。
田舎になるとそうした狭い人間関係から出られず閉ざされて最近でも山奥の村で仲間外れにされた老人が殺人事件になった。そこは谷間であり出口がない、小さな部落だったのである。日本人は田舎だけではない、その風土から大陸的発想はできない国である。
海に閉ざされ山に閉ざされた国である。大陸だったらモンゴルのように果てしない大陸に民族移動が行われる。戦争とは民族移動の面があったのだ。国境と言ってもあれだけ広ければ国境は作れないからこそ万里長城を国境の壁として作ったのてある。

岳陽樓に登る   <杜 甫>

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽樓
呉楚 東南にけ
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 孤舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑って 涕泗流る

湖にが広がり国を二つに分かれさせてしまった。自然の変動で国が二つに割れたとなる。ここでも自然のスケールの大きさがあった。自然の変化で国が二つになるというのも中国である。今回の津波はそうしたスケールの自然の変動が日本にもあることを経験したのである。その後遺症はかなり長くつづく、村が壊滅して何もないというのは以前として変わりないからだ。

国風と東歌に見る人言

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(1)

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2014年07月20日

ラベンダーの香りは一番神秘的(詩) (田舎はその地形や自然の多様性があって田舎)



ラベンダーの香りは一番神秘的(詩)

(田舎はその地形や自然の多様性があって田舎)

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ひぐらしや屋形の方にひびくかな

ラベンダーの香りのよしもこの道に夕べ我がまた来たりて去りぬ

 この香りは、殺菌、消炎、
 鎮静効果のある「酢酸リナリル」
 などを含んでいる。
 線香の香りつけにも使われる。

 花言葉は「繊細、優美」

ここの三行詩は面白い、短歌にするとめんどうになるけど
簡単に日常の口語で気楽に書くのも現代的である。
インターネットの面白さは簡単に何でも発表できることである
詩は簡単に出せないし読まれないからそうした才能も埋もれていたのである
まず賞でもとらないかぎり誰も注目しないからである。
ここでもラベンダーは夕暮れを詩にしている
詩でも何か一つくらいはいい詩が書いているのも不思議である。
そういう詩は今までは見つけられなかったのである。
ここには女性的な感性があり岩の詩がありこれも一つの女性側からの見方だった


ラベンダーの香り

ラベンダーのその薄紫色
それは夏の夕暮れの色
そのほのかな匂いは
そこはかとなく流れる
ここを知りそれゆえにまた来る
田舎にとりだてて見るものはいない
その花は道の辺の畑に植えられた花
かぼちゃの花にラベンダーの花
それも田舎では調和している
ラベンダーは夕暮れの色
ラベンダーは憂愁の貴婦人の花や
何かひかえめに奥にすまい
古い調度品のようにある
ひそけくその甘やかな匂いよ
そは心も体もいやす香り
その香りは今日も流れている
尽きることなく流れている
・・・・・・・・・・・



鎮静効果のある「酢酸リナリル」などを含んでいる。

ラベンダーの香りは一番花では不思議である。香りのある花だったら確かに他にも沈丁花とかある。でもこの花の香りは何か神秘的である。その薄紫の色にもにあい夕暮れにあう花である。花はたいがい見て楽しむものである。香りで印象に残るのはまれである。
薔薇にはいろいろな香りがあるから香水がヨーロッバでは発達した。
ただ花の世界も今はグローバルになったから全部を知ることはできない。
鎮静効果があるというのは本当である。香りが体や心にも影響する
香りに日本人は鈍感である。ラベンダーは何かの病に使えるとかいことである。

確かにラベンダーは富良野とか美瑛で有名である。一面に咲いているから観光客がおしよせる。でもラベンダーは別にどこにでもあり楽しむことができるものである。
詩とか芸術は遠くに行けばあるというものではない、近くに田舎だったらどこにでもあるただ結局その人が発見していないだけなのである。
相馬藩内だけでもいかに地形が複雑であり多様な自然があったかを今ふりかえる。
海から山へと複雑な地形の中に暮らしがあった。
だからこうした多様な中で生きることは実際はあきることがない
田舎などつまらない、東京がいいとか言うのがわからない。
もちろん田舎の悪い点をあげればきりがないしそうした田園風景があっても姑息な人間関係で苦しんでいるのが田舎である。

ただ限界集落のことが問題になっているけど現代だとそうした集落を維持するにはイフンラでも街の中心部より180倍ものコストがかかるとかそういうために限界集落はいらないとなったのである。別に自給自足している昔の村だったらそんなことは言われないのである。そしてそうした多様な自然の中に溶け込んで暮らしていた村がなくなるとき、また多様な人間の営みも消える。
その時コンパクトシティだとか言っても一様に画一化した都会の生活になるだろう。
そうなると田舎の個性は失われる。
インターネットでは田舎からの発信が容易になった。だから郷土史関係が面白い。
そこには発見されない田舎の多様な暮らしが語れるようになった。
インターネットで田舎の魅力が再発見される時代にもなっているのだ。

ただどうしても田舎が田畑がなくなりソーラバネルとか風力発電とか会社や工場だけになったらそこが田舎なのかという疑問がでてくる。そういうものが必要でも基本的にはそのべースとなるものは田畑であり自然と密接に関係している生活があって田舎なのである。
ともかく田舎を近くでも語ればきりがなくなる。そういうことをプログで発信してきた。インターネットでいいのは「ラベンダー」というキーワードからその世界が広がってゆくことである。普通だったら富良野とか美瑛で終わっている。
でもラベンダーの世界は別にそこだけにあるのではないのだ。
屋形の方にひぐらしがかなり多くなきはじめた。屋形の辺りは丘があり森がありそれが街からも近い、それで北海老のニコニコ堂という納屋を改造した喫茶店は不思議だと感じた。隠された秘密の喫茶店のようになっていたのである。

相馬でも原町市とか鹿島と相馬市でもそれぞれ違った個性があり飯館村だと山の村になり一つの別な世界になっていた。丸森もまた阿武隈川があるから違った自然の中に個性があった。その住む場所が個性を作りだしていたのである。
だから栃窪に住む人、屋形に住む人、街内に住む人と鹿島区内ですら何か違った感覚をもつようになる。だから田舎はどこでも多様になる。都会だったら一様化画一化するのは
ただビルだけで土地の個性がないからである。
だから都会はかえってつまらない、なぜなら自然の中に美の鑑賞を深め思想を深めてゆくのが人間だからである。
東京では毎日ビルをながめて暮らすほかない、毎日がビジネスだとなる。
だからなぜ東京にあれだけ人が集中するのかわからない、仙台とか地方都市ならわかる。そこにはまだ自然はある。東京からまず文化など生れない、そのベースとなる自然がないからだ。もちろん文化など関係ないという人もあるからそうなっているのだろう。

だからこれもしかられるのだが津波の跡でも原発事故で原野化してもそこが自然でありやはり自然だから美がある。草原化した風景も気持いいなと正直思ってしまったのである。草原はモンゴルの風景であり燕とか夏雲雀とか鳴いているのに広々としてあっていたのである。そしてここは北海道になったのかと原野化した自然を日々ながめてプログに出したのである。
ただ飯館村のように避難区域になったところはまた別である。そこは草茫々になっているからそこが自然に還っていいなどとはならない。荒廃してしまった感じだった。

ともかく季節は日々変化している。花も次々に咲くから夏は初夏から盛夏と花を楽しむには一番いい、自分は花を追求してきたことは確かである。だから相当に花の詩を書いたがプログでも三つをやるのは介護とか家事でできない、だから詩集の部は更新していないのである。
タグ:ラベンダー

2014年07月19日

抽象画(花)


 
抽象画(花)

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これもなんかわからないけど抽象画である。
紋様の芸術なのか
その元になったのはインターネットにいくらでもある
ただその原画は何かはもうわからないのである。

2014年07月18日

十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった (原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)



十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった

(原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)

●少子高齢化で復興はできない


全国知事会が「少子化非常事態宣言」、止まらぬ都市への流出…小さな市町村の自助努力も限界、「日本破滅」と強い危機感

人口1万人割った夕張だって都から行った若い市長ががんばって老人説得して集合住宅に集約してる。
それでも一苦労だ。もっと大きい自治体じゃ話まとまらないよ

自治体は住民のためにあるべきで
自治体存続のために住民を集めるのは本末転倒である
http://peace.2ch.net/newsplus/#10

原発事故周辺ではこれが極端なものとして起きてきている。すでに65歳以上がほぼ30パーセントとかなっている。自治体が維持できなくなる。
そもそも自治体とは何かというとそれも普通は関心がない
故郷と同じく自治体も市町村はあるものだったのである。
それが原発事故や津波の被災で市町村自体が消失するということが現実化したのである。津波や原発事故周辺ではもともとあった問題が極端なものとして先取りして現実化したのである。

老人にしても65歳が30パーセントにもなるとその世話することが人材でも足りなくなる。この辺では厚寿苑という立派な老人施設を作ったけれど介護士が集まらず外から来た人で補っている。ほとんど外から来た人たちである。建築関係でもほとんど外から来た人でまかなっている。外からの人の助けがなくては成り立たないのである。
老人を集合住宅に入れようとするのはそこでまとめると世話するのが楽になるからだ。
車で一軒一軒回ると手間になるからである。
この辺では津波の被害や原発事故で期せずして街に人が集まったのである。

だから住宅地に新しい家が建ちそこが新しい街のようになっている。
海の方の村は三つくらいは完全に消失した。
それで街内の自分の墓地のある隣に復興住宅の団地ができた。これも想像もつかないことだった。なぜなら墓地あるところは街内でも淋しい場所だったからである。
でも田舎では広い庭付きの家に住んでいたのだからあういう団地にはなじめないかもしれない。でも老人なら世話するのにはまとまった方が楽なのである。
自分も団地とか集団生活になる施設に入るのはいやである。
でも一人になるとそうはいかなくなるかもしれない、やはり一人は家を維持することだけでも苦労になるからだ。

●住民主導でない市町村は維持できない
自治体がそもそも誰のためにあるのかとなれば住民のためである。でもなんかこれまでは自治体は公務員のためにあると批判があった。そのことが隠されていたのだがこうして自治体が維持できなくなるような状態になり隠すことができず表面化したのである。
原発で人が住まなくなった町村では浪江町でも飯館村でも何かそこで維持しようとしているのは自治体に勤めている公務員であり住民はそれほど自治体の維持に熱心ではないかもしれない、もちろん故郷に還りたいという人は老人には多い。
でも住民主導で街作りする意欲は減退している。公務員は自治体がつぶれれば働く場所も奪われるのだから必死だとなる。
つまり公務員のために自治体があるのかとなる。

飯館村でもあれだけ放射線量が高いのだから住みたくないという人が多いのもわかる。
若い人は流出してゆくのもわかる。でも自治体を維持しようとするのは公務員であり
その人たちが率先して村に住民を住まわせることを指導しているのも住民主体にはなっていない。
それは飯館村では特に言われてきた。なぜあれだけ放射線量が高いのに村長などが避難させなかったのかと強い批判があった。それは村長をはじめとした公務員が自治体を村を維持させるために避難させなかったというのもそのためである。
住民のための村ではなく公務員のための自治体維持が優先されたとなる。

自治体は住民のためにあるべきで
自治体存続のために住民を集めるのは本末転倒である

まさに自治体存続のために少子高齢化で村が消滅しようとしているとき、何とか人を集めねばならないとするのは自治体に勤める公務員を維持させるためだとなる。
なぜなら人が住まなくなったら自治体も町も村も消滅するからである。
そういうことが原発事故周辺や津波被害地では起きている。
もはや市町村を存続できないという危機である。
つまり原発事故で避難して人が住まなくなった町や村の再建は自治体を維持しようとする公務員の発想では復興できないのである。
自治体を維持するのではなく住民かそこに住み復興させる意志や意欲がないかぎり復興はできないのである。
その復興の主体となる若い世代が流出しているから復興できないと言った。

●十津川村集団移住の覚悟とはあまりにも違う原発避難民


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十津川村集団移住後に移住民が誓い合った「七箇条の誓約書」


移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。
http://shumpeishimada.hatenablog.com/entry/20110507/1304739266


これを読めばひしひしとその時の危機感が伝わってくる。その困難に際して人々がいかに一致団結したかわかる。その覚悟と決意の強さが復興の原動力だったのである。
人間はこういう危機のときでも困難のときでもこうした覚悟と決意があれば力を発揮するものだと思った。
だから避難民はここはかなり参考になると思う。

しかし原発避難民や津波の被災者でもこれだけの危機に直面しても全くこの正反対であり何の覚悟も決意も団結もないのである。ただあるのは補償金をできるだけ多くもらって
楽することしか考えていない、何か困難があっても窮乏があってもそれを耐えて団結しようとすることもない、補償金もらってギャンブルだとか毎日バチンコに明け暮れているのはなんなのだろうとなる。東京や仙台に行ってまで遊んでいる。そのことは外部からも批判される。

なぜなら

古来年貢赦免地とされ、勤王の誉れ高く、その武勇で大藩からも一目おかれる存在であった十津川郷士の誇りと、開拓事業を成功させ北海道に新しい十津川郷をりっぱに築きあげ、旧郷に残った仲間と多大な支援をくれた政府の期待に応えなければという決意と覚悟が伝わってきました。

仲間と多大な支援をくれた政府の期待に応えなければという決意と覚悟が伝わってきました。ここでは外部のボランティアなどではない、仲間だから同郷の人が助け合った。
今原発事故周辺では外部の助けがあってもそれは当然でありもっと補償金をよこせとごほねるだけだと外から見られる。
それがイワキ辺りで二万人も避難民が流れ込んだとき、その人たちは補償金で潤い飲み屋で札びらを切っているというからあまりにも十津川村の危機とは違いすぎるのだ。
これは当時の社会情勢とは違うからは参考にならないとも言われるかもしれないが
こういう覚悟と決意が根底にない限り復興などないだろう。

ただ公務員を維持するための自治体主導では復興などできないのである。
結局十津川村では村人が一体となり困難に対処して立ち向かうことができたから移住できたのである。
それが原発事故の避難民は補償金の取り合いでありいかに補償金を多くもらかで団結しているだけなのである。
だからすでに復興はできない、町村はコミニュティは解体しているのである。
一億円もらって広域社会だからどこに住んでもいいのである。放射能汚染した故郷にこだわるより一億円もらって新しい土地で出直した方がいいとなってしまっているのである。十津川村ではその時代は一つの村として自給自足で団結がありそれができた。
今は時代が変わり村としての団結はない、みんな会社員であり会社員として生きてきた。だから町とか村とかの団結はないからコミニュティは簡単に崩壊したのである。

「もう町には帰れねえよ、村にもな、それより補償金をできるだけ多くもらうことだよ
その金で他の土地でやり直すことだよ、もう若い人は帰らねえんだから村も町もやっていけねえよ、だから金で割り切るほかないんだよ」
「それもそうかもな、先祖の墓がどうだこうだとか言ってももう帰れねえよ、帰ってもジジババだけでどうするんだよ、家の跡継ぎも墓の跡継ぎもいなくなるんだよ、今だって空家が多いだろう、全国でも800万軒というから凄いよ」
「復興なんでできねえよ、補償金もらってあとは町や村でも故郷でも関係ねえよ、
それまでは町や村の一員だけどあとはどこでも住みたい所に住めばいいんだよ」
「イワキでも二本松でもそこに町や村の人を集めて新しい街を作ろうとしているけど
それも無理だよ、何のためにそこに集まるんだ、会社員だったら会社に勤めるけど会社があるから集まれる、みんな集まって農業するわけでもない、そこで一体何のために集まるんだよ、補償金もらったらそれぞれの好きな所に住めばいいんだよ」

こういうふうになってしまうだろう。もともと広域社会になったとき、金が力をもつようになったとき、人々の連帯は村でもなくなっていたのである。農家だって専業農家は少ないしあとは会社員だった。生活するには会社の方が大事になっていた。
だから故郷にこだわる必要もなくなっていた。農業だったら土地にこだわるけど会社員はこだわらない。会社のあるところに勤めればいいだけになる。
そういう社会の変化がコミニュティを簡単に破壊してしまったのである。

広域社会はすべてが悪いというわけではない、ただ人間が村でまとまり生活していた自給自足社会とはあまりにも違っている。外国からでもモノは入ってくる。
そのモノは金さえあれば買える、嫁さえ金で外国からも買うことにもなる。
広域社会では外からモノが入るから小さな村のような共同体にこだわる必要はないのである。その代償として人間のつながりはなくなっていたのである。
十津川村のように一致団結して困難に対処することはできなくなっていた。
それを象徴するのが一億円やるからどこにでも住んで下さいと言われるとみんな外に出て行ってしまうことでもわかる。

過疎化した村が不便だから若い人が流出しているのに人を自治体で呼び込もうとしてもできない、広域社会は便利なところに住めれば住むという社会なのである。
広域にグローバルにでも自由に住んでいい、その時、金が大きな力をもつようになる。
金さえあればどこでも豊かな生活ができるという社会だからである。
もともとそういう社会になっていたから危機のさいにコミニュティでも簡単に崩壊したのである。

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2014年07月17日

飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか? (放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか?


(放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



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飯館村は佐須の牧草地で5マイクロも二カ月前頃計ってあった。
だからあそこが警戒区域解除地域になれるものかと思う。
今では5マイクロだとずいぶん高いなと思う。
草野地域では7マイクロあった。ただその辺は半分に減った。
ただ佐須の牧草地で5マイクロあったのだから高いと思った。
佐須は最初ホットスポットがあり25くらいになったのには驚いた
田んぼの畦の道の泥がたまったところだった。

確かに牧草地ではない道の方だと半分以下にはなっている。
でも牧草地がそれだけ高いとなると牛は飼えないだろう。
そもそも飯館村はいくら除染したって回りが70パーセントが森林なのだから
放射線量が下がらないと言われる
その森も一部だけ除染したがほんの一部しかできないから結果的には効果がない
つまり飯館村は除染しても住めるような放射線量にできるのだろうかという疑問である。なぜそのことを考えたかというと住めるとしているのが
南相馬市では一マイクロシーベルトでもむずかしいとか子供がいる家庭では住めないとか流出しているからである。

石神では一マイクロだったがそれでも除染していて高いんだよと言っていた。
一マイクロで高いとするとそれと比べると飯館村は実際は3倍とか5倍とかになる。
そもそも飯館村は放射線量を見ると住めるように思えないのである。
専門家はいろいろ言うけど自分は素人でわからないにしても
ただなぜ南相馬市では一マイクロでも住めないとか騒いでいることからすると
飯館村はとても住めるような放射線量ではないと思うのである。
一部分除染したところで放射線量は一部で減っても全体では減らない
だから飯館村の人自体が除染が無駄だから村外で暮らす補償金をくれと言っている。
それは一億円とか言っている
その人は村外で牛を飼いたいと言っているからだ。

この点小高などは一マイクロにもならない、0・2と0・3とかだろう。
南相馬市でも山側をのぞいて0・2くらいである。
ただ放射線量というのは変わらないものがある。
自分の家の室内でもまだ0・2だったりする。
前からも0・2くらいだったがそれ以後は減っていないのも不思議である。
つまりそういうレベルで放射線量を考えているとき、なぜ飯館村では
佐須などは牧草地で5マイクロもあるのに警戒区域解除指示地域とかなっているのが理解できない

そもそも飯館村でもそうだが村全体を町全体を放射線量で分けてここは住めるとか住めないとか東電や政府から指示されるのか納得いかないだろう。
だって地面はつながっているし水だって流れてくるし地面が区切られない
放射線量だって虫食いのように区切ってここはいくらだから住める住めないという議論が納得いかないのである。
それは補償金でもそうだった。東電で放射線量で計り地域を分断した。
隣が補償金をもらって道へだてた隣がもらえないというので怒るのも当然である。
村全体、町全体、市全体を維持されなければ住めないなのである。
市町村でここは住めるここは住めないここは立ち入り禁止だとなったから市町村に住む気になれないだろう。そもそも地面がつながっているのたから放射線の影響が受ける。
空だって区切ることはできないのである。
補償金を与える方ではどこかで区切らなければ無際限に出すわけにいかないからという。でも市町村が行政でも何でも生活するとしたらそんなふうに虫食いのような状態では行政もままならないし住民だってそんな所に住めないのである。

例えば飯館村が南相馬市と関係ないかというと関係ある。地面がつながっていて水が流れてくる、その水は飯館村の山林から流れてくるのだからなんらか放射性物質も流れてくるだから飯館村を放射性廃棄物の処理場にして補償金を一億円くれという個人としての意見もわかるがそうして飯館村の土地が政府やその他の団体に勝手に売られたらどうなるのか?放射性物質の廃棄物処理場にされて南相馬市もそこから流れてくる水で汚染されことにもなる。
だから一地域だけのエゴや一個人のエゴだけでこの問題は解決しない。

そもそも原発事故はあまりにも狭い範囲しか考慮しないで作ったことに問題があったのだ地元の地権者とか漁業権者とかあとは回りの村や町に金をばらまいて作れるとかなっていた。それが飯館村や福島市や郡山市などまで事故の影響があったのだ。
それは南相馬市などより放射線量が高いが国では補償しないので不満がある。
南相馬市の問題も南相馬市が一つになり合併したのに三つの区域に分かて補償されたことが問題だった。それなら南相馬市として合併した意義もなにもないことになる。
いくら放射線量の影響があってもそこに住むとなれば虫食いのような状態の中で住めるわけがないのだ。そこは塀をめぐらした一区画に強制的にとじこめられる牢獄みたいなものになる。そんなところに誰も住みたくないだろう。

ともかく放射線量にふりまわされて市町村が分断さればらばらにされた。
飯館村は本当に住める状態にそもそもあるのだろうか?
不思議なのは菊地製作所や一部工場が飯館村ではつづけられている。
そこでは若い人も通い働いている。福島市などから通っているのだ
今回の原発事故では第一次産業は影響が大きかったが工場などは放射能汚染とはあまり関係なかった。

そして飯館村は意外と工場が多い地域だったというのも外からわかりにくかった。
田舎に農村地帯に住んでいるといくら今は第一次産業のしめる割合が一割にみたないと言ってもその土地利用はやはり広いからそうは見ないのである。
田畑のある田園風景が心をなごませて魅力あるものにしてきたのである。
ただ現代は工場の方が会社の方が重要でありそこが復興の要になっている。
復興というとき、農業や林業や漁業はなかなかむずかしい、工業の方が放射能汚染からの復興はしやすいとなる。

でもそういう世界は何か田舎のように見えなくなるのかもしれない
浜通りでは大地に米の実りがあり松原があり海では漁船が出て魚がとれる海の幸が得られるそういう風景になじんできたからソーラバネルとか風力発電の風景にはなじめないのである。小高の人は自分の土地が許可なくソーラパネルにされていたと怒っていたのもわかる。農地はソーラパネルの風景になったらそこは田舎なのだろうかとなる。

 
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飯館村は田畑の面積が意外と広い地域だった

この松は前らか切られてなくなっていた。

ここも今は草ぼうぼうである。
posted by 老鶯 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年07月16日

贅沢を覚えた猫 (豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)


贅沢を覚えた猫

(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)

●猫も人間と同じだった

猫を飼うということも一つの経験であり猫というものが自分にはわからなかった。
実際に飼ってみて猫というものを新たに理解した。猫にはほとんど関心がなかった。
犬は子供の時飼っていた。猫についてはそもそもわからなかった。
猫も犬と同じく人間が飼うと人間と一緒に生活すると人間化してゆくものだと思った。
その猫はたまたま餌をやったらいつくようになった。もともとは飼われた猫だったのだろう。だから甘えるよに鳴いてよってきた。ただ半年以上すぎるけどまだ時々襲いかかるように吠えるように化け猫のよように口をあけてなる

おそらくこの猫は捨てられて野良猫となり相当に人間に虐待されたのだろう。
だから人間になつかなくなった。その傷が深く忘れられない、人間に恨みをもっている。でも最近は自分のところによってきて眠るからなれてきている。
でもまだ時々口を空けて化け猫のようになる。
ただこの猫はしょっちゅう餌を要求するからよく野良猫として生きていられたと思う。
野良猫として生きるのは相当に厳しいと思うからだ。
猫の胃袋は小さいから食い溜めをできない、だからしょっちゅう餌が必要になるというが野良猫だったらそんなに餌がない、だから相当に窮乏した生活をしていた。
その窮乏感とはその日食えるか食えないかというぎりぎりの生活からくる窮乏感だったろう

野良猫は家猫に餌をやるからその餌をねらってやってくる。野良猫は結構多いものだと思った。最近近くの空家に三匹の子猫が出入りしていたのを見た。
空家だと猫の住まいにはいい場所である。その三匹も野良猫になる。
だから野良猫は増えるから餌をやるなと言う人もいる。
野良猫は結局もう野生の猫のように自分で餌をとれないのだから人間の問題化している。犬のように登録制にしろとか地域猫として飼いとかいろいろ法律まで整備しろとまでなるそれは一個人で勝手に飼ったりするとまた増えたりするから去勢して飼いとかなるからだ猫というのは人間化すると人間の問題になるのである。
だから猫はもう介護までされたり猫の墓まで普通にある時代になったのである。

猫は自分が食事している時、猫が自分の食事しているのを見ている。その時、サシミでも一切れとか与えていたらその味がわかって必ずご飯のとき見ていて分けてくれと鳴くのである。他にも魚類や肉類なども一切れとか分けてやっていた。するとその味を覚えて食べたいとちょこんと座って鳴いて要求するのである。
この猫は自分の家で飼われるようになってから贅沢猫になったのである。
野良猫の時は満足に食えなかった、窮乏していてうろついていたのである。
その生活は相当に厳しいものだったろう。家に入ってきてはぶたれたり追われて生活していたのである。野良猫は飼い猫の三分の一の年くらいしか生きられないという。
それだけ野良猫として生きるのは厳しいのである。

それが一旦こうして贅沢を覚えると自分が食事して何も与えないとすごく不満そうにしている。それがやはり表情でわかるのだ。とにかく食事の時迫ってきて鳴いて「俺にもくれ」と要求するのがわかるからだ。
だから与えないと「なんでくれないんだ」と口に言わなくてもひどくがっかりしたようにして離れるのである。
だから猫もぜいたくを覚えるとその味を覚えるといいものを与えないと不満になるのである。野良猫のようにともかく腹をみたせればいいというのではない、うまいものを食べない日は不満になるのである。贅沢を覚えてその贅沢ができない窮乏感をもつようになったのである。


●モノがない時代の貧困


この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにているなと思った。
自分の子供のころはモノがない何もない社会だった。どこの家でも飯台一つくらいしかない貧乏だった。電気製品は何一つない裸電球一つあるだけだったのである。
食べるものは麦飯でありオカズはコロッケとかサケとか決まっていた。今日ももコロッケ明日もコロッケなどの歌がはやったのもそのためだろう。その頃まだ卵も農家では食べられても一般の家では食べられなかった。だから自分の家では店をやっていたので農家に卵を買いにやらされたのである。卵はずっと贅沢品だったのである。
病人しか食べられないとかの贅沢品だった。

その時代は乞食というのも普通にいた。乞食は戦前も田舎にもいて悲惨だった。
それは野良猫とにていたのである。
ただ回りを見ればみんなそんな何もない貧乏暮らしなのだからその貧乏を嘆くというよりはあきらめて生活していたのだろう。
大正生れの母は今でも梅干しとご飯があると満足するくらいである。
もちろん介護されているのだから食欲がないからそうなっているがもともとそういう暮らしだったのである。粗食で生きてきたのである。ただその後はやはり食べ物は贅沢している、だからエチゴなどやケーキは食べるのである。

現代の貧困は何かというとボロを子供などいないから貧乏に気づかない、野良猫がいるのが普通気づかない、でも猫を飼っていると必ず野良猫もよってくるのである。
この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにている。自分の子供の頃はなにもない、飯台が一つあるくらいの生活だった。電気製品も一つもない、裸電球が一つくらいしかない生活でありそれは共通していた。
食べるものでもオカズは決まっていた。麦飯とかでありコロッケでありサケとかは良く食べていた。肉は食べず卵は農家では食べていたが一般の家庭では食べられない贅沢品だった。親が病人で卵を食べていたのをうらやましがっていたことを話す人がいた。
だから店をやっていたときその卵を農家から買わせられたのである。その時は農家の方が家で納豆まで作っていたのだから豊かだったのである。そもそもモノがない時代はモノを作り出す米でも野菜でも卵でも作り出せる農家の方が豊かになる。
戦争中でも戦後でも着物を食料と代えたということでもわかる。そして農家は汚いとか都会の人に言われた。今でも農家は農家の人が汚いというからそういうことは今でもある。


その頃は乞食も普通にいた。乞食は一軒一軒物乞いして歩いていた。それは普通の光景だったのである。戦前になると山頭火のような物乞いして旅できたというのもそういうことが普通にできた時代だったからである。戦前から戦後十年くらいは普通に乞食がいたのである。今は乞食がいないから貧乏人がいるように見えないのである。
だから貧乏自体がないように見える社会なのである。
現代がいろいろ貧乏のことが言われるようになった時、それがモノがない貧乏ではない、モノがありふれてそのモノが買えないという貧乏なのである。
それは野良猫から飼い猫になり贅沢を覚えた猫と同じである。
うまいものを食わせないと不満になった猫である。その窮乏感は渇望はかえって強くなり不満になる。

●モノがあふれているのに買えない貧乏の時代

例えは新車が絶えずでるけど車を運転できる人なら買いたいと思っても買えない、するといいものがあるのに買えないという不満が渇望感がましてくるのである。
ではその渇望感を充たすにはどうするかというと借金してまで買うということになる。
それでサラ金とか闇の金融から借りている人が八人に一人もいるのが現代社会の実相なのである。充たされない欲望を借金で充たしている異常さなのである。
まず昔だったらローンで家を建てたりはしない、家を建てるのも借金なのである。
だからあとで借金は大きな負担となってまた苦しむことになるのだ。
「消費者は王様」だという社会になったとしても消費する金がない人、貧乏が増えたのである。そんなにモノを作っても売れないとなるとそんなに作ることもないとなる。
少子高齢化でますますモノは売れなくなる。だから実際は作る方も売る方ももう限界にきているとなる。それでもグローバル化社会になるとあらゆる食べ物でも入ってくるからほしいとなり欲望は無限に拡大してゆく。

現代の矛盾はそうしていくらでもモノを作り出しても今度はそれだけのもの買える経済力がない人たちが増加した。フリーターとか派遣とかニートとか正社員でいな人たち増えた。その人たちは賃金が安いのだからモノを買えといっても買えないのである。
これも欲望資本主義社会の矛盾なのである。何か過度な無際限の欲望資本主義が限界にきているのだ。作る方にしても売る方にしても買う方にしてもそれが限りないものではなくどこかでとまる、制限される、それが無限に増えてゆくということはありえないのであるそういう無限に増えるということを追求してゆく社会自体が過ちだとなる。
そのことは社会自体に個々人に返ってくる。


これが今回の原発事故と関係ないように見えても関係していた。つまり身の丈にあった生活ではなく、無限に拡大した欲望を充たす社会だからこそ原発事故も起きた。
豊かになるには原発が魔法のようなものであった。でもそれは危険であったがその危険も無視して豊のためにはどうしても原発が必要であるとなり作られた。
これは石油もそうである、豊かになるためにはどうしても石油が必要であり危険でも石油を得る必要があるとなり戦争してまでも石油がほしいとなる。
原発事故でもそういう無際限の欲望追求の社会にもあった。
人間はどこかで欲をとめない限り危険なものになってゆく。戦前や戦後十年の貧しい時代にもどるのかというのではなく何らかこれだけ豊かになったら欲望の制限が必要になっているのだ。第一みんなそんな欲望を充たされる社会などないから一部の金持ちが豊かな暮らしができても今度は多数の貧乏人が生れる。高度成長時代のようにみんなが豊かにはなれない社会になっていたのである。
売る方にしても作って買う人がいない、こうなれば作る方もまた貧乏になってゆくという矛盾が生れたのである。
posted by 老鶯 at 02:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年07月14日

原発事故の避難区域などは復興できない (高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)


原発事故の避難区域などは復興できない


(高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)

小さなる畑にとれし不揃い(ふぞろい)のキュウリをくれし土地の女(ヒト)かな

都路でも避難した人が自分で自給自足しているのがいいと言っていた。
つりま田舎では農家なら米でも野菜でも基本的な食料になるのは自給自足だった。
それが買うだけの生活になると違和感を感じるようになった。
田舎では食料は単なる消費者ではなく生産者としてあった。
生産の喜びがあった。その土地からとれるものを食べる
それはいくら金があって買えるからといって生活の充実感はそこにはない
「消費者は王様」だとなってしまったが王様には収穫の喜びが得られないのである。
そしてその土地から何も得るものがなけれも人間は豊かになりえようがないのだ。
その土地でとれるものがあってこそ豊かになれる。
それは肉体だけでなく精神的な面でもそうである。

ただ現実問題としてはその小さな畑でとれるのはかえって何倍もの労力と金がかかる
そして収穫はわずかだから誰も農業をやりたくないというのがわかる
労力や肥料でも何でも小さな畑でもつぎこむエネルギーにしても収穫が少ないのである。でも土地からとれる、土地のものが食べられるということは替えがたいものがある。
なぜなら遠くから外からばかり食料を買っていたら何の豊かさも作り出せないのだ。
その土地からとれるものがあって豊かになれるのである。

だから今原発事故周辺はもう復興はできないように思う。
多額の補償金で働く気がないのと高齢化で将来をどうしようとかならない、
残りのわずかの時間の人生を楽しみたい、欲望でも果たしたいとかしかならない、
老人はかえってその欲望が最後に強くなることがある。
もう人生も終わりだからやりたいことをやって死んだ方がいいと思う。
これが最後の恋だと老人の道連れにされた若い女性がドラマでいたけど
それは現実に起きている。
タケシが百億円で離婚しても結婚したい若い女性ができたというのもわかる。
かえって老人はあきらめでなくあきらめきれないのである。
若い人なら子供がいて将来どうしようかと住んでいて考える
老人はこの先どうしようかというよりもう終わりだとなり自分のしたいことを欲望でも果たしたいとなる。
だから先の長いことは考えたくないししないのである。

フィリピン人の女性が仮設に来るとかやはりそれはイワキでも飲み屋で札びらを切っていた双葉や大熊や浪江でも避難者はそうなりやすいのである。
億の金が入るとなるとそれを将来にどういかすかより老人なら使ってみたいとなる。
欲望があれば今使ってみたいとなる。現実に東京の方まで行って遊んでいる人が仮設にはいた。
小人ではない、「老人蟄居して不善をなす」の時代である。これはここだけの問題ではなく高齢化で増えてくるのだ。みんな老人は優れた人ではない、そういう普通の人が大量に生きる時代が高齢化社会なのである。
津波の被害地などでも復興がすすまないというとき、こうした高齢化の影響も大きいのである。老人は十年先二十年先を見込んで努力できないのである。

そして現代社会はグローバル化だとか広域社会になると金がものいう社会になっていた。金さえあれば何でも手に入るという社会になっていた。
だからそもそも一億円もらったらどこでも暮らせるとなるとこれ幸いと若い人は流出したのである。そういうふうにコミニティ自体が崩壊しやすいものになっていたのである。
自給自足の社会だったらその土地でなんとか暮らすほかない、簡単にはよそに移れないのである。
だから今田舎に住んでいる人に
「一億円もらうとしたらここに住んでいますか」
そう問うとそこが住む価値がある所どうかわかる。これ幸いと住んでいる土地でも離れてよそに住む人はその土地に住む価値を見いだしていなかったのである。
一般的にはそういう人が多くなっているからコミニティは崩壊してゆく。
チェルブエリでも二十くらいの村がなくなった。
その墓標が立っている村の墓地があることも不思議なの光景である。
川内村でも避難区域解除に反対しているのも避難していて補償金をうちきられたくない
郡山市などでの便利な生活をしたら特別の人でないと川内村には住まない
老人は住みたいと言っていたが若い人はそうはならない。

ただ飯館村のような所に住むメリットはあった。
一軒一軒が離れていて森の中にあり広々として住める
それが都会の団地のような所に住むのはいやだというのもわかる。
だからすべてがその場所に住むメリットがないのかというとそういうわけでもない。
その人の主観とか価値観も関係しているから全部はそうはならない。
自分なども医者では困ったけど別に食べるものなど十分だしそれほど不満はない
それなりにそこに住むメリットを感じている人はいる。
特に濃密な人間関係をもっている人は都会では住みにくいだろう。
この世の中で何でもみたされる所などないのである。

ともかく原発事故周辺でも津波の被災地域でも高齢化の問題や現代特有のグローバル化とか広域社会化でコミニュティは崩壊しやすかったのである。
そして誰もあえて苦労はしたくない、老人は余計にしたくないから金が入ればあとは遊んでいた方がいいとなる。最後の欲望を果たした方がいいとなる。
それは自分勝手なことでもそれが現代の生活だったのである。
欲望資本主義でりそれがこの辺では極端な形で現実化したのである。

いづれにしろ絆とか助け合いとか同情だと言われたことももうない、
一時は絆だといって助け合いの気運があった。
それは単にモノを運ぶというだけでも助けることだった。
その時この辺では放射能汚染でモノが入ってこないしくる人もいなかったから
モノを運んでくれ人は人助けになっていたのである。
それが普通の社会にもどったらまた元の社会になった。
今度は逆に補償金をたんまりもらって遊んでいるいるやつらだとしかならない。
そんなやつらを助けどうなるのだとなる。
だから小高の仮設の人を鹿島区の人は良く思っていない。
それはイワキでも二万人くら移住したらここよりひどいことがわかる。
あいつらは金にものいわせて働きもしないで家も建てている
何でも優遇されているとか不満になる。
だから補償金もらっているだけでも反発されているのである。

かえって鹿島区などは一人十万で七カ月分だからもらっていてもそれほどないから他から見ればそんな金ならしかたがないとなるだろう。
でも避難区域の人はそうならないのである。
今は全国からも良くは見られていないのである。

ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


 
ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)

ノウゼンに蜂の来たりぬ街の家

ノウゼンの朝に散りにき一輪や玄関を入る仕事の女かな
ノウゼンの今年我が家に咲き満ちぬ盛運の時の再び来たらむ


 「凌霄花」は漢名からで、
 「凌」は”しのぐ”、
 「霄」は”そら”の意味で、
 つるが木にまといつき
 天空を凌ぐほど高く登る
 ところから、この名がついた。


確かにこんな感じの花である。


ノウゼンが今年は家に一杯に咲いた。これは数多く咲くから見物である。
ノウゼンは夏らしい花である。これは盛夏にふさわしい。鬼百合などもそうである。
これからが暑くなるからだ。
この七年間は自分の家は災難つづきだった。
この災難の時、弱さにつけ込んで責められたことは忘れられない
人間は恩は忘れけどこうしたひどい目にあったことは忘れられないのだ。
そのことが常に怒りとなってくる
だから人が弱っているとき、苦しいとき自分の利益だけを考えてこの際、相手の弱みにつけこんで得してやろうなどとするならかかわらない方がいい
あとでかえって恨まれるからだ。
だから苦しい人とかかわることは本当は簡単にできないしむずかしいのだ。
その時は何にも得られず犠牲を強いられることになる。
ただ傍観して見ているだけならかかわらない方がいい
つまりただ相手が困っているのを親身にならないで冷たく見ているだけの人が多いからだその人は相手が苦しんでいるのを喜んでいる。
これはチャンスだとその弱さにつけいってくる、こういうことをする人はあとあとまで恨まれる。
ただそうしている本人は何も気づかない、結構助けているのにと思っているのである。

ともかく自分の困難のときは過ぎた、どの家でも困難のときはある。
何もない家族などないだろう。なぜなら必ず病気だとか死だとか事故もあるし
今回のような大きな自然災害もあるし必ず苦難が強いられるのが人間だからである。
自分の家でも中学のとき、父が癌で死んだり不孝はあった。
でもその時は自分は何ら苦難を強いられなかった。
今回だけは全部自分がその苦難を一人で背負ったのである。
自分には一切助けはなかった、ただ弱さにつけ込まれただけだったのである。
保険金殺人のような状態に追い込まれていた。
ただその危機は脱した。
今度はまた我が家は盛運に向かってゆくのだろう。
病気が直ったことが一番心強く思った。
人間病気になったら巨万の富があってもどうにもならなくなる。
そして最後は死があるのみとなる。

ノウゼンが散って朝に仕事の女性が入ってくる。
ともかく人間は仕事しているとき活きている。
街でも仕事しているから活きているのである。
だから小高の人は仮設に入り遊んでいるだけだから活きていない
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいる老人がいる
金があるからそんなことができる
小高の人は補償金の額が大きいからそれで遊んでいるのが多いのである。
だから津波の被害者とかいろいろ別れているけど一番多いのは原発事故の避難者である
その人たちはただ遊んでいるだけなのである。
特に老人はあとがないということで女であれ最後の欲望を果たそうとする
だから老人は復興には向いていない、そんなことよりもうあとがないのだから
欲望であれ果たして死にたいとなる。
老人になったからいって欲望がなくなるわけではない、かえってもう人生も終わりだと思うとき欲望が強くなることもあるのだ。

はっきり言って小高の人たちは同情される人たちではない、
お前たちは金をたんまりもらっているのだからあとは自分たちでなんとかしろとなる
南相馬市民でも原町の人でも協力しないかもしれない
そんなふうにして遊んでいるのに外部の人だって協力するのはいやになるだろう。
もうそういう時はすぎている。
この辺はそうして会社でも帰ってこないというからあと何年かしたら相当にさびれてしまう。
小高の人は同情されないから苦しくなる。若い人は流出しているし町の再建は困難になるでも金があるんだから金でめんどうみてもらいとなってしまう。
かえって金があると人は助けてくれないのである。
お前は金があるのだからと仕事さえ与えてもらえないと浪江の会社経営の人がなげいていたことでもわかる。


2014年07月13日

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった (神社の位置が歴史を語る)




南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった

(神社の位置が歴史を語る)

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〈毛人谷〉人なき丘陵に蝦夷の影

 しかし毛人谷の歴史は相当古い。鎌倉時代末期、原野だったこのあたりに戦国武将の楠木正成が出城を設けていた。その名の由来は時代をさらにさかのぼり、蝦夷(えみし)がこの地に住んでいたという説がある。「毛人」とは「蝦夷」の別の表記でありエビスとも読む
 「景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの(中略)を諸国に分かち居らしめしことあらば、或はこの地にも、上古蝦夷の居住せしことありて
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120927/wlf12092712010011-n4.htm

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)A

すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。

クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^
http://utukusinom.exblog.jp/12890768/

アイヌ語で「人間」という意味の「enju」「emchiu」が「えぞ」「えみし」の語源です。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
江戸末期の北方探検家松浦武四郎の『天塩日記』には、「北蝦夷(樺太)にてアイノをカイナーと呼(び)しが、此山中(天塩)に来り見るに同じくカイナと呼(び)けり」とある。
また、1786年(天明6)に佐藤玄六郎が書いた「蝦夷拾遺」(大友喜作編『北門叢書』第一冊)には、「今夷人(アイヌの人々)皆自らカイと称す」とある
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html

エビシのエビが「えび(海老・蝦)」と同音であり、ヒゲの長いエミシの姿とえび(海老・蝦)の姿が似ていることから、カイのカの表記に「蝦」の字が使用されたのであろう。
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html


もしこの海老村の海老が蝦夷に由来するとなるとこれは歴史の解明にとって重要である。海老は海に近いから海老だと思っていた。海とは関係ないのである。
もともとこの辺一帯が広い地域が海老であり蝦夷(エミシ)が住んでいた地域かもしれない
そこで注目すべきは今回津波から奇跡的に無傷で残った鶏足神社のある場所である。
海老村は壊滅したがあそこは前に坂があり津波がさえぎられて助かった。
その坂のあることでその下の御刀神社のある家も浪が弱められて家は残った。
そして御刀神社の杉林に漂流物がとめられて家は残った。でも損傷は激しかった。
ここで大事なのはその鶏足神社の位置なのである。なぜあそこに鶏足神社がありその前が海老村なのかというこである。その謎が海老が蝦夷となるとわかりやすくなるのだ。

@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。 

出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
        藤原、天皇家、百済系  と区別される。

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
さてさて、百済は太陽信仰のメッカ、加羅諸国の本家である上伽耶(ウカヤ)を吸収します

冠嶺神社

冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。

磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
-------------------------
上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触

田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。


剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一


この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた


「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm


鶏足神社は冠嶺神社であり海老村の海岸に接して金砂神社がありこれは津波に流されたけどこれも冠嶺神社であり栃窪村のも冠嶺神社であり原町の信田沢の冠嶺神社である。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。

だから海老村で何が起きたかとなると海老村は蝦夷だとすると物部氏がその蝦夷と戦ったということがある。物部氏は大和王権の前に物部王国を築くほどの大氏族である。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
物部氏は鶏足神社のあるところで蝦夷と戦った。その蝦夷がいたから海老村となった。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
角部(つのべ)とはツノガノアラシト関係の製鉄にたずさわる一族が住んだ地域である。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
その後大和王権になると物部氏とか渡来系のツノガノアラシトとか伽耶系とか新羅とかは隠されるようになった。それで地名も伽耶ではなく草や萱や加屋とか変わってしまってわかりにくくなったのである。

日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある
大加羅(おおかや)というときこれに大草とあてた。だからわかりにくくなった。そもそも大草という言うこと自体不自然だからである。
ともかく海老村が蝦夷に由来しているとなるとそれは重要な発見かもしれない。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。

北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
北海道というときこれカイに海をあてたからわかりにくくなった。カイとはアイヌ民族のことであった。だから甲斐国とあるときそれはアイヌが住んだ場所のことである。
原町の萱浜はカイハマでありカヤではない、この甲斐はなぜか甲斐かち来ている。
泉長者の伝説に娘の別荘に樋をもって酒を流すときに甲斐椀をもって密かにくみとって飲んだ地を甲斐浜となり樋より酒のもれた地を雫(しどけ)となづけた。

ここにも甲斐がでてくる。この甲斐の起源がやはりアイヌをカイと呼んでいたことにある。地名をアイヌ語で説明した時代があったが今は一部しか信用されていない、青森県辺りは確かにアイヌ語地名がかなりある地域でも証明されていないのも不思議である。
ともかく中央での奈良での興亡が辺境の地の蝦夷にももたらされたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。

2014年07月12日

相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない (古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)



相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない


(古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)


(つのみや、つのみつ、つの)神社はツヌガノアラシトから来ている

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日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いて・・・
となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 角刺神社は、飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています

「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」

旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で
「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、

『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。

『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日)



まず神社や地名を解読する時は大きな歴史の流れを知っている必要がある。
東北は蝦夷が住んでいた。その蝦夷が大和王権に抗して争った歴史がある。
その蝦夷とは何かというと歴史的に明確ではない、ただ蝦夷の字は当て字でありエミシがもともとの名である。蝦(えび)の字をあてている。
南相馬市の鹿島区の海老村は蝦でありエミシの住んで領域である。
海老が当て字だからわかりにくくなっているのだ。

松川浦の津神社の津も当て字である。もともとの呼び名はツノミツ神社である。
ここで誤解したのは津神社となっているから津という漢字にとらわれてしまったことである。津はあくまでも当て字でありもともとはツノミツ、ツノミヤであり漢字にすれば角なのである。津之郷とかあるがこれは必ずしも湊ととは関係ない、ツノは漢字にあてれば角なのである。この起源はツノガノアラシトにある。渡来人に由来しているのだ。
津守(つもり)とあればこれは湊を守る神である。だから津は湊だがツノとなったときはみんな違っている。そして津神社というのは単に一字でツ神社とは言わない、つの神社なのである。

だから小高の角部(つのべ)とあるがここにも津神社があるがこれはツノガノアラシトの角であり渡来人の一団が住んだ場所でありだから部となっている。
その渡来人は製鉄集団であり浜砂鉄をとり鉄製品を作るために奈良や近江からやってきた技術者集団である。

新地町武井地区製鉄遺跡群

南相馬市金沢地区製鉄遺跡群

この二つが大きな製鉄遺跡である。ここが多賀城の前進基地であり多賀城の木簡から宇太(宇多)という字が発見された。製鉄にたずさわる工人が移動していたのである。
金沢遺跡から今とか渡来人をさす木簡の字が発見されている。
それから白人とかの人名をは発見されているから濃密に渡来人が関与したのが相馬地方だった。
だから松川浦の津神社は三大実録にのる古い神社だというとき奈良の葛城から移された神である。飯豊青というのも天皇の名であり宇多天皇もでているからそうした地名でも神でも移動してくる。

松川浦の津神社(つのみつ)神社は津波とは何の関係もなかった。
ただなぜかツノミヤ、ツノ神社に津が当て字にされたのである。
それは浜砂鉄をとるために海岸線を移動した渡来系の技術者集団が移した神だからそうなった。
何か明確ではないのだが相馬地域までは津神社(つのみや)神社があるが宮城県になるとない感じがする。それは渡来系の氏族が関係していて宮城県までは神社を移せなかったのかもしれない。津神社(つのみや)神社は茨城でも磐城でもあり全国にある。

広島県福山市津之郷町大字加屋

とあるのも津之は角なのである。ここが当て字で誤解しやすいのである。
加屋と伽耶なのである。

津神社はもともと津波とは何の関係もなかった。ただたまたま高台に神社があったので津波と結びつけられたのである。
それでも津神社でも単にツ神社と呼んでいれば津波と関係しているかもれない。
ツノと呼んでいれば角でありツヌガノアラシトにつながる神社なのである。
浪江の棚塩の津神社も七百年とか古いからこうした古代のツノミヤはツノガノアラシトを起源としているのである。

鹿島区の烏崎の津神社は鯨を祭っているから津波と関係しているかもしれない。
慶長年間に祭られたということで時代的に慶長津波があったときだからである。

いづれにしろ津波神社とか津波のために祭られたという神社はない。
浪分神社は津波の浪を分けたというので津波神社だがその他はほとんど津波と関係していない、今回のような巨大津波があって神社に関係させているのでありもともとは古代の奈良から移された神社であり地名なのである。

 
posted by 老鶯 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年07月11日

夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)


夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)

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広々と草青々と月涼し
草原に昇る満月夏の夕
草青し夕べ湿地に夏の月
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな

津波跡湿地生れて草青し夕べ水面に風の涼しも
津波跡葦の覆いてヨシキリのしきりに鳴きつ雲夕焼けぬ
一本松残りて夕べ風涼し草原広し海も広しも

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この辺では二重に原野化している。一つは津波の跡が原野化、草原化、湿地化している。
津波の跡はより元の自然にもどっている。
放射能汚染で原野化したところはまだ田の区切りなどが残っている。
でもウマゴヤシ、クローバーが生えて北海道のような風景になっている。
この風景は何といっていいのか不思議である。
これもしかられるが正直これまた風景の変化であり気持いいとなる。
北海道に行かなくても北海道に来ているのかと思う。

もう一つはモンゴルのような草原とにているのだ。
モンゴルでもこうした草原がどこまでもつづいている。
そして小さな湖がありそこに菖蒲などの花が咲く
ここでも雨がふったから湿地化して水がたまり沼地化する。
その水面をトンボが飛んでいる。トンボは繁殖のために水のあるところによってくる。
日本では雨が多いからすぐ湿地になりやすいのである。
こういう景色は何か今までとは違って田んぼのある風景とはかなり違う。
草原には夏雲雀とか燕とか葦にはヨシキリがもともと巣を作る、それが河原などと違い草原になっているから広いから気持ちいいのである。
結局人間が住まなくなると自然が生き生きして甦るというのは一面確かである。
これは飯館のような山の村と海岸地帯は違っている。
モンゴルでも北海道でもそうだがこの広々とした感覚がいい。
何かおおらかな気分になる。

これは前の田んぼや実りの稲穂の平野や松原の景色とはあまりにも違っているのである。それは明らかに心にも影響する。おおらかな気分になる。
ヨシキリでも広い原野にほしいままに鳴いて夕ぐれる。
つまり人間のいない世界は自然の生き物にとっては住みやすいとなる。
ともかくこうした変化した風景になじむのには時間がかかるだろう。
だから俳句にするにも何かマッチしないものを感じる。
北海道で俳句があわなかったようにこの草原化、湿地化した風景は俳句にはあわないのである。

今日は暑かったけと海の方は涼しい、いかにも夏らしく涼しい、前よりも涼しく感じる。浜通りがいいのは海からの風が吹いて涼しいことである。
中通りになると蒸し風呂のように暑くなる。
だから浜通りの人は会津とか福島市とか中通りも住みたくないのである。
自分もここは気候だけはすごしやすい所だと思っている。
寒からず暑からずなのである。だから体が弱い人にはいい場所である。
保養にはいい場所である。だからこの気候の良さを活かす街造りもありうるのである。
老人ホームなどは確かに適している。ただ老人の街というのはどうなるのか
それはいいのか悪いのかわからない、ただ渡辺氏がそういう政策を出したことは面白いと思ったのである。

津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱 (一番かわいそうな津波被害者は隠される)


 
津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱

(一番かわいそうな津波被害者は隠される)

今回の津波から原発事故の被害では津波被害と原発被害者が同時に起こり混乱した。
今でもその混乱状態はつづいている。
仮設でも津波被害者と原発被害者が一緒に住んでいる
それで補償金などで反目しあっている
宮城県とか相馬市などだと津波被害であり原発事故の被害者にはならない
その代わり補償金ももらっていないので不満がある
南相馬市を例にすると

津波被害者と原発被害で避難生活(小高)

小高の人にも津波被害者はかなりいる。それと同時に避難区域になったので避難生活をしている。
ところが津波被害者と原発事故の被害者は別なものなのだが一緒になってしまった。
小高でも津波被害者がそれなりにいるが一万二千くらいの人口があり津波被害者は一割くらいかもしれない、あとの人は家もあるし家族も普通にある。
一方津波被害者は家を流されたり半壊になったり家族を失った人たちもいる。

自分が「小高の人は帰れ」と言ったとき、津波被害者と原発被害者を一緒にしていたのである。津波被害者は家も流されたりしている人がいるのだから帰れないということがある一方で原発被害者は家も土地もあるのだから警戒区域は解除されたのだから帰れと言ったなぜならただ補償金をもらうために仮設で遊んでいるかだけだからである。
そして南相馬市全体で考える時、南相馬市で土地を供給して住まわせることに限度がある土地不足が深刻なのである。だから小高区の土地を活かしたいということがある。
必ず仮設の人が土地がないかとたずねるからである。
一部復興住宅も小高に建てているのはそのためである。
南相馬市全体で考えれば小高を無人化できないのである。

津波被害者と原発被害者は一緒になった結果、混乱している。
原発被害者は別に家族を失ったりしていない、警戒区域では家には住めなくなったが
小高では住めるようになっている。
原発事故では避難するに当たって関連死があったから家族が死なないというわけではないただ津波の被害者は死んだのとはまたそれとは違っている。
かわいそうだというときどうしても津波の被害者には言える。
でもそれが原発事故の被害者になると全部がそうとはならない
土地も家もあり家族も死なない、仮設で狭い暮らしが不便だけど補償金がたんまり入ってくるからかえっいいという状態の人もいるのだ。
だからそういう人を全部かわいそうだとするのには問題がある。
何か何でもみんなかわいそうだとなって外の人も応援した。
実際はその被害が二十三重になりこの辺は複雑なのである。

津波の被害者でも船主とか漁業組合員は今度は東電から多額の補償金をもらいつづけられる。でも同じ海岸にそって住んでいても漁業にたずさわらない人はもらえないのである。これまた不公平があり不満がある。ただ津波の被害には同情される。
結局津波被害者が多数の原発被害者のために少数者のようになってしまっている
仮設でも原発被害者が多いから外から来ても津波被害者との区別はできないのである。
かわいそめうだというとき津波被害者が優先されるべきだった。
その人たちは家も土地も家族も失っているからである。
ただいっしょくたくに津波被害者も原発被害者もされてしまったのである。

イワキでは双葉とか大熊とか原発事故の避難者が多額の補償金もらっているのに俺たちはもらえないと不満になっているのもわかる。
津波の被害者の方がかわいそうなの人たちなのである。
それが原発事故の被害者や避難者があまりに多いのでその声がかき消されてしまったのである。
鹿島区でも津波の被害者が同じ仮設に入っているが小高の人は原発事故で補償金をたんまりもらっているが俺たちはもらえいないという不満があるのもわかる。
かわいそうだというとき津波の被害者の方だからである。
南相馬市はそうういことでも何か混乱状態がつづいているのである。

南相馬市の行政ではこうした全体を視野に入れて補償金問題にあたらねばならなかった。でも何もできなかった。だから互いに反目しあいばらばらになっている。
ただ住民も小高は小高、原町は原町、鹿島は鹿島と共同性がない。
結局合併したのはいいものの前の合併前の状態にもどってしまったのである。
ただ南相馬市となったのだから今こそ南相馬市としての全体の構成と統一を計らねばならない。それは行政でも市民でもそうした意志をもたねばならない。
でも個々人の欲望が先でありそんな南相馬市の全体のために犠牲になれと言ったり指示に違うこともないだろう。
だからこそ若い人はこんな都市は嫌だと流失しているだけなのである。

前にも書いたようにそもそも日本ではそんな市民意識が育っていないだろう。
ただ村意識が基盤になり市民意識となるとない
ただ南相馬市となった以上、合併したのは市民としての南相馬市を作ってゆくということにあった。ただ一緒になるのではない、そういう意義もあった。
だから南相馬市全体を視野に入れるということが必要となる。
だから小高の人は損したようでも南相馬市の一員なのだからイワキのように双葉や大熊の人たちが露骨に責められることはないのである。
そうならやはり自分たちは補償金をもらえばいい、南相馬市のことなどどうでもいいとはならない、現実に小高は住みにくくなってもやはり南相馬市であり行政でも予算をそこにつぎこむし南相馬市として活かさねばならないからである。
こういう緊急事態に南相馬市民とてし協力しあえればそれなりに南相馬市が合併した意義があり将来の市のアイディティティもつくられてゆく、ただ現実はかえってばらばらになってしまっていることが問題なのである。

2014年07月10日

合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)



合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)

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復興の田んぼに鳴きぬ夏蛙

甲高く喜び鳴くやここに田の復興しつつ夏の夕べに
月見草草むら深く咲きにつつ日影蝶舞い雨しととふる
大きなるでで虫一つ道よぎり遅き歩みや夏の夕暮
合歓の花月見草咲くこの道の草むら深く鶯鳴きぬ
蓬田の名こそありにし八沢浦津波の跡や夏の夕暮

津波と原発事故で相馬の風景は変わってしまった。
特に南相馬市は原発事故で田畑が原野となったから変わったことを報告してきた。
その原野の風景が不思議なのである。
田んぼが草原化した風景がなんとも不思議なのである。
その風景は北海道でありモンゴルのようにもなっている。
クローバーの野が広がるのは夏野である。

でも日本ではたいがい田んぼが広がっているのだ。
ただ草原化したとき、夏野らしくなる、夏雲雀などもあっている
そもそも田んぼは本当は原初の自然ではない、作られた自然だった。
もともとは草原であり森であったのだ
だから田んぼがなくなると元の森や草地に還る
いづれにしろ草はほうっておくとすぐにぼうぼうになる
だから絶えず草刈りが農家の仕事になる。

ともかく六号線でも道の脇が草が深く繁っている。
一匹大きなでんでん虫がよぎって歩む
小さいのは見ているが大きなものはなかなか見ない
今は合歓の花も盛りになっている。

南相馬市でも一部だが田んぼが再開している。甲高く蛙が鳴いた。
すると前の風景にもどりこれが復興なのかと思った。
ただまだほとんど原野の風景であることには変わりない。
蓬田は柚木なのか、八沢浦だと思っていた。
そもそも柚木は鹿島だと思っていたが相馬市になっている。
蓬田というのはあそこに津波の伝説が残っていたので注目された。
今回はこの津波で注目されたところがかなりある。
美しい八沢浦がもどった・・とかの自分のプログのページには相当アクセスがあった。
あれは衝撃的な写真だったしあまり津波で美しいなどと書いた人はいなかったろう。
八沢浦は古歌が残っているように美しい浦だったのである。

夏でも七月になると合歓の花や月見草や昼顔などがさきはじめる。
それから八月の盛夏になる。この季節は梅雨だからあまりぱっとしない季節である。
でもやはり花が季節の変化を告げているのである。

2014年07月08日

木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


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これは天明ではなく天保なのだろう 保の古い字なのだろう
わかりにくいがもう一度確かめる必要がある。

諏訪神社大杉古りて木陰かな

樹々古りて諏訪神社の木下闇
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな
夕蝉や帰りを急ぐ介護かな


宇多川の川べり映えぬ紫陽花や城下町ゆく色も染みなむ

古りにける諏訪の社の大杉に欅や影なし夏の日さしぬ

大野村畑耕すや天保の供養の碑あり夏の日さしぬ

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宇多の尾浜


相馬市

 相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)


 ○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌


 宇多の尾浜を詠んだ古歌。


 ○陸奥の宇多の小浜のかたせ貝、あはせても見む。伊勢のつまじろ



諏訪神社の由来も不思議である。ここに船が流れ来て木にとまったという伝説が伝えられているという、その伝説はもともと尾浜にこの社があってそこで伝えられた伝説なのだろう。あそこまで津波が来るとは考えられないからだ。
そもそも神社の由来がはっきりしないものが多い、ここには由来は記されている。


ここでは短歌をとりあげる。
諏訪神社はやはり五百年くらい寿命があるという欅とか杉の木がいい、姥杉は別なところにあり見なかった。道沿いの木を見ても確かに古い。
この道は細く丸森につづいている。丸森から自転車で帰る時、この道を通り諏訪神社を記録していた。
道が細いことは何か通って見るものを記憶に残す、奥の細道は細い道を歩むから見るものが記憶に残ったのである。昔の街道は細いから道沿いのものも親しく記憶に残る。
六号線とかになると広いしただ車が行き過ぎるだけになってしまう。
それでも生きている道だからやはり現代の道なのである。
だから浜街道と六号線は対象的な道である。
この二つの道をいつも行き来しているのだ。


今日は大野村の方に行って多分天保の碑だろう。字がわかりにくい。念仏供養の碑だからあれは明らかに飢饉で死んだ人たちの供養である。そこの畑で耕している女の人にここはどこの村かと聞いたら大野村だと言っていた。
こういう古い碑が何を意味しているのか?
そこで天保にも飢饉がありその供養のために建てられた。そういう歴史がここにあるということを知る。そしてそこに生き続ける人たちがいる。
だからその碑が大事なのである。それがなくなると昔を偲ぶことがむずかしくなる。
浪江町などでも歴史があったがあそこは古い碑を見ていない、そういう歴史の継続が失われると人間の生も先人の苦労など知らないものとなってしまう。


相馬市でも松川浦でもその歴史が自分にはわかっていない、この歌を見ればこれはいつの時代なのか?奈良なのか平安なのか古いのである。
すると松川浦も奈良や平安から知られていた古い地なのかとなる。


今回は短歌のことであり歴史的なことはまた調べて次に書いてみよう
岩崎氏の短歌の碑があったが時雨の歌だったがあまりいいとは思えない
ただあそこの位置と古い樹が印象に残る場所なのである。
あそこの道が丸森に通じているというのも何回も丸森に自転車で行き来していたからそう見るのである。
あの辺は黒木であり黒木氏は伊達藩について鹿島の田中城で相馬氏と戦った。
黒木といえば黒木氏なのである。
でも黒木というと広いから旧大野村ということを聞いてあの天明の碑があったのは大野村である。
実際は自分は相馬市や原町についてはなかなかわからない、特に松川浦はやはりもっと調べて知る必要がある。それは津波のことをもっと知りたいからである。
それが最近は郷土史を調べる動機になっているのだ。


ともかく介護になってからはせいぜい原町ー相馬市までくらいしか行けない、なぜなら食事の用意をしなければならないからゆっくりしていらなれないのである。
今は日が長いからいい、介護になるとまず拘束されて自由が奪われてしまうのである。




抽象画(山の百態) abstract( the shifting scene of mountains)


抽象画(山の百態)

abstract( the shifting scene of mountains)

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バソコンは一つの絵でも加工して変化させて楽しむことができる。
この山の絵を作るのは一つのパソコンの機械的作業の順序でできる。
それは企業秘密になる。
パソコンはまずソフトを使いこなすことがむずかしい
今やハードの面ではなくソフトの面で使いこなすことがむずかしい。
でもソフトを教える人は最近出てきたそうだが少ない
絵を加工するにしても自分で試して発見するほかない
何回もやっている内にこの山の百態を作る手法を発見した
それは想像ではなくまずソフトの使い方を知ることだった。

ソフトは2000円のでも使いこなすことがむずかしい
必ず使っていない機能がありそれを発見するのも何度もためしているうちわかる
だからこれは科学の実験作業とにているなと思った。

これはだから新しい絵の楽しみ方なのである。
想像というよりは絵の楽しみ方の発見なのである。
これがこんなふうに変化したとか楽しめる
山の絵でも百にも変化して楽しむことができる。

こういう楽しみ方は今までなかったのである。
なんでも楽しみながらやれれば人間はそこにエネルギーを費やす
例え金にならなくても利益にならなくてもやりつづける

それは何かを創造しているという充実感をともなうからである。
それが第三芸術でもそうなるのである。
ただ見ているだけではつまらない
芸術は鑑賞して楽しむということもあるがもう一つやはりそれに自分も参加できる
なにかしら創造作業に加わるということがないとつまらなくなるのだ

2014年07月07日

福島県の郡山市や福島市も避難民に不満 (原町の人が福島市で車を傷つけられたのは本当なのだろう)


福島県の郡山市や福島市も避難民に不満

(原町の人が福島市で車を傷つけられたのは本当なのだろう)


福島県の中部に住んでる者です。


 現在、震災から時がたちましたが、福島県では今別の問題が生まれています。
それは、避難民との経済格差。
裕福なのは、避難民の方です。

まず、避難民が現在まで貰った金額の内訳です。
アパート代は無料(良いアパートはすべて避難民が占領)
医療費無料
 衣料費無料
 消耗品無料
税金無料
 光熱費無料
 消耗品や衣料費はレシート送れば全額でます(何万でも)
1人毎月10万の小遣い(赤ちゃんから)
学費無料
 第一次賠償で1世帯300〜600万。
 第二次賠償で1世帯3000〜6000万。
 避難民だから安くしろ、と怒鳴る。
 働かなくても金が入るため、今福島県のパチ屋は避難民でいっぱいです。
 避難民が実際に出しているのは食費のみ。
なのに金がない、金がないと叫んでいます。
 何かにつけて「私たちは故郷をおわれたの。可愛そうだと思わないの?」と言います。


 故郷がなくなった悲しみは計り知れないのはわかります。
ですが、あからさまに裕福な暮らしをして、働かずもっと金を寄越せという暮らしぶりに、福島県の中部や西部に住んでいる人たちは怒り浸透です。


 避難民は「働かなくても金が入るから帰りたくない」と、アンケートに大多数が答えています


(避難民との格差)
http://mikle.jp/threadres/1888746/



福島市で原町の人が車を傷つけられたというのはやはり本当なのだろう。
南相馬市でも賠償金もらっているということがあるからそうなる
福島市とか二本松市とか郡山市はもらえない
そういう都市に浜通りからの避難民が多い。


このことがあまり話題にならないけど福島県内も賠償金問題で分断されている
南相馬市内でも避難した小高区の人に不満が多い。
小高区の人は家に帰るだけで何万とか手厚い補償がある。何から何まで賠償金が出るのである。


結局福島市でも実際は放射線量は浜通りより高い所があり何でそっちばかり補償金が出るのかとなる。ただ福島市とか郡山市とかは人口が多いのだからとても補償しきれないだろう。だから原発は大都会の近くに建てて事故が起きたら補償できなくなる
小さな六ヶ所村だったらすでに東電とか政府で買い取る規模だったのである。
双葉町や大熊町も実際は政府と東電に買い取られていたのである。
だから原発事故後は放射能に汚染された廃棄物の処理場にされる。


福島市や郡山市で不満なのは放射能の実害が同じようにあったからである。
もし浜通りだけに限定されていたらこんな文句も出なかったろう。
なぜ浜通りだけが優遇され賠償金がもらえのだとなる。

ところが原発を建てる時は中通りでも会津でも関心がなかった。事故が起きて福島県全体に実害があったから今になると騒いでいる。
もし中通り福島市でも郡山市でも最初からこんな被害があるなら原発に反対するから建てられなかった。そこが大きな誤算だったのである。
自分の住んでいるところも遠いと思っていたから関心がなかった。
30キロ圏外であり実際にそうだった。
ただ中通りだったらまず原発事故であんなに被害があるとは誰が予想していただろうか?
原発自体に関心があった人がとれくらいいただろうか?
そこが原発の最大の盲点だったのである。


イワキでは原発避難民に対して不満が多く実際に落書きなどされたり車を傷つけられたりしている。ところが中通り郡山市とか二本松市とか福島市ではそういうことをあまり聞かない、会津でも避難民がいるから不満かある。しかしそういう不満があることを知らないと問題が起きる。


不思議なのはこの辺でも避難民で仮設に住んでいる人たち2000人以上いるかもしれない、そういう人たちが働かなくても食べていける、贅沢できるということである。
部屋は狭いけどそれだけの人間が働かなくても食べていけるということがやはり現代が豊かな時代であり広域社会だから食料はいくらでも入ってくるから困らない。
もし避難民がこれだけ入ってきて働かないで遊んでいるとなると労働者だって不足して世話しきれないということが起きてくるはずである。
確かにスーパーでもどこでも人手不足で募集している。介護士も地元では働く人がいないのでよそから来た人で今はまかなっている。
いろんなところで人手不足だけど食べるに困る人はいないのである。
むしろ食べ物は贅沢しているのである。


広域社会になるとやはりモノは金さえあれば入ってくる。モノが入ってくればこれだけの人間が増えても食べる分には困ることがないのである。
もし昔だったら食料を地元まかなうとなると2000人も増えたらまかなえきれなくなるだろう。米だってたりなくなるだろう。それが全く困らないのである。
2000人以上が増えても遊んで暮らしていても食べる分は別に全く困らず供給されているのである。
農村地帯で米も全くとれなくなっても米はやはりいくらでも外から入ってくるから困ることはないのである。
もう江戸時代あたりだったら地元で米がとれなくなったら飢え死にしている。
他から入ってこないからである。


やはり人間は食べ物はあるというとき危機感を感じない、誰もだから飢饉のことなど理解できない、人間の最も苦しいことは食べ物がないことだからである。
確かに狭い部屋にしろ避難民の表情は苦しいようには見えない、追い詰められてもいない゛今日もパチンコ屋だというのも不思議なの光景である。
だから避難民がかわいそうだなどということはないのである。
もちろん避難民にすれば故郷を土地や家を失ったことは金には替えられないということはある。
でも人間は食べ物があるということで危機感をもたないのである。
ただそうはいっても精神的苦痛はかなり大きいだろう。
なれ親しんだところから離れて暮らすことは容易ではないからだ。


要するにいくら補償金もらって金があるからと言って避難民は大きな顔をしていられないのである。それが何もしないで遊んで暮らしているとなると何なのだとなる。
確かに金があれば消費すれば地元でもうるおうじゃないかということはある。
でもその金だって福島市でも郡山市でも会津だって賠償されてもらいたいものなのであるなぜ避難民だけに特別手厚いのかなって不満が起きている。
それは南相馬市でも小高の人に鹿島区の人は不満がでるのと同じなのである。


いづれにしろあまり中通りのこと福島市でも郡山市でも会津でも避難民についての感情的なものが表にでてこない、報道もされない。だから原町の人が福島市で車を傷つけられたというのが理解できなかった。だからこれも南相馬市になると気をつけた方がいいとなる全国でも南相馬市とか福島市となれば何か税金泥棒だとか原発乞食だとか感情的に悪くなっているからこれも気をつけねばならい、東京辺りでギャンブルなど遊ぶべきではないが現実にそういう人はいる。ただ出身県は隠しているだろう。
車はナンバーなどで隠せないから傷つけられたのである。

 
posted by 老鶯 at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連