2014年12月31日

近江の秋の俳句と短歌連作 (東北とも福島県と近江は古代から関係していた)


近江の秋の俳句と短歌連作


 
(東北とも福島県と近江は古代から関係していた)

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湖の道


秋深む銅鐸古りぬ近江かな
一葉の紅葉の浮きぬ竹生島
三井寺に鐘なり暮れて秋の湖
秋風や昔の栄堅田かな
秋鴎あまた群れ飛び浮御堂
一時を塩津に止まる枯木かな
湖西線日本海より秋の暮
高島に家型古墳や秋の暮
彦根城望む琵琶湖や刈田かな
織りなせる近江の興亡紅葉散る
秋深む金箔の瓦夢の跡

塩津駅あわれ一時とまるかな枯木に家の数軒見ゆかも
高島の野に宿りして奈良遠く淋しさ募る秋の夕暮
奈良よりし琵琶湖をわたる船のあれ菅原の名や秋の夕暮
義仲寺に秋の柳のそよぎつつ誰かたずねむ古き井戸かな
高島をたずねてあわれ湖に鳥居や波寄す秋の夕暮
堂々と家型古墳残りける誰が君眠る秋のくれかな
多賀神社たずねて帰る電車かな窓にかそけく月の見ゆかも
幾度かたずねてあわれ近江かな波音ひびく秋の夕暮
旅路きて真野の入江や葦枯れて鴨の浮きにつ京を離れ見ゆ
清盛の瀬田の唐橋馬に乗り勢い良く渡る歌の残りぬ
石山寺たずねあわれ一隅に源氏の間や秋深むかな
石山寺石に誓ふと信心の歌そ詠みける秋深むかも
一望に近江平野や信長の天守に望む天下ふぶかも
比良の山伊吹の山や打ち仰ぎ秋の陽没りぬ琵琶湖光りて
韓国に近江の人と会いにつつ別れるし秋を偲びけるかな
葛尾(かつろう)に近江八景模し作り庭に偲びぬ秋のくれかな



どういうわけか近江には3回くらい行っている。近江は琵琶湖もあり風光明媚であり歴史もある。三井寺の鐘は奈良時代となるとやはり古い。あそこで確かに鐘の音を聞いた。
しかし記憶も薄れてゆく、ふりかえると自分ほど旅した人もいない。
それも何かただぶらぶらしていただけである。あてもなくそうして旅していた時間がなつかしい。
多賀神社などたずねる人は少ない、伊勢神宮は今でも多いけど多賀神社はたずねない。
でも多賀神社は昔は伊勢神宮とも並んだ大きな神社だったのである。
そんなところまでたずねて電車で帰ったその時乗っている人も少なくかそかに月がでていた。
それも30年前とかなると記憶も定かでなくなる。
ただ近江に関しては地理的にわかりやすいことがあった。

でも旅すると方角がわからなくなる。どうして湖西となると西になるからあの方向が西なのかわかりにくい。東となると東であるがこの辺で東となるとどうしても海側なのである西となると山側になるから方角的にわかりやすい、旅すると方角がわからなくなる。
湖西線は日本海から回って京都の方に通じている。
塩津駅は印象に残る場所である。古代でもそうであり万葉集にも塩津のことは歌われている。つまり琵琶湖を船でわたってきて塩津の港で日本海の方に向かったのである。
太陽が沈む方向は湖西線の方であり比良の山の方である。
t錯覚していたのは菅原は高島に近い方だった。湖東の長浜の近くだと思っていた。
つまり何かこの方角が旅するとわからなくなる、錯覚するのである。
ただ近江がわかりやすいのは中心に琵琶湖があるためである。

近江に魅力を感じたのはそこが都会ではない、関が原を出ると広々と近江平野が望まれ解放された気分になる。

浅みどり三上の山の春霞たつや千歳のはじめなるらん(大江匡房)

この山は形がいいし目立つ、電車が走りこの山を望むと気持ちがいい。
あそこが電車が走っていて一番気持ちがいい、でも大津になると都会化して高層ビルなどかあるからいいと思わないし京都までも家が繁華で広々とした解放された感じがなくなるそれは大阪もそうであり神戸辺りから瀬戸内海を望むとほっとするのである。

近江は相当に歴史がある。らその点でも魅力がある。いろいろな歌も残されているのも魅力である。京に近く東への出口となっているのも魅力である。つまり近江は地理的なものと歴史的なものが積み重なって魅力を作っているのである。日本の要、要衝の地になっているからである。奈良時代は奈良から敦賀などの通り道であり越の国へ出た。
そして一番古いのは敦賀はツノガノアラシト伝説のツノガでありこれは朝鮮半島から来た製鉄技術などをもった渡来人の一団だった。
そしてそれはみちのくと深く関係していたのである。
今回の東北の大津波で津神社が津波神社だと話題になったがそれは嘘だった。
津神社はたいがいつのみやとか言われたものが津神社に漢字化されてわからなくなったのである。津(つ)神社とは言わない必ずツノミヤ神社と言っていることでまぎらわしく誤解されたのである。すてに700年に浪江の棚塩に津神社が祭られていたのである。それはツノ神社でありツノガノアラシト系統の製鉄の技術をもった人がわたってきたのである。

近江は意外と東北と関係が深い、古代も近江系統の渡来人が来ていた形跡がある。陸奥の真野の草原の万葉集の歌は地名が三つでている。陸奥と真野と草原(かやはら)である。
草原には異論があるがこれも地名らしいのである。真野という地名は近江にもあるし吉備にもある。もともとは味真野が越にあったように葦き間から見える野だったのである。
近江の古代は今の大津や堅田ではなく高島町が中心だった。
だから立派な家型古墳が発掘された。それは本当に貫祿のある石作りの立派なものであるそこから金銅双魚も出ている。それは真野の草原(かやはら)の歌われた鹿島町からも出ているのだ。そこにも一つのつながりがある。
戦国時代は日野から蒲生氏郷が会津の領主になったことは有名である。
それから石田三成は戦国時代に相馬藩と深く関係していたのである。
なぜなら三成の旗が江戸時代の野馬追いの絵に出ていたからである。
自分の住んでいるすぐ近くの田中城にもきていたというから不思議である。

それから近江商人というのも有名であり相馬藩の元の中村に支店を出していた。
東北でも近江商人の支店が結構あった。
それから面白いのは製鉄で財を築いた葛尾(かつろう)村の葛尾大臣という跡が残っているがそこに近江から連れてきたという嫁をヨネという女性がいた。
その女性が近江八景を模した庭を作って故郷を偲んでいたのである。
自分も韓国の旅で世話になった人が大津の人だったというのも縁があった。
だから近江には特別興味をもっている。それだけではない近江は風光明媚であり歴史もあるから魅力がある、大阪だったら大坂城だけしか歴史がわからないからである。

 
ともかく近江は歴史絵巻物として書きやすいのである。織田信長の安土城もあるし古代からち中世から江戸時代と歴史てとして重層的に継続されているものがあった。
奈良というと京都に都が移ってうらは田舎化したという歴史の継続が断たれたこともある奈良は古代で歴史が途絶えたが京都と近江は江戸時代でも職人の町商人の町としてつづいていたのである。
それも東北と関係していたということが魅力になるのである




タグ:近江の短歌

2014年12月30日

来年は正念場の原発避難民の小高の人 (広域社会グローバル社会の矛盾が顕著になった場所)


来年は正念場の原発避難民の小高の人


(広域社会グローバル社会の矛盾が顕著になった場所)


●小高は帰らざるを得なくなる人もでてくる

来年でほぼ避難区域が解除にされると小高に帰るのか帰らないのか決めざるをえない
再来年にしろ来年で決めざるを得ない
補償金も打ち切られると厳しくなる
すると小高の外に住居を確保できない人は小高に土地と家があれば帰る他ないと決断する人もでてくる。
今日会った人は街内の女性だが帰るという、年配の女性であった。
今まで小高の人で帰るという人に会ったことがない
だからめずらしいなと思った。

仮設は後一年と何カ月かで撤去される、それで原町区に避難者を集める区域を作るというから住む場所を確保できない人はそこに集めるのだろう。
でもいつまでもそこちにも住めないとなるとどこかに住居を確保せねばならない
小高に帰らないとすると原町区と鹿島区だがみんなが土地と家を確保はできない
新しい家を建ったのはわずかだろう。
やはり年配の人は小高に帰らず家を建てたがめんどうなことに加わりたくないからそうしたという。
結局原発事故で起きた事は何なのか?
それか原発事故があったからではない、その前にあった社会の変化が極端な形で顕在化したのである。
広域社会とかグローバル社会が田舎であっても社会を変えてしまったのである。
そもそも原発自体がこの辺では社会を変えていたのである。

何か会津とか違って浜通りは羽振りがいいと言われたのは本当だったのだろう。
それは原発があったし火力発電もあったしそうした所から税も入っていたし働く場所もあった
ただそれでも不景気不景気だということは聞くことが多かった。
それは日本全国の問題でありここもそうした影響があったからである。
原発も出稼ぎしないとか過疎化をくい止めるとかそういうものとして積極的に受け入れられていたのである。
ただこの辺は東京に近いから結構工場も多いし岩手県とか青森県とか秋田とも違っている中通りの人はあそこは便利だから原発でも移住する人がいないというのも確かである。
中通りは一番交通の便が良く便利なのである。

●なぜ町や村全体が解体したのか?

原発事故だけでこんなに町や村が解体するようにはならなかったと思う。
放射能問題があるにしろ果たしてそれだけで町や村が解体して放棄されるたろうか?
現実に最近、大熊町でも双葉町でも老人などは帰りたいという人が増えているという。
やはり長く住んでいればそんな簡単に捨てられないだろう。
つまり現代が広域社会の中でグローバルの中で生きているということか相当に影響したのである
昔の自給自足の地域社会とは村社会とはあまりにも違った社会になっていた。
江戸時代だったらもう簡単に移動できない、飢饉のときはやむなく農民の逃散などがあったがそれも命懸けとかなっていた。
村を出たら生きられないような社会である。

明治時代になったとき鉄道の切符が手形代わりになりどこでも行けるようになった。
要するに今のように金かあれば移動が簡単であり住居も移すことができるようになったのである。その変化は実際は相当に大きかった。
日本のどこにでも行けるどこにでも住めるという社会は大きな変化だった。
そういうことができるようになったのは日本全国か金の力が大きくなった。
つまり日本全国で人も物を自由に流通するのだからそのために金が大きな力を持つようになる。それは今度は人も物を自由に流通するグローバル社会に進展したのである。
「金」さえあればどこの国でも住めるとまでなる社会である。
金さえあれば何でも手に入るという社会である。

この辺では原発事故でもなぜ補償金でもめたことでもわかる
仮設に住んで補償金をもらえて何ら生活に困らないのである。
これだけ人が移動すれば広域化やグローバル社会になっていなかったら移動した人は困窮して周りの人に助けを求めたろう。
それは最初わからずに雇ってくれと来た人がいた。
でもそれが逆だったのである。金をもっているのは避難している人たちで避難場所を提供した地域の人はかえって雇われる人になっていたのである。
「俺たちは金はあるぜ、お前ら金ないから雇ってやるよ、俺の元で家事をしてくれ」とかなっていたのである。
そういうことで南相馬市は小高、原町、鹿島で分断されてしまったのである。

●広域社会グローバル経済社会の矛盾

広域社会とかグローバル社会の矛盾が極端化している場所にもなっていた。
「一億円補償金はらうからどこでもいいからそれでやり直してくれ、暮らしてくれ」
「それはかえってありがたいな、もっといい便利な場所で生活しよう
、姑からも離れられるからかえっていいんじゃない、・・」
若い人は特にそうなってしまったしそういう広域化グローバル社会はそういう精神になっていたのである。
もともともう故郷にこだわり住むということから離れていたからこういう機会にそれが現実化しやすかったのである。
ただ街場の人が帰りたいという人が少なく農家の人が帰りたい心情はわかる。
代々その土地に住んでいた人は帰りたいとなる。
そうは言っても今はみんな農家てはない、会社員化しているのも農家である。
だから代々その土地で住み執着するということでもなくなっている。

原発事故の原因はいろいろあった、現代文明そのものもの問題でもあった。
一人一人の生活をみると贅沢になりすぎたのである。
それぞれが何でこんなに欲深くなっているのかということがあった。
借金してまで立派な家を建てる、常に金がたりないたりないとなっていた。
だから金になれば何でもいいとなっていたのである。
原発でも何でもいい、金さえなればそれでいいとなっていた。
すべて金で計られる社会はそうなってしまうのである。

それで浪江の会社経営の人が仕事をくれと前の仲間に頼んだらお前らはたんまり補償金もらっているんだから仕事もいらないだろう。
こっちももらいたいわとかなって協力しないのである。
「絆」とかなんとか言われたがこれも言葉だけに終わってしまったのである。
地元ではほとんど協力していない、避難民をかわいそうだとか同情もしていない
あいつらたんまり補償金もらって得したなとしか思っていない
かえって金によって人の心も分断されたのである
それは別に原発事故が起きたからではない前からそうなっていたのである。
そういう社会が原発事故で極端なものとして顕在化しただけなのである。
ただ最初の内は物資が入らなくなり何とか運んできてくれ助けてくれと全国に呼びかけたその時物資を運ぶことが助けることだった。
でもやがて別に金を払えば何でも送ってきてもらえると前と同じになった。
物を運んできてくれたから助けてもらっているとは思わない。
金で運んできてくれるし金を払えばそういうことはしてくれるのは当然だとなって前と同じになったのである。

ただでは金さえあればいいかとなると避難した人はたちはそうはなっていない
前だったらそれでもいい面はあったが大挙仮設に住んで金があるからと使ってやるとか自分たちのために働けとなると回りから反発される。
それでイワキでは大熊や双葉の避難した人達ともめた。
なぜなら避難した人が土地を買い立派な家を建てて地元の人は建てられないからである。普通避難民とかなると戦争であれ何であれ悲惨なテント生活とかになっている。
それが全然違っている。かえって金が入り贅沢な食生活になったとかもある。
これも原発事故の変なことだったのである。
それも結局は現代の広域社会とかグローバル社会となったことがもともと原因していたのである。
結果的には飢饉になったら相馬藩内でしかたすけられないとかではなく全国から援助があから助かるともなる。
一方で広域社会グローバル社会の矛盾が顕著になった地域にもなってしまったのである。

東京辺りから老人か金があるからと田舎の施設でめんどうみてくれと言われる。
でも金があるからといって田舎でそうした人達を歓迎するのかとなる。
高級な金持ちの入る施設でもいいことばかりではない、金でなんでもかなえられるわけでもない、金を全面に出すと嫌われるし金があっても老人は弱者なのだからいじめられることもある。
だからいくら広域社会グローバル社会でもすべて金で解決することはできないのである。
原発事故周辺の問題はグローバル社会の世界的な問題でもある。一地域でもグローバル経済社会の中に組み入れられてしまっているからである。そもそも金がドルが世界中で通用していることことが如実に物語っている。自分にしてもアメリカの投資でもうけていることが矛盾なのである。そうした金の世界から批判しても離れて生活できない
だからもう資本主義は矛盾であり限界だから世界も破壊するから崩壊すると言われる。
資本主義社会の大崩壊がまもなくやってくる。
それで世界がどうなってしまうのか誰も予想はつかない、金は紙屑になり物々交換の世界にもどる。同じではないにしろ貨幣より物だとなる、具体的な使用価値があるものであり紙幣は通用しなくなる。そういう境目の時代にきている。
2015年は資本主義社会の破局のはじまり?



posted by 老鶯 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

年の暮の短歌十首 (小さなる町に生きて・・・)


 
年の暮の短歌十首


(小さなる町に生きて・・・)

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今日の朝日


盆栽に根を張りしとと冬の雨

吾が母を介護しあわれ年暮れむ家を維持すと勤む我かな
掃除しつ料理をしつつ吾が家に勤めいそしみ年も暮れなむ
吾が家に勤む女あれ一年を過ぎて親しむ年の暮かな
我が町の花屋によりぬ新年を飾りを作る我が買わむかな
路地裏に誰が目をとむや残り菊日々に通れば目につきかも
この道を往き来して気になりぬ五賀の姓の墓年も暮れゆく
我が病癒えにけるかな新しき年迎えるに心剛しも
小さなる町にし生きてあわれかなそれぞれの勤めここにあるへし
仮設住む人の手入れす盆栽や日々に通りて年も暮れなむ
仮設住み働かざるは悲しかな我も働く一人にあれば
赫赫と朝日昇りて年終えむ我が体に力みなぎる

自分の仕事は介護と家に勤めていることである。これは仕事ではないといっても仕事なのである。何か生産しなくても買い物だけでも一仕事になるのが現代である。
何を作るかではなく何を買うかしること自体が現代の生活である。
それを否定しても現実にそうなっているのである。
料理でも何を買うかを知ることが大事になる。そもそも料理を覚える事はずかしいからである。買ったものですましてしまうからである。
ともかく今年一年も家の仕事に追われて終わった。一回しか仙台に行かないし遠くに行けないことは同じだった。
だから毎日一万くらいの町を行ったり来たりしているだけである。
そんな小さな町に暮らしてもやはり何か追われている。

花屋では新年の飾りつけをつていたがあそこの花屋は飾りつけがうまいので買う
川子の高台の墓には五賀の姓があるがこれは越中からの移民である。
この辺の墓には必ず三分の一は移民の墓である。
なんか仮設も四年にもなるけど盆栽を並べ手開く所を毎日通っているとその盆栽に情が移るというのも不思議である。盆栽を一つの樹のように見るということがある。
ただ仮設はもう終ったほうかいい、そこには生活はない
ただ補償金で暮らしているというのは生活ではない
毎日パチンコとか競輪とかギャンブルの生活になったらその街の未来はなくなる。
ともかく何か勤めているものがあればそこから力もでてくる
今年一年はやはり病が癒えたということが大きかった。
くるしかったのは自分の病気をみる人もなく介護とか家のことをしなければならなかったことであった。

年取ると一番怖いのは金がないこともそうだが病気になったら辛い
特に一人暮らしは病気になったら悲惨である。
誰もみるものがいないから余計そうなるのである。
その点では今年は体が回復したので力が湧いてきたので良かった。
そして来年も何か元気でやれると思うと違ってくる
実際は旅だってできるのだが介護でできないだけである
登山でも苦しいが低い山ならできるかもしれない。
病気になったらまず何もできなくなる。
そういう希望すらなくなる。
ともかく今年は自分の体の回復の年だった。



タグ:年の暮

2014年12月28日

抽象画の不思議(深い水槽) (パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)



抽象画の不思議(深い水槽)


(パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)


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抽象画は何なのか?これは特にパソコンとインターネットで起きている新たな現象である
その色は電気の光だから絵の具でないから今までにない色を出しているから不思議な現象となる
そしてパソコンのソフトでいくらでも変化できるから絵が描けない人も作れる不思議がある。
これは本当に不思議だと思った。元になる抽象画も色鮮やかだからこんなものができたのだろう。ただ元の絵と変化させた絵は相当に違っているから原画とは別なものなのかもしれない

ただ自分でもこの変化が何なのかわからない
つまり原画からいくつも変化させてみれるのが抽象画である。
ただそしたらこれは創作ではないのかとなるとそうでもないかもしれない
なぜなら原画とはまるで別なものになって変化しているからである
二つ並べても全く別なものとなっている場合がある
すると著作権違反ともならないともなる

いづれにしろこれはパソコンとインターネットから生まれた不思議現象なのである。
そしていくらでも変化させることができるから固定しないから今までのものとは違っているのだ
タグ:absutruct
posted by 老鶯 at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

盆栽は江戸時代の文化 (育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)


盆栽は江戸時代の文化


(育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)

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盆栽は「年を重ねるほど価値が上がる」のです。
盆栽は驚くほど長寿です。
松柏類の中には樹齢千年を超えるものまであります
http://www.gardenxgarden.com/bonsai/life.html

江戸時代後期の浮世絵に見ることができる。歌川国貞の『ゑん日乃景』には、螢を売る虫屋、金魚売りと一緒に植木屋の屋台が並ぶ。狭い長屋住まいの江戸っ子の生活に季節感と彩りを添えたのは、他ならぬ鉢植えの花々。撫子の鉢を手にした女性の姿は、心なしか誇らしげだ。


金魚売りは戦後十年くらいまで来ていたから江戸時代のつづきがまだあった。
虫屋とはないが虫を愛するのも日本人である。やはり江戸時代から継続されているものはある。

毎日のように通る仮設でいつも盆栽を品評会のように並べている所がある。
今日その盆栽を作っている人に聞いてみた。

「いろいろみんな変わっていて個性があり興味もちました、これまでにするのには大変でしょう 何年くらいかかるのですか」
「まあ、最低で五年、十年は十分にかかります」
「そんなに長くかかるんだ、なんだか気が長いとできないな」
「水やりだけでも毎日30分かかるよ、だからなかなか遠くには行けない」
「土でも狭いから栄養とるとなるとやはり水やりは大事になるんだ」
「絶えず手入れしてないとまた形が崩れてゆくし・・」
「手入れは手間がかかるようです、何しろ生き物だから外から見てわかるな
今の若い人には向いていない、今の年寄りでもこれは手間がかかるからやる人も少ないでしょう」
「まあ、小高では50人とか仲間がいました、だんだんやる人も少なくなっています」
「テレビでやっていたけど外国で盆栽が人気になったとか、これは良くできているから高く売れるんじゃないですか」
「まあ、今は盆栽はあまり高くは売れないです」
「そうかな、なんかこれらは一つ一つかなり価値があるように思える、なぜって5年とか十年で形が作られる、手塩にかけけ育てるものだから価値があると思うんだが・・・」

盆栽で誤解していたのはこれはやはり江戸時代の文化の反映だった。
何がそうかというと盆栽は気長でないと時間をかけないとできない趣味である。
江戸時代にはそうした時間の感覚があった。
木材でも材料として使うのには50年とかかかる、だから山で暮らすのには木材を利用するのには50年かかるとしたらとても一代ではその仕事はやれない、受け継ぐものが必要になるるきだ。三代とかでやっと仕事ができる。実りは三代とかあとになってしまうのである農家でもそういうことがあり三代ではじめて農家として認められるというのもそのことである。その時間の感覚が今とはあまりにも違っているから盆栽は現代のめまぐるしい時間感覚に合わないのである。


だから江戸時代の時間感覚から生まれた文化だったのである。
この時間の感覚は歴史的に違っていて今では理解できない。
今は時間が百倍くらいのスピードで過ぎて行っているかもしれない。
情報でも大量の情報が毎日流れては消えてゆく、その感覚が江戸時代とはあまりにも違っていたのである。
だから文化というのはそうしたその時代時代の時間の感覚とかとも関係して生まれている
現代の時代はモビリティの時代である。モバイルの時代である。絶えず動いている、何かに動かされて追われている感覚である。だから針金で枝を曲げたりしているのが何か悠長になる。もう5年なんか待っていなられない、今できあがったのを見たいのである。

だからこの盆栽の趣味は老人にすら合わないものとなっている。
老人だって他にすることがある時代だからである。
それにしても盆栽には江戸時代からのがまだ生きているということに驚いた。
樹齢500年とかのもある。そんなにこんな小さい盆栽が生きていると思わなかった。
それも時間感覚があわなくなる。そんなに長く生きるものなのかと思わなかったのである小さいからどうしても早く枯れて死んでしまうのかと思った。
すでに江戸時代から残って生きている盆栽があること自体驚きだった。

何か仮設で小高の人もいろいろな人がいたがあの盆栽を並べている一角だけが一番目立つものだった。盆栽に興味もなかったがあの盆栽を見て興味をもったのである。
すでに四年近く仮設で暮らしている。それも長いなと思った。
あういう趣味があれば仮設暮らしも退屈しないと思った。
あの盆栽を作っている人はかえって仮設でその趣味を活かしたまれなる人だったである。
もう正月になるけどあの盆栽はまた正月にもあっている。松だからめでたいとなるからだそして長寿だということが盆栽の特徴だったのである。だから百才の時代にはこうした長生きなものはあっているともなる。でも時間感覚では江戸時代のものだったのである。
文化を理解するのがむずかしいのはその背景となるもの、時間感覚などが今とはあまりにも違いすぎるから理解しにくくなる。
江戸時代はモビリティの時代ではない、一カ所にとどまり定着しする生活だからこまめに盆栽を手入れする時間があり盆栽趣味が育成されたのである。
冬の日がさして盆栽を手入れしているのがいかにもあっている。

タグ:盆栽
posted by 老鶯 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2014年12月27日

熱帯の花(2) (これは著作権違反かも)


熱帯の花(2)


(これは著作権違反かも)


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川と街

これは著作権に違反している。
ただ実験として出した
絵が抽象画に変化しやすいものがある
この絵はそうだった
抽象画は抽象画に変化して無限に楽しめることがある
具象画と違い抽象画が一定の形がないからそうなる
変化させたときまた一つの創作となるのである。

でも元の絵がわかるようだと著作権違反になるだろう。
それでもインターネットで著作権違反を指摘されたことが抽象画ではない
これは俺の模造品だとか言われない
それよりインターネットでは利用されていることがわからないのである
田から著作権違反が指摘しにくいのである。
外国のものだと余計にそうなる。
要するに私的な範囲で変化させるのはいいが
このように自分の作品のように出すのは著作権違反となるかもしれない
ただ元の絵がわからなくななればそうはいえない

これはかなり著作違反と指摘されてもしかたがないかもしれない
実験として出してみたのである。
タグ:熱帯の花
posted by 老鶯 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

「殺してでも金を借りてこい」 「金があるんだから金でめんどうみてもらへ」 これが現代の世相である


「殺してでも金を借りてこい」


「金があるんだから金でめんどうみてもらへ」


これが現代の世相である


埼玉県川口市のアパートで3月、祖父母を殺害し金品を奪ったとして強盗殺人罪などに問われた孫の少年(18)に、さいたま地裁は25日、
懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。少年は母親の強い支配の下で学校にも通えぬ「居所不明児」として育ち、
公判でも「母親から『(祖父母を)殺してでもカネを借りてこい』と指示された」と主張していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141225-00000572-san-soci


金を借りにくる人は怖い、これは金を貸さなければ殺すということを前もって決めてきて借りに来たのだか怖い、祖父母であり子の親が孫に命じたらのだから怖い
金に切羽詰まっていたら人間は金を借りるでもそれは金をくれということでもらえなければ殺すということだから強盗に近い。
そういうこととにた経験をこの七年間でしてきた。
一人は明らかに強盗と代わりない人だった。
最初は知らないから地元だからそんなこと考えなかった。
その人も金がなくて追い詰められていた。ただ贅沢するためのものという面もあった。
普通に子供を育てた大人だからそんな人がいるとは思わなかった。
自分が突然の病気になったとき偶然にその目的が果たされたのである。


もう一人も事業をして借金で首が回らなくなっていた人だった。
それも何か成功して羽振りがいいと思っていたからそんなことわからないし思ってもみなかった
ただ百万とかの単位で金を借りにきて実際その時遺産が入ってきて世話になったので払った。それ以後額が大きいのでその人には何も頼めなくなった。
車を頼んでも百万単位で借金を請求されるから怖い。
自分は借金した経験がないから金がないということはわからなかった。
というより自分はずっと大金など使ったことがない貧乏であり貧乏性がぬけていない
百円二百円にこだわる生活をしてきた。
ただ時間だけが制限なく与えられていただけである。
旅行するにしてもまず食事は最低であり泊まる所も安宿探すのに苦労していたのである。それから自転車旅行でもテントになれば宿賃はかえって節約できたのである。
だから貧乏性であり金にせこいものだった
そういう貧乏性の人は何か百円とか千円とかごまかそうとする
それがなんか悲しい性(さが)なのである

その後も借金を請求されてくれてやった。金を貸さないでくれてやる。
百万とかなればできないが些少の金はくれてやって貸さない
貧乏性の人は金を貸せというのか癖になっている
そして金を貸しても返せないのである。
いづれにしろ犯罪の半分は金にまつわるものだろう。
金の貸し借りで殺人事件は普通に起きている
檀家の僧侶が金を借りるために相談に来て女性を侮辱した
女性は怒り僧侶を殺したのである。
風俗でかせげとか侮辱した結果である。
会津の夫婦が残酷に殺されたのも外部から来た人が借金の相談をしたらしい
それが断られて殺害した、その経緯はわからないにしても借金にまつわることから殺人事件が起きるのが多いのである。

だから「殺してでも金を借りてこい」というとき
それはもう強盗と変わりないのである。
「金を出せ、出さなければ殺す」と変わりない
そもそも金を返すといっても返せないのだから金はとりかえせないのだからくれると同じになるのだ。
金を借りた人で返す人はまれである。
人間の心理として不思議なのは金を借りると物でも借りると自分のもののように思えてくるのである。だから金でも物でも返さない人が多くなる。
土地でも誰かの土地でもそこに居すわれば権利がでてくるようなものである。
だから家を貸すと家は他人のもののようになる。

現実に法律的にも権利がでてくるから800万軒の空家があっても貸さないのである
それはもう貸したら貸した人のものになってしまうことにも原因があったのである。
一旦借りられたら追い出すことが法律的にもできなくなるからそうなる
借りた金もそんな感じになる。まず個々人の金の貸し借りは法律的な縛りがない
だから貸したら取り返せないのである。
消費者金融とかなると法律的縛りがあるし後ろに怖いものがついている場合があるので強制的に返すことが強いられる
銀行だったら担保がないと借りられない、だから個々人の金の貸し借りはとりかえせないのである。

結局この辺も金をめぐってもめて今年も終わったとなる。
原発の補償金問題が最も関心事だからである。
ただ南相馬市では小高意外はたいがい終わっているが個々人では終わっていないだろう。農業して土地をもっている人の補償はまた違っている。

ともかく金のないことも苦しいが金をもっていることも怖い、金のために殺されることは普通にあるからだ。金がなければ殺されなかったろうにとなる。
ただ金回りが良くなるときは人生に一回くらいだれでもあるのかもしれない
生涯金回りが金運がない人もいた
そういう人はたいだい離婚しているのは統計的にも確かである
二人で働くのと一人だけで働くのは全く違ったものになるからだ
もしかしたら金も運なのかかもしれない
金運が回ってくると金が入ってくる。
株などもいくらプロでも失敗している
ただ株でも上り調子の時き下り傾向のときがありそれがめぐりめぐっているのである。
だから上り調子のときは別に投資のプロでなくてももうかる仕組みになっているのか資本主義社会である
株でも十年くらいの長期間で見れば必ず上がるという見通しができるのである
今は上がり調子になっているからここで金運が回ってくる人は回ってくる

ただこんな金に執着する、すべて金になる社会は異常である。
人間がただ金だけがすべてになると悲しい
そうなったらこいつがいくら金になるんだ、金にならないのかそんな奴は何にも関係ないとなる、死のおうがなになろうが関係ないとなる
実際にそうして関係は切れてしまった
病気になったとき今がチャンスだと金を借りる、せびる、金をとる、火事場泥棒になる。そういうことを経験した七年間だった
「殺してでも金を借りてこい」これも極端なもの、それも子供に親が命令しているのだから一見異常で関係ないもきのように見える
ところが人間の社会はかえってそうした異常なことが起きることがその時代の世相を現していることがあるのだ。
最初に遠い親戚が「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらえ」
こう血相変えて勝ち誇ったようにして出て行った女性もそうだった。
それが極端なけどその極端なものが現代の世相を如実に現していたのである。

この辺の補償金問題でも小高の人に鹿島の人などは反発が大きい
そして極端化するとどうなるのか?
「お前らたんまり補償金もらっているんだから金にめんどうみてもらへ、俺たちは協力しない」となってしまうのである。現実にそうなっているのである。
浪江の会社を経営している人が仕事をくれと仲間だった人に言ったら
補償金たんまりもらっているんだからと仕事をもらえなかったということでもわかる
確かに会社なと経営していると億の金をもらえる場合が避難区域ではある。
あの人もいろいろもらっているのだろうなとかんぐられるのである。

「金あるんだから金でめんどうみてもらへ」
「殺してでも金を借りてこい」

これは極端にしろ現代の世相なのである。


タグ:借金
posted by 老鶯 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2014年12月26日

寒さ(今年も終わるー人間に安住の地はない・・・)


寒さ(今年も終わるー人間に安住の地はない・・・)


 
木にしみる寒さやここに耐えて立つ
冬の雁飛び立つ朝や陽の昇る
寒雀群れて騒ぐや里明けぬ
餌あれや百羽の鴨を養いぬ
大き家をかたずけきれぬ年の暮
90過ぎて家もなくなる年の暮

人間は長く住んでいるとその場所に石や木のようになる。
若いときはそういう感覚がなかった。
むしろ故郷にはいたくなかった。
故郷だからいいとは限らないからだ。
ただ人間も生物の一種だからその土地に根ずき石や木のように最後なってゆく
それは理屈ではない、要するに人間も機械ではないからそうなってゆく
だから都会だとどういうふうな感覚になるのか?
そこに土地も土も石も樹も山もないからどうなるのか?
田舎に住みたいというというときやはり人間も生物だからそうなる。
ビルの谷間で死んでゆきたいとは思わない
最後にそんな風景を見て死ぬというのも嫌である。
海でもいい山でもいい森でもいい
大地でもいい、自然につつまれて死にたいとなる

一本の木でもそこに長く根付き立っていた
やがてそこで朽ちてゆく
それは人間が共感するのは同じ生物だからである。
石は朽ちてゆかないけど木は生きて朽ちてゆくから
人間と通じているのである。

動物を見ていて不思議なのは雀でも烏でも鴨でも相当な数がやはり生きている。
餌がなんなのだろうとなる。
鴨の数は今は多い、あれだけの数を養うものが川などにあるのかとなる
猫は人間が餌をやらないと生きていけない
鳥なんかは何か食べるものがある

毎日掃除してもかたづけてもかたづけきれない、それだけ家が広すぎるのである。
家が広いと掃除するだけで手間になる。
今日は母が百才になるので市役所の人が聞きにきた。
長生きの秘訣は何ですか?
「無理をしないことです」
と答えたからまだ正常な意識はもっている
母は無理は確かにしていない、人生は過酷だったけどそもそも細いから無理できないのである。

無理に耐えられない、力仕事もできないむしろ体が弱い
でも長生きしたのは何か無理をしない、省エネタイプだったからかもしれない
男が長生きしないのはかなり重労働を強いられたり体を酷使するからかもしれない
ほとんど外には出ず家の中で過ごしたのである。
ただ家の中にいても危険はある。
洪水になり炬燵の穴に落ちて大怪我をしたし
自分でも外から入ってきた人が強盗のような人だったとか
まず人間はどんなに安全を図っても危険からまねがれないのである。

この世に完全な安全などない、田舎でもそれは同じである。
津波でもそうだった。突然これだけ家に危険があることを思い知らされたのである。
家が安全なのようでも家すら安全ではない
昔なら大火事で家は簡単に焼失した
要するにこの世は無常であり安全などどこにもない
常に変化にさらされ同じであることはない
第一町でも村でもなくなってしまうことなど考えもしなかったからである。
この世に本当に安住の地はない、これほどの変化と無常を経験したら誰でも思うだろう。90才過ぎて津波で安住の地の家も奪われてしまった。
つくづく人生は無常であり過酷である。

タグ:年の暮

2014年12月25日

今年も終わる2014年の南相馬市の現状 (南相馬市は補償金問題で分断して心も荒廃)


今年も終わる2014年の南相馬市の現状


 
(南相馬市は補償金問題で分断して心も荒廃)



南相馬の仮設住宅で女性死亡

 南相馬市鹿島区の仮設住宅で、東京電力福島第一原発事故に伴い小高区から避難している50代女性が遺体で見つかったことが14日、分かった。南相馬署は自殺とみて調べている。
 関係者によると、女性は13日朝に遺体で発見された。一人暮らしだったという。
 市によると、女性宅には市が委託した生活支援相談員や絆職員らが交代でほぼ毎日見回っていたという。

東京電力福島第1原発事故で避難区域となっている福島県南相馬市小高区の住民344人が避難生活を余儀なくされたとして、東京電力に総額60億円を超える損害賠償を求める訴訟を19日、東京地裁に起こした。
 原告側弁護団によると、原告1人につき、将来避難指示が解除されて3年が経過するまでの月額20万円と、ふるさとを失ったことに対する慰謝料1000万円を求めてい
 
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/141219/afr1412190040-s.html (2014-12月)

2014年10月 南相馬市 交通事故多発
昨日、原町区仲町で女子高校生がダンプにはねられ命を落とした。
http://www.police.pref.fukushima.jp/oshirase/kikaku/jiko_minamisouma_141014_066.htm

避難区域外で作付けする農家の戸数は76戸と、昨年の146戸から半減した。市は「賠償金の有無が農家の意欲をそいでしまった可能性がある
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/140511/news1.html

熊井さんは「南相馬市の避難指示解除準備区域の場合、暫定的に支払われる2年分(の賠償金)だけで先は見えない。移転費用の全額賠償をしてもらいたいのが本音だが、浪江町のように区域の別に限らず6年分を一括して支払う配慮がほしい」と話した。(小沢地区)
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/130904/news3.html

郡山市の高校に通う長男が同級生から「賠償金もらっているんだろ」とからかわれたと聞いた。「帰れないなら、市民になるしかない」と割り切り、新居への入居と同時に同市に住民票を移した
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/fukkou-kage/130920/news.html

被災地域の自治体職員の心の病が深刻になっているらしい
新聞などで読んではいたけど、このままでは業務に差し支えかねないとか何とか

ここ小高区も、20から30%の人が帰らないと考えているそうだ
特に郡部より、線量の低い街場の人が多いらしい

近所のスーパーの募集も、年齢の上限が70歳まで引き上げられた
70過ぎても働けるって、なんて老人にやさしいんだろうって話じゃない、
働く人がいない、のではなく働かない人が多いんだという

この頃原町では立派な車がたくさん走っている
外車なんか、医者かヤーサンの乗り物だと思っていたが、、、
Lのマークの車とか他にも高そうな車
相馬郡医師会(此処ら辺のお医者さん)の平均年齢が、
65歳を超えたそうだ、他所がどう何だか知らないが、
南相馬市は、超高齢化にまっしぐらだが、


ここのプログは地元で詳しい
http://musentou2.blog.fc2.com/



今年をふりかえると南相馬市はやはり津波原発事故の混乱状態が継続している。
むしろ深刻になってきた面もある。
一人暮らしの女性が自殺したというのも仮設暮らしに疲れたのか避難生活が長引くとそういう人もでてくる。
女高生がダンプにひかれて死んだというのもこの辺はともかく毎日ダンプが多い。
鹿島区のローソンでもダンプが横転した。昨日も鹿島区で交通事故があった。
これもダンプが多いから事故になりやすいのである。
南相馬市の最大の課題は補償金で分断されて精神的に荒廃してしまっていることである。農家でも米を作っても補償金をもらっていた方が得だとか高齢化もあり米を作りたくないとなる。
前々から米を作っても金にならないとか言ってやりたくない人が多かった。
でも円安になると日本人はいい米は輸出して米さえ食べられなくなるとか週刊誌に書いてあった。
後進国では輸出するために養殖したエビなどは食べていないのである。

だから何でも買っていたら高くつく、前だったら米とか野菜は自給していて食べ物には困らないとなっていた。
いくら補償金をもらっていてもいつまでももらえないし金はいつ紙屑になるかわからない、その恐怖が常にある。
小高の人はまた補償金の増額を要求した。ところがこれも南相馬市内部では特に鹿島区では反発が大きくなるのだ。
まだ補償金もらいたいのか、鹿島区じゃたいしてもらえないで終わっているのにとなる。要するに南相馬市全体で補償金の増額を要求すらならいいのである。
なぜって南相馬市は小高も原町も鹿島も合併して一つになったのだ。
それが前のように補償金でばらばらになってしまったのである。
鹿島区では小高の人に反発が大きい、小高の人は鹿島区に一番多く住んでいるからそうなる。
小高の人達は若い人が帰らないとしたらあとは老人が帰り残るだけになる。
そんなところにすでに老人も帰りたくない、特にその気力もなくなってくるからそうなるでは土地を買って新しく家を建てるとなると原町区の小沢の人のように金がないとなる。鹿島区の大内の人も90才で金がないから家が建てられないと言っていた。
でももうその年になったら新しい家は建てる必要もない、あと何年生きているかわからないからだ。そういう人はかえって施設のようなものに入った方がいい。
相馬市では津波の被害にあった一人暮らしの老人が入れ施設を作った。
一軒の家を作るのはもうあきらめるほかない。

でも新しい家が建ったのを見ると庭の松に雪をつみ海の方から朝日が昇り日がさしてくるそれが新しい生活のはじまりだと感じる。
だからどうしても新しい家を建てた人はうらやましいとなるだろう。
それでも新しい家を建てられる人は恵まれているし少ないだろう。
百軒以上は軽く鹿島区でも建った。これからも建つが建てられない人もいる。

役所の人も様々な問題に対処しなければならないから疲れるというのはわかる。
問題が山積みであり解決方法が簡単に見つからないのである。
小高に帰れというとき水の問題があったのである。
津島の方から水道水を使っていたとなるとその水が大きな問題になる。
そして街場の人は帰らないと言う人が多く農村部の人は帰りたいというのはわかる。
なぜなら農村部は代々土地をもって土地を耕し利用して生きて来たから愛着が深いのである。
街場の人は自分でもそうだが二代目であり農家じゃないから土地に愛着がまだないのである。だから離れやすいということは言えるのかもしれない。

南相馬市は一体これからどうなるのか?
復興事業で除染などで外部からの人がまだ多い。
それで活気あるなと見ている人がいた、それは地元の人でないし錯覚していたのである。地元の人は働かずパチンコ通いだというのも矛盾しているのだ。
働かないで心も荒廃しているのである。
補償金があるから働かなくてもいいということになるが人間は金のためにだけに働いているとは限らないからだ。
働くことには様々な意味があるからそうなる。
南相馬市であれ原発事故周辺の問題は簡単には解決しない。
復興するといっても簡単ではない

何か前々から思っていたのだけど津波や原発事故だけが原因ではない
高齢化とか地方の衰退とかそういったものが津波や原発事故で極端化した
衰退する市町村に最後の一撃を与えたという感じになっている。
もし高度成長とか人口増大の昇り調子の時代だったらこうはならなかったかもしれない
戦争後焼け野原になったのに復興したことは奇跡とされた
それはそのとき人口が増大していたのである。
今は人口が減退して高齢化になっいる。
だからスーパーでも70才まで働く人を募集しているというが働く人手がいないのである。鹿島区のスーパーでは退職した60代の人が働いていた。
簡単な掃除だけど働いていた。必ずしも金銭のためではないらしい。
相馬市の人だからまた南相馬市とは事情が違っている。

いづれにしろ介護でもそうだし医者も高齢化だとかこの辺の環境は悪くなる。
結局何か暗い感じになるし未来が感じられない場所になっている
ただこれまで書いてきたように原発事故周辺は何か現代文明の負の部分が集約的に現れた場所なのである。
だから何か哲学的になり社会運動家を養成するとかいろいろなことを考えさせられる政治的場所にもなってしまった。
だから他とは違った文明を見直すという場を目ざすという場を指向する。
それが何なのか?再生エネルギーとかいろいろあるがそれだけではない
思想的な面で考え方を変えるという場所にもなる。
だからといって山尾三省きようなパンも食えない場所になったら誰も住まないのである。若い人は広域社会になっているから今でも帰らないといっているから本当そんなふうになったら修道士になってしまうし誰も住まなくなる。
でもそうは言ってそういうことを強いられている場所だということもあるのだ。
ここは他とは違ったことを原発事故で指向せざるをえないのである。

自分のことを今年をふりえってみるとこの七年間の介護人生では一番平穏だった。
一回はもめたがまた回復した。
体も楽だし介護していてもさほど問題はなかったから楽だった。
ただ家事に追われることは変わっていない、だから今年は仙台に一回しか行っていない
こんなことはなかったがバスだと行きにくいし何かと用事がかならずあって行けないのである。
ともかく自分の一年は今年は一番平穏だった。
来年はどうなるのか?
また家事に追われあと創作したものをまとめる作業がつづく
本作りというか自家本作りがある。パソコンでできるが全部自分でやるのはめんどうである。
プログにしたって膨大なものを書いているから整理する必要があるのだ。
この整理するのが家のことでも創作のことでもめんどうなのである。





posted by 老鶯 at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年12月24日

南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話 (中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話

(中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


その人は故郷にいるより日立製作所で働いていた。
だから戦争のときも日立製作所関係の技術担当で中国に出征した。
福岡から船で韓国の済州島により上海に上陸して南京まで進撃に加わった。
何かしらないが南京攻撃では中国側にアメリカの武器をもっていて
それで日本兵が多数死んだという
その時アメリカがすでに中国に武器を与えて応援していた
南京は中国の首都であり陥落したことが中国を支配下にするということでもあった。

実際に負け続けた後、蒋介石は”米国が中国を支援しないと共産主義化する”とルーズベルトを脅し、無償武器援助を勝ち取った。(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著の書評)

蒋介石軍に武器援助をしていた。アメリカは中国に肩入れしていた。
 

その人は飛行機の技術担当でありそれで従軍した。
特攻隊は片道の油しかなくアメリカの空母に体当たりする前にほとんど一斉射撃をあびて何ら戦果もなく死ぬだけだったと言っていた。
つまり無駄死にだったとその人は盛んに言っていた。
油は帰りの油がないのだから帰ることができない
だから死ぬほかない、成果があがるもあがらないも死ぬために出撃したのである。

腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し得ないまでになった。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_1.htm

日本は燃料がない、肝心の飛行機でもう飛ばす燃料がなくなっていたのである。
その人の話で一番興味深かったのが捕虜になったときの話である。
南京虐殺のことを盛んに言われるが捕虜になった人はさらに中国人に虐殺されていたのである。

首を木の枠で固定して吊るし餓死するまでそのまま放置するなど、中国兵は様々な拷問方法で捕虜を虐待殺戮したとシメンさんの父は彼にそう言ったという
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html


この写真を見たらショックである。いかに戦争がむごたらしいものになるか、それは戦国時代と同じである。中国人の復讐も凄まじいものがあったのだ。
こんなところで捕虜になったら生きた心地がなくなっていたろう。
その人の話では食べるものなく脱出して食べ物を近辺の農家に盗みに行ったという、
ところがそれを中国人が知っていて日本兵の捕虜を狙い撃ちして殺したという。
これも悲惨な話しである。中国人もいかに残虐だったかということである。
戦争はこういうものだというけど欧米の捕虜になったらここまではならない。
一応捕虜を扱うルールが戦争のルールがあったといえばあったからである。
中国にはそれがなかったのである。

その人が言うにはロシアにシベリアに連れていかれなくて良かったと言っていた。
シベリアの捕虜は最悪だったのである。
戦争で日本だけが残虐だったのではない、アメリカも原子爆弾を落としたように
中国も捕虜を残虐に殺したようにロシアはさらに日本と戦わないのに被害ものないのにシベリアに抑留して殺したのである。
戦争というと日本の残虐性ばかりとりあげられるがどっちもどっちなのである。
戦争というのはもう人間を人間でなくならせるから怖いのである
もう人間の普通の感覚常識すらなくなる。
食べ物がないということは一番苦しい、殺されると思っても脱出して食料を得たいとなる戦地ではもみ殻を食べていたというし兵士は何を食べていたのかわからない。

戦争もだんだん忘れられる。でもまだ90才の人が生きているから20才で戦争に行った人の話が聞ける。これももうやがて直接戦争のことが聞けなくなる。
その時また戦争に対する見方も変わってくる。
やっぱり戦争というのは喧嘩両成敗であり日本だけが悪いというのは欧米とか中国とかロシアからおしつけられた見方なのである。
もちろん日本側も戦争だから人殺すことが戦争なのだから残虐なことはあった。
では原爆を落としたアメリカが残虐ではないのか?
中国の日本兵に対する残虐な殺し方はあまり伝えられないのである。
いづれにしろ戦争の暗黒面をさらしだしたらきりがなく反吐がでるだろう。
だからあんまりそうした暗黒面を見たくないということはあるがそれだと戦争を美化するという危険性が出てくるのである。
だから現実を見るということが歴史では大事なのである。
戦争の現実は眼をおおいたくなるような残虐なものだったのである。
津浪の被害もそうだったが戦争もまたあまりにも残虐なものだった。
ただそれらに眼をそらし忘れるということもまた後のかためにならならない。
津波の被害もあまりにも残酷だったので語りたくないとして伝わらなかったとも言われる人間はあまりに残虐なことは語りたくないし戦争で人を殺したことなど語る人はいないだろう。
ただそういうことを隠しておおってしまってしまうと戦争を美化する人がでてくる。
いづれにしろ戦争のことを直接聞ける人はもういなくなる。
その時そうした戦争を美化することがありまた戦争になるということがあるから怖いのである。

タグ:戦争の話
posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話 (家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)


 
南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話


(家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)

河原の土手で休んでいる人がいたので話しかけた。
その人は大内村の人で津浪の被害にあっていた。
大内村の不思議は道をはさんでわずかに高くなっている場所の家は
被害が少なく残っていた。
道を挟んで田んぼ側は被害が大きかった。
だからもともと古い家は道を挟んで高い所にあったのだろう
大内村はも古い村である。館とあるのは中世だろう。
古代にも船がさかのぼってきたという曽賀船の地名がある。
これも前が海だった時のことを伝えている
船が海からさかのぼってきたからその名がついた。
烏崎の船着も船が着いたからその名がついたけどそこが海だったということを意識することはむずかしかった。
ただ今回の津浪で本当に古代に海だったところが海になっていたのである。
大内に潮水が流れてきたとか言っていたけど真野川から何か小川をさかのぼって潮水が流れてきたことも考えられる、それなりに海の影響があったともなる

ただ大内村は道を挟んで高い所と低い所で明暗をくっきりと分けたのである。
その人が助かったのは家族でみんな石神の親戚に行っていたから助かったという。
でも家も何にもなくなったという。
大内の低い場所は海から離れているけど意外と被害が大きかった。
あそこのトラック運転手が津浪が来るのを見てトラックで必死になって逃げたという話を聞いた
あの位置だと津浪を見てまだ逃げられる場所にあった。
でも大内村だったらすぐに坂を上れば助かったのである。
トラックで逃げたということはトラックを流されないようにするためだったのだろう。

 
その人はすでに90才越えていたけど自転車にのりしっかりしている。
ただ小高の人が原発被害で避難して仮設に入っていることがわからない
今の事情は飲み込めない、自分の母親も99になって津浪や原発のことを言ってもわからないのとにている。
その人は困っているのは冠婚葬祭に出る着るものがなということだった。
田舎ではそういう場に出るのが多いからそう言っているのかもしれない
でも着るものもみんな流されて何にもないとか家も金が建てられないというのはあわれだと思った。
ただそれは冠婚葬祭用の礼服がないということであり着るものに困るということではないだろう。
真野川は大内川とも河口では言っていた。浪江で高瀬川が下流では請戸川になっていたのとにている。

往古鮭を漁するもの上流上栃窪村坂上神祇八竜権現を以て真野川の鎮守と崇め豊漁を祈るといふ。古より毎秋初鮭を捕へ公に献ず、袋村また当村に属して課業す
(鹿島町誌)

八竜権現は多い神である。水の神だから川の神にもなっていた。
川子の高台にもあり烏崎にもある。烏崎の八竜神社は津浪からぎりぎりで助かった。
だから何かあれは奇跡的に思えたのである。
そしてなぜあんな高い所にあの場所に建てたというのが問題になった。
津浪の前に建てられたのか後に建てられたのか追及したがわかりにくい。
烏崎は岩松氏が船で上陸したという伝説があり南北朝時代にもすでに寺があり遠藤氏が住んでいた。大内にも遠藤氏が多いからその系統が移り住んだ。
慶長津浪の前に八龍神社はあったと推測される。
袋村は消失したがもともと大内村の人が開拓して開いた村だった。


その人は津浪のとき石神の親戚に家族で行っていたということは運が良かったのだろう。そうでなければ家族の人も死んでいるいうこともあった。
ただ家は流されて何もなくなってしまった。金もないから家も建てられない、そして原発避難民のように補償金ももらえないから損だとなる。
ただそうした事情がのみこめないから別に小高の人をどうだこうだとは言わない
津浪の被害者もあり原発被害者も同じ仮設にいる。
だから鹿島では原発被害でも補償金がわずかだから同じ仮設に住んでも不満が大きい。
この人は着るものもなく家も建てられないから他の人より不遇だとなる。

その人は20才で甲種合格で中国に行ったという,20だと90まで生きていればまだ戦争のことを直接聞くことができるがやがて直接は聞けなくなるだろう。
戦争で生き残ったのもやはり運が良かったのか、無惨に死んだ人達のことを語っていた。今回も津浪の時に家族で親戚の所に行っていて助かったのである。
これも運か良かったからかとなる。
そのことは次に書いてみよう




タグ:津波の被害
posted by 老鶯 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年12月23日

原発事故は神からの罰(詩) (過去の貧しさも忘れることの危険)



原発事故は神からの罰(詩)


(過去の貧しさも忘れることの危険)


人間はいつしか過去を忘れる
過去にどんな暮らしをしていたか
その貧しさも忘れる
醤油も使わない
味噌も満足に使えない
そんな生活がありえるのか
醤油や味噌や塩や砂糖はあまり捨てる
しかしそれらは貴重なもの
その貧しさはもう想像すらできない
しかし確かにそうして生きてきた人達がいた
ランプの灯で過ごして時
その前は蝋燭である
燃料は山でとれる薪であり
一本一本大事に燃やしていたろう
なんでもあまり捨てるものはない
江戸時代は蝋燭の燃えかすを拾う職の人もいた
その時すべてがもったいないとなる
今電気は煌々と照らし夜中も明るい
エアコンやらすべて電気をふんだんに使う
もう百倍のエネルギーを使っているだろう
もっと電気をもっと便利にもっとうまいものを
もっといい新車をもっといい家をもっともっと
その欲望は限りなくとどめることができない
原子力発電もいいじゃないか
景気が良くなり金がもらえるんだよ
危険なことはない政府のオスミつきなんだよ
電気はいくらあってもたりないんだよ
電気がなければもう何もできない
金もいくらあってもたりないんだよ
この世の中金なんだよ
金があればなんでも手に入れられる
今の世の中金がなかったら誰も相手にしないよ
しかしその富がどこから来たのか
天からふってきたのか
労せずして富が得られるのか
紙幣をすって富が得られるのか
あらゆるものを買って捨てる生活
もったいないという言葉もすたれた
大量生産大量消費の生活
そんなことをしていて地球が許してくれのか
森すら消失して環境が破壊されている
そして人間は過去を忘れたとき災いが来る
災害は忘れたころにやってくる
人々は津浪のことを400年過ぎて忘れていた
そして大津浪がやってきて大被害にあった
人々は飢饉があったことなども忘れている
食料がなくなるなど考えない
しかし飢饉もまた食料不足も来るかもしれない
人々は戦争の悲惨さをいつしか忘れる
その時戦争をまたくりかえすかもしれない
人間は同じ不幸のカルマをくりかえす
過去を忘れ再びカルマが襲う
自然災害でも人災も過去にあったことがまた起こる
昔の貧しい時代がもどってくる
ものがたりない、ものはもうない
貧しい時代にもどりものを大切にするようになる
もう限りない欲望は充たせない
人間の限りない欲望は神から拒否される
原発事故で故郷が消失したように
それは神からの罰だった
限りない欲を求めて故郷に住めなくなった
限りなく人間の欲望を充たすことを神は許さない
原発事故は神が下した罰だった
現代の文明に下した罰だった
そして文明は崩壊して元の原野になった
そこには誰も住めない・・・・・・
放射能の毒は二万年消えない・・・・


人間と過去にあったことを忘れやすい、醤油や味噌も満足に使えないということが想像すらできない、そんなもの今は一番安い、ありあまっている、食料でも捨てている。
ただそういう昔の生活を忘れるとき今回のように原発事故か起きて故郷にも住めなくなるような罰を受けたのである。
個々人でもみんなブラックだというとき、なぜこんなにみんな欲望が強くなったのかということである。
欲望はきりがないのである。金でも常に増えることを願う、人間の心理として一億円あったとしてももっとふやしたい、増えると消費も増えるのである。
ただそうした消費社会がいいのかとなると疑問である。
それは明らかに自然に反しているし自然破壊にも通じているしそれが神から自然から復讐されるのである。

原発事故はやはりそうした人間の限りない欲望から生まれたのである。
それは個々人の欲望も原因になっていた。
一人一人を見てもなぜこんなに欲望が深いのかとなる。
多額の借金までして贅沢をしようとしているのが現代である。
昔の貧しい生活からするとその差が大きすぎるのである
それを象徴していたのが醤油や味噌を満足に使えない貧乏だったのである。
醤油をご飯にまぜて食べる話を聞いたけど醤油は贅沢でありご飯にまぜるだけでうまいものとなっていたのである。醤油ご飯は贅沢だった。
ご飯と梅干しの食生活であり味噌汁さえ毎日のようにはとれない
味噌が高いとなればそうなる。

戦後十年は卵も食えなかった。高度成長化したときまるで社会が変わってしまったのである。
人間は過去を忘れるときそれが再び災いとなって襲ってくる。
自然災害でも災害は忘れたころにやってくるとなる。
人間は過去を忘れやすいのである。
そしてその忘れた過去が再び再現される、カルマが再現される
津浪も忘れていたから襲ってきた、飢饉もないというけど食料不足がやってくるかもしれない、戦争だって人災だけどこれも忘れているとまた戦争が起きる

なぜなら人間は食料不足になって食料のありがたさを身にしみてしる
戦争があって平和のありがたさをしるからである。
人間の歴史上に起きたことがカルマのように再現される
原発事故もすでにギリシャ神話で予言されていた
プロメテウスが神から火を盗んだとき過酷な刑罰を受けたのである。
その火とは今では原子力だったのである。
現実にその刑罰を受けたのがこの辺だったとなる


タグ:原発事故
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この世はみんなブラックじゃねえか? (回りも見ても自分もその一人だった)


この世はみんなブラックじゃねえか?


(回りも見ても自分もその一人だった)


みんなそうだよ。この世は超ブラックですから。でも逆説的なんだけど、それでも努力しないよりはしたほうがマシな方向に行くというのも事実です。

そして、大企業で働いたことがあるなら誰でも知っている。
一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/02/164000

プロレタリア革命といいつつ国民総奴隷化が現実だった共産主義なんだから
別におかしくもなんともないだろ
共産主義が労働者のためとか笑わせてくれるわ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383967037/



ブラックというときただ安い賃金でこき使われて奴隷のように働かせられる人のことを言っている。それもブラックなのだがそのブラックを指摘する側もブラックなのである
共産党がブラック会社を追求してやめさせるというとき共産党が一番ブラックじゃないかというときそうなのである。
幹部は貴族になって下で支える人は奴隷のような扱いしかない、たた同然で働かせられている。
結局共産主義とかカルト宗教団体なども最大のブラック団体である。
どっちもイデオロギーを基にしているからにている。
これらの団体が世界平和を達成するとか平等な社会にするというがそもそもその組織内で極端な階級制がしかれているのである。
宗教を看板にしていてもそのその内実は全く正反対の団体である。
共産主義でもカルト宗教団体でもそもそも人間の欲望を否定的できない
「おまえら、拝んだら金持ちになれるぞ、議員様にもなれるぞ、勲章も山ほどもらえるぞ、俺を見ろ(池田大作)」と見本を示しているのになぜ疑問を感じないのか?
結局みんなも池田大作のようになりたいということしかありえないのである。

そんな宗教やイデオロギーなどを掲げて運動している奴らほど危険なものこの世にいないそいつらがこの世を支配したらまさにこの世はブラックになり共産主義国家で大粛清殺戮になったようになる。カルト宗教団体でも同じである。
むしろ戦国時代や侍の時代が正直な時代だった。
つまり強いものが勝つのであり弱肉強食がこの世の現実だったのである。
侍は平和だとか宗教のようなきれいごとを言わない、人間の欲望を否定したりしないのである。だから敵の首を多くとったものに報酬を与えて出世させているのである。
これが現実であり正直なこの世のありさまだったのである。
だからイデオロギーとか宗教は偽装にしかすぎない、そこには最も俗悪な人間が跋扈しているのである。
信長はそれを見抜いていたから僧侶を敵とみなして殺戮したのである。
だから政治でもきれいごとを言う人は信じられない、政治家になるには大衆をだますことであり嘘をつかないではなれないと議員本人が言っている。

ブラックだというときこの世の中あらゆるものがブラックなのである。
個々人でもあの人はな腕のいい大工なのにまた別なブラックな仕事を手を出すのか?
あの人はなぜ事業に成功していたというけど借金で首が回らなくなっていた
なせこんなに生活保護者が多いのだろうか
何か個々人を問うてみても人間の生活はブラックなのである。
原発事故が起きていた浜通りは他より欲が深くブラック的だったかもしれない。
だからこそ小高でも東北電力で原発が作られすでに工事がはじまるところだったのであるだから大工さんは原発できれば景気が良くなると言っていた。
そして今の個々人を見るとアメリカのリーマンショックは住宅をローンで借りたり金もないのに買っていたから起きたのである。
それが何かそういう人が日本にも多い。
知っている人も立派な家を借金で建てたから金が欲しい欲しいとなっていたのである。
現代では身の丈にあった生活をしている人はまれなのである。
だから8人に一人は危ない金融機関から借金していることでもわかる。
最近はローンで買った家を老後になり払えなくなり手放すとか苦しむ人が増えているのもそのためである。

この世がブラックだというとき個々人でもそうだが社会そのものがブラックなのである。賃金を払わない飲食業の人がいたがあれは明らかなブラックだった。
賃金未払いというのも常にある。
それだけではない、そもそもブラックというとき例えば公務員というのも官僚も犯罪人だというときこれもブラックなのだ。
公務員になればたいして努力しなくても得なことが多いのである。
国民から税金をとりその莫大な税金を操作して天下り先とかを確保するために働いているそういう金が集まる操作するとるなとブラックになりやすい。
銀行も実際はブラックだというとき金が集まっているからである。
サラ金の資金源になっていたのは銀行だったことでもわかる。
そういう職業がこの世にはまた結構あるしなんらかブラックになんているのが多いのである。

一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。

こういう人も結構この世には多い。福祉事業もまたブラックなのである。もうけているのは経営者でありその下で介護士などが過酷な労働を強いられているし薄給である。福祉の名によってもうけいるのは幹部であり経営者であるからこれもカルト宗教団体とか他のイデオロギー団体とも組織ともにているのである。福祉の名のもとで搾取される人立ちかいるということである。
ぎりぎりで働かされ過労死したりする人達もいる。ブラック企業にこき使われている人達である。
そもそも会社というのもまたブラックなものがある。
グローバル経済でそうした会社が巨大化して国のようになりやりたいことをやる。
そのグローバル経済で低賃金で働かせられている人達が世界にはいる。
グローバル経済では必ずそうしたブラックな会社が他国のものを搾取するようにシステム的にできているのである。

要するにこの世の構図はブラックになることをいつの時代でもまねがれない、ただ戦国時代などはそれが正直に行われ殺し合いが正当化されていただけである。
現代ではブラックなものが法律で守られていたりするからまたわかりにくくなる。
そもそも法律自体が会社を罰することができないというのも何なのだろうとなる。
東電の社長や幹部は海外の子会社で優雅な暮らしをしていると言われのもそのためである会社そものがブラックなところがかなりある。それが法律で守られている。
資本主義自体がこれもブラックなのである。そのシステム自体がブラックである。
なぜなら資本を金でももっている人は金が金を生む、資本が資本を生むで金を持っているだけで働かなくても金が入るシステムなのである。

だから貧乏人はいくら働いても働いても豊かにはなれないシステムなのである。
なぜ今アメリカが景気が良くて一千万を投資して配当金が一月40万入っている人がいるという。それも実感として理解した。
株で今までもうけたことがないからそんなことありえないと思っていたのである。
でもグローバル経済になるとそういうことがありうる世界なのである。
金が金を生む、資本が資本を生むというのが資本主義なのである。
だから資本主義自体がブラックなシステムだともなる。
いくら汗水たらして働いても資本主義社会では豊かになれないのである。
結局自分も他人をブラックな奴だとかブラックな会社だとか批判しているけど
自分自身も資本主義社会のシステムで甘い汁を吸っているのだから自分自身もブラックだとなっていることに気づいた。
遺産とか土地持ちとか金融で生活している人はブラックである。

ただブラックについて考えるとフラックでない人がいるのか?
それはいることはいた、それは例えば職人だったら職人で農民だったら農民で自力で暮らしていた人達がそうだったかもしれない、でも今の農家がブラックでないかというとそうでもない、補助金を国からもらっていて減反してももらえるしなぜ田舎がわずかの田をもっていて生活がなりたつかといえば補助金かもらえるからだとなるとこれもブラックな面があるのが現代である。
フリーターとか派遣とか時給で暮らしている人は現代のフラック社会の奴隷であり犠牲者なのかもしれない。
ただ昔から働くことだけで豊かになるとは考えていなかった。

三年寝太朗の伝説はなまけものでも豊かになれる言い伝えである。
なまけていても何らかの才覚と知恵があってそれを機会に豊かになった。
金持ちの家に婿入りしたりしたらそうなる。
それも才覚であり三年寝ていても何か才覚があれば豊かになれる。
資本主義でもその才覚があれば金持ちになれるということじ通じている。
こつこつ働いてもなかなか金持ちになれないということは昔もあったのである。
だから資本主義社会はもともと勤勉からはじまったとしても今では消費が優先されているし働くことが馬鹿らしいということになっている。
働くの機械にさせろロボットにさせろともなっている
だから資本主義社会は何らかのきっかけで限界に達して世界恐慌となり終了すると言われている。それは資本主義自体がブラックになりすぎたからだろう。
共産主義もブラックでありでは何かいいのかとなると結局人間社会は決してブラックがなくならない、この世はそうできている、もしブラックでなかったらこの世が天国になっているからである、カルト宗教団体なども最悪のブラックな団体なのである。
だからこの世はサタンが支配するブラック社会なのは人間が生まれてから変わらなかったのである。

posted by 老鶯 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年12月22日

東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に (百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた)


東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に


(百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた)
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1904(明治37)年2月:日露戦争がおこる。
1906(明治39)年11月:南満州鉄道株式会社ができる。
1912年(明治45年)石川啄木死去
1914 東京駅開業
1915(大正4年)母生まれるー2015年で100歳
1921年(大正10年)7月に現在の福島県南相馬市原町区高見町二丁目(北緯37度38分8.58秒
原町無線塔は、底面直径17.7m、突端直径1.18m、尖塔高約201m、鉄筋コンクリート製の電波塔で、1928年12月に依佐美送信所の鉄塔(250m)が完成するまでアジアで最も高い建築物であった。
1923(大正12)年9月:関東大震災がおこる(死者9万9000人、行方不明者4万3000人)。
1932(昭和7)年3月:満州国建国宣言が発表される。
1933(昭和8)年3月:国際連盟から脱退する。
1945(昭和20)年8月:日本が連合軍に無条件降伏し、天皇自ら終戦の詔勅を放送する。


最初鉄道で旅していたから鉄道に興味を持つようになった。
自分の母親が来年で2015年で百才になるとき東京駅が開業したのは次の年であり2カ月くらいだった。ほぼ東京駅が開業した年に生まれたのである。
明治とか大正時代で錯覚しているのは人口が今の半分だったということである。
6千万しかいないとしたら風景まで変わっているだろう。
その変化が大きかったのである。百年で人口が倍になるということがどういうことか
そういうことは日本の歴史でもなかったし世界でも人口がこんなに増えることはなかったのである。
鉄道の歴史は日本が全国に鉄道網を張りめぐらされた結果日本人という意識をもったというほど鉄道の影響は大きかったのである。
切符を買えば日本だったらどこにでも行けるということは徳川時代からすれば関所があり簡単に他国に行けない時代からの大きな変化だったのである。
年表を見ると石川啄木が死んだのは1912年でありそのあとに東京駅が開業している。
だから上野駅の短歌を残しているが東京駅についてはない。
東京駅は大正時代を象徴する建物だった。

1921年に原町無線塔が建っている、関東大震災のことをアメリカに伝えたというので有名である。これも時代を象徴する建築物だった。
昭和になると戦争準備の年のようになっていた。満州へすでに進出していたからである。
鉄道の歴史をたどればそれも日本の歴史でもあった。満州鉄道というのもそうである。
釜山からソウルまでの鉄道を敷いたのも日本だった。その駅舎も残っていた。
日本は明治から鉄道の技術が進んでいたのである。それは現代では新幹線となりリニアまで発展している。鉄道が国を造ったという側面があった。
だから「国鉄マン」というとき誇らしいものがあった。
また地方でも国鉄で働く人が多かったしその人たちの組合が社会党を作っていたのであるそれが国鉄民営化になったとき衰退した。社会党も消滅した。車社会となり鉄道は衰退した。高速道路の時代へ車社会へと移行した。

東京駅はやはり何か東京の中心という感覚になる。東京は地理がわかりにくいし何か目印となるものがないし文化財にしても見るものが少ないからあれだけの都市でも歴史としての重みが感じられないのである。江戸時代300年の歴史を象徴するものがない、だから江戸城を復活させようとする運動かあるのもわかる。
皇居となっているのは明治からであり新しいからである。
ただ東京駅から皇居に通じているから東京駅に降りると東京の中心にまたは日本の中心に来た感覚になる。
日本はやはり天皇がいる所が中心になる。
ただ江戸時代は京都と江戸があり江戸が中心だったのである。
その江戸城に皇居が作られたから何か違和感を感じる。京都のように御所があればふさわしいとなるが江戸城というとどうしても徳川幕府の城だとなるからである。

京都だったら天皇からイメージするものがいくらでもある。だから天皇の都だったという意識がいたるところから感じる。江戸時代はむしろ東照権現が家康が起こしたものとして江戸があり日光があった。天皇にまつわるものは江戸時代はないから歴史的な連続性が感じられないのである。
江戸城が再建されたら皇居を見下ろすようになり宮内庁が反対だというのもわかる。
そもそも明暦に消失していたのだから江戸のシンポル的存在ではなかったというのもわかる。だから江戸時代の侍でも町民で意識されていないものだった。
徳川時代だったら日本橋が江戸の日本の中心だったのである。そこも交通の要所であり東京駅とにていたのである。
建物だけが建ってもそれがシンボルとなるにはやはり民衆の中でそれが価値あるものとならないとシンボルにはならない。
ヨーロッパが人気があるのは歴史がローマ時代でも二千年前でも遺跡として残っているから昔を偲べる。駅舎がドーム型になっていて聖堂のような感覚になっているのもあった。すると何か建物から威厳を感じて人間にも威厳を与えている。
「アテネの学堂」のような絵がなぜできたのか納得した。
ヨーロッパは都市でも建築の中に組み入れられたものとして作られていた。
だから整然として計画的に街自体が建築のように作られているのである。
建築には私的なものではなく公共的な概念が強いのである。
だから市民共同体はヨーロッパにあっても日本にそいういう基盤がなかったのである。

ただ東京はあまりにもビジネスへ一辺倒であり文化的なものがないから魅力がない
京都だったら寺が多くて困るけどそこには歴史があり文化的なものに満ちているから違ってい。江戸時代300年の歴史を象徴するものがないのが淋しいのである。
東京駅はやはり明治からの日本を象徴するものだがこさもオランダの駅の真似であり独特のものではない、だから日本独特なものを見たいとなると城がいいとなるのである。
東京駅に煉瓦作りであるときやはり名詞大正とかまでは煉瓦作りの建物が多い、それが日本全国でシンボル的建物になっている。特に銀行に煉瓦作りの立派なものが残っている。それから南相馬市の大原の廃屋の外風呂は煉瓦作りだった。
だから煉瓦作りとなると何か明治大正の時代を象徴していた、あそこもそれだけ古いのかともなる。富岡の製糸工場も煉瓦作りであり郷愁を感じるのである。
煉瓦は木より火事に強いから日本に普及したとも言われる。
とにかく江戸城もすでに明暦時代に火事で消失したように木だと常に火事で燃えているからである。

道幅を広げて飛び火を防ぎ、特に銀座の表通りの建物だけは、延焼を防止するために、従来の木造建を廃して、総て煉瓦造りの英国風建築に改造する都市計画を立てます

東京駅黄金色の銀杏散りしきて皇居に向かふ威を正しつつ
東京駅煉瓦の古りぬ行き交える人のあまたや年のくれかな
東京駅一騒動や百年をすぎて迎えむ新しき年を

東京駅の短歌とか詩とかはインターネットに見つからない、相当あると思ったがない
本の中にはあるがどこにあるかわからないから困る。
東京にはすでに十年は行っていない、月日がたつのは早い。
今年も暮れようとしている。


タグ:東京駅
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2014年12月20日

スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由 (相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由

 
(相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


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今回の津波は小高の駅を越えてきたのに驚いた


モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。

モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。
 先祖からの言い伝え通り津波が襲ってくる。そう直感し、ただちに245戸、約1200人の集落全員が村の高台に避難した。

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。モーケンやモーケン人とも呼ばれる。モーケンは、自称でビルマ語では、サロン族と呼ばれる。別名「海のジプシー」。
アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島(英語版)の近海に暮らしている。ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある



海の遊牧民などというのはなじみがない、海だけを生活にしている人達である。でも狩猟もしている。ただ定着しないだけである。だから海というのは国境がないから広範囲に国を越えて海をわたりあるく人達だとなる。
砂漠の国でも国境はなくそういう人達が今でもいる。
砂漠とか草原は海とにている、馬であれラクダであれ平坦であり移動しやすい、そして国境は作りにくい、壁を作るにしてもできないからである。
だから今でもどうしても移民でも大陸は入りやすいのである。

そもそもなぜこれに注目したのか?学者が注目したのはやはり今回の地震と津浪でなぜ海岸沿いに住んでいた人達が津浪に対する警戒感もなく避難することもなく甚大な被害になったのかということが延々と語られているからである。
相馬藩でもたった一行700人溺死とした記録が残らないのはなぜかと探求してきたが良くわからない。
つまり津浪になぜこれほど無警戒になっていたのかということが解せないのである。
スマトラの被害も甚大だった、10万人とか死んだというから想像を絶する。
そのとき日本ではあそこでは津浪を経験していないから無警戒だったとか盛んに言われたのである。それがまもなく今度は日本で津浪で大被害にあった。
日本なら津浪の経験があるのだからこんな被害にならないとなるが実際は違っていた。

するとなぜこのモーケン族が津浪をさけることができたのかとなる。
そもそも津浪はそんなに度々こない、でもスマトラでも巨大な津浪が2500年の間に三回来ていたことがわかった。堆積物からわかったのである。
つまり今回だけではない前にも巨大な津浪が来ていたのである。
ただそれが忘れられていた、それでモーケン族だけが津浪をさけたのはなぜかとなった。
モーケン族がそんなに昔から一部族を形成して海をわたり生活していたのかとなる。
そんな古い人達なのかともなる。たいがい同化するのが普通だからである。
古代には日本にも隼人(はやと)などが九州にいたけど日本ではそうした異民族が蝦夷征服で終わっている。もう日本人しかいないし日本人に同化しない民族はいない。
モーケン族が小さい集まりであり部族だからそういうものが今までずっとつづいてきたのかとなる。
そういう一部族が存続していたというがどれだけ古いのかわからない。
ただその一部族が残ったということは何か民族の化石のようなものになるのか?
モーケン族は海を舞台に常に活動しているとなると海について詳しくなければ生きていけない。でもそもそもどのくらいの歴史があるのかとなるとわかりにくい。
ただ津浪についての知識をもっていた。だから大きな津浪は400年と2か500年とかのスパンで起こるからそういう津浪のことを伝えるということはそれだけ長くそうした部族が生き続け津浪について語りつづけねばならいないのである。
ただ海の遊牧民としての生活がつづいていたのだから海から離れなかったのだから津浪についてもその知識が伝えられたとなる。

相馬藩ではどうなっていたかというとちょうど津浪が起きた400年前は相馬氏が進出した時期であり戦国時代であり相馬地方はそうした地元でも混乱した状態になっていたのである。相馬氏は外来の氏族であり地元の勢力ではなかったのである。
だから海側に勢力をもっていたのは在地の勢力であり相馬氏ではなかったのである。
相馬氏が進出してきたときちょうど慶長の津浪が起きた。
それは相馬氏にとってはかえって海側の在地の勢力が津浪で大打撃を受けて勢力が衰退したのである。それは相馬氏にとって好都合だったともなる。
相馬氏進出の経路を考察してわかったことは小高に進出して原町は深野(ふこうの)は在地の勢力があり館とかの地名が残っている。それで大原に進出したのである。
ここは未開の原っぱになっていたからである。その大原から小池の方に進出した。
今の鹿島区は北郷となっていてもともとは岩松氏などが支配していた。
その家来の系統が横手にもいたりするからなかなか進出できなかったのである。
相馬市でも磯部館がありその後日立木の鬼越館に移りそこでも相馬氏と争いがあった。
伊達市と通じるとか海側の在地の勢力とは対抗していたのである。


海老村の藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村に残るこの伝説で注目すべきは
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。

なぜ大原村が関係しているのかというとまさに大原は相馬氏が最初に原町で進出してきた場所だったからである。

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相馬氏古支配帳(文禄)

このように大原にはいくつも記録されていることでもわかる。
相馬氏と何ら海老村の在地の勢力が敵対して争ったことが伝説になった。
これはちょうど中村城の天守閣造営にかかわっていたし慶長津浪の時期と一致するから
何か津浪とも関係していたのかもしれない、他に津浪の伝承はない
あっても慶長津浪かどうか判定できないのである。

今回なぜ福島県から宮城県と津浪の被害がこれほど大きくなったのかその原因はモーケン族のように一つの部族であれ語り継ぐ歴史が失われたからかもしれない。
宮城県でも大きな被害があったのは海側に都市化して住宅化したところだった。
多賀城でもそうであり家が密集してしまっていてもうそこにも津浪があったということすらイメージできない場所になっていたのである。
貞観津浪の末の松山が伝承として残っていたがその前はもう住宅地で家が密集してそこが海だったかとイメージもできない場所になっていた。
そして学者が津浪がくると仙台の海側の住宅地に警告したら不動産屋が価格が下がるからそんなこと言うなと脅されたという。
まさにこのことが象徴しているように津浪を警戒するということはまずモーケン族のように海と切り離されて生活しているのだからそういうことを意識できないのである。


そもそも海岸の港でも海を常に意識して漁業で暮らしている人は少ない、ただ松川浦では津浪が来たら海に船を出せということでそれを実行して90パーセントは船に被害がなかったのである。だから海と生活しているというときそういう伝承は伝えられていた。
でも住宅地化したらそんなことは関係ない、海側は景色が良くて涼しいから気持ちいいとかなるだけである。
海側に住んでいるからといって今は漁業している人はその海側に住んでいる人でも少ないのである。海老村などではほとんど海とは関係なくなっていた。
そこに漁港があったとしてみんな漁師になっているわけてではないのである。
そしてモーケン族のように代々強固な一族として継続していない、相馬氏が入ってきていろいろな氏族が混じり合うようになるとそうした伝承も残りにくくなる。
相馬氏が支配者になれば相馬氏の都合のいい一番関心のあることだけが相馬藩政記でも記されるようになる。そこでは跡目争いのことなどが詳細に記されている。
そして誰が功績があったとか戦争で活躍して恩賞をもらったとかが記される。
その時津浪の被害が大きくてもかえって相馬氏にとって敵対勢力が衰退すれば都合が良かったとなるのである。今の時代の考え方とは違ってる。

小高の縄文海進時代の地図を見ればわかる。小高の駅を越えて城近くまで津浪がやってきた。縄文時代は小高の城があった浮舟城当たりまで海が迫っていたのである。
だからその縄文時代が再現されたから驚きだったのである。
もともと海だったところが本当に津浪で海になったのである。
もし縄文人がモーケン族のように残っていれば津浪のことを伝承されたかもしれない、もうそうした共同体も複合体になり失われていた。
つまり何らかの伝承でも伝説でもその土地に残るとしたらモーケン族のような強固な族として残っていないとそうした伝承は忘れられる。
モーケン族は今でも海を生活の糧として一団として残っていたから津浪の被害にあわずにすんだとなる。
昔からのものを何か残す伝えるにしても社会が変わってゆくと忘れられ伝えられなくなるのである。

posted by 老鶯 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年12月19日

冬の日 (横手から栃窪に大原の幽霊屋敷をたずねる)


冬の日

(横手から栃窪に大原の幽霊屋敷をたずねる)


栃窪村

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鴨百羽餌のありしも争わず

昨日(きぞ)の雪山陰に残り墓地のあり栃窪村や誰か眠らむ
栃窪に相馬藩士大谷氏の五輪塔や冬の日暮れぬ
栃窪に冬の日さして重なれる石やここにしいつきけるかな
昨日の雪山陰に残り磐を打つ流れのひびく朝の清しき
昨日の雪大原に残り川の土手竹にそよげる風の清しき
病院にともにありにし大原の人の空家や冬の日さしぬ
かつて棲む人のありしも冬日さし煉瓦の風呂に炬燵残りぬ

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大原の幽霊屋敷

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レンガの風呂

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横手に70歳の老人がいたので話した。70歳だと別に自分とたいして変わらなくなった。
何か今では80歳くらいにならないと老人という感覚がなくなる。
どういうわけかその人は栃窪村の大谷(おおがい)は飯館村で争いがありその功績で栃窪村に土地を報償としてもらって居ついたという。
確かに写真にとったように大谷氏というのは相馬藩士として墓地がある。そこは大谷氏の墓地なのである。


飯館村は山中郷としてあり相馬藩であった。伊達藩と境をなしているから伊達藩との争いがあった。それで前に飯樋で森林資源をめぐり一族の争いがあったことを書いた。
これは親戚同士で争った。伊達氏もかかわったというがそれより一族が別れて紛争になった。これで実際に人が死んでいるのだからそれなりに深刻なものがあった。
飯館村は森林資源が豊富だったのである。
横手には岩松氏系統の子孫が住んでいる。折笠氏などがそうだとかいう、その墓もある。最近わかったことは北郷は相馬氏が進出する前は岩松氏とかの支配領域であり相馬氏はあとから進出してきたのである。
深野(ふこうの)にも在地の勢力があり中世の館があり進出できず大原に入ったのである。大原は未開の原っぱでありそこから今度は小池の方に回った。
郷土史というとき本からだけではわからない、その土地の人のみが知っていることがかなりある。
大谷氏というと自分の家の身内が大谷氏と親交があったからなじみの姓である。
栃窪に大谷の姓が多い。
その人が言うには米なんかとっても金にならねえ、安いよと言っていた。
補償金もらっていたほうがいいなと言ったらそうだなと言っていた。
こういうことは前から何度も言われてきたのである。

大原の病院で知り合った農家の人もそうである。跡継ぎがいないと一人住んでいた。
息子はいても街に住んで父親の家には住んでいなかったのである。
栃窪からじさばらを通り大原に出たがここでも昨日降った雪が残っていた。
やはり山の方になると寒いから雪でも消えず残っている。
大原でいつも注目するのがあの幽霊屋敷のようになった空家である。
今日は中をのぞいてみた。そしたら煉瓦の風呂があった。
これは結構贅沢なものだったと思う。煉瓦で作った風呂はなかなか作れないだろう。
五右衛門風呂のようでも煉瓦になっていたのである。
だからこの家はそれなりに財力があったのかとなる。
とにかく何かのぞいてみると柱時計があり時がとまっている。
そこに炬燵があり壁は土壁だろう、なんとも不思議なの光景である。
なんかあそこは前も思っていたが幽霊が住み着いているように本当に思う。
あそこはそもそも空家になってから相当な年月が過ぎていると思う。
だから幽霊屋敷のようになってしまったのである。
空家とか廃村をたずねている人がいるがその廃村というときぶっと山奥の感じがする。
ここは別に山奥ではない、村自体が廃村になってはいない、第一市街も遠いと言っても
車て行けばそれほどではない、車がない時はかなり離れた場所だったのである。

この辺は田畑が田んぼが荒れ地になってしまったから余計に何かこうした空家が余計にふさわしい場所になっているというのも変だがそうである。
新田川の土手には竹林がつづいているがあれは竹は深く根付くから堤防代わりになっている。そういう話を南相馬市立病院で大原の人から聞いたのである。
その人は死んでしまい空家が残っている。


タグ:空家

2014年12月18日

短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男) (一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集)



短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男)


一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集

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この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)であった。今は2014年だからこの人は生きていたら108才だから死んでいるだろう。この人は別に教師でもない学者でもいない、松川浦の漁師であり農民であった。
でそのことは紹介されているが歌も稚拙な所もあるがそれなりにうまい、普通はなかなか訓練しないと歌も作れない、この人はそれなりに才能があったともなる。
何か万葉集の防人の歌とにていたのである。防人の歌も戦争するわてでなかったか古代に九州まで行かされるのはまさに外国に行くと同じだったのである。

赤紙を手にとり受領の印おせど吾が心も心ならず
今日だけはオゴモとらむと舟出せど心も空にオゴモは見えず
父さんはいつ帰るのとさびしげに涙ぐみつつ吾を見つめる
万感を胸に車の人となる釜山の駅よ会う日もあらば
幾月か吾がを追う吾が妻の便りの文はすでに汚れぬ

赤紙を受け取った気持はみんなこうだったみたいだ。突然のことであり思いもかけないものとして受け取ったのである。自分の姉もシンガポールに四年従軍看護婦として行って辛酸をなめた話を認知症になってからも延々と聞かされたから嫌になった。
同じことを何度もしゃべるのが認知症なのである。千回も同じことを聞かされたら嫌になるし聞きたくなくなる。そして遂に死ぬ間際でそのシンガポールの辛苦の四年間を語り続けて死んだ。それだけ忘れられないものとなっていたのが戦争の思い出なのである。
だからどうしても戦争というとき姉のことを思い出してダブってくるのである。
この人は松川浦の人であり漁師でもあり農業もしていた。そして妻と子があったからそのことに思いがあり歌っている。ただこのオゴモとは

オゴノリ(海髪、学名:Gracilaria vermiculophylla)は、紅藻の1種で、潮間帯付近の岩場に生育する。単にオゴ、ウゴなどとも呼ばれる。食用として、刺身のつまなどに用いられる

このことだろう。
赤紙をもらってからは落ち着かなくなったということがありそのことを書いている。
生業が身につかなくなったという感じである。
ともかく招集命令はと急なものだったのである。それは万葉集の防人の歌と通じるものがある。防人の歌も何か急に命令が下ったのでにた心境があった。
ここで妻と子と別れを惜しむというのは姉とは違っていた。
しかし姉も母と別れて帰った時は母は死んでいたのである。
その別れが最後になったのが多かった。それは戦死したためにそうなった。
ただ姉の場合は戦地から帰ってみたら母が死んでいたのだから違っていた。
普通は戦場に出て行って帰らずに死んで帰ってこなかったのである。

赤紙の急ぎ受け取り戦場へ永久の別れとなるを知らずに

ベートベンの運命ではないが突然に運命的なことが起きる。今回の津浪でもそうだし自分が突然病気になったこともそうである。戦争に招集された人や戦争の経験した人達は共通したものをもっている。この人は満州に出征した。

万感を胸に車上の人となる釜山の駅よ会う人もあらば

釜山から日本が敷いた鉄道があり満州鉄道に通じていた。釜山とか満州に旅したからその跡を見てきた。朝鮮総督府も残っていた。今はなくなった。

地平の彼方 雲映えて
コーリュンの波 果てもなき
満目千里広茫の ここ北支邦の大平野

満州はどこまで行ってもトウモロコシ畑だった。こんなにトウモロコシを食べきれないと思った。満州はそして相当に寒い、北海道より寒い場所である。

銃音の絶えて静けき陣営に残月あわく霜に光れる

この短歌はいい、戦争中にこうした短歌を作れる余裕があった。でも無惨な戦争の場面も目撃している。ただ歌が作れということはまだ人間的な状態があった。
もし悲惨な人殺しばかりしていたらこんな余裕はないだろう。
そもそも戦地では常に命が脅かされているから短歌とか詩を作る余裕がなくなるのが普通だからである。

幼児に罪のなければと携帯のパンかみくだき吾はあたえぬ

時々こういう子供をあわれむ歌がでてくるのは一人の親であったからである。
日本人は残酷だというけど日本人もまた人の情があった。ただ戦争という異常事態だからこそ一部には残虐な行為があった。戦争そのものが殺し合いなのだからどうにもならないその中でもやはり人の情がありこの人は子供に情けをかけていたのである。

今はなき戦友の写真にありし日の厚き情のしのばるるかな

戦争体験者にとって戦友というのは肉親と同じように重いものだったのである。
生死をともにしているからそれは今ではありえない親交があった。
姉もその従軍看護婦の戦友のことを語りつづけていた。
それは島根の人であり手紙のやりとりをずっとしていた。ただ最後に年賀すら読めないしわからなくなり途絶えた。
その人のことは三陸会とかの記録に残っている。その女性は文学少女だったのである。
だから短歌も書いている。だからそのことも次に紹介する。
まだ生きているかもしれない、90歳にはなっているたろう。
戦争の記録が膨大である。ただこれも忘れられてゆく。
ただ家族に戦争経験者がいたし故郷でも戦争に出た人の記録があったのかとたまたま埋もれていて本を整理したら出てきたのである。
郷土史研究というとき資料を集める必要がまずある。図書館では研究しにくいのである。

戦争に青春費やすシンガポールそのこと忘れず姉は死ににき

もう一つ戦争で問題になるのは戦死者のことである。靖国問題である。

強く雄々しき桜花 海の果てに 散りたれど

君がみたまは海越えて今ふるさとにへ帰り来ぬ

戦友の遺骨を迎えしときと題にある。この感覚もまた戦争経験者として共通のものがあった。
そういう心情は何か理屈を越えたものでありなかなか理屈では否定できない重いもの菜である。
なぜなら人が死んでいるから軽々しく言えなくなるのである。


故郷に一つの生の重みかなその跡たどり今年も暮れぬ

人間はやはり死ぬと何か一庶民でも重みがでてくることがある。
生前はそう思わなくても死んでかちふりかえり思うのは違ってくる。
死んだ人は確かに客観的に見やすくなるから書きやすいということもある。
生きているときは定まっていないから書きにくいのである。
戦争というとき常に全国民のことを思うけど実際は個々の戦争のことが刻まれている。
そこを読まないとわからない、人間は全体として見るとかえってわからなくなる。
何百万人死んだと言っても全然ひびかないのである。
こうして一人の故郷の戦争経験をふりかえると訴えるものがでてくる。
生の重みがでてくるのも不思議である。
いづれにしろ人間はなんらか生の跡を残すのである。
死んでからその生をふりかえることは人間にとって大事である。
この人は一人の人間としてやとり何か生の重みを残して死んだのである。
人間は何かしら必ず生の重みを残してゆく。
ただそれに後の人が気づかないし忘れられるのが多いのである。



この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)
終戦が1945年であるから70歳のときから31年前である
39歳のとき出征した。
だから妻も子供いた。普通20代を想像しているが最後の方ではかなりの年の人も招集された。若い人がいなくなっていたのである。
全体的に短歌を読んだら落ち着いているし戦地でも子供のことを特に気にかけていた。
こういうことはあまりないかもしれない。
この人は相当な大人でありだから若い人とは違っていたのである。
戦争をある程度客観的にも見ていた。
客観的にならないとまず俳句でも短歌でも作れないからである。
何かものを書くでも客観的に見ないと書けないのである。

 
一般的に戦争から生き残り長生きした人は戦争のことでもその後のことも語られるが若くして死んだ人はその後忘れられた人か多い。
なぜなら本人が生きていれば自分の姉のように千回も同じことでも戦争のことを語りつづけるから後の人の印象として残るからである。
もう20代で死んだ人は名前すらわからなくなっている。
300百万人も死んでいるのだからとてももう記録できないのである。


タグ:戦争短歌
posted by 老鶯 at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

鍋一つもったいなということを家事して思った (労働通じてしかモラルなども身につかない)



鍋一つもったいなということを家事して思った


 
(労働通じてしかモラルなども身につかない)


この鍋を幾度洗ふ大切に捨てずに使う年の暮かな


人間の不思議は鍋でも物でもそれに愛着というか愛情を感じてくることがある。
物なんか使って捨てるだけではないかというのが大量消費時代の感覚になった。
毎日大量のゴミが捨てられている。食料も膨大な量が捨てられている。
一方で世界では子供でも飢えてまとも食がとれない人達も何千万といる。
だからそういう人達から見れば豊かな国は罰当たりだとなる。
日本でも戦前から千五十年くらいまでは「もったいな」とか物を大切にすることがあったそれは一重に貧乏故にそう強いられていたのである。
貧乏だったら物を粗末にしていたら生きられないからである。

そして意外なのは大正時代が六千万人くらいの人口だったとういことである。
明治になって3千万とか4千万とかになっていった。
ずいぶん日本は人口が少ないと思った。だから明治時代は日本の自然が残っていて景色的には江戸時代のつづきがあった。都会すら東京でも高層ビルなとないのだから
景観的には今よりいいものがあった。
日本が4千万くらいだったら田園風景がいたるところにあったのである。
その相違はあまりにも大きすぎる。
それじても啄木は故郷の自然を望郷する短歌を作ったから東京はやはり自然景観は消失していた。

「もったいない」というとき人口が多くなると人間の価値も減退する。
だから群衆とか大衆という感覚が生まれたのは明治以降だろう。
それまでも人間をそんなふうに物ののようには見ていないのである
だから明治になって鉄道ができたとき見知らぬ人と乗り合わせたときすら違和感を感じていたのである。
見知らぬ人同士が一つの車両に一緒にいるということになじめなかったのである。
鉄道ができたとき関所もなくなり切符が手形代わりになったというのもわかる。
切符さえあれば日本全国どこでも行けたということの変化は大きかった。
江戸時代は藩内とか村内の狭い範囲でしか生活していなかったからである。
鉄道ができたことで日本人は別な藩の人でも自由に交わることが飛躍的に増えたのである


自分の使った鍋はIH用でもあるから3000円以上しているから簡単に捨てられない事情もあった。それがなぜ汚れるかというとガスでつけっぱなしにすることが多いためだった。
台所と食事する場所が離れているからどうしてもガスを消すのが忘れるのである。
それで何度もこがしてしまっていたのである。
だからすでに十回くらいこがしてごしごし洗って落とした。普通だったら買い換えているだろう。千円くらいだったらそうした。
でも不思議なのはそれを捨てないで何度も洗うことは「もったいない」に通じていた。
何かその鍋が貴重に思えたし愛着を覚えた。
職人でも物や道具に愛着を覚えることがあるだろう。そういう感覚を経験したのである。人間は物を道具でも大事にしろと何度言っても現代では通じない、そもそもモラルとかはいくら説いても通じないのは経験から学ばないからである。
人間は本を読んだり人に教えられたりしてモラルが身に帯びることはなかなかないだろうモラルは日々の生活の中で身につけていたのである。
だから侍でも侍のモラルは日々の生活で身についていたからこそ本物だったとなる。

ただ現代でも仕事の中で身につくものが本物だということはありうる。例えば農業なとは趣味の範囲でもこれは自ら畑を耕して肥料をやり種をまきとかして経験しないと本当はわからない、そこに自然と深くかかわり多様な経験を体で覚えることになるからだ。
だからそうしてとれた地元の野菜もらってたべたとき単にスーパーで買うものとは違ったものとなる。そのものには人間の情がこもっていたのである。スーパーで買うものは確かに味はあっても何か情がこもっていない、冷たいものに感じた。
それは家族で食べるものが料理されるものが母親の愛情がこもっているとにていたのである。単に買うものには愛情が情がこもっていないのである。
だから江戸時代は自給自足の時代、その土地土地でとれるものを食べていたのだからその土地と人間に密着して情がこもっていたのである。
ただそうはいっても極端な貧乏もあったからそれも一面の見方ということはいえる

家事というのも実際は一つの仕事である。刀自(とじ)というのが女性であり家全部をきりもりするから力をもっていたのである。今でも刀自と墓に刻まれていることでもわかる。昔は家事が大仕事だったのである。機械がないから洗濯するだって大変な労力を必要とした。寒い時など水も冷たく辛かったろとなる。食器を洗うにしても自分の母親はいつも霜焼けになっていたのである。温水になってからはそうならなくった。
家事は中流の家庭でも女中を二人雇っていたとかそれだけの手間が必要だったのである。機械化したときその手間がはぶかれたのである。
だから自分でも何とか介護まで一人でやれるのである。
ただすべてが機械化するとき鍋洗うのも機械化するとき今回感じたような鍋一つに愛着を情がこめられるということはなくなる。

つまり人間は自らの手で子供でも育てたとき愛情を覚えるように自ら何でも経験して感じる覚えるものが本物なのである。職人でも体で覚えるということを師弟でもしてきた。
以心伝心などもそうだろう。今は何かそうして人間と人間でもその間に機械などコンピューターなど入ると人間から学ぶものはないとかなる。
するとそこには情が欠けてしまうのである。
それは鉄道が普及したとき見知らぬ人同士が膨大に交わるようになったのともにていたのである。機械化するということは人間の情的なものを希薄化して非情にしてしまう。
人間がしたのではなく機械がしたとなると仕事したとなると人間は重んじられなくなるのである。
例えば一つの石を苦労して運んだり積んだりするときその労働は人間しているのであり
ここまで自分がもってきたなとその労苦がその石に残る。
でも車で機械で運んだり設置するとしているのは機械だとなる。
その機械を使うことの方にエネルギーがそそがれるのが現代であり人間的なものがはぶかれてしまうのである。
現代は全般的に情には欠けた冷たい社会になってしまった。それは便利さを追求したり機械化したりグローバル経済になったとき必然的にそうなってしまったのである。

posted by 老鶯 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2014年12月16日

秋篠寺を想像で訪ねる (インターネットで編集の試み)


秋篠寺を想像で訪ねる

 
(インターネットで編集の試み)


本堂は国宝である。穏やかに手を広げた瓦屋根の勾配、白い壁と精緻な柱、格子戸のバランスは見ているだけで心が軽やかになるのを感じる。鎌倉時代の大修理を経ているが奈良時代の単純素朴な美しさがあると評されているようだ
http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/64310523.html

、私たちはその柔らかな物腰から視線をそらせなくなる。そこから微動だにしなくても、後ろの漆喰に映る濃い影──高く結い上げられた髪のかたち、抱きつきたくなるような丸い肩のフォルム──は仏の気配そのもので、その影がふいに壇上からおりて「さあ、なにも怖くない。いっしょに行きましょう」と寄り添ってくれるような気がしてならないのである。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/akishinodera/special/


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秋篠寺の伎芸天女

その体全体に満ちるふくよかさ、やさしさ、優美さ
その胸はほどよくふくらみ受容する愛の表出
なだらかな線は胸から脚の先まで作ることなく
まろやかに流れるように体全体をつつむ
その手は軽く繊細に指を合わせる
何を思ふやその顔は穏やかさに満ちて
その内発からその体躯には毒のなし
大輪のおおらかな花のように
微笑みは深く内面から表出される
それは一つの完結した美の典型
その脚も手も腕も胸も顔も頭も
未だ血がめぐり生きているように人を迎える

奈良に京めぐり年の瀬鐘の音
簡素なる秋篠寺かな前庭に冬の日さしてたずぬ人かな
秋篠寺屋根にとまれる鳩の二羽穏やかなれや冬の日さしぬ
秋篠寺伎芸天見て味わいぬ懐石料理や京の年の暮
京都なれ鐘の音の聞きて東京へ帰れる人や年の暮かな



インターネットの利用の仕方はまだ定まっていないし有効に活用されていない、それだけ活用される範囲が広いからそうなる。
文化的にはやはりインターネットで広がる世界があった。
自分は今はただ回想する旅をしているがその時インターネットが役たつのである。
なぜなら訪れた場所でもその謂われとかわかりにくいからである。
また訪れない場所でも想像をふくらませてその場を旅することがある。
秋篠寺はたずねたことがない、それでも写真が一杯でているしそこから想像で書ける。
常に言っていることだがインターネットは自分なりに編集しつつ読むことなのである。

インターネットから秋篠寺についてプログでもかなりの人が書いてある。
今回は三つくらいしか読んでいないがもっと読めばまた違った感想が書ける。
一つは「心に青雲」で書いていたので秋篠寺のことについて検索して読んだ。
著者は秋篠寺については感心している。
それはあまり観光化していないのと他の寺とは何か趣が違うものを感じたからなのだろう写真を見ると確かにずいぶん簡素な建物だと一見してわかる。
冬の日がさしている写真があったがそれもふさわしい。
ことさら伎芸天女に感心していたが確かに見ればこの伎芸天女は秀作である。
自分は仏像には感心したことがほとんどない、感心する感性がないともなる。
そもそも日本ではギリシャの彫刻とかの芸術がないと思っていた。
でも仏像はギリシャからインドへ伝わったものなのである。

この伎芸天女は彫刻として特に優れている。
女性の持っている良さをあますことなく顕している
女性の場合は心も体に顕われやすいということがある。
体と心が一つになるということがある。これはギリシャのビーナスとは違って女性を顕したものでは傑作である。
ただはっきりいって自分には鑑賞力が不十分である。
結局奈良とか京都は日本文化の伝統の場所だがそれがなかなかわかりにくい。
何回か旅したけどわかりにくいのはやはり文化とか伝統は簡単に身につかないものだからである。時間の中で徐々に身につくものでありそれも何代にもわたって受け継いで身につけるということもあるからだ。
そういう点東北となるとそうした文化の蓄積がないから日本文化が身につかないことがある。
それでも仙台から名古屋に船で行き自転車で奈良まで行ったように距離的には短縮化されているから精神的にも近くなっているのである。
それで旅の短歌なども思い出して書いているのである。

奈良京都というととにかく寺が多すぎるのだ。だから一方で寺はもはや何か仏教を追求するような場でなくなっている。観光化して修行の場でもない、それでも伝統があるから違っているとは言える。それは信長の時代からの継続なのである。
寺というのはそのときから実質的な支配階級だった現実に権力ももっていたから信長と敵対して戦争にもなったのである。大阪だった秀吉が治める前は本願寺があり真宗の拠点となっていたしそれで激しい戦争になったのである。
宗教でも権力化するとすでに宗教ではない、政治化して権力追求になる。
今のカルト宗教団体とか団体化した宗教はすべてそうである。
だから団体化した宗教は政治団体であり何ら宗教とは関係ない俗世の団体である。
だから自分はそういう所は信じない、それでもこの世にはそういう悪場所でも頼らざるをえない人達がいる。だからいくら否定してもそういうものは消えないということである。第一真宗とか日蓮宗が今でもこれほど勢力をもっているのは何なのかというと結局拝めば何でもかなえられるという大衆への洗脳に向いていたからである。
最悪の貪欲な人間でもその貪欲な欲望がかなえられるために祈っているのだから異常なのである。

秋篠寺は平安時代後期から寺領を増大させ、南に位置する西大寺との間にはたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。
保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。


このようにすでに平安時代から土地争いで勢力争いになっている。
土地をもつということは権力をもつことであり土地に執着することは権力に執着することである。禅僧はだから一所不住であり旅していたことでもわかる。
寺をもつことはすでに権力をもつことに通じていたのである。
カトリックでも土地を所有したことが権力を持つことになったから宗教の歴史もまた東西でにている所はあるのだ。
結局奈良や京都は信長の時代と変わらずに今でもそうした宗教によってかえって汚された地でもある。だから修行には実際は向いていないのである。
そこには祇園で遊ぶ金持ちの坊主がいるとかなる。
今修行に向いているのはやはり荒野であり自然のある田舎なのである。
もちろん今は田舎も都会のように汚されているが自然がありそこで精神形成をすることが修行になるのである。
東京のようなところではもう精神形成は不可能である。
奈良や京都はまだ自然がないということではない、東京はもう人工化した荒野だからもう精神形成はできない、だから言葉もそこではすでに詩語は失われ死んでいるのである。
摩天楼のような世界で言葉も通じなくなっているのである。

タグ:秋篠寺

年の瀬ー雪ー冬の雨 (盆栽が目立つ仮設住まいも四年にもなる)


年の瀬ー雪ー冬の雨

 
(盆栽が目立つ仮設住まいも四年にもなる)

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枯菊や盆栽の木の根露かな
盆栽の手入れの人や年の暮
盆栽や仮設に四年冬の雨
盆栽の根元に雪や手入れかな
年の瀬やカラスに肉を食われけり
年の瀬や一軒また急ぎ建つ
寒雀三羽やみな一人者
冬の雨今日も買い物介護かな
冬の雨老いて作れる畑かな
葉牡丹に実る野菜や雪の朝
今朝の雪新し石に映えにけり

それぞれに盆栽見ればその形様々なれや冬の日暮れぬ
仮設住みはや四年にもなり盆栽のここに見につつ年も暮れなむ

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プログはその時々を書くのに向いている。こういうメデアはもてなかった。
俳句とか短歌だと毎日変化を書けるから向いていたのだ。
もう原発事故から四年にも来年はなる。仮設に住む人も長いと思う。
仮設の前に盆栽を並べている所がある。あればどうしても日々往き来すると見る。
あの盆栽は相当に価値があるだろう。
一つ一つを見ると良くできているなと思う。みんな違っていて個性がある。
盆栽に興味がなくても毎日あのように見ていると人間は自ずと興味を持つようになるのも不思議である。
盆栽が外国で人気だというのもわかる。ただ盆栽作りは相当にめんどうだから誰でもできるわけではない。日本人の感覚として庭でもそうだが盆栽でもミニチュア化するのが得意であり文化なのだろう。大陸のような広さではまず盆栽というものが生まれようがないからだ。茶室にしてもそうである。
なんかあのような長屋のような仮設に向いているということを発見した。
日本には長屋文化というものがあったからである。
今日は朝わずかに雪が降った。盆栽を手入れしていた。

ただもう四年にもなると仮設もそろそろ終わってもいいとなる。
仮設は一人くらい風流の人が住んでいるならいいがあんなに多いと回りから見ても嫌になる。
だから新しく建った家はんの前に松一本が立ち朝日が海の方から昇るとき、新しい生活がはじまったなとなる。それでも新しい家を建てた人は少ないだろう。
だから仮設すまいの人はその後どうなるのか?
小高に帰らない人はどうなるのか、そういう問題が切迫してくることは確かである。
やっぱり田舎では家と田畑があり資産をもっているのが安定している。
だがこの家に金がかかる、家を維持するのに金がかかる、リホームしたりするとさらに金がかかるし古くなるといたんでくる。
家というのは資産でありこの資産を維持するのに金がかかるのである。
田舎で普通に暮らすにはある程度の資産がないとできない
田舎でアパート暮らしなどは向いていないしみじめである。

ともかくこの辺の仮設で印象に残ったのはあの盆栽が並んでいる風景だった。
今日は雪が朝ふった。でもすぐにやんだ。それから冬の雨になった。
人間はどうしも同じ境遇の人が集まりやすい、男性も女性も独り者だと集まる。
男性で困るのは家事のこと特に料理がわからないことなのだ。
簡単なことがわからないのである。家事にも年季か必要なのである。

今年は結構寒いのか年もおしつまった。
コンビニに自転車とめて二回カラスに食われた。カラスは抜け目がない、常にねらっていたのである。人間もぬけめがない、油断もできない、田舎ももう今は信用できない。
はっきり言って人間の方がどれほど怖いかわからない、カラスの盗み食うのは知れてい人間だと財産を奪われてしまう、そういう経験したから本当に人間は怖い、あまりにも警戒しなさすぎだった。
とにかく年の瀬になったなと思う。今年も終わりだが今年も家事に追われたかたづけに追われた一年だった。未だに家がかたづけられない、本のかたづけが一番の問題なのである本は物のように捨てられないのが困るのである。本は中味の書かれたものが大事である。それを捨てるわけにはいかないから捨てられない。時々また読み返したりしているからである。でも本も増えるともう読みきれないし利用できないし整理できない。
通販でまた本を買うことが増えたのである。通販でいろいろ必要になり毎日のようにアマゾンで買っている。
やはり何か書くにはそれなりの本かそろっている必要があるのだ。


今年は一回しか仙台に行かないし近くでもほとんど原町相馬市しか行っていない。
家で過ごすことがほとんどである。そうなると家が居心地いいようにしたいとなる。
介護もしているとなるとなかなかその余裕がない
ただ老後はもし家にいる時間がこんなに長くなると住み心地がいいようにしたくなる。
そういうことは自分の家は広いからできる。ただ家が広いと掃除だけでも手間であり
毎日家の中をめぐっているだけで時間が過ぎるものだと思った。
冬は特に冬ごもりになるから余計に外に出ないからそうなるのである。



タグ:盆栽 年の瀬

2014年12月15日

冬銀河、冬菜 (土地で作られたもらった野菜の料理は情がこもっていた)



冬銀河、冬菜


(土地で作られたもらった野菜の料理は情がこもっていた)

冬銀河閃光のごと流れ星

冬銀河宇宙の塵も星となる
冬銀河星とならざるもののなし
冬銀河みな光りあう宇宙かな

もらいにし冬菜にあたたむ田舎かな

昨日は双子座流星群を見た、それより冬銀河であり空が住んでいたから濃密な星雲が見えた。星の数は限りがない、宇宙となれば塵まで星となる、地上だったちどうしても汚れる二個だけみたが大きな流星だった。あのように流れ星になって消えたら気持いいだろう。二個だげでは物足りなかったが胃腸が悪くなって帰った

人間はその土地がいいというとき、まぶ回りの環境がある。自然環境があればいい、ただ自然環境なら田舎ならどこでもあるのだ。仙台ですら山が見えるし自然環境はある。
もう一つ重要なものがそこに住んでいる人間なのである。
田舎の人はかえって性が悪いというのも実際にある。
農家の人は汚いというのもある。田舎の人間はやはり何か閉鎖的でありとっつきにくいことがある。
田舎の人間はがそういうときそれは今でもポリネシアとかの島々では人間の原始状態が残っているから見知らぬ人をよせつけないというのはそういう閉鎖的環境で暮らしてきた名残である。

ただ現代は広域社会なったとき、どうしても金の力が田舎でも大きくなってしまった。
昔の村だったらとても金だけではその村では生活できない、原始状態の共同性があるからできない、そこでは金が否定される、ボリネシアなどでも貨幣がなかったことでもわかる貨幣ができると人間の関係は非情に冷たいものとなる。中世で商売は無縁の場を選び行われた。無縁化したとき共同体の拘束がなくなり商売ができたのである。そこには貨幣も生まれやすい。貨幣とは無縁化するものとして作られたのである。

その女性は小さな畑で野菜を作っていても趣味とほとんど変わらない、それでもほうれん草の料理をもってきてくれたときそれが買うのと何か違っていた。
スーバーで買うものには何か物に情がない、ただ買うだけである。
そのほうれん草の料理には情がこもっていた。それは何か家族が出す料理とにていた。
貨幣で買うものには人間の情を感じないのである。
畑でとってそれを料理して食べてみろといわれて食べてみるとそこに土地の情とか人間の情が感じられるのも不思議である。
そういうものが田舎ですら喪失したのが現代である。

その女性でも実際は貧乏の一生だから貧乏性になり問題が生まれた。あまりにも貧乏だとそこにも必ず貧乏故のマイナスの面が自然と身についてしまっているのだ。
何かちょっとごまかすとか工面するのはいいのだが嘘ついてごまかしたりする。
それはあまりにも貧乏な故にそういう性分になってしまったのである。
自分の母親もそういう性分がぬけなかった。だから花にも何にも興味を示さず働くだけだったのである。これも異常だったのである。

いづれにしろ田舎に人情があるというときそれはその人だけでのことではなくやはり昔の村がそういう人情を育んでいたのである。広域社会になると物はいくらでも入ってきてもその物に何か人の情が感じない、味は感じるけど人間の情を感じることができないのである。そこに現代の社会の問題がある。
グローバルな貨幣経済は情なき無縁化の社会にするのである。
そうはいっても金の力を大きくなったときそれも無視できないし否定もできないのである自分にしてもアメリカの株に投資しているということはグローバル経済の一員になっている。そこからまた払うものも払うとなっているのだ。
これも深刻な現代社会の矛盾なのでありそれはこのままつづかない、やがてグローバル経済は限界が来てしまう。またそうあるべきなのかもしれない、情なき人間社会もまた異常だからである。

タグ:冬菜

2014年12月14日

冬の日(今年の終わりも近いー短歌十首)


冬の日(今年の終わりも近いー短歌十首)

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庭の石旧家に落ち着く冬紅葉
柚木村月影さして冬菜かな
柚木村文久の墓や冬の月
朝日さし冬薔薇二輪赤にじむ
朝早み残月光り冬の雁
朝霜や未だ日のささず冬薔薇

松一本新築の家や海よりの太陽のぼり日のさしにけり
高々と白鳥二羽の飛ぶを見ゆ雲紅くそめ朝日昇りぬ
残月も欠けゆくものや冬の朝いくばくの余命あわれ深まる
99なお生きるものや冬の朝残月山に誰か見るらむ
冬の日に我が家のあわれ九十九母とともにしある時間かな
姉死して遠くならむや我が家に母の介護や年も暮れなむ
我が家の庭に一つ新しき石を置きにし冬日さしなじむ
我が町に味噌を作る家古りぬなお残りしも冬の日の街
しみじみと冬の日過ごす今はしもわずらいなきや石を見るかな
北風の戸をゆすり鳴りたずね人我が家になしも冬の日静まる
玄関の曇り硝子に今日もまた冬の紅葉の写り風鳴る

今年も終わりが近い、母はまだ生きている。人間百まで頭も普通に生きていたら死なないのではないかとすら思うだろう。
最近朝早く起きて外に出る、すると残月が光っている。その残月が日々欠けてゆくのも幽遠である。月は欠けてゆくのが特徴である。その欠けてゆくのが何かやがては病気になり死んでゆくとかの感じになる。
今年は仙台に一回しか行っていない、何かと忙しくていけない、家事に追われてまだ家がかたづかない、家が大きいと家に生きているという感じになる。
家を一つの自分の城のようになる。冬は特に家に籠もることが多いから余計にそうなる。だから川越の旧家のことを放送していたが何か昔が偲ばれる所が冬にはいい、自分の街でも古い家は残っているが街では味噌作りしている家である。
ただこの味噌も今ではスーパーにゆくと全国の味噌があるからどれを選んでいいかわからない、ところが昔は買う所は決まっていた。住んでいる街の店でしか買えなかったのである。味噌でもそれを全国に売れるのだが売るとなるまた競争になるから今は地元で作ってもそれだけでは商売が成り立たないとかなる。


自分は石をテーマにしている。だから石について百編以上の詩を書いている。
それらをまとめるのが仕事であるがなかなかすすまない、家事に時間がとられるのである寝る時間をのぞいて何かかにかすることがある。だから近くすら余裕をもって出れないのである。
でも田舎だと自然が近くにあるから毎日でもあきないものがある。白鳥がずいぶん高く飛んでいた。白鳥はあまり高く飛んでいない。それから冬の薔薇が霜を背景にして畑に二輪咲いていた。これも朝らしい、そして良く見ると赤い薔薇に白い点があり霜がおりたのかもしれない。これも写生だった。肉眼では見えないものがデジカメで見える。
今は本当に写真の時代である。氷河の写真を見たけどすごい風景だった。
あれをとれただけでもすごい、氷河となると見ることができないが写真で感動した。

今年も終わりが近い、今年は家の片づけ方で追われた。今もかたづいていない、自分は今いろいろと整理になっている。創作でもそうだし家のことでもそうである。
自分の家で最後に残ったのは自分一人である。自分の家をになっているのは自分一人なのである。
だから背負わされたものが重くもなる。
人間はやはり一軒の家でもそれぞれ事情があり外から計り知れないものがある。
自分の家は外からわかる人がいないだろう。
その複雑な事情をかかえて自分は長い間過ごしたのである。
それは自分だけではない、それぞれの家はその土地に根付いて何代もつづいている
二代つづいてもそれなりの歴史が生まれる。
だから避難して故郷から離れるとそうした家々のことが忘れられるとういことがある
他の土地に移るとそうして継続されたものがなくなる。
その土地でははじめからやり直すことになるからである。
だてからそもそも簡単に家を捨てることができるのかとなる。
それも町や村自体がなくなるということは精神的な面でも深刻である。
第一飯館村で6000人の数は多い、なぜなら廃村でも規模がもっと小さい百人単位でも多いくらいだからである。その規模が大きいからこんなことあったのかとなる。

自分はここ7年間は塗炭の苦しみの連続であった。今はなんとか落ち着いた。
だから体力も一年でトータルになるとかなり回復してきた。
一時的には弱ったときもあったがトータルではかなり体力が回復した。
二年間は身体障害者だったし本当に自分の家に来た人は自分を苦しめる人たちしかいなかった。
弱さにつけこんで苦しめられた。この恨みは本当は根深いし復讐したいとなる。
弱いとき攻撃されたりしたら絶対そのことは忘れられないものとなる。
その時弱くても今度はそうした奴らには全力で復讐するということがあるから気をつけるべきである。
ただ自分としてはそのことは忘れる、いくら憎んでも結局時間がたつと忘れるのが人間だからである。
ここ30年間は人とかかわらなかったのがやはり良かった。
人と関われば悪い人ととかかわることになる、人とかかわること自体何らか必ず問題が生まれてくのである。トラブルにきこまれてゆくのである。
そういうトラブルにまきこまれたことも今年もあったが大きなことにはならなかった。
選挙もしたがこれも適当だった。どうしても自民党にいれたくない、なぜなら自民一人勝ちになることが嫌なのである。他はだめでもそれが動機だった。
自民独裁になってしまうことが嫌なのである。独裁になったら民主主義はなくなる。
何でも自民の主張が現実に通ってしまうのである。それに対抗もできなくなるからである

2014年12月13日

抽象画(氷河)


 
抽象画(氷河)

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エーデルワイス(薄雪草)


これも偶然である。外国関係になると抽象画とか絵画が膨大にでている。
それをソフトで操作しているとそれらしいものができる。
これが一連のものとして連作としてできると一つの作品となる。
俳句でも短歌でも連作にすると厚みがててくる。
一つでは鑑賞するには孤立しているから単一になるから見応えがなくなる
エーデルワイス(薄雪草)も本当に偶然でできたのである。
何かそれらしい、白に変えたことはあったが何か薄雪草らしいので気にいった。
抽象画は何がでてくるかわからないということに魅力があるのだ。
開けてびっくり玉手箱なのである。
その素材はほとんど無限にインターネット上にある。
posted by 老鶯 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

平等を追求すると不平等になる (選挙もみんな一票でいいのかー老人が多いから不平等になる)


 
平等を追求すると不平等になる

(選挙もみんな一票でいいのかー老人が多いから不平等になる)


不平等こそが善であり、平等は悪なのである
http://www5d.biglobe.ne.jp/~anpoken/sub16.html

左翼の運動家が反省しているのもわかる。
平等を追求すると不平等になるという皮肉がある。それを証明したのが共産革命であり中国でありソビエト連邦だった。中国では一番格差大きいというのも不平等が最大になっているのもそうである。平等を追求すると結果的に不平等になる。
男女同権とかフェミニズムを追求した結果、苦しんでいるのは女性だとなる。
女性と男性は違っているのだから同じだとしたら仕事では競争しても勝ち目がない。
男性には男性の役目があり女性には女性の役割がある。
だから何でも平等を追求すると不平等になる。

第一なぜこの世の人は生まれたときから平等ではない、なぜそれぞれに違った親から生まれるのか?選んでいないのに生まれるのかということ自体不平等である。
親でも親と言えない人も普通にいる。ではなぜそんな親から生まれねばならなかったのかとなると結局カルマだとか運命論になってしまう。
そのひどい親から生まれるカルマだったとなる。
だからインドではカースト制が生まれた。それもやはりカースト制が生まれ何か必然性があったのである。合理的なものすらあったから制度にもなった。
江戸時代でも士農工商が不平等だとしてもやはりそこにそういう社会が生まれる必然性があったからそういう社会になった。それは必ずいい面と悪い面をもたらす。
カースト制や江戸時代がすべて悪いとはならない、そこにはいい面もあった。
もちろん悪い面を見ればきりないともなる。

例えば犬がいて猫がいて牛がいて猿がいる、それらがどうして俺は猫に生まれたのだと問うとき、それはカルマだったとしかいいようがない、猫に生まれカルマがあって生まれた俺が猫に生まれたくなかったとしても猫として生まれたら猫として生きる他ない、それが不平等だといってもどうにもならないのである。
だからインドではカースト制が何らかそうした必然性があって生まれたのである。
カースト制でも江戸時代の士農工商でも秩序を維持するために必要だった。
みんな平等だというとき秩序が破壊されてしまい社会が混乱するから分に応じた生活をしろとなった。
なぜ金持ちと貧乏人がいるのかというのもまた不可解なのである。
なぜその人は貧乏なのだろうとなると良くわからない、たいがい離婚している人は貧乏になりやすい、何かその人自身に貧乏になる要因がある。
一方なぜあの人は金持ちなのだろうとなるとこれもわからないのである。
金持ちの家に生まれる人と貧乏人の家に生まれる人がいるからだ。
金持ちの家があるのは不平等だから平等にしろというとき、それが今度はみんな貧乏人になってしまう。それが共産革命でもあった。
資本主義は欠陥があってもやはり平等主義とは違う。能力があるものか努力するものが成功するという建前があった。それが崩れてきているにしろそうして資本主義か世界のルールになったのはそれなりの訳があったのである。


特に地方で金持ちになるとしたら財産家になるとしたら昔だったらたいがいその土地から富を生み出している
するとその土地に富を生み出すとしたらその土地を富ませるものがあるということはいいことでありその土地の富者を否定したらその土地の富も否定することになる。
最初にその土地に富むものがあるとしたらそれに習い他の人も富むことができるとなる。それを富者を全部否定してしまうと結局富者から盗んでも富を分けるべきだとなる。
それが共産革命の原理である。
地主とか小作とかの問題にはそういう側面はあったことは確かである。
ただすべての富者を否定してその富は平等に分配すべきだというとき富者はこの世にいなくなる。そして結局それは全部を貧乏人にしてしまうということにもなる。

いづれにしろ今になると民主主義でも平等主義が極端になりその弊害が大きくなってしまった。才能も努力もしないのに平等を要求する。いろいろな差があってもいいのにみんな同じにしろという悪平等が民主主義をだめにした
それは選挙でもいえる。つまりみんな誰でも一票だというのも悪平等である。
選挙でも若者が少なく老人が多いからどうしても老人に有利になる結果になる。
これも悪平等なのだろう。これから国を背負うのは若い人であり老人ではない
その老人の票で選挙結果が決まるとなると国の将来も危ういとなる。
こうしてあらゆる所に今は平等が不平等になる結果を作り出しているのである。
民主党や共産党でもなぜ伸びないのか、共産党は今回伸びるにしても民主党は伸びない、民主党は貧乏人よりだとなると平等を追求する、するとそれがみんな貧乏になるという結果になる。
アベノミックスは金持ちのためのものだというのもわかる。ところが株は上下するしいつも株をもっているからといって得する訳でもないのである。
株をあげるのは経済を活性化するものでありそれは貧乏人にも影響するのである。

今回自分はどこに投票ししていいかわからない、株が上がったから自民党がいいともなるでも自分は自民党と公明党の独裁になるのが嫌なのである。
公明党も前から嫌いなのである。カルト宗教団体など政治にかかわるべきではないし自分が運動していたからわかる。これも民主主義に反している団体なのである。
結局公明であり共産であり体質は同じである。貧乏人を利用して政治にかかわり幹部が今度は権力を得てゆく構図である。幹部にとっては貧乏人は権力を得るための駒にすぎないのである。ただそうはいっても貧乏人は頼る所がないからそうなっているのである。

今回の選挙は何が争点なのかもよくわかはない、原発もそれほど争点になっていない、この辺ではやはり原発は嫌だとなる、それからアベノミックスの是非である。
これが成功したかどうかはわからない、これから株も暴落するかもしれてない、現実にアメリカの株が急激に大幅に下がった、石油が安くなり下がった。
だからそういう世界経済も影響してくる。
結果的には自分の利を考えれば円高で物価が安い方が良かった。
ただこれはデフレだから全体の経済を考えればやはり物価があがり円安の方が経済には良かったともなる。
どっちにしろ日本の経済はもう良くならない、限界状態に達しているからである。
自民にしろ民主にしろ経済を政治で良くすることはできない
だからどこの政党でも変わりないとなるが自民公明の独裁になることが嫌なのである。
それで民主に入れる他ないのかもしれない、野党がばらばらだから困るのである。
小選挙区制はアメリカのように二大政党の時に機能する、それがないのだから有権者にとっては選びにくい、何か民主主義自体が岐路に立っている。
その行き着く先は独裁になるということがサイクルとしてあるから民主主義の危機になっている。

タグ:平等
posted by 老鶯 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2014年12月12日

伊勢から名張から奈良へ(秋の旅路の短歌十首) (名張(なばり)の地名の不思議の考察)


伊勢から名張から奈良へ(秋の旅路の短歌十首)


 
(名張(なばり)の地名の不思議の考察)

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伊勢湾に秋の朝日のさし昇る波音ひびき我がたちにけり
なおあまた秋の燕の群れ飛びぬ名張を越えて奈良に向かわむ
名張にそしばしたちどまりその名にそ心に残す秋の朝かな
名張にそしばしたちよる旅人の影そとどめて秋の日あわれ
旅人の名張を越えむ奈良遠く飛鳥を目指す秋の夕暮
奈良に着き飛鳥に望む夕暮れの二上山や秋の夕映え
飛鳥にそ天武天皇の墓ありと伊勢より来る秋の夕暮
奈良に来て剣の池の古りにけるその謂われにそ秋深むかも
みちのくゆ伊勢に来たりて奈良に来ぬ陵大きく秋の夕暮
奈良に来てみちのく遠し誰とあふ古の人や秋深むかな



「那婆理稲置(なばりのいなぎ)」の記述があるので、名張の音としては「なはり」と「なばり」の両方について解析する必要がある。
@古くから名張の地が、鮎の産地として有名であったことから、漁師たちが縄を張って領域を独占したことから「ナワバリ」と意味され、鮎の縄張り的な習性、あるいは鮎漁猟者間の縄張り(なわばり)が転じたとする説。

A初瀬より山の中へ入り、三本松辺りの高地から名張を望むと、一大盆地が開け晴々した気持ちになることから、原始林などを開墾するという意味がある、新墾(にいばり)が転じたとする説。

(1)古事記 ⇒ 「那婆理」の表記
『古事記』安寧天皇の段には、皇子師木津日子命(安寧天皇の諱《いみな》=実名)の子の一人が、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先であるとする伝承が記されている(「稲置」はヤマト政権の地方官で、屯倉(ヤマト政権の支配制度の一つ)や県の管理にあたる)。須知・那婆理・三野は、いずれも現在の名張市域の地名で、安寧天皇(正確には「大王」などと表記すべきだが、便宜上慣例に従う)の子孫が稲置としてこの地に配備されたという伝承は、かなり早い段階からヤマト政権の勢力がここまで及んでいたことを示唆している。
天万豊日天皇 孝徳天皇(二年春正月)
凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。
A巻第二十八 ⇒ 「隠」の表記
天渟中原瀛真人天皇 上 天武天皇(元年六月)
夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる
天武天皇(?−686)の条。 天武元年(672)六月二十四日、総勢わずか三十余人で吉野を発った大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃をめぐって各地の豪族を糾合しながら大津宮に攻め入り、反攻をしのいで大津宮を陥落せしめた。七月二十三日、大友皇子は縊死を選ぶ。勝利した大海人は翌年、飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇として律令国家の建設を推進する。 大海人軍は吉野を出た六月二十四日の夜半、名張に入り、駅家うまやを焼いて衆を募るが、誰一人として応えない。横河(名張川)に至り、空にかかる黒雲を見て、大海人は自分が天下を得ることを占う。一行は伊賀郡に入り、積殖で朝を迎える。

底本頭注は、「隠郡なばりのこほり」を「伊賀国名張郡。今の三重県名賀郡の西半部・名張市」、「隠駅家なばりのうまや」を「三重県名張市の地にあった駅家か。大宝・養老令制では、駅家は諸道三十里(約十六キロメートル)ごとにおかれ、一定数の駅馬を常置した」、「横河」を「現在の名張川か。大化改新当時の畿内の東端」
「名張は伊賀国名張郡。今、三重県名賀郡の西半部、名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。

吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
吾(わ)がせこは 何所(いづく)行(ゆ)くらむ おきつもの 隠(なばり)[名張]の山(やま)を 今日(けふ)か越(こ)ゆらむ



名張(なばり)という所に注目したのはなぜか、それは自分が確かにここを船で仙台から名古屋に来てそこから自転車で松坂と志摩を回って名張を通り奈良についた記憶がある。
ただこの記憶も定かでなくなった。旅でも記憶があいまいになる。
名張という名が何かめずらしく心に残った。そこでは確かに秋であったが燕がなぜこんなに飛んでいるのかといぶかったことを覚えている。すでに去ってもいい時期だったからである。こっちは温暖だからまだ残っているのかと思った。
その名張の意味も良くわからない、しかしこの地域が飛鳥時代はまだ東国であり飛鳥の時代に支配権が及んでいない、境目になっていた。それも古い時代だが奈良と伊勢の中間地帯にあるから地理的には納得がいく。


歴史でもこの地理感覚が大事なのである。これが車だとなかなかわかりにくいのである。徒歩の感覚だと歴史も体にわかるということがある。現代は便利すぎてかえって地理の感覚がわからなくなる。遠さの感覚がわからなくなる。車で飛ばせば遠い感覚も旅が苦労だということもわからない、自転車だと何とか遠さとか旅の苦労がわかる。
自転車だと相当に疲れるからだ。そして自転車だとあとで記憶に残っていて回想して短歌を作ったり詩を作ったりできる。これが車だとできない、あそこにとどまっていたなという記憶がなくなるのである。
そして旅は伊勢から奈良から飛鳥という行程、道行の中にある。だから旅の短歌は一連のものとして鑑賞するものとなる。その長い行程の中に旅がある。
だからその行程を記憶する旅をしないとあとでも記憶にも残らないのである。
確かに名張で秋の燕がなぜこんなに飛んでいるのだということが一つの記憶として残っていた。そのことが旅の貴重な記憶だったのである。
それは名張にふさわしいということもあった。なぜならそこは奈良に近く飛鳥に近いから古代でもここを越えれば東国から奈良や飛鳥へ入るという感覚になるからである。

名張の地名はナラーハリかもしれない、奈良は均す(ナラス)であり平らにするとか耕作するのに適したように均すことは開墾することでもある。つまり飛鳥や奈良から開墾に入ってきた人達がいたのかもしれない、そういう記録もあるからだ。
一大盆地が開けていたということもそうである。そこは開墾するのに適地だったのであるだから名墾という名にもなった。開墾するということである。
ただナワバリーナハリという説もある。

名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。

ナワバリはこの由来なのか?川があったとするとその川で魚をとっていた人達がいてその名がついたのか?
ともかく新しく開墾された地が名張であり張るは開墾する意味である。田などを作る意味である。それで名張となった。吉隠(よなばり)ともにているからこれが有力になる。
地名の解読はむずかしい、でも自分は旅をして何か駅名とかこうした地名が心に残る不思議があった。名張というのも何か変わっていたから心に残るのである。
あまりにもありふれていると心に残らないというのもまた人間の心理なのである。

旅というのは奈良から伊勢へと旅するのと伊勢から逆に奈良へ旅するのは全く変わった感覚になるのだ。古代から江戸時代でも西から東の旅、京から陸奥への旅は枕詞などがあり旅をしているが逆に陸奥から西へ京へ旅することはしていない、そういう記録も文学もほとんどないのである。ほとんどの古典は西から東への旅なのである。
ただ万葉集でも防人の歌は西に向かう旅を歌っていたのである。
現代はむしろ東から西に向かう旅が普通なっている。
旅というのは福島県でも浜通りから会津にゆくのと会津から浜通りに来るのとは全く違ったものとなる。なぜなら浜通りから会津は山国への旅であり会津から浜通りになると海へ出るからまるで違ったものとなる。

この七年間は近くすら自由に行っていない、それまでは自由に旅していた。今は回想する旅である。それも自転車でしていたから回想して短歌などでも作れる。
回想するときの旅はその土地のことを歴史などをインターネットなどでも知ることができるからそこからその土地のことを思い出して作る。
でもやはり人間は忘れやすい、どこをどう行ったかもわからなくなる。
ただ旅はある一カ所にゆくのではない、一連のものとして旅がある。行程に旅がある。
そういう旅がない、江戸時代なら別に旅でなくても歩いていたのだから日常が旅なのである。度々ゆくから旅だともなる。現代から旅が消えたのは過程がないからである。


そして旅はつくづく今はかえって労力がかかる。自転車の旅でも相当に時間もかかるし労力もかかる。だから勤め人だったらできない、そして江戸時代だったら歩くことが旅なのだから別に作る必要はない、演出する必要はない、今は旅は演出する必要があるのだ。
便利すぎるからわざわざ不便な旅をするようにしないと旅にならないのである。
でも歩いて旅している人も必ず途中で電車に乗ったりしている、遍路の人もそうだった。だから歩き通す旅をしている人はほとんどいないのである。むしろできなくなっているのである。
ただ鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。公務員をやめて自由になり旅したのである。よほど自由な旅をしたかったことがわかる。
やはり勤めていれば自由な旅を今はできないのである。




タグ:名張

抽象画(南の海など)


抽象画(南の海など)


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南の海の底

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地震の巣

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海の紋章



南の海のそこというのもその変化させた原画はインターネットの抽象画にあった。
これもいろいろ変えてみたらこんなになった。
青い秘密の洞窟がうまく偶然にできた

地震の巣はある。三陸沖にあったし東海地震の巣もある。
だからそこから常に地震の驚異にさちされていたのである。

海の紋章は津波をイメージする
地震とか津波はこの辺ではなんでもテーマになりやすくなったのである。

タグ:海底の神秘
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2014年12月11日

文明は計ることであり計りえないことで滅びる (津浪や原発事故はまさにそうだった)


 
文明は計ることであり計りえないことで滅びる

 
(津浪や原発事故はまさにそうだった)


計りえない世界


石は
たくらみ
計ることがない
故に疲れることがない
人は絶えず
たくらみ計り
故に疲れる
人はこの宇宙を
計ることができない
予期せぬことが起きる
人間のはかりごとは
あえなく御破算になる
人は神の計らい
決して越えることができない
人は神の掌にありて
神に計られしもの
人の計りごとは
常に予期せぬことで破綻する
石は未だに計ることなし
神の御意にただそこに在るのみ


文明とは結局計ることが文明だとも言える。だけど計りきれないから文明は滅亡した。
マヤ文明でありこれも実際は相当な高度な知的文明だったのだ。
高度な天文学を有した文明だった。
ではなぜ滅びたのか?
つまり天文であれ気候であれ計りえないことだったのである。
人間の心臓まで神に捧げて文明を維持しようとした
しかし最後は迷信に陥り太陽の光が弱ると恐怖して神殿は放置されて森に埋もれた。
文明とは基本的にこの宇宙を世界を自然を計るという営みである。

だから現代では文明は科学文明になったことがわかる
科学によってこの世界は宇宙は計り知り得るものだとなったのである。
それは人間の信仰であり神の信仰とは違う
人間の力でこの世界のことを計りしりえるという信仰なのである。
ところが人間の力には限界がありそのはかりごとは失敗する
予期せぬこと計り得ないことがこの世には起きるということである。
それをまざまざと見たのが津浪であり原発事故だったのである。
原発を擁護する科学者が百万年に一回しか事故の確率はないと真面目に言っていた。
そんなこと確率でわかるはずがなかった。

人間の未来は計ることはできない、だから未だ来たらずであり未だ来たことがないことが来る、それがこの辺の津浪や原発事故だった。
未来が予期できないということが人間にとって致命的なのである。
本当は歴史的にみれば津浪も予期できるものであった。
ただ一万年とかのサイクルになるともうお手上げになる
でも地球の歴史は何十億とあるとしたら一万年も短くなるのだ。
その間に何か起きるか予期できないのである
結局人間のはかりごとが御破算になったことの驚きである。
海側を干拓したのは自然破壊であり自然に反することだった
一見自然と調和しているようでも自然に反することだった
松原も全部破壊されて元の自然にもどってしまった。

個々人の人生でも金のことやらいろいろと計算する、しかしほとんど計算通りに人生はいかない、マイホームをローンで買った人は払えないと老後難民になったと嘆いている
人生も計った通りにはならない、いくら計画して計算しても計算通りにいかない、
大企業に就職すれば安全だ公務員は安全だとか安定たとか言ってもこれも将来はわからない、例えば夕張のように自治体自体が消失するということが現実に起きる。
南相馬市などもあと十年二十年で相当に衰退する、工事関係者が去ったら火が消えたようになり夕張のようになるとしたら公務員も職を失うのである。
だから人生そのものが計算できないのである。
社会的にも天変地異でも何が起きるかわからない、突然個人的にも病気になったりするのが常にある。
いくら人間側で備えてもそうした天変地異は人間の計ることを越えているから対処できない、津浪で三陸などの高い防波堤も越えて津浪に襲われた
人間がいくら図ってもそれ以上のことが天変地異で起きる

そもそも津浪であれ原発事故で人が住めなくなったなど全く予期できないことだった。
だからどう対処していいかもわからない、でも明治維新の黒船であれ戦争の災禍であれ
おそるべき変化が過去にもあった。それも何百年前ではない、だから六十年くらいで社会は大きな変化の時が来ている。それは予測できないことなのである。
人間の計りごとに限界がある。だから絶対に安全だというものはこの世にない
原発は絶対安全だという安全神話が権力で形成された
それはマヤ文明ともにているかもしれない、原子力文明でありそれは事故で廃棄され廃墟となりその回りが住めなくなった、神殿は元の森に覆われた。
原発事故周辺も人が住まなくなり元の森に覆われたともなる。


posted by 老鶯 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年12月09日

大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった (現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)


大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった


(現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)



(鹿島町の女性)

私が話をうかがったのは平成三年で満95歳の高齢にもかかわらずかくしゃくとしてをり、記憶もはっきりしていた。

大正7年のとき二十三歳であり二十歳の
時、原町北泉のより嫁に来た。士族同士の結婚だった。
耕作地は自作地一町五反であり反あたり六俵の収穫があった
わりと当時としては裕福だった

夫は駄賃とりを一生懸命やりまた飯館村にたる引きに入れ大きいカツオは五本ずつ十本を馬にかけて運んだ
お正月の料理はもち、塩引きが最高の料理であった
電気などなくランプの暮らしでホヤみがきが嫁の仕事でありしょっちゅうこわれて町へそっと金をわたして町へ行ったとき買ってきてもらい交換した

(男性)

当時の反収は5俵から六俵くらいで小作料は二俵半だった。
当時の農作業などの日当は米三升が標準だった。
家計は子だくさんの上、いっぱい食べたので一日二升食べ、残り一升で暮らすのは大変だった。中以上の裕福な家では味噌を使い味噌がないときは塩でまにあわせた。
食用油、砂糖などは贅沢品で使えなかった。

収穫は反六俵で出に荷は駄賃取りがいてその人に頼み馬に二俵つけて町に売った
黒砂糖をこごりで買って砕いて使用、白砂糖はお正月に少し食べるくらいで醤油もほとんど使用しない、正月用だった、小作でないので他の人より楽であった


研究紀要二(1994)ー米騒動の研究


そもそも醤油が使えなかったら素朴な疑問として料理自体できないのではないか?
明治になっても大正でも醤油が使えないとなることが全くイメージできなくなっている。もちろん味噌も満足に使えないとなると味噌汁さえ作れないことになる。
明治以降もそうだったとすると江戸時代はどうなっていたのか?
それ以上に貧しかったとなるのとどんな暮らしになっていたのか?

反当たり5俵くらいとなると今は十俵だから倍になっている。この違いも大きいだろう。
だから米あまりになる。
それから運搬は馬でありもともと江戸時代から馬で運搬していた、だから駄賃という言葉が生まれたのである。

行き掛けの駄賃」とは、「ある事をするついでに、別の事をする」または、「ついでにほかの事をして、利益を得る」と言う意味である。特に"駄賃"には、"一寸した手間賃"というニアンスが強く、大人が子供を使いに出す時の手法であった。


農作業でも他の家の手伝いで手間賃をそのつどもらっていた。これは別に定期的にないからこんなふうになった。
飯館村に魚を運んでいたというのは興味深い、それは江戸時代からの塩の道の継続だけど明治以降は塩の道はなくなり八沢浦の峠の道が作られていた。

川俣まで天秤棒をかついで屋形から鰻を売りに行ったという話には驚いた。
当時の貧乏は今の暮らしからは想像できない極貧状態である。小作が多いから余計にそうなる。だから小作だというときそのこと自体が常に奴隷のようなものとしてイメージされたかもしれない、今日の派遣とかともにている。ただ食べ物に関しては貧乏でもさほど変わりないのが現代である。
士族同士の結婚とか書いてあるのもその頃まだ江戸時代の継続があり士族と平民は分かれていた。兵隊手帳にも士族と平民と記されていたのである。
自分の母親は九十九歳で大正生まれだけどその前となるとさらに貧乏になる。
だから製糸工場で女性が働くようになったとき月給ももらったのだからそれなり女性の収入も生まれたのだからその当時としては一つの進歩であり女性の地位の向上にもつながっていた。だから製糸工場に働く女性に対して反発があった。

戦後十年もこうした戦前からの生活の継続があった。それは江戸時代の継続でもあった。まず炭が燃料になっていたことがそうだった。あとはタンス一つとか飯台一つくらいしか家には物ののない時代だった。
でも不思議なのは醤油はあったし味噌汁もあったし塩引きは好物だった。
塩引きはそれほど贅沢ではなかった。日常的に食べていた。
ただ卵は贅沢であり食べていない、農家では鶏を飼っていたから食べていた。
だから自分の家で店をはじめたとき卵買いに行かされたのである。
明治以降の運搬は馬であり車などない、だからこそどこでも農家では馬を飼っていたのである。馬は農耕にも運搬にも欠かせないものとしてあったのだ。

それにしても大正時代はランプだったのか?ランプの明かりで粗末な家で暮らしていた。これも不思議である。
でもランプでも江戸時代にはなかった。江戸時代は蝋燭だったのである。ランプはそれより発達して文明の利器だったのである。
戦後十年も裸電球一つだったけど電気は通っていたのである。大正時代は電気もないということがあった。
電車も電気ではない、だから蒸気機関車だったのである。これも今からふりかえるは錯覚している。
汽車は死語になった。汽車は蒸気機関車のことだったからである。電車は電気で走るから電車なのである。
常に今と昔は何か錯覚してみる。それが江戸時代あたりになると余計にそうなる。
現代からは想像もできないから何か誤解して錯覚してみるようになるのである。

ホヤは一晩で煤けてしまい、日常の手入れは大変だったようです。普及するにつれて、明るい五分芯は部屋に、三分芯は台所で、厠へ行くときには豆ランプを持ってなどという使い分けもあったようですが、普通の家はランプは一つしかありませんでした。
町にはランプ商、ホヤ商、油商という商売が生まれました。特に油商は行商も多く、家々を廻って桝で量り売りをしていました。

ランプ屋が街にあった。種油とは菜種油とか椿油とかだろう。それを売り歩く人もいた

日本は今曲がり角に来ている。円安とかになり経済も変わる、物価が高くなったと思う。魚でも倍になっている。何でも二割くらい高く感じる。この物価高は貨幣の価値を低くする。貯金していても金の価値はかなり下がってゆく、だから老人が金をもっていてもその価値はかなり下がってしまったのである。
でも円高と違い円安は物の価値をあげる、日本で生産するものが安くなるから外国に売りやすくなる。日本は先進国から後進国へ逆戻りする。輸入するものが馬鹿高くなりバナナでも高くなるかもしれない、それは戦後十年でもそうだった。バナナは高級品で買えなかった。仙台に売っていたが自分の家では家族が病気になったとき仙台まで買いに行った。なんかそういう時代に逆戻りするかもしれない。
一方で地元で国内でとれるものは海外から入るものより買いやすくなることもある。
ただ野菜も高いし一般的に食料も高い、つまり貧乏人だと底辺だとさらに貧乏感が増すし金持ちでも株などに投資して上がらないと金をもっていてもその金の価値が半分とかに下がってくるようになる。
それがまだ実感しにくいが金の価値が下がってきているかことは確かである。

今まで百円で買っていたものが百五十円の感覚になるのも近い、円安とはそういうことである。
これまでの物価安は後進国が安い労働力で物を作りそれを輸入していたから安かった。
これからはむしろ自国で生産した方がいいとなる。海外で生産しても円安だと割安感がなくなるからである。
日本の農産物にとってはいいのかもしれない、何でも物が高くなり紙幣より金より物の価値が高くなるのである。
だからいくら老人が金をもっていてもその金は相当に目減りしている。
物の価値が高くなるとともに賃金も高くなるから労働する人の価値が高くなる。
金をもっているだけではその価値がなくなる。インフレになるとそうなる。
円安は金を持っている老人には不利である。若者にはいいのだろう。
ということはアベノミックスの狙いはあたったのかともなる。


ただ物価高でも賃金が上がらないと貧乏人にもこれは答える。
ともかくこれからは江戸時代のような質素倹約の時代になる、贅沢な消費社会は終わる。物の価値が高くなり贅沢できない、物を粗末にできない、なんとか工夫して料理でも工夫しけ安上がりにしないとやっていけなくなる。
それでも醤油や味噌すら使えない時代が大正まであったのだからふりかえればそれよりはずっと恵まれている。でも高度成長からバブルからそうした日本の繁栄の時代は終わったのである。だから高度成長時代にもどったりまたもう一度復活することはない
質素倹約でありそれはモラル的にはいい方向に向かうということがある。
ただこれまでの贅沢な消費から生活を落としてゆくことはかなり苦痛になる。
ただそういうことが否応なく強いられる。日本の成長贅沢の時代は終わったのである。
タグ:貧乏
posted by 老鶯 at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2014年12月08日

言葉は文化でありその背景に歴史と風土がある (尊敬語は今では相手を気づかう言葉に変化している)


言葉は文化でありその背景に歴史と風土がある


(尊敬語は今では相手を気づかう言葉に変化している)

近代以前は平安時代の京都の貴族語に基づく文語体が標準的な書記言語として広く通用し、口頭言語についても、江戸言葉が成熟する江戸時代後期までは京言葉が中央語であり、京都を中心に新語が日本各地に伝播していったとされる

日本語は複雑である。尊敬語とか謙譲語とか丁寧語があるというときこれも複雑である。尊敬語と丁寧語は普通に今も使われている。ただ謙譲語は使わなくなっているだろう。
その区別がむずかしいしめんどうである。
こういう言葉使いはそもそも意識してできるものではない
言葉使いは無意識的にしているのである。
そもそも尊敬語とか謙譲語はどうして生まれたのかといえば宮廷内で生まれた。
そこには上下関係があり敬うことが日常的にされていたから尊敬語が生まれた。
上の人にへつらうということも尊敬語にはあり反面本当に敬うということも言葉にある。言葉は同じ言葉でも言い方でも何か違ったように反応する。
言葉は数学と違って記号ではない、人の感情が入るからそうなる。
だから標準語にしたとき、何か味気ないものになった。何か記号を読んでいる感じになる方言には感情が入りやすいが標準語はまさに全国標準で伝えてわかるために明治維新後に普及させた。今では共通語としている。

言葉が京言葉が中心だというとき文語体の言葉が敬語が沖縄とか青森に残っているのもそうである。かえってそうした辺境に古い言葉が残っている。何か言葉の化石のようにも思える。沖縄は別な言語のように見えても京言葉があるように京都中心に広がった言葉であるから言葉的には日本文化を受け継いでいる。古代から京言葉が中心であり標準語だったとなる。方言と思えるものもたいがい京言葉を標準語として変化したものなのである。
それから武家の言葉と庶民の言葉が違っていた。武家の言葉がやがてまた庶民の言葉になった。江戸時代は地方でも武家と庶民は違った言葉使いをしていた。の言葉使いから階級かわかり身分がわかるようになっていた。言葉さらに職人言葉とかもありその仲間うちでも独特の言葉が生まれた。そういう特殊な言葉がマタギ言葉として残っている。
要するに江戸時代までは言葉すら多様であったということはそれだけ地方でも一地域でもそれぞれ独自の生活があったからそうなった。
もの作りにしても実際は地域地域でも同じ地域でも違ったものを生産していたのである。飯館村の凍み大根がうまいというとき飯館村は高原地帯で寒いからいいものができた。
凍み大根は寒ければ寒いほどいいものができるからである。つまりそうした地域地域にあったものが生産された。福島の桃がうまいのはあそこは夏は特別暑いからうまいものができる。

言葉というのはボリネシアとかでは百種類の言葉があるとか島ごとに言葉が違っているとかそういうのが普通だったのである。それは互いに交流が不便でできないということが影響していた。だから日本でも江戸時代まではそうであり明治維新後に標準語を必要としたのである。でもその結果として一様化画一化した。つまり文化は多様性であり画一化しにくいから文化なのである。みんな同じになったら文化ではない、現代文明は大量生産でものも世界規格で同じにして普及した。工業製品はそうすることが便利だからそうなる。
ただ文化となると言葉でわかるように画一化しにくいのである。
言葉は深くその土地に根ざして生まれてきているからである。
英語にしろというときそれはグローバル化社会ではその方が便利だからそうなる。
でも英語にしてもイギリス英語でもそもそもクェーンズイングリッシュがあり庶民の英語とは違っていた。それは日本の敬語が宮廷から生まれたのとにている。
アメリカ英語はそもそもイギリスに発した英語とは違っているという。
その相違をわかる人は相当に英語に通じている人である。

なぜイギリス英語とアメリカ英語が違ってきたのか?
それはアメリカに移住した人たちが長年その土地で使っていたら同じ英語でも違ったものになっていった。
アメリカの歴史は西部開拓とかで培われたものが根底にある。
西部というとグランドキャニオンとか見ればわかる。あそこはまるでどこか別の惑星とすら感じる光景なのである。
そういうアメリカの広大な世界で培われるものはイギリスのような狭い島国で培われるものとはあまりにも違っていたのである。
ただ不思議に西部開拓時代は日本の江戸時代ともにていたという不思議がある。
なぜなら農民であれ職人であれそうした働く人達が主役となった世界だからである。
それを詩にしたのがホイットマンの詩だったのである。

そこには日本の貴族も侍もいない、イギリスの貴族もいない世界でありその国を作るのは農民の開拓者と職人など手職をもった人達である。その時機械も発達していないから余計にそうなったのである。だからあれほど働く人達が賛美されたのである。
その人達はほとんど肉体労働者が多かったのである。
その人たち貴族などいないみんな平民だから平民の言葉となった。
アメリカ英語がイギリス英語と違っているというとき言葉はただ観念ではなく現実の生活が反映されて作られていたからそうなる。
西部のような広大な世界を詩にする言葉にするということ自体がそこにはもう言葉で現せないものがあった。それはもし別な惑星に行って地球と全然違った景色を見れば地球の言葉で現せないと同じような感覚になっていた。
ホイットマンの詩にはそういうものを感じる、とても日本のようにイギリスのように言葉がこじんまりと収まらない世界なのである。
アメリカ人が実際は野蛮人だというときあの広大な西部の風土を生きてきたとなればそうなるたろう。だから同じ英語でもその風土や歴史的経過で違ったものになってしまったのである。
アメリカには神秘主義とか哲学とか芸術は生まれない、ただ実用主義でありプラグマテズマの思想になる。西部開拓では実際にそこで役立つものしか重んじられないし観念的なことは無用になるし観念的では生きられない風土である。
それゆえにここでは技術が機械力が制限されることなく応用されるようにもなった。
巨大な機械力が自然を破壊するようにはなるようには見えなかった。
それでもソローなどは鉄道を批判したりしていたから自然を侵害するものを感じていたのである。

日本では微に入り細に入り季語を作って来たような言葉とはあまりにも違っている。
そこにはむき出しの荒野があり岩肌が迫る、あんなところではとても俳句も作れなかったそれは多少北海道とにていた。北海道でもアメリカと比べると小さいなと思ってしまう。それは中国にも通じている。中国でもあれだけ広いから大雑把なものが建築でも生まれるとてつもない巨大な意識が生まれのはアメリカとにているのである。
漢字にはそういう風土を反映したものがある。日本でかなが生まれたのもやはり日本的風土が関係していたのである。とても中国やアメリカのような大雑把な世界から生まれ得ない繊細なものが日本文化なのである。

いづれにしろ言葉の問題は言葉だけて終わらない、言葉の背景には歴史もありその国の風土もありまた言葉には感情が入るから言葉だけでは通じあえないというのも人間である。話す言葉になると必ず感情が入る、感情が入りやすいのは方言なのである。
標準語だと何か冷たい感じになってしまう。方言だとそれは西東関係なくあたたかいものを感じる。あったけえというのとあたたかいという感じからして違っている。
感情を入れるのには方言がないとできないのである。
尊敬語が必要だというとき言葉も常に時代とともに変化している。
尊敬語でも今や目上の人に対する言葉てはない、まず目上の人だから尊敬するなど今はない、若い人にはもう老人というだけで何も尊敬したりしない、ただ若い人でも会社の上役とか権力を持つものにはへつらうから尊敬語をやむなく使うかもしれない。
でも尊敬語は今では相手を気づかうものに変化しているのだ。
尊敬語の方が相手を気づかうトーンがあり感情が入るから使う、目上だと相手を敬うとかはなくなっているのである。現代ではそもそも人を敬うなどなくなっているからだ。
「心に青雲」で尊敬語の必要性を説いているのもわかるがその人の言っていることは対話でもコミニケーションでも相手を気づかうということをしきり言っている。
つまり尊敬語は相手を気づかう言葉に実際は変化しているのである。

現代は明治維新後強力な中央集権体制ができて欧米列強に対抗しようとした。
太平洋戦争後もそうである。東京中心にして高度成長を図ってきたのである。
それで今は地方は衰退して疲弊している。
高度成長時代が終わり日本はまた江戸時代のような地域の時代にもどる。
現実は地域自体なくなるとか言っているが地方の再生が模索される時代で起きている。
原発事故などは何かアメリカ的巨大技術の弊害の結果である。
原発は事故が起きてもロシアや中国やアメリカなら百キロ圏内でも移住できる広さがある日本ではそんなことしたら国自体を放棄して滅亡するほかなくなる。
だかち原発は日本のような狭い国には合わないものだったのである。



タグ:尊敬語

2014年12月07日

寒さしみいる石


寒さしみいる石


城の跡六万石や落葉かな
六万石城跡たずぬ冬紅葉
板塀や城下の細道冬紅葉
石の庭池に写せる冬紅葉
風吹かれ残菊あわれ夕暮れぬ

しんしんと石に寒さのしみいりぬここを動かずともにしあらむ

今日は寒い、外にも出歩きたくない、今まであたたかったから寒く感じる。北海道とか雪国だと外に出れなくなるだろう。ただ車もっていると中があたたかいから出歩ける
自転車だと寒いから外に出たくない、今日本当に出たくない
桂離宮の庭の池に冬紅葉が写っている写真が出ていた。
石と冬紅葉があっている。
自分のテーマは石なのである。
人間は自然でも認識するとき、なんでもそうだが人間化しているのである。


しんしんと石が冷えるというとき人間化している
石も人間と見ているのである。
石は動かず寒さに耐えているとかなる。石に気持がなくても人間が見るときそうなる。
だから不思議なのは飯館村とか人か住まなくなった村というのはどうなるのか?
あそこにも牛の背のような石がありあの石は見物である。
飯館村は牛と石の村でもあった。
でも人が住まなくなるとそこに人間がいなくなると石もただ自然の中の石になってしまうのか?
人間の思い入れがない石となってしまうのか?
みんな散り散りになってしったからである。

現代は昔のような村と違って人間の生活はグローバル化していると村で暮らすようなつながりが消失した。金の力が増大した。金さえあれば近くの人に頼る必要はない、生活するものが買えばいいとなる。
だから仮設に住んでいる小高の人でも何ら協力関係が生まれていない
金さえあれば別に助けてもらう必要もないからである。
かえって補償金が多くもらっていいなとかなるだけで関係ないのである。
「金にめんどうみてもらえ」と遠い親戚の人とと縁を切れたけど極端化するとそうなってしまう。


だから原発避難民はこれからそういわれるかもしれない、補償金をたんまりもらったんだからそれでやればいいと言われる、そしてもらわない人は俺たちはもらってもわずかだしもらえなかったんだからなとなる。
最初は絆とか言われたけどかえって広域社会化した世界は金の方が大事になる。
だから人と人は助け合わないのである。
それは別に原発事故があったからではなく前からそういう社会になっていたのである。
だから故郷でも市町村でもつながりがなく解体しやすいということがあったのだ。

相馬藩で飢饉のとき飯館村に小高であれ相馬藩内で援助していた。それも相馬藩だからであゃた伊達藩からなどは援助がない社会だからそうなった。
それも問題だが相馬藩内では助け合った。逆に今は外から来た人が働き助けている。
内部ではかえって助け合わないという矛盾も生まれているのだ。

タグ:寒さ