2016年06月30日

底辺層の不満は根強い (余裕がないと金持ちへの怒りにもなる)


底辺層の不満は根強い


(余裕がないと金持ちへの怒りにもなる)


富裕層は底辺層のことがわからない、交わらないからわからない。政治家でも実際に交わらないからわからない。
例えはなぜそんなに不満を言うのだろうと不思議に思うことがある。
自転車屋で障害者の息子がパンクを修理してもらったらチューブまで交換して金をとられたと不満を言う、それは自転車屋で良くあることだし自分は別に文句を言わない、たいした金ではないからである。
そのことを延々と言いその自転車屋の悪口までなりもう行かないとも言っている。
その自転車屋が病気らしいのだけどそれにも同情しないのである。
そんなことで恨みまでもつことがわからない、ただ底辺層になるとそんなことまで余裕がないからこだわっているということである。
むしろ自分は同情して金をとられてもいいなと思っている、それは余裕があるからだとなりそんなところに底辺層との差が生まれる

なぜチューブまで取りかえたんだ、金がないのに

それが怒りまでになっている、富裕層だったらそんなことこだわらないのである
でも現代の経済は非情である。この人が金持ちか貧乏かなど見ていないのである。
その金の分をどんな人でも要求するのである。
それが世界中でそうなっている、相手が貧乏だからといってその金の分しか払わない
もしそんなことしたら経済が成り立たなくなるだろう。
この人は貧乏だから医者が金を安くするとかならないだろう。そういう温情は情をかけるということは昔の方があっただろう。
でも現代は金が非常に支配する社会なのである。それが世界的になっているのがグローバル資本主義である。
ただ自分にしても一般的にもそういうことはありうる、自分は特にそうだったから理解できないことはない、
自分に自由になる金はやはり小使い数万とかの単位である。だから百万使うとなると怖いのである。
そしてやはり前だったらチューブに交換しなくてもいいと自分もなっていたから同じだったのである。
やはり人間は金があれば余裕が生まれる、これはどうにもならないのである。
今は清貧ということはありえない、最低でも金がかかるからである。
日本では福祉があり生活保護を受ければ医療費とか無料になるとかで後進国よりはいいとなる。つまり富裕層がいたときその税金を高くして貧乏人に回すことで平等を計っている

ただその人が食べるものを比較するとその人の方が贅沢しているのも現代的である。
自分が外食しているのは料理に時間がかかるからである。でも普通外食はぜいたくになるでもそこは700円くらいだから贅沢とは言えないのである。
この辺でもお前は贅沢だなとなる
ただテレビで見ていたらサラリーマンの小使いが減って昼食が500円くらいになったというのも日本も貧乏になったなと思う。
まず500円ではランチでも満足なものが食べられないと思う。せいぜい弁当しかなくなる
こういうことだとすると底辺層だけではない日本人全体の不満が大きくなっている
格差社会であり富裕層への不満か大きくなる。
そして高度成長期のように中間層がアメリカでも日本でも没落したことが大きいのである月給が増えないので家計がぎりぎりになっている
やはり人間は金銭的にも時間的にも余裕がないと心もすさんでくることは否めない
自分が苦しんでいるとききた人たちも余裕がないから助けようがないのである。
一人は事業に失敗して多額の借金があり一人は問題をかかえて貧乏であるとかそんな人がもう何もできない、相手が瀕死の状態でも何もできない、自分が苦しいから自分の苦しさをなんとかしてくれという人は人を助けることなどできないのである。

現代ではそうして貧困化すると余裕がない人があふれることになり犯罪も増えてくる
その恨みや不満の対象が金持ちに向かってくるから金持ちは危険なものになってくる
高度成長時代は最初は貧乏でもみんなれなりの豊かな生活を享受できるという将来があった。年々月給があがっていたからである。
事業をしても成功する人が多かった。今は何か事業を起こすにしてもすでにいろいろなものができあがっているから成功しにくい、なんでもすでにあるじゃないかとなる
これ以上なにか欲しい物があるのかという状態にもなっている
でも物があってもまた買えないという貧乏人が増えている、それは昔の貧乏人とは違うがやはり何かと不満をつのらせる人が増えてきたのである。
それは自己責任だともならない、そういう貧富の差も固定化しているからである。

要するに現代は物があふれて過剰であるというとき物を売るということに限界が生じている、だから何か閉塞した感じになる、国民総生産だってもう上がらない、ゼロサム社会である。
こういう社会は中世にもどるという人もいる。人間は物の世界から精神世界へ内面の世界へ向かってゆく、それは宗教的哲学的芸術的なものへと向かうともなる
ただカルト宗教が創価でもそうだが戦後の焼け野原から高度成長時代へと物質的豊かさを目指して会員も増えた、それもある程度達すると今度は精神的内面的なものに向かうのである。
ともかく今の政治的状態は何かそういう時代を反映している。
貧困層というが創価はそうだというときなぜ自民党と一緒になっているのか?
本当は底辺層は野党のはずなのである。自民と一緒になることは相当な矛盾である。
ただこの世の中は必ず矛盾なのである。
格差社会になると対立が激化して内戦状態になることさえありうる
犯罪も増えるし富裕層にとっても住みにくい社会になる。
全体の富を増やすということでは共産主義より資本主義の方が優れている
でも配分をうまくやらないと今のような極端な格差社会になると社会自体が治安が悪くなったり社会全体の和が保てなくなる
こういう時代の変わり目にはやはりそれにみあった政党が生まれればいいのだができないそこにも政治経済でも何か閉塞感を感じる時代なのである。
それは世界的にももう中国もだめだブラジルもだめだとか資本主義も限界にきている。
世界自体がどこの国もアメリカでも内向きになり閉塞感が強くなっているのである。

タグ:底辺層
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2016年06月29日

創価公明の限界と共産党が伸びるのはなぜ? (世界的共通の問題は貧富の格差)


創価公明の限界と共産党が伸びるのはなぜ?


(世界的共通の問題は貧富の格差)


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公明の票が減るのはなぜか?それは宗教だからである。宗教だから縛りが強く票が固定ししていたがそれ以上は伸びないし減っている。
創価公明とは一体であり選挙も宗教活動の主要な活動して日々の信心がある。
ちょっと上の幹部になると毎日が票をとるための活動になる。
一軒一軒回ってあるくのは票をとるためである。創価内部でも実際に活動しているのは数十万単位だろう。
あとは座談会にもなにもしない、会員というだけで何もしない、膨大な幽霊会員なのである。そういう幽霊会員の存在価値は選挙のときに幽霊ではない、一票に結びつけるのが日々の幹部の活動となる。宗教などとは何ら関係ない、何かやましいことをしているとかそうした心の内面とは何の関係もない、そんなこと問うていたらまず人は集まらない、ただ一票になればいいだけである。
実際に選挙が最大の仏教の戦いなのである。それで選挙の時は池田先生のためにと集まり題目をあげて選挙戦を闘う、それが創価の最大の戦いであり目的である。
政治と宗教が完全に一体化しているのが創価であり公明である。
その池田会長が死んだのかわからないけどもう指導力を失ったから票も減ったとなる
創価公明がすでに30年前でも限界に達していた、会員数も票も頭打ちになっていたのである。800万票とったがそれが限界でありあとは減るだけなのである。

第一宗教が日蓮のように一人で時の権力者に諫言するならいい、創価は集団で権力をとるために活動している。「権力奪取」「権力掌握」福運がつくという言葉しか幹部の会合ではでてこない。だから普通だったらこの団体はなんなのだろうと疑問になる。
それが宗教なのかという疑問になる。普通だったら考えるが考えない
宗教というと何か高等な感じがするがそういうことは創価については全くないしカルト宗教団体ではみんなそうである。まず人を集める会員を増やすことが第一であり数は権力であるから数で権力をとることを目指す、それは別に民主主義なら許される。
選挙で権力が後退するのが民主主義だからである。
ただ民主主義でも怖いのはイギリスがEUから離脱する国民投票でわかったように愚民主義におちいるのである。多数がすべて正しい訳でもなく肝心の離脱派が得するというこでもないから後悔しているとなる。ナチスもヒットラーも民主主義の選挙で選ばれたのだから民主主義が選挙が国民を正しく導くとは限らないのである。
ただそうでないと戦争になるら投票で決めことにしただけなのである。

創価公明とかカルト宗教団体の問題は宗教自体が本来権力をもつものではなかった。
それはシャカとかキリストを見ればわかる、何の権力ももっていない、体一つしかない寝る場所もない乞食のような状態だった。
もし師に習えば今のようなあくことなく権力を求めることは異常なのである。
なぜなら宗教となると権力で押しつけることはあってならないことである。
人間はそもそも権力関係になると上下関係ができてそこに平等性は失われる
例えはなぜ創価が執拗に権力を求めるのかというと権力で宗教をおしつけ支配するためである。
人間は雇われる人と雇う人にも権力関係が上下関係が生れる、お前やめさせるぞと言えば従わざるをえない、宗教もそうして権力あるものにおしつけられるのである。
それは歴史的にもキリスト教でもカトリックなどはそういう歴史が露骨にあったから政教分離がヨーロッパから必然的に生れた、フランス革命は宗教を否定して人権主義になったのである。宗教の縛りから離脱しようとしたのである。

ただそうはいっても底辺層になる実と宗教ともイデオロギーなどむずかしいものとは何の関係もないのである。何か困ったら助けてくれる援助してくれる、相談にのってくれるということで勢力を伸ばしているのである。
そういう人たちは別に他に頼る所があれば人があればいいのであり簡単にのりかえるだろう。
金をいくらかでも困ったからとくれたり貸せばそっちにのりかえる、なぜなら宗教とかイデオロギーとは関係ないからである。
なぜ創価と共産が競合するのかというと底辺層を票田にしているからである。
生活保護とかの市営住宅には創価か共産党のどっちかに入っているのが多い
まずそういう底辺層が普通の人とつきあえないのである。
生活保護は生活保護者とつきあうし他の人とはつきあわないのである。
なんというか生活保護者には差別的感情があるからそうなる
最近はエホバがそういう底辺層に食い込んでいる、この前猫十匹飼っているのは創価だと書いたがエホバだった。今はエホバがしつこいのである。
あれも何が目的なのかわからない、宗教とあっても何か裏がある。
教会でもアメリカから援助されてはじまったから政治的に画策するものがある。
だから内村鑑三は無教会になったのである。

ともかく創価公明は宗教の縛りがあり一定の票を確保していたがそれが故に限界が40年前からでも出ていたのである。だからもうこれからは衰退する一方である。
池田会長が死んだのかわからないけどそのためにはすでに内部で権力争いはじまっているすでに創価というのは巨大な権力だから内部で権力争いが生まれる
そこは宗教など関係ない生臭い所である、宗教そのものが何か嫌われるのは全く本来の宗教が目指したものとはあまりにも違ったものになっているからである。
共産が伸びて自民の脅威となるときそれは時代を反映している。自民公明政権に反発しても野党が弱体化しているから票が入れる先がない、いろいろアベノミックスでも上流階級だけが豊になるだけだったとか、タックスヘイブン問題とか上流階級が得しただけで下流階級は底辺は何の得もないと不満が募っている
それはアメリカでもサンダースとか社会主義者が人気になったしトランプでもそうである貧富の差があまりにも拡大した結果としてそうなった。、それはグローバル資本主義の多国籍企業支配のためでありあとは時給いくらかで奴隷のように使われだけだとなっているからである。
共産党しか日本では不満の受け皿がなくなったから伸びているだけで共産党を支持しているわけではないだろう。

近代社会は政教分離であり政経分離でもあり合理的なものとして経済とか豊かさを追求しているのである。何かというと罰があたるとか地獄に落ちるとかもちだしていたら合理的経済の豊かさを追求できないからである。
だからそもそも自民党と創価が一体となった政権は異常なのである。それは前近代的なものでありあわないのである。
罰があたると地獄に落ちるとは何なのか?それすらわからないで敵対するものに宗教で呪詛するから異常なのである。
自民党でもいづれ公明党や創価と一体化することには限界がでてくるし創価自体が内部の権力争いで分裂して衰退してゆく、そういう兆候は池田会長が死に体となりすでに現れている。

いづれにしろ共産党が伸びるというときそれは自民公明に不満があってもその票の受け皿がないからである。共産党を支持しているわけでなくても不満があっても実際にそれではどこに票を入れるのかとなるからだ。自分などはどっちの味方でもないから棄権する他ないのかとなってしまう。
今世界自体も大きな変革の時代にきているし国内でもそうである。
そして対外的にも何か大きな事が起こり日本も変革を迫られるのである。
共産党が伸びたというときそういう変革期にあるからでありまた別な党派も生まれる
一方で極端な右よりになり安倍首相が戦争する危険性を危惧する。
それはEUのイギリスの離脱問題でも共通した課題をグローバル資本主義でかかえているのである。
米ソ冷戦のときのように右とか左に明確に分けられないのである。
ただ貧富の差の拡大が共通の課題としてあり共産党が伸びるというのもそのためである。
タグ:創価公明
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抽象画(a port)

a port


evenigport.jpg


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抽象画は一連のものととして作りやすい
要するに変化の芸術だからである
これも最初のが原画である
それが変化したのである

なんとなく港をイメージする
ステンドグラスのようにもなっている

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2016年06月28日

グローバル資本主義の何が問題なのか? (移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)



グローバル資本主義の何が問題なのか?


(移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)


国家とは何かとなとこれも定義するのはむずかしい。国家とは一つの共同体である。
では共同体にはどういうものがあるかというと「政治的共同体」「経済的共同体」「民族的共同体」文化的共同体」「宗教的共同体」・・・とかある。
国家はそうしたものの総合としての共同体である。
ヨーロッパが複雑なのは共同体が重層的になっているからである。
EUができたのも元をたどればローマ帝国とかの共同体にさかのぼるしヨーロッパではそうした大きな統合された共同体が歴史的に生成して変化してきた。
宗教的共同体というときキリスト教圏を形成した共同体でありそれはローマ帝国のカトリック共同体を形成した。あとでプロテスタント共同体と二分化した。
アイルランドはカトリックでありイングランドと争ったのもそのためである。

そしてイギリスのEUからの離脱では何が問題になっているのか?
移民だというときそれは世界的に起きている問題である。日本でも人手不足で移民を受け入れる他ないとされている、今の政権は実行しようとしている。
移民はそもそもなぜこんなに増えたのかというと交通の発達で物理的条件がとりはらわれたからである。どこの国へでも飛行機でその日のうちに行けるとなると帆船とかで一年かけて日本に来たという時代とはあまりにも違っているのである。
そもそもだから人はこんなに移動していない、人は簡単に移動できなかったのである。
アメリカに移住するにも大西洋をわたるのに命がけだったら人は簡単には移動しない。
そういう物理的条件に制約されなくなったとき人が自由に世界を行き来することができるようになったとき移民の問題が発生した。
つまり国境が交通の発達で消失したのである。

このことは経済活動するには最適化した。国境がなく人種も関係なく企業は経済活動ができる。企業は土地にしばられるものではなく民族の制約もなく活動できる。
そして多国籍企業にとっては自分たちの商品を売り金儲けすることが目的だから国とか国境とか民族とか宗教とかにこだわっていたら活動できないからである。
いちいちこの国がどういう国田とか人種がどうだとか考えていたら活動できない、要するに商品を売り金儲けできればいいのが会社だからである。
現代ではどこの国に属しているというより日本だってみんな会社員であり会社に属して生活している。すると会社共同体が一番重要になっているのは世界共通である。
つまり経済共同体が共同体となっているというとき会社のか国家のようになってしまう。東電なんかも一つの国家のように巨大だったのである。他にも大企業となると国家のようになる。そこで経団連が力をもち経団連の言うなりに国家もなる。
それは多国籍企業として世界でも国家を越えたものとして力をもつ
イギリスに日本の会社が1300社が進出していたというのも驚きである。ヨーロッパの拠点として利用していたのである。

この多国籍企業はどういう目的の共同体かというと第一に商品をどこの国でも民族とか人種とかに関係なく売り金もうけるすること意外にはない、そこではいかにして利益を上げるかが最大の問題である、すると労働者でも安い労働力がいいと世界に進出するしまた世界からも呼び込む、人間というものを何か働くロボットのように考えている
または部品のように考えているのである。いかに安く使い利益をあげるかとなり人間も考える、要するに人間より機械やロボットの方が多国籍企業にとっては都合がいいのである人間は機械でないしロボットでもないからめんどうになる。そのめんどうさこそが人間たる所以なのである。
だから今の会社の働かせ方なども機械の部品とかロボットのように会社ではみている。
時給いくらとか働かせるのはそうであり外国人が安いからそっちの方が利益があがるとかなり人間というものを気軽に考える、ところが人間である故にそこに摩擦が生れるのである。

現実に宮城県のある村ではトヨタの工場になり半分がそこで働くとなるとそこはトヨタ村になってしまう。トヨタなしでは村が成り立たなくなる、東電でもそうであり原発がなくなると市町村も成り立たなくなるとかなる。そういうことは世界でも起きているのがグローバル社会である。
トヨタ村になった町になった社会は原発村となった町となったらそこにこれまであった共同体はそうした大企業の社員であり昔の農村共同体とは違ってしまった。
東電の社員のようになってしまっていた。だから東電が補償金を払い今度はそれで生活しようとしているのもそのためである。
昔のように一地域が農村共同体となっていた時代とは違うのである。
だから浪江の人が会社員だったが二本松に会社が移ったので家族もそこに移るとなる。
その土地に根付くというよりみんな会社員だから会社に属していて世界にも移動するとなる、それが多国籍企業と化したグローバル社会なのである。

「経済共同体」に特価したものがグローバル資本主義である。
それが交通の発達で可能になったのだけど人間は機械でもロボットでもないし部品でもないしモノでもない、人間を現すのは様々な要素をもっていて部品化できないのだが現代はそもそも部品化されてしまった。
移民は生産する機械でもないし様々な要素をもったアイディンティティをもった複雑なのだから地元の人とも軋轢が生れたのである。
経済的一単位とか部品のようにしているのが現代だというときそこにこそ問題があったのである。
それは国内でもあったことが世界的に拡大しただけでありグローバル資本主義がそこから必然的に拡大したともなる。人間は経済人間化した結果そうなったのである。
それは世界共通の問題でありグローバル資本主義に反対する運動の一旦としてイギリスのEUからの離脱問題でも移民反対のナショナリズムが起きている
そのナショナリズムというとき単に経済的利益だけではないもの、文化的なもの民族的なもの歴史的な共同体としての反発が起きている
ただこれも矛盾している面がある、スコットランドはそうした歴史的民族的文化的アイディンティティの強い共同体であるがEUに経済的メリットがあるから残留派になっていた。
一方でロンドンを中心とした所は移民が多い、ここはもともと残留派だと思ったが離脱派が多かったのは移民が多いためである。それで今度はロンドンは独立してEUに残るべきだと主張する
その人たちは多国籍企業からグローバル資本主義で利益を得ていた貴族階級である。
離脱派は底辺労働者として移民と競合している人たちだったという。
日本だって政治家とか経団連では大企業の幹部はグローバル資本主義で利益を得たいから移民に賛成なのである。でも底辺層が増えたから移民と競合するようになるから日本でもこれから同じ問題が起きるのである。
ともかくEUからの離脱派かこれほど騒ぐのはやはりグローバル資本主義が曲がり角にきたからそうなった。世界的にナショナリズムが勃興しているのもそのためでありそれは世界的にそうなのである。世界的なグローバル資本主義が転換を迫られているからこれだ騒ぎになったのである。

ヨーロッパの国家意識はおおむね民族と結びついている。
自分が何人かを決めるのは、単にパスポートに表示された国籍ではない、実際に言語であり共通の文化であり伝統であり日常の習慣である。
過去において外来者は一世代か二世代で完全に吸収された。
だが旧植民地からの移住者は全く異質なのでただ彼らを社会にとりこむだけではすまない彼らが存在することによって社会は自己規定観念そのものを変えざるをえないのである。
「ヨーロッパ、民族のモザイク」フローラ・ルイス

このことがまさにバスボート一つで自由にどこの国に出入りできても軋轢をうむ原因なのである。人間はそれが故に人間なである。
グローバル資本主義とか多国籍企業社会になれば言語は一つ、英語だけとか便利だし国境とか民族とか人種などはない方がいい、そしたら人間が人間たる所以が喪失するのであるそれは人間が経済人間になることの反抗でもある。
イギリスにはイギリスの文化がり習慣があるというときEUにそれを否定されることが嫌だというときそうである。
イギリス国内でもスコットランドの根深い対立もそうした歴史と文化と伝統の対立がありそうなる。それも否定できない、日本だって日本語から英語にすればいいとかなったら反対があるのは当然である。経済的に発展するには英語の方がいいと日本語を使わなかったらその人は日本人なのかとなるだろう。

国際人とは何かとか無国籍の方がいいと言う人がいるけどその人は一体何になるのか?
その人は何の特色もない骨なし人間のようになってしまわないか?
その人の個性はアイディンティティは国内でも一地域から作られる、相馬藩でも小さいがそうであり会津などは特に山国だからアイディンティティを作りやすい、その風土に見合った文化が作りやすいのである。
たがいに地域的にそうして個性とアイディンティティ育むときそこに文化の多様性が生れる、ヨーロッパの特徴がそういう多様性にありまた総合性にある
それでイスラ文化をとりいれたルネサンスが華開いたのである。
ヨーロッパの強みはその多様性にあり総合性にあった。グローバル資本主義になるとそういうものがEU内でも失われかねないからイギリスの離脱もあるし次にはスペインとかイタリアとかにも連鎖するのである。

posted by 老鶯 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

女性が貧乏底辺化する原因 人間の幸不幸は最後までわからない



女性が貧乏底辺化する原因


人間の幸不幸は最後までわからない


●夫に恵まれない

●離婚している

●容姿が悪い

●その人の資質

●実家とか資産や遺産がない

●子供に恵まれない


女性が幸不幸になる原因は何か?女性の場合どうしても容姿とかが大きく作用しているだろう。女性で見た目が良いといい男性とめぐりあう度合いが大きくなる
自分は人と接していないから実際はそういう方面ではうとい
ただ最近知った女性をみるとこの条件があてはまっているように見える
女性はやはり夫に恵まれないと貧乏になり底辺化しやすい
それは容姿が大きく関係しているかもしれない、自分のあった女性は容姿が良くない
そして離婚している、ともかく現代は離婚している人が本当に多い
三分の一は離婚している、戦前などは離婚しても離婚できない、生活できないからであるだから人間はそもそも他人が一緒になれば離婚も増える
離婚してすぐ生活保護を受けていた人もいた。子供がいたので女性は生活保護を受けやすい、これも離婚を促進しているのだろう。
今は女性はいろいろと社会的にも援助されるからである。

人間は貧乏になるというときその人の資質が関係している。それは学歴とかも関係ない、その人の資質が大きく関係している、人間は頭脳でも体力でもそもそも差が大きいのである、自分などは体力も頭脳もだめだった。だから普通であれば底辺化していた。
ただ自分が恵まれたのは家族に恵まれたから底辺化しなかっただけである。
家に資産があるとか金持ちだと資質が悪くても底辺化しない
まず学歴があっても東大出ても高卒の方が仕事ができるとかあり現実の社会で活躍できるかはその人の資質なのである。

近くのトラック運転手は若いときに家を建てた。30代で建てた、なぜできたかというとトラックは一台運んでいくらと歩合制である。それを人よりも多く運んだから金をためた。ただその時は高度成長時代であり給料も常に上がっていた時代である。
その時は事業をしてもたいがいうまくいっていた時代なのである。
その人は何か人を指導する親分肌の人ということもあり会社で上に立つようになった。
それはその人の資質なのである。もう一人同じ仕事でも働いても役にたたず生活保護になった。どんな仕事でも資質がないとものにならない、大工とかでも何でもそうである
男は仕事ができるということは資質なのだろう。女性は容姿が大きく作用する

女性の場合はまた生んだ子供にも幸不幸が作用する、その人は障害者をもったことで子供にも苦労した。他の人をみると子供が事業して贅沢な暮らしをしているとかある。
頭のいい子が生れるといい所に就職すると親は楽になるし贅沢もできる
現代はできの悪い子が生れるとその影響も大きい、ニートなどがどこにでもいて増えているからである。するといつまでも子供の世話をせざるをえなくなるのである。
その人が底辺化したのは上に書いたことがみんなあてはまっていたのである。
ただその女性の資質をみると悪くはない、考え方がしっかりしているし体は丈夫だし資質が悪くはない、ただ容姿は悪い、太っていて不細工で若いときだと嫌だとはなっていただろう。ただ精神的な面を見るとしっかりしているのである。
女性でも容姿が良くても精神的薄弱な人が結構いる、そういう人は苦難に弱い、苦難をのりきれないことがあるだろう。自分もそうだが社会的適応性がないとなる
その女性はとにかく人に頼むことやたよることがうまい、交渉力がある。
女性だからとはなるがそれだけでもない、だから男性には好かれるタイプのように見えるでも容姿が悪いから若かったら嫌だとなってしまう。

その人は飲食店で働いていたが給料を半年分もらいなかった。そこは元暴力団員とかが関係していた。要するに飲食業にはブラックが多いというときそうだった。
給料未払いというのもそういう所にはあるのだろう。
そういう底辺にはブラックが多いのである。今だと派遣とかかそうである。底辺化することはブラックな所で働かせられるということでもある
そしてブラックな所を転々とするということがありぬけられないのである。
その女性は底辺化する条件がみんなあてはまっていた。ただ資質として容姿が悪くても精神的には悪いとはなっていない、心がひどく曲がってしまった女性もいるがそうはなっていないのである。


ただつくづく人間の幸不幸はわからない、女性で容姿が悪いから必ず不幸になるとも限らない、美人だから幸福になるとも限らない、あんな美人で結婚してすぐに乳ガンになった芸能人がいたりいろいろある。人間は最後になるまで何が幸不幸かわからないのである。幸福の原因と思えたもが不幸の原因にもなったりする、金持ちの姉妹が餓死したとかいろいろあるだろう。老人になるとそのカルマが結果として現れる
つまり幸福の原因が不幸になる原因だったともなる。苦労していればそんなことにはならなかった。何の苦労もしないから苦難をのりきれなかったとなる
金持ちの家がみんな幸福といえばそうでもない、何か不幸をかかえているというのも多いからだ。
鳩山邦夫氏なども大金持ちであり大臣にもなったが67才で死んだのかとなる。それもはかないとなる。大金持ちでもみんな死ぬから同じじゃないかともなる
死というのは誰にでも平等なのである。結局なんであれ人間はみんな死ぬとなる
自分も同じ世代の人が近くで結構死んでいるから死が身近になる
だから大きな家とか財産でもいらないとなる、かえって負担になる。
金があればいいがこれももし遺産とか相続になると子供がいたらもめるし金が災いを呼ぶことは普通にある。だから何が幸不幸なのかわほからなくなるのだ。

人間いろいろ不幸があっても健康がそこなわれると最大の不幸になる。大金持ちでも徳州会の徳田氏のように大病院をもっていても身動きがとれない口もきけないとなると最も不幸にしか見えないのである。これも何か皮肉だなとつくづく思う。
どんな高価な治療を受けられるにしても優秀な医者に看護師に囲まれていてもあれを見ただけで不幸だなとなる、何か人生は最後までの見ないとわからない
自分の姉は資質的に優れていたけど最後は認知症になり悲惨だった。
自分は優秀だったと最後まで言って死んだ、いくら優秀だったとと言っても認知症になることは馬鹿になる痴呆になることだから悲惨だったのである。
ただ人間の最後は認知症になる人も多いのである。90以上になると半分はなる。
だから長生きすることもみんないいとはならないリスクがある。
だから人間の幸不幸は最後までわからないのである。運不運もある。
津波で死んだ人たちもやはり運不運かあった。事故で死ぬということも不運である。
要するに人間の幸不幸も幸福の原因が不幸の原因ともなるし不幸の原因が幸福の原因ともなるからわからないのである。

若い人と老人を比べるとその差は歴然とする、老人にとって若さはあまりにもまぶしいものである。もう絶対に手にいれることができないものとなっているからだ。
若いときは当り前にあるその貴重なものを感じない、失ってみてはじめていかに青春などあっという間にすぎるから思い知らされる、そしてその時は二度と帰ってこないのであるそしてみんな必ず後悔している、どんな人も老人になって後悔しない人はいないのである有効に活かされなかった時間や様様なもことで悔いているのである。
でもまた老人が不幸かとなるとそうでもない、前にも書いてきたけど本を読むにしても今までわからなかったことがすぐにわかる、理解力とか洞察力とかかえって創造力さえ老人の方があるともなる、それはいろいろ個々人によって積み重ねたものが華開くからである自分は才能がなくても我ながらいいものが俳句とか短歌とか詩でも作れたなと自分で感心しているのが不思議である。
ともかく老人になとその時何が幸福で不幸だったかもわかる、不幸と思えたが幸福になったり幸福だと思っていたことが不幸だったともなる、確かに自分の場合も自分を幸福にしていたものが不幸の原因になった。家族に恵まれたが家族の介護になってひどいめにあった。
幸福にしていたものが反転して不幸の原因になっていたともなる

結婚しない人が増えているけどそれも若いときはいい、年取ってくると誰も頼る者がいない、現代のような情のない社会では特にそうである。
金があったとしても病気になったらその金をとってやうとする人しか来ないのである。
実際そのことで自分がいかに悲惨なものになったかを経験して書いた。
つまり若いときは将来どうなるか見えないからのんきにしているのである。
今がいいけりゃいいとなっているらだ、人間は将来の不幸をリアルにイメージできないのである、だからこそノン日りしているともなる。
津波だってもし想像力を働かせていたら危険な海岸沿いには住まなかったろう。
今になるとそんなことも批判されるがやはり個々人の人生でもそうなのである。
将来いかに悲惨なことになるか想像できないからのんびりしている。


だから人間の幸不幸は最後までみないとわからないのである。
原発事故にしても実際は原発で回りの人は恩恵を受けていたが事故になり反転した。
恩恵と思えたもが不幸の原因となったのである。そういうことはいろいろ社会的にも個人的にせある。社会的にも何か幸福になり不幸になるかわからないのである。
江戸時代がし貧乏でもそこには幸福なものがありみんないい顔をしていたというとき何か時代的なものの影響があった。現代人と比べるとそうになる、これだけ豊でも現代人は鬱病だとかみんな不幸な顔しているのかとなる、豊になっても幸福とも言えないとなるのである。だから貧乏がいいというわけではない、極端にして考えるべきではない、
人間の幸不幸がわからないということなのである。

2016年06月27日

イギリスのEUからの離脱と日本の市町村合併の共通性 (小高は南相馬市から見捨てられる?)


イギリスのEUからの離脱と日本の市町村合併の共通性


(小高は南相馬市から見捨てられる?)




これも外国だから何か複雑で日本ではわかりにくいとなる
それもそうなのだがこの辺が直面している問題と共通性がある。
市町村合併は小規模でもEUとにている。
合併してからいろいろと不満が出ている
南相馬市だと小高ー原町ー鹿島と合併したが結局原町がもともと原町市であり
人口も5万とか多かった。
すると合併したら原町中心になり小高や鹿島は原町に付属するようなものになった。
それが顕著になったのは原発事故が起きてからである。

一番もめたのは補償金の問題であった。
補償金によって小高ー原町ー鹿島は分断されたのである。
原町では最初仮払補償金を市の財政から払うとき反対した人がいた。
その時から南相馬市は分断されていたのである。
財政にしても南相馬市になればどう配分するかで問題になる。
結果的には原町中心の予算配分になり鹿島区などは不満だった。

今度は小高が見捨てられるというときそれも南相馬市全体の一部として小高があり
小高独自の自治はもうできない、南相馬市の支持に従わねばならない
でもこういう緊急自体になると小高が存続できるかできないかとなると
小高自体の自治が必要になってくる。上からでも下からでも小高としての自治がなかったら復興できないのである。
南相馬市全体で考えるとき小高はめんどうだからもう若い人も帰らないから見捨てるほかないとか性差としてもなりかねないのである。
でも小高町として自治体として独立に機能していれば小高町をみんなでなんとかしようという具体的な政策も実行できるのである。


他では浜通りは小さな町でも合併しなかった。双葉町とか大熊町とかきぼか小さくても合併しない、他でも富岡でも楢葉でもそうである。
それは原発マネーで財政が豊かだったからである。
合併したのは財政問題があったからである。
ただ飯館村などは所得が福島県で最低だったのに合併しなかった。
つまり飯館村は飯館村の独自の村作りをするときめて合併しなかったのである。
財政的には苦しいけどそういうふうに決めたのである。

合併するにしろしないにしろメリットとデメリットはあった。
それは今のイギリスのEU離脱問題とにているのである。
飯館村はスコットランドである。独自の村作りしたいということでそうした。
ただ違うのはEUに残留したいというのは違っている
南相馬市はEUであり合併したのは経済的財政的問題だったから同じだった。
飯館村が南相馬市と合併しなかったのは貧乏でも独自の道を歩むためだった。
それはそれで納得する、南相馬市と合併したらそうはいかなくなった。
そのことを原発事故後小高区に具体的に示されたのである。
小高が復興するには小高自体で自治が必要でありそれがないから南相馬市の支持でやるほかないからできないとなる
それで南相馬市から見捨てられるというときそれは独自の道を歩めない自治体がないからそうなる。

イギリスももともと連合国だった。それがイギリスにまとまり大英帝国までに発展した。それはさらにEUに合併したのである。その事情はイギリス一国では衰退したからEUに入ることで経済的に発展しようとしたのである。
EUから離脱すれば経済的メリットは受けられないからである。
ただグローバル化した、広域社会になった現代では一市町村のエゴは通じないということがある。熊本県が批判されたのは放射性廃棄物の処理を引き受けなかったことである。
そして東北は地震が多いから危険であり地震がないとした企業を誘致した。そういう一つの県のエゴであれ広域社会になると許されない、江戸時代だったら他の藩のことはどうでもいいとなるが現代ではそうはならない
広域社会でありグローバル社会になると責任もそれだけ広いものになるのである。
イギリスは移民だけではない日本の企業でも1300社も受け入れていたのである。
そしたら日本でもその影響を受ける、世界でも受ける、イギリスが勝手に離脱していいいのかとなる。つまりもはや一市町村と一国でも勝手にならないのがグローバル社会である

ただグローバル社会がいいとかは別問題としてある。それぞれの国が独自の道を歩むという選択もあるしそれが悪いとも言えない、それは飯館村が合併しなかった理由とにているそういうジレンマに陥っているのがイギリスである。それは他の国でも同じなのである。グローバル社会になったとき同じ問題をかかえているのである。
ともかく小高が南相馬市から見捨てられるというとき自治が失われてしまっていたからだというのもわかる
一方で現代は広域社会だから一市町村が財政的メリットがあるからと勝手に原発を誘致してもらっても困るのである。
広域的にトータルに考えねばならない、小高が原野化している地域が広い、そこを放置しているといつかは国のものになる。税金を払わないとならないとか売るとやがては国のものになり国の勝手にされるのである。放射性廃棄物場にされる
それも南相馬市では困るとなる、飯館村では自分の土地を国に売って金が欲しいという人がいた。そうなると放射性廃棄物処理場にされてそれが南相馬市まで泥となって流れてくる。今でも飯館村から放射性物質が泥となり真野川とか川を通じて流れてきているからだ

今回の原発事故では私的に利益を確保するということと公的な問題としての土地や海の問題があった。漁業権も漁師が海が自分たちのものだから東電に売り渡した。
でもそれによって汚染されたのだから責任がある。海もそうだしそれぞれの土地でも土地は公的な性質がある、みんな土地でも海でもつながっているからである。
私的に占有するこなどできないのである。一区画の土地でも全体とつながって存在しているからである。
イギリスがこれから混乱状態になるというときここはすでにそうした混乱状態が継続しているのである。
浜通りが双葉町でも大熊町でも浪江町でも広域的に考えて問題解決にあたるべきだというときもそうである。それはEUとしてあることである。
原発事故の被害は広範囲になったからである。個々の市町村で処理できない問題だったのである。ただ個々の市町村であれ地域であれ個人であれ利益を追求しているだけでは問題が解決しない、個々にであれ地域であれ利益を追求すれば全体が保てなくなる
でも実際は公的でない個々の問題として補償金は追求されている。
特に南相馬市では小高と原町と鹿島は分断されたというとき一体感が失われた。
他は一つの町として追求しているけど南相馬市はそうならなかったのである。
タグ:市町村合併
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2016年06月26日

新しく建てられた家には誰が住んでいるのか? (南相馬市鹿島区の新住宅街の謎ーやはり船主だった人なのか?)



新しく建てられた家には誰が住んでいるのか?


(南相馬市鹿島区の新住宅街の謎ーやはり船主だった人なのか?)


この辺でわからないことは次々に新しい家が建ったことである。それも結構立派な家が多い、外から見るとまるで高級住宅街ができたのである。その地域は土地もいい場所である一部には豪邸という感じのもある。
その値段はわからないが土地の値段が高くなっていると言われからやはり相当な額だろうそれを鹿島区の人が建てたのかという疑問があった。
確かに津波の被害にあった人でも家をなくした人でも金をもっている人はいる。
でもどのくらいの数かわからないが百軒とか新しい家でできてそこま一つの街になるようだとそんなに金をもっている人がいるのかと不思議だった。
だからいつもその家々見てどういう人が入っているのか謎だった。
どういう人たち住んでいるのかわからないのである。

一方で25000万で土地付きで売り出している所もある。それなら入り安いと感じていた。
ただそうではなく豪邸もあるその額にしていくらになるかわからないがその安い住宅とは違うのが新しい街を形成する
その人たちどういう人たちなのかと不思議だったのである。
そんなにみんな金を持っているのかという疑問だった。
海老の人は屋形の方に家を建てたが借金で苦しいという。津波の被害にあった人だった。でも借金までしてあれだけの家を建てるとは思えない。
それなりに金に余裕がないと建てないだろ。

今日また話の面白い人と話した

「あそこに家建てた人は船主だよ」
「やっぱりそうなの、自分の近くにも船主だった人が家を建てたんだな」
「どこに行くんだとといったら海に行くんだと言っていたよ」
「海ということは船をもっている人なんだ、そうか、それでわかった」

自分がわかったというとき原発事故以後漁業権をもっている船主の人は大金が入った
それは漁業権を東電に売り渡してから船主には補償金がずっと入っていたし原発事故以後も金が入っている、それは他の人と比べると段違いに大きいのである。
そのことで磯部でも船主がいて立派な家を建てていると回りの人がうらやましがっていたのである。原発御殿とも言われた。
別にみんなが漁業権をもっているわけではない、近くに住んでいてもそうである。だから何か近くでもそういう船主などに反発があった。
それは原発事故が起きるまで自分もわからなかった。何か漁業は苦しいと訴える人がいてそうなのかなと同情していたのである。
相馬総合病院に入院していたときも浪江の請戸の人がいて特等室に入り家を建てると言っていた。その人も船主だったのだろう。

いわきでは双葉とか大熊とかから避難して家を建てる人が多く地元の人から反発があった双葉とか大熊は小高などとは違って補償金の額が違うからである。もう住めないとなる家から土地からあらゆるものに補償金がでるからである。
狭い私道のようなものまで補償金が出たというからだ。あらゆるものに補償金が出るのである。
ここでも磯部の人が家を建てているという、磯部の船主だった人なのだろうとなる
他にも港があった所の人が家を建てている、その内訳はわからない。
この辺ではいわきとは違いそんなことで騒がない、第一良くどういう人が住んでいるのかわからない。もちろん船主以外の人も家を建てている
でもこんなに一つの街ができるほど新しい家が建つことが不思議だったのである。
その解答の一つはやはり津波の被害にあった港がある所で船主だった人が建てているというのは納得がいく、それならこれからも補償金が入るし生活できる
つまり海に行くというとき船主だからである。別に家がなくなっても船主だと船があれば漁業ができる、浪江の請戸港の船が鹿島の烏崎の港に停泊していたからである。
港に家がなくても船があればこれからも漁業はできるのである。

ただ一方では団地形式の復興住宅に入る人もいる、一軒家の復興住宅に入った人もいるしさらに復興住宅を作っている。団地形式の復興団地は原町では相当な数である。
そっちの方の数が百倍くらいに多い、一軒屋を建てるのそれから比べると少ない
やはりそれだけの金をもたないと家は建てられない、その家にしても2500万くらいのと立派な大きな家の値段は三倍くらい違うかもしれない
つまり同じ津波の被害者でもまたその他の人でも家を見れば差がある。
どんな家に住んでいるかでその人の暮らしを判断しやすい、やはり立派な家に住んでいる人は金をもっているとみる。
ただその住んでいる場所も左右する、立派な家が建って一つの新しい街となった所は土地がいい場所なのである。だから土地の値段も高いはずである。
自分が原発事故前に70坪7百万と立て札に書いてあったのは一番いい土地だったのである
そこはいつまでも売れなかった。今になるとその土地の値段はどのくらいになったのか?軽く倍以上になったかもしれない、それで土地を売った人は大きな金が入ったことは確かである。

それにしても何かここでも複雑な気持になる。もし立派な家を建てた人たちが船主が多いとしたら地元でも反発する人が多くなるだろう。
なぜあの人たちが金をもらいいい暮らしがつづけられるのかとなる。
漁業権を東電に売り渡したのは漁業権をもっている人たちだった。
海は漁業権をもっている漁師だけのものかということを前に書いた。
もし海を守ってくれるならいいが東電に売り渡して補償金をもらっていたのだから海は魚をとる俺たちのものだと言えるのかとなる
ただ魚をとれれば今ではありがたく食べるとなる。もし漁業権とかで補償金をもらわないならもっとその魚あ貴重てものとしてありがたく食べただろう。
この辺は補償金問題でもめたが最も反発されているのは漁業権をもっている船主とかである。海側に住んでいても船をもっていない人はもらえないからである。

だから何かこれもこの辺が複雑な気持になる、ただここでそういうことは表面化していないし実際はわからない、でもやはりこれだけ新しい立派な家が建つということはそれなりの理由があると思った。そんなに立派な家を建てられるのかという金を持っているのかという疑問だったのである。
補償金にしても土地をもっていたり人によって違ってくる。軽く億の金をもらった人は多いことは確かである。でもそれが全部ではないのである。
だから復興団地に入る人もいて差ができる。それはいわきでも楢葉とか他は少ない、大熊とかは額が違う、もう住めない所もあるからだ。それで内部でも補償金問題でもめているのである。
補償金でも一様ではないのである。ただこの辺では一番補償金でもめたのである。

南相馬市ではあまり漁業権をもっていたから船主で金をもらっていたからと回りでは騒がない、でも磯部の人も家を建てていたとかわかるとやはり船主などで金が入ったなのかとなる、ただ数が多いから実際の所はわからない、そうみれば納得することは確かである。話した人は金をもっているらしいが80を越えているしいつ死ぬかわからないと小高の街内の住宅を借りて住むという。そこは長屋風の住宅などもあり街内にあるから便利だと思った。
街内でもスーパーもなにもないのだから住んでも不便である。
もう年だから家を建ててもそこに長く住むわけでもないから建てないと言っていた。
もう年取ると先がないから家があるとかえってその後をどうしていいか困るのである。
子供が離れてすむと余計にそうなる、今や空家が全国で800万軒と異常な状態になっているからだ。
どうせ死が近いなら何かをもつということは家でも負担になるのである。何もない方が気楽だとなってしまう。そういう所が若い人と老人の差が顕著に出るのである。

posted by 老鶯 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

知っていることと理解すること違う (知ることより理解深めること)


知っていることと理解すること違う


(知ることより理解深めること)


知っていることと理解することは違う、知っていることは膨大になるけどそれは単に知っているということであり理解しているわけではない、現代はグローバルに知ることが膨大になる、でも外国になると理解することがむずかしくなる
例えば人間でもあの人を知っているというのとあの人を理解しているというのは相当に違う、まず一人の人間がどういう人なのか理解することがむずかしい
それは家族ですらそうであり、家族でも生い立ちとか境遇が違ってるからである。
夫婦でもそうである。知ることは容易なのだけど理解することがむずかしい

一人の人間を理解するには時間が必要である。理解できないのは時間がないからである。少なくても二三年とか付き合わないとその人のことはわからない。
だからその人がどういう人なのか簡単に判断できないのである。
江戸時代とか村のような狭い社会だったらあの人がどういう人かなど知り尽くしていたろう。でも村以外の人と交わるときその人がどういう人か理解できないから警戒するのは当然だった。
現代はそうしてその人をどういう人か理解できないままに交流することが多くなった。
そしたらどうしてその人を信用できるのか?それでうるさく保証人などが要求される
その人のことを知らないのだから書類選考したり何を判断基準にするか採用する方でも困るからである。
自分も失敗したのは知らない人を家に入れて働いてもらって大損害を受けた。
何か同じ町であり田舎ではそんなことをするとは思わなかったのである。
ただその人が金に困っていたことはわかっていた。
もう一人は親の代からつきあいがあった人だったがその人が金に困っていることがわからなかった。事業で成功した人とばかり思っていた。
なぜならその人はそういうふうに吹聴していたからである。それで病気のとき借金を要求されて苦しられたのである。

いろいろな事件があってもその事件を知ることができてもなぜそうなったのかは理解すことがむずかしい、あらゆることで理解することはむずかしい。あることについて正否があり人についての評価でもそうである。
それは知ることができてもそもそも理解することがむずかしいからである。
現代とは知ることは世界的に膨大になっている、でも理解することは少ない
江戸時代あたりは狭い範囲で生きているから知ることも少ないが理解することはかえって人でも回りのことでも深いものがあった。
それは人間についてもでもその土地のことでもなんでもそうである。
現代は何でも広く浅くであり理解を深めることがしにくいのである。

人を理解するとき、understandとあり下に立つなのである。これもどういうわけで生れた言葉なのかわからないけどヨーロッパは貴族社会だけどそもそも人を理解するにはその下に立たないと理解できない、上からの目線では人は人は理解できない、今度のイギリスの離脱問題でも底辺で働くイギリス人のことがわからない、上流階級は別に移民でもいいとなり残留になったという。そのしっペ返しが投票に現れた。
移民に職を奪われるとか底辺層のことを理解していない、つまりunderstand 下に立って理解しないということなのである。
それも政治家でも何でも下に立たないからそこに底辺で苦しんでいる人たちのことが理解できず無視する、まず貧乏だって今では外見的にはわからない、でも貧乏に苦しんでいる人が増えた。ただ貧乏だからといって生活保護でも人様々でありその事情は良く接してみないとわからないのである。
現代はともかく広くグローバルに交わるのだけど理解することがむずかしい
そこに様々な誤解や軋轢が生れる、外国人が大量に入ればますますそうなる
言葉も理解しないというとどうして理解できるのかとなる
つまり移民問題はただ安い労働力として考える、ロボットのように考える、相手は人間なのだから理解し合わないとまずたがいに協力はできないのである。
だから移民は問題なのである。機械の方がそれならいいとなる。

理解するというとき本当に自分は家が傾くほど本を買ったけど理解していなかった。びっしりと線を引いていてもそのことを全く忘れていて理解していなかった。理解しているのもあったが多くは深く理解していなかった。
そして今になると二三行を読むだけでその言っていることを深く理解できる
老人は理解力とか洞察力が深まる、若い人には行動があっても理解力がないのである。
若いときはどうしても行動が先になる。それは正しいことである。
旅をするということは行動なのである。旅しているときとか何か行動しているときそのことについて理解できない、でもあとで理解することが深まってくる
人生でもその時々にこうどうするのだがその意味が理解できないが老人になりふりかえるとりかいできなるのである。あれはそういうことだったのかと理解できる
歴史でも百年たってふりかえり理解が深まる、最近明治維新について見直されているのはそのためである。

人間は多く知ることではない、あることについての理解を深めることである。それは人間についてでもそうであり社会についてもそうである。
そうしないと浅薄なもので物事を判断するようになってしまう、つまり数が多いとかナチスのようなファシズムになりやすいのが現代である。何か感情的に煽情的なものとしてあおられそれで全員は理解しないで行動することになる
それはカルト宗教団体がこれほど増えているのもそうである。題目を唱えればいいというのはまさにファシズムである。それは何も考える必要がないからである。
すべてはハイルヒットラーで終わりになる。
ホピュリズムになりやすいのがまた民主主義なのである。多数決がすべてだとなるとそうなる、なぜなら庶民は知ることはできても理解できないからである。
そして現代では理解できないことが多すぎるのである。
原発事故もそうして起きたのである。庶民にとって原子力とか核となると理解不能になるからである。

知っていることをいかに増えても結局人間は賢くなれない、互いに理解しあうとき相手との和解があり平和もありうる、貧富の格差が問題になっているが今は金持ちと貧乏人は交わらない、するとたがいに金持ちのことも貧乏人のことも理解できないのである。
理解できないとそこにただ敵対関係だけになるのである。
だから金持ちと貧乏人を分けるマルクスの階級闘争の思想は危険だったのである。
現代がそうなりつつあるから危険なのである。
イギリスの離脱問題でも残留派は金持ちに貴族に多いというとき下で働くイギリス人の庶民のことが理解していなかったのである。

2016年06月25日

黒い百合(金持ちと貧乏人の人類の永遠のテーマ?)



黒い百合(金持ちと貧乏人の人類の永遠のテーマ?)


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緑陰に休めば来る尾長かな

夕月やしきり飛び交う夏燕

馬駆ける野馬追い近し夏雲雀

原町のレストランの窓夏燕

風を切りロードに走る夏燕

薔薇あまた庭に咲くかな肥料やる

老鶯や根を張る樹の太しかな


黒き百合さして我が家に日々来る女(ヒト)そめだたず苦労多しも

その女の苦労の絶えず老けにけり黒百合さしぬ我が見ゆるかな

その女の植えにし薔薇のまた咲くと明日また来たらむ我が庭を見る


その女性は苦労人である。だから十年くらい年齢よりふけて見える、なぜその女性が貧乏なのかわからない、結構働き者のようにも見えるからである。
造園関係の会社で働いていたので花とかには詳しい、それで庭を作ってもらった。
小さな畑で毎日働いている。ただこれは趣味である、なぜならそこに金をつぎこんでもその金に見合うものはとれない、自分から見ると贅沢だとなってしまう。
ただ野菜を作ることが好きなきである。農業が好きでしているとなる
農家の出だし体力もある。ただ耕すとかは人に頼んでいるのである。

金持ちと貧乏人というとき本当に和解しないのか?ただ金持ちを貧乏人はうらやむだけなのか?
これも結局その人の考え方が左右する、もう徹底して金持ちを批判して金持ちは悪だとする人がいる、そういう人は金持ちと敵対するしかないから家の中で雇ったりしたら危険になる、家の中に入るとその差が大きいので問題が起きやすいのである。
なんでこの家でぜいたくしているんだとなる。それがはっきり見えるから危険になる
それで俳優の女性の家から宝石などを盗んで訴えられたお手伝いさんがいた。
ともかく何か家の中に入り働くと問題が起きやすいのである。そういう事件が日常的に起きている。
自分は別に雇っているというものでもない、ただ毎日その女性は来ている

金持ちの家にきて例えば広い庭があるとしてその庭を掃除したり花や樹の世話とか水をやるとか掃除するとかき仕事があるとたらそんなことただ使われているだけで嫌だと思う人がいる。
一方で自分の庭でなくても花を見れるし広い庭にいると気持いいと考える人もいる。
他人の庭でも自分の庭にも思えるともなる、別に花は金持ちの家に咲くとしても同じように美しいからである。
「この花きれいだね」とともにその美を見て喜ぶのである。
そこにともに豊かさを享受しているのである。
でもそういうふうに考えないとしたらこの家ではいろいろな花を買えるとか自分には庭もない花も買えないとか不満だらけになるのである。

金持ちと貧乏人を考えるとき金持ちにあやかった方が実は得である。貧乏人同士ではただ不満ばかりを言うだけになる、何か困ったことがあっても金の問題があっても相手に金がないので解決しないのである。
共産主義がみんなで平等で貧乏になるという社会である。それもつまらない社会だと思う
田舎でも金持ちがいるということは何かその土地に金持ちになるものがある、農家だって金持ちの人はいる。それには金持ちになるものをもっていてる、浪江の広い畑をもってとれた野菜を平に今のいわきに売って娘を3人大学に出したという農家の人がそうである
その人は表彰されたように農民として優れているからそうなった。
そういうふうにして豊になった人をうらやむということはひひがみである。
田舎でもその土地から実りがあり豊かさをもたらすことをその農民は示していのである。そういうふうにして豊になった人を否定したら自分たちも決して豊にはならないのである
ただ株でもうけたとか公務員はたいしたこともしていないのにき給料がいいとか恵まれているとか不満がでる、それは富を得るのに不公平だとなりそうなる
でもまた先祖が努力して残したものを受け継ぎ発展させることも否定できない
なぜなら人間はとても一代では豊になれない、先祖が良ければやはり恩恵があって当然だとなる、先祖の努力や福を否定することはできない、ただ都会などでも土地だけを引き継ぎ地主などが批判されるのは土地だけをもっていて金持ちなっているからだとなる
ただ土地を受け継いだだけで実際は次の代では努力もしていないからだろう。

ともかく金持ちと貧乏人が敵対するでなく何か和解する方法を見いだす、それは双方の歩み寄りが必要なのだと思う。もちろん巨万の富を貯えるというのは問題外だろう。
そんな巨額の金をもつということはどうしても異常でありそれに対する不満は当然だとなる
金でもその人がどういう使い方をするかというのも問題になる、ギャンブルとか女遊びだとか浪費していると批判されるだろう。何か社会に貢献しないと批判される
ともかく現代は金の力が大きくなりすぎたのである。金が人を支配して金持ちと貧乏人が離反してしまう。
ただ田舎だと金持ちは目だちうらやまれる、だからどうしても田舎は平等を追求することが強いられるのである。
大金持ちは都会にいるが田舎には住めないだろう。それは目だちすぎるからである。
金持ちと貧乏と貧富の問題は人類の永遠のテーマなのだろう。
それ故に共産主義革命があり多大の人命が失われた。それは貧富の格差だったが中国ではそれは解決していない、信じられない巨万の富を今度は共産党の幹部がたくわえたからである。この問題を解決することがあるのか?



タグ:黒百合

2016年06月24日

イギリスのEU離脱も格差や移民問題で世界共通だった (富を産み出すのは労働ではなく技術革新になった)


イギリスのEU離脱も格差や移民問題で世界共通だった


(富を産み出すのは労働ではなく技術革新になった)



●グローバル資本主義で起きている共通の格差問題

格差が日本以上に固定化しているイギリスのロンドンでは、同じような職業や収入の人たちが特定の地域に集まって、どのような家に生まれたかによって将来の職業まで決まってしまう。東京もロンドンのように金持ちと貧乏人が異なる場所に住み、まったく別の価値観を持って生きる社会に近づき始めているということでしょう」


現在、上位一パーセントが所有する富は、世界の総資産の半分に迫りつつあり、このままいけば二〇一六年には、一パーセントと残り九九パーセントの資産額が肩を並べるという

貧困層は世界に数十億人居ますが、その数十億人を合わせたよりも上位80人の富の方が多いというのは凄まじいですね。というか、70億人しか人間は居ないのに、その半分が貧困状態と言うのは異常だと思います。1%の超富裕層が世界の富を99%も抑えているわけで、この1%が今の世界を政治や文化、情報の面でもコントロールしていると言えるでしょう。

上位40人を平均すると、たった1人で10万世帯分の資産を保有している」「上位40人の資産は、全世帯の下から53%程度が保有する資産に相当する」と指摘。 

「アベノミクスが一握りの超富裕層への富の一極集中を生み出した」とただしました。 



格差社会というのは実はグローバル社会では世界的な共通の問題である。
イギリスのEU離脱も富裕層と上流階級と底辺層の対立があるという。
底辺層は移民が流入して治安が悪くなるなど嫌がっているしまた若い人の失業率はEUではみんな30パーセントとかさらに高い、底辺層の職か移民に奪われているとなるとその不満が大きくなる。

一方で富裕層とか上流階級にとっては別に働くのは移民を入れてもいいし安いならそれでいい、そこでグローバルに底辺層の賃金低下が起きてくる。
要するにグローバル資本主義とは多国籍企業にとって都合のいいものなのである。
働くものが別に自国民にこだわる必要がない、安く働いてもらえる人がいい、それが極端化すると機械の方がいいとなり機械化が頭脳分野でもコンピュターによってすすめられる働くものが別に自国民とかにこだわらないだけではない、人間にこだわる必要もないのである。つまりロボットの方が都合がいいとなる
現実に機械によって膨大な失業が起きていることは確かなのである。でも人間の労働が必要だから労働はなくなることがない、どうしても人間にしかできないことは残るのである
それとベーシックインカムが現実に実行される国まで出てきたのは機械が人間にとって代わり仕事がない収入がないと困るからである。
現代はこうして底辺層が二重に生れる要素が拡大したのである。
移民の問題はイギリスでもEUでも深刻である。イギリスノ空港で黒人がいたが売店で食べ物をチョコレートのようなものを盗んでいた。空港でそんなことするのと見ていたが黒人はアフリカ系なのかわからないがそういう人も多く入ってくる。
それはどこの国でも同じである、ただ外国人だけが盗むとは限らない、まず盗みは常にどこでもある。だから経営する人は従業員の盗みを経験しているから人を雇うのが嫌だといって一人で食堂をしている人がいる。

ともかくそうした底辺層が入ってくると治安が悪くなる、この辺では津波や原発事故などで外部から未だに除染があり南相馬市だげで8千人も入っている。
そこで入れ墨した人をみかける、郵便局にも露に腕に入れ墨した人を見た。他でもみんなみかけているしいわきでは殺人事件も起きた、昔なら飯場とかでありそこで何か金でもめて殺人事件になった。それだけ治安が悪くなり風紀が乱れる
それで嫌がある市民もいる。ただそのために経済的効果も生れている。
これもまた多少移民問題とにている。どうしても人を呼び込まざるを得ない状態が生れているからである。
日本でもいたるところで人手不足だからなんとか補うために移民を入れようとしている
人手不足は深刻であり会社さえつぶれているし介護関係などでも南相馬市で自分の近くに新しく施設をつくっても人が集まらないから開かれないのである。
建物は作っても人手不足で開くことができないのである。


●富を産み出すのは何なのか?

貧富の格差は別に先進国だけではない、世界的に起きている、というより数パーセントの富裕層が世界の富を独占している、その富を得ているのは多国籍企業でありその多国籍企業こそが国家より権力をもっている。東電は多国籍企業と違うが国家なみの権力をもっていた。そこに政治家から官僚からマスコミからと富を得ていたのである。
政治家とか官僚とかマスコミを考えればこういう人たちは別に富を産み出さないのであるブローカーとか斡旋業なのかもしれない、現実に富を産み出しているのは大企業であり多国籍企業なのである。それは世界的に同じなのである。
中国だって官僚が政治家が金持ちになれるのは企業に対して許認可権とかの権力をもちワイロをもらうからである。富を産み出しているのは企業でありそこに働く人たちである。官僚でもあとは税金をとるだけであり何か自身で富を産み出すことはしないだろう。
だから中国でも古来から人民は税金で収奪されるだけだと嘆いていた。
炭でも拾った栃の実まで税としてとられていたのである。それは結局現代でも変わりなかったのである。そういうことは日本の封建時代でも江戸時代でも侍を働かざるものとして安藤昌益 『自然真営道』で批判していた。
一時それが極端化して共産革命では中国の文化革命で官僚も地方の農民として働かされたカンボジアでも同じだった。知識人も否定されたから過酷な労働をさせられたのである。共産主義が貧富の格差を解消するわけでもなかった。それは中国をみればわかる。

ともかくなぜイギリスがEUから離脱したいのか決めたのか?
それが貧富の格差であり底辺層の移民に対する不満だとなるとそれはイギリスだけの問題でない、世界的な問題であり日本の問題でもある。
アメリカの問題でもある。なぜトランプが人気があるかというと貧富の格差がアメリカでも大きいからその不満がトランプ人気やサンダース人気になった。
アメリカの格差問題も深刻なのである。だからこれはグローバル資本主義の世界的問題として認識するようになったのである。
グローバル資本主義のもたらす欠陥が負の部分が増大したから顕著になりもう限界にきたから底辺層の反撃がはじまった、それは後進国だけではない、先進国でもどこでも同じなのである。グローバル資本主義はグローバルだからこそグローバルに共通の問題に直面している。

国を富ませるというとき国全体のレベルを上げてGDPをあげて国全体を富ませて株でもあげてトリブルダウンさせて下層にも金を回す富を回すという方法がある。
それがアベノミックスであるがこれがいいのかどうかはまた議論がある。
もう一方は金持ちの富に税金を高くしたり金持ちの金を貧民に回す方法があるがこれは社会主義的方法であり民主とか共産とかの方法である。
これは下層にはいいものである。富の分配を平等にするからである。これにもまた問題がある。共産主義が富む者がいなくなりみんな貧乏人になるとも言われる
それはソビエト連邦の崩壊とかで実験ずみである。共産主義経済は全体の富を産み出さないからみんな貧乏になるのである。
この二つの方法にはそれぞれいい面と欠陥がある。

そもそも何が富をう産み出すのか?今までは勤勉な労働が富を産み出すとしていた。
でも現代はそうなのか?現代の富はどこから生れているのか?
わかりやすいのは石油とかの資源をもっている国が富を産み出していることはわかる。
そこでカナダでも石油が世界で四位の石油産出国だからと自分も投資した。
それはわかりやすいからである。でもアメリカが有望だというときシェール石油とかがあってもハイテクなどグーグルなどIT産業が世界を支配するからそこで富を産み出している富を産み出すのは現代では資源もあるが労働もあるが何か頭脳的なものや機械などを作ることなど過去の富とは違う、知識や技術などでありその方面でのイノベーションだとなる

●富を産み出すのは現代は技術革新

自分の経験ではヤマハのJPY-Rはロードの機能もあり電動自転車でもあり坂を上るとき楽でありこれは前のと比べると速さも倍になり軽いから軽快に走る、体の負担も軽減された倍速になり軽く進むから遠くにゆくのに楽だと実感してまた遠くに自転車旅行したくなったのである。
今までの電動自転車はこぐ回数が多くなるがこれは半分ですんでさらに倍速になっているから乗っていて気持いいのである。
こういう技術革新したものが出てくることが消費を増やす、これは老人でもロードに親しめるとなる。老人が金を使わないというとき何かそうした使うものがでていないのである最近話題になっている自動運転できる車が将来現実になったら高くても死ぬ前に乗ってみたいとまでなる。つまり技術革新したものはそれだけ魅力があということである。
それはテレビが普及したときそうである。どれだけテレビに熱中したかわかる。
全国民がテレビの前にかじりついていたのである。テレビはそれだけの魅力があったのである。

次ぎに車がそういう魅力があって普及した。パソコンでもそうである。ただこれは庶民全部には普及しなかったがそれでも今はインターネットが普通になり普及した。
今はどちらかというとスマホが全盛である。
ともかくそうした技術革新がやはり現代の富を産み出しているのである。
今までのような勤勉な労働力ではない、何かの発明であり技術革新が富を産み出す、それがグローバル資本主義の競争に勝つものでありそれによって富が産み出される
つまり多国籍企業に莫大な富をもたらす、でもその技術革新は底辺層が産み出さない
一部の多国籍企業の優秀な頭脳が産み出すのである。
例えば3Dプリンターが話題になるがそこで旧来の技術者がいらなくなるという問題が生れるし農業でもドローンで農薬をまくなどするようになる。すると旧来の農業労働も軽減されるし人手不足も補えるのである。
スーパーの自動支払機でもそうである。お釣りがででくるしお釣りを残すと警告音でるとか人間よりミスがないと感心したのである。

だから格差が広がるというときその問題の核心は何かとなると底辺層は貧乏人は働かないから怠け者だからだという自己責任とも言えない、貧乏人にもいろいろある。
当然あの人は貧乏になってもしかたがないという人もいるしなぜあの人はあんなに働いているのに貧乏なのだという人もいる。
現代の格差はもともと金持ちで資産家なら金持ちになりやすいというのもある。
金持ちの子はまた金持ちになりやすいのはそれは昔からそうである。
第一富は一代では築きにくい、せんぞか土地をもちその土地を受け継ぎ次代のものが豊になる。そういう家代々で積み重ねて豊になるからその富をうらやむことは問題である。
そんなことしていたらこの世に金持ちなど生れない、みんな何でも平等にしろというとき結局共産主義のようにみんな貧乏でいいとなってしまうからである。
そうしたら誰も努力などしないからみんな貧乏になるのが共産主義なのである。

ヨーロッパでは貴族階級がありその子弟は家庭教師などをつけて教育されるからそこから天才が数多く生れた。それは学校教育とは違ってる個性を開発できる教育だったのである学校は何でも平等を目指すから共産主義的なのである。
日本には天才が生れにくいというときそういう環境も影響しているのである。
とにかく団結力があってもみんな同じでないとだめだとなり平等を第一にする社会だからである。大陸では中国でもヨーロッパでもアメリカでもぬきんでた天才が生れる
その天才が発明して技術革新が起きるからそこで富が産み出されるのである。
だから金持ちが全部悪いとはならない、ただ現代の富が集中するのはそれでたけではない金融という株式でもうけることはそれは何かを産み出しているのとは違う。
何か物を作り出してもいないし発明もしていない、金のやりとりだけで利益を産んでいるから批判されるのである。
その金を基にまた富を産み出せばいいのだがそれもできないとなると何で金持ちになっているのたとなる。
なぜ貧富の格差が生れのかというとそれは現代のグローバル資本主義であるがだからといって共産党に票を入れてもその格差は解消しないし富を産み出されずみんな貧乏になるということも知るべきである。

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タグ:格差問題t
posted by 老鶯 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

イギリスのこと (EUからの離脱か残留かー株はギャンブル)


イギリスのこと


(EUからの離脱か残留かー株はギャンブル)


 1191年、第3回十字軍の途上にキプロス島沖を航行していたイングランド王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対してイングランド王リチャード1世(獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる

 キプロスがなぜ英国領になっているのか?その歴史も古い、十字軍の時代に関係していた

 シェイクスピアの「オセロ」では、 
主人公であるヴェネチアの将軍オセロが、 
当時ヴェネチア領だったキプロスをトルコ艦隊から 
防衛するために現地に派遣される。 

恋物語と悲劇はさておき、実際の歴史においては16世紀後半に 
オスマントルコ帝国がヴェネチアからキプロスを奪い取り、 
イギリスに獲られるまでの間保持した。

キプロスになぜそんな古い時代からイギリスが関係していたのかとなる。
キプロスに一時自分はイスラエルから船に乗って6時間くらいよった。
その時イスラエルで働いていた青年とかオランダでレストランで働いている青年とかに出会った。自分にとってそんなところまで日本人がいるうというのも驚きだった。
世界中どこに行っても日本人にあわないことはない、そういう時代になったのである。

イギリスというと大英帝国の時代があり七つの海を支配した。それは太平洋戦争の時まで継続していた。シンガポールや香港とかが英国領であったこともそうである。
ミャンマーなどもそうであり英語をしゃべっている。
自分の姉は従軍看護婦としてマレーシアのジョホールバルの病院に四年間いた。
そこはシンガポールのすぐ近くだった。その病院はイギリスの赤十字の病院だった。
日本はいち早くシンガポールを攻略したのである。
つまり大英帝国のイギリスに勝ったということは世界でまれな驚くべきことだったのである。アジアはその時ほとんど植民地だったからである。

大英帝国の跡は世界中に残っている、エジプトもそうでありエジプトポンドが紙幣として通用するというとき英国領になっていたからである。つまりポンドが当時のドルだったのである。ドルが世界の果てまでアフリカの奥地まで通用しているのと同じだったのであるエジフトでロバに乗った少年がワンドーラーくれというのがそうである。
アメリカだってイギリスから派生したものだからイギリスが一時世界を支配していたのである。そのイギリスに日本が勝ったということは世界で驚きだったのである。
イギリスは産業革命の発祥の地であり鉄道も蒸気機関車もイギリスで最初に作られた。
でも今になると中国に原発を作ってもらうとか日本の企業が進出しているとか斜陽国家になった。
だからなぜこれほどEU残留か離脱かで騒いでいるのかわからない、それほど世界に影響するのかということである。
金で世界の国力を計ればドルであり円でありマルク(ドイツ)であり最近は中国の元になるポンドはもう世界的通貨ではないだろう。

そもそもヨーロッパはわかりにくい、なぜあれだけの国があり多様なのかとなる
多様なるが故に文化もルネサンスのようなものが生れた。ルネサンスはイスラムの文化も入りヨーロッパの歴史と文化の成果として華開いた。ヨーロッパの強みは常にそうした外国からの外部からの文化が流入して発展してきたのである。
だからそこで争いもあったが戦争があったがそれだけではない文化も混じり合って発展した。ヨーロッパの王室がたいがい親戚関係にあるというのもそうである。
それは日本の戦国時代とにていて縁戚関係を結び同盟関係を結んでいたのである。
EUはそういうヨーロッパの歴史があり必然的に生れた連合である。
ただヨーロッパ自体が今や斜陽化している、中国に鉄道とか原発を注文しているというのもそうである。アメリカが中国の鉄道を作らせるというのもそうである。
中国は前とは違う、めざましく発展しているからである。

ではなぜEUから残留か離脱かで世界市場にこれほど影響するのか?それが良くわからない
EU全体に影響するからでありイギリス一国で今そんなに影響するのかということである。資源として石油がそれほどとれているわけでもないし何がそんなに影響するのかとなる。とてもイギリス一国で世界に影響を与える時代は終わっているからである。
それよりEU全体が弱体化するから影響する、EUが分裂の連鎖反応があるからこそ世界に影響するとなる。EUが維持できるかできないとなるから問題になる。
つまり今やイギリスがあって世界があるのではなく、EUがあってイギリスがあるということではとないか?

いづれにしろ残留派の女性議員が銃で撃たれ死んだということが残留派に有利となったと言われる、このことでも株とう世界市場は予測できないギャンブルだと思った。
世界で常に何か予測できないことが起きる、残留か離脱かなどは何か最初から争っていても議員が死ぬということは誰も予測できないのである。
それによって世界市場に影響するということは予測できないから株も予測できない
それはどんな優秀なアナリストでもできない、つまり世界でも日本でもそうだが予測できないことが起きる、津波や原発事故もそうであり一身上でもそうである。
ここ十年自分が経験したこともそうだった。予測しえないことが次々に起きて苦しんだのである。それは自分だけではない避難した人とかもそうである。
人間には社会でも世界でも予測し得ないことが起きる、それは誰も予測しえないのである人間の寿命も自分もわからない、予測し得ないのである。
鳩山邦夫氏が67で死んだのかというのも驚きだけとただ60代で必ず死亡欄に地域別でも一人は死んでいるのである。それをいつも自分は見ているから恐怖なのである。
60代で一割死んでいるとなると死ぬ確率が増える、でも以前として何才まで生きるかは予測できないのである。これからもだから予測し得ないことが一身上でも外部でも起きる

今回なぜイギリスのことが注目したかというと為替で日本円を買っていたからである。
少ない額でもこれもはじめてやることであり110円の時買ったから円安になればいいと見ていたのである。株でも為替の投資でも自分が金を出すと世界のことでも真剣になって関心をもつことを知ったのである。それは何かあると自分の懐が痛むからであ。
貯金しているとそういうことはないのである。でも実際は貯金も市場の変動に影響しているのである。それがグローバル資本主義なのである。
人間はいくら堅実に生きるにしてもギャンブルのようなことがある
それは人生でも社会でも予測し得ないことが起きるからギャンブルになるのである。
ある時は一か八かの賭けになる。それは平凡な人生でも起きる
それか運命を決める、そういう場に誰でも立たされるからギャンブルになる。
だからいくらギャンブルを拒否しようとしてもできないのである。


キプロス危機を貨幣の歴史からふりかえる (文明の十字路-キプロス)
タグ:イギリス
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2016年06月23日

大河の流れ(big river)


大河の流れ(big river) 


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river on the morning

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river on the evening


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緑野の流れ 
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大河の岸



この流れの抽象画がつづくのはソフトのためである。波というので抽象画になりやすい、ソフトも二つとか三つとか使いこなすとさらに増える、一つだとたりないのである。
これは自分のオリジナルのものではない、インターネットから変えたものである。
でも実際は元の絵はわからないから何か著作権で指摘されにくいだろう。
抽象画は元の原画と全然違ったものとなっているからである



タグ:大河

2016年06月22日

歴史文化を喪失させた廃藩置県 (東京からみちのくへ帰る旅)


歴史文化を喪失させた廃藩置県


(東京からみちのくへ帰る旅)


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東京の思い出というと四年間大学にいたとしても神奈川県であり離れていたからほとんどない、でも旅では必ずよる

東京駅皇居によれば日の本の国をし思ふ秋晴れの日

輝やきて銀杏の散りぬ東京駅明治の世より古りにけるかも

皇居があればそうなる。東京駅から皇居へと日本の中心だと考える
でも東京から昔を偲べないのはなぜなのかとなる、人間は何か過去でも残っていないと昔を偲べない、だから建物が城でも残っていれば偲べるのである。
そもそも地方だと城が今でも中心としてある。熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとする、それは城が以前として街の中心として象徴化しているからである。
それは歴史の継続なのである。会津でも城が中心であり大阪だって大坂城がありあの城跡の石垣に当時を偲べる
江戸城となると確かにその跡があっても日本の中心としてあった江戸城から当時を偲べる感覚にならない。他にも大名屋敷があったがそれも何もなくなった。
大名屋敷の広さは甲子園なみだったというとき驚く、それだけ広い場所があったというだけでも驚くだろう。テレビで見ていても実感できないのである。
歴史を偲ぶというとき何か偲ぶものがないとできない、その点京都には歴史を偲ぶものが残っているから違っている

明治維新というのが今見直されているのは無理がありそれが弊害を生んだのである。
そう強いられたということもあるが天皇は大事でもあれほど持ち上げたこともそうである天皇制と民主主義となると合わないのである。忠君愛国となると天皇が親であり民はその子でありとなる、それは民主主義とは相反したものだからである。
そうした無理をした矛盾が太平洋戦争であれひきづっていたのである。
それを一番象徴していたのが廃藩置県なのである。
これはもともとあった藩を廃止して武士をなくして平民として国を国民国家にした。
そこで昔から培った歴史の継続が失われたのである。
江戸時代の300年は日本の歴史が培われた時代でありそれを一挙に廃止したことが今でも弊害となっている。

人間がアイディンティティをもつとき今のような県単位ではない、もっと小さな範囲で自然であれ歴史でもアイディンティティをもつのである。
福島県でもハマ、ナカ、アイヅとありこれは天候も風土も歴史も違っている
まず会津となると浜通りからすれば全く違った風土であり山国であり雪もふるからアイディンティティが違っている、会津から形成されるアイディンティティは会津らしいものとなる、福島県は会津県と二本松県と磐城県とかになっていた
それはどこでも藩の延長として県を考えていたのである。それが無理して福島県に統一された。そこで歴史の継続とか風土を地理を無視した大きな県となってしまったのである。そもそもなぜ福島県なのか?福島がとをして出てきたのかもその歴史をたどっても定かではない、そのこと自体が福島県という名になじめないことが一体感をもてないものになっている。
それは他でもそうである。茨城県の由来は

茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。

これは中央から大和政権の蝦夷征服から名付けられた、これも違和感がある。こうした名前は差別的にも思えるし地元からすると嫌だともなる
むしろ常陸国というのがありそれがふさわしいとなる。
それより東京圏は関東であり鎌倉時代から作られた所である。東京というのは鎌倉時代には湿地帯である。このことも歴史を錯覚させている。鎌倉というと狭い領域だからである江戸というとその百倍とか広くなり人口も増えたからである。
鎌倉時代が実際は歴史の基盤を造ったのであり陸奥にしてもそうである。
陸奥の子孫はたいがい鎌倉から移住した武士の子孫である。相馬市でも千葉氏から分かれたものでありか鎌倉時代から継続されている、南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉から出ていてその由来がはっきりしいる、それが相馬地方の最初の支配者だったのである。
それは東北では鎌倉から各地に移住した人たちがその子孫になっている。

そして江戸時代には関八州というのがあり群馬とか栃木県とかもその中に入っていたのか、常陸国も一部はその中に入っていた。地理的にも歴史的にも関八州は一つの領域としてあった。そこには天領が多いというとき東京の回りには城がないのもそのためである。
小田原城は北条氏の城であり関八州とは違う。茨城県に笠間藩はある。
でも福島県になると城が大きな城があるから違っている

関八州家紋

上野=群馬
下野=栃木
常陸=茨城
武蔵=東京
下総・上総・安房=千葉
相模=神奈川


@取手市・つくばみらい市・常総市付近は旧下総国です。

A神奈川県では川崎市全域と、横浜市の戸塚・泉・瀬谷・栄の各区および港南区の西半分を除いた地域は旧武蔵国です。

AB埼玉県は全域が旧武蔵国です。

雉子鳴くや関八州を一呑に 小林一茶 



関八州というと感覚的に江戸時代には庶民にもあったということである。
つまりみちのくと陸奥国と境を分けるのは関八州である。みちのくというときそれは関八州を離れた地域であり白河の関がそうである。
それで芭蕉の時代でもそうであり白河からがみちのくへの旅だったのである。

ともかく県単位でイメージできないというときそれは廃藩置県の無理した区分が行政がそうさせた。それはイスラム、中東の世界がヨーロッパの強国によって国境を無理やりつくられたのとにている。藩単位で城が中心としてあった歴史が廃藩置県で喪失した。
福島県などは特に地理的にも歴史的にも一体感がない、会津は会津としてあればわかりやすいのである。
第一人間がアイディンティティをもつというとき余り広い範囲になるともちにくいのである。ちょうど相馬藩くらいの広さがいい、この範囲は自転車で行ける範囲だからである。それでも実際にその地形は複雑であり魅力がある。だからあきないということがある。
その中でアイディンティティを作るということで詩にしたのである。
会津となると別な国なのである。それは古代からそうだった。

 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

古代から会津は一つの国としてあった。国と出ている所は万葉集でも少ないだろう。会津はそれだけ国として成り立った歴史が古いのである。

いづれにしろ明治維新の負の部分も大きかった。それが今になって見直されているのである。太平洋戦争までは明治維新の継続であり太平洋戦争に負けた結果として明治維新が見直されるようになったのである。
明治維新からここ140年間とか過ぎれば歴史が見直される、これは西欧化でありアメリカ化が極端にすすられた時代である。その反発として太平洋戦争があった。
それは奈良時代に唐風文化が席巻したとにている。次ぎに平安時代が国風文化になった。つまり次の時代は国風文化の時代なのである。日本の歴史と伝統が見直され新しい時代を再構築するのである。新しい日本文明を作る時代なのである。
それは日本のアイディンティティを作る基盤が必要である。それが東京にはない、経済力や工業力があっても自然がないから文化が生れない、耕すべき大地もないから文化が生れない、像で考えろと言ってもその肝心の像とすべき自然がない、毎日高層ビルを見上げているだけでは文化は生れないのである。
それは戦前からの国家主義ではない、まず日本文明のアイディンティティを作り直すことである。それは東京ではできない、それぞれの地方からはじまるのである。
日本の教育が実は各地の藩校で行われていた言うとき東京中心ではない、明治維新の時に無理やりに東京中心の中央集権が行われた、標準語も普及したのである。
その時すでに各地の歴史とか文化も失われていった。それは欧米とかに対抗するためにそうなった。

だから歴史を文化を見直すというときまず各地の藩があり城がありそこをアイディンティティ化して次ぎに更に広い範囲に拡張する、それは県とかになるが県は無理して作られたからどうしてもアイディンティティが持ちにくい、それからさらに古代の国へ拡張する、東北だったら陸奥がみちのくがそうなる、それは関八州の領域とは区別されるのである。大和にしてももともと奈良であり奈良の風土があり形成された
それが象徴されているのが

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し

こういうふうに美しい場所が故郷、国のまほろばなのである。それが東京のようになったらありえないのである。高層ビルに囲まれていたらありえないのである。
東京はなにか怪物的であり巨大な胃袋になっている。物質的なものしかないのである。
そこでアイディンティティを作ろうとしてもその基盤がないのである。
だから東京はその歴史と風土から形成されたものが失われているからそこから国家主義に飛躍する。文化がなくて中央の権力が肥大化する。時代をふりかえれば奈良であれ平安であれ鎌倉時代であれ文化を作ってきた。国家というときそういう文化があって国家なので国が誇るべきはアイディンティティは軍事力や経済力ではない、それが必要であっても時代が過ぎれば文化がその時代の成果であったことがわかる。

言葉が文化というときアメリカなどは英語でありもともとはイギリスから派生したものである。確かにアメリカ英語となり違っているが基本的にはイギリスの文化である。
アメリカはモンゴルとにている、軍事力があり技術力はある、でも文化がない、モンゴルは拡大するだけだった。そこに人種も関係なく人材を東洋した世界国家である。
でも文化は形成されない、ただ拡大するだけだった。それはアメリカとにているのだ。
それは一過性で終わった。ローマとも違っている、ローマには文化があったからその文化が継承されている。第一英語の基はゲルマンでありドイツ語である。そしたらその文化の影響を確実に受けているのである。
もちろん日本も漢字の影響が大きいけど純日本の大和言葉は失っていないのである。


ともかく上野駅から常磐線でみちのくへ向かう、その電車にのってみちのくへ行くという感覚は秋の日だった。大都会から離れまだ家が多いが地平に夕日が輝き沈んでゆく、その時東京の雑踏から解放された気分になる。
そして淋しさを感じみちのくへ帰るのである。その光景は心に残っている、秋にふさわしいのがみちのくだともなる、季節によってその感じ方は違っている
芭蕉は春にみちのくに向かった、その道のりは遠かった。
東北についてもやはり新たな歴史の継続としてアイディンティティを作る時代である。
それは古代から継続した風土から歴史から作られるのである。

上野駅い出で広がる地平かな秋の夕日の輝き没るかも

タグ:廃藩置県
posted by 老鶯 at 09:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2016年06月21日

自転車屋のことなど (それぞれの人生でふりかえるもの)


自転車屋のことなど


(それぞれの人生でふりかえるもの)


話を聞いておきながらネット通販で買われてしまうのは、 
その差額に見合うだけの話をできなかったから、かもしれないよ。 
ちゃんと説明したつもりでも、 
事前にネットで予習された内容と同じだったら価値ゼロですから。

しかし貧乏人相手に売り上げ作るのは大変だよ。 
生活必需品の自転車ではなく趣味の自転車に嵌ってる客の方が金離れはいいな。 
ママチャリ買えるくらいのパーツを買ってくれる。


自転車屋には実質的に免許ないに等しく、 
その腕の良し悪しはピンキリなわけで、 
部品のもつマージンを食いつぶす整備を 
やっても、高級品なら客にバレないわけ。 
修理できなくても、 
修理でかえって調子が悪くなっても、 
安物だからといって済ませることが出来るし。


最近の自転車屋の増え方見たら戦国時代みたいですね 
京都ですけど、半径50メートル以内に色んな自転車屋がひしめいてる地域がありますよ 
イオンに、あさひ、地場の自転車チェーンが二つ、昔からやってる自転車屋 
明らかに供給過剰だと思うんですけど、体力ある所はここでちょっとでも勝負しないと生き残れないと踏んでるんでしょうか



自転車はすでに20台くらいのったかもしれない、ヤマハの電動自転車は三台目だから高いのはスポーツタイプは全部のっている。もう一台はハナソニックである。これは毎日買い物に使っている。婦人用の作りであり遠出にいいというがそれもできるがかえって日常の買い物に使えた。スポーツタイプではないからだ。
ロードは8万の一台買ったけどこれは使えないものだった。ロードは高いものと安いものでは相当な差がある。
それがヤマハのYPJ-Rにのってわかった。これ自体がバッテリーなくても相当に高級な自転車に思えた。走りが全然違うからである。
軽く前の倍の速度がでるし乗っていて疲れないからこれは長距離にはいいと思った。
だからこれで遠出をためしてみたい、ただ早いから危険である。スピードは坂ではひかえいた方がいい。
一回頭を売って死ぬような経験をしている。前の歯が三本折れた。それは新しい自転車を買ったばかりのときだったのである。
その事故を起こした場所はいつも走っている普通の場所だったのである。
自転車でもなにか事故はどこで起きるかわからない、危ないところでも起きない時は起きない、意外なところで起きるときは起きる。

自転車屋が駅前にあったのは引き込み線があり荷物を貨物列車で運んでいた時代があった物流が駅中心の時代があった。それで駅前通りがあったのである。
引き込み線というとき、原町紡績に原紡に母が十年勤めていたけどそこの門に引き込み線があった。鉄道輸送が主だかそうなっていたのである。
原町でも駅前通りが繁盛したが今はどこもシャッター通りになってしまった。鹿島で駅前通りができたのは新しいのである。
広い通りがそうであり実は脇に細い道がありそこに商店があった。角屋(すみやーかどや)とかある時は道の角でありそこが場所がいいので繁盛した。
その頃は車がない歩きの社会だったからそうなる。自分の家も店屋だったが道の角にあって場所が良くて一時繁盛した。
かつて繁盛した裏町通りである。裏町にどこでも小さな店があり繁盛していたのである。今や自分の町では店屋があるのかとなる、隣が市だからみんな買い物は車で行くからそんな小さな店は消失した。
なにしろ歩いて買い物するとなる街内でも遠くには行けないのである。
その頃は自転車すら貴重品だった。一生に一台使いいつも丁寧に磨いていたのである。
戦後十年くらいの市町村を再現するといかに変わったか驚く。
ほとんどその記憶となるものすらなく消失しているからである。
ただそこには何か人間的なもの人間臭いものが満ちていたことは確かである。

今自分の街ではもう一軒しか自転車屋が残っていない、その人も病気だとかなるといつやめるかもしれない、今でもやめたらあとが困ると言って原町とかで修理してもらっている人もいる。でも自転車を買ってもらわないとしてくれないとか言われたという。
商売になればみんなそうなる。だから京都では自転車が増えて競争してつぶれているとかなると都会と田舎はそれだけ差がある。
ただ田舎のことを考えるとなぜ自転車がやっていけるのか不思議である。
こんなことを調べるのはネットが向いている、修理がその主な収入だというとき自転車はそれなりのスキルがないとできない、ここの自転車屋はバイクも修理している
田舎だとなんでも屋にならないと商売できない

自転車屋が他の商店とは違い一応まだ成り立っているのはスキルをもっているからである自転車を買っても必ずあとで修理がありパンクもあり世話になる。
だから通販ではあとで困るから自転車は一回買ったがあとは買ってない
つまり自転車屋は街の技術者であり買うだけではすまされないので成り立っている
他の仕事は例えば書店などは今は自分の街には一軒もなくなった。
なぜそうなったのかというとまず書店などはなんのスキルもいらない、売る本が何かもわからない、理解していない、第一商売で売るものを知らないで売れるわけがない
ただ配られたものを売り売れなかったら返せばいいとかなっているのだからなんのスキルもいらなかったのである。何の苦労もないのである。
自分の売る本の説明ができないのだから楽でありこんな商売はなくなっても当然だと思うこれはネット通販とかでとって変わられたのも当然だとなる
ただ物を右から左に運ぶような仕事は機械にとって変わられる、スキルが必要ないからである。

自分はバッテリーを安いものがネットにあったけどこれも住所とか書かなければならないからめんどうでやめた。それより一軒ある自転車に世話になるので買うことにした。
その自転車でもなくなること自分が困るからである。
そしてネット通販にも疑問がある。そこでは誰がもうけいてるのか?
東京に拠点があるのが普通であり地方には金が回らないとなればますます地方は衰退するすると地方に住んでいる自分でもみんな困るのである。
ただそうはいってもやはり何かメリットがなければ商売は成り立たない、地方でも田舎でも自転車屋でもスキルがありサービスが受けられるということで商売が成り立つ
ただあらゆるものが全国ではない、グローバルな競争を強いられるとき何か特徴がないものは消失する。味噌だっていろいろな味噌があり地元で作っていても自分はいちいち出汁(だし)を入れるのがめんどうでしていない、なぜなら家事に追われているからである。
だから自分は家事をするというとき何を買うかであり料理することではないのである。
その買うものを知る買うものを選ぶことが仕事になっているのである。それだけ物が増えているからである。料理に使うものの種類が多いからである。

いづれにしろいろいろ老人になると過去をふりかえる、自転車も自分の人生の一部だったとなとふりかえる、自転車旅行も相当にしたからふりかえる、そうして回想するのが老人の仕事になる、それを創作に結びつけて作品化するのが仕事である。
それぞれの人生は郷土史でもありその一こまなのである。
自分が自転車にこだわるのはそれが自然とマッチするからである。風を感じたり暑いときは木蔭を行くと涼しさを感じたりする。車だと遮断しているから感じないのである。
これは実際は贅沢である。仕事には今や車が不可欠だからである。
ロードは走っていて一番気持いいものだった。これなら遠出しても負担がからないかもしれない、何か今までの乗ったものと比べると新幹線に乗った感じなのである。
ママチャリとかは普通車でありクロスバイクとかちょっと早いのは急行列車でありさらに特急列車ににたものがあるが今回のロードはバッテリーつきだから新幹線に乗った気分に例えられる、最後に乗るのが新幹線だったということにもなる。



タグ:自転車屋
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2016年06月20日

立葵(ヤマハの 電動ロードーYPJ-Rを買う)



立葵(ヤマハの 電動ロードーYPJ-Rを買う)


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ここはクリック拡大しないと映えない(大画面)

写真を見て気づいた、石が一つあったのを・・・

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これもクリック拡大

後ろは津波があった八沢浦-原野化したまま



立葵電動ロードに走りさる

立葵夏菊映えて野の広し

軽快にロードに涼し風を切る

夏菊や花に囲まれ石一つ


25万したけどヤマトの電動自転車のロードのYPJ-Rを買った。
今日一日乗った感想はこれは電動がなくても高級なロードである。
20万クラスのロードなのだ。8キロの八万のロードに前乗ったがこれは全く使い物にならない、軽いにしてもちょとした段差がひびくのである。
安定しないし坂になると普通の自転車よりきつくなる
この買い物は失敗だった。自分は自転車で旅したのは40才からだから詳しくない

今回のYPJ-Rはまず作りが安定しているからブレないのである。
そもそも作りが全く違っている、工学的にも練られて作られているのだろう。
タイヤも細いにしてもそんなにでこぼこにひびかない、ロードだけど軽いのではなく重厚な感覚なのである。
普通に走って20キロは平均的に出るから早い、前からすると倍の速さである。

ロードはだから結構危険な乗り物である。ちょっとしたことで大怪我にもなるし死ぬことあるなと実感した。
自分はだから国道とかの車道は走らない、また下り坂などを下るときもスピードを出しすぎる危険である。ブレーキがきかなかったら即死ぬ怖さである。
前の電動自転車で坂で転んだときあったがこたいしたことがなかった。
同じヤマハでもマウテンバイクの電動自転車だったからである。
今度の全然違う、まず普通に走って20キロでる、30キロも出るとなるとこれは原付バイクと同じである。スピードが出ることは怖いことなのである。

バッテリーは2・5Aであり少ないが平地ではバッテリーはへらないしなくてもロードだから早い、15キロあっても重さは感じないのである。
作りがロードでありいい部品を使っているからである。
ただ坂になると特に急な坂ではバッテリーはへるから一つではたりなくなる
ハイモードにするとすぐに減ってしまう、でも標準モードにして上ればそれほど減らないでも坂を上るとしたら予備のが一つ必要である。
電源装置を携帯すると結構重くはなるしキャリーはつけられない
でもこれは長距離用である。スピードがでるし軽く乗れるからである。
今までの電動自転車の倍の速さが常時でることはそれだけ遠くに行くには便利である。
ただ国道を行くのは車道を走るのは危険でからひかえる
田舎では歩道でも走っていいからである。誰も歩いていないからである。


自転車の醍醐味はロードにある、ただ自分は遅かったので今になると体力も落ちて苦しいでも最後に何年か近くでもいいから乗れたら幸せである。
ただ危険だからよほどこれは注意しないとまずいと思った。
今この辺はトラックが多いから余計に危険なのである。どこでも走っているからである。
老人は金を使わないというとき老人にふさわしいものが売っていない、作られていないというのは本当である。若者向きしかメーカーで作らないというのもそうである。
金をもっていても使うものがない、庭作りでまた30万とか使った。
老人に向いているのは庭作りとか自転車とか他にもある、盆栽などは今は少数派である。一番多いのはカラオケの仲間である。

自分はこれまでの旅行でもその他老後は作品の総まとめでありこれも手間でありかなりの時間がかかる、なんとか介護が終わったのでそこに集中したい。
いづれにしろ何か買っても使いこなせないのが多くなった。
老人は何かを買ってもそれを使いこなすことが容易でなくなる
体力的にもそうであり新技術のものでもめんどうでしたくなくなる
パソコンでもいろいろ新しい技術があってもなかなか理解できなくなる
新しいことを理解しようとすると疲れるのである。
だから庭作りなどは一番適している、いつも身近で楽しめるからである。
それでも小さな庭でも手入れするのが今度はめんどうになる。
家事から料理から介護が終わってもやることが多すぎるのである。

ともかく物が売れないというがこうした新技術の商品が出れば老人向きのものが出れば売れると思う。
いくら老人が使いたくないといっても新しい技術の商品の魅力は大きいからである。
でも自分はあと何年か自転車に乗れるがそのあとはできなくなる
これが最後の自転車になるのかと思う。
タグ:ヤマハ YPJ-R

2016年06月19日

人間は私利私欲から離れられない (舛添知事も政治家も美辞麗句を並べるだけだった)


人間は私利私欲から離れられない


(舛添知事も政治家も美辞麗句を並べるだけだった)


舛添知事はその生い立ちからして素質からして別にぼっちゃんでもないし力量がありのしあがってきたとなる、前の鳩山首相とは違ってる。
あの人なら東大でも出れるだろうとなる。専属の家庭教師でも何でも金でできるものはできるからである。
舛添知事は貧乏だったというときその当時はみんなそうだけど奨学金もらって東大を出た体力もあってその体力があることがまた女性遍歴になった。
自分などは体力もないし精神的にもだめだとなるとそういう人のことは理解できない
ただ天才がいてそういう人は別に努力しなくてもいろいろなことができる
そもそもなぜ次の総理候補とまで言われた人がここまで責められて墜落したのか?


女性問題がありそのことは知られていた。公私混同というけど私生活が公的なものに必ず反映する、私生活がふしだらなものは公でもふしだらになる
そもそもその区別はできない、東京都知事のような役職には品格が求められるとか責められた。
政治家に品格を求める?そんなことが国会議員でも問われるのか?
政治家に求めるものが庶民では何なのか?まさか宗教者ならそうなるが政治家にそんなことが求められるのか、庶民がそんなことを求めて要求して一票を投じるのか?
政治家に求められているのは利権である。道路を作ってくれとか新幹線を作って駅を作ってくれとか保育所を増やしてくれとか時給をあげてくれとか直接日々の生活にかかわることであり何か抽象的な品格など求めるだろか
政治家はたいがい利権にかかわり汚いといの通説である。

人間はどうしても欲があるから私生活でも公的なものでも欲がでてくる。
その欲に負けて問題を起こす、今回もそうだった。
それが舛添知事が「せこい」ということで責められているのはそんな人格と品格がないものは東京都知事にふさわしくないというのも解せないのである。
だからこそただマスコミで有名だからといって都民は投票したのである。
青島とかの前の知事もそうである。あの人にどんな品格があるのか、漫才師かコメデアンだろう。要するに庶民にとって東京都の知事でも政治家でも人格とか品格を求めているのか?そういう人格と品格とは普通の社会では表にでてこない
庶民は俗的なものでありその俗世ににあった人間は理解する、あいつも俺と変わりないなということで理解する、だからこそ芸能人がテレビを占有しているのである。
政治家もマスコミもそういう低俗なものにあわせる、視聴率をとるためにはそうなるからテレビでも低俗になり政治家も低俗になる。政治家もそうした低俗なものから選ばれるのだから人格と品格は関係ないのである。

ただ舛添知事の場合は女性関係で乱れていたことはわかっていたのである。
それがなぜ知事になるときに暴かれて責められなかったのが謎である。
例えば公明党とか創価は宗教団体だか婦人部はモラルに厳しいから反対したというがそれも定かではない、まずカルト宗教団体にモラルを求めることは無理である。
なぜあれほどの会員がいるのかとなると低俗な庶民の要求に合わせているから政治と同じなのである。エホバとかもみんなそうである。なぜ誰でも人を見ず会員にすることを目的にしているのか?それはこの世で数で権力をもつためだとなる
数は力であり民主主義では権力である。創価などはそれをあからさまにして実行している10分の一が活動していてもあとは幽霊会員であり選挙の一票としてカウントされだけの人でありその幽霊会員に一票入れさせるのか幹部の日々の活動だからである。

舛添知事は何をまちがったのか?なぜこれほど責められたのか?政治資金ならもっとおおがかりにごまかしても責められていない議員が多いからである。
人格が品格が東京都知事にはそぐわないというのもだからわからないのである。
結局何か金銭的にも精神的にも余裕がない人は上に立つべきではない、重要な仕事はまかせられないということはある。
舛添知事は女性関係の乱れで離婚して子供に養育費を一億になるくらい払いつづけねばならないとか一カ月40万以上払わなければならないとかなると金銭的に余裕がなく追い詰められる、するとなんとか節約したり公金に手を出すということでてくる。
ただそのやり方がせこかったというだけである。

まず借金しているとか金に追い詰められている人は怖い、事業に失敗して借金した人が自分の所にきてひどいめにあったことを書いてきた。
相手が病気だろうが何だろうが頭の中は借金を返すことしかないから怖いのである。
そこから殺人までになるのも普通にある。犯罪の動機が借金が多いのである。
だから借金があるかどうかを調べるのである。
借金をしている人と共同の事業したりするのも危険がある。そういう人が上に立ったらまして東京都知事のような大きな権力をもったらどうなるのか?
それが舛添知事の女性関係にあったのでありその金を支払うためにあれだけせこいをことをして公金を使っていたともなる

人間は権力をもつと変わる、大金が入ったりすると人格まで変わる、なんか自分が偉くなったと錯覚するのである。やはり金である程度は買えるものが多いからである。
金で従わすことができるものがふ多いし今の時代は金で動かせるからである。現実に社会は金で動いている、金でマスコミも買われているから真実は報道されないのである。
舛添はやはり金銭欲、名誉欲とか何かそういうことが人一倍強い人間だった。
またそれをかなえるだけの力量ももっていたのである。
もともと戦前などは政治家は金持ちの篤志家がしていたのでありそれもいい面はあった。そういう人は金をもっているから公金をだましとるなどしないからである。

今は市町村の議員でも金目あてになっているからかえって腐敗したとなる
金とか権力にまつわわるとどうしても人間は欲があるから腐敗しやすい
弁護士なども大きな遺産とか利権にかかわるからかえってその欲にまどわれされるようになる。それでモラルも失うことも多くなる
人間はつくづく欲から離れられないのである。利権から離れられない、そこに諸悪の原因がある。
舛添は自分の私欲のために東京都知事を利用した、自分が偉くなりアメリカで大金を使い凱旋パレードをしていた。自分が王様になったような気分になっていたのである。
権力はあくまでも何かを政策などを実行させるために都民や国民から委託されたものである。ただ自分が偉くなり都民が自分のためにあるように錯覚した。
自分の私利私欲が優先してしまったのである。それもやはり金銭的にでも余裕がないと人間はそうなる

そしてそもそも東京都知事となると全国からの寄せ集めであり東京に愛着をもつ人は少ない、すると余計に東京都民といってもその人たちと直接かかわるということもない
自分の名声とか金のためにとか利用すればいいとなりやすい、東京都民を愛せと言っても一千万人のよそ者でありできない、それより趣味の絵画でも何でも自分の私利私欲が優先する。政治家自体が一票とるために選挙では平身低頭するがあとは威張っているだけだとなる。
良く国民のために、都民のために、市民のために・・・選挙のとき絶叫していも選挙の時だけでありみんなもそれを知っている、私利私欲が優先するのが人間であり政治家は美辞麗句を言うだけだとなる、舛添は本に書いているが美辞麗句だであり政治家は私利私欲になっていはいけないと言っているし政治資金について厳しいことを言っていたが自分も同じだった。ただそれがせこいということで批判された、それもあんなに自分で政治資金を私利私欲に使ってはならない、厳しく責められるべきだと言っていたからである。


美辞麗句や理想を語る人間ほど悪人な可能性が高い理由とは


これも一理ある、カルト宗教団体になぜだまされるのか?美辞麗句をならべたてる
その実はブラックそのものであり権力を我が物にしたいだけだとなる
つまりこの世の中建て前と本音があり本音は隠され美辞麗句が並べ立てられているだけだとなる、それはあらゆる人に職業でもそうだろう。
何か買ってもらうたに誇大に宣伝したりいろいろといいことばかりを言うが実際の所は効果がわからないのが多いのである。人間はだからみんなジキルとハイドになっているのである。
タグ:舛添
posted by 老鶯 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年06月18日

薔薇(真夏になっている)


薔薇(真夏になっている)


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新築の家の増えしも夏雲雀

蕾より薔薇の開くや朝日さす

一輪の薔薇咲きあまたつぼみかな

知る女の暑さの中に畑仕事

木蔭にそ日がな休みぬ庭の石

復興や田んぼの増えて夏の月


真夏になっている、陽差しが今年はずっと真夏だった。
この辺は新築の家が増えた、そして新築の家が立ち並んだ所が一つの街のようになっている
だから前よりかえって活気がでている
田舎でもやはり一万だと今は活気がない
街は必要であり田んぼとか畑だけだったらあまり住みたくないとなる
田舎と都会がほどよく混在している所が今は住みやすいのである。

知っている女性が畑でこの暑いのに仕事している、草取りがかかせないのである。
ただその畑からなにももらったことがない
前にも書いたけど一の収穫を得るのに十倍もの金がかかっているのである。
ただその女性は畑仕事が好きでしているのである。
自分はただその畑仕事の大変さを聞いているだけである

別にしなければ金もかからないし野菜は買った方が安上がりである。
自分で作るとなるとかえって金がかかるのである。
趣味でする方が金がかかる、もし貧乏な時代だったらこんなことを言っていらないだろう。
その暑いさなかにとれた野菜で日々の糧となればそうなる
こんなふうに見ていたらしかられるだろう。


自分は木蔭で石のように休んでいればいいとなる
でも自分の家の作りは失敗している
北側に窓がないから風通しが悪く暑いのである。
隣がトタン屋根になっていてその照り返しでまた暑い
二階はいつもいるが暑いのである。
下も風通しが悪いから暑いから夏向きではない家である。
今からクーラーもしたくないから困る

今年き夏はこれからどうなるのか?
干ばつになるのか?これまた大変である。
それとも7月になくと梅雨が本格化して雨がふるのか?
何か今年は最初から4月から暑く真夏化していたのである。

今年は良くこんなに薔薇が咲いたと思う、肥料の土作りをしていないときだったからである。
もしかしたら何回かやった薔薇専用の液体の肥料がきいたのか?
こんなに咲くということが不思議だからである。
まず花のことを土でもしるのは容易ではない、相当な知識と経験が必要になる。

タグ:薔薇

具象画から具象画の変化


具象画から具象画の変化

It is the change of the representational painting from a representational painting

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tunnel of undersea



パソコンだと具象画から抽象画に変化できる、そして具象画から具象画もできる
ただ具象画になるとかなり操作して作らねばならない
これは一旦抽象画して川から河口になったからそれで具象画を付け加えた。

This which I considerably operated it when it was only to a representational painting and must make which there was marked abstraction once, and when it was a PC, I could vary from a representational painting to an abstract picture and the representational painting added a representational painting to the river mouth in it from a representational painting from the river because it was

谷間の具象画も具象画から変化させたのである。
ただこれもあとで手直している。具象画になるとどうしてもあとで作り直すのが多くなる要するに抽象画でも具象画から切り離されてありえないのである。

I changed the representational painting of the valley from a representational painting.
I only adjust this later. It is that, in brief, cannot be separated in the abstract picture by a representational painting either that it increase to remake later by all means when it becomes the representational painting.

抽象画でも自然にあるものをイメージするからそうなる
ただ抽象画の場合は具象画のように形にとらわれないから変化が無限になる
それで作品の数が無限大になってしまうのである。

The number of the work becomes infinite in it that a change becomes infinite because I am not only seized with form like a representational painting in the case of an abstract picture that it is so because even an abstract picture images a thing in nature.

タグ:河口

2016年06月17日

津波で流された右田の松原の写真一枚 (影となってしまった松原の写真)


津波で流された右田の松原の写真一枚


(影となってしまった松原の写真)


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今になればこの写真も貴重である。右田の松原は全く消失したからだ。偶然整理のために掃除していたらでてきた。
偲ぶものは何もない、一本松は残っているが松原は松原としてあったとき
風景となっていた。それは陸前高田市でも同じである。
一本松というとき街道とかにあるけど海側はみんな松原として潮風から米の害を防ぐとか防風林としてあったからである。

この写真まさに影の松原でありそれが影絵のように右田の松原を偲ぶとなる
右田の松原はないが影のように記憶として写真に残っている
ともかく何も残っていないのだから貴重だとなる

松原の向こうには刈田が見えて集落があった所の森も見える
それらはみんななくなったのである。
写真とかはあとで貴重なものとなることがある
こんなに変化したとき全くその風景が見られなくなったので貴重になったのである。

タグ:右田の松原
posted by 老鶯 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

学問は問うことが考えることが大事 (武田邦彦氏の経済の説明で知ったことー権力に操作される情報)


学問は問うことが考えることが大事


(武田邦彦氏の経済の説明で知ったことー権力に操作される情報)


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水の配分総量が10ならば金持ちに5を配分すればあとは2とか下流は1になってしまうだろう。
でももし高度成長時代のようだったら20を水を配分すれば金持ちが5を配分しても下流でもおおくなのである


経済学部を出たとても自分は何の勉強もしていない、基礎的なこともわからない。
自分は受験勉強などで学問自体に興味を失っていた、そして何か自分で考えたことがないのである。
学問というとき学ぶはまねるでありあとは問うことである。
この問うということがいかに大事なことか知るべきである。
その問いの答えは用意されているのである

「なぜ人間は死ぬのか?」

これと人生最大の問いなのである。その答えはあるがキリスト教でしか解決できない
その他にこの世には無数の問題があり問いがある
なぜなのかということが無数にありとても一人の人間にわかることではない

ただ人間はいかに考えることが大事なことか知るべきである。
考えない人間があまりにも多すぎるのである。
学問とは自分の思考力をつけないかぎりわからない、最近たまった本を整理しているがいたるところに線を引いていた。そこが大事だと思って線を引いていたのだがそれを読んだ記憶すらないのである。
人間は本を読んでも読んでいないということが多いのである。
本は買っても読んでも読んでいない、もちろん心に入ってそれが自分なりに消化しているものもある。
ただこの本にこんなことが書いてあったのかということがはじめて読むように感心していることはほとんど読んでいても読んでいないということである。

理系的なもの特に経済には今や欠かせない、あらゆることが数値化しているからである。自分の場合は数字になると苦手である、だから数式とか化学式とかがでてくるとわからなくなる。
でも数学にしても基本的には考えることなのである。
この世のことでも経済でも数学的に考えることである。それがこの世を解明するすべてにならないにしても必要なのである。
だからグラフから経済を説いている武田邦彦氏の解説はわかりやすいのである。


現代の経済の問題は高度成長時代が終わったときからGDPは増えても収入は増えなくなった。
それを水で例えると水が出る量は10として一定であり増えないのである。
水の量が高度成長のように増えれば全体的に配分する水の量は増える
その中で貧富の差があっても20が5人に配分されればやはり全体的に水の量は多くなる、収入は多くなるのである。
今はそういうことがない、水の量は一定なのである。
ただGDPはあがりつづけているから実際は水の量が収入も増えている、でもバブル崩壊の時期からその増えた分が配分されない、政府が勝手に使ったり金持ちだけに配分されるようになった。日本は実際は豊なのだけど増えた収入が金が配分されないのである。

日本は借金が膨大だとというけどそれも国の借金ではなく政府の借金である。
だから政権が変われば政策を帰れば変えればその国から借り上げ借金を返せば一人350万にもなるという。
これも不思議な話である。このことはマスコミでもどこでも言わないというのも不思議だという。
金はあるけど国民から借りたものだから返すべきだという、みんなそれより国に莫大な借金があるからそれを国民が返さなければならないと思っている
それでその財源として消費税とか税を上げることもやむをえないと言われそうなのかとなり納得する、だけど国民から借りた金が莫大であり金はあるのである。
それは消費税を上げることではない、まずその国民から借りた金を返すべきだという
確かにこんなふうに経済を考えて主張している人はいない
これも政府にだまされてそうなっているのか?

なにか政府そのものが権力を持つものが国民を操作する、マスコミでもそうである。
肝心なことを言わない、舛添知事のことでもあいつは問題がありと指摘していた人がいたのである。
その声は大きくならなかった。それはなぜなのか、大きな声にならないように仕組まれていたのである。大きな声になるのはマスコミを通さないとならないという現代社会の問題がある。
ところがマスコミは裏の様々な団体によって操作されるから真実は明らかにされない
第一良くどん底の貧困者のことを書いているけどそれも真意がそもそもわからないのである。それがどういう事情でそうなったのかとかわからないが特別の貧困者のことを話題にする、するとそれを読んでそんなひどい人がいるのかとなる
でも本当のことは直接聞いたことでもないし真意はわからないのである。
つまりマスコミを人の注意をむけるたに極端なことを話題にするのである。
すると極端なことが今の社会の状態なのだと錯覚する、自分でもそうである。
そこに報道が社会の現状を正確に伝えないことになる。

なぜ舛添知事が問題があることがわかっていたのに厚生大臣までなったのか?
そのこともやはり回りがそうさせたのである。特にマスコミがそうである。
マスコミで名前を売りマスコミが舛添という人物を中味がないのに大きくしたからである

東京都知事の舛添が東京都民から嫌悪の目で見られている

今批判されるようなことがすでに言われていた。ではなぜ支持されたのかという謎であるそこにこれもまた今の自民党政権とか公明党がかかわってそうなった。
だから今になると自公政権が批判されている

そして原発事故でも安全神話が作られたのは自民党の時代でありそれはマスコミであれあらゆるものが官僚でも一体となり作られたのである。
そのために原発は危険だと主張した人がいてもその声が大きくならない、それだけ安全神話がもう国民に浸透していたのである。
それは空気のようなものになっていた。だから安全でないというとそんなことを言うのはもう変わり者だとなってとりあげられることもなかったのである。
本を出してもSFの小説のように見ていた。自分もそうだった、原発の近くにあっても危険だと感じなかったのである。
もちろん原発で仕事している人が多いからその人たちは上から安全だと言えと支持されていた。だからこの辺では安全を疑うこともできなかったとなる

経済の問題でも政府によって権力によって作られたものであり経済の実体を言わない
金は余っているし借金が膨大だから国民は消費税とか税金で返すほかないと思っているのである。そう思わされているだけなのである。
確かに高度成長時代が終わったとしても金が増えたしそれは国民の借金なのだから返せば国民が豊になるということを誰も言わない、それは原発の安全神話と同じなのである。
それが大きな声とならないのはなぜなのか?
そう政府とか団体とか権力をもつもの官僚手もマスコミでもそう誘導されているからだとなる
そんなことを言うものは変わり者だとなって相手になされないのである。
だから何かが大きな声になるというのはどうしてなのかとなる
いかに真実でもその声が大きくならなければ片隅に追いやられ変わり者として排除されるだけなのである。
一体舛添知事でももちあげたのは誰なのか?それが問題なのである。そこにも大きな責任があったのである。なぜならそういうことは知事になる前にすでに指摘されていたからである。だから今になってこれほど糾弾しているのかとなる
それは原発の安全神話でも同じだったのである。

経済再生の科学05 お金の量と豊かさ(武田邦彦)

タグ:国の借金

2016年06月16日

梅雨の日 (暮らしの跡は建物に残っているー家は記憶である)


梅雨の日

(暮らしの跡は建物に残っているー家は記憶である)


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廃屋と化した町医者の医院

我が母のこの医院に通いしを廃屋となり

五月の庭に咲きしも誰か見むあわれかな

この裏路地の道我が日々通り行きしも

今日雨しととふりこの医院の思うかな

母は言いにしこの先生の優しきと

かつて老人のここに集まりしを

その母も遂には死して帰らざるかな



この医院は誰も住んでいない、この建物を見るといかにも町の診療所という感じである。自分の母はこの医院に良く通っていたのである。
だから今になると不思議な感じになる、母は手押し車を押してこの医院に来ていた。
自分も一緒に来たことがあった。
この医院は相当古いのかもしれない、建物の感じではそうである。
廃墟趣味とかで訪ねる人がいるけどそれはなぜなのか?
やはり悪趣味というのではなくそこに人間が住んでいたということで魅力を感じる

要するに人間の生活を刻んだ過去が建物に残っている、何か思い出すにしても思い出すものがないとなかなかできない、もしこの古い建物が取り壊されればなかなかここに医院があったということすら思い出すことができないのである。
つまり過去の記憶が建物がなくなると消えてしまうのである。
これも街中にある一つの過去の記憶として残っている
いかにも街の医院であり何か素朴な感じがした。
今までは注意していなかったが母が死んだことでこの医院のことをふりかえったのである
人が死ぬとその死んだ人の跡をたどる、相続で戸籍でその跡をたどったことを書いた。
母の前の夫が東京の人でありその跡を戸籍からたどった経験は不思議だった。
両親とかなるとその足跡をたどりたくなるのは自分の人生とも深くかかわっているからである。

この医院に通ったということは何気ないことであり特別なことではない、でも何か人間が死ぬとそうした何気ないことが人生の一こまでも記憶として刻まれていることを感じる
それぞれの街で生活すること、村でも生活することはそこに人間の記憶が刻まれているのである
だから原発事故の避難区域になったような所でもそこに生活した人々の記憶が刻まれている
でもこれがただ日々何気なく生活しているときは意識しないのである。
人が死ぬとなぜかそれが貴重な人生の時間のようになるのである。
だからそうして暮らしていた街には愛着あり村でもそうだが他に移るということが辛いとなるのである。これは若い人と老人では全く違ったものとなる。
若い人は他でも新しい生活がはじめられるからである。

ともかく何か人間は当り前に普通にあるものを意識しない、ただこうしてなくなると失われると意識するのである。
死んだ人でもやはり記憶をたどりその人を浮かんでくるのである。
そして建物は家は形となって残っている記憶なのである。だから建物がなくなると記憶も消えてしまうのである。
故郷とはそうしてここに生きた人たちの記憶が刻まれている場所なのである。
ただその記憶にしても普通は意識しないのである。

こうして人がいなくなり廃屋となりここに医者がいて町の人が通っていたなと思い出すのである。廃墟趣味というときそこがかつて人が住んだということで何か人の匂いが以前としてするからひかれるのである。
ただ他にも廃屋があくけど庭があっても人が住んでいないと本当に淋しいなとなる。
庭に置かれた石でも人間の匂いがふるからである。人が住まないと本当に自然にある石より淋しいものとなる
そういうことがこの辺の原発避難区域とかで起きているのである。
町自体が村自体が廃墟化したからである。家自体が遺跡のようにも見えたのである。
家とはともかく記憶が形となって留まっている、そこに家の意味があったともなる
家が失われると共に記憶も消えてしまうのである。

タグ:廃屋

2016年06月15日

抽象画(夕暮れの山) mountains on the evening



抽象画(夕暮れの山) mountains on the evening


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a Shinto shrine=japanese shrine




これは二つのソフトを使ってできた、一つのソフトだと限られてくる
ソフトはみんな違っている、ソフトによってさらに変化ができる
抽象画はソフトに左右されるのである。

As for all the software which has been limited to when this is one software made using two software, the abstract picture which can change more depends on the software different softly.

最初のグラデーションからこれは変化したのである。
グラデーションも無数にあるから無数の変化が生れる
抽象画がきりないのである。

This changed from the first gradation.
I cut it, and there is not the abstract picture which innumerable changes are born as because there is innumerable gradation.


連作として創作すると見応えがあり一つの作品となる
なぜなら必ず抽象画は変化するからである。
だから連作になって一つの作品となる

This is because it is worth seeing, and the abstract picture changes by all means when I create it as repeated cultivation if it is why which becomes one work.
Therefore it is planted over and over, and it becomes one work
タグ:夕暮れの山

なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか? (舛添東京都知事のカルマ)


なぜ舛添知事がこれほどもちあげられたのか?


(舛添東京都知事のカルマ)



一人の人物を知ることは容易ではない、不思議なのはなぜこんなに舛添知事がもちあげられたのだろうか?
これまで悪いことを言う人はいなかったし厚生大臣にもなっているのだ。
本当は彼自身の業績というのはなかったのかもしれない、東大卒だけでは業績にはならない、助教授になったということは論文を出しているからそれなりのものはあった。
東大卒では業績にならなくても学者を見るとき論文を見れば専門家から見ればすぐわかるただこの論文も自分の成果でない弟子の成果を出したりするのが普通だとかいろいろ裏があるみたいだ。
人間は人間を判断するとき分野が違うと判断しようがない、自分は文科系だから文科系のものは判断しやすい,それでも文科系でも分野が広いから法律とかなるとわかりにくくなる。相馬藩のことを調べていて学者が論文を出していたがやはり学者だなと感心した。
論文は学者の明らかな業績なのである。


舛添知事は同世代であり団塊の世代である。舛添は貧乏だったというけどその時みんな貧乏だったのである。第一物がない時代だった。電器製品は一切ない、裸電球一つであり家にあるものは飯台一つである。それはみんな同じだったのである。
その当時は物が第一ないのだから金があっても贅沢はできないのである。
だから貧乏だったからせこくなったというのは理由にはならない
ただ自分のような劣等生から見るとまず柔道二段で東大を出るということは天才のように見える、この辺で東大に受かる人は十年に一人いるかどうかそもそもいない、それだけで相当優秀なのにガリ勉とも違う、柔道二段ということは体力も優れているから普通の人ではないとみる、両方ともだめな自分から見ればそうである。
やはり人間的素質として優れているとみる

そもそも団塊の世代というのは大学に入るだけで特別なものであった。中学校のクラスで四五人しか入らない、半分は中卒で終わりで集団就職の時代だったのである。
つまり今とは違い、大学に入ること自体が特別なことだったのである。
自分などは恵まれていて勉強がだめでも私立の三流大学に入ったのである。
そういう自分などと比べると段違いに違っている人間に見える
ただそういう優秀な素質の人間でも社会で評価されるようになるのは別である。
学問と実社会は違っているからだ。

その後なぜ彼がこれほど有名になったのか?これほど持ち上げられたのか?
次の総理大臣候補とまで言われたのか?そこに謎がある。
それを彼が度々テレビに出るようになったからである。
マスコミでもてはやされるとたちまち有名人になる、実力は関係ないのである。
テレビ受けする人がたちまち内容がなくても持ち上げられるのであり有名になる
つまり有名になることとその人の実力は関係ないのである。
芸術ならどうしてもその作品から評価される、いくら有名になっても作品からみるからある完全ではないが公平になる、学者の評価も論文でありこれも完全ではないが評価の基準がある。
でもテレビで有名になったというだけではその人のことはわからないのである。
ただ有名になるというだけで何か政治家などは票がとれるので通じてしまうということが問題なのである。
だからマスコミとかテレビはいいかげんなのである。何か面白そうなタレント的なものをもちあげてその人自身がどういう人かなど関係ないのである。
テレビはタレントを大衆受けするテレビ受けする求めているのであり中味は関係ないのである。口八丁手八丁のものが選ばれるのはそのためである。


いづれにしろ自分もそうだったが六〇代以降はどんな人でもこれまでのカルマの清算を強いられる、ここ十年の介護などの苦しみを書いてきたがそれもカルマだった。
舛添知事もそうだった。これまでしてきたこと悪行というか何か過去のことがカルマとなり責められる、それが高い地位についたため過酷になったのである。
普通の人だったらやはり問われてもこれほど責められないだろう。
人間は必ずカルマを課せられている、だから推理小説のテーマが若いときの犯した過ちが尾を引いて事件が起きることをテーマにしている、どうしても若いときには過ちを犯すからでありそれが後々まで尾をひき六〇代以降清算を強いられるのである。
変な話だけど子供もたない結婚しないというのも一つのカルマである。
人間として生れたら結婚して子供をもつのが普通だからである。それをしないことは六〇代以降カルマとなる。誰も老人になって身寄りのないものとなり助けるものがいないということである。それもカルマとなってはじめて理解するのである。
カルマというのはそういうふうに自分がその業(カルマ)によって苦しみとして現れないと自覚できないのである。それが六〇代以降否応なく苦しみとして現れるから理解するのである。

ともかくどんな人もカルマをもつ、結婚して子供をもつ人もまたカルマをもつ、カルマをもたない人はいないのである。
舛添知事も女性関係で乱れていて今になるとカルマとして現れ責められている。
そもそも舛添知事がなぜ厚生大臣までなれたのか?
それが自分が介護してもいないのに介護したと本を出して自分も売り込んでいたからである。
ではなぜその時その嘘が暴かれなかったのか?
これも不思議だとなる、これまでなぜこれほどに持ち上げられていたのに一転してこれほど責められているのか?その落差が大きいから不可解だとなる
その責任は回りの人にもなかったのか? マスコミであれ舛添知事をもちあけだ政党でありこれほどもちあげたのか?ただ有名というだけで選挙に勝てるとして持ち上げたのか?
そしてわずかの金のことでこれほど責められているのか?
他にもこういうことをしている政治家はいるという、それも億の金の政治資金をごまかしている人もいるという。
要するにこれは百円とか千円とか盗むとかえってわかりつかまるようにわかりやすいからこれほど責められているのか?それでも罪は重いにしても多かれ少なかれ政治家はしていることだと言うときなぜこれほど責められているのか解せないのである。

まず自分もそうだが貧乏に育った人間はみんなせこいというより倹約家になる
浪費しないのでてある。それがせこいとはならない、庶民はみんなそうしているからである。舛添知事の場合は団塊の世代はみんな貧しく育ったからそうなる、戦前生まれだとさらにもったいないという世代である。
ただ高度成長を経験しているからその後は贅沢したのである。
人間がせこくなるというとき貧乏だとどうしてもそうなる、だから高い地位につくものは貧乏人はふさわしくないということもある。そういう地位のものは外国人を接待したり貴族的にふるまわなければならないからである。
そして貧乏に育ったものは大きな金を使えない、自分もそうだが百万とかの金を使ったことがないからなかなか使えないのである。大きな金を使うことが怖いということもある
だから自分にしてもせこいとなる、このせこいにもいい面と悪い面があるのだろう。
事業に失敗した人は多額な借金したこともあるがせこくなっていた。
自分が苦しんでいるとき何かしてやるとき金を要求してきた。
つまりも親戚とかではない、友達でもない、事業をはじめたから人間関係もビジネスであり相手が病気で苦しんでいることも相手が不利になったのだからそれでその時ビジネスになれば自分の要求が通りやすいとなる、借金するのにも好都合だとなる
相手に同情するとかそんなことは全くないのである。そんな人しか来なかったのが最悪だった。もう一人はまさに露骨に金を奪う犯罪人だった。これもふりかえれば自分のカルマだったのだろう。家族のカルマとも関係していたのだろう。
何かそうした悪いこと人間関係でもカルマがあってそうなる

人間がせこいというとき相手が病気で他でも苦しんでいるときぼーんと金があれば与えるいちいちそれで恩を売るとかはない、そんなときいちいちビジネスのようにしている時ではないからである。ただそれも余裕があったらできることなのだ。
せこいとは余裕がないからそうなる。でも舛添知事は金が余裕がない立場ではない、嫁も金持ちとしたら別荘まであるとしたらそうである。
なぜそんな小さな金をでは政治資金から使ったのかという問題になった。
そんな金を自腹で払ってもどうってことなかったろうと思う。
せこいというとき必ずしも金があるとかないとかでもなくせこいなと言われる人がいる。金持ちでもせこいと言われる人がいるからせこいというとき何か心か狭いとういことでありその人の人格的なものなのだろう。
ただ基本的にはどうしても金がないといことは今の時代は特にせこくなる、金があると大きな気持になるのである。それだけ金がものいう時代だからとをにもならないのである。

いづれにしろ舛添知事は一生のカルマの清算を強いられているのである。これはさけようがない、みんなが六〇代以降は逃れられないのである。
自分の十年間もそうだった、それによってカルマを意識させられるのである。そうでなければ何も意識しない、舛添知事も今になって自分のカルマを現実問題として過酷に意識させられたのである。
ともかく選んだ都民も馬鹿だというときそうである。ただ有名なだけで選べばそうなる
そして今度は知事選挙で四〇億、解散すると都議会選挙で五〇億とか都民が税金で支払う、それも選んだ都民にはねかえってくる。その金で他に有効に使うこともできたからである。だから選んだ都民も馬鹿だから結果的に損したとなるのが民主主義なのである。
そして政治家は信用するな、政治家は監視しろというのが民主主義である。
マスコミは監視の役目なのだがそれを全くしていないのだからマスコミは信用するなとなる、なぜならマスコミは馬鹿な大衆を洗脳するメデアだからである。
それを利用しているのが背後の様々な団体なのである。カルト宗教団体もその中に入っている。芸能関係者が創価とたいがい関係しているというのもそうである。
東電は多額の宣伝費を使って安全神話を作ったというときもそうである。その裏には電通がいて操作している、それも最近露にされた。 
マスコミとは権力の走狗なのである。だからそこで持ち上げられて有名になっただけでその人を信用したのは大衆が操作されていたということでもあるのだ。
それは民主主義が機能していないということである。インターネットがメデアとして影響を及ぼすようになれば多少変えられるのである。
ともかくこれからはテレビに出るような人間には疑問もつ、信用しない、そしてなるべくテレビを見ないようにすることである。
テレビを見るだけで洗脳されるからである。そこに出ただけで重要人物のように見えるからである。
ただ出ただけで千倍にも万倍にも拡大してみるのである。中味は関係なくテレビというメデアはするのである。
だからそのメデアの影響を受けないようにするためにはなるべくテレビを見ないことなのである。
タグ:舛添
posted by 老鶯 at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年06月14日

一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域 (介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


一挙に人口がへり限界集落になった原発避難区域


(介護保険でも飯館村は老人が多く福島県で一番高かった)


新たな額は13町村で月6000円を超し、最も高い飯舘村では8003円に。高齢化で介護給付が増えているためで、改定で額が1・5倍になった自治体もある。


団塊の世代が75歳以上になる2025年頃には、三島町を含む8町村で、保険料額が1万円を超えると試算されている。

 町の担当者は「値上げは避けられない。そもそも人口が少なく雪深い町なので在宅介護の事業者が参入しづらく、足りない。施設を建設しても人材が確保できない。非常につらい状況だ」と訴えている。

高齢化社会は過疎地域では厳しい、介護保険料は65才以上の老人が増えれば増えるほど高くなる。当然それだけ介護サービスを受ける人が増えるからである。
だから飯館村は搗き8000円は高いと思った。もともと飯館村などは収入が県で最低クラスだった。なかなか現金収入がない所だった。
それでなぜ秋田の方の山で山菜とり竹の子とりに山に入り熊に殺された事件があった。
その理由がこの辺では現金収入になるのがない、山菜や竹の子だと一日一万六千円くらいになる。これも一〇日と二十日とかつづければ結構大きな現金収入になる
飯館村なども山菜が定番として料理として食べるのが習慣になっていたというのもそうだろう。それが放射能汚染で食べられなくなったのはそこに生きる価値がないなってしまう

ともかく少子高齢化の影響が今回の東日本大震災では大きかった。農業であれ漁業であれ第一次産業は現金収入としては低い、でも農業などは毎日草取りとか手間がかかる、金もかかる、趣味でやろうかと退職した人と都会に住む人が考えるがそれも毎日草取りだけでも苦労なのである。それから種とか肥料代とかも高いから金がかかる
結局一の収穫を得るのに趣味だとかえって10倍くらいの金がかかるかもしれない
そして後継ぎがいないとかテレビで避難した人たちが帰ってきてもほとんど六五才以上の老人なのである。
では荒廃した田畑をどうしようかとなってしまう、それだけの気力もなくなってしまうのである。若い人は帰って来ないとなるとそういう所はどうなるのか?

例えば介護保険にしても老人が増えると介護保険料も高くなる、介護保険料は市町村によって違ってくる、サービスがいい市町村は高くなる、また老人が増えると高くなる
それで東京の人は介護のサービスのいい所を選ぶ
まず原発事故周辺の避難区域になったようなところは老人が多い、介護保険料も高くなるだからといってサービスが良くなるとは限らない、第一サービスする若い人が流出しているからである。
病気の老人が自宅に帰ったのをテレビで見た。あんな人が帰ってやっていけるのかとみるそもそも老人だけの街というのが成り立つのかという疑問がある。
飯館村でも葛尾村でも山村でありそこで老人だけが帰り村を支えることができるのかという疑問がある。

そして一旦補償金で暮らしたときそのまま補償金をもらいつづけたいとかなったのが老人の現実なのである。
葛尾村とか飯館村とかは復興するのは相当に厳しいと思う。
一方でなぜ小高が批判の対象になったかというと葛尾村とか飯館村よりは条件的に放射線量も低いし帰れる状態に見えたからである。
だから先に葛尾村が避難解除になっているということもどういうことなのかわかりにくい小高の有利な点は原町に近いことである。買い物でも車があれば行けるしすでに常磐線も七月に開通するとか意外と早いなと思った。
仙台までも秋には開通するというから意外と早いと思った。
常磐線が仙台まで開通すればかなり復興になる、バスだと行きにくいのである。

ともかくこの辺では少子高齢化でも何か極端な現象として現れたのである。
人口が前の五分の一とかにへるとなると極端すぎる、一挙に限界集落になったのである。そして取り残されたのは老人である。その老人が集まって未来が語れるのかとなる
なぜなら老人の語るのは過去だからである。
自分も庭作りにしても木を植えるとしても時間がかかるのは植えたくない、成長するまで死んでいるともなるからだ。こういうところに老人の特徴がある
老人にとっての時間は何か新しいことをはじめることではない、継続したことをして過去をふりかえりそれを若い人が参考にするというのが順序である。
何か新しいものを作り出すことがむずかしいのである。

ただ老人に創造性がないかというとそういうことはない、創造性でも経験の上に創造があるからだ。だから最近はじめたパソコンのソフトを操作する抽象画を出しているがこれは全く絵を描けない自分でもやれるとわかり出しているのである。
むしろ蓄積されたものが老人になると華開く、人間はなにかしら必ず蓄積したものがあるそれが若い人にはない、だからかえって創作的なものは老人の方が優れているとなる
だから老人が新しいことをやれないということはない、でもこの先十年生きるのかどうなのかとなると若い人の考えるものとは違ってくるのである。

とにかく介護というのは負担が大きすぎる、自分も認知症の介護して鬱状態になったし二人合わせて十年間もしたから相当に消耗した。
何か他のことができなくなる、それで人生の相当な損失になる、だから若い人はやるべきではない、何か他にやるべきことがあり介護したからといって何も残らないだろう。
自分の場合は人生の終わりにしたから良かったとなる、その前に旅行でも何でもしたいことをしたからである。
それでもまたたくまに人生の時間はすぎる、だからやるべきことをやらないとできなくなるし介護で時間を費やすのは無駄だとなる
だから若い人が帰らないというとき姑と一緒にいたくないとか親の介護もしたくないとかあると言われる、補償金もらって若い人は別に暮らし方がいいと考えた人もいる。
そして結局残されたのは老人でありそこはうば捨て山になりかねないのである。
それで葛尾村とか飯館村は復興するのが厳しいと思う。
小高は南相馬市でありそこで援助があるし原町が近いから葛尾村や飯館村よりはいいのである。それでも老人だけの街とかなるとどうなるのか?
若い人でも帰り子供帰っても学校はもう一校に集める、それも五〇人くらいなのか少ない葛尾村とか飯館村はもっと厳しいのである。村が存続することができるのかという限界集落に一挙になってしまったからである。

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地方消滅の罠-山下祐介


ここで守るべき場所やその意義が全軍に十分に共有されていなければならない

自分がそこにいる意味がわかってこそ兵隊は苦しさに耐えたえ逃げずに踏みとどまるのである。

この文は面白い見解である。限界集落であり原発の避難区域であれそういうことがある。何かそこに生きる意義を見いだすものは苦しくても不便でも踏みとどまる
でもその意義は何なのかとなると何か宗教的にも哲学的にもなる
そこまで考える人がいるのかとなる、だからこそ若い人はかえって姑と離れ不便な所を捨てて新しい生活をはじたのである。
ただ女川だったか若い人がここに生きる意味があると言っていたのはかえって外部からの人がその意義を見いだしていたのである。
そこに生きるとなると外から来た人だと相当な意義を見いださないと不便だし苦しいからやっていけないのである。
タグ:限界集落
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2016年06月13日

思わぬものに変化する抽象画 The abstract picture which changes to an unexpected thing


思わぬものに変化する抽象画


The abstract picture which changes to an unexpected thing



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原画(original picture)   

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one glowing mountain


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a star of oasis in the desert


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Castle of the Middle Ages

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最初は前に作った山脈の抽象画からこれらは全部変化したのである。
こんなふうに変化するのと不思議になる、独立の山はきりとって工夫して作った。
元は原画にある。

ソフトを使いこなせば,paintshopを使いこなせば抽象画が増えてくる
他のソフトも平行して使うとますます増えてくるのが抽象画である。
まず山脈の抽象画が中世の城のようになものに変化することが考えられないのである。

でも原画をへんかさせてゆくとこうなったのである。
ここに一つの抽象画の連作ができている、砂漠などがイメージされるのである。
連作として抽象画を作ると活きて来るのである。

ただ相当に操作し続けないとできないということがある
何がそれらしいものになるか全くわからないからである。
これなどが一つの原画からできるとは思えないからである。


All these changed from the abstract picture of the mountain range which I made before first.
I cut the independent mountain which became mysterious with changing in this way and devised it and made it.
The original picture has it formerly.

If it manages software, it is an abstract picture that increase more and more when other software which an abstract picture increases to if I manage paintshop is parallel and use it.
At first the abstract picture of the mountain range is that it is not thought that castle of the Middle Ages changes.

人間はなぜ対立して戦争するのか? (現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


人間はなぜ対立して戦争するのか?


(現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


●歴史的に人間は利害で対立してきた

人間の社会ではなぜ対立が生まれのか?その対立が戦争までなってきたのが人間の歴史である。
最初は部族と部族であり猿のトーテムと犬のトーテムとかを信仰するもので対立が生じて争いになる。その対立がなぜ殺し合いまでになるのかそれは基本的には利害がぶつかるからである。動物だったら縄張り争いであり雌を得るための熾烈な争いがある。
それは本能的な争いでありそれとにたものが人間にも起きている
ただ人間の場合は集団的と集団の争いとなる、その集団と集団が争いの元になるのはやはりなんらかの利害がかかわり争いになる。
わかりやすいのは日本の戦国時代が最初に山の木材の入会権をめぐって大規模化して大名もかかわり大きな戦争に発展した。それは利害関係から争いになったのである。
水利権でも稲作は水が元だから争いになる。水をめぐっての争い旧約聖書の時代から起きている。現代までそれは継続されていて中東戦争が実はヨルダン川の水の獲得のために起きていたと分析している人もいる。イスラエルは半分が砂漠なのである。
砂漠では当然水が貴重だから争いが起きる
それから遊牧民と農耕民の間でも争いが起きる、その証拠が万里長城なのである。絶えずモンゴルなどの遊牧民が農耕民の作物をねらい襲ってくる。
どうしても牧畜民、遊牧民は定住しないから食糧が不足する、それで定期的に農耕民を襲ってくる、富めるものは襲われるのである。

その後に貿易が発展すると貿易をめぐって争いが生じる、それは熾烈な争いとなりヨーロッパで展開された。商業というのは軍隊を有していないとできないということもある。
絶えず強奪される危険にさらされているからである。商業ではやはり利害が衝突しやすいのである。スペインであれオランダであれイギリスであれ貿易をめぐって海軍で船で戦争になったのである。オランダは日本との貿易を独占した。
ヨーロッパは貿易でアジアの富を強奪したのである。戦争に勝てば敵国の富を得るから戦争になる。それが基本的に戦争の原因である。十字軍も宗教だけではない、その時イスラム国が先進国だったから富を強奪するたに起きたのである。
ともかく基本的に人間の争いは利害が衝突して起きる、この辺で原発事故の補償金でもめていると同じである。この補償金の問題は意外と深刻だったのである。
同じ南相馬市民でも不和になり協力関係が失われたのである。
だからつくづく政治は利害関係の調節こそ最大の政策とするべきなのである。
そこが公平にならないと人間の和はたもてないからである。

昔の対立はわかりやすかった、現代の対立は複雑すぎる、その複雑さは無数の職業の分化から起きてきている。これだけ職業が分化すると相手のことを理解できなくなる
それは江戸時代であれ職業が違うと異質なものとして理解不能となり伝説化した。
鉄を生産するものとか木地師などはもともと生活していた農民からすると理解しにくいから伝説化した。天狗とか何か異様なものとして語り伝えられた。
それは現代でもそうなのである。原発にたずさわる技術者は理解できないのである。
一体あの人たちは何をしているのだろうとなる。そこは秘密のベールに隠されてうかがいしれないのである。そこから大事故が起きてきたのである。
「安全神話」を作られてきたというときなぜ現代に神話なのかとなる。
それはそもそも原子力のことを普通の人は理解できないからである。
職業が違うと意志疎通ができないのである。現代の対立が生むのは国と国とかもあるがむしろ職業が違うと意志疎通ができないのである。
そして奇妙なのは国が違っても職業が同じなら意志疎通できる、科学者同士は別に国が違っても意志疎通できる、共同研究もできるし国籍はあまり関係ないのである。
一方で同じ国民でも職業が違うと意志疎通ができないのである。
だから現代がグローバル資本主義になるというとき科学の社会だというとき科学者は共同しやすいということもある、多国籍企業というときも結局世界で同じ職業の人は連帯して一つの国のように共同できる、それは国を越えたものとして共同できるとなることなのだだからグローバル資本主義は必然的に愛国心がなくなってゆくのである。

●戦争は強い者が国が必ずしも勝つとは限らない

対立というときまず都会と地方という対立がある。これも大きな問題である。それもグローバル資本主義が起きてくる。食糧を供給するのは別に同じ国内でなくてもいい、外国でもいいとなれば地方はただ都会から東京から農業でも支えねばならないとなり切り捨てた方がいいとなる。
そういうことで国内でも根本的に東京と地方は対立関係になる。一方で国家を強くしなければ外国に対抗できないという「心の青雲」の主張も矛盾してくる。
そもそも国力とは何かとなると本当にそれが軍事力なのか?経済力なのか、GDPなのかというのも疑問である。
何がその国々を支えているのか?それはやはり国民の和がなければとても戦いないだろう
「人は石垣、人は城」という言葉は現代でも生きているだろう。
太平洋戦争は経済力がないから負けたとか言われる、だからアメリカに勝つには経済力で勝たねばならない、技術力でも勝たねばならないと戦後日本は努力してきた。
でも前にも考察したが日本軍に和がなっかたというのも敗因だったのである。
日本では上官と下士官は協力していなかった。日本軍の下士官は優秀であり上官は劣っていた。下士官は愚劣な上官のために犠牲になったといわれる。
一方でアメリカは上官と下士官は一体でありそういうことがなかった。かえってアメリカ軍の方が和があったのである。日本では陸軍と海軍が争っていたしまとまらなかった。
アメリカではそうういことがなかったのである。
だからただ技術力とか軍事力か経済力で劣っていたから負けたともならない
日本には一見和があようでなかったのである。

そして戦争とは必ずしも強い者が勝つとは限らないのである。
ベトナム戦争がそれを証明した、なぜあれだけの小国にアメリカという大国が勝てなかったのか?
それはベトナムでは地下に穴を掘り芋を栽培して飢えをしのいだ。芋が短期間に成長できたからである。アメリカが負けたのはパトリシズムがありその故郷に土着して愛着して生きていたものを蹂躙したからだと言う。
アメリカは強大な軍事力でふみつぶすことができる思った。でも実際はできなかった。
アメリカの強大な軍事力が果たして有効に働いたかというとイラク戦争でも働かなかったイラクのフセインの残党がイスラム国を作ったとされるからである。
アメリカはただ中東に混乱をもたらしただけだとなる、だからイラク戦争とは何だったのかとなる、ただアメリカの一方的な強引な軍事力によって世界が混乱させられただけだともなる、つまり軍事力だけでは世界のことは解決しないのである。
それは今や中国にも言える、そしてこうした大国は内部から崩壊してゆく危機にもある
格差がアメリカでも中国でも激しいので内部で内戦のようになるとも限らない、それは日本でもそうだがグローバル資本主義は世界的に国と関係なく富む者と貧乏人とに分断してしまうからである。
つまりグローバル資本主義はそうした矛盾が頂点に達して崩壊するのかもしれない、格差が極端になりそのことが崩壊の原因になる。それは国と国の対立より問題になっているからである。どこの国でもなんでこんな格差ができるんだとなっているからである。
どうしても金持ちはさらに金持ちになり貧乏人はますます貧乏になる、そんな世界があっていいのかとなる、そういうことが世界的不満となりグローバル資本主義は崩壊してゆくまず国々が分断されて和が保てない、日本でもそうである。
TPPにアメリカも反対だというとき何かおかしいとやはり思うからである。
貿易とかは必要でも何かなんでも自由に貿易することが本当に人間を幸福にするのかとは別問題なのである。
それを日本で青森のリンゴが一個千円になり地元でも食べられないという矛盾を指摘したのである。

●現代の社会は支配する者が誰か見えない

グローバル資本主義の特徴は中国辺りだと専制的国家だと国王や皇帝その臣下が権力をにぎり極端な贅沢をする、酒池肉林とかなるからわかりやすい、そこに反感を庶民はもち革命が起きる、でもグローバル資本主義で支配しているのは得しているのは誰かとなる。
グローバル資本主義で富を独占しているものは誰なのか?
なぜその人たちに富が集まるのか?なにかそういう世界的になるとわかりにくい、それでユダヤ人どうだとか陰謀論がででくる。その陰謀論もわかりにくいのである。
日本でも経済成長をみると波があり必ず株が上がり下がる周期がある。でもその富は富裕層に流れて下級の労働者には富は分配されないと指摘している
だからこれは株価でも世界的操作されているのではないかとなる。でもそれが誰が操作しているのかはわからないのである。具体的に見えていないから陰謀論になるのである。
革命を起こすにしても例えは地主とか何か専制的国家のように権力を富をもつものが具体的に見えていればわかりやすいからそれを倒せとなる。
それがわかりにくいから具体的に見えないから複雑だから悪人が誰かわからないから革命にもならないのである。
例えは百円でも千円でも盗んだらたちまち窃盗犯でありつかまり罰せられし結構重い罪にされる、でも百億円とかもうけている人は罰せられない、この世の王として君臨できるのである。それは他人の労働を盗んだものとなっていてもそうである。
実際に舛添東京都知事があんなわずかの金で責めれているけど他に何億とかごまかしている人は政治家にいるけと責められないのである。
小さな悪は責めやすいけど巨悪になるともう人間では責められないのである。
それは闇になり不明となるから陰謀論になってしまうのである。
なぜ原発事故を起こした東電の社長でも幹部でも罰せられないのか?これもまた現代社会の大きな闇がかかわっている。
これも東電の幹部を罰すると自民党も罰せられることになるからということもある。
東電で安全を計らないことの責任は時の政権だった自民党にもあたからである。
わざわざ安全をはかるための装置を撤去することを許可したのは自民党であったということになれば問われるからである。
だから今は自民党が政権をもっているのだから罰せられないとなるのだ。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

これを許可したのは時の政権を担当していた自民党だったのである。時の政権が許可しなければこんなことできないからである。


お金のポンプ(武田邦彦)

ここで経済のことをグラフで説明している、景気と不景気の波があってもGDPは上がりつづけりつづけている。その上がったり下がったりするのも波があり金持ちは株主はもうかる仕組みになっている、貧乏人はますます貧乏になってゆく不思議を言っている
それで陰謀論は言わないが何かおかしいと疑問をもっている、つまり誰か知らないが操作されていると感じる、株価は市場原理ではない、誰かに操作されている
その誰かがグローバル資本主義では見えないわからないのでてある。
だからいろいろな陰謀論になって終わっているのである。
何しろ一兆円とか金をもっている百兆円とかもっている会社であれ何であれあれば株価は操作できる、その操作の結果として株価の上下の波はあっても金持ち、それもやはり10億とか大きな金持ちの金は増えてゆく計算になる。
下の賃金労働者には回ってこないのがグローバル資本主義なのである。
そういうシステムに作られているのでありそのシステムの中に生きざるを得ないのだから金持ちになりたかったら資本主義のルールのなかでなれとなる
この世はいつも不公平だったけど現代ではそれがあからさま見えない、だから不満があってもぶつけるものがない、金持ちは資本主義のルールの中で企業してもうけたのだからいいではないかとなる。
でも株でも操作されて今や大金持ちだけにその金が増えてゆくというのが問題なのであるつまり資本主義のこ自由競争ではなく何者かによって操作されているということはギャンブルでも八百長だとなる、グローバル資本主義ではその八百長が見抜けないから下層のものの不満が募ってくるのでてある。
ギャンブルでもあいつが大儲けしたからと責めない、それはそういうギャンブルのルールの中で行われていて承知しているからである。でもそれが八百長だったとなるとみんな起こり暴力ざたにもなるのである。その八百長がシステム的に巧妙に行われているのがグローバル資本主義となるから批判が高まっているのである。

タグ:陰謀論
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2016年06月12日

グローバル資本主義やTPPについての「心の青雲」主張の矛盾 (2) (青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)



グローバル資本主義やTPPについての「心の青雲」主張の矛盾 (2)


(青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)


農家に「転作奨励金という補助金」を支給するシステムにしたのは、農水省官僚と政府(自民党も元民主党も)である。

、なぜ農水省は企業や国民の負担を増やしてまで、小麦貿易に強制介入する必要があるのか。こちらの答えも単純だ。それは財源と天下り先を確保するためである。

心に青雲では官僚を常に批判している、それは同調する、日本の小麦はうまくないというときこれは本当だろう。スーパーで日本製の小麦のパンは確かにうまくない。
外国の小麦がうまいしTPPで安く輸入できるというのもわかる。
おそらくこういうことは政策中心の議論をするとデベートが必要になるだろう。
デベートすると賛成するにしろ反対するにしろ何が問題なのか争点が何なのかなどが明確になるからだ。

そもそもTPPの議論をするときグローバル資本主義を押しすすめば当然関税のない貿易を目指すことになるのだ。つまりグローバル資本主義の問題も追求することになる。
日本の農業が保護されているということは確かであるが外国でも日本以上にやはり保護されているとある。
そうしなければどこでも農業を維持できないからそうなっている

そしてここには東京とか都会と地方などの対立も関係してくる、特に限界集落などに金を税金を使う必要がないという意見もそうである。
今はインフラ整備だけでも80倍の金がかかるとかなっているからである。
東京の人が国に税金を払い地方のそうした限界集落でも支えているとなるから常に言われるである。
そうなったのは戦後十年くらいからかもしれない、その時は第一生活保護もないし地方は地方で貧乏でもそれなりにまかなってゆくほかなかったのである。
その時は都会と地方の対立もないのである。
都会と地方の格差はあっても対立はなかったとなる

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

今高い野菜のことで田舎と都会を考える (原発事故も田舎と都会の差から作られた)

富んでいる都会のこと東京のことは知らない、この山の村で炭を焼いて独立して生活している、それで満足だとなる
こうなってれば都会の人から東京の人から文句言われなかったのである。
それは原発事故とも関係していた。原発という危険なものを地方にはいらないともなったのである。

ただそうなると現代では誰も容認しないとなる、電気がない生活など考えられなくなっているからである。炭焼きとなるとそれは原始的な生活にもどるのかとなり誰も賛成しない
でもグローバル資本主義は関税のない世界、国境のない経済を推進する、そういう社会は実際は社会全体に影響する、金が最大の力となりなんでも金がものいう社会になる、現実になっている。金のないもの死ねとまでなっている
そして借金までしてみんないい生活をしようとしている、それより貧乏になっても今や借金で維持しようとしている、事業に失敗しても以前として生活を落とせないから借金を自分に要求してくる、おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみろとか金でなんでもまかないという社会である。金のないものは誰も見向きもしないとなる
人間の付き合いは金がかかわり金なしではなにもありえない世界となってしまっている


グローバル資本主義でTPPではアメリカが必ずしも得するわけではないから反対もしていた。むしろ日本が車を売るからかえってアメリカは損だということにもなる
そこでトランプ大統領候補は本音を言って喝采をあびたのである。
グローバル資本主義は何か詩にしたけど「内なる力」の衰退になる
それはそれぞれの国の歴史とか文化を無視して経済合理性の原理だけですすめるから矛盾してくる、その弊害も大きくなってくる、世界貿易を否定しているのではなくなにかそれが極端になっている
それが農業問題とかに顕著に現れているのである。
もちろん官僚だけが既得権を維持するためにtppに反対するとかは問題である。

でも現実問題として官僚だけの問題でもないだろう。その辺は詳しくないし自分でもデベートできるほどの知識がない、でも庶民感覚というか常識的にリンゴの問題で書いたように変だなとなる、こんなことでいいのか、何か人間として常識的にありえないことをしている、そんなことで人間が幸福になるのかという疑問である。
自分はリンゴは好きだからリンゴは食べたいとなるが他の果物はがまんしてもいいとなるただ自分は果物が好きだから本当は外国のものでも食べたいが日本が自立するなら外国に頼りリンゴまで高くなり食べられなくなるならがまんするとなる
もうそんなにいろいろなものを食べる必要があるのかともなる、もちろん自分自身も矛盾である。外国の株ではないが外国に投資しているということが矛盾なのである。
日本がだめなら外国に投資して外国がもうければ日本などどうでもいいとまでなる
もう金持ちは日本脱出だとかなる、それがグローバル資本主義なのである。

つまり国への愛着とか愛国心とか故郷への愛着とか愛郷心とかさらに家族への愛着心とか家族愛さえなくなり解体してゆく、そしてみんな孤立化してゆく、金さえあればいい、金でなんでもまかなう社会だからである。
それはグローバル資本主義をおしすすめればそうなってゆく、都会と地方の対立もグローバル資本主義と関係している、都会の人は別に国内でも外国でも安くていいものが入ればいいとなる、米すらそうである。日本人でも地方を切り離して食糧も外国から安いいいものが入る方がいいとなる
それで限界集落とか切り捨てて地方にはもう金を使わないとなる
都会では食糧は外国から買う、日本の高い食糧は買わないとなる。
地方は地方で外国に青森のリンゴを一個千円で売り貧乏な日本人には地元でも売らないとなる。
そして青森の地元の人すら「一個千円のリンゴだと買えないな、地元にいて地元のリンゴも食べられないのか」と不満になる
リンゴ農家が金持ちになっているのをうらやむ、それがグローバル資本主義だとなる。

こうして金をもうけるのが勝ち組で負け組は地元のリンゴさえ食べられなくなる
地元でもそこで仲違いになり共同体に軋轢が生じて融和しなくなる
現実に社会でも地域でも家族すらそうして解体して孤立化して最後は一人暮らしで孤死だとかなってしまう。
そういうこともグローバル資本主義と関係して起きてくる。
これはデベートすれば自分の弱点とか問題点も明らかにされる
だからいちがいには言えない問題である。
でも経済の問題でもなんでもそうだが人間は身近な問題から大きな問題にかかわる
大きなことを言われてもなかなか理解できないからである。
青森のリンゴが高くなり食べられなくなるということを知ってショックだからそれがどうしてそうなるのかというときグローバル資本主義やTPPと関係していたのである。
もちろん官僚の問題もある、ただそういうものは是正すべきである。
それでも大きな流れとしてグローバル資本主義がそうさせてゆくのである。

「心の青雲」では絶えず愛国心とか国家が強くならねばならないと説くけど日本国が日本人が東京都と地方で対立して
和がないとき国難に共同して立ち向かえるのか?
「心の青雲」の矛盾はグローバル資本主義の推進、TPPの推進でありそれはユダヤ人の支配下に入ることである。
ユダヤ人に操作されることになる、それをいつもユダヤ人が世界を操作しているというけどグローバル資本主義を推進する立場になれば
ユダヤ人を批判する矛盾がててくる
つまりグローバル資本主義は国をなくして愛国心とかもなくすからである。
いろいろ共感することがあっても対立することも見えてくる
ただなぜそうして人間が現代で対立が生まれかとなるとまず都会と地方で対立するというだけではない、職業が違えば対立することも対立する。
そういう対立があるがその対立の中で明確に見えてくるものがある。
要するに都会に住んでいること自体グローバル資本主義の推進になる、そもそも国内でも外国でも食糧は安くていいものが入ればいいとなっているからだ。
そういう国で人間がまとまるのか、和がなければ国難には対処できない、つまりそもそも愛国心とは何かとなると
愛郷心とかその国の自然に基づいた生活であり文化があり愛国心が生れる
まず国家ありきとかでは愛国心は生れないのである。それは強制された愛国心になる。
だからそういう点では「心の青雲」は矛盾している、それは根本的には東京と地方という立場の相違から起きているの出てある。
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2016年06月11日

グローバル資本主義やTPPの矛盾 (久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)


グローバル資本主義やTPPの矛盾


(久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)


久々に地元にとれる小女子(こうなご)を食べてその味かみしめるかな


松川浦でとれた小女子(こうなご)を久々に食べた。松川浦でも試験の時期は終わり魚がいろいろとるらしい、放射能汚染もなくなってきている。
ヒラメまでとれるとなるとそうである。大きな魚は放射能汚染が濃縮されるとか言われてきたしヒラメなどは危険だと言われてきたからである。
何か食べものというとき記憶と一体化している、だからお袋の味とか地元の味がある
自分の父親は良く鮎とか鰻をとってきた。その時の鮎は今よりずっと大きかったしうまかった。鰻も天然だからうまかった。
何かそういう味は記憶と一体化しているのである。その味とともに昔のことがなつかしく思い出すのである。

小女子(こうなご)というときこれは天ぷらがうまかった。それはこの辺では良く食べていたし他でも別に小女子(こうなご)はとれている。
ただ地元でとれたということでなつかしく食べた。確かにカルシウムが多いというのはそうだろう。骨ごとたべるからである。
他にもホッキ貝を松川浦でとれてホッキ飯を地元のものでまた出しているという。
これまでは他から仕入れて作っていた。こうなると地元は何なのだろうとなる
ただ外から買うだけだったら地元の味もないしお袋の味でも今や惣菜を外で買っているからなくなってしまう。
ということは味からお袋を思い出すのだがそれがなくなるということは母にしても子にしても淋しいものとなる

なんか年とるとかえって味にこだわる、若いときはどちらかというと腹が満腹になればいいとなる。自分はこれまで食べ物の味にほとんどこだわらなかった。
旅行でもうまいものを食べていない、定食の最低で終わりである。
旅で費用をへらすとすると食事と宿泊費しかないからである。
だから旅で何かあれがうまかったなとか思い出すものがない、ただ一つ新潟の小出の魚野川の前の普通の食堂で食べた鮎の塩焼きはうまかった。
前の魚野川で釣りをしていてそこでとれたものである。
生きがいいしその味は格別だった、でも高いものではなかった。普通の食堂だから安い、茨城県の太子にイワヒバを買いに行った知人に久慈川の鮎を買ってきてもらったが確かに天然の鮎だったがあそこで食べた味とはまた違っていた。
旅の思い出で食べ物の記憶というときその鮎しかなかったのである。
要するにその時食べ物の味にこだわっていなかったのである。腹をみたせばいいだけだったのである。ただ味にこだわる旅となると相当贅沢になる。そんな旅を長くはつづけられないのである。
このことは外国でも同じであり外国は全くうまいものは食べていない、マクドナルドのハンパガーを毎日食べていた。なぜなら外国ではレストランは入りにくいからである。
そして高価になるから気軽に入れないのである。

食べ物から経済を考えるとき最近青森のリンゴが高くなった。それで東京辺りではニュージラント産の小さなリンゴを食べているという、ちょうどニュージランドで旬でありとれているからである。
そんなのうまくないとかいろいろ言うが食べてみないからわからない
ただ青森では今の時期はとれないからいいじゃないかという意見もある
でも何か矛盾している。青森のリンゴはすでに外国へ輸出して一個千円でも売れている。そうなると日本での値段も高くなる、そして青森リンゴは高くて食べれなくなりニュージランド産でがまんしろとなる、貧乏人はそうなるのがグローバル経済だとなる
実際に青森ではリンゴ農家は輸出して金持ちになっている家があるという
一個千円で売れればそうなる、そういうことは外国で前々から普通に起きていたことである。海老を養殖しても地元の人は高いから食べずに日本に輸出していた。
何か特別うまいものは食糧でも高く輸出できるとなると地元の人は食べずに輸出して金を稼ぐとなるのがグローバル経済である。
日本でもうまい食べ物があれば輸出して稼ぐ、でも地元の人はまずいニュージランド産のリンゴでがまんしろとなる
これも相当な矛盾である。それがグローバル資本主義なのである。

そして売るものがない国はどうなるか、女性を売る他なくなる、テレビが欲しくて自分の娘を売春させたとかラオスのことを報道していたけどそういうことは貧しい国では普通にある。
カンボジアにたむろしていた日本人もそういう人たちである。日本人だけではない世界中から来ている、カンボジアは特に貧しいからである。
しかし日本が貧乏国になるときそれがカルマとなり親が自分の娘を外国人に売るということにもなりかねない、そういう過酷さがグローバル資本主義では競争に負ければそうなる現実にその兆候が日本に現れている、観光で売り出すということは貧しい国になったということである。
つまり日本人も一時豊かなときはそうしていたのだからカルマとなり今度は外国人にそうさせられる。それがカルマとなってそうなるのである。
日本人がしてきたことを今度は外国人にされる、それがカルマなのである。

いづれにしろグローバル資本主義とかTPPは矛盾である。だからアメリカすら実は反対していたのである。それは何か変だなということである。こんな経済でいいのかという直観的なものである。それは理屈ではない、こんなことが成り立つのかという疑問なのである農家には国の税金を使いすぎているとかいろいろ批判があるのもわかる。
それなら安い食べ物を外国から買った方が税金もかからないし安上がりだというのもわかる。
ただリンゴが好きなので毎日食べているのでどうしても日本でとれたうまいリンゴが高くて食べられず外国のまずいリンゴを食べる他ないというのが納得いかないのである。
そしたら日本の味もお袋のや味もなくなる、地元の味もなくなる、そうなったら日本に生きていてもいいことないな、地元に生きていてもいいことないなとなってしまう。
愛国心も愛郷心も家族愛までなくなってしまう。
地元のものでも日本のものでも母親が料理してくれてうまいなとなりそれが記憶となる
家族愛にもなり愛郷心にもなり愛国心にもなる
自分は親を介護して以来母親の料理を食べれなくなった。
そのことも悲しいことだった。介護になってからとにかく悲しいことをいろいろ経験したその中で親の料理したものが食べられないというのは悲しいことである。
自分はそういうことに感謝しなかった。、当り前と思っていたのである。
そういうことは津波や原発事故でこの辺では当り前にあるものが失われてそのことを考えるようになった。

ともかくグローバル資本主義は矛盾であり人間的なものから離れてしまう経済である。
外国に投資していると日本の株が下がるより外国の株が下がることの方が損だから外国の株が上がった方がいいとなる、これも矛盾であり愛国心もなにもない、そこには経済の論理しかなくなる。
グローバル資本主義の矛盾は人間を幸福にするとは限らない、なに、青森のリンゴも高くて食べられなくなる、もうこんな日本に住んでいたないという感情さえ生れてくるだろう食べ物は身近な問題だからそうなる。食べ物の恨みは深いとなるのもそのためである。
そういう何か根本的に矛盾したことは果たしていくら合理的でも継続されるのか?
貧乏でもいいからせめて地元のものでも食べられてリンゴくらい安いものでうまいものを食べたいとなりグローバル資本主義はもう嫌だとかなるかもしれない、それは日本だけの問題ではない世界の問題になるのがグローバル資本主義なのである。



内なる力の実り

樹の力はその場所に動かずに根づくこと
水は大地をめぐり潤すめぐみの力
山からミネラルを含んだ水が流れ潤す
山から栄養分が泥とともに流れてくる
実りは大地と水のめぐみによりもたらされる
山の恵み、大地の恵み、海の恵み
恵みとはめぐみーめぐるである
その土地だけの恵みには限度がある
広範囲な土地土地にそれぞれの恵みがある
そのめぐみもめぐりまわらねばならぬ
分かち合いめぐりあい豊になる
ただその土地に樹のように根付くとがこ基本
樹が力強いのはその土地に根付いているから
それは内なら力のゆえに充足する
内から湧きあがる芽吹く力
竹は真っ直ぐに伸びて蕗の薹
内に充実して外の力をとりこむ
内なる力としての一つの世界
エジプト文明、マヤインカ文明は内なる力の文明
内なる祭壇をまず築け上げよ
そして外なる力をとりいれよ
そこに誠の実りがあり千年の栄が持続する



内なる実りが基本としてありそこから外なる実りをとりいれる、もし内なる実りがないとしたらただ外なる実りだけをとりいれるようなことはありえないのである。
実りというとき農業だけではない、一次産業だけではない、経済でも技術でも内なる実りがないなら豊になることはありえないのである。
芸術でも内なる実りがあって成り立つ、その土地土地に生きる糧がありその風土にマッチした文化が起こり文明が起こる、外からばかりの文明になったらそれは日本でも故郷も何もないとなってしまう。現実にそうういことが起こりかねないのがグローバル資本主義なのである。


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2016年06月10日

原発事故に風土の影響 (風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


原発事故に風土の影響


(風と地形の影響が大きかったーチェルノブエリとの比較)


放射線量の推移
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今回の原発事故は意外だったのは地形とか風とかの影響が大きかったのである。
そしてその時吹いた風の影響も大きかったのである。
この辺では浜通りでは3月11日頃になると東風が海から吹く、ただその頃は北風も吹いているし交互に吹いてくる
だからこの時期に原発事故が起きたことは時期的に不運だった
この天候の影響は戦争でも信長でも雨がふって桶狭間の戦いで勝ったとかあり勝敗を決する、人間の歴史は「天の時、地の利、人の和」この影響をまねがれない
どんなに科学が発達してもそうである。
この時東風が吹いたということが天の時が作用して悪い方に働いた。
もしもっと寒い時期だったら北風であり放射性物質は海に流れた。
すると山の方の飯館村とか福島市にそんなに影響がなかったかもしれない
山の方では浪江の赤生木とかは風の影響でその時雪がふったりして放射性物質がたまってしまった。
放射性物質を運んだ雲のようなブルームが山にあたり蓄積したのである。
それから東風は山の谷間に吸い込まれるようにして放射性物質を運んだのである。
それで飯館村は放射線量が高くなった。

そして意外だったのは福島市までも大きな影響を受けた、なぜなら事故後の放射線量を見ればわかるが一カ月くらい放射線量は低くならなかったのである。
それだけ連続的に放射性物質が流れ堆積したのである。
そして謎なのは郡山市とか白河市がそれなりに高くなっていたことである。
白河市と南相馬市の放射線量は同じである。郡山市はさらに高い
だからなぜ30キロ圏内で区切り補償金が支払われたかわからないし不満がある
別に30キロ圏内が一様に高くならなかった。
それを証明しているのが浪江の請戸(うけど)なのである。原発の煙突が見えるのに0.5
以下なのである。
そんなに低いのかとこれは驚くだろう。東風が吹いたとしても海側は半分以上が海に放射性物質は流れ低くなった。

チェルノブエリと比較するとおそらく30キロ圏内で線引きしたのだがフクシマの場合は地形が違ってるからあてはまらなかった。
チェルノブエリでは海がないから広範囲に回りに拡散したのである。ヨーロッパまで影響した。そして30キロから離れても80キロでも影響した。放射線量の高いホットスポットができたのである。
不思議なのは風の影響で一関まで放射性物質が流れたのである。一時女川の原発で高い放射線量が観察されたのはフクシマの原発の放射性物質だったのである。
それも風の影響だったのである。だから風もその時の条件でどう吹くかわからない、つまり天候とかの影響は予測不可能なのである。津波でもそうである。
それが作用するから未来は不確定なのである。

最大の勝因は「火攻め」という手段を選択し、赤壁から烏林への追い風となる東風が吹く日をじっと待ったということです。ここで諸葛亮が赤壁にある南屏山で、東南の風が吹くよう祈ったという話が三国志の中に出てきます

つくづく風の影響が大きいのである。風は実際はどう吹くか予測できないのである。

今回の原発事故では南相馬市でも山側は放射線が高かった、でも海側は低いのである。
それは極端でもあった。福島市とかは放射性物質がたまりやすい場所にあった。
つまり東風で福島市まで運ばれてその時北風も吹く時期だから今度は北風が吹いて郡山市や白河市に放射性物質が運ばれたのである。
まずなんでも風土の影響を受ける、歴史も文化も風土によって作られるというとき納得する、何か重大なことも天候とか地理に左右されるのである。

チェルノブエリとの相違はその地理にあり風土にもあった。チェルノブエリでは海藻とかからヨウソをとっていないので甲状腺ガンになりやすかったとかある。


元々日本ほど海藻類を食事に取り入れている国はなく、ヨウ素の摂取量だけをみると日本はヨウ素過剰の国と考えられています。前にヨウ素欠乏のために甲状腺ホルモンの欠乏が起こると病気になるということを書きましたが、チェルノブイリ周辺の旧ロシア地区は比較的ヨウ素の摂取が少なく、軽度ではありますがヨウ素欠乏があり、そのために事故で排出されたI-131が甲状腺に多く入ったために後遺症も多かったと推測しています。

チェルノブエリでは牛乳も飲んで内部被爆した。ヨウ素も日本とチェルノブエリでは影響が違っていた。それも風土の影響だったのである。
それにしても飯館村とか福島市は一カ月くらい放射線量がグラフで見るとわかるように高かったからヨウ素が一週間くらいしか影響しないとしても影響があった。
その時は高かったからである。
自分も何かわからず爆発したときも外に出ていたから被爆した。でも南相馬市とかは一日とか高かったがあとは低かった。海に流れたからである。
でも飯館村とかはなかなか避難しなかったことで村長が批判されている。
その時何が起きたか浪江でもわからなかったし適切な支持をそもそも国でも東電でも放射線のことを知っていても出さなかったのである。
事故を起きないとしているから事故を起きた場合の対策をしていなかった。
第一スピーディで放射性物質が流れるのをわかっていたのにそれもしなかった。
要するに国も東電も何もしなかったのである。そし浪江の人は最も放射線量が高い津島に避難したのである。これも馬鹿げたことだった。
つまり安全神話で事故は起きないのだという前提にしているから何の対策もとれなかったのである。

今になるといろいろな原発の不備が指摘されている、今の安倍首相が予備電源を確保しろという共産党の質問にもしなかった。
原発は自民党の責任が大きかった、なぜなら民主党は自民党の政策を継承していたからである。すぐには変えられないからである。
民主党の政権の時に起きたから民主党が責任を全部かぶったようになり自民党には好都合だったとなる。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

安全が第一の原発でなぜこういうことが行われていたのか?やはりコストの関係なのか?
これも不可解でありなぜ業務上過失で東電の社長とか会長とかが逮捕されないのも解せないのである。これほどの重大事故なのに誰も責任をとらないのである。
もちろん地元を利益を得たのだか責任があったとかもなるが肝心のトップが責任をとっていないのである。
東電の幹部は外国の東電関係の会社で以前としてやめないでとどまっているというのも解せいなのである。舛添東京都知事の問題よりこっちの方が重大なのだけど問われないのが解せないのである。

でもこれもなぜ国で許可したのかという問題がある
許認可権は国にあるから国の責任も問われている
原発は国と東電が一体となってすすめられた事業である。
なぜ安全を守らねばならない国が東電のこの申し出を許可句したのか?
国の責任も大きかったとなる

つまり国の責任が当時の自民党の責任が問われるから東電の責任も問いないともなる
国が許可したことではないかと東電からは言われる,責任は国にあるとも言われるからである。
確かに最終的責任は国にあるとなる
東電より国の責任が原発では大きいとなるからだ。
そもそもこれはどういう経緯で国で許可したのか?官僚が勝手に決めたのか?、誰が許可する権限があったのかとまでなる
その責任の所在は一体どこにあるのだろうともなる
要するに権力をもつものが許認可権がありその権力を行使できる者はそれだけ責任が生じるのである。
舛添知事があれほど責任を問われるのはそうした権力を有する者だからである。
権力は常に監視していないと勝手にされて今回の事故のようなものがまた起きる
では一体誰が権力を監視するのか監視する力をもつのかというのが問題になる
それでマスコミとかも問われたのが今回の原発事故だったのである。

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2016年06月09日

地球の抽象画 (abstract earth)

地球の抽象画 (abstract earth)


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what is this?

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