2016年04月30日

郡山市から会津(三島)に原発の爆発で逃げた人の話を聞く (飯館から霊山へ行く)


郡山市から会津(三島)に原発の爆発で逃げた人の話を聞く


(飯館から霊山へ行く)

ffffhhhh1234.jpg

ffffhhhh123455.jpg
前乗という場所で壊される家

飯館村ではすでに千軒が壊されたというから驚き

ffffhhhh1.jpg

草野にできた復興住宅

中は相当に広い、奥行きがある

子供をもった家族向きである。

4所帯が入れて四つつくるそうである。二つはできている

inossssss123.jpg

増えたのは猿とイノシシである


霊山の紅葉館であった老人は郡山市の人だった
あの人は何か話好きだったからいろいろ話しした

「私はね、原発事故で爆発したとき、会津の三島に逃げたんですよ」
「郡山でも逃げた人があるんですか?」
「私はね、戦争経験しているから広島の原爆とか思いだ思い出したんですよ」
「あの爆発を見て危機を感じた人はいます、また感じない人もいました
自分は30キロからわずかにはずれていましたが危険を感じなかったですよ
30キロはずれたところは屋内退避と自主的に避難があった、バスが用意されてそれの乗らないとあとは避難できないと聞いたときそんな危険な状態なのかと思った」
「私はね、会津から三島の鶴の湯に逃げたんですよ、一カ月いましたね、でもそのあと原発の避難者がいっぱいおしかけて追い出されたんですよ」
「郡山だと避難命令など出ないから逃げた人はまれでしょう」
「そうですけど子供のとき一応戦争体験していますから逃げたんですよ」

この人は郡山市に60才頃なのか分譲住宅を買って大宮から移り住んだ人だった、それから20年とか住んでもう故郷の両親も死んだからここが故郷ですよと言っていた。
その老人は元から住んでいるわけでもなく仕事をリタイアして郡山に住んだ。
だから20年とか遊んで暮らす身分だったのである。全国を旅行したことも言っていた。
そういう老人も増えている、阿蘇で地震があったけど被害があったのは茨城県のツクバの人が地震と放射能をこけるたに移住したという、それも馬鹿見たなとさんざん言われている。放射脳だとかさんざんに言われる
まず郡山市でそれだけ危機感を感じるというのはやはりまれだろう。

ただその人は広島の原爆などのことを思い出して危機感をもったのである。
自分はあの爆発を見て危機感を感じなかった、そもそも放射能のこともわからなかったのである。
危機感を感じない人は感じない、浪江の人も一番危険な津島に逃げた。その時東電関係の人がいて放射能のことを知っていてこっちは放射線が高くなると街に引き返したという
街の方が海側だから0、5とか低かったのである。
爆発したときみんな混乱していた。異常に危機感を感じる人もいたが危機感を全然感じない人もいた、自分などはそうだった、飯館村でも爆発しても村長が避難するなととどめていたのである。それが批判されている。
これは放射能がわからないというより村長にしてみれば村民が出てゆくと困るからであるでも村長は村民を思うことで村長なのだけど村長は村長であるために避難させなかった。

今でもそうだが村民がいなくなったら公務員でも村長でも職を失う危機にさらされるからである。
そして爆発して大量の放射性物質が流れた、それは最初の一カ月間くらいずっと放射性物質は大量に飯館村とか福島市の方に流れたのである。
でもその間飯館村の村民は避難しなかったから被爆したと言われる
南相馬市では二三日間くらい放射線量は特別高かったがあとはどんどん低くなり影響がなかった。
今では0・2だが最初から0・2だったのである。樋とかを除いてはそうである。
郡山市でもそのくらいであり除染は必要ないと言われたそうである。自分の所でも0・2であり0・23以上しか除染しないのである。

飯館村の放射線量を計ったが佐須までゆく道の草むらは1、5とかであり佐須の牧草地は前は3あったが今はその半分になっている、木材は1であり前は3あったから低くなっている
意外と放射線量は低くなっている、でも自分の所は0・2から変わりないのである。

あの人はいろいろ話好きだったのだろう。ただ大宮から移り住んだ人だから歴史には詳しくない

「郡山にタダノ(多田野村)があるんですよ、そのタダノとこの霊山は関係している
南北の争いでそのタダノの人たちが落ち延びて南相馬市の鹿島に住んだんですよ、字は但野とか只野とかに変わっていますけどまちがいなく多田野村から来た人たちの子孫なんですよ 鹿島には只野、但野姓が多いんですよ」
「タダノ村は知っています、まあいろいろあるんでしょう」

その人は83才であり胃ガンで胃を切除している、だから孫とかは山に登ったが上れないと食道にいて話したのである。

帰りに佐須から草野によったら街の中に立派な復興住宅が建っていた。その回りは貧弱な住宅である。たいがい田舎では格安の住宅があるから貧弱である。家賃は4000円とか格安である。仕事している人がいた

「ずいぶんこれは立派ですね」
「中は広いですよ」
「子供をもっている家族向きですか」
「老人向きではない」
「飯館辺りはみんなやはり帰らないでしょう」
「こういう立派な復興住宅を作って帰って住まわせたいのかもしれさません」
「それはそうかもしれません、帰って住む人がいなくては村はやっていけまんせんよ」
「そういうことです」

本当にあの復興住宅は今まで見たもので一番立派であり住みたくなるような外観でもあり中もそうである。木造だからあたたかみもあるからいい。
来年で避難解除になるとしてどれだけの人が帰って来るのだろうか?
これも疑問でありそもそも村としてやっていけるのかという疑問がある
そもそも自治体が運営できる人口はいくらくらいなのかとなる、葛尾村は3000人くらいであり良く自治体として成り立っていると思った。
飯館村は6000人いたのである。自分の予想としては村として維持することがむずかしくなり自然公園みたくなってしまうような気もする、自然公園として管理する人は住むけど村として成り立つのかとなる、村というときそこには生業がないと成り立たない

その生業が放射能汚染されて食糧も自活できないとなると村として成り立つのかという疑問がある。
菊地製作所は村を維持するための会社になっているがそれだけで村が成り立つのかという疑問がある、第一千軒の家が壊されたのである。
その人たちは飯館村に住まないから自分の家を壊した、となるとその後に誰が住むのかとなる
福島市でも補償金で家建てたとかいろいす言われる、だから村に帰る人がこうなるとどれだけいるのか?村が成り立つのかという疑問になる

帰りは遅くなり夕方になり出てきたのは猿とたイノシシである、道まででてくるから警戒感がなくなっているだろう。
増えたのは猿とイノシシでありそのために駆除もしている、その檻もあった。
飯館村には山桜が咲き家々には枝垂桜が咲いていたが人は住んでいないから淋しいとなる
いづれにしろ津波や原発事故などでどれだけそれぞれの対応があったか知りえるのはほんの一部である。なぜなら福島県だけでもその被害者は膨大になっているからである。
一人一人がどういう対応とったとかその後どうなったのかなどわかりえようがないのである。

タグ:飯館村
posted by 老鶯 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年04月29日

八重桜(小さな町の散らし)



八重桜(小さな町の散らし)


yyyyyyyyyyyeee1.jpg

八重桜風雨の中に赤く咲く

八重桜ここに住みつく人のあれ

雉の鳴き鶯の鳴き蛙鳴く

原町の街の広しも夕燕

鶯の鳴いて種蒔く男かな

菖蒲咲き老舗のあらむ通りかな


通りにそ菖蒲の咲くもあわれかな人行くまれに店なく淋し

福祉の湯入りてあわれ我が一人白き菖蒲の咲きてひたりぬ

店もなき街の通りにあわれかな紫と白の菖蒲映え暮る

街中の畑に菜の花映えにつつ漬け物会社に働く人かな

streeeyayame123.jpg


介護十年していたときほとんど遠くに行かない、一万の町の中でありあとは隣に4、5万の街がありそこにゆくだけである
ずいぶん生活範囲は狭くなったと思う
というのは絶えず遠くを旅していたのが自分だったからである。
10年くらいは海外旅行だったから余計にそうなる
それでも家事に追われて以前として忙しいのである。


冬は福祉の湯には行っていなかった、8時間くらい水につける電気であたためるものを使っていた。これは時間がかかりすぎるしシャワーは壊れたし自分の風呂は直さない限り十分には使えない、でも金がかかるからやめた
家を直すときりがなくなる、本当は古い家なので冬が寒いから直したいが金がかかりすぎる、福祉の湯は広いし泡が出るのもあるしシャワーでも使いやすいのである。
そしてそこでは入る人は少ない、いつも一人で入れるのがいいのである。
混むのはカラオケやっている時だけだろう

そういう点贅沢だと思う、何か一人暮らしは食事でも風呂でも共同的なものというか家でなくて外でできるのものがいい、一人分はだめんどうだしかえって金と手間がかかるからである。
湯に入りながら庭に白い菖蒲が咲いていたのを一人見ていた、のんびりしていい。
この街の新しい通りでもそこには店がないのである。
その通りに菖蒲が咲いているし菖蒲の季節である。
でも何か店もないのが淋しいのである。どこでも商店街は消滅している
でもなんか商店街がないということは街が死んでいることにもなる
通りもせっかく新しく作っても活きていないのである。

菖蒲が咲いて静かに老舗があるというのが何かあっている
もう一軒の店が成り立たなくなっているのだ
街というのはやはり田舎でも必要なものだと思う
街がないと店がないとその他何か街にあるべきものがある
そういうものがないと人間的暮らしができない
湯でも離れていると簡単には利用できないのが問題なのである。
福祉の湯は近いからいいのである。それでも冬は自転車だと湯冷めするから利用しなかったのである。

桜は散って八重桜の季節に変わった、桜と八重桜はかなり違ったものである。
桜は散るということを前提にして咲いている、散るのが美しいのである。
桜はだから遠くで見るのもいいのである。
梅とか八重桜は近くで定着して見るのがにおうのがいいとなる
昨日は風雨の中に咲いていた、その赤さが何かあたたかさを感じた
八重桜は何かあたたかみを感じる花である。
ほわほわぽかぼかとした感じになる、これは桜といっても普通の桜とはその性質は全く違う。八重桜の方が何か人間をイメージするのである。

小さい町ではたいがい街中でも畑がある、そして菜の花が映えていた
そういう光景はなにか心をなごませるのである。
家で埋まっていたら嫌なのである。前は畑に菖蒲が咲いていたがそこは荒地になった
それも淋しいとなる、この辺の街の様子が大きく変わってしまった
新しい家がどのくらいたったのか三百軒なのかわからない、その数は小さな町にしては多いのである。
いづれにしろ自分の住んでいる街は一人暮らしには不便である。
特に気軽に入れるレストランとかがないことが一番不便なのである。
いつも行っていた仮設のあつみ食堂は臨時休業になりこれから再開するのかどうかもわからない、でも家があるかぎり簡単には移動はできないのである




2016年04月28日

心に青雲のフログの趣旨は何なのか? (キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)



心に青雲のフログの趣旨は何なのか?


(キーワードは「相互浸透」「像で認識しろ」など)


ここも毎日読んでいる。批評家として優れていると思う、相反するところもあるが共感している
フログでは毎日読むのが少ない、それだけ書き続けることが大変なのである。
言っていることが首尾一貫している、内容も濃いものがあるから軽々に批判できなくなる俳句とか短歌を自分は作っているからそのことを批判しているから興味をもった

著者は人間の認識がどうして作られるのかを追及していることは確かである。
自分は相当旅したからそのことからいうといつも書いてきたけど最初は鉄道の旅が主だった、だから今でも鉄道が好きなのである。
でも鉄道の旅は人間が認識を作るのにはいいとはならない、鉄道の旅で認識したのが鉄道の駅名でありそこから何か地名に興味をもつようになった。
鉄道の旅は自分は暇だから普通車にのる、すると景色も見るのだが駅にとまると駅名が気になる、そこがどういう場所なのかということを駅名で記憶しているのである。
人間は自然でも旅するのにも何か手がかりというかとっかかりが必要になるのだろう。
それで歌枕ができた、その場所を象徴的に示す場所としてそこは寄るべき場所としてできた。人間はそうした目印になるものがないと不安になるからである。


人間が認識するというとき一番むずかしいのが地理とか地形とかを理解するときである。これだけは地図をみてもテレビを見てもわからないのである。
その場に立たない限りわからない、高さとか風と光でその場で感じるものはとてもテレビとかでも伝えられないからである。山でも遠くから見るだけでもいいが実際は上ってみれば一番いいのである。ただ登山となると体力がない自分には重圧であった、でもシナイ山まで上ったことがある。そこは草木一本もない荒寥とした山々である。岩山である。
外国の山は一般的に岩山である。中国でもそうでありだから荒寥としている
そこかに本当にモーゼが上り十戒を授かったのかとなる、それは本当に厳しい自然であるさらにヒマラヤも一回上ったけどこれも日本では想像を絶する世界である。
なぜなら富士山の高さまで上ってさらに8000メートルの山を見るからである。
そういうものを認識すること自体実際に体験しなければできない、実際は6000メートルくらいまで上らないと実感できないのである。そうなると体力的に厳しいから上れないとなる

この自然を認識するとなると本当は超人的体力がないとできないともなる
山という巨大なものに接するとき人間も山を認識するとなると山と心も体も同化するということか必要になるからである。
だから正岡子規が病人で俳句でもろくなものができなかったというのはそのためである。それは啄木にも言えることである。でもあの若さであれだけのものを作れたということに自分は凡才だから感心する、どうして自然に対する感性がそんな若くしてもてたのかとなる

自分は子規の「写生俳句」を基に作ってきた。その写生俳句というのが心の青雲の著者が言うように感情をぬきにしたものだったのである。
俳句は短いから悲しいとか淋しいとかうれしいとか感情的な言葉を入れると表現できないから写生に徹しろとして子規が唱えたのである。そこに功績があったのである。
だからいま写俳という分野がデジタル化ハソコンに生れたことでもわかる
写生俳句は写真と相性がいいのである。写真は見たままを写すから写生俳句になるのとか共通しているからである。
ただ写生俳句は深く鑑賞できないものにはつまらないとなるかもしれない、これのどこがか芸術なのとなってしまう。「鶏頭の一四五本もありぬべし」というのがそうである。
これが俳句なの芸術なのとなってしまう。
要するに一本あるのと三本あるのと五本あるのと花でも感覚的に違ってみる、だから数にこだわるのである。ただこれを鑑賞するとなるとこれのどにか個性があり芸術なのかともなる

八重桜風雨の中に赤く咲く

yyyyyyyyyyyeee1.jpg

今自転車で買い物に行き雨にぬれた、まさにこの時八重桜は咲いていた、赤いというとき風雨の中でも赤いということである。
これは写生なのだが自分が風雨の中にあったからその赤さを感じたのである。
赤いというとき何かあたたかいとかにも通じている、写生俳句は背景を読まないとイメージしないと平凡なものになるのである。鑑賞するものによって左右されるのが写生俳句なのである。

ともかく人間は病気になれば病的な見方しかできない、これはどうにもならないのである自然は病的なものではない、健やかであり生命力にあふれた存在でありそんな病的な人が見るのとはまるで違った強力な存在である。
自分は体力的に劣っているからなんとか体力をつけようと努力してきた、でも天才ならすでにそういうものがエネルギーが過剰に与えられているから努力しなくてもできる
そういう点で自分と心の青雲の著者は共通したところがあるので共感している
自分が師とした上野霄里氏は天才であったから偶像化される
天才と凡人の差があるからそこに偶像化する危険性があったのである。
心の青雲の著者の言っていることは理解しやすいのである。天才的なものは凡人にはついていけないのである。

彼のキーワードも理解しやすい、「相互浸透」なども最初わかりにくかったが最近はわかってきた。相互浸透とはレクサスとか高級車に乗ればその車と相互浸透して心も影響するというのは具体的でわかりやすい、自分は車に乗らないからそのことがイマイチ理解できないが例としては面白い
例えばホテルでもビジネスホテルとか安ホテルにとまると相互浸透するということはあるだろう。自分は貧乏旅行者だからまずそんなホテルとは縁がなかった
それは人間でも言える、くだらない奴とつきあっているとどうしても相互浸透してゆく、だからつきあう人には気をつけろとなる、それは会社でもそうである。
その会社で日々仕事していればそこにいる人と相互浸透してゆくことはさけられないのである。


例えば介護施設で働く人を知っているがその人は変な人しかいないというときその本人が一番変な人だったのである。まともでないのである。
介護関係とか施設には最低辺の人しか集まらないというときいろいろな問題が起きても当然なのである。
そういう最低辺の人が相互浸透している場所が介護施設だからである。
だからそういう場所に施設に入るのは怖いことだと思った、介護とか人が一番大事なのだがその肝心の人が最低辺の人しかいない、常識すらない人もいるだろう。
そこは誰もやりたくないからそういう人たちが集まってくる
またそういう相互浸透するという場はカルト宗教団体にもある、そこにはどんな人でも受け入れる、性悪だろうが何だろうが関係ないのである。一票になればとんな人でもいいのである。そういう人たちが相互浸透してゆくとどうなるのかということである。
どろどろとしたものが地獄の釜のようになっているかもしれない、なぜ出家したかとなると俗世間にいれば必ず相互浸透せざるをえないからである。この世の汚れに染まらざるを得ないからである。
夫婦でも相互浸透してゆるのがさけらさない、日々接しているのから当然だとなる、それで歴史でも王様とか殿様でもその妻妾口だして政治をまげるということがあったのもそのためである。


人間は基本的にみんな頭脳で認識を作っていると思っている、認識は体でも作っているのである。風を感じるのは体の神経であり熱でも寒さでもそうである。
だから自然を外界を認識するというとき車だと認識ができなくなる
まず風を感じないということが致命的なのである。風土というとき風と土であり風を感じないことは風土も感じないのである。
太平洋沿岸は春になると(東風-コチ)が吹く、それは三月のはじめころから吹く、それでこの辺では原発事故があったとき三月十一日が東風が海から山に吹いて飯館村から福島市とかまで影響したのである
これはまただ別であるが風を感じないと風土を感じないということがある
今年の桜は絶えず咲いてから風が吹き荒れていた、その風を感じて桜を見るのである。

ともかくこの世界を自然でも認識することは容易ではない、頭脳だけでは認識できないからである。
便利になるとかえって認識の領域は広がっても中味の濃い認識はできない
新幹線で東京から青森まで三時間でに行って何を認識したかとなると何もないとなってしまうだろう。
一方で船で名古屋まで行き名張を通り奈良まで自転車で行ったときはその行程を制覇したという満足感があり日本の一部を認識したとなる
だから江戸時代の人の認識と今の時代の人の認識したものは違っている
歩いて認識したものと歩いて旅して認識したものは違っているのである。
だから意外と今の人は近くのものを認識していないのである。自分もすぐ近くにある六号線の山にあれだけ山桜が咲いていたのを発見したのははじめてだったというのもそうである。他の人も車で通るからほとんど認識していないのである。
そういうことが現代では非常に多いのである。

いづれにしろ介護十年もして旅もしなかったから自分の認識能力は衰えた。記憶する旅をしてきたがこれもいかに認識として記憶されるかにあった。
どうしても電車の旅だと記憶に残りにくい、認識として記憶されないのである。
歩いて旅人か自転車くらいまでは体で認識して記憶に残されるが車などだとそうはならない、認識は五感で感じることでありそれに体でも感じることなのである、だから地理とか地形とか頭で知っていても知ったことにはならないのである。
峠を苦労して上ったり距離感を感じるとかないとできない、だから像として認識するというときもやはりその像というのが常に身近にあって心に刻まれることが必要になる
つまり富士山がきれいに見えるところに住んでいれば富士山の像が心に刻まれて。ゆくのである、毎日高層ビルとか鉄塔とかそんなものばとかり見ているとどうなるのか?
そこには自然の像などは関係しない、人工的頭脳が作られてゆく、それがまさに著者が都会に住んでいて矛盾している点なのである。
都会では人工頭脳が作られてゆく、日々接するものに相互浸透して人工頭脳化してゆくのである。
タグ:心に青雲

2016年04月27日

(抽象画)森と緑の地球 ( abstract green glove)


(抽象画)森と緑の地球


( abstract green glove)

mmmmggggggg12456ggggemd.jpg


mmmmggggggg12456end.jpg

九州

greenforesttt123333.jpg

greenforesttt12.jpg


a highway in the forest


抽象画の特徴は無限に変化することである。
変化の芸術である。それはパソコンのソフトの操作による変化なのである。
こういうことはパターン化したものを変化させるのが得意である
抽象画はパソコンの特徴が活かされたものだった

An abstract picture are characterized by changing endlessly
It is the art of the change. It is a change by the operation of the software of the PC.
As for the abstract picture which was good at such a thing changing the thing which I patternized, the characteristic of the PC was kept alive

でも抽象画でも必ず具象画をイメージしている
今回でもこれは何なのだ?
これは日本の九州じゃないかと一瞬思った 日本人だったらこの絵を見て九州をイメージできる、だから具体的な具象画と結びついているのである

This is what at both abstract imaging pictures and this time imaging a representational painting by all means?
I am tied to the representational painting which therefore is concrete which this watches this picture if it is the Japanese who thought that it may be Kyushu, Japan for an instant, and can image Kyushu


他の森をイメージしかのもそうである。これは切り絵のようなものでありはりつけて合成する
きりとったり貼り付けたりするのもハソコンでは簡単である。
前にそんなことをしていたけど手間である。それだけ自分は暇だったとなる
貼り絵などは手作業でしいるが相当な暇人でしかできない
パソコンでは簡単にできるのである。

ともかく抽象画でも具象画から離れられない、何か世界にある具体的なものと結びつけるのである。
今回は地球であり九州であり森だったのである。

機械翻訳も結構進んでいる、ほぼ正解なのか?

機械翻訳して英語を学べることがあるなと思った。まず英作文はむずかしいら自分はこんなふうにすらすらと出てこないからである。
これも機械に代わられ一面は確かにある
機械にコンピュターに代わられものは多くなることは確かである
知的分野でもそうであるから余計にそうなってゆく
ルーチンワークのようなものはコンピュター化されるのである。

タグ:森と緑
posted by 老鶯 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2016年04月26日

新築の家やアハートや復興住宅が建ち続ける南相馬市 (2400万円の建て売りの家)


新築の家やアハートや復興住宅が建ち続ける南相馬市


(2400万円の建て売りの家)


2400001.jpg


chikasoma1.JPG

クリック拡大

南相馬市では土地の標準価格が震災が3万だったのが7万になっている
二倍以上にあがっている、他にも統計があるが見方がわからない


震災5年 故郷戻れぬまま 原発避難者 移住6900件


南相馬市では小高が避難区域になったから原町区と鹿島区に新築の家が建ちつづけている昨日大東建託の社員が土地について直接に聞きにきた。
大東建託で驚くのはすでに十棟以上のアパートを建てるのかと驚く
それだけまだ部屋を増やしても入る見込みがあるから建てるのだろう
だいたい建つとすぐに人が入るから予約もしてあるのだろう
ただ一般的には全部の部屋を埋めるというより一棟の5、6割りを埋めればいいという勘定なのだろう。だから新しいのまた建てる
家賃はいくらかしらないけど田舎だからといって今は安くない
5万なのか6万なのか結構とられる、収入をみこめるから建てている

コメリの近くの新しく土地区画化されたところ一軒が2400万だった、値段がでていたからである。2400万だと安いのかと思う。家は大きくないからそんな値段なのだろ
美里町の方は大きな家が多い、ここはこじんまりした小さな家だからそんな値段になる
美里町は高級住宅街でありここはクラス的には落ちる住宅街になる
社員の人が家が欲しい人がいますかと聞いていたから売り出しいる
当社は安いですというのは本当だろう、土地付きで建て売りだからすぐに住めるからである。すでに引っ越して住み始めた人もいるしこの住宅地は倍にまた広がる


飯館村の人たちも福島市に家を建てているそうである。福島市となると南相馬市と違いさらに土地も家も高くなる、それでも買って家を建てているということはそれだけの補償金が入ってきているからそうなる
福島市の土地の値段は南相馬市の原町区の倍以上になる
そういう高いところでも家を建てることはやはり飯館村も補償金の額が多いということである。
それは原発避難区域ではどこでも起きていることである。
そして小高でも飯館村でも一旦避難した人は帰らない、特に若い人は帰らない
補償金は村で町でも復興させるというよりそれぞれが外に出て家を建てる資金とか外で暮らす資金となっているのである。

だから復興とは何かとなると何なのかもわからなくなっていると前に書いたのである。
どんどん外にでてその外の都会の便利な生活になじみ定住してゆく
その外での生活がすでに個々では復興なのである
前の村とか町が復興することではない、個々に外に出て新築の家を建てることやかえって外での生活をすることが復興になる
そこが復興とは何かわからない矛盾したものになっているのだ。

今言われるのは住宅に関しても数年以内に東京にも大地震がありその被災者を受け入れるために仮設住宅を残して活用しろとか言う人もいる、確かに仮設住宅は多いから引き継ぎ利用されればいいとなる。熊本でも近ければそうなった。
宮城県で仮設住宅を提供するというのもわかる

ともかく震災とか何かあると土地の値段であれいろいろと変わってしまう。
まず自分がいつも見ていたのは鹿島区の西町は場所的には一番いい場所であり区画整理した場所だが70坪で700万円で売り出していたのがいつまでたっても売れないしあの辺になかなか家など建たなかったのである。
今土地の値段は場所によにが二倍くらいになっているかもしれない、だから土地をもって売ったりしたらその人は相当金が入ったとなる、東京で土地成り金が話題になったのと同じである。

家とか土地の値段はわかりにくい、今回見たフォーレストホームの家は建て売りであり土地付きで2400万かとわかりやすいから見ていた。
安くしているからと言っていたから他だったら3000万くらいなのかもしれない、やはり家が小さいから安いのだろう。この辺は土地が高くなったからその分高くなるということはある

posted by 老鶯 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年04月25日

abstract (a green field and the sea in spring)


abstract (a green field and the sea in spring)


It has the form, but an electrical color to be able to give 
only with the PC in the color is beautiful.

bluegreenn2.jpg


bluegreenn22344.jpg

riverrrrrl1111.jpg
春の草原の流れ

groooooooo11111.jpg
複雑な地形




パソコンの抽象画の特徴は何か?

それは形もあるが色にある、パソコンでしか出せない電気的色が美しいのである。

機械翻訳でもこれはほとんど正解ではないか?

パソコンの電気的光の色は今までの絵の具では出せない
だから全然絵が描けなくても色を出すことでその色に魅了されるのである

青と緑のコントラストは原始の地球である

地球とか宇宙のら創造は色にあったことは確かである。
形もあるが色にもあった、色は実際は無数である。赤でも百種類くらいの赤が出せるかもしれない、色で不思議なのは古代から中世とか何百年前の絵でもそれがその時代だけの色を出している不思議がある、青でもみんな違っているのである。

ともかくこの抽象画も偶然である。色がきれいだなと出してみた。
タグ:青と緑
posted by 老鶯 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

グローバル経済社会とは多国籍企業が世界を支配する (インターネットの読み方、知識情報の構築が必要)


グローバル経済社会とは多国籍企業が世界を支配する


(インターネットの読み方、知識情報の構築が必要) 

saiteee1.jpg

モンサント社は「農薬の使用量が節約できる」といって、グリホサートと呼ばれる除草剤と、グリホサートに耐性のあるGM大豆の種子をセットでアルゼンチンの中小企業に売りつけ、在来種からGM大豆に切り替えさせていった。

そしてモンサント社は「農薬の使用量が節約できる」といって、グリホサートと呼ばれる除草剤と、グリホサートに耐性のあるGM大豆の種子をセットでアルゼンチンの中小企業に売りつけ、在来種からGM大豆に切り替えさせていった。

公的な利益を守るはずの国や自治体も、その目的が「株主利益の最大化」にとって代えられる。
 こうした独占大企業の支配が続くかぎり、国を支える働く者が生きていけず、社会を維持することができない段階に到達している。

他国の食料自給潰し略奪
アメリカ多国籍企業
               日本にTPP参加迫る黒幕 



米多国籍企業をたっぷり潤す現代の奴隷制度

240万人の受刑者をもっと増やせ、そして低賃金でこき使わせろ!



世界的に名前が知れ渡る多国籍企業が低額の賃金に目をつけ、受刑者を労働力として利用する動きが加速していることだ。しかも受刑者数は過去10年で加速度的に増えている。

 米国の刑務所(連邦、州立、民間)に収監されている受刑者数は現在約240万人。1972年が約30万人で、90年には100万人。過去20年以上で2倍以上に増加した。


 
「多国籍企業的展開にたいして、各国では、自国から企業が逃げないように、あるいは外国企業を誘致するために、法人税の引き下げ合戦が生じている。
安倍政権は、財政危機のもとで、法人税をさらに20%台に引き下げようとしている。これは、多国籍企業が支配する、こうした現実に対応しているのだ。」


世界の問題を追及するときそもそも世界が今どういうふうに構築されているかということが肝心になる、グローバル経済というとき一体それは何なのかということになる
ただヒト、モノが自由に出入りする流通するということではない
グローバル社会は国を国境を越えて多国籍企業が支配する社会である。
単純にヒト、モノが自由に出入りするというものではない、多国籍企業を通じてヒト、モノが自由に出入りする社会である。もちろん観光などもヒトが自由に出入りするがそれがグローバル社会の目的ではない、それが悪いとして否定はできない
ただグローバル経済資本主義社会というとき具体的にイメージすればそういうことではない゛多国籍企業が世界を支配するということである

これまでは第二次世界大戦までは国がしのぎを削っていた。今は多国籍企業が国境を越えて支配する、国の力は弱り多国籍企業に従属するようになっている
それでそもそも国の存在価値が何か問われる、国という存在が希薄化されているのである国より経団連の意向が政治に反映される
多国籍企業というとき何か特殊なアメリカにある巨大企業をイメージする
でもほとんどの日本のトヨタであれソニーであれキャノンであれ多国籍企業なのである
ほとんどの名のある大企業は多国籍企業なのである。
現代はまさに多国籍企業社会なのである。
世界がこういう社会でありシステムであるときそこから世界の問題も起きてくる
そういう社会の仕組み、システムを理解していないとそもそも理解できない

なぜタックスヘイブン問題が生れたのか?

つまりこれも多国籍企業が必然的に産み出したものである。多国籍企業は国とかからの税金を逃れたいのである。それで法人税を引き下げてほしいというのもそのためである。
多国籍企業の代表者のような経団連が政治を動かすのもそのためである
そして世界中で国からの税金を逃れるためにタックスヘイブンが必然的に生れた。
これは明らかにグローバル経済資本主義が多国籍企業社会中心であるからそうなった
こういう社会であるとき税金逃れの道を必然的に作り出していたのである。
それは違法ではない合法的だというときもまさにそういう社会だということである。
国が税金をとることを逃れる、でも多国籍企業社会が世界のルールを国を越えて決めていたとなるのである。

そしてダークネスで常に主張しつづけていることはわかりやすい、そういうシステムの中で生きることはどういうことになるのかということである。
多国籍企業社会のグローバル資本主義で勝者になるにはどうするかと常に説いている
それは非常にわかりやすいのである。株主になってもうける、資本をもって投資してもうける、それが勝者になることでありあとは奴隷化されるとなる
株主であり資本を元金を最低でも一億円もたないかぎり勝者にはなれない
実際は百億円とかもっている人でありもっともっている人でありそういう人はもう働く必要もない、株で定期的に収入が入ってくるのである。
その他の人はいくら真面目に働いても収入は限られている社会である。
不正規とか言われる労働者であり時給いくらとかで奴隷のように働かされても収入は低く抑えられる

それが極端化して面白いというと語弊があるがアメリカの刑務所で犯罪者が多国籍企業にとって好都合であり低賃金で働かせられているというのもわかりやすい
アメリカが豊かな国だというけど実際はそれは一部であり格差社会である。
それが極端な形で刑務所で安い賃金で多国籍企業に働かせられていることに現れている
つまり多国籍企業社会とは一部の株主が潤いあとは奴隷化される社会だということであるだから株主にならない限りこういう社会では勝者になれないのである。
刑務所で働かせられる者がいて多国籍企業社会で株主になっている人は富を享受できるというのが現実である

そして多国籍企業が農業すら支配する、種を遺伝子操作して支配しうりつける、種は高いものであり種が農業を支配するともなる、肥料でも除草剤でもそうである。
そういう基本的なものが大企業に支配されるのである。

公的な利益を守るはずの国や自治体も、その目的が「株主利益の最大化」にとって代えられる。
 こうした独占大企業の支配が続くかぎり、国を支える働く者が生きていけず、社会を維持することができない段階に到達している。

国や自治体というとき国という大きなものだけでない、市町村とかの自治体でもそうである。そこでも大企業が自治体を支配してしまう、原発が作られて事故になったのもそういう一面があった、大企業の力がそれだけ大きく国でも市町村でも支配してしまうのである

darkness DUA

ここで追及しているのがわかりやすい、結局この人も投資でもうけているのだろう。
そういう矛盾が自分にもある、外国に投資したりしているからである。
そういう社会だからそうなってしまうのである
タグ:多国籍企業
posted by 老鶯 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年04月24日

避難区域の小高などを活かす一つの案 (自然公園として活かす)


避難区域の小高などを活かす一つの案


(自然公園として活かす)



mmmmmuwww123.jpg

小高の海を村上城跡から見たとき他で見るのと違って見えた
あそこの小高い丘に上ったとき見た海は違って見えた
普通に下から見たらどこでも海は同じに見える
あそこは海が迫っていて海がより間近かに見えた
だから良くあそこに津波が襲われなかったと思う
高さからしてもあれだけの津波だから襲われた感じがする
なんかあそこから海を見ると海の中に入るような怖さを感じた
何でも見る場によって違って見える
あそこは小高では観光のビューポイントである。


小高でもう一つ(懸(かけ)の森がある


(懸(かけ)の森


小高の城跡と鳩原((懸(かけ)の森の方を回った 


ここを上る道は荒れていた、電動自転車だったから上れた、ヤマハのマウテンバイクだから馬力があるのででこぼこの道を延々と上った、あそこは道を整備しないと上りにくい
頂上までは上らなかった、ここもちょっとした登山にはいい
小高は小高神社が中心になる、小高神社からは海が見えた、やはり小高は津波が駅を越えてきたので海が近かったのである


小高をどう活かすかとなると自然公園として整備することもありうるのかと思う
津波の跡は人が住めないからそうしている、小高は全域が人が住んでいないからまた違っている
ただ避難解除したら住む人がでてくる、ではその人たちは農業をするのか
何で生計をたてるのか?ロボット工場ができるから働き口はできる
でも田んぼとか畑をやる人がいるのかとなると細々と老人がやるかもしれないがあそこで本格的に農業をやる人はいないだろう、菜の花の油を作る、あれも試験用なのだろう
原町の太田の人ももう農業をやらないと言っていた。養鶏で生計をたてていたのである。

いづれにしろ津波の跡はもう小高では田んぼにできない、すると結局自然状態にもどる、現実に湿地帯化していた、津波の跡は放っておくと湿地帯化するのである。
北海道の釧路湿原のようになってしまう。
でもそこは観光の場所になっているのである。
津波でも原発でも別に自然の風景までは破壊されなかった、海は海であり山は山であり森は森として残っている、ただ放射能に汚染されたので農業ができなくなった
ただその風景は活かせる、農業にこだわってもどうにもならないということはあるだろう三陸の方では子ども向けの自然教室を開いて人集めしている人もいた
そのためにはかなりの資金が必要だった


小高でも全部が失われたわけではない、風景は風景は今までのように残っている
村上城の跡から見る海は青々とした海がなみなみと心を満たすように迫ってくる
津波の後だから怖い感じにもなった、でも他と違った海を感じた
その海の色に心も青く染まった、あそこから見る海は違っている
あの小高い丘が海を見るのにいいビューポイントを作ったのである。

自然公園と言ってもこれも何か具体的に何なのかとなると浮かんでこない、例えは自然公園というときそこを一つの広大な庭としてイメージするわかりやすいかもしれない
要するに庭作りを考えるのである。
水辺があり水生植物が菖蒲などが咲き魚も泳いでいる、いろいろな小径があり散策する道が縦横にありあきない、東屋がそこうしこあり思索にふける、どっしりとした様々な形の岩があり重みを加える、自然とはそもそも人間の心を反映したものとしてある
それを自分は詩として書いてきたのである。
自然が提供したイデアがありそれを人間の心に反映させたものが芸術となる、それは詩となり哲学となり絵画となるるし宗教ともなる
岩があれは岩のような心をもつとなり樹でもそうである。

要するに自然公園というとき一つの町が庭園化することかもしれない
原発避難区域は農業をすることがむずかしくなったので何が残るとなるとそうした風景は残り活かすことができる、ただそこで農業をすることは放射能汚染でむずかしいとなったからである。
飯館村でも花の栽培はしていたからそれはつづけられるし拡大できるししているところもある。花で飾るということも自然公園である、それは仕事になるからいいのである。
津波であれ原発事故であれそれによってすべてが失われたわけではない
自然の美は残されていたのである。だから何かそういう残されたものを活かすということも一つの案だろう
どうしても今までの考え方が通じない、するとどうしたらいいのかとなる
これは飯館村とかでもそうであり浪江でもそうである、浪江でも高瀬川は景勝の地でありその自然がなくなったわけではなからである。

こういうふうにイメージすることは貧乏な時代には絶対できない、なぜなら人間食うことが第一であるからだ。米をとるためにいたるところ開墾したり開拓したりした歴史が日本だからである。
大正時代にも井田川浦は開拓されていたのである。それは食うためであった
でも今は米余りと減反になると米を重要なものとして見ていないのである。
だからいつも八沢浦でもあそこで米をとれるということを重視していなかった
土地の人は重視していてもあそこが浦になったらどれだけ美しかったろうといつもイメージしていたのが自分だった、だからそこで人が死んだというとき八沢浦が昔の美しい浦にもどったと書いたときそれに反発する人もいて当然なのである。
でも浦波が朝日がさしてきらきら打ち寄せていたときは奇跡のように思えたことは否定できない、それは一回だけ見た奇跡だったとなる、こんな現象を生きているときみれると思わなかったからだ。

考えてみれば自分はこうしして自然公園とみて逍遙していたのが人生だったともなる
農業の苦労など見ていないのが正直自分だったのである。だからここにも反発はある。
実際その女性は農家の出であり農業が好きなのである。
でも種が高いとか肥料がどうだとかそのわずかな畑を作るのに収穫するものはわずかであり野菜ももらっていない、ただ苦労だけを聞いて金をだしているだけであり見返りは何にもないのである、そういうふうに趣味でしている人も今はいる
第一農業でもうけるということはまた今は別な問題なのである。
豊かなは時代には農業も変わる、自然でも自然景観がより価値帯びてくるということもある、価値は常に変わっているからこの辺でも価値観を変えて対処する必要がある
ただどうしても旧来のものに固執する、第一考え方からしてそうなる
だから若い人の自由な発想で自由にやらせた方がいいと女川辺りでは老人は口だすなとなった、めれだけ緊急事態だからそうなったのである。
そして除染に何兆円もつぎ込んでそれが有効なのかという疑問もある、それが復興につながるのだろうかという疑問がある。
農業を復興させること自体むずかしいからである。
そもそも復興のビジョンというのが描けないことに問題があったともなる
ただそこには様々な意見があるからいちがいには言えない、除染するということはやはりその土地を活かす、実りを得るものとして不可欠だともなるからである。
ただそれとはまた別な発想も要求されていることは確かなのである。
何か新しい発想を提示することがずかしいからそうなっているとも言える
そこにこの辺の大きな問題がある、第一前にも書いたけど田舎で田んぼがない世界が考えられない
そのこと自体がいかに発想を変えるということがむずかしいことなのかわかるのである。
タグ:小高
posted by 老鶯 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

春の花(flowers in spring)


春の花(flowers in spring)

bbbbbbbbbbbbttttffff1.jpg


etttttttttt1234569.jpg

earthhhh123789977788.jpg

earthhhh1237899777.jpg
タグ:春の花
posted by 老鶯 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2016年04月23日

チューリップ(人の住まない小高の不思議)


チューリップ(人の住まない小高の不思議)

cccccccccccch1.jpg

cccccccccccch1222.jpg

我がここに住みつつあわれ二三人花散るあとを人の行くかな   

チューリップ庭に映えつつ新しき家に住むかなつばめとびかふ

隣にも代わりて住めるその庭にチューリップ咲き幼子のあり


自分の回りも変わってしまった、新しい人が移り住んだこともある
組では子供がいなくなっていたが一人幼子をもつ夫婦が住むようになった。
今は隣でもどういう人が住んでいるのかわかりにくい
一軒は津波の被害のために新築した人である。
自分の家など二代くらいで古くはない、農家だったら何代もつづいている
それでもいつしかこの辺で古株になっているのである。

草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉

前はそこにも老人が住んでいた、その人は去ったからこの句とにている
人間というのはいろいろ環境が変わるけど世代交代とかをしてゆくのは代わりがない、
そこに人間としての普遍的なものがあり現代でも同じようなことがくりかえされるから
普遍的な価値をもっているのである。

全体的に南相馬市は変化が激しいのである。
新築の家が建ちつづけているし原町辺りは大きな施設が何カ所か建ってい小高の人でここに家を建てた人もいるからである。
今日はスーパーは混んでいた、土曜日であり他からの人が来るからこむ
除染関係とかの人もいるから結構こむのである。


それでも桜が咲いた土手の道はちらほら人が行くだけである。
ただ工事しているから落ち着かないことはある。
不思議なのは小高である。桜が咲いても桜が散ってもそこには人が住んでいない
するとそういう世界は何なのだろうと前からも不思議だった
人が住まない街の不思議である。
チューリップでも新しい人が新しい家に住んで映える
子供が幼子がいれば余計にチューリップもその子供に映える
つまり人間がいて花も映えているのである。
小高では桜が咲いて散っても誰も通らない、小高の人は見に行った人がいても住んでいないのだから日常的にその道を歩く人はいないのである。


だから人が住んでいない街とは何なのだろうとなる
ではこういうことがかつてあったのかとなるとあった
人間が住む前は原野であり森であった
そこには動物や植物も繁茂していた
人口をみれば江戸時代が三千万人であり大正時代で6千万人になった
これをふりかえれば日本は開墾されない土地は広がっていたのである。
その時はそこには人間は住んでいないのである。
大熊とか富岡とか辺りは明治になって開墾された土地なのである。
そこは相馬藩との境目であり原野が森が広がっていた
夜の森とは余の森だったのである。余とは相馬藩の殿様だったのである。
小高や浪江とか避難区域はそうした原野や森にもどったともなる

そして人間がいないということは自然だけになる世界をなかなか経験できない
普通身近に住んでいる場所でそういう所が開発されてなくなっているからである。
感じることは一段とシーンとして静寂が支配している
自然だけだったら当然そうなる、田舎の街だからもともと静かだったけどそれも人が住まなくなったとき余計にそうなったのである。
それで街が暗いから帰りたくないというのもわかる、要するに原始の状態にもどればそうなる
江戸時代ももどるようになる、灯もともしいし一段と静まり返るとなる


小高をどうするのかというとむずかしい゛要するに前例のないことだからどうしていいかわからないのである、人が住まない街とかをどうするのか?
それを模索するのにも今までのやり方も通用しない、では新しいやり方は何なのかとなるそれは簡単には解決できない問題なのである。

2016年04月21日

熊本地震で話題になる中央構造線 (日本創造にも神の意志が働いているのか?)


熊本地震で話題になる中央構造線


(日本創造にも神の意志が働いているのか?)


地震と地理でも地形でも深い関係がある。ただこの地理と地形とかは一番理解しにくい
いくら旅しても日本全土を地理を地形を知ることは不可能である。
地理とか地形は人間の理解能力を越えたものなのである
福島県ならある程度地理を地形をイメージできるかもしれない、でもハマ、ナカ、アイヅと分かれていて広いからその地形を理解することは簡単にはできない
標高差もありその土地の高低も理解しにくい、飯館村は八木沢峠を上ればわかるように相当標高が高いから夏は涼しく冬は寒いとなる
それは浜通りからすると別個の世界になる
日本は山が多いから峠が多い、そして山にさえぎられて隣村でも遠くなり交流がはばれるたがいの理解がはばまれる、それで明治以降村が民情が違っているからと合併しなかった


日本の地形をみるとき今回話題になった熊本地震の中央構造線というのが素人でもわかりやすい、四国辺りでも目に見えて断層の線が走っている、そこに伊方原発があったから危険だと目に見えてわかった。
その中央構造線は静岡県から富士山へとつながっている、九州と四国は海でさえぎられているからつながっていないようで陸地としてはつながっていて断層がつづいている
その巨大な地形をイメージすること自体できないから地震は予測できない
中央構造線からイメージしていたら熊本に地震が起きないことなどありえなかった。
だから百年熊本に地震がないから地震がない安全地帯として企業の誘致をしていたのである。だからなぜここにも地震が起きると気象庁でも地震学者も警告していないのか不可解だとなる、誰もここに地震が起こると警告していた人がいないのである。
それは結局東日本大震災でも福島県とかの浜通りには津波は来ないと確信していた。
それと同じことが熊本で起きたのである。
常に警告されていたのは東南海地震であり津波だったのである。
それで避難訓練など何度も行われたがそれから30年はきていないのである。
地震はくるくるというところには来ない、常に意外な所で起きているのである。
だから予知はしない方がいいとなった、予知はできないとなった。

日本の地形とか地理でまぎらわしくしているのは海に囲まれていて四つの島に海で分断されていることである。
でも中央構造線とかプレートは陸地でありその陸地が動いて地震になっている
すると海になってい見えない陸地が動いて地震になるのだから余計にわかりにくいのである。日本列島というとき一つの陸地としてイメージしておく必要がある
中央構造線からすると九州も四国も本州も一帯なのである。
そしてその中央構造線の延長上に富士山がある、富士山は日本列島のヘソであり中央に造山されたのである。
富士山は日本の地形を見ればまさに日本の中央に現れた不思議がある
富士山は日本列島の地形からも日本の中央であり現れたという不思議がある
そこに神の創造の意志が働いていたのかとなる
つくづく学問の基本は「地の利、天の時、人の和」を知ることである。
日本を知るときもまず地の利である。地の理にも通じている、利益だけではない、天の時というのもまさに地の利が理があり次ぎに天の時があり災害が起きてくる
天の時というとき巨大地震とか津波には天体も関係していると言われるからである。



地下の神が人間をあざ笑う


地下深くなお知られざる所神は棲む
ここに地震が起きるここには起きない
その人間の浅知恵よ、傲慢よ
思わぬ所に地震は起きる
そして神は人間をあざ笑う
人間は地下のことも天体のことも知りえぬ
もの知り顔に予知してもはずれる
人間はそもそも理に則って地球を見ない
ただ利に則って利を求めて地をみる
政治家も科学者も大衆も利で動く
科学者すら理に則るべきを
利にのっとり原発を作る
その利と欲によって人は騒ぐ
冷静に理を追及するものは科学者にもいない
利に左右されて見誤るのである
小賢しい人間よ、奢るものよ
そは砕かれて全能の神によって卑くくされる
人間の知り得ざるものはなお広大なり
地の一片を知りて奢るなかれ
地下深く神は棲み人間の知恵をあざ笑う
汝は地を計るものにあらず
汝は計られるものにてその則に従うべし



人間は地上で求めているのは理ではない、もし理だったら原発など作らない
利を求めるから原発を作る、利になるから原発を作る
利で蠢いているのが人間なのである。
だから天災ではその人間の利とか欲が罰せられるのである。
地震が科学的法則で起こるといっても科学者自体がその理を本当に追及しているかというと利にかかわる、活断層の上に中央構造線の上に伊方原発とか川内原発を作ったのもそのためである。
いくら断層の上でなくても調べてもやはりどこかで日本は地震が起きる
地震は予知できないしさけようがないのである。
原発が日本に作られているのはアメリカの要求とか核武装のためとか別な利がありやめられないのである。政治的意向が働く、理が働くのではないのである。
それが天罰となって神の怒りをかうということはありうるのである。
日本列島は海でへだてられていても一連のものとしてつながっているのである。
そこを見誤るとまた同じことが起こる、カルマをくりかえすのである。


中央構造線のキーワードで画像で絵で解説しているからわかりやすい
タグ:中央構造線
posted by 老鶯 at 19:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年04月20日

今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖 (震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)


今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖


(震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)



      降順  発生時刻  情報発表時刻  震源地  マグニチュード 最大震度 
 2016年4月20日 21時19分ころ  2016年4月20日                  福島県沖  5・6 3
 2016年4月20日 19時00分ごろ 2016年4月20日 19時03分 熊本県熊本地方 3.8 3 
 2016年4月20日 17時40分ごろ 2016年4月20日 17時44分 熊本県熊本地方 2.8 3 
 2016年4月20日 16時01分ごろ 2016年4月20日 16時05分 熊本県熊本地方 3.9 3 
 2016年4月20日 15時31分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.0 3 
 2016年4月20日 15時28分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.1 3 
 2016年4月20日 14時27分ごろ 2016年4月20日 14時31分 大分県中部 4.0 4 
 2016年4月20日 13時07分ごろ 2016年4月20日 13時10分 宮城県沖 4.0 1 
 2016年4月20日 12時22分ごろ 2016年4月20日 12時26分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月20日 8時00分ごろ 2016年4月20日 8時04分 熊本県熊本地方 3.6 3 
 2016年4月20日 5時53分ごろ 2016年4月20日 5時58分茨城県沖 3.9 2 
 2016年4月20日 3時52分ごろ 2016年4月20日 3時57分熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月20日 3時39分ごろ 2016年4月20日 3時42分 熊本県天草・芦北地方 4.1 3 
 2016年4月20日 2時42分ごろ 2016年4月20日 2時45分 茨城県南部 2.6 1 
 2016年4月20日 2時16分ごろ 2016年4月20日 2時19分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月20日 0時56分ごろ 2016年4月20日 1時00分 熊本県熊本地方 3.4 3 
 2016年4月20日 0時29分ごろ 2016年4月20日 0時34分 熊本県天草・芦北地方 3.8 3 
 2016年4月19日 23時23分ごろ 2016年4月19日 23時27分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 22時26分ごろ 2016年4月19日 22時30分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 20時47分ごろ 2016年4月19日 20時50分 熊本県熊本地方 4.9 5弱 
2016年4月19日 20時43分ごろ 2016年4月19日 20時46分 長野県南部 2.4 1 
 2016年4月19日 20時33分ごろ 2016年4月19日 20時37分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 19時46分ごろ 2016年4月19日 19時49分 宮城県沖 3.4 1 
 2016年4月19日 19時05分ごろ 2016年4月19日 19時09分 千葉県北東部 4.3 2 
 2016年4月19日 18時14分ごろ 2016年4月19日 18時20分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 18時09分ごろ 2016年4月19日 18時12分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 18時04分ごろ 2016年4月19日 18時09分 熊本県天草・芦北地方 3.9 3 
 2016年4月19日 18時02分ごろ 2016年4月19日 18時06分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 17時57分ごろ 2016年4月19日 18時01分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 17時52分ごろ 2016年4月19日 17時56分 熊本県熊本地方 5.5 5強 
2016年4月19日 16時22分ごろ 2016年4月19日 16時25分 熊本県阿蘇地方 3.4 3 
 2016年4月19日 15時05分ごろ 2016年4月19日 15時09分 熊本県阿蘇地方 4.0 3 
 2016年4月19日 14時57分ごろ 2016年4月19日 15時01分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 14時55分ごろ 2016年4月19日 14時58分 宮城県沖 3.9 2 
 2016年4月19日 14時14分ごろ 2016年4月19日 14時18分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 13時35分ごろ 2016年4月19日 13時40分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 12時52分ごろ 2016年4月19日 12時57分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 12時32分ごろ 2016年4月19日 12時35分 沖縄本島北西沖 3.9 1 
 2016年4月19日 11時47分ごろ 2016年4月19日 11時51分 沖縄本島近海 4.6 1 
 2016年4月19日 9時23分ごろ 2016年4月19日 9時26分 熊本県熊本地方 3.5 3 
 2016年4月19日 8時52分ごろ 2016年4月19日 8時56分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 8時12分ごろ 2016年4月19日 8時20分 熊本県阿蘇地方 3.7 3 
 2016年4月19日 6時21分ごろ 2016年4月19日 6時25分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 6時20分ごろ 2016年4月19日 6時24分 熊本県阿蘇地方 4.0 4 
 2016年4月19日 5時32分ごろ 2016年4月19日 5時36分 日高地方東部 4.2 2 
 2016年4月19日 3時38分ごろ 2016年4月19日 3時41分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 3時08分ごろ 2016年4月19日 3時12分 熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月19日 1時53分ごろ 2016年4月19日 1時57分 熊本県熊本地方 3.8 4 
 2016年4月18日 23時22分ごろ 2016年4月18日 23時26分 熊本県阿蘇地方 3.1 3 
 2016年4月18日 23時19分ごろ 2016年4月18日 23時23分 徳島県北部 3.1 1 
 2016年4月18日 22時31分ごろ 2016年4月18日 22時35分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 


熊本県の地震を気になって2ちゃんねるでこれを見ていた。
すると熊本県だけではない、宮城県と茨城県と千葉県と長野県にも震度1、2、が起きていたのである。

それを感じたのは昨日辺りでありこの辺にも地震起きていたのか?
最近はこの辺は震度3の地震はでていない、ただ一回微弱な震度1くらいの地震があって報告した。
その揺れを自分が感じたのはたまたまソファーに座っていて二階で揺れを感じたのである震度1でも震度1弱と強があり弱だとまず感じない、強でも感じないだろう。
でもこれも地震であり次ぎに起こる地震の前触れなのである。
でも体で感じることしか地震の危険を感じない、そこに地震の問題がある

福島県沖がなくても宮城県沖と茨城県と千葉県に震度1でも起きていれば福島県も連動するから危険なのである。

これを見れば日本全国どこかで震度1くらいは起きていることになる。
ただこのなかで宮城県沖が3回起きていることは注目すべきだった
熊本県にばかり注意しているが外でも地震があることに注意すべきだった


それで今日夜9時20分ころ起きた福島県沖の地震は震度3であり結構ゆれた。それで熊本県と関係あるのかと思った。
熊本県震度3くらいがつづいているとなると結構怖いことである。
今の福島県沖の地震も東日本大震災の余震なのだろう。
震度は弱くなっていても余震はつづいている
この辺は巨大なエネルギーを放出したから安全だと書いたがやはり余震がまだある
3・11のような巨大地震津波は来ないにしろまだ余震はつづいていたのである。



6月20日の9時19分ころの地震はマグニチュード5・6だった
一連の二日分の地震の中でもマグニチュードにすると一番大きい
岩手県゛宮城県、福島県で感じた広範囲な地震だった
これは3・11の余震の継続である。
ただ震度5とかは長い間でていないのである。



中央構造線で地震が起きている、


4月14日から18日

     震度1  吉野川市鴨島町 美馬市脇町
          徳島三好市池田総合体育館
香川県  震度2  坂出市久米町* 観音寺市坂本町 観音寺市瀬戸町*
          三豊市豊中町* 三豊市三野町*
     震度1  高松市伏石町 高松市扇町* 東かがわ市西村
          土庄町甲 小豆島町安田* 丸亀市新田町*
          多度津町家中
長野県  震度1  諏訪市湖岸通り
岐阜県  震度1  海津市海津町*
大阪府  震度1  大東市新町* 岸和田市岸城町
          泉佐野市りんくう往来*
兵庫県  震度1  豊岡市桜町
和歌山県 震度1  和歌山美浜町和田* 紀の川市西大井


posted by 老鶯 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年04月19日

復興を願いて小高の春二十首 (浜街道を小高へ)

復興を願いて小高の春二十首


(浜街道を小高へ)


sakuraaaaa12356667778899000.jpg
クリック拡大

sakuraaaaa12356667778899.jpg

sakuraaaaa123566677788.jpg

sakuraaaaa1235666777.jpg
クリック拡大

sakuraaaaa1235666.jpg

sakuraaaaa1235_FotoSketcher.jpg

クリック拡大

odddddddd1.jpg

tuttttt111.jpg

6routekk12333444.jpg

6routekk12333444556677.jpg

ssssooo12345667.jpg

odddddddd12233.jpg

ssssooo123456678.jpg


sakuraaaaa1235666777889900011.jpg

6routekk1233344455667788.jpg





コブシ咲き高松の奥家一軒

芽吹きけり馬飼う家や相馬かな

津波にも残る御堂や蛙鳴く


海近く六号線や朝日さし鳥も飛びきて山桜映ゆ

東風吹きて樹々も芽吹くや朝日さし山桜咲く六号線行く

山桜風にそよぎてゆれやまじ浜街道を朝進みゆく

山桜松に映えにき東風吹きて散り舞う花びら浜街道行く

新田川瀬音のひびき山桜朝日のさして岸に映えにき

街道を行く人あれやチューリップここに映えにき朝の明るさ

小高にそ花みな散りぬ帰らざる小高神社に我がもうずかも

残る花小高神社に散りゆくやここに住む人なしも淋しも

人なしや小高神社の石段に蟻穴いでて働かむとす

津波にそ流さる社再建す誰か守るや雲雀なきしも

人住まぬ小高や原の広がりて雲雀なくかなタンポポの満つ

人住まぬ小高にあれど雲雀鳴く我にひびきて生きるものあれ

小高にそ津波の跡に松二本痛々しくも五年はすぎぬ

鴨なおも渡り去らじも沼に群れ小高に人は住まざりしかも

村上のに城のありしと望む海タンポポ映えてなにかありなむ

村上に波のひびきて山桜朝日のさして海を望みぬ

村上の社を誰かたずねなむ椿の散りてあわれなるかな

村上の墓地の古りしやあわれかな散りし椿や帰らざるかな

福岡と川原と記す碑の一つ田んぼに残る春のくれかな

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ


ttttooooo1.jpg

odddddddhibari1.jpg




六号線は山桜が今盛りであり朝日に映えてきれいだった

敷島の やまと心を 人とはば しきしまの やまとごころを ひととわば. 朝日に匂ふ 山さくら 花 

これは山桜であり染井吉野ではない、そこがまぎらわしいのである。山桜は野生種であり染井吉野は江戸時代に品種改良したものである、本来の桜は日本では山桜なのである。

ソメイヨシノは加齢とともに危険度が増すことが分かりました。特に樹齢40年を超えると、危険度2以上の占める割合が極端に増え


ソメイヨシノが世の中に広まったのは江戸時代の終わりくらいですから、まだ150年経つか経たないか、まあそれくらいということになります。そうすると当然ながら、それ以前の古い木というのはないので、若い木しか我々は見ていないということになります。

山桜となるとその樹でも樺細工とか角館で作られているし丈夫である。山桜は丈夫であり染井吉野は枯れやすいのである、せいぜい150年が最高年齢としても明治からすでにそのくらいすぎているから寿命が樹としては短いとなる
山桜と染井吉野の相違はにていても大きい、山桜は野生種であり純白の花である。
染井吉野は艶なる花である、だから京都辺りだとにあっているのである。

山桜は六号線沿いにかなり咲いていた。今日は朝日がさしてきれいだった
まさに朝日にこ匂うように咲いていたとなる
山桜は風にそよいで咲くのもいい、浜街道は海が近い、そして東風(こち)が春になると吹いてくる、旅からは遠ざかっていたがまた旅に出る気分だった
生きている間に自転車でもう一度磐城まで行きたいとなる



小高は海の方ではまだ津波の跡が痛々しく残っていた
壊れた家も残っていたし田んぼは湿地になりまだ整地されていない
ただ除染は小高の方が進んでいると太田の人が言っていた。
帰還をすすめるためにそうしているのだろう
小高で感じたことは田んぼが一面に原になりタンポポが咲き雲雀が鳴いていた
それは原町とか鹿島とか相馬市や津波の被害地はそうなっていた
でももう湿地は埋め立てられたし壊れた家もない、小高はまだその点五年前のままの所が残っていた。


小高の復興というときやはり人がともかく住む、誰でもいいから住む、老人でもいいから住む、住まないとしたら人が入ってくる、それだけでも生きてくるものがある
雲雀の声が自分にひびいたとき雲雀も自然も花も生きるのである。
そこに人がいないと自然すら死んでしまうというものを感じるのである
一旦人が住んだ場所は人が住まないと活きてこないのである。
人が住まない太古の自然とは違い人間と共存した自然だったからなのである。


復興というとき歌や詩も力となる。雲雀が鳴いている、その歌は人間にひびくのである。人間にひびくとき最もひびくものとなる、活きるものとなる
それが誰も住まない来ないとしたらひびかないのである。
だからみんな帰らないとしてもそこには人間が入るべきなのである。
人間がいない世界は自然まで死んでしまうということになりかねないのである。
ともかく原っぱでもいい、そこを人間が通ればその道でも何でも活きてくるのである。

雲雀鳴き復興ならむ小高かなタンポポまぶし海を望みぬ









タグ:小高の春゛

南相馬市五年後の復興の様子 (原町の大高ら小高へ行く)


南相馬市五年後の復興の様子


(原町の太田から小高へ行く)


6routekk12333.jpg
雲雀が原の5階建てのビル

6routekk12333444.jpg

クリック拡大

セシウムの除く試験用の菜の花畑


6routekk123334445566.jpg
長屋風の復興住宅

誰が入るのか?

6routekk12333444556677889900111.jpg

縁側商店ーここしか店がなかった

弁当を売っていたので助かった

6routekk12333444556677.jpg

津波でまだ残っている痛々しい松の木二本


6routekk123334445566778899001.jpg

6routekk1233344455667788.jpg

安政とある村上の城跡の下の墓地


namiiiiii1.jpg

福岡と川原と記された道標

fukuokaaaaaa1.JPG

この碑はどこから流されてきた

川原と福岡と記されているからこの辺ではあった

これは道標ではないかのかもしれない

ssssooo1.jpg

六号線そいの新築中の家

ここには人は住むのだろう


kemonooooooo1.jpg

獣がイノシシなどが増えているため


shoriiiiiii2223.jpg

shoriba111.jpg
クリック拡大

ここは一番大きい放射性廃棄物場

六号線の両脇にある、太田である



今日は陸前浜街道を行き小高まで行って行って来た。
雲雀が原の所で復興団地の大きなのには驚いた。
五階建てでありこれは大きいなとみて思った
ここは一大復興団地になり一番大きい、5棟くらいあるのか、相当な人数を収容できる
これだけの大きなもを作るということはそれだけの需要があることになる
それはこの辺では小高とか避難区域になり帰らない人や大熊とか双葉、浪江からも移り住む人がいるからだろう
ただこれだけ大きいと一つの街を形成するようになる
原町は土地が広いから新しい建物が建つ
これだけのものが建つと収容される人も多くなる、その人数がどれくらいになるのか
でもここに入れば仮設と違って家賃がとられる、近くの復興団地でも家族7人とかで7万家賃がとられているとか小高の人が言っていた
これを払うとなると増える、ただそれだけの人が入るということはやはりこの辺は原発事故の避難者が多いからそうなる


ここから太田に出たら大田川の橋で住んでいる人にあった。

「菜の花畑にしただな」
「油もとるよ゛売り出している」
「油といっても今はいろいろあるけど昔は椿油とかあったからな」
「この辺では米は作らないみたいだな」
「もう米も畑もこの辺では作らないよ、試験用のは作っているけど」
「前から農業も後継ぎがいないとか言っていたからな」
「俺ももうやらないよ、俺はここに鹿島から婿に来たんだよ、あそこが俺の家だよ」
「なんか自分も年とったんだけど先のこと考えられないんだよな
庭に木を植えてもすぐに育たないから植えたくない、老人は先のことを考えられない
なんかこれからどれくらい生きてあとは墓のことなど心配するんだよ」
「自分ももう農業はやらない、もう年だしめんどうだよ」
「放射能被害で補償されればいいんだが・・・」
「この川が20キロの境目だったんだよ」
「自分の所も鹿島も真野川が30キロで境目として区切られた」
「俺はここで家に住めるから良かったよ」
「菜の花もきれいだけどな、米を作らないのは淋しいな」
「菜の花は湿気に弱いんだよ、乾燥しているといい」
「そうか、菜の花は湿気に弱いのか」

そんな話をして小高に向かった。
小高では小高川沿いの桜はみんな散っていた。小高神社に行っても桜はみんな散っていたた。ただ残った花がるはらはらと散っていた。
そして石段に蟻が出ていたのは奇妙だった
なぜなら小高はまだ誰も帰っていない、人が住んでいないのだ。
この光景も本当に奇妙であり不思議だとなる
何か人が住んでいないということは桜が咲いても花見もする人もいないから自然すら死んだようになるのかもしれない、だから蟻が出て歩くというとき常に蟻でもいれば人間をイメージしているのである。
蟻が春になり穴から出て働きだす、それは人間をイメージして蟻もあるし桜もあるし自然もある
それがないというということが不思議になる、まず人が住んでいない街ということが何なのかわからないということである。

小高の街中には復興住宅ができていた、長屋のような作りは共同性のある作りにした
でもそこに誰が住むのか?ほとんどが老人になるだろう。
老人ホームになるのかもしれない、ただ老人ホームは街から離れているより街中にある方がいい、街中で日々の生活の息吹が感じられるのがいい、街から離れるとそうした街の活気とかから離れて老人だけで孤立してしまうからである。

海の方に向かったらまだ津波の被害の家が残っていた。原町と鹿島でもたいがい津波の跡はわからなくなっている、かたづけられてしまっているからだ。
田んぼは原野化して津波の跡がそのつまになっている、ただタンポポが一面に咲いているし雲雀も鳴いていたが誰も人が住んでいないということはその鳴き声は人にはひびかないというのも不思議である、自分が訪ねたから自分にはひびいた。


そして小さな堀のような川から沼になった所に鴨がいた、渡り鳥であり春だからそろそろ帰ってもいいはずだがか帰らない、人がないなので居心地いいのかもしれない、ただ春の鴨という季語はあるから鴨も春にもいる
そして松の木が二本まだ残っていた、それは津波にも残ったからまだ痛々しいのである。ただ五年も過ぎて良く残っていた、外では枯れたり切られたりしているからである。

それから村上城の跡に上った、その途中に墓地がありこの墓地も江戸時代からあった。
たいがい墓地は江戸時代からあったところに作られているのが普通である。
安政とか天保があったからそれなりに古い、ただ江戸時代後期であり明治に近い
ここには一時城があったとしても余りにも短かすぎた、記録には残っている
でもなぜすぐにとりやめたきか謎でもある

田んぼの中に津波で流された一つの碑が残っていた
これには福岡と川原と記されていて道標だった
これも奇妙でありこれを見て福岡の方に向かったとなる
タンポポが畦道に咲いていたので気持良かったとなる


ここから帰りは六号線を行くと放射性廃棄物の処理場が道の両側に広がっていた
これは今まで見たのでは一番広かった。
こんなのばかりができるのは嫌である。
ただ小高にはもっと大きな処理場ができていると思ったがなかった。


ともかく小高は人が住まないと何か自然まで死んだ感じになる、老人でもいいから誰か住まないことには死の街から逃れられないのではないか?
ここをどう活かすか簡単にはその方法が見つからないだろう。
まず若い人が住まないというときではここをどのように活かすのかとなるとわからなくなる
これまでのように農業するのかとなるとこれもむずかしい、太田の農家の人がやめたということでもわかる
自給自足とか言ってもそもそも農業がしにくい、ただ何かそういう生活を若い人でも好む人がいて家とか土地とか援助すれば住む人もでてくるかもしれない
いづれにしろ帰らない人が多いというとき空家が増え土地も空いてしまうからである。
その土地をどう利用するのかとなると簡単な解決方法はないだろう。
原野化するとそこは湿地帯になり鴨とか鷺が来て住みやすいとなってしまう。
ただ人が住まない街、人が住まない家がこれだけ多いということこれは何なのだろうとなってしまう


俳句とか短歌は別に書いてみよう


タグ:小高復興
posted by 老鶯 at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

抽象画(流れるーつづき)


抽象画(流れるーつづき)


flowwwwwwwww1235677778899888.jpg

flowwwwwwwww123.jpg

takowaves.jpg

これはタコである


flowwwwwwwww1235677778899.jpg

a flower in the depth of the sea


波のつづきである。抽象画になりやすい過程がある
それをソフトでわかれば一連の法則のように抽象画ができる
だから創作といっても機械的作業だともなる
タグ:流れ
posted by 老鶯 at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2016年04月18日

予知できない地震 (東北はかえって安全地帯になった?)


予知できない地震


(東北はかえって安全地帯になった?)

dannsou111.jpg

今回の熊本地震はどうなっているんだろう?これほど頻繁に地震が起きるものだろうか。
東日本大震災でも大きな余震があったし余震がつづいていた
でもここでの余震は起こる回数が頻度が多すぎる
プレート型の地震とは違っている、まずプレート型は大きく一回本震が来たらあとは余震で徐々に弱まってゆく、それははっきりしている、本震以上の揺れはない

活断層型地震はプレート型の地震とは違っている、地中からぼこぼこと揺れている
まず断層がずれるのとプレートが移動するのは性質がそもそも違う。
それが予測をむずかしくしている
そもそも地震は予知できないし予測できないからいかに逃げるかを優先させろと科学者が言っている
どんな地震にしろ予測できないし予知できないし経験則でもわからない
ただ過去に歴史的にこういう地震があり津波があったということはある
それすら実際にはあてにはならない、それはあくまでも目安にすぎないのである。

「九州では地震が起こらない」これは福島県浜通りではこの辺では津波は来ないというのが確信とか信念までになっていたのと同じである。
では九州で地震が起こらないというとき過去を調べればやはり起きているのである。
日本では地震の起きない場所がないのである。


でも東日本大震災があったのだから九州が無関係とはならない、そういうことは警戒されるはずだったがしていなかった
西は安全だと思っていた、それがまた油断だった、日本列島は大陸と違って狭いのであるだから東北と九州は離れているから安全だなどということはありえなかった
だから東日本大震災があっても警戒しなかったのかとなる
これも油断だったとなる、でも東日本大震災であれだけのものを見ていたら警戒しているのが普通である。
東京などは備蓄したりと警戒して準備した、熊本県とかでは備蓄もしていなかったのである。東日本大震災があってもほとんど警戒しないし自治体でも備蓄ししていないのである
そして神戸地震の1・5倍とかのマグニチュードだったと規模が大きいのにそれほどの死者でもないし建物の被害があっても神戸のようにはならない
もし東京のような大都会の直下で起きたらどうなるのか?
それは神戸地震と同じような結果となる、そしたら東京に住んでいること自体相当なリスクではとないか?

ともかく日本列島は揺れている、それとも日本の神が怒っているのか?
それは何故なのか?それはただ地球では科学からみれば起こるもでありありさけられないとなる
自然界にもカルマがある、カルマをかならずめぐってくる、個々人は家族でもその地域でもカルマをになっている、だからそのカルマを受ける、それをさけることはできない
そしてそのカルマを受けてそのあとにカルマが清算されて平和がやってくる
そのカルマから誰も逃れることはできないのである。

だから東日本大震災ではカルマを東北では受けたけど巨大なエネルギーを放出したからカルマを清算したから何かかえって安全であるという感じになる
当分数百年はこんな巨大な地震とか津波は来ないように思うのである。
ということはかえって東北は安全地帯になっているかもしれないのだ
東京とかから西でも今回の九州のようにそこは危険なカルマが噴出してカルマを受ける
だから西は相当に危険になってきている
放射能だから東北から逃げろとか盛んに面白がって言っている人がネットにいたが
今度はその逆になる、西から逃げろ、放射能など怖がっている場合ではない
今の命が大事だ、今を生きることを優先すべきだ
東北は地震に関しては安全地帯だ
放射能より今の命だ、西は危ない、逃げろ・・・・となる
これもカルマの法則、因果の法則である。
他者の不幸が関係ないとみていても自分にふりかかってくる

いづれにしろまだ大きな地震が来るというとき予断ができない
経験則があてはまらないから自然は予知できないからそうなる
つまり何が起きるか誰もわからない、かえって政府でも気象庁でも学者でもわからないのだからいいかげんなことを言うな、それで被害が大きくなったという学者もいる
それより何が起きるかわからないからそのために備えろとなる

posted by 老鶯 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年04月17日

余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで)



余花十句(夕暮れの街道を相馬市の城跡まで) 

yakushiii1.jpg

yakushiii1222.jpg

sssshhhh1.jpg


ppppppprrrreee111.jpg

mooooooonh122222.jpg

草青し雨濡れ夕べ春の虹

夕風にゆれやまぬかな山桜

薬師堂古き碑並び花散りぬ

街道に夕日さし松に山桜

花映えて鳩むれとぶや街の空

城跡に夕鶯や月もいず

四十雀枝わたるかな残る花

夕月や薄紫のつつじかな

城跡に余花のあわれやいずる月

人去りて眠りにつくや余花に月


城跡に残れる花や幾人か心静かに夕べ歩みぬ

夕暮れにかそかに残る花も散る城跡静か歩みけるかな

雨の後残れる花に夕日さしあわれ暮れゆく薬師堂かな

残る花薬師堂にそ散りゆくや夕日のさして我が通るかも

宇多川の岸辺にあわれ残る花夕べ歩める人の静けし

五本松一本欠けぬしかあれど五本松かな春の夕暮


ttttggggg1.jpg



今日は雨がふり午後から晴れた゛その時虹がかかった、短い虹だった、春の虹だった
この時カメラをもっていなかったのが失敗だった、今はカメラを常時もっていなとシャッーターチャンスを逃し二度ととれなくなる

それから日立木の薬師堂を回り松並木の街道を通り相馬市の城跡に行った。
その時は風は吹いていなかった、雨にぬれたあとの散った桜が風情があった。
残り咲く花もまだ散らず城跡にひっそりと咲き行く人もまれだった
苗市が開かれていたが終わったらしい、薄紫のつつじが目をひいた
その時ちょうど月がでていた

今回は余花がテ-マになった、これはあまり人が多いと鑑賞できない
そもそも花見とかいうと大勢になるがそれだけではない、桜でもやはり美を鑑賞するとなると静かな方がいいとなる
大坂城とか京都の桜は歴史があり特別なものがある
ただ今は人が外国人でもこみすぎるから行きたくない
自分はもともと人嫌いであり人ごみが好きでなかった、今になると年とると余計にそうなった
若いときはどうしてもにぎやかな所がいい、でも年取ると一般的に田舎が好まれるのはやはり騒々しい所が嫌になるのである。
個人差があるかたいだいそうなるのが一般的である
自分の場合はある意味で異常だった
30年間恵まれてほとんど人と接していなかったのである。
ひきこもりといえばそうなる、ただその間旅していたからそれとも違う。

ともかく何度も書いているけど相馬市はなぜ不思議なのか?
それは街なのにしんとしているのことなのである。
原町にはそういう感じはないのである
だから余花でも映えるとなる
人も去って街はねむりにつき余花と月のみが映えているのである。
そういう景色が心に映じて自分も眠りたいとなる
なぜならここ十年は介護に終われて疲れてしまったからである。
そして苦しみの連続だったからである。

五本松の一本は枯れて切られ根っこだけがあった。
それでも五本松である。
自分の家族も二人亡くしたが60年も一緒にいたのでいなくなったという感じがないのである。
これは今のところ謎である。そういうふうに親しい人が死んだときその後にどう感じるかはまだ何なのかわからない
でも何か消えた感じがしない、やっはりいるような感覚になるのが不思議なのである。
それは60年も一緒に同じ場所にいたことが影響しているのだ。
五本松でもやはりここにいつでも立っているから一本消えてもやはり五本松としてあるのとょにているのである。

今回は結構山桜は咲いていた、染井吉野はほとんど散った、余花になっていた
桜もこれでだいたい終わりだが実は桜前線はまだ北に向かうから桜はみれるのである。
ただ何か自分は介護十年で終わり家族が二人死んで疲れがでた
でも今回もかいごしなくていいから時間の余裕がありゆっくり帰ってきたのである。





タグ:余花

巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている (東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)



巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている


(東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

eathqqqqqqq.jpg


eeaaaa234.jpg

慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。


慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。


会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明


慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震

は4日以内に連続して発生したものであるが、共通点は、これらの地震が

「中央構造線」

上で発生していることだ。

日本列島を縦断する

「中央構造線」。

この「活断層」が活動を活発化させていると考えられる


1596年9月1日 慶長伊予地震

1596年9月4日 慶長豊後地震

1596年9月5日 慶長伏見地震


1605年2月3日 慶長地震(南海トラフー関東地方)


1611年9月27日 慶長会津地震

1611年12月2日 慶長三陸東北


最初伊予(四国)で起こり継ぎに3日後に豊後(大分)で起こり一日後に伏見(京都)で地震が起きた。これは確実に連動して起きた。

次の1605年は謎の地震と津波と言われるのはなぜか不可解である。
慶長三陸地震津波の前に会津で地震が起きて七層の黒川城が崩壊した
それはのカ月後にだった


1596-1611(慶長時代)は戦国時代でもあり地震と津波の時代だった
問題はこの一連の地震は関係しているのかということである。

中央構造線で起きた伊予ー豊後ー伏見地震は確実に関係している
一週間以内に起きたからである。

その次の1605年になると9年後げありこの地震と津波のことは謎である。
これがもし本当であったとすると怖い
なぜなら今回の熊本地震と中央構造線でつながり関東地方にも影響がでてくる
ただ慶長地震の場合は9年後だからすぐに影響したわけではない

次の慶長会津地震は慶長三陸地震の3カ月後だからなんらか影響したと思われる。
何か今回の熊本地震でも慶長時代とにている

ただその方向が逆になっている
東日本大震災は東北でありそして茨城県から東京とか関東にその影響があるのか?
そこは謎であり南海トラフの大地震から大津波につながるのか?
そして九州とかの熊本地震につながっているのかとなる
ただその間に10年とか時間差があると地震や津波は関連がむずかしくなる
人間だと10年一昔になってしまうからである。10年後に起きても関連づけるのはむずかしくなる
ただ慶長時代はなんらか巨大地震が多く一連のものとして起こった可能性が大きいのである。
それをあてはめると何か今回の熊本地震は不気味なのである。

地震がなぜ予測できないのか?やはり科学というのは法則性を求めている
その法則があてはまらない、変則的に起きてくる
地殻がどういうふうに関係して連動して起きてくるのかわからない
それがいつ起きてくるかもわからない、一年後なのか5年後なのか十年後なのかもわからない、第一巨大地震のあとには百年後まで余震が起きるとなるともう忘れてしまうだろう
ただ不気味なのは南海トラフの大地震と津波が警戒されているのは東日本大震災でも熊本地震でも両方からの圧力が地殻にかかっているかもしれない、そしてそこが空白地帯になっているから危険なのである。
だから30年のあいだに巨大地震が起きるというときそれは確率的に言えるとなる
今回のように東日本大震災や熊本地震があるとそれは慶長時代とにているから余計に心配になる。そういうことが慶長時代に起きていたからである。
タグ:熊本地震2
posted by 老鶯 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年04月16日

空白地域で起きた熊本地震 (ここでも強い地震は起きないとされていた)


空白地域で起きた熊本地震


(ここでも強い地震は起きないとされていた)


90年のデータだけでは限界があるため、「自分の地域ではでかいのはない」
と、絶対に思わないように。安堵しすぎるのはかえって逆効果です。

なぜ熊本でもそういうふうに信じられていたのか?
これも百年単位とかで見ていると地震は起きない地域とみてしまう。
不思議にそれがだんだん信念までになってゆくのが人間だった
福島県の浜通りとかでも宮城県でも三陸以外はそうだった
すでに400年とか津波が来ていないからこの辺は津波が来ないとされていた


津波の空白地域に伝説が多いというとき宮城県の石巻辺りからは津波は来てない
慶長津波以来来ていない、そこで確かに伝説が多いとなる
それに注目して今回の津波を警告していた学者がいた
でも誰も本気で信じるものはいなかった
最近はボーリング調査で相馬市でも市街近くまで津波が来たことが証明された
それは貞観津波の砂だった。それを発表してから7年後に今回の慶長津波が来たのであるそれは科学的に証明されたから伝説とは違うのである
東京電力でも10メートル以上のつなみ想定していたのである。
ただその対策をとらなかっただけである

三陸辺りでは百年単位くらいで津波が来ているから津波の伝説は少ないというのはそれは時間感覚でそうなっている、伝説はそうしたリアルな体験が忘れられて伝説になる
要するに人間の時間感覚が短いことが最大の問題なのである。
人間の時間感覚はせいぜい祖父母の代までは現実に知っていているからリアルである。
でもその先になると現実感覚がなくなる、顔も見たこともないし例え親がその祖父母のことを語っても想像することによってしかわからなくなる
すると想像するということは何か誇大に解釈したり勝手に想像力で事実をまげる
小説のようにしたりする、事実が事実ではなく想像の世界に入ってしまうのである。
だから相馬藩で津波の時復興事業として中村(相馬市)に城を移転した、それは公共事業だったとか言う人がいた。それが有名な学者だったというのだからこれも変なものだったのである。
そしてそのことを公共事業としての城の移転と築城と相馬藩では津波の被害にあった人たちを援助したということを書いていた。
そんな事実が一かけらもないのに小説にしていかにも相馬藩では藩の民を大事にしていたかと宣伝していたのである。
事実はその逆であり津波の被害を逆に相馬氏が利用して戦国時代に支配を確立した
津波の被害者のために相馬藩で何かしたなど資料もなにもないのである。


人間の弱点は時間感覚が短いことなのだ。だから時間感覚の長い地球を相手にするときさらに誤解が生れる、それは地球というとてつもない長い時間で生成されたものを相手にするからである。
それは人間の有史以来までさかのぼる時間感覚なのである。
千年単位で起きることを知ることは容易ではない
人間は百歳まで生きてもそれしか生きていないからである。

なぜ熊本で地震が起きたのだ、ここには地震は起きない地域だ

これは福島県とかの浜通りでも盛んに言われたことなのである。
でも慶長地震と津波は400年前にきて700人溺死と記されていた。
空白地域はかえって危険だったのである。
長い間地震は起こらないとか津波が来ないという空白地域こそ危険だったのである。
なぜならそれはすでに次の大きな地震が起きる時期にきていたのである。
慶長地震津波から訳400年でこの辺にも大津波が来たからである。
「災害は忘れたころにやってくる」というときそれは人間の時間感覚が百年とか短いからなのである。
もし人間が長い時間感覚をもっていたら大災害はさけられる
そして長い時間感覚をもたないもの、文明とかでも危険になる


現代の科学技術文明は百年くらいで急速に自然の中で生れた、そこには相当な無理をしている
だから原発事故でも起きた、これは日本の自然と適合するのではない、地震が多いし危険なのである。稲作文明は自然と長い時間のなかで23千年以上のとかで日本の自然に適合したものなのである。
エジプト文明の三千年でもそうである。自然に適合した文明は長命であり百年くらいでは崩壊しない、それで縄文文明でも弥生文明でもマヤ文明でも千年以上とか普通であり寿命が長いのである。
現代文明の危険は自然と適合した文明ではないから寿命が短いから自然災害で崩壊しやすい危険も大きいのである。


とにかく日本ではここに地震が起こらないとか津波が来ないとか一つの固い信念のようになることは危険だったのである。
日本はもともと地震列島であり災害列島なのである。おそらく年号が変わりやすいのは災害をまねがれるためだったのかもしれない、平成と天皇が代わり変えた
それが皮肉なことに平成どころではなかった、それが願いにしてもその反対の災難の時代だった
天皇の役目が日本では自然災害が起こらないように八百万の神に祈ることでもあった
それだけ日本は自然災害が多い国だったのである。
そして今空白地域になっいるのが関東であり東南海地帯である。
ここでは大地震が大津波が起こると予定されている、それはここも地震や津波が長い間起きていなからである
ただ空白地域にならないのはここには人口が密集しているからみんなそのことで心配しているから注目されているのである、北海道辺りだと人口が少ないから被害にあっても日本全体にはさほど影響しないとなる、九州もそういうことがあった
東京が壊滅したら日本は終わりだとという今の事情が反映して騒ぐのである。
フクシマの原発も東京を守るために離れて作られたのである。
東京が首都でありここだけは死守せねばならないということでそうなった
そのために地方は犠牲にというなってもいいという国の意志であり政策だったのである。政治がそうさせたのである。


もしかしたら今安全なのは東北と北海道かもしれない

東北は今は余震もおさまった、巨大なエネルギーを放出した

関東は危ない

福島県も今は安全

放射能より地震で死ぬのが怖い

福島県や東北や北海道に逃げろ


これは冗談でないかもしれない、そういう危機が迫っている
タグ:熊本地震
posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

みちのく真野、桜田山に桜散る十首


みちのく真野、桜田山に桜散る十首


mannyouenn2_FotoSketcher.jpg

mannyouenn_FotoSketcher.jpg

桜田山万葉園


みちのくの真野のあわれも桜田山海を望みて花は散りにき

海望む桜田山に我が上り東風の吹きくる沖ゆく船見ゆ

年古りて桜田山や残る花散るもあわれも今日も風吹く

海望み沖行く船を我が見れば旅心わく春の朝かな

桜田山花の装い燕来る風のあらしもはや散りにけり

海望み桜田山や風あらく花の散りにきあわただしかも

万葉園久々にきて年深み松にしよりぬ春のくれかな

我が生や介護に十年その重み姉母死にてめぐる春かな

我が町を桜田山に望むかな姉母なしも花は散りにき

故郷は思い出深き姉と母眠れる所春のめぐりぬ

年古りて今いくたびの春なれや桜田山に望む海かな

海望み津波の跡の生々し帰り来ぬ人春はめぐれど

故郷に我も老いにき桜田山花は散りにきあわれ深まる

故郷に若き人しも育ちなむ我が老いつつも見まもりけるかな



桜田山に上ったのは数年ぶりというか上っていなかった。それはなぜなのか?
毎日十年は買い物であり介護に追われていた。
この介護の十年は自分の人生の大きな一部となってしまった。
何かに常に追われつづけてきたのである。
桜田山に上らなかったのは失敗だった、ここから海を望んだときそれが新鮮だった
もしかしたら三年くらい上っていなかったかもしれない
とにかくこの辺は津波が来て原発事故になっていらい落ち着かないのである。
それはここ十年は介護であり自分の病気やらで本当にめまぐるしく追われたのである。

30年くらいは平和であり自分は楽だった、その間旅に明け暮れた。
それで桜で思い出したのは

みちのくに桜咲く時西に行き京大阪は散りし後かな

つまり桜前線が西から東へと移ってゆくことで情緒が生れる、みちのくの桜はまだ咲かないというとき桜の咲くのを待っているというとき西は桜が咲き誇り栄華があったのである一方でみちのくの桜も散るしそのあとはさらに北へ向かえば弘前の桜が咲くとなる

稚内六月にしも桜咲き雨のふりにつ寒しを思ふ

稚内まで自転車で行ったとき六月まで桜が咲いていた、その時は寒かったのである。
ともかく人生60年とか団塊の世代も老人となり過去をふりかえるようになる
実際に同級生で死んだ人もいるし脳梗塞とかで手術してやせほそった同級生もいた。
団塊の世代もそういう人生の最終章に向かいつつあるのだ。

何かこの十年は介護であり津波原発事故でありめまぐるしく変わりあわただしいのである介護が終わったということでその時間の重みを知った。
介護がそれだけ長いということは人生の一部として課せられるようになったのである。

万葉園にも久々に行った、何か荒れていた。立て札に記された歌があった。

一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(万葉集、市原王)

南相馬市の鹿島区の真野は万葉集の歌にある。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

これは必ず真野の草原となっているから草原(かやはら)だと思っている
でもこれは地名だったのである。だから草原(かやはら)をイメージすると変なものになるのだ、草原を萱の原とするとき全く違ったものになる
草原は地名だった、伽耶の原だったのである。津神社がつの神社でありそれがツノガノアラシトと関係していたように誤解される、津神社で津波と関係していたものはないのである。ツノとなっていればたいがいツノガノアラシト系統なのである。
韓国からの渡来人に由来した地名である。製鉄の技術集団が移動してきたためにつけられた地名であ。ただこれは本当にまぎらわしいのである。

いづれにしろ姉と母が死んだことは自分にとって大きな変化だった。この辺はみんなすさまじい変化に見舞われた。津波でもそうだしそのショックはまだ消えていない
ここ十年で経験した自分のことも生々しいのである
この十年は大きな重圧のもとで生きてきたのである。
だから何か常に生活でも心も負われて生活してきたのである。
そのうち十年がたち相当に老いて市ったとなる、この辺で大病したりすると同教生のようにさらにふけてしまうのである。
自分は体力的には立ち直っているからまだ死ぬのは早いかもしれない、でも何か人生の最終章に向かっていることはまぎれもない実感なのである。
今だから書くことが前に書いたことでもふりかえり書くことが増えた
いくら書いても書き切れないという状態になっている
介護から解放されたからパソコンでも記録したものをふりかえりまとめることが仕事になる、これも相当な手間なのである。





タグ:桜散る

2016年04月15日

荒れ模様の中で今年の桜も散る



荒れ模様の中で今年の桜も散る



日本なれ海の光りて朝桜


昨日は風に吹き散る桜かな今日は静かに小雨に散りぬ

目覚めれば風に吹き飛ぶ花びらや今年の桜散るも早しも

風荒れて残れる花をしばし見つ今年ははやも散りにけるかな

風荒れて桜をゆする咲きし間も今年短き落ちつかぬめかも

花散らしなお風うなり夜となる名残を惜しむ間も短しも



ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

この歌はひかりのどけきだから風が吹いていない穏やかな日に散る桜である。
でも静心なくというのは穏やかな日でも桜が咲くとそれはすでに散ることを予感させる
今年は風が何度も吹いた、吹かない日がないくらいだった
それも風が強いのである。それで今日も桜が激しく風に揺すられていたのである

花の命は桜の命は短い、そこに日本人の美学が形成されたということはある。
戦争中は若い人が多く死んだから桜にその心が反映されやすかったのである。

たれこめて 春のゆくへも 知らぬまに 待ちし桜も うつろひにけり

桜はあくまでも「晩春を彩る代表的な景物」であり、その花が散ること、
つまり「春が終わる」ことを惜しみ嘆いているのです。
E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%95%E3%82%8C%E6%96%B9/

桜を散る桜を人間の命にたとえたのは戦争中だけでありそれまではただ季節が移るということで桜をとりあげていた
静心なくというとき桜は風に散りやすいからそうなる、風騒ぐというときそれは心も騒ぐということに通じている。
花が散るというとき死をイメージしても不思議ではない
自分の今回の歌も何か死をイメージしている、命が短いというときそうである。
でも桜は毎年咲くのだから咲いて散るのだから命短しとするのはあわないのである。
どちらかというと華やかに儚いというかそういうものの象徴になる

一時に花みな散りぬいさぎよし若き命の今はなしかも

これは自分で作ってみたがこんなふうに戦争のときは桜は歌われていたのである。
こういうことは今は批判されている、戦争を賛美するものだったとなる

はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける  101式子内親王
みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの  133後鳥羽院

これなんかも別に命のことではない、春の象徴として桜があった。
人間の命として桜にたくしていはいない、ただ静心なきとさせるのが桜なのである。
それが死と結びつく、桜は何かそうして死を予感させるものがあったのかもしれない。

朝倉氏が織田信長と戦っているとき家来の武将が桜の歌を残した。それは山桜でもない、糸桜だったのである。糸桜は枝垂桜であるから染井吉野のように華やかには散らない
だから散るという歌はないのである

折りを得て けふ咲く花は君がため今一しほの色やそひけむ 信忠

枝垂桜だったら散るというより枝垂れる色がにあう。この時第一城であっても今のように染井吉野のよう花は咲いていないのである。明治以降に桜の木がどこにでも植えられて飾るようになった。
ただ糸桜は枝垂桜は城内に咲いていたのでこういう歌を残したのである。

自然には人間の心が心境によって絵でも文学でもなる、俳句でも短歌でもそうである。
でも桜だけが命ではなく多くの花もやはり人間の心がたくされる、花の命は短いというときそれは人間のことでもある。
だから普通の花でも咲いて枯れれば死ぬと見るのである。
それは生き物だからそうなる、そして墓にさす花は枯れるがいやなのである。
枯れたままになってさしてあるのが嫌なのである。
それからいつでも造花がさされているのもいやなのである。
造花はやはり生きていないからである。花は枯れても生き物だから違う。
だから時々彼岸でなくても生きた花をさしておきたいとなる
要するに桜でも普通の花でも生きてやがて死すというのは無常であり運命である。
樹ですら千年生きてもいつかは死んで土に還るのが定めである
それは生きものだからそうなっているのだ。
だから桜だけがはかないとかではない、みんな花の命は短いのである。


ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

これは土着的なものとして見た桜である、もともと桜は農耕と関係していた。
それで桜が咲いたら種をまくということで種蒔き桜などがある
桜を戦争のときのように死のイメージとしてだけみてはいない
栄えるものの象徴としても桜はあったのである。
タグ:桜散る

他者のカルマを受ける怖さ (事業失敗のカルマを受けた怖さ)


他者のカルマを受ける怖さ


(事業失敗のカルマを受けた怖さ)


その人は事業に失敗した。でも最近までその人は成功していたと見られていた、あの人は誰でもとれない資格をとっていたから回りから優秀な人だと見られていたし自分もそう思っていた。
現実は事業に失敗して多額の借金をかかえていたのである。
その人の事業は全国を相手にして金持ちをターゲットにした建築関係の仕事である。
別荘のようなものを提供することだった。
資格をもっていたからはじめたのである。
でもそもそもそれには無理があった。大きな設備投資もしたこともありそれも重荷になった。
自分は別にその人とは家族とも関係してない、でも親の代から深い関係があった。
親というのではないが自分の家族はその人の家族が病気になったとき看護婦ということで助けたのである。それを恩に思ってくれたので自分の家族が病気になったときは多少は助けてくれた。


でも今度は自分が病気になったときは別である。直接自分が助けたりしていないしそれよりその人にはもう自分を助ける余裕も何もないのである。
多額の借金をかかえているから自分が病気になり弱体化したときチャンスになった。
借金を要求するのには好都合だったのである。
自分は自分自身のカルマもあった、それは両親ともいえる家族には自分は一番良くされてきたから介護とか世話するのは当然であり懸命に介護した。
一人は認知症だったからひどかった。そのことを延々とプログで書いてきた。
自分自身のカルマは自分で清算するしかなかった。
でも他人のカルマまで背負うことは本当に加重であり恐怖である。
病気のとき責められることは辛い、でも相手は何も感じていない
自分だけの借金のことしか頭にないからである。
その時相手がどう思っているかというとこれも怖いことだが自分が死ねば財産がえられるとか思っていたのである。
それは殺人までいかなくてもそういう動機があり意志が生じていたことはそれに匹敵するのである。


何もそういうことはこの世の中で兄弟でも財産争いで普通に起きていることである。
それが推理小説のテーマである。遺産争いが一番そのテーマになっているからだ。
要するにこの世に起きることで自分が当事者にならないかぎりその恐怖を知ることはできない、ドラマを見ていればただ面白いとなるだけなのである。
それはあれだけの津波の被害でもこの辺で身近に起きていてもそうだったのである。
自分の親が子供が死んだらその悲しみは深いものとなる、でも近くにいてもその被害にあわない人は感じないのである。
家も流されたわけでもないし家族を失ったわけでもないからである。
これは別に自分が非情だからではない、みんな他人の不幸でも無関心なのである。
ただ自分の身にふりかかったときは全く違うのである。


今回は自分の身に直接ふりかかったからその痛みと恐怖は今でも消えないのである。
そして他人のカルマを受けることは本当に怖いことである。
自分の家族が自分自身が病気で苦しんでいるとき多額の借金をかかえた人が来たらどうなるのか?
また金がない人がきて被害にあったらどうなるのか?強盗にあい殺された人も普通にいる
それもやはり他人のカルマを受けることなのだろう。
自分が犯罪にあったのもそうである。そしてそういう不満のある人は必ずやつあたりする、それで死んでいる人もいるのが普通である。
つまり他人のカルマによって死ぬということさえあるのがこの世である。
しかしそうした相手が意外と他人に恐怖を与えても感じていないのである。
実際は笑っていたのである。これは借金するのに好都合だと笑っていたのである。
そして死ねば財産が自分の物になるとなるから死ねばいいとさえ思う
それは保険金殺人と同じである。それは親戚でも財産争いで普通に起きていることなのである。

結婚すると好きだとか愛だとか甘いものでしてもあとで相手の家族のカルマを負うこと強いられるから怖いということがある。
もちろん結婚する前にもそういうカルマがあるということを知ることもある
家族の中に良からぬ人がいるということも知る、でもわからないこともある。
それが隠されていることもあるから怖い、それが表面化したのは老人になってからだったということも普通にある
いづれにしろ60代以降になると病気になりやすいしカルマが逃れがたく現れる
カルマの総決算が強いられるのである。それがまさに自分にも起きたのである。


なぜか自分の家系をたどると父方の方で二軒も事業に失敗している、兄弟という関係ではない遠い親戚といものでもそうである。
その家の跡は今では駐車場になり何もない、もう一軒もやはり60代以降になり事業に失敗して自分がそのカルマを受けることになった。
そして母方の方も事業で失敗したことが一家離散の悲惨な結果になったのである。
事業の失敗というとき第一20人に一人くらいしか成功していないのである。
するどどれだけの人が事業に失敗して悲惨な結果になっているか?
事業の怖さは親戚だとかなると否応なく連帯保証人とかにさせられる
これも共同責任になるから怖い、その悲劇はいくらでも現実にあるからめですらしくないただこういうことも実際に自分の身にふりかからない限り常に他人事なのである。
シリアであれだけ悲惨でも同じである。
もし日本人が難民化したらどうなるのか?それすらありえる。
将来アメリカと中国とロシアの板挟みになり日本が分裂したりしてシリアのようにならないとも限らないからだ。


とにかくカルマは他人に負わせるとさらにその人のカルマは重いものとなる
自分のカルマは自分で清算するほかないのである。
自分に事業の失敗のカルマを負わせる、それも自分が病気であり弱いときそういうことしたらさらにカルマは重いものとなってゆく
結婚でも必ず嫁いだ先の家のカルマを背負うことになるし逃れられないから怖いのである昔は家同士の結婚だったというときそれも家がもっているカルマがありそれを考慮すればその方が安全だとなる、どうしても結婚では家のカルマを受けざるをえないからである。親のカルマを子が受け継ぐのも普通にある、親と同じような運命になる不思議がある。
それはカルマの法則といってもいい、例外があっても法則のようにそうなっている
ただ誰でもカルマは背負っている、カルマのない人はいないのである。
金持ちで恵まれているのも危険である。何か困難があったとき耐えられないとなる
切り抜ける術もないとなり破綻してしまうだろう。


自分のカルマもあるが他者のカルマを背負わされることも怖い、自分には自分のカルマを背負うことと他者のカルマを受けることの二つが同時に起きた。
悪いことは重なるし良いことも重なる、だからこの十年間は辛酸をなめた。
カルマの法則はこれは確かにありそれは現実としてあることを誰でも人生経験で知る
誰かを苦しめたものはまた誰かに苦しめられるのである。
これはまちがいなくあることでありカルマの法則なのである。

2016年04月14日

グローバル経済と郷土学 (遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)


グローバル経済と郷土学


(遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)

kyodai1.jpg
「地域を守る看護」ー地元の病院



グローバル経済というときこれを理解するのはむずかしい、実感できない世界である。
具体的に日々の生活でわかっていることは金がすべての価値基準になっていることであるそんなこと誰にも言われなくても庶民でも日々の生活で骨身に沁みて知っている
金なしではどうにもならないということを知っている
ではそもそもこうしたグローバル経済とか資本主義の金がすべての価値基準となった世界があったのかというとない、時代的に封建時代というときヨーロッパにもあり日本にもあった。
その価値基準は金ではない、江戸時代の価値基準は米であり貨幣ではない、だから石高によって侍の月給は計られていた。貨幣ではないのである。

封建時代は土地が最高の価値をもたらすものでありその土地の上に支配体制ができた。
米や野菜でも土地がなくては何もできないからである
ユダヤ人は土地をもてなかったから諸国をさまよい、金融で生活する他なかった
それが資本主義の元になったという人もいる。
だから土地を基にある国家とか否定する、世界が国というものなくなって金が支配されるのがいいことになる、それは多国籍企業でも同じである。
国が関税とか税金をとられるから自由に活動できない、国境もないほうがいいのである。

ではグローバル経済と郷土学というとき何が関係あるのかとなる
最近のこの辺で市が開かれる人が一個500円のトマトを売っている、前は200円くらいだった、そのトマトは普通のトマトより味がいいし大きいのである。
ハウス栽培のより味がいい、形が丸くなく楕円形で大きいのである。
だから確かに一個の丸いトマトより大きい分三個分くらいあるかもしれない
でも一個500円は高いと思った、そこまでして買うかとなる

そういうトマトは東京とかの金持ちに売ればいい、でも今度は輸送量がかかるからまた金がかかる、でも東京では大金持ちがいるから売れる、地元ではそうしたうまいトマトも食べられないとなる
そういうことは魚でもそうなっていた、新鮮なうまい魚は東京に売られていた。
確かに松川浦でとれた石鰈などを2000円とかで買っていたことがあった
それでも魚は新鮮だとうまい、それだけの価値はあった
でも金だけが価値基準になる経済は地元に住んでも地元のうまい魚が食べられないとなるのも損である
何もこういうことはグローバルに起きているのである。
世界の貧しい国ではうまいものを世界に売っている、それで生計をたてているが自分たちは食べられないということが普通にあったからめずらしいことでもない
金が基準となるグローバル経済ではどこでもそうなるのである。


でも問題は人間が困ったとき本当に遠くの人が助けに来てくれるだろうか?
「遠くの親戚より近くの他人」というときこの諺の意味は遠くというとき隣の村でも当時は歩くのだから遠かった゛では病気になったりして看病してくれとなっても隣の村から来るにも手間である、すると隣近所に助けてもらった方がいいとなるのだ。
そういうことを原町の親戚の人が車でくるのにも手間だと思った
隣だったら歩いてでも簡単に来ることができるが原町でも遠いということを知ったのである。まして東京になったら遠くてどうにもならないとなる
外国だったら来ることも何することもできないのである。

原発事故でも一時南相馬市は陸の孤島と化した、放射能を恐れて外部から物が入って来なくなったのである。ガソリンもなく車も使いなくなった
外部の人だって放射能が危険となれば自分の命が大事だからちらあえて来ないのである。グローバル経済をどうのこうの言っても現実に否定できないようになっている
世界がそういうシステム化されているからここから一国だけ一地域だけが別個になることはできないようになっている
これを郷土学の観点から考えると福祉などの分野から考えると病気になったり介護になったりするとき実際に助けてくれるのは働いていくれるの地元の人である。
こういう人に直接接する分野は遠くから物を運ぶのと違うからそうなる
ただ介護でも施設があっても人手がないとかでよその施設に入った人もいる。
だから必ずしも今は移動が容易だから地元にこだわる必要はない社会である。


郷土学というときそれは何か?これは人間を自然をふくめてトータルに生きることであり考えることである、自分はそれを追及してきたのである。
例えば人間が死ぬというとき山に葬られ先祖になったというときそれは自然と一体化したことなのである。
死というものもその土地の自然と結びついて死があり死んだあとも先祖が見まもってくれるという思想はトータルにその土地全体を視野にして生きていることなのである。
現代とは科学技術が過度に発達してトータルに生きられないことが一番の問題なのであるそれは死という問題でもそうである。何か人間は死ぬともう部品のようにかたづけられるのである。
「お前の役目は終わった、あとは何もない」となるのも淋しいだろう。
先祖として山に眠り子孫を見守るという思想は都会から文明から生れないのである。
一代だけの部品化した生なのである。生でも死でも意味がもてないのである。

エジプト文明でも死は終わりではなくあの世まで継続していた、あの世でも生前と同じような生活をしていたのである。生と死が断絶していなのである。
そこにはトータルな生き方が生前から実行されていたからである。
グローバル経済は世界をトータルに生きるというものではない、そんなことは不可能である。それより世界がかえって部品化されて物でも何でも供給するようになる
それは自動車が生産するとき自動車が一つの世界となり世界中で部品を調達しているのとにている、だから自動車文明になってしまう。
そこには自然とはかかわりないし外にもトータルにかかわらない世界である。
自動車の価値がすべてになってしまう社会なのである。


ともかくうまい500円のトマトを地元でも食べたいと思う、でも500円出さないと売らない、これはうまいから外でも売れる、外に売り出そうとなる
東京なら金持ちがいくらでもいるから出せばいいとなる、そして地元の人はそのうまいトマトを食べられない、それがグローバル経済の矛盾なのである。
全部がそうでなくてもグローバル経済は世界が金で計られるときそうなりやすいのであるそうなると500円のトマトを高くて食べられなかった、もっと地元で食べたいのに食べられなかった、あの人は地元に貢献しているのかとかなんとかなる
もし病院に入院したりしたとき、この人はあなたの作ったうまいトマトを食べさせてもらいましたから世話しますよとかならないのである。
そんなこと今はいちいち考えないというのもそうだが郷土学の観点からすればそうなる
郷土学は人間をトータルにみる生き方見方なのである。
江戸時代から戦後の十年くらいはそういう自給自足の世界だった。国自体貧乏なのだからそもそも地方交付金とか生活保護すらない社会だった。
それで自分の家の隣の人は餓死して死んだ、というより子供がいたのだから子供が悪かったのだかそういう貧乏な人がいたのである。
現実はそういうこともあり貧乏でないからこそ理想論が過去を美化するということはた常にある。

矛盾しているのは自分が一時外国の株とかでもうけてわずかの畑を作っている人を援助したりした。その人は畑をやれたのは趣味程度だがグローバル経済で自分が田舎でも金が入ったからだとなる、そんなことは自給自足経済のときはありえなかったのである。
趣味で農業をしている人などいなかったのである。そこで米でも野菜でもとれなかったら餓死するとかの切羽詰まったものとしてやっていたのである。
豊になったからこそ農業もゆとりでやれる、減反にまでなっている
だから過去をすべて美化するのは問題である、でも世界をトータルに生きるということは人間の生を充実させる、それは継続して死も充実して継続した生がその土地にありつづけるとなる、グローバル経済をすすめるとある地域はのトータルなものは失われ自動車の一部品をだけを生産する場となったりする
国自体が日本では車とカメラだけを作っていろとかなる。
食糧は牛肉でもなんでも広大なアメリカで提供してやるから作らなくてもいいとなる
そういう極端になるのがグローバル経済なのである。

トータルになるより国すら部品工場のようになってしまうのである。
国でも地方でもそういうふうになるのは人間にとっていいのかとなる
限界集落をなくせとか都会の人が言うとき、都会的価値観だけが価値観ではないことを知るべきである。
地方から田舎から産み出すものがありそれが何かを知るべきである。
都会的グローバル経済的価値観を一方的におしつけるのは問題なのである。
もちろん地元の人ですら田舎ですら現代の都会中心のグローバル経済の価値観になっている、それは現実にそうなっているからでもあるがそこに疑問ももたないとなると都会人と同じになる
原発事故の被害で一番思ったことは人間が生きる基本となる水とか土とか食糧の生産にかかわるものが放射能で汚染されたことである。
土が水が汚染されたもう人間はそこに住めないのである。それが原発事故の恐ろしさだったのである。


確かにボランティアの人には助けてもらった。現実に復興で働いているのはほとんど外部の人であるのも事実である。
これも広域社会のグローバル経済のいい面としてあった。
外からの外国からの援助も受けることができるということがある。
一方でボランティと言っても一時的に来るのは楽だと思う、でも継続的にかかわるとなるとむずかしくなる、女川辺りでここに住んでくれるんだな、ずっと住んでくれるんだな、なら最後まで世話してやるとか言っていた。
そういう困窮したところをあえて選んで住むというのは容易でなくなる
地元で南相馬市で補償金でもめたたしたのやはりここに生きて死ぬという場だからである一時的に旅人のようにきてボランティアして帰るのとは違うのである。
たがいの要求も厳しくなったりもする、それはやはりここで生きて死ぬという場だからである、ただもともと住んでいた人が放棄したりしているのだから津波の被害地であり原発事故の被害地でもそこに住むこと自体容易ではない
郵便局に長くいたら8割は老人だった。ここは避難区域でないにしろそれだけ老人が多くなっている。これは全国的にそうだがこの辺は老人が外よりも多くなったのである。
原発事故では故郷に生きる生の継続が破壊されたことも大きな被害だったのである。



posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年04月13日

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?


なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来 (続編)


相馬藩の中世の館

odakaaaaaa1.jpg

shimeha1.jpg

nakano1.jpg


kitagooo1.jpg

utago1.jpg


青い線で囲んだところが海側に港をもって勢力もっていた

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。




相馬藩では確かに一行正式の記録として相馬藩政記に700人生波で溺死と記されているから慶長16年の津波の被害があった。
ただ正式な記録としてはこれしかないのである。
これだけの被害があったのにこれしかない、一方で戦で戦い誰が手柄をあげたとか世継ぎ問題とかは仔細に記されている
それより津波の被害のことをもっと記されてもいいはずである。


ただそこには当時の時代の影響があった。まだ相馬市がこの地域を支配していなかった。戦国時代であり戦乱の時代であり相馬氏が進出してきたのだがそのとき中世の館があり土豪が館を構えて各地を支配していた。
だからこの地方の歴史をたどるときはその中世からふりかえる必要がある
相馬氏の進出径路で書いたように相馬氏は小高から入って支配してきたのだが中之郷(原町)になるとまだ支配領域に入っていない、深野(ふこうの)とかは中世の館とつく地名が二つありそこで大原に支配地域を広げた。そこはまだ開墾されていない大原だったからである。
それから大原→小池→栃窪という径路で支配してきている
栃久保には相馬氏の家臣が入ってきているからである。
そして柚木も相馬氏の支配地域に入っていた。

つまりそれ意外は相馬氏の支配地域に入っていないので抵抗勢力として残っていたのである。
その中世の館をもって支配していた土豪は海岸線に勢力をもっていた。
それは鎌倉時代にもすでに船が使われて商業が行われ貿易が行われていた。
海岸線には港の機能がありそこに力を土着の豪族が住んでいたのである。
だから小高でも岡田氏がいて岡田館があり岩松氏の伝説でも鎌倉から船で烏崎に来て今の館に住んだ、その時船で来たとあるから船がすでに運行していた時代なのである。
ただ岩松氏の場合は磐城から船で来たらしいという説がある。
それにしても太平洋の荒い海をすでに船が荷物を積んで運行していたのである。
岩松氏が屋形に住み最近津波の跡に主に鎌倉時代の住居跡が発掘された。
つまり海老村は蝦夷のエヒから来ていて弥生時代の縦穴住居もあったということは古くから人が集まり住んでいた場所だったのである。そういう適地だったのである。

ではどうして相馬氏の相馬藩に津波のことが記されなかったのか?
そのことを解く鍵は中世の屋形の配置を見ればわかるし岡田氏とか泉氏は
相馬氏の支配下にはいったあとでも有力な相馬藩の地位についていた。
そして相馬氏の進出径路でわかるように中世の館のある海岸地帯は相馬氏は進出できなかった。
津波が来たとき被害を一番受けたのはこうした港をもっていて船ですでに貿易していた豪族であった。相馬藩政記はあくまでも相馬氏の記録でありこうした中世からもともと住んでいた土豪の記録ではない、だから相馬氏が戦いに勝ったことなどを仔細に記録しているのである。手柄話である。誰でも戦争では手柄話がしたい、それが話題の中心となる。
でもそれはもともといた中世の館をもって支配していた人たちがいてその人たちの関心はまた違っている
でも記録するのは相馬氏でありそうした土豪達ではなかったのである。

そして唯一津波の被害にあった当時の状況を語るのがこの伝説なのである。

中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、

天守閣造営のときとあるからこれはまさに相馬氏が中村に城を移して天守閣を作る時だったから慶長津波のすぐ後のことである。
ビスカイノの残した記録に中村にたちよりその時城を再建中だったというとき城の工事がはじまっていたのだが地震が来て破壊された、その時津波の被害もあったのである。

相馬利胤にビスカイノが建築中の建物が破損して再建中とあり中村の町も「海水の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり


岩本氏の指摘ではそうなっているからこれは明確に津波の被害が地震の被害があった
でも利胤は津波については何も記していない

だからまちがいなく慶長津波の被害を語っているのである。
そういう大きな被害があり津波の被害があったときまだ相馬氏が支配した領域は狭いのである。小高は先に支配したとしてもあとは大原→小池→栃久保(栃窪)とかであり磯部館がありそこに佐藤氏が勢力をもち鬼越館を築いた。伊達氏との勢力争いもあり相馬氏は実際はそうした回りの勢力との戦いで精一杯だったのである。
そして津波の被害にあったのはそうした昔からもともといた海側に勢力をもった港をもっていた豪族だった。
その中世の館をもった豪族が慶長津波の被害を受けた。つまり相馬氏が進出する時、そうした勢力が津波で弱体化したのである。それは相馬氏にとって都合がいいものだったのである。
別に相馬氏の被害にはならないのである。今のように南相馬市全体という感覚は支配も政治も成り立っていないからである。
相馬氏はこの一帯を支配するために戦いに勝つことが一番大事だった
となれば当然そうした戦いのことを仔細に記録する、でも津波のことは相馬氏には打撃にならなかったのである。かえって好都合だったのである。
これは相馬藩ということが成り立たない時代だからそうなったのである。
伊達藩ではすでに津波にあった地域は支配下にあるからその被害が伝えられた。


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


海水でなぜ洗うのか?それは津波に由来しているのである。普通海水では洗わない、でも津波のときは海水で洗ったとなる。そういう津波の記憶がそうさせているともとれる
ここは何か津波をイメージさせるのである。

そして重要なのは相馬市の諏訪神社に津波の船つなぎ伝説とか残っている、それは全く根拠のないものでもない、なぜなら小泉川を津波が押し寄せればそういうことがありうる
津波の特徴はいろいろあるがまず川を遡るということに注意しなければならない
そして土手がないときだと津波の水が平地にあふれるのである。
真野川でも津波が上ってきたから危険だった。
でも真野川は河川改修して川幅を広くして土手も頑丈にしたのである。
その前は二回もこの辺では水害にあっている。真野川の下流は土地が低いのである。
岩沼の千貫山神社の繫船の伝説も当時の阿武隈川との関連で川を遡った津波でそこまできたということもイメージ的には無理がないのである。
大川小学校の悲劇も川を津波がさかのぼってきて起きたのである。

海老村の大工の善次の伝説は当時の状況を語っている、海老に津波があり大工の善次はそのことが気にかかっていた、でも相馬氏から中村城の天守造営にたずさわるよう要請されたことで悩んでいた。
天守閣造営より当時の中世の館をもって支配していた土豪の命令に従いたかったということもあるしそう命令されたこともありうる、屋形には二つの中世の館があり一つは寺である。寺も要塞だったのである。そういう中世のもともと支配していた土豪の支配下にあり一方で相馬氏が進出して天守閣の造営を命じられて板挟みで悩んでいた。
そこに津波も来て複雑な心境になっていたのである。
大原と関係していたのはまさに相馬氏が進出してきた径路にあり相馬氏の勢力が徐々に広まっていたのである。その圧力は大きなものになっていたのである。
それでこのような伝説が生れて残ったのである。


それから柚木も相馬氏の支配地域にはいった所でありそこに八沢浦での津波の伝説が残っている、「急ぎ坂」とかてんとう念仏などの伝説である。
これはやはりリアルな津波を経験した表現だから信憑性がある。
ここで注目せねばならないのは柚木でもそこは相馬氏の支配下にあったところであり中世の館をもった支配下から相馬氏の支配に移った場所なのである。
諏訪神社の船繫ぎ木の伝説も相馬氏の支配下になったときのことである。
それに何が意味があるのかとなると中世の館をもって支配した領域には津波の伝説は残っていないのである。
ただ双葉にも津波の伝説らしいものが残っている、でもそれが津波に由来するかどうかは不明である。魚畑(いよばたけ)という大熊町史にのっている魚が泳いでいたというけどそれは津波なのだろうか?
なぜなら大熊は相馬氏の支配地域に慶長津波の時は入っていない、それでもそうした津波の伝説が民間で残ったのか?その辺がまた謎になる

ともかく戦国時代の影響で津波のことは余り語られなかった。侍は戦争のことが一番大事であり相馬氏にとっては土着の中世の館をもって支配する土豪の地域は詳しく知ることができなかったのかもしれない、それでおよそ700人溺死とか記しただけだったとなる
この海老村の大工の善次の伝説を読み解けば津波のことが明確になるかもしれない、
とにかく問題はあまりにも資料がが少ないということだったのである。


相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
タグ:津波の記録
posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

郷土史の基本は村の新旧を知ること (一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史の基本は村の新旧を知ること


(一地域の新旧も歴史であり重要)


郷土史をどういうふうに研究するかとなるといろいろあるが基本はやはり村の新旧を知ることである。
前にも書いたけどそもも明治以降なら時代を間違いることはない、現実に祖父母まで生きているとき接している、自分の父親は明治生まれだから明治と大正が逆になるはずがない、でも江戸時代になると時代を間違うのである。
「天保」となると古い感じになるが実際は天保生まれの人は明治で活躍した人なのである江戸時代では時代をとりちがえる、つまり父親が祖父母となり祖父母が父親のようになる、普通はそんなことありえないのだけど江戸時代になると新旧がわかりにくくなる


それが大事なのは原町でみると原町市となっているけどそもそも原町の市街地は新しい街である。そこは雲雀が原であり野馬追いのために馬を放し飼いにしていた広い牧場だっただから原町村となり野馬追いに出ていたのは一つの家だけである。
村の新旧を知るというとき一番の目安は中世の城館があったかどうかである。
これが意外と大事なのである。それは地名からわかる、館とか楯とかある

東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

東北に特殊な事情があり館という地名が多い、でもこの館は江戸時代前の地名でありそこが古い場所であることを示している
原町は新しいのであり原町で古いのは中世では泉館跡とか深野でもそうだが館という地名が二つあり古いのである。
誤解しているのは大原より深野は古い、深野には実際に古い墓があったことでもわかる。相馬氏は中世に土豪として土着していた人たちを征服した氏族である
例えば最近高校で習った西徹男死が死んだ、その住所が中館になっていた。
その中館が自分の家からいつも見えるのである。
今は桜が咲いているから身近だとなる、そこは南朝で滅びた一族が逃れたところであり由来がはっきりしているのである。
たいがい中世の館は小高い山に砦を構えて住んだ。磯部の鬼越館もそうである。
最近発掘された津波の被害を受けた海老村の跡は鎌倉時代だった
そこはすでに弥生時代の竪穴式住居跡もあったというから古いのである。
あそこは右田村より高台にあり住むには適地であり古くから港の機能があり江戸時代には船で米を江戸に運んでいたという、となるとそれだけの米を運ぶ船が出入りしていたのかとなる
鎌倉時代から住んだというとき南相馬市の鹿島区の屋形は岩松氏が鎌倉から来たことで有名である。
この岩松氏は一番古い氏族なのである、それは原町も支配していたし大倉とか飯館村も支配下に置いたのである。


前に相馬氏の進出径路について書いたが大原というとき深野はすでに中世の館があり地名として二つも残っている、大原は未開の地であり文字通り大原であり原町も原っぱだったのである。
そこに相馬氏が進出して支配したのである。
地理的にも大原というと深野より奥になるから地理からまず納得する、橲原でも江戸時代からあったとしても中世は森だった。
一方栃窪村は中世の館があったから古いとなる
こういうことは地元の人でも外から来た人だと余計にわからない、新旧を取り違えるのである。
八沢浦は江戸時代は浦であり港であり明治になって開拓された、小高の井戸川も大正になって開拓された場所なのである。
ただ小高は縄文時代の遺跡が多く古いのである。縄文時代の遺跡があるところは一番古いからである。そこは今回の津波の被害にあっていないのである。
縄文時代は海だったからである、津波では鹿島区では塩崎の船着という地名のすぐ近くまで津波が来たのである。古代には船の往き来があり海だったからである。それが津波で証明されたのである。

ともかく郷土史でも新旧を知らないと誤解が生れる、相馬氏が今の相馬市に城を移したのは慶長時代でありそれは津波の被害があった一カ月後だった。
損なときに何故城を移したのか、大工事をしたのか?それが疑問なのである。
その謎解きの一つとして海老村で大工の一人が大原と関係していて天守閣の普請に使われることで苦しんでいたのである。それは海老村に津波の被害がありそのために地元で働くために天守閣造営に使われるより津波の被害のために尽くさねばならないからであったかもしれない、「大原」と関係していたことはその時相馬氏が大原に進出していたからである。


相馬氏が進出した城のあるところはすでに伊達氏などの支配地であり黒木氏など黒木館などがあり有名である。中村とはもともとあった地名でありそれで相馬市はもともと中村市だったのである。そしてなぜ松川浦の近くの津波の被害にあった新田村に元禄の碑があったのか?
これも相馬氏が進出していち早く開拓が行われたためだとなる
この辺では元禄の碑はめったにないからである。
いづれにしろ新旧を知らないと歴史を知らないと俳句とか短歌にしろそういうものも深く味わえない、深野が大原より古いということを知るのと知らないのではやはり感覚的に違ってくる、栃窪村でも中世からある古い村だということを認識しないと自分が今回作った「花の影」という俳句も深くは味わえないしまた自分にしても歴史を知らないといいものは作れないとなる、全国でも歴史を知らないと俳句でも短歌でも作れないのである。
また深く味わえないのである。だから伊勢湾から名張を通り奈良に自転車で行ったときはそこは歴史の道であり意味深いものがあったと後でふりかえることができたのである。
それは一地域でも新旧があり大事なのである。
そういう歴史が原発事故で放射能汚染で失われことが大損失だった
人が住まなくなれば歴史も失われる、するとその地域の魅力も喪失する、栃窪村でも俳句にするにしても短歌でも深く味わえないものとなる
例えばアメリカの歴史は浅いからヨーロッパのような歴史がないから浅薄でありつまらないとなるのである。
タグ:村の新旧
posted by 老鶯 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2016年04月12日

花の影(栃窪へ行く)


花の影(栃窪へ行く)

ssssshi1234555.jpg


sakuraaa3.jpg


sakuraaa34.jpg

sakuraaa3456.jpg

sakuraaa345.jpg
助の観音

uuuuuuuuuuuyyyyyy1.jpg

上萱

sakuraaa345666.jpg

八木沢の麓の大芦とかは人が住んでいない
ここには犬の墓があった

sakuraaa34566677.jpg

大原だけどここには人が住んでいない



栃窪に枝垂桜や葉山かな

石一つここに変わらず花の影

栃窪に古りにし家や花の影

栃窪に蓮華畑や眠る人

頂きに咲きて散りにき山桜

山鳩の驚き飛びぬ花の影

犬の墓ここにありしや夕桜

大原の蔵ある家や夕桜

深野のユッサに寄るや夕桜



風に散る枝垂桜や街道に影なしつつもこの家の古りぬ

ようやくに助の観音に着きにり残れる花を見て帰るかな

上萱になお残り咲く山桜またここにより帰りくるかな

山深くさえづり聞こゆその声のひびき鎮まる余韻に暮れぬ

新田川の上の岸辺に誰か見るキクザキイチゲの咲き開かむとす


カメラのレンズが汚れてきれいに写真かとれなかった。街道の枝垂桜は趣がある。
反対方向から撮ったら影がうまくでていた。
街道は道が細いのである。それが街道の面影を残していることなのである。
六号線のようになったらもう街道ではない、細いというとき「奥の細道」となるともっと細い道だったのである。
ただ今になるとあそこは車だと狭すぎるのである。

栃窪では畑とか田んぼを作るのはまだ少ないだろう。あそこは放射線量が高い、でも「花の影」というときそこに落ち着いた生活があるとき詩にもなる
そこにはまた暮らしがないとただ家があるというだけでは都会の郊外の家と同じである。山村の暮らしはもともと自然と調和していたから美しいとなる
貧しいが美しいとなる、その生活が放射能汚染で破壊されたのである。
あちこちに放射性物質を入れた袋があるのも嫌なのである。

葉山信仰は各地にある、ハは端にもなり当て字である。この信仰は田んぼと密接に関係していたのである。
比較的低い里山でありそこから田んぼに水を供給することで結びついていた。
これはだからどこにでもある神社である。
この辺では栃窪にあるのがふさわしいとなる、外にもあるが田んぼに水を供給するというとき栃窪がふさわしいとなるからである。

助の観音は飯館までの塩の道として有名である。助の観音とはまさに助ける観音だというときこの辺で泊まる場所だったのである。
ここまで自転車でのほって来るのか大変だった。電動自転車だからなんとか上れた。
つまりこうして苦しんでくるときその距離感を感じる、ああ、やっとついたというときそこがまさに助の観音だったのである。
歴史を実感するにはだから車だとあまりに便利だとできないのである。

そして上萱(うえがや)についた、一本の山桜がなお残り咲いていた。今回は山桜でも結構散っていた。これは染井吉野ではない、山桜は染井吉野のような華やかさがないのである清楚であり派手ではないのである。この辺が何か混同している
普通は染井吉野を見ているのであり山桜はまた別である。
吉野に咲いているのも染井吉野だろう。あんなふうに華やかには山桜だったら咲かない

いづれにしろ人間はあまり変わりすぎることは良くない、この辺のテーマが変わらないということの価値を見いだしたのである。
つまり石と樹とか自然のものはそんなに変わらないから価値がある。
石だったら千歳の磐とかなることに価値がある
めまぐるしく変わる世界には疲れてしまう、特に老人は変化に弱い
ここにまた変わらずに同じ石があるということで落ち着くのである
この辺の問題は変わりすぎたことなのである。

そして人間が死ぬというとき栃窪では耕さない畑が田んぼになっている所が蓮華畑になっていた。その近くに墓地がある。というとき人はそこに眠っている
蓮華畑であれ菜の花畑であれそういう村に眠るのは幸せだとなる
死んでから関係ないというけど都会のような団地のように区切られた所に押し込められるのを見ていると嫌なのである。
人間は死んだら自然に帰るというけど都会にその自然がないのである。
だから限界集落でありそういう山村がなくなることは経済的な問題だけではなく精神的にも影響する、一万くらいの町でも自分の家の墓は狭い、だからなにか窮屈に感じる
広々としたところに墓地があるというのは墓参りにするにも気持がいいとなる
今回は上萱でチェーンがはずれた、それも深くチェーンが入りこんでとれなくなった。
前にもそういうことがあったが今回は元にもどすことがなかなかできなかった。
木の枝ではずそうとしたができない、木は折れてしまう、それで上萱から出た八木沢の麓に家がありそこが空家になっていてカスガイとした鉄が残っていてそれでなんとかはずすことができた
まず木ではできない、それで考えたことは木の道具では人間は田んぼすら開墾したり何もできない、鍬でも鉄が必要であった、その前は石器が必要であった。
木では道具にならないのである。もちろん武器にもなりにくい、石器は鉄の代わりになっていたのだ。石器というのはあまり注目されていないけど人間が手にした大きな道具だったのである。これは武器にもなったからである。
鉄が発明される前は石器でありこれでしとめた獲物でも切り裂いたりできたことは大きな進歩だったのである。


帰りは原町のユッサに来て食事して帰ってきた、遅くなったが介護がないので余裕である介護がなくなったことでまた旅もできるかもしれない、体力的にもまだ最後の旅ができるかもしれない、ただ新しい自転車をヤマハのロードの軽いのを買おうとしたが坂をとても上れない、2、5アンペアでは上れない、そしてスポーツタイプになると道がでこぼこうしていると危険にもなる、日本の道は舗装していても凹凸があり危険なのである。
今のヤマハのはマウテンバイクタイプだから重いが悪路には本当に強いし安定しているから事故になりにくい、自転車も結構危険な場合がある。
それで20年前だったのか前歯を三本くらい折っていた。その時頭をうちつけると死んでいたのである。このことを忘れていたが思い出してヒヤッとした。
誰でもこうして死の危険がありそこから助かったということはある
それは普通に生活していてもそうである。津波などもそうだった。
自転車だって相当に危険なのである。


注意→栃窪から上萱の道は車では通れません、道路が崩れていて通れません

2016年04月11日

フラワーアレンジメントの本を作る


フラワーアレンジメントの本を作る


fffffffmmmmmmttt1_FotoSketcher.jpg

トルコ桔梗と万寿菊

tulipppppp12345.jpg

 (つぼみ)


 

万寿菊トルコ桔梗のともに咲きその色深め家にしあるかな

大輪の紫濃き牡丹かな我が家の主我なりしかも

風荒れて夕日のさしぬ満開の桜しばし惜しみぬ


今日は寒い、風が北風であり寒の戻りである。でも今頃の季語にはないだろう
今年の気候は寒暖の差が激しいことである。
寒いと思ったら暑くなり暑くなったら寒くなる、こういう変化は体に良くない
風がビュービュー吹いて満開の桜に夕日がさしている光景も何か今までに経験していないつまり気候とは毎年違っている、人間が60年生きても70年生きても毎年違ったものを体験しているのである。
その大きなものが気候なのである。その気候によってものの見方も変わってくる
もう桜は満開だけど明日かあさってかもう散っていると感じる
今年の桜は本当にそういう感じの桜だった


フラワーアレンジントは自分の一つの仕事である。これは別に特別の技術は必要ではない生け花を習わなくてもできる、ただ美的感覚がないとできないともなる
花を見て美しさの感覚を養うということもある


写真を絵画風にパソンコでしたものはトルコ桔梗の群青色がいい、それと万寿菊というのが対称的に映える、そして花は何日か一週間くらい最低見ていないと心になじまない、映えないのである。
だから家の中で毎日見れる所に置くのがいいのである。
自然の花はいろいろ花があっても一つの壺に入れてみることはできない
みんなばらばらに咲いているからである。
フラワーアレンジメントは外国の花でも一緒にさして映える
そのコントラストがいいのである。

今は1000円くらいでも写真の本が作れる、それを今作ろうとしている
パソコンでも注文してつくった。キタムラプリントとかは相馬市のイオンにあるので便利である。
結局これも機械化で人がいらなくなるというときそうである。
パソコンがしているのであり人はパソコンの補助にすぎない
パソコンのソフトがすでに人間の代わりになっている、だから人間はこれから高度な仕事を要求される、パソコンにやれないような仕事である。
芸術はパソコンにはできない、小説をパソコンが書いたというときそれはやはりパソコンにある膨大な情報がキーワードでつながるということはありうる
人間の経験していることはパターン化できる、犯罪の動機などもたいがい決まっているのである。

いづれにしろパソコンでは一つのフラワーアレンジメントを見たとしてそれを鑑賞はできないだろう。色で判別できてもそれをどう鑑賞するかとなるとできない
だから俳句の一つも短歌もできないのである。

抽象画(水の変化-続編-changes of water)



抽象画(水の変化-続編-changes of water)


naiiiiiii234556.jpg


wwwwmm111.jpg


flightttttt111.jpg

光の翼



mmmmmmmmmmmmm45677787.jpg


rrrrrrrrrrfffff123456.jpg


highhhhhhhhh1456678999.jpg

山の抽象画を縦にしたらこうなった、自然でも岩石のなかを流れるのを見ている
抽象画も自然にあるものをイメージしているのである。



これは自分のものがあるが他者のものも変化させた
それで前も言っていたけど著作権の問題がでてくる
でもそんなことを指摘されるかとなるとインターネット上ではむずかしいだろう。
自分の絵を元にしていたらそういうことはない
何か抽象画からは抽象画になりやすい


今回は具象画をイメージして流れを作った、自分は全く絵を描けない、でも抽象画だと絵らしくなるから面白いからしているだけである。
芸術性としてはかなり低いけどそれなりに創作になるということでしているだけである。

タグ:流れ
posted by 老鶯 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 抽象画の部(abstract)

2016年04月10日

タックスヘイブンとグローバル経済 (巨悪が見えたので怒りの対象となる)


タックスヘイブンとグローバル経済


(巨悪が見えたので怒りの対象となる)


そもそもグローバル経済を理解するのはむずかしい、学問的な理解と実際のグローバルー経済は違っている
自分自身も経済のことを言ってきたがわかっていない、グローバル経済は資本主義は資本もって株とかに投資しない限り具体的に理解できないのである。
だから貧乏人にはそもそも理解できない、自分ももともと貧乏人だから理解できていなかった
ただアメリカとかカナダに投資したことでグローバル経済の中に自分自身も入っていると実感したのである。
なぜそうなったかというと自分の金だからこそ関心をもつ、自分の金が増えれば喜ぶし減ればがっくりとくる、そしてどうして株が動くのか興味を持つ、最近は石油がこれほど世界の株価に影響することを知った。
石油は現代のエンジンだからそうなる、車であらゆるものが電気でも石油が必要であり石油が原動力となって現代の経済は動いている
アメリカもカナダも石油資源国だから石油が上がれば株も上がるのである。
石油から見るグローバル経済は分かりやすいのである。


グローバル経済とはなにかというと企業中心の世界経済のことであり今までの国が中心になった世界とは違う。それで良く多国籍企業にとっては国が邪魔だ、国境があり様々な文化の障壁があり自由な経済活動ができないとみる。
企業が物を世界的に売るとしたら国境がない方がいいし国がない方がいい、国がかかわると税金をとられるからである。そうしたら企業の収入が国にもっていかれるからである。アマゾンなどは国に税金を払っていないからもうけも大きい、それで無料で配達もできたのである。
それは利用する方にとっても便利であり自分はアマゾンでいろいろなものを買った。
だから多国籍企業でもいい面もある、一方で悪い面もある
すでにアマゾンでは国に税金を納めていないということは国にとっては損なのである。
国の税金は福祉などにも使われるから税金を納めないで経済活動することは国では困る


タックスヘイブンはグローバル経済の資本主義で必然的に生まれたのである。
国からは税金を取られる、税金をとられないようにするにはどうするか?
大企業はその税金を逃れるためにタックスヘイブンが生まれた、これは世界中がそうなっているとき共産主義でも中国でもロシアでもグローバル経済の中に組み入れられているから同じだった。
グローバル経済は国があれば国境があり自由に出入りできないとか、文化があると言葉もいろいろで興隆できないとか、イスラムは豚肉を食べないとか食文化もあり世界に売れないから困るとかある。
それでコカコーラ会社なら世界中に売りたいからそうした食文化もない方がいいとなる

タックスヘイブンは素人的にみれば多国籍企業が国に税金を納めたくないということから起きている、国が邪魔でありではどうしたら税金逃れるするかとなるとタックスヘイブンに逃すとなった。
税金をとる政府の首相すらそうしていた。自分たちは税金を下々のものから苛烈にとり税金は払わないで蓄財する
こういうことは国の支配者がしてきたことだけどグローバル経済では多国籍企業がそうしている
中国では庶民が薪までとった栃の実とかまで税金がとられると嘆いていた。
そういう仕組みがグローバル経済でも成り立っていた。ただ国も役人も首相などもそうしていたが大きなものは企業である。

現代の支配者は国の政治家ではない、多国籍企業でありその幹部だとなる
東電をみればわかるけどあそこも国のような巨大な会社だったのである。
結局国とは何か?それを考えるとこうした巨大な企業の手下になってたのである。
政治家から官僚から検察関係から警察関係からマスコミから東電の天下り先と利益を受けるものとしてあった。
そして「安全神話」が作られて事故になった。
現代は国というものだけを見ていただけではわからない、中国の政府の幹部も首相もロシアでも上層階級がタックスヘイブンに金をあづけていた。
世界が上層階級と下流階層に分化している、そしてそうした階級化はグローバルの中で資本主義の中でシステム化されていたのである。

正直株とかはグローバル経済では小金持ちではもうからないシステムになっている
結局銀行の手数料とか株の世界的下落とかなり自分も損したから馬鹿らしいとなる
株でもうけるのは大金持ちであり大企業とかでありそうしてもうけた金はタックスヘイブンに蓄財されていたのである。それには税金もかからないのである。
こうした巨悪は見えない暴かれないのである。
東電とかの原発事故も津波がこなかったら暴かれなかったのである。
カルト宗教団体なども巨悪なのだけどこれも暴かれない、何か巨悪は見えないし暴かれない、巨悪とは巨大な権力をもつゆえに暴きようがないのである。
グローバル経済のこうした巨悪は隠されていた、それが暴かれるのかとなるとわからない中国などはすでに報道を禁止しているからである。インターネットでも検索できなくしている。

セブンイレブンのこうした実態は、マスコミではいっさい報道されない。 
週刊誌や新聞にとって、いまやコンビニは最大の販売所となっており、とりわけ最大手のセブンイレブン 
においてもらえるかどうかは、死活問題になっているからである。 
セブン&アイ会長の鈴木敏文は書籍の大手取次会社トーハンの出身者であり、いまもトーハンの 
取締役である。 


ここでも大企業は権力をもつからこういうことができる、マスコミは大企業の宣伝費で経営するから批判できない、カルト宗教団体でも創価なども権力をもっているからマスコミは批判できない、要するに権力をもてばこの世の中は濡れ手で粟になる。
だからこそ権力を追及しているのである。
そして資本主義というのは別に地位とか土地があるとか何かではなく金が最大の力となる社会である。
別に地位がなくても学歴がなくても何がなくても金さえあればどこの国だろうが豊に世界できるという社会である。
戦前とか農業社会だったらまず土地が資本であり土地がないとしたら何の力ももていない、工業社会とか金融社会とかなると金がもの言う社会になったのである。
だから資本主義はユダヤ人が考えたものだというがそもそも農業社会では起こり得ない、工業社会になったときグローバル経済になったのである。
イギリス人がタックスヘイブンの先駆者であるということもそれを示している
イギリスは最初はアメリカが支配者になる前は世界を支配していたからである。
グローバル経済の基を作り出したのはイギリスだったからである。
そのイギリスに対抗したのが日本だったのである。
イギリスと衝突してアメリカと衝突したのは日本が明治以降力をつけたからである。

グローバル経済は具体的に目に見えてわかりにくい、でも今回のタックスヘイブン問題はその巨悪が目に見えてさらされた。
だから下級階層はその悪が具体的に見えたので攻撃しているのもわかる
中国人が薪とかにも税金がかけられて栃の実までとかあらゆるものに税金としてとられ搾取されてきた。その嘆きは今もつづいている
ただその搾取が見えないのが現代だったがタックスヘイブンは具体的に見えたから世界中で搾取されている人たちが怒りとなり暴動となるとか言われる
つまり中国などで酒池肉林とか王が権力を消尽する、それが目に見えてわかるから革命が起きたのである。
現代は具体的にその悪が見えないから革命が起きにくいのである。誰が敵なのか見えないからである。
posted by 老鶯 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年04月09日

花見(相馬市へ夜桜を見る)


花見(相馬市へ夜桜を見る)  

shoidare11111222.jpg



somajinnnn111.jpg

shiddddare1234.jpg

shddddsss1.jpg

hayami1.jpg



新しき自転車買わむ燕来る

鳴きにつつ鳥飛び来る朝桜

朝夕に中館の桜家に見ゆ

この道のゆく人まれに花の影

故郷や母亡き後や花曇り

買い物や原町に来て夕桜

街道や枝垂桜の花の影

混むでなし六万石の花見かな

宇多川の橋を渡るや春の星

城下町枝垂桜や繊き月

夜のふけぬ枝垂桜に繊き月

五本松通りて帰る春の闇


眩しくも新田川に陽は落ちぬ岸辺の桜今盛りかな

訪ねれば一夜の嵐に櫻花散りにしあとや疾く時はすぐ

満開の桜を見れば風騒ぎたちまち散りぬ夢の跡かな

五本松夜に通るも我は知る我が帰りゆく春の夜かな

家に待つ人とてなしも何故や姉と母とは常にあるごとし

我が家に待つは誰なれ猫一匹待つとてあわれ春の夜かな


昨日は原町に行って今日は相馬市に行って花見である。中館は自分の家から見える中世の館である。お浜下りとかの祭りがあるところでこの辺では知られている

桜というのは咲いたと思えばすでに散ることを予感する


ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

これは桜を象徴した歌だった。今回は特に感じた。最初から風が吹いたり荒らしになったりしてもう相馬市に行ったらいつも咲いている大きな木の桜はみんな散っていたのであるだから今年の桜は早く散った、咲いたと思ったら散っていたとなる

でもひさかたのひかりのどけきという日が今日もそうであり何日かはあった。
今日は暑いくらいだったからだ。

今日は介護もないので夜桜を見て帰ってきた。今までは7時ころまで必ず帰らねばならないのでそういうことができなかった。今は時間の余裕ができた。
でも不思議なのは誰も家に待っている人がいないということである。
それでも姉と母はいつも待っていた、それが60年もそうだったとするときなにかいるような気がする不思議である、やはり60年も一緒にいるとそか簡単には心から消えない
60年の歳月は長いのである。
五本松は夜でもここにあることが知っているのとにている。
60年も一緒にいれば例え憎んでいても記憶から消えなくなる
  
相馬市は何かいつもしんとしている、それで夜の枝垂桜がにあっていた。
細い月がでていたのも良かった。城下町でしんとしているからふさわしい月だとなる
相馬市は何か墨絵のような感覚になる
ともかく今年は桜が散るのが早いからあと二三日が見頃でありあとは散ってしまう。




タグ:夜桜