2017年04月08日

自治体とは何か? (原発事故で崩壊の危機に瀕する自治体ー文明の崩壊でもあった)


 自治体とは何か?


 (原発事故で崩壊の危機に瀕する自治体ー文明の崩壊でもあった)


そもそも「自治」は前述のとおり「自分たちのことを自分たちで処理すること」です。であれば、処理するための会則なり、法則なり、理念なり、何なりを共有してしかるべきだと思うわけです。「自治体」というならば、その「自」が共有すべき会則等があってしかるべきだと思うわけです。共有とは自分達で決めることです

この辺で起きたことは本当に様々なことが具体的に問われたのである。
それは学問的な問題ではない、具体的にどう解決したらいいかが問われた
第一自治体が崩壊する、町が村がなくなるなどということは誰も想定していないからだ
でも現実に町や村がなくなるということに直面したのである。

そもそも自治体とは何かと問うとき相当にむずかしいテーマでありその解答は実は法律だけの問題ではない、それはむずかしくいえば人間の実存にかかわるものである。
自治体も歴史的に生れたものであり歴史をたどらなければわからない。
日本では村が自治体の基本としてありつづけたのである。それが明治時代で変わったが江戸時代は村中心の自治が行われていたのである。

そして江戸時代をふりかえるとき封建制の時代だとなる、封建制とは何かとなるとそれは土地を基本にした支配制度である。土地が領主から与えられることによって支配が成り立つ、なぜ土地が基本になるかというと農業中心の社会では土地が実りを産み出すものであり土地なくして農業は成り立たないからである。
だから江戸時代までは国単位でも農業中心だから政治でも政り(まつりごと)でも天皇は大嘗祭をして米の豊作を願っていた、豊作を祈ることが天に祈ることが政り(まつりごと)だったのである。

六年甲戌(ねんかふじゅつ)、海犬養宿祢岡麻呂(あまのいぬかひのすくねをかまろ)の詔(みことのり)に応(こた)ふる歌一歌一首

御民(みたみ)われ 生(い)ける験(しるし)あり 天地(あめつち)の 栄ゆる時に あへらく思(おも)へば

天地が栄えるときに民も栄えるというのは農業中心の社会だからその政りごと祭りがありえたのである。それは自然と調和する社会があって成り立つものである。

確かに自治体とは近代的概念として生れた、だから自治体というときヨーロッパの歴史をたどることも必要になる、ヨーロッパにも自治体がありその歴史は古い、それはギリシャのポリスにはじまる、それは城壁げ囲まれた都市のことである。
それがヨーロッパでは自治体体なのである。だからパスポートにあなたはどこの市民ですかと書いてある、citizenが記され、でも日本では村とか町があり市に住まない人もいる
だからなじめないものなのである。

自治体とはな何か問えばそれは人間の根源的な生存にかかわるものである。
なぜなら原発事故でその人間の根源的な生存基盤が破壊されたこともわかる。
水や土や森や山やその生存基盤が喪失したことでもわかる、そうなるともう人間はそこに生きられない、生存基盤が失われたのである。
だからこれほど深刻な問題はなかったのである。

自分のテーマは自然とアイディンティティ化する文化的なものとして故郷を追求してきたその文化すらcultivate(耕す)-cultureだからその土地と密接に結びついて作られてきたものである。ヨーロッパでも葡萄の種類が多い、その葡萄に土地の名前がつけられているそれはその土地で産み出されたものだからその土地の名前がつけられている、それが文化なのである。日本でも米などがそうである。土地土地の米がブランドとなり売り出されているのとにている
文化というときそういう土地土地の地盤があってそこから芸術でも生れてきている
芸術というときそれは個人的なものではない、トータルなものとしての文化であり文明にもなる

木があるとしてその木はギリシャなら神殿の柱となりドイツだとゴシックの大聖堂の柱となる、それはモミの木をイメージしたものでありドイツの森を象ったものとなる
自然を基にして文化文明が生れる、例えば言葉でも日本語は日本の自然から産み出されている、日本の自然と密接に結びついたものとして生れている
それがネティブの言語である。だから日本語がなくなると日本の自然と切り離されたものとなり日本の文明そのものが消失するともなる

ともかく自治体の基本はそうした自然と一体化したアイディンティティ化したものとして築かれてきた、それが人間の存在基盤としてあった、国自体もそういう日本の自然との
アイディンティティ化してあった、だから天皇の政り(まつりごと)があり二宮尊徳の思想が生れた、それは農業中心の社会だから生れたものである。

それが明治以降工業社会になったときそうした基本となる自然から離れたものとして社会が築かれるようになった、その変化があまりにも大きかったのである。
そのために公害が起きたり原発事故では自治体の基盤である水や土や木や森や山が海が汚染されたのだから生きることすらできなくなる
それは文化的なことだけではない、生存するできなくなる深刻なものとなった。

つまり自治体があるとしてその構成するものは基本に自然がある。海があり山があり森かあり水があり土があり空気があるとなる
そういうものが根こそぎ汚染されたときその土地でどうして生きていけるのかとなる
今でもこの辺では水はペットボトルで買うほかない、山の方では自然の水をとって生活していた所がまだあった、それは無料だった、それもできない。
企業が巨大化するときそうした自治体が買い取ることができる、現実に東電は国と一体となり漁業権を海を買い取り自治体の存在基盤である自然も買い取っていたのである。
そして企業は利益だけをみるから人間の存在基盤である海であれ土であれ木であれ森であれそういうものを無視して利益を産み出すことだけを考える
企業にはもともと自治体が成り立つ自然など見ていないのである。

そもそも東京を見ればわかる、そこには田畑がないし水でもどこから供給されているのか意識しない、山から水が供給されていることを意識しない、でもその山も実は放射能で汚染されていたのである。利根川の上流も放射能で汚染されていたのである。
ただ東京にいれば自然はじかに意識しないのである。
そういう社会に生活しているとき自然は意識されない、電気をエネルギーとするとき自然より電気があれば生活できるとなる社会である。
そうなると電気文明となり原子力文明ともなりそれに依存するのであり自然に依存する社会ではない、でも東京すら放射能で水は汚染された生きていけないのである。
大企業は今やそうして自然を無視して破壊する力をもった、それはソーラーパネル工場と化したこの辺でもわかる、それは太陽をエネルギーとしてもやはり森を破壊してそこで水が産み出されるがそれがなくなるとかも言われるからやはり自然破壊だった
それと同時に景観も破壊されるから文化は消失するのである

ともかく原発事故で意識されたのは巨大企業によるまたは科学文明による自然の破壊でありそしてそれが自治体の崩壊になったのである。
法律的に自治体と県と国の関係がありそこで原発事故の問題は処理されねばならないものだった、ただ根源的に歴史的に問う時、これは文明文化というか大きな問題としてクローズアップされたのである。
科学文明工業文明原子力文明の崩壊だったのである。
そういう大きな視点で見る必要もある問題だったのである。
だから個々の問題としていろいろあるがそうした文明論的観点からみて対処することも必要なのである。
そうなると確かにむずかしくてどうすればいいのかわからないとなるが原発事故はそういう人間の存在基盤をゆるがす問題だったのである。
だから文明の転換すら考慮する問題であり個々の問題だけを追求しても解決しないともなる


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posted by 老鶯 at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連