2015年12月31日

今年も終わり(奇岩のことなど)


今年も終わり(奇岩のことなど)

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雪舟

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冬の日や奇岩の影を濃くしたり

茶室あり枯木の古木影濃くす

世を離れ奇岩の影や冬籠もる

閑亭に石をあしらふ冬の月

三軒ほど一人暮らしや冬灯かな


宇多川の橋をわたりぬ枯芒城跡あわれ暮れにけるかな

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宇多川の橋は大きくないから人間的になり情緒がある




今年も終わりになった。ともかく自分の場合、この十年間は何だったのかと思う
人生にはやはりこんな動乱がある、平和でも必ず病気とか事故とか老いとかがある
天変地異もある、そういうのがこの十年間に一度に起きたのである
他の人も避難生活になり津波では家族も死んでいるからそれはそれで苦しいものとなったただ何でも原発でも津波でもそうだが自分たちだけが苦しんでいると思って
何か同情しないと諫めるようなことになったけど
自分でも他の人でも苦しんでいた人はいたのである。
別にそういう人はどこでもいるが同情もされないのである。
ただ放置されているだけである。
そして介護疲れで殺人になったとかニュースででるが回りの人も同情などしていないのである。
まず原発事故の避難民はかえって楽だったということがあった。
補償金で遊んで暮らせたということである。
ただ津波の被害で家族を失った人たちはそれなりに苦しいとなった


人間は一生の間にそれぞれ何か追及している、芸術でもそうである。
自分の場合は石とか岩をテーマにしてきた。
奇岩というとき世から離れた奇岩なのである。
世を離れるというけどこれもむずかしい
そもそも今の生活から人間は離れられない
電気なしで暮らせるとか車なしで暮らせるとかなる
そういうシステムになっていて人間はその時代の子であり
その時代を否定しては生きていけないようにできている
ただ世にどっぷりと交わるのではなく世を離れた奇岩を貫き通す意志をもつ
それが奇岩の意味なのである。


この辺で組で一二軒とかあっても四軒は一人暮らしとかになると一人暮らしが増えている一人はまだ六〇代の女性である。
一人暮らしはこれからも田舎でも増えてゆく、そういう時代なのである。
自分も本当に一人暮らしとなった。そして介護もしないからまた前のように自由になったその自由も身寄りもない自由だから不安だとなる
でも介護はもう限界だった、十年もすればもう嫌だとなる
だからこれからも前のように自由に旅もできる、ではそうなるのかというとわからない
どうも今は外国人の旅行者が増えて旅しづらくなった。
ホテルも泊まれるのか、高くなったとか何か不安なのである。
まず日本人が日本を余裕をもって旅できないということは日本が貧しくなったということである。日本人優先ではなく外国人優先となってしまったからである。


まだ四七日はすぎてはない、これも結構長いと思った。でも来年は確かに旅に出ることはまちがいない、前のように長い旅もできる、それも何か自分には不思議に思うのである。


タグ:奇岩

2015年12月29日

呉歴 「秋景山水図巻」の鑑賞ー自作の詩を添える


呉歴 「秋景山水図巻」の鑑賞ー自作の詩を添える



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呉歴 「秋景山水図巻」 (部分) 清・康熙32年(1693) 重要美術品


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これは秋ではない、あくまでも絵は参考であり自分の作ったのは
また別であり、冬をテーマにしている




冬日奇岩

深山幽谷
奇岩一徹
冬日陰濃
隠棲茅屋


絶えず清涼の水の尽きず
不動の岩間を流れ響きて
奇岩反りて茅屋一軒在り
誰か今日尋ねや隠さる径
今日亦岩に対し冬日暮る


この絵をインターネットで発見した。岩を追及している自分だからこの絵は鑑賞できた。芸術は写生でもこれは構図として作られたものである。
自然の写生ではなく石の配置でも構図的に作られている。重厚な岩がありそそり立つ岩があり岩を見事に現している
並ぶ岩は相黙す岩でありその間に人がいる。そういう風景が自分の好みだったのである
岩とか石を見るときそれは深く沈黙する石や岩として見なければならない

中国となると政治的なことが話題になるが何か文化的なことは表面にでてこない
漢詩はやはり中国と日本の歴史的な文化交流の精華として残された
そして明治維新後中国は政治の面のみが取り上げられ文化的なことはないがしろにされてきた。
中国には山水画とか漢詩とか奥深い文化があるが何かそういう文化的交流はなく政治的な対立ばかりが取り上げられた不幸がある
そういうことは江戸時代まではなかったのである。
日本と中国は確かに古代に韓国で争ってもその後は争っていないのである。

ただ明治に一番漢詩が興隆したのは江戸時代までそういう蓄積があったためである。
欧米化した結果、日本は漢詩とか中国文化は遅れたものとみなして断絶してしまったのである。
日本人が漢字を使っているかぎりやはり中国文化の下にある、韓国はハングル語にしたときそういう文化を失ったのである。
漢字には漢字の奥深さがあり漢字一字でもそうであり中国と日本では違って解釈されているのである。


中国とは政治経済科学技術分野では交流したが文化面では何か見逃され、それは現代が科学技術の世界、グローバル化経済の世界だからそうなった。
政治経済だと争うが文化面だったら争うことはなかった。
東洋というときアジアというときイスラエルまでアジアであった。
そのアジアが欧米化に席巻されたのが二〇世紀だったのである。
今度はアジアが興隆する、その先達が日本文明がになったのである。
アジアとは何か今はわからないがアジアの新しい文明が起こる時が来た
欧米文明は行き詰まっている、それがアジア的文明に変わる過渡期が現在である。
欧米文明は暴力的であり強欲であり征服的であった。
これほど世界大戦の犠牲者が出たというのもやはり欧米文明、アーリア人とかの暴力的な侵略文明が世界を席巻して日本もアジアも巻き込まれたためだった。
アジア文明だったらこんなに戦争にならずにすんだかもしれない、だから欧米文明は今見直される時期に入っているし崩壊する危機にさらされているともなる



抽象画(炎と水ーflame and water)


抽象画(炎と水ーflame and water) 

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抽象画は最近葬式とかでしていなかった。これは暇つぶしにいいんだ、多少は創作的なものがある、創作的に楽しめるというのがいい、ただテレビとか見てていても創作になりにくい
つまりテレビでも本でも何かしら自分なりに解釈して創作するとき有効な時間を過ごせる
介護も終わって何か暇にはなった、前は暇で暇でしょうがなく時間を無駄にしていた。
人間は本当は無駄にする時間はなかった。
それが今度は介護で十年間追われて自由な時間を奪われ時間の貴重さを知った。
もう自分の時間は限られている、自分も死が近づいている
だから無駄な時間を過ごしたくない


ただこの十年の介護の重圧から解放された、これから自分はどうするのか?
これまた一つの問題だけどそれより自分には残された時間がそんなにないことは確かである。
また自由な旅もできたとしてもそうである。
ともかく重荷から解放されたことは確かである。

つまりdischrgeされたのである。

タグ:炎と水
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冬の雲(大正生まれは希少価値がある)


冬の雲(大正生まれは希少価値がある)

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母の好物は干し柿だった

それで伊達のあんぽん柿を供えた

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このご飯入れが霊前にあっていた


家古りて動かぬものや冬の雲

田舎には老人多し冬の雲

この土地に根づき開かむ冬芽かな

姉と母残せし家に冬ごもり

金屏風座敷にたてて松に菊


一年を仮設の食堂すぎにけり我が通いつつ年のくれかな

百歳の母は逝きにき淋しきや大正生れも世に消えるかな

大輪の真白し菊に塵つかず我は遺影を家にまつりぬ


年号というのは後で大事になる、江戸時代の年号が残されているけどその期間が十年とか短い、その年号の時に何があったのか、年号からイメージする、元禄は栄えていたときだとか文明は飢饉のときだとかイメージする、これは日本独特の歴である。
これが西暦だとそういうイメージは湧いてこない、日本は年号によってその時代をみる
今回の津波でしきりに慶長津波のことが話題になった。
結果的に慶長という時代が脳に刻印された。そして津波の前と津波の後で時代を違ったようにみた。それは明治時代と同じである。
明治時代と江戸時代は全く違ったものとしてみている。
慶長時代もそういうふうに見るようになった。それだけ年号というのは意外と日本では歴史をみるとき大事なのである。


それで大正生れもやがて消えてゆくから貴重だなと思った。母は大正四年生まれであり大正一五年間あるとしても短い、でも何か大正生れは希少価値がある
大正生まれでも百歳をみんな生きるわけではないからやがては消えてゆく
そして「降る雪や明治は遠くなりにけり」大正は遠くなりにけり、、、とかなる
九〇才以上は大正生れだから長生きだからまだ当分は大正生れは生きているがそれでも消える日は近づいているのである。

四七日はまだ家にいるというのも何かいわれがあるしそんな感覚になる
なぜなら人間は特に女性は家とともにあったから離れがたいともなる
この辺では雪はほとんどふらない、冬は北風が唸る、残されたのは自分一人である

霊前には何かこの白い大輪の菊があっていた。

金屏風に松と菊

ここに松と菊の金屏風がでている、他にも金屏風と菊のキーワードで画像検索でいろいろでている。
松は主であり座敷に置けば何か日本的な正月の風景である。ただ四七日であり今年は正月はない、参考として出した

ご飯を入れる碗が何か仏前にあっていた。米を備えたがこのお碗が霊前に備えるのにあっていた。正月とかは日本的な文化でありそれにふさわしいものがある
いろいろとまた現代風にもなる

末永く松こそあれや金屏風菊の映えつつ座敷にありぬ

こういうのが日本的なものなのだろう。今の家は座敷とかはない、個別の欧米風の家になった。座敷かあるということはやはりそこでその家の主に重きを置くということがあった主は殿様のような感覚があったのかもしれない、大名屋敷でもそういう造りである。
欧米化したとき兄弟でも何でも平等であり個別の部屋をもつようになったから座敷はなくなる、そこで主の重みもなくなるし家を継ぐ長男の重みもなくなったのである。
やはり家の造りにもそうした文化の反映があったのである。



タグ:大正生れ

2015年12月28日

労働の価値は常に変わっている (女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


労働の価値は常に変わっている

(女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


この世の価値は何でも一定していない、常に変動している、変数である。労働の価値も変化している。
そして機械の時代になると人間の労働の価値が急激に低下するのは本当である。
昔は江戸時代には力ある男が一人前の男として認められた。
それでどこでも比べ石というのがある。この石を持ち上げたら男として一人前として認められたのである。
要するに機械がない時代は体力がもの言う社会だった。男で体力がない人間は生きていけないのが一般的だった。体力のない人間は商人とかになり人を相手に商売するとか帳簿をつけるとか何か頭を使う仕事をするとかで身をたてる
でも一般的に江戸時代から戦前までどちらかというと体力がやはり仕事する目安になる。農業中心だったら第一次産業中心だったらそうなりやすい。
その時、農機具が発達していないからである。例えば鍛冶屋でも刀を作るにしても熱い鉄を打つ仕事は重労働である。
ただ職人でも細かい手作業の仕事はまた器用さであり違っている。


そして現代になると細かい仕事が多くなったから器用な人が価値がでてくる。
医者でも手術がうまい人は器用な人であり歯医者などでもそうである。
あらゆる場所で力目持ちより器用さの方が価値があり重宝されるのである。
ただ体力は以前として今でも価値がある。それで自分が失敗したのは自分は体力がないから体力を使わない仕事に従事するべきだった。
自分のことがわからないから勉強もしなかった。体力のない人は知的な仕事につくとなると勉強が必要になるのである。
ただ自分は学校になじめず勉強嫌いだったがあとで学問好きなことがわかった。
人間は自分の適性すらわかっていない、医者の子供は医者になるけどみんな適性が阿わけではない、そこに危険性がある。
だから親の都合で職を決定されるのはその医者にみてもらう患者に害を及ぼすから問題なのである。
それはあらゆるものに言える、適性あって仕事についている人は珍しい方かもしれないからだ。その害は本人だけにとどまればいいが他の人に害を及ぼすから問題なのである。

「労働の価値」が下げられている絶望時代
盛んにこのサイトではでは機械によって人間の価値が下がり仕事がなくなる、もう人間は働いても金にはならない、フリーターだ派遣だとか増えて働いても金にならない、大企業に勤めていても安泰な時代が終わったというとき確かに東芝やシャープでも斜陽になり大量にリストラされるから現実化している
おそらく大量の規格製品が売れる時代が終わった。日本は世界にテレビでも電気製品でも大量の規格製品を売り出して豊になった。でもそういう規格品は中国でも韓国でもどこでも作れるようになるとき価値が低下する。
そこに新しい価値を作り出そうと努力しているがなにか鮮明な画像を作り出すとか大型にするとか技術革新をしているが新しいイノベーションが最近生れてきていないのだろう。これはという商品が生れていない、何かそういう点で技術革新は限界に来ているのかもしれない、それより何かテレビの番組が面白くない、コンテンツが面白くない
芸能人の馬鹿騒ぎを写しているのももったいないとなる、最初テレビは何でもいい写るだけで視聴率が高かった、写るということが驚異的であり何か写っていれば驚き見ていた時代である。今は写るだけでは何の面白みもなくなった。
テレビという箱の開発してもそこに流す番組が面白くなくなったら見ないとなる
価値はテレビというハードに機械にあるのではなくそこに写る番組ソフトに移行したとなる


つまり時代によって価値が常に変化している。現代はインターネットで個人が放送局になったというのもそうである。個人がテレビ局になるということはイメージすらできなかったろう、そういうふうに機械が価値を変えてしまうことがある
家事などでも機械化されて家事の価値は変貌した。家事は今やご飯をたくのも機械だし洗濯でも何でもそうである。
洗濯板でごしごし洗っている時代は一大労働だった。そこに人間の労働力は費やされてきたのである。それで戦前だと女中が主な仕事であり中産階級でも女中を雇っていた。
家事そのものもが機械化されない時代は一大労働だったからである。
今でもそれなり料理などは結構な労働なのである。惣菜でもなんでも買っていたり家でする労働は相当にへった、その代わり金を得るために外で主婦は働くようになったのである家事の労働の価値は下がった他でも機械化して価値が下がるものが多いから人間が不用になり人間が働く場所がなくなり会社でも極力人間を雇うのは金がかかるから機械化する
事務ですらパソコンで機械化されるから職を失うとか人間の働く場がなくなってゆく


例えば田植えでも機械でできてい縁(へり)を人間が田植えしているという、そこは機械でしにくいからである。
そのことは中国でコンバインで麦刈りをすると人力の千倍もの力を発揮する、これまでは出稼ぎ者が人力でしていた。そこでもコンバインでてきない土地の起伏のある場所は人間がしていた。
いくら機械化しても何か機械にはできないものが残る、そこに仕事がある
そして人間の価値は変わる、機械化によっても変わる、記事でもインターネットでコンピューターで書けるとかなり新聞とか雑誌やただニュースの事実をだけを流すものは機械化される、そうなると今の新聞などはいらいなとなる
そして何かインターネットの読み方と新聞の読み方は違う。雑誌でも網羅的に書いていて一つのキーワードから記事の内容を深める読み方はできない
あるキーワードとかテーマごとに調べるとなるインターネットの方が優れているのであるそれでもすべてはインターネットでもできないしコンピューターでもできない
例えは受け付けなんかロボットでもたいして代わりないように見える
同じようなことを案内しているだけだからである
機械と人間を比べて変わりないものは機械化される、そういう仕事が結構まだある。
スーバーのレジなんかそうだろう、てもお釣りが自動にでてくることで一部が機械化されると人力が省かれるので仕事がなくなる
人手不足の時代になるといかに機械化できるかが問題になる


自分も経験したことだが今は別に家事を手伝ってもらう必要ないのである。
自分はほとんど家事はしている、ただ手伝ってもらうというときその女性は何か話がうまい、土地のことを良く知っている、同じくらいの年で経験も豊であり話が合うのである。その人はほとんど家事はしない、でも金を払っている、その人の女性として魅力は外見ではほとんどない、不細工なのである。
でもその人の価値は自分にとって相当に大きい、何かと家事ではなくても必要なものになっている
だから今は家事ができるということに価値はほとんどなくなっているかもしれない
女性でもそうである。その女性は別に中卒であり教養というものもない、でも何かいろひいろ苦労したりして話して面白いというか他にはない女性の特徴がある
その女性はそういう点で価値あると自分が認めて金を払っているとなる
なかなかこういうことをできる女性は少ないと思う


掃除なら今なら誰でもできるだろう、ロボット掃除機もでている、でも話術に巧みだとか何か機械にはできないなごみと癒しがあるとかになると人間しかできない
介護の仕事は新しいから評価されないけどロボットにはできない、優しさとか老人と話できるとかそういう要素がこれから大きくなってくる。持ち上げるとか何か力のいることは機械化される、すると何が価値あることになるのかとなり精神的なものが大事になる
そういう価値は家事が機械化したとき高いものとなるかもしれない
なぜなら家事自体が機械化されていて家政婦などがきても家事をすることもないとしたら何をするかとなるからだ。もし子供がいたとしたら子供をあやすのがうまいとか別な価値によって雇う方も雇うようになる
もし教養があるとしたら短歌でも俳句でも作れるなら学者とか何かそういう場所で重宝される、するとこれから大事なのは女性は教養を身につけることの方だ大事だとなる
いろいろな知識をもち学者やいろいろな職の人と話ができるには女性も教養が必要になる自分の母親は全然そういう余裕がなくただ家事だけをする女性だった
それは時代でしかたなかったのである。でもこれからの女性の価値は別なものであり家事にはないのである。
男も比べ石で一人前として認められた時代があり女性も家事ができることが価値だった。それが機械化すると人間の価値は変わる、そういう肉体労働は機械化がすすみ必要なくなってくる、そこで価値ある人間とは別なものになってゆくのである。
もしかしたら株が毎日変わるように人間の価値も変わっている、それに気づかないこともある。その人は時代に取り残された人となってしまい底辺化ししてしまう

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こんな募集になるかもしれない、家事が必要がないというときこれは何なのだとなるだろう
これからそういうことがありうる、家事は機械化してする必要がない
でも女性にしかできないもの女性しかもっていないものが活きる仕事はある
それはロボットで代行できないからである。





タグ:労働の価値
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2015年12月27日

弱者が特権化して強者になる (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


 弱者が特権化して強者になる

 (原発避難民もそうであり危機意識に欠けるのが人間)


知り合いの小高の女性が鹿島区の人がどう思っているか全然知らなかったというのは意外だった。
おかしいのは鹿島区の議員を応援してくれと来た、すると鹿島区の議員と親しくして支援してもらっていたのかとなる
そうすれば鹿島区の人は議員が支援してくれるくらいだから鹿島区の人も応援しているのかと思ったのかもしれない
ともかく原発避難民は最初からかわいつそうだかわいそうだと言われボランティアが来て応援していた。だから自分たちは被害者だから親切にされる応援されるのが当然だという特権意識をもつようになったのかもしれない
それで自分が鹿島区の人は小高の人を良く思っていないと言ったら自分たちは住む場所もなく被害者だということを主張した。
そういう反応は自分にも意外だった。もう少し何か控えめに言うのかと思った。
そう言っただけで相当に気にさわった。
つまり自分達は被害者がということそれは五年すぎても変わりないのである。


ところが南相馬市だけではない、相馬市でも避難民に反発している人が多いし他でもそうである。そのことで気を使っている人もいる。
津波の被害者が相馬市でもいてその人たちには援助がない、するとそういう人も仮設に住んでいるから何かその待遇で不満をもつ人がいるのだ。
それで相馬市では飯館村の人をトマト栽培するのに農家の人は雇わないというとき飯館村の人も補償金をもらっているからそうなった。
別に鹿島区だけのも問題ではないのである。
だから成せそんなことも回りの状況も知らないで五年間過ごしていたのか不思議だとなる何かそういうことが耳に入ってくるはずだからである。知っている大工さんは自分は働いていると言って本当に働いていたからそういう回りの状況を知っていたからそうして働いていたのである


ともかく被害者意識が高じて特権化しているのが現代の特徴だと言われる、それは沖縄がそうであり戦争で被害にあい米軍基地で犠牲になったと延々と被害者意識でこりかたまっている、それは中国でも韓国でもそうである。日本では在日がそうでありその特権化を利用して待遇を良くしろと金を要求する
そのことで批判するとものすごい反発がありそれで差別語などを使うことができなくなった。
それとまた原発避難民もにているのである。自分は当たり前のことを言ったつもりだがこの人はなぜ苦しんでいる自分たちに対してそんなことを言えるのかという態度になった
おれたちはかわいそうな原発事故の被害者なんだということになる
でも原発事故の被害者は福島県全般にわたっているけど手厚い補償金もらった人は少ないのである。三〇キロ圏内でほぼ終わっているのである。


困っている苦しんでいるというとき何か原発避難者だけが津波の被害者だけが特別苦しんでいる、だから同情されるべきだとなった。それは当初はそうだったろう。
でもその時でもやはり苦しんでいた人が回りにいたが同情などされないのである。
自分も介護で十年苦しんできたけど自分が病気になったとき全く同情はされないし責められるだけだったのである。
それでその人も一見助けに来たようだが何もしない、家に二三分来て帰るだけだった
借金していたからパチンコ屋で掃除などで働きただ疲れたと言って帰っていった。
そのパチンコ屋におしかけたのが原発避難民だったのである。
今でもそうでありイオンの近くに新しいパチンコ屋ができたのはまだそれだけ金があり暇な人が増えたからできたのだろう。
なんかその時その親戚の人にも腹正しかったし避難民にも腹がたった
こっちが苦しいのにパチンコ屋で遊びそこで働いている親戚の人にも腹がたった
しかし何も言うことはできなかった。弱者化するとそうなるからである。
弱者となっても全く応援されないものは応援されない、個々別々では応援されない
介護で苦しんで一家心中した人がいても回りではもう限界だったのよねとか冷静にみているだけなのである。
他から来たボランティアもみんなパチンコだギャンブルだとか遊んでいるのに怒って喧嘩になったというのもわかる
何のためにボランティアして働いているのかわからないとなるからだ。

結局小高などの避難民は何も苦労しないしのんびりしたものだったかもしれない
確かに部屋は瀬意にしても働くこともなく遊んでいてもそれが避難民ということで強制はできない
そして絶えずかわいそうな人たちだと見られて支援されてきたのである。
そしてそれが特権化して自分たちは支援されるのが当然の権利だとまでなってしまった
それがまさに現代的である、戦争でも日本ばかり責めるけどでは中国とか韓国に問題がなかったかと言えばそうでもない、中国は欧米によって支配されていたのでありそれは中国の責任であり韓国でもそうである。
そういうことはバランス良くみるべきなのだけど一方的に主張されるのである。


そうしして遊んだ分のつけが今度は補償金も打ち切られて起きてくる。
働く場所がないかとか何かそういうことを言ってきたのはそのためだろう。
でも今までの態度をみているから何か勝手な人たちだとして拒否反応がでてくる
自分たちで何か復興しようという気持はなく誰かがしてくれる、支援してくれるということが身についてしまった
働くのも農地は三年放置するともう回復がむずかしいとか働くのもむずかしいし老人が多いことでももう補償金がもっと長くもらえればいいとなった
だからそのあとは生活保護だという人も多いのである。
でもこれからは避難解除になると相当厳しいことになるのではないか?
帰ってみてもこんな所にもう住みたくないと思う人もでてくるかもしれない
それでも住むほかないとなったり金がなくなり働くこと場がないとか現実問題となる
何かそこで厳しい現実に直面する、その時もう支援はないからである。
補償金はないから今までのように遊んでいられるのかとなる


ともかく人間は安きに流れる、そして危機意識がもていないのである。それは個々人でもそうである。、自分もそうだった、こんなひどいことになるとは思わなかった。
でもそれはある程度予測できたのである。その備えができていなかった。
津波であれ原発事故であれ何が問題かというと危機意識の欠如だったのである。
原発だって安全神話で危機意識が喪失していた。実際は安全を計るなら原発自体の入念な点検をすることだった。今でもいろいろな不備が明らかにされている。
事故は津波だけで起きたものではなかったのである。
原発避難民だってやはり将来に対して危機意識をもてば遊んでばかりいられないとなるはずだった。おれ達は被害者だからなんとかしてくれるという他力本願になっていたのである。
自分でも三〇年間平和で楽だったから危機意識が欠如した。
何の備えもないから悲惨な結果になったのである。
それで今の結婚しないニートとかフリーターとか親に依存している人は悲惨な結果になることは見えている、親に頼れなくなり年金もない、もう年取って働くこともできない、
まず収入のことなら意外とはっきり将来が見える
その他不測の事態が必ず人間には起きてくる。事故や災害や病気や老いもそうである。
突然体が弱るのも苦しいことになる、その時助ける人がいるのかとなると今からすると恐怖になった。
自分も経験から危機意識をもつようになったのである。
人間は実際にひどいめに会わないと危機意識がもちにくいのである。

タグ:弱者

寒椿(北風にきしむ古い家)


寒椿(北風にきしむ古い家)

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百輪の寒椿散る赤さかな

古き家北風にまたきしむかな

母死して我も老いゆく時雨かな

病院に死者また一人師走かな

年の瀬や死者また一人はやすぎぬ

大輪の白菊十輪霊前に


急に冷え込んだ、自分の家は築五年ほどだけど古民家というものではない、ただ古い造りだから座敷とか広いし家も大きいのである。
それを女二人で建てたから自慢だったことは確かである。それせ借金もしないで建てた。家を建てることは一大事業なのである。その時はまた運がよかった
大工の手間賃とか安いし木材も地元のものでできた。そのあと大工の手間賃がおそらく五倍くらいになったかもしれない、そのことで相当に得した。


この家は古い家だから隙間が多いからすきま風か入り困る、家が密閉されていないから風遠しがいいから寒いのである。
今また北風が吹きつけて家がきしむ、家を人間に見ればこの家もまた歳月を経てきしむ
風に耐え雨に耐え地震に耐えたとなる
家がきしむというときその内部もきしんだ。一人が認知症になったときから二人介護になり自分は苦しんだ。
そしてまた北風に今きしんでいる、家の歴史もまた人間の歴史である。


俳句が写生だというとき短い簡潔な表現しかできないからである。
だから写生俳句は鑑賞する方が優れていないと鑑賞できない芸術である。
寒椿の赤さがこの寒さと北風が吹いて映えている
ただ写真では散った椿の赤さが見たように表現されていなかった。
見た目と写真は違うことがありその時は何か失敗しているのだ。
一方で見た目より写真の方がいいとなる場合もある
それは細部を記録して写すのが写真の方が得意だからである。


ともかく母は死んだ、自分も老いてゆく、昨日は時雨れだった、まさに時雨が老いなのである。やっぱり霊前には白菊があっている
四七日で骨納めだけど結構長い、今年はこのまま年を越す
納棺→火葬→四七日→骨納め、、、一応これで終わる
こういう過程を経るというのも死者との別れとして必要だった。すぐに骨納めだと何か簡単にかたづけるという感覚になるからだ。今はそういうのが多い、死者を惜しむということもめんどうになった時代である
実際に自分は家から死者を送り出したの始めてだった。
葬式など家で経験することはまれである。


ともかく人一人死ぬということは大変なことである。
でも他の人が死ぬときはそんなことはない、また一人死んだのかで終わっている
それが家族となると介護でも葬式でも何でも負担が大きいのである。

タグ:寒椿

2015年12月25日

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦後の地方の歴史をふりかえる

(戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)


戦争が終わったとき引揚者が大勢帰ってきた。その人たちの就職の場がなかった。働く場所がなかった。日本は明治から人口増加がつづいた。
信じられないのは母が生れた大正時代は日本には六千万人しかいない、今の人口の半分である。だから東京でも二百万とか規模が小さいのである。
どこの市町村でも人口が半分の状態をイメージするといかに今と違うかわかる
そして今度は日本は人口減少時代にはいり市町村が消滅してゆくと言われる
空家が800万軒とか人口がへる衝撃が大きい
そもそも大正時代が電気がないランプだったということもイメージできない
でも電気がないいうとき葛尾村では電気が来たのは戦後二十年以上なのである
電気がないというときネパールの山村には電気がない
それを見たら当時と同じだと思った。


一方で戦争の引揚者が開墾に入る時代が戦後にあった。
自分の父親が双葉の新山の酒屋に働いていた。
そこで一緒に働いていた人が小池に開墾に入った
それも奥ではなく真ん中辺りでありあんなところに開墾できる土地があったことが不思議である。それは全国で戦後引揚者が開墾に入った。
それは小池などでもそうだとするといたるところに開墾のために入った。
つまりまだ日本は地方は農業中心の社会だったからである。
赤生木でもそうだし飯館村でもそうだしいたるところそうである。
ただ赤生木でも飯館村でも前々から住んでいた人はいた。
だから市町村の歴史でもそこに江戸時代から住んでいる人と戦後などに開墾に入った人がいたことを区別す必要がある
そういう引揚者などはもともとあった村に開墾に入るとき不便な辺鄙な場所に入った。そういう所は原野のようなまた開墾されていない場所だったからである。
飯館村だと大倉から坂を越えた場所でありいかにも人の住めないような場所である。
そこは原発事故前に二軒くらい空家になっていたのである。
端の名前は共栄橋となっているのでこういう名は新しく開墾者が入って名付けられた
それは津島でもそうであり赤生木でもそうである。
そして津島では開墾者は結束が強いというときやはりともに苦労して開墾したからである

一方でそうして新しくそん辺鄙な山村に入植するものがいたがもともと山の暮らしは貧しいから街に下りてくる人がいた。
自分の父親は双葉の新山の酒屋に葛尾村2ら丁稚奉公したのである
山には仕事がないから食い扶持がないから街に下りてきて丁稚奉になる人もいた
戦後は異常事態であり働く場所がなくてやむなく辺鄙な場所に開墾に入った
赤生木村では北海道から乳牛を買って酪農で暮らそうとした。
飯館村は飯館牛として生計を立てた
その頃は炭焼きもあったからそれも大きな産業となり山村を支えた
その後石炭となり石油となり木材も海外から仕入れるなとグローバル化して変わった


次ぎに山村で起きたことは出稼ぎ者の時代である。山村だけでは暮らせないので現金収入を求めて東京などに出稼ぎに出たのである。
それは全国的なことであり山村だけではない、双葉や大熊辺りは原町市とかとは違い山村の環境とにていた、大熊では塩田で塩をとり東京に売っていたとか開発が遅れた。
その前には金の卵の集団就職があった、それは東京の人手不足を補った。
大熊とか双葉辺りは出稼ぎ者が出さないため地元で暮らせるようにと原発を積極的に誘致したのである。つまりその時、農業中心ではなく工業中心に移行する時代だった。
工場はまだ東京中心であり徐々に田舎に工場や会社が移転されたのである。
出稼ぎ者を出さないということで原発は効果があった
赤生木の人も原発で働いたとか浪江辺りになると三分の一は原発で働いて潤った
小高でもそうである。それで浜通りは会津などと比べると裕福だったとなる


もともと原発がなくても戦後の高度成長時代は先に街の方が恩恵にあづかった。
商店街が小さな資本の商店がみんな栄えたから通りは活気があった。
そして裏通りでも店が多く活気があった
自分の家も駄菓子屋のようなもの子供相手の店をはじめて一時期はやったのである。
子供が多いからそんな店でもやれたとなる、語り草になっているのは姉がこの店を始めるのに五万くらいの金を借りるのに苦労したことである。
今なら五〇万以上とかなると思う、それでもその頃は小さな店は簡単にはじめられたのである。小さな工場でも東京に密集して繁盛したから人手不足になったのである。
インド辺りの店にバラックのようにな店があった、新聞紙が袋になっていた。
それは自分の店と同じだった。新聞紙はその頃便所紙ともなり貴重だったのである。
便所のくみ取りも近くの農家が肥料とするためにとりにきていた。
それは江戸時代のつづきである。炭が燃料だったのもそうである。
双葉とか大熊辺りは浜通りでも今でも元の原町市とか平駅などから離れている辺鄙な地帯だった。そういう場所だから原発が誘致されたともなる
でももう少しあとになれば工場も誘致できたろう。
原発にはあまりにも警戒感がなかった、でも就職先としては最高の所だった。
給料が高いからである。身近に原発で働いた人はいくらでもいる、小高辺りまでは三分の一くらいがなんらかかかわっていたかもしれない。


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。


結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
地方創生とういうが東京中心に日本があった。
そもそも地方創生を考えるとき一体地方創生とは何なのかとなる
原発とかで栄えるのは地方創生ではなかった
地方で創生したもので栄えれば地方創生になっていたのである。
だから自給自足でも変だけど地方創生なのである。
それは東京とかに頼らない自立した経済になっていたからである。
江戸時代まではどこでも地方自立であった、地方創生だったのである。
これから目指す地方創生はどうなるのかということである。
集団就職があり出稼ぎがあり地方から東京へ労働力は供給された
原発事故で今度はこの辺はいち早く地方消滅になってしまった。
なぜそうなったかというと東京によってそうさせられたともなる
江戸時代のように地方自立だったらこうはならなかった


でも電気がない、車もないような生活は成り立たない
地方創生というけど地方から何が作り出されるのかとなる
文化的なものは地方から逆に作り出される
それを自分はしてきた、でも経済とかなるとまた別なのである。
第一次産業が壊滅したときそこに地方創生がありうるのかとなる
文化の基盤の土地が使えないというとき文化もありえないのである。
そして限界集落化して地方が消滅してゆく
歴史は繰り返すのか地方には仕事がないから若者がまた東京に出てゆく
それは出稼ぎ者ではないから地方に帰ってこないとなる
いづにしろ原発はこの辺では呪いのようになってその呪縛から解放されない
放射能汚染は簡単には消えないからである。
津波の被害地域でも原発事故地帯でも人口流出が最大の問題である。
未来をになう若者が流出しているからである。
ともかく未来を目指すにしても過去をふりかえらないとできない
もし過去を歴史をふりかえらないとまた同じ過ちを犯すようになるからである。








タグ:引揚者
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冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。
タグ:写生俳句

2015年12月24日

10年間の自分の介護をふりかえる (介護は家々によって事情が違う)


10年間の自分の介護をふりかえる

(介護は家々によって事情が違うから複雑)



介護が楽だった原因

●自力で起きて食べていた

●オムツせずに自力でトイレに行っていた(死ぬ直前まで)

●認知症でも騒ぐことがなかった

介護が苦しかった原因

●自分一人しか介護する人がいなかった

●他者の助けがほとんどなかった

●一時自分が病気になった



介護というのはその家々によって親子関係でも夫婦関係でも違っている、一様ではないのだ。人間の不幸はみんな違っているというときここにも現れている。幸福な家庭はみな同じだが不幸な家庭はみんな違っているのである。
だから介護の事件でも一様に数式や統計のように見ることはできない
人間はそもそも数式化したり統計化したりできない存在なのである。
個々の事情があり家族の事情がありともかく人間ほど複雑なものないのである。
ただ共通していることはある。自分の経験でも二人を介護で見るとき限界がくる
その時普通に親戚の助けがなかった近くの嫁が殺人になった。
それは夫が病気になり義理の母と二人を一人で介護しなければならなくなったからである自分も一時そうなることを恐れていたが一人は早く死んだのでならなかった。


そのことを考えるとつくづくぎりぎりで助かったなとふりかえる、その原因を母が死んでから理解した。それは母が92-3才でもまだ頭がしっかりしていて買い物もできたし一人で生活できたことにあった。
事情があって家が二つになってしまったが母が自力でまだ生活できていたことだった。
なかなか92才とかなるとできない、そしてもう一人が早く死んだことで救われた。
なぜなら母は姉が死んだあとすぐやはり認知症になりわからなくなったからである。
つまり早く姉が死んで母がその時自力で生活できたから二人でも自分はなんとかやれた。だから今になると母のことには不満でも母によって助けられたなとつくづく思う。
それが母には介護でも五年間くらい尽くした。
その介護にしても他の人と比べると楽だったのである。
ただ自分は男であ家事もできないし生来なにかずぼらであり社会性もないから苦しんだ。

母の介護が楽な方だったというときまず母は自分で起きて食べていた。それからトイレにも行っていたし家での最後でも水だけしか8日間くらいしか飲まなかったときでもポータブルトイレでしていた。だからオムツをしないということも介護される人にとっても介護する人にとっても楽なことなのである。
オムツになると本人も楽ではない精神的にかなり落ち込むのである。
そういう経験が病気になり自分もなったからわかっている
それで最後の一カ月くらい管で小便をとるときそのことが理解できず毎日のように病院で騒いでいたのである。そのことからもいかに管で小便をとることが嫌なものかわかる
認知症になっているから理解できないから余計にそうなった。


介護というのは自分でベッドでも起きて食べている、トイレを自力でしている、この二つができれば楽な方になる、脳出血の人が多いがこの介護がひどいのは三食食べさせることが手間になるのである。
それで病院では人手が足りないので家族にしてくださいとしている人がいる。
そのことを自分は恐れていた。三食食べさせることはかなりの手間であり他のことはできなくなると思っていたからである。
それがなくてすんだのでふりかえれば母の介護は他の人と比べて楽だったなふりかえる
それは母ががんばってくれたからだとも思うようになった。


そして今になると姉も早く死んだのでそのことでも助かった。
自分は特別二人には良くしてもらったので介護もしたので孝行できたなと終わってみれば満足している。なぜなら何もしてやらなっかたら自分はかなり後悔していたろう
これだけ良くしてもらって何もしなかったら自分自身に対して責めるようになった。
それなく自分も良くしてもらったけど恩返しできたなと満足して墓参りして供養もできるそして思い出も残り後味悪いものとはならなかった。
介護でも殺人とかなったら一生悔やまれるだろう、そこに介護のむずかしさがある。
ただ個々でも家庭でも親子関係でも夫婦関係でもみんな違っているから一様に考えられないのが介護問題なのである。


介護では自分の場合はほとんど他者の助けはなかった。それよりその弱みにつけ込まれて責められたのである。
介護は自分だけではない、なにか一人にまかせられるのが多いのである。
その助けがないことは事件がこれからも多発する原因なのである。
だから在宅介護しろといってもそういう余裕がない家族になったとき施設の方がいいというのもわかる。
家で介護するということは人手と金が必要になる。どちらも欠けてはできない、金だけでもできない、介護は二人だと楽になる、代わって交代でできるからである。
そして家で介護するにしても手伝ってもらうにもよほど親密な関係の人でないとできない10年とかその家で働いているとかなにかそういう人でないと家で働くことはむずかしい
特に今の時代はそういう関係を作ることはむずかしい


それで金がないから新聞配達して稼いで三食食べさせているとかなると辛いだろうなとつくづくみる。
もうすべてが介護に労力が費やされる、他はなにもできない、息抜きすらできないとなる介護の間は実際にのんびり遠くへの外出もできなかった。
常に一人しかいないから心配になるからである。二人いればこういうことはなかった。
そういう家庭が増えるときますます介護の事件は増えてくる
介護は楽に見えても負担が大きいのである。
そして介護を経験した人は介護をやりたくない、介護から離れたい気分になる
その時期が長いからそうなる、自分は介護をした、今度は他の人が苦しむ番だとも思ってしまう。もし助けられたならそういうことはない、たいがい親戚すら助けないからである十年とか二十年とか介護したらもう介護にかかわりたくなくなるのは自然な感情なのである。
ただ介護した人は介護する人の苦しさはわかる、経験ない人は何でも他人の苦しみはわからないのである。

タグ:介護の事件
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2015年12月23日

生者と死者の関係の不思議 (死者には生者が望むことが多い)


生者と死者の関係の不思議

(死者には生者が望むことが多い)

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死者とは何なのだろうというときこれも不可解なのである。死者が生者に望むことより死者になったとき生者が望むことが多い
自分の家ばかり話題にして恐縮だが何か自分の家は複雑だから外からはわかりにくい
でも二人とも姉と母が生きていたときは争ったりしていた。
それは複雑でなくてもどこでも争う家族がある、するとその子供が争わないでほしいと切に願っている。
でも離婚する人が3ん分の一いて子供はその間にたって苦しむ
自分の場合は本当に長い間つづいた、すでに自分が老人という年までつづいた。
だからなぜこんなにしつこく60年も争っているのかとなった
その争いは変わらずに一方が認知症になり最悪の結果となって終わった
それでなぜ生きているとき仲良くしなかったのかということが悔やまれる
死んでしまったらもう争わないけどなぜ生きているとき仲良くしなかったのかと自分は不満なのである。
死んでしまったけど死者に対して生きているものが不満であり望むことがある


普通一般的に生きている人の方が死者に望むことが多い、なぜもっと生きているときもっとこうであったらよかったのにと思う人が多い。
それは死んだ人でも不慮の死とかなればそうである。それは本人自身が俺はここで死にたくなかった、もっと生きていろいろなことをしたかったとかなる
そういう思いは生者にも伝わるしわかりやすい、死んでしまえば死んだ人は生きている人に何を望むかより死んだ人はもっとこうあるべきだったと思う人か多い
死者が生者にお前はこうあるべきだとか望むだろうか?
例えば戦死者は一体生きている人に何を望んでいるのか?
靖国に祀られるから満足だと思っているのか?戦死者は今生きている人に何を望んでいるのかわからない、ただ戦争で苦しんだから戦争だけはするなと言う人が多い
生前からそういうことを言う人が多いから死んでも生者にそう望んでいるとなる


親でも何か子供に望むことが親のエゴ的なものが多い、医者の家に生れたら医者になれと子供におしつける、適性がなくても運命的にそうなってしまう。
医者にむかなくてもそうである。そして親は子供を何かと他者に自慢したい
それは学校でも就職でもそうである。常に親のエゴがそこに入ってくる
それが子供にとっては嫌なのである。お前は何々になれというときは親のエゴなのである生きているときは絶えずそういうふうに子供に対してのエゴは消えることがない
では親が死んだときどうなるのか、死者は残した子供に何を望むのか?
死んでも何か望んでいるのだろうか?つまり生者は死者に何を望むのかとなる


墓参りに行ったらお前はこうこうあるべきだとか望むのだろうかとなる
死んでまでエゴが消えず子供に望むのかとなる
死者はもはや生者に対して何も望むことはできないのではないか?
もっと墓参りしてくれとか捧げ物をしてくれとか、何々にしてくれとか墓から望むだろうか?
ただ奇妙だけど自分は毎日自分の墓の前を通っているから墓に花がさされないのて淋しいなと自分が思う゛死者は死んでいるのだからどう思っているのかわからない
それで時々生花をさしたりするのである。
それは死者が望んでいるのではなく今生きている自分が思っていることなのである。

だから死者が生者に対して望むものは何かとなればそういうものはもうない、それは生きている時あったことである。
例えば花が好きだったら花一杯にしてやろうというときそれは死んだ人が生きていたときそうだっかから花一杯にして飾ってやろうとなる
でも母のように花にも興味もたないとしたら死んだら花に今度は興味をもってくれなとなる、でも死んだ人に言ってももう通じない、それは生きているときにそうすべきだったのである。
ただ生きているときはそれができなかった。だから死んだら来世でそうあってほしいとなる、生きている人が死者に望むことの方が多いのである。
それは死んだからではない、生きているとき切に望んでいたことなのである。
それが成されずに死んだことで死んでも生きたつづきとしてそう思っているのである。


つまり人は死んでも生きた時の延長として死者を考えている、生きたことと全く切り離して考えることはできないのである。死んでも形もなくなっても生きたときのことから切り離して考えられない、死んでまた全く別な人間になる、悪人が死んたら別だ、聖人にもなる、恐れ崇められる霊になるとかもそういうことも合理的に考えるとありえないとなる
でも死者は不可解だからどこの民族でも死者を崇拝することがある
先祖崇拝というのがある。それが世界共通の一番古い人間の宗教だともなる
死者というのは死に顔がありまだ体があるときから灰と骨となり形もなくなる
そして死者とは何かとなるとそれは生きている人が死者をこうして欲しかったとかなるのが多い、もちろん死者が生きているときこうしてやりたかったというのも多い
介護は苦しかったけどもっと親切にしてやりたかったというのも生きている人が思うのである。死んだ人はもう何もわからない、死んだ人は一体何を望めるのか?
何も望みえない、ただ死者は確かに厳粛なものとなり生者を見ている
死者には嘘偽りができない、そのことは生者は死者を恐れる要因になる
お前の心はわかっている、お前はただ金がほしくて自分に親切にしてきただけだ
お前の心はわかっているとか死者がみているとなるから恐れるのである。
それは介護のときから生きている時からつづいていることでもある


自分は複雑な家族であったがなにかその複雑な関係でお前は何々なれとか何をしろとか強制されることがなっかたのである。母は普通の母親のようにそういう思いはあってもできなかった、これも奇妙だなとつくづく思う、それ故に母にたいしてなにか強制されなかったから別に恨んだりしていない、不思議なのことにあなたは何をしてもいいよとなっていたのである。
それで自分は二人に感謝している、二人は争っていてそれが悲しかったが自由にされていたということで感謝している、母は自分にそういうことは望んでいなかったのである。
そして母に対しては不満があったがそれも強いられたものでありしかたないと思っていただから生きているときから母はもっと働くだけではない、花にも興味をもったり人生を楽しむべきだったと思っている。今死んでからそう思ってももう母は何もできない
すると来世でまたは新しく生れて今度はそういう人生を送ってほしいとなる
スピリチャルというのはそういう想像で来世を見ているのである。
今世で恵まれなかったから来世では恵まれるとか想像して言っている、その想像がカルタシスになっているのである。
でも来世にどうなるのかはキリスト教のような明確な約束はないのである。
要するに想像するということはどんなことでも自由だとなる、それは人間側の勝手な想像なのであり生きている人間が作り出した想像の物語なのである。
スピリチャアルもやはりこれにのめりこむと問題があるなと思った。
信仰とは明確な神との約束であり契約のことであり勝手に想像するものてはないからである

ともかく死者と生者の関係は生きていることの延長としてあり生きていることから切り離して死者を考えことはできない、誰も死後の世界のことがわからないからみんな現世の生きている人間が死後を語っているからである。
死後のことはわからないにしても人が死んだらやはりこの世に生きていたことはわかる。どんなふうに生きていたかはわかるからそこから死者をもみている
それしか死者でも知る術がないからである。全く生きている時とは違う死者を見ることはできないからである。



タグ:生者と死者
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2015年12月22日

故郷とは何かー聖書の言葉から追及 (なぜうまし国が苦し国になったのか?)


故郷とは何かー聖書の言葉から追及

(なぜうまし国が苦し国になったのか?)


わたしの生命のすべての日々に、エホバの家に座し
エホバのうましさを凝視め、その宮で尋ねきわめることを
(詩篇 27)


聖書でも何でもそうだが本でもそうである。自分なりに解釈することなのである。
いくら読んでも自分なりに解釈できない限り読んだとはならない
それで自分は本を買っていたが自分は読んだが理解できないのが多かった。
何か自分はあらゆることで理解するのが遅かった。
それは世間的なことでも社会的なことでも遅かった。
社会性がないということもそうだった。やはり社会人として勤め結婚して子供をもって家族をもてば人間として基本的なものは自ずと身につく、それがないから何か欠けていたのである。結果とし両親なるものが病気になり介護になったとき塗炭の苦しみを味わったのである。自分は世間と交わらず生きてきたからである。


でも自分でも追及してきたものがあった。自分はとにかく70年近く故郷に住んでいたのである、旅に費やした時間も多いが故郷に70年近く住んでいた。放浪者とも違うのである。故郷で仕事をしていないかやはり故郷に住んでいた。ただ何も仕事もしないということは故郷に住んだともならないかもしれない、最近故郷で趣味で畑で野菜を作る人を知って農業は故郷と密着した仕事だと自分はしなくても理解した
そもそもこの辺で故郷は何かということが問題になった。
それは津波や原発事故で故郷を離れ故郷が消失するという信じられないことが起きたからである。
第一故郷は何かなど考えることすらできない、故郷は当たり前にあるものだからである。空気のようにあるものだからである。それがなくなるということ住めないということが信じられないのである。


では故郷と聖書の言葉が何か関係あるのかとなる、聖書の解釈は人によっても違うし別に信仰していなくてもそれぞれの解釈はある
なぜみな聖書だけではないあらゆるものに別々な解釈となるのか?
それはその人の住んでいる場所とか人生経験とか個性とかでものの見方が違ってくるからである。
海側に住んでいる人と山側に住んでいる人ではもともと感覚的に見方が変わってくる
太平洋側と日本海側とかでも相当に陽が上るのでも感覚的に違ってくる
だからどうしても太平洋側に住んでいる人は海から陽を昇るから山から陽が昇る感覚がわからないのである。
世界の住む場所がこれほど多様なときそれだけで人間はいろいろな解釈が生れる


だからこの詩篇の解釈も人によって異なったものとなる

わたしの生命のすべての日々に、エホバの家に座し

わたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し

エホバのうましさを凝視め、その宮で尋ねきわめることを

ふるさとのうましさを凝視め、その宮で尋ね究めることを


こんなふうに自分は解釈した。それは勝手な解釈ではないかとなるがそうでもない
エホバの家はどこかと言えば特別な場所ではない、今ではイスラエルでもないのである。外国を旅行してみればわかるけと日本では自然でも水が無料で飲めるとか恵まれた場所であることを知る、外国はみないいとは限らないのである。
それぞれの国にはそれぞれの良さがある。悪しき点もある。
故郷でもそうであり県単位でもそうであり国でもそうである。


ともかく普通はわたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し、、、となるのが普通である。そしてふるさとのうましを見つめ、その宮を尋ね究めることを、、、となる。
それが自分の相馬郷土史研究でしたことである。宮とは自然のことである。
相馬藩内を尋ね究めることだけでも容易ではない、そこにはうましさがある
自然でもそうだが産物でもそうだし歴史でもそうである。
故郷はアイディンティティを築く場所である。自然の意味も知る場所である。
これが都会だともうできない、東京だともうビルの谷間に埋もれて自然の意味は見いだせない、一体何とアイディンティティ化するのかわからなくなる

わたしの生命のすべての日々に、故郷の家に座し
わたしは動かざる磐の上に座して
日々その意味を尋ね究める
その流れをさかのぼり その上の村を尋ねる
故郷のうましを味わい、我はこの地を愛して老いゆく
うましを知るには苦みを知ることも必要
いづこの地にもうましと苦みがある
苦労して開拓に入りしもの、その苦しみの歴史
やがて実りとなりうましがある
うましのみを味わうことはできない
そのうまし故郷は失われた
何故なるか常にそのことが問われている

その故郷のうましがなぜ失われたのか?原発事故で住めなくなったのか?津波の惨状は何なのか?この辺ではこれも問われつづけいてるし自分もそのことを書いてきた。
このうまし故郷とかうまし国というときそれは小さな故郷だけではない、日本国自体がうまし国なのである。それはうまし国として歴史を作ってきたのである。
日本だけでもうまいものがそれなりにとれる、漁業資源があり果物もとれる
そういう日本としての恵まれたうまし国が一転して苦し国になることもありうる
それが津波とか原発事故とかその他戦争があり工業による環境破壊がある
その他思わぬことで予想し得ぬことで苦し国になってしまう。
それは自分が追及してきたが人間の限りない欲、エゴがありそれが原発事故を起こしてきた。原発はこの辺では金の成る木だったかである。それは今苦みとなった。
その他グローバル化でうましを限りなく追及するとき苦みに変わるかもしれない
世界中にそんなに食べ物を求めて食べる必要があるのかとなる。
日本だけでたりるものがありたりて良しとすればそういう災いが起きないかもしれない
日本でミカンがとれて余っているのだからオレンジなどいらないともなる
それぞれの国にはそれぞれのうましが与えられていている、それを過度に越えてうましを求めると苦みとなってゆく、故郷でもそうである。


わたしは動かざる磐の上に座して
故郷に日々その意味を尋ね究める

自分の仕事はこれだった。その全貌はまだ明らかにしていない、そして津波や原発事故でその故郷が消失したということは何だったのか?
それを探求していたがうまし国がなぜ苦し国になったのかということである。





タグ:故郷とは
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2015年12月21日

万葉集の死者を偲ぶ歌 (死者は自然と一体化して生き続ける)


万葉集の死者を偲ぶ歌

(死者は自然と一体化して生き続ける)


そして万葉集で歌われたものは何か現代人とは違っている
その人の別れでもその情が深いのである
人間は特に現代は人間の情が希薄化してしまった時代である。
でもさすがに人が死んだときはやはりその思いは変わらないことはある

時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)

悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首

  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)
  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)
  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)
  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)
  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)
  
大伴家持の歌だけどこれは死者を悼むものである。

子供残して死んだ女性の歌であり、これらは死者を悼む歌としてふさわしい

かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)

千歳とでてくるところが何か今とは違う、千歳の巌(いわほ)となると自分も作歌したがそれともにている。

万葉時代は人間は死んだとき山に葬られた、その葬られた山はただの自然の山ではなくなる、愛する人が埋まっている山となるから違っている
奥津城というときそれは山の奥になる、山そのものが神体になるときそこに人が死んで埋められているからそうなった。それがやがて先祖がいて守ってくれるというのは一種の自然信仰なのである。それは人間であれば自然にそうなるともいえる

昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)

佐保山は別に特別な山ではなかった。でも我妹子の奥津城となったとき特別な山になったのである。
そこに愛するものが埋まっているからである。妹というときいろいろある、女性全般の意味でもある。自然も人間が死ぬことによって深い意味をもつようになる
それまではただの山であり石であったが人間が死ぬことによって深い意味ある価値あるものとなる
人間の死が樹となり石となり山とも化してゆく、それが古代の素朴な感情だった。
だから都会での死は浅薄となる、ビルに囲まれていては何か人間が威厳が意味がもてない死という重大なものでも意味がもてないのである。
墓でもしょっちゅう通る線路の脇にあったり雑踏の隅にあったり窮屈であり騒音の中にあるからとても奥津城という言葉はあてはまらない、死が荘厳にならないし死者も威厳あるものとはならない、何か人間を威厳あらしめるのは人間の作ったものではない、自然によって人間は威厳をもたらされている、ただヨーロッパの建築とかなるとラファエロのアテネィの学堂のようにアーチの建築が人間に威厳を与えている
それはヨーロッパは駅まであのような古代のローマ風のアーチの建築になっている
だからそうした駅についたとき人間に威厳がもたらされているのである。


天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
  
  我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)
  鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
  磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)
  
ここで注目するのは「磯の杜松(むろのき)見むごとに、、、、」「磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人を」とか樹と人間を一体化しているのである。
それは古代の感情である。自分でもそういう短歌とか詩を書いてきたからである。
そういうことが今の時代の感覚ではなくなっているからである
自然と一体化して生活していれば自ずと自然と一体化した感情の表出がある
だから万葉集の恋の歌ですらなにか自然と結びついて原始的なものを残している
今の恋愛の歌とは違う。

奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも(笠女朗)

こういうふうに恋愛の歌で今は作れない、磐本菅を根を深めて結ぶ、、、何か自然と結びついた原始的感情なのである。
例えば萱根という地名があり萱は強く根を張るというときそれが農民の生活感覚から生れた、萱が根を張って動かない、それは土着的思考なのである。
現代はそういう感覚が失われているのだ。

例えば原発事故で避難した地域が山深い村がある、

村人の去りて淋しも一本の樹によりあわれ秋の陽没りぬ

その樹は人間化した樹なのである。津波でも何か不思議だったのは庭の木が今でも離れがたく悄然としてのこっている、それが常に人間に見えたのである。
庭の樹とか人間の生活があるところの自然は人間化した自然でもあったのだ。
万葉集ではそうした感情は自然と深く接していたから普通であり自ずと歌によみこまれたのである。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間が自然の一部と化して残る、それはやはり死でも荘重なものとして自然化することなのである。

家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし

これは家離りというとき例えば今なら骨を四七日置くとかあるがその後は骨納めをする、すると家から離れる淋しがある。
山隠れつとはやはり山の奥深い所に死体を葬ったからだろう
その時まだ墓を建てなかったから心神(こころど)こころともなしとなったのかもしれない江戸時代でも死体はこの辺ではホトケッポとかという所に葬っていた。
つまり墓は庶民にはなかったのである。ましてや万葉時代になれば墓はなかったろう。
それでこころともなしとなったのかもしれない、墓は古墳でもあったから墓がないということではない、心ともなしというのはやはりこの場合は墓がなかったととれるのである。



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百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首 (女性は家に生きて家に死ぬ)


百歳に死ぬ母を偲べる短歌十首

(女性は家に生きて家に死ぬ)



七〇年やともにありしもあわれかな目立たぬ母の死にけるかな

我が家に嫁ぎてあわれ七〇年悲しむことの多かりしかな

姉死して母も死にき我が一人家を守るや年のくれかな

それぞれの家にしありて人は生く悲しみ喜び女人のあわれ

我が家に争いありぬそのことの死せばはかなし昔となりぬ

玄関に散りし紅葉や冬となる訪ねし女の昔語りぬ

何故か苦労負わさる母なりき我が家にしもあわれ深まる

霜焼けに苦しむ母のあわれかな温水器なし冬のことなり

我が家に七〇年をありしかあらば思い出は深く家にあるべし

我が家は姉と母との二人して作りしものなり感謝すべしも


母の一生は苦労の一生だった。そして体力的にも性格的にも目だたない存在だった。脇役だった。先の夫は東京で工場の事故で死んだ。
それから実家に帰り我が家に嫁いだ、ただ我が家にきても下働きのようにされた。
だからあまりいいことはなかった。ただ母は細身であり何か自分で世間をわたれるような人ではなかった。そういう女性もまた多い。
女性にもいろいろあり自分はわからない、姉は太っていて過酷な世間でも渡れる女性だった。それでシンガポールに四年間従軍看護婦しても生き延びたのである。
何か人と話すときも恐れない、だから大の男が恐れていたのである。
だから母も姉がいたから一面楽したともなるしじ自分は二人がいた結果本当に楽をしたのである。だから三〇年間世間と没交渉でいられたのも不思議だった。
世間の荒波にもまれることはなかったのである。
ただ二〇代は自分は相当に苦しんでいた。他からたいしことがなくてもやはり自分も体力もないからそうなった。それで二〇代で六〇代のようになったのはそのためだったのである。それから楽をした結果体力がなくてもこれまで生きてきたのだと思う。


我が家では母には優しい家ではなかった。それは父の時からそうである。父も再婚であり母よ良くしたとは言えない、だから自分は母には悪いなといつも思っていたのである。
そう思ってもどうにもならないのが自分の家だった。
それぞれの家に必ず何かしらの事情がありみんな違っているからわかりにくいのである。人間の一生にしてもそれぞれであり不運な人もあり楽な一生もある
でも楽なことがいいかというと何かそこが人間の不思議であり楽な人生を送った人はあまりあわれまれない、何か死んだときでも印象を残さないというのも不思議である。
あの人は苦労したなとなるとき人々はその人を思うということかある
それは両親でもそうだろう、苦労して育ててくれたなと思う子供は両親を裕福な両親より思っているのである。
何も苦労しないで育だったとしたらあまり親のことも思わない不思議がある


ただ人間と生きる限りなんらか苦労しない人はいないだろう。
まず苦労しないとすればそのこと自体が人生で欠けてものとなってしまうだろう
自分もここ十年介護で苦労した。そして介護して親の苦労に報いた、親孝行できたということで満足しているのである。
これだけ楽させてくれたのだから当然だとも自分では思っていたのである。
だから介護はこうして常にその親子でも家族でもそれぞれの事情が違ってくる
手厚い介護がされるとすればやはりその親子関係か良かったとなるのだ。
親戚の人は親に対して全くそういう感情がなかったからもう介護もなにもできない
ただ金目当てだけになっていた。その親に金があるから余計にそうなっていた。
金があるからいって老後でも介護されるとは限らないのである。
金がなくても介護できないがまた金だけでも介護することはむずかしいことがある


ともかく女性は今は多少違っても嫁は家に女であり家に生きて家に死ぬというのが定めである、男は家ではなく社会での仕事をして死ぬということがある
女性と家は切り離せないのである。だから家で死ぬのが一番いいとなる
一応家で介護したから自分の場合は良かったとなる。
でも在宅の介護は人手も金もかかるから容易ではない、それで事件が起きる
それでも人間は死んだときみんなふりかえりもっと良くしてやれば良かったと言っているそれも矛盾なんだけどそうなりやすい、実際生きているときはなかなか人間は偲べない
第一嫌なことが必ずありその人時代でも実際はどんな人でも親でも嫌悪を覚えることがある、ただ死んだときそういうことかなくなるから純粋に偲べる
つまり人間が死んだとき美化されやすいのは直接せっしていれば嫌なことが目立つがそういうこともないので美化されやすいことはある。
歴史でも何か過去の人物が美化されやすいのはそのためである。
現実に生きているときはそうはならないからである。








2015年12月20日

母は百歳生きる意味があった (家庭の事情で違ってくる介護)


母は百歳生きる意味があった

(家庭の事情で違ってくる介護の様々)


母死して風鳴りにつつ冬椿

日曜日枯野にあわれ昼の月

母死して玄関に光る冬の月



二本の枯木のここに変わらざれ歳月経てそさらに堅きも

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

骨のみそ家に飾られあわれかな母ようやく我が家の主


私は人間です。血も心も通った人間です。だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです。理由はうまくいえませんがそれが人間ではないでしょうか?

介護は家庭の事情と深くかかわってくる。家庭でのその人の立場がどうなっているかで違ってくる。
自分の家は複雑であり他からはわからない、姉が家の主であり母は脇役だった。
目立たない存在だった。だから母が我が家の主役になったのは奇妙だが姉が死んでからであった。
そしてこれも不思議なのだが姉が死んで母が死んで祭壇に母の遺骨が置かれてから我が家の主人となっていた
92-3才までも料理をして家事をしていたから家では現役だった。
自分の家では嫁がいないからそうなった。
だから自分は介護は嫌でも義務だった。介護でも確かに三食を出していたがオムツもしていないし最後まで自力でトイレに行っていたから三食食べさせるよりはずっと楽だった。だからプログとかも創作もつづけていたのである。


そして母が我が家に嫁いで主役となったのは姉が死んでからであり介護されてからだったのである。だから自分の家では十分に介護されていても存在感があった。
まだ家では生きる意味が価値が存在感があったのである
家族が多いと嫁が主役になったりするとそういうことはなくなる場合がある
嫁からすると早く死んでもらいたいとなるだろう。
介護では常にそうした矛盾に悩むのである、もう世話はしたくない、早く死んでくれというのは常にある、それと矛盾しているんだけどやはりまだ生きてほしいということもあるこの二面性は誰でも常にあるのが介護なのである。
だから死んでくれというのは強烈になると、それは我慢の限界が来て殺人にもなる
そういう相反する葛藤が介護者にはある


ともかく母は死んで我が家の主役となった。姉は脇役化したのも不思議である。
死んでから主役になれるのかというがやはり人間にはそういうこともある
生前は注目されなくても死後に注目されることは多々ある
それが生前はその人の価値がわからないが死後に発見されるということがある
だからつくづく人間は死ぬまでわからないものであり死後もまたわからない
死後にその人が見直され価値があるものとされることは良くある
それは別に有名人ではなくても平凡な人でもある


介護はとにかくそれぞれの家庭での立場が強く影響するのである。だから最後まで家で介護されたいとか在宅で死にたいというときその家族のなかでどれだけの立場にあるかが問題になる
病院であったただ手をあげることができるだけの人がいた。その人は妻が来て手をにぎるだけでありほとんど意識がない状態だった。
介護度5であり寝たきりでありしゃべることもできない、ただわずかに手を上げられるだけだった。その介護度5の人を家で介護していたのだから驚く
その人は農家として優秀であり娘三人を大学に出していた、だから家族で大事にしていたのである。
それだけみてもいかに大事にされていたかわかる。
その後どうなったかわからない、浪江の人でありおそらく郡山に娘がいたからそこに避難したのだろう。


こういうふうにそれぞれ介護する家族の事情が違っている。自分はあんな人をとても介護はできない、比較的楽だったからできた。ただ姉がひどい認知症だったから一時はパニックになった
でも2年半くらいで死んだので救われたとなる、もし二人を介護するようになったらもうもたなかった。これも天の助けなのか、悲劇にならないで助かったとなる
あとは母の介護だったがこれも5年は長かったが重度ではなかった。
それは母の頑張りがあったからである。そうでないと苦しくなった。
だから不思議に自分は介護しても恨んでいないし二人には特別良くしてもらったから感謝している。
死んでも今は母を家の主役として祭壇に骨を置き大事にしている
供養もこれから近くに墓があるのでする、死んだ後も二人への感謝は変わることがないからだ。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間はやはり百歳生きることは何か重みがあると思った。年寄りなど金ばかりかかり社会にとって何の役にもたたないとか言われるが百歳にはやはり意味がある。
千歳の巌のようになってゆく,死んでもやはりそういう重みが残る
やはり百歳はまだ特別なのかもしれない、これが百歳が多くなり百二十才とかにならないと珍しくないとなればまた違ってくる。
人類は百歳の時代からさらに百二十才とかの時代になるのだろうか?

だから今にも消えそうな命の火が目の前にあれば、努力して1日でも燃やし続けさせてあげたいです

母は病院に行っても最後までこうして生きたのである。何日か前までは自分の顔を見てわかっていたのである。意識があったのである。
そうして母は何か師走に冬に死ぬのつくづくふさわしかった。生れたのも2月4日でありもう少しで百一才だったのである。冬に生れ冬に死んだとなる。
苦難の一生だったから冬にふさわしい女性だったのである。
ともかく確かに人間は死んで骨と灰になるが人間はやはり子供であれ他者の心に生き続ける。
あのように自分にトイレに懸命に行っていたこともやはり今になれば良くがんばったなと思うからである。

例の二本の枯木はやはり歳月を経ることによってさらに堅く結ばれる感じになる
何か平凡なんだけど何度もみているのだけど年によって違ってみえるのも不思議である。見慣れたものでも同じものでも違って見えるのである。


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この世の最大の無常は死 (死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


この世の最大の無常は死

(死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


今回の母の死もショックだった。すでに家族で三人の死を経験した。一番のショックは自分が中学生のとき死んだ父の時だった。それが野辺送りであり薪を積んで焼いたからすさまじかった。それ以来自分は死の恐怖にとりつかれた
それが求道のはじまりだった。もちろんどう求道していいかもわからなかった
死の解決方法がわからなかった。それで失敗したのはカルト宗教団体に入ったことであるそういう所は政治団体でありそうした死の問題は関係ないのである。
つまりこの世のパンの問題が最大の問題でありそのために政治的便宜を提供するものとしてあれだけ数を獲得したのである。
どうししても集団化すればたいがい共通しているのは利害で団体化する、それは宗教とは関係ないのである。
天草四郎とかキリシタンの反乱なども政治的なものであり権力争いであり浪人がそこに集結して徳川幕府の転覆を計った。だからこそ徳川幕府は敵対したのでありり信長も比叡山を敵対したのはそれは権力に敵対するものとして団体化していたからである。
別に予言者のように日蓮のように一人戦うものならそんなことはない、その一人が迫害にあうだけど団体化組織化した宗教団体は政治団体化して時の政権奪取を目指すのだから争うことになる


そして本当は人間の最大の問題は何かという問うとき、それこそ人間には無数の問題をかかえている、第一問題がないということがまた問題になっているのだ。
問題がないということはそれだけ恵まれているということはのちのちまた災いになるのである。何か苦難の時が来たらばあまりにも恵まれた人間は対処できないのである。
それで資産家の姉妹が餓死したというのもそのためなのである。
つまり恵まれすぎたことが後の災いを生んだのである。
いづれにしろ人間が死ぬということが最大の問題として宗教がある
一番のショックは人間が死んで骨になり灰となり形も何もなくなってしまうことなのである
だから骨を拾うとかは本当に酷だと思う、いちいち骨がどうだったとかこの骨はどうだとか説明されるのが何か嫌なのである。これは太い骨ですねとか太った人だと言われるだろう。そんなことを想像するだけでも嫌だろう。
何か人間の解剖に立ち会っているようで嫌なのである。実際の解剖なら医学に役たつのだからいい、骨を拾うというのはそんなこともないのである。
だから骨壺に入れて渡された方がいいともなる、ただ無常観を感じさせるには骨を拾うことは一番効果あることは言える。
人間は結局は骨となり灰となるものであるとういうことをまざまざと見るからである。
それが人間として生きてきた最大のショックなのである。
要するに人間の壊滅状態を見るのである。何もなくなってしまう無をまざまざとみる
それでショックになり何か食欲までなくなり気力も喪失して立ち直れなくもなる


この死のショックはいかに慰められようと慰めることは人間にはできない、そして死に関しても平等である。どんな金持ちでも権力者でも有能な人でも必ず死に骨となり灰となるこの世にいかに権勢を誇っても行き着く先は骨であり灰になるという現実が死である。
それは美人でも女性でも最後は同じである。その前に皺くちゃになり醜悪な顔にもなる
それが女性の現実でもある。
そうした老人とか死の時点から人生を考えるときこの世の様々なことが虚しくなるだろうこの世のことに人はみんな必死で追われている姿が虚しいとなる
文学者でも感受性の強い人は芥川でも川端康成でも太宰でも他にも自殺している
それは死を克服できないからである。どんなに栄誉栄華を誇っても死があるだけであり
骨となり灰となるだけだとなる、死とは人間の壊滅状態なのである。


死はまた宗教でも仏教でもイスラム教でも克服できない、お釈迦様も死んだからである。死ななかったのはキリストだけだとなる、その前に聖書には人が骨から蘇るとかそうした奇跡が記されていることは人間の死に関して特別な見方をもっていた。
すでにエホバというときそれは見えないが神と認識されていて人を蘇らせる神としてみていた。だからそういう宗教は他にないのである。
でも実際は蘇ったのキリストだけでありその後にいかなる偉大な聖人も蘇っていない、みんなやはり死んでいるのである。では死を克服されてはいないではないかとなる
やっばりみんな死ぬには変わりないとなると言われるのもわかる。
でも聖霊は死なない霊でありこれは肉体を越えたものとして授けられる
聖霊は永遠の命であり死なない霊なのである。でも実際は聖人でも人間は死んで骨になり灰になっている。
でも来世では生命の書に記されたものは蘇るということは確かである。それは契約であり今世では確かに骨となり灰となる無惨がある。だからこの世での肉体をもった姿は仮の姿だともなる
永遠の命があることこれを信じる意外救いがない、
そうでない限りどんな栄光かあるのか?結局は骨となり灰となるだけだとなってしまう。
キリストに栄光があるというとき死なないからであり死んだら栄光はない
死ぬものに栄光はない、神がいたとしても死があるなら神の力もないとなる
医者でも結局死に対しては無力である。どんなに科学技術が発達しても死を克服できないそれは神にしかできないのである。科学技術の栄光も限界があり死は克服できない
どんなに文明が栄えても死は克服できない、それが人間の限界なのである。


いづれにしろこの世のいかなる力をもってしても死は克服できない、この世のことならできる、貧乏でも克服できるときはくるだろう。無数の問題があるがそれも克服できるだろう。しかし死だげは人間の力では解決できない、ただこの世では死がどうのこうのというより日々のパンのことの方が大事でありそのためにあらゆる労力は費やされているのである。カルト宗教団体でもそうであり団体となればみんなそうである。
死の問題は普遍的であっても個別的なのである。
それは団体に頼っても友人に頼っても親族に頼っても科学技術に頼っても解決できない
だから教会に行っても解決できない、団体に入ることではない、個々人の問題として死があるからだ。その個が神と結びついて解決される問題であり団体化しても解決しない
だから団体とは肉でありパンのことである。
bodyは団体[人],統一体,組織体,法人でもある
ところが聖霊は個々人に授けられるのであり団体には授けられない、bodyには授けられない、教会もbodyでありその団体には授けられないのである。
別に教会に行かなくても授けられるのである。教会は否定できないとしても信仰は別である。


むしろ個々人の求道のなかで人生の中で紆余曲折して神の信仰にいたる、そして教会で説教を聞いてもそれはヒントみたいなものを得るだけである。
そして前にも書いたが誰であれ牧師であれ誰であれ教えられるもの説教するものによって奴隷の霊を与えられることが危険なのである。
四国の遍路であった人は金をやると言ったら経文を唱えた、あれも何なのかわからないで接していたが危険だった。あの人はただホームレス化した遍路でありそれが遍路だからお経を唱えた、それは食う手段として宗教をまねる人物となった。
そうなれば乞食ではない、尊敬される師ともなるからである。
そういうものにお経をとなえてもらったら心も支配されるのである。
何か今は僧侶とかは誰も尊敬していない、そして自分でお経を習って唱えるような時代になっている。
それも時代でも危険だなと思った。でもまたそれがキケルゴールの言う民主主義であり水平化の時代なのである。すべての面で精神的なもの宗教でも個々に追及して平等化してくる、もう師など従う人などいない、従うとしたらカルト宗教団体に入りそこで利害を一致させて政治運動することになる
要するに宗教も自己責任の時代となる、何を信じてもいい、唱えてもいい、しかし他人にそれをおしつけるなとなる、その教える人が師となれば弟子となる人がいて支配されるからである。師はまた偶像崇拝化されるのである。
だから民主主義とは何でも自己責任になる。あなたが何を信じようがいい、それは自己責任でありあなたの自己責任で解決して他者にそれをおしつけてはならないとなる
団体化したものはすでに宗教をその数で団体化して権力でおしつけているから危険なのである。



2015年12月19日

百歳生きる意味 (社会的にもその下の世代にも影響する)



百歳生きる意味

(社会的にもその下の世代にも影響する)


母がなぜ百歳まで生きられたのか?それが一つの疑問としてある。
生来体細身であり体力もないのである。
だから仕事にしても力仕事などできない、それで原町紡績で糸取りを十年して働いた。
これも結構楽でなかったと思う。でも現金収入になり良かったと言っている。
それから東京に出て女中になった。
学校では一回も休まなかったと自慢していた。
根がそういう真面目な人間だった。
そして店は7〇才頃までしていたかもしれないがその頃はもうはやらなかった。
その後は家事を一人でずっとしていた。
家事の面では料理でもしていたから92-3才までしていたのである。
つまりその年まで現役だったのである。


このことが意外と大事だった。常にボケの原因が退職したり後継者に仕事をまかすことなどにより生きがいとか張りがなくなるとなりやすい
二人家に女性がいて一人がただ何もしないで料理でもしてくれたので食べていた
でもどっちがボケたかというといつも何もしないで料理を出してもらっていた人だったのである。
奇妙なのは主人がいて召使がいるとするとどっちがボケるかというと何でもしてもらえる主人だとなる、これも本当に奇妙な逆説なのである。
「嫁におばあちゃんはもう何もしないでいいですよ、テレビ見ていて下さい」とか言われるばあちゃんはボケるとういのもそうである。役割がないとボケ安いのである。
女性は家で役割をもち続けることも大事なのである。
人間とは本当につくづく複雑なものであり何が幸福か不幸か結果をみないとわからない
死んでやっとそのことがわかったりする
もちろん人間はいろいろな不幸がある、でもその不幸が幸福につながることもあるし幸福と思えることが不幸につながることは普通にある
それは誰でも長く生きていれば現実にみているのである。
だからやたら自分は不幸を背負っている、かわいそうな人間だと思うことも問題がある。そもそもなぜ「悲しむのは幸い」だとなっているのか?
これも不可解なものとなってしまうだろう。


百歳を生きることは何なのか?それは様々な影響がある、それは金銭面でもそうである。
ただ百歳でも健康で生きている人はそんなにいない、百歳の前になんらかつまづいている母も五年間は介護になった。九〇才を越えると介護状態になるのが多い。
だから実際は百歳までボケないで生きている人は少ないのである。
百歳の金の計算するとこれも信じられないことになる
母は金を使わない、それで六〇才になって国から3万円もらうことになった
それを一〇〇才まで計算するとどうなるのか?

30000×12×40=14400000円になっている

これは140万円ではない1400万なのである。40年間で国からこれだけの金をもらったということは国でそれだけ負担したということなのである。
そして母は65からもらえば良かったと言っていた。65からだともっともらえていたからである。
ともかく60から40年の計算になるとこんなふうになるのである。
それが経済的に百歳を生きる意味になる
つまりこれは百歳まで生きられると年金の負担もそれだけ増えてくるから国の財政に大きく影響するから国が老人によってつぶされるというのも大げさではなくなる
それで年金の支給を70才にするとか75才になるとかそれまで働けとなるのもうなづける。寿命が伸びれば伸びるほど負担が増えてくるし人数が多ければ多いほど負担が増える
その額はこの計算のように膨大なものとなってゆくのである。


百歳まで生きるということはまた悪いことばかりではない
普通人は親の死んだ年齢まで生きる目標となる、これまでたいがい60代とかで死ぬのも多い、自分の父親は67で死んだからそれ以上生きたとなればいいとなる
ところが百歳となるとそこまで生きるとなるとどうなるのかということである。
人生百年と考えるとどうなるのか?それは長期的に生きるということであり人生観も変わってしまうのである。
つまり相当に息の長い人生を考える、60でも還暦すぎたからあとは死ぬだけだとはならない、これから30年の人生があるとなると違う。
30年間健康でボケなければ何かを達成できるということである。
だから退職しても第二の人生がはじまると考えるべきであり今までのように終わるという考えにはならないのである。


そして親が百歳生きたということはやはり子供に影響する
百歳生きたのか、自分も百歳を生きねばならないのかとか考える
それは長期的視野で生きることになる、何か創作するものにとっては百歳まで生きれば余裕をもってできる、その他でもこの世のことを理解することは本当に時間がかかる
自分は50代で海外旅行したから海外のことが本を読んでも50代ではわからなかった。
このようにグローバル化するますます理解することが多くなるから時間がかかるのであるだから百歳まで生きれば世界のこともある程度理解できるようになる
そして歴史でも長い時間をかけないと見えてこないのである。
人間は百歳生きてももうそれだけの時間のことしか理解しにくいから問題なのである。
三陸で明治33年とかに今回と同じような大被害だったのにそれを語り継がれなかった。
祖父母から聞いていなかったという、そういうふうに人間の生きる時間が短いからそうなっているのである。

そして百歳生きた人がいたということはその地域とか食生活とか風土とか人間関係とか何かいろいろな要因がある、それは国によってそうである。日本は長寿社会になるということ百歳が増えるということはやはりそれだけ生きられる風土があり文化があり豊さがあるからだとなる、高齢化の負の部分が強調されるがプラスの面もある
それは未だ経験していないことだからいろいろ言われるのである。
それにしても経済的負担が大きいから老後を設計することは容易でなくなる
一億円必要だとか5000万必要だとか言うのはそのためなのである。
一年生きればそれだけ金がかかりる国の負担になるからである。
ただ長寿社会とはそういう社会なのである。だからそれに適応した社会を作る他ないとなる、若者に負担ばかりかかるというのも問題である。
だからこそ70までも75才までも働き年金の支給は70となり75才となるということを国では計画しているというのもそれだけ国で財政的に負担できないからである
60以上はなんらか病気になりやすく医療費の負担も増えてくる
老後に下流老人が増えてくるというのも当然なのである。
高齢化社会というの人類は経験していないからである。そういう備えもないからそうなる

タグ:百歳
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年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


年の暮(介護に費やされた十年をふりかえる)


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年の暮母の遺骨と我が一人


森の中かすかに残る虫の音を我が聞き母は死なんとすも

我が家に嫁ぎて長し歳月や庭の紅葉燃えつつ死なんとすも

我が家に生きる70年長しかな死ねばつかのま母は逝きにき

母とある最後のときを惜しむかな秋も終わりて冬となるらむ

幸薄き母にしあれやあわれかなその最後は楽に眠るごと死す

西村家最後に残る我が母の今や死なむや何を伝えむ

でで虫の殻一つの残る道安らかにして我が母死なむ

残る虫かすかに鳴くを我が聞きぬ故郷の野や母は死なんとす

近くにそ母の苦しむしもやけを知る人ありて親しさ覚ゆ


母の場合、急に死んだのではない、介護が五年くらいつづき最後も急激に死んでいない
だんだん弱っていった。家では八日間は水しか飲んでいない、それでもホータブルトイレに行っていた。
つまりオムツもしなかったし八日前まではわずかでも何かを食べていたのである。
だから三食食べさせるようなことはしなかった。
他では脳出血とかなると三食食べさせているから手間になる。
そうなると何もできなくなる、プログはたまたま書きやすいから書き続けることができたそれすらできなくなっていた。
つまりそうなるとすべての時間が介護のために奪われることになるのだ。


姉が認知症になったとときはそういうことになった。夜中まで起きていたりしたからである。そうすると夜もまともにねむれなくさえなる。
介護にもだからその人により家族によりいろいろなケースがある。
一番ひどいのは両親でも二人同時に介護するときである。
その時一時そうなったからどうしていいかわからなくなった。
それで近くの人が家に火をつけたとか殺人までになる
でもなぜか介護というのは誰か一人がになわされるのである。
兄弟でも何か協力することが少ないのである。
そういうことから事件がこれからも次々に起きてくる


いづれにしろ高齢化社会で介護に費やすエネルギーは金銭的にも労働力にしても膨大なものである。それで国がつぶれると言う人がいるのもわかる。
介護はそれほどの重圧なのである。まず介護は最低で五年とかであり医療が発達しているからさらにこれからも長くなる
介護というのはそもそも昔はそんなになかったものだろう。
たいがい病気になっても介護もろくにできず死んでいた。
母の場合もすでに一年前入院したとき点滴などしないと死んでいた。すると一年は寿命が短くなった。
それでも祖母は脳出血になり五年生きていたという、藁がオムツ代わりだったという
戦前はそういうこともあったから恵まれている、日本のオムツを中国人が買うのもわかる

なんか地方の仕事が病院関係と介護関係と葬祭関係が主役のようにさえ思う。
病院が街の中心のビルでありそれを取り囲んで薬局があり介護施設があり介護関係の仕事がありとかそして団塊の世代になると死者が増えてゆく、すると葬儀屋が繁盛するとなるこういう社会が何なのだろうと思う
それだけ余裕ある社会ともなるがとにかく膨大なエネルギーが介護に費やされる時代なのは間違いない。
団塊の世代が介護されるようになるとさらにその負担は増える
あの人も母親を介護している、三食食べさせているから大変だとか同級生が脳出血になりやせ細りなんとか生き延びたとかあの人も脳出血になったのかとかそんなことが身近で増えてくる、そして団塊の世代も大量死を迎えるのである。


自分も十年間は介護に費やされた。それでも自分のやりたいことはやらせてくれたから自分の場合は特別であり恨んだりはしない、そして一時は苦しかったが一人でなんとかのりきれた。一時はパニックになり苦しかった。自分自身が病気になり入院してそのあとの二年間が身体障害者のようになり苦しかった。
その時助けるものがいないでただ責められるだけだったのも苦しかった。
それもあまりにも恵まれた結果としてのカルマだったのである。
人間は恵まれたままにいいことばかりで終わらない、かえってそのことが最後の方になり苦しむことになる、資産家の姉妹が餓死して死んだというのもそうである。
恵まれた人は生きる術をもたないからそうなる、地をはいつくばるようにして生きてきた人などを知っているあういう人ならどんなときでも生きられると思った。
人に頼むのがうまいもらうのもうまいし延々と交渉してあきらめないというのにも驚く
お嬢さんだったら自分もそうだが人に頼めないのである。
人に頼むということは相当な能力が必要になるからだ。
自分を偉いとしている、恵まれているとしていればできないのである。
そういう経験がないとこんな時代でも餓死してしまうことになる
おそらく役所の福祉とも交渉できないということもあるからだ。


介護は男だとまた苦しい、家事の延長に介護もあるからだ。介護で家の中がガタガタになってしまうからだ。それで介護になってから家の中がかたづかないのである。
家のことを一人で家事までやることは容易ではない、だからここ十年は何か毎日追われる生活だったのである。
まず食事でも三回ださねばならないというのが手間なのである。
常に何かしてやらねばならないとなりその緊張状態がつづくのである。
つまり気のぬけない時間が延々とつづくのである。
だから仕事でも介護しながらやるというのはむずかしい、技術者が母親を介護しながら仕事していたがあれも苦しいと思う、仕事に集中できないからである。
その人は五〇代であり技術者として仕事をまかせられている人である。
そうなると日本国んの国自体の国力をそぐことにもなるのだ。
高齢化によって国が衰退してゆくというのも現実味がある


ともかく母は何か急激にではなく徐々に死を迎えた、だから死に対する準備ができた。
死ぬ二日前ほど葬儀屋と相談して段取りはできていたのである。
そういう時間があった。だから必ず死ぬ前に葬儀のことは相談しておくべきである。
ただ一回経験していることは強みだった。経験しないことは何でも苦しい
認知症の介護でも経験しているから自分の場合介護しやすいとなる
認知症という病気はわかりにくいからである。


母のことで近くの人がしもやけのことを知っていた、そんなことまで知っていたのかということで驚き親近感を覚えた。姉と関係していた人だけど母もいたから知っていたのである。あのころは水道ができても水が冷たかった温水器がなかっんたからである。
そのことを自分は知っていた。でも何かその頃そんなに母のことに同情したことはない
ただあまりにも店屋をやっていて忙しいから嫌だったのである。
なぜ日曜日も休まずご飯もまとも座って食べないのか嫌だったのである。
そんな働き詰めの母を自分は嫌っていた。ただそう強いられたという面があったから全部が母の悪いのではない、母はそういう性格だったということもある
死者について語るのにもやはり知らない人だと語れない、しもやけのことを知っていたので母の苦しいことを知っていたのだとなり何か共有するものを感じたのである。
第一回りでも人間が変わるし昔のことを覚えている人はまれになる
自分自身すら老人であり昔を語る存在になっている。この辺では母が一番生きたがその前にこの辺を知っている人が死んでいるのが多いからである。


年の暮に母の遺骨と自分一人の家というのも淋しい、でもそれが現実である。
俳句は写生というときまさにその現実が重いものであれば俳句にも重みを帯びる
死は最も重い現実だから俳句も重いものとなった。
つまり文学でも重い現実を反映すれば重い文学となることがわかった。
死から死体を焼き骨となるのは最も重い現実だったからである。


タグ:遺骨

2015年12月18日

万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの (忌中にふさわしい歌)


万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの

(忌中にふさわしい歌)


太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓(さみのまむぜい)が卿に贈れる歌二首

真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ


万葉集の歌は未だに解明されていない、今の時代の感覚では解明できないのが多いのだ。だから相聞歌でも恋愛の歌が多いというときそれは現代の感覚なのである。
折口信夫が言っているように死者を乞う歌だというときより深刻なものになる
恋は乞うでありこうであり今の感覚とは違うのである

何かだから死者を弔うときと関係ないようでもそうしたものが他にもある
この歌も不思議なの歌である。何か荘重な歌であることに気づいたのは母か死んだことでそれと重ね合わせてこれが死者を思う歌にふさわしいと思った。


これは死んだ人を偲ぶ歌としてもいい,丁度忌中であり今の感覚はこんな感じなのであるこういう歌はなかなか今の時代には作れない、簡単なようでも何か違っているのだ。
それは何か人間と人間の関係でも今は機械的でありこんなに深い情でつながらないかということがある。
常にそういう人間の純な感覚が失われたのか現代である。


真澄鏡(まそかがみ)


『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』ホツマ4文

『天地を領らする 現の子を 生まん思いの マス鏡 両手に日・月 擬らえて 神 生り出でん 事を請ひ 頭 廻る間に アグリ 請ふ』ホツマ4文

『マス鏡 青人草も 直ぐとなる 人に於けらば 限り無し』ホツマ17文

「人を直ぐにする鏡」である。
「直ぐにする」とは「直す (なおす)」である。「直す」とは「(反り・曲がりを) 収める・合わす」ということである。


ここのサイトの説明も不思議である。真澄鏡とかが枕詞になったのは鏡か神宝となったのはそれが写ることなのである。それは姿だけではない心を写すから恐れられたのである。だから万葉人は心を清くするために真澄鏡を見ていた。今のように女性が化粧するだけのものではない、人間の心を見るものとして鏡があったのである。
神は人間の心を見るというときそれと匹敵するものとして鏡があった。
万葉人はやましい心があることを恐れたのである。それは真澄鏡に写されるということで恐れた。

要するに万葉人は日本の純な自然と直結して生活していた。それが神道と通じあっていた万葉集は恋愛集ではない、それは宗教ではないにしろ何かそうした神道に通じるものがある。
それはどこの国でも古代にはそうした自然への宗教心とかがあった。日本の宗教心は清浄な日本の自然を基にして起きてきたのである。

見飽かぬ君に後れてや、、、後れてとは死者に置かれている生者である。
それはまさに死別の歌にも通じている、忌中の歌にふさわしいものだと発見した。
つまりこうした厳粛てものが常に万葉集にはあり恋愛集ではないのである。
タグ:真澄鏡
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2015年12月17日

冬紅葉(忌中)


冬紅葉(忌中)


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ここで寝起きしていたからふさわしい


我が家の忌中になりぬ冬薔薇

冬紅葉散りて我が家や忌中かな

白菊や忌中に咲きて籠もるかな

母死ぬや曇り硝子に冬紅葉

塔古りぬ奈良を思ふや冬紅葉


七〇十年我が家のここに寝起きして働きければ祭壇のあれ

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忌中とかいろいろな死後のことは仏教に由来する、ただ仏教でもすでに日本流の葬儀の仕方がある、神道が先にありそのあとに新道が入ってきたからである。
第一仏(ほとけ)は日本語、大和言葉なのである。ホトケはホトキだったとか言われる
何らかの死者を祀るものだったのだろう。
いづれにしろ葬儀にはいろいろあるがキリスト教のこともわからない、そもそも死者は何かわからない、いろいろなことをいってもわからない
ただ死ぬときは平凡な人でも厳粛になってくるのも不思議である。
死とはそれだけ人間にとって重大なことなのである

それでも母は働くだけであり多少最後の方で花がきれいだなとか言ったがほとんど関心がなかった。もし金だけを毎日数えているような人間だったら悲しいとなる
冬紅葉の季節に死んだのは母にふさわしかった。
人間は生れる日と誕生日と命日は一番大事である。
そして西行が桜の咲く季節に死んだのはふさわしかった、そもそも西行は桜を愛した歌人だったからである。
別に自分の母はそんな文学も何も関係ない、ただ働きつめの一生であり第一俳句も短歌も関心がないしわからない、自分が母の一生とか性格をみて俳句とか短歌にしているだけである。


冬紅葉というとき何か奈良にふさわしいのかも、もちろん京都にもふさわしい
奈良と京都は何か違っている、もちろん歴史的にもそうだが奈良は田舎的な所がある
自然もあるし田んぼも回りにある、それが何かひなびた感じになる
もちろん奈良は歴史もあるが京都とはまた違っている
奈良と京都の相違がやはり関西ではいろいろ文化があるから歴史がある
万葉集でも以前として奈良だったら偲べるが京都とか大阪になると偲べない
日本の純なる自然がすでに消失しているからである。




タグ:忌中

老人は昔を語ることに存在意義がある (郷土史でも歴史も語ることから発している)


老人は昔を語ることに存在意義がある

(郷土史でも歴史も語ることから発している)


今日焼香に来た人は自分が知らない自分の家の昔のことを知っていたのに驚いた。
実際はその人は姉とは親しかったが母のことではかかわらなかった。
だから近くにいても6年くらいすでに家に来ていないのである。
どういうわけか困ったときは来ないで死んだときは来る人がいる
話を聞いて一番不思議だったのは自分の兄のことを知っていたことである。
兄は事情あって自分の家に5年間いたがそれが自分が0才から5才までであり自分にはさほど記憶がないのである
それで「、、ちゃん」と兄の名前を言った、それがなんとも不思議だったのである。
なぜならもう兄のことを覚えている人はほとんどいない、交通事故で40才で死んだ、それも集団就職で静岡の方に行って死んだのである。
母の実家の墓に骨は納まっているがこれまた不思議なのは実家で五年間暮らした姪子が一緒にいたことを知らないという、その人は前にも書いたが異常な性格になっていて自分の母に信じられないことを言って縁が切れた。

そして思ったことは人間は一緒に住んでもその人の記憶がなければその人は存在しないと同じになることである。存在しないということはこの世にいなかったと同じなのである。時間がたってゆくと特に死んでしまうとどんどん人間は忘れられてゆくのである。
この人が存在したのかということさえわからないのがいくらでもあるし存在したということを知ってそれが大発見になったりする
もう存在を確かめること自体が一つの発見になってしまう。
だから「、、、ちゃん」と兄の名前までその人が覚えていたことで自分も兄の存在を確認したのである。
なぜなら自分は幼児でありその辺は記憶があまりないからである。


そうなるとそういううに昔を覚えている人は貴重である。
その人は自分より何才年上かはわからない、でも自分の家のことについては一番詳しい人だった。その人は自分の家と深くかかわっていたからである。
そして死んだ姉のことなどを語ったとき何か昔を共有することで連帯感を生れた
やはり昔を共有することは歴史を共有することであり郷土史とか歴史になる
historyだといういうときストリーは物語だからもともと昔を語ることにあった
その昔を語ることが老人の勤めのようになる、そこに老人の意義があるからだ。
人間は死んだら骨になり形も何もなくなる、でもその人を語ることによってその人生きることになる、人だけではないその土地のことでも家のことでも語ることによって生きる
それは郷土史とか歴史になったのである。


ともかく老人になれば次ぎ次ぎに死んでゆく、それよりもう自分が死ぬ番だとなっているだから死というのはもう親が死んでも自分がまもなく死ぬ番であるという意識になるから若いとき親が死ぬのとは全然違う感覚なのである。
自分の同世代のものが膨大に死んでゆく時代になる、だから有名人だろうがなんだろうがそんなに多くの人を記憶できなくなる、身近なものの記憶が大事にもなる
そこに郷土史の意義もあった。
話してみるとその人の親戚も小高の機織り工場を経営して失敗してひどい目にあったと言っていた。自分の母の実家の父も同じだった。
その頃機織りが盛んな時代だからそうなったのである。機織り工場を経営して成功した人もいるが失敗した人もいる、それは当時のブームでもあったことがわかる。
もう一人は自分より三歳くらい年下だが土葬の経験があり野辺送りで焼いた場所も知っていた。それは最後に自分の父親が野辺送りで焼いたことでそのことは鮮明に覚えている
その場所を知っていて気味悪かったといっていた。


とにかく時間がたつのは早い、死ぬとたちたまち忘れられる、そして昔を語ることはその人の存在を確認する作業なのである。そこで何か共有するものが生れる
それが郷土史ともなり歴史ともなる、なぜなら死んだ人は骨となり土となり何も残っていないからである。
そのあとは語ることによって存在を確認するのである。
津波で死んだ人たちもあのとき写真のアルバムを探して大事にしたのは何もなくなってしまったからである。記憶になるものがなくなってしまったから写真を探していたのである
老人は昔のことを延々と語るので若い人はうざいとなるがなぜそうなるのか?
つまりそれが自分の生きたことの証になるからである。
それで自分の姉は死ぬまで従軍看護婦じシンガポールに四年いたことを語りつづけた
認知症になってからは千回も聞いた、同じことをしゃべりつづけたのである。
それは自分の存在を確認するためだった、昔を語らなければ存在意義もなくなってしまうからである






タグ:老人の価値
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2015年12月16日

介護の後の脱力感 (介護十年の経験はやはり人間を成長させることもある)


介護の後の脱力感


(介護十年の経験はやはり人間を成長させることもある)



気丈夫に最後まで家にトイレする迷惑かけじと介護されし母

腕をとり近くの介護の施設にそ行きにし母の思い浮かびぬ


心のよりどころだった存在を失う

気を配っていた生活の張りを失う

自分の老いてゆく姿を不安に思う

他者にたすけてもらった関係性を築くことができる

高齢者を自宅で看取った死別後の適応


家族介護者が高齢者のことをいつも気にかけていた分、死別によって緊張感を失い
世話するという気持の張りを失うことがある

家族介護者は自分の介護の経験を生かして身近な人が困っている時、手助けできると考えている
例えば町でみかけた高齢者が困っていれば手をさしのべる、他の人々が介護が必要になったら他の人にアドバイスできる


「母の介護がなくなって気持の張りがなくなった、やっぱりやってあげなきゃいけないと思うからてきぱきできたんですよ、今は時間ができはずなのになんかもたもたしている


姉が認知症になってから三年近くとか次ぎに母の介護がありあわせると10年近く介護に追われた。
それが終わったときどうなるのか、この介護の経験もやはり介護してみない人にはわからないだろう。
自分が介護で一番感じたことは時間が拘束されることであった。
介護する人に気を使うだけで心も拘束されるのである。
介護は認知症になると夜まで起きていたりするからまともに眠れない人までいる
24時間を拘束されることにすらなる、常に見まもりが必要になるからだ。
自分のように自由に生きた人間がこれほどちょっと外に行くのにも自由かない、なぜなら常に介護するもののを気づかうからである。
自分の場合は一人だったから余計にそうだった。家から自分が出れば誰もいないからそうなる
だから一人で介護することの負担は他より大きいのである。
そして一人なのにほとんど助けはなかった。むしろこの弱みにつけ込まれて大金をとられたりとか借金を要求されたりとか苦しい目に合わされたから苦しかった。
かかわった人がそういう人だったのが不運だった。
ただ相手も追い詰められていたからそうなっていたのである。
一人は家から出されたような人であり一人は事業に失敗して借金をした人である。
そんな人はもう他人のことを同情する余裕もなにもなかっのである。
だから自分はそういう人とかかわって大変な目にあったのである。


死んでまもないが介護が終わって感じることは介護は何か絶えず気づかう相手がいて緊張しているということはある。
特に母は死に近くなったときいつ死ぬのかと二カ月くらいは緊張がつづいた。
病院に入院してそうだった。結果的には死ぬ場面にはいることができなかった。
看護師も見ないまに死んでいたのである。病院でもそういうことがある
だから人間は家族がいても死ぬときは一人だと思った。
介護は絶えず介護するものを気づかうから疲れる、常に精神的負担となっいる、でもその緊張感があるのはまた奇妙だが生きがいにもなる。
会社をやめて退職すると何もすることがなく緊張感がなくなるからボケてくるという人がいる。家で勤めもなくなるときごろごろしているとそうなりやすいのは確かなのである。そして何か障害者をもった人など絶えずその人を気づかっているかボケないというのも不思議だった。
それは世話しなければならないという緊張感を絶えずもっているからそうなる
人間は生きるにしてもだらだら生きているのは良くないのである。
なんらかの緊張感がないと精神までだらけたものになってしまう
だから介護にもそれなりに人間を成長させるものがあったともなる

他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」これも言える

自分は社会とかかわらない時期が長いから社会を知らなかったのである。
介護してから自分も病気なにって病院に一カ月さらに二週間入院したことや様々なことで社会と地域ともかかわることになったのである。
その社会にかかわったというとき自分の所にきた人たちは自分も弱ったことをいいことに責めてくる人たちだった
自分が言っているのはそういう人ではない、利害の関係ない人である。
それは介護士などがそうだった。
今になると母の手をひいてディサービスに連れていってくれる人とか老人を世話する人をふりかえるとあの人たちにも世話になったと思う。
あんな仕事は誰もしたくないとか評価しない人がいるがふりかえるとありがたいことだったとなる
介護する人は必ずそうして世話になるから「他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」となる、これも介護しないと経験できないことでもある
何か介護は悪いことばかり言われるが社会的にも価値ある行為でもある、でもそれがあまりにも国の財政負担になるのが問題なのである。


ともかく母の介護で経験したことは介護するものにも介護される方も両方に問題がある
介護する方と介護される方も何でもしてくれるということではいけない
母の場合は最後に入院する8日間を水しか飲んでいなかった。
それでもホータブルトイレに自分で行っていた、寝たきりになっても近くのトイレまで懸命に歩いて行っていたのである。
もともと頑張り屋であり忍耐強い人だからそうなった、そして水だけを飲む前には自分で起きて食べていたのである。
自分が嫌だなと思ったのは脳出血とかになり体が麻痺して三食食べさせて介護している人である。
その手間とか時間がとられるから何もできなくなる恐怖だった。
外出すらできない恐怖をいつも感じていたのである。そうなるとプログさえも書けず何もできなくなる恐怖だった。


母は最後まで気丈夫でなんとか自分でしようとしていた。
最後は病院で管で小便をとることをうひどくいやがっていた。あれも何か精神的ショックを受ける、オムツになるとこれもショックが大きいのである。
それもしなかったから自分自身もそうだが介護する方も楽な方ではあった。
でも介護は楽な方でも絶えず緊張感がある、気遣いをするだけで疲れるということがあるのだ。
「心の青雲」で介護されるものを甘やかすからかえって体も悪くするとか言う、それも一理ある。
なんとか迷惑をかけないようにがんばったと言う人がいたがそういう気持をもつ必要がある。もともと母は頑張り屋であるから最後まで頑張っていたのである。
そして最後まで死ぬ間際まで病気がなかったということが老衰として死ぬことにつながった。たいがいは何かの病気になって死ぬ、簡単な風邪でも死ぬ
だから老衰で死ぬということは意外とまれなことのように思える
なぜなら死ぬ前必ず病気になるからである。それがならなかったということの不思議である。母がこうして最後まで頑張り屋だったことは見習うべきことだろう
体が細身でもともと体力もないのだけど懸命に頑張る姿は心に残った。


ただ母も体が90度に曲がったときは自殺しようとしていた。
それもショックだった、だから人間は老いることは相当に実際は苦しいのであ。
体が90度に曲がったというのは骨のせいではなく筋肉のせいだと言う人がいた。
この衝撃をあまりにも大きかった。一カ月寝て注射して直った。
それからもいろいろなつまづきがあった。ただ母は90度に体が曲がった後も不思議に元気な日が長くつづいた。それは80いくつかだったのか?
結構早い時期に体が90度に曲がったが手押し車をおしつづけて普通に生活していたのである。だから体が曲がったことは生活するのにはそれほど影響しなかったのである。
ともかくと老いから死までの道のりも簡単にはいかない、紆余曲折があり苦しみがある
仕事していたのに一週間くらいで死んだ人の方がまれなのである。
死ぬまでは延々とやはり介護があり苦しむの人間だったのである。















タグ:介護のあと
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2015年12月15日

母は今日出棺して火葬場でお骨にしました


母は今日出棺して火葬場でお骨にしました



我が母の出棺の日や冬の朝

冬の草母をはふりて石一つ

火葬場や石に咲きしは冬椿

冬静か二人のみして母おくる

骨となる母の亡きあとや冬景色


朝早み我に食事を用意する高校の時や母を思いぬ

我が家に姉の写真も飾りつつ母をおくりぬ冬の朝かな



遺体を焼いて骨にすると本当にその人はこの世から消える、今日は8時30分に行き焼いた、そこには一人もいない、二人で待って骨を拾った。もう一人は来ていたが用事があって帰った、でも何か静かに見送りできて良かったと思う。
今回の葬儀は一回経験しているので段取りができていたから楽だった
それでもやはり葬儀というのは何か精神的にも重圧なのである。
それで一人だったら苦しかった。一人が補佐してくれたので本当に助かった。
ともかく一人というのは病気とかなにかあるとその負担が大きすぎるのである
親戚でも借金しているような人が来ると困る、そういう人は病気であろうが葬儀であろうがなんでも借金をするためにするとなるから借金している人は罪な人になる


母の頭蓋骨はそっくり残っていた。それは珍しいとも言った。骨も丈夫だから百歳まで生きたのか?その理由ははっきりしない、とにかく母は辛抱強く頑張り屋だった。
何にも楽しみがなくただ働くだけの一生だった。
それで何か人間的に欠けてかたよった性格にもなった。
花とか美しいものを美しいと見ないのも悲しいことだった。
そういうものに価値を見いださないのも悲しい人生だったともなる
ただふりかえれば自分には尽くしてくれた、食事を70年間も用意してくれたのでそれを介護してからその苦労がわかり感謝している


映画で納棺師のことなどを映画になったが今回のフローラの人は何かそのしゃべり方までそんな感じになっている。やけに丁寧でありしゃべり方まで死者に対して敬意を払うので感心した。
これも特別な仕事なのかもしれない、そのフローラの社員は骨まで拾ってくれた。
だから前もそうだったがフローラは何かこれが必要だとか押しつけないのである。
葬儀のときは混乱しているから言うなりになるしケチられないからそうなる
フローラでは何かそういうことがない、これをやりますかということをいちいち納得させてやることを決める、そして本当に安く葬式ができることに前も驚いたが今回も10万安くできた。こんなに安く葬式ができることに驚くのである。
もちろん人も来ないからであるがそれにしても前と同じように安い、前は30万であり今回は20万だった。別にけちったわけでもないのにそうなっていた。


ともかくこの納棺師とかこういう葬式に関係する仕事はまた特殊でありこの仕事にあう人もまたそれなりの適性がないとできないと思う。
フローラの担当した人は若いけどしゃべりかたまで何か葬式にふさわしいように慇懃にしゃべるのである。
これも何か奇妙でありやはりそれは職業として成り立つものであり死者にたちあう厳粛さがあるからそれに対応するのにふさわしい言葉遣いになったのかもしれない
それともその若い人はそういう性格なのか、なにか不思議に思ったのである。


南相馬市長から百歳ということでまた一万香典をもらった、百歳はまだ少ないから意義があるがこれからは増えると希少価値がなくなる

ともかく今回は母の死をテーマにして俳句を作ったがそれが何か我ながら深遠なもの荘重なものになったのはやはり死がそうさせていたのである。
どんな人の死にもその死んだときが最もその人を示すときである。
誕生日と命日が人間にとって一番重要な日であることでもわかる
母は冬の日に死ぬのにふさわしかった。
そして静かに二人だけで送ったことが何かしみじみとして良かった。
姉のときは9月でありその時は親戚が二組とか世話した人も来て三組来てにぎやかだった
だから何かあわただしくすぎてゆっくりおくることができなかった。
その時ひぐらしが鳴いていて

ひぐらしの石にひびきて姉の逝く

今回は五本松の火葬場には二人とか三人だけだったから静かで良かった。母はおとなしい静かな女性だったからあっていたとなる
かえって人が多いと死者を偲べない、ともかくあわただしいからゆっくりと静かにおくれないのである。
今回そういう点では良かった。それで俳句を作ったがそれが何か深遠となり重厚なものとなったのはやはり死者をおくるという厳粛なものがあったからである。
ともかく葬式にかかわることは骨を拾ったりしたらそれは何か相当な縁が深い人ともなる感じがする、ただフローラの職員はそれを日頃から仕事としているし火葬場の職員もそうである。


でも火葬場の職員はそんな仕事しているから嫌われているというのも何かで人間は常に差別したいからである。
納棺から火葬にすることが一番ショックである。骨しかなくなってしまうことがショックである。
ただ母の場合は何か百歳まで生きたからすーと消えた感じもする
もう百歳も生きて苦しんだ体にはとどまりたくないとすーと消えた感じがする
死というのは若いとき経験するのは老人ではまるで違う。
老人は死に近いから自分も死んでゆく番だからそれほどショックにならない
死をもう受け入れるほかないものになるからだ
ただ死んだらその人の何が残るのか、それはその人の生きた一生が残るともなる
もう生きた形はないのだけどその人の生きた一生は残る
母の一生は自分には特に残っているし消えることはないだろう。
つまり体は見えるものは消えてもその人の一生は航跡のように残る
平凡な人間でも死んだときその人の一生を語る
すでに死ななくても老人はその人の一生を語っている
母は介護されても懸命にがんばりやで我慢強いから生きていた。
最後までトイレに行きそしてボータブルトイレには水だけしか飲まない時でも自分でしていた。
入院して小便を管でとるようになったがそれも一カ月もしていなかった。
それを凄くいやがっていた。だから介護のときも死ぬときまで何かがんばったとはなる
そのことは介護についてまたつづきとして書く











2015年12月14日

死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない



死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない 


死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない 

このように哲学者ソクラテスは言いました。死は残された者にとっては、悲しく痛ましいできごとですが、もしかしたら、本人にとって死はあらゆる善きものの中で最高のものかも知れないのです。 

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母の一生は苦しみの連続だった。それは父が事業に失敗してから一家離散になりそうなった。
継母に育てられたのもそうだった。
母の話で一番忘れられないことは小学生のとき弁当を作ってもらったのだがその弁当を残したとき「本当の親でないから俺の作ったものは食えねえのか」とその弁当を投げられたという話は忘れられない
そんなひどいことをするのかということ、そんな仕打ちをされた子供時代の過酷さであるたいがい子供時代はみんな愛されるからそんなことをする親は普通はいないだろう。
でも子供を虐待したり殺す時代でもあるからないことはない
その継母も最後は老人ホームで目が見えなくなり「悪かったな」と母に言って死んだ
老人ホームで目が見えなくなり苦しんでいたとき母は行っていたからである。
つくづく何かそうして人生の最後には人は自分のしたことを後悔する
そしてその報いは必ずあるのだ。後悔して反省したときはもうすでに時遅しなのであり
その償いをする時間がなくなっているのである。


母はそれから東京にでて結婚したが夫を事故でなくした。これも不運だった。
そして子供がいたが自分の家に嫁いできた。そこにはまた自分の家の複雑な事情があった母は後妻であり複雑な家の事情で何か召使のように使われるだけだったのである。
ただ自分にとってはこの複雑な家の事情が全部は悪く働かなかったというのもふりかえると不思議である。
つくづく人間というのはそれだけ複雑なのである。とても外部からはわからない家庭の事情がそれぞれある。
夫婦が仲良しのなかで子供が育つというのも何かめずらいしということもあるかもしれない、これだけ離婚していればそうなる
ともかく母の一生は不運であり苦しみの一生だったともなる
そして介護されるということもいくら老衰で死んだといっても苦しいのである。
母の不思議は最後まで病気がなかったということである。人間は何らかの病気になって死ぬのが大半なのである。病気がないということは老衰死になる

ともかく人間の一生は苦しみなしでは語り得ない、必ず苦しみの人生がある、だからお釈迦様も生老病死と言ったのである。老も苦しみであり病もそうでありその果てに死があるだけだとなる、母の一生はそうだった。
ただ人間は本当に不可解なものであり家族関係でもそうである。
その力関係とか愛情関係でも複雑なのである。特に自分の家族はそうだった。
母だけではこの家は持続できなかった、自分の幸福もありえなかったのである。
姉がいて母がいて自分の家は成り立っていたのである。
その二人が争っていてもやはりこの家をもりたててたのは二人がいたためである。

母だけだったらかよわい女性だから何もできず自分が負担を背負ようになったからとても楽はできなかった。もちろん仕事に追われて学問でも芸術でも何もできないよう状態になっていた。
自分が楽だったのは二人がいてこそであり二人一体となって自分は負担をまねがれたのである。
だから今になると60までも食事を用意してくれた母には感謝している
それを意識しなかったが介護で全部自分がやるようになって意識したのである。
だから死んでから感謝の心が深まった、墓参りとか故人を思うことは供養は感謝することにある、そうすれば故人も喜んでいるのだ。
私も子供を産み子供のために尽くしてきた。それも60までもそうだった。
何の報いがあるのか、でも最後は介護してくれたし死んでも感謝されているので報われたとなる。


そして何よりも母の死に顔をみて救われたのは一生の苦るしみから解放されたことなのである。あんなに死に顔が安らかになるのかと思った。
人間の体は快でもあるが体があるかぎり病気になりまたいつまでも生きない、老化になり体自体は必ず弱ってゆき、いくら病気がなかったとしても体がある限り苦しむのである。つまり

人間は死なない限り苦しみから解放されない

これだけは確かである。母の死に顔はその苦しみから全面的に解放されたからあのような笑っているような不思議な顔になった。それは何よりも苦しみから解放された苦しみがぬけていったからである
だから本人にとって死は悪いものではない、ただ悲しむのは生きて別れてしまう人である本人にとっては苦しみから全面的に解放されたのである。
だからあのような安らかな顔になったのである。
「ああ、もう自分は苦しむことがない」そういう顔だったのである。
老衰で死ぬにしても人間は苦しいのである。苦しまずに死ねる人はいないのである。
楽に死にたいというとき他の人よりは楽でもそれなりに介護に入ってからもいろいろと苦しんできたのである。


とにかく死は全部悪いものではない、本人にとって悪いものではない
何かこうして死んだ人について文を書くのもカルタシスの作用があるみたいだ。
文を書くということは何でも客観的になるからだろう。
感情的ではなく冷静に見るということである。
何か冷たいようだが自分はこれまで介護ですでに姉から十年近く苦しんで泣いてきたのである。
だから今回はもう涙もでないのである。
ただ明日は焼かれるので骨になるので辛い、葬儀というのは精神的負担が大きい、一人だったら苦しかった。もう一人とかさらにまた一人とかいたので和らいだ。
一人というのは病気とか葬儀とかが家族がいる人より何倍の負担になる
自分にとって姉と母は自分の死ぬまで忘れられない人であることは確かであり供養をしつづけることになるし墓守にもなる、それが残されたものの勤めともなる
ただ姉のことは6年くらいすぎて忘れてきた。
人間は忘れやすい、家族でもそうであり忘れるから救われるとういこともある
そんなに悲しみ続けていたら生きることもてきなくなる


地獄から天国へ(詩)




タグ:死とは何か
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郷土史と関係していた葬儀 (共有する死ー納棺終わる)


郷土史と関係していた葬儀

(共有する死ー納棺終わる)

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葬儀はもともと大変なことだった、だから村八分にしても葬儀だけはしないというのはとても一人でできないからである。
自分の父親が死んだときは野辺送りであり薪とか積んで死体を燃やした。
それを中学生の時に経験したからショックが大きく死のことばかり考えるようになった。あういうふうにして死体を焼くのはすさまじいものでありそれを忘れることができなかった。
だから宗教とは死を克服しない限りないものとして求道してきたのが自分である。
宗教は政治とは関係ないものである。経済とも関係ない、そうした死の無常観から生れたものである。


今回の母の死の葬儀では前の姉のとは違い親戚とか親しい人が8人くらい集まったのとは違っていた。
自分一人ともう一人とあとは組の人が数人は焼香して最後の納棺は三人でした。
でもこの三人くらいは最低は必要になる。自分の場合は一人だったら精神的に葬儀は苦しいと思った。
葬儀はやはり一人の死と直面する、それが70年も一緒にいた家族となるショックが大きいのである。
確かに葬儀屋は今はみんなしてくれるから何かするということはそんなにない、でも何か死者を送るというのは精神的負担が大きいのである。
まず明日火葬場で焼き骨を拾い骨壺に納めるまでは精神的負担が大きい
母の死に顔はいい顔だとみていたがそれも明日はなくなり骨だけになる
その変化がまた大きいのである。
だから精神的負担がそこまで大きいから一人だったら苦しい
二人でも三人でもいると負担を分担できるから楽になる


その納棺で供物とかいろいろなものを生前好んだ食べ物を入れるのだと言われた。
母は干し柿だとか梅干しとか大正生まれだから好きだった。
イチゴも好きだから買った。こんなときはケチはししていられないと思った。
そして考えたことは何か本当は郷土でとれたものを棺に入れればそれもその土地に生きたものとしてにあうものだと思った。
昔は何か葬儀というのはそうしてその土地土地に違っていて風習があったというのは
その土地に生きてきたものが違っていたから風習も違っていたのである。
それは郷土史として探求すべきものでもあった。
その土地土地のものとして生きるということがありその土地でとれたものを食べる、活かされる、そして死ぬときその土地で作られた食べ物を供物としてささげる
それが供養でありその土地に生きてきたものとしての死にふさわしいということに気づいた


この辺では松川浦で石鰈を大晦日とかには食べる習慣があった。それはこの辺で石鰈をとれたからそうなっていた。今は放射能汚染で食べられなくなったのである。
つまりその土地にふさわしい生き方をして死ぬならその土地にふさわしい葬儀の仕方もあり風習が違っているのもその地域地域の生活が違っていたから当然だとなる
そういう地域に生きることがなくなるとき葬儀屋にまかせてしまう、
葬儀屋ではでも葬儀の仕方をいろいろ研究している、地域のことも研究して地域の風習に合わせようともしている。
でも葬儀屋が葬儀をするのと地域で葬儀をするのとでは相当に違っていた
だから何でも専門家してそれが職業になるということもまたそぐわないものを感じる
そうかといって今は葬儀することも専門家に会社にまかせるしかできなくなった。
それはそれでいい面もあったが何か今回葬儀の意義を何か考えさせられた


結局人間は生れた時と死ぬときが一番重要な時である。
だから誕生日と命日がある。ただ死ぬ時は今は葬儀屋に頼んで一人の人間がどこであれ一地域であれ死ぬということの意義を共有するということがなくなった
これまでなら供物でもその土地でとれたものを捧げて土地の人々が集まり見送る、野辺送りとなるとそれは自然へ土へ返すという意義があったとも言える
何か死を自然とともにまたその村であれ共同体で共有する死だった
これは戦争中も戦死した人を迎えるとかなると国全体で共有した死だったのである。
今でも戦没者を弔うのは戦死者は国で共有する死だからそうなっている
昔は昔でいろいろ問題があったが何か戦後の高度成長時代から共有するということが少なくなってきたのだと思う


それが葬儀とかにでもそうなる。ただ前のようにはもどれないのが歴史である。
墓とは何かとか考えてきたけどこれも何かむずかしいのである。
葬儀も死者を見送るといかことで深い意義ある行為である
ただ仏教で戒名とか何か檀家がしきりやる葬儀は必要なくなった
そういうものを否定してもそれに変わる新しいものが葬儀には実は生れていない
葬儀屋は葬儀を便宜的に請け負うだけでありそこに何かしらの意義をがあっても死者を送り葬るにふさわしいとはならない
そううい共有するものがなくなったから今いろいろと墓でも模索されてい葬儀でもそうなのである。
簡易にするというのは金がかかりすぎるのもこまるし金をかけなくても意義ある葬儀はできる
ただそれがどうなるのかわかりにくいのである。


今回わかったとことは一人の死とはその人だけの死はあっても共有するのが人間の死である。
それは一地域とも結びつくから郷土史の分野にもなる、一人の人が生きて死ぬということは家族ともかかわるが一地域ともかかわりいろいろなものとかかわる死でありそれは生でもそうである。
だから死というのは一個人のものとしてあってもまた共有するものとしてある
人が死ぬとういのは一個人の問題として解決せねばならないものである。
死ぬ時は一人だというとき家族でも同伴はできない、看取るにしても結局死ぬ時は一人だとなる
実際に母は看護師がみてもいない間に死んでいた。死んだ後に連絡がきたのだから一人で死んだとなる、家族がみていてもそうなるときがある
死ぬ時は一人であり一人であの世に行く、そしてその時は誰に頼ることもできない
同伴者は信じるものキリスト教ならキリストしかないなとなる
ただ死には様々な側面があることにも気づいた。
共有としての死がありそれは全体と関係して郷土史とも関係していた。
郷土史からみれば共有の死のことであり個人として死のことではない
それは人間が生きることは個人としてだけでなく家族の中で生き一地域の中で生き会社で生き広い国という中でも生きるからそうなる
だから戦争の時の死者は国全部で共有する死となっていたのである。







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2015年12月13日

百歳で死んだ母の安らかな死に顔 (自然と一体化すると荘厳な死になる)



百歳で死んだ母の安らかな死に顔


(自然と一体化すると荘厳な死になる)

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昨日の状態

まだ顔がこわばっている、何かまだこの世に生きようとしている
口の感じからそうなっているのか?


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今日の夜は昨日の顔のようにこわばっていない
何か力がこの世に執着する力がぬけてきているからだろうか?
何か微笑んでいる感じにも見える、死者としての怖さがない不思議がある
母の死に顔は何か安らかなので人に見せてもいいと思った。
なかなかあとは記録していなとこうした写真はとれないだろう。
死者を冒涜しているという人もいるがやはり一つの記録として貴重となる


静粛に母の死に顔冬の水

我が家に母を安置し冬の菊

我が家に母の遺体や朝の霜

死に顔に白百合向きて咲きにけり

しとしとと母は死にき冬の雨


母はともかく辛抱強い女性だった、死に顔をみると唇をしめて何かまだまが辛抱している感じに見える
一方でやっと安らかになった、苦しみから解放されたような顔にも見える
何かほっとした解放された感じに見える
死に顔もまたその一生を物語っているのだろうか?
がまん強い感じはまだあるがそれと同時に安らかな面持ちにも見える
顔はやはり何かその人の一生を語るのか?
やはり死んでも何かを語っている、そこに死に顔の不思議さがある
顔はやはり死んでも精神を表現している
ただそれも一日二日でありあとはすぐ死体は腐乱してゆく
つまり一日二日はなお死人でも生きている感じになる

良く成仏にこだわるけど母の場合はその一生を死に顔に凝縮させている感じである。
唇をしめて辛抱強い、そして性格が柔和だから何かその苦しみから解放された面持ちになっている
人間の死に顔もまたそれぞれの一生や個性を語っている
自分は何か冷静に見ている。その前にずいぶん悲しんだから涙もでない
それで母の死に顔を冷静に見ている
葬儀屋の人に聞いたがみんなが安らかな顔ではないという、事故死とか自殺死は安らかにはとてもならない、だから商売でもそういう人に接するのは嫌になるし
不気味になり、何らかの精神的影響を受けることもある
死に顔から死体は完全に死んだというのではなく何かそこから発するものがまだある


「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭頂から後光(ごこう)が現れ大きくなる。次第にそれは形を現し、ついに抜け出した肉体と全く同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上と縁を切るのである。」

スピリチャルではそう言っている。だから死んでまもなくの状態はまだ生きているのだ。生の延長がまだ残っている、生前の生が凝縮されて残っている
確かに母の顔にはそれを感じる、だから完全にこの世を去っているように見えない
今も歯をくいしばりこの世に残り生きようとする顔である。
もともと辛抱強い人だったから顔もそうなっている。
昨日死んだのだが今日の午後からの死に顔を見るとさらに安らかになっている。
やはり徐々に顔も変わり体もかわりやがて体から霊がでてゆくのかもしれない。
いづれにしろ人間は神秘的存在であり死んだからすぐ終わりではない、死後まもなくはまだ生きているのだ
だから生きている人のように語り一緒に寝る、死んだ人に思えないからだ。
顔の中にその人の心が以前として残っているのである。


俳句とか短歌でも死をテーマにしたとき荘厳なものとなる
死ぬということは平凡な人でも何か厳粛なものを感じるからである。
そして死というのは自然に映えるとき荘厳なものになると思った。
自然の中での死が理想的である。死ぬとき本当に自然と一体化する
自然の厳粛さと人間の死が一体化して自然はさらに重さを加える
つまり自然も人間の死によって一段と深い意味を価値を帯びることにもなる
だから都会の死には自然がないから荘厳な死がないのである。
ビルの谷間で死ぬのだから何か機械の部品のうような死にもなる
人間は自然の中でこそ意味と価値を帯びるのであり都会にはそれがないから死はただ部品が一つ消えるという感じにすらなる
それで常に言っているように人間の死すら自然によって価値と意味を与えられている
そういう価値観をもつ時田舎に生きるということの方がいろいろたりないものがあってもいいとなる。
つまりそういう価値観は物質的豊さとは違ったものでありそういうものを見直すことが新しい文化を作り出すのである。
それは経済的豊さとかとは違ったものであり原発とかに頼るものとも違う価値観に生きることなのである。
自然の中に荘厳に死ぬということは別に経済的に豊でなくてもできるからである。

タグ:死に顔

2015年12月12日

母(小林トミ子)百歳は今日死亡しました


母(小林トミ子)百歳は今日死亡しました

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今日母の命日となる冬紅葉



5時ころ病院に行ったときまだ生きていた。でも一週間くらい目が閉じて相手が誰かわからなくなっていた。
その時意識不明になり死んでいたのだろう、意識がなくなれば肉体が生きていても死んだと同じなのである。
でも最後まで目がこちらを見ているようだった。姉の場合は目が完全に死んでいた。
その死に方は悲惨だった
母の場合は眠るように死にたいとかいつも言っていたがそのことだけはほぼかなった
体が冷たくなっていたのだから死ぬということはわかったかもしれない

でも血圧が下がっていないとか看護師が言っていた。
ただ今日は酸素吸入をしていた。だから悪くなったのかと思った。
そしてまもなく死んでしまったのである。
やはり体が衰弱しているからもうもたないということであった。
つまりその機械と数値で計れない手とか体をさわってみればすでに冷たくなっていたのである。
それはもう死ぬということだったのである。機械に頼りすぎるのも良くない


ともかく母の一生はいいことはなかった。ただ最後だけが楽に死にたいということをいつも言っていたがその願いだけはかなったのである。
なんか死んでも悲しくないのは自分は姉と母を介護して随分悲しんだ
だから涙もその前に尽きたともなる
最後は家で死にたいと言ったので家で今日と明日と家で一緒にいて送ることにした


合掌

老木の語ること(詩) (原発避難区域で老人が帰りたいのはなぜ)


老木の語ること(詩)

(原発避難区域で老人が帰りたいのはなぜ)

その土地に根付いた老木は語る
私はここに生れここに育ちここに老いる
私はこの地でこれまで生きてきた
幾度もの寒い冬を耐えて生きてきた
北風が唸り雪が積もる日もここに生きてきた
春は桜が咲きタンポポなど花が一斉に
この地をおおい芽吹きがある
さえづりはここにひびき春があり
夏は涼しい木陰をなして
涼しい風がこの地にそよぐ
遠くに流れる川の水の音が聞こえる
秋の日がさして晩菊だかたまり咲く
この村は昔からあり継がれた村
一枚一枚と木の葉が散り
落葉に埋もれて家々は静まる
私はこの地に生れ育ちここに老いる
そしてやがては朽ちてここの土となる
その私が今さらどこに移れるのか?
私はここが死ぬ場所なのだ
私の思い出はここにあり他にない
私はここに生れここに育ちここに老いて
そしてここに死ぬこの地の土となる
私の生きた場所はここであり他にない
私の一生はここで終わる
そして私の思い出はここに生きつづける
そうしてここに生きる者を見守っている

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人間も生物だからこうなるのが自然なのである。この辺で故郷に住めなくなったけどもう老人はその土地から移り住むということは酷なのである。
それで98才の女性だったから原発で避難するときもういいと墓に入りますと言って自殺した、その気持がわかる。老人は長く生きた場所から離れにくいのである。
その人が生きたのはその場所であり思い出もその場所にあり他に思い出をまた作ることはむずかしいからである。
だから老人だけは避難区域でも帰りたいとなるのはそれは人間も生物の一種だから本能的にそうなる、それが自然の生なのである。土に還るというときもそうである。


そして年取るとわかるけど人生は一回しかないのである。思い出を作る時間も限られている、もう二度と思い出を作る時間がなくなるのである。
人間は結婚するにしてもそんなに何度も結婚したりできないだろう
その結婚でも思い出を作れる時間は限られているのである。
だから結婚は一度して老いるまでつづくのがいいとなる
人間が生きる時間は限られているのだから一人くらいしか思い出を作る時間がないのである。
人間はそんなにいろんな人と交わることはできないのである。
だからなんであれ自分の場合60年間も一緒にいた家族の思い出が一番の思い出だとなる
その他は一時的でありそれより瞬間的にすれ違ったというくらいの出会いになってしまう最後はさよならだけが人生だとなってしまうのである。
人間のこの世の出会いは長くはつづかない、遂に一瞬すれ違うだけだったとまでなる


ただある土地に生きることはその場が記憶として残りつづける、記憶は土地とともにある古い碑などもその土地とともにある記憶なのである。
そして人間は死ぬと死ぬ前からも忘れられるということがある
人間は本当に死ぬともうすぐに忘れられる、自分の世代になると次々に人が死ぬからいちいちもう記憶できない、有名人でもそうである。
あの人が死んだのか、あの人も死んだのかと、次々に同世代の人が死んでゆくからである

奇妙なことだが最も憎んでいる人がいたとしたらその人が思い出の人となることもある
なぜならたいがい忘れて無関心であり思い出せない、ただ泡沫のうよに人は消えてゆくだけである。そんな人がいたのかどうかすら最後はわからなくなる
それほど人の出会いははかないものかと驚く、さよならだけが人生だ、ただ人間は次々に消えてゆくだけだとなる
それでもその土地に根付いた生活は記憶として残りやすい、それは土地があるかである。土地とともにその生が記憶されているから長く記憶されるのである。
その土地が奪われたとき今回のように他に移れば記憶も失われるのである。
だから老人は避難区域に帰りたいとなるのは人間も生物の一種だからそうなっているのだ。

タグ:老木の詩
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2015年12月11日

避難解除になる小高の不安 (その女性は鹿島区の人の不満すら知らなかった)


避難解除になる小高の不安


(その女性は鹿島区の人の不満すら知らなかった)



家の庭を作ってくれた小高の人は塚原であり津波の被害にあった。その家は新築の豪勢な家だった。
そこには帰らないという、そこは津波で住めない地域になったからだろう
でもその人は原町でも事業していたから補償金は相当なものになっている
それで一時土地がないかと来たことがあった。
その土地はみんなが探していた、「土地がないか」と常に聞かれていたからである。
例えば鹿島区で一番いい場所は西町でありそこの土地は震災前は70坪で7百万であり
誰も買うものがなかった。自分はいつもその土地と値札をみていたのである。
あれを買っていれば今だと三倍くらいになってるかもしれない
大手の大東建託が十棟以上のアパートを建てたからである。
今度は大きな復興住宅が建つし新築の家はまだ建っているが一軒家は前のようには建っていない、小高の人は金をもっていても土地の確保が容易ではないから家を建てることは簡単にはいかない


ただ来年4月に避難区域が解除することでどこに住む不安になっている、小高に帰っても前から知っていた人と今日病院であったけど暗くて怖いんだよと言っていた。
確かに一万くらいの人口があったところで2000人くらい帰ったとしても街でも街からはずれたら暗くなり怖いというのはそうかもしれない、街自体がもう街という感じがしないだろう。それで帰ることを躊躇している人はかなりいる
そして老人しか帰らない町になってしまうからさらに淋しいものとなるからだ。


その人は何か5年近くいても自分たちの立場も何もわかっていないのは不思議だった。
鹿島区の人が補償金をたいしたもらえないから小高の人たちに大きな不満がありつきあわないとか言ってもそのことすら感じていなかった。
そして小高の事情だけを言っていた。その人は何かあまり仮設内でも交流がないのとその人が何かそういう事情を知らないというより人間が何か苦労を知らないからなのか
何かぬけている、女性でもいろいろいて何か世間をわたる能力にたけていない人がいる
女性には何かそういう世間知らずの人が相当いる、自分も実際は世間知らずだった。
だから最近知り合った女性は何か苦労の連続であり世間を知っている不思議があるからあの人の方が変わっていたとなる


ともかく小高の人は今相当先行きでも不安になっている、まず小高に帰ってどうなるのかそれもわからないし見通しがつかない、若い人は帰ってくるというけど帰ってこないとみるのが普通だろう、避難解除になった楢葉では5パーセントしか帰らなかったということでもわかる、帰れるような状態にないのである。
その女性も補償金もらっているけどこれからが不安だと言って自分に何かいい方法がないか聞いたのである。
大きな復興住宅が建つから仮設を出たらそういう所に入るにしても今度は家賃がとられる、自分の墓地の前の復興団地には家賃7万で入っている人がいる、家族が多く部屋数が多いと高くなる
その家賃を払い生活費を払うとなると金が必要になるけど老人だから働くこともできないということがある。
あの人は松川浦の魚売りしていたけどそういう仕事もなくなった。
ただ車が運転できるので有利なことはあるがそれでも年になっているから働くことがみんなむずかしくなっているからあと5年補償されればなとみんな言っているのである
ただあの人はなにかのんびりしているというのはそういう性格なのと何かお嬢さん的だからかもしれない,何か5年もいて近くの事情もわからないのもそうだしほとんどこの辺のことがわかっていないのもそうである。


小高に一億円あっても何か住んでもいいことはない、店もない、病院も入院できない、サービスが受けられないとしたら金があっても金が活きてこないのである。
だから原町とか鹿島とか相馬市でも新地にも小高の人が家を建てたというのもそのためである。小高に帰るということがそれだけむずかしいのである。
だから小高でも家をリホームするより壊している、竜田駅前の家もリホームしていたのかと思ったら壊していたのである。
飯館村では千軒の家が壊されたことでもわかる、つまりもう帰って来ない方が多いのである。
要するに避難区域が解除になっても楢葉町で5パーセントしか帰らなかったように簡単には回復しないし老人だけが帰り回りが暗くて淋しいとなるし住みたくないという人が増えてまた人口が減ってゆくかもしれない、そういう限界集落に住むのは誰もさける
ともかく避難区域解除になるこは小高の人たちにとっては今度は厳しいことちなることは確かである。


そのことを鹿島とかその他の地区でも同情しないかもしれない、お前たちたんまり補償金もらったのだからいいだろうとかなる、その女性がそのことを感じていなかったということはおかしなことである。
ただそういうことを感じないで5年近くも暮らしていたということも不思議である。
それだけ今は別に金があれば困らない生活になっているからなのだろう。
何か避難して困ることがあればこうはならないだろう。
誰かに助けてもらうとか頼みに来たりするからである、そういうことがなければ何も頼る必要がないのだから鹿島の人が不満だということすら知らなかったのである。
それが今度は避難区域解除されてどこに住めばいいのか、帰っても暗く淋しいから嫌だとかなり家賃を払うのも困るとかこの先の生活をどうするのかとか不安になってきたのである。
そのことはわかっていたことであり早くから手をうつべき問題でもあった。
回りの状況も知らずにのんびり暮らしていたというのもおかしなことだったともなる





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2015年12月10日

老人は男女を生きることができる (男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


老人は男女を生きることができる


(男女の神秘の考察ー東西文明論としても)


主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2:18-25)」


主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

人間はまず男かつくられた、それがmanであり女はwomanになった。wobmとは子宮のことである。女には子宮を与え子供を生むようにした。
最初が男だということは男を女に変化できることなのである。
現実的に男性の生殖機能から女性の子宮とか他の女性の生殖器に作り替えられるという、それは科学的にも説明できるし構造的にそうなっている
女性とは男性の変化したものである。女性にも睾丸とにたクリストフがあることでもわかる。

生過程の性分化は、あらゆる場面において男性への分化の方が時期が早い。その時期を過ぎて男性への分化が起こらなければ、女性として形成される。

陰茎と陰核に限らず、男女の外性器は発生上は同じ構造である。元々持っている男性器の外性器は、原則的にはそれぞれ各部がそれに対応する女性器に作り替えられる。例えば上に挙げた陰茎の場合には、その亀頭部を陰核に作り直す。表陰嚢は大陰唇に相当するが、これは膣の内壁としても利用されるらしい。

これなども男性が先に作られ女性が男性の変容したものとして作られたことを証明している
ここでは女性の方が先に作られたとしている、男性と女性に分化する過程にその秘密を解いている。生殖器は一体なものが二つに分かれて変容した。それは一つのものだったのであるから両性具有になっても不思議はない、それは肉体的だけではない、心でも両性具有となる、老人になると一般的にそうなりやすい、男性は攻撃な性から女性の受容的な性に変わり穏やかに丸みを帯びたものとなる、でも男性的なものは持続している

ただなぜ骨から作られたのかということである。骨は人間を焼けば最後に残るものだし骨は肉がなくなっても残る、だから骨が人間の体で重要なものと認識した。
骨から人間が再生できる、骨から生命体が作られる、骨に肉をつけ霊をふきこむと生き返る、男の肋骨から女性が作られたように骨から人間が再生できる
ともかく聖書の語りの残したものも謎に満ちている、ただ科学的に見てそれがまるっきり架空の作り事ではない、科学的にも説明出来ることに聖書の不思議がある
聖書はそもそも奇跡を信じなければ成り立たない、そして奇跡が人間に起こるのだ
科学では絶対説明ができない奇跡が現実にあるしそれを記したのが聖書である。
だからただ人間はみんな死んで終わりだと考えてはならないのだ。
そんなだったら人間に何の栄光もないとなるかららだ。

「あばら骨のような比較的短い骨の骨髄は(骨の芯のやわらかい部分)は赤色骨髄であって盛んに裁縫分裂して急激に増殖する骨髄細胞をふくんでいる
骨髄細胞を盛んに分裂増殖すれば細胞培養によって人ひとりの数の細胞ぐらいわけなくできる」(創造論の世界、久保有政)

考えてみれば人間の肉はすぐに腐りなくなる、でも骨はいつまでも残っている
その骨を基にして生命の再生を計ることは科学的なのである。
また女性を肉の肉だというとき男性の肉が変化して女性の肉になったのである
だから肉の肉なのである。女性が男性に求めるのは肉だけではない、子宮があり子供を生むことでありそれが最大の相違である。

人間は男女があっても女性でも男性的な人がいるし男性でも女性的な人がいる。
両性具有というのもいるそうだから肉体的にもそうであり精神の面ではみんな両性具有である。
そして「柔和な人達は、幸いである、彼らは地を受け継ぐであろうと言われるのか?
それは男性的なものではなく女性的なものなのである。父と呼んだエホバなるものは男性でありだからこそまずその似姿として男性を作った。次ぎにその助けてとして女性を男性から作ったというのはまさに神の業である。
肉食獣は獰猛であり草食獣は柔和である。肉食獣は神の御意になく草食獣が神の御意にあるのか?肉食するものを神は嫌う、柔和なものを神の御意にかなうものとしている
それは不思議に女性的なものに柔和なもの優しさがある
それは男性にあるとしても女性に体となり具現化したものとして存在させた。
女性は男性を柔和にさせる、その体は優しさに満ちている


ただ女性にも男性的な女性がいてその人は女性を友達にするより男性がいいとしている
体つきもそういう人は肉食系であり今の若者は草食系だとして批判している
ヨーロッパは狩猟民族であり肉食系でありアジアは穀物を食べるから草食系だとなる
ヨーロッパ文明は獰猛な戦争好きの男性原理から成り立つ、アングロサクソン系とかアーリア人は特にそうである。相手を暴力でもってでも征服する。それ故に武器の発達があり機械の発達があった。これほどの機械文明になったのは西欧型の狩猟文明が基にあったからである。
ヨーロッパとか西と東と分けるがアジアというときイスラエルはアジアなのである。ヨーロッハは地中海をわたった方向をヨーロッパと呼んでいたのである。
宗教はアジアからはじまった、アジアのものであり東のものである。
ヨーロッパ文明がキリスト教文明だというがそのキリスト教はアジアのものであった。
だからローマ教会化した、政治化したのはヨーロッパ文明であった
宗教はアジアのものであり科学や機械や法律とかはヨーロッパ文明である。


資本主義とかもヨーロッパ文明から発展したものでありアジア文明ではない
そこに男性的原理が強烈に働く文明である。競走原理とか上下の支配の強固さとか階級制とかでもそうである。支配するものと支配されるものに二分化されるのもそうである
過度な機械文明であり環境を破壊する文明である。それはもう限界に来ている。
その結果としてこの辺の放射能汚染で住めなくなった現実がある
過度な機械文明は危険であり制御すべきものとなる
ヨーロッパ文明の延長としてアメリカ文明がありその挑戦を受けたのが日本であり明治維新だったのである。
だからアジアが復興するルネサンスになるというときそれは日本が再興することなのである。
それは資本主義とか競走原理の弱肉強食の男性的原理から柔和なる優しに満ちたアジア的原理に回帰することになる
つまりそれが宗教たからである。それはキリスト教でも仏教でも同じだからである。老子の教えでも思想的にはにているからである。
ただアジアというとき何なのか?それは広すぎて今なお不明確である。
ただ西欧文明と延長のアメリカ文明はもう限界に来て衰退してアジアが再び勃興することはまちがいない、そこには欧米の原理ではない新しい文明が再興するのである。


男性的なものと女性的なものは補完するものであり不思議なのは老人になると両性具有となり精神的にそうなる、荒っぽい男性からたいがい柔和な男性に丸み帯びたものとなる
それは性欲の減退とかと関係してホルモンのせいもある。
だから老人になってからは中性化するからかえって女性と男性を若いときのように取り合うとかより融和的になるのが一般的なのである
もちろん個人差があり若いとき同じように血気盛んな人はいる。ただ一般的には男女の区別がない幼児のような子供のような時代に逆戻りするのである。
その時美人とか容姿もあまり関係なくなる、それより話が面白いと別なものが注目されるその女性は若いときだったら近づくのも嫌だったろう、体型でもあまりにも無様なのである。でも何か話してみると違っている、面白いのである。
美人は三日みればあきるというのは本当である。何かそれより精神的なもの話が面白いとか性格がいいとか何か別な精神的なものが重要になってくることは若いときからあったが老人になると外見とか容姿よりそうした内面的なものなどが重要になっている
老人は外見はみすぼらしくても内面は若いときと違った充実しているのである。
若い人が老人なんか無駄だというが早く死ねというが若い人は内面が精神が充実していない、ただ血気盛んな肉体があるだけだともなる
だから何か芸術でも深いものは創作出来ないのである。精神的に成熟できないからそうなる


老人になることを嫌うのは肉体的衰えがあり外見からだけみるからである。
精神は全く違ったものとして充実している、若い人はどうしても精神的には成熟できないいくら背伸びしてもそうである。それには時間がかかるからである。
自分の創作でも若いときに経験した旅でも今になるとその意味を深くして創造でる。
つまり旅でも旅しているときはその意味とかがわからないがあとでわほかるときがある
その場について後で深い洞察ができてくる。あちゆる経験でもそうである。
なかなか若いときでも体験しているときは夢中でありその意味を深く洞察できないのである。
老人になってはじめて本当の実りの季がくる、だがら自分も今は創作的にも充実している本を読んでも深く読めるのである。若いとき本は買うだけであり読んでもわからないのが多かった。今だと深く読めるから批評に向いていると思うようになった。
批評はやはり一段上の高みにたたないとできない、,人物批評でもそうである。
批評はだから老人に向いているのである。


若い日の熱情と火花が燃え上がる
一人の人間に男女があり
老人になると二つの性を生きる
老木は大地に根付いて深い知恵を語る
人間は以前として解明されていない
神秘であり謎である
自分自身すら謎であり謎を生きている
青春を生き壮年を生き老人を生きる
若者は老いがいかなるものか知らない
私の心は何になったのだろう
私の体は枯れてゆくのか
私の体も枯れてはいない
人間は死ぬその時まで神秘体験をする
旅した私の心は世界を駆け巡っている
郷土を生きて世界を生きている
人間は奇跡的な存在である
私は死ぬとき奇跡の変容を遂げる
風雲の中に私は轟き去ってゆく
その時来世への約束の虹がかかる