2017年04月12日

溶岩の山(mountains of lava)

溶岩の山(mountains of lava)

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a piece of the earth
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地獄から天国へ(詩)



地獄から天国へ(詩)

 いづれの行もおよびがたき身なれば、 とても地獄は 一 定すみかぞかし (親鸞)

死は苦しみからの解放
心の病,脳の病
最後に断末魔の苦しみ、叫び
人と人は憎しみ争う
人間の恐るべきエゴ
弱者として責められた恐怖
自らの病気と他者の責め苦
非情な人間の社会
それは地獄だった
人間の恐るべき業(カルマ)
業の欲の炎が燃え上がる
この世に現れたまぎれもない地獄
人は人にとって狼
人間は悪鬼ともなり夜叉ともなる
しかし死はこの世の地獄からの解放
もはや苦しみはない
人と人は争わない
和やかに手を握りあっている
やさしさが顔にあふれている
業(カルマ)から解放された仏
己自身も身内の苦しみをになった
しかしその苦しみからも解放された
自らの病気で苦しんだが
それも今はなく他者に脅かされることはない
今他者に頼ることがない
頼られても頼ることない幸せ
人が人に頼るとき不幸になる
その時弱みがありつけこまれる
そういう悪質なるものが人間
だから今は死者も安らかであり
自分もまた安らかになる
平和とは何か?
自分の病気であれ家族の病気であれ
苦しみのないこと
弱者となりて責められないこと
人と人が争わないこと
その時人は平和を感じる
なぜなら人と人の争いは終わらないから
死は必ずしも悪いものではない
苦しみからの解放であり
他者に頼ることからの解放であり
他者に責められることからの解放であり
業と欲からの解放である
酷い戦乱を戦争を生きたものは
ただ戦争のない世界を望む
人と人の酷い争いを見たものは
ただ争わないことを望む
しかしこの世に争いは消えない
そういうふうに憎しみ争うのはなぜなのか?
それはこの世の地獄を身にしみて経験して
天国の平和を望むようになること
もう二度と争いたくない
そういう気持ちをいだき天に昇るとき
そこに真の平和が実現している
天国にあるためはにこの世の地獄を経験する
この世は試練の場であり地獄の場でもある
その地獄を生きぬいたものに真の平和が訪れる
灼熱の地獄から涼しいパラダイスに
もう人と人は争わない
その顔から苦しみはとりされらて
安らかな慈悲に満ちた顔になる
業の炎は消えて安らかになる
だから死は悪いものではない
死を持ってしか解決しないことがある
それは苦しみからの解放である
争いからの解放である。
責め苦からの解放である。
そういう苦しみと地獄を経験して
真の天国が訪れる時がくる


地獄というとき来世にあるのではなくこの世にある。地獄の世に生れてきたのが人間なのだ。親鸞の言っていることは親鸞自体が地獄を経験したから言っている。
地獄の世を生きたから言っている、とても地獄から逃れられないのが人間なのである。
そういう地獄を経験したのがこの十年間の家族の介護と自らの病気とかであった。
自分の家の状態がまさに地獄の状態になったのである。
一人は重傷の認知症になって一人は介護が5年ほどつづきとか今度はその間に自分が病気になり二回入院した、そして自分一人しかみるものがなく苦しんだ
その時助けはなかった、それよりその弱さにつけこまれて大金を盗まれたり借金の強要をされたり恐怖の時を過ごした
自分の所に来た人も余裕がない、金もないから自分を責めるチャンスになったのである。そのことはプログでずっと書いてきた

認知症というのも過酷である。それはその人だけではない、それをみる人も過酷になる
精神を病んだ人をみると自分も病んでくる、そして病気というのは本人も苦しい
だから苦しみから解放されたいというだけが願いとなる、でも死の病となると死ぬ意外解放されることがないのである。
認知症でも馬鹿は死ななきゃ直らないとなる、直ることがないのである。
老人の病気はもう直らない、死に向かっているからである。
だから最大の願いはその苦しみから解放されることなのだ
それは死しかないのである。だから死がすべて悪いものとはならない
そういう状態になったら死にたいと思うのが自然なのである。

人間は最後は断末魔の苦しみを受ける、それで業(カルマ)が消滅する、死んだら地獄に行くのではなく今世が地獄なのである。
そして現実にもっとむごたらしい地獄が生々しくこの世にある、アフガニスタンでもシリアでもまさに地獄そのものである。
そしてそういう地獄で生きている人は戦争のないことがどれだけ平和かと切に思うようになる
自分の姉も四年間シンガポールで今のマレーシアのジョホールバルで従軍看護婦で辛酸をなめた。だから死ぬときまでそのことにうなされつづけていたのである。
だから戦争は余りにも悲惨でありそのことが忘れられなかったとなる

いづれにしろ人間の恐怖は弱者になることである。弱者というとき金のないのも弱者だがその時江戸時代だったら借金で遊女にされたり今でも同じようなことがある。
その弱みにつけこまれることが常にある。それも自分も受けたし憤りを感じた
でもみんな最後は老人になると弱者化する、強いものでも弱者化してゆく
子供の世話にならざるをえない状態になったとき親でも弱者化するのである。
だから老人になることは病気とかになりやすいから怖いのである。

医者であれ看護師であれ他者に頼るとき地獄になる、なぜか他者は別に愛をもって接するわけではない、機械的に接するし患者が虐待されることもある、そういうことも経験した老人は特に老人ホームでも邪魔者として虐待されやすいのである。
でも自分が病気になったりしたらどうしても医者だけではない、他者に頼らざるを得なくなる、それが家族がいないことの最大の恐怖だと経験したのである。
それもまた自業自得、カルマなことは確かである

ともかくもし天国だけにいたら天国の価値はわからない、地獄を経験したものが本当の天国の価値を知るのである。戦争で苦しんでいる人たちは戦争のない世界がどれだけ平和なのか心から感じる、でもそういう経験をしていない人は天国にいても感じないのである。だからこの世は地獄でありそれは天国を行くために必要だともなるのである。

人間が業をカルマをもつというとき欲がありその欲が消えないからまた自らも苦しむ
男女でも愛憎の炎が燃え上がる、何かそこには平和がない、争いになる。
戦争がなくても普通の生活のなかでも平和がない、自分の家もずっとそうだった
争いがつづいていて死んで争いがなくなったのである。死んで平和が訪れたとなる
だからすべて死が悪いものではないと今では思う
死というのは一つの浄化作用なのかとも思う、つまり罪業が消滅するのかと思う

大難を得て罪障消滅するー日蓮

これは別に信仰とは関係ない、みんな最後は大難にあう、死は最大の大難だからである。まず創価のようなカルトは法華経を批判することは最大の罪だとかいうけどそれが政教分離していないから怖いのである。創価とか公明を批判するものは罰があたるとなり何もいえないから好都合になる。政治の世界に宗教をもってくるとどうしてもイスラムでもそうだが問題が起きる、要するに創価を批判することは誰もできなくなる
マスメデアがしないのは創価が権力をもっているからであり別に宗教が怖いからではない巨大な権力集団だから誰も批判しないとなるだけである。
そういうことはカトリックで嫌というほどヨーロッパで経験しているから政教分離の法律ができたのである。

別に宗教者でなくてもみんな最後は死という大難を経験する、それは誰も逃れることはできない、「大難を得て罪障消滅する」というとき死をもって罪障消滅するということなのだろう。死は救いだともなるのである。

死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない


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