2016年10月31日

介護は死から供養へと通じている (納得してくれる介護をしないと供養もできなくなる)


介護は死から供養へと通じている


(納得してくれる介護をしないと供養もできなくなる)


老人の介護となるときそれがふりかえると死ぬことに通じてその後の死者の供養にも通じている
死んでゆくことわかっている、だから介護と死者の供養は一体ともなっていた。
介護はみんな嫌だとなるが介護しないとまた死んでから後味悪いものとなる。
それで介護のときは嫌だとなりしたくないとなる、それもわかるが死んでみるとなぜもっと介護してやらなかったのか、親切にできなかったのかとみんな言う。
介護は人によって家族によってもみんな事情が違うから色々なのである。

自分の場合は特に良くしてもらったから必死になって介護した。
認知症になっても介護した。それで最後にわかってくれたこともあり介護して良かったなとつくづく思う。
そうしなければ相当に悔やんだことになる

なぜなら死んだらもう何もできない

この厳粛な事実を知る、死んだ人にはもう何もできない

こうしてしいれば良かったとかなんとか言ってももう死んだ人には何もできない、生きているときしかできない、そこに介護でも苦しいのだがないがしろにもできない事情があるただこう思うのは家族くらいであり家族でもそう思わない人はいる
親に苦しめられただけの人もいるからだ。
だから介護にはそうした家族の事情がありみんな違ったものになる
ただ施設の介護士などはそうした動機がもてないのである。
ただいくら金をもらってやるしかないとしたらそうなる
なぜいくらの金で安月給でこの人を介護しなければならないのかとなるからだ。

介護と死と供養は一連のものとしてつながっている、いくら良く介護したとしても死に向かっているのが介護だからである。
そして死んでみるともう何もできない、そこで供養するとなるのだがこれも実は介護と関係していたのである。
介護でも何か苦しいけど介護しないと何もしてくれなかったとか親切にしてくれなかったとか恨みを残すかもしれない、それは人によって個々の事情があり違ったものになる。
親戚の人は複雑な事情があるにしろ実の親でとないにしろずっと長く世話したのである。問題はあるにしろそうだった。後でもめたにしろそういう人を全く世話しなかった。
それで「ひどい娘だわ」と恨みを残して死んでいったのである。
その女性にも問題があり自分の家でも良く思っていなかったがその娘が自分の家にきて
「おばちゃんは金あるんだから金でめんをとみてもらへ」と血相変えて去って行った
その人は何も別に自分の家に来て何もする必要がなかったのである。
何もこちらで要求したこともない、要求できないことはわかっていたからである。
あの人はやはり苦労がたりなかったのかとも思う
今はどう思っているかわからない。

考えてみると人間が老いるということ死ぬということそれはもう若いときは二度ともどってこない、時間はもどってこない、あの時こうすれば良かったとかいくら後悔しても時間はもどらないのである。
何かそれと介護とかもにている、死んでからいくらもっと親切にすれば良かったと言っても相手は死んでいるのだから何もできないのである。
ではその後供養するとき、恨みを残したような人に供養できるのかとなる
墓参りしたとしても外からはあの人は供養していると見えても死んだ人はどう思っているのか、あなたはひどい娘だったと言って死んだ人に供養できるのかとなる

自分は苦しかったけどなんとか介護してわかってもらった、だから死んだ家族はそのことをわかってくれると思う
特別良くしたもらった自分だから当然ではあった。
死んだ家族でもそういうことを納得してくれれば供養しても死者と心が通じるとなる
だから介護の問題のむずかしさは介護から死から供養と一連のものとしてあることなのだそこに介護のむずかしさがあったのである。
意外とこのことが後で深刻なものになるかもしれない、なぜならもっと良くしてやりたかったとか親切にしてやりたかったと思ってもできないからである。
だから介護は苦しいのだけどないがしろにもできないことが死んでみてわかる

一期一会とか人間は死ぬからこそ生きている時間を大切にしなければならない、そのことが自覚できない、いつまでも生きているように思っているのである。
ともかく自分はなんとか介護したから心から手をあわせて供養できる
死者もそのことをわかってくれると思うとき心が休まる
何かこれは良心的な問題でもあった。死んでからもっと親切にすれば良かったとか思ってもできない、すると良心がいたむのである。
その良心は外面をいくら装っても偽ることができないのである。
死者はできなくてもなにもに語らなくても見ているという怖さがあるのだ。
死者には偽ることができないのである。

良い介護といってもそんなにはできない、自分はしなかったけど相手は介護してくれたなと見て死んでいったと思う。別に自分だけが介護するということでもない、問題は介護されている方がそれなりに納得してくれるることである。
介護でもきりがなくなる、別に胃ろうなどしなくてもそこで死んでも良くやってくれと思われることである。
恨みを残すようだったらあとで供養もできなくなる怖さが介護にはある。
自分は納得してもらったから死者に供養ができる、死者もわかってくれるということが偽りではなく死んでも心が通じていると思い供養できるのである。
人間は極限られた時間に生きるということを自覚できないのである。
そのことが人間の生をおろそかにする一番の原因だったのである。



タグ:介護と供養

高齢化社会に合わない車社会 (認知症の事故もこれから増える)


高齢化社会に合わない車社会

(認知症の事故もこれから増える)

ecologyyy11.jpg

TTTTTTTTTTT345.jpg

しかし認知症高齢者の自動車運転による事故は後を絶たず、認知症と診断されながら車の運転を続けている人は、予想以上に多いとみられている。とくにそれは、ほかに交通手段のない地方で顕著であるということだ。

車社会というのが高齢化社会に向かないものになった。それでも田舎でも車なしでは生活できない、街から離れて暮らす人が多いし田舎では一人一台車をもっている
だから80歳以上でも車を運転している人が多い、農業するにも軽トラックが必要になる
田舎の方がエネルギーを消費する量が多く省エネではないというのもわかる
つまり車のエネルギー消費は膨大なのである。

車はまた人間の精神にも相当に影響した、車を歩くことと自転車とか電車と比べてもその影響するものが大きかった。
キレルというとき老人が切れやすいとか言われるようになったがそもそもそれは老人だけではない、車社会が切れやすい人間を大量生産したのである。
自転車は車にとって目障りである、突然横切ったりするからである。
だから何回もどなられた、「馬鹿野郎」とかどなり走りさってゆく
それは自転車にも非があるのだが車優先社会だからそうなっている
車は人間が中にいるということも外から認識しにくいのである。
ただ車という物体が高速で突っ走る、その中に人間がいるということも認識しにくい
切れやすい人間を作るというとき車という道具がそうしたのである。

例えば人間は牛馬を使っていきときは牛馬は生き物であり牛馬のリズムがありそれに人間が従う、時間も牛馬のリズムになり急がせることができない、そして牛馬は生き物だから人間の情が通じ合う、それで馬と娘が結婚したとういう民話が生れる、曲屋で家族のように暮らしていれば当然そうなる。
つまり車社会とは全然違ったものとして構成された社会だったのである。
その時動物と交わるから動物も生き物だから人間も情が豊かになる、今はこれほどペットブームになるのはそうした情が育まれるものがなくなったからである。
車を相手にしては便利でも情が育まれないからである。

旅をするにしても歩く旅と車の旅とか電車の旅とか船の旅でも相当に感覚的に違っている一番記憶に残るのは歩くたびである。でも現代はそれができない、車社会にのみこまれてしうまからである。
外から見ていても歩いて旅している人がいればあの人は旅人なのだなと見る。
するとそこで旅人があるいてゆくということで俳句になったりする
つまり歩くことは今や何か特殊な絵になる光景にもなっているのだ。
なぜなら道路に見るのは接するのは車だけだからである
江戸時代の浮世絵を見ればみんな歩いている姿でありそれが絵になっている
歩く旅が一番人間にとって自然な姿なのである。

これまでは自然のリズムと人間のリズムがかけはなれたものではないものだった。
乗り物でも船になると海でも川でもゆっくりすすむ、早くすすめないのである。
船でも帆船だったら風の影響があり風に左右されることは自然の影響を受けることになる何か自分が旅をしてきたが船旅が好きになったのはゆっくりしているからである。
たた船旅は時間がかかるからよほど暇な人でないとできないのである。
電車の旅でもずいぶんしたけど早すぎるのである。それで車窓から見た景色は記憶に残りにくい、それでなぜか駅名だけが記憶に残ったりしているのである。
電車の旅では意外と記憶に残るのが駅で待つ時間なのである。
昔の駅舎はなにか郷愁がある。そこは出会いと別れの場であり人間臭い場所だったのである。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

上野駅すらこういう場所だったのである。これが新幹線の時代になると出会いと別れといっても何か待つ時間がないからそういう人間的なものがなくなる。効率を追求すると人間的なものがなくなるのである。経済的効率、時間の効率を極限まで計ってきたのが人間である。結果として人間がそこで奪われたものが多い、切れやすいというとき出会い分かれる人間的場も失われたのである。
街道に分去(わかれさり)という地名が残るときそこで人と人は分かれもう永遠に合わないということがあるから印象的な場となっていたのである。
そういう場は今はなくなった。ただ車は人間を無視して突っ走ってゆくだけである。
人間関係はキレルのである。

楽だ楽だと言ってエスカレターを利用していると子供もそれに右ならへしていると最後に石油がなくなってすでに脚が弱っていて使えず石油がないから電気も不足する事態が予想されるーエコロジー幻想(武田邦彦)

この本では著者が座っているとカルシムが消失してゆくとか便利なものに頼ることがかえって人間の力は消失してゆくと言っている
そういう文明の矛盾は科学者でも思想家でも常に指摘されてきたことである。
文明はともかく莫大なエネルギーの消費でありまた原発事故でもわかったようにそうして便利なエネルギーを追求することは自然破壊になった。
ソーラーパネルでもその光を電気にするためにはシリコンなど有害物質を作り出すことによって二酸化炭素を増やしているという。

原発事故では人間の生活そのものもを見直すことが強いられたのである。つまり原発も効率的にエネルギーを得るのにいいものとされていた。それもまた非常に危険なものだったからそうはならなかった。
肝心の土も水も汚染されたら住めなくなったからである。
いづれにしろ高齢化社会に車社会は合っていないのである。もう80過ぎたら運転は危険になる。でも車を手放すことができない、現代で車をもたないとか運転できないということはその能力さえないものとさされる
結婚するにしても車の運転もできないのそんな人とはねとかなる
車をもたないものは変わりものなのである。現実車をもたない人は能力的劣っている人も確かに多いから何か変な奴だともなっているのである。

自分が自転車にのっているのは何か自分は実際に車でもバイクでも運転すると危険だからである。いつも考えことしているからである。
自転車だと走りながら考えることができる、でも車だと何か外の景色を見て鑑賞することもできない、常に運転することに集中しなければならないからである。
何か考えことするようだと即事故になってしまうからである。
高齢化社会というとき負の面だけが強調されるがいい面として高齢者にあった生活は人間的なのである。スロー社会とかいろんな所で高齢者向きのものになるとそれは若者にとっても住みいいものになる、人間的な情でも人間関係でもそうである。
そうなると鬱病なども減るということになる。
車社会を全面的に否定はできないが何か減らすことが必要なことは確かなのである。
現代は物でもなんでも増やすことではない減らすこが望まれているのである。
効率的でなくても減らすことでもかえって人間的になり豊かになるという逆説の社会になっている、それで経済成長しないから困る、消費が増えないから困るというのは今までの企業優先の社会であり売る方の論理でありそれを変えねばならないのである。