2016年10月18日

文化が育成される場所 (土着する場と外部との交流がある場所)


文化が育成される場所


(土着する場と外部との交流がある場所)


一つの民族をそれぞれの氏族および身分の中で有機的に組織だてこれらを一定の狭い郷土に永住させること、すなわち高度の土着が必要である。

何らの異系支配も行われず永い間同系内で交配された種族、あるいは民族は非常に有能な民であっても天才を生むことは驚くほど少ない
スパルタなどがそうである。
ところがこれらの種族が開港都市など占領したり、貿易の目的でその中に入り込んだり、彼らに適合する同じく才能ある他種族と強く混交すると何百年か後に全く突然に天才が輩出する。
(天才の心理学ークレッチュマー)


文化はculture-cultivateであり耕す場がそもそもないと育成されない、歴史をふりかえっても奈良時代に文化が華咲いたというときそこは狭い場所である。
土着的なものが養われた場所である。それは万葉集に結晶した。
一方で中国と唐と交流があったときであり外国の文化をとりいれたことにより文化が華咲く場所となった。最近平城宮の役人にイラン人がいたとか木簡に名前が発見され話題になった。奈良は国際都市の様相を帯びていたのである。
つまり日本の土着的なものと唐の文化が混交して文化が華開いたのである。

土着的な場をもたないと文化は華開かない、それはなぜなのか?
土着するということは自然と深くアイディンティティ化することである。
人間の霊感は自然から受けるからである。
だから海には海の文化が生まれ山に山の文化が生まれる
日本にないのは川の文化である。大陸では長い大きな川がどこでもありそれは運河にもなり交通路になっていたのである。
インドのヒンズー教がガンジス川から生まれというときもそうであり中国でも黄河や揚子江から生まれエジプト文明はナイル川から生まれドイツの文化は父なるライン川から生まれたとかなる。

ドイツをみるとドイツの文化が音楽と哲学とか思索とかに優れているのはなぜか?
それは北方的風土であり暗いゲルマンの森であり霧が多い暗い風土にある。
それがゴシックの教会となり荘重な深い哲学と音楽が生まれた風土なのである。
プロテスタントになるのもそういう北方の風土の影響なのである。
人種的アングロサクソンとかゲルマンとなり体格が良くて背が高い、でもローマとか南方系が背が低いとかあり人種的にかなり異なっていたのである。

日本の文化も縄文人がいて外来の弥生人と交配して作られたのだから日本は島国でも外国との交わりはありそれで文化は形成されてきた。
ただヨーロッパの強みは様々な人種でも文化でも交配して交わってきたことである。
ヨーロッパに都市が一つの国となり栄えた、フィレンツのように都市国家が形成されたのもそのためである。都市国家とは外来のものと土着的なものとが一体化した社会である。そういう都市国家ができたのは川が交通路になり貿易が行われ人の交流があったからとなるヨーロッパの多様性が多くの天才を輩出したのである。

経済力は、新植民地の成長によって力をつけていきました。商業と貿易は、主要ルート、地理的位置と水路のおかげで繁栄しました。ピサから戻った商人たちによって、東方の商人や、イリス神話、2世紀はキリスト教について伝えられもしました。

そもそもヨーロッパは実際は世界の辺境であった。文明が最初に生まれたのはユーフラテス川のメソホタミアでありここが最古の文明でありエジプト文明があった。
そしてイスラム文明が起こり科学とか数学でも代数学とかはイスラム文明からヨーロッパに入ってきたのである。その前は紙でも羅針盤でも火薬など技術は中国などから入ってきた。その時ヨーロッパは先進国ではなかったのである。
ヨーロッパ文明はそういう回りの先進文化を吸収して発展したのである。
異種交配が文化を生むというのは世界史的にもそうなのである。
同じ系統のものが交配をくりかえして同じ所にいれば文化でも経済でも停滞してくる
一方で同じ場所で自然との深い交流がありアイディンティティを作ってゆく場所がなければ文化は生まれないのである。
日本のアイディンティティが奈良とか大阪京都で作られてきたのはそのためである。

現代の問題がグローバル化社会というとき外部に拡散する社会である。
でも欠けているのが内部への土着性なのである。どこでも土着的なものが失われて地方が経済的にも文化的にも衰退しているのである。
だからこうしたグローバル経済の反動はして里山資本主義とかなんとか地方に根ざすことも志向されてゆく、東京は土着性が全くない、ただ肥大化した経済のみがある場所であるそこからは文化は生まれないのである。奈良とか京都ととなるとそこにはまだ日本的土着性があり文化が生まれたのである。

現代は日本でも明治以降強圧的な中央集権となり地方がないがしろにされた。
封建時代の方が城があり独自の地域の文化を形成してきたのである。
だから江戸時代は見直されるべき時代なのである。
300年の鎖国時代でもそこに日本的土着性が養われていたからである。
それで明治維新が成功したのはそういう基盤があり近代化にそれほど抵抗がなく移れたという説もある。鎖国であっても外国の文化をとりいれる素地をもっていたとなる
明治というとき日本的土着的なものが強く残存していたからその時文化が華開いたとなるその後は日本の土着性が失われて文化が衰退して戦争になり疲弊してまた戦後は高度成長などで経済的には復興したが停滞するようになった。
その間に地方の土着性は失われ地方は衰退したのである。
その象徴としてこの辺で原発事故が起きたともなる

まず文化というとき土着性がないと生まれない、詩にしても絵にしても芸術となるとそうである。ヘルダーリンの詩はドイツという国の土着性2から生まれていた。
それが愛国心の高揚にもなっていた。そういう土着性が喪失してゆくのを嘆いたのが後のシュヘングラーとかニーチエとかである。それは世界的なものであるが土着性が失われ文化を失われることを嘆いたのである。
グローバル経済とか多国籍企業社会は車であれカメラであれ一部品を作るのであり文化は総体的なものトータルにかかわるものだからそれが文化の普及にはならない
でもコンピュターとかデジタルカメラとかは新しい文化を生んだことは言える
自分がしているソフトに変化させる抽象画がそうだった。それは新しい文化の創造でもあったからである。インターネットから生まれた文化創造だとは言える

ともかく旅行して面白いのはヨーロッパにあるが歴史が複雑であり錯綜しているからもっと歴史がわかればもっと興味深いものとなる、それは一度くらい行っても理解できないとなる。ただ地理的にフィレンツとピサまで電車で一時間くらいで行ったようだから距離的に近いなと感じる、それでまず歴史の理解が地理にあるということなのである。
旅をして現地を実際踏めばその地理が具体的に五感でわかるから理解が深まるのである。いづれにしろ場所から生まれる場所の精神がある。
日本でもその場所を神聖化したのが社であり鎮守の杜なのである。

私は、人間というものを理解する上で、民族というものを理解する上で、或いは文化というものを理解する上で、「場所」とか「風土」というものが 何よりも大切であると考えている。この場合、人びとにとって、実際的には、その場所を理解するといっても容易ではなく、何はともあれそこに行くこと、そこ で楽しむこと、そこで実際に人々や歴史や自然と響き合うことである

共同体や無意識は、固有環境とちがって、ふつういう意味での空間的な場所を形づくるものではない。が、それらは、意識的自我がそこにおいて成り立 つ場あるいは場所を形づくっている。つまり、共同体、無意識、固有環境のいずれにもいえることは、それらが人間的自己にとって、基体としての場所、場所 (基体) だということである。

つまり人間はアイディンティティを作る場所がないとき根なし草になり文化のないただ経済だけの産業だけの労働機械になる。グローバル経済とか多国籍企業社会もそうである。現代人はすでに金ゝ物ゝ人という関係になっている。マルクスもまたそうした人間が人間でなくなるということを経済的に理論化したものだったのである。
その底辺は人間の危機を訴えた現代のアウトサイダーの思想家と一致するのである。
全然違ったように見えても同じものが底辺にある

日本でも物(もの)はものが憑くとか物心とかもの思うとかものは心と一体のものとしてとらえていたのである。ものと心は分離してはならないものだったのである。
それは例えば医療でも心と物は分離しているのである。
医者が薬を飲ませるとき看護師でもいいが何かこの薬を飲むと良くなりますよはいうときその人の病気が直ってほしいとか何かその人に対して愛の心をもたないとその薬に物も生きてこないのかもしれない、食べ物でも人に与えるときこれ食べると体にいいですよというときそこに心を込めて与えると本当に体に良いと感じる
ところが現代はそうした家族的関係から離れた金ゝ物ゝ人になっているからそうして物と心は分離しているのである。
地球の裏側から物が食べ物でも入ってきても物だけが入ってきて心がそれに感じることができないのである。

病院でも高価な最新式の機械が備えている、でもその機械は冷たいものでありその道具にも心が入らないと活きてこないものかもしれない、今では機械がコンピュターが人間の病気を診断するとまでなる、でも機械とかコンピュターには人間の心がないのである。
コンピュターを利用するにしても人間の心は機械化したりコンピュター化できないのである。現代ではそうして物と心の分離があり病院はもう人間をみる所ではない、人間が物としてみられてかたづけられる場所である。病院で死んでもその死者は物であり供養もない、早くかたづけて下さいしかない冷たい場所なのである。
そして金の計算だけしている冷酷な場所だともなる。それは現代社会全般的に言えることである。金がすべてだというときそうであり人間の価値はすべて金で計られものとなっているからだ。
だからそううい経済がグローバル経済は何か限界にきている、非人間的なものとなっている、何か世界的に無理があるかこらこそもう資本主義は限界だ機能しないとか盛んに言われるようになった。極端な格差社会を作りだしことでもそうである。


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広域化グローバル資本主義の限界 (原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


広域化グローバル資本主義の限界


(原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


「われわれのだれもが、面識のない人びと、その存在についてさえ知らない人びとの役に立っており、ひるがえって、まったく知らない他の人びとのサービスのうえに生きているのである。


人間を経済学的な面からみると最近考えたことはこの辺でも地元の人が作った果物とか野菜とか花を売る市がたつ、そこで最初に買ってもらったリンゴがなんともうまかったのである。
今までは二種類しか紅玉リンゴとフジリンゴしかスーパーでは売っていないので食べていない、それは地元産にしては甘いし不思議な味だった。これなら高くてもいいと思った
スーパーの二倍はしていた。
ところが次に買ってもらったのは小粒であり紅玉リンゴでありスーパーでいつも安く売られいるものである。それは三倍の値段だった。
地元の市の方がなんでも高い、でもその時感じたことは「なんでこんな安いリンゴが三倍の値段なのだ」という怒りにすらなる
人間は値段に敏感だからだ。ただこういうことは現代の経済の矛盾である。
地元産を買うのは地元の人を優先している、地元のものを買うことは地元が経済的に豊かになれば回り回って自分も豊かになる。そういうのが今までの経済だったのである。

現代の経済では何が起きているのか?

金ゝ物ゝ人

人間がいるとしてもその人間より物が価値がある、物を通して人間の価値が計られる
「なんだ、こんな普通の安いリンゴを三倍の値段で売るのか、こんなのしかここでは作れないのか?」となりその人間の価値が計られその人間自体の価値の低下につながっているのである。
でも地元になると地元で生きるのだから地元のことを大事にするということはあるが現実問題として広域化グローバル経済になるとそうはならない

この辺でつくづく考えさせられたことはそのことである。今でも復興住宅を建てる人は九州から北海道からも来ている。それがなぜなのかよくわからない。
建売住宅の場合は仙台の人が来て作っているからである。復興住宅は政府が関係しているから全国から来ているのかもしれない、その会社では熊本でも地震の被害がありこれと同じような復興住宅を建てているというからだ。
その会社の説明ではこうした復興住宅を広めるためだとも言っていたからである。
ともかち除染関係でも全国から来ている
そして地元で働いている人は少ないのである。9割くらいは外部の者によって復興事業が成されているのである。ボランティアもそうである。
そして地元の人は毎日パチンコ屋通いだとか遊んでいたのである。
これもおかしな現代の矛盾なのである。

一方で地元の人でも仙台に車で朝早く通って建築関係で働いている人もいる
また広域的に仕事をしないともうからないとかで建築関係では全国に仕事を展開した人はそもそも個人では無理であり事業に失敗した。
今の経済はこうしして広域的でありグローバル経済になっているとき地元に土着するという感覚がない、それで地元に愛着する愛郷心も希薄化したともなる
普通家を建てるときたいだい地元の大工とかでしていた。するとこの家は自分達が建てたとかわかる、建ててもらった人も地元の大工に世話になったとかなる

でも建売住宅だとそういうことが全くない、自分がこの家を建てた、仕事したけどその家に入る人とは何の関係もない、別にその家建てたからといってその家の人に感謝もなにもない、第一建てたらあとは遠くから来ているのだから関係しない、ただ復興住宅は地元の大工もかかわっているからその人たちはかかわるがほとんどは外部の人で建てたのであるそこで報酬は金しかない、会社からもらう金が仕事の報酬でありその他はないのである。一般的に今の経済はみなそうである。地球の裏側から食料でも物が入ってきたからと言ってその人のことはわからないのである。
ただいいものだったら買う、すべては値段で決まる、いいもので高いとしても買う人はいる、金のある人は買う、ない人はいくらいいものでも買えないというのが現代の経済である。
すると金ゝ物ゝ人の原理が働いてくる、人間の価値は金で計られる、三倍もして小粒の味の良くないリンゴをいくら地元産だからと買わない,それよりそのことによって地元の価値の低下と人間の価値の低下が起きているのである。
「この土地ではこんなものしかとれないのか、この土地に住んでいる人間は価値がない、劣っている」とまでなる。

現代とは文明とは物の価値でもそうだが人間の価値が低下したのである。
機械によっても人間の価値は低下する、機械の方が仕事ができることがあるからそうなるロボットが仕事するようにるなと人間自体がいらない、人間はもう雇う方にとっていらないとなってしまう。それはとりもなおさず人間の価値が極端に低下したことなのである。本一冊作るにも今までだったら活字を拾っていた仕事があり様々な行程で作られてきた。でも電子本とかなるとその行程もない、人間の手はほとんどなく簡単に作られてしまうのである。そこで人間はいらなくなり失業者が増えるともなる
そしてもう人間の仕事がなくなる、機械が人間の代わりに仕事するからとなり人間はどうするのかとなると、ベーシックインカムで金を提供するということが現実に外国では行われたのである。

この辺で起きたこと原発事故で放射能で人が住めなくなったこともあるが何かそこにはまた別な要因があった。広域化グローバル経済というのは昔のように80パーセントが農業していたという世界とはあまりにも違うのである。
第一次産業の割合一割にみたないのである。だからこそ原発の比重がこの辺では大きくなっていたのである。東電に地元が買い取られていた、東電の社員化していたともなる
東京の東電の社員寮に入ったりしたものもいるから社員と同じであった。
それだけ東電にしめる経済の比重が大きくなっていたからそうなる。
つまり米とか野菜とか魚でも木材でも東電の電気が価値があるという世界である。
そうだからこそ原発は電気を産み出すのだから一番価値があるとなっていたのである。
東電社員もそのために原発事故前は威張っていたとかうらやましがられていたのてある

ともかく地元に故郷に帰らないというとき何か原発事故とか放射能被害とかそれだけでとはない現代の社会が影響してそうなったともみれる。
広域化グローバル経済になれば一地域の経済で生きているのではないから解体しやすいとうことがある。極端なのは日本だけに留まらないで金持ちは外国に住むとか世界的にも起きる、金さえあればどこでも暮らせるとなるとそうなってしまうのある。
そこでは人間が物に金にのみ換算される、計られる世界だからそうなる
それがマルクスが指摘した物神化のことである
またそれに反発して市場原理の働かない、ハイエクの経済観である。

資本主義が限界だとういうときグローバル経済でも限界になる。その矛盾も大きくなっている。そして新しい世界が求められている
それが何なのかというとき人間が人間的に暮らせる社会である。
シェアリング経済というのもそうかもしれない、シェアするというのは新しい共同をコミニュティを作ることの模索なのかもしれない、現代経済は極端化した金ゝ物ゝ人になってしまったのである。

番町皿屋敷のように大事な皿を割ったからと下女を責めてしなせたというのもまた別に今だからではなく人より物が大事だということはあった。
自分も経験しているがそういうことは常にあるし家の中で働く人は何か家族的な関係になる、下女はロボットではないからである。
物の方だ人間より大事だということは昔もあった。だから現代の金ゝ物ゝ人が昔にもなかったのかということではない、ただそれが世界的になり何か地元が故郷すら消失してゆく要因ともなっていた、それはどうしても原発事故だけが原因になっているようにも見えないのである。

要するに資本主義の限界とかグローバル経済の矛盾とか広域社会による人間の離散化とかは何か現代の文明社会の行き詰まりとして現れた。
もう経済成長は無理だとか経済もゼロ成長でありそれに見合った社会にするとかもそうである。それは金ゝ物ゝ人が極端化した反動としてそうなっているのである。
何かグローバル経済でも非人間化するものがある、そもそも全然知らない地球の裏側の人に働くこと自体が非人間的だともなる
そうなると金しかないし抽象的なものとてしの人間しかない、具体的な生々しい人間はそこになくなる、物と金に還元された関係でしかありえないのである。
そういう矛盾が原発事故が原因になっていてもそれだけではない、そういう社会状況が拍車をかけて離散したとも見れる


posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題