2016年10月11日

田舎の秋の灯(詩一編)


田舎の秋の灯(詩一編)

keitooooooo11111122222333.jpg
クリック拡大



鶏頭の赤さを増して小菊咲く

故郷に三羽ほど舞ふ秋の蝶

ほとけっぽ闇につつまれ雲の間に月の隠れて光り消えにき



田舎の秋の灯

autumlllllll67899.jpg


秋の灯の離れてともる
家居淋しも
草むら深く月見草
我が触れもせじ
草むらに消えぬれ
雲間に月の光り隠れ
星はひそけく煌めきあいぬ
人の交わり熱き交わり
災いともなりて離反する
思いはあれど離れつつ
かそかに虫の鳴き
ひそかに煌めきあうこそよし
死者は静かに眠り騒がず
我が奥津城もそこにあれ
繊々し月は光りぬ

autumlllllll678.jpg

autummmlllll1222333.jpg


急に寒くなった。この辺でも原町とか相馬市になると四万以上であり一万の町とはかなり違った雰囲気になる、
鹿島と小高は一万だからにていた。
一万となると街のすぐ外が田畑とか森とか野になるのである。
秋の灯がともっている、川べりの道には草が深く茂り月見草が隠れ咲いている

人間関係はむずかしい、何かしら必ずもめる、女性でもそうだし家族を見ても何か必ずどこの家でももめごとがある。田舎では人間が素朴だなとない、田舎では干渉されすぎるのである。ある人は一人暮らしで四六時中回りから監視されている
畑をしている女性は必ず誰が話しかけて時間をとられると言っていた。
一時間くらい嫁の愚痴を言うばあさんがいるからそうなる
自分は家族がいるとき田舎でも人ととかかわらなかったが介護や病気になってかかわらざるをえなくなったのである。
そのためにひどいめにあったことを書いてきた。

田舎は詩のように静かでいいのだけど人間は何であれ交わりとなると熱くなってもそこに問題が生まれてくる、男女でもうまくいかない、三分の一は離婚しているからである。
離婚していない人でも実際はうまくいってない人も多い
それだけ人間は互いに合わせることがむずかしいのである。男女の関係でもそうだとしたらみんなそうなる
自分の家も死ぬまで事情があってもめつづけていたのである。そして最後は悲劇で終わったのである。

なんか三羽ほど秋の蝶が舞っている、なんでもないんだが秋らしいとみる、三羽でも仲良く舞っているのが平和なのである。鶏頭でもそうだが花と花は何も争うことなく美しく映えているのである。調和しているのである。
ともかくやはり秋は秋らしいのがいい、何か天候が今年は変則的だったのである。
秋は芸術の秋である。頭も冴えてくる、それで詩もできたのである。







タグ:秋の灯

原発はなぜやめられないのか(2) (人も死なないし被害を訴えることができない)


原発はなぜやめられないのか(2)


(人も死なないし被害を訴えることができない)


津波の被害は目に見えて何も訴えることもなくて一目瞭然だった。だから同情されたしそれに文句を言う人はいなかった。
ところが原発事故の被害は確かに大きかったのだが津波のように2万人近く死んだわけでもない、原発の作業員が8人くらい死んだとしても一般の人は死んでいないのである。
関連死で老人が何百人と死んだということもあるがそれも目立ったものとして現れていない、つまり被害のインパクトがないのである。

ヒロシマ,ナガサキの原爆だったらこれも一目瞭然である、あまりにもひどすぎるとなり訴えることができる、戦後70年でもその被害を訴えることができる
でも今回の福島の原発事故の被害がなんだったかというと故郷に住めなくなったとかの被害でありそれも外部の人には補償金をたんまりもらったのだから他に移り住めばいいじゃないかと被害が言っても訴えないのである。
むしろ毎日ギャンブルで遊んでいい身分になったなと見られている、それは地元でも原発避難者をそう見ている、そして被害者でも補償金でもめて争っている

ではなぜこういうことが起きたのかというと被害がはっきり見えないし訴えないのであるもしバタバタと人が死んだとか甲状腺の子供が目に見えて増えたとか奇形が生れたとか何かはっきりと目に見えていれば訴える、原発はひどいなと見てもう原発などやめるべきだと国民でもなる。
そうならないのは被害があったとしてもそれが内部でも外部でも訴えるものになっていないからである。
ガンになると言っても遺伝子が損傷するというのも深刻だとしても今のところそんな被害がでてこない、10年後20年だになるともうそれが原発事故のためなのかもわからなくなるつまり被害が目に見えてはっきりしないことが原発事故なんかたいしたことないじゃないか、かえって補償金でうはうはなんだよな、それは事故前も事故後も原発はかえって住民にとっていいものだったんだよとか言われる
それは被害が目に見えて悲惨なものになっていないからである。

その被害が目に見えて現れないことが実は内部でもただ補償金で争うだけのものになっている、もし原発事故で人がバタバタ死んだりしたら内部で被害者同士が争うなどありえない、みんなこんなふうにしたのは誰なんだとか、みんな命懸けでも訴えて戦うということがあった。ナガサキ、ヒロシマではそういうふうに被害が甚大だから世界にも訴えることができた。今でもそうできているのである。
被害でも外部に対して訴えるインパクトがないから外部からもなんだ被害って何なんだ、被害者は遊んで暮らしているじゃないか、原発で補償金もらってうはうはだなとか言われるのである

俺も被害者になって補償金もらいたいな

こんなことを言うことなどありえないことである。誰も戦争の被害者になりたくない、シリアの避難民などになりたくない、それは目に見えて被害が悲惨だからである。

ただ腹ただしいのは

福島県産の食べないとか食べて応援などはやめろ

東電の社員に食べさせろというのは賛成である。確かに一部は福島県産を食べさせた。

お前らも原発に国策として賛成したのだから福島県産を食べろ
共同責任を果たせ

となる。原発は国民全部で決めたことなのである。そしたら福島県産を食べるなとか言えるのか?原発事故の責任は国民全部にある。
つまり福島県産を食べて共同責任を果たせ、それが原発を作った国民の責任なのである。
福島県産を食べてガンになるのは嫌だとか遺伝子が損傷して子孫に影響するとか言うけどそれは原発を作った国民の共同責任なのである。
福島県だけの責任ではないのである。
地元でも魚の骨にストロチウムがたまるとか言われると食べるのを躊躇する、その魚は結局率先して漁業している人が食べるべきである。なぜなら漁業者が一番事故前も事故後も補償金で補償されていた特権階級だったからである。
それが当然の責任だったとなる、他の人も地元でも外部のものでも食べるのが責任だとなる、福島県産は食べるな、売るなというのは何か勝手なのである。
つまり原発をもつということはそういうことなのである。
嫌だというなら原発をやめるべきなのである。

なぜ原発がやめられないのか?それはアメリカの圧力もあったとしても国民がそれだけの覚悟をもてないのである。
ナガサキやヒロシマのようになれば覚悟する、核兵器は絶対もつべきではない、世界で持つべきではないと訴えることができる
ところが原発はそういう世界でも国内でも訴えるインパクトが被害から見えないのである確かに故郷に住めなくなったということは実際は大きな被害でも外部から見ても内部でも原発避難者は補償金もらっていいとくらいしか見ないのである。
それで南部でも団結できなかったのである。
もうバタバタ人が死ぬ、甲状腺ガンの子供あふれて、何か症状が目に見えて現れ苦しんでいる姿を見れば原発はやめるべきだとなる、それが今回はないから訴えるものがなく内部でももめて外部からあいつらは補償金もらって得しただけなんだよとかしかならなかったのである。

人間が外から見て同情するとき何か目に見えないと同情しないのである。それでインド辺りでは子供の手足を切って乞食させるとかまで言われる、それだと目に見えでかわいそうだとなるから施しを受けやすくなるからである。
原発事故は何かそうして目に見えて被害が悲惨なものとならないから結局内部ですら団結もできなかったのである。
もし被害が目に見えてバタバタは死んだとかなったら補償金がどうだこうだとか言っていられない、みんな団結して戦っていたことはまちがいないのである。
それは国民全部に言える、なんだ原発事故はたいしたことないじゃないか、一人も死んでいない、何が被害なんだとか見えてしまうのである。
その被害を実感するのには

福島県産のものを食べろ

それが被害を国民が実感することだったのである。こんなもの放射能に汚染されたもを食べさせるのか?
そうは言ってもそれが国民の原発をもった共同責任なのである。それで原発の被害を実感することなのである。

posted by 老鶯 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連