2017年04月02日

再開した浪江駅に行く (鉄道マニアが多かった)


再開した浪江駅に行く

(鉄道マニアが多かった)

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5万の放射線量を計る機器

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この愛知御津駅がなくなるとか言っていた

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学校の時計は3時30分でとまっている、震災以来とまったままである

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立派な眼科だけど震災前につぶれていたというのは意外
それだけの患者がいなかったのか? 
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飲み屋

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子供部屋がありベッドがある生活があった

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引っ越しの車


浪江まで開通するや草萌ゆる


原町から乗った老人は5万の放射線量を計る機械をもっていた、それはわかりやすいいいものだった、あれだと放射線量は計りやすい、それを見ていたが浪江に来ても0・3にしかならなかった、浪江は市街は意外と低いのである。
浪江におりて歩いたら通りの店はどこも開いていていない、町の役所まで歩いた。
浪江は広い街であり様々な店や医院もあった、でも眼科があったのでめずらしいと思ったが後で聞いたらあの眼科は震災前からつぶれていたというのも意外だった

大きな病院もあったがむずかしい病気は南相馬市立病院に来ていた、実際に浪江の人が入院していて同じ部屋だった、その人は農業で賞をもらうほど優秀な人だった
それだ大学に娘を三人出したのである。昔の平に野菜などを売っていた。
車で毎日来ていて30分かかると行っていた、その人は重体でありしゃべることもなにすることもできない、わずかに妻が来ると手をにぎるだけであり反応がない
植物人間の一歩手前だったのである。だから見ているだけで悲惨だった
でもそれだけした人だから妻と娘は来ていたのである。

浪江で今仕事はじめたのは警察署と消防署であり消防では訓練していてその声だけがひびいていた。あとは仮設の商店が二軒ほど開いていた、カフェが一軒開いていた、後はなにもない、人はまだ住んでいない、引っ越しの車が見えたりしたからこれから移ってくる人がいるのだろう。

何か6年も人が住んでいないとそこは死の街になっていた、小高もそうだったが浪江は小高より広いから余計にそうなる
小学校なのか中学校なのか時計が3時30分で止まったままになっていた
浪江はこの時計がとまっていらい時間がとまってしまったのである。

浪江駅に来ていたのは仙台からの鉄道マニアが多かった、仙台とかなるとそれだけマニアも増える、しきりに車両の写真をとっていた。
切符を集めている人がいてこの駅はなくなるんだよとか言っていた。
鉄道マニアにはいろいろな人がいる、そういう人と話すると確かに面白い
自分もマニアの一人だからである。それは年齢とは関係ないのである。
仙台に直通の電車が日に三本くらいでる、自分が乗ったのも帰りは直通で仙台に行く二両の電車だった、電車の中で近くの鉄道マニアなのか

「磐城太田は昔は高駅と言っていたんですよ」
「磐城太田はずっと磐城太田だよ、それはいつのことなんだよ」

そんなことを言う若い人がいたので調べてみたら確かに高駅として開業した、当時は立派な駅があり駅員もいて繁盛していたらしい。
高という地名があり字地名でありそれが駅名となった
双葉駅の前は長塚駅でありそれは長塚村が江戸時代の宿場町としてあり長塚駅になった
この長塚駅時代に自分の家が酒屋に父が勤めていて関係していてその話を聞いているから何か親しいのである。

高駅の高は古代の郷名に由来するものらしい、そうなると相当に古い地名でありこの辺は古くから人が住んでいたとなる、このように駅名にも歴史がある

それから原町に下りて原町の通りを歩いた、そして鹿島に帰って今度はシシドスーパーの隣の復興住宅の人がいたので話を聞いた、その人があの眼科は震災前につぶれたのだと言って教えてくれたのである。
その人は車を入念に手入れしていた、車庫がないので車が傷むと言っていた。そしてここに駐車しているだけで1500円とられると言っていた。
その人は室原の人でその親は豚を飼っていた、それは品種のいい豚でありキクチスーパーとかで売っていたのである。
伊藤忠商事とも関係して売っていたという、高速ができたので豚を運ぶのにいいとか言っていたがだめになったといっていた。た
でも伊藤忠商事とかと関係していることはそれなりに大規模にしていた
なぜではその人は原発でも働いていたのかとなる
何かこの辺ではそうして原発で働いたとしても農業していたり二つの職についている人も多かった。手間賃稼ぎに原発で働いていたともなる

その人は室原に帰るために拠点を作るのでそのために室原に時々帰っている、他の原町の人も浪江に一町の畑があると時々見に行っている、ここからだと近いからできる
それも確かに復興になっているのだ。すぐに帰って復興するのではなく時々見に行っては復興してゆく、拠点を作るのは帰ることを前提にしているからである。
5年後辺りには全部避難解除になるというからである。

ともかく浪江の前途は厳しい、まず人が住んでいない、人が帰らないのは小高と同じだが小高は住んでいる人がみかけたが浪江ではいない,これから帰るというがそれも一割程度とかなるととても街を復興することはむずかしい。
ここは原町とも離れているから買物でも不便になる、買物バスとかが出るというけど遠いから不便になる、だからここで帰って来る人は少ないし小高と同じく老人が多いのである
ただ浪江の人との軋轢は南相馬市ではまだ生れていない、鹿島と小高は犬猿の仲になったのは補償金のためだった
ただ浪江の人でも工場を経営している人が仕事をくれと原町の仲間に言ったらお前らは補償金たんまりもらっているからと断れた、だから浪江の人でも南相馬市の人とももめたとなる、現実に浪江の人が南相馬市に住んでいればそうなるのである。
シシドスーパーの隣の復興住宅に には浪江の人だけではない、他から来た人も住んでいるという、どこから来たかはわからない。

それでも県で建てた復興住宅で前の駐車場まで金をとっているというのもやはりもうそれだけ県でも国でも補償できないということなのか?
いつまでも補償できないということはあるだろう、県とか国では早く帰って復興してもらいたいのである。南相馬市でも小高の人に帰って復興してもらいたい
それがなかなかすすまないのである。小高は小高工業が300人とか通うようになるから電車でも駅でもにぎわうようになる、浪江はそういうものがないから復興となるなにか起爆剤が必要なのである。
それが何になるのかこれから模索することになる
観光だったらどうしても高瀬川に行けないのは致命的だとなる
あそこが避難解除されれば外から観光だけにでも来る人はいる、あそこは本当にこの辺ではめずらしい名勝の地だからでる



行方郡は陸奥国だけではなく、同名の行方郡が常陸国にあり、後述の『和名類聚抄』中の多珂郷は常陸国の多珂郡(多賀郡)と同じ名である。在地の国造ではなく、常陸国から来た移民を中心にして郡が建てられたのであろう。
古代の郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉官衙遺跡と推定されている[3]。位置は不明だが行方団という軍団も置かれていた。『和名類聚抄』による読みは「なめかた[4]」で、吉名・大江・多珂・子鶴・真野の5郷があった。
posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連