2016年11月30日

鹿島区の新住宅街に住んでいるのは外部の人たち (大熊や双葉や浪江の人たちらしい)


鹿島区の新住宅街に住んでいるのは外部の人たち

(大熊や双葉や浪江の人たちらしい)

rivivalllll111.jpg

高級住宅街は庭も広いし家も大きいから5000万では建てられない
一億近くかかっているのもあるかもしれない
2600まんととすると差が歴然としている

2500万の建て売り住宅街はダイユーの近くにできている

 

鹿島区でも原町でもそうだがまず新しい家が次々に建った、鹿島区だけでも何百軒も建った。新しい街がいくつもできた感じである。
まるで住宅の展覧会場になっている、だから毎日その新しい家を見るのが日課になる
みんな家が違っているからである。

ただ不思議なのはどういう人が入っているのか?それが不思議だった。
船主で磯部の人が入っているというのは本当だろう。
これだけ新しい家を建てるとなるとそれなりの金が必要である。
大熊とか双葉とかでは帰れない場所がありそこの補償金は高くなるからだ。
それで小高の人が浪江とでは補償金は五〇〇〇万違うとか言っていた。
その人は小高に家を建てたという、それは母親が小高に住みたいということで小さな平屋を建てたのである。他に小高では家を新築した人がいる
それだけの金が入ってきたこともある。飯館辺りでも新しい倉を建てたとか金が入ってきたので新しく建てた人も結構いる。

ただ金に恵まれたのは船主とかて大熊双葉とか浪江でも帰還できない場所に住んでいた人たちである。その差が五〇〇〇万あるとか噂になるのもそのためである。
要するにこの辺では補償金でずっとどこでももめてきたのである。
それはここだけではない福島県内でもそうであり横浜のような自主避難者まで子供がいじにあったということでもわかるように原発避難者に対する風当たりは強いのである。
このことはあまり公然と口に出せない、だから子供のいじとか陰湿なものとなる。
子供がそうしているではなく横浜なんか関係ないと思っても大人がそういうことを言うから子供がそうなる。
だからこれは全国的な問題なのである。

それが一番具体的に表面化したのがいわきだったのである。なにしろ二万人も移住して新しい家を建てたらとをなるのか?その規模も大きいから目だつ、ここだって立つのである
なんでこんな立派な家が建つのだろとなるからだ。そんなに金をもっていたのかとなるからだ。
海老の人でも右田の人でも烏の人でも津波にあった人たちがみんな船主ではない、だから前から磯部でも回りの人たちが立派な家を建てているから不満だったのである。
漁業権はおおきな権利だからである。もし漁師が反対すれば原発は建てられなかったのである。
そのことはこの辺では自分でもわからなかった、ただ近くの人はそういうことに敏感だからそれを見てねたんでいたのである。

とにかく日本みたいな狭い所に住んでいると隣に蔵がたつと腹がたつ社会である。
自分でも高度成長の早い時期に大きな家を建てたから回りからねたまれた。そのあとはみんな新しい家を建てたからそういうことはなくなった。
この辺で一番はぶりが良かったのは漁業権を原発に売り渡した船主などであった。
田からそういう人は原発あとも手厚い補償金があるから生活に困らないのである。
かえって汚染水の保証とかで補償金が増えたことあるかもしれない。

ただ補償金といってもこれも内部でももめている、だからこの補償金が一番問題だった。第一放射能汚染で細かく区分けしたことである。くそれで隣が多くもらってこっちはもらえないとか三〇キロ圏内でもらってその外はもらえないとか区切られてもたのである。
それより補償金など全くもらえない所の方が多かったのである。
相馬市など放射線量はたいして変わらなくても全くもらえなかったのである。
そこにも原発避難者がいて不満が大きいが表立ってはいわなだけである。
それを言うと「お前は傷口を塩ぬって楽しいか」とか波風がたち補償金をもらった人たちが責めてくる。お前には人間の情もないのかとかなる。

でも南相馬市では同じ相馬藩内でいわきのよヴは今は表立ってはそ不満は現れていない
でも復興住宅とかに福島県内の仮設を出て原町とか鹿島とか移りはじめている
そうすると何かやはりいわきのような軋轢が生まれかもしれない。
ただいわきは規模が大きすぎたのである。でも原町の県営住宅の復興住宅は雲雀が原で五階建てのビルである。それに大熊とか浪江とか外部の人たちが移ってくる
その数が大きいとなると軋轢が生まれるからもしれない、だから今になって原発はとてもそこで建てた双葉であれ大熊であれ富岡であれ狭い範囲の問題ではない、広い範囲で考えねばならない問題だったのである。

いわきでは住民票を移さないでいわきの住民にならないで税金を払わないとか問題になった。南相馬市でもそうなるかもしれない、南相馬市の住民にならないのは補償金をもらえなくなるからそうなる。
ただ浪江などは来年で補償金が打ち切られるとかなりこれも今後の問題になる。働く場が確保できるきかという問題もでてくる。そして最大の問題は復興住宅でも入るのは老人が多いのである。若い人たちは東京に行って就職して帰らないとか仙台の方に行って帰らないというのが多いのである。
取り残されたきは老人であり小高でも飯館村でも浪江でも残るのが老人となるとシルバータウンとか街自体が老人ホームのようになってしまう

原発事故が広域的だいうときそもそも放射線量で区切るのには無理があった。
便宜上、政府の都合でそうしたにすぎない、現実に室原ダムがあり小高ではそこから田んぼのたの水をひいているというときその水は泥となって流れて田んぼに流れるから放射能汚染する。それも大地はつながっているからである。
飯館村が南相馬市とか相馬市と関係ないなどならない、現実に真野ダムの水を利用しているからである。だから放射線量では細分化できないものだったのである。

原発問題を被害者にもなっているから追求してきたけどこの問題は広域的な問題でありその配慮が欠けていた。原発を建てる所有者と県で決められたとかなると信じられないとなる。そんな問題ではなかった。
でも小高で東北電力で原発が建てる計画があり工事が始まると頃だったのである。
そんなこと知らない人が多かった。自分も知らなかったのである。
要するに知らない内に原発が建てられるということである。
それは狭い範囲のこととして処理されるからそうなっていたのである。
小高町と原町市は合併前は別であり原町市で原発に反対だとしてもそれは小高町で決めることだとなってしまう、そういうふうにして大熊とか双葉とか富岡では原発を建てることに外部から文句が言えなかったのである。
そして事故後に今度はみんな避難してきて立派な家を建てたらこれは何なのだろうとなるだろう。
事故前も得して事故後も得している、手厚い補償がある。でも南相馬市でも確かに原発で働いていた人は多いにしろそんなに恩恵があったとはいえない、だからそういう人たちに不満がでてくる
特に相馬市は何ももらっていないから不満が大きくなる

それよりそれが税金で払われるというとき横浜市のような自主避難者にまで回りで見ていていじめになった。それは神奈川県とか横浜の特殊性であると指摘する人もいる。
でも全国的に膨大な原発事故の補償金を税金から払うことに不満な人たちがいるからこそおきることである。
それは内部でもそうだしそのことを考えると軋轢が生じるのも当然だとなる
posted by 老鶯 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

ことわざは人間の普遍的真理 (損して得をとれ)


ことわざは人間の普遍的真理


(損して得をとれ)

何かこの十年社会経験を積んだ、社会経験が自分にはたりなかった。それで何か自分には欠けていた。
三〇年間くらい社会から離れて生活していたからである。どういうわけかそういう環境にあり社会知らずにすんでいたのである。
ということはあまり社会の悪い面を見ずにすんでいたし悪に染まるということもなかったそれはいい面と悪い面がかならずでてくる
社会と交わらないで生活していると不思議にみんないい人だと思ってしまうのである。
学者の問題は浮世離れになり現実の生活が見えなくなることである。
それ理系の研究者などならかまわないが文系となると社会経験がないの致命的である。
象牙お塔とかで学者は社会の実体験をしていないから浮世離れになり非現実的世界にとじこもることにもなる
何か官僚などでも東大閥とかで法律分野関係が独占してそれが日本をおかしくしているというのもそうである。
大岡裁きとかあるけど裁判などは相当に人間に通じていないとできないだろう。
ただ法律だけでは相手が人間なのだからできない、情がなく理だけではできないのであるだから人生経験が豊かでないとできないということがある。
でも大学からすぐに司法関係に就職すると社会を知らないままに人間を知らないままに専門職となり何か現実社会とはかけはなれた見方をするようにもなる

「法匪」というのもそういうものだろう

匪とは賊に近い意味の言葉で,匪賊という言葉もあります。
昔,中国共産党は赤匪と罵倒されていました。
法匪とは,法律知識を悪用する法曹関係者に対する罵倒語です。

法をたてにして悪さをする、弁護士などもそういうことがある

社会というのは人間そのものが変わらないから諺(ことわざ)に真理がある。
もしこれだけ文明的に進歩したとなれば人間そのものが変わりそんな昔からの諺はすたれているはずだからである。
人間は例え飛行機にのり電車にのり車にのりスマホで通信してパソコンを操っていてもその本質は変わらないから諺は今でも生々しく生きている

今回の銀行の投資信託でもそうだった。

「魚心あれば水心」となる

こういうのは相手がもうかりますよというときそれを聞いている人ももうけたいからそれにのってくる。もし別に自分はもうけたくない、金はこれ以上ふやす必要はない、今あるだけで十分だと思っていればそうした勧誘にはひっかからないのである
だからこそ何か売りつけるとかのときは魚心あれば水心なのである。

こういう諺は長い人間生活の中で誰言うともなく普遍的なものになっていったのである。
「損して得をとれ」

これも何か商売している人たちが長年の経験の積み重ねで納得するものとなった。
商売というのもそれも長年の経験がないと理解できない、商売上手というとき単に人をだまして売りつけるだけではつづかないだろう。
だから大阪や近江商人が有名なのはそういう積み重ねの結果として会得した商売の心得が生れた。それは単にもうけるということだけでは商売がうまくいかないからである。

その人は理系分野ではすぐれていても経営となると商売の要素が大きく入ってくる
その人は最初から絶対損をしてやるものかと身構えてきた。
もちろん借金しているから追い詰められているからそうなったこともあるが
自分が苦しみ病気になっていても介護でもそれを商売にして取引してきたのである。
だからその人はもう絶対損してはいられないという態度で接してきたのである。
何か商売しているうちにそういう態度が身についたのかもしれない、相手が苦しい時がチャンスと取引として商売とて接してきた。
だから「損して得をとれ」などありえない、得することしか頭にないのである。
それで自分は苦しめられたのである。
だから商売で人格が変わってしまったとなる。なぜなら若いときはいい人だったと知り合いがしきりに言っていたからである。
つまり人間はその仕事によって人格が作られるということがある。
だからこそ職人気質とかが生れた、江戸時代だと何か職業でも道徳的には今の社会とは違ってまともなのがほとんどだったのである。
そのことが外国人が日本人を見たとき幸せそうな顔をしていると見たのである。
今の社会は何かブラックなものが多すぎるのである。

いづれにしろ損して得をとれというとき人間は何が損が得かわからない、計算できないのである。損したと思ったことは得に通じるし得したことが損になる
そしてまず人生は損得では計れない、人生をふりかえると損したと思ったことが結局は得だったが得したことが損だったなどということは普通にある、めずらしいことではない
人間はともかく利益あげようあげよう得しよう得しようと必死なっているのが日常である目先の利益に血眼になっている、今利益をあげればいいのだとなっている
でも今の利益が後の損になっているかもしれないのである。
自分が商売のことを言うのはどうかと思うが自分のわずかな経験から言っている。
商売でもつきあいでも損して得をとれということは経験してあるから諺になったのである銀行が株とう投資信託に手をだして一時的には利益を上げることに成功しても将来的にどうなるのか、地域の人々の役にたつ銀行なのか?地銀の役割は何かなのかと問われる

そしてまちがいないのが

「金の切れ目が縁の切れ目」

これもただ金を求めるものはみんな現実にそうなった。現実社会は利で結び利で分かれる金の切れ目が縁の切れ目なのである。こいつはもう金にならないとなれば分かれる
用なしだとなる。
最初から得しよう得しようときて後は得にならないから用なしだとなる。
どうしても苦しい人とか困った人とかに接するときは損することになる
でも損したくないとなれば福祉関係でもかえってそれを利用して得することを考えるし実際に福祉関係でもそういう弱者相手に商売している人たちはそうなっているのである。
誰も慈善活動で商売をしているのではないとなるからだ。

今の社会とか会社の問題はあまりにも利を血眼になって追求しているからモラルの荒廃が生まれた。江戸時代は貧乏でも職人は技をみがくことに精出していた。
ただ商売関係だとどうしても現代に通じる問題があった。
何か職業をみると自分の所にきた仙台のユニットバスを作ってくれた人は安かったしそれで安上がりにしたというものでもない、だから安くていいものを作ってくれたからその会社はいい会社だしそこで働く人たちもいい人だと見るのである。
個々人にはいろいろあってもそういう人たちはモラルの荒廃はない
でも銀行でも官僚でも政治家でも医者でもマスコミでも学者ですら御用学者となり原発を推進してきたようにブラックなものが多すぎるのである。

江戸時代がモラル的には優れていて民心が安定していたというとき農業中心の社会だったからということもある。農民だったら自然を直接相手にしているから気が長いとできない、森林でも木材をとるには五〇年とかかかるとしたらまず一代では収穫できないのである。それで農民は三代つづかないと仲間になれないというのもそうなのだろう。
それだけ気が長い仕事なのである。
大根の種を今まいたとしても成長するには三カ月も必要だとというときそれも気が長く待つ仕事なのである。だから農業は忍耐をはぐくむということはある。即製できないからである。
現代はあまりにも変わりすぎるのである。そこに民心の安定もない、目先の利益だけに血眼になっている。株でも投資となればやはりその会社が成長するには時間がかかる
でも投機は違っているのだ。為替差益とかで即製的にもうけることなのである。
現代は瞬間瞬間の即製的な投機が経済になっている、それが世界を歪めてしまったのである。

国家にしても国家百年の大計とかあるけどそういうふうに考えることもなかった
めまぐるしく変化する社会に追いつくこと追われ社会なのである。
目先の利益獲得に追われる社会なのである。今もうけなければもうかならいという社会である。株などはそういうものだからそこでモラルを醸成することはむずかしい
そうなるとどうなるのか?今は得してもあとで大損になっているともなる
その得した分が今度は子孫の負担として損になるともなる
原発事故は一時的には利益を地域にもたらしたも結果的には大損になったからである。
そういうことはこの世にかなりある、現代の問題は江戸時代のような時間の悠長さがもてないのである。分刻み仕事に追われている、目先の利益をあげようとしてかえって大局的長期的には損になる
だから何か得になるか損になるかわからないからこそ「損して得をとれ」という諺が生れたのである。


慌てても「損して徳とれ」の効果は期待できません。長い期間の「いい仕事」「いい事」の積み重ね、心の底からそう思える綺麗な心を兼ね備えなければ偽善になります。
類義語に「損せぬ人に 儲けなし」「損は 儲けの始め」「損をして 利を見よ」などもあります

得とは徳ともしている、となると損することは徳を積むとういことにもなる
何か損したと思ったことは実は徳を積んでいたことにもなる
このサイトは要点をついている、長いつきあいとかを考慮しているからである。
現代に欠けているのはこの長期的視野とか長い視点なのである。
ギャンブルになると今もうかればいい、今大金をもうけることになる
それは株にもある。株などは長期的にみると上がったり下がったりしているから長期的にみると損しないともなる、そもそも投資というときそれが今大金を投入しても成果をあげるのはすぐにできない、特に新しい研究分野になると何十年とか新薬の発明にはかかる
事業でもすぐに成功することはない、でもすぐにみんな成功したいのである。
利益をあげたいのである。現実に事業でも金がかかるからである。
ただ自分も失敗したから他人をとやかくは言えない、何かはじめても成功はすぐにはできない、プログなどでもこれも積み重ねである。すでに十年とかしていればそこに情報の蓄積ができあがる、プログで検索するとそこに膨大な情報がありそれが図書館のように役にたつとなる
インターネットでは最初はたいした情報がなかったが知識がなかったが今や膨大なものとなっている、それは情報や知識の蓄積ができてきたからである。
そうなると参考にすべきものが多くなってくるのである。
巨大な図書館の機能もつようになっている。
posted by 老鶯 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月29日

銀行が投資信託や証券に手を出すリスク (銀行は証券のことは支店長でも部長でもわからない)


銀行が投資信託や証券に手を出すリスク


(銀行は証券のことは支店長でも部長でもわからない)                                          



「支店長が是非ともご挨拶をと申しておりますので、近くにお立ちよりの際は是非当店にお越しください」。

で、実際に支店を訪ねると、応接室に通され、上客にしか出さないような玉露のお茶が置かれ、しばしの歓談となるが、この段階では、支店長から退職金の運用方法などについて切り出してくることはない。支店長は、あなたの現役時代の自慢話を、「うん、うん」と頷いて熱心に聞いてくれる。

ある銀行の支店長マニュアルには、「退職されたお客様の話には、きちんと耳を傾けること」とある。正直、銀行の支店長は、退職した人の話に時間をかけて付き合うほど暇人ではない。それでもじっくり話を聞いてくれるのは、別の目的があるからだ。


特にマイナス金利になってからは、銀行としては出来るだけ預金を減らしたいと考えている。だから、銀行はその預金を、投資信託などの運用商品に乗り換えさせようと画策している。


自分の所にも部長が地銀の部長がきた。小さな地銀だから部長といってもたいしたことがないのだろう。
カナダの国債で大損していた、前に手を打つこともしていなかった。
だからそもそもその部長も支店長も信じられなくなった。
これは銀行が証券に手を出すリスクでもある。
客だけがリスクがあるのではない、銀行は確かに手数料は確実に入り損はしない

その代わり銀行は信用を失う

これは銀行にとってかなり深刻なことかもしれない、利益さえあげればいいと考えでしたことでもそこで信用をうしないかねないリスクが銀行にもあった。
銀行は損はしない手数料で確実にもうけるけど損した客はその銀行を信用しなくなる場合がありうる
自分の場合はそうなった、なんかその地銀の担当にも部長にももう会いたくない話もしたくない
これは自分も悪いのだからそんなこと言われてもともなるが何かそうなってしまうことがやはり銀行のリスクなのである。
信用第一というときその信用が失われることが銀行側の大きなリスクかもしれない
そんなこと銀行側ではあまり考えないがそこに将来的には何かかえって損失になるかもしれない。

二宮尊徳の言葉に

「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

罪悪を犯罪としているところもある。法にふれなくても犯罪などこの世にいくらでもある殺人犯さえつかまっていないのがこの世である。
今の経済は総じて道徳がない、グローバル金融資本主義なると全く道徳はまるっきりないマネーゲームとギャンブル化した世界市場になる。
そもそもそういう所に金をなげこむこと投資することはすでに道徳もなにもない世界に金を投入することなのである。
本来の会社を成長させるとか地域経済に産業に貢献するとかはない、投資でもなんでもないのである。投機は投資ではないのである。金を動かすマネーゲームなのである。
それこそまさに道徳なと経済であり犯罪なのである。

だからこういうことに加担する地銀はもう地銀ではない、その本来の役割を失いかねないのである。お前にも道徳がある経済があるのかといえばなかった。
ただ利子がつないので老後のたしになればと投資したのである。
それならお前も責められるべきではないかというのも本当である。
それで今は反省している、遺産でもど使っていいかわからないからそうなった。
自分は百万の金を使ったことなどないからである。
ただ老後が長いとなると年金も少ないからそれで補おうとしていたのである。

経済なき道徳も寝言になる、利益をあげない経済もまた寝言であるとなるとき実利を重んじることは悪いことでとないしそうでないものはこの世で成り立たないのである。
だから別に利益を追求することが悪いことではない、その前提に道徳があり証券でも株でも扱うときそれそうおうの対処方法がある。
でも証券マンとかなるともうかる株は投資信託は教えないとか何か知ることがむずかしいのである。
カナダの国債が安全だというときそれは石油がとれたし石油が高かったときだった。石油が下がったとき価値が下がった。その詳しい事情はわからない。
カナダの国債を選んだのは銀行の担当員自体も適当だったのである。詳しい将来予測などしていない、その後ずさんに管理していただけである。

ともかくその地銀に金をあづけるのは危険であるとまでなった。
それは投資信託などに証券に銀行が手を出すリスクだったのである。
そんな一人などどうでもいいということにもなるが自分のプログはそれなりに地域で読まれているとなるとそんな地銀があるのかと警戒する人もでてくるかもしれない
自分も悪いにしても地銀にも問題があった。
今の時代インターネットで評判が広まる時があるから気をつけるべきである。
今まではマスコミをおさえればいいが個々人の情報がストレートにフログにのせられるとそれが広がる場合がある。
するとどこの銀行とはいわないが評判を落とすことになる。
だからこうした情報化社会では気をつけるべきである。
インターネットで発信できる権力を個々人がもったからである。
ただそれも読まれる人の数によるのだ。プログの力はやはりテレビと同じように視聴率がそのプログの評価になる。もし読者が多いプログだとなんらか拡散して影響するかもしれない、それは会社にとっても危険なことになるかもしれない

おそらくあそこの銀行かもしれない、銀行はそんなことしているのか?
気をつけなければならないとか警戒されて信用されなくなることもある。
もちろん投資信託にも警戒する人もでてくる。
ただ個々人によってその対応は違うしそれを鵜呑みにすることも危険である。
ただアマゾンのレビューを見て買い物するとたいだいまちがいないのである。
だから今はインターネットで個々人の評価が口コミが広まることもあるし評価となることもあるから会社でも気をつけた方がいい
消費者は何も言えなかったが今は直接フログなどで訴えることができるからである。
posted by 老鶯 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月28日

地方銀行の役割は何なのか? (証券などに手を出すのは信頼を失いかねない)


地方銀行の役割は何なのか?

(証券などに手を出すのは信頼を失いかねない)


「地方銀行は、守るべきところ――つまり地域そのものであり、地域にある企業や住んでいる人ですが――が、はっきりしている。これが地銀の大きな特徴であり、アイデンティティだと言えるでしょう。だから、地銀は地元を決して裏切れないし、地元に信頼されるべき存在なんです」

銀行が、モラルハザードを起こしやすいということである。そのため、課題としては、モラルハザードを起こさないで、信用される銀行になることである。銀行が不祥事を起こし、顧客離れが起きたしまうことは非常に危険である。そのために、まず、不祥事を起こさない内部の取り組み・仕組みづくりから行わなければならない。その銀行の特色として、信用がある銀行と顧客から言われることが銀行にとって一番大事なことである。


利益をあげるためにも、投資と証券が必要になってくる。これから投資と証券のエキスパートが、地方銀行の鍵を握ってくるだろう。

今後の地方銀行


地銀というくらいだから地にその土地土地に根ざす銀行となる。地銀とメガバンクなどは役割がそもそも違うものとして生れた。
つまりこれは郷土学とも関係あるものだった。
郷土に根ざした銀行が地銀である。メガバンクは大企業に融資するが地銀は地元に融資するからその規模も小さいのである。
地元の零細な会社でも自営業の支えとなるのが地銀である。
でも今や利子がつかないとか地域経済の衰退で地元で成長する成功する産業も減少した
そのためにグローバル経済化したなかで証券などに手を出すことになった。
これは預金者が利子がつかないということで全国的に起きていることである。
その時危険なのは地銀の本来の役割が見失われることと地域の信頼の上に成り立っていたものが失われる危険である。

そのことを自分は身をもって経験した。なぜ銀行員なのにその若い人は証券場で働いていたという、そのことをしきりいってすすめてきた。
証券に詳しい人と話を聞けば思う、でもそもそもその人個人が優秀でも銀行は証券会社ではない、つまり証券に関する知識でも情報でも経験でも積み重ねがないのである。
なぜならそれは別分野の仕事であり会社自体が地銀自体が最近利子がつけられずどうして預金を集めるかもうけるかとなり証券とかに手を出すことになった。
実際は銀行自体が証券を扱うのではなく大きな証券会社の下請けになっているにすぎないのである。
だからそもそも地銀の仕事と証券の仕事はにているようで違ったものなのである。

その一人が証券場で働いていても地銀自体は証券のことは知識の蓄積もなにもないので知らないのである。だから部長がきたとしてもその人は確かに世界情勢とか知識はもっていた。でも別に証券とか株の知識があるわけではなかったのである。
部長レベルですら地銀だったら素人と変わりないと思った。
だからカナダの国債が安全だとしてすすめられてまた売ったときも大損をしていた。
売るときも円高のときだった。今になると円安になっている
そして管理がずさんだったのである。仕組みが複雑すぎてどのくらいあづけた金額が減ったのかも報告されなかったのである。
早い時期に売るべきものだったが報告されないからわからなかった。
それは自分があづけっぱなしにしていたのが悪いんだというのもそうである。
何でも他人にあづけぱなしまかせてしまうと文句は言えないのである。
だから知らないことはやるなというのは確かなのである。

第一そもそも知らないというとき地銀は証券とかの知識はないのである。
その一人の若い人は証券場で働いた経験があるとしてもとても一人でグローバル経済にたちうちできるものではないからである。
それより地銀はグローバル経済にたちうちできない、素人となんら変わりないのである。
そして銀行とか郵便局でも投資信託をはじめて損した人が怒って訴えたことがあった。
それも郵便局が地域で信頼していたからである。
郵便局が窓口となっていたことで信頼して投資信託を買ったのである。
そういうものではないにしろリスクがあるにしろそう今までの習慣で思ったのである。
知らない人は地銀でも銀行の人がくるのから信頼できのかともなる

そして結果的に自分の場合は銀行も信頼できない、証券に関しては知らないんだということを大損して知った。
そもそもが地銀がグローバル経済の中に組み入れられて証券でもうけるとなると本来の役割からはずれたものとなる
グローバル経済は今は格差を生んで批判されている、それで世界の潮流としてグローバル経済は否定されつつある。
でも地銀でももうけ先がないから手数料が入るから証券に手を出したのである。

いづれにしろ証券などをしていると地銀の役割が見失われ信頼が失われる
この信頼が失われることは怖いことになる
あそこには金さえあづけられないとかなるかもしれない、あれほどもうたると言ったのに大損したとか地銀に対して信頼できないとなるかもしれない、
もちろんもうけさせればそうせならないが証券は株でも素人はもうけられないようになっているからだ。となると手数料だけ地銀はとっているだけとなり信頼を失いかねないことが怖いのである。
証券とが株はそういうものだといえばそれまでだが何かそれだけではないものが残ってしまう。銀行も証券をはじめたがうまいこと言うだけで損するだけだとなって地域の信頼を失う、それは証券をはじめた人が悪いのであり銀行は悪いのではないとういことも確かである。
でも何かそれだけでは割り切れないものが残るのである。

例えはギャンブルなら賭博場ならそういう場では大儲けする人もいるし損する人もいる
そこはそういう場所としてあり損したからといってそういうものだとしてそのガジノがあることを批判することはない
でも銀行は何か堅い職業としてあった、だから何か証券場になるのはそぐわない、賭博とは違っていても何かそういう感覚になる
証券はリスクが大きいからである。
地域に生きるとなると信頼が第一になる、二本では狭い村社会が基本にして生活してきたから信頼を失うともうそこでは何もできなくなる、それで世界で日本は一番相互信頼が強い国だとなり犯罪も少ない社会だとなっていた。
それがグローバル経済などで破壊された。それは地銀にも及んでいたのである。

世界がイギリスのEU離脱でもアメリカのトランプの勝利でもそうだがアメリカファーストいうときまさにそうである。ナショナリズムへの回帰となっている
日本でも地銀でもそうだがメガバンクと地銀の役割はそもそも違っていた。
グローバル経済になると巨利を得たの世界的メガバンクである。
ゴールドマンサックスなどはリーマンショックでも年収が七〇〇〇万もありその蓄積があったから影響がなかったとかある
こういうグローバル金融資本主義が世界的な格差を生みアメリカでさえ貧民の国になっていたのである。その怒りがトランプの勝利になったのである。

ともかく自分にも非があったが地銀に対する信頼はその人でもその銀行に対しても疑問をもつようになった。もともと証券の知識などないのだから地銀を通じて金を操作させてはいけないものでもあった。
そして管理の仕方もずさんだった。逐一報告して売り買いしないかぎりもうからないしリスクになる。それができないのだから地銀などには頼むべきではなかったとなる
つまりリスクというとき証券など知らないとういこともあるが地銀に頼んだことにもあった。その管理もずさんだったからである。
そして証券とかグローバル市場でもうけようとしたら意外とその担当する人による
今回も実際に売ったり買ったりしたのはカナダの国債を選んだ若い人が担当者だったからである。売る時期とかも大事になる、タイミング大事になる、それが裏目に出たのである投資家というときこれも実際は優秀な人がいるし医者でも藪もいれば優秀な医者がいる
だからその当たりはずれも大きいのである。
ただ自分で売り買いしたりできるなら自分の責任になるしそれができるならいいが地方ではしにくい、カナダ国債が安全だとなればそうなのかなと日本の国債をイメージして思ったからである。

それで本当に怖いのは為替差益であれたちまち差益が大きくなり大損になるのが外国向けの投資信託なのである。確かにもうけることもあるがその損するときの額も大きくなるのである。グローバル経済はあるほんの一部のものがもうける仕組みになっているから素人はもうけられない。もうけてもまた損するのである。
こういう悪魔に操作されているようなグローバル金融資本主義はなんらかでリーマンショックの再来とかなんか恐慌とかで崩壊してゆく、その前にナショナリズムに復帰してそれぞさの国の文化を大事にするものへと世界は変わってゆく、そういう兆候が世界的にすでに政治の面でも現実化しているからである。

人間にとって大事なのは信頼なのである。その信頼がないと何事なりたたない、日本では狭い範囲で生活してきたから信頼を失うと繁栄しない、地銀でもそうである
こうした信頼関係が成り立つのはグローバル経済になるとむずかしい。
そこではもう相手の顔も見えないのだから世界から集められたかねはゴールドマンサックスとかに吸い上げられるのである。それで七〇〇〇万の年収を得ていたとなる
そういう暴利を得ているのは異常である、何か物を売るならいいが金融でそんな巨利を得るのはもう悪魔的だとなる、だからそういうシステムを否定する力が世界でわきあがる
それがアメリカですら起きていることなのである。

職業には何でも知識が必要である。


本屋だって本の知識とか本の内容を理解する知識が必要

料理屋は料理についての材料でもなんでも知識が必要

農民だったこれは様々な体験的知識が必要

大工は木材とか深い体験的知識が必要

医者ももちろん知識がなければできない

店屋も売るものの知識が必要


本屋などは本についての知識がないからつぶれてゆくということもある
ただ本をならべているだけだからである。
電子本の影響もあるがそもそも売る本を理解して知識があって売っている店はまれだったのである。
株とか証券も知識が必要、でも銀行では地銀ではその知識がない
株は上がるときもあれば下がる時もある
為替も上がったり下がったりする
世界には常にリスクがある、それは誰もわからないんです
大損しても私たちにはどうにもなりません、責任はとりません

ただし手数料だけは確実にいただきます

損しても文句は言わないでください、それが投資信託であり株なんですから

要するに投資信託でも株でもその知識はある人はある、でもそういう人とはめったに出会いない、だから素人にはもうけられないのである。
他の職業は知識がなければ勤まらない、簡単に注射だってできないだろう。
家を建てのだって危険になる、証券とか株は頼んだ人は大損しても何の保証もないのである。
その時情勢によりますからどうにもならないですで責任などとる必要がないのである
となるとこれほどでたらめな職業はないともなる
無責任きわまりない職業ともなる

『当たるも八卦、当たらぬも八卦』

それは運しだいです、負けても文句は言わないでね

いくら知識を言ってもそれがどうなっているのかわからないからである。
だからペテン師なのかとなる、ギャンブルと同じだとなる
そのギャンブルも素人は負けるようになっているからやらない方がいいとなる

posted by 老鶯 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月27日

近辺の冬の写真と写生俳句


近辺の冬の写真と写生俳句



momijiiiiiiiiii234.jpg


stonneee123ggg12.jpg


winterbirdd11.jpg

 全部クリック拡大



石囲む庭や中にそ冬椿

石ありて散り重なれる紅葉かな

鳥一羽枯木にとまり餌ねらう


写生は俳句という時本当にそうである。
この三枚の写真を見ればわかる。
写真がすでに写生でありそれに俳句を付け加えただけだとなる
写真俳句が生まれたのは必然だったのである。

冬椿が咲いていたのは石の展覧会のように庭を飾っている家である。
あの家はこの辺では誰でも知っているだろう
いかにも金持ちの家という感じだからである。
あの石は見物である。あの意志だけで相当に高額かもしれないからだ。
ただ他人の庭でも見るのは無料なのである。

近くでも何か毎日見ているそこに変化がある。季節の変化がある
紅葉が散る、あそこの庭は外から見ても何か日本的でいい感じである。
だから他人の庭でも鑑賞している。

今日は枯木に一羽鳥がとまっていた。いかにも冬らしいとなる。
本当は今は晩秋なのだが冬になっている、綿虫なども飛んだ
季節感がおかしくなる。
この鳥は鳶だったのか?鳶というとき冬の季語なのである。
この鳥はただとまっているのかと思ったら餌をねらっていたのである。
川から魚をとったからである。その場面はとれなかった。
まずそんな場面はよほどでないととれない。

ただ近くでも季節の変化があり何か写真になるものがあることは不思議である。
こんな狭い田舎でそんなにないと思うけど結構ある。
ここ十年は旅に出たことがほとんどないのに結構写真をとっているからである。





タグ:冬の俳句

真壁仁の詩が津波や原発事故を予見してた (農民詩人の語るもの)


真壁仁の詩が津波や原発事故を予見してた

(農民詩人の語るもの)

おきき
河がささやいている
その肌を汚す乙女
流れを血で染めるな と
河がうたっている
家畜をはなす若者
ふるさとの土を守れと
わかものは合唱する
黒い虹のかわりに
白い翼の鳩がふるさとの空に帰る日の歌を
河は夕映えを写す
河は星を写す
歴史をいろどる

真壁仁詩集

これは最上川の短歌でとりあげたけど何かこの辺の状況を詩にしている感じになる
河が汚れたというとき故郷が放射能で汚染されたということである。
「家畜をはなす若者」とは牛を飼っている人になる
ふるさとの土を守れとは田畑が放射能で放置され荒地になっていることに通じる
黒い虹とは津波や原発事故のことである。

白い翼の鳩がふるさとの空に帰る日の歌を

これはふるさとが元の放射能のないふるさとにもどり平和がもどることである。
若者が帰ってくることである。

河が夕映え星を写すというとき故郷の景色の中で再び暮らすということである
この詩のテーマはやはり農民は常に苦しんできて貧乏だった
特に小作が多く地主を恨んでいたのである。
その重圧が大きかったのである。
この時は農業中心だからふるさとの土をまもれとなる
今になると農業は常に否定されてきた、金にならないと否定されてきた
農業だけはやるなと親になぐられた子供さえいた、その子供は成長して原発や建築現場で働いたのである。
他にも農業はやりたくないとほとんどが会社勤めになったのである。

ただ真壁仁とか生きた時代はまだ農業中心の時代である。だから農業に固執して生きる他なかったのである。苦しくても農業の他に仕事がないからである。
現代では農業に固執しない、だから補償金もらったら若者は外に出て行って帰らないとなった。土を守るという意識がないのである。

ただ故郷に帰りたいということはあるだろう、故郷の景色を再び心に写したいということはある。老人の場合はかえってそれが強い、でも若者はむしろ故郷にこだわらない、なぜなら農業中心の社会でなくなったからである。
だからかえって補償金をもらい、姑とも離れて暮らせるからいいともなってしまった。

若い人が老人が息子が娘が帰ってきてほしいと思ってもそうはならない
それが現代的問題としてあった。
ただこの詩が何かこの辺の状況にぴったりなのである。
詩は何かを暗示するし比喩となるから状況は変わっても同じようなことが起きて
時代を越えて活きてくる
この時の状況は今とは違っていても同じような状態がここに起きてその詩が活きてくる

違うのは農民が八割とかいた時代と今はあまりにも違いすぎることである。
故郷でもその土地でも執着しない、農民だったら土を守るというのを体で知っている
でも今は田舎でも農民は一割にみたないとかになるとそういう感覚はなくなる
それで放射能汚染とかは土とか水とか森とかでも生活の基本になるものが汚染されたことが致命的だったのである。

ただ放射能汚染で不思議だと思ったのは 河は夕映えを写す 河は星を写すというときなんら自然は見たかぎり前と同じようにきれいなのである。
空がよごれているわけでもない、水が汚れているわけでもない、だから前となんら変わりないとみる、美はそこなわれていない不思議なのである。
でも空気とか水とか土は実際は汚染されているのである。
ただ見た限り以前として同じような状態に見えることなのである。
それが放射能の一番不思議なことだったのである。

最上川紀行短歌二〇首

タグ:真壁仁の詩
posted by 老鶯 at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年11月26日

最上川(春秋短歌二〇首) (最上川は唯一外国の河をイメージさせる)


最上川(春秋短歌二〇首)

(最上川は唯一外国の河をイメージさせる)
mogamirrrrr123.jpg

mogamiriverrrr12334.jpg

ateraaaaaa111.jpg
左沢(あてらさわ)

yamagatttammmm1.jpg

  (春)

最上川水豊にも流れつつ岸辺の港春の夕ぐれ

左沢(あてらさわ)石橋古りて最上川岸辺になおも雪の残りぬ

終点におりたちあわれ左沢春の日さしてそぞろ歩みぬ

最上川時に浮かびぬ舟の影流れはつづき春の日暮れぬ

山形に市つく名の多し紅花に栄ゆ春の日たずぬ

ゆるやかに曲がりくねりつ水豊か春の夕日の山に没るかな

 (秋)

最上川岸辺の泊まり舟も来じかすか虫鳴き旅人さりぬ

最上川岸辺の家々港かな我がたずねつつ秋深まりぬ

最上川岸辺に紅葉映えにつつ流れ豊に舟は下りぬ

舟を曳く村人あれや河岸あり昔偲びぬ秋の夕暮

最上川大石田かな実りの季塀の長くも番所ありにし

紅花をここにはぐくみはるけくも京に運びぬ秋の河かな

ゆるやかに流れる河の滔々と岸辺広がる実りの田畑

紅花の生業ありて最上川京とつながり栄いけるかな

山に沿い奥深くも流れゆく最上川の秋の夕暮

舟よれる港の番所秋の灯のともりてあわれ旅人とまる

鮭川の鉄橋わたり雪ふぶく羽前前波雪にうもれぬ

 (酒田)
  
酒田なれ荒浪越えてここに来ぬ北前船や倉庫の古りぬ

影をなし欅の並木倉庫かな米を守ると酒田の栄ゆ 

木造りの灯台ありて酒田かなきめらきにけり秋の星々

飛島にわずかの畑耕しつ住む人のあれ冬に入るかな

白鳥のあまた群れにき酒田にそ来たりて思ふシベリアなるかな


最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり
『古今和歌集』巻20  東歌(詠み人知らず)

最上河 つな手引くとも 稲舟の 暫しがほどは いかり下ろさむ
『夫木和歌集』 崇徳院

広き野を ながれゆけども 最上川 うみに入るまで にごらざりけり
(昭和天皇)

一番古いのが古今集の歌である。これは稲舟が見えず月ばかりというとき稲舟が相当に通っていたからこの歌になった。それとも期待したほど稲舟が見えなかったのか?
平安時代だから最上川がすでに舟運があり知られたとしてもまだまだだったということは言える。でもすでに稲舟が都にも聞こえていたから期待したから稲舟が見えないとなったのである。

昭和天皇はいろいろあったが歌はうまかった。天皇とはもともと日本文化を体現していた人だったのである。

最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉

こういう歌もあるとすると濁っている場所もある、ヨーロッパでも大きな河はにごっている、ライン河を大きな貨物船が行くがその河は中国よりはきれいでも黒ずんでいた。
河はまず荷を運ぶものとしてあった。次ぎに人を運んだのである。

ローヌ河がゾルグ河と合流した下流で洗われる
そのローヌ河の左岸の一帯の地方では
その頃そこの君主としてわしは望まれていたのだ
それはトロント河とヴェルデ河を海へそそぐあたりから
ハーリ、ガエタ、カトーネの府々をふくめた
あのアウソニア(イタリア)の角笛(ナポリ王国)でのことだ
すでにわしの額にはドナウ河が
ドイツの岸辺を離れて流れている
(ダンテ−天国編)

河というのがいかにヨーロッパではもう人間の血肉と化している。だから河を理解しないかぎりヨーロッパでも他でも理解できないのである。

最上川は日本では唯一大陸の川を思わせるのである。水量が豊であり川も長く大河であり運河のように荷が運ばれたからである。
ともかく日本の川は水運に向いていない、世界の文明がナイル川とかチグリスユーフラテス川とかインダス川とか黄河とかによって作られたというとき日本にはそういう大河がないのである。
その大河がないということが地理でも歴史でも理解しにくくしているのである。
日本にないものがこの大河とか砂漠とか平原なのである。そもそもないからイメージしにくいのである。
でも根本的にこの河のことを知らないと世界史でも歴史でもわからないのである。
文学でもわからない、いろいろなことがわからないのである。

こういうふうに河と街とか外国ではヨーロッパでもそうだしインドでも中国でもそうである。大河によって文明が作られたのである。ライン河が父なる河としてドイツを作ったのもそうである。
日本でそれをイメージされるのは唯一最上川だけなのである。
川とんうときそれが交通路としてあったということが文明を作った。
「すべての道はローマに通ず」道がローマを作ったように川が道として文明を作った。
そこでこの河を知るときどうしても河を舟で行くということができないことが河を理解できないのである。一部分は行けるのだが全体の河を行くことができない、ヨーロッパでも中国でも河の旅がありそれは延々として河は船で行けるのである。
途中に運河とかでも結ばれている。河は交通路であり道だったのである。

その河を通して行けないというとき河をしりえないとなる。今なら鉄道の旅であり最上川を横切っても河を下るということがない、上るということもない、河の一断面を見ているだけなのである。河は上から下と一つのものとしてつながったものとして見ない限りわからないのである。

それで自分も思い出して短歌にしたが鉄道で横切った最上河なのである。
わからなくなったのは羽前前波という駅だったのだろうか、そこには五六軒の家があり雪に埋もれていた。こんな小さな村の駅に電車がとまるのかと思った。
しかし鉄橋をわたり蛇行する河が最上川と見ていた。その時は雪がふぶいていた雪景色だった。それは最上川だと思って見ていた、でも地図を見ると何か違っている、なぜなら鉄橋をわたってトンネルをくぐりすぐに羽前前波にとまったと思っていたからである。
これは今になるとわからない、大きな河だったから最上河だったのかもしれない。
こういうふうに何か記憶があいまいになってくるのである。

酒田に行ったのも自転車で行ったのだがどうをどう行ったのか良く覚えていない、でも酒田についたとき白鳥の群れが刈田に一杯いたのが印象的だったのである。
その時シベリアを思ったというのは日本にはシベリア季節風が吹きそれが朝日連峰などに豪雪となり複雑な地形を造ったという、日本海側になると大陸の影響が気候的にも大きいとなる。シベリアが近いのかなと思った。
面白いのはアムール河である。その河口から流氷が作られて流れてくるとかも言われる。
またアムール河から淡水魚が日本に太古移動した、その時まだ日本列島はできていなかった。一方にてけは黄河と揚子江系の淡水魚が移動してきた。
それで西と東では別な種類の淡水魚が棲息することになった。
海でも親潮と寒流と黒潮の境が福島県沖とかな漁場となっている
東と西はこのようにもともと地球の歴史でも別々のものとしてあった。
ただこれだけ河の影響が意外と大きいことは知っておくべきである。

最上川は米を運んでいた、紅花もそうだが他にもいろいろ運んだ。
酒田の山居倉庫は米を貯蔵していたが欅並木があるがあれは夏に影を作って涼しくして米を保存するためだった、米は夏だったら痛みやすいからだ。
それで冷凍庫つきの貯蔵庫が必要になる、保存することも文明ができる条件だった。
食糧を保存しないと人間は生活できないからである。

蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。

新米の坂田は早し もがみ河

毛見の衆の 舟さし下せ最上川

新米とか毛見衆とかに注目しているのは農民の生活がじかに伝わってくる
米を調べられるのが嫌で早く舟で下らせろとなる

川上とこの川下や月の友 芭蕉

これは江戸から利根川に通じていたのでできた。実際に上には俳句の友がいたのである。このことはヨーロッパの川とか中国でも常にあり川で友と別れる漢詩が多いのである。
中国の漢詩になぜ別離の詩が多いかというとあれだけ広いから一度別れたら会えないからである、日本だって交通の便が悪いときはそうである。それで会うことは貴重なことになる。

山形市に五日市とか六日市とか市のつく地名の多いのは紅花などの市がたったからだろう紅花で栄えたものとして地名が残った。曳舟とかの地名も残った。

苗植えていつしか五二日めにはや白わせの花そ咲きける

細葉もちうえて六三日めに花は咲き一〇日あまり栄ゆる

会津農書で残された歌である。農業は何でも実るまで時間がかかるのである。

大根の芽のいでけるも収穫は来年とならむ待つ時間かな

大根でも三カ月くらいかかるとか収穫までは長いのである。それまで手入れしているから農業はなかなか効率的になりにくいのである。

現代でも野菜でも何でも農作物がスーパ−にあ、でもどうしてその農作物ができるのかわ・からないのである。そうなると野菜でもなんでも食べ物を粗末にするということがあるただ今は高いから粗末にできないともなる、ということは食糧はあまりにも安いとまた困るともなるのか?

川の詩というとき日本ではいいもの少ないだろう。


おきき
河がささやいている
その肌を汚す乙女
流れを血で染めるな と
河がうたっている
家畜をはなす若者
ふるさとの土を守れと
わかものは合唱する
黒い虹のかわりに
白い翼の鳩がふるさとの空に帰る日の歌を
河は夕映えを写す
河は星を写す
歴史をいろどる

真壁仁詩集

これはなかなかいい詩である。これをよみこむと流れを血で争うなというときこでも河の利権をめぐって藩が争ったことがあった。木材の利権でも入会権でも争いそれが戦国時代ともなった。それで河を血でそめるなということにもなる
ただ日本では河をめぐってはそんなに争わない、外国ではriverがライバルからきているのだから河を挟んで人は争っていたのである。河が国境になりやすかったのである。
ライン河もヨーロッパを区切る河となったことでもわかる。
つまり歴史も地理であり河は大きな役割を果たしていたのである。
家畜を放すというとき馬や牛だろう、それは農耕にも使われていたからでてある。

それから黒い虹とは何か?これは原発事故の放射能をイメージする、この辺の情況を暗示的に比喩的に示している、黒い虹は津波でもある。
ともかく河というのは湖とか海の感じにもなる、大きい河はそうなる。
だからこの詩は最上川をイメージするとできる、他の河ではこうしたイメージが生まれないのである。

山形県というとき福島県からすると周辺地域だか地理的連続性と一体感がある。
でも最上河とか日本海とか異質な風景なのである。
山形は風土的には魅力がある。日本海があり最上川があり月山があり山と海と河があるからだ。文化的に湯殿の碑とか東北地方に多いのである。
湯治とかに農民が行っていたこともある。山形は何か言葉でも濁音が強いのかもしれない学生時代にあった人はそうだった。

山形弁なまりの強しその人の二階に住みし学生時代

これも遠い話だけと津軽弁でもまたなまえが強いとここも何を話しているかわらない、宮城県は仙台でもだっちゃとか解放感がある、明るさがある
新地の女性がだっちゃど言っていたのは相馬弁では違う、だべと相馬ではなるからだ。
新地は伊達藩でありそこがまぎらわしいのである。
一時相馬郡になっていたから相馬藩と勘違いしていたのである。
なまえは国の手形というときこれはなかなか変えられないからそうなる。
東北弁でも一様ではないからだ。
地域性風土性文化性とかそういう相違は今でもありそれがあってこそ旅は面白いとなる
ただこれを深く知るにはやはりむずかしい、関東辺りになるともう地理的一体感がもてないからだ。すると面としての記憶が形成されにくい、点だけになりなんとか線としてつなぐとなる。なんとか福島県だとその周辺は地理的一体感がもてる
でも会津は山国だし新潟でも日本海となり風景は異質になる
日本の旅は福島県でもそうだが太平洋から日本海に向かって旅すると変化して興味深いとなるしそうでないと地理はわからないとなる、風土性もわからないのである。


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)

フラワ-長井線で白鷹町へ


母なる川-最上川

2016年11月25日

銀行員も今はブラックなのか? 若い人の会社や仕事で形成される人格は将来どうなるのか ?


銀行員も今はブラックなのか?

若い人の会社や仕事で形成される人格は将来どうなるのか ?

身内の知り合いが大和証券に就職決まったと報告受けたが、
その後彼が言った言葉、客にはいい情報教えないw
とペラペラ喋っていたことを絶対忘れない。面接などで植え付けられる
汚い思想であると思われるが、証券会社社員という人種は通常の商売のような
顧客満足を目指す仕事をしてはおらず、客を食い物にするために仕事をするクズで
あると実地でわかった。


顧客満足を目指す仕事をしてはおらず........

ユニットバスを百万で作ってもらったけどいいものである。自分が顧客だとすると満足したとなる。安くていいものでなかったら顧客は満足しない。
たいがいの仕事はいかに顧客を満足するか努力している、そうしないと仕事が成り立たないからだ。仕事の注文もなくなり物も売れなくなり病院のようなところでも患者の扱いが悪ければ患者も来ない、それはどこでも同じである。

証券会社とか銀行とかなると顧客満足となると株や投資信託でもうけされることだけど実際はそうなっていない、客をだますことが多いというとき株とか投資信託の仕組みが複雑すぎてわからないからである。
だから素人はだましやすいのである。
カナダの国債は素人考えて安全だと思っていたが為替差益で大損した。それもわからないうちにそうなっていたのである。
管理がずさんなのである。それは逐一報告されていない、その収支決算は素人が見ても全くわからないものだったのである。
売り買いするのもめんどうである。だから自分はたいして損しないと思ってまかせていたのである。
国債でも投資信託でも外国になるとより危険になる。それは為替差益がありさらに世界情勢などのリスクがありわからないから危険なのである。
だから知らないことには手を出すなというのは本当だったとなる

一番わかりやすいのは円高とか円安の差益でもうけるものである。
110円の時買ったが今はあがっているからもうかる、下がれば損するのである。
これは何も考える必要がないのである。こういうふうにわかりやすいものは素人でも得するにしろ損するにしろいいのである。
株とか投資信託はプロでもわからないからリスクが大きいとなる。

自分を担当した人は証券の取引場にいて経験しているからわかっているというがカナダ国債では全部裏目にでた。
今になると円安になり売るとしたら高かっのかもしれない、そんなに損するまでなぜ売らなかったのか?
それはずさんな管理なのである。良く見ていないし連絡もしないのである。
最後に急に配当金が下がったから売った方がいいと売ったら大損になったことがその時はじめて知ったのである。

人まかせにしたら株も投資信託も必ず損する

投資というのはわからなかったらその頼む人がどんな人なのか最大の問題になる。
なぜなら知らないのだからまかせてしまうからである。
でもずさんな管理しかしない、手数料とればいいとかしか思っていないとなると必ず損する
はっきりいって地方の銀行などは投資信託についてほとんど素人なみである。
だからやらない方がいいとなる。
もうける方法はあっても証券会社の人は知っていてもそれを頼む人は知らないからである
そして経験から銀行は信用できないということにもなる。
一時は郵便局でも客が損してその恨みをかったことがあった。
もともとリスクがあるものですと言っているから客も悪いことは確かである。
だから頼んだ以上文句いうなともなる
だから泣き寝入りであり得するのは手数料でもうける証券会社とか銀行なのである。

あなたにもうけさせてやりますよ、私を信頼してください

こういっても株や投資信託はそもそもがそんな約束などできないものである。
ユニットバスを作るとしたらこういうものができますよといえば確実にそういうものができて顧客満足させる
医者でもあてたの病気は直せますと言って直すように努力する、株とか投資信託はそんなことはない、言ってみれば時のなりゆきでもうけることも損することもあります
いろいろリスクがありますからしかたないです
でも銀行員や証券会社は損しません
手数料だけはしっかりもらっておきます、損はしない商売です

銀行はもともとこんな仕事じゃなかったろう、ただ投資先がないとか金余りとかもうける方法がなくて株とか投資信託の窓口になったのである。
だかから銀行についてのイメージが悪くなった。そんなギャンブルの馬券などを売り出す窓口になったともなる
何か会社に投資して会社を育てるなどという仕事とはそれはまるっきり違ったものである
世界的にグローバル経済がマネーゲームになったというときそのことがやはり世界を人間を狂わせたのである。
例えはドル紙幣はアメリカでは銀行が発行するとかドルで世界を支配する、石油もドルで買う他ないというときドルが世界の貨幣となりアメリカが得するような仕組みになっている。その仕組みも複雑でありとてもわからないから陰謀論になるのである。
金を右から左に流して巨利を得ているという現代のグローバル金融資本主義が本当に世界を狂わせたのである。
あなたもそれでもうけようとしたではないかというときそうである。
でもそのギャンブルに勝てるのは胴元である大銀行とか大財閥とかであり普通の人はそのギャンブルに勝てない仕組みになっているのがグローバル金融資本主義なのである。

いづれにしろ現代の職業が何かいかがわしいものが増えたというときそこにモラルの荒廃が生じる
資本主義が修道院から生まれて神に奉仕するものとして生まれたというとき今のグローバル金融資本主義は悪魔の資本主義になってしまったのである。
悪魔が世界金融を操作しているのでてある。それがユダヤ人だとか言うがそれもわからないのである。ユダヤ人ももともと真面目な商売人だったのである。
だからこのグローバル金融資本主義は操作しているのは誰なのか?
それは何か悪魔的なものであり誰もわからない謎になるのである。

結局徳川幕府が為替差益で崩壊したいうとき明治維新から日本もまるで変わったものとなってしまった。
江戸時代はモラル的には世界で一番優れていたかもしれない、貧乏だったけど悪いことをする人は本当に少なかった。だからみんな幸せそうな顔ししていたというとき貧乏なのだけど素朴な人が正直な人が多かったからである。
暴利をむさぼるような人はほとんどいない、こつこつ農民でも職人でも商人ですら棒ふりとか小商いであり何かそういヴ職業は大きな利益は得られない、でも正直な商売をしていたとなる、そういう人が多いというとき社会もモラル的には安定していたし江戸時代はかかって住みやすい時代だったとなる。
ただ常に過去は理想化しやすいからそこには様々な暗黒があった。
女性は貧乏で身売りされたとかいろいろあったが総じてあまり悪い人はいなかった。
それは仕事が今のように複雑でない、農民が八割とかなるとそういう人たちは素朴な人たちが多いからである。それは戦前までもそうだった。
それで義理人情に厚いとかあったが現代ではそういう人を見るのは希少動物をみるのと同じであり絶滅したのである。

それで考えたことはそうした証券など銀行でもそうだがそんな仕事をしている人が将来的にどんな人格が形成されるのか?
口先だけの嘘も平気でつく、人をだますことにだけたけてくる、何かそんな人格が形成されるとなると将来的にそんな仕事はもうかってもすすめられないともなる
銀行は堅いイメージがありもともとそんな仕事ではなかったと思っていたからである。
地方では公務員と銀行員はエリートである。まず倒産することがないし安定しているからである。

親戚で事業で失敗した人もて何か人格的におかしくなった。もう頭が金のことしかなくなっていた。借金しているからそうなった。
若いときはいい人だったというからもともとあんな人ではなかったのだろう。
その人は会社で技術系の仕事をこつこつしていればそうはならなかったのだろう。
事業をして事業に失敗しておかしくなった。
自分が苦しんでいるときその弱みにつけこんで商売してきたからである。
いちいちなにかするにも金を要求してきたのである。
何かもらわなければただでは何もしないとなっていたのである。
ちょっとした物でも運ぶのさえ嫌がっていた。
つまり何であれ人間は仕事が人生になるからその仕事で人格が形成されやすいとなるときその仕事がいいかげんなものだったらその人は将来人格的にどうなるのか?
それを考えると怖いなと思った。
ただ若いから利益をあげるためにノルマを達成するために駆けずり回っていてそんなこたとを考えることもないのである。
でも自分の仕事が何なのだろうとちょっと立ち止まって考えると矛盾や良心の痛みを感じるかもしれない、そういうことがあるならいいがそんなことを全く無視しているのが普通である。

とにかく何かそういう疑問が生まれることはある。でもそんなこと深く考えないでた利益をあげることだけに夢中になり他はかえりみない、それは自分でもカルト宗教団体に入り活動していたときあった。
なんでただ票集めだけに必死になっているのか?これは何なのだ宗教なのかというと疑問をもちやめた。
何か人生の中でそういう疑問をもつがそれをあいましいにしてつきすすむ、会社でもやめるのは簡単にできない、会社のために猛進する
それで会社なんかやめろとかいう作家がいるのもわかる、でも会社をやめるとなると自由人を目指すとフリーターとか派遣とかになってしまう
それも厳しいとなる。自分は家庭環境に恵まれていてたまたま自由人だったとなる。
でも自由人というけど社会経験がないものはあとでまた困るのである。
それで介護とか自分の病気で苦労したことを書いたのである。

自由人でまともでいることもむずかしいのである。
例えば芸能人とか芸術かでも変なのが多いだろう。社会常識がない、だからこういう仕事も何か人格形成にはいいものではない、そうなるとどんな仕事がいいのかそんな仕事があるのかとまでなる。
自由人といってもよほど優れている人でないと
「小人閑居して不善を成す」ということに必ずなるのである。
ニートなどはだから相当に危険なものとなる、今といいくても必ず苦難がありそれを乗り越えられなくなる、社会経験がない浮世離れになっても人間はまともになれないのであるでも一方で会社に人生をすべてあづけるのもまた危険だなと思ったのである。

posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月24日

abstract picture (night trains)


abstract picture (night trains)

nighttrainn1.jpg


resizennnr1.jpg
night river

resizennntrain1.jpg

crossing rails

futuretrainnn111.jpg


抽象画はキーワードから探す、抽象画でもそうである。インターネットでは何でもキーワードが大事になる、でもなかなかそのキーワードが思いつかない
今回は最初のからヒントを得て夜行列車にした。
一連のものとして何か夜行列車に乗った感じになる。
そして最後は明るい都市へ到達する、アメリカだったらサンフランシスコとかだっだ。
なぜならアムトラックで旅したときそんな感じだったのである。


The abstract picture is so in the abstract picture to look for from a keyword. I did anything on a night train with a hint from one of a beginning on the Internet at this time when but it did not readily occur to the keyword when a keyword became important.
I feel like I got on some night train as a series of things.
And if is the United States which arrives at the bright city finally; San Francisco 
It was such a feeling when I went on a trip in Amtrak.

]
朝焼けやサンフランシスコにようやくにアムトラックのつきにけるかな

冬の朝焼けが見えてアムトラックはようやくサンフランシスコについた
長い旅路も終わる駅である。


It showed the winter morning glow, and Amtrak finally arrived at San Francisco

The long route is the station which is over.


投資信託を為替差益で失敗した (為替差益でか江戸幕府も崩壊したその恐ろしさ?)


投資信託を為替差益で失敗した


(為替差益でか江戸幕府も崩壊したその恐ろしさ?)


身内の知り合いが大和証券に就職決まったと報告受けたが、
その後彼が言った言葉、客にはいい情報教えないw
とペラペラ喋っていたことを絶対忘れない。面接などで植え付けられる
汚い思想であると思われるが、証券会社社員という人種は通常の商売のような
顧客満足を目指す仕事をしてはおらず、客を食い物にするために仕事をするクズで
あると実地でわかった。

投資信託で失敗したのは銀行でしているから大きく損するものではないと思っていたことである。一つは確かにそうだった
もう一つすすめられたカナダの国債で大きく損をした。
カナダというと一番評価が高かったし安全だと思っていたのである。
国債となると日本の国債をイメージしていたがまるで違ったものである。
為替差益で120円の時買ったが100円のときに売って大損だった。
つまり外国の国債でも安全と思っていても為替差益がものすごく影響しているのである。そして為替の変動は予想もつかないのである。


幕府の閣僚の最大の失敗は、為替レートで騙されたことである。金銀の交換レートを迂闊に設定して、莫大な損失を出したことは良く知られる。幕閣の誰も経済に疎かった。
 日本の金1に対してメキシコ銀4で交換することにさせられた。
 額面は同等のようでいて、日本の金貨は金の含有量が多く、不利だった。

 徳川幕府は経済失政で滅びた(心の青雲)

この当時は金が世界の貨幣だった、金の含有量で貨幣の価値が決まっていた。それで日本の小判は金の含有量が高かったけどそのことを知らないで安く買い取られてそれで日本の財政を圧迫して江戸幕府の崩壊につながったと「心の青雲」で説明している。 
ここはいろいろなことで詳しい、反発することもあるが参考になるので毎日読んでいる
ここではすでにマネーゲームのようなことが行われていたのである。
それは金が今のドルと同じように世界の貨幣になっていたからである。
その貨幣の価値は金の含有量で決まっていたのである。
なぜスペインが一時豊になったかというとインカとかから金銀を集めたためなのである。略奪したためなのである。金が君をもたらしたのがスペインだったのである。
スペインと泥棒国家だったというのはそのためである。

そもそも銀行が何かとなるとこれもわかりにくい、不思議なのはなぜ銀行が問題になるかというとグローバル経済になったとき世界が金で左右され支配される結果そうなった
そしてドルを発行できるのはアメリカではなくアメリカの銀行がドルを発行する権利をもっているのである。

FRBはアメリカの発券銀行で有るばかりか、国際通貨でもあるドル紙幣を唯一発行しているが、驚くべきことに全株式の100%はロックフェラー家やロスチャイルド家を含むプライベートなエスタブリッシュメント(大手銀行)が握っているのです。

アメリカがイギリスの植民地だった時に、アメリカが紙幣を独自に作る事をイギリスが禁止しました。
通貨を貸し付け、利息を取り続けることは莫大な利益になるからです。
その後、アメリカは独立は勝ち取りましたが、肝心の通貨発行権の戦いには敗れました。リンカーン大統領は新通貨を発行時に暗殺され、新通貨発行は立ち消え、ガーフィールド大統領はFRBを批判した2週間後に暗殺され、ケネディ大統領は通貨発行権をFRBから取り戻した半年後に暗殺され、再び新通貨の発行は取りやめとなりました。暗殺の原因がその理由かどうかは議論の分かれるところです。

FRBはアメリカの発券銀行で有るばかりか、国際通貨でもあるドル紙幣を唯一発行しているが、驚くべきことに全株式の100%はロックフェラー家やロスチャイルド家を含むプライベートなエスタブリッシュメント(大手銀行)が握っているのです。

これは陰謀論でいろいろ言われる、その最大の理由がこうして銀行が支配している、紙幣を発行するドル発行することで金で世界が支配できるシステムになっている、それでグローバル経済が批判されるのである。
マネーゲームの胴元がロックフェラー家やロスチャイルド家などでありそこに世界のマネーを支配するとなる。
それは見えないからこそ陰謀論になるのである。銀行は世界を支配する要としてあるから問題なのである。

いづれにしろ為替差益というか金の価値は世界を旅すればわかるけど後進国に行けばわかる。中国でも前は十倍とかの差があった。今はもう何か中国と日本の円でもドルでもそれほど差がなくなっている。
為替差益というのは何かグローバル経済の異常性を一番示していたのである。
それて江戸幕府まで滅びる原因となっていたという指摘は新鮮だとなる。
なんらか経済が金がどこでも関係しているからそうなる
侍が藩が商人から金を借りていたというのもどこで侍が偉いのかとなる、士農工商はただ職業の分類であり相違にすぎなかったというのはそのためである。
つまり金を借りた方は必ず支配される方になるからだ。
金を借りたらそれを返すために奴隷化されるからだ。女性は身売りされるし奴隷化されるそして借金においつめられて犯罪に走るのが推理ドラマのバターンなのである。
当然借金した武家は藩はそれで商人に支配されてゆくことにもなる。
それが江戸幕府が崩壊した大きな要因だだったともなる。

「版籍奉還」と「廃藩置県」で諸藩は消滅し、大名は「華族」となって東京に在住します大名たちが領地を召し上げられても喜んで従ったのは、借金返済を免除されたからです

こういうことは確かにあった。明治維新も裏側を探ればそうなる。
人間は何かやはり金が経済的理由が動機となるのが多いからである。
犯罪だってそうだし金絡みの事件が多いからそうなる
世界的な動きでも金絡みでありグローバル経済になると余計にそうなる
為替差益とかはすでに明治維新の時もありそれが江戸幕府を滅ぼしたというときもそうである。戦争も常に金がからみ金からみる人もいるのもそうである。
軍資金がないと戦争もできないからである。それでユダヤ人が裏で金であやつっているとかの陰謀論になる。
今はその中心に銀行がからんでいるから何か銀行は今はいかがわしいし銀行員も何かうさん臭いとか証券会社は特にそなる。詐欺的な職業と化しているとなる
グローバル経済自体がもうマネーゲームでありそれに反発する人が多くなった。
その金はほんの一部のものに陰謀論ではロックフェラーとかロスチャイルドに集まる仕組みになっているとかなる

とにかくカナダの国債で大損したのは為替差益でありそれが盲点だった。
だから知らない人は投資はすべきではないというのは本当だった。
投資信託の仕組みは複雑すぎわからないのである。
結局人間は何でも経験である。株であれ投資信託であれ何でも経験しないとわからないのである。いくら本読んでもわからないのである。

人間は痛い目にあわない限り理解しない

これが人間なのである。津波でも原発事故でもそうである。人間は痛い目に直接自分があわないかぎり理解しないのである。
それは個々人が苦労していても自分が実際にそういう苦しい目に会わない限り理解しないのである。それが人間の盲点だったのである。
でも人間の経験する範囲は極めてわずかだからどうしても失敗するということになるのである。

タグ:為替差益
posted by 老鶯 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月23日

七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首) (一本の線につなぐ記憶の不思議)


七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首)


(一本の線につなぐ記憶の不思議)

shichiyadooo111.jpg


秋の灯や四万石の上山

数匹の虫の音聞き入る七ヶ宿


七ヶ宿虫の音ともしあわれかな我が聞き入りて去りにけるかな

七ヶ宿何かあらむや広々とダム湖に写る秋の雲かな

街道に畑を耕す人ありて旅人一人秋深まりぬ

鏡清水写せし姫の面影やしばし我がよる秋の夕暮

上山街道来たり秋の夜ともしびあわれ一夜泊まりぬ

七が宿本陣宿秋のくれもてなす村人貧しき思ふ

上山江戸には遠し何伝ゆ街道行くや秋深まりぬ

街道は芒の原や上山なお遠しかも夕暮れ迫る

七ヶ宿街道淋し上戸沢下戸沢と来て木の葉散るかな

坂道の急なるかな難儀して一すじ見ゆる山の街道

ようやくに坂をし下りいでにける桑折やさらに江戸は遠しも


記憶のことを書いてきたけど本当にこれがわかるのは老人になってからである。
記憶したものが人生ともなることは何度も書いた。
だから何が記憶されるのか?それが問題だとなる
旅をしても何を記憶されているのか?記録と記憶はまた違っている、記録というのは無数にある、ところが記憶はその人の内面化したものであり単なる記録とは違う。
そこが記録が何か無味乾燥になるが記憶は人間の存在そのものにさえなる

歴史でも記録は無限大でありとても知り得ようがないのである。
でもその歴史でもある人の経験とかかから語ると何か血の通ったものとなる
今回の記憶はなぜか七ヶ宿町で虫の音に聞き入っていたことである。
そこで自転車で疲れて長く休んでいたのである。
その時虫の声を聞いていた、あそこは淋しい所である。家もまばらである。
その虫も数匹であった。

寂けさや岩にしみいる蝉の声  芭蕉

何かこの句と通じるものがあった。そこでじっと耳を凝らして聞いていたのである。
その時はただ疲れて休んでいただけだが今になりそのことが記憶として蘇ることが不思議なのである。
それはなぜか?そこに長くいたことと辺りが静寂につつまれていたためである。
それが記憶として蘇った要因である。
都会だと人ごみの中にまぎれいったりすまとそういう場所は記憶されない、家だってごちゃごちゃして人ごみの中だと記憶されないのである。

つまり現代は何か深く感じない、記憶されないことが多すぎるのである。
それは静寂がないとか人が多すぎるとか交通が便利だとか機械や道具に頼り記録したとしても記憶にはならない、記憶とは必ずしもメモしたりデジカメでとったりしても残らないことがある。それはあくまでも記録なのである。
記憶とは心の内面に感じたものなのである。それは人間のみができることなのである。
芭蕉の奥の細道は心の内面で深く感じた旅だからこそ生れた。
それは江戸時代という環境から生れた芸術だから今になると作れないとなる。

でもにたものとして虫の声を聞いたのが通じるものがあったなと今ではふりかえる
旅するときはこうして国道とか行くとそこは車だけが行く騒音の道と化している
だから旅しても心に残りにくいのである。
七ヶ宿街道などは何か淋しいのである。忘れられた道である。白河街道でもそうである。でも昔はここが江戸に通じる本道だったのである。

この旅も白石の方から来たのだから歴史をたどる道ではない、そして羽州街道として桑折から小坂を上ったときはその坂の急なことに難儀した。山の中をおりてくる道も急だったこんな急な道を来たのかと驚いた。
自転車で歩いて上るほかない急峻な峠道だったのである。
これもまた下る道だったら別だろう。
何かここを一つの昔の街道として行ったのではなく白石の方から入り桑折から上った
二回に分けて七ヶ宿街道を旅したとなる。
現代は何か部分的に歴史をたどる道でも行くことになる
本当は街道だったら一つづきとして旅するのがいいがそうしにくいのが現代なのである。そうすると昔をたどる、歴史をたどる旅になるのである。
ただこれも本当は一番いいのは歩く旅であるがそうなると時間が何倍も車だったら十倍とかもかかるからできなくなる、今一番ぜいたくな旅は歩く旅になったことは皮肉である。歩くことは人間を回復することになったのである。

上山藩は四万石だった、相馬藩六万石である。野馬追いがあるからもっと大きい藩のように見えてもそうではない、上山はそれよりも小さかった。あの城はそんな感じである。
でも城があるから昔を偲べるということにはなる。
やはり城は街の中心にあり要なのである。城がないと何か見るべきものがないとなる
常に人間は何か中心がないと景観でもひきしまらないのである。



山形県の旅の回想の短歌 (秋から冬-七ヶ宿街道など)
タグ:七ヶ宿街道

2016年11月22日

秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝 (紀行文ー記憶は面と線と点でする)


秋から冬(短歌十首)-山寺から磐司岩ー二口渓谷ー秋保大滝

(紀行文ー記憶は面と線と点でする)

大師が山寺に住んでいた磐司(ばんじ)という狩人と遇って色々と土地の状況を問われたという所がある。そこを対面石といって山寺一の名石とされている。

futtakuchiiiii12334.jpg
クリック拡大

akihooooooo1.jpg
クリック拡大

moonvalley1.jpg

facedotlll1.jpg


(二口渓谷)

岩風呂や奥山の月我がながむ


トンネルをぬけて山形に春なお白く雪の山見ゆ

山寺に冬や籠もりぬ杉木立岩に御堂や千歳経ぬらむ

山寺に北畠神社の社かな落葉しあわれ掃き清む人

大輪の菊の映えにき磐を打ちひびく流れや朝日さすかな

雪残る対面石や清らかに流れのひびき朝の清しき

山寺に大岩古りて御堂かな杉木立暗く冬に入るかな

山寺に雪そふるなり仰ぎ見るそそりし磐に御堂隠りぬ

雪うもる馬形部落たずねけり雪に踏み入り蔵ある家かな

磐司岩そそり迫りぬ紅葉映え流れうずまき隠さる道かな

道あれや落葉を踏みて月の出る山間深く下り来ぬかも

倒れ木を踏みて下りぬ道あれや山陰に隠る月誰か見む

ひびき落つ大滝にあれその下の水澄み流れ木の葉沈みぬ



記憶は人間にとって重要なものである。認知症になるとそれがわかる。今が記憶できなくなって過去に記憶したことが生きることになっていたのである。
そもそも人間が記憶を失われたらどうなるのか?
これが相当に重いテーマであり人間そのものを問うことにもなる
歴史はいろいろあっても基本的には記憶されたものである。
だからエジフトでもヒエログリフで執拗に記録したのである。エジプトがもしヒエログリフで記録されなかったらただ謎に終わっていたろう。

その記憶というとき一人の人間でも記録されたこと記憶されたことが人生になる。
そして記憶がどうして記憶されるのか?
旅をしても今では電車であれ車であれ通りすぎるのが多い、すると何か記憶されないのである。
そのことは前にもいろいろ書いてきた。旅がいかに記憶されるのかが重要なのである。

そして記憶は面と線と点で記憶することが残ることなのである。
地理を知ることはまず地図を見てもできない、実地にそこを歩まない限りできない
特に電車とか車だと高低差がわからなくなる、これも便利なるが故に記憶からぬけおちるのである。地理は立体だからである。
坂でも峠でも苦労して上れば体で覚えていることがある。車だとバイクすら簡単に上れるから覚えていないとなる。

地理をいかにして知るか、それは近くでもなかなかできない、福島県でも広いから地理を知ることは容易ではない、自転車で会津の方に行ってもわけわからなくなった。
会津は山が多いからわかりにくいしその地理を知ることが容易ではない
宮城県になると仙台は相馬からは身近である。だから地理の連続性としてとらえやすい、仙山線があり面白山をぬけると山形県なのである。
それで春になっても宮城県側は雪が消えても山形県の山々は面白山のトンネルをぬけても雪の山なのである。面白山のトンネルが国境になる。
トンネルをぬけると雪国だったというのは日本的な新しい境を越えることになった。

グーグルの地図で大東岳とか雪になっていた。これはいつ更新したかわからないが最近のことだろう。自分のユニットバスを作った人の一人が作並でありそれも山の方だというとき土地が安いから仙台の方からそんな山奥に土地を買ったのである。
仙台は高いからである。そして愛子とかあの辺は仙台から都市が膨張している、家が密集してきているからだ
今回ユニットバスを仙台の人に作ってもらったように高速もできて仙台から福島県に拡張してくる、仙台の影響が仕事の面でも大きくなってくるのか、買い物などでは福島市から今度は新幹線で影響があった。
交通が便利になると広域的になる、青森まで新幹線で行った時も近いなと思った。

でも旅をするとなるとその間は途中はとばされて記憶されない、点すら記憶されない、電車の旅は点の記憶であり残ったのは駅名だったとかなる
線とは道ではあるがその道が電車でも車でも早いから記憶に残らないのである。

今回はなぜ記憶に残っていたかというと面と線と点として記憶された旅をしていたからである。でも実際はこれも30年前とかなるとあいまいな記憶になる。
道をたどっても途中でとぎれたりしている、記憶はそうなりやすいが思い出すと面と線と点で結ばれていた。途中はあいまいでもなんとか一つの記憶として構成できたのである。それは宮城県は相馬からだと地理的一体感が会津よりあるからなのだ。

ともかく現代は山寺でもそうだがあまりにも観光化しすぎるようになった。
山寺などでも修行の場であり観光する場ではなかった、それは京都でもどこでもそうである。本来修行の場として選ばれたところが観光になってしまったのである。
松島だってあそこが一遍聖人などの念仏宗の修行の場でありあのような美しい場所を死に場所に選んで各地から集まったという。
何か山寺でも松島でもそういう神聖な自然の場所だったのである。
それが観光化したことがその本来のもの自然と融合した宗教が失われたのである。
あの辺でもどうしても仙台の市街が近いように思うからである。
鎌倉でもそうである。密集して家並みが山に登ると埋めつくされて迫ってきているのである。東京から鎌倉まで家で埋めつくされる、それで神聖な修行の場とかがそこなわれてゆくのである。あのユニットバスを作った一人も作並のさらに山の方の土地を買ったと言っていたから仙台はそうした所まで拡張しているのである。そこではすでに雪がふっていたからである

そして秋保温泉でも何かそこはもう観光であり俗的な世界であり深山幽谷があっても何かその近くまでそうした俗世間が迫っている感じになる。
自分はその時大東岳や磐司岩を歩いたから記憶に残っている、ただどうしても時間がすぎると記憶がとぎれとぎさになりあいまいになるのである。
ただふりかえり思い出して短歌にしたりすると何かかえって深いものとなる。
旅しているときは集中できないがふりえると深化できるのである。
ここはまだ地理的連続性があり記憶をつなぐことができたとなる

山寺の北畠神社は新しいものだった。南朝に由来するとしても明治以降に建てられたものだからそれほど価値あるものとはならない、霊山とは違っていた。
ただ明治以降も南朝と北朝のことをひきづっていたのである。
それだけその争いは根が深いものだったのである。
南朝とか北朝も山寺と関係あったらしい、あそこの歴史は相当に古いからである。



タグ:二口渓谷

津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる (浜通りに一早く津波警報がでる)


津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる

(浜通りに一早く津波警報がでる)


今日は六時ころ地震が起きた、相当に大きい地震だった。でも物は落ちない、あの時はバタバタと物が落ちて立っていれないほどの地震だった。
本がバタバタ落ちたので足の踏み場もなくなった。
わたわたしていてすぐに時間が過ぎた。

今日の地震は最初3メートルはくると言ったがが海の方に行くなと言われた自転車で見に行った、津波の被害にあった家の人が車で避難していて海の方に行くなと言われた。
それで一旦引き返したがまた海老の方に行った。あそこは高いからである。

考えたことは早朝の起き抜けに地震が起きた、それからすぐ津波警報があり3メートルの津波が来るとありすでに津波がきていた。
ただ3・11の津波では最初3メートルであり次にすぐ6ーメトルであり次に10メートルとテレビで放送した。まず6メートルは非常に危険になる
もうすぐ逃げないと助からないレベルである。
でも3メートルとなるとそれほどの危機感を感じない
地震でも5弱と7では相当に差がある。

ただあの津波を経験した人は3キロ先でも避難した。
前から怖がっていたからである。
人間は一回でもあれだけのことを経験したら恐怖になる
何が起きるかわからないということもある
でも津波はやかて経験した人も死ぬとその恐怖も忘れられる傾向が強いのである。
経験した人がいたら絶対に逃げろと叫ぶし日頃も子供にもその体験を常に言うことになるからだ。だから経験しない子供でも逃げるとなる

今回の津波の時間帯が朝6時であり起きるときだから頭がまだはっきりしないしぼーとしている人も多い、それで機敏に行動できないことがでてくる
つまり津波だとぼーとしていられない、即座に行動しなければならない
それがしにくい時間帯だった
だからもしこの時間帯に3・11のような大津波が来たらもっと被害が出たかもしれない
つまりあの地震は3時ころであり朝のように起き抜けでもないし頭もすっきりして活動している時間帯だった、それでもあれだけの被害が出たのである。

地震でも津波でも特に津波の被害は起きる時間帯が関係してくる
真夜中とか早朝とか昼間とか晩とかで被害が違ってくる
3・11では不幸中の幸いとして3時ころ起きた、でもあれだけの被害があった。
とすると真夜中とか早朝とか暗くなってからとかに起きたらどうなったのか?
それを考えると恐ろしいと思った。

津波は何か見に行くなといっても見に行く人がいる。
今回は自分は津波を見たいと思った。
今回の地震はそれだけの余裕がまだあったとういことである
3・11の地震と津波ではそんな余裕もなかったからである。
あの時もこんな調子で見に行って死んだ人がいる
でも3メートルとなると防潮堤もできたから越えないと思った。
ただ経験している人は一早く避難したのである。

これくらいの地震だと余震がつづく、今も揺れた、なんか不気味である。
つくづく何か原発でも福島県の浜通りが呪われているような感じになる
その原因が神の怒りが原発に向けられてるように感じる
原発は何か人間の傲慢であり神の怒りが向けられている
それは科学的ではないにしろこの辺に住んでいるとそういうものを3・11以来感じてしまうのである。


posted by 老鶯 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年11月21日

冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)


冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)

fuyunoccccc1.jpg


残る菊空家にあわれ今日も見る

良く見れば空家に一羽冬の蝶

冬の蝶あわれ一羽の消えゆきぬ

晩菊や小さき町の駅舎かな

この庭の石に囲みぬ冬椿

岩風呂や奥山の月我がながむ

磐司岩流れうづまき紅葉散る


この道を今日も行くかな石の庭紅葉の燃えてともに住む街



毎日同じ道を行ったり来たりしていた。それも介護で十年間だったから長かった。
街の真ん中に二三軒空家がある。そこは荒れている
そこは一軒家で500万で売り出していた、でも買ってもリホームしないと住めないかもしれない、そうなると価値が低いというより500万では安い
そこに残る菊が咲いているのを見て通る

空家というのにもいろいろ表情がある。近くの空家は不思議だが荒れていない、そこにはいつも白い薔薇が咲いている、でも住んでいないのである。
そこは時々人が来て掃除などしているから荒れていないのである。

空家でも必ずしも荒れているとは限らない、ただ留守にしているという感じのものもある空家の表情は一軒違うのである。家にもそれぞれの表情があり個性があったためかもしれない。
すさまじい空家は森と竹藪にうばれた空家である。それは街から離れた所にあった。
ともかく全国で空家が800軒というからすごい、空家の時代なのである。
この辺で空家でも他から移って借りた人などもいるから空家の需要があるのかもしれないただみんな新住宅外に建った、でも一部は街の中にも建っている
あそこは二三軒空家が並んでいるからなぜだろうともなる

俳句となると写生だと前から書いてきた。この空家はすぐ近くにありそこにこの蝶がとまっていたのである。アカタテハである。
あまり街ではみかけない蝶である。
要するにただ空家にこの蝶がとまっているということが写生であり不思議だとなる
写生がすべてを語っているのである。ただ今の時代だと写真が不可欠になる。
なぜなら冬の蝶がとまっいているといってもどういう蝶かは写真でしかわからないからである。

よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉

よく見ればというときこれは写生なのである。そもそも人間はなんでも良く見ていないのである。回りでも平凡でも何か見るべきものがあるが見ていない
旅ではいろいろ見るものがあるのだがゆっくり見れない見ていないとなり忘れたとなるのである。

俳句は写生に徹すれば意外と深いものができる。この句も何か平凡のように見えても鑑賞できる人は深いものを感じるだろう、空家に冬の蝶がにあっているともなるからだ。
庭の石と紅葉が映える新しい家の道を毎日通る、やはり仮設と違い家はそこに定着するとなるから違っている
ともに住んでいるのだとみる、ここに暮らすのだとみる。仮設ではそうは見えなかったからである。


なんか旅から介護で十年間遠ざかった。母が死んでからは本当に一人でありそれがなんとも不思議な感覚になってしまった。
何か特に昼間がらんとした家にいるのが嫌で良く原町のモスバーガーにでかける。
そこでも一人だけど家の中で一人でいるのがいやなのである。
老人の一人暮らしの人がスーハーとか人ごみに出ているというのがわかる
一人で家の中にいることが淋しいからである。夜がそれほど感じないが昼間に感じるのである。

秋保温泉にはなんかずいぶん前に行った、大東岳にも仙山線から上った。あそこも登山になるから結構楽ではなかった。
登山もずっと十五年くらいしていないだろう。
何か外にでる、旅するのが億劫になった。旅でも登山でもそれなりにエネルギーが必要だった。そして家に誰もいない留守する人がいないということも何か嫌なのである。
自分が自由に旅できたのは家を守る人がいたからである。

秋保温泉から二口渓谷に行って紅葉でも見ようかとなるが仙台からバスだしこれも億劫なのである。
思い出すとあの時は二口渓谷を下った所に岩風呂があり入ったことを覚えている
その時も秋で月が出ていたのである。月は山にあう、太陽はやはり太平洋から昇るのがにあうとみなれているとそうなる。


タグ:冬の蝶

2016年11月20日

投資信託でも証券会社、銀行でもでもリスクをとらない (原発もリスクを説明しないから詐欺だった)


投資信託でも証券会社、銀行でもでもリスクをとらない

(原発もリスクを説明しないから詐欺だった)

investttttt111.jpg

投資信託などわからないでやったのが失敗だった、得したのは手数料でもうけたのは銀行と証券会社だった。
人間は知らないことはやるべきではないということは本当だった
ずぶの素人が株とか投資信託ではもうけられない仕組みになっている
第一銀行のいいかげんさに気づいたのは全くリスクをとらないからすすめる方は安全なのである。

投資信託で銀行も証券会社も絶対に損しない

これは何かおかしいなと今になって損して思った。銀行がかかわろうが銀行は何のリスクもとならいのである。

だから気づいたことは今度はその銀行の投資信託をすすめた人に個人的にもうけたら半分はやるからある程度の金を頼むとまかせる、その代わり損したらリスクを半分でもとってくれとなればまかせてもいいと思った、結局銀行を経由してやることもなかったのであるその人は訓練を積んでいるし実際に株の取引にもかかわっているとなるとそうなる

人間社会では何かリスクがどこでもあるものだとつくづく津波とか原発事故で思った。

こんなにリスクがあるのか?

原発をがこれほど恐ろしいものだとみん思っていなかったのである。そううい知識もなかったのである。
株とか投資信託もそうである。投資信託は株と同じである。外国の国債でも日本の国債と思い安全と思い買ったがこれが非常に危険なもので大損していたのである。
それも知識がないからそうなった。為替差益で円高になって大きな損失になっていたのである。
資本主義社会は社会主義と違ってリスクがありそのリスクでもうけが大きく左右される
事業でも起こすことができるがそのリスクが大きいのである。それは半端じゃない、ギャンブルともにている
実際に自分の母方の祖父は警察署長していても機織りの工場をその時のブームでして失敗して一家離散になった。
父方ではやはり工場が倒産してその土地は今は更地となっているそして最近自分の見にふりかかったのがやはり遠縁であってもかかわりがありそれで苦しめられたことを書いてきた。
へたすると相手は借金なので殺されるのかとすら恐怖を感じた。そういう推理ドラマが常にあるからだ。借金のためにはどんなことでもするようになるのが人間なのである。
自分が病気であり介護のときに責められたから地獄の恐怖だかったのである。

いづれにし事業で成功するのは20人一人とか本当にまれなのである。事業で失敗したなどごろごろどこにでもいることなのだ。そこから事件が起きてくることが推理ドラマのテーマになっていることでもわかる。
資本主義社会はリスクをとり成功すれば社会で特殊な地位を築ける、トランプのようにな大金持ちにもなる、ところが一旦失敗したら悲惨なのである。
それで自殺する人も多いということはそれだけ事業で成功することは並大抵のことではないのである。

もともと船で航海して貿易するとおおもうけできた、その時金をだした株主は船が沈まないならら大儲けしたがもし船が沈んだら大損になっていたのである。
そういう資本金を出すにしても賭けであり賭けに勝てば大金持ちにもなるのが資本主義なのである。
勤勉の資本主義もあるがリスクをとってもうける資本主義もある。
そして現代ではそうしたリスクも結局マネーゲームでもうけるのはギャンブルだったら胴元だけななっているのかもしれない、その仕組みに精通できないからである。

人間はなんらか人生では株でなくてもリスクがある。どんな人間でも別に特殊な人間でなくてもそういうリスクをもたざるをえない、要するに人間は先を見ることができないのである。
母が東京で結婚して一年にもならないのに夫が事故で死んだとかなにか常に意外なことが怒りその人生航路が狂ってしまうのである。
まずいくらリスクをとらなくてもリスクをとらされるのである。
母はもともと何にも冒険するようなことをしない大人しい女性だった
ところがこの辺で水害になったとき炬燵の穴に入って怪我をしたのである。
つまり人間はいくら安全を計って家の中にいても危険がある
危険がもうさけられないとなっている、津波でもそうだった。あんなものが来るとは誰も予想できない、これほど生きていることが危険なものか思い知らされたのである。

そして人間はまたリスクをとりそれを乗り越えないと一人前にもなれない
イチカバチカの勝負に出て一人前になる、英雄にもなる。もしそのリスクをとらなければ英雄にはなれない、またそういうリスクがなかったら人生もつまらないともなる
別に自分で望まなくてもこの世では否が応でもリスクをとらされるのである。
たから証券会社でも銀行でもリスクをとらずに自分は安全圏にいてもうけるのはおかしいと気づいたのである。
そんな商売は詐欺にもにていると思った。

他の仕事でも建築関係でも医療関係でもリスクがある。技術的に安全を確保するための努力を払っているのである。
原発は最もリスクがあるものだったのである。それを知らせないのは証券会社とか銀行と同じだった。
投資信託などすすめて失敗してもリスクをとらないのからである。
原発は間違えばこれだけの被害になりますよ、リスクがありますよと知らせないで教えないで事故になったからである。これが詐欺だったのである。
これだけ原発で被害があったら他の国では台湾でもベトナムでもトルコでも日本から原発を輸出できなくなるのは当然である。
そのリスクを考えたら大損なことがわかるからである。
その負担は立地した市町村や県や国民全体でとらされる
税金が延々ととられるからだ。それに頭にくるのもわかる。原発にはそれだけのリスクがあったのである。国民にそれだけの負担を強いるリスクがあってもそれを良く説明していなかったのである。

ただリスクという時別に株でなくても貯金していても安全かというとそうでもない、預金封鎖とかインフレとかで金の価値もなくなる、自分の母は戦争中前の夫が事故で死んで大金をもらったがその時買ったわずかの土地だけが残りあとは紙幣は戦後紙きれになったのである。
だから預金も安全ではない、要するにこの世に完全な安全などないのである。
どんなに安全を計ってもない、病気にならないようにどんなにしようとなる人はなる。
それも保証できない、人間の肉体自体がリスクをかかえているのである。
どんな丈夫な人でも病気になるとたちまち総崩れになる、一転してこれほど人間は弱いのかと驚くのである。
優秀な人でも認知症になったら頭もだめになるからもう信じられないとそのことを書いてきた。
そうしたことは晩年に最後に起きやすいのである。

いづれにしろ何でもリスクがあるのにリスクをとらないのはずるいと思った。
原発だってこれだけのリスクがあったが会社の社長でも幹部でもそのリスクをとっていないのである。他の事業を起こした人はリスクをとらされる、それで自殺する人も多いからである。
そういうリスクがあるとしたら株でもそうだが知っていればそんなもの作らないだろう。作ったからにはそのリスクをとることが責任をとらされる
でも政府でも官僚でも東電でも誰もそのリスクの責任はとっていないのである。
それは証券会社とか銀行と同じだったのである。
それは国家的な詐欺でありまんまんと国民もだまされたとなる
神国神話などもそうでありこれも国家的詐欺の一面があった。宗教には詐欺が多いからである。
そのために300百万人も死んだとなるといくら英霊だなどと言っても死者が浮かばれないともなる
ただ国民にしても銀行のすすめで投資信託でもうけようとしたのでありその本人も責任はあり責任は損失でとらされる、でも証券会社は銀行はとらないのである。
そんな人たちに原発をまかせられるのか?

国家の詐欺は誰も責任をとらないが国民が責任をとらされる 

つまりもしそれだけのリスクをとらされるとしたらどうなるのか?
必死で銀行でももうけようとするしアドバイスもする
別にリスクをとらないから本気にはならない
失敗したら切腹させられるとかなれば本気になる。でも原発ではそういうことであまり真剣に安全のことは考慮していなかったのである。
そもそも原発は人間が完全に安全に運転できるものではなかった。
その割にはものすごいリスクがあった
確かに交通事故もリスクである。未だに年に6000千人は死んでいるからである。
これもそのリスクを承知で車を運転している
ただ原発は強固な「安全神話」を作って成されていたことが問題だったのである。
証券会社でも銀行でも一応元金割れのリスクは言っているからである。
原発にはそういうリスクがありますよということが「安全神話」となり言われなかったのである。
でも大損失になりリスクを否が応にも地元ではとらされたのである。

確かにこの世に生きる限りリスクはまねがれない、どんなに安全だといっても今回の津波のように予想外のことが起きてくる。
ただ人間はリスクをとらなっかたら大航海時代も何も人間は進歩しないというのもそうだった。様々なリスクがあってもそれを乗り越えてきて進歩したとなる
人間の生きる醍醐味はリスクを乗り越えてそれで生き延びるとか成功することにあるからだ。
ただ闇雲に勝算もないのにリスクをとるということも問題である。
原発は科学が主要なものとして運営される、科学技術の粋が集まり運営される
科学というのはリスクをとってはいけないものである。一歩間違えば犠牲が出るからである。建築だってそうであり原発はその最たるものだったのである。
航空機でもこれも安全が第一でありそれは計られている、もし一回の事故でも犠牲者が多くなるからだ。だから万全を期しているのである。それはほぼ達成されている
原発はさらに厳重に安全に万全を期していなければならなかった。
しかし現実はそうではなかったのである。


posted by 老鶯 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

浜通りは東京の影響が大きかった (戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)


浜通りは東京の影響が大きかった


(戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)

rocktushima1.jpg

津島なる岩に作れる墓一つ重みあるかな秋の日暮れぬ


集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。

結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる

戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)

この間、全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

戦後の開墾も厳しいものだった。小池などにも戦後開墾に入った人がいた、街から近い、いたりる所に開墾に入った、仕事がそのときなかったからである
津島から葛尾まで(残暑)

2006年とかのフログを読み返してみると不思議である。自分で書いたものも忘れる。それでまた読み返して付け加える。それが簡単にできるのがインターネットである。
福島県は東京と近いから東京の影響が思った以上大きかった。
戦前でもこれは全国でもそうだが森林資源とか石炭とか石とか資源は外国ではなく国内に求めていたからである。
それで常磐炭鉱などもそうであり石炭がエネルギーだった時代に鉄道も発達した。
鉄道ははじめは貨物輸送のために作られた。北海道なども小樽なども石炭を運ぶために鉄道が作られたのである。
資源を国内に求めたからそうなっていた。全国に森林鉄道が網の目のように作られたのもそのためである。原町が明治以降発展したのはそうした資源を運ぶ鉄道のためだった。
原町機関区であり駅前通りににぎわいが生まれた。それは全国的なものである。
そして原町紡績は原紡には鉄道の引き込み線があり生糸が鉄道で運ばれていたのだ。
原紡には自分の母親が十年間か糸取りで働いていたのである。

東京は一見遠いようでも福島県となると近いからその影響は戦前もあったし戦後も継続してあった。東京は巨大な消費地であり生産地でもあったからである。

東京に木材が運ばれる
石材が運ばれる
常磐炭鉱から石炭が運ばれる
原町機関区に何本もの線路
駅前は活気を帯びていた
もうもうと煙を吐いて蒸気機関車が行く
国鉄というごとく鉄道は国を支えていた
その燃料は石炭だった

明治維新から汽笛一声新橋からとか鉄道が新しい文明を知らしめたのである。
なぜなら関所もなくなり切符一つで全国土子にでも行けるとういことは日本全体が一つになることで意識するようになったからである。
その変化はいろいろあっても大きなものだった。
その時から実は福島県とか浜通りは東京の影響を受けてきたのである。
自分の母親が東京に女中で働いたり姉は看護師の資格をとるために東京に一時住んだとかある。
東京はその時代は田舎と東京との差は大きかったから東京に行くことは憧れとなっていたそれは戦後もそうであり自分の大学も東京に選んだのはそのためである。
ただ一方で集団就職とか出稼ぎとか東京に働き出ることはつづいていた。

そしてなぜ原発が双葉とか大熊とかにできたのか?
そこは相馬市とか原町市とかと比べると僻地になっていた。浜通りのチベットなどと言われていた地域である。その地域振興策として出稼ぎでなくても地元で働けるものとして原発が誘致されたのである。
そして東京の目論見としては安全を確保するために福島に原発を作ったのである。
コスト的には送電線などが必要だったけど東京に事故を起きること許されないとなり福島に作ったのである。
経済的にはやはり巨大な東京の影響が特に浜通りでは大きかったのである。
それが結局徒(あだ)となったのである。

東京というとき浜通りはいわきは明らかに仙台より近く感じる、なぜなら東京までの通勤電車が出ているからである。
常磐線でも原町からいわきに行くの二両の電車であり不便である。
でも仙台には八両の電車であり一時間おきとかに出る、今度は高速ができたのでユニットバスをリホームする会社が仙台から入ってきて200百万かかるのを100万で作った。
今度は鉄道から高速の影響がでてきた。ここはもともと仙台の影響が大きかった

そして津島では中国人の嫁がこんな山の中に住むのが嫌だとナタで夫を襲った事件があったのだ。確かにあんな山の中だと日本に憧れたのは都会に住みたいからだったろう。
でも別に浪江とか町の中に住めばそういうことはなかったろう。
原町も近いし結構都会だからである。
赤生木から津島に行ってそこから葛尾村に行ったのは10年前にもなった。
あそこで印象に残ったのは岩の墓があかったことである。
なにかそこに墓の重みを感じた。墓は最後に人間の姓の継続を語るものである。
つまり家がなくなっても墓は残っていることが多いからである。
この辺でも事業で倒産した家があったがその人は住んでいないが墓は残っていたのである何かそしてあの岩の墓は貫祿があり重みがあると感じた
地元でとれた岩で作った墓である。ただ岩にしたのは加工していないから金はかからないとなっていたのかもしかれない。

ともかく赤生木とか津島とかは一番放射線量が高かったからもう住めないとなる。
だからあの墓もなくなるのか?どうしても人が移りいなくなると墓も移動するからだ。
津島は戦後開拓に入った人たちが多かったみたいだ。それで結束が強いと報道された。
あそこは浪江町の中心部からすれば相当に遠いのである。
どっちかというと三春に近いのである。
あそこに人が住まなくなるとどうなるのか?墓だけ残っていても墓参りする人もいなくなる、そして遂には荒れ果ててしまうのだろうか?
もしかしたらナタで襲った中国人の嫁は喜んで都会に出たのかとなる。
そういう辺鄙な地域なのである。
でもそうきいう場所に津島から葛尾村へゆく森の道にまさに待宵草(月見草)が自分を待って咲いていたと詩的にはなるのである。だからまた行きたいとなる。

posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2016年11月19日

百万のユニットバス完成 ( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)


百万のユニットバス完成


( イワタニで一坪タイプで二〇〇万だと言った)

unibasss1112233.jpg


unibasss11122.jpg

unibasss111.jpg

入り口は開閉式であり中は密閉されるから風が入らないからいい

シャワーの裏に給湯器がついている、

この位置がガスでは値段に相当な差がでてくるから注意



仙台の優 創建のユニッハバスが完成した。イワタニガスではこれは一坪タイプで200万するという。
完成品を見て驚いていた。この辺ではこれだけのものを作ると200万するというのは本当である。
要するに人手も集められないし個々に頼んだりすると金がかかる
一式いくらと最初から請け負い値段を決めてかかっているから高くならない
自分もまず壊すだけで大変だと思ったからである。
そしてユニッハバスのことを全然知らなかったのでバスだけをとりつけるのかと思っていた。
でも実際はユニットであり室内にバスがついている一体のものだった。
それがきれいにできたのでまるでホテルの風呂のようになったのである。


まずこの辺ではこれだけのものを一〇〇万で作れない、でもその差が大きいとなると知られれば注文が増えるかもしれない、そうなると福島県とか地元でも競争になり苦しくなるなぜ安くなるかというとやはり安くするシステムを構築してはじめたからだろう
人手確保するだけでもむずかしいことがあるからだ。
それと高速ができたので仙台でも早く来れるというのも大きかったかもしれない

現代というのはこうして交通が便利になるのはいいがそれと同時に広域的な競争を強いられる
それはグローバル経済になると世界の競争とまで普通になっていた。
ところが建築関係でも高速などができるとその仕事の範囲が広がってくるのである。
すると地元でもやはりその競争が強いられるし値段だった安くしないといけない
それは別に今まで起きていたことである。
でも建築関係となると距離があるとむずかしい面があったのだ
あとでめんどうみれないとかもあり不安だったのである。

ガス代も一日ずいぶん安い値段だった、何十円とかかからないとかそれはわからないが相当に安いことを言っていた。
それはホースが長いとガスは高くつくという、風呂のすぐ裏に給湯器を設置したのでそれでガス代がかからないという、この長さが相当に影響すると言っていた。
バスとの距離はほとんどないからである。

ともかく早くできたし安かったし完成品はいいものだったし得なことばかりだった
これを知ったら注文を福島県でもとれるかもしれない
地元でも福島県の業者でもこういう建築業者がリホーム業者がいることを知っていた方がいい
つまり仙台はそれだけ先進的なことをしやすいということである。
すると距離が短くなるとそういう先進的な業者が入ってきて地元の仕事が奪われるということになる
これは建築関係ではあまりないと思ったがここでも広域化経済の影響がでてくる
広域化とかはグローバル化でなくてもこの影響はまねがれないのである。
仙台となるとやはり高速でも近くなりその影響がすでに出てきている
この辺は仙台中心に経済でも先進的なものが拡張してくることがしやすいからである。
前からもそうだったが高速の影響がでてきてリホームにも影響がでる

リホームとかなると何か地元の大工が細々とするというふうに見た、何かそれが人手を集めて短期間で工事が終わった。地元ではあんなに手際よくできない
こういう業者が地元に入ってくることはかなり影響があるようになるかもしれない
百万というのは安いしできあがりもいいからである。


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始



2016年11月18日

原発利用「過去分」に反発-福島事故賠償の国民負担案


原発利用「過去分」に反発-福島事故賠償の国民負担案


国民も被害者も共同で原発廃止に戦いないことが問題

reddddddddd.jpg


2016/11/16 20:26

 経済産業省は16日、有識者による「電力システム改革貫徹のための政策小委員会」の作業部会を開いた。東京電力福島第1原発事故の損害賠償費用を工面するため、原発による電気の利用者が事故に備えた保険料として積み立てるはずだった「過去分」と称し、最大50年さかのぼって国民から広く徴収する案を検討した。ただ原発を持たない新電力の反発が強く、議論は曲折もありそうだ。

 現在は、大手電力が一般負担金として電気料金から賠償費用の一部を回収。2015年度は総額1630億円で、原子力損害賠償・廃炉等支援機構が、東電が担う特別負担金や交付国債と合わせて費用を拠出する。


自民、東電、官僚、 

最強トリオだから自然な流れw 
たてつけば社会から抹殺されるw 
スーツを着た化け物の集団w 

NHKの構図を原発でもしようとしてる自民党・公明党・維新・こころ 

日本人ならこの4党にいれないこと 自分の首を絞めてるバカになるぞ 

債務を負う必要のある香具師 
1.法人としての東電 
2.東電の歴代の「経営者」:取締役相当以上 
3..株主(但し株式が無価値になるだけだけど) 
4.東電に対する一般債権者(銀行他。不法行為請求権者は含まない) 
5.当該原発を建設した建築会社 
以上私法上の取り扱い。さらに 
6.所轄官署:経産省の原子力担当の歴代の役付以上の構成員 
7.保安院の構成員 
8.設立の認可に関与した歴代の議員 
以上行政争訟法上の責任者 
辺りか。これらは矛盾しない。 

東京電力HD、2016年3月期の最終損益は1507億円の黒字 

監督責任のあった歴代の 
経営陣、現場責任者、株主、原子力規制庁、文科経産大臣、文科省経産省幹部、総理大臣、 
これらの方々がまず負担するのが筋じゃないですか 

原発には物凄く特別な制度が多い。 
原発だけに認められるってのが。 

税制優遇 
会計優遇 
費用徴収上の優遇 
訴求法 
究極の非科学のごり押し(火山噴火予知して燃料運び出すとか) 
世論無視 
軍事的な脆弱性の無視 
処理場がないのに、稼動を続ける  

こんなこと言い出すから福島の子供が虐められんだよ。 
家の中で「福島の人間の為に税金使われんのかよ」とか絶対に愚痴る親は出るよ。 
それ聞けば福島の子供は金が自由になって、それは税金から出てんだ、だから、カツアゲしようとか思うガキも出るさ。 



原発事故ではいろいろ追求してきたけど一番理不尽なのは原発事故を起こしたのは天災ではなく人災という面があった。
それが津波のせいにされたり誰も責任を問われない、第一事故を起こした時の東電の会長とか社長も何の責任もとっていない、海外の子会社に移っているだけである。
そして事故の責任は政府にもあった。その政府も保安院もなんの監督もしなかった。
なんの働きもしなかった。ただ飾りとしてあっただけである。
この問題で国民が頭にくるくのもわかる、結局みんな事故のつけが責任が国民に回り国民負担になった。
そして肝心の責任者は責任をとらず全部責任は国民に回ってきたのである。

その国民の怒りがどこにゆくのか?

原発事故の補償金は俺たちの税金だ、なぜあんなに補償金を国は出すんだ もう出すのはやめろ

こうなっている。

そして補償金の問題は事故で実際の被害に遭った地元でも多くもうら人ともらわない人と全くもらえない人がいてその間で分断された。そのことはずっと書いてきた。
地元の人にも確かに問題があった。ただ自分が金を多くもらえばいいしか考えなかったのである。そういうことは自分にもあった。もっと補償金をもらいたいということは誰でもある。

ただそれで見逃されたのが原発事故が何であったのか、何に誰に怒りを向けるべきだったのかがあいまいにされた

今回の50年もさかのぼって国民から原発事故の補償金をとるというのは暴挙ではないか?
これは何か補償金をもらう側にしてもなんでこんなに国民からあくことなく原発のために金をとるんだ、いいかげんにしてくれとなる

これは補償金をもら事だけしか考えない地元の人も考えるべきである。
なぜか、原発そのものがなぜこんなに理不尽なものであり害があるものなのにありつづけるのか?
そしてなぜ誰も責任をとらないというときそれが原発に対して無責任だとなる、事故が起きようが誰も責任をとらないのだから無責任体制であり事故があったらすべての責任は国民の負担になる。
そして国民が原発がそんなに必要だとして求めたわけでもないのである。
戦争のときは国民が熱中したということがあるが原発は地元の人は金になるということで誘致しても他はない、電力がたりないからだというのも嘘でありまにあうようにできた。
だからこんなに負担ばかりかかる原発を作るのは維持するのは何なのだろとうなる
国民の民意に逆らうもをなぜ造り維持つづけねばならないのか?
それはアメリカの命令でそうなっているのか?
何かもっと大きな力が原発には働いていて国民の民意すら無視されている

そして最大の問題は地元でもただただ賠償金のみに労力が費やされたことである。
そして事の本質がみえなくなって内輪もめになったことである。

つまり原発に関しては国民がいて地元の被害者がいるがそれが対立するものであってはいけない、共同して戦うべきものでもあった。
原発は一小地域の問題ではなかったからこそそうすることを志向するべきだった。
そのためには地元でも賠償金だけに目が向き誰と戦い何と戦うべきが見えなくなったのである。

ただ外からはあいつら俺たちの税金をむしりとるだけの奴らだ

そうみられたとき真の共同の敵が何か誰なのか見失われたのである。
そして国民がそうして賠償金をもらった人に不満があり責めるときその真の責任者の責任は問われないのである。
だから国民一体となってそうした真の責任者を問いその人たちにこそ賠償すべきである。でも東電でも政府でも何もしていないのでありかただ国民に負担を強いている

国民と賠償金をもらう被害者も共同に戦う道を探る

賠償金で分断されている地元も一致して原発の責任者を責める

この方向にもってゆくことを考える、共同で一致して国民が戦わなければならない敵は誰なのか何なのか明確にならないからこうして分断されて原発では戦いないのである。
国民が税負担で不満をつのらせると避難者がいじめられたりするのもそのためである。
それは賠償金をもらう方にも問題があることを認識すべきだがそれと同時に国民が一体となり原発に対して態度をはっきりしていない

要するに原発に関して国民の態度が一致しない

右翼は原発と核武装をセットに考えて廃止とはならない、左翼はまた政治的意図のみで原発に反対する、これも分断されている
原発そのものを廃止するにしてもそういう右だ左だと政治的闘争になる
そもそも左翼が原発が危険だと言ったとき右翼は左翼の言うことは容認できないとなり科学的なことより原発そのものをどうするのかというより政治闘争になっていたからおかしくなった。

それで国民投票で決めるべきだというが日本ではそうしてここの案件では国民投票で決められない、法律もないのである。
右だろうが左だろうが別に関係なく原発そのものをなくすべきだという人は国民投票になればそうなる、でもできないからこそ不満がつのる。
共同で国民が戦うことができない、それでまた国民に理不尽な税金が課せられてそれが今度はまた原発で賠償金をもらっている被害者への不満となりいじめにもなる。
そういう悪循環になっているのが問題なのである。

ただ共同で国民が一致して原発廃止の戦いとなると相当にむずかしい、どうしてまとめるのかとなると困難を極めることは確かである。
ただそれが故にまた政府とか東電とか官僚でも責任者は責任は問われないから利してゆくだけだとなる。
国民でも被害者でも共同の敵を明確にして戦う姿勢がないとこのことはまだ延々とつづくのである。
それは被害者でも賠償金のみを考えていると国民と共同できないのである。
それは内部でもそうである。お前はどうなんだというとき別に自分はすでに一人70万もらっているから賠償金は関係なくなっている
ともかく原発問題は被害があった一小地域の問題でもなかったし広範囲な日本という国の問題であり世界の問題でさえあったのである。
それか立地する土地の所有者と県の許可で建てられたということが信じられないと今ではなったのである。
posted by 老鶯 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年11月17日

晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


晩菊(原町へ行く旧街道の川子の枯れた松)


matuuuuuuu12345_FotoSketcher.jpg

kogikuuuuu3456_FotoSketcher.jpg

momijiiiiiiiiiie12344_FotoSketcher.jpg

momijiiiiiiiiiie123.jpg

陽のあたり小菊一杯飾る道

晩菊や旧街道の枯れし松

晩菊のとりどりここに今日も暮る

晩菊やここになおあり枯れし松

石の庭ここに落ち着き紅葉燃ゆ

明らかに夕星(ゆうづつ)一つ冬に入る

石二つ庭に眠るや月明かり

枯れし松なおここにありその生を留めんとして冬に入るかな

この道の落葉の雨にぬれにつつ我が踏みつつ今日も暮れにき

木枯らしや老いてあわれも散り散りに木の葉散らさる事故の後かな



今は秋から冬になるけど今年はまだ晩秋になるだろう。晩菊とか紅葉も今にあっている。季節の感覚が変わったのである。
原町への旧街道の松は枯れたままなお残っている、まるで幽鬼のようにまだここに根付いてある。実際はこの松は死んでいるのである。
でもなんか自分の母親は百歳まで生きたけどまさにこの松のようだったのである。

これは死んでいるのか生きているのかやはり倒れないから生きているのか?枯松という地名も残っているようにこういう松は各地にあった。なんかここに自分が死んでも跡を残すような執念すら感じてしまうだろう。人間は思うにそれだけ生の執念は強いものである。
一旦生を受けたら本能的に簡単に消えたくない、いや消えるということに耐えられないのである。
動物には死を気にしないというが嘘だった。隣の犬は死ぬ時三日前くらいから悲しそうに吠えつづけていた。それは死にたくない死にたくないと吠えつづけていたのである。

これは別に寝たきりの人とは違う、最後までその土地に大地に根付き枯れて死んでゆく、ここが旧街道でありその土地にもあっている。その場所にあっている
松は人間ならもっとここにいたいということが伝わってくる
人間は長年住んでいるとそういうふうになる、だから老人は長年住んだ所に生きて死にたいとなるのである。
ただあそこにリサイクルの煙突があったりなにか景観は変わってしまった。
相馬の方に行く五本松は良かったがあそこも二本の松が枯れたのは残念である。
この松に祠もあり供え物もしている、何かここにまだ残ってほしいということで近くの人がそうしたのか?
この根元に橙色の晩菊が咲いている、それは何か自分が百歳の母親を介護しているという感じなのである。自分自身も年であり晩菊になったということである。

石の庭に紅葉が燃えているのもいい、移動して動く時燃えるとなるが実はじっとしていて燃えるということもある、心が定着して燃えるということもある。
それは一つの場所に定着して仕事するということでもあるのだ。
あまりにも動いていると集中できないということもあるのだ。
何か仕事をするにはどこかに定着しないとできないのである。
この辺の状態は変化しすぎて何かそうして定着して落ち着いて仕事しにくいということがある。
あの家だって建ててからまだ一年なのか二年なのかそんなものなのである。
ただ落ち着いたという気分になる。仮設では落ち着いたとはならないのである。

石二つは庭に眠っている、争わない、自分の家では60年も争っていたが今は争いもないというとき不思議だとなる、人間は死ねばみんな争うことはない、生きている内はみな何か争っているのである。男女ともそうである。
死ねば皆争うことはない、石のように争わないから不思議だともなる

それからこの辺では原発事故で避難して家族が散り散りになった。
木枯らしは最近吹いたから冬なのか?
木の葉は風に吹き散ったとき、何か散り散りになった家族のことをイメージした。
自然でも人間のことをみているのである。
散り散りに吹き散らされた木の葉は何かこの辺の状態を象徴している風景なのである。




タグ:晩菊 枯松

原発避難の生徒がいじめで不登校「賠償金もらってるだろう」  横浜市


原発避難の生徒がいじめで不登校「賠償金もらってるだろう」 

横浜市


しかもその150万は、いじめを受けていた彼の両親が、生活費として自宅に保管していたものだそうで、賠償金ではなかったという。明確な金額は明かされていないが、震災による「賠償金」として受け取っていた額は、この家族が「自主避難」だったということもあり、低額だったそう。何とも不憫な話だ…


この事件の背景も複雑だと思った。まず誤解されやすいのが「自主避難」だったとなるとこれは賠償金は家賃くらいしか支払われていない
150万は親戚から借りたものだったという。
「自主避難」は個々に分かれて住んでいる、避難区域になった人たち東電の社宅とか集団で住んでいる、「自主避難」と避難区域の避難者の差は大きいのである。
避難区域の避難者は賠償金を相当にもらっているし待遇がいいが「自主避難」はないのである。
その区別もなくいじめられた、そこには誤解があった。

そもそも「自主避難」は地元でも問題があった。福島市とかでも避難した人たちがいて地元に残った人たちに批判されていたのである。
なぜ逃げる必要があるのかと避難されていたのである。
だからこの問題も複雑なのである。
「自主避難」は地元の人からも非難されていた、そして避難した先でも非難された。
これとは何なのだろうとなる
ただこのいじめは原発避難者全体の問題でありここではあまりにひどいから告発したのである


例えいじめでも福島県民相手なら仕方ないなぁって思ってしまう。 
復興税に凄く腹が立ってる。

「自主避難」だから親も放射脳なんだよ。 
東電からはほとんどお金も貰えないのに避難した人たち。 
親が放射能気にしすぎの性格だから、 
子供にも何らかの影響があったんだろ。

みんなで支えあって生きて行かなければいけない時に自分達だけ逃げます 
って人間を信用出来ますか? 
まともに付き合っていこうと思いますか? 
そんな人間とはまともに付き合えないのは差別になるのですか?  

たかり恐喝をしたクソガキは論外で、子供を放射能まみれの福島から逃がすべきなのは当然としても 
危険な原発を誘致して東日本一体を汚染させた連中に金をやりすぎではある 
福島に留まっている連中にはもう金をやる必要はない

当時は福島ナンバーってだけで石を投げられたんだぞ 
なんか世界じゃ美談みたいになってるけど



ともかく人間は金のことになると本当にうるさい、まず第一一番補償金でもめたのは原発事故周辺であり福島県だったのである。そのこを自分もずっと書いてきた
だから外部でこんなに熾烈ないじめがあったことに驚きである。
この辺でも30キロ圏内と外で補償金が違っていて子供までまきこまれ争いがあったと母親が泣いて訴えていた。
南相馬市では小高と原町と鹿島で分裂状態になったのである。
内部での争いの方がひどかったのである。
鹿島の人は小高の人と口を聞かないとかまでなっていた。

自分も小高の人を批判したことでも「お前は傷口に塩をなめて楽しいか」とかプログに言う奴がいた。自分は建設的に原発問題に関しては取り組み発言していたのである。
小高のことは南相馬市だから自分の身にも及ぶことであった。
ただ避難者でも浪江の人とか大熊でもその人たちのための復興住宅が南相馬市に建っている、それは県で建てたものであり福島県内に建っている、その規模も大きいのである。
だから原発事故で自覚されたのは原発は大熊と双葉とか原発が建っている所だけの問題ではない、福島県内の問題ですらない、東日本や全国をまきこんだものとなっていたのである。

まず原発避難者にも仮設に住んでいる人にも問題があった、この辺では仮設に入っている女性が鹿島区の議員が回っていて応援していた。
そして常に外部の人がボランティアなどが来て応援していたのである。
だから自分たちはかわいそうな人であり応援されるのが当然であり補償金でももらうのが当然だという意識になっていた。
自分はせめて福祉だけでも公平にすべきだと言ったが補償金のことを言っただけでその人は怒っていた。
お前はかわいそうな人間にも同情しない人間なのかと怒っていたのである。
避難者にはいろいろな人がいるにしてもなにか傲慢な人も多かったのである。
だから回りの人たちの評判も良くないということがあった。
原発避難者はなにか特権階級化したのである。
ギャンブルでパチンコなどで毎日遊んでいた人もいたし東京辺りまで風俗とかで遊んでいた人も現実にいたのである。それは一部であってもそういう人がいたことは本当である。だからいわきでは二万人も避難したとなるともめたことは当然なのである。
そして問題はマスコミの報道の仕方にもあった
必ず避難民側について報道していたからである。
避難民をちょっとでも非難することはそいつは同情心もない薄情な人間だとされてしまったのである。

でもこの辺は相馬市となると隣でも原発避難者のように何ももらっていない、補償金をもらったのは30キロ圏内でありその外で南相馬市内ならもらったが30キロ圏内をはずれると一人70万しかもらっていない、それでも相馬市になると全くもらっていないのだからその差は大きいからいつも不満を言っていた、働いてくれとかスーパーで高いものを買っているとか女性だから細かい所を見ている、その人は生活も苦しいとなると余計にそうなるのである。

この補償金は本当にこの辺でかえって災いとなったとまでなっている
そのしこりが大きく修復もできないし協力もできなくなったともまでなっているのだ。
それは避難した側にも反省を強いるものがあったがそれを誰も公には言えない、言うと「お前は傷口をなめて楽しいか」とかなる
外部だったら一回でもボランティアに来てされば関係ないとなる、でもここに住む者にとっては南相馬市民だったら否が応でもかかわらざるをえないのである。
だからこうして内部でもめることは復興の足かせとなったのである。
それで桜井市長も相馬藩の飢饉の時のことを言って自主的に復興してくれと小高の人たちに言うようになったのである。

原発避難民は補償金で遊んでいるだけだ

なにかそういうことが否定できない、それが心証を全国的に悪くしたのである。
これは実際事実だかどうにもならないことである。

そして怖いのは国民がなんであんなに何兆もの金を賠償金につぎこんでいるのか?
それは俺たちの税金なんだと不満になっていることなのである。
だから本当のことはわからないにしても福島県外に出て泊まったりすると嫌だなと感じたただ福島県内でも原発事故周辺でも補償金でもめたし今ももめている。
浪江町でも避難して住めない区域になった所とかありそこでも補償金でもめていたのである。人間金のことになると執拗になりめんどうになる。

この問題の複雑は国民の世論がなんであかんなに原発事故は地元の人たちにも金が欲しくて誘致したから責任があるのに手厚い補償がされている
そういう国民の不満が底流にあり世論となっている。
それは政府にとっても東電にとっても好都合になる。もう政府でも東電も補償金を払いたくないからである。そうしてもめることや国民が批判することはいいことだとなってしまう。

補償金はもう打ち切れ

それが国民の世論になっ ていることが怖いのである。この問題の背景にはそういうことがありこのいじめ問題もあった、避難民は現実に一部では余りにも優遇されてそれに甘えたたということはあった。
でもそれを公に言えないからこうしていじめとか陰湿なものとしてネットでかでもその不満が噴出しているのである。
マスコミでは必ず避難民はかわいそうだから援助すべきだとしか言わないからである。
だから金がすべて良い方面に働くとは限らない、悪い方にも働くのである。
でも金の世の中になるとやはり金が第一であり金さえあれば勝ち組だとなるのが現代の社会である。

でも金だけではこの辺はかえってうまくいかなくなった。
相馬市の人もなぜあの人たちは働かないで補償金で楽に暮らしているのか?
自分たちはあくせ働いているのにとなった。
その数が多いということも否応なく意識されたのである。
避難した先で仮設で暮らしていても毎日その土地で遊んで贅沢な暮らしていたら顰蹙をかう、でも小高の人が言っていたのは
「私たちは買い物して助けてやっているから歓迎されているのよ」と本当にそう思っていたのである。
それは消費者が王様だという現代の経済を反映していたことでもある。
でもそうして働かせられている人はどうなるのかとなる、複雑な気持も避難民は理解していないのである。
そして何かちょっとでも回りの人が言うと「おめえは傷口に塩ぬって楽しいか」とかなるそういう人が一部かとなるとかなり避難民の意識がそういう人が多かったことも確かなのである。特権階級化したのある。

それでギャンブルで遊んで金がなくなったと福祉に相談に来た人がいたというからこれもあまりにもひどいとなる。
あとは生活保護だとか言う人も多い、それも当然だとなる、それから国民年金しかもらっていない人が多いからそれでは生活できないからもっと補償しろ、死ぬまで補償しろと補償金を要求している。これもまた原発避難民が特権化してその要求に限りないとなっているのも現実なのである。それは南相馬市内でも問題になる、その負担は南相馬市で負うし政府でも負うし国民も負うことになるからである。
だから俺も原発避難民になりたいなとか言う人まで冗談にしろいるのである。
誰もシリア難民などになりたくないが原発避難民にはなりたいという時、何か原発事故の被害は目に見えないからそうなっている。
一人も死んでないなじゃないかというのもそうだし放射能も目に見えないから大きな被害に見えないのである。
つくづく人間は同情されることが意外と大事である。だから手がないとか片足がないとか何か目に見えると同情しやすいのである。
そうでないと目に見えないとあの人のどこが苦しいのかと同情されないから援助もされないのである。 

ただ人間仕事が奪われなにもすることがないとうことも辛いことは確かなのである。
生きがいもなにもなくなるとなる、でも何か避難民の仮設暮らしとかそのツケは避難解除になり補償金がもらえなくなると払わざるを得ない、お前たち十分に遊んだ得したんだからしかたがないとか回りからみられるのが怖いとなるのである。

このいじめの問題も実際は複雑な背景がある。あらゆる問題は事件はその背景を考えると複雑なのである。その事情を知るのは当事者なのである。
そこには複雑な利害関係があるからそうなる。外部の人はボランティアでも利害関係がないし一時的に来て去るだけでありそこにずっと住む人とは違うのである。
要するにそこに住むということは一緒に住み続けるとなるからしこりとしていつまでも残る、放射能だっていくら危険でも住み続けなければならない、出で行けばいいじゃないかと言ったってそうはいかない、それで村八分ということが日本では最大のいじめであり制裁になっていたのである。それで日本では陰湿ないじめがなくならないのである。

posted by 老鶯 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2016年11月16日

波紋の紋様(Pattern of the ripple)



波紋の紋様(Pattern of the ripple)


tunammmmmiii123.bmp
クリック拡大-enlarge

terrible waves (tunami) 

moonlightttt1112.jpg



moonlight

bbbbwavesss11234.jpg




summerseaaa1.jpg

seaside land

summercolours1122233.jpg

beattiful streams



抽象画は無限の変化である。変化を楽しむ芸術である。
その変化はハソコンだからできる新しい芸術である。
それは全く技術であり創作とも違っている
変化させて楽しむ、芸術の領域を広げたのである。

The abstract picture is an infinite change. It is art to enjoy a change.
It is new art to be possible because the change is a PC.
I opened a domain of the art to change it, and to enjoy that it was totally a technique, and was different from the creation.
タグ:波紋

トランプが勝ちマスコミが負けた? 世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプが勝ちマスコミが負けた?


世の中先入観を破ることが一番むずかしい


トランプというのは名前もはじめて聞くし日本ではほとんど知らなかった。アメリカでさえ泡沫候補だった。それがなぜ大統領までになったのか?
そのことが本当に不思議だとなる。
ヒラリーは知られていた、日本でもあれだけ知られていてトランプなどはじめて聞く名だから当選するとは思えなかったのである。
余程のアメリカ通でないかぎり予測は全くできない
そしてただ自分は傍観していただけだとなる
アメリカがイラクを攻撃したときは自分は「時事問題の深層」で人権的な立場から平和の立場から反対した。今になるとそれは正しかったとなる。
それはほとんど別に読まれていないし影響力などなかった。
ただ自分ながらあのときの判断は正しかったとなる
アメリカは確かに3・11のテロで大被害だったけどそれ以上にアメリカは世界に被害を与えていたからしょうがいないと見る人たちも結構いたのである。
世界でもそうである。たからまた力にまかせて他国を侵略するのかとなったのである。

しかし今回のトランプだけは事前の情報もないし皆目わからないことだったのである。
ただ暴言だけが取り上げられてマスコミで攻撃されて印象悪くされていた。
だからこんな人が大統領までになったということが驚きなのである。
それはなぜなのか?マスコミを大衆が信用しなくなっていたことである。
あれほどトランプが攻撃されても通じなかったことが驚きだった。
マスコミは完全にヒラリー側に規制勢力、既得権をもっている側についていたのである。知識階級はヒラリー側だったのである。

日本でも原発事故でわかったように情報でも権力をもつものに左右されるのである。
原発の「安全神話」を作られたのは政府も官僚も科学者もマスコミも全員で作られていたのである。そこに創価などカルト宗教団体もそうだった。
なぜなら聖教新聞の広告費用を二番目くらい東電からもらっていたからである。
こうなると政府であれ東電であれ原発に反対することはトランプのようになる。
だから左翼系にはなるが原発を東京に作れとか原発は危険だということを本まで出していたが隅の方に追いやられてほとんど注目されなかったのである。
自分も東京に原発を作るというときSFのように見えたのである。
それほど「安全神話」はあらゆる手段で権力で強固に作られていたのである。

これは地元でも利益になるから反対すると住めなくなるような状態にもなっていた。
地元の新聞でも雑誌でもみんな安全神話に加担していたのである。
「財界ふくしま」が一時原発の危険性を指摘したがあとでやめたというとき東電から金が入ったためだとか言われる、それもそうである。あういう地方の雑誌とか新聞でもそれてりに金がかかるのになぜ経営できるのかとなると東電の宣伝費は他の会社の百倍もの金が入るとなれば批判はできないのである。
だいたいどうして地方の新聞社が経営が成り立つかとなると福島民報は聖教新聞を刷っているし大手の毎日新聞もそうである。経済的にもこうして巨大なカルトでも権力をもつものにおさえられているからもう公平な報道はできないのである。
こういうふうに情報でも報道でも常に権力によって操作されているのである。
戦争のときも日本が大敗しているときでも勝っているとか大本営発表に終始したことでもわかる。大本営発表がいかに危険なものかわかる、その情報はもう日本がもう負けて戦いない状態でも勝っているとしていたのである。
原発事故のときもメルトダウンが明確になっていても御用学者がメルトダウンしていないとマスコミで主張していたのと同じである。

だからこうして既得権をもつ権力により情報が操作されるというときなぜトランプが勝ったのかというのは不思議だとなる、一つの勝因はアメリカでは民主党の次は共和党なるという暗黙のルールがあるからだということで予測していた日本のジャーナリストがいた。日本ではそうしてトランプが勝つと予測していたジャーナリストとか学者は数人しかいなかったのである。そうなると日本だって政府でも予測できないものとなっていて失敗したとなる
それがなぜなのかとなるとアメリカですらマスコミの信用が落ちたということである。
マスコミの報道を鵜呑みにしている人がアメリカですら減った、信用しなくなったことである。このことも大きな変化だったのである。
日本ならNHKとか絶大な力をもっていたが今ではNHKすら批判の対象になる。
それはネットが生まれて普及したことも原因している
NHKの一方的な報道に疑問をもつ人が増えたのである。
別に民主主義は報道の自由がある、だから報道してもいいが報道するというとき今まではマスコミしかないしNHKが一番影響力をもっていたのである。だからその報道に左右されてしまっていたのである。

だからトランプが泡沫候補として現れて大統領になったということは奇跡的だった。
マスコミの50社がヒラリーについていてトランプは3社しか報道しないとか攻撃されていて勝ったのはいかにマスコミの影響力が低下したかということである。
マスコミはネットがでてきてただの民営の一私的報道機関になるかもしれない
それよりもともと新聞社でも地方の新聞社でも何か錯覚しているのは公共的報道機関と錯覚していることであった。
だから新聞とかテレビにでるだけで知名度があり力をもつようになったのである
その中味はどうでもいいのである。それで石原慎太郎でも舛添でもみんなマスコミに持ち上げられた人が東京都知事になって今の問題を引き起こしたのである。

一見個人が大きくなるのは個人の力のようでもマスコミの力だったりするし有名になるのは背後に必ず団体の組織の後押しがある。
仏教系だったら戒名商売だなどということはマスコミでといえない、個人として仏教系の人が発言していてもそれは仏教界がなんらか圧力をかけているし個人もその仏教界を代表していっているから同じだとなる。創価は露骨だが方も同じなのである。
背後の権力団体組織の力なくして発言力はもてない仕組みになっているのである。在日団体が背後にあったりするのもそうである。
なんらか背後の権力が関係している、その背後のさらに大きな権力がアメリカだったり中国だったりする
原発を批判するのにも個人ではできなかった、左翼系の団体が背後にあってできた。
となると科学的真理とか公正とかも関係ないの手ある。反対する人は左翼のレッテルがはられ右翼からすると信用できないとなる
そういう科学の問題も政治的な問題にされたことに不公正が生まれたのである。
科学的なことは地動説と天動説のように曲げられないものでも結局カトリック教会が権力側にあったとき否定されたのである。
科学ですら政治とか権力によって曲げられるのである。そこから原発事故も起きたのである。
もともと政治的意図で作られたものでもあったからである。


そのマスコミにのせられたのが東京都民であり大衆なのである。
そういう洗脳するために権力側はマスコミを金で操作する、宣伝費を払い操作する。
創価などは池田大作が新聞は歴史だとかいって非常に重んじていた。
新聞で宣伝することは大きな力となったからである。
だからこそ新聞社で聖教新聞をすらせて批判をおさえるのである。
そうしたマスコミは原発でもそうだがトランプでも同じようにとにかく権力側につくから公正な報道などありえないのである。
つまりただ私的利益を追求する一会社なのだということを認識すべきである。
自分の会社の利益にならないことは報道しない、不利益になる人の意見をのせないのである。

そして人間はそうして先入観として大衆を洗脳する。先入観というのは固定観念化するのである。地動説から天動説になってガリレコが教会から迫害されるようになる。
科学とはこの固定観念を先入観を破ることから始まっている。そしていかに固定観念を破る事かむずかしいかである。それは深く人間に植えつけられているからである。
地理でもまず人間は固定観念に縛られる、海からしか陽が昇らないのを見ている人は山から陽が昇るのが驚きになるし日本海に陽が沈むのも驚きになる。地理的なことは世界になるとさらに驚きがあることも同じである。

自分がユニットバスを作るとき会社の人が実は色がいろいろあっても白を選んだ。
それはなぜか?ホテルなどに泊まると必ずバスは白なのである。
それでユニットバスは白が普通なのかと思ってしまった。でも別にいろいろな色があり白はかえって汚れるから他の色を選んだ方がいいと知っている人が言ってそうだったと失敗したのである。
バスは白だという固定観念、先入観があってそうなっんたのである。
別に色々な色があるのだから選べば良かったのだがその時は良く考えないで選んだ
その時時間の余裕がなかったこともある。
それで先入観で白のユニットバスを選んでしまったのである。

時間がなかった、先入観で選ぶ

これはあらゆる場面でそうなりやすい、選挙でもトランプって何なのだろうと考える暇もなく何かを言うこともできないのである。
あらゆることについて事件がいろいろ起きても考える時間がないから先入観で判断しやすいのである。もともと知っていることならその方面に詳しいなら判断しやすいがいろいろなものに通じることはできないからである。
すると先入観で物事は判断しやすいのである。
そして時代は常に変わっている、自分は水道でガスでも管は鉄だと思っていたがすでにゴムのような伸縮自在のものなっていたのである。
そういうことはみんな知っている、でも技術的なことでも知らない人は知らないのである。
特に老人はそうした技術的なことには遅れるし知らないのである。
スマホしていない人はそのことを知らない、自分はハソコンをしていてもスマホをしていないからその方面のことはわからないし車を運転しないからそこでわからなことがかなりある、ユニットバスにいても全く無知だから判断できないことがあった。

ともかくトランプが勝ったということは今でも不思議である。
それはいくらマスコミで洗脳してもアメリカ人がグローバル化で得していない、不満な層が思っていた以上多かったという現実がある。
移民を禁止しろというとき現実に移民のために職を奪われたとか低賃金化したとか実被害がありそれはいくらマスコミで洗脳しても現実がそうなのだからヒラリー側にグローバルで得している人たちには入れなかったともなる
トランプの暴言がただの暴言だったら勝てない、現実に苦しむ人たちに訴えたから勝てたのである。
ただマスコミの凋落は今回のことではっきりしたことは確かである。



posted by 老鶯 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年11月15日

見える仕事と見えない仕事 (人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


見える仕事と見えない仕事


(人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


人間は見える仕事だと理解しやすい、江戸時代とかまではみんな見える仕事だったのである。戦前でも見える仕事が多かった。
近くでも籠屋とか籠を竹で編んで作っていたし石屋というとき石を槌で削っていたのを子供の時見ている
田植えにするにしても手で一つ一つ苗を植えていた。
社会自体が見える社会であり社会がどう動いていて人がどういう役割をしていたか見える、理解できる社会だった。
仕事しているのがほとんど人力だったからである。
そういう社会はアメリカでも外国でも同じだった。
ホッイトマンが讃えた詩にしたのはそうした見えて働く人間の姿だった。

何か働く人を見ているとき一番見えて働いているのは建築関係である。特に力仕事しているときあの人は汗を流して働いているなと理屈抜きで実感するのである。
特に猛暑の時力仕事していたのを見たときは感じた。
自分は体力がないからとてもこの暑さでは木陰で休んでいるほかないとなっていたからである。
一般的に医者とか看護師とかも働いている姿が明確に見えるからいろいろあっても働いているなと見る、でも現代の労働の不思議は一旦そこに機械が道具が介入すると違ってくる例えばクレーンとか操作したりする人は本当は人力の何十倍というか百倍もの労働をしている、機械の労働と人間の労働を比べればその差はあまりにも大きいのである。

ところが機械を操作している人の労働は何か人間が労働しているように見えないのであるこれも何か現代を象徴している。
あの人が働いているの?ただ機械を操作しているだけじゃないか、もしかしたらロボットがコンピュターの遠隔操作で仕事しているんじゃないかとなる
そういうシステムがすでにできていて人間がコンピュターの支持で仕事していることが紹介されている
その時人間は人力の労働の百倍もしていても機械がしているのであり人間が労働しているように見えないのである。
それは田植機でも稲刈り機でも機械が労働すると人間が労働しているように見えなくなるのである。
だから労働歌などがあった、それは民謡となったりしていたがそれが今の機械化した労働になるとなくなった。
炭鉱労働でもそこで地下に入って真っ黒になって人間が働いていたので労働歌が残った。
人間は現代では機械の背後に見えなくなった、車でもそこに人間がいることが見えない、顔も良くわからないのである。
ただ突然自転車で横切ったりするとどなりつけられるから人間がいたのかとなる
それで面白いのは自転車に乗る人が危険なので車に乗った人の顔を見て確認して安全を確かめているという、それはネットの話でありそういう日常的なことがかえってネットの情報は参考になる。
車という機械道具がありそれに人間は隠されている、人間と人間は眼を合わせて安全を確認すれば確実だとなる、なぜなら信号で無視する人がいるからである。
これも人間が機械とか道具とかに頼り見えなくなっているからである。

今回ユニットバスで浴室をリホームしたが少し手伝ってみて配管というとき今は鉄の管を使っていない、伸縮自在のゴムのようなものを使っていたのである。
あれらち鉄と違って扱い安くなっている、鉄だとめんどうだからである。
配管などは水が流れなくなるとき、管が錆びたり何かに詰まったりするときである。
何かそれはわかりやすいのである。だからこれは見ていてもこれなら自分でもできるように見えたのである。管をつなぐことでありそこに水を流すということだからである。
そして修理するときもただその伸縮自在の管をとって洗浄したりつないだりすればいいと見たのである。
そもそもそういうことは原理的に簡単だから理解できるのである。
今の技術は何かと素人にはむずかしすぎるから見えないから理解できない
このように見えればそういうことかとなり技術的にも理解できて自分でも直せるのかなと思うのである。それは原理的に見えてわかるからそうなる

ところが現代の社会はあまりにも複雑であり見えない社会なのである。
その最たるものが原発だったのである。放射能も全く見ることはできない、原発の内部もどうなっているかなど内部の所長すらわからなっかたという驚きである。
吉田所長が復水器のことを知らなかったというのだから最も肝心なことすら原発のことで知らなかった。としたら素人などまるっきりわからないということになる
それより誰ももう原発のことなどわからないのである。
だから何かあったら今回のような事故になったら操作できない何もできないとなってしまう、あまりにも複雑であり誰も全体を知るものはいない、としたらどうして修理できるのかとなる、配管でも網の目のようにめぐらされているのである。
その配管自体が老朽化すると放射能だってもれてくるのである。

人間は今この複雑な文明社会を見えない理解できない、すると何が起きるのか?
原発事故のようなものが起きるということである。
そしてもう誰も修理もになもできない、お手上げとなりこの辺のような状態になってしまう。
ともかく人間は労働することで人間の尊厳があった。
それでどうしても見える理解できる労働だと人間は尊重される
株とかでもうけてもその人はどんな労働しているのかとなると見えない、理解できない
だから株にたずさわる人を尊敬するというふうにはなりにくい。
他にも実際はITで働くような人も普通の人にはその仕事が見えないから理解できない
でもなにかたいしたことを誰にもできないことをしているなと見ていても理解できない
その他はいろいろな仕事があってもそうである。
そこにすでに機械がかかわりやがて人間の代わりにコンピュターがなるというとき人間の尊厳はなくなる、人間はかえってコンピュターより能力がないから仕事も奪われるとかなり未来を予測する
知能までそうなれば人間の存在と尊厳とか価値まで問われるのである。
一部のものはすでに人間より優秀なのである。機関翻訳などは進歩しているから機械から学ぶとまでなっている

いづれにしろ働くことで見えないということは原発のように社会にとっても危険なものになる、見えないということは社会にとって危険なのである。
株なども証券でもグローバル化してその流れを誰も見ることができないのである。
そのことから何が起きてくるのか?世界恐慌とか社会の破綻が突然にくる
見えないからもう操作できない、突然今回のように水素爆発が起きて惨事となる
皮肉なのは原子炉なのか密閉されないでガスがもれて大爆発にならずにすんだとかなったそれは実際は人間の技術のてぬきだったのだがその手抜きがかえって助けたとなった
だからとても人間というのはいくら機械を進歩させてもそれを操作しきれないのである。どこかにミスが生れそれが致命的になるのである。
それは結局人間が神でもないし完全ではないからである。
だから原発のようなものをそもそもそんな所長すら知り得ないものを作るべきではなかったとなる





タグ:人間と機械
posted by 老鶯 at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会問題の部

2016年11月14日

仙台の優 創建でユニットバスの工事開始 (一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)


仙台の優 創建でユニットバスの工事開始


(一式セットで100万は安いー家はあとは直したくない)

yuuuusoukenn1.jpg

今日まずタイルとか4人がかりて壊した。聞くとこの壊すのがガス屋で大変だと言っていた。自分も全体を壊すのが大変だと見ていた。
実際にドリルで壊してゆくけど相当な力仕事になる。
これだけで相当な金がかかると見る、でもだいたい一日でほぼ壊した。
だから意外と早くできるなと思って良かった。
実際に金曜日で完成して土曜日には入れるというから早い
中に一日くらい休みがある。
すでに給湯器はとりつけてガスの配管もした。
電気関係の人も来て線の工事をした。
みんな仙台の人である。

ユニットバスだけでこの辺で100万すると聞いたからなぜ安いのかと聞いたら仙台は競争が激しいからです、福島県は高くなっていますと言っていた。
福島県は高いのか?福島県と宮城県では値段が相当に違っているという。
知っている人でその人は一人でやっているが頼んだら高くなるし時間もかかるだろう
壊すのでも一人でしていたら時間がかかる、そしてこれだけのものをセットで買わないでばらばらに買っていたらまた金がかかる
だから最初なにもわからなかったが100万は安いと思って即決した。
というのはこの辺では人手不足で電気関係に頼んだらできないとか最初断られたからである。

つまりこの仕事はガス屋とか大工とか電気関係とかユニットバスとか配管とかもかかわるめんどうなものである。だから一人でやるとしたら手間になるし金もかかるとなる
だから他でも頼む人がいるのかもしれない、担当の人が近くで他も回って仕事していた。た
壊す工事をしていた人は作並の人でその山の方に住んでいて雪がふったという、あの辺は山寺に近く山形に近いから早くも雪がふった。
スマホで雪が積もった画像を見せて説明してくれた。5センチくらい積もったらしい。
あの辺は面白山トンネルをぬけると山形県であり春でも山に雪がある。
それで印象的な場である。あそこから来るとしたら遠くなる。

ともかく最初の日に50万金を払うということで不安だった。でも相手も遠くから来ているから金を最初にとるということになった。
契約書に申込金として50万と書いてあったのである。それを良くみていなかったのである結局遠くなると人間は相手をなかなか信用できない、それは双方でそうなる、だから商売は遠方とか国が違ってするとき互いに信用することがむずかしい、だから契約が大事になる、そして意外と細かい所を見ていないからあとで失敗することがある。
契約しましたよということが商売では大きな意味をもつ、それは地元だったら信用を失うと地元で仕事ができないからそういうことはない。

でも今回わかったことは今の社会は広域社会であり広域的に仕事しないとやっていけなくなっている、地元だけでは仕事の量が限られているからだ。
今回の津波や原発事故ではほとんどの人が外から来た人、九州から北海道と全国から来た人たちが仕事した。地元だけではもう何もできないという状態だったのである。
地元の人はパチンコで遊んでいただけだともなった。
家を建てるのもほとんど建て売り住宅であり外部の人である。仙台から来た人も近いから多い仙台は高速道路もできて近くなったこともある
こういうふうに外から来る人が来ると食事とかでは金は落とす、それでこの辺のレストランとかは繁盛したしその他コンビニも増えたりした。
一番増えたのは宿泊所である、プレハブが多いが新しいホテルもできたし増設したりまず宿泊関係は増えた、外から今でも5000人とか来たとか数が多かった。

ただ福島県全体の特需とかは震災から5年すぎて縮小しつつあり終わりに近づいている
福島県では倒産率が全国でも一番少ないとか特需になっていたのである。
補償金が打ち切られるとこれから倒産が増えてくる、ぎりぎりでやっていた小規模の会社が補償金が打ち切られて倒産が増えてくるという。
何かもともとそういう会社は農業でもそうだったが経営してゆくのが限界でもあった。
たまたま原発事故で補償金が入って継続できたともなっていたのである。

いづれにしろ仙台からこうしてリホームとかの会社が来ると地元の人の仕事が奪われる
ただ広域社会とはそういうものだということを物を売るにしても普通になっていた
競争範囲が全国になったりグローバルになったりしていたのである。
だから建築関係の人が全国に展開して事業に失敗した。一個人とかで全国展開すること自体無理だったのである。

ただもう自分はリホームとか家はこれで直すのは終わりにしたい。これまでも何回も家を直している。もう年だし大きな家が負担になっているのだ。
平屋の小さい家がいい、それなら壊すのにも楽だし今の家は大きすぎるのである。
ただこの家には思い出がある。
気丈夫な姉が作ったとも言える家だが母も店をやっているときはもうけたのである。
それで姉が自転車で野菜を近くの農家から買っていたのである。
その野菜が箱に入れたときかなりの重さになった。
でも姉は太っていて力がありそれを持ち上げて自転車でもってくることができたのであるこういうことを語るとき何かこの家はそうして親が作ってくれたものだということを感じる
家に家族にはそれぞれの物語がある。そうして苦労して作った家に自分が跡を継いで住んでいるということを自覚するのである。

でももし何か株でもうけて家を建てたとかなにか苦労話がないとしたらあんまりありがたみもなくなるかもしれない、親でも何かそうした苦労話があるとき家でも他でもありがたいとなるのである。それは自分だけではない他の人もそういうことを語っているのである自分はこの家を建てるためには何の努力もしていない
ただ最後に介護したとき尽くしたというだけだからである。
今日姉を知っていたという人にあった。その人は姉の友達の息子でありそのことを聞いていた。その母親も死んでいた。68才だったから若かった。
その前に行き来していないからわからなくなっていた。
同じ役場に勤めていたので仲良くなっていたのである。

何かまだ姉を知っている人がいたのかとなる、姉は交際が広かったが役場をやめてからも長いし忘れられていたのである。
人間はとにかく会社でも役所でも退職したりするとすぐに忘れられる、もう5年でも十年でもたつと役場に知っている人もいないと言っていたからである。
これも人間の無常なのであるる。
親しくしている人も死に会社でも役所でもやめるとたちまち忘れられるのである。
生きながら社会から消えているような存在になっているのも多いのである。
だから社会で80くらいでも活躍している人はまれなのである。

ともかくこの家も50年くらいすぎた、だからいたんでいる、でも直したくはもうない。
老人になればだから先のことが考えれられないのだ。
庭に樹を植えてもそれが花咲くまでに十年とかかかるとなるとしたらもう植える気がなくなる
それがこの辺では高齢化で問題になっているのである。
なぜなら復興には時間がかかる、若い人なち十年先でも花が咲くとなれば肥料をやり育てることもできなる、しかし老人はその時間がないからできない、すると復交には向いていないとなるのでてある。

2016年11月13日

トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2) アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプ大統領になったのはなぜなのか?(2)


アメリカと共に沈みゆく世界(カレル・ブァン・ウォル・フレン)を読む


トランプがなぜ大統領になりえたのか?それは世界でも日本でも予測外だったしアメリカ自体も予測していないものだった。
ただその背景に何があったのかとなるとそれを解くのはアメリカで何か起きていたのか?
アメリカ社会とは何なのかということを知る必要がある。
ではどうししてアメリカを知り得るのだろうか?
それは様々な人が言う意見がありテレビの意見がありネットの意見がある。
実際に行ってみて知るというのも一番有益だがそれが限られている人しかできない、一番知っている人はそこに住んだ人である。

メデアというときテレビは常にセンセーショナルメデアでありその影響が大衆にはあまりにも効果的だから危険なのである。
第一大衆は考える能力がない、テレビは考えなくても見ることだけだから楽なのである。ただその危険は一方的になり洗脳されることなのである。
この本はアメリカのことを指摘しているが日本のことでもあり世界のことでもある。
世界はグローバル社会になったときやはりなにやかにやあっても世界的共通認識と価値観が生まれた、経済的にはそうである。みんな豊かになりたい、文明の道具を使い電気でも車でも使い便利な生活をしたいということは反対するものがあったとしても極少数であるパンが贅沢などと山尾三省のような極貧の生活を誰も望まないのである。

宗教というとき他にも価値観の相違はあるがイスラムだってその文明を否定しているのかというとしていない、ただそうした豊かな生活をできないということで不満でありテロにもなっているのである。
この本で価値観が違うから共同できないというときその価値観は何なのかということを言っているので自分もそのことを書いたので考えさせられた。
つまりこうして本とか熟考して書いているから考えさせられるのでなしる。
テレビとかでは何かこういうことがない、絶えずセンセーショナルな断片的な意見の表出で終わる、テレビは考えさせないメデアである。
洗脳されやすいメデアである。映像時代はさらにそうである。イラク戦争で油まみれの海鳥を写したとき世界ではなんでイラクではひどいことするんだと感情的になったのである映像は人間を感情的にするのでてある。

今回のトランプが大統領になったというときもむずかしいことをいうより感情を刺激することで成功した。過激な発言に感情的に共鳴する人たちがいたのである。
アメリカではグローバル化してその恩恵をこうむったのは極一部でありIT関係とか金融関係とかが巨万の富を得たが他は中産階級は没落したのである。
移民を受け入れてもうかるのは多国籍企業であり元から住んでいた白人の職も奪われたとなる、移民を入れることで低賃金化してもうけは多国籍企業に入るのである。
そういう不満層が思った以上多かったということである。
だからトランプの過激な発言に感情的にも反応したのである。
ナチスがユダヤ人を敵視したときもユダヤ人が自国で金儲けしているということでそれをあおったのである。

政治のフロパガンダで有効なのはこうしして一部の人が巨利を得ているとかその的をしぼって攻撃することである。
それは世界でもイラクを敵としてアメリカが攻撃した手法ともにている
要するに大衆にとっては感情的にすること敵をしぼり攻撃対象わかりやすくすることである。
常にそういうことは大衆を味方にするときカルト宗教団体でも行われる、こういう団体は考えない集団だから余計にそうなるのである。
現代では世界共通としてメデアがその役をになっているのである。
アメリカでもそうなら日本でもそうである。メデアがどうししてそうなるのか?
それは企業から金をもらっているからそうなる。
アメリカでも日本でも同じ構図なのである。ただ自分たちの利益になるようにしか行動しない、政治家も官僚もメデアもそうである。それで原発事故でもそうだったことは書いてきた。

アメリカとか中国とかロシアでもそうだが巨大な国では矛盾したことが巨悪が露骨になるアメリカの富裕層は数はパーセントでもその富を独占する。中国でも共産党が平等ではなく幹部が巨利を得て富裕層になっている。それはかつての王様と同じなのである。
大国はそうなりやすいのが歴史的にでもそうである。日本ではそうした差は露骨なものとしては生まれにくいのである。
奇妙なのは

だかなににもまして悲惨なのはアメリカの刑務所の民営化だろう
国家の刑罰を儲け主義の民間企業にゆだねれば商業上の理由からさらに多くの人間を罰せねばならなくなる

刑務所にいるアメリカ人の数は50万人ほどでところが今は500万人ほどが獄中にいて700百万人が矯正施設にいる

これもアメリカならではで驚きである。銃をもっているから犯罪にもなりやすい。
前にも書いたがその刑務所で服役している人が安い賃金で労働させられている、
それによってまた企業が大きな利益を得ているのである。

だから犯罪者を多く作り出すことで大きな利益が出るとしたら

もっと犯罪者を作り出せ

こうなるから怖いとなる、それは軍需産業でも同じである。

もっと戦争を起こして武器を売れ

現実にそういうことがこの資本主義社会にはまかりとおっている。

薬剤関係なら

もっと病人を作り出して薬を買わせるようにしろ

会社がもうけるためならなんでもいいというのが今の社会にもなる、それは世界的なことである。政治ももうそうした多国籍企業の下僕になっているのが現状であると指摘している。

「彼らの最大関心事は自分が出世するためには、どうふるまうことが一番有利かという点であるからだ。彼らの行動をみればその背後の政治やビジネス、学界、あるいはメデア、そして軍部の中にアメリカの戦争によって利益を得る大勢の人間がひかえていることになる。かつての政治エリートに取ってかわり新たにその地位をしめるにいたった。
そして彼らの権力、威信、収入は戦争が今後も続行されることにかかわっている。」

まさにこのことは原発事故のことで自分が書いてきたことである。ただ利益になるということで政治家から官僚からマスメデアから科学者でもそうだった。
もちろん住民もそうだったからあらゆる人がただりを求めることだけになりこれだけの被害を受けたのである。
利が権力を生みただ利によってすべてが行われるときそれが危険になる。
利というのはこれだけは誰でもが求めるものだからである。その歯止めとなるものがもはやないというとき原発事故も起こるし戦争も起きる


人間は利から離れられない、そこから過ちを犯す,義とか何か科学的な真理でもいい、そういうもので動かないのである。
科学者すら利で動いていた。それが原発事故になった原因にもなった。
御用学者とか御用マスコミとか御用官僚とか政治とかなる。
卑近な例でも自分も失敗した。
それは自分もなんらか親戚のつきあいでかたよった見方をしていたためである。
母親と娘がいたが母親がひどいと思っていたが実際は娘が本当にひどい娘だったの
である。だから「ひどい娘だ」と言って死んでいったのである。
双方のことを良く聞けばわかったことだがそういう関係になかったからである。
こういうことは常に起きている、事件の当事者とか利害関係があると判断を誤る
でも実際の世の中ではなんらかみんな利害関係で結ばれているから公平な判断ができないのである。
本当に公平な裁きができるのは神しかないとなる
神はは偏り見ないからでてある。
なぜなら人間は公平に見れないからである。それは利から離れられないからである。
ジャーナリストでもそうだしマスメデアでもそうである。
巨額の宣伝費などをだしているのは企業だとなると企業の意向に従わざるを得ない
それは政治でも起きているから大統領にどれほどのことができる権力があるのかとこの本では問うているのである。

いづれにしろトランプがなぜ大統領になったのか、その背景にはアメリカ社会のひいては世界のグローバル化による格差社会化した歪みがあった。
ではトランプが大統領になってそうしたグローバル社会の歪みが是正できるのか?
それはもはや大統領だけでばできるものではない、トランプもまたオバマのようにそうしたグローバル社会を牛耳る極一部のものに操作される
第一大統領でも何でもできるわけではない、この書ではオバマがそうなったとこを指摘している。ただ飾り物のようになっていたのである。
実際の権力を動かすものはその背後にあってオドマばなにもできなかったと批判しているからである。だからトランプがあれだけ過激なことを言ってもやはりそれだけの権力が今はアメリカ大統領でもないとしたらオバマと同じようになってしまうということもありうる。今やアメリカ大統領てもそれほどの権限をもちえないということになったからである


posted by 老鶯 at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2016年11月12日

昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2) (その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日のローソンのヘンスに車で突っ込んだ老人(2)

(その家は廃屋化していて住めなくなっていた)


昨日ローソンのヘンスに突っ込んだ車の老人は近くに住んでいた。
今日見たら蔦が絡まり廃屋化していた。
その人は車の中で寝起きしていたという、つまりもう家が廃屋化して住めなくなり
車に寝ていたとなる、車になにかいろいろ積んであったのはそのためか?

これは何を示しているのか?
ゴミ屋敷ではないが家に住んでいても家に住めなくなった
その原因がその人がもう這って歩くのがやっとでありそれで自分で食事とるのに
ローソンにきていた。
這って歩くとなるとまず料理も掃除でもできない、するとどうなるのか?
家に住むこともできなくなり廃屋化する

これも高齢化で取り残された老人である。
全国で空家が800万軒とか増えるとき何かそういう象徴的である。
街中でも空家が何軒かあるのを知った。
そこは500万で売り出していた、でも今は新しい家は街中より外に新住宅街に建てている
だから街中は住まないで放置されるかもしれない、ただ借りて住む人もいる

その人の家は二階建てでありそれなりの家である。
でも家を維持することが意外とめんどうであり金もかかるのである。
そして体が弱りついに自分の家にすら住めなくなった悲劇である。
回りの人は無関心であり車で寝起きしていたが事故を起こした
家があっても家に住めないというのも悲惨である。
家はかえって年取ると重荷になる場合があるのだ。
一人暮らしでゴミ屋敷になるのは家を維持することができない
その力すらなくなってきてそうなる場合もある

その人は這って歩くことしかできないのだからそうなった。
一人暮らしで体が弱ると悲惨な結果になる
それは自分も経験してきたからである。
今の時代回りで近所でも助けない、かえって人が弱ると楽しんでいるとかそれよりその弱みにつけこまれて犯罪にもあう、そういうことを自分は経験していたからである。
だから老人は一人暮らしの人などはどうしても施設に入るとなるがここも安住の地ではないが一応助ける体制はあるあ、あんなふうに這って歩くまで放ってはおかない
今の社会では放っておかれるのである。
だからテレビでも放送していたがぎりぎりになり救急車で運ばれたとき助ける
それまでは放置されていると放送していた。

あの人もぎりぎりになり事故を起こして警察が来てなんかまた他に市役所の福祉関係がかかわるかもしれない、ともかくあれは高齢化社会の象徴的なものかもしれない。
自分の家があっても自分の家にすら住めなくなりついに車に寝起きして辛うじて食料をコンビニに買い這ってゆき、また車にのったが事故になった。
高齢化社会はそういう人が増えてくる、一人暮らしが増えてくるし増えている
近くに息子や娘がいない場合も多い、すると放置されたままになるのである。
福祉といってもそれが簡単にかかわるということもないのである。
福祉にたすけてもらへと言ってもではすぐに特養に入れるかとなるとこの辺は原発事故とかで以前として人手不足とかで入れない
それであのように這って歩き車に寝泊まりして家に住めなくなるまで放置される

結局家は必要でも家は人を助けてくれない、かえって重荷になることがある。
人を助けるのは人である。ただその人が今は無関心なのである。
だから金がないとかになると施設にも入れないで放置される
近くの人は買物ができなくなり息子がいわきの施設に入れた
それだけの金があったからできたともなる、施設に普通に入れたら20万は月かかるらしいそのくらいの金がある人がどれくらいいるのか?
その負担も大きいのである。するともうこの人のようにぎりぎりになるまで放置されてしまう。

あの人のことはみんな知っていたのである。でも誰も助けないのである。
福祉の人も回っていなかったのだろう。
とにかく高齢化社会ではこういう人が膨大に増えてくる、それが高齢化社会の現実なのである。野垂れ死にのようになって死ぬ人が増えるかもしれない。
近所だって助けないし助ける余力もないとか無関心であり放置される
最後は金がある人は金に頼むしかないという冷たい社会になっているのである。
つまり老人は死んだ方がいいとか若い人もいつも言っているのだからそうなる
障害者の大量殺人の次はこうして増える老人の大量殺人とはならないまでも見殺し放置になる、そういう覚悟も必要なのが高齢化社会だともなる

タグ:廃屋と老人
posted by 老鶯 at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人問題

2016年11月11日

言葉には深い意味がある (英語で詩作してその言葉の意味を探る)


言葉には深い意味がある


(英語で詩作してその言葉の意味を探る)

linetreee1_FotoSketcher.jpg

colonnnn1112.jpg

神殿の柱

the peaceful lined trees

the harmless ones
the strgethend ones
the stationary and established
obedience on the earth
in domestic stability

one by one
step by step
day by day

stedy,strict,firm

deeply rooted ones
in the homeland in order



近くの並木からイメージしてそれを英語で表現しようと試みる、なぜ英語というとき外国語が身近なものにならないのか?
それが英語でも単語の一語一語持っている感覚が違うのである。その感覚は結局その背景にその言葉が生まれた歴史とか文化がありそれを実感として理解できないことにある。
確かに今や機械翻訳が発達しているからそこから英文を表現できる。

でも深いところで一語一語の意味を知るのは容易ではない、それは日本語だってそうであり他の言葉でもそうである。
日本語のあわれを理解するのは容易ではない、かわいいとかもったいなと日本語の言葉が世界語化したものがあかるが深いところで言葉を理解することはむずかしい。
それはなぜなのか?

言葉の背景にはそれが作られた背景がありそれが長い間で作られたのである。
英語だとゲルマン語がドイツ語が基礎にありそこから生まれた、だから英語の一語一語を理解しようとするときドイツ語の理解が必要になるかもしれない、言葉の中には一見事物があっしてそれを同じようにととらえてるようでも違っている。
つまり感覚的にも精神性でも違ったものとしてとらえているのである。
それはなかなか説明することもむずかしいものである。
詩が説明できないというとき言葉も説明できないのである。
詩が翻訳できないというときもそうである。
言葉はもともと詩語であり詩を理解してないと言葉の深い意味がわからないかもしれないただ外国語でも普通にどんな人でもしゃっべっている、ではそのネティブでもかえって母国語の深い意味を知らないのである。
それは日本人でもそうでありみんなそうである。
言葉には必ずどの言葉でも深い意味があり精神性がある。

ここに出したのは一つの例である。自分は自分の詩を英語にできないがその試みとしてした。

steady

(足場・基礎など)しっかり(固定)した、ぐらつかない、安定した、震えない、きょろきょろしない、不変の、一様の、むらのない、間断のない、定まった

この一語に関してもこれだけの意味があるというとき日本語では表現しにくいからそうなる。むらのない、間断のないとか実際は様々な意味があるがそれを翻訳はできないからこうなっている。

だから並木の樹々をイメージするとこの言葉も理解しやすいようになる。
外国の神殿というときギリシャだと列柱がありそれが丁度並木ににているし
またゴシックの聖堂の石の柱ににている。
英語系には建築的なもきがあり言葉としてもその建築的なものが表現し構築されている。日本語だと情緒的だというときしまりがない言葉なのである。

ここで表現されいるのは意外と変わった言葉ではない、日常的に使われている言葉でありむしろ基礎となる言葉である。
だから普通に英語をしゃべる人は使うがその言葉を深く理解するのは外国人だというのもまた言葉の不思議がある。
その言葉訳してみて同じのように見えても違っているのである。

orderなどはin order toとか普通に使うものである。でもorderというとき秩序を重んじるものとしてその言葉がありヨーロッパ文明の源に秩序を重んじるものがあり自然でも宇宙でもその秩序を理論化するものがあった。
だから数学とはそうした秩序を現すものであり発達した。幾何学とかと建築は一体ということでもそうである。
詩となると何かそうした理系的なものとは関係ないもののように見えても自然の中に秩序を発見するということは理系なのである。
風土学になると日本の自然は乱雑であり混沌としているから何かそうした秩序が数式のように現せない、並木というときそれは秩序的に並べられた木であり神殿の柱なのである。
自然を模したものとしてし建築があるとき明らかに樹は柱でありその土台は大地に定着するものとしてある。

だから毎日近くの桜並木道を歩むとそういう自然が一つの秩序を示して大地に根付いているという感覚になる。
違うのは樹は生き物であり日々に成長して根も大地に張ってゆく、養分も大地からとっている。
そして樹に感嘆するというときそれが樹と樹は争わないし傷つけ合わないということである。ハームレスだということが感嘆する。
そんなふうに第一一般的には樹を見ない、でも人間をみればわかる、どれだけ傷つけあっているか?男女でも三分の一は離婚しているし絶えず女性も男性も争っている
それと比べたらいかに樹々が平和なのだろうと反対に思うのであり感嘆するのである。

植物は争わない、そこに平和がある。だから植物的生は平和を志向するのである。
それは農業でもありまたそこから派生するものとしての文化になるのである。
江戸時代は植物的生の時代であり明治維新語は外に拡張する狩猟的遊牧民的移動する社会だった。だから世界的に大きな戦争となった。
戦後もやはり高度成長グローバル社会であり世界的に拡張する時代だった。それは世界的弱肉強食のグローバル資本主義経済だった。
そのゆりもどしがドメステックなものへの回帰現象が起きてきたのは当然である。
それは植物的生への平和への回帰である。
それはアーリア人的でない゛アジア的な価値観への回帰なのである。
それは日本だけではないアメリカでも起きるし現にグローバル社会への異議を唱えたトランプが勝利したことでもわかる

それよりも世界的にみればインドでも中国でもアジア文明の回帰が起きるのかもしれないその回帰はすでに西欧文明と融合したものでありまた別なものとなって勃興するのである日本でももう経済的発展より文化的な国風文化の再生、ルネサンスの時代となるのであるそれもこれほど西欧文明をとりいれたのだからその上に国風文化が再生するからまた違ったものとなる。

人間は文化といっても大地と一体であり都会のビルの谷間で文化が生まれるかとなるとない、自然を模型として大地を耕すものが文化だかちである。
そこに自分の郷土史とか郷土学も一旦として追求してきたのである。
ゲルマンの森と大地からゴシック建築が生まれたようにその土地と自然と切り離して文化は興隆しないのである。
政治的に右だ左だというより日本の精神性の深さを追求することがあるべきなのである。不思議にアメリカでも歴史が浅いとしても200年くらいの歴史がありホイットマンの時代は実業主義であり農民や職人がたたえられていた。何かそれは江戸時代と通じるものがあるのでまた歴史には世界でも共通なものが常にある、それは外国人も人間だからだとなるホイットマン時代は質実な堅実なものが志向されたのである。だから株でもうけるとかはなかったからそうなっていたのである。
そこでどうしても株のようなものは虚業となり嫌うということはホイットマン時代の復古たともなるのである。 

日本語の詩にするときの弱点は韻をふまないとか冗漫になるとかある、しまりがないのである。英語とかは韻を踏むし整然と言葉が数式のように配置することがあるからしまりがある、日本語にも日本語のいい点はあるが冗漫になるということが欠点である。
ひらがなでもなにか水が流れるようであり英語とかなると石のように固さを感じるのである。それが文化だといえばそうである。
別に詩でなくても英語をしゃべり書くとなると何か日本人は苦手なのは要するにここに書いたような文化とか歴史の相違がありそれが根本的に克服できないのである。
漢字はその点日本の文化と同化したのである。漢字がないとしたらとても深い意味を表現できなかったからである。
ある意味で詩は特にそうだが文化は言葉の格闘になる、言葉の一語一語には深い意味がこめられているからそうなっていたのである。

秋の日の木々(詩)




posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故 (高齢者の一人暮らしの危険)


鹿島区のローソンで車がヘンスにつっこむ事故

(高齢者の一人暮らしの危険)

trrrrcccccccc1111.jpg

この事故を起こした人はみんな知っていた。ローソンにきて這って動けないとき助けて車にのせたことがあるからだ。
その人はいつもそうしてローソンに買いものに来ていた。
それでみん知っていたのである。まず動けないで這ってやっと車に乗っていたのである。這ったまま動けなくても車に乗れば運転できると言っていた。
でもなんか店の人もそういう状態でもなにもしていない、でもみんなその人がそうしていつも買物にしていたのである。
そして今日ローソンに行ったらヘンスにつっこむ事故になり警察が来ていた。

その人のことはどこに住んでいるかもわかっていた。
やはり一人暮らしでやっと買物をしていた人だった。
あんなふうにしてまで買物するということは誰も助ける人もいないからそうしている
隣の女性は買物ができなくなり頼んで買物してもらっていた。
でもついに一人で暮らせなくなりいわきの方に息子が連れていって施設に入れた。
結構高いけどそれだけの金があったから入れたともなる

最近良く高齢者の交通事故が話題になる、事故が起きるのが増えている、その人はとてもすでに運転できる状態ではなかった。
でも一人で助ける人がいないから這って買物していたのである。
これは福祉関係の人が見回りしてなんとかするべきものだったのだろう
なんかこういう人が高齢化社会でこれからも増えてくる
そういうことが自分にもあてはまるしだから一人暮らしは恐怖なのである。

この人はそもそも運転できないのに運転せざるをえなかった

高齢者でも簡単に車をやめるわけにはいかない、一人暮らしだから這って店に入りでてゆく、車がないと買物ができないとしたら死ぬほかない、買物は意外と重要なのである。
買うことができれば別に今は料理することもない、弁当だけでも食べて生きていけるのである。
だから隣の女性は買物ができなくなり施設に入るほかなくなったのである。
警察が来るというよりこれは福祉関係の人が来る必要もあった。
もう一人では生活できないからである。

何か高齢化社会ではこうしたことが頻繁に起きてくる
高齢者の車の事故が増えたのはそのためなのである。
車をやめさせるといってももしこの人のように買物もできなくなったら死ぬことにもな
だからやめることもできな人もいる。誰か助ける人がいればいいがいなかったらそうなるそういう人も増えてくるのである。
這って歩いていても無関心だという時代でもある。福祉関係に連絡するとか必要だったのだろう。
自分は一回だけ助けたが他の人も店の人もそのことを知っていたけど無関心だったのである。コンビニとかなると店の人は客に無関心ということもある
今の社会は何かそうして無関心なのである。そういう社会になっている
だから一人暮らしとか身寄りがないとうなる本当に恐怖である。
誰も助けてくれないという時代である。
ただその人の名前を知っていたということはどこに住んでいるかもわかっていた人もいたのである。

とにかく高齢者の交通事故は社会問題になっている、この人もヘンスにたまたまつっこんだだけですんだけど大きな交通事故を起すこともあったから危険である。
でも免許をとりあげたらどうなるのか、買物もできないとなる。
そういう一人暮らしなどの高齢者は増えているのである。
一人暮らしでもいろいろあっても別に近くに息子や娘もいる人も多い
でも誰も助ける人もいない高齢者も増えてくる、その人は車で這ってまで買物して事故を起こした、回りの人は無関心だったとなる
最後は買物できなくなり力尽きて死ぬとまでなる
これが高齢化社会の現実だともなる、ただ回りで見ていたのだから知っていたのだから何か福祉とか何か対策をとる必要があった。
その人は近くに住んでいる人だと思わなかったのである。
posted by 老鶯 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人問題

2016年11月10日

近辺を回り秋も深まる (専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)


近辺を回り秋も深まる


(専門家時代でも郷土学とはトータルな学問)

DSC00102.JPG
秋の陽が昇る
nagaiwwaaa123.jpg
八沢浦の長岩

DSC00104.JPG

前畑に鶏頭映えて女のあり

晩菊や仮設に五年過ぎにけり

散り残る花びらあわれ秋薔薇

街の路次今日も秋薔薇菓子屋かな


五年すぐ津波の後や長岩に秋の日さしてここに残りぬ

我が買いてためにし本を晩年に読みつつ書斎に秋深まりぬ

roseeeeeeee2344.jpg


仮設でも五年もいるとそれなりに年月の重みがあるかもしれない、その心境はわからないがやはり五年もいれば時間の重みがでてくる。
ただその間にパチンコとか遊び費やされたというとき何も残らないかもしれない
ただ時間が過ぎただけでは人生でも何も残らないのである。

前畑というとき家の前にある畑である。それは前田と同じである。
人間の生活の拠点となったのが前田であり前畑である。
だからこそ地名化した、常に家の前が仕事場となっている
仕事と家が密着して一体になっているのが田舎だった
会社に通うとかもない生活だったのである。
それが本来の生活だったのである。

秋薔薇というとき最近路地裏の道をゆく、路地裏の道は何か通りとは違っているのだ。
そこに秋の薔薇が咲いていたが花びらなお散り残っていた。
菓子屋が一軒ある、まず街中で今や営みがあるのはわずかである。
どこに勤めているのか、何で暮らしているのか小さな田舎町ですらわからないというのが不思議である。会社に勤めている人が多いのだろう。

八沢浦の長岩は良く津波にも残ったなと思う、あれだけの津波だから岩すら破壊される力だったからである。
やはりそれなりに大きかったから残ったとなる
だから津波のあとにこの岩は残ったなと見る、これも八沢浦の一つの象徴だからである。八沢浦は広い土地が荒地になっているがあと二三年で田んぼにするという
塩害はあまり米作りは関係なかったらしい、かえってミネラルで栄養になるとか言っていた。右田では津波の後に今年は広く実りがあった

自分は20代から書斎が与えられていた。それでいつも仙台にゆくのは本を買うためだった今ふりかえるとそれでも地方は田舎は本を買うこと、本を読むことで相当なハンディがあった。知識というとき本の時代だったからである。
その本が手に入らないし、目立ったものしか手に入らない、見れないという時代だったのである。だから必要なもの読んでいないとなる
何か知りたいというとき今のように古本でも何でもネットで注文するわけにいかないからである。こういう点では今は田舎でも困らない、あることを知りたいというときネットもあるしもっと深く知りたいというときネットで即座に注文すれば配達してくれるからである。
だから情報的には都会と田舎の差はなくなった。それで都会に住むメリットがそんなにない時代なのである。
ただ田舎は人に関してはいろいろな人はいない、農民とか漁民とかいても何かその他はいない、だから知的刺激に欠けるとるな
銀行員が意外と証券マンみたくなり国際的なものになっていて今日も銀行の部長が来て国際のことトランプのことで話した。
銀行とか特に証券関係は相当にグローバルな知識が必要な仕事だったのである。
自分は世界旅行をかなりしたからそれで話を合わせられるのである。

ただ人間は何かみんなかたよっている、農業の話と証券の話とか国際の話をできる人は少ないだろう。意外とまた田舎が農業が仕事としてあっても農業をしていな人は知らないのである。
自分は畑を趣味でしている人を知ったから農業の苦労を知ったのである。
趣味程度でも毎日草むしりとか農業は苦労が多いのである。
いづれにしろ人間は今は総合的に生きるとか見れる人はわずかである。
自分のように故郷とか自然全体をみている人はまれである。
第一詩的に見る、石とか樹とか山とかそれらを見る人はまれである。
農業している人は別に詩を書かない絵を描かないにしても自然に密着するから自然と切り離されずある。他の人は今は自然と切り離されて仕事しているのである。
銀行マンは何なのか?いま証券会社なのかとなる
郷土史とか郷土学が何か狭い範囲のことの追求に見えるが実は総合的な広い範囲でみるものなのである。だからとても一人ではできないのである。

現実にそこで暮らしている人は農業している人だけではない、田舎でも多様な人がいるからである。それをプログであった人のことを書いたのである。
ただ都会のように何か特殊な人かいてそういう人とは出会いないしわからないのである。一方で都会では農業している人の苦労などわからないのである。
それでも毎日食べねば生きていけないのだから農業と田舎と無関係とはいかないのであるいづれにしろ人間は今複雑に仕事も分化してトータルに知り生きることができないのである。逢う人はみんな専門家でありその専門家はトータルに生きていないしトータルな知識も経験もないのである。
だからトータルに総合的に生きるというときアウトサイダーになるのである。
なぜならアウトサイダーは一つの職に属することがないから広い視野で見るということにもなるからである。
だから一つの世界観をもつというとき今は専門家社会だからできないのである。
どんな人でもただ部分の仕事であり部分を見ているだけなのである。


トランプの勝利はなぜ? (グローバル経済は誰のためなのか?)


トランプの勝利はなぜ?


(グローバル経済は誰のためなのか?)


世の中のことはむずかしく考えたら限りなくむずかしくなる、単純に考えるとそれはそれなりに理が通りわかりやすくなる、それでトランプが受けたのである。
みんな学者でもないしジャーナリストでもない、投票する人は日本でもそうだが普通の庶民であり労働者なのである。
第一新聞すら読まない人も多いのがアメリカだと言われる
だからグローバル経済や多国籍企業や株をしている者だけがもうけているのか、なんら自分たちには恩恵がなく格差社会にアメリカもなっていたのである
そういう不満が根強く底辺にあったのである、中産階級が没落したというのもそうである白人の労働者が職を奪われているのもそうである。
アメリカを作りアメリカに住んでいてアメリカの恩恵も受けられないのがグローバル経済だったというのも矛盾だったのである。
恩恵を受けたのは多国籍企業でありウオール街の株をしている人たちだけでありそこで巨利を得るものがありあとは何の恩恵もない、かえって貧乏になり没落したのがアメリカだったとなる。
グローバル経済自体がアメリカ国民全般のためでもなかったのである。
一部の多国籍企業とか株をしている人たちだけのものだったということでヒラリーが負けた、ヒラリーはそうした既得権の上に成り立っていたとみられて嫌われていたのである。

物事を単純に考えるとグローバル経済というのは誰のために働いているのかわからないのである。規模が巨大だからもう金の流れも何もわからない、世界市場では株ではただ数字だけを動かして巨利を得るものもいる、そういう世界はほんのわずかの人しか利益を得ないのである。それで世界の富が数パーセントの人に吸い上げられるだけだとなる
そういう不満がアメリカにもあったということである。
グローバル経済はアメリカ国民が均等に利したものではなかったのである。
アメリカの極一部のものが利しただけだとなっていたのである。
マスコミとか知識階級とかはそうしたグローバル経済に組みして利益をあげていたから30社がトランプを批判していた。3社しかトランプをとりあげなかったとかなる。
アメリカのマスコミもそうしてグローバル経済は多国籍企業から宣伝費をもらい成り立つからそうなる。それは原発でも東電から宣伝費として金をもらっていたので日本のマスコミが「安全神話」を作るのに加担していたのと同じ構図だったのである。
アメリカのマスコミも同じだったのかとネットで批判されている
つまり世の中金で動かされているというのも常に現実でありヒラリー派にはそうした多国籍企業であれウオール街であれ莫大な献金が流れていたと指摘され嫌う人たちが多かったということである。

トランプの言うことは過激でも何か一理あった、日本はアメリカが何かあったとき助けない、でもアメリカは日本が何かあった場合、戦争でもなったら一方的に助けなければならない、アメリカ人の血を日本のために流さねばならない、これも一方的でありアメリカ側からみれば不満になるのも確かなのである。同盟関係だったら対等だからである。
日本もこの際アメリカに頼るだけではなく独立して防衛するべきだという論議がでてきたのもまた今までもアメリカに頼るだけでは守れないということがあるからだ。
今までは敗戦国であり冷戦とかあり従属していたが今度は独立をかえってアメリカから求められるようになったということである。

ともかく物事はむずかしく考えたら限りなくむずかしくなるのである。
つくづく自分の経験では「「遠くの親戚より近くの他人」である。
隣の市まで8キロくらいにしても通うとなると車でも10分できたとしても往復20分になるから時間がかかる、すると助けるにしても手間になる。
もし隣だったらすぐに来れるから助けやすいのである。
アメリカでも日本に何かあった場合、かけつけるとなると遠いから簡単にできない
そういう距離的なものは常に一番影響しているのである。
今は広域社会になり全国に散らばる、すると親子でも助け合うこともできないとなる。
なぜなら東京だったら遠いしとても介護とかなるとできないとなるからだ。
それでは助けるのは誰かとなると地元の人たちなのである。
広域社会とグローバル経済もにているのである。
なんかユニットバスを注文したのが仙台の会社だったのが失敗したのかもしれない、
後何かあった場合、みてもらえないと言われたから地元の業者を知っている人がそう言ったからそうなのかと思った。
ただ地元の人に頼むと50万くらい高くなる、それだけ安くできるとなるとやはり何か問題が起きるのかとも思った。

グローバル経済の矛盾は単純に考えれば誰のために働いているのか見えない、金の流れも世界市場となると見えない、そしてその見えない金がどこに行っているかとなると極一部の者、株式を操作する者に流れているだけだとなる
金の流れが見えないことは闇になる、それで陰謀論が生れるのである。巨額の金が闇の中に操作されているのである。
それはアメリカに流れていると思っていたがアメリカでも大多数の労働者には関係ないことだったのである。
移民をアメリカではあんなに受け入れているということ、それは多国籍企業にとっては安い労働力となりいいが肝心の元からいる白人にとってはその職を奪われるとまでなっていた。移民で得するのはその国の国民ではない,多国籍企業とかでありアメリカの中産階級はそのために没落したのである。
その不満が大きかったがアメリカのマスコミはそうした既得権者が支配しているから表面化しにくかったのだが露骨にトランプがそれを言ったので共感したのである。
ただ共和党というと民主党とは違いどっちかというと富裕層側に立つと思っていた。
トランプ自体が大富豪だからである。ただ単純にそういうふうに分けることもできなくなっていたのである。

ただグローバル経済というとき今度はアメリカだけではだめだとなるとき日本はどうなるのかとなるとむずかしい問題である。
なぜなら日本は中国とはうまくやっていけないのである。
中国は共産主義国家でありアメリカとは全然違った国である。日本はまがりなりにもアメリカの民主主義とかを受け入れて同調して西側の一員になったからである。
同じ価値観を共有するものとして一応してきたのである。
でも中国とはそうした同じ価値観をもつことができないのである。
かえって江戸時代だったらできた。なぜなら江戸時代は儒学の時代だから共通の価値観を中国ともつことができたと思えるからである。
グローバル経済というとき経済だけではない、何か共通の価値観が必要になる。
それでEUはキリスト教共同体として歴史が長いから連合した
ただそこにイスラムとうまくいかないから問題を起こした。
そうした共通の価値観は経済だけではない、単にもうければいいだけでは人間の共同体は作れないのである。そこにそもそもグローバル経済の限界があったのである。
見えざる手に導かれとか世界にはそれは適用できなかったのである。

だから日本がこれからどうするかというとき、中国とは価値観とかで共同しにくいとかなるとアメリカにも頼れないとなるとまた第二次世界大戦のように孤立化する危険がある。中国というのはやはり今度アメリカの時代が終わったといっても中国に同調する国が価値観を共有できるのかというのが問題になる。
人間は経済的なものだけで成り立たない、文化の相違もありその価値観の共有がないと結局グローバル経済だけではうまくいかないのである。
そこがグローバル経済の失敗の要因だったのである。
アメリカ自体が多国籍企業でありグローバル経済の市場を最も推進した国だと思っていたが実際は極一部の多国籍企業の幹部とか株をしている人だけが巨利を得たとなる。
アメリカだと社長が何百億を得るとか考えられない巨利を得ているからである。
そういう矛盾がアメリカ自体にあってトランプがそのことをついたから当選したとなる


アメリカの格差は凄まじいーグラフで見る
posted by 老鶯 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層