2015年04月30日

抽象画(夏のイメージ)


抽象画(夏のイメージ)


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水と緑の地球

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新緑に風

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結局抽象画も具象画を知らずして鑑賞できないだろう。
なぜなら自分の抽象画が具象画をパソコンで抽象画にしているからだ
新緑となればいくらでも写真がでている
それを加工しているというとき変化させているのは具象画の新緑を抽象画しようとしている
だから新緑という具象画があって抽象画ありうる


ただ色の配合だけでも何かを現せるというのが抽象画である。
パソコンの色は電気の色だから今までの絵の具では現せない
だからアートは技術なのである
新しい技術で見方が変わるのである


だからなんか抽象画は創作しているという感覚が薄い
機械的作業である。でも変化して何か別なものになっているから創作だともなる
要するにその種がパソコン上にインターネットにいくらでもあるから尽きないとなる
インターネットが影響している芸術でもある
タグ:新緑
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初夏になっている (今年は夏が早い)


初夏になっている

(今年は夏が早い)
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これも原画があり変化させたものである。
原画がわからなくなるから出してもいいとなる


一時に七輪咲きぬ牡丹かな

道の駅燕交差し増えるかな

日立木の街道そいに蛙鳴く


山桜風に飛び散り海よりし東風(こち)吹きそよぐ新緑にあれ
山桜昨日残ると見にけるもたちまち散りて東風の強しも
知られるざる道踏み分けて今年見る桜のあわれ夕日さすかな


今年は夏が早い、弘前の桜は連休に咲く、でも今はすでに散っている
このように桜の咲く時期に見ることがむずかしいのである。
今年は何か風が強かった、それでたちまち散ったということもある。
弘前の桜を見たい人は連休になってみれないとなると残念だろう
ギャンセルが増えるとうか土地の人は言ったいた
桜が咲いていないのに遠くからわざわざ新幹線でも金をかけてはこないとなる
だから弘前では商売的には今年の季節はいいとはならなかった

山桜が風に吹かれて飛びちる、それも山桜らしい、街の近くに山桜が咲いていたが今まで気付かなかった。
何か故郷でももう死ぬかもしれないというとき知らないことがある。
近くに咲いている桜さへ知らないのである。

知られるざる道踏み分けて今年見る桜のあわれ夕日さすかな

あそこの道は通ったことがなかった。それも近くだったのである。

今年はすでに夏である。新緑にもなっている。
道の駅に盛んに燕が飛び交い今の時期は一番活気がある
自転車は風を感じるから気持ちいい
車は風を感じないから季節感もなくなる
やはり自然とともに人間も生きるとき生きていることはすばらしいとなる
牡丹も今年は七輪も咲いた。
一時に命がみちあふれ花も開花して躍動的になるのが4、5月である。
この時期は一番いい時期である。
個人の人生であれ社会的歴史的にも花開く時がある
それがルネッサンスなのである
東北はまだルネサンスはなかったけどこれだけ富でも蓄積されて東北でも起きてくる
自分の庭のて輪の牡丹が一時に咲いたように経済を基盤にして栄える時がくる。

ともかく自転車に自分が乗れなくなったら最悪だった。
実際一時二年間くらいは自転車にのれても苦しかったからそうなっていたのである。


五月の風

五月の風を受けて自転車は颯爽と走れ
山桜の花が飛び散り
太平洋から東風が吹きそよぎ
新緑の季節に変わる
清冽な泉が大地より湧き出し
熱せられた銅の山の肌
体にも熱い血潮が巡り夏が来る
白い浪しぶきが遠くに見えて
燕は飛び交い蛙は鳴く
自然の躍動とともに汝はあれ
生命は今水々しく青々と輝いている
花々は今一時に祝福するように咲く
健やかな体に全身で自然の躍動とともに生きる
五月の風を受けて自転車は颯爽と走れ
水は轟き流れ風は唸り吹く
世界は広く究めることはできない
未知の領域は近くにもあり
汝の旅に終わりなし

自然と一体化して生きることが幸せである。そのためには体が健康でとないとだめであるどうしても病気になると表現するのも病的になるのである。
ただ自転車も疲れるようになった。筋肉痛になるから遠くは苦しい
結局体力がないと無理はできない、それができるのは若い内だけなのである。
今日は4月の最後だけど五月の風だった。





タグ:五月

2015年04月29日

原発事故や津波で奪われた生きがい (何でも金では買えない)


 
原発事故や津波で奪われた生きがい

 
(何でも金では買えない)


双葉町辺りで農業していて避難している人で65才の人が農業する代替地を用意してほしいという。
放射性廃棄物とかになるのは困るとかも言っていた。
その人は時々帰って農機具などの手入れをしている。
その人は生きがいを欲しいという、多額の補償金をもらうより生きがいが欲しいという
その生きがいは田んぼで米作りをすることであった。
でも考えてみると65才で農業ができるきかとなると確かに80才でも農作業している人はいるからいちがいには言えない
でもこれから先どれくらい農業ができるかとなると疑問である。
ただ避難民は田植えして収穫したとき喜びがあった。
毎日補償金でパチンコなどしていたら心も荒廃してくるだろう。
飯館村でも多額の補償金でギャンブラーになったという。
お前は金あるんだから何にもしなくていい遊んでいれというのも一見いいようでそれが人間の生活とかなる。
浪江の会社経営の人もたんまり金もらったんだから仕事はやらなくていいよと言われたのにはがっかりしたというのもそうである。
何億円もらったから仕事は回してもらえない、その金で遊んでいればいいだろうとか言われるの補償金から生まれた問題であった。
補償金でそんなふうにしてギャンブルなど遊んでいると回りから良くみられない

「なんだあいつら、補償金をたんまりもらって遊んで暮らしている
俺たちは補償金ももらえず汗水たらして働いているんだよ、あいつらのためにも働いているんだよ」

そう回りから見られる、つまり金もっていて金で買うのだからいいとはみんなならなかったのである。

これは少人数だったらあまり回りからの目が厳しいとは必ずしもならない
そんな変わり者もいるな、ほうっておけとかなる。
現実今の時代はニートとか働かない人が普通にいる時代なのである。
ただ補償金は高額でありそれは国の税金からでているから回りの人は良く思わない
だから原発避難民に対しては回りの人の見る目は複雑なのである。
避難民貴族ともなっているからである。避難民とか言うと世界ではそんなことなどありえないのである。
アフガニスタンの避難民やシリアなど避難民などとはあまりにも違いすぎるのである。
ふういう人たちが生きがいが欲しいなど言わない、
もう毎日が生きるか死ぬかに追い詰められているから生きがいもなにもないのである。
金より生きがいを求めることは贅沢なのである。
そして一億円もらったからとそれで生きがいは買えないのである。

近くで知っている人は小さな畑を作っている。
そこからとれるのはほんのわずかの野菜である。
一人分も間に合わない、一度ネギを二三本もらっただけだった。
でもその畑をするのに肥料代はかかる虫にはやられる盗まれる、草をむしらなければならない・・・延々とそ農業の大変さを言うだけなのである。
でもその人はもともと農家の出であり農業が好きなのである。
いろいろ文句は言ってもその小さな畑で農業することが好きなのである。
趣味の農業であるかそれか生きがいなのである。
だから金かけてでも農業がしたいとなっているのだ。
余裕がある社会になると例え金がかかってもうからなくてもやる
退職した人なども余裕があれば自分の生きがいになることをしたいとなる。
そういうことは人間として進歩していることである。
ただ強制的に食べるだけに働かせられと結局奴隷なんだよなとなる
なぜこんなに現代が働かない人がいるのかそれはそれだけの余裕があるからである。
高等遊民になれたのは戦前だったら本当に例外的でありほんのわずかな人だった。
その人たちかえって特別の人であり教養がある人で作家などになった。
今は普通の人が百万とか働かないのだから全く戦前の高等遊民とは違うのである。
要するに働きたくなければ働かなくてもいいとなっている社会なのである。


生きがいが欲しくて働くなど過去になかったと思う。
生きがいなどより現実として食べるものを生産しなければならないということだけである生きがいを求めるということは社会にそれだけ余裕があるからこそ生まれる
つまり生きがいをそもそも自覚しなかったのである。
農家の人が毎日補償金で働くなくてもいいとなってもそこに生きがいがないというとき
つまり働かなくてもいいということにされたからかえってはじめて生きがいを自覚したのである。
むしろ農業している時は小さな畑で農業している人のように文句が多かったのである。
米は金にならないとか苦労ばかりでなんだとかかんだとかしかないのである。
でも一旦もうあんたは金やるから働かなくていいよとされたとき生きがいが欲しいとなったのである。
漁業でも農業でも生きがいは自覚しないのである。
だから津波で漁師が久々に漁にでて魚をとったとき喜びにあふれていたのである。
農家の人が収穫したときも同じである。

プライムニュースで土地の値段が30年後辺りで三分の一となるとか家の資産価値がなくなるとか言っていたことで解説していたのが面白かった。
土地とか家は資産として資本として価値をもっていた。
ところが土地でも三分の一とか家でも空家が一千万軒時代になると土地も家も価値がないだから土地とか家を資産として考えることは変えねばならない
その土地を活かすものに価値があり土地自体には価値がない
資産として土地をもっていることは許されないとなる、なぜならそんな資産としてもっていても値上がりなどしないからである。
それよりその土地を有効活用してくれる会社に与えるべきだとなる。
空家にしても利用してくれる人の方が価値あるとなる時代である。
土地を家を使ってくれてありがたいとなってしまう時代になるという。

生きがいというのも土地や家をもっていても生きがいは生まれない
それを活用して社会のためになる人が生きがいをもつことになる
もともと地主と小作がいて地主はただ土地をもっているだけで豊かになっていたというのは理不尽なことだった。
その土地で働いて収穫する人の方が価値があったからである。
土地をもっているだけで裕福になるという社会は理不尽な社会だった。
そういう社会も土地が三分の一とか空家がこれだけ増えると何も価値がない
使ってくれるとありがたいとなってしまうのである。
土地をもっていたり空家をもっていても何の資産価値もないのである。
そこに住む人がいて土地も家も価値をもつ、利用する人の方が価値あるとなる社会であるそれが人間的なものであり公平なものである。
都会でも土地をもっているだけで家賃だけで暮らしているとかいうのは理不尽だった。
土地で家でも金でもそれを社会のために有効に活かせる人がもつべきなのである。
自分がプログを書いているのも生きがいのためである。
これは別に発表するのに金はかからないからできるのである。
これが本を出すとかなると個人ではできないからである。
たとえば画家にしても今は金のために描くなくてもいいとなる
自分の描きたいのを描かけばいいとなるときそれは余裕ある社会だからそうなる。

いづれにしろ生きがいが欲しいというのも仮設で四年もごろごろしていたらそう思うのも当然だとなる。
そういう生活にあきてしまうだろう。それでいいという人もいるし農家の人が言っていたが3年遊んでいたら仕事ができないというのもそうなきかもしれない
怠け癖がついてしまうのだろう。
この辺で当たり前のことが当たり前の価値がクローズアップされた、意識されないもきが意識され価値を認識するようになったのである。
故郷がなくなることなどイメージすらできなかった。
それが実際に故郷が消失したとき故郷ととは何かなど哲学的に思考するようになったのである。
津波や原発事故周辺はそうした人間のあらゆる問題を追及する場ともなった。
生きがいが欲しいというのもこの辺で避難暮らしになって特別意識されたことなのであるそもそも人が働くのは生きがいのためであることこそ人間本来の姿だった。
強制的に奴隷なんだよなというときは生きがいもないのである。
つくづく人間の社会の価値は常に変動している。
それは人生でもそうであり若いとき価値あると思うものが老人になると全く価値ないものとなる。

老人の考え方は若者とは違う。時間感覚にしても全く違ってる。
小さな庭に何を植えようかと思ったらもうすでに成長して葉が茂り花が咲いているのがいいとなる。
それが三年先に成長しているということに待てないのである。
そんな三年でも待っていたら死んでしまうかもしれないということが現実になる。
だからこの若者と老人の時間感覚の差は大きいのである。
復興するにしても若い人の意見を聞けというときそうである。
老人はもう何年後かに死んでいるかもしれないというとき十年後のことも考えられないのである。
もちろん十年後を考えて働くこともできない、十年後にここに木が成長して花が咲き実が実るだろうという希望をいだくことができないのである。
それより成長した木で花が咲いているのを見たいとなるのである。
だから避難民が帰るというとき老人だけになるときどうしてそこで復興できるのだろうかとなる。
あと何年がで人生も終わりだなとか長くても十年だなとかなると復興などできないのである。だから老人だけでは復興はむずかしいから避難区域になっているところは復興はありえないと思ってしまう。
はっきりいってめんどうだから小高に帰らないと鹿島に家を建てた人がいた人の気持もわかる。

自分自身が何かこの辺でこんなふうになって問題だらけの所にいるのが嫌だとなる。
それは先が短いからそうなる。
もう最後はゆっくりして咲いている花を楽しみ実を食べたいとなるだけなのである。
今は耐えていれば十年後には花が咲き実がなるとか言われてもそれもできない
だからこういう所に住みたくないと正直自分も思っているのである。
普通の場所で少ない老後を楽しみ暮らしたいとなるのである。
この辺の老後の人生は破壊されてしまったのである。
いろいろなわずらわしいことが多い所には住みたくないのである。
だから息子娘が跡を継ぎ孫がいて曾孫がいておじいちゃんと呼ばれていて多少は農作業したりしているのがいいとなる。
そういう老後が破壊されてしまったのである。
確かに補償金があるにしても子供と親は別々になり老人だけが帰って老人だけの社会が成り立つのかとなる。
老人だけ帰って復興にならないのである。
だからこの辺の状態はあと五年くらいしたら相当に深刻になるだろう。
外部の人も極端にへり夕張のようになるか恐れもある。
シルバータウンになって跡継ぎがなく市町村が消滅してゆく、避難区域はすでにそうなっているからである。
タグ:生きがい
posted by 老鶯 at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り) (春と冬をたずねてその土地のことがわかる)


 
情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り)

 
(春と冬をたずねてその土地のことがわかる)


 
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黒石弘南鉄道こぶし咲く
境松弘南鉄道夕桜

青森の山間の里知らじかななほ雪残り電車行くかも
春なれど雪の厚きや青森の山々車窓に写りてすぎぬ
駅の名を一つ覚えぬ浪岡や電車過ぎゆく春の朝かな
黒石のこみせを歩みあわれかな弘南鉄道に帰る春かな
松の湯と確かに松あり古りにけるこみせ通りや春の暮かな
黒石のこみせに昔を偲ぶかな買い物をして春となるかな
雪の日に温川(ぬるかわ)温泉に泊まるかなここより遠し春になたしも
黒石より小国は遠き雪うもれトンネルくぐり一度通りぬ
弘前城の雪を踏みにつ古き門入りて桜の根を見て帰るかな
弘前城古木のごとく三つの門雪を踏みしめ帰りし日かな
大館に泊まりしことあり冬の日や汽笛の鳴りて寒き日なりし

城下町時代、秋田から蝦夷・松前へ抜ける街道の中間にあったため、物資の交流など商業が大いに栄えた。豪壮な構えの商家・造り酒屋の妻入りや平入りの屋根のラインが、雪国独特の木のアーケード“こみせ”の上に姿を見せ、独特の景観を見せる。
http://www.jalan.net/kankou/spt_02204ad2150016774/

青森は東北では最果ての国となり情緒がある。青森県は湖があり海があり歴史もありいろいろ変化に富んでいる。鉄道も変化に富んでいる。
そして新青森で乗り換えて弘前に行ったのだがここだけが山間に入り雪が凍り残っていたのである。
やっぱりここは寒いのかとそこだけは最果ての国でまだ寒いからなのかと思った。
その山間をめけると雪はなく春であり今年は暑く夏にもなっていて気候は福島県とか東京とも変わりなかった。気候の変化を感じないから余計に距離感を感じなかった。
ただ十三湖で西風が強く吹いていたときだけ荒涼としたものを感じた。
そこは一四度くらいで寒かった。

黒石は前も一度行ったがこみせ通りには行っていなかった。
それでタクシーを頼んで行ったら松の湯があるところの古い通りとか言ったらすぐわかった。
松の湯のところはそこは工事中だったが松があるから松の湯になっていたのである。
これも地名と場所がぴったりとあいそれがこみせ通りに通じていたから情緒あると思ったこういう情緒はスーパーなどでは作れないのである。
そこには人間の営みとしての歴史があるためである。
歴史は現代では作り出せないものである。長い年月で作られたものだからである。
だから観光するとなると新しい通りはつまらないとなるしスーパーはただ買い物するだけだとなるからつまらない。
あそこを歩いて何か買ったりすると昔の情緒が味わえるのである。
だからあそこで松の湯に入ると癒される、いろいろ温泉をたずねあるいていた人がいた。温泉が熱いのかとしきりに聞いていた。
あれは相当な暇な人でありこれも退職した人であり温泉をたずね歩いているのである。
秘湯をたずねあるいている人もいる。退職した団塊の世代が今は相当に旅しているのである。
金と暇ができたからそうなる。

弘南鉄道もローカル線でありあれで黒石まで行くのも情緒がある。
「境松」とかありそうした駅名と地名がどういうわけか旅では心に残る
黒石という地名も何か青森では黒のイメージになるからあっているのだ。
あそこから冬には温川(ぬるかわ)温泉に行き二日泊まった
途中「小国」という所をトンネルをくぐり一軒宿の温川温泉に着いたのである。
小国という地名はどこにでもある、日本特有の地名である。
それは山深い所に多いのである。
小国というのは一つの国であり昔は自給自足していたからそうした地名が作られたのかもしれない。
福島県でも飯館村へ峠を越えて下がった平坦な盆地のような所が小国となっている。

バス泊まる梨の花咲く小国かな

そこてバスが泊まりしばらく待っていたことがあった。小国町というのもあるから小国という地名は日本全国で多いのである。
雪に埋もれた小国をバスが通ったときこんな奥深い所に人が住んでいて村があったのかと思う。今はどこでも行けるから秘境もなにもなにもない,実際に車でどこでも行けるから秘境などないのである。
秘境と思ったら観光地化していたというのが普通である。
ただ現代の交通の便がいいと何回も行ける、そしてその土地を知るには最低でも春と冬にたずねるべきである。
特に青森のような雪国は冬にたずねて春にたずねるとその風土が実感しやすいのである。冬に行くと全然違った感じになる。
弘前城でも冬に行った時、城内の雪を踏みしめて桜の根っこをみてきた。
そして春に訪れて桜が満開になっていたのを見た。
冬に耐えて一斉に一時桜は咲き散ってしまうのである。
そしてあの古い門が雪で埋まって通れないために高くしたというのも雪国らしいとなる。
弘前城に現存する門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られています。これは、積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにしているためだと言われています
これも風土であり何かそうした風土によって形成されたものが趣深いものが自ずから生まれる。都会は一様化するからつまらないのである。
どこにいってもビジネスのビルや観光用のものしかなかったらつまらないのである。
弘南鉄道とかあういうローカル線は情緒がある。
でも経営的には苦しい、津軽鉄道もそうである。
ただバスは情緒がない、車窓から見える景色も違ってくる
自分は電車の旅が好きである。バスでは移動したくないのである。
ただそういう恵まれた時は終わった。

今は思い出す旅である。
思い出を編むというかつないで一つの模様にするという作業である。
だからインターネットはそういう思い出す旅の役に立つ
検索できるからちょっとした知識でも役に立つのである。
弘前でコーヒーが薬としてはじめられたというのもそうだった。
旅というのはそうしたちょっとした知識を知っているのと知らないのではまた鑑賞の度合いも違ってくるのである。
だから芭蕉は平泉をその歴史ある場所として事前に調べていてあれだけの紀行文と俳句を残したとなる。
一面知りすぎても旅はつまらなくなるかもしれない、何か知らない意外のものとの出会い、未知(道)との出会いも旅だからである。
必ず旅にはそういうことが起きてくるのである。
決まったルートを行くだけではそうしたことは起きない、たから現代は交通が便利なのだけど観光地をただ回って終わるだけでつまらないとなる。
旅はその過程にあり目的にあるとはなちない、奥の細道は平泉が目的としてもその長い過程にあったからである。






タグ:黒石市

2015年04月27日

弘前市は喫茶店の街 (コーヒーは薬だったー何でも歴史があると違ってくる)


弘前市は喫茶店の街


(コーヒーは薬だったー何でも歴史があると違ってくる)

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弘前の喫茶店かな城の側夕べ灯ともり花の夕暮

幕府の命を受け、北方警備のため蝦夷地に赴いた勇敢な弘前藩士。厳冬下、浮腫病の予防薬として飲んだ「蘭療法」に基づく珈琲を再現したのが「藩士の珈琲」です。安政4年(1857)、蝦夷地勤務の幕臣に配られた仕様書(蝦夷地御用留「二」)によると、「黒くなるまでよく煎り、こまかくたらりと成迄つきくだき弐さじ程麻袋に入、熱き湯にて番茶の如き色にふり出し、土びんに入置、さめ候得ばよくあたため、砂糖を入用るべし」と記されています。これはドリップ方式の原形ともいえる淹れ方。色や味は番茶に似た薄味の珈琲で、とろりとした舌ざわりが特徴です。珈琲の街弘前で、今の味と飲み比べてみませんか
http://www.hirosaki-kanko.or.jp/web/edit.html?id=pamphlet#coffee

弘前市はやはり城もあり歴史がある。青森市は新しいから歴史がない、その相違は観光であれ大きいのである。城跡があるだけでも歴史があるということで魅力がでてくるのである。歴史とは何かというと過去との対話である。
過去との対話というとき城とか目立つものではなく墓でもそうである。
墓を通じて故人と対話する。それが人間の営みである。
だから街の魅力として城があるのとないのとでは相当に違ってくる。
相馬藩たと城があったのは相馬市であり南相馬市になったが原町は明治以降に発展した新しい街である。街の中心部が江戸時代は野馬追いのための広大な牧になっていたことでもわかる。
原町は城下町ではない、いち早く近代化した新興の街でありそのシンブルが大正時代に建てられた巨大な無線塔であった。それは関東大地震の時、アメリカに無線で伝えたということでも有名である。
この新旧の市町村の歴史は常にみておく必要がある。
村でも必ず新旧がある。古町とあるときそこはもともと栄えた町であった。それが山の中の村にもあるし町には必ず古町がある。どこが古いのか新しいのか知る必要がある。
会津でも会津は城がありそこが古いのは誰でもわかる。でも明治以降発展したの商業の街の喜多方なのである。会津の北にあるから喜多方になった。
外国でも歴史のある街と新しい街は明確に別れていて観光するのは古い街なのである。
そこでは歴史があり昔を知ることができるからである。
これは外国でもそうだし日本でも同じなのである。

弘前市でコーヒーを薬として飲んでいたことが面白い。もともとお茶も薬だった。その原産は中国の雲南であった。そこに山茶花などの原木がある。山茶花は茶とあるごとく茶の原木なのである。ただコーヒーが薬だったことは意外だった。
また弘前藩が北方警備のために蝦夷地に赴いたというのも本州の最果てだから北海道がすぐ先なのだから地理的に蝦夷とは深い関係があった。
それで良くアイヌ語地名が青森の地名の基だと言われる。青森の地名は確かに別とかつく地名が多い。今別とかもそうでありそういう傾向があることは確かである。
ただそれがアイヌ語由来なのかどうかはまた不明なのである。
青森県の面白さは北海道と蝦夷との関係がもともとあったことは確かである。そういう地理的位置にある。
だから青森市が青森県が明治以降函館が大きな港として機能して青森が繁栄しなかったとか恨みを言うのもわかる。
明治以降は北海道が発展して函館が中心になっていたからである。
明治以降は函館の方がめざましく発展したのである。
青森県が青森が中心ではない、弘前城がある所が中心だったのである。
ともかく城がある所が古いということはわかりやすいのである。
福島市には城がないが二本松には城があり二本松県となるところだった。
会津にも城があり会津県になるところだった。
それはわかりやすいのだがなぜ福島県になったのかはわかりにくいのである。
福島市には城がないしどうして福島県になったのか謎になっているし青森県も青森という小高い森があって青森県になったというけどそれも納得いかないのである。
弘前県だったらわかりやすいとなる。ただ合併するのとにていて弘前市が中心でない広域になると別な名前が必要になり必ず合併した市町村の一字をとり名前にするのとにている会津県となったら会津以外は入らないとなってしまうからである。

いづれにしろ歴史は別にむずかしいものではなくコーヒーのこと一つとってもここではこんな歴史があったのかと興味深いものとなる。
会津藩でも藩士が北方の警備にあたっていた。


会津藩でも藩士が北方の警備にあたっていた。それで明治維新で薩摩長州と対立したとき会津藩・庄内藩が、蝦夷地をプロイセンに売却しようとしている文書が最近発見された。会津・庄内藩は、軍事支援の見返りに、北海道を売り渡す計画していたのでしょうか
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html

ここのプログの中に北海道を管理していた地域の藩の図がでている。北海道は東北列藩が管理支配していたのである。津軽藩も一部をまかせられていた。会津はオホーツクの方で領域が広いことがわかる。
つまり薩摩長州連合軍と幕府軍が榎本長けようお函館に星型の城郭を築いて北海道共和国を作ろうとしたことに呼応している。
東北列藩と幕府軍と北海道とプロイセン連合が成り立てば薩摩長州に対抗できたのである。
それがまとまらなかったのはやはりそれをまとめるだけのものがなかった。
だから薩摩長州連合軍に敗れたのである。

青森県について津軽について弘前の城下町についての知識は自分は不足している。
函館には五六回行っているから函館は知っているのである。
青森とか弘前市については良く知らないのである。
弘前市に冬に行ったとき雪が朝に明るくきれいな雪だなと見た。
会津とか新潟などの雪はなにか暗く感じる。その雪は朝明るく本当に白く降っていた。
それほど寒いとも感じなかったことを覚えている。
ただ津軽の方の雪になると地吹雪であり全く違ったものになっている。
弘前市は都会であり城下町であり文化の街でもあるから喫茶店の街だとなる

自分は旅をして良く喫茶店によったし喫茶店が好きだった。そこでなにか休んで旅のイメージをふくらませる瞑想的な空間としてある。
でも今はそういう喫茶店は極端に減った。飲み食いするだけの場所が経済的に多くなったのである。純粋の喫茶店というのは全国でかなり少なくなったのである。
喫茶店というのは場所が大事である。
東京とか大阪とか混雑した大都会では喫茶店は入ってもリラックスしない。
京都辺りだと歴史があるから喫茶店でも違ったものとなる。
何でも自然と歴史が魅力を作り出しているのである。
南相馬市の鹿島区の農家の納屋を喫茶店にした所も北海老のニコニコ堂も場所としてはいい。
でも幹線道路からはずれた山陰にあるので場所としてはいいのだが利便性がないので外の人は知らないと入らないだろう。
あの場所は隠されているからいいともなるけど知っている人しか行けないのが問題である弘前が喫茶店の街だといとき場所としてはあの城のお掘りの側がいいと思い一度は入りたいなと思った。
人間は田舎的なものと都会的なものを常に求めている。
それはわび、さびと秀吉の黄金の茶室に通じている、都会的なものがないと文化も育たないのである。
盛岡という都会があり賢治も啄木も生まれたのである。
仙台市は都会としては今は大きくなりすぎた。盛岡市とか弘前市くらいの地方都市が文化的な香りがするし城下町ならなおさらである。
仙台市は何か商業都市であり歴史があっても歴史が感じられないのである。

自分は北海道に十回くらい行っているから北海道と結びついている青森県に興味をもった一つの県だけを見ても一地域だけを見てもその地域性はわからない、常に他県とか他のかかわりがあるからつながりを常にみないとわからない。
ただ歴史的地点として城があるところからその土地をみるのはわかりやすいのである。
だからある土地を旅したとしても旅も積み重ねであり前にあそこに行って今度別な方向に行こうとなりその土地の空間認識が広がる。
そして時間認識として歴史認識も必ず必要なのである。
今回はコーヒーの歴史を知った。インターネットはこういう点で便利である。
「津軽学」という本があってもそれをそろえるのも難儀だし調べることが本ではめんどうなのである。
知識もまた蓄積であり旅も蓄積だった。記憶して思い出してその土地のイメージをふくらませるのである。
青森まで行ったら北海道は近くなるから行きたいとなるのが旅である。
北海道には十回とか行っている、函館も何回も行っている。
ただトラピスト修道院まで行って松前に行っていなかったのが失敗だった。
北海道で江戸時代からあったのは松前藩だからそこに行くべきだった。
北海道の日本の歴史は松前からはじまっていたからである。

松前に我は行かじも春なれや弘前よりや松前に行かむ

旅は終わることはない、季節によっても春夏秋冬があり旅はしきれるものではない、旅は今や一度だけではない何回か行って過去の記憶をつないでゆく旅になる。
人間ほど忘れやすいものはないのである。
旅でもすぐに何十年前とかなり記憶が朧になってしまうのである。
とにかく一日泊まっただけでもこれだけの旅ができた。
やはり旅が一番である。そこに住めば人間は誰しも鬼となる
ただ通りすぎて行くなら旅人なら花を見て去るだけだとなるからいいのである。

弘前の桜に染まり帰りける旅人にあれまた来たらむかな

まず弘前であれどこであれそこに住むということはどうしてもどんなところでもいいものではない、悪い面が露骨に見えてくるのである。旅だったらいいころだけ見てされるからいいのである。
それにしても一日泊まるだけで大変なことだった。それでも二日泊まれば北海道まで行けるとなる。こんなに旅ができないということも信じられないことだったのである。
勤め人だったりすれば自由な旅ができないのだから自分のようには感じない、それで退職した人が今は相当に旅している。
たまたまレストランで待っていて会った人もそうだった。高速バスで気ままな旅をしていたのである。
そして自分が気ままな旅ができないのもまた人生だとなる。
自由な旅をしているのは勤めをやめた退職した人たちだったとなる。

タグ:弘前市

fotoskecherで加工した弘前城の桜の写真


fotoskecherで加工した弘前城の桜の写真


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クリック拡大して鮮明に見える

写真は今や絵画化する、写真は今や膨大になっている
デジカメの場合は記録してとる場合がある
芸術としてとり加工することもある
この両方がデジカメにはある。
写真と絵の見分けがつかなくなったのも現代である。
タグ:弘前城の桜

2015年04月26日

弘前城の桜満開 (城にひかれのは現代に失われたものが城にあるから)


弘前城の桜満開


(城にひかれのは現代に失われたものが城にあるから)

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天守閣より

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パノラマ写真

(弘前城天守閣十句)

花また花花に染まりし天守閣
花の色重なり濃しや天守閣
花風に吹き舞い散るや天守閣
天守閣装う花の尽きぬかな
松風の鳴りて花散る天守閣
岩木山春の日映えて天守閣
石垣にくねれる松や枝垂桜
天守閣ものさび古りて松に花
松影に夜散る花や天守閣
花に月弘前城の天守閣
弘前城門の古しや花に月
堀写る月に桜や夜もふけむ

門古く枝垂桜の色濃くも城の内にしくねる松かな
二本の枝垂桜や城の内色を深めて天守望みぬ
樅の樹の直ぐに立ちしも城の内岩木山映え花盛りなり
花の影長々とつづく弘前城枝垂桜の石垣による
花に明け花にそまりて花に暮る弘前城に尽きぬ花かも
弘前城北の守りと古りにけり枝垂桜の色を深めぬ
岩木山天守に望む花盛りや我も望みてみちのくの春
門いくつ堅固に古りて北の国守りのかたく松と花かな


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月が出ていた

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クリック拡大しないと鮮明に見えません


●城にひかれる理由

大名や藩主の政治上の拠点であり、居住の場所であり、攻守の要であり、城下や近隣の人々の命や生活を左右する、まさに命運が決せられる場所であった

城を守ることは国を守ることと同義であり、それはすなわち、戦国時代には藩内の各人の命が城の存続と共にあったということを意味するのである。そのようなわけで有事の際には武将はおろか、一兵卒、農民や町民に至るまで、城内に暮らし、敵の襲来に備えたのだhttp://japan-web-magazine.com/japanese/castle/index.html


城の美学

徹底的に無駄を省いた造型
簡素簡潔の極みの美
潔白の四面の白壁
忠誠の主君の天主閣
質実の土台の石垣
貧しさの中の無駄のない美
武士道の結晶の美
身を律して静粛なり
冬樹のように張りつめて
ここに自ずと人格は陶冶され
一本筋の通りぬ
城下町の細い道
身を引き締めて
侍の威を正し歩む

建築はただの建物ではない。物質ではない。確かにそこには精神が外に現れた具象化であり建築を見るとその時代が凝集して現れている。日本の城もそれは美を意図して作られたものではない。あくまでもその時代の実用のために戦いに備えるために効率を第一に造られたのである。美を意識して作られたわけではない。後の世にそれが美として認識することになった。日本の城は本当に寸分の無駄もない。貧しかったので無駄ができなかったのだ。それは茶室にも通じるものである。日本という狭い国土ではすべて無駄ができないのだ。ヨーロッパには無駄と思える贅沢な建築がある。装飾過剰と思えるバロック建築などである。ヨーロッパには日本にはない贅沢な建築がある。それはとりもなおさずヨーロッパには日本にない富の蓄積があったからだ。日本にはそうした富の蓄積がない故無駄を徹底的に省く建築が志向された。日本の城は大きい城より小さい城に本来の姿があるのかもしれない。地方の多くの城は小さい城だったからだ。とにかく侍はいなくなっても城は侍の精神の結晶として残り確かにその城から侍が出てくるのだ。

 一方現代の建築の貧困は大きいばかりでそこに精神の表象化したものが感じられない。単に効率化でありビジネスと事務のための箱に過ぎず精神がない、ただ利益を追求するためのもので精神を感じられないのだ。建築からみると現代は貧困である。これほどの建物がひしめきあっているのにどれも個性もなく一様である。
現代をみるとき常に過去にもどり現代をみるから歴史が重要になる。
復古の精神が明治維新でもそうだったように革命になっているのが世界でも同じである。フィレンツのルネサンスがローマなどの復活だったようにローマももともとは武士道と通じるものをもっていたのである。それは建築にも現れていたのである。
ローマの兵士と侍は似ているのもやはり共通している。
今にないものが失われたものが昔にあったから歴史が見直されるしそれはくりかえされてきた人間の営みである。
城に魅力を感じるのは現代が失われたものがそこにあるからである。
高層ビルを見て何か不満がある。ただ高いというだけで何かが欠けている。
おそらくこうした現代のビルははたして後世の歴史的遺産となるのかと考えたらならないだろう。そこには何か人間の営みとして大きく欠落したものがあるからである。
一方城には小さくても単純でも根本的に違ったものがある。
それは何か?歴史的遺産とか物はただの物ではないのだ

●当時を生きた人々の思いがこもっている城

物にはすでにその城とともに生きた人たちの思いが残されているから単なるものではなくなっている。
だから何かもともと城もないのに観光用に城を作っても感動しないのである。
雲雀が原に野馬追城など作ってもそこにはもともと城がなかったから観光用であり感動しない、今なら城は秀吉とか名乗る人が個人で城を造ったように作れるのである。
今なら豪邸は城である。でもそこに何かが大きく欠落している。
城は小さくても単なる物ではない、その時代に生きた人たちの思いが集積して残っているから違っているのである。
そういうものが本当の歴史的遺産であり後世に残るものである。

城にはそういう人々の思いが共同性の象徴としてあったから違っている。
建物は共同性の象徴としてあった。
村の共同のために神社があり武士の時代になると城になり明治以降は家が共同性の象徴となり天皇家と家意識が結びついたのである。
なぜなら一家の墓が生れたのは明治以降だからである。
それまでは個人墓と夫婦墓が多いのである。それは明治になっても受け継がれているから夫婦墓は明治になっても多かったのである。それは・・・家という家の墓ではないのである。明治以降はこのように共同が村から城から変わっていったのである。
今なら会社が共同性の要だから城と同じになる。企業戦士と呼ばれたのもそのためであるでも会社が高度成長の時は会社に家族もまるごと従属したが今はそうではなくなった。
武士の社会では身も心も城と一体化して従属していたし家臣は君主に忠誠を誓っていた。そこに強いモラルが形成されて命をともにしたから違っていたのである。
そういうものを城にはあり単なるものではないからひかれるのである。

●弘前城の天守は当時のままのもの

弘前城は天守でも江戸時代から現存しているまれなものなのである。
だから余計にそこにこもっている思いがその城に感じるのである。
城でもきれいに改装されると何か違ってくる。たいがい城は改装されて新しくなっているすると何か作られた観光用のものと感じてしまうのである。

ともかく弘前城に残っているものは少なくても往時のままに現存していたから貴重である桜は別に江戸時代は咲いていなかった。枝垂桜のことは信長に滅ぼされた朝倉氏の城で歌われたからあった。糸桜として歌われている。
桜はそもそも山桜であり城には咲かない、染井吉野はあとから作られた品種である。
明治以降に城が公園化して桜で飾られるようになったのである。
弘前公園の桜もそうである。

春高樓の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
昔の光今何處

これもだから明治以降に桜が植えられて咲いたからできた歌だった。
それでもなぜこれほど城には桜が映えるのか、それは城と桜が一体化する日本的文化のためである。当時も桜が咲いていたように錯覚するのである。
第一桜そのものが日本人の心でありもう単なる花ではないからそうなっている。
弘前城の桜はやはり一番見応えがある。岩木山を見えるし自然と調和することでさらに引き立つのある。それは二本松の城と同じである。
街中にある城はビルに埋もれたりしたら映えないのである。
自然と調和しないものはどんなことしても美を作り出せないのである。



弘前城に現存する門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られています。これは、積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにしているためだと言われています
http://tamutamu2011.kuronowish.com/hirosakijyouootemonn.htm

ここの写真を見ればわかる、これだけ雪がつもっている

この写真は4月24日のものです
今年は風が強いし早く咲いたので散るのも早いらしいです

偶然ホテルのキャンセルが一室あってとまれた

新幹線も盛岡まで立っていた

この時期はこむが桜の時期は短いから無理をしても見るべきである
タグ:弘前城

春の日の新幹線の旅の不思議 (仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


春の日の新幹線の旅の不思議

 
(仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


東北新幹線と夕日
http://sakana114.exblog.jp/16757926/

新幹線盛岡とまり春の月
春の灯や盛岡すぎぬ新幹線
春星や新幹線に乗れる人
きらめきぬ旅路帰るや春の星

逢隈駅とまりてしばし残る花車窓に見つつ過ぎ行きにけり
とうとうと北上川の蛇行して岸辺の広く芽吹く樹々かな
みちのくの奥の深きも春の朝連なる山の霞けるかな
新幹線二戸にとまるタンポポの明るく映えてはや走り去る
新幹線樹々の芽吹きや風ゆれてひた走るかな青森までを
八戸に新幹線のとまるかな春田の見えてしばしのどけき
みちのくの春の山々残る雪新幹線の車窓に見ゆかな
みちのくの春や夕日のきらめきて新幹線の車体に反射す
仙台と青森結ぶ新幹線二時間なりし春の夜かな
十三湖西風強し春なれど新幹線にはや帰り来ぬ

新幹線は自分はあまり乗らなかった。旅する時間がなくなり最近東北新幹線でも乗った。青森まで開通して三年たったというけど行っていなかった。八戸までは行っていた。
ただ錯覚していたのは新青森まで三時間以上かかると思っていたことがである。
このことが大きな錯覚だった。
鉄道で三時間となると遠く感じるのである。暇な時間があるときはそうして電車で旅をしていた。それはぜいたくな時間だった。
急行にもあまり乗らず普通車で旅していたのである。

だから今回新幹線で青森まで二時間で到達したことに驚いた。
二時間ということはほぼ原町から仙台に行く感覚である。
それは前は相馬市からも通勤していたように通勤できる時間でもある。
それは一時間20分くらいである
それにしても二時間は本当に早い、距離として遠いという感覚が全くもてなかった。
それは今まで経験しない不思議な旅になった。

新幹線だと見えるのは山だけなのである。
だから新幹線から見える山を紹介するサイトがあったことでもわかる。
不思議なのはその山が連なってるように見えることなのである。
それは山と山の距離は相当にあっても新幹線は早いのだからその距離を短縮してしまうのである。
だから山の間が遠くても連なっているよように見えるのだ。
それで仙台から岩手山が見えるという詩を書いたりした。
今回は青森から仙台まで夜に来たが街の灯でもその間の間隔がないように感じる。
一つの街にきんきてもすぐまた街に来ているから街の間隔がない
街の灯が次々に見えてくる感じ蜷のも不思議な経験であった。
つまり盛岡の街の灯や一関の街の灯でも連続して見えるのである。
新幹線は空間の間隔を変えてしまった。

というのは津軽鉄道で終点の中里町から十三湖をタクシーで見に行った。
十三湖には西風が強く吹いていた。
ここに今ころこんなに強い西風が日本海より吹いてくるのかと意外だった。
ただ太平洋も春になると東風が吹くから海からは風が吹きやすいのである。
その西風をに見に受けて今日のうちに帰ってきたことも不思議である。
あそこは本州の最果ての地だけでも仙台からだって前はそうだった。
新幹線でゆくとそういう感覚がない、距離の感覚がもていなのである。
それでこの感覚はなんなのだろうとなる

技術はやはり人間に新しい感覚をもたらす、パソコンでもインターネットでもそうだった
ただ前から乗り物は車であれバイクであれ自転車であれ乗った感覚は違ったものとなる。見える景色もそれで体験するものは違ったものとなることはわかっていた。
新幹線も乗り物だからやはり同じだったのである。
いづれにしろ電車の旅が長いから新幹線にも鉄道ファンなら愛着を覚えるようになる。
その流線型の車体に春の日がさして反射する、何かその車体も愛おしとなる。
こういう感覚は自分は車にはもてないのである。
でも車をもっている人はそういう感覚をもつことは同じなのである。

ともかくこれだけ早いと青森が一段と身近に感じた。
青森は日帰りもできる距離にあるのかと驚いたのである。
一日泊まったがかなりの所を回ることができたのである。
そして7年間旅から遠ざかっていたからまた旅ができたことはうれしかった。
旅した感覚を忘れていたがよみがえった。
一時は身体障害者になりは旅もできないと悲観していたからうれしかった。
旅はまだまだできる、ほとんど休むこともできなかったがかなりの所を今回は効率的に回った。
こういうのは旅ではないにしろ青森までこんなに近いとすると青森が身近になったのである。
それが新幹線の効果なのかもしれない、青森の一日旅行でもかなり効率的に回れるということである。
今までなら行くだけで半日以上かかり一日かかっていたら長すぎたからである。
行きに一日帰り一日となると長すぎたのである。
新幹線は遠くを近くさせて一体感をもたせる効果があるのかもしれない。
だからまた青森には一日の旅をしたいと思ったのである。

新幹線にケンジが乗っている
このつづきだった、青森まで乗ってやはりこういう感じになる
空間感覚を新幹線は変えたのである。

タグ:新幹線

2015年04月23日

風と桜(風に散りやすい桜ーこの何日かの桜を歌う)


 
風と桜(風に散りやすい桜ーこの何日かの桜を歌う)


今しばし残れる花を見むとすも風の荒くも散らしけらしも
今日もまた風吹き荒れて花散れるあとにしなおも唸りけるかな
華やかに咲きしと思えば散りにける夢にあれしや花にしあるかな
この道の桜のはやも散りぬらむ曇れる夕べ時はすぎゆく
この道に残れる花やあわれかなくもれる夕べ老いゆくものに
我が郷(さと)に知らぬ桜やはや散りぬ知られぬ道を今日我が行きぬ
ここにしも桜咲きぬ知らざりき夕べひそけく見て通りけり
山桜夕べの風にしきりゆれ暗雲や屋形の謂われなおも消えじも
今日一日残れる花や風もなくおだやかにして陽のさし暮れぬ
あわただし今年も花の終わらむやなお遠く弘前へ我花を見むかな



風が唸りふき桜は昨日は結構残っていたが今日はほとんど散った。
余花として見ようとしたがそれも風が強く散って見れなかった。
今年の桜の時期は荒れ模様だった。
それで花吹雪を見たのはめずらしかった。
荒れ模様でないにしろ桜は何か散りやすいのである。
咲いたらたちまち散るのが桜である。
そこに他の花とは違った風情がある。
散るときは美しいのである。
だからどうしても死にたとえられるのである。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 蒲生氏郷

風が吹かなくてもすぐに花は散るのに風が吹いて散らしてしまうのが桜なのである。
桜の命はあまりにも短いのである。

華やかに咲きしと思えば散りにける夢にあれしや花にしあるかな

桜は一時夢のように咲いている、でもたちまち散ってない、そこが桜の一番の特徴なのである。風に散るとき桜は美しいのである。
だから今年は風が吹き荒れたから桜らしいのを見たとなる。

春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり 西行

桜はたちまち風に散るから風とともに歌われるのが多いことがわかる。
一面をおおうように咲いてもたちまち花は散って夢の跡になってしまうのである。

大坂城よそおふ桜夕べ散る名残りを惜しみみちのくに帰る

大坂城の桜は見応えがある、あれだけの大きい城に桜が咲くの見物である。
でも秀吉は京都の伏見城の方で謁見などをしていた。
これも間違いやすいのである。醍醐の桜と言ったら京都なのである。
秀吉は京都とと縁が深いのである。
淀君の子の秀頼の城が大坂城だった。
だから淀君と秀頼は最後大坂城で死んだのである。
ともかく大阪城の桜は夕日に映えて美しかった。
ただそれもあまりにも遠い日のことになってしまった。
京都大阪は遠くなってしまった。確かに新幹線でも距離的には短いにしろ時間がないから遠くなったのである。
時間があれば今は便利だから遠いということはないのである。

ここにのせた桜の短歌は天候の変化に応じて詠んだものである。
とにかく今年は天候の変化か激しかったのである。
昨日は暗雲であり屋形で山桜を見たがあそこでは岩松氏の悲劇の場であった。
500年前にしても一族子供まで惨殺されたので未だにこの土地ではその祟りとかを恐れることになる。
なぜなら惨殺した家来の一人は姓を変えたしその人はこの土地に住んでいるからだ。
だからこれは物語とかドラマに土地のものはできない
惨殺した方の子孫がまだ住んでいる、それも姓を変えたということでわかるのである。
このことは歴史にも明確に残っているから消しようがないのである。
郷土史が面白くないというとき郷土の人はみんないい人であり悪いことは言えない
それが5百年前の話でもそうなのである。
郷土史には悪人がいないから面白くないというとき悪人であっても子孫が残っているのだからそのことをあからさまに語れないのである。
郷土では500年前のことでも悪いことは語りにくいいうことである。

ともかく故郷のこの辺の桜は終わった。
明日は今まで見ていなかった、弘前城の桜を見に行きたい
なんとか留守を頼むことができた
介護になってから一番のショックは外出することが一番むずかしいことになった。
介護のために離れなくなるからだ。
家族に代わるものがいないと介護はちょっと遠くに出るのもむずかしくなる。
だから新幹線で一日行って泊まりなんとかとんぼ帰りとなるから
ゆっくりはできないし旅とはならない
新幹線で青森まで行っていないから新幹線に乗るというだけになる
つくづく自由な時間は人間に与えられるのは限られている
勤めていたら連休くらいしか自由な時間はないのである。
だから旅などはできない、やらりと途中下車が旅だとしたらできない

今年の春はこれまでの介護や病気や一身上の災いから脱して楽になった春だった。
だから一段と春を感じた、でも天候は変わりやすかった。
今になって何かおだやかになった。
弘前の桜は城が改修工事に入る前に見ておくのがいい
弘前には冬に行ったが桜見ていない、あそこの桜を見れば全国をほぼ見たことになる
ただ九州とか富士山に映える桜など見ていないしとても桜は近くでも見切れないのであるそれだけ桜はいたるところに咲いているからである。
名所だけでとない、まだ発見されていない桜はいくらでもあるし見れないのである。
ただ桜前線をたどる余裕があるなら一カ月は見れる
稚内では6月までも咲いていたからである。
今年の春はあわただしい、だから桜に集中して書いたがその他は書けなくなっている
いづれにしろ時間がないとゆっくり見ないと旅にもならないし記憶にも残らないのである今回は旅ではない、新幹線に乗ることと弘前の桜を見るという目的を果すだけである。

タグ:風と桜

2015年04月22日

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)


桜は日本人の心

(ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

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峰々を望みて高く桜咲き日本の栄いやましにけむ
日本なれ桜の国そ美しく共に栄えて心に染まむ
日本なれ富士の嶺の高く東海に朝日昇りて桜映ゆるも
東海に朝日昇りてきらめきぬ桜の映えて沖に船行く
桜咲き高嶺を仰ぎ大空に鳥の翔けゆく境を越えて
日本にそ生きる喜び桜咲く我も生きにつ栄え加えむ
ともに生きともに栄えむ桜かな燕飛び交いよその人も見ゆ
日本なれ見ぬ桜なおあまたかな隠されし栄また現れむ
人の世の常なかりけり風荒く一時に散る桜花かな
城守り敗れしもののその心城に託すや昔偲びぬ
残る花なお散りにけりこの道に雨しととふり夕暮れにけり
ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ
戦争に散りし命のあまたかな魂(たま)の帰りて桜と咲かむ
里の人見ずして散りぬ桜かな帰り来るを待ちて咲きしも


(栄の意味)

[音]エイ(漢) ヨウ(ヤウ)(呉) [訓]さかえる はえ はえる
[学習漢字]4年
1 草木が盛んに茂る。「栄枯」
2 物事がさかえる。「栄華/共栄・清栄・盛栄・繁栄」
3 ほまれ。名誉。「栄光・栄誉/虚栄・光栄」
4 体の活力を盛んにする。「栄養」

日本では栄えるというとき栄の字をあてた。栄えるはおそらくさかるからきている、盛りである。
これに栄をあてたのは中国文化と共通したものがあるからだろう。
木に栄えるとは植物が栄えること植物が繁茂することでありそれは日本の風土にあっている。
もともと桜は中国が原産だという、中国には二十種類もの桜があるからである。
木が栄えるというのもそういう中国文化と日本の文化が融合したためだろう。
日本の国は山の幸と海の幸の文化であり山の幸は植物であり海の幸は魚であった。
桜は山桜となると山に咲く桜なのだが桜は海にも映える、海にもにあわっている。
それは明治以降に染井吉野が咲くようになってからだろう。
西行が歌ったのは吉野であり山深い山桜である。
何かそこが桜に関して誤解しやすいのである。
明治以降は桜に関しての日本人の感覚は相当に変わってきたのである。
つまりあらゆるものはものの見方は変わるのである。
もともと城に桜が咲いていなかったのに今は城を桜がおおっているから桜が咲いていたように錯覚している。

敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜かな 本居宣長

大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。
自然に生じた、という意味では野生のものである。
それは日本の風土に固有のものである。

これは山桜のことであり染井吉野ではない、自分が見たかぎりでは山桜ではこういうふうにきれいに大きく見えたものはない、隠されて咲いているのを見ている。

山の上に朝日さしそめ隠れ咲く山桜かな巌そそりて (自作)

山桜は一つの樹に華やかに広がり咲いているのを見ないのである。
そういう桜は今はたいがい平地に咲いている桜の古木なのである。
江戸時代までは山桜が称揚されていた。ただ日本人の心として桜があることをこの歌で定着した。
日本人の心にともかく桜があるということになった。
ただ江戸時代までは日本の世界感覚は日本国内でも閉鎖された封建社会だった。
だから視野も狭いのである。日本全国を見たら桜は無数にある。
知られない桜は未だにいくらでもある。桜は別に有名な所だけではない、吉野だけではない、日本ではいたるところに咲いている。福島県内でもいわれのある桜があっても桜の時期は短いから見れないのである。
会津などは奥深いから桜でも見れない、どうしても桜の時期には見やすい場所に行くから見れないのである。
桜の古木がある所は身近な所でも知らないのである。それだけ日本では桜が多いのである

折口信夫は言う。

昔の人が考えているたまは、威力のある魂が物の中に内在してゐて、それを發揮して人の體に入れる、さうするとはじめて靈力を發揮するといふ考え方、魂が動物の體を通してくることも、また物質の中に這入つて、人間に發揮させることもある。(『古代人の信仰』昭和十七年二−五月『惟神道』第二巻第二−四號)
たまの方は、これが分化して、かみとものになったらしい。(『原始信仰』昭和六年九月『郷土科學講座1』)

▼体内から拔けだして動く(遊離)霊 ◇「にぎたま(和魂)」「ことだま(言霊)」「ひとだま(人魂)」 ◇『万葉集』三〇〇〇「魂合はば相寢むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)るごと」 ◇『万葉集』三二七六「天地に思ひ足らはし玉相者(たまあはば)君来ますやと」 ◇『古今集』四四八「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」

「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」

この歌も不思議である。うつせみとか言うけど死んだら魂はどうなるのか?
何かに転生するとかどこに行ってしまうのかとなる。
だから死んだ人の魂が美しい桜の花となって再び生き返るとかイメージしても不思議ではない、また外国でも死んだ人が花になったという伝説もある。
戦争で死んだ日本人の無数の魂はどうなるのか?
戦争で日本人は実際は残酷非道なことをしたことは確かなのである。
ただ外国で無惨に死んだことも確かでありそういう人たちの魂はどうなるのか?
その人たちはとにかく日本に帰りたいということは確かだったのである。
日本の桜をもう一度見たいと思って死んだとなる
その魂の返るべきなのが日本の桜であることがにあわしいのである。

桜に関する言い伝えとか話は無数にある。それらを全部知ることはできないし桜を見ることはできない、ただ現代はどうしても全国的視野で見るのが桜である。
桜は桜前線となるから桜前線をたどって見ることがふさわしいのである。
すると全国を旅して始めて桜を知ることになる

日本なれ稚内までにも咲く桜我は見ゆかな栄あれかし

桜については語り尽くせないものがある

わきて見む老木は花もあわれなり今いくたびか春にあふべき 西行

桜は年によって見え方が違うのである。天候も違うので見え方が違う。
今年は荒れ模様の中での桜だった。花ふぶきを見たのはめずらしかった。
あれも美しかった。花ふぶきのように散るというのはこの辺では津波で死んだ人たちがいたからそれと重なるのである。
そういう人たちの魂もまたどこにゆくのか?故郷の桜と咲けばなぐさめられるとなる

ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

これは土着的な桜である。ただ桜は何か土着的なもの一カ所に動かないものとしてあるだけではない、桜は全国に咲くから全国に今は心が向いてくる。
自分は富士山が見える場所での桜が見たい、富士山はあまり見ていないからだ。
富士と桜もまたあうし海と桜もあうのである。
この辺では桜はまた故郷に咲いているのだけど原発事故で避難して人が住んでいないのに桜が咲いている。
そして桜が散ってゆくのも淋しいとなる。
それは津波の跡に特に庭に残された樹の不思議だった。
何かそれがいまでもその土地から離れがたくあり人間に見えたのである。
それは松原の松とは違っていた。人間化された樹だったのである。
これは実際にそこに住んで見ていないとその感覚がわからない
それは津波の結果として樹だけが残されたことで感じることだったからである。
避難した町でも村でもそこに咲く桜があり樹があるがそれは人間を帰ることを待っている、人間化した樹だからそうなっているのである。
原生林の樹だったらそうはならないのである。

木のもとに住みける跡を見つるかな那智の高嶺の花をたずねて 西行

花山院の庵をたずねて歌ったものである。
桜に関しての歌はこれだけではない,無数にある。これからも日本では桜に関しては見方が広く深く拡大してゆく
ただ日本人の心は今や桜のようになっていない、守銭奴であり心は江戸時代の時より汚れている。
繁栄というとき経済的にしか語られないのである。
今や課題は経済的なことではない、日本人の心を建て直すことなのである。
桜というときどうしても美的な側面だけが強調される、モラル的なものは見逃されるのである。日本人が今いかに心の面で荒廃しているか?
一人一人が考えていることは金のことしかないし欲がますます深くなっているだけである原発事故の原因もそうした限りない欲の追及の結果でもあった。
日本人の心は共栄の心でもあった。日本では貴族がいなかった。
それはもともと共栄の社会でありそれだけの富もなかったからだとなる。

桜花ともに栄えてともに見ゆ日本の心桜にあるべし

だから日本では格差社会になると社会は乱れる、大陸的な中国やアメリカの手法が日本には向いていないのである。






タグ:桜の心

2015年04月19日

花吹雪(新地に散る桜)


 
花吹雪(新地に散る桜)

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六号線それて街道蛙鳴く
街道に薬師堂あり花の影
六万石城跡に鳴く夕蛙
古き碑をたずねてあわれ花の散る
風荒く鳥けたたまし花吹雪
花に雲沖に船行く新地かな
風狂に一代に終わる花吹雪


山桜朝風ゆれて六号線走りゆくかな北に向かいて
満開の桜咲きにつ飛び交える燕の増えて海を望みぬ
二色の花の映えにつ相馬市に我は来たりて城をたずねぬ
街道の松に交じりて桜咲く朝に風の唸り吹くかな
山近く海の望める新地かな朝に桜の風に散るかな
風荒く一時に散る桜花夢にしあれや世は変わりゆく
新地なれ伊達と境の攻防の城跡古りて春の日暮れぬ
伊達の裔墓に謂われや新地かな海を望みて春となるかな
新地には伊達と相馬と交わりぬ文禄の碑の古く春の日さしぬ
城跡の桜ははやも散りにけりいくたりかたずね帰りゆくかな


昨日は新地まで行った。風が荒く桜がほぼ散った。花吹雪だった。
花吹雪というのはなかなか見れない、静かに散るのとは違っていた。
一斉に散る花である。昨日は一日風が荒いから桜がいたるところで散っていた。
新地は海と山が接近している。だから高台があり海が見えやすいのである。
「鹿狼山に住む手の長い神が海に手を延ばして貝を取って食べ、その殻を捨てた場所が貝塚になった」と伝説を紹介している。
貝塚のある場所も高台でありそこに縄文人が住んでいた。
そこはかなた高い場所なのである。新地はそういう場所が多い。
山と海が接近しているからそうなる。
そういう地形だから海の幸と山の幸に恵まれていたから最初にこの辺で大勢の人が住んだと思える。
つまりこうした地勢がわからないと歴史もわからない
伝説でもそれは架空のことではない、歴史的根拠があって生れている。

新地は相馬地方では特殊な地勢である。たいがい海と山は離れているからである。
手を伸ばして貝をとっていたというのはそれだけ海から高い場所に貝塚があったからである。
日本は地勢に変化が多いから狭い土地でもあきない、新地まで地勢に変化がある。
新地から山元町に宮城県に入ると地勢が平凡になる。丸森町は変化に富んでいるから魅力がある。この地形というか地勢は地図見てもほとんどわからない
実感しないかぎりわからないのだ。これは電車でも車でもわかりにくいのである。
つまり坂を峠を苦労して上ってみるとわかる。
ここを越えるのには苦労だなと思うときそこが国境になっている。
川俣から水境峠を越えて飯館村に入る所がそうである。
鹿島とか原町から飯館村に行くには八木沢峠がありこれは車でも越えるのが大変だから実感できる。土地の高低というのも実感するのがむずかしい。
特に遠くなると地勢はわかりにくくなる。

地勢を知るには何度もその地を踏む必要があるがそれができないから余計にわかりにくいのである。
新地はもともと伊達藩が支配していた。それで墓をたずねたら黒田氏の墓があり謂われが書いてあった。確かに伊達藩の子孫なのである。
文禄の碑があり古いがそれは伊達藩で行った検地の記念の碑だった。
相馬藩では明暦から検地を行っているからである。そのことは新地の歴史の本に書いてあったのでわかった。だから新地の役場でその本を買うことにした。
郷土史研究はは資料を集めないとできないのである。

地勢を実感すると同時に風を感じるのにも車では電車でもできない、風を感じることはまさに風土を感じることなのである。
風を感じるのには徒歩か自転車でないとできない、雨も感じるのも旅である。
それも車ではできないのである。車は快適でも自然を感じることができないのである。
ただ自転車となると今は疲れる、介護とかになって遠くに行くことができない
前は余裕をもって行けたができない、帰った食事の用意であり二重に疲れるのである。
年もあり自転車も相当に疲れる。
でも自分は風狂でありそれで人生も終わることが見えてきた。
風狂とはまさに風に狂うだから風のように旅することである。
自分の人生はドンキホーテでもあった。
そういうことができたのも結局家族に恵まれたことであった。
普通だったら働けとか言われてできない、そういうことが強いられなかったからできたのである。
今ではニートとか普通だから珍しくない
団塊の世代は企業戦士に普通なっていた時代だからめずらしいのである。

いづれにしろ風を感じるとき

吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな(千載103)源義家

これを今回の風で感じたのである。これは車では感じられないのである。


タグ:新地

2015年04月18日

春爛漫二本松城 (二本松城から考える現代文明の荒廃)


春爛漫二本松城(詩)


(二本松城から考える 現代文明の荒廃)

二本松城山城にこそあれ
天守台高くも見晴らす峰々
残雪の安達太良、吾妻山
遠くは蔵王も浮かぶ

春の日や十万石の城にあれ
天然の要害にして
家臣は曲輪に配して
守りは堅き山城なり

二本松城の天守台上りて高き
滝の朝ひびき落ちて清し
椿の一段と赤く高峰映えぬ
こぶしは風に咲きゆれる

洗心亭炎上まねかれ残るかな
春の日や一服の抹茶を所望す
曲松の古りて茅葺きの茶屋
キクザキイチゲの咲くもにあわし

城内の日影の井戸の深しかも
赤々とそちこち落椿
城を守る水のここより汲む
その水に茶を飲めば癒されむ

二本松城の残る石垣によれ
千代の松によりて昔を偲べ
難攻不落の山城なれや
そちこち椿の赤しも

今し桜の霞とおおい
残雪の安達太良光り
見晴らす陸奥の春の山々
その麓の里に桜は映えぬ

陸奥の都より遠しも
安達ヶ原に名を知らる
その岩屋の伝説や
知られざる陸奥の国

二本松城のここにあり
城代は変わりしも
その山城に歳月重ぬ
陸奥の攻防の城なり

伊達政宗の攻めて
会津の名将蒲生氏郷や
相馬義胤もかかわり
ここは陸奥の要と争いぬ

ああ、時は移り急変する時
攻め来る官軍に抗して
あわれ少年隊の犠牲かな
その菩提に花は散るかな

城こそ命とここに果つ
城を離れて武士はなし
ここに切腹して果てし将二人
城と共に心も命もあり

悔いなきものとここに眠りぬ
春なれや城をおおいぬ桜花
散れる椿もまた赤しも
霞ととおおいこの城に眠りぬ

敗者に無情の仕打ちは世の習い
その記録をも消さむとす
会津も二本松も敗れて非情
官軍への怒りはなおも残りなむ

しかし誇りもて二本松城
高きに守りも堅く今もあれ
椿は一段と山頂に赤く
山の蝶もここに飛び来る

戒石銘戒に刻まる教え
奢りを戒め民とともに
この地を治めよと
その石に春の日さしぬ

守りも堅くその石垣によれ
常磐木の松によれ
雄大に安達太良は映えて
ここは陸奥の要の城なれ

万葉にも歌われし安達太良や
古の陸奥にはや知られし山
その山の大きく城に影なして
要の城と今もありなむ



薩長新政府への恭順を勧める密書も届きました。しかし、最後には長国の「城を枕に倒れんのみだ」という決断で、徹底抗戦することになりました。

戦国時代から明治維新のときまで城のもっていた意義は大きかった。
つまり城は単なる建物ではない、城は武士が身も心も一体となるものとなっていた。
だからこそ白虎隊や二本松少年隊の悲劇が生れたのである。
白虎隊は城が燃えているだけで落胆して絶望して自刃した。
城のもっているそれだけその当時は大きかったのである。
二本松少年隊もの同じだったのである。
城と共に身も心もあったのでありだからこそ少年でも城とともに死んだのである。
会津と二本松だけが徹底抗戦したのだからすべてにはあてはまらない。
その理由がなぜなのかというとまた考察が必要になる。

もともと二本松城は伊達政宗から会津から白河から北上するときも要の場所にあったのだ歴史は地理であり地勢が必ず影響しているのである。
だから地理がわかれば歴史もわかる。
福島県を理解するには二本松が一番地理的にわかる場所である。
それは理屈ではない、直観してわかるのである。
あの天守台に立って四方を見回すとあそこが福島県の中心だということを実感する
二本松県になるということもあったから中心的な場所であった。

二本松城が自分が一番気にいった城になったかというとそこ山城であり自然がそのままに残っているからである。
城でもあういう城はめずらしい、会津城でも街中にある平城であり自然というものはない、青葉城でも仙台市街を見下ろすとなにかそこがあまりにも変わりすぎて都会化して嫌なのである。
姫路城は有名で最高の城でもそこに自然がない、街中にあるから何か映えないのである。大阪城でもビルの谷間になるから何か映えないのである。
都会化すると城がビルの方が高くなるから映えないのである。
城が活きていたときは城が高く見えたのであり天守閣に上れば遠くを見渡せる見張りの塔のような役目もしていたのである。
だから意外と城で感動するものが少ないのである。
自然そのものに映える城というのは少ないのである。
二本松城は山城であり自然そのものの中にあるからめずらしいのである。

明治維新のときもやはり白河城を落とし二本松城に入るとそこが陸奥の要の城となって立ちはだかった。
それで薩長軍に踏みにじられたのである。それは伊達政宗のときもそこで陸奥の覇権を争う攻防の城となった。
その時、相馬義もかかわっていたのである。会津と相馬とか三春が伊達政宗軍と戦っていたのである。
要するにそういう要の場所にあったからである。
そのことは二本松城の天守台に立てば一目瞭然なのである。
だから歴史は地理がいかに大事かわかる。地理によって歴史はあらかじめ決定されているともいえる。
イスラエルが世界の要であるというとき神が定めたからだというのもわかる。
地理によって世界史が決められるからである。
二本松はそういう陸奥の要の場所にあった。

ただ城の意味は時代が変わったとき意味も変わった。
第一桜が城には咲いていなかった。桜は明治以降城が公園化したとき咲くようになった。枝垂桜のことを糸桜として朝倉氏の城で歌われている。

折りを得てけふ咲く花は君がため今一しおの色や染めけむ 信忠

これは糸桜であり山桜でもないしもちろん染井吉野でもない、それは庭に咲くにふさわしい枝垂桜だったから城を染めるような桜は咲いていなかったのである。
枝垂桜も散るから今の桜とにてはいる。でも山桜とか染井吉野の散り方とはまた違っている。
このように歌をかわして朝倉氏に従う武将は城と共に信長に滅ぼされて死んだのである。でも今の桜とは違っていた、城を染めるような桜ではなかったのである。
枝垂桜と山桜とか染井吉野は同じ桜でも相当に違ったものだからである。
現代で城がもつ意味は変わった。城には石垣が残っている。
松も残っているしか松は城には欠かせないものだった。
石垣は石であり変わらぬ象徴としてあり城の礎であり城を今も支えるものとしてある
だから石垣だけ残っていても城があることをイメージできる。
二本松の石垣は立派なのである。
トロイの城でも建物は消えても土台となった石垣は残っている。

城のもつ現代的意義は二本松城だったら自然と一体化して美とモラルとしての城である。街中にある城は自然が欠けているから美が感じられない
二本松城には松があり椿も咲きそれも自生したような椿であり天守台に登ると陸奥の山が安達太良や吾妻山や蔵王まで見渡せるから違っている。
城と共に死すというとき自然とともに死す、自然の美があってそこが死ぬ場所としてふさわしいとなる。
まず東京のような場所は自然がないから美もないのである。
するとモラルもないのでてある。
山は精神的な象徴としてもある。不動であり誠実であり威厳がありとか何か人間の徳を人格を象徴するものともなる。聖なる山になる。
海にはなにかそうした人間の人格的なものがない、それでどうしても浜通りではその高い山がないから根本的に欠けたものとなっている。

中通りや会津や東北でも岩手山とかがあり山が中心的精神的支柱となる。
高い山を望んでいると心もその山に反映されるのである。心が山によって養われる。
自分は石をテーマにして詩を書いてきたが石も人間化したものとなる。樹でもそうであるだからそもそも自然がないところには美も真も善も育まれない
東京のよな所では経済しかないし人間に自然が反映されないのである。
そこでは人間と一つのロボットのようにされる。自然が反映されない機械ロボットになってしまう。
ロボットは自然とは関係なくありうるからである。
人間は自然とアイディンティティ化するとき人間となる。

例えは虹がかかったときそれは契約の虹であた約束の虹だと聖書に書かれているとき自然とモラルが一致して見るからそう見る。
虹は単なる虹ではない,神との約束を果すことを示している。
虹でもビルの谷間にかかったら美がそもそも喪失しているから美もモラルも喪失する
人間の心が高層ビルとかと一体化できるのかとなる
だから自分は工業とか商業とか経済一辺倒の世界になじめないのである。
でも世間ではそういうことに無関心でありただ便利な生活ができればいいとなる
田舎はどうししても第一次産業を基本にしてあるべきだというとき
それは経済的効率とか経済一辺倒の論理ではなく自然を反映したものとしてのアイディンティティ化した人間としての世界の構築なのである。
ヨーロッパのルネサンスは地方都市が起こっている。
そこにはまだ自然があったと同時に建築とか絵画とかでも古典の世界、ローマの世界とかイスラム文化とがが融合して華開いたのである。
あの壮大な石の聖堂でもゲルマンの森がありゴシックの建築が生れた。
文化が興隆するには人工的なものと自然の融合があって成される。

現代の文明は科学機械文明であり自然破壊文明でもあった。
もちろん科学がいちがいに否定できないものである。
ただそれが暴力的に自然を収奪したり破壊するものとして働きすぎたのである。
魚がとりすぎて魚が高騰している、それは今はとりすぎるからそうなる。
そのブレーキがないから法律的にもないから魚はとりすぎて資源が減少する。
そのブレーキになるものは魚だけではない,科学の暴走が止められないのである。
それが原子力でもあり世界核戦争の恐怖にもなった。
放射能汚染でこの辺は住めなくなったのである。
そこにヨーロッパ文明の限界が生れたのでありこれからは東洋文明が起こるというのも自然破壊があまりにも進んでしまったからである。
でも東洋文明とは何かとなると実際は不明である。
過去の文明とは違うものになるからである。
つまり城が当時がもっていた意味と違ってみているのとにているのだ。
そもそも桜が咲いていない城を染める桜などないのに桜と城は一体化されている
城は今は違った美的なものとして人間の精神的な意味としても違った意味をもつようになっている。
世界的に自然破壊が進行し拡大化がやめないとき果たして東洋文明が再び起こるのかとなるとき疑問なのである。

森が中国でもインドでもインドネシアでも大規模に喪失しているのである。
むしろ日本は森は外材に頼った結果残っている不思議がある
外国でははげ山が多い、それは木をとりつくしたからはげ山になった。
山が森でおおわれているのは日本くらいなのである。
ともかく経済のことばかり言うけどそれが本当に人間の栄えなのか疑問なのである。
自然がない自然の美もない所に新しい文明が怒りうるのかとなる。
いくら反映しても東京のようになったら人間砂漠になってしまうだろう。
自然の復活復興が新しい文明を生む基となる

でも科学とか経済の発展とかばかりが言われるのがそれが人間の繁栄になるのかとなるとそれは東京でありニュヨークであり上海でありそれが人間を人間たらしめるものとはならない、自然の美が自然が人間の精神を作るからである。
人間の栄華が野の花より飾られていないというときそのことを言っている
東京はただ人間が巨大な胃袋と化した怪物的都市なのである。
その東京に電気を供給するためにこの辺は人も住めなくなったのである。
原発が未来を作ると双葉町とか大熊町がかかげていたのはまさに東京化した地方の姿だった。
つまり電気文明を否定できない、車文明も石油文明も否定できない、ただ人間の繁栄を電気や石油や車や機械にすべて頼るとき今回の原発事故のように住めなくなったら終わりだとなる。
だからなんらか第三の文明を志向せざるをえなくなっているのである。










2015年04月17日

抽象画は無限の変化だ! 抽象画は固定しない、無限の変化の作用で価値が生まれる芸術


抽象画は無限の変化だ!


抽象画は固定しない、無限の変化の作用で価値が生まれる芸術

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京都の色合い

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ここまでクリック拡大

moonlight111.jpg

これらは京都の色合いから変化したもの
あとはきりとったりしたものである。

抽象画→抽象画→具象画の変化である




パソコンにはインターネットには無数の絵や抽象画がある。
インターネットの世界は広いけどなかなか見つけられないのが多い
今回中国の抽象画を見たらこれも国柄があって面白いと思った。
それを変化させたらまた抽象画になった。

抽象画の作用は

抽象画→具象画 具象画→抽象画という双方向で創作される。

抽象画から具象画ができることもある、最初から抽象画になるとは限らない
抽象画を抽出すると具象画になることがある
今回の山はそうである。

京都の色合いというのはこれはインターネットにあった抽象画を変化させたものである
抽象画は固定しない、変化することに意味があった
だからいつも同じ抽象画がインターネットに出ているとそれが陳腐化している
何で変わらないのだ、新しいものにならないのだとなる
これが具象画の名画だったら変わらないことに価値がある

抽象画は変化することで価値がある
だから抽象画から抽象画と無限に変化する
誰かが変化させてもそれはオリジナルなものとなる
まず最初のオリジナルを変化させてもわからないから著作権違反にならないのだ
コピーとは違うのである。
だからいつまでも同じ抽象画になっていること自体変化がないから陳腐化するというのも抽象画なのである。
posted by 老鶯 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

浪江町と小高町が合併しなかった理由は野馬追いのため? (小高に帰るのは老人ばかりになる問題も深刻)


浪江町と小高町が合併しなかった理由は野馬追いのため?

(小高に帰るのは老人ばかりになる問題も深刻)


2003年

8月 浪江町小高町合併協議会を設置
10月 相双地区の7漁協が合併、相馬双葉漁業協同組合に
12月 新町ふれあい広場が完成
12月 浪江町小高町合併協議会を解散


いろいろ話が面白い小高の人に今日もあって話した。
浪江町と小高町は合併することで協議していた。
それができなかったのは歴史的要因だった。
小高が浪江町と合併すると野馬追いの祭りなどで支障ができるということでできなかった小高は相馬氏が最初に城にしたところであり相馬藩では一番古い場所なのである。
それで野馬追いの野馬掛けという神事が城があった小高神社で行われる
それで浪江町と合併することに異議を唱える人がいた
でも南相馬市でも相馬市でも浪江でも相馬藩なのである。
ただ野馬追いというのが相馬藩では重要な祭りであり行事であるからそうなった。
別に浪江も標葉郷としてあとからでも相馬藩になったのだからそれにこだわるというのもどういうことだったのか解せない面はある。
それでも野馬追いでは小高神社が旗をかかげて行列をになっているからである。
合併しなかったのは野馬追いだけの理由だけではないだろう。

他の理由として福浦に共産党の勢力が強く合併に反対したという径路もあるという。
小高は左翼系統の勢力が大きい所だったのである。
山側の人は反対したということも言っていた。
小高には東北電力の原発が建つことは決まっていてすでに工事もはじまる所だった。
浪江町と小高町の中間にあり共同で利益がえられる場所にあった。
共同の利益が得られるということで合併のメリットもあったとなる。
ただ野馬追いに支障が出るというので合併をとりやめたということがあるのか?
それは新地とにている。
新地も相馬市と合併していいのにしなかった。
それは新地に伊達藩の子孫が住んでいて頑なに合併に反対したという。
新地には伊達藩の侍の子孫が住んでいるということは歴史的にそういう場所だった。
だから相馬総合病院は新地町と合同なのである。

全国的に合併問題が起きたときどうして合併に賛成したり反対したりするのか?
その理由はいろいろあるがやはり歴史的な問題がある
境界というのも歴史的に確定されているから尖閣諸島問題でも歴史が問題になる。
飯館村でもなぜ南相馬市と合併しなかったのか?
その理由が何なのか?
別に飯館村も相馬藩内であったから歴史的には合併しても問題ない
ただ飯館村は飯館村で独自の道を歩むことを志向したとなる
確かに津浪原発事故があって飯館村は飯館村で被害が原発の放射能汚染に限られているし補償問題では村がまとめやすいのでいい面はあった。

その小高の人が言うのには飯館村はなくした方がいい、インフラなどで金がかかりすぎる不便だから人もそこに住みたくないんだとか言っていた。
飯館村には病院もスーパーでも小さなものがあるだけで何もない
だから現代の便利な時代は住みたくない村だったとか言う
たまに訪れ外からみている人と中から見ている人では違ったものになる
たまに来た人は自然に恵まれていていい村でてすねとかで終わるがそこに住む人はそうではない
病院がないなど様々な不便な生活を強いられるからである。

その人がしきりに言うのは浪江でも飯館村でも補償金もらうから得したんだという
それはどうかわからないにしろ実際問題になればそういう人も多いのも確かだろう。
同じ地域でも飯館村と南相馬市でも小高、原町、鹿島に住んでいる人の意識は違うのである。
鹿島はスーバーが一つしかない、大きくないからこれが一番不便なのである。
自分は車がないからこのことで不便なのである。
それから病院がないことも不便である。原町と相馬市に通うとなると車がないから不便なのである。
今になると時間がないから医者にすらゆっくりかかれないのである。
だから老後はこの辺は暮らしにくい場所になった。
もともと医療関係では医者が少ない不便な場所だったのである。

前にも小高の鳩原村の牛を飼っている年配の女性が「仮設は狭くて嫌になるでしょう」とか聞いたら「そうでもない、慣れたし友達もできたから」その人も農家でも広く点々とあるとなかなか会えないとか淋しいことあるんだよ、仮設のように近いといつも隣り合わせだから淋しいことがなくて老人にはいいんだよとか言っていた。
とすると川原の土手で良く仮設の老人がみんなで休んでいたりするけどあれは幸せなのかと思うようになった。
そして世話する方でも田舎だと広いから一軒一軒車で回るのが手間になる。
それでコンパクトシティがいいということが全国で言われるようになったのである。
つまり仮設のように人が集まっている方がその本人たちにとってもいいとなる。
そうなると市町村でもそうした要望に答える街作りを志向するのがいいとなる。

いづれにしろ小高に帰る人は老人が多いからこうした点からも市の方で考慮する必要がある。小高に帰っても老人だけになるとしたら世話する方の問題がでてくるからである。
かえって原町とか鹿島でも老人を集めて暮らさせた方がいいとなる。
鹿島に老人の福祉施設ができたことはいいことだった。近いからいいのである。
この辺では老人がふえた、若い人が流出して老人が他よりふえたのである。
それは全国的にそうでもここは先取りしたものとして老人がふえたからその対策が必要になる。
小高をどうするのかというときこういう老人ばかりが帰ってどうなるのかというとき、小高を南相馬市でとをするのかという未来を描くものとして欠かせない問題なのである。
そして今でも人手不足であり建物を建てても働く人がいない、医療や介護関係では特にそうである。
その問題もここでは他より早く深刻化しているのだ。


タグ:小高浪江町
posted by 老鶯 at 14:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年04月16日

福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首 (桜は城を中心にして見るようになる)


福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首

 
(桜は城を中心にして見るようになる)

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(仙台)
広瀬川瀬音のひびき青葉城今し桜の盛りなるかな
青葉城石垣の反り燕飛び流れひびきて桜咲き満つ
東京より陸奥の街道染めにける花にしあるかな仙台に着く
たずぬれば千本桜みな散りぬ我が帰りゆく道のり遠しも
(福島県)
白河の城に春の夕日さし電車は行きぬ西のかなたに
船引に桜咲き満ちここにしも電車の音のひびきけるかな
三春なる城跡に立ちほのぼのと桜の色に染まる夕暮
合戦場の枝垂桜の優艷に謂われも古く夕暮るるかな
雨にぬれ白河街道福良かな御前桜や我が泊まるかな
(古殿)
越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな

(会津)
花染める会津の城やかなたにそ残雪の飯豊神々しかも
城を染む会津の桜相馬より遠しもかしこ栄えありなむ
会津なれ知られぬ花のなほ奥に殿のたずねし歌の残りぬ

(二本松)
二本松城の桜のはや散りぬ相馬よりたずね帰りゆくかな
二本松天守の跡に見晴らしぬ春の山々十万石かな
相馬よりたずねてあわれ二本松残れる花を惜しみけるかな

(阿武隈川の桜)
梁川の城跡古りぬ我が来る桜の盛り要の城かな
阿武隈の流れ蛇行し渦巻きぬ岸に桜の映えにけるかな
阿武隈川流れゆたけく淀みつつ渦巻く淵や桜咲き満つ
(霊山)
残雪の吾妻嶺光り霊山に花咲き映えて小鳥しき鳴く
霊山の岩黒々と夕べ咲く桜のあわれ南朝滅ぶ
(相馬)
夕日さしみちのく寒し花映ゆる我が里に住み年ふるりけり
夕べ咲く相馬の城跡桜見ゆともる灯静か誰かたずねむ
田町にそ柳しだれて城下町夕べ桜や暮れなづむかな
桜咲きスーパーヒタチ走るときいわきを通り東京へ進む
若くして死す人あわれ国の花見ずに悲しも七〇年過ぐ



桜は咲いている期間が短いから近くても見れない、福島県の桜前線は西から東京の方から咲いてくるのと東から浜通りから山国の会津の方に咲いてゆく
会津は寒いから遅れる、そこに時間差がある
桜でもやはり歴史的場所が印象に残る。
会津の桜はほとんど見ていない、ただ白河街道の御前桜は自転車で行ったし雨にぬれたときだったし福良の蔵の宿にとまったので覚えている。
かえって何か雨にふられたり風に吹かれたりして難儀したとき旅は記憶に残ったりする。だから車でも何でもあまりにも便利すぎると旅にはならない、そういう旅が今はしにくいのである。わざわざ不便な旅をしないとできないのである。
白河街道は鉄道もないし車も通るのが少ないから昔を感じるならあそこの方が良かった。
阿武隈川を梁川から丸森に下った時の桜はきれいだった。
遠くに残雪の吾妻峰が光り桃の花も咲いて阿武隈川は大きく蛇行するときその淵に満開の桜が咲いていた。
梁川にも城があったところであり何かやはり城が中心にしてみている。

桜は満開のときだけではない、咲き始めでも散ってゆくときも散ったあともそれぞれに感じるものがある。船岡の一目千本桜を見に自転車で行ったときは遠かった。
そうして苦労して行ったのにあの千本桜がみんな散っていたのでがっかりした。
でもそのこともまた感慨深いものがあった。
ただ電車で行ったらそんなに感じなかった。
わざわざ苦労して自転車で行ったということでああ、来るのが遅れてみんな散ってしまったなと感慨深いものが生れた。
それは江戸から芭蕉がみちのくに旅して「奥の細道」が生れたと同じである。
江戸から歩いた距離によって生れたのである。今とは距離の感覚があまりにも違い過ぎたからである。
ただ元禄時代にも桜が咲いていたと思うがその時期は終わっていた。
五月に入っていたからである。ただその手前で今の茨城県で八重桜のことを俳句にしている。芭蕉には桜の俳句は少ない、その頃あまり桜は咲いていなかったのかもしれない
そもそも城には桜は咲いていなかった。
桜と城が一体として見るようになったのは明治以降なのである。
ただ西行は桜を歌ったから平泉で桜の歌を残した。

ききもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかかるべしとは

だから西行のこの歌はめずらしい、これは東北の奥深い地をたずねた感懐がある。
その時代なら芭蕉の時代よりさらに遠いからである。

源義家の「吹く風をなこその関とおもへども道もせに散る山桜かな」はこれとはまたは違っている。
山桜であるのはその頃は山桜であり染井吉野ではない、山桜らしい歌である。
源義家の伝説は本当に多い、山桜と染井吉野の桜は違う。

しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花 本居宣長

これも山桜であり今の桜はほとんど染井吉野なのである。それがまた混同しているのだ。

日に風に清流ひびき山桜高きに咲きて散りにけるかな (自作)

山桜は一般に山の高い所に咲いているけど城に咲いているのはたいがい染井吉野なのである。それは城が公園化して植えられたらである。

あくがるる心はさてもやま桜ちりなむのちや身にかへるべき(67)[新後撰91]

これも山桜なのである。山桜と染井吉野が相当に違っているのだが混同しているのが現代である。城を染む桜・・・などと歌っても城に桜咲いていなかった。
西行が歌ったのは山桜もあるが吉野の桜は山桜ではないだろう。
西行の時代はまだ染井吉野はなかったからである。
吉野山には古来桜が多く、シロヤマザクラを中心に約200種3万本の桜が密集しています。
やはり吉野の桜は西行時代にさかのぼるから山桜なのである。

城といえば桜という印象が少なくないが、現在のように城に桜が本直えられるようになったのは明治に入ってからのことである。それ以前は、燃料や食料に適した「松」が多く植えられていた。松が食料というのはぴんと来ないかもしれないが、松の皮から取り出した繊維で、餅や団子が作られていたのだ。
http://www.kyosei-tairyu.jp/nihonn-shiro/column/shiro-sakura.html

これも意外である。いかに燃料となるもの食料となるものの方が大事だったかわかる。
美的なものより燃料と食料が切実だったのである。花より団子だったのである。
現代は生活によ余裕が生れた結果、美的に鑑賞するようになったのである。

春高楼(かうろう・こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いづこ

明治になった時やはり桜が植えられて桜の宴があった。花見が城で行われた。
松は城にはもともとあったが桜は咲いていなかったのである。

霊山にも南朝の城がありはかなく滅びた。一年もたたないうちに炎上したのである。
そこにも桜が咲いている。あの黒々とした玄武岩によりそい咲いていた。
あそこから残雪の吾妻峰も遠望できて見晴らしがいい。
その霊山城が炎上したとき一族がおちのびて南相馬市の鹿島の真野の館に住んだ。
そういう歴史を知らないとやはり桜でも鑑賞できない

いづれにしろなぜこれほど桜と城が一体化されたのか?
それは後世にそうなったとしても城と桜はにあうのであり絵にもなるのである。
ともかく桜は日本全国に咲いていて名所の桜だけではない、いたるところに咲いていて発見されない桜がいくらでもある。ただ咲いている期間が短いから見れないのである。

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古86)

つまり吉野山だけではない全国に今は桜は咲いている。だから見ぬ方の桜はいくらでもある。

今年とて桜は咲けど人住まぬ故郷淋し誰かたずねむ

この辺では津浪や原発事故で故郷を離れて住む人がいる。でもそこにも桜は咲いている。小高辺りにもいい桜が咲いているの紹介されている。
でも人が住まないとなると桜も咲いても淋しいとなる。
やはり人が住まないと自然も活きてこない、そういう世界が想像すらできなかった。

桜前線は仙台で終わるわけではない、岩手県にもつづき盛岡に城がありさらに青森につづき弘前城で一応東北が終わるがさらに函館から稚内まで桜は咲き続けるのである。
どうしても青葉城で終わる感じになるが東北はさらに奥深いのである。
会津となると陸奥街道からそれがそこにも桜咲き続けるのである。中通りから会津とかは高い山があるから神々しいとなる。
会津のかなたには飯豊山が見える、浜通りは海があっても山がないから何か欠けているのである
山には神々しいものがあるからだ。

昨日は荒れ模様であり春の雷が鳴った。

雷鳴りて桜前線北上す

まだ北に向かって桜は咲くのである。


タグ:福島県の桜

2015年04月14日

二本松城の桜の短歌二十首 (船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)


二本松城の桜短歌二十首

(船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)


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一目千本桜

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船岡城の桜

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こぶしがこれだけ咲いていたのはめずらしい

これは拡大しないとわからない

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城遠く見えて亘理や朝桜
船岡の朝の通りや花の影
滝に散る椿や赤し山の城
燕来てまた一駅途中下車
会津の方磐梯山や夕桜
みちのくに新幹線や芽吹きかな
新幹線西へ東へ桜かな
日本なれともに栄えむ桜かな



残雪の蔵王の映えて田起こしの土黒々と草萌ゆるかな
朝早み千本桜尽きず咲く我が歩みつ人の行き交ふ
長々と桜の古木枝垂れて残雪の蔵王映えにけるかな

(二本松城)
燕来る二本松街の通りかな坂を上りて城に向かいぬ
春の鳥さえづりけるや街中に切り通しの道上り下りぬ
切り通し坂を上りて隠されし二本松城花のよそおふ
大手門入りて城内に根ずきし松に桜映えにき
大手門春の日さしてよそよりもあまたの人の出入りするか
石垣の古りて添い立つ松にあれ朝の日さして枝垂桜かな
木蓮の白さに映えて桜花朝日におふ今盛りかな
城内のそちこちに散る椿かな上り下りして石垣古りぬ
洗心亭唯一残ると一服の茶を差し出して花見つ語りぬ
洗心亭残りてあわれあまた咲くキクザキイチゲ抹茶飲むかな
おおどかに安達太良山に春の日や吾妻峰を見えみちのくの春
天守台へ桜咲きにつ安達太良の残雪光り椿赤しも
車窓に花また花やみちのくの残雪光り峰々映えぬ
天守へと花咲き染めて残雪の安達太良光り椿赤しも
朝に映ゆ桜花かな残雪の峰の高くも天守台に見ゆ
山城やこぶしも咲きてこの城の山の守りて古りにけるかな
残雪の峰々朝に望むかなみちのくの春天守台に立つ
天守台残雪の峰浮かび見ゆ椿の映えて朝に立つかな
二本松少年隊の菩提かな朝咲く桜のはや散りそめぬ
安達太良の麓を染める桜花京より遠くみちのくの里

(二本松城)

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洗心亭(キクザキイチゲが咲いていた)
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天守台にのぼる道

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城の前の喫茶店は一番場所がいい

クリック拡大しないときれいに見えません



亘理にも駅が城になっいる。あれでも城があると何か街が歴史があくように見えるから不思議である。
あれは別に城があったわけではないが伊達藩がありやはり歴史があったから城を作った。城は遠くから見えるとき映える、目印になる。江戸時代は平屋しかないから城が今は低いようでも高く見えるのである。

一目千本桜は写真が相当でているから同じようなものがある。
でも朝桜として今回はデジカメが前よりはいいものなのできれいに写っていた。
写真で見るとまた違ったものとして見えるから不思議である。
人間の脳だけでは記憶が定着できないのである。

二本松城は切り通しの坂を上り下りてまた曲がるとある。あれも防衛のためにあそこに作った。要害の地にもともと中世の山城が作られそれが山城と平城の中間として作られたのが二本松城である。
江戸時代に桜は咲いていないが椿は咲いていたろう。
洗心亭の前にキクザキイチゲが一杯さいていたのもあっていた。
滝が自然の滝のようになっているのもいい、あそこは全体が絵になる風景になっている。山城だから自然が活かしているからそのまま絵になっている。

今回は新幹線で郡山から引き返して仙台につきバスで帰った、常磐高速が全線開通して原町から直通のがでている。九〇分だから早くなった。各駅止まりでも一時間三〇分だったから早くなった。これは便利だと思った。今までは二時間かかっていた。
新幹線から見えるのは山だけである。
郡山から磐梯山が見えた。郡山から会津に行く、それにしても会津の方にも十年くらい行っていない。
だから仙台に行ったのも一年ぶりくらいだったのだ。
そしたら何か残雪の蔵王も新鮮に見えたから不思議である。
自分はほど旅したものはいない、だから最初はどういう経験をしていたかというと
まず京都とか大阪とか西の方の桜を何回も見ていた。
それから東のみちのくに帰るとど。うなっていたかというと西の桜が散った時、東の桜が咲き始める。桜前線で面白いのは時間差があることがその土地の風土を感じるから桜咲く時期は日本独特のものが生れる。
実際に六月まで桜は日本では咲く、雨がふって稚内では六月に桜が咲いていたのである。その時間差が日本ではその土地の風土を感じるのである。

だから郡山で磐梯山を見た時、夕桜が見えたがかなたは会津に想いをはせた。
なんか会津も遠いなとつくづく思った。
ただ福島県だと会津も福島県だからテレビで会津のことは報道されることが違っている
「会津でも桜が咲き始めました」とアナンサーが咲き始めた城の前の桜を写すとき
会津も咲き始めたのか、やはり寒いから浜通りとか中通りとかより遅くなる。
そこにかえって奥深い寒い会津を感じる、ようやく雪国の会津も春なのかと感じる。

会津より桜の咲くと写されぬ城の前なる桜にしあれ

こうして桜の時期はいろいろ思うことが多いのである。
自分の場合全国を旅しているから桜の時期も旅しているからみちのくから京都や大阪をこの時期に想いをはせる。ただみちのくから都は遠くなったなとつくづく思う。
その遠さは距離ではなくそこに行く時間が与えられないということなのだ。
今ならでも新幹線で相当な距離を行けるが新幹線ではどうしても旅になりにくい
旅は途中下車がいいのである。気ままにゆっくり見て旅しない旅にならないのである。
それはしかし贅沢なことだったのである。
新幹線から見えるのは山だけである。
それで新幹線から見える山をインターネットに出ていたのは面白い
新幹線から見えるものはある、それが山だったのである。
それで盛岡に新幹線で行ったとき岩手山が近く感じた、仙台から見えるように感じた。
五〇分で行くとなると何か岩手山が仙台から近いように錯覚した。
これも新幹線の不思議だとなる。

ともかく日本は桜によって象徴される。それも桜もともに栄えることがないと映えない
アベノミックスなどは格差を拡大しているからいいものではない
日本の文化の特徴は仁徳天皇の時代から民の煙を天皇が歌ったように上も下も平等の感覚があった。

 高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり
 
江戸時代でも武士と庶民階級がそれほど差がない生活をしていた。
というよりは日本自体が平等に貧乏だったともなる。
日本はいい面として平等を追及する、それが悪い面になると何か突出したものは嫌われるヨーロッパとか中国とかアメリカとは大陸との相違は格差が激しくならない
日本自体が平等を志向する国土になっていた。
それが悪くなればどんぐりの背比べになる
いい方面としては分け隔てなく共に栄えるという平等を志向するうよになる。
桜を見るには一地域を見ていてはわからない、西の方から瀬戸内海でも大阪京都でも桜前線をたどるとき日本の桜は絵巻物の圧巻となる。
だからなんとかまだ見ていない弘前の桜を新幹線で次に見にゆこうと思った。



これは新幹線の視点の景色である。








2015年04月13日

二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城 (福島県では一番魅力ある城)


二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城

 
(福島県では一番魅力ある城)

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洗心亭で抹茶を飲んだ。

「この洗心亭は江戸時代に作られたものでぼっしん戦争で消失したのですがこれだけは焼けなかったのです」
そうですか、日本の城はほとんど残っていません、石垣だけが残っているだけです
あとで新しく建てたのがほとんどですね
「これは江戸時代に作られたものだから貴重です」
「そういえば何か茶室風の作りですね」

茶室といってももともと民家を基にしたわびさびの作りは農民がそういう環境で生活していた。その時農民はわび、さびなど意識しない、そのわび、さびは豪勢な建築物が豊かさが生れたとき意識されたのである。

「この城で気になっていたのが何であんな高い所に城を築いたかなのです」
「それはここはもともと畠山氏が建てた山城だったからですよ」
「ああ、そうか、最初は城は防衛のために山城からはじまっていましたからあんなに高い所に建てた」
「畠山氏のあとは丹羽様が城を築いたんですよ、丹羽様が信長様と縁故があったんです」「信長が出てくるのは古いですね、東北では秀吉は会津にも来ていますし
石田三成は相馬に来ていて野馬追いの旗印の三成のものを残したんずすよ」

なぜその抹茶を出した年配の女性がしきりに信長のことを言うのがわからなかった。
ただ畠山氏は南朝で霊山の大将になっていたから古い氏族である。
二本松城では伊達政宗と激しい攻防戦があった.相馬氏もこの攻防戦に深くかかっていた。


畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。
 同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。
 
 城の歴史
 http://bit.ly/1aWnMXR

秀吉のもう一つの一夜城、石垣城の謎

このサイトの絵が二本松城とぴったりなのである。これと同じ配置なのである。

城の歴史をふりかかると中世の館(たて)と呼ばれた山城から城が発展した。
地名で館(たて)とつく地名は多くそこは中世の城でもあった。
それは平地には少なく自然の山によって敵から身を守っていたのである。
だから二本松城ももともとは山城だったからあんなに高い所に畠山氏が城を築きそのあとに丹羽氏が天守台をそこに建てた。
興味深いの二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城であり石垣でもそれがわかった。
曲輪(くるわ)というのが城内にあり家臣はそこに家を構えそれが敵が攻めてくるのを防ぐ役割を果たしていた。
山城のその手前には家臣たちの屋敷がありそれが敵を守るものとなっていた。
平城でも相馬藩の中村城は岡田館がありそれは家臣でも敵を守るものとしてあった。
二本松城の位置もまた防衛のために選ばれた。
鎌倉のような切り通しがあり城に入りにくいような地勢を選んで城が作られた。
たしかに城のある場所に駅から行くのがわかりにくいのである。

戦国時代にはまだ平城は少ない、安土城でもあんな高い所に城を信長が作ったのはこの二本松の山城の天守台とにている。信長の時代はまだ防衛を第一に城を作ろうとしていた。城を見るときその過渡期の城、中世の館の延長としての山城と平城の過渡期の城の形態である。小浜城などもそうである。丸森の金山城もそうである。
家臣の屋敷は守るために城のすぐ下に曲輪(くるわ)として作られていたのである。
相馬藩で麓給人という人たちがいたのももともと山城がありその麓を守るものとして仕えていたから麓給人となった。
だから歴史はつくづく何か必ず連続したものであり段階的に発展しているのだ。
前の時代の継続が常にあるのだ。全く新しいものは作れないのである。
明治維新でも日本的なものが継続していたことでもわかる。
天皇を中心にしたのがそうである。これは変えることがてきなかったのである。
歴史は本当は飛躍したりしない、前にあったもの作られたものを再構築するのである。
山城から急に平城にはならない、その中間段階として山城と平城へ移る前の状態の城が二本松城なのである。


今回も船岡城をたずねて一目千本桜を見たが石垣も残っていないので城に思えなかった。中世の館(たて)が基であり二本松城と同じように平城へ移る過渡期の城だったようだ。
何か旅をしても城がないと何かが欠けている。どうしても過去への歴史のイメージがふくらまないのである。相馬の中村城は一応野面積みでも石垣が残っている。
船岡城には何も残っていない、だから歴史を感じられない、イメージできないということがある。外から来た人はあとから作られたものでも城があるとわかりやすいのである。
だから亘理駅を城にしたのはあそこに城がなかったにしろ伊達藩として亘理があり歴史があったから観光用に作ったものてはない、観光でも城がある所とない所は相当に違ってくる。ただ会津の城は平城であり山城ではない、何か平凡に感じてしまう。
ただ前にあった黒川城は七層でありあの城を見たら感動する。

亘理駅の城は遠くから映える、見えやすいのである。ビルなどないから目印になりやすいのである。
大坂城ですら建ったとき回りには高い建物がないし平野の中に高く目立ったものとしてあった。城はどこでも中心としてあった。
だから今でも城がないということは中心がないという感覚になるのである。
天守閣というのはそもそもなかったというとき信長の安土城からはじまったというとき
遠くから見ても目立つものとして作られた。安土城は琵琶湖に接近していて見られるように作っていたという。
建築物は必ずその時代の象徴として中心的役割を果すのである。

ともかく歴史に興味をもつには土地の人とその場でなんでもじかに話すると興味をもつ。なぜ年配の女性が丹羽様とか様をつけていっていたのか?
それは尊敬のためなのか?やはり丹羽様というとき二本松の人にとっては特別な感情をまだもっているとかなる。普通だったら丹羽氏という、相馬藩だって相馬様などと言う人はまれだろう。
それは特別な意味がないにしろあそこで山城から発展した城だということはその場で聞くと実感するのである。
だから歴史はその場を踏んで土地の人とじかに話すと何かそこがただ本を読むのとは違った土地に根ざしたものを感じるのである。
歴史とはそもそも何か継続してきたものでありそれは今にも通じているのである。

ともかく二本松城の魅力は自然と一体化していることなのである。
今でもその庭は野趣あふれていて山城と一体化している。
そして天守台に登ると安達太良や吾妻山や蔵王や・・・・なども一望できるのである。
二本松県として明治のとき構想されたというのも立地条件からしてわかる。
ただわからないのは平地が少ないのに十万石になっていたのか?
郡山市とか福島市の方が平地が多いから都市として発展した。二本松には平地が見えない、そしたら米でもそれほど作れないとなる。
ただ実際は米を作る土地はあるから十万石になっている。外から見てそういうことかわからないことがある。
飯館村でも山の村でも平地がかなり広い所があるのを実地に行って知っているからわかる飯館村はもともと米も相当とれていたのである。
だからおそらく米がとれる土地が二本松にあるとなる。

今回も絵になる写真が二本松城でとれた。それは俳句とか短歌と一緒にあとでだそう。
それにしても奇妙なのは城がつくられたとき江戸時代でも桜はそんなに咲いていなかったという、桜はあとから明治以降公園化して植えられて咲くようになった。
城があったとき桜は城に映えていない、でも今は城に映える桜をあたかも城が作られて侍がいたときもその桜を見ていたような錯覚に陥っているのだ。
だから確かに俳句でも短歌でも城と桜を歌ったものはないのである。
これもやはり現代から見ているから過去は常に錯覚して見ていることのわかりやすい例なのである。

「武士道の象徴としての桜」は明治時代以降の感覚。特に各地の城址に在郷軍人会が桜を植樹するようになってから、「城・武士=桜」というイメージが定着した

桜と城とか武士とは関係ないものだった。いさぎよく散るというのは戦争の時に作られたのである。
戦国時代の武士でも桜のようにいさぎよく若くても死ぬのがいいとかならない。
武士が望んだのは報償だった。だから手柄をたてて出世するために戦った。
簡単に死ぬのではない、あくまでも戦で勝って上に昇りたいという上昇志向が働いていたのである。
桜のようにいさぎよく散るというとき武士には全くなかったのに戦争のときのイメージが現代の人にも影響しているのである。
だから桜が城ににあうというときそれは城と一体化していた武士にはなかったことも奇妙なのである。
ただ美的にはそういうことが関係なく確かに城と桜はあっている。ただそれは城が作られたときは桜もないのだから武士が桜と城を歌ったということはないのである。

要するに歴史は過去はないことでも美化されることがある。
自分も桜を見て二本松城に登城していたとイメージしていたのである。
むしろ武士のイメージは松である。松は忠臣とか誠意とかイメージされるからである。
江戸時代の城の屏風絵はたいがい松である。桜など描いていないからである。
それにしても二本松少年隊にしても何か桜のようにいさぎよく散ったというふうに美化される。それは後世の人が特に太平洋戦争と関係してそうさせた。
しきりに若くても桜のように散るのはすばらしいこだとされた。
それは武士とは何ら関係ないことだったのである。
桜のように散るというときただ早く死ぬということが奨励され美化される。
そこに何のためにかとかはない、ただ早く死ぬのがいいのだとなっているからである。

花と散る二本松少年隊・・・・
とにかく早く死ぬことが美しいということになる。それは危険な思想にもなっていたのである。



タグ:二本松城

2015年04月11日

花に雨 (桜の時期は短いから見る桜は限られる)


花に雨

 
(桜の時期は短いから見る桜は限られる)


用ありぬ飛び交う燕雨にぬれ
貧しきや住宅の側に梨の花
介護して晩年あわれ花に雨
石により水仙咲きぬ雨しとと
ぽかぽかと春の日に猫いつくかな

今年の桜は何か天候が悪くて見る時間が少ない、花に雨である。
年によって桜は見る感覚はその心境や天候によって違ってくる。
それをプログに七年くらい書いてきたからあとをたどりふりかえる
人間は何度も言うが自分の書いたものすら忘れている。
それで自分の書いたものプログでも読んでこんなことを書いていたのかと自分が書いたものでも感心している。
だから人間の生というのはあとは記憶だけになる。
その記憶もあいまいとなり思い出せなくなる。

それで生真面目な自分の母親は九二歳のときノートに書いていたことは貴重だと思った。でもないことでありただ誰が来たととかだけである。
それをカタカナで書いていたのである。
今になるとそのカタカナで書いたことでも貴重である。
なぜなら今は全く何も書けないし耳も聞こえないから対話ができない
やっと書いた字を読んでわずかに理解するだけだからである。
九〇歳になると半分は認知症になる、もう百歳になったら90パーセントは認知症になっている。
そしてもう誰なのかもわからなくなる。
だからつくづくその前に正気の時に重要なことと遺産のことでも何でも書いておくべきである。
それは筆跡がわかる手書きがいいのである。
今は手書きはしないが何か重要なものは手書きがいい
長い文は印刷して重要なものを残す作業が必要である。
ただこうなると相当に手間がかかりめんどうになる。

今日も一日家事で忙しかった。何か震災以降家の中が未だにかたづいていないのだ。
かたづけてもかたづけてもかたづかないのである。
つくづく一人暮らしとかがゴミ屋敷になるのがわかった
いろいろなものがたまりなかなか捨てることもできない
家族のものでも死んでもそれをすぐ捨てていいのかわからない
その写真には古いものだと白黒写真で貴重なものがあった。

ともかく捨てない限り整理がつかない、本でも本文捨てたけどまだ捨てないとかたづかないのである。
何か老後はいろいろなものに囲まれるよりシンプルな生活があうようになる。
いろいろなものを新しいことでもやりにくいのである。
ただこれまでしたことを整理するだけで大変なのである。
詩でも軽く石について百編書いているがこれも一つにまとめることとかこれまた手間なのである。

だから今日も雨の中二回外出して買い物した。市営住宅は貧乏人が住んでいる。
その側に梨の花が咲いていたが何かあっていた。
介護というとき何か花に雨である。
介護の問題は十年とかつづくことがある。今は手当てするから長くなるのだ。
その十年を世話するとなると容易ではない,それだけの時間を奪われるとういことにもなる。
だから介護してからゆっくり旅したことがないしできない
三食食事出すとか手間なのである。
でも明日一目千本桜をまた見にいこう、岩沼から近いから行ける
なんとか日帰りで行けるだろう。

介護の一番の問題は家族に代わる人がないと近くすら自由に行けない
なぜなら認知症だったりしたら一人でいると危険にもなるからだ
誰か側にいないと不安になる人もいるし出かけても心配になるからだ。
留守は頼む人がいたから一日くらいは行けるだろう。
桜がいくらでも近くで見るのがあっても見れない
なぜなら二週間の間には散ってしまうからである。
つまり見る期間が短いから見れないのである。
だから会津の桜はほんの一部しか見ていないのである
桜の名所は日本では無数にあるが桜の時期に見ることがむずかしい。
それだけの暇があった時は過ぎてしまったのである。


タグ:花に雨

2015年04月10日

南相馬市の春の絵になる景色 (橲原や大原や大谷まわりてー写真を絵画風に)



南相馬市の春の絵になる景色


 
(橲原や大原や大谷まわりてー写真を絵画風に)


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真野川の岸辺

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小池

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クリック拡大すると字が大きくみえます

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小池の墓地
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遠くへと咲きつづくかな朝桜
故郷の墓地に眠るや花の影
梅匂ふ一つの村や山に墓地
墓を継ぐ人あれ側に土筆生ゆ
磐を打つ流れのひびき芽吹きかな
四五本の枝垂桜の大原に

朝日さし桜の映えて風そよぎ紫木蓮あまた今開かわとす
朝日さし立目石かな橲原に桜の咲きて動かざるかも

(大原)

春の日の石にさしにき大原に知る人死して我がしのぶかな
大原に草の萌えるもここに死す農家の人の家のみ残りぬ
大原に老木一本春日さし我がたずぬかな田の畦の道
大原に朝風吹きて散りそめぬ山桜かな流れひびきけり
大原の山の小径にひそけくもキクザキイチゲとスミレ咲くかな
大谷に水芭蕉咲き赤々と散りし椿や朝に映えにき
山吹も咲きいずるかな大岩のずしりとここに大原の朝
竹藪椿の赤く二三輪隠さるごとに大原に咲く
大原の竹藪の小径椿散り我がひそけくも通り去りにき
大原に一軒の家のひそけきや小径に朝散る椿かな
大木戸に天保の墓や我がよりて菜の花匂ふ道を行くかな
石神の奥に社やここにしも暮らしのありて草萌ゆるかも
春の日や木の橋を渡り社あり村の暮らしここにありしも
一時は城にありしや牛越城山桜咲き映えにけるかな
一ケ月病院にありて大原を想いし人の今はなしかも
新田川流れの浅く朝ひびき芽吹きや東風の海より吹きぬ
この土手に小蝶一つやとまりけり春の草ふみ街の中かな

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新井田川の向かい側の景色



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大谷の八坂神社に水芭蕉が咲いていた


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高倉ー明治以降武士が開拓に入ったのか?
この紋は妙見神社であり八沢浦の社にもあった


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天保とある
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牛越城


昨日は天気よかったので小池から橲原(じさばら)から大原から高倉から大木戸辺りを回って写真をとった。
写真が良くとれたので絵になるなと思ってパソコンで加工した、そしたら一枚一枚絵ハガキのようになっていた。
これは今なら絵ハガキにもできるフォトブックにもできる。
ただ手間がかかるのである。
この一連の作品はフォトブックにしやすいのでまた試しに相馬市のイオンでもできるし
パソコンでも今でもは簡単にできる
つまり自宅が放送局であり出版社にもなっているのが現代である。
大原は新田川の奥に入ると発電所がありいい石があった。
発電所があるので自然そのものではない、真野川にしてもダムがあるそうである
自然そのものなど今はないだろう。
どこかしら人工化している。
ソーラパネルだって景観を乱すので嫌なのである。
なんか山里にそぐわないのである。
この辺はあとは放射性物質の廃棄場が多いのも自然でなくなっている

大原は南相馬市立病院で一カ月入院していてちょうど何か大原の中心の位置にある斉藤さんの家が今は空家になっている。斉藤さんは死んだからである。
でも一カ月毎日大原の方を病院から見ていたことは自分も一体となり忘れられない
だから何か大原が親しくなったのである。
大原は相当に広い、新田川を渡った向かい側もそうだろう。
竹藪があり椿が咲いていたのも絵のようである。
大谷という所には八坂神社があり水芭蕉が咲き椿が散っていた。
これも絵のようだった。
大原に老木があるのはふさわしい、人間は自然でもそこに人間を見ているのである
大原の老人は長老のような人は死んだのである。
長老というときその土地に根ざした人である。
だから会社というのではない、その土地と密接に暮らした人である。
それは農家の人なのである。
でも今は跡継ぐものもなく空家になっているのが淋しい

高倉の方に行くと社があり木の橋をわたるのも何か素朴な感じになる。
妙見の紋が屋根にあったから明治以降武士が開拓に入った地かもしれない
山側に真宗系統の移民の人たちが集まった墓地があった。
あの辺はまだわかりにくい所である。
それから大木戸辺りに出たら天保の墓があったから古い
石神に出ると何か石上第二小学校もあり原町市街の延長になる。
大原高倉押釜大木戸は市街から離れ山側になる。
原町区はもともと人口も多いから市街だけではない、山の方も広いと思った。

ともかく人間はある土地に故郷でなくても住んでいればその土地と一体化してくる。
それには相当に長い時間がかかる。
こうして未だに故郷でも知らない土地があり今日はじめてたずねたのである。
人間はこうして故郷といっても原町でもさらに小高でも浪江でも拡大してゆくと
知らない土地がまだまだある。発見されていない場所があるのだ。
人間は自然でも人でも土地になじむには相当な時間がかかる
回りにこんな美しい場所があったのかと今ころ気付いているのである。
すでにこの世から去ろうとするときに知ることがある
そうなると一段と長く住んだ土地に親しみと愛情を感じるのである。
つまりますます住んでいる土地と一体化アイディンティティ化してゆくのである。

だからこそ原発事故の最大の悲劇はそうして長く親しんだ土地から離れなければならない、住めなくなったということなのである。
そのことは老人が一番影響を受けたのである。
いくら億の金をもらっても癒されない傷を負ったのである。
なぜなら老人は慣れ親しんだ所の記憶に生きるようになるからである。
自分は旅したことの記憶してまた旅しているというのも不思議な感覚である。
老人になると新しいことができない、記憶された過去を生きているのである。
その記憶が一体化した場所と切り離されることは老人にとっては過酷なのである。
そのことが認知症になったりすることもある。
認知症の特徴は新しいことが記憶できずにただ過去の記憶に生きることになるからだ。

ともかく今の季節か日本では一番いい、また晴れたら出かけたい、今日も寒い
明日は晴れるとかなんか変わりやすいのも困る。




タグ:春の景色

2015年04月08日

京都の桜(俳句十句) (京都には日本の歴史と文化が凝縮されている)


京都の桜(俳句十句)

(京都には日本の歴史と文化が凝縮されている)

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枝垂桜夕べ艶なり京にあり
八坂なる枝垂桜の古木かな
雨にぬれ枝垂桜の艶なりき
琴の音や京の女かな花の散る
詩仙堂真昼散る花落椿
詩仙堂花散る真昼錦鯉
京の橋誰か逢わなむ夕桜
千体の黄金の仏や花盛り
屏風にそ醍醐の花見残す京
一庶民京の花見に酔いにけり
京都なれ哲学の道も花の道
たずぬべき名所あまたや京の花

優艷に枝垂桜や京にありその日は遠くみちのくに想ふ

ゆくりなく京に花散るその時をかえりみて今我が惜しむかな

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京都にも四回くらい行っている。桜が咲いた時も二回くらい行っているかもしれない、ただそれも30年前とかなると記憶が薄れる、八坂神社の枝垂桜はいかにも古くそういう古いものが街中にあるのも京都である。
つまり八坂なる・・というときそこにすでに歴史の古さを自ずと語ることになるのが京都である。あの枝垂桜は樹齢何百年という古さなのである。
それを雨にぬれた夕暮れに見た覚えがある。これも相当にうろ覚えになった。

京都とは何か?それは日本文化が凝縮して残された歴史の街である。
だから京都を理解することは一回くらい旅行してもわからない。
時間軸で偲ぶ歴史は簡単にその場を踏んでもわからないのである。
京都には見るべきものがあまりにも多いからである。
一つ一つに長い歴史がこめられている。八坂神社というのは全国にありそれも京都から広がったのだろう。北野神社などもこの辺にあるから京都から広がったのだろう。
そのルーツが京都にあるのが多いのである。
秀吉の醍醐の花見でも屏風絵として残っている、東北にはそういうものが残っていないことでも栄えた歴史がないのである。

だから日本の歴史と文化の栄は桜が咲くとき京都とか大阪とか西の方が一体として感じる京都にはやはり芸術の街であり芸術が花咲いた街である。
奈良は万葉集であり縄文時代の継続のような日本の原始性の世界である。
京都はかなとか発明され平安時代に女性が文学を残したことでもわかる。
奈良の男性的なものから女性的なものへの移行がある。
だから何か仏像でもやさしくふくよかなものになる。
平安仏は貴族の仏教だったからである。
小高の大悲山の磨崖仏は平安仏なのである。だから相当に古いものである。
鎌倉時代になると武士社会になり質実剛健なものとなってゆく

いづれにしろ京都というとき哲学の道とあってもそこは花の道になっていた。
美的なものは哲学的なもの宗教的なものが一体化している。
京都には日本の美意識の基がある。
京都に住めば日本の文化の真髄にふれることになる。
それでも京都は大都会でありそこで風俗的にも乱れていることもある。
最近中国人の観光客がふえたりすると何か京都の風情が乱される
修学旅行生でもうるさくて嫌だった。
今では外国人にホテルも占領されて泊まれないとか何か必ずあまりに観光化すると本来の風情は消失してしまうのである。

ともかく京都ならどこの道を歩いてみてもそこに先人の平安時代からの歴史を感じる。
ただその歴史を感じるには時間が必要であり旅にはその時間がないのである。
だから本当に京都をわかるには住んでみないとわからない。
京都の桜では御所の桜と詩仙堂の桜を今でも覚えている。
特に詩仙堂の桜が雪のように散って真っ赤な落椿が映えていたのはまるで絵のようだったとなる。
そういう絵になる場面が京都には多いのである。
ただあまりにも寺が多すぎるので困るのである。
寺はもともと観光の場所ではない、修行の場所であるから観光には向いていないのである詩仙堂などは風流人が住んだ所だから違っている。
京都で驚くのは寺の柱に応仁の乱で争った槍の跡が残っていたことである。
寺の中まで侵入して争っていたのである。
京都は政権争いの場でもあるから戦乱に常にまきこまれてきたのである。
そういう点でも常に歴史の中心としてあったから千年の都なのである。

タグ:京都の桜

抽象画(花と蝶)abstract(flowers and butterflys) (抽象画は加工に加工を重ねてできる)


抽象画(花と蝶)abstract(flowers and butterflys)


 
(抽象画は加工に加工を重ねてできる)


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抽象画は加工に加工を重ねるとそれがオリジナルなものになる不思議がある。
だから絵の才能が全くなくても絵らしいものになる。
まず自分は幼児のような絵しか描けない、絵については全く才能がない
ところがなんかこれが花だな、蝶かもしれないと加工してくると出てくる
それを合成させてまた加工してゆくと一つのオリジナルなものが絵らしいものになってゆく
ただ花は花らしいものにして蝶も蝶らしいなとして合わせるのである。

今回もただ描いていたらこんなふうにはならない
抽象画風にすると絵らしくなるのである。
チューリップが丸みを帯びたのは加工した結果なのである。
花のキッスは偶然にまた現れたものである。
これは面白いなとその部分だけを切り取ったのである。
抽象画が自分で意図したものを描いていない
偶然に現れたものをピックアップして絵にしあげるのである。
だから一種の合成術としての新しい芸術だともなる。


アメリカの花のサイト

抽象画は外国のサイトが優れているし多様である。
ここのサイトは花の抽象画を集めているし芸術的に優れている
販売もしているのだからプロ的なのである。
抽象画に関してはプロも素人もないのかもしれない
自分も全く絵の才能なくても作っているからである。
ただ花がどういうものかもともと知らないと抽象画も鑑賞できないだろう。
具象画として自然を知らないと抽象画も鑑賞できない
花でもチューリップならチューリップきとして見るからである。
ともかくインターネットの世界は広い
でも何があるのか知ることが容易でないのだ
いいものでも埋もれてしまっているのである。
タグ:花と蝶
posted by 老鶯 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2015年04月07日

南相馬市最近の変化の写真


南相馬市最近の変化の写真

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なぜ戸塚ヨットスクールなのか?
その関係者が運転しているのか?

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ここを建設しているのは福島の会社である。
環境センターとは何なのか?

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金沢の北泉で積み上げられた松の木


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ほとんど65才以上である
高齢化もあるが津波の話を聞くとかえって老人は津波などこないと逃げなかったのである。
何か悪い方に頑固になっていたのかもしれないのとやはり老人は腰が重いというのもある
機敏に動けないことや何かに家でも財産で執着することがあったのうもしれない。

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萱浜のソーラーバネルの野菜工場



この辺は次々に変わってくる、新しい建物もたつし工事をどこでもしている
加藤建材が実際は経営状態がかなり悪くなっていたという。
でも今回の津浪原発事故でトラックを買ったりして持ちなおした。
何か建設関係はかえってこうした災難の時活気がでてくる仕事なのか
加藤建材ではその創業者が真野川でじゃりふるいして原発にその砂利を大量にもっていって財を成したという、今度も原発事故などで立ち直った。
運かいいのか悪いのかはわからない、ただ建築関係はどこも経営状態が悪かった
今回の津浪や原発事故で景気良くなったことは確かである。
江戸でも大火事があると景気が良くなったということがあるからにている面はある。
建築関係には何か大きなことがオリンピックでもそうだがあれば仕事が飛躍的に増えるのである。
タグ:南相馬市
posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

桜は咲けど・・・(仮設暮らしが四年過ぎても先が見えない)



桜は咲けど・・・

 
(仮設暮らしが四年過ぎても先が見えない)


仮設住み鹿島になじむ夕桜

満開に桜は咲けど雨しとと仮設に住みつ四年過ぎぬ


桜も咲いたけどなんか雨の桜になっていてしめっぽい。桜のことを短歌にしたりしたけど毎年違って見える。
自分の一身上で回りでも波瀾つづきでありだから桜の見方も違っていた。
俳句は写生だけど短歌はその時々の感情的なものが入る。
悲しい、淋しい、うれしいとか感情的なものが表現される。

この辺は仮設でもすでに4年は過ぎてしまった。それも長いと思った。
だからそれぞれの土地になじむようになった人もいるかもしれない。
ただ仮設だとあくまでも仮りの暮らしだからその土地に土着するのとは違うから
なじむといっても以前として一時的なものである。

現代は土着的といっても農業とか漁業で暮らしている人は全体の一割にもみたない。
だから今回のような津浪原発事故でどうなったかというと会社中心に生活していたことが明確になる。
象徴的なのは小高の人で名取に息子が家を建てその家に親の部屋まで作った、そして会社が原町にあり常磐高速道路で通っている。
このことが原発事故や津浪で起きたことを象徴していた。
家族が分離してしまい職場も分離してしまった。
鹿島から二本松に会社が移り通っていた人もいた。
その人は二本松の方に移ったのかもしれない。
会社と共にあり会社中心社会だからそうなっている。

補償金にしても個々人で個々の家族でなるべく多くもらってそれをどうするのかとなると
もう自分の故郷には帰らない、このさい、その補償金を元にして他に移り新生活をした方がいいと働く
若い人は特にそなっている。
つまり多額の補償金は皮肉なことに復興にはならない方に働いているのである。

十津川部落などでは部落ごと北海道に移住したがそれはみんなその時農業で生計をたてていたからである。
だから北海道で開墾してみんなで農業をはじめたのである。
会社中心社会ならそういうことができないのである。
現代は土着的社会ではない、会社はどこにあってもいいという場合がある
確かに以前としてその土地でなければ利便性が欠けるとか立地性はある。
この辺はまだ東京に近いから部品を運ぶのでも立地性はある

いづれにしろ本当に満開に咲く花の日はこの辺はずっと先にになってしまっただろう。
もしかしたら市町村自体消滅しているとか少子高齢化でも言われるからなんか
満開の桜でも雨がしとしとで陰気に降っている感覚が反映される
やはり今の状態の気分が反映され自然に投影されるのである。

そうはいっても何とかしなければならないということはある。
その先が見えないのは会社中心社会であり農業が主体の土着的一体感が喪失していた社会からかもしれない、今は何か一人一人とそれぞれの家族がどうしようとしてもできない
みんなで何かをやろう一致してやろうという共同性が望まれる
その共同性は会社にはあっても他にはあるのかということもある
でも小高でもそうだが何か共同して一致してやろうとしないと町自体がなくなってしまうだろう。
ただどうして共同して一致してやるのかとなるとそれがあまりにもむずかしいのである。だからだらだらしていると分離分散してしまうことは確かである。

タグ:仮設暮らし

2015年04月06日

東北文化論 (わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)


東北文化論


 
(わび、さびは豪勢な豊かさのアンチテーゼとしてありえた)



アントワネットはこのプチ・トリアノンに接した狩猟場に「王妃の村里」と呼ばれる農村風の庭園を創りあげた。農家風の建物を建て、家畜を飼い、野菜を植え、農婦ごっこや芝居に興じた。
外観をわざとボロく創っているが、・・・・
http://www.dokodemo-bessou.com/france/page5/page5-4.htm

信長や秀吉ばかりでなく、松永久秀にも近しく、武家権力の中枢に接近しながらも宮廷文化とは対極的な独自の価値観を生み出した利休の独創性は、こうした利休周辺の環境や人間関係が大きく影響したものだろうと思います。
http://www.osenkou.com/skaori1.html

「伊達者」、「伊達な振る舞い」等「ダテする」とは政宗以前から「タテる」または「タタせる」という言葉があり(際立つの意に繋がる)、よって、その言葉の意味合いが政宗の言動と見事に合致した



わび、さび、しおり・・とかいう美意識がどうして生れたのか?
それは秀吉の黄金の茶室と対称化された美意識である。東西の歴史で権力者は黄金を求め黄金で飾るのが通例である。スペインはインカなどから黄金を奪い教会を黄金でちりばめた。人間の富の象徴として黄金があったことは昔から代わりない、黄金の特徴はまた腐食しないということも価値が変わらないものにした。
だから秀吉が農民の出で黄金の茶室を作ったのは別に特別なことではない、古今東西の権力者はみんなしているからだ。

わび、さびの美意識が日本特有と思っているがそうでもない、例えばベルサイユ宮殿はもともと王の狩猟場としての森だったのである。ということはパリの中に大きな森があったということになる。そういうことも今は想像できない、だから歴史は何か常に現代から見るから間違った見方をしている。
あの豪勢な宮殿にいたらかえって疲れるというのはわかる。それで「王妃の村里」という村の風景を故意に作り出したのである。そこか王妃の癒しの場となったのである。
そのことと秀吉の豪勢な黄金の茶室とかその他の醍醐の花見とか絢爛豪華な安土桃山文化を築いた。

だからわび、さびを素朴なものを求めるものは人間の心性として共通しているのである。そのわび、さびが堺という当時一番栄えた自治体都市から生れたのかというのも不思議に思うがつまりわび、さびの美意識はそうした栄えた都市文化のアンチテーゼとして生れたのである。
なぜならみちのくにはそもそも西のように栄えた歴史がない、豪商などもいない、東北はそうして栄えた歴史がないのである。平泉は確かに栄えたとしてもそれも一時の夢として焼失してしまったのである。だから江戸時代もみちのくは辺境でありみちのくそのものがわび、さびの世界でありそれで芭蕉はその世界に憧れて奥の細道を残した。

わび、さびの美意識はわび,さびが日常であり日々の生活の場だったら意識しない、それが当たり前であり絢爛豪華ものなどないからである。そこにわび、さびを特別意識することはない、日常がわび,さびに暮らしているからである。
利休のわび、さびの美意識はむしろそういうわび、さびがない文化的環境で故意にプチ・トリアノンのように生れたのであり別にそれは人間の心性として理解できるのである。
文化というのはまず自然がありそれが人工化してゆく、そしてベルサイユ宮殿のようなものができる。その反動として素朴なものを求めるのは人間として不思議ではないのであるつまり豊かさとは人工的なものとして贅を尽くす豊かさと自然の素朴さがあるとき豊かな文化が育まれる。

それは京都にある金閣寺と銀閣寺の対処性でも即座にわかる。京都には金閣的なものと銀閣的なものがあるから日本の文化都市になる。
東北にはそうした歴史がないから未だ文化不毛地帯なのである。
それだけの栄える財力が貯えられなかったからである。
文化というのは財力と関係してくる、富がないところには文化は栄えない、ただその文化の基もまた富があるからだけでは生れない、その背景に純自然というバックグランドがないと文化は生れない、なぜ今東京から文化が生れないかというとその自然が森でも山でも何でも消失して人工化だけの空間になってしまっているからである。
みちのくは伊達政宗の時代も実際は西に比べると相当に貧しかった。
そこで伊達政宗は背伸びしなければならなかった、それで何か秀吉とか西に対抗するために豪勢なことを装ったのである。それが伊達者の起源だったのである。
みちのくはわび、さび・・そのものの世界だった。そうじゃない豪勢なものがみちのくにもあると威勢を張らなければならなかったのである。
つまり豊かであり富裕であるならわび、さび・・をまず人間は求めない、豪勢な黄金を求めるというのが普通なのである。
そのあとにわび、さびの世界を求めるのである。

そもそも文化は実があって大地に根付くものがあって花が咲く、花とは文化のことであるても東北ではまだ花は咲いていない、商業とかでも西のように栄えたことを経験していなのである。
そして最近つくづく感じたことはこの辺では田畑が津浪や原発事故で喪失したとき、もう文化的なものを追及できないという感覚になった。その余裕がないという感覚になった。文化でも田畑がない田舎の生活がない所で文化を追及できなくなる、だから何か補償金などが入ってきてもさらに精神的には荒廃した感じになった。
花が咲くにはその生活基盤が充実していない咲かないのである。
それは一身上でもそうである。毎日家事に追われていたら文化的なものを余裕をもって追及できないのである。
だから今になと自由に旅できた時間は相当に恵まれていたと思うようになった。
自由な時間を与えらることは相当に恵まれたことなのである。
それが特別なことと意識していなかったが今になると意識するようになった。
なぜなら毎日時間に追われて10キロ四方から出れない閉ざされた生活になったことで意識したのである。

タグ:わびさび

2015年04月05日

花に雨(貧乏な人が増大して表面化して犯罪が増える時代)


花に雨(貧乏な人が増大して表面化して犯罪が増える時代)

咲きそめし花の雨ぬる貧乏になりゆく人の多くなりぬれ

そもそも人間は貧乏人とつきあわないと貧乏人のことを知らないのである。
近くに困った人がいても何が起こっているかもしらない、つくづくすぐ近くに
十年くらい空家があったのだがそのことを誰も知らないという不思議である。
自分はその前毎日通っているからずっと気になっていた。
そのことを近くの人と話ししたら知らないというのも不思議だった。
今はこういうことが田舎でも多い
人のことは田舎では見なくてもどこかで見ているのである。
あの人なにしているのだろうかと田舎では別に詮索するのでもないが見えてしまうのである。
それがなぜすぐ近くの空家を知らないのか本当に不思議だった。
郷土史関係ですぐ近くの神社に天明の碑があったのを発見したのは最近だった

それは過去だけではない、人間はすぐ近くのこと古いことでも今のことでも知らないことが多くなった。
それはやはり生活を共にしているということがないからだろう。
勤めが遠くになっていると何をしているのかもわからないからである。
そういうふうに近隣のことを知らないと何か今回のような津浪だ原発事故など災難に見舞われると困ったことになる。
人間は日頃からコミニケーションをとっていないといざというときも助けたりできない
相手のことがわからないからである。
人間はつくづく直接話してみないとわからない

最近生活保護の人と知り合っていろいろ話あうことになった。
ところが生活保護の人に直接接していない人は生活保護のことがわからない
生活保護など食べるだけがやっと生活でいいものではない
その人は最近市営住宅に息子と同居して生活保護が打ち切られたのである。
ええ、そんな簡単にやめさせられるのかと驚いた。
なぜならその人は収入もわずかな年金しかなかったからである。
だからそんな簡単にやめさせられたら飢え死にするようなことにもなるだろう。
ただその人はならない、なぜならコミニケーション能力が優れているからである。
いろいす人と交渉することがうまいのである
ただ様々な問題をかかえていてこの人も犯罪一歩手前にあった
前の人はまさに犯罪者になった。
生活保護が何のためにあるかというと常にネットで言われているのは犯罪者にしないためだというのも理解した。
本当に犯罪者になるほか生きる道がないのである。
そのことは社会全般に影響して治安が悪くなるから金持ちの人でも一般の人でも影響する危険な時代になる。

つまりアベノミックスなどは何の効果もない、金持ちにはいいだけであり増大している貧困層には物価は上がるだけであり負担が様々に増えていいことはないのである
貧困者が増えて犯罪者に追い込まれる人が増えてくる危険な状態になっているのが現代である。
実際にそういう被害を受けたし今もそういう人とつきあった結果、なぜもうぎりぎりで生活している人がいるということを自分の問題のように深刻に思うようになったのである。まずそういう人と直接接しない人は感じないのである。
何も貧乏人だけではない、事業していた人も借金で首が回らなくなっていた。
それは贅沢していた結果というのもある。金がないのに金のある生活をしていたのだからそうなる。今の社会は別に金持ちは金持ちで金がかかり金がないとなっている社会であるそういう人はいい高い車をもっているのでわかるのである。
例えば八人に一人が裏の金融から金を借りているということでもいかに生活を無理しているかわかる。
なぜこんなに借金しているのかというのもそれだけ無理していい生活をしているからそうなる。
分相応の生活していればいいじゃないかとはならない、もっといい家が欲しい車が欲しい・・・欲しいとなって無理をするから借金してまでそうなるのがおかしいのである。

いづれにしろ日本は景気良くなったりもうならない、衰退国家である。高齢化社会がそれに拍車をかける。あらゆる方面で貧乏が今まで隠されていたがそれが様々なことで表面化してくる。犯罪も増えてくる、老人も年金だけ暮らせない、かかりがかかるからである。国民年金だけではない、会社の年金でも苦しくなる。
もうぎりぎりで生活する人が多くなる。犯罪一歩手前の人が社会にあふれてくるから危険な社会になる。それは富裕層でも中間層でも普通の人にも影響してくる。
犯罪にあう確率が増大してくるのである。

ともかく今日は花が桜が咲いたが雨がふってきた。何かそこで暗い日本の未来を感じてしまう。
もちろん世の中は暗いことがあれば明るいこともあるからすべて暗く考えるのは間違いである。これから物価高になり金の価値より物の価値が高くなると物を大切にするという時代に逆戻りするのは悪いことではない、だから悪いと思うことも良い面が必ずある。
ただはっきりしていることはアベノミックスなどで日本は豊かにはならない、貧乏の問題が表面化しているしそれがだんだん深刻化する時代である。
だから今までのような無理して豊かな生活をする借金してまで豊かな生活を求めるようなことはできない、分相応の生活をしないと犯罪者になってしまう時代である。


これが現実だ

生活保護が最多更新 161万8817世帯
http://www.sankei.com/life/news/150401/lif1504010025-n1.html
老人が40パーセント以上と増大している、貧困老人がこれからますます増大してくるのである


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何か貧乏な話の方が今は多くなっている
このグラフの推移を見てもわかる
親が仕送りできない、経済的余裕がなくなっているからである。
それでも今は大学に行かせるから無理がでてくる



タグ:貧乏

2015年04月04日

相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る (歴史は想像力がないと見えてこない)


相馬市の中村城の大手門で若い人と歴史を語る

(歴史は想像力がないと見えてこない)

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中村城大手門の滴水瓦


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新地の神社にあった文禄の碑

滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦(ちょうせんがわら)とも呼ばれ、今から約600年ほど前の中国明時代に普及し、李氏朝鮮(りしちょうせん)に多大な影響を与えました。日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に突如多く用いられるようになります

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html



相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、相馬氏は肥前名古屋城を陣を築いていた。だから朝鮮のことを知っていた新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
新地の神社にあった文禄の碑は何なのか?
これは文禄慶長の役とは関係ないだろう。おそらく検地の記念である。たいがい年号の記念は検地に由来しているからである。
文禄時代に検地が行われたからである。ただその時相馬藩の領域に新地は入っていないから伊達藩でした検地だったのか?慶長16年に中村城は築かれているからだ。

中村城の大手門で相馬市の若い人と歴史を語る

何か中村城の取材にきていた若い人に出会った。一人は市役所の人だろう歴史に詳しかった。
「この大手門の瓦は滴水瓦だ」
「それってなに」
「これは朝鮮系統の瓦で有名なんだよ」
「ええ、そんな瓦なの」
「そもそも瓦というのは江戸時代でも庶民の家ではない
みんな茅葺きの家だよ、瓦の家はまれだったんだよ」
「この瓦が朝鮮系統とは知らなかった」
「歴史を知るには想像力が大事なんだよ、今の時代から昔を見えない、すると想像するほかない゛瓦一つでもそこから想像をふくらませれば何の変哲もないものでも違って見えるんだよ」
そこにまた貧弱だが石垣が残っていた。これなどもあまり注意しないし見過ごしている。
「この石垣は貧弱だから野面積みだ、城の石垣でもいろいろな作り方がある、石を切って合わせるのはかなりの高度な技術が職人が必要だよ、面白いのは慶長16年にここに城を築いたとき会津の浪人がきて石垣作りを教えたという、会津はその頃先進国だったから技術も優れていた。、蒲生氏郷の時代には七層の黒川城があったからあれは見物だった、そのあと地震がきて今の五層の城になったんだよ、他にも萱葺きの職人や大工も相馬藩内に移手に職をもった人はどこでも生活できるということなんだ

「ええ、そんなこと知らないな・・・」
その若者は歴史にはほとんど興味がなかったのである。
「侍だけが大事じゃないよ、職人がいないと城も造れない、石垣だって作れないしこの滴水瓦だって作れない、だから職人を確保する必要がある、ではその職人はどこにいるのか?その職人は信長の時代は京都などの寺が雇っていた、寺が侍より力があったからな
それで信長は職人を確保するために僧侶を寺を焼き討ちして殺戮したということもあったんだよ」
「ええ、そんてことあったの、面白い」
その若者は何も知らないのだが興味をもったようだ。
歴史でも誰かが面白く話したりすると興味をもつようにもなる。
ともかくむずかしくなると誰も興味をもたないのである。
「歴史は侍だけの歴史じゃないんだよ、この辺で津浪があったけどそのことで相馬藩政記に700人溺死と一行だけ記されていたんだよ、みんなそのことを知っている人がいなかった、やたら戦争のことばかり記されていたが津浪の被害については一行だけしか記されていない、その時相馬藩は戦国時代であり戦争が多かったし秀吉、家康の時代でありなんとか領地を安堵するために努力していてそのことは記したが津浪の被害のことは一行だけであった、それからわかることはその時庶民は被害があっても自ら記すことができなかったんだ、文字も書ける人もいないしまた石碑を建てるのも財力がないとできない、伝説はわずかに残っていても注目もされなかった、庶民でも墓を建てたのは幕末であり豊かにならないと墓も作れなかったんだよ・・・・」
「墓など今じゃいくらでもあるでしょう」
「侍の歴史だけじゃないんだ、歴史は、それで柳田国男は侍の歴史だけじゃない、戦争だけが歴史じゃないと、民俗学を起こした、庶民の歴史を掘り出した、だから庶民が文字を残せないから口碑として庶民の残した伝説や伝承や祭りなどから歴史を語った」
歴史はやはりその現場に立って説明したり話したりすると現実味を帯びてくる。
だから現場に立つことが大事なのである。外国でもそうでありテレビでいくら見ても現実味を感じられないのである。
川が多いとしてその川でも現場に立てばその川の上はどうなっているのかと想像する
そこから想像がつぎつきにふくらんでくる。

相馬藩の中村城の大手門からイメージがふくらんでくる。
その時代は瓦はめずらしい、茅葺きの家がほとんどであり街中すらそうだった。
ただ田町通りは瓦屋根があった、そこは繁華な街となっていた。
連甍 両両 西東に満つ
瓦の屋根はめずらしいからこそ詩になった。回りはほとんど瓦葺きの屋根だったからである。つまりそういうことがイメージできると歴史にも興味をもつのである。
だから歴史はいかにして昔をイメージできるかということにもなる。
それは戦争のことでもすでにイメージできないものとなっているからだ。
70年すぎたらすでに戦争が何なのかイメージできないのである。
馬が多く利用されていたのは馬で荷物を武器でも何でも運んでいたからである。
トラックで運ぶようなことはなかったのである。だからあの当時の戦争は武器でもかなり技術的には貧弱なものだったのである。
戦艦大和とか船とかは技術的に進んでいても一方で馬が戦力になっていたことでは戦国時代と同じだったとなる。
現場に立つことの重要性は相馬藩の最初の城が小高に建てられていた、実際に立ってみると津浪で海が見えるようになった。
小高は意外と海が近い、駅を越えて津浪がきていたのである。
そして小高には港があり海が今の小高の城まで迫っていたのである。
その港も蔵が建ち大規模なものだった。
それで浮舟城という名にもなっていたのは舟のように浮かぶ城となれば何か港に近いからそういう名になった。
村上に一時城を移したのは港があったから港の機能として城を作ろうとしたとなる。
それが縁起が悪いとしてとりやめた理由は謎にしてもそのあと慶長の津浪に襲われた。
その時港の機能が壊滅した、文禄の記録におんふねというのが小高のみに記されている
それは港か津浪で壊滅したからかもしれない、おんふねと相当記されているのは小高だけだからである。

いづれにしろあらゆる分野で想像力が必要である。想像力は創造力なのである。
stap細胞はないのにあるとしたがもしかしたらそれはありうるものかもしれない
想像したものでも現実化することがありうるがまだその段階になっていなかったのかもしれないのだ。
だから「猿の惑星」を映画であれその小説を作った人は相当な想像力があったと関心しる現実にこの辺が猿の惑星とにたようにな状況になったということである。
あれは核戦争の後のことを描いたのだかここも原発事故で人が住めなくなった状態になった。それは核戦争後の状態とにているからだ。
大都会が壊滅するという映画はもう見飽きるくらい見ている。
でもそれが現実になるとは誰も大都会に東京に住んでいる人でも思っていない
津浪とか原発事故にあった人はそれが現実になることを不思議に思わなくなったのである大都会すら廃墟と化して人が住まなくなる、それはSF小説、映画の世界だと思っていたがこの辺ではそうは思わない、この辺は現実そのものになっているからだ。
神戸の地震だって現実であり東京でそうならないとははっきりわかる。
そのことを何度も放送してもやはり人間は変わらないのである。
人間は危機感をよほどのことでないともたないのである。
危機感の欠如が大災難をもたらすのである。
もし津浪でも原発でも危機感をもっていればこんなことにはならなかったのである。
原発がなくても死ぬわけじゃてなていからなんとか原発のない世界を作りそこで暮らすのがいいとなる。
危機感がない人はそう思わない、津浪にしてもそうである。
あれだけの災難があったらもう恐ろしくて海岸近くには人間は住めないのである。



北山八景

田町晩煙 
     
秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。

《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、
連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉
タグ:中村城
posted by 老鶯 at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

南相馬市小高区の鳩原村の歴史 (原発事故で無人化した村の不思議)


南相馬市小高区の鳩原村の歴史

(原発事故で無人化した村の不思議)


相馬一族。岡田氏の庶流で、陸奥国行方郡小高郷大井村(南相馬市小高区大井)を領して大井を称した。

大井兵右衛門 給人 14石 行方郡小高郷鳩原村8(安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』)

大井氏は岡田氏系統の系譜にある。大井氏という姓が南鳩村にあり大井村がある。
すると大井村とは大井氏の姓をとって名付けられたものなのか?
普通は姓はその土地の地名をとってつけている。
相馬藩内でもすでに地名は相馬氏が進出したときは大方あった。
相馬市の黒木とあれば黒木氏が出たところだが黒木という地名があって名付けられた。
相馬氏が進出してもその姓が地名化することはまれなのである。
土着化することはその土地の地名を姓にすることが普通である。
ここは例外的に大井氏系統が土着して名付けられたのか?
南相馬市小高区大井とあったのだから地名をとったともなる。

安永(1780)ー天明(1788)ー天保(1843)と年号の最後の年である。
安永に給人名簿に記されているがそのあとすぐに天明であり大飢饉があり相馬藩では三分の一の人口が流出した。
自分が発見した碑は天保である。だから飢饉から回復したあとの碑である。
小高は最初に相馬氏が城を築いたところだから相馬氏の歴史としては古いのである。
相馬氏は最初に片倉から入り太田村に入り小高に進出した。
ただその前に在地の勢力があってその土地の有力豪族と戦わねばならなかった。
相馬氏系統の進出でも何かいろいろ氏があっても相馬藩内では渡部氏が村の墓の中心のようにあるのも不思議である。
鳩原村の丘の上に墓地があり一番立派なのは渡部氏の墓だった。
渡部氏がなぜ相馬藩内で勢力を広げたのかはまた謎である。

岡田氏は相馬氏と対等の力をもっていたから中村城に岡田館が別にあったということでもわかる。
でも岡田という姓がそれほど相馬藩では目立たないのも不思議である。
姓の歴史もまた複雑である。
鳩原ははっぱらとなっているから鳩は当て字だった。はっぱらとはまさに何もない原の意味である。
相馬氏はこの地に進出するときはっぱらとか人がまず住んでいない中世の館(たて)のない地を選んで開墾に入ったのである。
原町の深野(ふこうの)には館(たて)とつく地名が二つあり中世の豪族が住んでいた。
だからそこをさけて大原に開墾に入ったのである。
この大原と海老の大工が結びついていたというのはやはり相馬氏系統が相馬市の今の中村に城を築くとき何かがあったのはもとも大原には相馬氏が勢力をもった地だったからである。
北郷は小高より北だから名付けられたのであり海老村でも北郷は相馬市か完全に支配していたわけではないからである。


鳩原村にもこうして歴史が積み重ねられている。
おそらく自分が会った牛を飼っている家は戦前か戦後かもしれない、開拓に入ったのかもしれない、不便な地域はかえって新しいのが多いからである。
あそこは村から森に入る所である。懸(かけ)の森とはカケにかけ離れているの懸けなのかもしれない。か・る【離る】となっているからである。
実際にかけ離れた所にあるのは確かである。
しかし不思議なのは人の住まなくなった村であり街である。
人が住まないと言っても廃墟の街とか村ではない、人は出入りしているからである。
浪江などでは荒廃した家がある。小高では少ない、やはり帰れる場所だから家も直している所が一部ある。
家を直さない所は住まなくなるのかもしれない。

鳩原小学校があったがあんなところに学校があったのかとなる。
鹿島区の真野小学校では一人しか入学する生徒がなかったとか今は本当に街から離れたら余計に少ない、消滅の危機である。やがては街に一つに統合されるような状態である。
でも何か人が住まない街でも村でもこれは何なのだろうとなる。
ただ一時的に大がかりなロケのために映画制作のためにしていることなのかと思ったりする。これが現実だと津浪で消失した村でもそうだが未だに思えないのである。
「猿の惑星」が映画であり現実でないと思って見ていたがこの辺ではそんな状態が現実化したのである。街や村に人がいなくなりイノシシや猿が我が物顔に出てきていることがそうである。
そして小学校でも横断歩道がありあそこを生徒が往き来していた。
そうした子供の声も聞こえない、姿もない、だから確かに廃墟の村とにている。

いづれにしろ牛は飼料が自前でとれないし放射能汚染でたいがいやめている。
他に移ってはじめた人もいるがたいがいはやめた。
もともと牛を飼うにしても採算がとれないと農業をやめたいという人が多かった。
この際補償金をもらってやめた方がいいとなるのも成り行きである。
だから仮設暮らしも慣れました、友達もできたしとか狭い所で難儀しているかと思ったらそうではない、いごこちか良くなっている。
そうなるといつまでも補償金もらって楽に暮らしたいとなるのも困るのである。
仮設に本当の暮らしはない、仮りの生活しかないのである。
地元でもそういうふうに暮らしていることは困るのである。
それは津浪の被害者でも仮設から出れない人々がいるから同じである。

鳩原村ははらっぱ村だったけど鳩にあてた、実際に山鳩が飛んでいた。
別に山鳩はこの辺では街の中にも普通に飛んでくるからめずらしくない
ただ牛舎のあった森の木に山雀が一羽じっととまっていた。
それは長い間動かなかった。それで写真がとれた。
鳥はたいがいすぐに逃げるので写真にとるのがむずかしいのである。
逃げなかったのはそこに人が住んでいない、家も空家であり人の気配がしないので安心しして長くとまっていたのかもしれらない。
それでも除染の人がいたから誰もいないというのではなかった。
人がいなくなるということは野生の生物にとってはむしろ繁殖しやすくなったりしてイノシシもネズミも増えるのである。
だからまさに「猿の惑星」が現実化したとういことで驚くのである。
SF小説でもありえないことが本当に現実化していることに驚く
原発を東京に作れと言う人が本まで出していたときそれがSF小説のようにみていた。
今になるとそういうふうにしむけられていたことがわかった。
権力によって操作されていたからそうさせられていたのである。
安全だったら東京に作るのが一番効率的だったからである。
東京に作るとすればそれこそ安全を最高度にしていたし真剣になっていた。
福島は東京から離れているということで安全に対しておろそかになっていたのである。


タグ:小高
posted by 老鶯 at 10:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2015年04月03日

小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った (津浪の後に海が見えるようになった)


小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った

(津浪の後に海が見えるようになった)


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ここから海が見えた

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津浪後開けし海や春の朝

(鳩原)
鳩原や百輪の椿に夕日さす
鳩原に天保の碑あり落椿
夕日さし牛舎残りて梅匂ふ
春日さし山鳩飛びぬ鳩原に
(懸(かけ)の森山 (536.1m))
春の日や二段の滝のひびきけり
山の奥巌に樹々の芽吹きかな
夕雲に匂うがごとく春の月

春の朝沖に船行き6号線我が自転車に見つつ走りぬ
(小高の城跡)
枝垂桜はや咲きにけり城跡の小高より見ゆ朝の海かな
石段に椿赤々と散りにつつ枝垂桜の城跡に咲く
(鳩原)
鳩原に椿のあまた散りにしを人の帰らぬ農家の暮れぬ
鳩原に小学校あり春の日や生徒もなしに今日も暮れゆく
鳩原に天保の碑あり古りにしを農家に椿散りて暮れゆく

(懸(かけ)の森山 (536.1m))
この山路踏み入る人もまれなりし苔むす石に春日さすかな
この山路踏み入る人もなきにしにシロスミレの花に苔むす石かな
この山路岩根を踏みて分け入りぬゼンマイいでて流れひびきぬ
山雀の枝にとまりて動かざる人去るあとの春の森かな
この山路キクザキイチゲの開かむやひそけかるかな我が見て去りぬ

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天保とあるから古い

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(懸(かけ)の森

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キクザキイチゲが開こうとしている

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これは牧場のある所で見た山雀





今日も天気がいいので小高の方に行った。津浪のあとに太平洋が見えるようになった。
前は家とか樹があってさえぎられみえなかったのである。
やはり海が見えるということは気持かいい、常磐線からも海が見えるところはわずかだった。
小高はやはり人が住んでいないから庭に花が咲いていたが淋しい、人が住まない街というのも不思議である。数人の人がみかけたがそれにしても淋しい街である。
区役所で「ほっと悠」という休憩所がありコーヒーを飲んだ。
まさにあそこだけがほっとするという空間になっている。
人が住まないということは死んだ街になってしまうことである。


街の方から今回は山の方に向かったら鳩原という所にでてきた。
そこに小学校あった。こんなところに小学校がまだあるのかと思った
それも今は誰もいないから廃墟と化した村の小学校のように見えた。
ここにも子供が通っていたのかと何か不思議になった。
廃墟趣味の人がいるがそんな人がこの辺に来ているかもしれない。
廃墟とは違うがにているのだ。


ここも丘の上に墓地があったからあれは新しいのかと思ったら天保の碑があったからこの村も江戸時代からあった。あとから開拓に入ったものもあった。
おそらく懸(かけ)の森で牛舎があって牛を飼っていた人は開拓に入ったのかもしれない
なぜならかえって奥地の不便なところはあとから開拓に入る場合が多いのである。
そこは不便な所であるからだ。そこで牛を飼っていたという女性にあった。
あそこが自分の家だと言っていた。
その女性は鹿島区の仮設に住んでいたのである。
仮設は狭くて嫌蜷だろうとか言ったら今じゃ慣れた、友達もできたからそうでもない
そんなものか、やはり4年も仮設にいればそんな諷にもなのかと思った。
田舎では大きな家で広い庭に住んでいる人が多いから狭い所は嫌だと思っていたのであるしかし人間とは何でも慣れるものだと思った。
あの辺は除染しても牛は飼えないだろう、だから除染していも無駄に思えるのだ。
そもそも帰らないのに住む人がないとしたら除染しても無駄なのである。
だから何のために除染しているのかとなる。

そこから懸(かけ)の森に入った、あそこは始めて登った、流れが奥へ奥へと通じている。今回は上りきることはできなかった。
まだまだ行っていないところがあるから山はわかりにくいのである。
小高はどういうわけかあまり行っていない、浪江の高瀬川には行っていたが小高は見る所がないと思っていた。
小高ではやはり浮舟城と言われたのは海が城の前まで瀬迫っていたのである。
津浪でわかったように小高は意外と海が近かった。駅まで津浪が来ていたのである。
中世には港があり蔵まであった。
だから小高の城は港と隣接してあったのてある。
津浪で小高の城跡から海が見えたからである。
東北では城から海が見えるのはここしかないだろう。
だから海が見えたということで景観が代わり浮舟城というのが何か海と港と関係して名付けられた。
また紅梅山とか言われたのも今回春に訪れてぴったりだった。
梅でないにしろ枝垂桜が咲いていたからである。

いつれにしろ小高は相馬氏の最初の城が作られたところであり相馬藩の歴史としては重要である。
そして小高の城跡であり鳩原の村であれ江戸時代からある。
もし人が住まなくなったらそういう歴史も失われる。
それは何を意味しているのか?
それは江戸時代からつづいた歴史の喪失である。
そういうことを今まで考えたこともないのでどう考えていいのか戸惑うのである。
江戸時代からつづいた街であれ村がこうして消えてしまっていいのかとなる。
そのこともまたこの辺では考えさせられる問題なのである


(懸(かけ)の森山 (536.1m))
http://yamayama.jp/kakenomori/kakenomori.htm
タグ:小高