2014年08月31日

背後にアメリカが圧力をかけ軍事のために推進される (原発事故⇒辺野古の米軍基地計画⇒リニア新幹線は一つにつながる)


背後にアメリカが圧力をかけ軍事のために推進される

 
原発事故⇒辺野古の米軍基地計画⇒リニア新幹線は一つにつながる


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日刊現代8月30日


記事は(1)空母から艦載機を60秒間に1機という“高速発艦”が可能となる新技術「電磁カタパルト」
(2)従来の火薬銃弾の発射速度の2.5〜3.5倍、秒速約5000〜7000メートルという
遠距離に弾丸を撃ち出す電磁銃「レールガン」――への軍事転用の可能性を指摘。

武器輸出三原則は、憲法と並んで平和国家日本の象徴です。これを緩和して日本製の武器が戦場で使われたら、日本は死の商人だと言われかねません。そうなれば戦後、長年かけて築き上げてきた平和国家という、日本のイメージが崩れ去る可能性があるため、見直すべきではないという根強い意見があります。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/181993.html

農薬散布や空撮などに使われる無人ヘリは、軍事転用が
容易である。また、偵察飛行に利用されたり、テロリスト
の手に渡る危険も高い。
http://blogs.yahoo.co.jp/karyudo111/45105827.html

日本を支配する米国覇権主義者(=D系戦争屋)は、日本が勝手に原子力プラント技術を核兵器開発に転用しないように、非核三原則で縛るのと引き換えに、日本全国に原子力プラントが分散立地するのを黙認したのではないでしょうか。もし、日本が米国に逆らったら、即、全滅させられるわけです。そのためか、日米安保と称して、日本全国に常時スクランブル(緊急発進)可能な米空軍基地が配備されています。なるほど、日本の原子力プラント建設黙認と在日米軍基地はペアになっているわけです
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/11583912.html



「日刊現代」の記事にリニア新幹線が実は軍事のために使われるから膨大な予算をかけて作られるという。技術は常に軍事転用される危険性があり現実に核の技術は核兵器となり日本で現実化したのである。
リニア新幹線は膨大な金がかかる、でも最近ではリニア新幹線が必要なのかどうかと疑問を呈する人がでてきている。それはそんなに膨大な金を使って本当に必要なのかどうか、採算がとれるのかどうかという疑問があるからだ。
そんな国家的な無駄なことをしてなになるのだという疑問がある。
でも技術は常に軍事転用されるから軍事の面からは無駄なものはないのである。
宇宙開発でもその技術は軍事転用されるからアメリカでは膨大な金をかけたのである。
技術や科学にうとければリニアが軍事に使えるなど思えないのである。
でもほとんどの技術は軍事にも使えるのである。
鉄道だってトラックだって軍事にロジステックとして使える。
戦争になればあらゆる技術は戦争のために使われたと同じである。
だからなぜリニアのような無駄なものを膨大な国家予算なみの金を使って作るのかという疑問もそれは軍事用にもなるしアメリカでも必要としているからだとなる。

原発にしても危険でも日本でも作られたのはアメリカの後押しがあったからである。
原発も核兵器になるのである。技術にはそうした善にも悪にも使用方法によってはなる。アメリカではなぜ戦争するのかというと武器を売るためだとか言われた。
アメリカは最大の武器生産国であり輸出国になる。武器は戦争がない限り売れないから
戦争を作り出しているのだということも言われた。
日本も経済が停滞すると企業は死活問題になり武器を作り売る他ないとまでなる。
そういう危険水域にも入っている。
平和憲法があり平和の国のイメージがそがれるとういのもわかる。
右から軍事無しで国を守ろうとするのは現実を知らないものだというのもわかる。
平和憲法を念仏や題目を唱えていても守れるのかとなる。
創価などはしきりに人間革命で「死の商人」のことを問題にしていた。
でも公明党は集団的自衛権に一時反対したが自民党に押し切られた。
その原因がアメリカからカルト認定させると自民党に脅された結果だった。
そもそも創価はただ利権団体だから得にならないことはしない。
「平和」「平和」と唱える団体はまた太平洋戦争のように戦争に転換する。
だから右も左も信用できないとなる。

ともかく日本はアメリカに占領された結果、アメリカの意向にそうように政治もなっている。アメリカ様には逆らえないということかある。だからユダヤ陰謀論もでてくる。
日本のような地震国になぜ原発が50数基も作られたのかというのも今からすると疑問があったがやはりアメリカの圧力もあってそうなった。
一見電力の需要が増えたからと見えるのだが原発には軍事用にもありまた技術先進国として世界で主導権をとるためにもある。だから原発の輸出をするためには原発をやめるわけにいかないのである。
ただ原発は戦争になったら最大の危険にさらされることになるのも確かである。
原発を攻撃されたら一貫の終わりである。
だから原発は軍事的にも危険なものともなっている。

いづれにしろリニアでもそうだが辺野古のアメリカ軍の基地移転もそうであった。
て七割りは反対しているというが実際はその辺の事情は報道されていない。
ただ一億円は軽くもらえるだろうということは報道されている。
それは原発の補償金とにていたのである。
基地を作る変わりに自分たちの故郷も自然も売り渡すことになる。
一回だけ山原を自転車で回って辺野古に基地のできる所にテントを張ってとまったのである。
あそこはジュゴンが発見されたとか山原は広大な自然が保存されている貴重な場所であるそこに基地ができるとそうした自然は破壊される、騒音も激しく静かな町はなくなる。
山原にもヘリコプターなどが飛んでいるのだ。
それにしてもそこはあまりにも辺鄙な町であるから福島よりも金でとりこむのは簡単だとなる。
原発事故周辺は常磐線が通っていたし六号線もあったしそんな辺鄙な場所とも違っていたのである。
むしろ東京に近いから工場を誘致するのにはいい場所だったのである。
そういう距離にあるから東電が原発を作ったともなる。

何か原発事故以降は周辺は沖縄とにていきたのである。補償金が最大の問題なのもにている。沖縄では絶えずアメリカの基地をおしつけられたことで補償金が注入されてきた。
それで一番金をもっているのが基地の地権者でありその人は東京で豊かな暮らしをしているというのもひっそりと書いている人もいる。
この辺では漁業権で原発御殿が建ったとかいうのも同じである。
今度は一億もらえるとか騒いでいるのもにているのである。
でもその代償は故郷に住めなくなったことである。
辺野古でももう一億円もらったら那覇のような都会に出てくる人が増えるだろう。
あそこは相当に辺鄙な場所だったからである。
福島県の浜通りは辺鄙な場所ではない、交通もそれなりに充実していたのである。

原発周辺でもそうだが辺野古のような辺鄙な場所ではまず金がばらまかれる。
反対してもその金の魔力に屈する。反対しているものも圧力がかかり賛成する。
そして故郷も自然も売り渡してそこは住んでいる人も去ってゆくとなる。
その町自体が米軍や国に買われてしまうのである。
この辺も実際は東電と国に買われていたのである。
だからついには放射性物質の核の廃棄場にされることになった。
その分また金は支払われることになったのである。
この問題は辺野古だけではない、沖縄全体の問題であるし日本全体の問題でもある。
でも権力者は政府側は辺野古のような極狭い一部の問題として処理することに危険があった。原発も地権者とか漁業権者だけを相手にしてあとはしない。
その狭い範囲で交渉で汚染水の海への流出も決められてしまう。
他の人はかかわることもできない、漁業権者が賛成すれば実行できるのもおかしいのである。
海は誰のものかというと漁業権者のものでもないのである。
汚染水は日本全国に世界的にも影響するのである。
魚には領海もないのだから自由に泳ぎ往き来するからそうなる。

ニュースを読む時、それぞれが別な問題としてみるとわかりづらくなる。
それぞれが別個だとなるとそれぞれの理由がありとか問題の所在がわかりにくくなるのだこれらの一連の問題は密接に関連していたのである。
関連していることがわかることで何がそのニュースの要点なのかわかるのである。
これは今やマスメデアからではわかりにくいのである。
そもそも取材では真実は探り得ない、なぜならテレビで漁業権者を取材していたけど
取材が許可するのは漁業権者の言い分を報道してくれることが条件になる。
それでないと取材は断れ拒否されるからそこからは真実はでてこない。
漁業権者が補償金が特別多額にもらっていることは報道されないのである。
そんなことを報道しないで漁業権者がいかにも東電の被害者だということを報道してくれるから取材を許しているのである。
それはNHKが中国を詳しく取材できるのは中国の政府の許可を得られるからでありでないと報道するできないんとにているのだ。だから中国の暗部はあまり報道しないのである。だからそもそも誰でも公平な報道はできないのである。




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虫の音(介護の俳句)


虫の音(介護の俳句)


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家の中に虫の鳴きにつ介護かな

街離れ墓地にひびけり秋の蝉

今日も聞く我が家に一つ秋の蝉

木槿咲く白と紫や田舎かな

ノウゼンの一輪散りぬ玄関に夏の名残や街に住むかな

高齢化というのは様々な場問題を生む、それは人類が今だ経験していないことだからである。高齢化というとき昔でも高齢な人はいたけどそういう人は優れている人であり特別な人だったからかえって尊ばれたということがある。
今はその数が多いから問題なのである。

ただ百才まで生きるということは普通は信じられないことだろう。
大正生まれはすでに一世紀を生きたのである。
明治にしても一四〇年前とかなる、この歳月は相当に長い。
ただ人工的に見ると大正時代に六千万だったというのは意外だった
そういう人口規模で工業もあまり発達していないと風景としては農村風景が多く
何か今とは違って風景的には落ち着くものがあったろう。
東京だって今とはまるで違ったものとなっていたろう。

田舎だと静かだから我が家にいて秋の蝉の声を聞いている。
これが騒音が激しい都会だったら秋の蝉の声がかきけされし聞こえないだろう。
田舎の風景は今でもやはり落ち着くのである。
木槿が咲いている風景もそうである。
木槿はやはり田舎的な花なのである。

介護というと実際は家で介護するのはかなりの負担になる。
病人でもそうだが家でかかえると病人に圧迫されるし何か重しのように
負担になる。
だから介護してから七年くらいたつ。介護していたりすると家が病院か施設のうよになるだから正常な家族の営みができなくなる
そして今は家族が少ないから特に負担になる
そして介護は長いのである。食べるものは極端に少ないから栄養不足になりもうだめなのかと思っているが生きている。
そんなに栄養とらなくて人間は生きていけるのかと思う。
もともと味噌汁とかご飯と梅干しとかたくわんとかしか大正生まれだと食べていない
だから介護でもそんなもの食べて生きていけるのかと思う。

ともかく家の中に虫が鳴いているというのはまさに介護の俳句である。
介護している人は本当に多いこれからも増える一方である。
ただ介護職というのは何か仕事としては不毛かもしれない
若い力あるとき介護して何か残るものがあるのかとなる。
若い人のエネルギーが老人に費やされるというのは
生物としてありえなことだろう。

これからもしかしたら一〇人に一人くらい百才まで生きるかもしれない
反面団塊の世代などは糖尿病などが増えて早死にかもしれない
先はわからないにしてもやはり高齢化になることは確かである。
ただ人類にとって未経験なことだから様々にいわれることになるのである。
自分にしても長く生きると金銭的にいろいろな問題が起きてくる。
まず国民年金では暮らせない、それも問題であるかほかにもいろいろな問題が起きてくるそれでもあと十年で死ぬとなれば意外と計算は楽になるのだ
そのくらいならなんとかもつなとかイメージできる。

でも二〇年だったらもうイメージできない、貯金も底をつきやっと食べるだけになっているから辛いし生きたくないとなる。
老人はある一面終わりから考えるから意外気分的には楽になっているのだ
どうせ終わりだとなると楽なのである。
若い人は先が長いからすぐに死ぬわけにもいかないから負担が大きく見えるのである。
どうせまもなく死ぬんだ終わりなんだとなると人間は楽になる。
その先延々と苦しい生活がつづくなとなると苦しさが倍増するのである。

今日は日立木に行ってきたがカメラをもっていかないので失敗した
相馬市の実りの季節であり何か南相馬市は原野化しているからその実りの風景が新鮮になっているのだ。
だから明日でも写真をとりにまたでかける。
日立木の道の駅までは近いから行けるのである。



抽象画(abustract) (陸と海の地球ー何でも視点を変えると別なのも見える)


抽象画(abustract)

(陸と海の地球ー何でも視点を変えると別なのも見える)


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一億年前の地球

ヨーロッパ大陸のようなものが現れている

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陸と海の地球

海から見ればアジアの中心は日本である

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こういうふに中国大陸とか東南アジアから日本を見ると実は日本が海からみればアジアの中心にも見える。
日本の国の成立がもともとは様々な国からの移民が最初にあった。
それは回りが大陸に囲まれていて海の中にあったからだ。
日本は海からみればアジアの中心だったのである。
だから太平洋戦争は海をめぐる覇権争いでありその争いに日本は敗れた。
海を制したアメリカの支配下に入った。
戦艦大和が沈没したのが象徴的だった。

今また尖閣をめぐり今度は中国が海の覇権争いにでてきた
それは海を支配下に入れれば日本もまた支配下に入るからである。
日本という国の不思議は大陸ではない、海の中にーありそこでかえってアジアの中心にこの地図からは見えたのである。
イギリスが七つの海を支配した結果、大英帝国になったように海を支配しないとアメリカでも大国にはなりえないのである。
だから中国は海軍に力を入れるようになったのである。

この絵の作り方は一定のソフトの過程で作られる。
操作している内に会得した。
パソコンはいかにソフトを使いこなせるかが今や大事である。
いづれにしろ人間はつくづくその土地にしばられ固定した見方しかできない
アジアの大陸方面から日本をみれないのである。
視点を変えるとまるで違ったものとして世界は見えるのである。
世界というのは世界旅行したからと言ってわかるものではなかった。
あまりにも広いから一回くらい行っても何かわかりにくかったのである。

ともかく人間の視点は視界はその住んでる場所にありそこから世界をみている。
だからそこに偏見が生れてくるのである。
場所を変えると全く世界は違ってみえる。
地図でも同じ型にはまったものばかり見ていると固定観念化してしまうのである。
抽象画はそういう点自在に変化させられるからそこが強みである。
具象だったら山は山、家は家、机は机とかその具象化から逃れられないからである。
だから抽象画は自由の度合いが大きいのである。
視点を変えるというときデジカメでもそうであり視点変えると景色でも花でも違った様相を呈するのである。
そういう点で写真は絵と違っていくらでも視点を変えられるから今は写真の時代になったのである。
タグ:地球

2014年08月30日

夏の暮 (津波原発地域はまだまだ変わりようが激しいー写真でその変化を見る)


夏の暮

(津波原発地域はまだまだ変わりようが激しいー写真でその変化を見る)


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茅葺きの家はこの線路脇にあるのも変な風景である

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蝉はまだ津波に残った樹に鳴いている

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これは作業船である

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この風景は不思議である。

ここに川口神社があった、祭ってある

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広い沼にあめんぼうが泳ぎ、いくつも波紋がたつ

何か水の中をすばやく動くものがある

生き物が沼には増えてくる

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鷺が増えたのは蛙など湿地に食べるものがあるからである

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ここの庭は石の庭だった

全部は紹介できない

石に興味あるからこの石は筋が入っていていい石だと思う

ここには他にも大きないい石があり石の庭だったのである。

外から見ても中から見ないと庭はわからないのである。

ともかくこうしたて写真をみればいかに変わって風景になったかわかるだろう。

ありのままがあまりにも変わった風景になってしまったのである。



ゆうゆうと芙蓉やこの道また帰る

昔より蔵ある家や芙蓉かな

この道やでで虫一つ散歩かな

茅葺きの昔の家や木槿かな

津波跡残る樹にひびく蝉の声

あめんぼう新たな沼に生き生きと

新たなる沼に波紋や夏の暮

真野川や釣り人一人初秋かな


根っこ一つここに残りて波よせて社の跡や夏のくれかな

川岸に葦の繁りて松はなしなお生々し家の跡かな

秋日さし幹の太しも松ありて我がふれしも今はなしかも

津波跡この家に残る庭の石しげしげと見ゆ夏のくれかな

夏草に埋もる線路や小高へと電車は行かじ三年過ぎぬ

退職しスーパーに勤め草をとるその人見つつ買い物するかな



この辺の変化は未だに凄まじいものとしてある。右田浜の川口神社には大きな木の根っこが残り波がよせて川口神社を祭っている。あれも完全に流され消えた。
それほど大きな社ではなかった。烏崎村の津神社は結構大きかった。
右田浜はここは松原がありキャンプ場になっていた。
いい松がここにあり神幹が太くそこにより川岸のコンクリートの道を歩むのが気持よかった。それが今こんなふうになっているのが信じられないとなる。
その変わりようがあまりにも激しすぎたのである。
ここはもともと松はなかったのだかからこういう葦の繁った状態が太古の状態だった。
太古の状態は防波堤もなく波が直接打ち寄せ北海道のように湿地帯になっていたのだ。
ただ最近鷺もみかける。今日はアオサギも二羽いたし白鷺は七羽くらいみかけたから
蛙などが増えてきたのである。水生生物も増えてきた。
だから新しく沼となったところに何かいるのか水の波紋がしきりにたっていた。
あめんぼうもきもちよくすいすいと水の上をすべっていた。
海辺は北海道のように湿地帯化してゆく、一面広々として気持いいとなるが
実際はまだ津波の後遺症は残る。家の跡が残っていて無惨である。
家の土台が葦などに隠されて見えなくなったりしたら年月が経てば忘れられるのかもしれない。それまでは相当に時間がかかる。

それにしても以前としてこの辺の状態は不思議としかいいようがない。
常磐線の小高への線路は閉ざされている。草に埋もれて三年もすぎたのである。
もう電車はイワキまで通じることはないのかもしれない。
そういう計画もないからである。仙台まではあと六年だとか計画しているのとは違うのである。イワキの方はこの辺ではつながりが薄い、仙台方面がつながりが深い。
六号線は今まで同じように車が多いし変わっていないから何かさびれたという感じがしない。

退職した男性が三時間くらいスーパーで働いている。遊んでいるのもまずいからと働いた一度話ししたから草をむしって働いているなと見る。
今まではそんなことを注意していなかった。
この辺は津波原発事故以降にいろいろな見方が変わってしまったのである。
仮設などで大勢が補償金もらって働かないから批判される。
一見働かないくてもいいんだからいいように見えても回りは人手不足で困っているから
今はそう見ない。
何か働いている人が何であれ貴重なものに見えるのである。
今までだったらそういうことに注意していなかったのである。
ともかく毎日パチンコ屋通いの人が多いとなると対象的にそうして草むしりでも働いている人は貴重に見えるし遊んでいるやつはなんなのだとなってしまう。
今までは別に働かなくても少数者なら見逃していただろう。
それが今はかえって働かなくてもいい補償金をもらっていてもそれが大勢だから目立つのである。

芙蓉は花が大きくおおらかでゆったりとしていて好きである。
自分は神経質で気が小さいところがあるからこうしてゆうゆうとしておおらかな花が好きである。
それは女性でも太った女性はなにかそうした感じを受けるから男性に好まれるということもある。
やせた人間には何かそうしたあったかさおおらかさを感じないのである。
だから太っている女性をそう思う男性がいる時、やせようとしているのも問題である。
がりがりにやせた人間は心までやせいるように見えてしまうのである。

昔から蔵があって広い庭があり田畑があると何か落ち着く、そこには恒産がある。
金をもっていても金は紙であり金は今や数字だというのもわかる。
いくら大きな金、数字でもそれがいつかはゼロになる恐怖があるのだ。
だから土地や家や金の延べ棒でもゼロにはならないからそっちの方が貯えるにはいいともなる。
貯金もない人は何かあったとき困るで、でも今は貯金もない人すらいる。
だから何かあったとき借金を頼んでくる。そういう余裕のない生活は嫌である。
多くの金はいらない、でもある程度の蓄えがないと落ち着かないとなる。田舎は家とか土地とかある程度資産がないと住みにくいだろう。
中産階級が没落しているのは本当だろう。
だから貧富の差も目立つようになったのである。それはアメリカでも同じである。
日本でも中産階級が没落して金持ちと貧乏人に別れてきた。
その間の中産階級が没落しているから問題なのである。

パソコンは富士通で聞いて復旧した。あと一〇日で一年の保証期間が切れるところだった富士通はサポートがいい、出張してもみてもらえる。
ただパソコンはたいがい不具合になると初期化とか初めからやり直すとかになるから怖い記録したものが一挙消えることが一番怖い。
プログだってサーバーで消えたところがあるから保存していないとまずい。
そういうことがおこたりがちだからあるとき突然クラッシュしてパアになる恐怖がある。でも本当はサーバーの方がプロが管理しているのだから個人のパソコンより安全である。だから記録でもクラウドなどがかえって記録しておくにはいいとなる。
個人ではパソコンが壊れたら終わりになってしまうからである。

タグ:津波の跡

windows 8が最新のアップディトすると画面が真っ暗になり起動できない


windows 8が最新のアップディトすると画面が真っ暗になり起動できない

windows 8が最新のアップディトすると画面が真っ暗になって画面が出なくなった。
ただハードディスクは壊れていない、ファイルも消えていない
ワードで呼び出すことができた

不具合がありアップディトはしないとマイクロソフトで報告していた。
どういう具合でこうなったのかわからない

パソコンは一端不具合があるとめんどうになる。
だから前は嫌になっていた。
ただインターネットは普通に使いている

この修復はプロに頼むほかない、電話で解決できればいいが
ともかく復元ポイントに戻すのもリスクがあるとかパソコンはまだ危険なものである。
問題はファイルがワードのソウトから呼び出せる
富士通のパソコンでは画面が出なくてもメニューボタンからソフトが機能している。

こうしてプログにもアップできているから直せるのだろう。
でもこうなると結構めんどうである。
他でも報告してあるから被害にあった人はいる

約一年使ってまたパソコンのトラブルである。
もう一台あるけど通信にはさしつかえない
だから基本的な所は壊れていないみたいだ

ただ修復するのがインターネットに出ていたが簡単にはできないのが困る
明日電話で富士通に聞いてみよう






タグ:Windows8
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2014年08月29日

少子高齢化で津波原発被災地は小高などでも復興は困難 (日本の人口は歴史的に増えすぎていた)



少子高齢化で津波原発被災地は小高などでも復興は困難

 
(日本の人口は歴史的に増えすぎていた)


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常磐線は小高に通じていない(すでに3年過ぎた)

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プレバブとホテルが増えた
ここには2、3百人くらいいるのか?

●老人と若い人の考え方は違いすぎる

バスの運転手が事故を起こすのは競争が激しくなり勤務時間が長くなり過労のためだった若い人が入らず補充できないので五〇代以上の人が過労になった。その人たちは病気持ちであっても無理していた。
つまり若い人が少なくなり需要があっても補充できない状態がいたるところに起きているのが日本である。
津波とか原発被災地では特に顕著なのである。

郵便局で小高の年配の女性が話ししていたけどなんか家をリホームしたいが若い人が帰らないでしないという、三百万とかかかるしもう年寄りは先がないから家のことに金かけたくないと言っていた。壊すのにも金がかかるからそのままにしておくとか言っていた。
つまり若い人と老人の考え方は相当と違うものになるのだ。
小高でも若い人が帰らないということは家をリホームしてもあとどのくらい住むからわからないから無駄だと思う。
自分でも風呂場は壊れたし台所は旧式で食事する場が離れているから不便なのである。
でもリホームしてもあとどれくらい生きるのかと計算するのが老人である。
実家のたたみかたとか放送していたけどどうしら終わるのかとか考える老人ばかり
帰っても街は復興しない。
街自体が老人ホームになってしまうだろう。
その老人ホームだって誰かが若い人がいなければ成り立たないのである。

若い人が帰らないということはやはり致命的になるだろう。
後がない実家のたたみかたとか墓をどうするかとかそんなことばかり考える老人と
これから子供をもって暮らそうとする若い人の考え方は根本的に違う。
特に原発事故の避難区域は放射能汚染を恐れる若い人が多い。
内部被爆で例え二〇年後であれ影響があれば怖いから住まないとなる。
ところが老人は放射能に関してはあまり気にしない、地元の野菜でも果物でも食べている、自分も食べている。二〇年後はどっちにしろ病気になりやすいのである。
ガンになったとしても放射能汚染の食物を食べても食べなくてもなりやすいのである。

今のところはこの辺は外部から人がまだ多く入っている。
この辺ではまずプレバブの宿泊所と新しいホテルが鹿島でも原町でも建った。
原町の高見町にも新しいホテルが建っていた。
それだけ外部から入る人が多いのである。
ただこれも三年後五年後とかなるとどうなるかわからない。
外部の人が去ると相当にさびれるかもしれない。
地元の若い人は流出して老人ばかり増えるとその負担も大きくなる。
つまりバスの運転手のように年配の人にそのしわよせがきて過労で事故につながる。
原発事故周辺では外部からの人で経済がかなり回っていることは確かである。
それがいなくなってゆくとき衰退している市を目の当たりにするかもしれない。

未来を描くとなると老人では無理である。老人はこの世を去ろうとしている人である。
そういう人たちの関心は苦労はしない、のんびり楽したいということしかないのである。もちろん肉体労働だってできなくなっている。
だから農業でも職人でも重労働はしたくないなとなりやはり人手不足なにるのである。
これは全国的問題でありただの辺が顕著になっている。

まず家一軒でも庭でも一人で維持管理することが苦労になる。
津波で被害があった近くの人は床上浸水でも家は残った。農協の保険では五〇〇万もらったという。ずいぶん多いなと思った。
自分も農協で一年五万払っても三〇万ほどしかもらえなかった。
実際は屋根のグシを直したので七〇万とられた。
三〇万は安かったと思うが一方で津波で被害で家は全部残っているのに五〇〇万もらったのは多いと思った。ただその被害は目に見えて違っている。
保険は一五〇〇万のにかければそれしかもらえないとなると津波で流され全壊した家でも保険料は少ないとなるだろう。でも保険はこういう時かなり助かる。
結局保険は自分は被害が少ない分被害の大きい所に金が回っていたことになる。
相互扶助が保険の役割だったのである。
こうして家にはいろいろと金がかかるから本当にある程度資産がないと維持できない。
だからかえって家はめんどうだなと先がない老人は考えるのである。
風呂だって一人で入るとかえって損だし他でも食事でも一人分だと野菜を買っても半分が早い新鮮なうち食べないから腐っていたとかなる。

ともかく少子高齢化で小高などでも確かに放射線量は低いにしても復興は困難になる。
若い人が流出しているし帰らないとなると老人だけが残される
老人は先が短いとめんどうなことに苦労することにかかわりたくないということがある。先をみこしてやるということもできなくなる。
実家のたたみかたとか故郷のたたみかたとなってしまうだろう。
墓すらすでに避難した人たちは新しい生活の場に移すということも起きているだろう。
だから津波原発事故周辺地区は復興することは困難になっているのだ。

●老人すら三〇年後には極端に減る

不思議なのは戦後の焼け野原になったとき、自分などをふくめ団塊の世代が生れた。
その時子供が雨後の竹の子のように生れた。
だから焼け野原になっても何も食べるものすらないのになぜそんなに子供を生んだのが不思議である。
今なら食べ物などいくらでもあるし便利なものもいくらでもある。
だから子供を生んでもいくらでも食べさせることはできるのである。
でも子供はどんどん減ってゆき日本は滅亡するとまでいわれる。
その原因は何なのかというとわかりにくいのだ。
あらゆるところで人手不足になり仕事も維持できなくなり限界集落で祭りも維持できなくなり跡継ぎのいない家が全国で放置される、空家が八〇〇万軒があることは異常である。だからこういう社会の変化に即応した対応が望まれているのだかそれがわからない。
特に津波原発事故周辺はその少子高齢化が極端な形で現れている。

老人が増えてこまるというけど三〇年後くらいになるとその老人すらいなくなり人口が極端に減ってくる。そうすると介護でも病院でも成り立たなくなる。
病院も今や老人ホーム化しているからである。ほとんど高齢者しかいないのである。
だからそういう高齢者もいなくなるとのきなみ病院もつぶれてゆく。
医者も過剰になり看護師不足もなくなるのである。
それがいいことであるがまた地方にとっては働く場所もなくなるということになる。
少子高齢化は三〇年後とかなると高齢者も極端に減って日本の人口がもう半分くらいになるという縮小してゆくのでしなる。
例え六千万になってもそれは一九二五年代くらいにもどるだけなのである。
それほど明治以降人口が増えたのだからその反動が出てきたのは人口動態から見れば正常だともなる。
日本人の人口はピークになったからそこからまた下がるというのは自然の理だともなる。ただ一億二千万の経済規模と六千万の経済規模が全く違ったものとなる。
その衝撃は余りにも大きいものとなるのだ。
人口が増える時は経済でも活発化するがこれだけ減るとその衰退は極端になる。
すでに駅前のシャッター通りとか町の半分がゴーストタウンになる衝撃がある。
だから小高などでも復興自体がもともとの経済状態の悪化で困難になっているのである。

●日本の人口を歴史からふりかえる

奈良期で200〜250万人。
平安期で250〜400万人ほど(期間が400年間)
鎌倉期で500万人。

室町時代〜戦国時代(安土桃山期を含む)は270年間ですが、1600年の時点で人口は約1500万人と云われています。
この270年間で水田の規模も整備されて、国土の人口扶養力が約3倍となった時期です。
江戸期も265年間続きましたが、江戸期前期が1500〜1600万人であり、新田開発で人口扶養力は幕末時点では約3,300万人です。
(正確な人口は明治政府が発表した明治5年での人口3,480万6千人があります。
明治10年で3,587万人の人口となっているので、5年間の増加を100万人として、幕末を3,300万人としました)
明治期は、5年度が3,480万6千人であり、明治45年が5,057万7千人となっています。
(45年間に1,600万人の増加です)
ちなみに、大正末期で5,973万7千人。
人口が1億を越えたのが、昭和42年(1967)の1億19万6千人です。

大正時代で六千万だったつまり今の人口が半減するとき、大正時代にもどるのであり
江戸時代にもどるわけではない、例えば現代から六千万の人口だとどんな状態だったか想像もできなくなっている。大正はすでに百年前にもなる。
六千万だとずいぶん人間も少ないからゆったりしていだろうとかなる。
空間だったそれだけ広くとれるからである。
それから信じられないの奈良時代が二百万とかなるとこれは想像を絶する世界である。
人が本当に住んでいたのかとなる。
でも不思議なのは奈良の大仏とかいろいろな大きな寺院などがありそんなふうにはまるで見えないのである。
繁華に人がいてあういう神社仏閣もありうると思うからである。
過去は常にこうした大きな錯覚を生んでいるのである。

文化というのは二百万人規模でも一億二千万の現代より豊かにありうるということもある大仏にしてもあの当時この人口の規模であれだけのものを作ったということは逆に民の負担も大きかったなと想像する。
それでも文化的に日本人は豊かだったなと万葉集などを残しているのでイメージする。
人口がこんなに少なくても文化的に残すものは大きなものがあった不思議がある。
鎌倉時代でも五〇〇万だからその少なさは意外である。
だからこそ鎌倉時代辺りまで広い牧が日本全国にあったことが当たり前だとなる。
原野が広々としてあって自由に使えていたからいたるところで馬が放牧されていたのである。

結局人口が減っても日本だったら六千万規模でも十分に豊かに文化的にも何か作り残すことができる。そのくらいの規模が狭い日本では暮らしやすいとなる。
だからそう悲観することはないのかもしれない。
文化的な面から見れは人口の減少はあまり影響しないということにもなる。
むしろ日本は明治以降人口がふえすぎたからその反動でゆりもどしがきているのだという考え方もできるのである。


タグ:小子高齢化
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2014年08月28日

初秋故郷をめぐる語(川子の森から草原へ) (故郷と年とともに一体化してゆく人間ー老人は長く生きた土地を離れにくい)


初秋故郷をめぐる語(川子の森から草原へ)


(故郷と年とともに一体化してゆく人間ー老人は長く生きた土地を離れにくい)

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故郷の奥を訪ねて秋の蝉
白髪も濃くもなりなむ芒生ゆ
四十雀鳴く声ひびき糸薄
草原や数羽休みぬ秋の蝶

菊畑白と黄色に映えにつつ塀長き家のありしも夕ぐれぬかも
故郷に老いゆくもののあわれかなともにしあれやまた秋の来ぬ
故郷に秋雨しととふりにけり何を語るや盆の後かな
四十雀群れて鳴きつつ飛び移る薄の生えこの森親し
川子なる八竜神社の古きかな秋の蝉の音夕べひびきぬ
白々と今日も木槿の咲きにけり素朴なる女なお田舎に住む
心よす一つの石に樹年古りて深く思ふやあわれ深まる

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今年は秋が早いのだろう。曇りの日がつづく、天候不順で農家の人は困るという、
日が照らないと野菜も育たないからである。
ただ野菜を買う人は高くなったと文句を言うだけである。
涼しくなったから過ごしやすいと言うとやはり日も照ってもらわないと暑くならないと困るという感覚は実際野菜を作っている人の感覚なのである。
それは風流とはまた違っている。

最近故郷が何かとかこの辺で問われる。故郷に住めないのだから当然である。故郷がなくなるなど思った人は一人もいないだろう。だから原発事故は想像を絶するものだったのである。特に都会の方に避難した人は特に感じているだろう。
回りに田んぼとか畑とか自然があればそれほど故郷を思わないかもしれない。
啄木の悲劇は東京に住んで死んだからである。

いづれにしろ自分もだんだん年とり白髪も増えてきた。もう結構な年なのである。
昔だったら十分に老人である。ただ今の時代は何か高齢化社会で年をとらないという感覚になっているから違うのである。まず体力がそれほど衰えないと老化をまだそんなに感じない。ところが病気になったらそれせ重い病気になったら塗炭に急激に老けることがある老いはそういとき急激にやってくる。
こんなに動乱を経験するとまた急激に老いたり病気になったり自殺したりとその衝撃が大きいから老いる、老人は変化に弱いのである。

人間はある一定の場所でなじんで老いてゆくのが普通である。旅人なら違うが普通は故郷とは長く住んだ場所である。だから十年とか二十年とか住むとそこが故郷になる。
別に生れたところが故郷ではないのだ。
その回りの人とか自然とかになじんだところが故郷なのである。

秋の蝉というのがまた故郷にふさわしい。しんみりと朝に夕に秋の蝉の声を聞いている。この時、騒音があるとその声も聞こえなくなる。静けさや岩にしみいる蝉の声ー芭蕉である。これは夏だが秋の蝉は何か田舎に合っている。しんみりとひびくからである。

菊畑が竹がありあの家の塀は長いなと感じる。田舎ではあのように広い庭をもっている家がある。家の中に畑がある家もある。その長い塀が何か悠長なものを感じる。
そういう広い家に住めるのが田舎だったのである。
だから避難区域となりそういう家に住んでいた人は失ったものが大きいとなる。
一方で転勤で二三年とか借家住まいだったら補償金をもらった人はかなり得したことになる。だから避難した人でもそこに住んでいる人の感じ方はいろいろなのである。

川子の高台の森の道は気持ちいい、あそこは廃棄物の埋め立て地であり鉄道も下を通っているから森としても深い森ではない、でも何か森を感じるから親しいものとなった。
電動自転車だとあの坂を上れるから通っている。前は通っていなかったのである。
あそこの八竜神社は新しいと思った。なぜなら地域の消防の屯所になっていたからであるあの神社は慶長津波の前からあったのだ。慶長津波の前からあった神社は多い。
だから神社が意外古いから何かを伝えていた。
古いものは何かを謂われがあり後世に伝えるものがあり残っている。

ただそれが現代になるとそれが何を意味しているのかわからなくなった。
ただ今回の津波でなぜ津波からまねがれた神社が多いのかということで話題になったのである。それは古いから津波の来ない場所に建っていたためである。
烏崎村の八竜神社は津波からすれすれで残ったことは奇跡的だったろう。
あの神社は川子のよりは新しい、そういうふうには見えなかった。
神社は別に信仰の場所ではなく何か過去を伝えるものとしてある。
地名でも広島の蛇落地悪谷が話題になったようにである。
そこの伝説で竜の首を武士が切ったというのは土砂崩れを防ぐことに由来している。
竜は暴れる、蛇もそうである。そうした災いをもたらすものとして伝説化したのである。
六号線の塩崎にゆくところの草原化した所に蝶がとまっていた。これはうまく写真がとれた。鳥でも蝶でも動いているのをとるのはむずかしい。
森でとったのは四十雀である。これも動いているからとるのはむずかしかった。
蝶も草原化しているから前とは違っている。蝶は草原に向いている。
そもそも草原に向いている生物も昆虫もいるだろう。ネズミなどはモンゴルで増えて困るように原野化すると住みやすくなり増えるのである。

ともかく人間は歳月と共に老いてその土地と一体化してついにその土地の老木のようになり故郷の土に還るのが生物であるから自然だとなる。
その土地が奪われて住めなくなったことは辛いと思う。
百才まで生きるとなるとそうなるだろう。
ただ百才まで生きて別にその土地の自然を意識しないで死んでゆくものもある。
農家の人は否応なく自然を風流はなくても意識させられる
でも田舎でもみんな今は農家ではない、会社員だからそういう感覚もない人も住んでいるそれが多数だともなる。
だから別に原野化して田んぼがなくても生活できている不思議なのである。
外からいくらでも入ってくるから社会だからではあるがそれよりも農業でみんな生活していたわけではないからそうなっている。
ただ故郷という時どうしても自然と一体となって暮らす農家の人が感じるものかもしれない。
先祖代々の土地があり家があるから故郷に帰りたいと老人が言っているからだ。
マンションとか土地をもたない都会の人との感覚とはそこが相当に違っている。
都会の人はやはり異常な感覚であり田舎の人の感覚は自然に則した本来あるべき感覚である。
高層ビルになじみそこに土になるといっても土すらないのが都会だからである。  
タグ:初秋

抽象画は見る目が必要(秋の色(2))


抽象画は見る目が必要(秋の色(2))

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冬の海

抽象画は一見みて何かわからない、一体これは何を現しているんだろうと必ずなる。
それで必ずやはり何かこの世にある自然界のものをイメージするのである。
花であれ山であれ石であれ海であれ川であれ水であれ土であれイメージする

そもそも抽象画の基本は色なのである。色からイメージされるからそこに具象画の形としてなくてもイメージされる。茶色だと岩だとか土をイメージする。
青だと主に水になり空などにもなる。赤だと太陽だとか火だとかイメージする。
つまり抽象画が形ではなく色からイメージされるのだからただ一つの色だけをぬって
それが抽象画だとしているのもあるのはそのためである。

だから抽象画は見る眼が必要になってくる。その人がどういうふうに見るかが鑑賞力が具象画より必要になるのだ。要するにそそも芸術は見ること自体が評価すること自体むずかしいものだった。それはその人の感性によるからである。
特に抽象画がその人の見る眼が試される、何も感じないものは全く評価できないだろう。これ何なの?ただ絵の具をぬりたくっただけじゃないかとなる。
こんなこと子供にでもできるじゃないかとなる

秋の色と題をつけたとき、ここから秋を感じるセンスがないと何も感じないだろう。
だから抽象画は日本では俳句の季語を感じるのとも通じている。
つまり日本的な抽象画があるのかもしれない、外国の抽象画とはまた違ったものが生れる日本人の感性がやはり抽象画にも反映されるかもしれない。

いづれにしろ抽象画が具象画と違い一つの作品が必ず変化させて延々と作られてゆく、
一つの作品は一つの過程として提示されているのが具象画とは違っている。
それは完成品ではないのだ。抽象画A⇒抽象画B⇒抽象画C⇒・・・・となって無限に変化してゆくのが抽象画である。
でも元の抽象画とはわからなくなるから著作権違反にならないともなる。
ただ変化させたものから原画が推測できるようだと違反になるだろう。
ソフトで変化させたとき元の絵はわからなくなる。
抽象画がそういうアート(技術)、パソコンの技術から生れた芸術だからそうなる。


一つの例として前にだした「無題」を説明するとこれが冬の海とした。
紺青は深い海の色であり冬の海である。
白は雪なのである。なぜなら自分はいつも太平洋を見ていて雪景色になったときの太平洋を見ているからである。
そういう感覚はやはり日頃日常的に自然に接しているとつちかえる。
都会ではいつも高層ビルばかり見ていたらそういう自然の感覚は養えない
だからこの抽象画を見ても何も感じないとなるのだ。


タグ:秋の色

2014年08月27日

広島で土砂崩れが起きた場所、昔は蛇落地悪谷 (地名は先人が残したメッセージー原発事故とも同じ原因が)


広島で土砂崩れが起きた場所、昔は蛇落地悪谷


(地名は先人が残したメッセージー原発事故とも同じ原因が)


●地名の解釈は誤解が多い
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一帯は「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)とよばれていたという。
平野孝太郎さん(71)は「昔は蛇が降るような水害が多かったので、悪い谷・悪谷と名がついたそうです。八木蛇落地悪谷が八木上楽地芦谷と改名され、さらにいまは八木だけが残ったようです」という。名前が変わるうちに「土砂崩れ」の教訓も忘れ去られたらしい。
130年つづく浄楽寺の住職によると、竜がいて、その首をはねたところから「蛇落地」とついたという。「竜は水の神で、水害を収めたということかもしれません。記録にはないが、語り継がれてきました」

昔、阿武山の中腹に何千年も生きている大蛇が住んでいて、人里におりてきては人々に害を与えていました。
八木城主香川光景が大蛇退治を呼びかけたところ、香川八将の中で最年少の香川勝雄が志願しました。
天文元年(1532年)2月27 日、一人で馬に乗り阿武山の中迫というところまで登ると、
びょうぶを立てたような岩があり、大木に頭をのせていた大蛇がいました。
大蛇が勝雄を飲み込もうと飛びかかってきたとき、勝雄の抜いた太刀が大蛇の首をはねました。
切られた大蛇の首が落ち、流れ出た血が川のようで、ついには沼ができて深く沈んでいったということです。
ここが蛇王池と呼ばれ、供養塔が建てられたという言い伝えがあります。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1210835372358/

八木は本当は八岐だったのでは?
本来は
八岐蛇落地悪谷?
八岐大蛇 = ヤマタノオロチ
ヤマタノオロチは川の氾濫を表しているという説がある

 蛇抜(じゃぬけ)の地名は、長野、岐阜、富山、長崎など各地にあり、水害の歴史と深く結びついています。笹本正治(ささもとしょうじ、歴史学者、信州大副学長、1951〜)によると、かって蛇抜で多くの犠牲者が出た与川のある木曽地域では、花こう岩の白い地質があり、川を曲がりくねりながら抜けていく土砂は、白い大蛇に見えてもおかしくなく、ここから土石流を蛇抜と呼ぶようになったと推測されます。


青森県東津軽郡平内町松野木蛇喰
# 青森県上北郡七戸町蛇喰
# 秋田県南秋田郡五城目町馬場目字蛇喰
# 秋田県由利本荘市松本字蛇喰
# 秋田県雄勝郡羽後町蛇喰
# 山形県鶴岡市越沢字蛇喰
# 福島県大沼郡会津美里町蛇喰川向
# 福島県双葉郡双葉町松倉蛇喰
# 新潟県岩船郡関川村大字蛇喰
# 富山県南砺市蛇喰
# 京都府相楽郡精華町乾谷蛇喰

福島県 喜多方市  蛇崩山  じゃくずれやま


今年の干支は巳。市内で「蛇」のつく地名の由来を調べた。
 現在の北矢名の一部に、「蛇久保」という字名(あざめい)が残っている。確認できた最古の記録では1835年の北矢名周辺の地図に「蛇クボ」という表記がある。
 地名の由来は、「砂利窪(じゃりくぼ)」が変化したとの説もあるが、「ヘビのように曲がりくねった窪地の地形を表したものが有力」と市史資料室の担当者は説明する。
http://www.townnews.co.jp/0610/i/2013/01/01/171476.html

地名に「沢・川・池・谷……」が付く土地は買ってはいけない?

戦後に日本中の山が杉林だらけにされたせいだろ
杉は成長が早く、戦後の復興による木材不足解消にもってこいだったが
ブナやナラなどの広葉樹と違って土壌保持力が低いから土砂災害が置きやすくなる
最近は林業が廃れた影響で山林の管理もされなくなって荒れ放題だから
さらに災害が置きやすくなってるんじゃないの

●地名はたいがい漢字の当て字である

「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)というときこの蛇がヘビと関係あるかどうかわかりにくい。(じゃらくじあしだに)と呼ばれていたのに漢字をあてた。
ではジャに蛇をあてたがそのジャが蛇なのかどうかわかりにくい。
喜多方に蛇崩山(じゃくずれ)とあってもその蛇は蛇ではなく、ジャは砂利(じゃり)のジャかもしれない、だから地名はいろいろ解釈され誤解が大きくなる。
北海道の地名はアイヌの音の地名に漢字をあてたからあのようにおかしな地名が続出したそして人間は漢字の訴えるものが視覚的であり絵画的であるから漢字を絵としてみるから漢字のイメージとして地名をみる。蛇とでていれば蛇しかイメージできなくなる。
そのために地名には誤解が多くなる。地名伝説にしても実はその漢字を当てたことによりその漢字から伝説を作り出しているのであり伝説がもともとあったのではない、地名にあわせて伝説を作っているのも多いのである。


この辺の新地の鹿狼山(がろう)があるがこれも漢字をあてたのである。
ガロウとは音が大事であり石がゴロゴロしているとか鹿とか狼は何の関係もないのであるだからはたしてこの蛇が蛇かどうかわからない、ただ砂利が落ちてくる地で悪(あし)は葦である。砂利が落ちてくるということは崩壊地名なのである。
蛇喰(じゃばみ)も蛇と関係なくジャはジャリなのだろう。何かに食われたようになっているジャリをとった土地なのか崩壊地名なのだろう。そういう地肌がむきだしになっているような山がそちこちにある。
蛇抜けとなるとこれは蛇が関係している。土砂が流れたような地形は蛇がぬけるような地形になっている。

八木というのも八木沢峠があるようにあそこも急峻な峠だから崖崩れが起きるような地形でにている。ともかく「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)と先人が漢字でもあてたのはよほどそこを忌み嫌うものがあった。住みたくない所だったことは確かである。
それがいつしか忘れられてしまった。
地名を変えることはその土地の成り立ちなどが不明になる。
石巻線で欠山(かけやま)が佳山となったのもそうである。欠けた山があったのだが縁起が悪いとかなり名前を変えた。ここも名前を変えて前の土地の状態がわからなくなった。
昔からあったものを変えることはその土地の成り立ちが不明にする。
原発事故で原発のある所の地名が古代から標葉(しねは)郷となっていてそれが禁断の地だったということも言われた。だから何か地名に先人からのメッセージがこめられている。それは危険情報でもあ場合がある。

ただ地名の解釈は後世の人にも勝手に解釈されてきたのである。
小名浜(おなはま)や女川のオナが男浪(おなみ)であると学者が言っても小名浜はオナハといわれていた。それは相馬藩の文禄の文献に出ていた。
小名浜(おなはま)のもともとの地名はオナハではありナハがもともとの地名である。なぜなら沖縄に那覇(なは)があり小那覇(おなは)という地名があるだ。
オ・ナハでありオは(小)であり接頭語がなのである。
だから男波(おなみ)に由来していないのである。
ただ津波があったので押しつけたのである。津波に由来する地名は本当にあるのかどうかまれである。

●津波や原発事故と同じ構図が広島の土砂災害にもあった

広島の土砂災害がなぜ起きたのか?それはこの辺で起きた津波原発事故とその原因が通じるものがあった。
無理な宅地造成が行われた。それは行政にとっても市にとっても金になるし市の発展として推進された。不動産でも高く売るためにその危険性が隠されたのである。
市議会でもそうした危険を言うことはない、なぜなら議員にも資金が援助されたりする場合があるし利益になることが多いからそうなる。
つまり危険だと指摘しても誰も得しないのである。
誰も得しないことは誰も味方にならないということである。
その人は回りから排除されて何もいいことはないとなる。
原発でもそうだった、反対する人はその土地に住むことすらできないようになっていた。それは仙台の海の方に宅地造成した不動産屋が津波のことを警告したら土地の価値が下がるから言うなと脅迫されたのとにているのである。
利益第一主義になり必ずそこに危険は無視される。
東電の清水社長はコストカッターとしてのしあがった。だから本当は土盛ってわざわざ高くして建てる予定だったのに不便だからと削りとったのである。
それが大事故につながっていたのである。

なぜ様々な危険が無視されてゆくのか?そこにはやはり利益が利権がからんでくるためだろう。必ず何か問題が起きるとそこには大きな利権利益がありそれで危険は無視される。原発でも何度も危険は指摘されたが権力側では利益にならないから隠したり無視することができた。地元の人でも利益があるから推進させる。
広島でもその土地を高く買って価値があると思ったから住んだ。危険を知らされていないということもあったが自ら調べることもしなかったろう。
常に安全より利益利権が第一になって危険は無視される構図は同じである。
韓国のフェリー沈没事故もそうだった。荷物を過重にのせていたり無理な改造をして危険になっていても利益のために無視された。その利益は政治家とかまで回っていたとかなる危険が無視されるのはそうした同じ構図があって起きる。

相馬藩でなぜ四〇〇年前の慶長津波のことが七〇〇人溺死と一行しか記されていないのかも同じ構図だったかもしれない、為政者側でその被害を隠したいためだっかもしれない、津波の被害を公にすることは為政者にとって都合が悪いことが戦国時代でありあったのかもしれない、弱体とみられと攻撃されることもある時代だったからである。
政治には為政者にとって都合が悪いことは隠したりしていたのは常にあったことである。そのことが後の大きな被害を生んだり今でもその危険はある。
人間はどうしても目前の利益が第一になり危険は見逃されるのである。

これは人災だというとき自然災害はある程度は人間側で注意すれば防げるから人災だとなる。まず危険な場所には住むなというのが鉄則である。
でも日本は土地が狭いから海側を米を作るために干拓した。でもそこはもともと海であったから危険な場所だったのである。また海岸に接して集落化したのも背後の土地を広くとって田んぼとすることにもあった。
日本の土地の不足が無理して危険な土地を開拓したり住んだことが大災害になった。
それはまさにくりかえされた日本の国土のカルマだったのである。

津波でわかったことは松原というのは津波に弱かったのである。松は根を強く張らない、自然林、混合林だと津波にも強かったのである。
竹林が津波に強いことがわかった。竹は強く根を張るからである。前に竹林があり津波の勢いがそがれて助かったということを何人からか聞いたからである。川の土手に竹を植えるのは水害を防ぐためでもあった。
山も杉林になったとき土砂崩れとかが起きやすくなった。それは十津川の災害でも言われた。
ブナの木は根を強く張り水分を吸収するから土砂災害も起こりにくくなる。
でもあそこの土はそもそも土砂災害を起こしやすい土地だったのである。
そういうことも科学的にかわっていたのだけど利益第一になるから隠されて見逃された構図は同じだったのである。

タグ:蛇落地悪谷
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2014年08月26日

抽象画(夏の光の道)


抽象画(夏の光の道)


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重なる山

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これはずいぶん前の自分の抽象画が原画になった。抽象画は原画がAだとするそれを基にしてAB AC AD AE・・・・と無限に変化しやすいのである。だから化学変化とにているといった。
要するに無限の変化なのである。

それは創作的なものとは違う、ソフトの機械的変化の偶然から起こってくる無数の変化なのである。
題はまぶしい暑い夏だからその中をゆく道もみえるから「夏の光の道」とした。
意外とこの題が抽象画では大事になるかもしれない。
これなどはわかりやすいがわかりにくい抽象画が多いからである。

自分が前にだした抽象画が相当あるけどそれはそこで終わっていない、そこからまた変化してゆく一過程としての一作品に抽象画はなっているのだ。
変化は偶然から生れている、予期せぬものとして変化がソフトの操作で生れてくる。
だからパソコンのソフトに頼っているのであり具象画の画家の才能とはこれは相当違ったものなのである。

ただこれは何だろうという時、やはり自然を反映させたものとして見る時、自然へに対する感覚が磨かれているといい。
夏だというとき、あれは道であり暑いとき、まぶしい光の中を通った道だなと感じる。
今年も自転車でずいぶん暑いときも走ったからである。
そういう思い出がこの抽象画からはよみがえってくるのである。

木槿 (福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)


木槿

(福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)

福祉の湯我も入るや木槿かな
我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉

森深く夕べ鳴きにし秋の蝉鳴く声聞きて街に帰りぬ

福祉の湯というと近くにある。三〇〇円で誰でも入れる。ただ時間は三時ころまでであるあれは一人暮らしに便利である。風呂が震災以来壊れて使えなくなっていた。
一人しか入らないとするとコストの無駄である。
大きな家は一人で維持するのがコスト的にも高くつく、なにやかにやと出費がある。
だから資産がないともう維持できない、保険でも一年で五万払っていた。
リホームするとその出費も大すぎる。
一人暮らしには何か大きな家とか向いていない
掃除することからかたづけることから料理から介護から毎日追われているのだ。
買い物でも近くても一仕事である。

今日は雨降っていたから近くでないとめんどうになる。
自分より倍の距離に住んでいる所の人は自転車だと遠いと感じる。
車は関係ないけど自転車だとそうなる。
だからかえって大都会の方が一人暮らしとか老人には住みやすいことがある。
今日もテレビでおじさんの食堂を紹介していた。老人が集まり食事するところである。
おかみさんが相手の要望に答えておかずも作ってくれる。
おふくろと同じだとか言っていた。おくさんも作れないのもここでは出してくれると言っていた。
そこは老人のたまり場にもなっている。
これは高齢化社会のまた一つの姿である。
一人暮らしで困るのは一番は料理だからである。

ともかく老人になると近くが大事になる。近くで用をたせる環境にあるといいのである。大都会だといろいろな人が集まってそれに答えるものが出てくるからいいのである。
ただ自分は回りに自然がないと季節が感じられない所には住みたくない。
近くに小さな森がある。あそこは高台なので人はほとんど通らずきもちがいい。
ただ森といっても深い森ではない、森といえるものでもない、ただこれもこの辺では森は山の方に行けばすぐに森がある。でもそこも住んでいる街の近くにはないから身近にならない。身近にあると自然とともに暮らすことを感じる。

人間でも助けてもらうとなる家で手伝ってもらったりするのは近くでないと結構手間になりできない、まず原町だと車で十分だとしても実際は手間として倍はかかるだろう。
それで家で手伝ってもらうのは手間なのである。
老人は近くで用をたせると助かる、住みやすいのである。医者だって近くにあると楽だろう。みんな車をもっていて通っているからいい、車がないと半日かかりになる。
その手間も大きいのである。
これはここでは二軒しか開業医がいないから簡単な病気しかみてもらえない。
だから老健の施設が新しくできたことは便利である。
すぐ近くであり様子見にゆくこともできる。
そして福祉介護では老人は集まっている方が便利なのである。
田舎だと本当に離れて住んでいるからそこに車でゆくにしても相当な手間なのである。
老人が集まっていれば福祉のサービスも効率化できる。
弁当など配るにしても離れた所を一軒一軒回ると手間が大きすぎるのである。
近くに住んでいれば往診でもやりやすいし福祉でも医療でもサービスが効率化できるのである。

だからそうした「老人の村」のようなものを作るのが一つのアイデアである。
街となると大きすぎるから村くらいの小さな単位で集まる。
そこで福祉のサービスを受けるとサービスする方も人員も少なくてすむのである。
津波で被害にあった一人暮らしの人がすむ相馬市の長屋風住宅は見本なのである。
コンパクトシティも老人だけでなく人が集まると大都会のようにそれぞれに応じたサービスが生れるのである。
ただここの盲点はそこに集まる人なのである。
田舎では人間関係がめんどうであり嫌な人とは一緒にいることを嫌う
自分は福祉の湯は入っている人がいつもいないので通っている。
いつもすいていてたいがい一人で入れるのである。
知っている女性は毎日街の中でも畑でもどこでも人の目を気にしている。
もうそれは町のものがみんな監視カメラになっているのだ。
だからそういう窮屈さは尋常じゃない。
田舎が嫌になるのはこの人間関係なのである。
仙台辺りだと気楽に歩けるからいいともなる。

今日は雨ふって蝉の鳴く声は聞こえなかった。今日は寒いくらいだ。
木槿はまだ咲いている。木槿は何か福祉にあっている。
花があつぼったく白は白でも違っている。
今年の夏もこれで終わりなのか、また暑くなるのか、体がバテた。

タグ:木槿

2014年08月24日

相馬市馬場野の長屋風住宅の秋 (建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)


 
相馬市馬場野の長屋風住宅の秋

(建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)

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長屋風住宅に老後薄かな

ひまわりや日ざしを受けて畑に人

常磐木の松の緑に実りそむ稲穂色づき夕日さし暮る



相馬市の馬場野地区に建った一人暮らしの人のための長屋風住宅はいつも見ていて落ち着く外観である。それは木で作られているから木の素材が心に影響している。
もしこれがコンクリートのようなものだったらそんなふうに感じない。

鹿島の街内の復興団地はコンクリートで団地になっているから何かいい感じがしない。
その建物自体が心を圧迫するように作用する。そんな建物が田舎でも増えているのは
やはり経済的であり効率的だからである。
ただそこには人間をおしこめる箱のようにも見えてしまう。
仮設住宅でもログハウス風になると普通のプレハブよりはいい感じになる。

人間はその外観もそうだが建物の内部も心に影響する。内部が広いと広い寛容な心が養われるかもしれない、天井など関係ないと思っていたが棹天井を見ていると何か違っている内部が良質な木材を使っていれば何か落ち着くだろう。
その外観でもやはり鉄骨のコンクリートだらけの建物だと何か人間的ではなくただ圧迫されるものを感じる。

日本では街でも計画がなくただ雑然として作られていることに問題がある。
ヨーロッパなどでは計画的に都市が作られているから整然として落ち着きがある。
日本の街は雑然としすぎるのである。それもいいという人もいるがやはり落ち着かないということがある。なんか街が迷路のようになっているからだ。
それから今はそもそも街の機能すら消失した。
スーパーとかイオンは街の外にあり街からは切り離されてある。
そこはただ買い物だけの空間になってしまっている。
それも便利でも味気ないとなる、それは車社会でそうなったともいえる。

建物が心に影響するというとき、盛岡の古い煉瓦作りの銀行は盛岡の象徴のようになっていることでもわかる。煉瓦はコンクリートと違っているからである。
質素で質実で堅実だとか銀行として煉瓦作りが合っている。
煉瓦作りの塀とか建物だと戦前とか大正時代までさかのほる郷愁を感じる

現代は何かそうした時代を象徴する建物が不在である。高層ビルのようなものが象徴となっているがあれはただ高いというだけであり人間的なものを越えているから別物である。そこには人間が介入するものがなくなる。感情も移入もできない。
京都でも町家の保存が言われたがその前に大きな高いマンションがおおいかぶさるようにできていたのには幻滅した。
町家でも一軒くらいぽつんと残されても意味がないだろう。街並み全体を残さないと意味がないだろう。
でも現実の生活では不便だし合わないから消えてゆく。

この辺では津波や原発事故で南相馬市では一部田んぼになってもほとんど原野である。
でも八沢浦から相馬市に入ると前と同じ風景なのである。
それがいつでも不思議に思うのだ。八沢浦は葦原になっているが相馬市に入ると元の田んぼの風景なのでありなにかほっとするのである。
街道に松があり稲穂が実りそめて色づいている。そこで季節感を感じる。
その対象が原野から田んぼの風景が新鮮なものになっているのだ。
日本だったら北海道をのぞいて田んぼの風景である。
その風景は千年とかつづいてきたのだからその影響は理屈では語れない、日本人の心ともなっているのだ。

ともかく相馬市の馬場野の長屋風住宅は何か一つの見本である。それが一人暮らし用であり外観もよく回りは山であり自然もある。
だからすでに初秋となり薄が出ていたのである。
その秋らしい感じがあの長屋風住宅とマッチしていたのである。
木材はやはり秋となれば秋を感じる、コンクリートには秋も冬もないだろう。
ただ自然を感じない無機質的な空間を作るだけだとなる。
だから新しい街作りとか何か一つの見本としてあの長屋風住宅はいいのである。

2014年08月23日

日本の国土のカルマを知るべき (どうして広島の土砂災害が起きたかー津波被害と同じことが・・)


日本の国土のカルマを知るべき

(どうして広島の土砂災害が起きたかー津波被害と同じことが・・)


●原発のような危険なものをどうして建てさせたのか

●なぜ津波が来る海岸線に住んでいたのか

●土砂災害地帯にどうして住んでいたのか?

●夜に災害が起きたのが致命的


このことは今回も言われた。なぜそんな危険な所に家を建てたのか?そこには土建屋とか市議会議員とか様々な利権も働いていたとか、地価が上る場所だから建てたとか、確かにすぐ下に鉄道の駅があった。鉄道がすぐ近くにあることは便利なのである。
便利であることがまた危険にもつながっていた。

広島市は無理な宅地造成が山の方に向かって無造作に広がって行った。土地がないから山の方に向かって宅地造成が行われたことが地図を見ればわかる。山の斜辺も急であり土砂災害地域として指定されてもいたがかえりみられることなく宅地造成がつづけられた。
市でも警告もしないでその危険を認識させなかった。
それは市にとっても宅地造成は利権になりいいものだったからそうなった。
家を建てるにしてもそこは市中心部から近いから地価も高くなり選ばれた。

危険より先に利権が第一になるのが今の社会である。
危険ばかり言っていれば何もできない、利益にもならないからそうなる。
仙台でも今回の津波で海岸地帯に新興住宅地が海側に広がっていった。
そこで津波の被害にあったのとにている。
学者が津波の危険を指摘したら土地の価格が下がるから言うなと脅迫されたという。
これも利権利益第一主義になるのとにている。

危険を無視するということでは津波でも原発でも同じ構図ができあがる。
危険を言えば金にならない、利益にならない、だから利益第一主義になれば危険は無視される。
日本はどこでも山と海の国だから危険を言っていたら住むところがなくなる。
日本列島は災害列島でもあった。
でも人間の生活はそうした危険より利便性がまさる。
危険でも便利なら人は住む。三陸でも津波の後も海の近くに住んだ。
それは便利だからいつのまにか元の状態にもどったのである。

危険な所に住まない
危険な所に近寄らない
危険なものを誘致しない
危険なものを置かない
危険を警告する

津波でもこのことは言われた。なぜ海岸線のような海に接した所に住んでいたのか?
そのことが何度も言われた。そして危険を警告されなかったのかと何度も言われた。
今回の広島の土砂災害でも言われる。

ただ今回の土砂災害で一〇〇人近くで死んだとしても何かたいしたことがないと思うようになったのは津波の被害があまりにも大きすぎたためである。
この影響はあまりにも大きかった。
二万人近く死んで流されたり破壊されたりした家が数知れないとなるとあの規模ではたいしたことがないと思ってしまう。
普通ならあの津波被害がなかったらそんなふうには考えないのである。
広島市でもあのくらいなら市でも打撃を受けても4000軒の家が破壊された消失したとかとは違う。ても死者が広島市で百人は多いだろう。
しかし人口の割合にすると市自体にそれほど影響がないともなるのか?
ボランティアでも全国から来る必要はなく広島市内と近辺でまにあうだろう。
これは都市型災害であり津波の被害とは違っている。
津波や原発事故は自然全体から農地から宅地から全部である。
未だにその被害から立ち直っていないのである。

戦争でも2百万人も死んだとなると死が日常的でありだれも驚かないだろう。
なんか原爆でも日本人が怒らなかったのかのかというと全くその恐怖に打ちのめされて何も言えなくなった。
想像を絶する被害でありそれで打ちのめされてアメリカに何も言えなくなり前面降伏した今回の津波の被害もそうだった。あまりの被害の大きさに打ちのめされてただ茫然としているという状態だった。
未だに復興というのも壊滅した市町村ではできていない
土砂災害は一部分で起きるから毎年起きてもたいしたものとみていないのである。
日本のような山国に住むならやむをえないと許容しているところがある
ともかく津波の被害地でも原発事故周辺でも喪失感が大きすぎたのである。
何かあまりにも被害が大きすぎると復興の気力もそがれてしまうのである。
茫然自失となり強大な自然の力に圧倒されてしまうのである。
その時人間は自然の前に弱いものであり小さいものと自覚する。

今回は夜に大雨になった。それは突然のゲリラ豪雨だった。夜は災害は危険が十倍にも増大する。津波でも夜だったら一〇倍の被害があったと言われる。
それだけ災害の時、緊急の時、夜は危険なのである。
大災害になるのはそれなりの法則が確かにある。
ただ目前の利益とかにまどわされて見えなくさせられるのである。
ともかく人間は個々人でもカルマが重くのしかかる。
自然でもその土地の成り立ちカルマを知ることが大事になる。
でもあそこには過去には土砂災害が起きていたのか?
それより日本全土が災害列島であり日本国土の歴史、成り立ち、カルマを知るべきだったそれを知って対策をたてていれば原発など建てられなかったのである。

日本の最大の弱点は平地があまりにも少ないことなのである。
だから狭い土地を耕して棚田のようなものを作ったり狭い土地を活かして効率よくするとか狭い土地でも生産性を上げるとかうまい米を作るとかしてきた。
茶室もわざわざ狭くしたのではなく狭い土地しかないからこそできた。
外国だと庭でもベルサイユ宮殿とかとんでもない広い空間を利用できたのである。
日本の庭でもそれは常に狭さを活かすことで美を作り出していたのである。
満州に日本が進出したのはこの狭い国から脱出するという歴史的願望が一気に爆発したのかもしれない、そこでも米を作ることを試みていることでもわかる。
農業中心の世界ではやはり土地を求めるからそうなった。
それが悲劇につながっていたのである。
満州進出が徒となり戦線は無際限に拡大してしまったからである。
そもそも海側を大規模に干拓して田んぼにしていなければ津波の被害が少なくてすんだのである。
海岸線に住んだのは背後の農地を広くとるためでもあった。
湊としての機能だけではない、土地も関係していたのである。

人間は個人でもそうだが性格でも必ずいい面と悪い面に作用するのである。
しつこい性格はいやがられても正義をしつこく追求するとかにもなるししつこいということは何かをしつこく追求するからその方面ではいい性格になる。
どこの国でもそうである。いい面と悪い面が作用する。
日本は海に囲まれていること山が多いということは海の幸、山の幸の国であり
それは独特の美をもたらしいい面なのである。
それが悪い面に作用すると津波になり土砂崩れになる。
そういう宿命、カルマの国であり代々そうだったのである。

2014年08月22日

万葉集の歌が津波の跡に甦った (八沢浦が葦原になって実感した)



万葉集の歌が津波の跡に甦った


(八沢浦が葦原になって実感した)

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●万葉集では萩は美的鑑賞として歌われている


古い時代から、季節感だけではなく暮らしに役立つ植物として愛されてきた。
枯れ枝で屋根を葺き、皮を剥いで縄をなった。
家畜のエサになり、根は薬になった。
若葉は乾燥させてお茶代わりに飲んだというし、
種は粉にしてご飯に混ぜたという。
http://northend.exblog.jp/4592818

萩をこんなふうに見ている人はまれだろう。ウサギが萩の若枝を食べる。そんなことも知らないだろう。萩はやはり原初の状態だと相当に密生していた。
萩は自然の中で様々な効用があり活きていた。
人間は今自然のことがわからなくなっている。都会生活していると自然を実感としてわからない。田んぼもないのだから米がどうしてできるのか実感としてわからない。
教科書や映像でみても米がどうしてとれるのか実感としてわからないのだ。
自然はやはり日々の生活でじかに接しているとき実感としてわかるのだ。
これは萩だけではない、他の植物でもそうでありまずただ美的鑑賞するものとして最初はなかった。

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1599: さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる

万葉集では萩が恋の歌が多いことは宮廷人が歌ったとなる。萩を実用的なものとてし見ていない、美的な鑑賞的態度である。ただ一面が萩原になっているとき、そこに白露が玉となっている感覚は現代にはないだろう。
現代ではやはり一面の萩原とか葦原とか花の原とかはない、自然があっても一部分である万葉時代は一面に自然が密生していた風景が奈良の平城宮の回りにもあった。
鹿がいる風景も普通にあった。それで奈良には鹿が今も飼われている。
「さを鹿の胸別けにかも・・」という表現は万葉時代で萩の原があってこそ歌われるものだった。
こういう風景が山の中に入ったからあったのではなく身近にあってこそ歌われた。
鹿は日常的に野生として自然の中で観察できていた。
だからこそ人間と鹿は一体化してゆく、動物に人間を見るというのはその時代からあったのではなく今でもある。家畜であれペットであれ人間的感情が移入される。
それを感じたのは野良猫だった。子がいる母猫であり四匹も子を生んだ、でも餌がない、親自体が餌がないのだから子供はどうしているのだろうと思う。
その時、雨がふり子供ぬれて鳴いていた。そして親を見たら歯をむきだして自分をにらんだ。子に餌をやらねばならない、守らねばならない、その顔は母親としての必死の形相があった。これはやはり人間と同じなんだなとその母猫を見ていた。
どうしても犬とか猫は人間の感情が移入されるのである。
野良猫と野生の動物は違っている。それでも鹿が野生の中でどうして生きているかは今ではわかりにくい、ただ鹿が自然の中から消えたわけではない、北海道では原野でも見たし雪の知床でも見たのである。

知床の雪に埋もれてエゾシカの鳴き声鋭くひびきけるかな

エゾシカは北海道では必ず見れる。だから鹿が自然界から消えたわけではない。
鹿が原初の自然に生きている姿はそれ自体が美になる。野生の動物はもともと自然と野生の中に自然と調和して生きるとき美しいものとなる。
そういう姿を実感できないのが現代なのである。
だから自分は津波の被害で死んだ人には申し訳ないけど原野化した自然というのは不思議な光景だなとつくづく思う。
この風景は何なのだろうと否応なく意識される風景なのである。

●海老村の跡に雉が十羽も出てきた

海老村は壊滅したけどそこが原野化してキジが十羽くらい出てきたのには驚いた。
普通は今までは一二羽である。なぜ10羽もでてきたのだろうか?
原野化して増えたのだろう。津波と原発事故が重なりこの辺は田畑を作らないのでそこが原野化した。それでカヤネズミなどが増えてそれを餌とするノスリが増えた。
ノスリが七八羽集まって所を見たからである。
10羽のキジを見たときこれなら狩りもできるなと思った。
原野化するとそこはもともと江戸時代でも狩場になっていたからだ。
狩というとき山の奥に入って狩りするというのではない、身近な場でもしていたのであるそもそも野馬追いが野生の馬を追いつかえまて焼き印を押して神に献げる神事だったのでありそれはまさに馬を狩りすることであり動物を狩る狩猟時代にさかのぼることなのである。

ともかく八沢浦でも一面が葦原になってしまった。それは日本の原風景だった。
日本で一番多い地名は葦原だろう。飯館村も葦原になってしまった。八木沢峠の麓の
バラ坂なども人が住まなくなり元の自然に戻った。そして羚羊が出てきたのには驚いた。羚羊は今まで見たことがない、つまり人が住まないと自然の野生動物が住みやすくなるのである。

雉(きじ)で、名前が鳴女(なきめ)という者を遣わしましょう。」
とお答え申し上げたので、鳴女に言われました。
「おまえが行って、天の若日子にこう尋ねよ。
「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」と。

神話とかが今実感として理解できないのはあまりにも文明化した結果、原初の自然から離れた結果なのである。東京に住んでいる人がビル群がある東京に帰って見えてくるとほっとするというのも異常な感覚である。それほど文明化してしまって自然から離れてしまっているのだ。全く人工的環境の中で生きている。
ただそこで食べているものはその人工的空間からは得られない、自然からしか得られないのだけどそううい感覚もなくなっているだろう。実感として食料でもどうして得られるのかわからない、ただスーパーには何でも並んでいるか金さえあれば食べられるという感覚になってしまう。

●葦原は日本の原風景

葦原といってもそれを実感として感じることができないと葦原を知り得ないのである。
そういう風景がなかったら理解し得ようがないのである。
八沢浦はもともと入江だったことは今回の津波で実感した。ただ今葦原になっていることはこれも予想外だった。この葦原も原初の風景にもどったのである。
この一面の葦原を日々見ていると葦原が実感できる。

4419: 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

651: 難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき

 現代語訳すれば、「難波人が葦火を焚く部屋のようにすすけて古びているけれども、わたしの妻はいつまでも可愛くて一番だよ」ということでしょうか。
 古代より、難波の地は葦が生い茂っていることで有名でした。昔、燃料として用いた葦は火力が弱く、煙って家の中は煤(すす)だらけだったようです。
 「まるで家の中の真っ黒な煤のように、顔も手も煤で黒くなり、若い頃の初々しさはないけれど、それでも女房は世界一だ」と貧しいながらも明るく生きている庶民のくらしと思いが生き生きと詠まれています。

 この大阪の昔からの象徴を、関西大学は校章に用いているわけです。
http://www.kansai-u.ac.jp/presiweb/news/column/detail.php?i=1160


人類史上、最初に「文字」を考案したのはメソポタミアの人々である。
当初はエジプト同様の絵文字だったが、エジプトと違い書くものが粘土板だったため、絵文字は書きにくい→葦を粘土板に押し付けて絵文字っぽい模様を書き始める→簡略化して楔形文字に という流れで一連の楔形文字が確立していく。この文字はメソポタミアを中心に、広く西アジアで使われるようになる。
http://55096962.at.webry.info/201202/article_12.html


現世の人々の住む住居は葦や日干し煉瓦造りの粗末な物であった。朽ちにくい石造には永遠性への観念が込められていた

葦は世界中でもいたるところに生えている。だからエジプトでも生えていて利用した。
パスカルの考える葦というのもこれも原初的思考があった。葦が身近なものだからこういう思考になった。葦原はは世界的にも原初の風景なのである。

1324: 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
2134: 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る
2468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
2565: 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
2745: 港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
2748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
3279: 葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
4459: 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに

萩は宮廷人の美的鑑賞の歌になっているけど葦は原初的生活感覚の歌になっている。
葦が燃料となっていたこと時代そうである。つまり一面の葦原を見ていたらやはり
何か役に立たないかと考えるのが普通である。
つまり八沢浦で見る葦原はそうだし津波の跡は他でも葦原になっている。
その中にエゾミソハギの花が咲いていた。それは北海道で見た風景だった。

468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは

ここまで深く葦を生活に則して感じることは今はできないからこのような歌も作れない。この葦の歌はたいがい生活と密着してできているからである。

748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも

この歌なども不思議である。葦を刈って船に積んで何かに使った。その積んだ荷の上に妹の心がのるというのはどういうことなのか?
まずこんな歌を今なら作り得ようがないから理解するのかむずかしくなる。
これは理屈ではなく生活実感から生れたからである。
生活の中でその仕事する人と妹が一体になっていたのである。

2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな

この歌などは八沢浦の葦原の中に咲いていたエゾミソハギを見たがそれを思い出すと実感できるのだ。
ともかくこの辺は津波と原発事故で原初の自然がもどり縄文時代に還ったような風景にもなった。だからこの辺は何かいつも前とは違うものを感じるから新鮮だともなる。
ただ津波の犠牲者とかありそれを喜ぶのかともなるが八沢浦が葦原になったということも入江になったときもそうだったがあまりにも大きな予想外の自然の変化だったのである。
タグ:万葉集
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八沢浦の葦原(雷雲の写真など)


八沢浦の葦原(雷雲の写真など)

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八沢浦葦原となり雷鳴りてエゾミソハギのここに咲くかな

八沢浦は葦原になってしまった。あそこはもう田んぼにできないだろう。
他ではトラクターで土を堀り起こしているから田んぼにする用意ができている
一部は田んぼを今年は作った。
あそこの一面の葦原を見ていると田んぼはできないように見える

それは伊達市から来ていた桃売りの人が言っていたが二年間働かないと百姓のようなものはやれないという、それは百姓をしていて実感として言ったのだろう。
体がなまるとかなまけくせがつくとかになってそうなる。
ギャンブル、パチンコばかりしていたらそうなるだろう。
肉体労働は体がなまるとできなくなるのかもしれない。

八沢浦の葦原の中に咲いていたのはエゾミソハギだろう。
北海道に良く行っていたからその名前を思い出した。

昨日は雷雲が大きくなり稲光がすごかった。ただこれは一雨ふってすぐにやんだ。
昨日は暑かった。なんかぐったりして何もやる気がなくなった。
今日は涼しいので楽である。
昨日は33度で今日は30度だと楽だなとなる。

タグ:雷雲

2014年08月20日

海にかかった虹の写真 (海老浜でとった)



海にかかった虹の写真

(海老浜でとった)

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二重の虹

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飛んで来た鴎と虹

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雲に夕日

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千輪のひまわり映えて雷鳴りぬ

復興や津波の後の海に虹

雲白く雷鳴り海に虹かかる

虹たちて鴎飛び来ぬ一羽かな

夕虹の大いなるかな凪し海

今日は朝から暑かった。33度なると何もする気がなくなる。今年はクーラーをしていない、昼間から海の方に行ったら黒い雲が海の方から湧いて雷が鳴った。
この雲は雨にはならなかった。
それから海老浜に行ったらキジが十匹くらいでてきた。みんな雄だった。
原野化するとやはり野生の鳥でも増えるのがある。

海老の浜で二重の虹を見た。これもめずらしい。そもそもこの辺では夕方に虹がかかりやすい。
ただこうして海にかかった虹を見たのははじめてである。
結構長くかかっていたので写真にとれた。
カメラはいつももっていないといい写真はとれない。
いい写真をとるのは技術よりも今はシャッターチャンスをいかにとらえるかなのである。瞬間的にしかとれないものも結構あるからだ。
虹だって消えやすいからなかなかとれない。
旅をいくらしても虹を見たのは一二回とか限られている。
旅で虹に出会うのはよほどの幸運なのである。
今回は海の方まででてきたのでいいのがとれた。

海老浜で釣りをしている人がいた。名古屋の人だった。
もう一人は地元の人で火力発電所で働いていた。
津波の時、働いていたが逃げたという。
あそこではまだ応援の人が相当働いているという。

魚は三年もとっていないから増えたのではないかと言ったら
その人は船で沖にでて釣りをしているが増えていないという。
それも不思議だと思った。
南の方が魚がとれているという、これは暑くなっているせいだろう。
ジャコウアゲハなどが飛んできたのは温暖化のせいだろう。
それと原発周辺が原野化しているからそういうところで自然の変化が起きているのかもしれない。

ともかく津波から三年でありなんらか復興に向かう時期だろう。
ただすでに仮設から出れないとか何か東北の津波の被害からの復興はあるのだろうかとなる
この辺は原発事故もありその復興もどうなるのか
ただ今回の虹は何か津波から復興に向かうまた自然が躍動しているのを感じた。
ただ不思議なのは津波の前も異様に暑かったのである。

まだ秋は早い、今年はまだまだ暑いのか、残暑が厳しいのか、それでも虹を見たから良かった。
虹の俳句は良くない、でも写真は良かった。こういう写真はなかなかとれないだろう。

2014年08月19日

鴻(こうのとり) 地名のの謎 (浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)



鴻(こうのとり) 地名のの謎

(浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)


こう 【×鴻】

[人名用漢字] [音]コウ(漢) [訓]ひしくい おおとり
1 鳥の名。オオハクチョウ。「鴻鵠(こうこく)・鴻毛」
2 鳥の名。ヒシクイ。ガンの一種。「鴻雁(こうがん)」
3 大きい。「鴻恩・鴻基・鴻業・鴻儒」
[名のり]とき・ひろ・ひろし

ひし‐くい 〔‐くひ〕 【×鴻/×菱×喰】

カモ科の鳥。全長83センチくらい。体は褐色、くちばしは黒く先に黄色帯がある。ユーラシア北部で繁殖、日本には冬鳥として飛来。ヒシの実や草を食べる。天然記念物。沼太郎。おおがり。《季 秋》

出典:小学館 この辞書の凡例を見る



『日本書紀』巻第6、垂仁天皇の条、「鳥取の姓」には、物言わぬ誉津別皇子が、大空を飛ぶ白鳥の鵠(くぐい)を見て声を発するエピソードが紹介されています。これまで、白鳥とばかり思っていましたが、鵠をコウノトリとする説もあるようです。

『古事記』垂仁天皇の条、「本牟智和気王」で、鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、尾張、信濃、越を飛び回ります。これらの地は、鉄の産地をさすのではないでしょうか。

大阪府の池島・福万寺遺跡の、国内で水田稲作が本格化した約2400年前、弥生時代の水田跡から発見されていた足跡が、コウノトリのものとわかり話題になったことがあります。

コウノトリが身近な鳥で、桜ケ丘銅鐸などに描かれた鳥がコウノトリである可能性が高まりましたが、銅鐸の絵は簡略で、足跡だけで鳥を特定するのは難しいようです。

弥生時代の銅鐸に記された鳥がコウノトリであるなら、単に身近な鳥として描かれただけでなく、弥生時代に稲作とあわせ砂鉄採取が行われ、良質な砂鉄が大量にとれることを願い、銅鐸を鳴らしていたのかも知れません。
http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-b114.html

鴻沼(こうぬま)は、埼玉県さいたま市の旧与野市から旧浦和市にかけて幅が100〜400m、長さが4km、約75haに渡って広がっていた沼である。市内にある見沼、伝右衛門沼に次ぐ大きさだったと言われている。江戸時代に干拓され、田圃となり、現在は宅地化が進む。現在も地名などに残る。高沼(こうぬま・たかぬま)とも呼ばれている(下記)。

鴻沼、コウノトリやサギなどの鳥が飛来することから付けられたと言われている。 鴻という字は画数が多く難しいため、古くから高に変えて、高沼と書かれ、のちにたかぬまとも呼ばれていった。農民の文書には専ら「高」の字を使うことが多かった。 今でも、鴻沼川に鴻沼橋、高沼橋が架かっている。

鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社


 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されていま

鴻巣の地名は古来からのもので、この地のほかに茨城県や栃木県、福岡県にも同様の地名が存在する。古来からの地名ゆえその由来は不明だが幾つかの仮説が存在する。
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

鴻池家の始祖は鴻池新六(直文)である。家伝では、新六は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子という(#山中幸盛との関係参照)。

新六には多数の男子があり、鴻池村の本家(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・海運事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ引き継いだ。



浪江町には中世の鴻草館(こうのくさ)があり相馬藩政記の文禄二年の士禄高調に記されている。クサとあるとき草野神社でもクサは製鉄に関係していたとも言われる。
そこに末のとか熊のとかありそれは末森であり末(陶)氏であり末続駅とある末続とも関係している。熊とあれば大熊なのである。この辺はすでに文禄には相馬藩の領域だった。
その前にも中世には標葉氏が請戸館などを領していてさらに古代にさかのぼる。
鴻草館とはすでに「このうくさ」という地名があった名付けられたのである。
その地名は古代にさかのぼり渡来人系の製鉄の技術集団の移動の跡なのである。
鳥とつく地名は製鉄と関係していると言われるからである。南相馬市の金沢でも鳥打沢とかいう地名がありそこでは大規模なの製鉄が行われた地として有名になった。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

●浪江の棚塩の津大明神はつのみやーツノガノアラシトから来ている

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津大明神(浪江町棚塩)
大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

この読み方がわからない、津神社となるのは相馬市の松川浦の津神社でもそうだったが
(つのみつ)神社と読んでいて三大実録に記されている古いものだとされていた。
これは津波とは何ら関係ない、ただ高台にあり津波と関係づけられた。
もともとは「つの」がつくからツノガノアラシトの製鉄にかかわった渡来人に由来するものだった。なぜなら津神社は全国にあり海岸だけではない山の方にもある。
海に関係したものが多いとしてもこの津神社は「つの」と読んでいた。津の神社となりまぎらわしくなって誤解された。

そのアラヒトの字は、阿羅人、荒人ともなり荒木姓にも転訛しているともいわれています。荒茅という地名があるそうですが、阿羅加耶の転とされ、またアラシトの阿羅斯等であり、ツヌガ阿羅斯等「都怒我阿羅斯等」は意富加羅(おほから)の王子  と『日本書紀』にはあります。「都怒我阿羅斯等」のまたの名は、于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキで"ウシ"の字が見えています。 天之日矛や、都怒我阿羅斯等(日本書紀)の説話にも、牛の話がありました。牛頭天王とはスサノヲのことですが、牛頭や角のある人とは、三日月型の兜をかぶった人が渡来したと読む人もいるようです。スサノヲが新羅で天降ったところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であるそうです。新羅といえば。天之日矛は新羅の王子でした。
http://whalesongs.web.fc2.com/iwato/tunuga.html

その名前が古事記ではアメノヒボコ日本書紀ではツヌガアラシトで書かれているのです。そしてアメノヒボコが持ってきたという神宝からみてみると、また新たな人物が同一神ではないかと疑われてきます。
 日本書紀ではこのような記述があります。
 アメノヒボコは新羅の国の王子で、七つの神宝を持ってやってきた。
 七つの神宝とは、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀、 出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)である。
 古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種

http://blogs.yahoo.co.jp/caroline_a_go_go/37419318.html    

浪江の津神社は700年となると相当に古い,ではなぜこれほど古い神社の謂われがあるのかとなる。それは大熊から双葉から浪江の海岸には砂鉄がとれていて渡来系の製鉄技術者が来たことに由来しているのだ。それはツノガノアラシトに由来している。
なぜなら小高の村上の角部とあるがそれはもともとはつのほうと呼ばれていた。
これはツノガノアラシトに由来するのである。つまり渡来系の製鉄の技術者集団の跡なのである。
浪江町の名前も火事があって改名されたとしているがこれも不明である。

古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼

ここに浪が二つでているからこの浪に由来しているのかもしれない、とするとすでにツノガノアラシトなどの渡来系の製鉄の技術者集団が700年には来ていたとなる。
みちのくの真野の草原(かやはら)が万葉集の奈良時代の750年ころに読まれたものとされている。だからすでに真野の草原(かやはら)というのは地名でありすでに真野の草原に渡来人が到達する前に浪江町にその痕跡を残していたのである。
地名は意外と古く古代にさかのぼる場合がある。
一見新しいようでも古いのである。だから浪江という地名は古代にさかのぼり小高もオタカというのは蝦夷(えみし)の名前だとされている。この辺で南相馬市鹿島区の海老村も実はエミシが住んだ場所だったとしたとき古代にさかのぼるのである。
ツノとつく地名も神社もすべてではなくても津神社となっていればその傾向が大きいのである。

●みちのくの真野の草原(かやはら)は地名であり渡来人の製鉄集団の移動の跡

都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)の王子 とありこの意富(おほ)と大でもない多でもないこれは当て字手ありオホとは韓国系一族の言葉である。加羅はまた伽耶ともなる。
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、

この笠原はカサ氏のことでありこれも韓国の渡来系の氏である。笠の笠とはなんの関係もなく当て字なのである。笠女郎(かさのいらつめ)となるとそうした先祖が渡来系につながっているのである。
大和王権は技術集団の渡来系が深くかかわって成立した。だから騎馬民族征服説とか渡来系のかかわりが常にとりざたされる。
天皇すら伽耶系だとかまで言われる。そして伽耶国は実際は古代は日本の一部でありだからこそそこから前方後円墳が発見されたとか逆の見方もするようになったのである。
地名は意外とこうして古代に由来するのが多いのである。
双葉とか浪江町は何か新しい地域に見れらるが実際は700年代からその歴史ははじまっている。
地名もそこまでさかのぼるということなのだ。

いづれにしろ津神社は何か津波があって津波と関係されたがもともとは何の関係もなかった。それは津神社を津(つ)の神社としたからである。実際はツノミヤと呼ぶのが多いのである。一語でツとしていればツノミヤではない、でも何かまぎらわしいから誤解されたのである。
北海道のアイヌ語地名が漢字の当て字によって奇妙なものになったのと同じである。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

2014年08月18日

秋の蝉俳句連句十句 (家をもつ人ともたない人の差)


秋の蝉俳句連句十句


(家をもつ人ともたない人の差)

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ここは一人暮らしの人が住んでいる長屋風住宅

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我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉
一生を賃貸住宅秋の蝉
家もてぬ人もありなむ秋の蝉
人はみな老いゆくものや秋の蝉
独り身の寄り合いにつつ秋の蝉
故郷に古りゆくものや秋の蝉
故郷や遠くも聞こゆ秋の蝉
しんみりと今日も聞きにき秋の蝉
日立木の街道あわれ秋の蝉
城下町路地裏細し秋の蝉
一軒の古本屋あり秋の蝉


新しき住宅街や初秋かな
城下町田町通りや秋柳

朝顔や三年すぎし長屋風一人暮らしの人の住むかな

城跡に蝉なおしげく鳴きにしや我がたずねて街を行くかな



田舎に住んでいる人は多くは家をもっているし田畑ももっている人が多い。農家だと普通にそうである。自分も子供の時から家があった。その家はトタン屋根のおんぼろな家だったけど庭もあった。アパートのような家に住んだことはない。
大学の時は住んでいたがその時は別に一時期であり若い時は苦にならなかった。
だからそもそも家にもいろいろある。貸家もあるが田舎だと大きな貸家に住んでいる人がある。庭もその家は広々としている。それが4万くらいで借りられるのが田舎である。
そこに二十年以上とか住んでいるともうそこは貸家という感覚はないだろう。
だから家がない、借りているといってもそういう庭付きの家を借りていたら別に家がないとは言えない。ただ借りているうといだけで自分の家なのである。
だから自分の持ち物だから我が家だとも言えない。

ただその人は田舎の賃貸住宅に住んでいる。田舎では住宅といえばそうした賃貸住宅である。でも一人で部屋が三つある。他にもそういう一軒屋に住んでいる人がいた。
だから田舎では住居は意外とぜいたくな場合がある。
ただその住宅に住んでいる人はもともと農家の人であり広い家と庭と田畑のある家で育ったのである。
だから一生そうした賃貸住宅に住んで終わる人もいる。
そこは我が家という感覚はないだろう。ただ一時借りて住んでいるという感覚である

この辺で回りに2000人以上が仮設に住んでいる。これもやはり家のことを考えることになったろう。広い家に住んでいる人たちが多いのだから特にそうなったのである。
我が家に還りたいというとき広い家と庭があり田畑もあるからである。
だから変なのはもともと住宅を借りて住んでいた人は仮設に移ってもさほど違和感がないだろう。
その一生住宅暮らしの人は家や庭をもっている人をうらやんでいたからだ。
狭い家に住んでみればわかるとか言っていたからである。
ともかくこの辺では津波で4000軒が全壊したとか信じられないほど家を失った人たちが生れた。その人たちの中で新しく家を建てた人は少ない、以前として仮設であり復興住宅や団地にしてもわずかしか作られていない、だから土地がほしい、新しい家を建てたいという人が多いのである。

故郷という時これもまたこの辺では問われたのである。故郷は何かなど我が家があり田畑がある人は問うこともなかった。しかし一旦失った時問われることになった。
故郷は我が家があり我が家族があり我が仲間がありとか我が自然があるとか一つのものでは成り立てッいない、故郷はそうしたトータルものがあって故郷になりうる。
故郷はまた代々つづいている家ではその重みが違ってくる。江戸時代から15代とかつづいているとなるとそういう家のことを二代しかつづかない家では考えられないのである。
農家は三代つづいてやっと仲間に入れてもらえるという時、田舎ではそれだけ時間をかけて人間関係でも作られてきたということである。
それが窮屈さを生んでいるということも確かである。

秋の蝉というと一匹二匹が淋しそうに鳴いているとき感じる。
まだ今の時期、数が鳴いていると感じない。
ただ今年は涼しくなって秋が早く感じている。
相馬市に行くとすでに稲穂を色づき実りそめている。
南相馬市では原野化しているからそうした今まであった稲が実っていく風景がないから
季節を感じないのである。

これも変な感覚なのだけど自分には我が家は確かにある。しかし我が家族がないのである介護している母はボケていて会話ができない、ただ寝ているだけでありその人が家族のようにも今は思えないのである。
だから何か自分は介護するようになってからすでに家族を失っていたのである。
我が家、建物があっても我が家族はすでにないてのである。
自分はつくづく身寄りのない独り身でありその悲哀を痛いほど味わってきた。
ただ独り身というとき、例えば夫婦はそうではないがどっちか一人が死ぬと独り身になるのだ。
それで7年前妻をなくした人のことを書いたがあの人も大きな家と庭の家に一人で住んでいるから境遇がにたものとなった。
もう一人も夫もないから一人身でありそういう境遇が似通っていると通じ合うから集まったということはある。
夫婦は独り身でないから一人暮らしの人について何の関心もないのである。
ただ一人になったとき痛切に感じるのである。

2014年08月17日

お盆終わる (お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆終わる


(お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆かな墓地に集まり蝉時雨

猫歩む墓地の細道秋の蝉

家の跡死者の探すやお盆かな

鹿島より原町に見ゆ遠花火

一二匹夏蛙鳴き津波跡


津波跡闇の深しもお盆かな彷徨える霊なお家探しぬ

縁浅き兄にしあれどお盆には死者を思いぬ二十年すぎて


お盆には死者が還ってくるというより死者を思う時なのである。だから終戦記念日もあっている。人間が死ぬと急速に忘れられてゆく、どんなに有名でも芸能人でも全く忘れられてゆく、なぜまたそんなに早く忘れられるかというと生きている人はまた新たなことが次々と起こってくるからそれに心を奪われて死者は忘れられてゆく、現在生きている人は
今を生きるのに精一杯なのである。だから死者を思う余裕もなくなってきて忘れられる。だからこそお盆だけでも死者を思う時にしようとしたのだろう。
それは日本人の知恵であり文化であった。そもそも死者が還るということはありえない、死者を思うということはある。
ただ時間がすぎればすぎるほど死者は遠くなりあいまいになり忘れられてゆく。
戦争のことでももう膨大な死者を思うことはできない、その一人一人のことでももう親族も死んだりしているから思うことがなくなってくる。

津波で死んだ人はまだまだ生々しい、だから以前として死者が彷徨っている感覚がある。お盆にはその津波の跡を彷徨って自分の家を探しているような感覚になる。
人魂が見えたりするかもしれない、何かそういう不気味さがまだある。
だからとても観光地化するような状態になっていないのである。

今夜は原町の方に花火が見えた。遠花火となるが原町だったら見えるが相馬市だとここでは見えない、原町はそれだけここからは近いのである。

墓地というのは何か猫が歩むのにあっている。こっそりと墓の間を歩むのがあっている。猫は忍び足であり辺りを乱さないからである。
猫は目は悪いがいつも耳をそばたてているから耳はいいのだろう。
だから秋の蝉の声も聞いているのかとなる。お盆はすでに秋でもある。
お盆を境にして秋になる。今年は今日も涼しいから秋らしいとなる。

いづれにしろ自分の兄は自分の家で五年間は一緒に住んだがあとは別々になった。
だから縁が浅いしすでに交通事故で死んでから25年もすぎている。
いつのまにそんなにすぎてしまったのかと思う。
母は百才まで生きると思うが25年前に息子は死んでいる
ボケたので息子も忘れているだろう。
結局25年もすぎるともうなんか遠い過去となり忘れててしまう。
その死者が何を思っているのかとか何を伝えたいのとか思ってみてもわからない。
25年すぎたのでそうなってしまったのである。

自分の家の縁となるものはみんな切れた。その因縁はまたカルマであり最悪の結果となって切れた。金にからんで切れた。まさに金の切れ目が縁の切れ目だった。
本当にこのことわざをここ7年間でいたいほど経験した。
だから諺は迷信とかとは違い人間の変わらぬ真理なのである。

縁が切れるとか別れるとかで一番多いのは金の問題なことはまちがいない。
すでに多額な金を貸し借りするような関係は切れるだろう。
その人は最初から金ばっかり要求してきた。
事業で失敗して借金していたのだから頭には金のことしかなかった。
ただ前の代のつづきで交際していたのである。
まず親戚でも二代つづいて交際している人はまれだろう。
それだけ人の交際もまた変わり安いのである。
この辺はあまりにも変わりすぎたのである。
「さよならだけが人生だ」というのは本当に60代になったら現実である。
みんな最後は別れて永遠に会わないものとなりこの世で会うことこそ不思議だったとなるそして最後に思い出す人すら数人になる。
ぼけたりすると息子でも娘でも忘れる
「みんな忘れたわ、お前はだれじゃ」と母親が息子や娘に言う時、まさに生きながら死別していると同じなのである。相手に対しての記憶が喪失したら存在しないと同じだからである。息子娘も知らない人になってしまったということである。

抽象画の謎(水の力) (パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)


抽象画の謎(水の力)


(パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)

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無題

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地中海(結ばれた海)


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水の力


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高低のある山


抽象画は何なのか?これも謎である。人間の世界は自然界でも実際謎なのである。
わかったようなことを言っていても科学者でもわからないのが多いのだ。
原子力や核のことでも実際はわからないのである。
芸術もこれを説明することは不可能である。
その基になる色にしても無数にあり色からイメージされるのも無数にある。

最初の抽象画は何と名付けたらいいのかわからない。
適当に名前をつけることができるがそれでもその名前通りでないのが抽象画である。
山なら山、机なら机と明確に現すことができないから抽象画になる。
抽象画見る人によって違ってくるのだ。

だから「無題」としたがこれが何か極めて抽象画的だからアップしたのである。
「水の力」となるとこれは水をイメージして作られているともなる。
ただ一定のソフトの手順が抽象画できることに関係している。
そのソフトは2000円のペイントグラッフィックでも十分である。
このソフトを使いこなすだけで相当な労力が必要になる。
今やパソコンはハードの問題ではない、ソフトをいかに使いこなすかが問題になる。
ソフトの分野とは頭脳とより深く関係しているのである。

これからはハードの分野はもうこれ以上発展しないかもしれない。
もうハードの分野は整備されたからである。
パソコンだって今はハードではない、ソフトの分野に入っている
だからこそソフトをいかに使いこなすかが問題になる。

2014年08月16日

抽象画(風の色)( abstract colours of winds)


抽象画(風の色) abstract colours of winds)

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風の色


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地下の色

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踊る波

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重なる山


これも原画はインターネットにあった。なぜ抽象画がこのように量産できるかとなると
それはソフトの機械的作業から作られているからなのだ。
もし絵のようにイメージしたらこのように量産はできない。
抽象画は科学変化を楽しむようなのもだから量産ができる。

風にも色があり地下にも色があり動きがあるのかもしれない、風を感じるのは自転車である。風には言い表せないものがある。風はみんな一様ではとない、やはり色があるのだ。どちからかというとどうしても風は方向に左右される。
北風、西風、南風い東風とかで風を感じる。
しかしそれだけではない、風にはまだ何かその時々で違ったものを感じる。
風を感じることは車ではできない、車だと風を遮断してしまうからである。

だから機械化した現代は自然の感覚は麻痺している。
でもラジコン飛行機でも主に風にのって飛んでいるのでありプロペラを回して飛んでいるわけではない
それはあの大きな飛行機でも風を利用して飛んでいる。
いくら機械化しても風の力が作用して利用していたのである
風がなかったらものすごいエネルギーが必要になる。

風の働きで意外だったのは原発事故の放射能物質の流れだった。
福島市まで汚染されたことには驚いたのである。
3月11日の原発が爆発した時ちょうど東風が飯館方面から福島市方面に吹いていたのである。その時雨や雪もふり放射性物質が堆積してしまったのである。

地下にも色がありその地球の地下が解明されていない、でも死んだように動かない、色もない世界ではないだろう。地球全体が生き物でありやはり動くから地震も津波もある。

2014年08月15日

花と蝶の写真(イワヒバの庭)


花と蝶の写真(イワヒバの庭)

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ここはクリック拡大

のうぜんの玄関に散り蟻歩む

夕蝉の甲高く一羽裏通り

夏の暮猫ねそべりて夕燕


我が庭の木陰に一時また休むジャコウアゲハの紋を見るかな

寺内にソバナの花のはや咲きぬそいて行くかな裏の細道

紫の色に染まりて揚羽蝶ここに出あいて喜々と舞ふかな

イワヒバの岩に根付きぬ津波来て残りし庭を手入れするかな

とことわの磐の庭なれゆうゆうと芙蓉に揚羽朝に舞ふかな


ジャコウアゲハをもう一回庭に見た。この辺を飛んでいたのだろう。温暖化で飛んできたのかもしれない。
寺内となると鹿島の町から通りからすぐ近くである。でも一万くらいの町になるとそれでも離れているし農家が多い。今は仮設の町になってしまった。
寺内という地名と歌が一致する。地名が短歌でも重要な要素になる。
すでに秋は来ているし今年は意外と秋が早くくるようだ。今日も涼しかった。

この一面に咲いていたのはハナトラノオである。原町の方に行ってみた。トラノオというのは自生しているがその大きなものであった。
夏は花を見て歩くのにいい、花というのは合歓の花でも咲く場所によってかなり違った雰囲気となる。だからこの道にも咲いていたなまた来てみるかなとなる。
場所によって同じ花でも咲いている感じが違ってくるのだ。

また近くの一人暮らしの人の大きな岩を組んだ庭を見に行った。イワヒバを植えていた。あの庭にはイワヒバがあっている。

岩の上に張り付いてでも生きる強靭な植物なので、根と葉をきちんとセットに植えこめば、それなりに生き延びてくれるはず。成長の遅い植物なので、今後に期待ですね
http://orangekinoko16.hatenablog.com/entry/2012/05/16/005625

イワヒバは自然の環境の中で自生しているシダ植物であり、「巻柏」「岩松」「長生草」などいろいろな呼び名があるが 不思議な植物である。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tyuusan/iwahiba-frame.htm

イワヒバはまさに岩に根付くからイワヒバになる。何かその庭の主は体ががっしりしていて岩のように見えるのだ。一代で財を築いたしそれを自慢しているけどやはり家とか庭は財力がないと作れないから特に一代でとなるとそれなりの人でないと残せない。
その人は体ががっしりしていて親分肌の人だからそういうことができた。

芙蓉が咲いていてそこにも揚羽は喜々と舞っていた。それもあの庭にあっていた。
自分は家はあんまり興味がない、そもそも家は住んでみないとわからないものなのだ。
でも家の中はわからないから家に個性があってもわからないのである。
ただ庭は個性があってわかるのである。

今は芙蓉の花の時期である。この花は大きくておおらかな感じがするから好きである。
女性でもこういうおおらかな感じの人がいい、たいがいそういう女性は太っている。
太っていると何か包容力を感じる。やせた女性には感じないのである。
自分はやせた女性にも太った女性にも育てられたからその良さも悪さを知っているのである。
タグ:花と蝶

2014年08月13日

桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人 (その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議)



桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人

(その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)

●半田銀山は日本の三代銀山だった

桑折宿を出ると街道左手には半田銀山で知られた半田山(863n)の雄姿がよく見える。
かつては佐渡金山、石見銀山とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山。慶長3年(1598)ごろから米沢藩上杉景勝の代より本格採鉱が始まり、江戸・明治期にその隆盛を極めました。  この銀山は幕府直営の御直山として佐渡金山と同組織で経営され、役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えました。
http://www.town.koori.fukushima.jp/site/kankou/handa-ginzan.html

半田山(桑折町)は、徳川幕府時代に、通貨鋳造銀山として、佐渡相川金山、但馬生野銀山と共に日本三大鉱山といわれ、坑道の延長は十数キロメートルあり、当時は大いに賑わっていました。
「伊達はよいこと半田の銀山、末ははだかになる半田」との俗謡は日本中の坑夫が知っていたという。また、先代萩の芝居で御殿の場の一節に、政岡が「七つ八つから金山へ同じ名のつく千松は」と述懐するが、これは60余万石の重臣だった政岡が、半田銀山の一坑夫をうらやんだものと解されるくらいで、半田の当時の繁昌がわかる。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201008300000/

配線の接合に使われるハンダ(づけ)の名は、桑折町にあった半田銀山に由来するとの説がある。

半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。

藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって気楽な宿場であったらしい。
そのためか、付近の人や半田銀山の人が旅籠や湯屋に入り浸りと賑やかであったようだ。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。
なお、この藤田宿は、今は伊達郡国見町(くにみまち)藤田となっている。
http://hitosh.web.fc2.com/04osyudo15/158oiwake.html

●にぐらや(荷鞍屋)だった農家

コンビニの隣で桃の安売りしていた人がいた。78個で一箱500円で二箱で1000円にしていた。これは安いと思った。次から次と売れてなくなった。
なんか桃の投げ売りのようになっている。放射能汚染で売れないのか多少痛んでいるのかわからない、味はいいしこぶりではあるがとってきたばかりで新鮮である。
その人は伊達市の元の桑折町の人だった。

その人は田畑も作っているし馬も競走馬も十頭くらいもっていて福島競馬なのだろう、競馬新聞で自分の馬が勝って賞金を獲得したと自慢していた。
そして自分の先祖は江戸時代から馬商人だったという、15代つづいていて正五郎とか正がついていたという。五代将軍からであり馬を徳川家に献上していた家柄であり葵の紋の提灯も家にあるとか言っていた。
その馬は盛岡から買って江戸に送っていたという。盛岡では確かに大規模な馬市が開かれたところであり福島県からも馬を買いに行っている。それは江戸時代からであり古い歴史がある。
その理由は江戸時代になり街道が整備されたからだろう。
でもこれほどの古い旧家だったということも驚きである。
「にぐらや」という家で天皇家に献上桃を出しているのだから由緒ある古い家なのである

福島県伊達市霊山町掛田荷鞍廻(字)

江戸時代末期の安政七年(1860)、村の商売を記した「松崎家名
書」には旅籠屋 荷鞍屋 ・馬喰(ばくろう)のほかに20種類もの食料品を
商う店が書かれています。成田詣の旅人が増え、さまざ
まな農閑商いを営む村人が現れ松崎は町化した村に変わ
りました。
http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1015p16.pdf#search=
'%E8%8D%B7%E9%9E%8D%E5%B1%8B'


「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら..棲み分けるニッチの多様豊富さという点で際立った文明であった。」「鬢を結うためのかたい詰めものを売る店、下駄屋、紙傘の店、日笠雨笠の店、紙の雨合羽や包み紙の店、人馬のためのわらじを売る店、蓑や蓑笠の店、馬の荷鞍を売る店。そして表通りには漆器店と仏具屋がある。古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店、
((渡辺京二『逝きし世の面影』)

「桑名よりくはで来ぬれば」と伝日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。
徒歩ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり伝出侍れ共、終に季ことばいらず。

「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里から、馬を借りて杖つき坂を上る時、荷物を載せる鞍がひっくり返って落馬してしまった。
(笈の小文 芭蕉)

今やこの人の家の屋号はにぐらや(荷鞍屋)である。この話でリアルなのはそれは江戸時代ではなく父親が荷鞍を作る職人でもありその作り方が他の人と違って工夫したところがあり作るのが早かったという。なぜ早くしなければならないかというと手作りだから多く作れないから早く作ったというのはなるほどそれは生々しい話しだと思った。
売るにしても売れるにしても手作りだから量が限られている。そうなると夜なべまでして作らねばならなくなる、残業である。
「人馬のためのわらじを売る店」というとき人だけではない馬のわらじも売っていたのである。馬もわらじをはいていたのである。
野馬追いでもそうだがそもそも馬のことがリアルにイメージできなくなってしまった。
自分は子供のとき馬車屋があってその馬車の後ろに乗って遊んだことを覚えているから
荷馬車のことがそれほど昔とは思えない、荷鞍屋は馬車ではない、馬そのものに荷物をのせて運ぶためのものである。荷馬車になるともっと大量に荷物が運べたのである。
荷鞍橋とか荷鞍が地名になっているところが福島県に二つもあることはそれなりに福島県でも荷鞍作りも盛んだったのだろう

●半田銀山の裏話は本当なの?

もう一つ半田銀山のことで代官が賢くて本当は金がとれたのに徳川家には銀を送っていたという。これはごまかしていて代官の名前には銀がついているが本当は金がとれていた。その金は飾り職人によって細工されていた。確かに伝説には金銀の山ともあるから金もとれていたがそれは報告しないで隠していたのかとなる。
こんな話までしているのはそういう話しが伝えられてきたからだろうか?
もちろん半田銀山にはそれだけの日本を代表する銀山だった。
だからいろいろな話しが伝説がまとわりついてくる。
ただこの話は自分ははじめてきいた。この辺の歴史も調べていないし桑折町にはよっていない。というのは福島市に何度も行っても駅だけの名しか覚えていない
越河ー貝田ー藤田とかの駅である。ここはもともと街道の宿場町だったのである。
だからここは自転車でたどらないとわからない所だった。
電車の旅はこうして歴史の跡をたどることができずぬけてしまうのである。
ただその頃自転車の旅はしていない時期であった。
それでもあとで羽州街道は自転車で旅した。あの小坂峠を自転車で登るのは最高にきつかったのである。
桑折町は羽州街道へ出るまた江戸へ出る分岐点の町でもあった。
だからここはもともと人の出入りがある繁華な町だったのである。

まず奥の細道は新幹線でも普通電車でも通り過ぎたら何の感懐もないだろう。
最近インターネットで詳しくその行程を紹介している人がいて何かそれをたどると旅した気分になるのである。
旅にはこうした知識も必要でありただ通り抜けてゆくだけでは跡に何も残らないだろう。だから旧街道をたどることは必ず本当は必要なのである。
ただ遠くからくるとわかりにくくめんどうになるのである。
もう一回ここを通って旅したいがそれができない
旅するとなると自由な時間がかなり必要なのである。車だとできるがやはり旅するのとは違う。旅とは現代では最も贅沢なものになってしまったのである。
それでも福島県内でも自転車で自分は相当に旅している。
だから思い出して文を書くのだがここの桑折町についてはほとんどわからなかった。
でもここは奥州街道の要所であり歴史ある町だったのである。

いづれにしろ桃を売っていた人はこんな話できるのだから何か商売も上手なのだろう。
話がうまいということである。競馬はギャンブルだけど競馬は馬が疾走するのが見れからパチンコとは多少違っている。自分は動物に興味がある。馬が草原を疾走するのを見たら気持いいだろう。そこに馬本来の姿がある。競馬はそうではないが今や馬が見れるのは競馬場しかないということである。馬については野馬追いでもそうだが馬そのものについてイメージできなくなっている。馬が身近に接していないから馬が何であったのかイメージできなくなるのだ。

あそこでは毎日桃を売っているわげではない、不定期であり今回はお盆で特別安くしていたのである。今回限りと書いてあったからそうである。でもまた来るというからまだ桃の時期であり売り来る。桃は期間が短いし外国産も入らないから競争相手がないからいいとは言っていた。献上桃の家にしては安く売っているのもわからなかった。
何らか桃も早いうちに売る必要があって安くなっていたのだろう。
福島市は暑いから桃の産地になったのである。

ともかくこうして一人で売る人は今や一人で市を開いていると同じである。
昔の市を思い起こす、市には物を売るだけではない、こうした情報が集まることなのだ。物を媒介として情報が集まりそれで見聞を広めていたのである。
情報通信が発達していないとそうして人が集まる場所で情報交換していたから
昔の市はただ物を買うというだけではなかったのである。
物を通じて人と人が交流する場所だった。現代はただ物がどうして作られてどうして運ばれてきたか皆目わからない、ただ物があり買うとういことしかない、その物が作られた経過もわからない。だから地球の裏側で作られた人のことなど関心がないのである。
つまり人と人の交流がないことが問題なのである。
バナナをとるにしても重労働だったという若者が言っていたがそういう話をバナナを売る人から直接聞けないことが問題なのである。
そういうグローバルな経済は非人間的にもなる。物だけが流通して人の顔は見えないのである。それは金融でもそうであり人の顔が見えない巨大化した結果、雲をつかむような金融の世界になっている。だからコンピューターが操作しているのか悪魔が操作しているのかユダヤ人陰謀論とかになってくる。それはとても世界化した経済が見えない世界になっているからそうなる。金だけ神のようになってしったとかマルクスが言うのもわかるのである。だから人間的経済を復興させろということがしきりに言われるようになってきたのである。
タグ:半田銀山

2014年08月12日

南相馬市鹿島区の街内にできる復興団地の違和感(2) (墓地があり霊園として整備する場所だった)


南相馬市鹿島区の街内にできる復興団地の違和感(2)

(墓地があり霊園として整備する場所だった)

●都市計画なき復興団地

津波や原発事故で問題になったのはどういう街作り地域作りをするかということが大きな問題としてクローズアップされた。それは津波の跡は何もなくなってしまったからではそこを何にするのだとなる。ゼロから一からはじめるのにはいい状態になる。
それでは何にすればいいのかとなるとその解答も簡単には出てこない
まだそれぞれの所有者がいて公園にするといってもなかなかできない。
津波の被害の大きい地域は一体どういう街作りを地域作りをしたらいいのかとなる。
その前に住むのをあきらめている人もあり他に移った人たちも多い
するとすでにそこは何もない原野のままになってしまうのかとなる。

墓地の前に復興団地ができたのは土地がないということで幼稚園とかがあり市の所有だったので半分は私有でも買い上げてあれだけの土地を確保して復興団地にした。
それは津波などで家を失った人が多いのだから早めに建てる必要があった。
そもそも土地が不足していて土地があれば建てればいいという考え方であり
とても街作りのプランを多方面から検討する余裕もなかったのである。

でも自分の家の墓もあそこにありあの団地が何か違和感を感じたのはそこが墓地だったからなのである。墓地があったところに団地が建ったから何か変だなと感じた。
そもそもそこは最初は鹿島御子神社の領域であり次ぎに寺が建ち神宮寺になった。
それで宝永の大きな石碑が建っている。それは仏教関係の碑であり天保の寺子屋だった記念の碑もあった。
それがいつし墓地になった。明治時代以降に墓地が拡大して墓地だけになった。
今では墓が増えて窮屈なのである。もともと狭い所であり窮屈だった。
南相馬市の原町区の実家の墓がある場所は広々として気持いい。広い一画一画を分譲したからそうなっている。だから街中にあっても広々として気持いいのである。
そこは街中の霊園として市で整備したのである。
市で計画して整備して作ったからそうなっている。

ところが鹿島区内の街内の墓地は歴史的に発展して墓地になった。一般的に田舎の墓地は江戸時代の継続である。必ず江戸時代の墓があり新しい墓が建てられている。
橋本町の霊園は全く新しく作られたものである。一部は寺だから古い墓もあったにしても全体的には新しく作られた霊園なのである。
つまり市で霊園地区として計画して広い場所を確保したのである。

●本当は霊園として整備するべきだった

今回の復興団地ができた所は墓地であり本当は霊園として整備した方がいいということがあった。ただ土地がないし津波などの異常事態でやむなく復興団地が建てられることになった。だからじっくり計画して街作りする余裕がないからやむをえないとなった。
でも今建ったのを見ると何かそぐわないなとつくづく思ってしまう。
団地ということもあるからかもしれない、相馬市の長屋風の住宅などであればさほど気にしなかったかもしれない、突然三階建ての団地が建ったことが違和感をもたらしたのである。
本当は原町のように霊園は霊園地区として整備するのがいい、原町区はたいがいそうなっていようだ。墓地は霊園地区として整備されているのが多いだろう。
そこには一つの都市計画がありそうしたのである。
鹿島区内の街内でもそこを余裕があれば霊園地区として公園化することもありえた。
ただあまり墓地を小さな街で作るのはそぐわないということもある。
墓地はもともと郊外の方が向いているということもある。
それより墓地より何かもっと現代の生活に役に立つのに予算を注ぎ込んだ方がいいということもありそこにはいろいろな意見がありそうしたことを検討するなかで新しい街作りがありうる。

今日の河北新報で神戸でも巨大開発をしても商店街を作っても客が集まらなかったとかの反省がある。そこ住んでいる人たちの要望の上に作られるのではなくただ建物だけを作ればいいという発想がありそれでそうした建物でも利用されずに終わるということもある。金をかけても活きてこないという問題があった。
鹿島区の厚寿園でも立派な建物はできても介護士などが集まらなくて他から寄せ集めてかろうじて運営していることでもわかる。
建物というハードを整備してもそれを利用するソフトと人々の要望するものと生活するものと合わないと失敗する。
確かに一回を一人暮らしの老人が住み集会所もありとそこに工夫をしたのは良かった。
でもみなん住みたくないから空き部屋になるとかいう人もいる。
やはり田舎だと土地さえあれば一軒家を建てたいという要望があるからだ。

●土地や家の愛着を賃貸住宅ではもてない

あういう団地には何かなじめないという人も田舎では多いだろう。
故郷という時家がり土地があり田畑があり墓があり先祖がありとそういう人は故郷に愛着を覚える度合いが強いだろう。
でも田舎の安い住宅とかアパートに住んでいたら何か故郷とか土地への愛着度合いは低いように思える。
これは自分の家だとか自分の土地であり田畑だという感覚ないと愛着の度合い薄れる。

郊外の農家≫土地と家の所有者≫賃貸住宅

街の外の農家を見ると屋敷林に囲まれた農家ありあいいう家は何かより土着的であり愛着があるだろう。その家が一つの我が城みたくなっているからまた街内の密集した家とも違っているのである。そこは生産とも一体化していたときがあったから余計にそうなる。
農業だけで暮らしていた時代がありその時はその家は単なる会社につとめて休養する場所とも違っていたのである。そこには別な家の重みがあったのである。

朝の蝉なきひびきつつ屋敷林残れる家や津波の後かな

津波の後に残った家を残谷とか地名が残った。屋敷林があり蝉がなきびびいていた。
ああ、この家はつぐつぐ津波にも残ったのだなと感慨深かった。
つまり屋敷林があると相当に蝉が集まり鳴くのである。
屋敷林自体が一つの自然を作り出しているのである。
こういう家に住んでいる人と街中の狭い地域に住んでいる人と賃貸住宅とかに住んでいる人の感覚は相当違っている。だからあういう復興団地には入りたくないという人も多いだろう。もともと津波で家を流されたような人たちは広い宅地に住んでいた人が多いからである。
もともと市営の住宅に住んでいるような人だったらかえってそういう団地に住みたいともなる。そこにはもともと狭い場所に住んでいたから違和感がないとういこともある。

いづれにしろ市営の住宅や賃貸アパートなどに住んでいる人は一つの家に住んだことがないのだからそもそもがそういう一つの家に住むことがどういうことかわからないのであるだから近くの人が俺は若い時苦労して土地を買い庭を造りこの家を建てたから移りたくないという気持がわからないのである。
家を借りてばかり住んでいる人は家への愛着が理解できないのである。
自分の家のことも語ったが家には必ずそれぞれの歴史がある。
市営の住宅に住んでいる人はまず家に対する愛着がない、ただ一時いるというだけだから一つの家に住むということを知らないである。
だから仮設とにたような状況にあり仮に住んでいるだけだとなる。
いつでも他に移っても変わりないという感覚なのである。
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2014年08月11日

ジャコウアゲハを初めて見た (玄関にとまっていて写真をとった)


ジャコウアゲハを初めて見た


(玄関にとまっていて写真をとった)

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一時をジャコウアゲハの我が家にとまりて去りぬ夢のごとくに



とくに雄は芳香を放つので麝香(じやこう)の名がついた

本州より南西諸島まで分布するが、東北地方北部では稀となる。
国内の分布を詳細にみると、食草であるウマノスズ類の分布との対応がみられる。関東や中部地方では標高700〜800m以下の場所に限られる。


ジャコウアゲハ生態集ーここが一番詳しい
http://www.g-hopper.ne.jp/free/fukuda/zukan-a/agehacho/za_jakoageha-al.htm

平成元年に姫路市は、市制100年を迎え、「市蝶」にジャコウアゲハ(お菊虫)を制定しました。それは姫路市のシンボル姫路城には築城主池田輝政の家紋「揚羽蝶」の瓦紋が何千と用いられているからです
http://ehc-hyogo.net/hp/?i=jakouageha&m=55

 オオバウマノスズクサ  (大葉馬鈴草)
http://fairysilv.exblog.jp/m2011-04-01/



この草が生えているところにジャコウアゲハが生息する。馬の鈴というのもすでに古くからつけられていた名前である。

この蝶は埼玉県まで見られるし東北南部でも見られるとしてもめったに見られない、南の方の蝶である。それで姫路市の蝶になっている。
どうして自分の家の玄関で見れたのか?
やはり最近暑くなっているせいだろう。ただ馬鈴草など見たことがない、そんな花があったのか?その花が自生していればこの蝶も生息できる
原発事故でこの辺では山野が元の自然に還り野生化している。
放射能で汚染されても人が住まなくなると自然が甦る不思議があった。
中には遺伝子が障害受けて蝶が小型化したとかなんか影響を探っているが明確にはわからない。遺伝子の放射能の影響はまだわからない。

ともかくこの蝶は見たことがないので驚いた。それも山の中ではなく街の中の自分の家の玄関で見たのだから驚いた。何か原発事故以後自然の変化がこの辺ではある。

チョウトンボ

国内では本州東北部から九州にかけて分布し、国外では朝鮮半島、中国に分布していますある程度自然度の高い環境でないと、多数の個体は見られないとのことです

チョウトンボが津波の跡に飛んできたのを見た。それは生息した海岸の潟がありそこが繁殖地だった。それは山元町から仙台の海岸線にあったという。そういうまだ自然を残した場所に生息していた。
これも津波の跡に一時だけ見たのである。あとは見ることがなかった。
そんな場所があるとは知らなかったし普通の人は知らない、研究者のみ知っていたのである。

自分は花とか蝶を見てきた。蝶は沖縄が種類が多いからいろいろ見れて楽しめる。ただこれも時間がないと本当は見れない、自然の観察は何でも時間に比例して記憶に残りやすいのである。自然観察となると特に動くもの動物類は知るのがむずかしい。
一瞬出てきてもすぐ消えてしまうから観察できないのである。
だから動物写真家何日もいい写真をとるためにテントに寝泊まりしてとっているのであるそれはプロだからできるのであり普通の人はそこまでできない。
ともかく今日ジャコウアゲハを見て写真まではっきりととったのは幸運だった。
なぜなら一生に一回しか現物を見れないということもあるからだ。



鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感 (地盤が柔らかい場所だった)


鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感


(地盤が柔らかい場所だった)

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元禄の次に宝永になるし天保の碑もあるからここは古いのである。

鹿島町内の墓地の前に立った復興住宅の団地を作っている労働者に聞いた。
「ここは地盤が弱い、ブルドザーがゆるているだろう、あれは地盤が柔かいからだ
ここは昔は沼地か湿地帯だっただろう、川が近いからその影響もあるだろう
ここは地震が来たら建物割れるな」
「う、そういこともありうるな」
「この墓地は江戸時代からある、天保という碑を見つけた、もともとここは鹿島御子神社の領域だったがその脇に寺が立つようになった。
それで宝永の仏教関係の大きな碑がある。あれは目立つ
神社から寺になった神宮寺というのは全国的に多い、ここもその一つだ」

この復興住宅は一階が一人暮らしの老人用であり集会所もある、二階以上は家族で住むようになっている。つまり一人暮らしの老人が孤立しないような作りになっているという。相馬市では一人暮らしの長屋風の住宅ができた。それは一室でも二部屋あり
食堂のようにな大きな集まる場所がある。だから長屋だというのは昔風に人がつながることイメージしたのである。
それは老人ホームとは違う、そこでは自立した老人が生活する場だからである。
こういう配慮は老人の一人暮らしが増えているのだからいいと思う。
その墓地の隣には小さな公園がありほとんど使う人がいなかった。
子供すら使っていない、でも百人くらいが生活する団地になるとあの公園も使われる
やはり人がある程度子供でもいないと公園すら閑散として使われず淋しいともなる。

それにしてもこの世とは本当に変わる。そもそも鹿島御子神社から隣に寺ができた。
神宮寺ができた。そこに寺子屋ができて一つの碑が記念として残された。
それは天保の碑だった。その時はその前は草むらか沼地か田畑にもなっていない所だった川が近いので地盤も柔らかい、鹿島町内はどこも地盤は弱いだろう。
それは真野川が影響している、鹿島町内は一回真野川が氾濫して水にひたった。
その時自分の家が下にあり一番低いところで被害が大きかった。
それは小学六年の時だった。自転車とか学用品が流されたことを覚えている。
その時泣いたのは自転車が壊れたことだったのである。
その頃から自転車には乗っていて好きだった。
ふりかえるとあの時家族はみんな意気消沈した、それは津波の跡と同じだった。
ただ家は残っていたがトタン屋根の家であり雨もりするボロ家だった。
その水害があってから二階がなかったのでなんとか二階のある家を作りたかった
それで水害から十年後くらいに大きな二階のある家を建てたのである。
その頃まだ新しい家は建たない時で大きな家で回りがびっくりしたし隣で日影になったのでいつまでも怒っていた。
回りでもやっかみがあったのはその時まだ新しい家がまだ建っていなかったからである
水害は近くの堤防が決壊して30年前頃も被害を受けた。その後河川改修して水害がなくなった。真野川はそれだけ大きな川でもあるから水害が度々あったのである。

これだけの家建てたりできたのは姉の力が大きかった。自分の家は姉がいないと成り立たない家だった。姉の恩恵で豊かになったのである。
それぞれの家にはもそうした歴史が必ずある。栄える家にはやはりそれなりの原因がある衰退する家でもそうである。母方の実家は警察署長でも事業に失敗して一家離散になったのだからその原因を作ったのは祖父でありそれゆえに今は実家は消えて墓しかないのである。
実家がそうなったのは衰亡して墓しかないのは祖父が原因だったとなるのだ。
家は誰か人がいて栄えたり衰退したりしているのである。
ただ栄える家も衰退してゆくのは国単位でも普通にあるから何代も栄えるつづく家はやはり何か家がつづく原因がある。

ともかくあの墓地の一角も郷土史であり古代から江戸時代からと変遷を重ねてきているのだ。ただ今回の変化は想像すらつかないものだった。
前には保育所などあったがそれはさほど違和感を感じなかった。
あの団地だけは一つの街と化したので変化が大きすぎた。
だから墓地の前にあんなに人が住む場所ができることが何かしっくりこないのである。
墓地から霊がでてきてその団地の家に入り込んでゆくような奇妙な感覚になってしまうのである。墓からすぐにその団地に通じているからそうなる。
その団地に住む人にしても常に墓を見ているというのも奇妙な感覚になってしまうだろう
街内は地盤が柔らかい、中世はたいがい小高い丘や山に館を構えている。それは平地になると日本ではもともと湿地帯だから地盤が柔らかいのである。だからそもそも古い家は高台にあり高台の方が地盤も強いとすると地震にも強いとなる。もちろん水害などの害もないから高台の方が先に人が住んだ。
今回の津波でも古い家は高台にあり助かったという。新しく入ってきた人たちは低地に住んで被害が大きかった。
田んぼになっている平地も地盤は柔らかいから地震には弱い。
とにかく日本では地盤の柔らかい所が多すぎるのだ。

タグ:復興住宅
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お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


 
お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


我が姉の思いはなおも南国へドランゴンフルーツ霊前に献ぐ

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姉が死ぬ間際まで語っていのはシンガポールではない、その向かい側のジョホールバルというイギリスが支配していた地域である。そこにイギリスの病院があった。
そこはマレーシアでありそこで4年間従軍看護婦として過ごした。
この4年間が姉にとっては人生の最も印象深いものとして終生語るものとなった。
戦争のことは普通に経験できないことだからそうなる。
戦争に負けてジャングルに逃げた時が食料もなく一番苦しかった。
そのままジャングルに逃げて何十年後に日本に帰還した日本兵がいたことで話題になった未だにジャングルがありそのジャングルも奥深いということなのか?

だからよくドリアンとか南国のフルーツのことを語っていた。ドリアンのことも語っていた。ここに飾ったのはドラゴンフルーツである。これも南国的な果物である。
これを飾るにふさわしいと思って飾った。
死んでみるとその人にふさわしいものが何か残る、あの人はこういう人だったからこれがふさわしいとかなる。
その命日にはそうしてそういうものを墓にささげたりする。酒とかタバコをささげたりもする。それもまた好きだったものだからとなる。

現代では何かもうこれまでの供養の仕方や葬式の仕方はすたれた。墓もその人が生前好きだったものがありその好きだったものをモチーフにして墓にしたりしている。
戒名などはもうすたれたのである。それよりその人がどう生きたか何が好きだったとかで葬式をする。あの人はこの歌が好きだったかとその人なりの葬式をする。
お経など唱えても今は金をとられるだけである。
戒名にもその人なり個性があるかもしれないが実際は現せないだろう。

その人を偲ぶにしてもその人なりのその人にあうものでもって供養するのがいいのであるただこのお盆というのはそれなりに意味があるものだと思う。
これは仏教には由来していない日本的文化なのである。
これは宗派を越えて日本的文化だからお盆に死んだ人を供養するのがあっているのだ。
お盆と終戦記念日とか重なっているのも一つの日本的なものの継承なのだろう。
お盆には戦争のことも話題になるからである。

継がれず無縁、さまよう墓石 不法投棄続々、墓の墓場も
http://www.asahi.com/articles/ASG7Y5F9PG7YPTFC019.html

墓は簡単に捨てられないということが問題だと前に書いたけどこれはもうどうしようなくなりこうなった。テレビでも今日放送していたけど捨てられた墓には元禄とか刻まれていたからそうした古い墓も捨てられている。
この辺では墓だと元禄となるとほとんどない、自分はいつも墓地を見ているがその時江戸時代の墓があればここは古い場所だから貴重だと思う。
江戸時代から人が住んでいたということで貴重なのである。
明治時代になるとあまり関心がなくなる。明治にしてもすでに140年とかすぎているのである。明治とか大正でもすでに歴史的に価値あるものとなっている。
でも江戸時代のものがあるときそこは古いと認識している。
だから江戸時代の墓は個人の墓でも文化財になってもいい。
その墓はもともとあった場所にないとまた意味がないだろう。

ともかく墓の問題は本当にめんどうである。ただ墓は家より長く残る、家は壊されてなくなるが墓は無縁仏になっても残っている。ただもう墓も供養するものがなくなればただの石ころになってしまう。古いものは文化財となるが明治くらいだと普通は捨てられるだろう。だから元禄と刻まれた墓が捨てられていたのは理解しにくいのである。
今日はすぐ近くの墓地に行ったらガーガー団地の工事をしている。そこは今までとは全く環境が違ったものとなった。この変化も大きかったのである。
一つのにぎやかな街が生れその中に昔の墓地があるという奇妙なコントラストになってしまったのである。
墓地はやはり静かなしんみりとした場所がふさわしい
都会では普通かもしれないが墓に眠っている霊がその団地に住んだら入ってゆくような奇妙な感じになっているのだ。
この変わり方も想像もつかないものだった。
津波であれ原発事故であれその変化は全く想像すらできない変化をもたらしたのである。

2014年08月09日

猫は人間で管理するほか生きられない (野良猫は害になるからかわいそうだけでは解決しない)


 
猫は人間で管理するほか生きられない


(野良猫は害になるからかわいそうだけでは解決しない)




猫の外飼い(放し飼い、出入り自由)は間違いなく身勝手なペット虐待行為
完全室内飼いの猫の平均寿命が15年超えているのと比較して、野良猫は3〜5年
出入り自由の飼い猫ですら12〜3年程度と完全室内飼い猫より有意に短命となる

日本における飼い猫の屋外および屋外原因での死の最大の理由は交通事故
大雑把な推定で年間数十万頭あるいはそれ以上、保健所での殺処分より遥かに多い
次いで野良猫を中心とする他個体との接触・喧嘩による致死性伝染病の感染・蔓延
この2つが双璧で、完全室内飼いを徹底できていれば確実に避けられる落命の仕方
さらに(これは野良猫特有だが)夏〜秋生まれの子猫を中心とした冬季の凍死・衰弱死
餌獲得競争に敗れ狩りも下手な弱い個体や老猫の餓死・衰弱死、烏やアライグマや
イタチ科動物を中心とした天敵による捕食が寿命を引き下げる

また各種猫害(糞尿・発情や喧嘩の鳴き声・住居侵入・動植物を殺され荒らされる等)の
被害者による合法的駆除・殺処分や、果ては異常者による虐待・殺戮に至るまで
猫があらゆる形で非業の最期を遂げる危険性を徒に激増させるのが外飼いという行為




猫をたまたま飼ったから猫も世界的な問題になっていることがわかった。猫を飼わなかったら猫のことについても無関心だった。猫の一番の問題は野良猫が多いことである。
それがわかったのは猫を飼って餌をやっていたら野良猫が必ずよってくる。
オスだとメスがよってくる。観察のために見逃していたら家の中まで入ってきて荒している。
野良猫は餌がないのだから餌をとるために必死なのである。そろそろと自分の顔をうかがい警戒して餌を食べる。でもゆっくりは食べていられない、いつも追われているから常に逃げる用意をして食べている。ゆっくり食事もできないのもあわれである。
たまたま飼った猫は未だに腹がへると狼のように襲いかかるように獰猛になる。
それはペットととは全然違った野生の姿である。
ただこの猫は飼われていた猫なので人間に近寄ってきたのである。

猫の問題は野良猫が多すぎることなのだ。猫は自由に家を出入りしているのも違っている自分の猫は夜はいないし家にいる時間は短い、家にいる時は寝ている時か餌をねだるときである。あとは外に出ているの猫なのである。だから外で喧嘩して傷つけられたりした。そして問題なのは最近メスの猫がきて余った餌を食べにくることである。
そのメスとは外ではいつもつきまとっている。自分が与える餌を奪い合いするというのではなく結構食べさせているのも不思議である。
メスであり共同意識があるのかもしれないので分けてやるということもあるのかもしれない。

ただ今日はせっかく遠くから買ってきた大きな食パンをただまわりを食いあらされて一斤が食べられなくなった。これには頭に来た。その猫は食べるために必死だからパンまで食べた。家にいる猫はパンなど食べない、猫はパンを食べないが腹をふかせば何でも食べるということがある。だから猫はそうして餌をやっていたりすると家の中に入り荒すようになる。
ここで自分の人間側の問題として猫を飼うでもない飼わないでもないというあいまいな状態においたことである。これは他でも問題になっている。野良猫に餌をやって野良猫が増えて近所に迷惑をかける。野良猫はどうしても餌をやる人がいるから生きている。
それでも野良猫は生きるのは厳しすぎる。野生でもないから餌がないのだから家の中に入ってでも餌を得ようとする。猫も生きるために必死だからそうなる。飼い猫は他人の家を荒したりはしない。

つまり猫は犬のように登録制になっていないことが問題なのだ。昔は野良犬が普通にいた今でもアジアでは野良犬はいっぱいいる。それは危険でもある。
野良猫も実際はいろいろと危険らしい。生態系的にも野良猫に殺される小動物が膨大になっているという。猫は狩りをするからスズメなどをとってくる。食べなくても本能でしている。そして他にも猫は外で何をしているのかわかりにくいが何かを虫なども食べているらしい。それが生態系にも影響しているという。それだけ猫は世界的にも多いのである。
猫は未だに飼い猫と野良猫がいて生きている。野良猫化しても生きていることが違っている。ねその数も相当多いのだ。近くで三匹の子猫を空家で隠れて育てているのを見た。
猫は繁殖力も旺盛なのだろう。ただ野良猫は生きてゆくのが本当に厳しい。
だから早死にするというのがわかる。だいいち飼っている猫でも腹がへると鳴いてうるさい、それも一日三回くらいなきつく、猫は胃腸が小さく何度も餌を食べるという、そしたらこの猫は野良猫の時どうして餌を取っていたのだろうとなる。
飼われてもそれだけ餌をとるために鳴きつくからどうしていたのだろうとなる。
腹がすくと動物は獰猛になり何でもするようになり害を与えることも平気でする。
猫側から見れば生きるために必死でそしているだけなのである。
でも人間側からすれば家の中が荒され貴重な食べ物が食われたりすると頭にくる
今回はそうだったし前にもあった。人間は被害にあってみないと関心がないのである。

それで猿やイノシシに荒される畑を作っている農民などの気持もわかる。せっかく苦労して作ったものが猿やイノシシや鹿に荒されたとき怒りとなるのは当然である。
でも人間は動物でも常にかわいそうだから殺したりするなよとかなる。
ところが被害にあった人たちはそういう感情がわかず怒りとなり殺したいとなる。
人間は自分が被害にあわないかぎり何でも傍観しているだけであり無責任なのである。
こういうことはすでに古代から起きていたのである。
動物を家畜化したときは人間と動物の共存を計った。その歴史も古いのである。
人間と動物がどうして共存してゆくかは古代からすでにあった。
だから野良猫でもみんな殺処分してしまいということもなかなかできない。
やはり猫でもそこは人間と通じるものとして動物をみるからである。
だからかわいそうだという感情がわく、ただそのかわいそうだということが無責任さも生んでいるのだ。

結局猫を責任をもって飼うのか、それともあいまいにして野良猫に餌をやったりして地域に迷惑をかけるのかとなり地域で猫を見守るという方法もとっている所がある。
猫は登録制ではないし野良猫の数は多すぎることが問題なのである。
何らか人間で管理する他ないのが猫なのである。それができていないから問題になる。
猫側にしても野良猫として生きることは厳しすぎるから三年くらいで死ぬとかなる。
そういうふうに生きることを強いられるのも厳しいとなる。
飼い猫と野良猫の差が大きすぎる。それは人間社会の格差とは比べようがない。
野良猫は毎日今日餌にありつくかつかないかと必死である。
飼い猫は一日のんびりと寝て腹がへったら餌が与えられるからその差が大きすぎるのである。

自分の猫は外にいる時間が長い,だから喧嘩してかなりの傷を負った。田舎だから交通事故にはあいにくいかもしれないが交通事故でも猫は相当死んでいる。それで猫を山に埋めてやったというばあちゃんがいた。ただ猫は一匹だと何か淋しいとなるかもしれない。
メスを求めることもありそのメスは外で会うことになるからだ。
家にばかりいたらそうした猫の仲間での暮らしがなくなる。猫はあまり群れないにしても何か外では仲間がいてメスがいてそれが猫らしく生きるとなる。
ともかくもともと動物と人間のかかわりはいろいろむずかしいものがあった。
だからインドでは動物を神のごとくして大事にした。それがヒンズー教となり仏教にも発展した。インドでは今でも牛が街中を歩いていたり猿を大事にしたり生き物を動物を大事にしているのだ。牛を食べたりもしないのである。
何でも食べる中国とはまた違った文化をもっていた国なのである。
だから動物と人間のかかわりはそれだけ古い歴史があり簡単には処理できないものなのである。つまり動物でもそれを人間のようにみるからそうなるのである。

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この家は広くていいな、のんびりできるな、餌もねだればもらえるしな
この家は俺様の家ということなんだよ
餌の心配はないことが一番だよ
野良になったときは生きた心地しなかったからな・・・・・・

背中の傷はかなりの傷だった、他にも頭にも傷があった。
外での生活はやはり危険がともなっている
でも家の中にばかりいると猫もつまらないだろう。
外が歩く時生き生きしてくのも猫なんだよ

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2014年08月08日

白木槿(お盆には死者集う)



白木槿(お盆には死者集う)


波の音夏の星座や太平洋

白木槿あまたや死者の集う盆

石静か月こそ照らせ災いの起こらざるべし虫の音を聞く


お盆には死者をとむらう、死者が還ってくるというのも日本的な風習であり仏教とは関係なかった。これは仏教が入る前からあった日本人の風習なのかもしれない。
その感覚は日本人でないとわからないだろう。こういう文化は理屈ではないからだ。
文化とは宗教はまた違ったものである、神道は宗教というより日本人の文化なのである。でも御札とかくばるとそれは宗教のおしつけになる。
なぜなら御札をもらえば簡単にゴミのように捨てるわけにいかなくなる。
何かそれは宗教の押しつけにもなっている。

今になると戦争が天皇が神とされてカルトだったとか平気で言っているけど当時にそんなことを言ったら憲兵につかまり刑務所に入れられた。
ただ戦争のことは以前として日本人自体で何であったのか検討されていない
だから天皇の責任でも何でもあいまいにされてあの三百万人死んだ戦争のことがなぜ起きたのかも良く日本人自身が歴史的に解明していないのである。

お盆には死者の霊がもどってくるというのはやはりそれは理屈ではない、その時死者を偲び墓参りするのはいいことである。死者を思うことはだんだん日にちがたつと忘れてしまうからである。死ぬとたちまち全く忘れられるということも起きてくる
その人の存在が希薄化してその人が生きていたのかどうかもあいまいになってしまう。
死者は日に日に忘れられてゆくものなのである。
死人坂というところがあってお盆になるとぞろぞろ死者が歩いているのを見えるという。死んだ人の数も多いのだからお盆に死者が還ってくるとなるとそうなる。

お盆中、千葉県に死者が溢れかえる!? 不気味な幽霊が徘徊する「死人坂」とは?
http://news.ameba.jp/20130803-373/

この話はそんなこと今の時代にありえないよとかかたづけられない、何か信憑性があって迫ってくるのも不思議である。それだけお盆には死者が還ってくるというのが日本人には見えていたのである。

お盆には何か白い木槿の花があっている。死者の花にふさわしい花のなのである。
白にもいろいろな白がありこの木槿の花の白は和紙のうよな白さで何かまた違っているのだ。

正直自分はこの六年間とか一身上でも災いの連続だった。もう嫌になるほど苦しんできたそれは回りでもそうである、津波だ原発事故だとか今でも延々ともめている。
そういう災いの場所と住んでいる場所がなってしまったのである。
だから災いないことが平和である。アフガニスタンの少女が戦争ないことが平和でありその平和がほしいということは痛切だった。毎日爆撃だったらそうなる。
ある意味でこの辺はそうした戦争状態とにていたのである。

だからつくづく不動の石がありそこに秋となり月の光がさしている。そうした穏やかな日が戻ってほしいとなる。もうこの辺はこうした混乱状態で疲れてしまった人たちもいるだろう。
あまりにも変わりすぎてしまったのである。
今日は涼しかったので楽であり秋を感じた一日だった。

2014年08月07日

夏の雲、ダリヤ、菊(原町の牛越城へ)


夏の雲、ダリヤ、菊(原町の牛越城へ)

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暗雲に遠稲妻や牛越城
湧き騰がる夏雲に映ゆ牛越城
ひぐらしのここにひびけり牛越城

日に映えてダリヤの色や揚羽かな
夕月や五色に列なす菊畑

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牛越城は相馬氏が小高から移った城だけど何か短い間でも風雲の城だった。
ここで何かかなりのいざこざや内部の争いがあった。
なぜ相馬氏が中村城に移ったのかかとりざたされるけど村上城にしろ
それは小高い丘であり中世の館(たち)山城の感覚であり中村城になり
平城になり江戸時代に入ったのである。
館(たち、たて)が38もあったしこれは全国でいかに館が多かったかも物語っている。
中世の館(たち)が支配の拠点でありそれが統一されて藩が生れ江戸時代になったのである牛越城はイオンに行く時いつも見ている、見えるのである。
ただ一回もあそこに上ったことがないのである。
何か木が密生していて上りにくい感じがするからだろう。
今度は上ってみる必要がある。

現代は写真の時代である。揚羽とか動いているものをとるのはむずかしい。
揚羽がダリヤの上を飛んでいるのをとりたかったができなかった。
写真は絵であり絵に加工するとまた違って見える。

今日は午後からは涼しかった、涼しいと楽である。自転車は暑いとまともに日をあずるから辛くなる。日に焼けるのも困るのである。皮膚が弱いから自分の場合はあまり暑いと遠出したくない。
今日は自転車でも楽だった。
そろそろお盆であり墓参りとかの用意がある。
おりしも月がでて菊畑があったから秋の気配もでてきているのである。