2014年11月30日

冬紅葉 (貧しき人と交わる・・すでにインターネットで14年書いていたから整理する)



冬紅葉

(貧しき人と交わる・・すでにインターネットで14年書いていたから整理する)


冬紅葉貧しき人と交わりぬ

夕日さし城下の暮れぬ冬紅葉

冬柳長々としだれ城下町


冬紅葉というとき何か貧しさを現している。ただ今の時代貧しいといってもその貧しさの内容が違っている。食べ物は贅沢であり変わりないのである。
現代の貧しさ食べるものがないとかではない、それ意外の贅沢の結果貧しいとなる。
サラ金から8人に一人も借りているということはそれだけ無理している。
家もローンだと無理して退職して今になって困っている人がいる。
自分の知っている人は立派な家を建てて借金して困っていたとか贅沢して教育でも留学させてとか食べ物ではない、そうした家とか教育とかで贅沢して借金している。
車だってそうである。車が一台あればいいと思うが一人一台とかなっている。
車使わないと30年とかの年月で計算すると一千万はかかるという。

なぜ自分の家である程度の金がたまっていたのかというと幸運もあったが結局車もないし金を使わないからある程度残ったというだけだった。
子供もいないかちら教育費にも使わない、旅はしてもそれは一年に二三十万くらいだろう最低の旅行しかしていない、外国に行った時でもかえって円高で日本より安上がりだっただからふりかえるとつくづく金を使っていなかった。
家族でもそうである。母は一切金を使わない人だった。
茶碗一つ買わない、年金も3万くらいもらっても一銭も使っていない
自分が何か買うとそんなものいらないと怒っていた。
これを馬鹿げているがその金も盗まれて何にもならなかった。
ただ働くだけだったとなる。

現代は過剰に金を使いすぎるのである。ないのに借金しても使っている。
それが怖いのは自分だけならいい、回りにも影響するから怖い。
原発事故だってそういう過剰な借金生活になることも間接的にな原因だった。
金になるならなんでもいい、原発も金になるから積極的に誘致しろとかなっていたのである。
それから借金した人が自分の困ったときをこれ幸いと責めてきた。
借金を入院しているときでも催促してきたときほど辛かったたことはない。
なぜなら頼るものがないからそうなった。
借金している人はもう他人のことなどどうでもいい、病気だろうが何だろうが金をとればいいとしか考えないから怖いのである
借金に追い詰められているからそうなる。
相手がどういう状態にあるか全く考えられないのである。
こいつが死ねば金になるぞとしか頭にない、今の世の中はみんな現実はそうなっているからもう金金金しかないから怖い世の中である。
こういう資本主義の世界は終わりにきているというのも本当なのかもしれない。
人間が金によって非情化が極端化してしまったからである。
資本主義社会が自壊してゆくとき世界が一つの終わりを迎えるとき極端な現象が起きてくる。末世には何でも極端化するし天変地異も起きてくる。
マヤの文明では2015が終末だというのも本当かもしれない。
とにかく貧しい人と交わるのはいろいろ問題が起きる。だから金持ちは貧しい人と交わらない。自分は別に金持ちではない、中流であり金にそんなに余裕あるわけでもない
ただたまたま使わなかったかことと家族が残してくれたので余裕があったというだけである。

今年も終わりに近づいた。自分はインターネットでホームページを書き始めたのは2000年でありプログをはじめて7年すぎた。合計で14年くらい書いていた。
この7年間は家族の病気の介護やらで大変な苦労をした。回りも津浪や原発事故で混乱した。それで書くことが多かった。
ここにきて疲れたのか、または今まで書いてきたことを整理する時期になった。
ずいぶん書いたからこれをまとめる必要が出てきた。
何とか本のようにして小冊子にしてまとめたい、だからどう印刷するとか
インターネットで頼むとか考えている。
詩も膨大なものを書いたが出せなかった。
なんかすらすらと書けたのが不思議だった。
だから詩集としてまとめたいのである。
そういう整理の段階になっていてしばらくは休みになるかもしれない。
明日はまた母が施設に二日の泊まりである

あと二カ月で百歳だ・・・・・

そこまで生きるみたいが、なんだ死なないのか死ねないのか不思議になる。
百歳を生きるということがイメージできない、これから30年も生きたらどんな気分になるんだろうとかなる。
でも津浪のことも原発事故のこともわからなくなっている。
だから百歳生きてもそうなると何か生きている意識もなにかあるのかとはなる。




タグ:貧しき人

2014年11月27日

冬紅葉(新田川は浅瀬にひびく川)


冬紅葉(新田川は浅瀬にひびく川)

fuyummmm123.jpg


新田川浅瀬のひびき冬紅葉
橋一つ夕べ渡るや冬紅葉
誰が守る社一つや冬紅葉
落葉踏み社一つの謂われかな
月細く夕べい出にし冬紅葉
夕月に道一すじや冬紅葉
幾匹や夕べの森に残る虫
今日もまた老人集まり残る虫
短日や慣れ知る道を帰るかな

この辺の川は大きな川ではないから特徴がないようでもある。
新田川は浅い川であり川としては小さいから浅瀬を流れるから瀬音がする川である。
川としてそういう特徴がありそれが情緒になっている。
真野川は長い川だから川としては大きい方である。
高瀬川はダムがないから一番景勝の地だった。
そして浪江はは二つも川が流れていたから川の町でもあった。
ただ浪江は遠いのでなかなか行けないから二つの川がどういうものだったか知り得なかった
新田川はしょっちゅう行っていたから特徴がわかった。
相馬市の宇多川は何か特徴がない、川のようにも見えない、ただ宇多川の上流は源流は副霊山の方にあったのが意外だった。
川というのは源流をたずねることも必要である。川は源流を知って一つの川として認識できる。

浪江の高瀬川の奥は深い、あそこはやっぱり一番いい川である。
別にその川がなくなったわけではないけど入れないのが残念なのである。
この辺は浜通りで変化ないようでもあった。
日本の地形はどこでも複雑であり狭くてもあきないのである。
外国だったらどこまでも平坦でありただ一本川が流れているとかになり単調になる。
日本は海あり山ありで変化に富んでいるから旅してはあきない土地なのである。

今は冬紅葉の季節である。夕べ月がでていた。森には残る虫が鳴いていた。
日は短くすぐ暗くなるけど自転車でゆっくり走るのが気持いい。
道は知っているので暗くなっても危険ではない。
マウテンバイクだから安定しているから段差に強いから走り安いのである。
何か冬紅葉というと貧しい時代だったら別な諷に感じていたろう。
貧しい生活に冬紅葉が映えていた生活だった。
今は農家といっても別に貧しくないしみんな勤め人なのである。
ただこの辺は原発事故以来耕作していないから農村風景を失っているのである。

タグ:冬紅葉

2014年11月25日

冬の雨 (墓は特定の一人のことを想うことが普通である)


冬の雨


 
(墓は特定の一人のことを想うことが普通である)


冬の蝶二羽や田舎に老ゆるかな
墓一つ誰か想うや冬の雨
我が家も老々介護や冬の雨

冬の蝶というときこれも老人をイメージする。都会だとなかなか老人をイメージできない、田舎だとやはり老人がふさわしい場所だともなる。若い人はとうしても都会があっているのだ。
墓も何か自分のテーマだった。墓もやはり都会より田舎があっている。
だんだん親もしんでゆく人が多くなると墓も身近になる。
墓守になってしまうのも老人である。
だから故郷から家とか土地とか墓をもっていると離れにくくなるのである。
若いときはむしろ故郷を離れたいという気持血か強かった。
しかしだんだん人間はとしとれば定着思考に自然となってしまう。

実際ここ七年は遠くに行っていないし行けない
今年は本当に行かなかった。仙台にも一回しか行っていないのだ。
そうなると回りとか家での暮らしになる
それでも介護して家事をしていると忙しい。
家事は何を買うのかからむずかしい。
買うから楽に見えても買うことが結構手間なのである。
毎日のように通販で買っている。
車がないから通販は便利である。
なぜかというと必要なものが必ずでてくる、その時即座に調べて買えるから便利なのである。
それをこの辺では探して買うこと自体手間になるのである。

墓はやはり明治以降家族墓になったけどその墓に埋まっている家族全部を偲ぶことはない、ましてや他人だったら余計にそうなる。
江戸時代が個人墓だったように墓はもともと個人を偲ぶものだったのである。
墓も何だろうと考えるとこれせきりなくある。
墓は明らかに物体ではない、石というものが大事なのではない
死んだ人を偲ぶのが墓である。人を偲んでいるのであり墓ではない
だから母の実家の墓は墓だけ残っている。
そこに25歳で死んだとあるとき、肺病で死んだことは知っている
するとその人にんのことを墓にゆくと必ず想うのである。
家族墓として何人も想うのではなく誰か特定の一人を想うことが多いのである

俳句はともかく何か深く背景を読まないと鑑賞できない、この三句は平凡でも何か深いものがあるかもしれてい、自分で言うのもなんだが簡単なものに深いものがあった。
写生俳句は一見平凡なもの月並みのものが多いがまた何か深いものがある。
ただそれを読み込むことがかえってむずかしいのである。


タグ:冬の雨

2014年11月24日

精神的損害は金では賠償できない (原発事故でも犯罪でも他でも同じ)


 
精神的損害は金では賠償できない


(原発事故でも犯罪でも他でも同じ)



良く原発事故の精神的損害ということがこの辺では嫌というほど聞いた。
今もこの精神的損害のことで賠償金のことで原発自己周辺はもめている。
では精神的損害とは何なのか、何か抽象的である。
でも今回の事故ではこのことこそが一番の焦点となっていたのである。

30キロ圏で線引きされた母親が泣いて訴えていたことを書いた。
おじぃちゃんやおばあちゃんが畑で作った野菜を孫に食べさせることができない
米でもそうであり金で買うからその分金がかかりすぎる

このことが原発事故の精神的損害を一番象徴していた。
何も金もらって買えばいいじゃないかとなるが違っていた。
このことは実際に野菜を作っている人でないとわからないものがある。
例えれば母親が子供に愛情こめて作った弁当とか料理である。
それは単に買うというのではない、そこには母親の愛情がこもっているから違っている。それはおじぃちゃんおばあちゃんでも同じである。
苦労して作った野菜を孫においしいと食べてもらうことがうれしいのである。
そこにおじぃちゃんおばぁちゃんの愛情があり孫に伝えられてゆく
もしただ金あるからといって買って与えているだけならそうした愛情は伝わらない
それはまたその土地で故郷でとれたものを与えるということも違っている
そこに故郷からとれものを与え食するのだから故郷に愛着をもつ

だから避難した人で農家の人はそうした一番愛着が故郷にあるだろうと思った
ただ最近はみんな何でも買って生活しているからそうしたものが失われていた
お袋の味なども喪失していた。
だから原発事故で特別起きたということでもなかった。
ても一番の精神的損害がこういうところにあった
それは飯館村でも孫に飯館村で作った野菜を子供に孫に食べてくれと与えたか
親は捨てたということでも象徴されていたのである。
自分も介護していてそもそも食欲ない人に食べさせてているからうまいとは言わないことは淋しいとなる。
ただディサービスに出た料理はおいしいと珍しく言っていたのである。
自分で作って与えるということは与えられているだけとは違ったものとなる。

いづれにしろこうしたことが一番の精神的損害でありこれは金では補償できないことがわかった。家族か実際に離ればなれになっただけではない、心までばらばらになりつながりを失ってしまった。それは原発事故だけではない、その前から社会的にあった現象だったが事故でこの辺は極端化したものとして現れたのである。
つまり何でも金があるからといって愛情は伝わらない、そういうことは現代社会の問題として露骨に現れていた。

ともかく原発事故だけではない、そもそも精神的損害は金では償いないものがあった。
例えば犯罪で傷ついた人はいくら補償金をもらってもその心がいやされない
家族が殺されたりまた女性なら強姦されたとかまた様々な酷い犯罪の犠牲者は金で補償されてもいやされることがない、精神的損害というのは消えないしいやされないのである。確かに金で解決すものもあるが人を信用していたのに裏切られたということなどの精神的損害は消えることがない、こんなに信用して対処していたのに裏切られたことなどは人間不信になってしまう。そういうことを二回も経験したから人間を信用することができないものと痛切に思った。
ところがそうして相手を傷つけた人はさほど相手に与えた精神的損害を考えない
たいしたことじゃないと思っているのである。反省すらしない人だっていくらでもいる。罪を許せというときそこまでに至るには相当な時間と紆余曲折した感情の問題がわだかまり残る。家族を殺されたりした人はそんな簡単に許す気持ちにはなれないのである。
傷つけられ人はその心はいやされない、金でもいやされない、金で解決したとしてもそれでいやされることはない、そのことは原発事故にも通じていたのである。

ただ原発事故の補償金問題は具体的に補償されるのは金しかないから訴える。
でもまた金だけでいやされない、償いないものが残る。
それを象徴していたのがおじぃちゃんやおばぁちゃんが作った野菜を孫に食べてもらえないということだったのである。
その傷が深く大きく長引くし金でも償いないものがあったのだ。
それをもたらしたものは何か、そこまで考えるのは被害者しかないだろう。
では加害者は一体誰なのかとなると戦争の時と同じくむずかしくなる
地元の人も恩恵受けて原発を積極的に受け入れたじゃないかとも言われる。
漁師は漁業権を楯に多額の補償金をもらったではないか、今ももらっているじゃないかとか言われる
おじぃちゃんやおばぁちゃんの世代が原発を誘致したのだから責任があるともなる

いづれにしろ原発事故周辺は内部でも亀裂が生じてばらばらになり家族もばらばらになりつながりを失った。そういう精神的損害は簡単には修復できない、それはいつまでも残ってしまう。ただ具体的に金しかないから金をくれとなる。
でもそうなるとまた外からはお前たちにも責任がありそんなに国の税金にたかるなとか言われるのである。
とにかく別に限発事故でなくても普通の生活で人間は深刻な精神的損害を受ける。
犯罪は日常的に起きているしそうして精神的損害を受けたからと償えることは少ないだろう。加害者はそんな精神的損害まで深く考えなのである。
東電の人も考えない、だから東電の人も原発事故周辺に住んでみて同じ経験するばいいとなる。その痛みを共有すればわかるとなる。
すべてが金では解決しないのである。かえって金で解決しようととすると傷が深くなるということも犯罪ではある。
ただ鹿島区などは補償金が少なかった。原町区が25カ月分だとして鹿島区は一人十万で7ケ月分しかもらっていない、その差は大きかった。
だから客観的に見れるという立場にもあった。お前らも多額な補償金もらっているじゃないかとなるとあまり言えなくなる。小高や原町はそうなっている。
確かに不満を言っているが鹿島区とは違うし他の相馬市でも不満が大きいのである。
鹿島区だと客観的になり発言しやすい立場にあったともなる
自分もそういうことで発言しやすいから正直な心で発言してきたのである。


タグ:精神的損害
posted by 老鶯 at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年11月23日

南相馬市鹿島区で開かれた東電に聞く会 (30キロで線引きしたことの不満が爆発)


南相馬市鹿島区で開かれた東電に聞く会


(30キロで線引きしたことの不満が爆発)


minamisomaaa11134.jpg

gennpatyyyy123.jpg

gennpatyyyy1234445.jpg
クリック拡大


新しくできた交流センターで開かれた東電に聞く会に出席した。
だいだい自分が思っていたことをあからさまに東電にぶつけていた。
ただ出席した人は老人が9割くらいいた。
ただ子供をもっている女性の発言が印象的だった。
なぜならその女性は泣きながら訴えていたからである。
川子か塩崎辺りに住んでいる女性だった。
夫が家族と離れて外で働いていて家族が分離してしまった。
それなのに高速も無料化されていない
同じ学校に通っているのにもらっている子供ともらえない子供がいる。
川子とか塩崎は30キロの線引きがされたので隣でもらっているのに
自分はもらえないとか前から不満が大きかった。
高速料金にこだわっているのは夫とも離ればなれになったからである。
その交通費が車代がガソリン代がかかるからそういった。

結局一番の焦点はなぜ30キロ圏内と圏外で線引きされたのか?


そのことを東電の人に強く問い正しても東電では正直どこかで線引きしなければないと言っていた。
ある人は80キロで線引きすれば良かったのだとも言っていた。
そしてこれは南相馬市をばらばらにしていがみあいさせて賠償金を少なくするための東電と政府の策略だったとも怒って言っていた。
それは前も自分が書いていたがそれをあからさまに東電に向かってしかりつけるように言っていた。
それはわかっていたのだが今回さらになぜ30キロ圏で線引きしたのか?
盛んに鹿島の市役所のモニタリングポストの方が小高や原町より放射線量が高いと言っていた。放射線量から決めるならこれも変だとなる。
結局なんで30キロで線引きしたのか?

そして原町がなぜ25カ月分一人十万で鹿島区は7カ月分しかないのか?

このことは本当にどうして決められたのか?
これは南相馬市を分断して補償金の要求をおさえるためだった
小高と原町は高くすれば多数決で鹿島区はおさえられると東電で見込んだのである
原町区の人も出席していたが一番の不満は鹿島区の人たちがなぜ差別されたかということであった。
原町区の人も確かに今でも賠償金が払われていないということがあり不満をぶつけていたそれでもやはり25カ月分ももらえれば原町区は人口が多いからここの不満をおさえれば
鹿島区もおさえられると見込んだから原町区には25ケ月分を払った。
その分鹿島区を低くおさえたのである。原町区にそれだけ払えば鹿島区は低くせざるを得ない、そして南相馬市全体では一致して東電でも政府にも抗議できないからである。

この会を主催したのは共産党だったのか、二人の共産党議員が出席して司会役もしていた東電に補償を求める会も結成されている。
ただ結局何度も社長なり部長なり課長なりを出して賠償を約束しろと問いただしても
また実際に東電の会社に行って社長に部長に言って賠償を約束しろと言ってもとりあわないと言っていた。
この会でいくら不満をぶつけても結局何も解決できない
司会の人も裁判するほかないから協力してくださいととも言っていた。
なぜ東電の社長や部長や幹部がでてきて謝らないのかとも問い正した
しかしそもそも前の会長や社長や部長は海外の東電の子会社で何の罪になることもない、罰せられることもない、前と変わらない優遇された生活を海外でしているとされるのである。検察も動かないし罰せられない、だから謝りもしないのである。
要するに戦争と同じく国の犯罪だからそなっているのである。
誰も前の戦争でも謝る人などいないからである。

そして盛んに因果関係があることが被害者で証明してくれれば補償する
その因果関係をどうして被害者が証明しなければならないんだと問い詰めた
因果関係を証明するのは東電だろうと問いつめた。
「放射能の影響はありません」と証明するのは東電なのである。
そんなことを被害者が説明できるわけがないのである。
ともかく定期的にこうした会を開く被害者の声を聞くべきだと訴えた。
ただこれも東電が不満を聞きガスぬきするだけで何ら肝心の補償は実行されない
たからこんな会開いても無駄だとなる。
何か効力が発するのは裁判であり浪江でも東電が罰せられるべきだと裁判にしているが
それも国もかかわり検察すらかかわっているのだからできない

要するに最後は補償金の問題になる。
それ以外精神的損害でも何でも補償できるものが具体的にないからである。
高速料金で30キロと30キロ圏外とかで差別するのはひどいと泣いて訴えていた女性がいたようにそういう差別するのは本当に腹ただしい
でも結局東電の人が線引きせざるを得ないとと正直に言っていたように
割りを食ったのは30キロ圏外であり南相馬市なら鹿島区だったのである。
80キロで線引きしろというとき相馬市も実際放射線量では変わらない
市内で計ったら0・5もあった、これも高いなと思った。
だから相馬市でも相当に不満なのである。
福島県内でも別に福島市なら南相馬市よりずっと高い放射線量の所があっても補償はない
その不満がまた福島県内でも分断する要因になっているのだ。


あとがき

原町区の人も半分くらい参加していたようだ。
原町の人も払われないで不満の人がいる
ただ原町区と鹿島区の人が協力しにくいということがある
それが一致できないことであり強力に東電に要求できなくさせている

タグ:東電補償金
posted by 老鶯 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年11月21日

アメリカは景気がいいの? (グローバル経済は理解できない、でも今は金がアメリカに流れている)


アメリカは景気がいいの?


(グローバル経済は理解できない、でも今は金がアメリカに流れている)


170億円って、一生使い切れないですよね。

cis:いや、そんなことはないですよ。去年の生活費は、家賃など3000万円、みんなで飲食1億1000万円、個別で飲食1億3000万円、夜の飲み代1000万、ワイン購入5000万円、その他雑費5000万円で、だいたい4億円弱でした。使おうと思ったら使えるものです(笑)。ただ、稼げてない今年は、家賃など3000万円、みんなで飲食4500万円、個別飲食3000万円、ワイン購入1000万円、夜の飲み代1000万円、その他雑費3000万円で、1億5000万円くらいに抑えようとしてます。資産や収入に対して僕は一生稼ぎがなくても暮らせるペースでしか使ってないから、すごく倹約してるほうですね(笑)。これで200歳まで生きても大丈夫ですよ!


こんな生活している人が現代にいることが信じられないだろう。こういう人は田舎にはいない、いても住んでいられないだろう。田舎は何か何でも平等にしようとする。
目立つことができない、確かに金持ちはいても金がないようにもふるまわないといけないこんな桁外れの金持ちなどは住めない、よってたかってきて金くれとなって殺されるかもしれない。
田舎では一億もっていたら大金持ちだろう。公務員とかはそういう人がいてもこれだけの金を使う人は想像すらできないだろう。その差があまりにも大きすぎるからだ。
最低の人は毎日千円貸した返さないとかでもめている。東京だってそういう人が結構いるだろう。そうするとこれは何なのだとなる。


そもそも株は何なのだとなる。そういう自分も株に興味をもったのは株をもっていたからである。するとどうしても株に興味がててくるしどうして株があがるのだろとか下がるのだろうとか考える。それも自分に直接影響するから考える。
世界情勢に興味をもつのは実に利己的なものだなと思った。
自分がもうかるから世界情勢を見て株が揚がるうになるといいなと思う。
それは平和を願うのとは違う、どこかで戦争があったり災害があると株が日本でも外国でも下がるから自分が困るからそう思うようになった。
こういうことはグスローバルで普通に起きている。
中国と戦争になったら日本でも中国でも大損害になる時代である。
鎖国時代とは違うからどっちにとっても相互に経済で結びついているからそう思うようになる。だからすぐに戦争になりにくいのである。

そしてなぜ今アメリカが景気が良くなって株が上がっているのか?
ええ、アメリカってそんなに景気がいいのかというのがわからない。
なぜならたリーマンショックとかなったりしてアメリカが世界恐慌の引き金を引いたようなときがあったのは最近でもあるからだ。
だから今はこんなに景気がいいのか?それも変だ、わからないとなる。
何かまた級に下落するのかという不安がある。
日本の株も無理して上げているのを感じるからアベノミックスは失敗するだろう。
ではアメリカはどうなのだろうとなる。

アメリカに依存していればアメリカが傾いたら自分も一緒にやられます。
まして、アメリカの選挙権を持っていないのですから、自分の会社の運命はアメリカ人任せと言うことです。


こういうこともそうなのか?経済でもグローバル化するとそうした判断もなかなかできない。でもアメリカが景気がよければアメリカに物が売れとシチズンでも時計を売るためにアメリカにまた店をもち売ろうとする。アメリカという巨大市場があって日本の製品も売れて日本は高度成長できたのである。戦争では負けたが経済では負けないとかなっていたそれがバブルがはじけて日本はその誇りも高度成長も終わったのである。
明治時代から内村鑑三などはアメリカに留学したがアメリカは金しかない、金がすべてだとアメリカを嫌って日本に帰ってきた。アメリカをまねるべきではないと言っていた。
戦争に負けてアメリカ一辺倒になったとき日本も金だけを求めるものとなって日本人のもっていたモラルもなにもなくなった。内村鑑三の時代はまだ武士道などがあった。
ただその武士道というのも江戸時代の継続としてあったものであり武士道がなにかなど今になるとわかりえようがないものである。
明治時代は江戸時代の継続があったから日本文化の継続もあり魅力のある時代であった。漢詩が一番盛んになったのが明治時代だったということでもわかる。
明治時代は江戸時代三百年で培われていたものが生き続けていて日本が新しく作られていたのである。

アメリカに依存していれば・・・というのは何も経済だけではない、モラルとか文化の面でも日本はアメリカとともに腐敗して豊かになってもアメリカのよう人心は乱れる。
だからアメリカで起きることが日本で起きるというのもそのためである。
日本ではそんなことが起こらないよなとかいうことが実際は起きている。
田舎では東京のような残酷な事件は起きないよなというのも今はない。
田舎も東京であれ大都会と同じ信じられない残酷な事件が起きている。

いづれにしろ170億を株で得てそれを使う人がいるのだから信じられない。家賃が3000万の所があるのかというのも東京にあるのこと自体驚きである。普通はワンルームマンションとかに住んでいる貧乏人のことばかり紹介されているからそうなる。
特別金持ちの人はほとんど紹介ささないからみんな貧乏だなと比べて安心することもあるだからこういう人がいること自体何なのだろうとなる。
汗水垂らしてもわずかの収入しか得られない人が無数にいるからである。
テレビでも紹介されるのはそういう人ばかりである。


そもそも金が何なのかということ自体がわからない、巨額の金になると実感できないのである。ただ金は使っているとき実感できる。お手伝いさんに一時間ばかり手伝ってもらって二千円とか三千円とか払ったとき毎日払うから高いなと思った。
ところが百万とかの金を計算すると実感できないのである。一年で百万とか計算すると実感できなくなる。もちろん自分の生活はまず貧乏人の生活だったからそうなる。
貧乏人は金持ちになっても貧乏性からぬけられないのである。
人間はあることが習慣化するとぬけられないことが怖いのである。
金があって浪費癖がある人もそうでありそういう生活が習慣化したらぬけられない、麻薬でも酒でも何でも習慣化すると改めることがむずかしくなるのだ。


とにかくグローバル化経済というのは人間の実感することからかけ離れている。だから個人的には判断もなにもできない、そして突然リーマンショックのようなことが起きてくるから怖い。そもそも紙幣をすったり金をただ右から左と流して景気が良くなったり豊かにはならない。新しい資源が発見されたり何か景気が良くなる具体的なものが生まれない限り豊かにならない。
だからアベノミックスは疑問になるのだ。
ただ金は使ってみないとその金が何なのかわからないのである。
ちょっと家のことを手伝ってもらうのも金を払うことだからそこから金を具体的に実感する。今は自分の家を情報基地にしようとして金を使っている。
それは車を買うより安くできる。
そして発信するために本などは金を気にしないで買って参考にしている。
百億円使ってもいいよというとき何に使うのか問題になる。
家に使わないとしたら何に使いそれがみんなのためになるのかとなる。
つぐつぐこんな人にこんな巨額の金か入ること自体間違っている。
何かそこで生み出すものがあればいいが何も生み出さない、まさに消費するだけであり生産しないからである。
結局人間は何かを提供するかがその人の価値を決める。株でこれだけもうけても何も提供しないのである。金はただ消尽されるだけだとなる。



posted by 老鶯 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬薔薇 (写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)



冬薔薇

(写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)


rosewinnn1212123.jpg

冬薔薇我のみ見てや散りにけり
冬薔薇三輪ほどが散りしまま
冬薔薇しきりに風に吹かれをり
冬薔薇白き清楚の聖衣かな
冬の空大地の広く石一つ
我が家の二階の広く鳶の舞ふ
墓の前今日もまた通り冬椿
冬日さし鬼風の碑の隣かな
見張り塔シエナの裏道冬の暮

俳句は写生だというとき、薔薇が咲いているのを毎日通るから見ている。
白い薔薇か咲いているのは空家なのである。
そこはすでに十年くらい空家なのだけど荒れた感じはしない
誰かが戻ってきて手入れしているのだろう。
それにしてもいつまで空家のままなのだろうかとなる。
今は家が不足しているからこの辺では売れるはずだからである。

自分のみがみて冬薔薇は散りその薔薇が散ったまま残っていた。
見るというときsee、look、watchがあるがwatchingが写生である。
定点観察で見続けるのが写生である。
冬薔薇が咲いている、何輪か咲いている、一輪散った、二輪散った・・
その散った花がそっくり散ったままだったとかな見続けるのが写生である。
それはなんでもないのだけど何か深いものが写生から生まれているのである。
だから写生そのものが俳句芸術の基本になる。

自分は何か人とつきあうより何もない所に石のように黙っているのが性分として合っている。それは母の性格とにている。人といるだけで疲れるということがある。
だから付き合いがないのはそういう性分なのである。
母も何か人付き合いが苦手だしじっとしているのか向いている性格である。
だからそれは何か他から見ると人も寄りつけないというふうに見える。
ただ冷たいというのではなくそういう性分なのである。

鬼風の碑が隣にあるということが不思議である。
会ってもいないしどんな人かもわからないが何か近くそういう人がいてその碑があることが何かいるような感じになるから不思議である。
ここにもこんな人いたのか、自分ともにているなと思うから不思議である。
それは俳句を残したことや江戸時代に全国を旅していたということで親近感を覚える。
ただこの人は恵まれていたというのも自分とにている。
自分より恵まれていたと思う。江戸時代には俳句を作るとか旅するだけで相当に恵まれていた。

詩人がいたとしても戦前でもみんな貧乏であり生活に追われ悲惨なものとして終わっている。詩を書いても金にはならないからである。
その恵まれていたということはこの人に関しては貧乏で苦しんだとか語る必要はないし
お前は恵まれているとかも言われないともなる。
だからこの人の墓に冬の日がさしているときそこから不遇だったことは語られない。
一茶などとも全然違っていた。
ただそんな恵まれていた人が東北の辺鄙な村に町にいたということが不思議なのである。それでも商人の家なら江戸時代でもこんな片田舎でも恵まれていた人がいたということである。
タグ:冬薔薇

2014年11月20日

相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか? (熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)


相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか?


(熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)

●立谷氏は熊野水軍、渡辺氏や天野氏は伊豆水軍の系統

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。

Posted by tachiyafamily at 20:06 │Comments(0) │TrackBack(0)
2004年12月25日
立谷家ル―ツ Vol.2
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった
 http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html
 
 
 天野氏(あまのし、あまのうじ)は日本の氏族、藤原南家工藤氏の一族(藤原北家の一族足立遠元を祖とするとも)で、伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)に居住した地名を取って天野と称した。天野氏は後に遠江守護となった今川氏と結び、国人勢力として遠江にて共に力を拡大した。遠江国のほか、天野氏の支流が駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に繁延している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F

その先祖渡辺喜兵衛は伊豆の舟大将として、徳川家康の信任厚く護送役人をつとめた。
豊臣家5大老のひとり宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島へ流された際、護送の任にあたったのもこのひと。
http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=761&-find

長浜城址

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました
http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm


熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html

 
●古代から熊野、伊豆水軍は知られていた
 
島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船
 
 柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌。
 
万葉集には熊野の船と特定して四首がある。熊野の船がどういうものかわからないにしろ熊野の船は奈良時代にすでに知られていたのである。
熊野は地形的に海に迫って山があるから山には楠の木などの造船に適した木があり造船が盛んになっていた。
この地形は伊豆と相似形であり伊豆も造船の基地として古くからあった。

 [五年]冬十月に、伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)なり。船既に成りて、試に海に浮くるに、便ち軽く泛び疾く行くこと馳するが如し。故、其の船に名(なづ)けて枯野(からの)と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是、義(ことわり)違へり。若し軽野と謂へるを後人(のちのひと)訛(よこなま)れるか。(応神紀)
 三十一年の秋八月に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「官船(みやけのふね)、枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用(おほやけもの)と為りて、功(いさをし)忘るべからず。何ぞ、其の船の名を絶へずして、後葉(のちのよ)に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其の船の材(き)を取り、薪として塩に焼かしむ。是に五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ひ、因りて船に造らしむ

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
(巻20/4460)


古代から海に囲まれた日本だから船の技術が発達していても不思議はない、でも海の歴史はわかりにくい。遺跡としても残りにくいからわかりにくくなる。そしていたるところで洪水であれ今回のような津浪であれ栄えた港自体が消滅しているのがかなりあるのだ。
相馬藩内から黒潮が流れる海岸一帯には熊野信仰が本当に多い。なぜこんなにあるのだろうかというくらい多いのである。そのこと自体が熊野信仰をもたらした人々が相当数いた結果なのである。

相馬氏は千葉氏から出て千葉県から移動してきたとしても鎌倉時代に関東武士団が東北に移住したことから鎌倉武士団の姓が東北に移動して広まった。鎌倉時代にさかのぼる姓が東北では一番古いとなるしそこまでは史実的にもたどれるのである。
南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉時代に烏崎に船で到達したという伝説がある。
その時船運は相当に発達していたのである。だから戦国時代は伊豆の海、相模の海、駿河湾で北条氏などや武田水軍までが交わり熾烈な海上での水軍の三つ巴四つ巴の激しい戦いがあったのである。海上の派遣争いがあった。それだけの戦いをするには相当な船の技術がなければできない。
熊野水軍、伊豆水軍などはそれだけの力を古代からもっていたのである。

だから相馬藩内にはとにかく鈴木とか渡辺とかが多い。これは全国的にそうでも相馬藩内では目立った姓であり主な姓になる。それは熊野伊豆などの水軍の系統につながるものであった。
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 

鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった.
 

だからこれなどは興味深い、義経は山伏とか水軍関係の人たち、この人達は村上水軍で知られるように元は海賊だったのである。水軍の元はバトイキングでもイギリスの海軍でも海賊だった。そういう人たちが義経臣下になっていた。だから頼朝に追われるときも黒潮の流れる関東から常陸から東北へ逃れたという説もでてくる。
黒潮海流は船には大きな影響を及ぼしていた。だから黒潮文化圏が熊野から東北まで海岸地帯に生まれた。それは奇しくも今回の津浪の被害地域と一致していたのである。
ただこの海流は船に乗ってみないとわかりにくい、船が山を目印にして航海していたというのも乗ってみないとわかりにくい。つまり海とか船が理解しにくいのは自ら体験できないからである。陸地だったらある程度体験できるが海は船は体験しにくいから船のことがわかりにくいのである。
鎌倉時代から南北朝時代も畠山氏も水軍を司る氏であったり深く海と関係した氏族だったのである。だから鎌倉時代から南北朝時代は海からの視点がないと解読できないのであるただ港は一時栄えても跡形もなく消えてしまうことがある。
それが今回の津浪で証明された驚きであった。

●相馬氏にとって慶長津浪は支配地域を広げる契機となって中村に城を移した

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
murakamiiii1222.jpg

murakamiiii1.jpg

これだけ舟のことがでていて村上ニというのが記されている。村上ということに相当にこだわっていたのである。村上に小高から城を移そうとしたのは単なる思いつきではない、明確な意志があって村上に城を建てようとした。
そして中世に塚原には大きな港があり蔵院まであった。それだけの船が集まる港だった。海運で栄えていたのである。
つまり明らかに村上は小高い丘であり
長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm

この長浜城と同じ機能を有する場所として明確な意志でもって選定されたのである。
小高には街中にも貴布船神社があり村上にも祭られている。これは船の神を祭ることでもあり小高が浮船城と言われたのも船と関係していたのである。
小高だけではない、八沢浦も天然の良港であり船運があった。
海老村には天野氏がいてこの天野氏は伊豆水軍の末裔なのである。
何を運んだかというと重に塩を運んだ。当時は塩が貴重であり塩がすでにかなり作られていて運ばれていたのである。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く (南海老村)

七荷を運ぶ大きな船が出入りしていたのである。これは磯部でもそうであり原町の泉氏も海運を担って力をもっていたのである。

ではなぜそうした港が栄えていたことが忘れられたのか?

それが津浪と関係していた。津浪で今回のように小高が甚大な被害があったことでもわかる。津浪が来た所はもともと海で港だった。そこに多数の船が停泊していた。
それが慶長津浪で壊滅したのである。
それが契機となって相馬市前の中村に城を慶長津浪の一カ月後移したのである。
そんな大事件をなぜ一行しか記されなかったのは謎である。
相馬氏進出の経路で解明したように相馬地方は最初は鎌倉から鹿島区の烏崎に船できたといわれる岩松氏が支配していた。それは原町の新田とかも支配していた。
そのあとに入ってきたのが相馬氏だった。

今の鹿島区は北郷となっていてそこは単に小高より北というだけではない、そこは別な勢力があり支配できなかったのである。 原町の泉氏の支配していた地域もそうである。
かや浜とかしふさ(しぶさ)までは進出しても泉までは入っていないのである。
慶長津浪によってそうした旧勢力が大打撃を受けて相馬氏は旧勢力を支配しやすくなった。だから一カ月に中村に城を移したのである。
相馬氏の進出にとって津浪はかえって支配地域を拡大するのに都合がいいとまでなっていたのである。
だから津浪の復興のために公共事業のために中村に城を移したことはありえないのである。


izuuuu123.jpg

この本は面白い、伊豆水軍は東北にも関係していた

wavesssss123.jpg

これは水軍の紋章にもなる


タグ:相馬藩の湊

2014年11月19日

野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性 (ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)


野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性


(ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)

P1020362-thumb-250x356[1].jpg

noma111111.jpg

inoshishi1.jpg

treee12345.jpg

この山は苗字をとったものである

namigashiraaa11.jpg
こういう波頭の旗印も野馬追いにあった

hannsenn1.jpg

これは明らかに水運か海運と関係していた
船としては小さい


Aquila ワシ
Bruco 毛虫(カイコ)
Chiocciola かたつむり
Civetta ふくろう
Drago 竜
Graffa キリン
Istrice はりねずみ
Leocorno ユニコーン
Lupa オオカミ
Montone ひつじ
Nicchio 貝
Oca がちょう
Onda 波(マスコットはイルカ)
Pantera 豹
Selva 森(マスコットはサイ)
Tartuca 亀
Torre 塔(マスコットはゾウ)

wavesssss123.jpg
自作の海の紋章


たとえば、「カイコ」さんチームは、昔、絹の生産者の集まりだったとか、

13世紀ごろ、シエナの勢力範囲は、海側のグロッセートから、
山側のアレッツオまでと、トスカーナの広域にわたっており、
中世自由都市として繁栄し、コントラーダも42あったそうです。
それが、14世紀のペストの流行で人口が大幅に減少し、
シエナの勢力も領地も縮小し、コントラーダも23になってしまいました。
そして、16世紀中ごろには、自由都市の終焉を向かえ、
フィレンツェの支配下に入ります。
時代の流れとともに、しだいに有力なコントラーダが、弱いコントラーダを
吸収合併して、18世紀に、現在の17コントラーダになったそうです。
「波」のコントラーダは昔、海に面した領地のなごりだそう。

コントラーダは「家」に所属するのではなく、「どこで生まれたか」に
よって決まるそうです。
http://gogosiena.exblog.jp/11524726/


封建制があったのはヨーロッパと日本だけである。他にはないから歴史的に共通している小さな城がヨーロッパには多い。それが日本とにている。騎士がいて武士がいるのもにている。だからヨーロッパの歴史は日本の歴史と共通性がありその比較研究がしやすいのである。ただヨーロッパは中世でも大陸だし交通が地中海などでも盛んだから外国の文化が入りやすくそれがヨーロッパを作り出した要因である。
ルネサンスはそうしたイスラムとかでも外国の文化を取り入れることによって成し遂げられた。
ギリシャから発展してイスラム文化も融合していたのである。イスラムとは争っていても文化も入ってきたのである。例えば数学でもアラビアから代数を取り入れたとかいろいろな学問も入ってきた。ギリシャの文献がイスラムで翻訳されたのとしてまずヨーロッパに入ってきたのである。

ヨーロッパを形成したのはローマ帝国でありキリスト教である。ローマ教会がヨーロッパを支配することにもなった。教会はカトリックによって政治化しているから支配地域が教区に無数に別れた。コントラードの起源もそうした教区と関係もしている。
ただ自由都市というときそれが一つの独立した都市国家なのだから城壁で囲み都市として防備されていた。
絶えず他から攻められることを恐れているから城壁をめぐらして小高い丘に城を作り城下町を形成した。その路地も細く攻めにくいのは日本の升形とか細い路地で見通しを悪くしたのとかにている。
橋にしてもそうである。橋をかけるとそこから敵が入りやすくなるから日本でも橋は作らず江戸時代でも川を人を担いでわたっていた。大きな橋を造れないこともあったが防衛のためにも橋を造らないこともあった。
ヨーロッパの橋は石であり頑丈であり橋を渡ると門があり市内に入る。
橋は市の一つのシンポルとなる。また川はヨーロッパでも中国でも運河のうよになっていた船での交通が盛んであった。川が交通路となり商業が盛んになったのがヨーロッパの都市でありその川の故にヨーロッパが栄えたということもある。
ライン川にして川で結ばれた都市があった。都市は川の近くに教会があり市場があり川と直結していたのである。


ヨーロッパの中世に親近感を覚えるのは日本の歴史とにているからである。一見かなり違ったように見えてもいたるところに小さな城があることがにている。そして相馬野馬追いと共通していることが興味深いのだ。ヨーロッパの中世は様々な紋章が発達したし騎士の時代でもあった。それは侍の時代があった日本とにているのである。ヨーロッパにも旗祭りがあり野馬追いも旗祭りとあるように3000もの旗の種類があることには驚く。
なぜこれほどの旗の種類があるのか謎になっている。
野馬追いの旗印は村々の旗ではない、地域の旗ではない、家系で伝えられた旗であり相馬氏一族関係の旗だともなるがそれが千葉氏とも関係していたりその由来は関西までたどることになるから複雑であり由来が解明できないのだ。
地域で同系統の旗が生まれたときはそれは親戚関係などで同系統の旗が生まれた。
だから野馬追いの旗は村々の地区の旗ではないことがこのシエナのコントラーダの紋章や旗とは違っている。


名誉の鉾先、雄々しき系図
勇気に魅せられた獅子の心
騎士の華、フランスの栄光
勝者にして果敢なる戦士
心賢く事にあたって、あやまたず

ではなぜこんなに多様な紋章が生まれているのか?それはそもそもヨーロッパの歴史はイタリアならろローマからはじまっている。するとローマはアフリカまで支配していてそこには象がいて象をコロッセウムで戦わせたりした。ライオンでも豹でも戦わせていた。
アソリカとローマ時代から関係していたからそうした動物もなじみだったるきである。
現実にカルタゴのハンニバルは象の軍団を率いてアルプスを越えてきて恐れさせたことでもわかる。
このコントラーダの紋様はそうしたヨーロッパのイタリアの長い歴史から生まれているのだ。野馬追いも戦国時代から生まれているから長い歴史があるからその由来が不明になっているのである。
ただ根本的な相違はコントラーダ(地区)の旗印だったことである。都市を守るための一つの軍事的役割もあったのかもしれない、馬を飼うことも重要視されていたことでもわかる騎士と馬も一体であるのは野馬追いでも同じだからである。

日本とヨーロッパの封建制でわかりにくいのはヨーロッパが自由独立都市国家があったことである。日本にはそれがなかったから理解しにくいのである。
自由都市国家があってヨーロッパの文明がありえたのである。

civilizationとは

文明とは civilization の語源 civitas (都市、国家、都市国家)に由来し、同系統の言葉として city (都市)やcitizen (市民) civil (市民の、公民の)があります


このことであるから日本にはその都市がなかったのだから自治都市の歴史がないからそこにヨーロッパ文明を取り入れてもその基本になるものがないから文明化しえたないものとなる。それは中国でもそうであり都市国家から由来して作られたものがないからヨーロッパ文明全体を理解しにくいし取り入れても実際はその本質的なものは取り入れられなかったのである。

コントラーダの紋章をみると野馬追いの旗と共通したものがある。波模様の旗があり
森の紋章があるがこれも木の旗印がある。勇ましい動物の旗印はヨーロッパの特徴である野馬追いでもイノシシとかが良く旗印にあるから共通している。また鹿の角を模した兜もあり共通している。ユニコーンなどはギリシャ神話から入ってきている。
中世の森には狼もいたし日本でもいた。飯館村の佐須村の山津見神社は狼を祭っているのである。
中世では森は食料を得る場所でありそれは狩猟時代や採集時代の継続があった。
そこには狼もいた。毛虫はカイコで絹織物の生産を象徴していたとなるとこれも日本でもそうだったからわかりやすい。羊もわかりやすい。その他の動物はアフリカ由来だけどこれもローマ時代からなじみの動物だったのである。
貝は海側と関係していたというがイタリアは海に囲まれているから珍しくない。

相馬でも海と関係していたがもともと相馬氏は海とはか関係していない出自であるが
意外と中世は海運が盛んであったこともある。相馬氏には海運に従事していた人たちもいた。だから小高には港があり船が相当に出入りしていたのである。
コントラーダにも歴史がありペストの猛威で半分に消滅したとかこれは津浪でこの辺の村がいくつも村ごと消滅したことともにている。一つの街の歴史はそうした重層的になっていてこれを理解するのは容易ではない、ヨーロッパはローマ時代からの歴史があるから軽く2000年前にさかのぼるからちょっと一回行ったくらいでは理解しにくいのである。
ただ理解するとしたら日本との比較で理解するという方法が親しみやすいとなる。

briggggg123.jpg

川で洗濯して橋の門から市街へ入る


briggggg12344445.jpg




タグ:野馬追い
posted by 老鶯 at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2014年11月18日

人間は何に労力を費やしたかで見る文明論 (超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)


人間は何に労力を費やしたかで見る文明論


(超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)

●技術から見る歴史はわかりやすい

歴史の見方はいろいろある。一つの見方などない。だからそれぞれの分野で異なった見方をしている。人間は道具を作るものであるとか言うのも一面の見方である。それは技術の発展が深く関係しているから理系的に科学的なものとして見る。
例えば弥生時代から古墳時代とか奈良時代でもノコギリが確かにあったのだが一般には使用されていない。
石斧とかは縄文時代からあるし石刀とかもあるがノコギリがなかった。
ノコギリがないということは同じ寸法に木が切れないのだから家も建てられない。
奈良時代は法隆寺とか五重の塔をすでに建てていたのだからノコギリも使用したていた。ただ一般的には使用されていなかった。ノコギリが普及したのはかなり後の時代だった。そういう技術的な面から歴史を見るのも歴史の大きな見方である。

中世で城壁が無用となったのは大砲が発明されたとかが原因であった。
信長が鉄砲を利用して天下を制したとか技術的側面から歴史を見るのは何かわかりやすい一方で歴史は複雑であり様々な要素がからみあっていて歴史とは何かは一つの答えはない
歴史はその人の専門家でもみんな見方が違う、それぞれの個々人の関心から歴史を見るとしたら無数の見方があることになる。
歴史は絶対に決まった見方はない、マルクス主義がもてはされたのは経済を階級という視点から見たものでありそれが歴史を明確に説くものとしてわかりやすいからもてはやされた。でもそれも一つの見方に過ぎなかったのである。
歴史はあまりにも多様であり人間の過去に生きた集積だとしたらそれを一つの見方として解析などできないのである。
ただあらゆるものに歴史がある。

例えば墓にも歴史がありこれも不思議なのである。
江戸時代には個人墓であり夫婦墓が主である。それが明治時代になると一家の家族の墓になる。それは江戸時代前まではなかった。
ではなぜそうなったのか?それは明治になり国家から強制されたものであった。
だから家族墓というのは歴史的に見たら新しく不自然なものだとさえなる。
個人墓とか夫婦墓はかえって理解しやすい、自分の名前を墓に刻むことは残すことは庶民にとって誇らしいことだったからである。侍は苗字があっても庶民にはなかったからである。夫婦墓というのもその結合の深さから理解できる。
ただ家族墓となるのこれは明治以降であり新しいものだから本当は理解しにくい。
また家族墓になる必然性もなかったのである。
何でもこうして歴史的にふりかえると見えてくるものがあるから歴史の研究は欠かせないのである。

●歴史を建造物から見るのもわかり安い

今回歴史の一つの見方として人間は何に時代時代に労力を費やしたかで見るのもかりやすい。ピラミッドをなぜ作ったのか?あんな巨大なものを膨大な労力を費やして作ったのか?それが今になると不明になっている。王の墓だというのは近年否定されている。
つまり王の権力の象徴として作られたのではなく庶民も積極的に参加して作り上げた。
自主的な民衆の支持があって作られたという説も有力になっている。
一つの宗教的建造物だったという説もある。何か信仰の対象だったというのも理解しやすい。あれだけのものに費やした労力はやはり王の権力だけでは作れないからそう見るようになるのも理解できるのである。
明確な理由はわからないにしろエジプト文明はピラミッド建設にその労力を費やされた文明だったともなる。
そういう建造物、建築関係から歴史を見るのもわかりやすいのである。


ローマは公共の建築に力を入れた。またコロッセウムとか競技場にその労力を費やした。未だにそうした建築物はヨーロッパに石の建造物だから残っている。
もう一つは道を作ることにその労力が費やされたともなる。それは道によってローマ帝国の支配権を確立するためたったのである。
次に中世はキリスト教の聖堂に民衆の労力が費やされた。それはヨーロッパ行けばいたるところ大聖堂が残っている。それは荘厳な立派なものであり石で作ったから残っている。それだけ宗教の時代だったともなる。宗教というとき、インドでも中国でも韓国でも日本でも宗教の時代があり仏教の仏像や伽藍の建築に労力が費やされた。
だから仏教文明だったと中国でも韓国でも日本でもなる。
なぜそれだけのものに労力が費やされたかとなるからだ。
奈良の大仏がその象徴でありあのように巨大なものはピラミッドに匹敵する。
それから古墳時代は仁徳天皇の巨大古墳がいくつも奈良に作られた。
古墳を造ることに民衆の労力が費やされたのである。だから古墳時代とされる。
それはなぜなのか?となるとこれも良くわからなくなっているのだ。
ただ歴史として見れば仏教に民衆の力でもその労力が費やされた時代だとなる。
つまりこれも科学や技術から見ると同じく残された物として歴史を見るからわかりやすいマヤ文明でもなぜあのようなピラミッドのようなものが作られたのかとなるとそれは天文を知ることにその労力が費やされたためである。天文台がマヤ文明を象徴していた。
文明は建築物から見るとわかりやすいのである。

●江戸時代は米を作るための開墾に労力が費やされる

ただ建築物だけではない、人間の労力が費やされるのは江戸時代なら開墾して開拓して米を生産することに労力が費やされ続けてきたのである。米を食べることのためにいたるところに海側は埋め立てて開拓して山側は棚田のようにわずかの土地でも米を食べたいから作られてきたのであり米を作ることに労力が費やされた文明だとなる。
これは古墳とかピラミッドとか仏像とか天文台とかとは違いわかりやすい。
米を食べたいということはうまいものを食べたいということでありこれは今でも本能としてあるから変わりない。でもピラミッドはそうした食べるものとは違う、古墳にしてもなぜそこにそんな労力を費やしたのか今になるとわかりにくい、それは食料生産のためではない、ただマヤ文明は天文を知り豊作を祈ったのだから実用として天文台のピラミッドを作った。ただ古墳にしても仏像にしても聖堂にしても精神的なものとして作られている。ローマの建造物や道も実用的なものとして作ったから現代でもわかりやしすい。

でも古墳でもピラミッドでも宗教的建造物になるとなぜそれだけの労力を費やしたかわかりにくくなる。
なぜなら近代化したときヨーロッパでも宗教への情熱は失い現実の利得一辺倒になったからである。
世界へ船で未知の大陸に向かったのも黄金を求めて求めてとか一攫千金を得るためとか何か実利的なものとして大航海時代生まれた。
そのエネルギーは実利的なものを求めてでありアメリカ大陸発見はまさに実利の大陸となったことでもわかる。
アメリカには精神文明はない、物質文明しかないことでもわかる。
アメリカが何に労力が費やされているか見ればわかる。科学があったとしてもそれは実利であり軍事力の強化でありエジソンの発明でもすべて実利のためであった。
だからローマとにているというのもわかる。
科学のために労力が費やされているというときそれは実利に結びつくからであり金となるからである。機械を発明することに労力が費やされるのもそのためである。


世界的にみてもそうだが日本でも何に労力が費やされたかを見れば時代が見える。
江戸時代は開墾開拓新田開発に労力が費やされた。それは米を食いたいということのためでありわかりやすい。
でも明治維新からは人間の労力は米を作ることも継続されていたが養蚕に労力が費やされた。いたるところに今でも養蚕した農家が全国に残っている。
明治維新後も日本は八割が農民であり農業が主体であった。養蚕は絹を作りそれを外国に売る外貨を稼ぐためだった。それで富岡工場が世界遺産になったのである。
その絹で稼ぎ軍事力を強化して富国強兵の政策がつづいていたのである。
つまり養蚕に労力が費やされた文明だったともなりうるほど養蚕が盛んだったのである。それから仕事としては家事に多大な労力が費やされていた。
それは世界的にそうである。セーヌ川が洗濯する女性でうまっていたという絵もある。
洗濯すること自体その労力が膨大なものとなる。
日本でも戦前の女性の仕事が家事であった。中産階級すら女中を二人も雇っていた。
それほど家事というのが機械化かされていないから労力がかかるものだったのである。
自分は今一人で家事とか介護をしているがこれも機械化したからできているのである。
そうでないと本当に二人も女中が必要となっていたろう。
今どき女中という言葉すら死語となってしまった。
女性の労力は今や別な方に費やされているのだ。

●超高齢化社会は老人の寿命を伸ばすために労力が費やされる

そして戦後という高度成長時代とは何に労力が費やされたのかとなる。
社会全体から見れば電化製品などメイドインジャパンが世界を席巻した時代だからそこに労力が費やされた時代にもみえる。車も輸出品になっているから車を作ることと利用することに労力が費やされた時代、車社会の時代だともなる。
それは技術的な面から見ればわかりやすいとなる。
一方で明治から大正から太平洋戦争があり戦争の時代、戦争に労力が費やされた時代だとも見える。太平洋戦争では3百万人も死んだということはまさに人命まで費やされたからてある。
ではなぜそんなに人命まで費やさねばならなかったのか?そもまた良くわからないとなってしまっている。何故に人命までそんなに費やさねばならなかったのか?
それすら一つの歴史の謎になってしまうだろう。
それは明治維新から西欧列強に伍するための結果でありそれが太平洋戦争で終結した。
そして次の労力はエコノミックアニマルとして企業戦士となり物作りに励み電化製品などで世界を席巻した時代だったとなる。
何に労力が費やされたから見ればそうなる。


そして今何に最も労力が費やされているのか?それは奇妙だけど超高齢化社会になり寿命を伸ばすこととか健康であり介護や医療に労力がついされている時代である。
この分野でどれほどの労力と金が費やされているか、それは自分の住んでいる田舎で一番立派なのが病院と老人ホームとか介護施設であることでもわかる。
それはまるで神殿のようになっているのだ。なぜなら田舎では高いビルディングがないから一番目立つのは病院であり老人をホームであり介護施設だとなってしまう。
この老人のためにどれだけの労力が費やされているのか?病院だってほとんと老人であることを見ればわかる。若い人などほとんどいないのである。
老人のためにみんな労力を費やして何十兆円が老人のために使われている時代なのであるつまりそれこそが超高齢化社会であり介護施設には90歳以上の人が多いのである。
現代を象徴するのはまさに百歳の人は百万くらいになるかもしれないとんいう超高齢化社会なのである。
そんなことに金を使うのは無益だというのもわかるが現実にそれだけの使う金が労力があるからそうなっている。それが仕事を造り出しているからそうなる。
あとの仕事は機械がしているのかもしれないからそうなっている。

こんな無用な老人に労力を費やしてどうなるんだともなる。
それは大古墳にピラミッド建設に膨大な労力う費やしたのはなぜかと問うのと同じである超高齢化社会とは老人に労力が費やされる時代なのである。
そんなこと必要ないつづかないということもこれからありうるが現代の文明の特徴がそうなっているしこれは自分の地域だけの問題ではない、世界的なものとして特に先進国では長寿をあくことなく求める社会になっているのである。
ただそういう余力があるからそういう文明にもなるということである。
江戸時代だったら米を作ることにその労力が費やされていたからである。
米など今は余っていて困っていることでもわかる。
時代によって何に労力が費やされるかとみれば現代は超高齢化社会であり老人の寿命を伸ばすことに労力が費やされた時代だとるでなる。
これも一つの見方としてありうるのである。


posted by 老鶯 at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年11月17日

残る虫 (介護とか医療にこんなに労力費やす社会の疑問)


残る虫


 
(介護とか医療にこんなに労力費やす社会の疑問)


前畑に老婆あわれや時雨かな

道に会う老人多し枯芒

ここに鳴く残る虫を聞き里暮れぬ


10人歩いていて6人くらいは60以上かもしれない、若い人は二割りも会えばいい方だろう高齢化社会は老人にエネルギーが費やされる時代である。
それか個々人の家で終わっていればいいがディサービスでも介護保険で受ければ社会の負担になる。
ただ田舎では何か介護関係と医療関係の仕事が多い。
介護はこれは長いし大きな社会問題である。介護社会とすらなる。
その負担が家々にととどまっていればいいがこれが社会負担になると十兆円とかなんかそれだけでも途方もない労力とエネルギーが金も費やされる。

そういう社会とは果たして活力ある社会なのかいい社会なのかわからない
介護によって社会自体衰退してゆくということもありうる
それだけの労力を費やすとなるとそうなる
ただ介護も仕事であり仕事を与えているという面はある。
それにしても社会全体が介護や医療に費やす労力も金も莫大なものとなり負担となる。
そしてそもそもその意義が見いだされるのかという疑問もでてくる。
家族だったら祖父母でも親しいことがあり家に尽くしたとかで世話することがある。
なんらか家族内で介護する意味は意義はでてくる。

自分の場合は特別世話になったから恩返しとしてやっている。
しかし他の人はそういう意義を感じられるのかとなる。
社会自体でこれだけ多くの人を介護する労力と金でもその負担が天文学的になる。
それかついには社会まで疲弊させてしまうから若い人の大きな不満になる。
確かに何か死んでゆく老人にそんなに金を使い介護して90歳百歳まで生かしているというのも社会にとっていいものかどうかわからない。
だからといってすぐ安楽死だとか60代でも始末しろとか極端になるのは疑問である。
75くらいまではそんなこと言えない時代なのが高齢化社会である。
ただ近くのディサービスの大きなホテルような施設に来るのは90以上の人が多いのである90はもう珍しくもない普通である。
でも90あたりからどうしても介護状態になってゆく人が多いのである

90となるとまさに残る虫である。でもそんな年になると誰も残る虫の音に耳を傾ける人もいなくなるということもある。
あまりにも長生きすることの問題は現役で働いてから老後が長すぎる問題がある。
自分の姉も公務員として働いているときは良かったがやめてからなにもしていない、
自分が優秀だったといっても退職してから何の社会の用にもたたないし家族でも料理もしなかったから無用の人となってしまった。
意外とそのことか怖いことだった。つまり認知症になることの大きな要因だったともなる人間は退職したりすると何も用がない人になりやすい、社会での役割がなくなる。
そして家族でも役割がなくなる場合がある。


するとその人は用ない人となり社会から忘れられるてしまうのである。
社会から忘れられるということは存在しなくなることでもある。
それが社会で知られるときは認知症とか病気とか困ったことになったとき社会のやっかいものとしてめんどうかけるものとして知られる。
そういう老人が膨大なものとなってゆく。
何か今は社会か変化が激しいから経験豊かな老人の出番がなくなっている。
ほんの一部の人しか社会では老人は必要としない
ただの社会のお荷物になりやすいのである。
専門的な技術職は時給7万とかもあるというからそういう技術をもっていれば別に退職しても社会的に有用なものとして迎えれられるのである。
ほとんどの人はそうならないから問題なのである。

いづれにしろ介護とか医療とかにこれだけ労力でも金でも費やしている高齢化社会は何か普通ではない、だから社会自体か介護医療や障害者の世話で衰退してしまうということもある。近くで障害者一級の人が69歳で死んだ。その人は二人も介護していた。
だから一人死んで楽になったなとかなってしまう。
多重介護ほど苦しいことはない、一時自分もそうなったからどうなってしまうのだろうとものすごく不安だった。でも一人が死んで助かったのである。
その時自分も病気になっていたのだから辛かったのである。
タグ:介護社会

抽象画(岩の造形)


抽象画(岩の造形)


rockkkk111.jpg

rockkkk2.jpg

rockmonn1.jpg
岩の紋章


rockmonn122.jpg

岩を分解するといか抽象化するとこんなふうにも見えるかもしれない。
つまりもしこれだけだったら岩とイメージできない
これが岩なんだよといえば岩なのかと見える
だから抽象画はその人の想像力がないと見えないのである。
これなんだろうとなり鑑賞もできない
つまり岩だったら岩という具象画でないからそうなる
言葉ともにている。石とあればどういう石なのか実際はわからない
抽象的な石であり石にもいろいろあるからわからなくなる。

だから分解するということでは何抽象画はハソコンと相性がいいのである。
それはピカソの絵でもわかるように何か具象画を分解しているからである。
抽象画が具象画でいなからまた無限に変化する
これが山だとか石だとかとしてイメージ固定させないから変化させられる。
だからパソコンのソフトによって無限に変化させやすいのである。
タグ:
posted by 老鶯 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2014年11月16日

東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた (木の暗とは青木が原の樹海だった)


東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた

(木の暗とは青木が原の樹海だった)


天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

柴山の木の暗(くれ)とは青木ヶ原(あおきがはら)の樹海だったと説明する人がいた。
木の暗(くれ)とは(木の下の暗い茂り)てはないが此の暗の時刻がすぎたら会わなくなるであろうかという意味だった。
ということは柴は確かに燃料として使うものとしてと青木が原にとりにいった。
しかしそこは今も広大な樹海であり昼なお暗いのである。
だからその暗さは今も変わりない、確かにここでは暗いということをイメージする必要があった。それは今でも昼なお暗いから変わっていないのである。
これだけ広い樹海で一度会って別れたらもう会えないということを暗示していた。
今の時代とは違って歩きであり離れていれば会えなくなる。
当時はもっと暗いしその樹海はさらに広がっていたのである。
今も怖いが当時はそういう樹海に行くことは怖いということもあった。
道に迷ったりしたら出てこれないという恐怖もあった。
まともな道すらない時代だからである。
そういう経験を丸森でしたから樹海は出れなくなるということで怖いのである。
日本は森が深く今でも道に迷うことがあり近くでも遭難している人も多いことでわかる。
この歌は解釈が間違っていたけど何かやはり当時の自然の広大さを偲ぶものである。
万葉時代は二百万人しか住んでいないから広大なの原野とか開拓されない土地が広がっていた。それは今では想像を絶するものとなっていた。

天地の別れし時ゆ、神さびて、高く貴き駿河なる富士の高嶺を、天の原振り放け見れば、渡る日の影も隠らひ、
照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける


富士山はこんな感覚で歌われていた。その下は原野であり樹海の上にそびえていたのである。
東歌は男女の生々しい土着的な赤裸々な表出である。
だからこの歌は何か自然の広大さを歌にしているから何か異質なのである。
もちろんこれも男女の相聞歌にしても何か違っている。
樹海になると昼なお暗いとする本当に太陽が傾き暗くなったら本当に怖いとまでなる。
この歌はまだ手つかず広大な自然の中の逢瀬があってもそれが自然によって会えなくさせられる。自然によって人間の生活は覆われて別れさせられてしまうことを暗示していたのである。
つまり万葉集時代の自然というのをイメージできないから何か間違った解釈になる。
この解釈の間違いは言葉通りに読んでいなかったことにあった。
言葉の正確な解釈をしていなかったことの失敗だった。

この歌は逢はずかもあらむ ・・・とあるときもう会わないだろう、会うこともないだろう・・・という深刻な歌かもしれない、それが現代にも通じていたのである。
青木ヶ原樹海は自殺の名所であり今も行方不明者が白骨化して埋もれていた。
それを考えると何かこの歌は不気味なのである。
別れるは万葉時代は死別でありまた二度と会わなくなるという深刻なものがかなりあった今のように一回別れたもう二度と会えないということがあった。
それは江戸時代でも一旦別れたらなかなか会えない、飛行機で帰るというわけにもいかないからである。だから別れるということは今とは全く違っていた。

「幼くして母と別れる」

◇『万葉集』八九一「一世にはふたたび見えぬ父母をおきてや長く吾(あ)が和加礼(ワカレ)なむ」(山上憶良)

別れるは死を意味していたし一旦別れたらなかなか会えないということがあった。
だから別れるというのは今とは全然違ったものだった。

武藏野の小岫が雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より夫ろに逢はなふよ(3375)

戦争でも別れて二度と会えないということが無数にあった。現代は会うとか別れることの意味が浅薄になったのである。簡単にどこでも会えるとなれば会うことも別れることもそんなに意味がなくなってゆくからである。

陰々と昼なお暗き青木ヶ原
誰そ埋もれて知らじ
相別れて跡もなしかも
その闇深くヅクの鳴く声木霊す

何かこの歌は謎であり不気味なものを感じる歌である。要するに万葉集に解読できないものがあるのはその背景がわからなくなくなったからである。

 
タグ:青木ヶ原
posted by 老鶯 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2014年11月15日

北風唸る家 (家は城であり守るのも命懸け)


北風唸る家


(家は城であり守るのも命懸け)


北風の今日は吹きつけ
独り身に買い物あわれ
寒さ身にしむ
川の面に鴨の浮きにつ
芒は枯れて寄り合いぬ
母はい寝につ我は台所にまかなふ
北風は家にし鳴りぬ
我が勤めて我をあたたむ
我が家を支えるものは
今や我のみなりき
風に鳴る屋台骨かな
この家を残せしは姉に父かな
我が母の百歳にもなれや
長くもあれや石は動かず
我はこの家を継ぎて支えむ
我も老いしもなおしばらくは
我が家に勤め果たさむ


今日は寒かった。北風が吹きつけた。本格的な冬が来た。けんちん汁を作った。
里芋がちょうと川むいたのが売っていた。里芋は川むくのがめんどうなのである。
すでにお膳立てできているばせのを買ったからできた。
けんちん汁は好きだし野菜が入っているから体にはいい
鍋物は一人だと損である。一人分のものがなかなか売っていない
今は一人暮らしでも何とかやれるようにできている。
機械を使い料理もできているから楽である。
ただ野菜をとるようにしないと一人暮らしは栄養的にかたよる

今やここ7年は家を維持するための格闘だった。姉が気丈夫で家を支えていたけど認知症になり崩れ去った時、全部自分に責任がのしかかった。
家は城と同じだった。家が傾けば油断を見せれば家自体乗っ取られる。
この世とは同情したりしない、相手が弱ればチャンスだと思って盛んに責めてくるだけである。
犯罪にもあい財産はのっとられかかり今度は借金のチャンスだと病気の時に責められて
散々な目にあった。ちょうど保険金殺人のようにな目にあったのだ。
「こいつが死ねば財産が入る」それしかなかったのである。
だから今はそういう奴らに復讐したくなる。
弱いとき責められたから今度はこっちから責めてやろうとなる。
弱いとき責めるのだからこれほど相手にとって楽だし責められる方にとってはこれほど苦しいことはなかった。

もうはっきり言ってもう自分の家を城を守るために刀をもって襲ってきたら刀で抵抗して相手と戦わないかぎり家も城ものっとられるという状態になっていた。
それがこの世の現実だった。
姉は一倍気丈夫だったから守られていたのである。男でも姉を怖がっていたのである。ただ認知症になりすべて崩れさったのである。
どんな強い人でも最後は弱くなる。老人るなるということは弱者転落することなのである

 
ともかく家は城と同じであり弱体化したとき責めてくる。同情などしない。
そのことが今でも憤りになっている。弱者になったから責めるのが容易である。
相手を従わせることも容易である。それで親戚の人が親が認知症なったとき
介入してきてさんざんな目にあったことが書いていたがそさと同じだった。
そういう家が弱体化したときカルト宗教も入りやすいのである。
先祖がどうのこうのとか何らかいいがかりをつけられると信じやすいのである。
いづれにしろ弱者を責めてきたやつらは本当に許せない
そういうことは絶対怨念となり忘れられないのである。
人間は甘いとつけいれられる。それは国でもそうである。
中国の船でもなんでもやり放題になってしまう。
だから果たして平和憲法があっても守れるのかとなる。
軍備がないと守れないというのもまた厳しい現実を経験したから考え方も変わる。
日本でも外国にやり放題に蹂躪されたから変わるのである。
何もされないなら相手もいい人だと思ってしまうのである。

アメリカでは今でも銃をみんなもっているのは家に入ってきた人はすぐ殺すという準備をしている。それほど自分を守るために備えている。
そもそも侍がなぜ生まれたのか?それは自分の家を守るためだった。
自分の家が襲われるから回りを堀で囲み刀であり槍であり備えていたのである。
その家に仕える人も一体となり家を守っていた。それが館となり城となったのである。
極端にしろ何かそんなふうにしてまでも守る意識がないと家が守れないと思った。
相手もまた金がなくて金をとろうと必死になっていたのである。
そういう人は相手のことなどかまわない、自分が苦しいのだから相手が弱るとチャンスだと責めてきたのである。それがこの世の現実でもあった。
この七年間経験したことを書いてきたけど信じられないことの連続だった。
回りもそうである。それは今も継続している。

屋台骨とか大黒柱とかの言葉があるけどまさに屋台骨がぎしぎしと北風にもゆらぐように自分が屋台骨となり必死で支えていたのである。
北風が家にずっと唸っていた。最近はようやく楽にはなってきた。ただ一人だから苦しいことはある。

タグ:家を守る

万葉集東歌二題の鑑賞 (空間と時時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)



万葉集東歌二題の鑑賞


(空間と時時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)


信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ


万葉集の歌はその後の古今集との歌の相違は大きい。
古今集になると宮廷内の歌になり一般の農民の生活とは離れた感覚の歌になった。
宮廷人の歌であり源氏物語のように宮廷内のことが話題の中心になる。
万葉時代はそうした宮廷内とは全然違ったものとして歌われている。
東歌は土地に根ざした歌であり方言ば使われいるから余計にそうなる
万葉集の歌は何を意味しているのか理解しにくいというとき
短歌の歴史で万葉集と古今集の相違が大きいから理解しにくくなる。
古今集になると生々しい庶民の土の匂いのようなものがなくなり
何か宮廷内の遊びごとになり日々の生活から離れてしまった。
そもそも庶民の歌はなくなり宮廷人の歌しかなくなったのだから当然だとなる。
自然でも宮廷内の庭を見ている自然とか何か自然を人工化した自然を歌うようになる。
それは現代にも通じている。
とても狭い庭では自然を現し得ないのである。
だから京都に庭の文化があるとしてもそれは雄大な自然とはあまりにも違う。
人工化したし自然である

信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)・・・万葉集には地名が歌われることが多いというときその場所に特別な思いがあり歌われている。
信濃という全体があり須賀の荒野がある。当時は荒野がどこでも広がっていたから珍しくない。その広大な荒野にホトトギスが鳴く、それか時を告げる声として広大な荒野に響いている。
現代の時は機械で一分一秒が刻まれている機械の時に酷使されている。
万葉時代は広大な自然空間がありそこに過ぎてゆく時である。
要するにここでは空間と時が一体化している。
現代ではこうした広い空間で時を意識することはない
例えば常に時は学校であれ事務所であれ工場であれ家庭ですら何か狭い範囲で時は意識されている。常に時に追われているのが現代人なのである。
それは空間の感覚が失っているからである。
働く場所でも工場とか事務所とか狭い範囲で過ごしているからそうなる。
そういう中で一分一秒で時が刻まれて酷使される時間の中に生きている。
奈良時代は200万人くらしか日本全国で住んでいなかったというのも意外である。
その時日本が広大な原野の部分が広がっていたのである。
だから空間の認識も違っていたのである。
ここでは時は広大なな空間にありホトトギスが鳴くことによって時の移るのを知る。
雄大な自然が時を知らせている。

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)・・・

これもそうである。天の原というときさらに広い空間を視野に入れている。
冨士山の壮大な姿が望まれ柴山というのは柴は燃料として使うものとして生活がある。
そういう雄大な空間があり生活があり人と人が会うのである。
文明はそうした雄大な自然の空間も奪ったのである。
絶えず空間が建物でさえぎれさまざまなものでさえぎられている。
人間があうというときそれは雄大な自然空間の中で会うのではない、林立するビルの下とか狭い路地とか狭い家の中とか何か狭い押し込められたような所で会う。
万葉人は広大な自然空間で合い別れる。
すると人間が会い別れるとしてもその後に広大な自然がそこに広がっている。

単に人間が会う別れるにしても今とは感覚的に相当違っていた。
ただ会う別れるにしても深い余韻を自然の中に反映されていたのである。
時の流れも悠長である。

時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

時が移ればあわてなくてもまたあなたと会えるでしょうという感覚であり追われて会うのとは違う。この広大なの天地でまた会うことがあるでしょうという時間感覚なのである。
ここには不思議なのが言葉の感じから例え別れても必ずこの広大な天地の中に二人は会うというたことを暗示している。合わなということはないでしょう・・・という確信みたいなものが歌われている。だから何か会う別れるにしても悲哀感が感じられないのも不思議なのである。
要するに現代ではこうした空間感覚でも時間感覚でももてなくなった。
だから万葉集のような歌は一見なんでもないようでも今になると作れないし理解できないものとなっているのだ。

この二つの歌は調べ自体が日本語の大和言葉でまるで水が流れるように自然に歌われている。言葉がよどみなく詩となっているのだ。
つまりその国にはその国から生まれた言葉があり言葉はまず詩語であったというとき万葉集の歌はまさに日本人の原点となるものがあった。
万葉集の歌は多様であり古今集とか宮廷人の歌とはあまりにも違っていた。
タグ:万葉集東歌
posted by 老鶯 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2014年11月14日

冬の日の石(詩)


冬の日の石(詩)

shigureeee123_FotoSketcher.jpg

冬の日に動かぬ石の重きかな
冬の日に鬼風思ふ隣かな
冬の日やここに変わらず立目石
貨物船沖に見えつつ冬の海
一雫顔に時雨や山翳る

俳句はその背景を読まないかぎり鑑賞できない、動かぬ石がなんだとなってしまう。
でもその背景を読めば百歳になる人が住んでいるとなればその石は人間のことなのである人間はやはり長く住んでいるとその土地と一体化してゆくのである。
そもそも動かぬというけど動けなくなるというのが現実である。
年取ると変化すること移動することが苦手になる。
だから原発で避難した老人は精神的には苦しい、経済的には楽していても精神的には苦しい。でも回りから良く思われれないのも苦しいのである。
ただそうはいってもそれも他者からみれば贅沢だとなってしまうのである。

ともかくすぐとなりに江戸時代に俳句を作った人がいたということも考えなかった。
江戸時代は商人が俳句を作っていた。裕福でないと俳句も作れない時代である。
一茶は特別でありだからあんな辛酸をなめた俳句を作ったのである。
この辺でも街では裕福な人がいた。
ただこの辺の街の江戸時代というとイメージできないのである。
戦前から大正明治とさかのぼるのだが江戸時代になるとイメージできなくなる。
つまり明治にはすでに汽車が電車が通ったが江戸時代は徒歩とか駕籠の時代だから
その差が大きいからイメージできないのである。
自分の詩のテーマは石だった、すでに石だけの詩でも相当書いているが発表していない
詩集として自分なり制作しようとしている。
まず小冊子で本のように自分で作ってみる。
詩集だと本は作り安い。



冬の日の石

石は一所に動かず
歳月とともに
だんだん重くなってくる
もう百歳も生きる人がいる
他人の家に嫁いでも
石のように重くなり動かない
石は歳月とともに
重みを増してくる
石はその土地と一体化して動かない
石は何も言わなくても
大地と通じて動かない
冬のめぐり石はまたそこにある
石は信頼しあって互いに動かない
冬の日がさして動かない
そこに安らぎがある



今日はぽつりと時雨が顔をぬらした。それが一滴だったのである。いかにも時雨らしい。秋時雨ともあるがこれは本当の時雨だった。今日は結構寒いから本格的な冬になるのだろう。




タグ:石の詩

2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

fuyanagiiiii123.jpg
鹿島区秋葉神社

iddoooo.jpg


雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。

この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










posted by 老鶯 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年11月12日

パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた (機械は使ってみないとわからない)


 
パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた


(機械は使ってみないとわからない)


12AAAAAAA.jpg
パナソニックビビ

77777AAAAA.jpg

PAS Brace XL



最初買ったのはパナソニックだった。なぜ買ったかというと長距離用に買った。
それが最新式で17アンペアのパッテリーであったから長持ちすると思った。
写真は26型ではなく27型だからさらに車輪が大きい。
これはスポーツタイプではないから実際は買い物には向いていた。
ただ買い物でも荷物には弱い、馬力がないから坂も強いとは言えない
平地では走りやすいしスピードも出るし軽い感じになる。

これはヤマハのスボーツタイプを買って乗ってわかったことは長距離用ではない
近くに買い物するには便利である。
これは自転車屋の進めで買った。最新式だから進められた。
そこでは会社に関係なくどこのメーカーのでも売っている。
実際に自分で試し乗りして買ってきているというから詳しい
今の時代何を買っていいかわからないのが多くなった。
自転車だって種類が多すぎるからだ。
電器店で買い物して失敗したのは店員に聞いてもわからない
よく説明もしてくれない、結局使えないもの買った
印刷機だったがこれもわかりにくいものだった
むしろネット下調べして電器店に行ったほうがいい
電器店ではその人にあったものなどすすめないからだ
だから最近は二三万のものは通販で買っている。

ヤマハの電動自転車は前も使っていた。
最新式かなり改善されていた。
これの乗り心地はパナソニックのとはずいぶん違うなと思った。
これは何か見た感じも重厚な感じになる。
実際はこれはマウテンバイクだから悪路に強い
もともと坂も強かったし馬力があるから荷物にも強い
乗った感じがまるで違うのである。
これはスボーツタイプだからち長距離向きだった。
12Aと17Aと差があるようだが実際はほとんど同じでありヤマハのバッテリーの方が長持ちする。坂で電池が消耗していないのである。
パナソニックでもスボーツタイプだったからたいして変わらなかっただろう。
スポーツタイプと普通の自転車でも作るコンセプトがそもそも違っていたのである。
それは電動自転車でも同じであった。
ただ乗った感じではヤマハのは何か高級感と重厚感がある。
悪路に強いから近くでも乗りやすい
パナソニックのくはサスペンションがないから買い物でも道が悪いとのりにくいのである自転車や歩道は段差があるから困るのである。
ただスポーツタイプは買い物用ではない
だから買い物ではパナソニックを利用している。

ともかく機械でも道具でも使ってみないとわからない
こんなに種類によって違うものかと思う
自転車は種類は本当に増えている
その一台一台が乗り心地が違うのである。
自転車の不思議はなぜこんな乗りここちか違ってくるのかということである。
だからその乗り心地が違うから車種が違うと違った楽しみがでてくる。
これはバイクでも自動車でも同じである。
カメラだってそうである。
みんな違った感覚で使うようになるのである。

例えば一つの景色がある、これは角度が違ってとると別なように見えるし
またカメラによっても違ったように写る、さらに加工すると別なものになる。
道具とか機械によって変化させられるのである。
こういうことは昔からあったが現代は何でも種類が膨大に増えてそうなった。

歩いて見える感覚、馬に乗って見える感覚、自転車に乗って見える感覚、
バイクで見える感覚、車で見える感覚、電車で見える感覚、これはみんな違って見えるのである。
今は徒歩で見える感覚か消失している。たいがい乗り物に乗っているから歩いて見える感覚がわからなくなっているのだ。
自分は自転車でものりはじめたのは40代と遅いからスポーツタイプは乗っていない
一台買ったけお乗らなかった。
つまり乗る時間すらなくなっていたのである。

人間は遊ぶだけでもすぐに時間も尽きるものだと思った。
なぜ中高年ライダーが増えたかがわかる。
金もある時間もある、一旦若いとき知った快感が忘れられないのである。
この際最高級品でも乗りたいとなる、その快感を味わって死んでゆきたとまでなるのだ。この快感にはいろろいある。
週刊誌でとりあげている男女の本能的快感もそうである。
人間はつくづく快感をあくなく追求するものだと思った。
苦しいことなどしたくないである。
だから原発事故で避難した人たちが楽な方を選ぶのである。
たいがい苦しいことを選んでいるのはそういう環境であり強いられたからである。

タグ:電動自転車

2014年11月11日

晩菊から冬の俳句十句 (自然は飾らない、ありのままだから美がある)


晩菊から冬の俳句十句


(自然は飾らない、ありのままだから美がある)

KOFUNNNNN.jpg

クリック拡大

またデジカメ買った、ソニーの20倍のズームのWX350である。
これは前に買ったのだか新しくなって良くなっている。
軽いからサブカメラとしていい、常にカメラはもって歩く必要がある。
重いともってあるけないことがある。
これは軽いし気軽にとれていいカメラである。
こういうものでも何かとると違っている。
同じようでもとるものが機械によって左右されるのである。
これは拡大しないと全体が映えない、芒のところがもっと鮮明になれば良かった
でも全体を枯野とするには広くとる必要があった。
この辺ではここは刈田になっているだけど田を作っていないから本当に枯野になっているのだ。古墳ができたときは田んぼはなかった。枯野だったからあっているともなるのが不思議である。



晩菊や今日も買い物に裏の道
晩菊や石に添い咲き年古りぬ
晩菊や99の母介護かな
99生きるを知るや残る虫
我が墓の前を今日も行く冬椿
冬あざみ十輪ほどや屋形村
飾らざる雀の来るや冬紅葉
ひよどりの朝に飛びきて冬紅葉
みちのくに円墳いくつか枯野かな
冬日さす津波の跡に石一つ
貨物船沖に見えつつ冬の海


俳句とは季語があって俳句である。日本の季節は四季がはっきりしているから天候があいさになりやすい。特に農民は絶えず天候を心配している。
雨がふっても降らなくてもこまるのである。適当にふって適当にふらないといいのだけとそうもいかない、農業は天候に左右されることが多すぎるのである。

だから俳句というのは日本では毎日変化しているからあいさつかわりになり季語かできてそこから思考を深めてゆくのが日本なのである。だから季語を知らないと俳句は作れない。季語がすでに日本語のように日本文化になっているからだ。
菊にしても今の季節になると以前として晩菊という感じがあり残菊にもなりやがて冬菊から寒菊となってゆく。そういう時間とともに細分化されたのが季語なのである。

今年は何か変である。自分の家の楓は紅葉にまだなっていないのである。何の影響かわからない。他の庭は紅葉になっている。でもすでに冬紅葉になる。
自然がなぜ心うつのかというとそれは自然は何も飾らない、ありのままだということである。
雀を見ても樹を見ても何かそこに人間によってつけ加えられないからかえって心を打つものがある。雀はなにか貧しいものの象徴になる。でも自然のものは何も飾らないからいろいろなものを着たりもしないからかえって素朴な美が生まれる。
要するにシンプルだからひかれるのである。人間はあまえたにも複雑であり何重にも覆い隠されていて何が本心かもわからないのである。
カルト宗教でも宗教などと何の関係もない、ただ欲心があるのみである。
政治家がきれいごといってもそれは票をえるためであり何か犠牲になってやるなどないのである。むしろ民衆を犠牲にして自分は甘い汁を吸う方なのである。
だからこの世自体が嘘偽りだとなってしまう。


ただ人間は今がそうかというと昔も江戸時代でも変わりなかったところがある。
聖徳太子がこの世は虚仮(コケ)だと言っていたことでもわかる。その時代から人間がいかなるものかこの世がいかなるものかは変わっていない。
一見科学とか技術の機械で飛躍的に変わっていても人間の心とか欲は変わらないのであるこれだけ贅沢しているのにますます欲は深くなりとどめることができないことでもわかる。
原発事故も人間の限りない欲を追求することで事故になったのである。
ここだけではない、すでにサラ金から8人一人は借りているということでもわかる。
それだけみんな無理して贅沢している飾っているのが現代文明社会である。

一人の人間がくる、すでにそこに様々な欲望人間であり雀のような人は貧しい人でもいない。貧しい人は今やこういう何でも金が必要な時代になると清貧などというのは成り立たない。まず金を貸してくれとか延々と金を要求される。
格差社会になると貧乏な人とつきあうの本当に怖い、身ぐるみはがれる恐怖を味わった。金で必ず現代は問題が起きてくる。大金持ちは実際危険である。
ニュースで見逃されていたが家政婦二人を雇っている大金持ちが東京で強盗に入られて殺された。ただ家政婦は何の被害もなかったのである。
こういう事件はこの世で絶え間なく起きている。
金がないのも困るがこのうよに家政婦ふたり雇うような金持ちはまた危険なのである。
殺されるという危険をかかえているのである。
この世はまさにどんなことしたって災いの地だった。
津浪であれ原発事故であれ自分が犯罪にあったことであり様々な災いを受けのがこの世だったのである。
これは死ぬまでまねがれない、だから死がいちがいに悪いとは言えない
生きている限り災いを受けざるを得ない、老人になれば必ず老化して体が弱り体自体がすでに災いの元なのである。
もう死ねばやっと災いがなくなったとなるのか人間だったのである。


シェークスピアのソネット
SSSSSSEEE1222.jpg

SSSSSSEEE1.jpg

クリック拡大



この詩はやはりうまい,
陸の王国を大洋が襲うとは津波のことであり現代も変わらないことを詩的に表現している
人間社会は聖徳太子の時代から変わっていないのである。



なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


 
なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

 
BUNNROKUNMM222.jpg

深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

;fukanooo111.JPG

koikehaka11.JPG


深野の墓地
fukanobbbb123.jpg

fffffttt1.jpg

これは宝暦なのか?

kannho1 - コピー.jpg

これは寛保である。

houei1 - コピー.jpg

これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

koike1122334445556667777.jpg

koike11.jpg

koike1122.jpg

koike112233.jpg

koike112233444.jpg

koike112233444555.jpg

koike112233444555666.jpg

文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
posted by 老鶯 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2014年11月10日

浪江で帰らない人が10パーセント増える (原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)


浪江で帰らない人が10パーセント増える


(原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)

kikannsha111222.jpg

小高の人は農家で土地をもっている。その土地は放射能廃棄物の処理場とてし貸しているという。津波の被害にもあっていて帰らないという。
小高でもそうだが南相馬市でも津波の被害にあった人が多い。
そういう人たちは家もなくしたから小高だったら余計に帰らないし他でも津波の被害にあった地域では家が建てられない、その津浪の被害者と原発事故の被害者と混じり合っているから複雑になる。
とにかく小高ですら変える用意ができているのに帰らない、浪江で10パーセントも帰る人が減ったのは時間がたつにつれて帰る意欲がなくなっているのだ。
町自体が崩壊してそれを建て直すというより他で便利な楽な生活をしたいというのが
ある。

老人は帰りたいとしても若い人は帰りたくないというと家族自体が分離するし町を支える人もいないのだから老人も帰らないとなってしまう。
だから意外と便利な社会は何か大きな災害でもあるとかえって崩壊しやすい。
便利な生活を維持するにはその負担か大きくなるからだ。
まず病院であれ医者であれ看護婦であれ確保すること自体できなくなる。
そうした崩壊した町には住みたくないのだから医者も看護師も嫌だとなる。
他で楽をできるのなら楽した方がいいとなってしまうのが現代である。
北海道とかに開墾するような時代ではない
その時は農民は土地がないし職もないし北海道に開墾に苦しいけど入った。
そうして力尽きた人がかなりいる。
今なら一億円もらったら他で生活すれば楽だとなりそんな苦しい道を選ばない
特に年寄りはみんなめんどうだから帰らないと言っている

でも来年に小高などは避難区域が解除されると補償金がもらえなくなる。
その時かなり深刻な状態になる。
自分の前の墓地にできた復興団地に入るのに7万円家賃がとられるというのは高いと思った。都会並だと思った。ただこの辺では普通にアパートだと二部屋あれば4万以上とられている。ただ市営住宅が5000円とかあるから違っている。
三つの部屋があって住んでいる人を知っている。
復興団地に入ると援助されないというのも苦しいとなる。
土地を求めて家を建てた小高の人もいたがみんなは簡単にはできないだろう。
小高の土地は双葉とか大熊と同じく放射性廃棄物の処理場となり土地をもっている人はそこから定期的収入がもらえるのかもしれない。
定期的収入がもらえれば小高に帰らなくても他での生活もやりやすくなるのである。
老後は年金とか定期的収入があると楽なことがわかった。

いづれにしす浪江町でも帰らない人が10パーセント増えたとういからますます時間がたつと帰らない人が増えてくる。そうするともう町は再建できない。
小高の隣は浪江町でありその影響も隣り合っているから大きいとなる。
鹿島だとまだ相馬市もあり原町もあるから暮らしにはそんなに困らないのである。
今の社会は広域社会だから一つの町が崩壊すると隣でも影響が大きくなる。
閉鎖された自給自足社会ではない、だから他にも移り安いのである。
それで何か故郷でも簡単に崩壊して再建できないのかとなる。
江戸時代の天明の飢饉の時はやはり村かの逃散がありその人たち江戸とか都会に流れてスラム化したとか無宿化したことなどがあった。
現代ではかえって一億もらったらそれを資本にして暮らせる。
かえって大内村の人は郡山市に避難していい暮らしになり便利になり大内村に帰りたくなくなったのである。
年寄りはどうしても病気になるから病院とか医者が多い都会がいいともなる。

その人は鹿島は住みにくいとか差別されているとか言っていた。
何もしないでいるのも批判されるし回りの目が違うとかなる。
それは自分も前に小高の人は帰れと言ったとき、鹿島の人はそういう気持ちになっている小高の人は補償金もらっていて遊んでいるとか見られている。
鹿島では少ないから不満が大きい。
それで共産党の市議会候補が小高のように「乗合タクシーを鹿島にも作る」と言ったのは好感がもてる。介護タクシーも鹿島にはな原町から呼ぶと一万かかると言われた。
普通のタクシーでも4000円くらい片道かかるから高くなるのである。
つまり何か小高は鹿島から見ると何でも優遇されていると見られているからだ。
実際そうなっているから鹿島の人は小高の人を良く思っていないのである。

では小高の人たちは避難区域が解除されたときどうするのか?
結構厳しいものとなかもしれない。
復興団地でも家賃が七万では高いなと思ったからだ。
仮設は無料であり援助もあるからだ。
だから今はいいにしても避難区域解除されると原町の避難区域でも解除されると困ると東電に訴えたことでもわかる。
収入がたたれるし何で生活していいかわからなくなるだろう。
回りからも冷たい視線をあびている。それはここだけではない原発避難者は良く見られていないからだ。
だから放射能廃棄物処理場に反対もあるがそこから定期的に土地代が収入としてあれば他に移っても生活できる。
だから避難区域の人でも反対しているが収入を考えると仕方ないとかなる人もでてくる。第一帰らないとなるとそこに住まないのだから放射能廃棄物処理場になっても被害はないとなるからだ。
ただ帰還することは絶たれということはある。

でも放射性廃棄物は隣の町でも飯館村でも南相馬市でも相馬市でも回りに影響する。
なぜなら汚染された水が流れてくるからである。
ともかく避難区域が帰らない人が増えるとさらにみんな帰らないとなる。
そうすると廃村とか町まで廃墟と化してしまう。
そこで自分の近くの神社の誰もお参りもしない墓が捨てられ放置されるようになる。
何かそこには幽鬼がさまようような異様な感じになる。
ただ近くの神社はとにかく人が住んでいれば自分のように墓の年代を見たりして
郷土史として興味をもつことはある。
誰もすまなくなったら誰もふりかえらなくなる。
猫すら住まなくなる。猫も人が住まない限り住めないのである。
猫がいるだけでも何か何もいないよりはいいとなる。

市議会選挙は誰に投票していいかわからない、でも具体的政策で「乗合タクシーを鹿島に作る」ということを言うのはわかりやすいとはなる。
たた共産党ということで抵抗はある。
他の人は何か具体的な政策を出していないのは選択しにくいのである。

タグ:原発避難者
posted by 老鶯 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)


秋葉神社の墓


(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)

23ya1.jpg

mori1.jpg

明治に森忠太郎という人が寄進している。
その森家の子孫はまだ生きている


ここに天明の墓があったことは意外だった。

天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。

ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。

ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。

ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。

明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。



ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。

この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。

「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。

これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。

加持祈祷が商売だったのである。



そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。



離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97


 

天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って

越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。

それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。

原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。

それが社会変革につながる。

これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。

それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。

人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。

でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。

実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。


 

こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。

だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。

つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない

生活の中で活きていたとき意味があった。

だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。

車もないし遠くへ行くことはない生活である。

毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。

身の回りのことでも近くてすましていたのである。

第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。

確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。

汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。

それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。

平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。


 

神社は子供の遊び場にもなっていた。

自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。

そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。

魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり

近くにあるもので用をたししていた。

地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。

米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。

他の県から九州とか来るはずがなかった。

バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。

自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。


 

何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。

東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。

高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。

あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。

企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。

その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。


 

今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。

文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。

今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。

第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。

ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。

だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。

それが学生運動が起きた原因でもあった。

一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。

その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。


 

いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。

今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。

隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。

まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。

だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。

そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。

そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。


 

現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。

そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。

現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。

生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。

ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。

今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。

貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが

食べたくないと言って死んだいった。


 

だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。

これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか

こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。

そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。

生きているうちはなかなかわからないのである。

やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。

でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。

これは大きな国の歴史でもそうである。



 

歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。

そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。

ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。

だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。

戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。

それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。








タグ:天明の神社
posted by 老鶯 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

時間軸で形成される文化の理解はむずかしい (歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)


 
時間軸で形成される文化の理解はむずかしい

 
(歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)


●空間と距離の制限はなくなった

現代は空間的には地球大に広がっている。飛行機でどこにでも行ける。地球の裏側からも物が食料でも入ってくる時代である。空間の障壁はなくなっている。
江戸時代あたりまでは空間の障壁は大きかった。遠くとの交流はむずかしいから自給自足の村でまかなって外部に頼ることはないし頼れなかったのである。
鉄道ができたとき日本国内で空間をさえぎる障壁がとりはらわれて交流するようになった日本人として意識されたのは明治維新で鉄道ができたからたというのもある。
物流でも人の交流も一気に何百倍となったかもしれない。

現代は交通の便が格段によくなったから空間の障壁、距離の障害はなくなっている。
通販は本当に便利だと思う。
なぜなら何かを買う場合、店で選ぶ方がめんどうだし不便なのである。
例えば今最新のデジカメはなにかとか自分に適した今必要なものを手に入れるとき何でも通販でキーワードで探す方がぴったりなものに出会う。
そししてボタン一つ押せば次の日は届いているのである。
その人によって必要なものは多様化しているから余計にそうなのである。
田舎だと何か目立ったものしかみんなが使うものしか電器店ですら置いていない。
大型のテレビとか何か決まりきったものしか置いていない。
でも通販だった中古品から何でもあるから驚く
自分が今必要なものが手に入るからいいのである。
店でも隣近所に店があったがスーパーになり今度はイオンなどの郊外のショッピンクセンターになりと拡大して今度は通販になっていくというのも時代である。

ryuutuu1.jpg


情報というのは常に今必要とするものがある。
困ったとき近くに聞く人がいない、相談する人もいない
それはもうこんな複雑な社会では答えられる人もいないのである。
生活保護が何だろうとなるとこれもめんとうだけどそうしたインターネットで情報は深く詳しい、だから何とか対応できた。
現代はもう複雑だから経験ある人年寄りでも相談して無駄であり年寄りの価値はなくなったのである。
それでも会社勤めして専門性のある技術者は自給で7万のところもあるというから驚く。
そういう専門性のあるものはそれだけの価値かあるのが現代でもある。
部長とか課長とかの経験は役に立たない、専門性があれば退職して金を稼げる時代である何かスキルをもつことが現代では要求されているのである。
ただ年取って何の価値もないのである。

●文化は一様化できないから理解するのがむずかしい

ただここで問題なのは距離の壁はなくなっても文化の壁はなくなるない
文化とは何かというといろいろ多様であるが例えば言葉の障壁は簡単に取り払われない、英語を共通語にしようとすることがあるが以前として言葉の壁は大きい。
その国の言葉がなくなば文化も喪失するから簡単に英語に変えることはできない
だからポリネシアとか南洋の島々では多くの言葉が違っていた。
それは方言ともにていた。そうなると意思疎通もむずかしくなる。
その言葉がそんなに違っていたのはやはり土地土地で違った文化が育まれたからだとなる言葉もその土地から生まれるから違っているのである。
日本では四季が豊かであり俳句が生まれたのはまさにそういう風土によって育まれた。
日本語でも各国の言葉でもその土地から生まれるている文化だからその障壁は大きい。
文化はそのように距離を空間を克服しても相違が生まれる。
その相違の故に文化は価値がある。
明治維新後は鉄道などで標準語も普及したのはいいが江戸時代のように地方地方で育んだ文化は衰退したのである。
みんなコカコーラとかハンバーグを食べていてはつまらないのである。

つくづく文化というのはなぜ理解しにくいのか、それはヨーロッパの歴史でもローマ時代にさかのぼれば2000年とかの歴史がある。するとそこまでさかのぼるとなるとちょっと飛行機で行けるから理解できるかとなるとできない。ローマからキリスト教時代の中世とかも長いし城のあった歴史も長いからなかなか理解しにくくなる。
それは日本だってそうである。現代ある物にばかり目を奪われるから過去を歴史を知ることは容易ではない。今も見ればビルかいたるところにあり工場もあり何かどこも同じじゃないかともなる。でも歴史をさかのぼる城でも何かそうした古くからあるものが理解しにくいのである。それが文化の特徴なのである。

どうも文化というのは空間とか距離の制限がなくなると破壊されやすいのである。
その土地土地がどうして成り立ったのかそういう長い間に作られてきたものが無視されやすい。
原発事故などもそういう地域の文化というか歴史が無視されて建てられた。
科学は何か数学と同じであり世界共通になりやすい、一つの世界共通の言葉が科学でありその基本に数学がある。何でも数字に還元すれば共通になるからだ。
ただその土地土地の風土はみんな違っている。
たから放射能汚染されたとき、風が影響して飯館村があんな大きな住めなくなるほどの被害を受けたのである。この辺では春になると東風が吹くからである。
それが運が悪かったとなる。イワキ地方などは本当に低かった。それも風が関係していたのである。それこそ風が違うというとき風土が違うとなって影響したのである。

●一極集中の情報発信は危険だった

現代は空間とか距離の制限がなくなったとき、大きな問題として地域地域の歴史、時間で積み上げられた文化が無視される。
情報でも経済でも教育でも明治以降は東京一極集中になった。
その弊害は今になると大きくなっているのだ。東京に労働力でも何でも集まり東京ばかりから何でも発信されるということが大きな問題になる。
津波でもNHK一局が大きな力を持つことは危険なのである。
津波の放送でも最初に3メートルが来るということを放送したときこれは気象庁でそうしたにしてもそのことが多数の人命まで奪ったと今になると批判される。
テレビとかマスコミが一局集中だからそうなってしまう。六局あってもそうである。
そうした六局ばかりのそしてNHKばかりに全国民が注視していることは危険になる。
NHKでも気象庁でも的確な判断ができなかった。
地震が起きてから3分ではマグニチュードは判定できないと気象庁の人が言っていた。
マグニチュード8ではなく9だったのだから今までにないことだから判定できなかった。
するとかえって個々人の体感の方が正しい判断をできたとなるが
マスコミの判断にNHKの放送に一局に判断をゆだねていたから3メートルからたいしたことがないとか判断して逃げ後れた犠牲者が多かったとなるといかに緊急のとき情報が大事かわかる。

例えば2ちゅんねるだとかなるといいかけぜんにしろ

「3メートルの津波が来るとNHKで放送した」
「3メートルじゃたいしたことがないよ」
「この地震で3メートルだってもっと大きなものが来るよ」
「10メートルくらい来るかもしれんぞ」
「おい、脅かすなよ」
「ともかく早く逃げた方かいいな」

とか必ずなる。何かあればマスコミの言うことを信用しなくなっているのがネットになった。それも全部は正しくないのにしろマスコミの一方的情報を信用すると危険なのであるこういう対話があるだけで危険だと思い逃げる人も出てくるのである
現実に駅があるところに津波が来たのを見てこれが3メートルかと疑問に思った人がいたがその時すでに時遅しになっていたのである。
これも自分の目で見て自分の判断力の方が正しかったとなる。
だからち一局集中のマスコミは影響力が大きすぎて危険なのである。
報道が一方的になっているからだ。
それは何でも東京一極集中化しているのと同じなのである。
その土地土地からの多様な見方ができないことが危険なのである。
結局今回の津波で原発事故でもマスコミと科学への盲信が大きな被害を生んだ原因でもあったのだ。





タグ:時間と空間
posted by 老鶯 at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2014年11月09日

抽象画(熱帯魚生まれる)


抽象画(熱帯魚生まれる)

nettai123end2.jpg
クリック拡大

redesrflower.jpg
熱帯の花



これも全くでたらめな線で遊んでいたらこうなった。全く予想できないのがパソコンの抽象画である。ソフトが違うと必ず別なものができる。
これもペイントというwin7についていたものである。
これも何か色合いが違って出ているのだ。
それはソフトによって違った色がでているのである。
このいろは絵の具では出せないのである。
これは熱帯魚と見えるからわかりやすい、こういうのは見ている人も一目でわかるからいい。
抽象画のどこがいいとかなかなか指摘できないからだ。
その人の見る目に左右される。
芸術は俳句だってその日と見る目に大きく左右される。
かえっていい俳句が見逃されくだらない月並みのがもてはやされるは
それだけ芸術を見極めること自体むずかしいからである。
タグ:熱帯魚
posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味が見いだされる)


冬菜

(土着して代々生き継ぐことに生の意味が見いだされる)

kohakaaaaaa1_FotoSketcher.jpg


日々に見ゆ生き継ぐものや冬菜かな
墓あわれ誰か参るや残り菊
離れじも祈りの像や蔦紅葉
ヒヨドリの朝に飛びきて冬紅葉
故郷に老いて枯れゆく枯芒
冬の雨また石を打ち時過ぎる

姉残す家に住みにつ冬に入りまた思ふかな5年はすぎぬ
我が一人重しのごとく残りけり故郷に生き死ぬるものかも
諭すとて無益なるかな大いなる石はも黙して冬に入るかな

人間はやはり生命の一つだから土着してゆくのが自然なのだろう。
ある土地に長く住んでいると人間もやはり樹や石のようになる。
ただ人間の生が自然のものと違っているのは人間は歴史人間なのである。
必ず誰でも親があり祖父母がいて何かを受け継いでゆき継続している。
一代で終わらないし何代も重ねて継続した時間を生きているのである。
だから家というものも継続された家には重みがでてくる。
例え親が死んでも子が受け継げばやはり家とともに親も生きている。
なぜなら親の残したものを家を通じてふりかえりその土地に密着していれば
その土地からふりかかるのである。
だから人間は樹や石のように自然となってゆくのは人間も自然の一部だからそうなる。

だから故郷が失われたということはその継続も失われる。
そうなると過去も失われ歴史も失われ先祖が亡霊になるとういこともある。
だから廃村はそうした先祖が幽鬼化して彷徨っているような凄まじい荒廃になっている。もともと原生の自然のままだったらそうはならない、一旦人が住んだからそうなっているのである。
人間は一代だけで生きるものではない、それで生は途切れることはない
意味あることは何度も思い返されその意味がさらに深いものとして残される。
庶民の諺でもそれがいかに今でも通用しているかはやはり人間は変わらずに同じこと繰り返している。カルマを繰り返しているからそうなる。
いづれにしろこの辺の混乱はなかなか治まらない、なんとか十年くらいたつとやっと治まったかなとなるだろう。それは神戸の地震でもそうである。
その傷痕はあまりにも深かったのである。
原発事故のことを考えると冬菜というのをいつも今の時期になると見ているけどそれは昔だったらその冬菜があってこの地に生きていけるという実感をもったろう。
今は野菜はスーバーで買えばいい、どこからでも入ってくるという感覚になっている。
そのためには金が必要だとなり金に追われるようになった。
実はそのことが原発事故を起こした要因にもなっていた。
冬菜というとなにか貧しい生活にふさわしい。もし冬菜とかに頼っていれば地元でとれるものに頼っていれば原発事故はなかった。故郷も受け継がれたのである。
つまり貧しい生活はかえって跡を継ぎ安いということがあった。
回りにあるもので生活していればいろいろな復興にかかる労力も費用もいらない
津波でも家が流されたらあきらめてまた掘っ建て小屋でも建てて漁業をすればいいとなるそれでまた海の近くに人は住んだのである
今になるともう便利な生活になれているからそうはいかない
だから住むことあそらめるようになり移動してしまうのである。

人間は年取ってくると自然と死に場所を意識してくる。
どこで死のおうかとなる。それは長く生きた場所がいいとなる。
というより人間も生物だから自然と樹や石のようになってゆくのである。
大地に根をはりやがて老木となり枯れてゆくのが自然だとなる。
百歳まで生きたりしたらそうなる。
故郷に生き死ぬというのも自然であり幸いだったのかもしれない
都会に出て死ぬというのも何か殺伐とした感じになるからだ。

今年の気候は何か変だ、冬になっているのだが庭の楓が紅葉していないのも変である。
ただ冬紅葉している所もある。季節感が狂うのも日本でなくなる。
日本はとにかく四季があってその心持ちも変化してゆくのである。
他の国ではこうした季節感がない国が結構あるからだ。
あの祈る像も何か願いがあってここに建てられた。人の願いがあって建てられたのであるただそれは何かわからなくなって放置された。
でもここの土地に根付いているように祈っているのも不思議である。
何かを形として残ろうとしているのかもしれない。
つまり何らかの心が反映されて形となって残っている。
その心が何であったかわからなくなってしまうのである。
ただなんでも時間のなかで意味が帯びてくるし重みがましてくる。
石でもそうであり短いと重みが出ない、時間の中で何でも重みが生まれ意味が見いだされる。
古典などは何度読んでも何か発見があるのはそのためなのである。

一年中夏の所もあるしそういう所では何か変化がないからつまらないともなる。
日本は何かと島国でも何か変化の大きい国だと津波などでもつくづく思った。
こんな大きな変化を経験するとは思ってもいなかったからだ。





タグ:冬菜

2014年11月08日

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)



自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

akibaaa123.jpg

秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
posted by 老鶯 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

冬柳(近辺の俳句十句)


冬柳(近辺の俳句十句)

akibaaa123.jpg

fuyanagiiiii123.jpg

天明の碑のあり社落葉かな
荒れ果てし社の墓地や落葉かな
俳翁と戒名にあり落葉かな
鬼風の墓や句を読む冬の夜
路地の奥知られざる家冬柳
なお生きる99歳知るや冬柳
70年嫁ぎて長き冬柳
ここに生き長きものかも冬柳
空家に蕾二つの冬薔薇
秋薔薇三輪ここに照らす月

白き薔薇散りし誰か見るべしや空家の一つ長く住まじも

fuyuuuya11_FotoSketcher.jpg

akiya111.jpg

近くの神社に鬼風という俳人がいた。江戸時代に全国を旅した裕福な商人だったからできた。
その記録も残っているが俳句自体はいいものがほとんどない。たいしたものでなくてもその頃俳句を作れるのは裕福な商人である。字を書けたりてぼときされないと俳句でも作れない、今なら誰でも作っている。江戸時代はそうはいかなっかたのである。
細い路地裏の道の家に冬柳があった。あれも隠されるようにあったからわからなかった。柳は何か幽霊みたいで冬柳となるとさらにそうである。
自分の母親でも百まで生きるとなると長いとなる。
嫁いでからもすでに70年近くもなる。


人間はともかくそれぞれの人生でも短いのだがまた長い。
近くの知り合いの同級の人の障害者が死んだ。
あの人もずっと世話し続けていたのである。母親がしていたが母親も今や寝ている。
心筋梗塞で69歳で死んだ。障害者をもった人も長生きするから延々と重荷を背負うことになる。
精神病院に入れられたまま60歳になっていたという人がいた。
それも長いし一生が精神病院が生活の場だったというのも驚く。
つまり岩窟王のような生活をしていた人が結構いるのである。刑務所に何十年とかなればそうなる。

 
一つの空家があり人が住んでいない、その期間が長いのである。
十年以上はたっているのに空家のままなのである。
その理由はわからないが空家になっているのが長いのが結構全国的に多いだろう。
800万軒の空家があるというから空家の時代でもあるのだ。
この辺では家が欲しい人が多いのだから売ればいいと思うのだか何かの事情で売らないのである。
薔薇は秋にも咲いていたがそれは白い薔薇であった。それが散って蕾が二つ見えた。
ともかく近辺も冬になっている。
この辺の昔の生活のことは別に書いた。「鬼風」の句のことなども別のページとして書くことにした。




タグ:冬柳

NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真 (ここを通った桜が咲いている写真があった)


NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真

(ここを通った桜が咲いている写真があった)

 

sakurakumagawa-thumbnail2[1].jpg

kumagwa2.jpg

kumagwa1.jpg

桜の木は枯れた
でも木が結構残っているのは不思議である。
この辺はほとんど海に接している地域だからである。

kuma333.JPG

harutttttt22222-thumbnail2[1].jpg


熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ



NHKで時系列で20113月の津波と原発事故以後の被災地の状態を放送していた。
原町の萱浜(かいはま)で家族四人もなくした人が出ていたがこれも悲惨だったとなと思う一挙にそれだけ亡くすとなるとその衝撃は大きすぎる。
それでも息子と新しい家をすでに建てていた。
ともかくこういう悲惨な悲劇から立ち直るのは容易ではない
忘れろと言ってもなかなか忘れられないだろう。
ただ近くでも被害にあわない人は家族四人なくなったからといって痛みにならないのである。
ただ自分が苦しめられたことは延々と忘れられないのである。
つくづく自分のみに災いがふりかからないかぎり無関心な利己的なものだと思う
現実自分が苦しい目にあっているとき誰も同情しない
かえってチャンスだと様々なことを苦しめられてきたのである。
だからそのことが自分にとっては忘れられないのである。

六号線から海の方に出やすかったので熊川の方に出た。
あそこがあんなに事故のあった原発に近いと思わなかった。
なかなか原発は意識しにくいこともあった。
あそこからは原発は見えていない
でもなんか川下ると海が見えて沖に船が行くのが見えた。
桜が咲いてのどかな風景だと思った。
あそこにもそれなりに家はあった。
誰かが耕して休み船を見るとかいう俳句を作っていたがあの辺だったのだろう。
畑があり海があればそうである。そういう平和な風景が根こそぎ失われた。

六号線は全線開通している。
だから通販の品物が早く来るようになったのか
六号線を東京から直通だと早くなる。中通り通ると一日は確実に遅れていたのである。
あそこの熊川の隣は小良が浜(おらがはま)だった。
おらの浜だとして岩城氏と相馬藩が争った地域であり境界だったのである。
六号線を行ってみたいが自転車では行けない、車だと行けるようになった。
でも六号線だけでありあそこには行けない
あの辺は相当な放射線量だろう。
いづれにしろあそこなども誰も住まなくなるだろう。
原野化したがそのままであり津波の跡の海岸線はどこも同じである。
タグ:熊川
posted by 老鶯 at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年11月07日

春の短歌二十首 (平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)


春の短歌二十首

(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)

tutushimama123[1].jpg



(浪江)
高瀬川轟く流れ春の日やそそりたつ巌をまた見む鳥鳴き飛びぬ
岩を打ち轟く流れ高瀬川春日まばゆし奥へ入りゆく
流れ来る二つの川や浪江町春の大地の請戸に展けぬ
請戸港船の並びて春日さすその日も消えて荒野となりぬ
大堀を春に訪ねぬ陶工の技を磨くや大き壺買ふ
夏の日の野馬追いに来る大堀の人帰らじと陶器売るかな
白河に窯を持ちしと相馬焼技伝えつつ浪江に帰らじ
恨めしき原発近く人は消え淋しき家や秋の日没りぬ
(津島)
塩浸し春の日来たりて店により津島に向かふ遠き道かな

津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
飯館ゆ津島につきぬ山陰の道の長しも春の日暮れぬ
さえづりの津島にひびくここよりや二本松に向かふ道の遠しも
津島にそ古き墓あれ浪江より遠きもここに埋もる人かな
(葛尾村)
上りゆく葛尾までや落合に昔の墓や春の日暮れぬ
葛尾(かつろう)に古き農家や春田のありて営みのあり
栄えあれ葛尾大臣山深く近江八景に妻は偲びぬ
(三春)
山路きて三春につきぬ長々と枝垂桜や家そ古りしも
三春なる城跡に立ち相馬との縁(えにし)の深く春の日暮れぬ
めご姫の伊達に嫁ぎて伏見へと三春思ふや春の日あわれ



今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

 「冷田」の場所は、谷津の開口部に当り、台地を流下してきた水が出てくる位置でもあります。谷水が溜るような土地であったかもしれません

 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない

 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
 
 同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
葛尾村も落合に明暦の碑があったように古いのである。
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
三春は相馬藩とは歴史的に相当に縁が深い、争いがあっても殿の姫が嫁いだりして縁戚関係にあった。三春のめご姫は伊達政宗に嫁いだことで有名である。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。

それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。

大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる


春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ)
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html






タグ:春の短歌

古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった (一番恐れたのは水難)


古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった

(一番恐れたのは水難)

古代人が一番怖いのは水難なのよ!
洪水の多いこの国において 
よもやのときに水の来そうな場所に絶対に古代人は住まない!
いくら 海 河川が近い場所でもそこは必ず小高い丘
絶対に水の来ない場所にしか古代人は住まないんです!
東北大震災は水難だったが 古い神社が残ったのは
古代の流れを汲んで 小高い場所にあったからなのだ!


 
このことは他でも言われてきた。エのつく地名で考察したがエは江となっているがこれは当て字である。実際は突き出たところの高台になる。縄文人は水難にあうような場所には住まない、その継続として神社も高台にあった。八龍神社が全国に多いけどこれは水難をさけるためのものだった。そもそも日本の地形は平地は湿地帯であり盆地も湖で住めなかったのである。それで蝦夷(エミシ)の日高見の国というのも高台の国とかなる。
それは中世になっても館という地名は後の城だけどみんな高台にあるのだ。
鹿島区では真野中館も山の上であり屋形の岩松氏の本拠地も高台である。
最後に平地の田中城の攻防で相馬氏が勝利を納めたことでもわかる。
あそこの田中城はぎりぎりで津波の被害からまねがれた地域だったのである。
あのまわりは湿地帯でありすぐ近くに海が広がっていたのである。


上毛野(かみつけの)伊奈良の沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され  万葉集3417

消えた湖の伝説その1
http://nire.main.jp/sb/log/eid27.html

万葉集にはこうした太古の日本の地形とかの継続があり歌われている。

舒明天皇(593?)御聖歌

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見すれば 国原は 煙り立つ立つ 海原は かまめ立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

ここに鴎がでてくるのが謎とされる。海がなければ鴎は飛ばない、でも琵琶湖には鴎が群れていた。淀川をさかのぼり鴎が来る。
奈良も盆地はが湖だった。川をさかのぼればその湖に出るのである。
万葉集の歌は日本の太古の情景と通じていたのである。その継続があり歌われていた。
日本は平地は湿地帯であり沼や湖が多いのである。だから平地にはまず最初は住めなかったのである。海岸地帯でもそうだった。
もちろん今回の津波でわかったように海に接して住むことはありえなかった。
今回の津波で日本の太古の状態が再現されたことに驚いたのである。
神社が一般的に高いところに建てるのはそうした日本の地形に由来していたのである。

日本の地形は海と山と湖と谷の地形である。平地は湿地帯であり湖で住めない所だったのである。福島県でも猪苗代湖が福島県の真ん中にあることでも象徴されている。
福島盆地も広いが湖だったとされている。盆地の平地は湖だったのである。
盆地は四方が山なのだから川の水が流れ込むと当然そこは湖化するのである。
そうした太古の情景を見たら日本は信じられない美しい国だったとなる。
今は盆地は都会化しているからそうしたことを想像すらできなくなっている。
今回の津波でわかったことは自然の恐るべき力であった。津波は徐々にではなく一気に変えてしまったから恐怖だったのである。
中国では国が二つに割れたという漢詩が残っている。


岳陽樓に登る   <杜 甫>
がくようろうにのぼる  <と ほ>
昔聞く 洞庭の水
むかしきく どうていのみず
今上る 岳陽樓
いまのぼる がくようろう
呉楚 東南にけ
ごそ とうなんにひらけ
乾坤 日夜浮かぶ
けんこん にちやうかぶ
親朋 一字無く
しんぽう いちじなく
老病 孤舟有り
ろうびょう こしゅうあり
戎馬 關山の北
じゅうば かんざんのきた
軒に憑って 涕泗流る
けんによって ていしながる
ーーー
 昔から洞庭湖の壮観は話に聞いていたが、今初めて岳陽楼に上(のぼ)って見わたすことになった。
 呉・楚の地は国土の東南部でこの湖によって二つにひきさかれ、はてしなく広がる水の面には天地が日夜浮動している。
 
 
今回の津波はまさにこれとにた経験をしたのである。
日本列島も実際は東西で分離していたが天変地異で結合したとき倭国大乱が起きたとか東と西の戦争になったとか考察している人もサイトにいる。
九州も内陸部に大きな湖があって二つに分断されていたとか言うのもこの詩とにている。中国はそれだけスケールが違う自然の驚異があった。
自然は固定していない、変容している。大きな変動が起きて社会そのものを変えてしまうことがあった。今回の津波はそういうことがあるのだと実感したのである。
津波がきて問題にささたのがなぜ危険な海岸に接して住居が密集して住むようになったのかという疑問である。それは原釜とか磯部とか海老とか烏崎村とか他でもそうである。
それはやはり海岸に接して住めば便利だからである。
魚とるのにも港との機能としても舟が入るのにも便利だから住むようになった。
車もない時代は遠くから通うことなどできないからそうなる。
農業でも前田とか門田とか中心になるのは遠くに働き場所があったら不便だからである。
すぐじき前が働く場所だったから楽なのである。
人間では危険でも便利な場所に住むし便利なところから離れられないのである。
だから三陸などでは明治時代にも一万人以上死んでいるのにまた海岸に接して住むようになったのである。それは便利だからそうなったのである。
明治時代なら祖父母からさえその被害を聞けるのにそうなっていたのである。
人間は一度豊かな生活でも便利さを覚えるとそれから逃れられない。
今や車なしでは生活できないから車がない社会は考えられないのと同じである。
現実にいくら交通事故が起きようと車を使っているから危険な海岸線に住むなといっても
便利な暮らしから離れられないのである。


タグ:日本の地形