2017年09月30日

ようやく秋になる (俳句や短歌は読みを深くして鑑賞する)


ようやく秋になる

(俳句や短歌は読みを深くして鑑賞する)

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ここから海老の海が見える
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津浪から6年すぎて成長した海老浜の松

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八沢浦から見える蔵王連峰



コスモスや海に通じて陽の昇る

牛のいて秋の日ざしや田舎かな

柿なりて電車を待つや田舎駅

季(とき)変わる電車を待つや秋薔薇

衰えぬ枯蟷螂やみな老いぬ

老人のパークゴルフや秋の雲


津浪より6年すぎて生い立ちぬ松の緑や秋の海かな

秋晴れに蔵王望みぬ八沢浦昔の面影なお残りけり

水無川今日流れひびきて秋風に竹そよぎゆれ走る道かな

東京へ出かける人や今しばし故郷の駅に柿はなりにき

はや風に散る木の葉二三枚今70才に死ぬは早しも

よく見れば我が足元に野菊咲く実りもあれや里の暮れにき

この辺り蝉のへりにつ鳴く声を聞きつつあわれ今日も来るかな

ひたすらに虫の鳴く声ひびきけり命短く夜も鳴きにき



俳句は短歌より短いからどうしても鑑賞する方が実はむずかしい,鑑賞する方が優れていれば写生俳句は生きる,でも鑑賞する方が劣っているといくら優れた俳句でもその良さががわからないのである。

例えば今日の俳句では

季(とき)変わる電車を待つや秋薔薇

これをどう読むか?駅は自分のテーマになった,だから一応今も毎日行っている:ただ長くはいない,今は柿がなっているし秋薔薇の季節である。
するとそこから鑑賞する,季が変わるということは女性だったら春の薔薇の季節があり夏の薔薇の季節がありそして秋の薔薇となり冬の薔薇となる
若いときは春の薔薇であり夏の薔薇であるがやがて結婚して母となり成熟してくると秋の薔薇とかなる,中年になり中高年になってゆく

そして今までは駅では見送られた方なのである。
かならず東京辺りに行く人をみかける,一方で娘や孫を駅に出迎える人もいる
そのように立場が変わってくるのである
そして不思議なのは見送られていたときと今度は逆に見送る立場になるが両方を経験するとき人間として成長することがある。
見送られるだけではその時見送ってくれた人の気持ちがわからないのである。
親になってはじめて親の気持ちがわかると同じである

今日は八沢浦から蔵王が見えた,あれが蔵王なのかといつも不思議である。
あんなに大きく見えるのかというのが何回も見ているが不思議なのである。
八沢浦は別に津浪が被害があったからといって地形までは変わっていない
津浪で地形まで変わることはない,海岸線は変わったが地形全体は変わらないのである。もともと八沢浦は入江であり蔵王をその入江の水面に写していたのである。
それが津浪で再現されたとき驚いたことはなかった。

いづれにしろ「心に青雲」の都築詠一氏が69才で死んだのは驚いた
それはやはり十年間くらいプログと読みつづけていたからだろう。
そうなるとやはり何かしら相当な影響を受けていたのである。
それにしても本当にひたすらに最後を鳴いていた虫の声だった
そして命が尽きたのである。
団塊の世代はこれから死ぬ人が増える,では何を語って死んでゆくのか,戦争経験者と違ってたいして語ることもなく死ぬのが団塊だとか評判が悪い
だから尊敬も若い人はしない,それに不満があってもどうにもならない

川子にパークゴルフ場は今日も老人でにぎわっていた,あそこは広いし見晴らしがいいから気持ちいいい場所なのである。
パチンコなんか一日狭い所でとじこもり健康的ではない,パークゴルフはその点健康的なのである。遊びでも自然の中の遊びなら気持ちいいのである。見ている方も気持ちいいのである。

ともかく秋らしくなった,日ざしもそうである。だから外出するにはいい,自転車でまた遠くへ走りたいとなるが何か疲れるから原町辺りまでしか最近は行かない
相馬市まで原町の倍あるから長い間行っていない,やはり疲れるようになったのである。,

選挙でどこに投票するのか? (実質一党独裁であり民主主義が機能していない)



選挙でどこに投票するのか?

(実質一党独裁であり民主主義が機能していない)

都議会に理念とかあまり関係ない。国政は理念が対立要素。

いつも無党派層は選挙でどこに投票していいかわからない,それはなぜなのか?
まとせな野党がいないからだ,共産党はいやだとか民進党はもう終わりだとか
現政権に対抗する政党がないのである。
そして野党同士で内ゲバであり分裂して自公政権に有利にしている
みんなそして政治なって何も変わらないよなとなって投票もしたくないとなっている
どうせ投票したって何にも変わらないという政治に対して無力感で一杯なのである。
若者は若者でこれだけ老人が多いのだから俺たちが投票しても変わらないとなり投票しない,すると固定票の公明党とが実際は投票率50パーセンとしかないのに数を確保できる

創価などは毎日二年前から選挙運動でありほぼ毎日が選挙運動のための活動なのである。それでも増えないのだから衰退して停滞するだけである。
選挙で勝てば仏法の勝利だから毎日拝んでF(フレンド票)とりに必死になっている
一票でもとれば数を確保すれば信心の勝利なのである。だからカルトなのである。
今は老人クラブのようになっているというのもわかる
時の権利をもつ側につくのが公明創価である。
こういうふうに公明党に頼る自民も情けないとなるが他に選択がないからもう一党独裁のようになっている

もう民主主義は対抗する勢力がなくなれば一党独裁になり阿部首相のようになんでもやり放題になる,自分は別に右でも左でもない,日本の文化とか伝統とか歴史は大事にするから右よりともなる,左翼になるとこれもネットで常に批判しいてる
中国と韓国のスパイの巣窟でありマスコミもそうでありNHKでもそうである。
マスコミはかたよりすぎているのである。だからネットではその反動として常に在日に支配されているとか中国の傀儡だとか批判のオンパレードになっているのだ

日本では民主主義は機能していない,民主主義とは何かというとき主義なのである。
それは主義だから思想運動なのである。ただそれが共産主義なとと違い明確なものがないでも三権分立とかの法整備があり権力を互いに制御するとか報道の自由とか国民や市民の自発性を育てる思想がある
制度としてはそうなのだが自発性となるとそれは国民が市民が自ら育てない限り自然とは生まれないのである。
だから民主主義は市民の自発性を育てる過程にある
それは国民が市民が目覚めて育てるのである。

では自分はどこに投票するのか?どこにも投票したくないのである。
ただ選ぶとすると政策的には原発ゼロ政策の「希望の党」などがいいとなる
そこに問題があるにしろ民主主義には政権交代が必要なのである。
権力は必ず腐敗するし対抗勢力がなければ一党独裁のようになる
そこではなんでもやりほうだいになる
昨日書いたけど原発では自民党と東電と警察まで一体となり事故にもなった
それを正すとがめるものもいなくなる
天下りもとがめるものもいなくなる
そこに警察権力の横暴も起きてくる,現実にそういうことがあり国民や市民はおびえる,それは時の政権によっても支持されてそうなっているからだ

自分は左ではないけど民主主義の推進にはどうしても対抗勢力が必要であり権力のパランスを計るのが民主主義なのである。民主主義とは権力をいかにして制御するかというものがあり生まれた,それが権力をもつもものが政権交代がなければ一方的になってしまうのである。誰も正すものがいない,すると天下りなどもとめることができない

細野豪志補佐官(当時-原発担当大臣)も追及していた

「警察から東電へ天下りしている元警察官が32人もいるのは多すぎないか。
しかも東電は栗本英雄顧問(元刑事)をはじめとして,彼らの職務内容を明らかにしていない,反原発運動の情報を警察から提供されたりそういう運動をおさえこもとして私兵として使ったりする見返りに業務と関係のない,元警察官を大量に雇用しているのではないか?」

こういう質問する議員すらいなくなる,するとどうなるのか?
原発はとめられずいつか日本自体がメルトダウンして滅びるとまである。
東日本が終わりだとフクシマの原発事故では騒がれていたからである。
民主主義が成り立たなくなり一党独裁になり原発はとめられず遂に日本は滅びる
なぜなら警察だって時の政権側の下僕となり検察でも時の政権側につくからこそ
東電の家宅捜査でも何もしないからである。
そして社長は天下りして何のとがめもないし幹部もないのである。
自公政権がそうさせているともなるからだ
もし政権が交代したら原発に関しては変わるかもしれない
ただ今度はアメリカの圧力を受けるからわからないにしても変わる希望はもてるのかとなる

民主主義にはともかく政権交代が必要であり小選挙区にしたのはそのためである。
一気に政権交代が起きる仕組みだからである。
希望の党とはなにかわからないにしてもそれでも政権交代を言っているのはそうしないともう民主主義は機能しなくなる,一党独裁であり全体主義であり次はファシズムであり戦争に突入とまでなる
前に藤原弘達が創価のファシズム的なものが自民の右などと合体して独裁になってゆくということを警告していた,創価はカルトだから日蓮主義は他でもそういう傾向がある。
だから戦争中も日蓮主義の思想がありナショナリズムと結びつきやすいのである。
日蓮の国粋主義と結びつきやすいのである。

そして公明党は聖教新聞系とかは原発の広告を一番か二番くらいにのせていたのである。それも広告費を東電からもらいたいためにそうしていただけである。
それは他のマスコミも全部そうだった,新聞社とかは維持するには金がかかりすぎるからそうなる,だから昨日も書いたように東電とか電力関係の会社は莫大な宣伝費をマスコミに出していたのである。たから実質の支配者はマスコミではなく宣伝費を払っている会社だったとなる

いづれにしろ右は原発推進である。「心に青雲」の都築詠一氏も右だから原発推進であり核武装はである。そして低い放射線量は体にいいとかフクシマは全体を維持するためには犠牲になるべきだとか言っていた,それには反発を感じたのである。
東京に原発を建てるべきだったというのが今では正論だったのである。
もちろんフクシマとか地方に問題がありそのことは書いてきた
ただ希望の党の「原発ゼロ」政策にはこの辺では賛成するだろう。
まず被害にあったものとないものの差は大きいからだ

ただ正直地元でも何が価値あるものかその価値が認識されていなかったのである。
金になればいいとかしかなかった,そして自分たちが生きる場すら奪われたのである。
だから地元でも反省すべきだが自公政権はもはや一党独裁と同じなのである。
民主主義が機能しなくなったときどうなるのか?
それはただ形だけでありもう崩壊しているのだからその思想を実現することは不可能だとなる,ただ名目としてあるだけであり何の働きもしていない,死んだともなる
そういう状態がやはりつづいたのである。
だから「希望の党」がそういう民主主義の危機でありそれを変えようとすることに期待する,民進党よりましであり保守でも政権交代できる二大政党を日本はめざすべきだとなる

都議会に理念とかあまり関係ない。国政は理念が対立要素

理念となるとわかりにくいけど理念は目標であり行動の基盤である,だから理念に主義に死ぬということもあ
それは利益を越えたものがありカルト宗教団体はその理念を間違ったものとして活動している
原発ゼロというとき相当な変革である。それは社会そのものも変える
原発をもたないことは核をもたないことにも通じている,それは平和の理念を核をもたないことで追及する理念になる,だから大きな争点となるのである。






posted by 老鶯 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年09月29日

なぜ東電の幹部は逮捕とか捜査も警察はしないのか? 本当にワルイのは警察〜国家権力の知られざる裏の顔 (寺澤 有)を読む


なぜ東電の幹部は逮捕とか捜査も警察はしないのか?

本当にワルイのは警察〜国家権力の知られざる裏の顔 (寺澤 有)を読む 


電力関連に国家公務員71人天下り 福島原発事故後 経産省最多17人(東京) 電力業界と官僚の“癒着”を裏付け

経済産業省(17人)海上保安庁(16人警察庁(14人)・・・・

恥知らずな東京電力の清水正孝前社長は、東電が筆頭株主である企業の小会社に天下りしました!しかし、私たち皆で共に力を合わせれば、取るべき責任を果たしてこなかった前社長を、就任した新たな役職から引きずり出し法廷の前に立たせることができます。 

清水氏に天下りを許すということは、史上最悪の原発事故に対する説明責任に真っ向から対立するものです


東電に警察・公安から天下り多い理由 暴力団からの「用心棒」

関西電力の話だが、1990年代に進められた石川県の珠洲原発建設計画(2003年に中止)の用地買収に協力した暴力団組長が、見返りとして関電に30億円を要求したことが明らかになった。民間同士の取引なので事件化することはほとんどないが、この種の話は東電でも腐るほどあった」

 東京電力に警察・公安関係組織の天下りが多い理由もここにある。

 <東電:官僚天下り50人以上 ゆがむ原発行政(1)> 
東京電力に「嘱託」などの肩書で在籍する天下り中央官僚が47人。
「顧問」ポストも加えれば50人を超え、
出身は所管の経済産業省から国土交通、
外務、財務各省、警察庁、海上保安庁と多岐に。毎日


原発事故を追及してわからないことがなぜ検察はまた警察は東電の幹部を逮捕したり捜査したりもしないのだろうかということである。
これだけの事故を犯して何の罪にも問われない,海外の子会社に移ったり清水社長も天下りしている。
このことがどうしてもわからないことだった

●なぜ東京電力を家宅捜査しないのか?

通常一般企業では事故を起きたりすると列車事故にせよ,食中毒にせよ,すぐに警察は家宅捜査する,東電は一切そのようなことが行われない

細野豪志補佐官(当時-原発担当大臣)も追及していた

「警察から東電へ天下りしている元警察官が32人もいるのは多すぎないか。
しかも東電は栗本英雄顧問(元刑事)をはじめとして,彼らの職務内容を明らかにしていない,反原発運動の情報を警察から提供されたりそういう運動をおさえこもとして私兵として使ったりする見返りに業務と関係のない,元警察官を大量に雇用しているのではないか?」

22年前も電力会社を守っていた警察

核燃料サイクル施設の建設をめぐり強い反対運動が起きた
その中で反対派の中川登の車だけが駐車違反で検挙される事件があった
このような人気のないところで警察官に職務質問を受けるような事態になるとどのうようないいがかりをつけられるかもしれないと逃げた

●今も変わらない警察と電力会社の蜜月関係

「六ヶ所に原燃PRセンターがある,この施設に入場し,展示物に「反原発」などと記された名刺大のシ-ルを20数枚はったとして青森市の男性が野辺地署に住居侵入容疑で緊急逮捕された,ようきの変のへ辞し大制がど料ろっ。

たかがシールをはったくらいで本州の北端から東京まで捜査員を派遣する力の入れ方をみるとこれは到底野辺署単独の判断とは思えない
青森警察本部,いや警察庁としての意思を強く感じるのだ

またその一方で一民間企業でしかない,東電本社前を機動隊が警備して会長宅を多くの警察官が守っている,こんな現実が当たり前になっている現実を忘れてならない

今回の原発事故であきらかになったことはいろいろある。
東電とか電力会社がいかに大きな権力をもっていたか判明した,それがなぜそうなっていたのか?電力というのが今の社会では欠かせない重要なものであり要になっている
そこには莫大な金が入る,東電でも国家なみの巨大企業だったのである。

一見政治家とか官僚が力をもっているとみるがそうではないという,
実際の普通は目立たない,表に出ない人達だという,それは東電の幹部のような人だったのである。
なぜなら金の出所が電力関係の会社からでる,マスコミでも800億円とか電事連から出ていた,電力会社はそれだけ金を稼ぐのである。
その金で今度は政府関係者,政治家でも官僚でも検察でも警察でも雇うことができるのだ

検察も警察も東電(電力会社)の用心棒だった!

今の社会の悪は見えにくいのである。金持ちの商人でも良く役人にワイロをやったり用心棒を雇ったりしている,その悪はどぎつく明白なのである。
だからその悪はわかりやすいけど現代社会の悪は見えにくいのである。
むしろ警察などは正義の味方だと普通は思っている
悪い人も逮捕しているではないか?
でも本当の巨悪には大きな権力には警察も対抗できない,かえって用心棒になっていたのである。

太宰治の生家は有名である。そこは煉瓦の高い塀がある,それは小作人などが不満になり家におしよせて打ち壊しなどしないために作られた
そして警官はやはり太宰治の家を守るために配置されていたのである。
今でも東京辺りの金持ちは高い塀で囲んでいるし外国だと私設の警備員を雇っている
銃撃戦までしている,一見現代は何かそんな露骨な悪はないし警察などは庶民の味方だと見ている
しかし検察でも警察でも弱い者の味方ではない,かえって権力を笠にきて弱い者いじめをするのも警察なのである。強い者にはかえって弱いのである。
権力には常に権力の濫用が起きてくるのだ

それは政治でも今の自民党のように一党独裁のようになるとやり放題になる
警察にしても権力をもっているからその権力の濫用が起きてくる
権力というはそういうものである。
悪い人間が権力をもつと怖いことになる,警察では様々な警官の悪辣の事件が隠蔽されいる,警察の仲間意識は強い,それは公務員でもいえるし会社でも言える
そこで既得権をもち利益を得るのである。

警察はその他ハチンコ業界ともつながり金を得ている,それはもともと暴力団がしていたことである。何か警察と暴力団はにている面がある,座頭市では関八州でヤクザが警察の肩代わりをしていたからである。
警察でも何かブラック会社ともなる,それは東電の用心棒のようになったりする
そうして上のものだけが得して庶民は重税にあえぐ,それはいつの世もあったが現代というのはそういうことが露骨には見えない,わからないのである。
東電があんなに大きな国並の会社だと思わなかったからである。
だから賠償金でもその額が巨大なのだから驚くし除染作業でも国がかかわると莫大な金がでる,それはみんな税金なのである。
その税金は復興に使われたというのではなくゼネンコから暴力団に流れたりだまされたりもして最近では南相馬氏で10億円が復興事業に金が国から出たがだまされたというのがあった

ともかく警察は誰の味方なのか?

国民や市民や庶民の味方なのか?


憲法第15条第2項

すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。

もしそうでないとしたら警察でも市民は監視して対抗措置をとらないと今回のような原発事故になったりしたらそこに住めなくなり責任をとらされるのである。
公務員に金を払っているのは国民である市民である。いかに東電が電力会社が大きくてもそれは一部なのである。その一部のものと利害関係を結ぶのは法律違反になる
公務員は警察でもそうであり国民に奉仕するものであり国民が主体であり国民を害するようなことはしていけないのである。
それが警察の場合,警察や警官自体が自覚していない,国民も市民も警察を怖がる
何かスネに傷もたない人はいないからである。
ただ警察に月給を払っているのは国民である。もし私的警備員のように会社が雇うなら別である。警察を雇っているのは国民だという自覚が国民側にも必要なのである。
警察側にも国民が月給を払い国民に雇われているという自覚をもつべきなのである。
それが東電に天下り先を確保するからと東電の用心棒になることは国民にとって許されないことなのである。
そんな警察ならない方がいいとなる,自警団を組織した方がいいとなるのだ。
なにか今の社会はそうした本末転倒が起きているのだ。

もしそうでないとしたら警察でも市民は監視して対抗措置をとらないと今回のような原発事故になったりしたらそこに住めなくなり責任をとらされるのである。
そういう自分たちの生きる場を奪われる,その危機感をもつべきだったとなる
警察は東電の用心棒であるときそれも国家権力なのだからどうして対抗できなるのかとなる
それは市民が自覚して対抗しないかぎりできないことである。
こうして本に出して訴えているのはこの本の著者くらいで他はあまりないというときそれだけマスコミ関係もとりこまれているし警察権力の前に何もできないとなる

権力というのが誰が本当はもっていて動かしているのか?

それは政治家とか官僚とかマスコミでもなかった
東電とか電力会社でありそこから金が出ていたからそうなっていた
そういう巨大企業は政権交代もないのだから権力が安定している
政治家は選挙で落とされるとただの人になる
東電はこれだけの事故を起こしてもつぶれない,それは国家をもとりこむ権力があるからだとなる,事故後もやはり天下りが海上保安庁と検察警察関係が一番多いことでもわかる権力構造は事後前となんら変わっていないし警察は東電は何もしないでかえって用心棒となり警備しているのである。






posted by 老鶯 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会 (そして恐竜のように自滅してゆく?)


巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会

(そして恐竜のように自滅してゆく?)


肥大化した組織が自壊する5つの理由と、小さな組織の台頭

明治維新後は近代化であらゆるものが国家の役割をにない,国家のために富国強兵を目的として社会が変えられた,強力な中央集権国家になった
それは対外的に外国と対抗するためである。
警察でも中央集権国家の中で侍に代わり生まれたものである。
軍隊も明治以降は国家の軍隊として生まれたのである。
藩の時代は藩中心の軍だった
つまり明治時代以降は国家中心の国家のために尽くすものとして社会が変えられたのである。
江戸幕府時代の藩をなくして廃藩置県にして四民平等しにしたのもそうである。
西南戦争で国民軍が西郷隆盛のひきいる武士集団に勝ったことで国民の軍隊となった
明治からは強力な中央集権国家に変貌したのだ
言葉でも標準語に変えられた,明治維新後は欧米とか列強と戦うための強力な中央集権国家になっていた,その継続としてアメリカとの熾烈な戦いがあり敗れたのである。

まず江戸時代は国家は意識しない,天皇も意識しない,それぞれの藩が国だったのであるだから国家意識をもつことはない,
天皇などは地方では知らないということもあったろうそれが強力な中央集権国家になったとき天皇が国の中心となり太平洋戦争に向かったのである。
明治以降は国家のために生きていたのであり一般的に個々人の価値観に生きることは許されないことがあった

だから絹を生産するのも国力を充実させるためでありその輸出で外貨を稼ぎ軍事力の増大に使っていたのである。国家のためにと働かせられていたのである。
一に国家,二に国家,三に家があったのかもしれない,その家も国家に尽くすものとしての家だった,戦後の家父長制は国家の意向が働いていたのである。

戦後はそうした国家のためにという価値観は否定されてきた,そして今度は企業戦士となり会社のために働くようになり高度成長時代を築いたのである。
でもやはり中央集権国家というのは制度に残っていたのである。
地方でも国家から中央から地方交付税とかを配布されるから経済的に中央が支配する体制ができあがっていた
そしてあらゆる分野で国家が関与する,官僚がその税金を使うようになった

それが警察でもそうであり医療関係でも病院であれ福祉施設であれ銀行でも国家が関与して経営する,国民健康保険自体が国家が運営するものだからである。
だから教育でも明治以降は学校制度ができて中央集権の国家のために尽くすように作られた,学校自体が国家のためにあったのが明治以降なのである。
寺子小屋だったらそれはただ読み書きそろばんを習うだけであり国家など関係しないし,江戸時代などは村が中心であり国家など関係していないのである。

そういう巨大な国家運営するための機関が組織が肥大化する,その巨大機構が機能不全に陥ってくる,制度疲労を起こしてきているのが現代である。
巨大なものの危険はあまに巨大化して肥大化してそれで社会までおしつぶしてしまう。
東電なども国家並の巨大企業でありそれは福島の一地域に原発を造った時,事故となり住めなくなった
それは国家が地方などつぶしてしまう力を持っていた
それは巨大なるがゆえにそうなったのである。

巨大なるものの危険性はそうして自然でも一地域でも破壊する力を持つことである。
そして巨大なるものは巨大なるが故に自ら制御できなくなる,結果的に原発事故のようにメルトダウンして何もできない,そこには人は住めなくなる
それはあたかも恐竜のようにも見える
恐竜は巨大なることの故に自滅したのである。かえってネズミのようなものが盛んに動き回り適地に逃れて生き延びた,恐竜は巨大なるが故に動くのも遅いし小回りがきかないから自滅したとなる

国でも必ずしも大きな国がアメリカでも中国でもロシアでもそうだが強いとも限らない
なぜ北朝鮮のような小国を相手にアメリカが右往左往しているのか?
それは核だと大国に対等に対抗できるからである。アメリカでも一発核弾頭がうちこまれたら大被害になるからである。
だからアメリカでも中国でも大国が必ずしも強いとかならない

そこには巨大なるがゆえの弱点が生まれる,小回りがきかないとかまとまりがないとかなる,それは大企業でも同じである。小回りがきかないから時代に適応できない
ネズミはこまわりがきいて動き回るから自然災害からも逃れられたとなる
巨大なるものは強いようで弱点をもっているのである。
日本は小さいにしてもまとまりがあり小回りがきくとか大国にはない強みをもてる
だからその利点を活かせば大国にも抗することができる
なんでも大きなものが有利とはならないのがこの世界なのである。

いづれにしろ巨大機構は機能不全に陥ってゆく,警察だって巨大な機構だけど個々のこまかい対応はできなくなっている,
病院は肥大化してただ税金を使い国をつぶすまでになっている,
国家の巨大機関が機能しなくなる,官僚はただ税金の無駄使いするだけだとかなる,それは国家が巨大でありこまわりがきかない,大きな政府より小さな政府がいいというとき税金の無駄使いなどなくなるからである。
何でも政府で無償化というとき無料のことではない,必ず税金でまかなうことなのである。
政府ではとにかく税金でまかなうほかない,公務員とか官僚でも別にかせぐ組織でないからである。
いづれにしろ現代の制度疲労化した社会は何かの拍子に自壊するかもしれない
それが原発事故でもあった,原発の内部を知るものは一人もいない
吉田所長も肝心の復水器があることを知らなかった,それは水を流して原子炉を緊急に冷やすものでありそれを知らないとは致命的にもなっていたのである。

原発は巨大だから複雑だからそれを誰も制御できなくなりメルトダウンした,現代の社会も同じようなことが起きてくる,巨大な機構でも会社でも機能不全に陥ってゆく
そして手がつけられなくなり自壊するのである。
たから今度は警察機構が崩壊したら機能不全に陥ったら自警団を組織するとかなるかもしれない。学校が崩壊したら自主学習の小規模の塾に通うかもしれない。
銀行がつぶれたら小規模の金融組織が作られて地域に機能するかもしれない。
マスコミだとインターネットのyoutubeのようなほぼ個人で放送できるものがかえって繁栄する
大きいだけがすべていいとはならない,小さいものには小さいものの良さがある
そういう社会そのものの転換期が明治維新から140年とかすぎてきている
制度疲労はもう機能不全になり腎不全のようになってしまうかもしれない
それは死を意味しているのである。

2017年09月28日

龍安寺石庭,鎌倉五山を語る (心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)


龍安寺石庭,鎌倉五山を語る

(心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)

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白砂の庭を美しく見せようとしたのではなくて、その欲を棄てきったところに現れる「美」を、私たちは500年の時を経て、発見しているのである。だから最初に述べたように、創建者の禅僧が、今に生き返って庭を見たら、驚嘆するはずなのである。

だが石庭の白砂を掃除してならして何になる? 今なら観光客に見せて拝観料がもらえるとかだろうが、昔はまさに愚にもつかぬ作業である。誰が見て褒めてくれるわけではなかった。
 その場合に、嫌々やるとか、適当でいいやと思いながらやると、その感情で自分を創ってしまうことになる。

 ここがおそらくは修行の根幹である。愚にもつかぬ行動だからこそ、立派な感情を創るにふさわしいのだ。これは否定の否定である。
 弁証法を知らなくても、龍安寺の往時の僧らはこれを見抜いたのだから、すごいことだった。
 自分の感情でものごとを為そうとしてはダメで、禅の感情なり、その寺の開山の感情にならないといけない。

 五山文学を読んでみると、禅僧たちが「個人」になっていることが見てとれる。それ以前の平安時代の宗教は鎮護国家としての宗教である。天台宗、真言宗などはその典型である。

龍安寺石庭の謎を解く


枯山水の庭

白砂に石
方丈の庭
単純明快な配置
清純と質素
静粛な美
石は黙して
石は喝!
誠の石
ひびきあう
雑音なき楽のように・・・



三門譜

建長寺訪
三門威風
落葉踏想
五山禅僧



都築氏の見方は日本文化に対しても深い,なかなかこれほど語れる人はいなかった
その時代と社会から個々の文化をみるべきだと主張していた
その時代と社会の全体の像を見ないと個々の文化も理解できない。
鎌倉時代は平安時代と違い宮中の貴族文化から武士の文化,質実剛健な文化に移行したのだ,鎌倉時代は日本の武士の時代を築いたのである。
何か鎌倉時代というとき今は鎌倉という狭い領域でみる
でも鎌倉時代は東北まで広がった時代なのである。

平泉政権が滅びたとき鎌倉の武士,関東の武士が東北に移住した
相馬氏などせそうであり野馬追いの旗は鎌倉時代の武士に由来してはじまっている
宗教でも鎌倉時代に平安仏教とか国家鎮護の仏教から日蓮宗や念仏宗や禅宗と変化した大きな変革の時代だった
その大きな変革の原動力は何であったのか?
それは馬を駆使した関東武者の台頭だったのである。その流れとして相馬氏があり相馬野馬追いが生まれた,これは平将門からはじまってるのである。

他で平泉政権が滅ぼされたとき関東武者が東北に移住して先祖になっているのである。
そういう大きな広域的な変革の時代だった,その時代と社会の中で個々の文化が興隆したのである。
個々の文化でもそうした大きな時代と社会を見ないと理解できないというのがわかる
だから都築氏の視野は広いし深いのである。
そのログが消えたことは詳しく検討できないから残念になる
誰かが残しているのもあるが普通だったら全文でも検索することができたからである。

自分は都築氏が生きている時は自分はこのように答えて書いていない
都築氏は独断で書いて終わった

そもそもインターネットはパソコン通信からはじまっていた
その時から自分はワープロでしていた,それか何なのかわからなかった
それは若い人たちがパソコンの技術開発,ソフト的開発に貢献していたのである。
なぜならその時まずパソコンは高価なものであり誰も使えるものでも買えるものでもなかったからである。30万とか何か非常に高いものだったのである。
自分は理系ではないしそういう技術的なことは知らなかった
でも富士通のワープロで通信ができたのでたまたましていたのである。
それは訓練に終わったのである。

そしてインターネット時代になったときようやく社会に普及した
でもこのインターネットというメデアをどう利用するかはまだわからない人がいる
プログになると独断で延々と書くようになった,そこには対話がなくなった
パソコン通信の時代は必ず誰かが書いたらレス(レスポンス)が必要でありそれがないものは有効にならない,なぜなのか?
それは技術的にまだ未熟であり書いたものが通信されて到達したがどうかもわからない
だから確かめるために必ずレスが必要だったのである。
そういう形式で発達してやがて今のようにインターネットで一般化したのである。

ネットではレスすることが不可欠だった,そういうメデアだったのである。
テレビなどでも新聞でも今までのメデアはマスコミが発言していたのであり一般の人は埒外だったのである。
ただその内容は稚拙なものが多かったし今でも稚拙なものが多い
文学関係とかなると他でも膨大なゴミになっている
俳句でも短歌でも詩でもそうした高等なものより世間話が中心だったし今でもそういうことがある。

だから都築氏はそういうレベルとはまるで違っていたから驚いたのである。
でも都築氏はネットがどういうメデアなのかわからなかった
だから延々と独断でネットにプログに書き続けたのである。
第一とても彼の評論に答えられる人はいなかったと思う
空手関係では武の世界ではスポーツ関係ではいたが文学とかなるといない
そして自分は今こうして答えている,レスを残した文につけている
こういうことが本当はネットの醍醐味だったのである。
それができずに都築氏は死んだのである。
彼は何かそういうレスポンスするメデアの特徴を無視して独断で書き続けたのである。
それは自分もそうだがやはり高等になるとレスするにしてもできない
自分はだから短歌とか俳句とか詩で答える
そこに対話が成り立っているのだ

常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏

(常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか (鞍馬山に上り義経と一体化する)

templekyoto11.JPG

遠きかな都を離れわびずまい庭の桜に夕日さしあわれ

戦乱を逃れて住みぬ山の寺花そここに散りしあわれも

天皇の悔いてここにそ死ににけりその跡あわれ夕桜かな

(大原)

大原の闇の深きに花そ散るここに逃れてはかなき夢かな

都より遠く離れて春の星きらめき清し流れひびきぬ


志高くもありて果てにけれ正しく清く秋の星光る



なぜあれほど都築氏は光厳天皇にひかれたのか?
南北朝の争いでは北朝に義があるとしていた
後醍醐天皇を批判していた,ただ南北朝は本当にわかりにくい。
ここで考察するのはそのことではない

京都の地理的位置なのである。自分は大原には行っているけど鞍馬山とか常照寺には行っていないけど大原に行った経験からすると京都の街からずいぶん遠かったなという記憶がある。京都でも街を離れて山の方に入ると奥深い,バスで二時間くらいかかったような気がする,それだけ離れているということである。

地理的感覚は何度も言っているが実際にその場に行かないと身につかない,遠いという感覚でも一回でもその場を踏めばわかる,自分は全国を隈なく旅しているからでは常照寺がどういう場所なのか?大原を想像してわかるとなる
常照寺はやはり大原のように京都の街から相当に離れた山奥である
そこに光厳天皇が隠棲した
ただ自分が行ったのは30年前とかそれより前であり記憶がおぼろになる
ただ一回行ったということで地理感覚が残っているのだ。
京都にはもうそれだけの間行っていないのである。
ただ歴史はやはり地理でありその場を踏むことで実感することがある
それで実際に都築氏は鞍馬山と常照寺に行って光厳天皇と義経を語ったのである。

京都の魅力は様々な歴史的なことがありそれが魅力になるがいろいろありすぎてわかりにくいのである。京都から離れたそうした山奥も歴史的人物が関係している
そういうことは地方ではあまりない,そういう歴史的人物を彼は語ることができる人物だった,自らもその時義経やアレキサンダーとか一体化していたのである。
もともと体力的に弱かったからその憧れが強かったともなる

まず京都を知ることは容易ではない,これだけもう京都に行っていないのだからイメージもできなくなる,最近は外人が多いから行きたくないこともある
自分が行ったときも修学旅行生が騒いで情緒を壊された,今はもっとひどい,日本は貧乏になり観光でもうけるというとき一方で必ずマイナスの面もでてくる
京都は古都らしくしんみりと歴史の場などを散策したいとかある
そういうこともうかなわない,だから自分は人のいない阿武隈高原の道を自転車で行った方がいいとなる

いづれにしろ京都にはいろいろな古跡がある,その魅力は歴史で作られたものであり
他では作れないのである。まさに千年の都だからである。
ただ光厳天皇に都築氏があれほど注目していた,そして昭和天皇のふがいなさ,節制のなさを辛辣に批判していたのである。
そういうふうな見方もあるのか教えられたのである。
やはり人間はそれぞれが独自の見方をするとき教えられる,刺激を受ける
何かパターン化した見方では真実は見えない
天皇が被災地にきてありがたいなとかテレビに写されてみる,でも帰ったら贅沢な暮らしにもどるだけだと批判していた
一方で光厳天皇は乞食までして己をふりかえり反省していたとほめていたのである。
ともかくいろいろな分野に独自の見解をもっていたのである。

それにしても介護で十年間ほとんど旅行をしていない,でも一回でも行ったところは記憶に残っているからこうしてふりかえりイメージできるのである。
問題はいかに旅の場合に五感で感じて記憶に残すかが大事になる
ただ大原は何かバスで行って遠いなというのが実感としてあった
やはりそうした実感が記憶として残される,ただあいまいでぼんやりな記憶になっているのである。
インターネットの便利なのはインターネット上で旅をたどることができることである。
常照寺の写真もでていてイメージできた,質素な寺だったのである。
なるほど光厳天皇にふさわしい寺だとインターネットからイメージできる
ただ地理的感覚は一回その場を踏むのと踏まないのでは相当に違う
大原に二時間くらいバスで行った記憶が残っているから常照寺もそういう奥深い場所だなとイメージしたのである。
でも本当に実感したいならそこまで行く必要があるのだ。
何かもう最近そうして旅する気がしないのである。

2017年09月27日

「心に青雲」都築詠一氏の人となりをふりかえる (自分とにたものがあり世代も同じだった)


「心に青雲」都築詠一氏の人となりをふりかえる

(自分とにたものがあり世代も同じだった)


文明の発達が人間を弱い方向へと引きずりこみました。あらゆる便利さが弱くても生きていかれそうな錯覚を与えました。
 (中略)
 存在意義があるとすれば、それはひたすら強く生きることにあるのでしょう。

ここで人生の土台とは、まともに生活する、すなわち健康的に生活できることがそうであり、それなしには生きることの理想をいくら掲げても健康的な生活を保てずに、病人や、半病人になったりして、ゆがんだ生活で生きることになってしまったのでは、どうしようもないのです。

すなわち、人は信念や情熱などの精神的生活のみでは現実の世界でまともに生きていけないのです。 (引用終わり)

彼は病弱だとか一人っ子だとか金持ちの家に生まれたとか知った
成蹊大学などはそういうお坊ちゃん大学なのだろう。
なかなか地方の人は入りにくい大学になる,そこに都会と田舎の差があったかもしれない文系だったらどこの大学かなど関係ないだろう。
文学部だったというとき彼はめずらしく短歌でも俳句でも他にいろいろな作家を批判していた,こきおろしていた。
そういう鑑賞力があった人である。これはだからインターネット上ではめずらしいことだった,空手関係の人は武道には詳しくても他の教養がゼロの人が多いみたいだ
ただ武道の面ではそれなりのものをもっているから批判している
実際に文武両道の人はこの世にまれだろう。
どうしても文弱になったりするし文学にかかわる人は病弱のが多いのである。

ともかく都築詠一氏は確かに金持ちの家に生まれ恵まれた環境で育った,それは自分ともにている,ただ相違がその時東京と地方という差があった
あの頃はやはり東京と地方の差が大きかった
東京に憧れ人が多かった,でも地方だと田舎ではクラスの三分の一くらいが金の卵として集団就職したまだ貧しい時代だったのである。中卒が普通にいたのである。
団塊の世代として共通であり親近感も都築氏には覚えていた
ただ別に会ったこともないしプログだけの出会いだった

その後の就職先は編集とか文学関係とかにたずさわっていた,それも恵まれたことなのだろう。そんなところに簡単には就職できない,なぜ朝日新聞社に就職したのかもわからない,右なのだから何か辻褄が合わないがそういうことは人生にはある

ただ彼の強さへの志向は強かった,それも自分とにている,弱いものはなんとか強くなりたいのである。自分も体が弱かった,体が弱いということは実際は精神に相当影響するのだ,頭脳にも影響する,勉強するにも社会で働くにも頭脳だけでだめである。
心身共に健康でないとだめなのである。
自分は強くなりたいので大学の合気道部に席を置いていたが一年でやめた
その時良くやれたなと今でも我ながら感心する
そこで基礎を築いたから今日あるともなる
それまでは高校では落第するような状態だったし人間としても全くわがままだったし集団に適応できない人間でいいところがなかったのである。

人間とは若いとき30頃まですでに人間ができあがる,なぜなら若いときは自分のような体力がなくても無理ができたからである。若いときはやはり一番誰でも力があふれているからである。
そして地方だと家族がいないから栄養とかその他苦しいものとなるからだ
何か自分は体が弱いのに20代とかは苦しい目にあって体力が消耗してすでに老成していたのである。
だからその頃と今の顔つきなどが同じなのである。
なぜ自分がその後まだ生きているのか?
それは30代頃からは家で楽した結果のなのである。家族がなんてもやってくれたから自分は本当に楽だったのである。そのことで体力も回復してここまで生きたとなる
そうでないと早死にしていたと思う
都築氏の場合はかなり空手に励み無理したことが早死になったのかもしれない
過酷な訓練を強いていたからである。

人間はみんな個々にどういう人生をたどるかわからない,生まれもあるから都築氏も自分も幸運だったとなる,彼は平凡な普通の人間であることも共通している
天才という人を知っているけどそういう人は生まれつきなんでも備わっているのである。普通の人は努力しなければできない,武道なんかでも生まれつきがいい人は楽にこなせるスポーツでも天才的な人は常にいるからである。
ただ文武両道の人は本当にまれだと思う
彼が文学に通じていたことは武道家ではまれだろう。ただその評論が十分に展開されなかったのが残念である。

すなわち、人は信念や情熱などの精神的生活のみでは現実の世界でまともに生きていけないのです。

人間は体が弱れば精神も弱るのが普通である。なんか自分はちょっとでも体が弱ると心も弱る,だから都築氏も体がもともと弱かった,それで健康志向が強くなったとなる
もともと強い人は健康に無頓着なのである。
そういう人は無理もできるし強がる必要もないのである。もともと力にあふれていて別に武道などしなくても強いのである。そういう人が身近にいたからうらやましいといつも思っていたのである。ただ最後は弱く無惨に死んだのである。
いかに強き人もまた最後は老人になり病気になり弱くなり死ぬものだと驚いたのである。

存在意義があるとすれば、それはひたすら強く生きることにあるのでしょう。

都築氏はこのことを貫いた,透析のことは語っていたけど17年も透析していたとは思わなかった,でもそのことはあまり言わず弱さをフログでは出さなかった
それが何か英雄的にも今になると思える
介護される人も批判していたが自分はそういうことにもならずプログに調子が悪いといって書き込まなくなったら死んでいたとなる
それだけ強さを言ったのは言葉だけではない,実際の生活で実践していたのである。
震災の被災者にも同情しなかったなどと批判がある
それもわかるが体育館に入っていたときなどは苦しいからそんなことは言えないのが普通である。
でもその後仮設に入ってからはみんなパチンコ通いとか遊んでいただけなのである。
だから自分もそこは地元でも批判していたのである。

空手関係者とかは彼の文学的理解の深さとかはわからない,武道に関しては何か言うことはある。でも武だけの人間となるとかたよった人間になる
ただこの両方を備えるとなると至難だとなる
彼の人となりなかなか理解されなかった,それは文学関係などで理解できない人が多かったからかもしれない,自分は日本文化について理解が深いなと感心していたのである。

天から気合がひびく
そして活を入れる
日本人の心を正さむと
天から気合を入れる
秋のみ空に清らかに
きらめきあう星なれや
天にその気合はなお木霊する

この引用は誰かが引用したのもである。彼の文を引用していたものは残っているが全部は残っていない,それが残念だったとなる
ふりかえるにしてもふりかえることができなくなった
ただ断片的に引用されたのは残っているが少ないのである。
ただ彼がどういう人間だったかはある程度は理解している

いづれにしろ空手関係者は都築氏のことをこきおろしいるが恥ずかしいからやめた方がいい,文については学についてはそういう人は何もわかっていないからだ
いくら武にたけてもいても人間として低劣だとなる,武と精神性は一体化しなければならない,武だけだったらそれは獣と同じようになってしまうだろう。
江戸時代とかもののふは侍はそうではなかった,そこが何か今のスポーツ関係者とは違っていた。

真夜中をすぎてもなおも虫の鳴く命短くせつなきものかもか

制度疲労を起こしている現代社会 (大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)


制度疲労を起こしている現代社会

(大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)



私は日本人の付き合い方は大企業ではなく、中小企業こそ、その良さを引き出せるものがあると思っています。つまり、企業レベルが大きくなっても一緒に汗をかくその協業精神が維持されないとだめなのだろうと思います。

巨額の不良融資を原因として倒産したA銀行の物語をしよう。大蔵省はその処理に介入した。これは監督官庁として当然のことだが、その処理の過程で大蔵省は巨額の税金を投入し、今後も巨額の税金が投入される可能性を残しているのだが、これらは当然のことだろうか。
監督官庁である大蔵省は、「金融不安を防ぎ、国民生活を混乱させない為」に、それまでに何を監督していたのか。これらについては追求されなければならない。

総ての官庁は、それぞれが所掌することに対して大きな権限を持っている。だがその権限の行使の結果に責任を問われることがないことも、総ての官庁に共通している。彼らはどれほどの失敗をしても崩壊し倒産することはない。そしてこの事実によって彼らは自己浄化・自己改善の動機を持たない。そしてその為に彼らは同じ失敗を、あるいは犯罪を、平然として幾度も繰り返すのだ。


役所-市民の自治

警察-市民の自主バトロール-私立探偵

病院-開業医-民間療法(漢方医)

老人ホーム-民間のホーム-家

銀行-サラ金-個人の金貸し

学校-塾-家

ハウス会社-地元の大工


何か現代はこうした大きな機構とか組織とかに頼りすぎるしそういう社会になった,
それは専門家社会だとかイリイチなどが指摘した
人間が無能化される社会である。自主性をなくして専門家集団組織にたよる
宗教でもカルト宗教団体にたよるとか困るとはそうした組織集団に頼る
そのことが人間の自主性をなくしてそもそも市町村でも市町村を作るのはその市民であり役所で何でもできるはずがないのである。

だから例えば不思議なのはこの辺では原発事故などで避難して町に村に人が住まなくなった,でも最初に住むというか入ったのは役所であり警察であり銀行とか農協とかであったゆうちょも入った,ではそれだけで復興できるかとなるとできない
肝心の市民が町民が村民がもどらないからである。
そして肝心のそうしたそこに住むべき人間が復興の意志がなければ復興はありえないのである。そういう機関が元にもどっても肝心のそこに住んで生活再建する人が帰ってこないのである。

役所とか警察とか病院とか銀行とか学校でも大きな組織であり国が関係しているのが現代である。でもそれらですべてまかなえないから警察に相談できないから民間療法に頼むとか警察だったら私立探偵に頼むとか学校だったら教育だったら塾に頼むとかなっている
それらは大きな機関があってもすべてまかなえないから補う役目なのである。

これらを見ると警察でも病院でも大きなものだが自主的パトロールとかなると少人数でできる,実際にしていた,病院というとき大きな組織であるが開業医とか漢方医とかは個人であり開業医などもそうである。

そして何か役所でも警察でも病院でも学校でも普通にあるものだと思うようになった
でも不思議なのは江戸時代を見ればそうとはなっていない,確かに警察に代わるものとして役人がやはりいたし幕府があり地方で藩が治めていた
だから警察のようなものはあったし病院はないにしろ町医者はいた
学校でも寺子屋があり代わるものがあった
大きな組織機構を補完するものが江戸時代には主役だった
明治維新後にそういうも大きな組織機構ができたのでありそれまではなかった
官僚機構だって江戸時代にはなかった,幕府とまた官僚機構は違っていた
侍が基本的に治めていたのであり官僚ではなかった

だから一見当然現代にあるべきものが実はまだ明治維新後できたものであり歴史的に長いとは言えないのである。
なぜそんなことを考えるかというと何かあらゆるものが明治維新後の近代化で制度疲労をきたしている,社会のニーズにかえって答えられなくなっている
警察でも書いたようにそんなに様々なトラブルに介入できない,処理できない
複雑な社会になっているからである。だからかえって権力で介入すると社会を田舎の平和を乱すことにさえなる
だから警察はそうしたもめごとにはかかわないのである。
かかわるとかえって問題をこじらせたりするし警察が介入してうらむ人もいる
だから簡単に介入できないのである。
それが職務質問で自分が経験したことを書いた

この大きなものが必要でも制度疲労を起こしている,大きいが故にかえって機能しない
田舎のもめごとだったら江戸時代なら大屋とか地元の顔役でも治めていたのかもしれないヤクザでもそういうことをしていたというとき地元のことを知っているからである。
警察は警官は一時派遣されるだけだから地元に精通していない
そこで相談しても頼みにならないしかえって田舎のことを知らないで和を乱すようにもなる

これからは逆に補完的役目をになう小規模なものが社会で有益になるかもしれない
ボランティアなどはそうした役目がある。
だから警官に対して自主バトロールした人が逆に職務質問したり薬物をもっていると装い警官をだましてそれをyoutubeで放送したとき百万人が見たのである。
なぜそうなったのか?日頃職務質問で嫌な思いをしている人が多いから警察ざまあみろとなったのかもしれない
警察がからかわれたことに拍手喝采になったのかもしれない,警察は権力を笠にきて庶民をいじめているということがありそれでみんな拍手喝采したのかもしれない。
警察が笑い物にされたのでありそれがみんなも喝采していたのである。
警察に不満をいだいているからそういう人もでてくる

現代は大きな組織に機構に会社でも東電のような国並の会社に社会が牛耳られる
そういう会社は国でも官僚でも警察でも官僚でも支配できる:マスコミも莫大な宣伝費を払い原発推進した,金で社会を動かし支配できるのである。
その大きなもが社会に大きな弊害をもたらす,だから大きなものが社会にとっていいとは限らない,病院は必要でもそれを補完するものがかえって今では有効になっているのかもしれない,なぜならそうしたし大きなもの国がかかわるようなものが制度疲労を起こしているからだ,もう複雑な社会に対処できなくなっている
職務質問しても検挙率は10パーセントくらいしかない,警察でも複雑な社会に犯罪でも対処できなくなっている

いづれにしろこうした大きな社会のインフラというかそうしたものが制度疲労を起こしている,そしてこうした大きなものを制度を機構組織を建物を維持するのには莫大な金がかかる,国ではだからもう病院を維持できないとするとき国がつぶれるような金が老人医療などにかかる,それは主に病院を維持するためにそうなっている
国で維持するようなものが役所でも警察でも病院でも学校でもその他福祉施設でも制度疲労を起こしている,それによって国はもうまかなえない,今度は消費税10パーセントにして教育費を無料にするというがそれもいいようでまたそうした制度とか機構に組織に国で金を使うことになる,むしろ塾とか小規模な教育機関などに援助したらいいのかもしれない。民間の小規模な医療機関を充実するとかの方が効果的なのかもしれない。大きな政府はいらないというとき制度疲労を起こしているからただ国で上からの官僚からの支持ですると金ばかりかかり効果を上げられない
そして国民の負担のみがふえて国もつぶれるようなっているのである。

銀行でもつぶれるとなると国の税金が使われる,それを監督するのは国だけど国の責任は問われない,そのツケは国民に税金の無駄使いとしてはねかかり消費税が上げられる
誰かの不始末はみんな国で引き受けそして国民がその責任をとらされる
それが現代の社会であり仕組みである,それが原発事故で一番明らかになったのである。
タグ:制度疲労

警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない (市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない

(市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


都心なんて、もっと狭いのに、 
家からの騒音と、道路でのチンドンのコラボだもんな。 
家族みんな高血圧になったわ。

相談を受けたという警察には止められた可能性があるわけだ 
他の相談量の多さを理由に構ってられなかったでは言い訳できんよ、仕事なんだから


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報

警察に対応して欲しい気はするが 
隣人トラブルに全部介入してたらいくら人手あっても足らん気はする 
解決しようもないってのもあるし

暴言吐いて家に物を投げ入れるって警察から見ると些細なことなのか 
なら警察官の家に物投げ入れても何も問題ないってことだよな?

警察は毎日のようにパチンコ屋で新台の認定してシールをパチンコ屋に売る仕事をしてるから
ご近所トラブルなどに対応する時間はない

警察に相談しても被害に会ったらそれを動画に収めてくださいと言われる 
暴言吐かれそうになったらスマホで素早く撮る 
それが無理だったら豊田議員の秘書みたいにわざと挑発して 
ボイスレコーダーを起動させ録音する 
そうすれば警察は動く

警察はほんと動かない 
基地害が上から物を(ビール瓶とか)捨ててたから相談したけど 
壊れたものがないとかで事故を未然に防ぐ努力を一切しなかった 
物が当たって死んでからしか動かないらしいよ@練馬警察


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報


警察に相談に行っても受け付けない,なぜか?
警察はなるべくかかわらないようにしている,犯罪でも明確な証拠がない限り動かない
殺人事件などは別にして警察はかかわらない
騒音問題などは特にそうだろう

要するに前に書いたように騒音問題でも双方の事情を知ることがそこに長く住んでいないとわからないのである。
その人がどういう人なのかもわからない,だからよほどその土地の事情に詳しくならない限り仲裁とか簡単にできない
かえってこじらせたり悪い方向に向かわせたりする

だから警察を呼びたかったら110番通報することある。
「あやしい」人がいるとうだけでかけつけるからだ
おそらくそれは119番と同じ効果がある,公安委員でもそういう取り決めになっているし
あやしいと言われれば相手が匿名でもなんでもかけつける
そういう仕組みに警察はなっているのである。

それで自分もそうしてあやしいと誰かわからない人に通報されて職務質問された
そして事情を話して回りの人もそう言ってくれたのに
あやしいと通報されればまた来ると言っていたから駅に自由に出入りすらできないような状態になった

何かこうしたもめごとは本当にむずかしい
これは警察に同情することもある
ただ回りの人が犯人に同情することはやはり相手にも非があったとなる
そこに土地の事情に詳しくないと仲裁もできないことがある

何か事件があるときは積り積もったものがある,それを知らないと仲裁も何もできない
でも警察でも他のこともあるしかまっていられないのである。
そしてへたにかかわると警察が責められることもある
自分のことでもなぜそんなことで警官が責められるのかと見る人もいるからだ

つまりこの事件も土着的でないということで起きた面もある
新興住宅街によそ者が移り問題が起きたからである。
何か今はそうしてみんな土着的な生活をしていない
だから近隣トラブルが増える
警察でもそうした社会状態に対応できないのである。
警察もかかわってもかかわらなくても文句が来る
それは市役所でも常に苦情が来て困っていると言っているからだ

実際なんでも警察に頼ることは無理だし警察のやるべきことは限定せざるをえないかもしれない,それで私立探偵などに頼ったり民間の自主バトーールとかも必要になる
警察で何でもできないのである。
ではそうしたトラブルを解決するような社会でもない
長屋のもめごとは大屋がしていたから大屋はやはり事情に通じているからできる
そこに住んでいる人がどういう人か熟知しているからできる
そして意外なのは長屋に住む人は実際は長く住んでいたのである。
今のように変わりやすい社会ではなかった
だから浪人のようなものがふらりと来て長屋に住むということではない
長く同じ長屋に住んでいたのである。
江戸でもそうして同じ長屋に住んでいれば相手のこともわかるからトラブルでも治めやすいとなる

公共機関がいろいろある,市役所もあり学校もあり病院もあり福祉施設もあり警察もありとではそうした公共機関が何でもできるかとなるとできない
かえって害を及ぼすのもそういう機関であり組織にもなる。
なぜならみんなそういう公共機関は権力をもっているからである。
学校でも病院でも老人福祉施設でも警察でもそこに頼めばなかなか文句など言えない
それはそこにあづけてしまうからそうなる
もし家族だけでまかなうようだったらそういうことはないのである。
そういう公共機関は確かに助ける場でもあるが逆に冷たい場所であり人を苦しめる場にも変わる

いづれにしろ現代の社会は様々なその構造に問題をかかえている,でもそういう社会なのだからどうにもならないという面はある
ただ人間社会はそもそもが市民が国民が作るものでありそうした機関や組織が作るものではない
例えは自衛隊というのも組織機関としてある,それが本当に国を守ってくれるのかというとそんなことはない,国を守るのは市民であり国民である。
もし国民に自国を守る意志がないなら自衛隊とか軍隊がいくらあっても守ることはできない,最後は志願兵ともなり特攻隊ともなり敵と戦う意志がなければ守れなくなる
つまりボランティア精神がないと国も守れないのである。
最後は機関や組織がいちらあっても守れないのである。それが生死をかけるとなると余計にそうなる,なぜ自衛隊でも警察でも俺たちだけが死ななければならないのかとなるからだ

だから最後は政党でも組織団体でも機関でも守れない,国民がそういう意志をもたないかぎり守れないのである。
戦争というのではなくても自由とか民主主義とかもそうである。
国民がそれを守ろうとしなければ誰も守ってくれないのである。
ただ法律があり民主主義があってもそれは名ばかりになってしまうのである。
日本にはお上のままにお上を信じるというかまかせるというか長いものに巻かれろとかある,そうなると本当に市町村でも国でも守れない
そういう機関が組織があっても何でもしてくれるわけではないからである。
何かそこを錯覚している,錯覚させられている
それは危機の時わかる,今回の原発事故などでもそういうことが露見したからである。
国や官僚とか検察でもマスコミでもあてにならないか知ったからである。
そして結果的にその被害はそこに住む住民とか国民が受けるのである。
責任はこの辺のようにとらされるのである。

報道だってそうである。,マスコミの報道をうのみにしていたらそれで自らに害が及ぶ
マスコミは偏向しているからである。
でもそのことを言う前に対抗策がとらねばならない
インターネットなどはその対抗策になる,自分でも報道機関の一翼をになっているのだと自覚するようになる
その影響力はわずかでも自分で報道してその自覚をもったからである。
それがなにがしか社会に影響してゆくこともある
今までなら何も言う場がない,マスコミを通してしか言う場がなかったからである。
インターネットは市民のメデアでありマスコミのマスメデアとは違うのである。
そこから「心に青雲」の都築氏のような過激な言論も生まれたのである。
それはマスコミでは一般社会では出ないものだったのである。
でもそのログが消えたということが問題なのなのである。
全部ではないにしろなぜ消したのか?自ら消したのか?
死んだとき消えたのである。それが残念だったとなる

2017年09月26日

警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき (一時の赴任では仕事ができない)


警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき

(一時の赴任では仕事ができない)



職質の技術の基本は会話である。が、地域警察官と市民との会話の機会が少なくなっている今日では、職質技術は育たない。本来この職質は、刑事警察官の聞き込みや取り調べの技能の基本にもつながるから、刑事警察官にとっても基本的な技術なのである。

地域に愛されたお巡りさんが退職 住民嘆願、異例7年勤務

同小の橋本佳史校長(55)は「地域にとけ込む努力を欠かさず、私たちにとっては良い仲間でもあった」と退職を惜しむ。先月だけで送別会は7回催され、PTA役員や町内の医師たちが長年の労をねぎらった。同小児童と、隣接する美川幼稚園の園児計25人は「お別れ会」を開いた


警察とか警官の仕事もどういうものなのか?
何か駐在さんなどというときは地域に土着して親しまれた感じである。
第一駐在というとき在とういのはある程度そこに継続して在中することである。
でも7年でも短い感じがする,それだけ今は何か一時的にいる人が多い時代である。
広域化グローバル社会になるとそうである。

そして警官でもそうだが土着性がなくなる,その土地に長くいないからその土地のことをわからない,人ともコミニケーションがとれないということもある
実際コミニケーションとは最もむずかしい問題なのである。
それはどこでもそうでありそれでみんな悩んでいるのである。
田舎などはまるで相互監視状態でありそういうところでは本当は犯罪は起こりにくいともなる
みんなが監視カメラのようになっているからだ,みんな何かしたかを知っているからである。犯罪した人も知っている,ただそこに警察が介入しないだけである

現代は何か相互のコミニケーションが欠けた時代である。インターネットでコミニケーションするというのもそうだがそれで本当のコミニケーションができているかとなると疑問になる
広域的にグローバルに知るにはいいが肝心の実際に生活している場を知ることはかえってできていない,何か田舎町でも何で生活しているのかわからなくなっているのが現状である。
昔だったらたいがい何をしているかわかっていたし相互に関連した社会に生きていた
それが今は田舎町でもわからないのである。

例えばこの辺でタニコーという会社は有名である。その近くに友伸エンジニアという会社があった,それをタニコーに勤めていま人も知らなかったし自分も知らなかった
これは自分にしても小さな町に住んでいるのに知らなかったのである。
それはすぐ近くの小池に工場があるからそれを見てわかった
そして東京から友伸エンジニアの関係の人が来るし社長も来る
東北サッシも有名だが駅に社長が東京から来ていた
社長は東京の人であり地元に住んでいない,そのことは土着していないということである本拠地は東京にあるからだ

東電でもそうである。東電の本社は東京にあり事故が起きたとき本社とコミニケーションができず吉田所長が独断で決めたりした,つまり離れているといくら通信技術が発達しても意思疎通ができなくなるのである。それでその後事故の処理につまづいたのである。
ローマ帝国でも権力の崩壊は地方から起きてくる,それは中央と地方が意思疎通できなくなり地方が独自に力をもつようになるからである。
中央からの統制がきかなくなるからである。
それは戦争のとき起きた,関東軍が天皇の命令をきかずに暴走して戦線を拡大しすぎたのである。

現代の問題は人間と人間がコミニケーションできなくなった時代ともなる
相互の意思疎通ができないのである。
そこに今回のように権力で警察が介入したりするとかえって田舎の和を乱したりする
ただそのコミニケーションにしても簡単にはできないのである。
それは家族だってそうだろう,コミニケーションというか意思疎通自体が最高にむずかしいのである。
だから外から赴任して7年くらいでその土地のことがわかる,意思疎通できるのかともなる

ただ現代は土着性が希薄な時代である。そこで何が起きるのか?
互いに誤解が生じたりそれで争いになったりする,都会であるある女性はそれで被害妄想になり隣人を疑っていたが犯人は風だったのである。
風によって鉢植えの花が壊されただけであり隣人は何もしていなかったのである。
それも日頃から意思疎通ができない,引っ越してきたばかりとかなるとできないからそうなる

現代とはそういうことは非常に多い時代なのである。小さな町すらそうだとしたらもう4,5万の市だってそうなる,ましてや十万以上の市だったらさらにそうなる
もうそういう市が多いのだから当然意思疎通しにくくなる
人間は農業中心の時代は土着的に生きていた,そうするほかなかった
でも広域社会グローバル社会になると移動する社会になるから一時的にいるだけだからその土地とも人とも深く交わらないとなる社会である。

この辺では医者でも前は開業医が多かった,大きな病院はなく開業医が多かったのであるだから一万くらいの町に小児科の開業医があった,そこで自分は幼児の時注射をしてもらいそれが基で成長してから股がヤケドしたように大きな傷として残ったのである。
その頃子供が多いから小児科の開業医も成り立っていたとなる
そして原町の産婦人科の医者は原発事故でこの市のために尽くしたいとしてがんばった
それは開業医だったし長くここで医者を勤めていたからである。
つまり土着的になっていたのである。

何か人間は土着的でないと仕事ができない,報道にしても一見そんなこと別にそこに長く住まなくてもできるではないかとも思われる
ところがその土地の事情に歴史でも自然でも知らないと報道もできない
だから自分は今回の津浪とか原発事故では地元で生活してきたことから報道したのである報道にしても土着的であることが必要だったのである。
確かに外から来たひともいろいろ報道したり本を出したりした
でもやはり地元に住んでいることで地理などもわかり深い報道ができるのである。

現代の問題はあらゆることで土着性がない,そこからコミニケーションが互いにとれず意思疎通できない,警官でもそれができなくなっている,駐在さんなどと呼んでいれば土着しているのである。ただ7年では短いとなる

自分がしてきたこと詩とか芸術にしてもその住んでいる自然とアイディンティティ化することは時間が必要になる,石と樹でも山でも長い時間で見ないとアイディンティティ化できないのである。それは地元の人にとってはそうしたことは実際の生活では関係ないことだったかもしれない,文化的なことでもやはりその土地に長くいないと創造できない。、そもそもエジフト文明は3000年とかで形成されたものでありマヤ文明でもそうである。
日本文明だってすでに二千年とか縄文時代を入れればどのくらいになるのかその歴史は長いのである。

ともかく土着性がないことは現代社会に大きな歪みをもたらしているのである。
それが大きな問題をある時原発事故であれ犯罪であれ致命的にもなる事件となる
大げさだったかもしれないが警官が介入してきてかえって田舎の和が乱されたりもする
それは警察というのが土着的なものではない,一時的に滞在するだけであり田舎に深くコミトメントしない,交わらないということがある。
それだけの時間がないということがある

要するに何でもそうだが時間が関係している,土着的とはやはり時間的にそこに長くあって土着的になる,原発というのもそもそも日本の土着的なものから見れば津浪とか地震かありそれを無視して作ったのだから大事故になったともなる
土着的というとき技術も土着的なものから生まれていたのである。
風車は中東で発明されたのは風が強く吹く土地だからである。
日本でトンネル技術が発達したのは山が多いからである。技術も土着的なものとして生まれてきているのである。
土着的になるとき技術もその土地に根付くということである。

そして意思疎通ができない,コミニケーションができない社会に何が起こるのか?
それは社会的にはファシズムでありナチズムになる。強権的一方的権力による支配である。
そしていかに自動化するとかAI化するとか機械化しても
それ自体が今回の原発事故のように破滅的な事故につながる
機械とコミニケーションできなくなるというか今度はAIが人口知能が暴走するのである。
それを誰もとめられず社会自体のメルトダウンが起きてしまうかもしれないのである。
決してAI化とかは人口知能が万能ではないからだ
駅の無人化でも様々な問題が生じている
なんでも自動化無人化すればいいとはならないのである。
やはり人間と人間のコミニケーションが基本にあるのが社会だとなる
タグ:土着的仕事

職務質問してなぜ悪いのか (なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)


職務質問してなぜ悪いのか

(なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)

コメントは直接プログに出ると思っていたら一旦許可してからでないと出ないものがあった

前は許可していたが最近は直接コメントがそのまま出ていたのである。

警察官から職務質問を受けることが
そんなに不愉快ですか?
私も今までに数回、警察官から職務質問を
受けたことはありますが、普通に応じたら
すぐ終わりました。何の不都合もありませんでしたけど。
正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない?
小賢しい法律知識を盾に不必要に警察官を
挑発する必要がどこにあるのですか?

Posted by 垰田敦嗣 at 2017年08月29日 10:08

コメントありがとうございます

すぐにプログの方に自動的にコメントがアップされる仕組みになっていたが
このコメントはアップされなかった

遅くなりましたが返答します

職務質問がみんな悪い訳ではないのです
別に自分も旅したときなどは職務質問されています

職務質問はその状況によって変わってくるのです
それを受け入れられるものと受け入れられないものがある
そういう状況を自分は鉄道の部で書いてきました

自分は善意で半年くらい駅でボランティアしてきたのです

それを誰かの悪意の通報でだいなしにされたのです

あやしい人がいるということで警察がのりこんで職務質問すればみんなもあやしいとなる

それは警察がみんな悪いとはならないです
通報した人も悪かったのです

この事情は複雑です

良く自分が何をしてきたのか読めばわかることです

ただフログだけでそれを理解するのはむずかしいかもしれません

鉄道の部を詳しく読めばわかるでしょう

自分が何をしてきたかそれが簡単には理解できないです

何でもそうですが職務質問は全部悪い訳ではないです

要するにケースバイケースなのです

警察はそこを考慮しない

土足で踏み込んでくるのです

そういうことは警察には多いと思いますよ
何しろ権力をもっているからそういう強引なことになりやすい

だから慎重さが必要なのですが
その配慮が警察には全くないのです

そうすると地元からも警察は信用されなくなる
そういう事情は書いてきたのです

人間社会は複雑なのです
何でも職務質問していいかとなったらならない
ケースバイケースでありそういうことに警察は
無遠慮なのです

家族の問題でもなんでもその家族の事情があります,そういう複雑なことに考慮しない
ただ警察にとってもむずかしい面はある

ストーカー問題などでそういうことがあった
だからいちがいに警察を責めることはできないです

でも今回自分が怒った事情はフログに書いたことを良く読めばなぜ怒ったかるでしょう

遅れてすみませんがそういう疑問があるのも当然ですがやはりなかなかその人のことをわかるのはプログだけからむずかしい面はあります

これはフログにまとめて書きますので読んでください


なぜ自分が今回警察の職務質問に怒ったのか?その事情は鉄道の部に書いてきた

自分はこの半年間くらい駅でボランティアしていたのである。
もうそれだけ長かったということである。
なぜそうしてボランティアしていたのに誰かがあやしいと通報したのか?
それは誰かわからない,外部のものかもしれない,しかし自分はそのことでひどく傷ついたのである。

別に自分は旅したときなど必ず職務質問されていたけど嫌だったけどこんなに怒ることはないのである。
つまりなぜ自分があやしいと通報されるのか?そして警察がすぐにかけつけて自分を職務質問したのか?
その警察官は「あやしい」と通報されれば必ず来る義務があるのですと言っていた

そして自分は言ったのである。

ここで駅のボランティアしているから今度通報があったら訳を説明してください

それはできないです

「あやしい」と通報があれば必ずまた来ます

なぜそうなのか?

今自分がこうてし何をしてきたか説明しているのです

そしてまわりのものも認めていたのです

職務質問はすべてに許されいるわけではない

ところが警察では許されていると思っている

「あやしい」と通報されればとにかく相手のことをかまわずかけつけて職務質問する

職務質問していい場合とそうでない場合が確実にある

なぜ今回自分があやしいのかそして警察に通報されたのか?

その理由が全くわからないのです

あやしい素振りがあればいいですがそうではない

自分はずっと長い間駅でボランティアしていたのです

それは駅員に聞いてみればわかる

無人駅でも管理している駅員がいてあっていたからです

自分が何をしているかは回りでもわかっている人はいたのです

そういう善意の行動がだいなしにされたのです

だってそうでしょう

また「あやしい」と通報されるならすぐに来ますと警官が言っていたからです

今説明したし回りでもそう認めているのにですよ

そうしたら自分はそこに普通に安心していられますか?

別にボランティアでなくても駅はみんなが待ち合わせとか交流の場としてもあるのです

それでただうろついているからとそいつがあやしいとなればそうした公共の場に自由に出入りできなくなるのです

そうでしょう,また誰かが悪意で「あやしい」と連絡すればまた職務質問に来ると言ったのです,そしたら安心して出入りできますか?
また警察が来たらやっかいだな,回りでも自分をどう思うのかかなとなるでしょう
それは警官だけが悪いとはならないです
でもただ「あやしい」というだけで相手のことをまるでわからないのにすぐに職務質問するのは許されるのでしょうか?
通報する人がどういう意図でしたかわからない,悪意があるかもしれない
実際それで自分は疑心暗鬼になったのです

自分をこの辺ではあやしいとみている,そして警察に通報される,そうしたら公共の場さえ出入りできないのです
自分の自由は奪われたし常に密告というかそういうものを恐れなければなくなる
それは警察が「あやしい」というだけで職務質問にかけつけることにあったのです
みんなの前で職務質問されればあいつは何なのだと田舎だと目立つのです
自分は善意でボランティアを半年くらいしていたのにそれでできなくもなったのです
あいつはあやしいと誰か一人でも通報すればそして警察がそれに答えればそうなる
むしろ通報した人に問いただすべきなのです

なぜあなたはその人をあやしいと思うのですか?

それが全くないのです,ただ「あやしい」と匿名でも通報すればすぐにかけつける,この次もあやしいと通報があればかけつけると警官が言ったのです
なぜそれほど匿名の通報者を信じるのか重んじるのか?
このことが全くわからないのです

はっきりいって「害悪の告知」という法律違反に通報した人はなるかもしれない
通報した人も罰せられべきでありまた警官も同罪になる可能性がるのです

別にそんなこと気にしないでやれともなりますがやはり警察というのはそれだけ権力をもっているから影響が大きいのです

こうした事情があるし田舎ではまた簡単に誰かが通報したからと職務質問していたら疑心暗鬼になってしまう:それは密告とにているのです
その最大の問題がそうした内輪の問題に警察権力がかかわることで起きているのです
だから権力をもつものは慎重さが要求されるのです
職務質問がみんなが悪いとはならない,でもケースバイケースでありその職権を軽く行使しただけで被害があることもある

だから通報する人にもどうしてあやしいとあなたは思ったのですか?

こうきくべきだったのです

それが職務質問には一切警察では考慮しないです

だから警官は横暴であり警官は信じるなとまでなってしまう

田舎の人でも回りでもそう見てしまうことだったあるのです

田舎はみんなしっているし狭い所で生活している

だから田舎の事情がわからいないで警察が介入することでかえって田舎の和を乱すことだってある,そのことを書きました

ともかく警察が権力をもって横暴になる,そういうことを職務質問などで経験している人が多いから嫌われるとか不信感をもつことがあるのです
権力をもつものは慎重さが要求されるのです
何かそういうことは他でも多く起きているでしょう
そこで警官に不信感をもつ人が増えているのです

それは元公安委員長の人が職務質問されて怒ったことでもわかるでしょう

とにかく一方的であり相手の事情など考慮しない

「あやしい」と通報があればすぐにかけつける,何度でもあやいしと通報があればかけつける
こんなところでうろうろしているなよともなるのです
それはそれだけ警官というのがかかると田舎ではそう見るからです
別に地元に生活しないなら職務質問されてその土地を去るけだからいいのです
あとは関係ないですから,ここでは駅に出入りしなくては生活できないしそういう日常の生活の場なのです
そこであやしいというだけですぐに警察官が何度でもきて職務質問する

そうしたらどうなりますか?

公共の場あですから散歩がてらに来る人もいますし待ち合わせする人もいます
そこをうろついているだけであやしいとさたら出入りできなくなるのです

そんなことで通報する人も悪いですがそんなことを何の考慮もせず職務質問に来るということも納得できない
なぜならみんなが見ている所で職務質問したらあいつは本当になにか悪いことをしているのではないかと回りから見られるからです,田舎だとそういうことにうるさいからです

いづれにしろ今回のことは自分では納得していないです

警察には不信感をもっています,それが警察だけが悪いのではないにしろ権力が介入することがいかに大きな影響をもたらすか
警察では考えるべきなのです,冤罪とかもそうして起こる
それが警察の不信感になり警察だって回りから信頼されなくなる

職務質問ってみんななにか一方的犯人扱いされるような感じを受けている人は多いと思います

ただいちいちそうした事情までふみこむことはむずかしいということがありますがどうしても警察は横暴だなと思う人が多いように思う
今回でも一方的であり何も相手の話しなど聞かないからです

ただ警察に警官には警官の事情がある,それも考慮せねばならない,要するに民主主義とはめんどうなのですが話合いが基本なのです,権力だけで力あるものが一方的に言いなりに行動できるなら民主主義はなくなる
警察にとってそうなると確かにめんどうになるがそれが民主主義であり権力あるものは慎重に相手の話でも聞く必要があるのです
それが全くないからただ怒りになり警察に対して不信感だけが残ってしまうのです

こういう事情を書いたとしても

こいつは警察を挑発している不届きな奴だ,マークしておけ?

挑発という言葉にすでに警察の姿勢が出ている

それははわからないにしても普通の人が挑発しているなどと書かないように思う

警察に逆らう奴は許せないという権力をもつものの姿勢が自ずとでてくる,それが習慣性になっているのが警察や権力をもつ人ににはある,ただ警察にはだからかかわらない方がいいとなっていて表立って言う人はまれである
そうするとそういうことで警察でも警官でもますます冗長してくるということがある
俺たちには逆らえない,俺たちは正しい,いちいち文句言うな,それは警察を挑発している不届きな奴だとマークされる

もしこれを書いた人が警察関係だとしたらこういうことでやはりインターネットでも警察に逆らう奴をマークしているのかともなる,するとは警察を批判するようなことをちっょとでも書けないとなる
それは警察国家となり民主主義社会とはまるで違ったものとなる

ともかくただどっちにも言い分はあります,警察だって相手の事情にどれだけ踏み込んでいいかわからない
それでかえって関係しないで殺人までストカーなどで起きているすから
その時は実際は権力で介入すべきだったのです

つまりケースバイケースなのだけどその判断が簡単にはできないのが問題なのです
それは都会と田舎でまた事情が違ってくるしそういうこともまた考慮する必要があるとなるとめんどうだともなる
ただ警察の影響力がかん大きいから慎重さや話し合いも相手の言い分を聞く態度が必要なのです
それがなにか警察にはないから問題だと思うのです

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる

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光厳天皇の御歌

夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)

冬歌の中に

さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)

ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)

地図を見ると常照皇寺と鞍馬寺と大原が山中にある,都築氏は鞍馬寺と常照皇寺を訪れている,その時自分はそのフログを読んで感想を書いた
インターネットで調べたら常照皇寺のことはでている,写真もでている,それでイメージして自分も短歌を作った。
都築氏は風雅和歌集を評価していた,写生の歌でありリアリティがあると評価していた
ただ写生俳句の創始者の正岡子規は評価していない,というよりそこまで手がまわらなかったともなる,自分は写生俳句から写生の短歌を基にして創作してきた
だからそこを見ていたとは相当に深い見方をしていたなと感心していたのである。
インターネット上には文芸分野では深いものが見られないからそこに注目していたのである。ただ評論としては未完成に終わってしまったのが残念だった
「光厳天皇論」は圧巻だったしそのログは残っている

夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)

晩年に常照皇寺で作ったものだろう,これはまさに光厳天皇の心境そのものだった
南北朝争乱に翻弄された一生だったからである。
南北朝は全国に深い傷痕を残した,この辺でも自分の住んでいる場所が霊山城が南朝の城であり炎上して逃れてきた落ち武者が先祖になっている,南相馬市には鹿島区には只野という姓が本当に多い,その只野は郡山の多田野村から発していたのだ
それが南朝に加わり霊山城が炎上してきたとき逃れてきた,それは今も祭りとなって残っているのである。

ただ光厳天皇は北朝であり都築氏は北朝に義があるとして醍醐天皇を批判していた。
日本を争乱に導いたものとして糾弾していた。
そして光厳天皇を高く評価していた,それは昭和天皇と比べて高く評価していた。
昭和天皇はいろいろと蓄財していたとか辛辣にこきおろしていた
右なのに天皇をそんなに批判するのかということで驚いていた
光厳天皇は自ら反省して僧になり乞食までしたと評価していた
昭和天皇は何の責任もとらない,日本国を利用した国賊のような扱い方になっていた
それもやはり現人神(あらひとかみ)から人間宣言などとアメリカ軍に占領されて
全国を行脚して国民に迎えられたがそれも何か責任をとらないしずるいと見ていたのである。それで光厳天皇が反省した態度にひかれた
最後は常照皇寺にこもり果てた,その寺実に質素なのである。それもまた評価している

ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)

最後まで正しき道を求めたのが南北朝の戦乱で最後まで迷っていたとなる
南北朝とは何の争いだったのかわかる人はいるのかとなる

さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)

この歌も評価していたのは昭和天皇などと雲泥の相違がある。
昭和天皇でも今の天皇でも民を思う心などない,震災で慰めにきて帰れば贅沢な暮らしがあるだけだと言って批判していた。
だからこそ光厳天皇は天皇の中でまれな存在として評価していたのである。

天皇の寺の石段雪ふりて誰かたずねむ山深きかな(自作)

写真がここに

常照皇寺


人間は死ぬと美化されやすいのはなぜか? (都築詠一氏が死んで語るもの)


 人間は死ぬと美化されやすいのはなぜか?

 (都築詠一氏が死んで語るもの)


人間が死ぬということは何なのか?死ぬという現実を人は簡単に受け入れられない
骨となり灰となり消える,その変化を受け入れられない
無神論者とか普通にいるし都築詠一氏は無神論者だから死んだらただ消える無になると思って死んだのかとなる
でも一旦死んだとなると都築詠一氏は何なのだろうとなる
今までプログに熱心に書いていたのに急に死んで途絶えた
そして永遠に語らぬ人となったのである。

では都築詠一氏は死んだから全く何もなくなったのか?
肉体は消えた,でも彼が残したものは以前として消えない
その消えないものとは何なのか?それは彼の生きざまでありまたその崇高なものを「心に青雲」を目指した精神である。
彼が現代の英霊になったというときそれは戦争で人を殺したわけでもない
だから戦争で死んだ人達の英霊とは相当に違った英霊である。
それは優れた人が英霊になるのであり戦争に参加しただけではなれない
戦争に参加した人で死んだ人は膨大である,それらが全部英霊になるというのも疑問なのである。

無神論者でも英霊になる人はいる,ただ人間は生きている時はそうした英霊にもなりえないし,祭られることはない,生きていれば何かとケチつける人はいるしおとしめる人はいる,でも何か普通の人でも一旦死ぬと美化されやすいのである。
自分がすでに都築詠一氏を美化しこた詩を書いたのもそうである。
死はともかく人間の見方を変える,生きていれば自分も都築氏を美化したりしないのである。

美化するというとき明治維新で活躍した吉田松陰とか長州の志士たちはテロリストにすぎなかったということが最近言われる,都築氏も言っていたのである。
そもそも吉田松陰のまわりに集まった人達はテロリストでありそこには何の教育も行われなかった,松下村塾などで何か講義されたこともなかった,ただテロリストが集まる場所にすぎてかったとしている
それもそうかもしれない,それは何か死んでから美化されたのである。
吉田松陰は権力をとった長州のテロリスト達によって祭りあげられた
それは司馬遼太郎の小説の影響がありそれで評価が定着した
坂本竜馬もそうである。現実はどうであったのかは歴史的に不明になっているのだ。

ただ何か人間は死ぬと一般的に美化されやすい,それだけ死というのは人間にとって
生きていたときとは全く別なものとして見るようもなる
人間の宗教がたいがいどこでも先祖崇拝から起きているのは死ぬと神となるとか美化されるからである。それはどんなぐうたらな人間でも死んだら崇拝の対象になっていたとういことでもわかる
それだけ人間は死ぬともう現実にいないのだからその人の欠点とか汚いものは見えなくなるから美化されやすいのである。

ただでは自分でも家族が二人死んだけどその人となりは熟知している
だから冷静にいい面でも悪い面でも見ているし死んだから特別な人にはならない
一人は認知症で死んだから無惨だったし一人は死ぬまで花でも庭もいらないとか金がかかるからいらないとか狂気のように主張していたのである。
そういうことを知っているから死んでもそのことに関して今でも自分は頭に残っているから美化しないのである。

でも吉田松陰とかなると現実はどうだったのかとなるとそれを調べるのも容易ではなくなる,だから明治政府になって元勲となったテロリスト達が祭り上げた人にすぎなかったという説もでてくる
元勲となった人達は権力をもったしそれができたからである。
そういうふうに勝者によって歴史は作られてきた
だから吉田松陰は後の権力をもった人達によってち山県有朋となどによって祭り上げられた虚像だとしている

そもそも明治維新というとき一体どういう日本の未来像を描いていたのか?
それも定かではない,ただ幕府を倒して政権をとるという野望だけだったのか?
まずその時どういう新しい社会を作るかという像は描かれていなかった
だからただ尊皇攘夷とか佐幕とかでありそこに日本の新しい像はビジョンは描かれなかった,そこで無益な争いが殺傷が行われたことは確かである。
そういう変革の時期にはテロリストが暗躍する
思想もなにもない暴力だけが全面に出てきてしまう

西郷隆盛によって作られた赤報隊がそうだった,ただ暴力だけで攪乱したのである。
それはシリアのISみたいものだったかもしれない。
その動乱でいろいろな勢力が入り乱れて争いになる
吉田松陰もその思想はアジア侵略思想でありそれが大東亜戦争にまで影響したことは確かなのである。明治維新と大東亜戦争は連続していてその種は明治維新の吉田松陰などによってテロリストによってまかれたとなる

「心に青雲」の都築氏も自分でも死んだとき生きているときとは違った見方になった
10年間くらいフログを書き続けて自分はずっと読んでいたのである。
その歯に衣着せぬ評論は心にひびくものがあった
では都築氏を評価するとき死んでからどうなるのか?
都築氏とはどういう人なのかどういう思想の持ち主なのかとなるとプロクでしかわからない,だからその記録したログが消えることは致命的になるのだ
つまり彼自身が書き残したものから現実を判断する,それしか方法がないということがある。それは間違いなく彼自身が書いたものだから彼自身を知る唯一の手がかりとなるからだ

だから自分はそのプログに書かれたことを手がかりにして批判もしている
原発に関しては疑問だった,原発事故の被害にあった地域は犠牲になってもらわなければならないとか全体の戦力を維持するためには犠牲になってもらうほかないと言っていた
これもおかしいと思わないかか?
そもそも東京で原発事故が起きては困るからフクシマに原発を作ったのである。
そして事故が起きたら犠牲になってもらおうとか言うの東京都民の勝手ではないか
犠牲になるべきは東京都民でもあるのだ,東京に原発を作るべきだったというのは今では正論だからである。
人口に比べたら経済力から比べたら福島はとるにたらないとなり都築氏は犠牲になってもらわねばならないと発言していたのである。
経済的価値からすれば東京がダントツに価値がある,でも飯館村などは森につつまれた貴重な村だった,だからその価値はわからない,ただ田舎にしても昔のように自給自足だったら都会の人に言えた,今は東京の人でも税金を地方に払うから不満になっているのである。

それから都築氏は空手で東電の人とも仲間となっていたりしていた,全日空の人も空手の仲間だったから批判はしない,それはすでに都築氏も利害関係がある人のことは批判しないとなり不公平になっていたのである。
福島は犠牲になってもらおうというときなぜ東電の事故を起こした幹部は罰せられないのか?これこそ犠牲になってもらうべき人間だったのである。

ただこういう矛盾は人間なら必ずあり完全な人間はいない,自分だってそうである。
どこかで矛盾が生まれる,だから都築氏についてもそうである。
ただ都築氏にひかれたのは汚いものと交わらない潔癖性がありそれで常に有名な人物でも批判していたのである。マスコミの人間でも交わると相互浸透するからしないとかなり
そういう人は孤高になる,そういうところに自分はひかれていたのである。
それがフログのみで最後の十年間を主張したということが貴重だったのである。
そして遂に力尽きて死んだのである。透析を17年間して遂に死んだのである。

そして弱みを自分が病気だということをプログではほとんど言わなかった
ただ強気の発言をつづけて死んだ,そのことが何か英雄的に思えたのである。
何も戦場で死ぬだけが英雄とはならない,普通に生活しても英雄的なことは目立たなくてもあるかかもしれない,病気に負けないことが都築氏の場合,英雄的だったとふりかえればなるかもしれない,常に介護される人とか認知症の人とか震災で津浪にあった人でも甘えるなと厳しいことを言っていたが本人が病気でありその弱みを言わないのだから
そういうことを言うことができた,だから非情だとは言えないのである。

ともかく人間は死ぬと見方が変わる,また死ぬとその人の貴重さもわかる
生きていればそんなに関心がなくても死ぬとその人の貴重さをまたその人のことを見直すでも本人は死んだのだから答えはない,生きている人のみが語り都築詠一氏を知るともなる,ただ全部は良しとはてきない,現実に語ったものはプログにまだ残されているからである。

2017年09月25日

なぜ人は利を越えられないのか? (人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


なぜ人は利を越えられないのか?

(人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


この世の中すべて利の活動であり利を求めて日々仕事している,会社でも利を求めて共同している,人間の関係も利なしではありえない,金が第一だというときもそうである。
人間の関係は金だとなる,それが資本主義社会になり極端になったのである。
そもそも資本主義が利他的行動として宗教に由来してはじまった
勤勉に働き他者のためになるためになるとして生まれたというとき今ではそんなことをイメージすらできない,利を求めて弱肉強食の世界になっている
だから利のためには相手のことなどかまわないのである。
自分が苦しんでいたときもそんなことより相手から金をとる借金するチャンスだとなる
その人たちもまた金で追い詰められていたからである。
金で追い詰められていた人は例えばわずかの金で人を殺すのである。
明日食べるものがないとしたら殺すこともするのが人間である。
それは追い詰められているからそうなる
それが人間社会だとなる
だから結局人間社会は金の切れ目が縁の切れ目となる,こいつとつきあって何になるんだなんの得もない,金にならないとしたら付き合いも切れる
それが資本主義社会では極端化したのである。

座頭市でも親分が訳ありで役所からおたずねものになる,子分が一人ついてきたが賞金かせぎにねらわれるとか疲れ果ててしまった,それで親分を殺すことを一宿一飯の他の親分と相談して殺すことにした,そうすると役所からもほめられるし賞金ももらえるとか得になるからである。
ではなぜそうなったかというとその子分は逃避行に疲れ果てていた,そういう生活が嫌になったのである。
そういう生活に耐えるには相当な動機がないとできないともなる
その親分が義賊みたいなところがあり貧民を助けたということがあったとか言っていた
するとそういう親分のために尽くしたいとなるとかある
でもそこまで尽くすとなるとやはり相当な動機がないとできない
介護でも苦しいとなると肉親でも殺すことが普通に起きてくる
自分の場合は一番良くされたということで動機があり介護していたのである。

人間はともかく生きることは利の追及である。利しかないともなる
利とはそれぞれのエゴから発する,エゴというとき人間の欲望は限りなくある
男女の関係でも利がからんでくるし欲望がからんでいるから利と離れられない
家族関係にも利がからんでくるし夫婦でも利がからんでくる
だから遺産相続となると骨肉の争いになる
人間が利を求めるのは恐ろしいことになる
動物でも腹が減れば他の動物を襲い食べる,それと同じことが人間もしているのである。ただそれが他の動物を殺して食べるということではなく何か人間の場合はあからさまに残酷ではないように隠されているだけである。

利を越えるというとき例えば親分-子分というの関係はなくなる,同じ目的をもち思想をもつ同士となる,そういうことはカルト宗教団体とか共産主義団体とかでも同士となり
表向きは利を越えた団体のように装う,では内実はどうか?
創価で共産党でも他の様々な右翼団体でもなんでも利がかかわる,革命というのでも利がかかっている,もっと俺たちにも富を分けろとか地位をよこせとかが目的となる
そのために毎日祈っているのだからまさにご利益を求めることしかなくなっている
共産党でも幹部は贅沢して豪邸に住んでいるとかなるし何かそういう美名のもとに贅沢している人も相当いる,アグネスとか世界の貧民に援助をと言っているが実際は豪邸に住んでいるのである。寄付金で自分は贅沢な生活をしているとか普通にある

明治維新でも一体何を求めて行動したのかを見るとわかりやすくなるかもしれない,下級武士とかなると今の低い地位から脱して上に上りたいとか何かそうした利を求めた野心がある人もかなりいた,下賤の身から成り上がった人達はそういう人達であったともなる
今そういうことが指摘されるのは革命といってもいろいろな人間の欲望が渦巻き複雑になっていたからである。ただ人間は美名を装うのである。
戦争でもそれは様々な欲望が渦巻いていたかもしれない,戦争でもうけた人もいるし地位を得た人もいるしその当時軍人は一番威張っていたというのも真実である。
一方で戦争というのは生きるか死ぬかであり死ぬことを強いられる
死ぬことを強いられるということは犠牲を強いられることなのである。
それは利を越えないとできない,日本のためにと最後に死んだ特攻隊などはそうである。これから生きる命を日本のために犠牲にされたのである。
それは日本を守るためという大きな使命をになっていて死んだのである。
戦争は死ぬから利を越えたものを要求されるのである。
戦争で日本の悠久の大義とかいうのもそのためである。
義があり義のために死ぬというとき利を越えたものとして義があるとなる

宗教というときキリスト教でも仏教でもやはりいかにしてこの人間の利から離れるか克服するかということが課題だったのである。
その利を越えるには離れるために出家するというのもそのためである。
恋愛であれ家族であれ否定するのはそれが利であり人間の欲望から結ばれるからである。家族もエゴなのである。なぜなら自分の家族意外は人間は虫けらのようにも考える
自分達の家族さえよければあとは関係ない,金だけとれば他人は関係ないともなる
それで肉の家族は否定されたのである。

宗教はエゴ,自我とか欲望の否定で共通しているのである。なぜそうなるかというと俗世間では利しか求めることがないからである。利のために相手も殺すとかしかないからである。そういう弱肉強食の世界に生きているからである。
利を越えるためにはそういう自我の欲望を否定しないとできない
現実にカルト宗教団体でも左翼の団体でもそうした自我の欲望など否定していない
革命でも自分たちの自我,欲望が満たされない不満から起きているからだ
だから組織団体とか多数の団体は宗教を装っても中味は普通の利を求めて活動しているものと同じなのである。ただ宗教とか思想とか主義とかで装うのが人間なのである。

要するに人間は犠牲になることが一番本能的にむずかしいのである。
人間はそもそも生物は自己保存を求める,それは本能であり否定できない,
長生きするなとか言っても無駄である。人間は生物だから自己保存をもつ,すると死にたくないとなる,お前ら老人は若い者のために早く死ねといってもできない
それは自己保存が本能的にあるから死にたくないからそうなる
だから宗教はそうした本能の否定からはじまった
自我とかエゴとか欲望がある限り利他的行動は無理だとなりそうなったのである。
人間はだから犠牲になることは一番むずかしい
それは利を自我を越えるものだからむずかしいのである。
その利を自我を越えるものがないと本当は利他的行動はできない
するとしても装った偽善になっている
宗教団体などがなぜ全く利他的行動にならないのか?それは個々人がやはり自我や欲望から逃れられないからである。
ただ集団化組織化して自分たちのエゴを利を実現するためにそうしているのである。
そこでは絶対に犠牲になるようなことはしないのである。

人間は利を越えるのがむずかしいというとき自我が自己保存が自らの利から離れることができないからである。愛もむずかしいのはそもそも自我や欲望から離れられない限り否定しない限り本質的にはありえないからである。
愛にしても恋愛もあり夫婦愛もあり家族愛もあり実際はいろいろある,ただ本当に利他的愛があるとしたらまず自らの欲望とかを否定しないとできない
それが人間には本能があり自己保存を求めるし欲望があるのだからできないのである。
要するに人間の本能がどれだけ強いかとなると老人になったからといって人間は枯れる訳でもない,ますます欲望が強くなるということもある:残り火でも最後に燃え上がる
人間の本能的欲望は死ぬまで消えることがないとまでなる
人間はそれだけではない,様々な欲望がありそのために人間社会は本質的には何千年前と何ら変わりないともなる,いろいろな面で変わったとしても人間の本質は変わらない
だから「金の切れ目が縁の切れ目」とか庶民が残した諺が今も生きていることでもわかるそれはどんなに社会が変わっても人間の本質は本能は変わったりしないからである。

2017年09月24日

心の青雲」の陰謀論はうけいれがたかった (でも都築詠一氏は日本の英霊となった?)


「心の青雲」の陰謀論はうけいれがたかった

(でも都築詠一氏は日本の英霊となった?)

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もともと陰謀論とは、ある出来事について、公式の発表や一般に信じられている説明を否定して、隠された別の目的、つまり陰謀があるとする主張

「世界は謎である。世界は秘密と陰謀に満ちている。そのような世界を解読したい、はっきり見たいと思う時、陰謀論という〈アプリ〉が必要となる」

陰謀論を唱える者は基本的に政府、権威、現状などに対する強い不満を持ち、「今の世界は間違っている」と考える。同時に自らの価値観や考えを無条件に「正しい」と信じ、その正しい考えが世に受け入れられないのは、世界を操る邪悪で強大な「何者か」が妨害するからだと主張する。

陰謀論者は、自らを「愚かな人びとに石を投げられながら正義と真実のために闘う孤独なヒーロー」と思いこんでいると指摘しています。これはつまり、"誰も知らない真実を知っているのは、自分だけだ"という優越感や"愚かな大衆に真実を知らしめねば"という使命感に駆られている心理状態と言えます


陰謀論はインターネットでは本当に盛んである,プログでも異常に多い,それからインターネットでは左翼を在日を批判するのが多い,それはマスコミが左翼であり在日に支配しているからだとなる,そういう一面はありその不満がインターネットに噴出している
マスコミを支配しているのは在日だというのはインターネットから見ればそうなる
NHKでも在日が支配しているか韓国の悪口は言わない,批判しないとかあり不満になる

「心に青雲」の都築氏も必ず悪いのはユダ金だとかユダヤ人のせいにしている
イルミナティとかも関係しているとかなる
ユダヤ人が金融関係にかかわるのが多いしマスコミがアメリカでもユダヤ人が主導しているということでそれは一面の事実である。
でもあらゆること世界史的なことでもすべてユダ金が操作していたとなると疑問になる
なぜ彼がこうした陰謀論に強固に信じるようになったのか?

一つは宗教の不信からである。宗教の歴史をみると宗教というのに不信感をいだくのはわかる,マイナスの暗黒の歴史が多すぎるからだ,するとそこに嫌悪感をもつのは当然だとなる,今でも宗教はかえって世界に平和をもたらしているのではなく災いをもたらしているだけではないかとなる,するとそこに陰謀論が生まれる
都築氏は無神論者であり進化論者である。だから神を信じないで死んだ

陰謀論者も無神論者もまた奇妙だがカルト的になってゆく,無信論者は無信論という信仰にもなってゆく,マルキシズムが左翼の宗教のようになったのもそうである。
それが金科玉条となり信仰のようになっていたのである。世界はそれで解決するとなって信仰のようになり世界に普及したのである。
そしてそれがせかいに災いをもたらしたのである。

ただ都築詠一氏は柔軟な思想の持ち主であり他の陰謀論者とは違っていた
社会のことをいろいろわかっていた,それで公務員のことを官僚のことを良く批判していた,官僚は勝手に無駄な仕事を作りそれでもうけているとか天下りしてもうけているとか官僚を役人を常に批判していたのである。
それは実際にそうである。役人は役得があり得するのである。
それは自分の身内が地方の公務員だからそういうことを知っているし自分の家でも得していたのである。公務員は身内であり身内で得する仕組みがある
これは本当である。その得を自分を受けていたのである。
それは天下り役人とかの大きな得とは違っていても確かに得する立場にあった

底辺層などからするとそういう支配的立場にある人はうらやましくなる,あいつらたいして仕事もしないのに優遇されすぎている,公務員の仕事など簡単であり誰でもできるのに優遇されすぎているという不満が常にネットではあふれている
こういうことも陰謀論を生む素地になっている
この世はいつの世でも不平等であり得する人は得するが損な立場にあれば損するだけだとなる,そしていくら努力しても上には上がれないとかなり不満が社会に鬱積するのである
確かに金融などはそういう側面が大きい,それで都築氏はギャンブルのことを盛んに言っていた,もうかるのは胴元であり一般の人はギャンブルではもうからないようになっている,株などそうだという,それは言えると思う
日本の株式市場は外資が多く入っている,外資に左右されるとなると日本の株は外資に操作されているとなりそれはユダ金だとかなるのである。
グローバル市場になると天文学的な金が動いているのだからもう誰もわからない,するとそこに陰謀論が生まれてくるのである。

陰謀論は現代にだけあったのではない,時代劇では必ず黒幕がいて表にでてこない,それが陰謀論になり黒幕がイルミナティとかフリーメーソンとかユダヤとかなっている
結局この世の中を動かしているのは誰なのか?それがわからないから陰謀論が生まれる
でも例えばマスコミを動かしているのは誰なのか?
それは別に在日とか左翼だけではない,創価などもマスコミを支配して動かしている
だから創価の批判はマスコミではしない,そしたら左翼だけではないし自民党だって操作している,権力をもつものはマスコミを支配できるとなる
背後の権力をもつものがマスコミでも支配できる
例えば東電だけではない原発にかかわる電事連合は原発を推進することを望んでいる
マスコミへの800億とかの宣伝費は東電だけではない電事連合から出ていたのである。電気関係で働く人が多いしそうなれば原発も推進派になる
都築氏は原発推進派であり右翼は核武装派だからそうなる
東電関係の人も空手を通じて友達となっていたから原発推進派になっていた
その辺が同調できないところだった

そうして同調できないところが自分にあったとしても彼の言い分は納得することが多かった,つまりわかりやすい表現になっているのがそうした大きな原因だったと思う
表現がうまい,文章がわかりやすく,心にひびきやすいものとなっていたのだ
だからネットに無数にいる陰謀論者とは違っていた
もしそうだったら自分も評価しない,都築氏は広い分野に深い識見をもっていたのである文芸にも芸術にも深い理解力があった,評論できることは芸術家と同じである。
自分はそこに一番ひかれたのである。日本文化に造詣が深かったのである。
そこから日本人はとうあるべきかを説いていたのである。
日本語でも敬語は日本語として相手を思いやるもので評価していた
これは上下関係があり批判するものもいる,でもこれも日本文化として評価していたのである。
だからそういう見方もあるのだと感心していたのである。
彼の独特な見方がありそれに自分も日本文化を追及していたから感心したのである。

いづれにしろ彼の多岐にわたる評論はその筆法がさえていた,これだけのものを書ける人は日本では今いないとも思っていた,ただ陰謀論が結論になるとき同調できなかった
ただ人格的には孤高にもなり悪を嫌うことで同調した
マスコミとかの人と相互浸透して堕落するから交わらないとか文学仲間ともバーに行かないとか潔癖な人だったのである。
そういうところに好感をもっていた
彼の時事問題の評論もわかりやすいし人物評論でも有名人も批判していた
いつもあいつの顔が良くないとかで批判していた
どうしても顔は偽ることができないからそこから人間を見ていたとなる

都築詠一氏については良くまだわからないことがあった,ただ日本を支える大きな一人だったことは間違いない,日本を支えるというとき集団だけではない,個人が支える,人格的にでも立派な人がいれば日本を支える,日蓮ではないが日本の柱となる人だったともなる,死んだとしてもその霊は日本を支えるのである。
何か変だけど戦争で死んだわけでもないが日本の英霊となる
英霊とは優れた霊のことだからである。戦争で死んだ人達とはまた違って平和の中でもそういう人はいる,戦後70年であり都築詠一氏とは同世代である。
団塊の世代はあまり評判が良くない,自分でもインターネットにこんな人がいたということは驚きだったのである。
ただインターネット意外では知らないのである。無視されているのである。
それはやはりユダ金とか言うと受け入れられないからである。

2017年09月23日

オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見 (佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見


(佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


縄文人は、クルミや木の実中心の生活でした。その後、焼畑という農業が伝わるようになってヒエ、アワなどの他に、ソバや大豆などが作られることになります。秩父や長野県、山形県などの地域で蕎麦作りが盛んなのは、焼畑農業の歴史があるからです。

福島県虎捕山は、サス山とも言います。サスとは、焼畑という意味です。ここでも、別の豪族によって追われている阿部家の子孫といわれる人が住んでいた所です。(山津見神社がある佐須)


真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され[1]、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)

間地の耕作は「焼畑」が中心。そのため、イノシシの害にはほとほと手を焼いていました。イノシシの侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣(ししがき)を築いたり猪堀(いぼり、ししぼり)を掘ったりしたのだそうです

日本人と狼 



飯館村の佐須村は焼き畑のことである。他に比曽(ヒソ)もそうであり飯館村は森が深くあれだけの広さがあるから焼畑としては適地だったのである。
飯館村に人が住んだのは古い,縄文時代からでありそれだけ森の幸,山の幸があった
佐須というと大倉からさらに奥地だかちいかにも焼き畑に適していた土地だった
焼き畑農業はこれも渡来人がもたらしたものだといわれる,稲作の前に焼き畑農業が行われていた。鎌倉時代にも行われていた,山間では必ず焼き畑が行われていた。

山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する
焼き畑が普及したのは稲作などより簡単だからである。農業には肥料が欠かせないのである。その肥料で苦労しているし害獣でも苦労している
畑は常にキジに食われたとか虫がついたとかともかく常に被害がある
だからなんとかしてくれとなるとき狼がイノシシとか鹿の害から防いでくれるとなり狼は大神になったのである。
狼はイノシシ,シカ,サルなどの害獣を襲い撃退してくれるからありがたいものとなった
日本はまず縄文時代がありその時は森の中の木の実とか採集狩猟時代であり焼き畑をしていない,十五夜に芋とかを供物にしているのは焼き畑でとれたものを捧げていたのである太陽信仰に天照大神の信仰になったのは稲作がはじまってからである。
それまでは月の信仰だったのである,月読み神の信仰だったのである。
歴も陰暦であり月の満ち欠けで決めていたのである。

焼き畑になったとき芋類とか食べられるとなると相当に栄養が良くなった,芋は常食にもなり栄養豊かだからだ,すると養える人口も増えたとなる
鎌倉時代あたりまでは相当に焼き畑が行われていた,それからだんだん少なくなり地名だけ残ったのである。焼き畑地名は日本全国で非常に多いのはそれだけ焼畑が行われていた証拠なのなのである。
飯館村の場合はそこが焼畑をしていたということがイメージしやすいのである。

飯館村は焼き畑をしていたがその後稲作をするようになった,でも高原であり寒い地域だから稲作に適せず天候不良で飢饉になった,夏でも高原だから涼しいのだが稲作はもともと南国向きであり寒いところには適さないものがあった
焼き畑農業と稲作農業もその生活形態はまるで違う,それは蝦夷が狩猟,採集,漁労の生活であり稲作はヤマト王権によりもたらされたものなのである。
そういう生活の相違が実際は江戸時代から明治以降までつづいていてふ柳田国男の遠野物語の山民が存続しつづけた伝説となった

何か神社は場所と密接に結びついたものがある。佐須は奥深い地域でありそこに神社があることがふさわしいのである。
日本人の生活がもともと自給自足だったというときやはり最低限の食料がまかなわれたということがあるだろう。それは日本だけではないどこでも山の民でもそこで生活できる糧があって自給自足できるのである。
佐須では畑の中に「乳神」の碑があった,それが印象的だったのはまず乳が出なかったら子供が育てられない時代があった,ただ飯館村で牛を飼うようになったのは戦後とかであり新しいのである。だから乳がでなければ子供は育てられないのである。
それは江戸時代でも同じである,それで乳神に祈るしかないとなっていたのである。

飯館村は歴史は新しいようで古いのである。縄文時代からはじまって焼き畑時代があり
稲作時代となっている,それは日本のたどった歴史である。
日本では全く未開の地はまれだろう。たいだい早い時期から人が入っている

「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]

野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

これは前に自分が考察したものである。焼き畑地名が多いし稲作の前は焼き畑文明だったから当然だとなる
佐須という地域はこの入野にふさわしいのである。おくかもかなし・・・というとき山間の奥地で焼畑が行われていたのである。そこには恋しい人が住んでいたとなる
佐須という場はそういう場所にふさわしいことは実際にそこを訊ねればほかる。

いづれにしろ今回の狼の札の発見は他でもあり狼信仰が焼き畑とともに生まれたことの証拠である。例えば飯野(いいの)なども焼き畑が行われた地域なのである。
野は傾斜地であり焼き畑が行われた日本独自の地形を示す語なのである。
原とかとは朝鮮語系統から渡来人系統から入ったものであり別個の言葉なのである。
それは焼き畑に由来している,原というときモンゴルのような草原をイメージする
野となると日本的な風景から生まれた言葉なのである。

posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

抽象画(abstract picture) (岩,壊れた機械-rock and broken machine)


抽象画(abstract picture) (岩,壊れた機械-rock and broken machine)

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機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ


The machine broke.
Machine no longer function
We are not a machine gear
We will not work anymore
We got tired of working as a gear
We stopped being a gear of the machine

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抽象画は変なものを作り出す,意外なものを作り出す,予期せぬものを作り出す,何が生み出されるのかもわからない,それは変化するからそなる,無限の変化の芸術だからである。
岩の顔でもそうだし壊れた機械もそうである。
こんなものに変化することは予想しえないからである。
絵だったらだいだいイメージしたもを描いてゆく,頭の中でわかっている
抽象画は特にパソコンの抽象画は全く何が作り出されるのか変化するのだからわからないのである。

Abstract paintings produce strange things, produce unexpected things, produce unexpected things, do not know what will be created, because that will change, that is the art of infinite change.Even rock faces and broken machines are.It can not be expected to change to such a thing.If it is a picture I will draw the image I imaged as much, I know it in my headAbstract paintings do not understand, especially because abstract paintings of personal computers change at all what is produced.

2017年09月22日

心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった (敬愛するベートベンを見て)


心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった

(敬愛するベートベンを見て)

記録は、どれだけ時間が経過しようとも変化することはありません。記録を残すことによって、当時の自分を主観的ではなく、「客観的に」振り返ることができるようになるのです。

心に青雲の映画批評をしていたが面白かったしそんな映画があったのかとアマゾンで注文して買った,過去に作られた映画も膨大にあった,しかしそれを見るのはほんの一部だけどインターネットで注文できるようになった
映画は現代の代表する文化である。映像の時代になったのが現代だからである。
都築詠一氏の批評は様々な分野に及んでいた。
だから批評家として十分に一流になれた人だった
でもなんか中途で死んで終わったなという感じになる

ログがみんな残されていればいいのだがグーグルで確かに残っているが全部は残っていないみたいだ
そしてなぜ消したのか?死んだらすぐにプログとかインターネットは消されるのか?
全部保存してあとでみんながまた読まれるようにしておくべきだった
貴重なものが消失したとなると後世のためにもならない
ただどこかで記録しているところがあるのかもしれない。
ただ全部は記録されていないのである。

「敬愛するべートベン」でも批判している,芸術家でもそんなふしだらな生活をしてはいけない,まともな社会人であれということである。
確かに天才的芸術家となると社会人としての常識すらなくなる,だからこそ天才であり後世に作品を残したとなる。それでなければただ平凡な人として終わっているだけである。

一方では聴衆の質の低下を招く。こうなると繊細さや知的な面白さではなく、すごいといわせる一種のハッタリが有効になる。これが大音量と高度な演奏技術を発達させる。ストラディヴァリウスなどのバロック時代の名器も、音量増大のための改造がなされる。19世紀になると、音楽は途方も無い技術をもったプロがステージでするもの、になり、プロとアマが分離し、スター演奏家が誕生する。

信仰年のためのベートーベンの交響曲第 9 番のコンサートでの、教皇フランシスコの突然の欠席は、解読困難な彼の教皇職のスタートを象徴する出来事であった

ベートベンの時代は音楽も変わり目になっていた。社会が変わってきた。
教会一辺倒の世界から脱出する時代だった
ただなぜ教皇が第9の演奏に欠席したのか?映画では特等席に座っていた

自分は音楽には詳しくない,この映画で注目したのが家政婦が金を盗んだのかとか疑っていたことである。家政婦はまずやはりここでも危険な存在なのである。
インドネシアでも老夫婦が殺されたように金をもっていると危険になる
でもインドネシアとかでも家政婦を一人雇うことは決められている。
その家について詳しくなれるからだ,すると貧富の差が大きいと犯罪になるのである。
家政婦とかちょっと手伝う女性でも家に入れるとなると危険になる
そしてそういう人をかかえこむほどやっかいなことはないのである。
絶えず金を要求されるのである。それがないなら盗まれるということである。

一方でベードベンの音楽にひかれてきた音楽を習う女学生は別だった
譜面を書写する役だがまさにベードベンをその音楽を敬愛していたからである。
まず家政婦とかなるとただ掃除とか料理をだすだけでありか音楽とは関係ないのである。だから働く動機は金しかないのである。だから危険になるのだ

ベードベンも金に困っていたのか?アパートのような所で作曲できたのかとなる
第一ピアノの音がもれたらうるさい,そこで下の階にもれるから騒音問題になる
そんなことをベードベンは気にしない,今なら大邸宅で作曲していたろう。
ただ隣の部屋の老婆はベートベンの音楽が聞けるので不満があっても我慢していたのである
へたなピアノを聞かされたら嫌になる
あんな部屋で作曲すること自体,環境的には最悪だったような気がする
やはり芸術でも学問でもそれなりの環境が調わないとできないことはある
だから貴族の師弟しか昔は学問でも芸術でも習うことはできなかったとなる

映画は暇つぶしにいい,最近見ているのが「座頭市」である。
風景が江戸時代を想わせるように作られている,土橋を歩いているところなどうである。あんな橋がこの辺にかかっていたのである。
昨日見たのは親分が役人に追われて子分と二人で逃げていた
親分には百両の賞金がかかっていてねらわれていた
そしてつてを頼り前に世話した親分をたよる
でも子分はその逃避行に疲れていた,嫌になっていた
それで親分を殺すことにしたのである。それをつてを頼った親分と一緒になってしたのである。それで役人からもほめられたり得になるから共同でした

この裏切りも恐ろしいけど人間は利がなくなれば離れるのが普通である。
そんなに苦しい目にあってまで義理を果たすことはないのが普通である。
これは介護で疲れて親を殺すのともにている
あまりに苦しくなると人間は肉親でもそうなる
だからこれは特別なことではない
親分はもっと子分のことを考慮しないといけなかった
俺一人で逃げるからお前は別に生きろとか言うことも必要だったとなる
なぜならその子分は疲れ果てていたからである。

ベートベンでも家政婦は盗むことしか考えないがベートベンの音楽を敬愛していた女学生は違っていたのである。
そういうふうに動機があるなしで人間は違ってくる
女学生もベートベンを嫌ったけど音楽の絆で結ばれていたとなる
まず人間はあまり小さいことを言われると大物にはなれないかもしれない,日常のささいなことに使われていたらとても大芸術家などにも何か他でも大物にはなれない
社会をはずれたようにならなければ大物にはなれない
そういう環境にないと大物になれない
教育でもそういう教育をしないと大物になれない,平均的なことをして平均的なことを教えていたら個性的な人は生まれないのである。
人間は生まれつきですべては決まらない,平凡な人間でもあることをきっかけに変身するダビデは石コロをなげてゴリアテに勝ち一躍英雄になる
人間は人生の中で鍛えられ変化するのである。

天才も資質も大事だが環境も大事である。
もう毎日肉体労働に費やされたら知的な探求もできない,本すら読むことができないのである。
ただベートベンと普通の人と比べることはできない,同等に扱うことはできない
でも才能があったとしてもそれを開花させる環境がなかったらどうにもならないのである自分の場合は20代で書斎をもっていた,でも本を買うのでも少なかった
なぜなら本は地方では買えなかった,専門書は仙台まで行かないと買えないし今のようにインターネットもないから知識的には地方は不利だったのである。
今わかることは本は相当な量を読まないと知識の世界では狭いものとなってしまうことがわかった,あるものは深く読むにしても学問の探求とかなると相当な量を読まないと独創的にもなれないのである。
ただ自分は本は買ったけど読んでなかった,こういうことが結構多いと思う
不思議に今読みかえしてみると理解できるのである。
それで自分なりに引用して文を書いている

現代はそういう環境が調ってはいないか?若い者でも働かないものが膨大にいる
そうしていられるのはやはり豊かだからである。するとその中から独創的な人が出てくるかもしれない,社会性に欠けていても何か別な方で才能を伸ばすかもしれない
ただ天才と狂人は紙一重とういとき結局ニートなどは狂人に終わるのが大半だとなるかもしれない,アウトサイダーになったのはもともと資質的にも優れている故にそうなったのである。自分の場合は資質的には平凡でも社会に適応できなくても環境に恵まれて芸術とか学問を追及できたとなっているだけなのである。
それでもやはり環境に恵まれていると平凡な人でも何か才能が開花することはある
ただベートベンのような天才と比べることはできないのである。

中南米の悲劇はなぜ起きているのか? (文明の挑戦に応戦できなかった-日本は応戦できた)


中南米の悲劇はなぜ起きているのか?

(文明の挑戦に応戦できなかった-日本は応戦できた)


メキシコ、ブラジル、ホンジュラス、ベネズエラ。 
全部中南米ジャン。あと、西インド諸島の土人も来るな。 
キューバ、ハイチ、ドミニカ、ジャマイカ。 
何でアメリカの周りは、カナダ以外クズしかないのだろうか。 
統治を行った、スペイン様、ポルトガル様、フランス様に感謝しなくては。 
土人に文化を与えた、神の子供たちである、白人様。

スペイン人が入って文化、宗教をボロボロにしてしまった 
社会に相互の信頼関係がない 
インカ人やマヤ人のままだったら秩序を保って発展できただろう

カトリック教会は、「蓄財は罪」と教えました。 労働は「神から課せられた罰」でしかありません。 
男は額に汗して働かなければいけない。女には陣痛の苦しみを与える。そして、人類には死という罰を与える。これが基本です。 
だから、おカネが貯まったら教会に寄付することが奨励されていました。 
結果として蓄財や勤勉に働くよりも消費や道楽やサッカーに励み、教会にどんどん寄付するような国民性が育まれていったのです。

アルゼンチンは人種差別はあんまないけど階級差別が酷い 
使える店も階級ごとに決まってると言うか暗黙の了解みたいのがある 
下の階層の人が上の階層の人が使う店いくと出てけって言われたり 
物売ってもらえなかったりする 
その逆も当然あって、階層が上の人が階層が下の人が使う店に来ると 
ここはアンタみたいのが来る店じゃねえつって追い出される 
だもんで安い店に行くときにあんまオサレな格好していくと 
階層が上の人だと誤解されかねないのでNGらしい 
サッカーでも上流階層が応援するのがリーベルで 
下流階層が応援するのがボカってハッキリ分かれてる

"南"は圧倒的にカトリック教徒の入植だったのに対して、"北"にはプロテスタントが可成り入りましたので。
カトリックが中世以来の農本主義一本槍だったのに対して、プロテスタント達はやがて資本主義を持ち込む事に成りますので。
詰まり元からの拠って立つ、基本的な文明文化が違って居たとも言えます。

南"は圧倒的にカトリック教徒の入植だったのに対して、"北"にはプロテスタントが可成り入りましたので。
カトリックが中世以来の農本主義一本槍だったのに対して、プロテスタント達はやがて資本主義を持ち込む事に成りますので。



中南米は犯罪が一番多いとかギャング集団や麻薬組織とか何かいいものが伝わってこない貧乏からもぬけだせない,それはな何なのだろうとなる
そこは文明的に遅れたとも言えない国だった,インカとマヤは高度な文明をもって一千年とか栄えている,それがなぜ今も発展しないのか?
その原因は一つではない,人間の現象は複合的に起きてくる
犯罪の原因も一つではない,いろいろなものが重なって犯罪になる
だから何が原因でそうなったのかとなると簡単には言えない

明らかなことはスペイン,ポルトガルに征服されたことである。スペイン,ポルトガルの影響を大きく受けたことである。
一方北米はイギリスの影響を大きく受けてアメリカ合衆国になった。
ところがアメリカでも南部と北部は成り立ちが違っていた
南部は農業中心で北部は工業に経済の重心を移していた
南部は綿の栽培とかで黒人奴隷を使っていた,北部は工業化してゆくから南部とは違っていた。北部と南部の争いは農本主義と工業化という生活形態の相違から起きたともとれる人間の争いは人種とかよりそうした生活形態の相違で争いが起きる
遊牧民と農耕民は相いれないのである。だから万里長城ができた
日本でもヤマト王権は稲作を普及するために狩猟採集民族の蝦夷と敵対して争いになったそしてイギリスはいち早く産業革命を起こした国である。
その産業革命の基になったのが確かに石炭がとれて蒸気機関車が発明されたとかある
それは北部で鉱物資源が豊かだったこともある。

それと宗教が関係したということが意外と重要である。
中南米はカトリックであり北米はフロテスタンとなのである。
マックスウェバーが資本主義の基はプロテスタントから起きた,
神に奉仕するための勤勉な労働が良しとされた,カトリックにはそうした勤勉な労働を良しとするものがそれほどない,時間にルーズなものもそうである。
資本主義はまた農本主義とは相いれない,今でも土地を基にしたものに資本主義がなじまない,資本主義は通用しないのである。
勤勉とか効率を求めても土地は別物だしtime is moneyといっても作物を早く実らすことはできないからだ。
農本主義からは資本主義は発達しない,北米ではイギリス人が入ってきたりユダヤ人が入ってきて金融を発達させて資本主義が成立したのである。

そしてトインピーの史観によると

「挑戦と応戦」 ・・・ "challenge-and-response"

 「挑戦」・・・社会の安定した状態になんらかの攪乱的影響を与える刺戟。
 「応戦」 ・・・挑戦に対する人間の主体的な対応の試み

中南米は高度な文明があった,しかし新しい文明の挑戦を受けたときそれに応戦する力がなかったのである。
この中南米と比べるとなぜ日本がヨーロッパの植民地にならずにすんだのか?
西欧文明の挑戦に対して応戦できたのか?
これも一つの大きなテーマとして今もある
明治維新とは何かそれは歴史的に解明されたわけではないからである。
日本の社会は江戸時代は農本主義である。そこにヨーロッパの産業革命が入ってきた。
でもそれに適応したのである。社会制度でも藩を侍をなくして国民国家として平等にしたこうした大改革がなぜできたのか?
そして資本主義と民主主義を取り入れたのである。
日本には不思議に働くこと自体に価値を認める,勤勉民族だということも言われる
今でも過剰な労働国である。それはプロテスタントシズムとも通じているという見方もある

そして日本の歴史はマヤやインカのように断絶しないで今日にもつづいている
日本はなお日本文明として西欧文明の挑戦を受けたが応戦して継続しているのである。
日本は本当はこの日本文明に誇りをもつ必要がある
中南米を見ればわかる,あまりにも外来勢力によりその歴史のアイディンティティは破壊されたからである。そこは貧困と犯罪の国としてしか伝わってこないのである。
工業化もできていないのである。

アジアでもなぜ日本だけが西欧化工業化資本主義化民主主義化に成功したいうのもなぜなのだろうとなる,中国でもできなかったしアジアではヨーロッパの植民地化された
日本だけはヨーロッパの植民地にならなかったのである。
ただアメリカとの戦争になりアメリカに敗れて属国になり植民地とは言えないまでも
属国化したのである。
日本とはこれからどうするべきなのか?
それは日本が日本文明を新たに歴史の伝統をふまえて創造する
そして日本人として日本文明に誇りをもつことでてある。
その日本文明が日本人のみではないアジアにも普及して世界的になるとき日本は誇りをもつことができる
大きな視点に立てば新たな日本文明の創出が課題となる

一方で日本は衰退するだけだとか盛んに言われる,下り坂でありそんな日本文明もなにもない,三等国に転落するだけだというのが日本の現状である。
そもそも日本文明とは何なのともなる,日本人は戦争で負けたこととか日本に誇りをもっていないのである。だから国自体の自主性がないのである。
それは個々人にも波及して自立心がないのである。
アメリカの言いなりになるとか今度は中国の言いなりになるとか自主性がもてない
それは日本がそもそも日本の歴史に日本文明に誇りをもてない,また日本文明が欧米より劣った見方をしているからである。
日本は今日本文明の再興をして日本人の誇りをとりもどすことが必要なのである。
だから日本を否定する左翼でもアメリカ一辺倒になる右翼でも実際は従属しているだけの属国でしかない,日本独自の文明がありそこに誇りをもてるようになれば左右を越えて
日本の新しい時代がやってくるとなる
それは時間的に百年とか二百年とか見ないとわからないのである。
戦後70年はその節目であり次なる時代へ向かう時代の転換期なのである。
そこに世界情勢の変化がありまた強いられるともなる
posted by 老鶯 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論

2017年09月21日

「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


早期英語教育の弊害
//kokoroniseiun.seesaa.net:80/article/373220605.html


認識の働きとは対象をわれわれの感覚器官に反映して、それが像として描かれる。この像を認識というのだ。認識は像である。
 像が五感器官を通して反映し、形成される。すなわち実体があって反映されるのが正常だ。

 母親が実際に手で触れさせたりしてイヌやネコを、「かわいいね」と教えながら分からせた言葉は本物になるが、英語はそうではない。

 一次方程式なんてものは、われわれが学校で教わるときに、何か現実の、実体の、像があるか? あるわけがない。


都築詠一氏の思想には常に像をもって認識しろ,像を描け想像しろとある,想像とはまさに像を想う像を創出することである。
犬という言葉の前に犬という実体がありその実体を通じて犬を認識する
現代の教育はこの実体から像から乖離している,言葉だけがあり数字の羅列だけがある
数学でも今ふりかえると小学生なら図形を学ぶとしたら常に図形を像として認識する
分数だったら具体的にボール上を二分の一なら半分にきるとか4分の一なら四つにきるとか具体的なものとして数字を認識する
そういう作業として数字を認識してゆく
教育とは実は教えるものの創造性が関係しているのである

要するに現代はあまりにも世界が像として見るのではなく記号化した数値化したものとして見る社会である。それは教育のせいではない,社会そのものがそうなっているのである第一都会だったら田んぼがない,そしたらどうして田んぼを像として認識できるのか?
そういうことが非常に多いのである。
もっと人間は図形化とか絵画化とかすることが教育でも像として認識することに通じる

言葉を日本語でもそうだけど外国語になるとさらに像として認識することがむずかしくなる,ただそれが記号化したものだけになる
ある言葉の感覚というのが実際は像からイメージされる
映画で見たけど馬が暴れている興奮して落ち着かないとき「steady」という言葉を使ったなるほど「落ち着け」とか訳すが堅実とかの意味とかいろいろある
その言葉の感覚はそうした日常の行為とか具体的な像から認識され身についてくる
だから外国語の習得はむずかしいのである。
結局現代は数式とか化学式とかあらゆるものが数字化しているのである。

膨大なそうした記号の氾濫の中で教育もあり像をとした認識できなくなっている
毎日教室にとじこめられているのもそうである。
そこではひたすら像と結びつかない記号の学習なのである。
だからみんな学校嫌いになる,自分もそうだった
都築詠一氏も言っているように秀才を批判するときそうして受験勉強のみで記号の習得のみで官僚とか学者とかなった人は何か欠けた欠陥人間になっている
そういう人が指導者になることは国自体をゆがめると言っているのもわかる
明治維新で官僚が指導者になったときそういうことは起きていた
侍が指導者だったときは文武両道であり何か生活全体で習得したモラルであり身についていた,それがなくなり文官となったときただ法律とか記号の習得だけが優先されるようになったのである。

例えば山を像として認識するとなると容易ではない,まず高い山に上ってみる,すると山を立体的に感覚として認識する,山を知るには山を実際に上らなければ認識できない
そしてまた山は遠くからみるだけでも様々な様相を示しているのだ。
山の像は無限にあるのだ,それをハソコンで抽象画化したりした,こんなに山の姿があることに驚いたのである。一つ一つの山の姿も違っているしその環境でも違っているから山の像は無限である。だから山の絵は無限にあることになる

いづれにしろ現代社会そのものが文明が言葉が死んだとかいうとき具体的な像と結びつかないからである。イメージする力が貧弱なのである。そして記号だけが言葉だけがつめこまれているから外界を反映できないのである。
それはあらゆる面でそうであり社会というのも記号だけで数字だけで認識しているのである。
だから外界を反映するというとき原始人の方が外界をリアルに像として認識していたという逆説にもなる,言葉は密接に自然でも外界と不可分なものとして生れたのだし言葉と像は外界の事象は結びついていた,だから言葉と事物が乖離することはなかったのである。万葉集時代とかそうなっていた,古今集時代になると言葉の遊びになったというとき万葉集のように密接に自然と結びついた生活をせず貴族化して宮廷で暮らすようになったからである。

ともかく現代は外界を自然でもじかに認識できない社会になっている,電車でも風は入ってこないし坂を上るにしても電車に乗っていればその苦しさを感じない
峠があることもわからないのである。車だと風を遮断しているし閉鎖された密閉された空間となり旅は道連れとかにもならない,ただ通りすぎてゆくだけである。
だから江戸時代の歩いて旅していた時より外界の認識力が落ちているのである。
感性とかではむしろ後退しているのである。
一見なんでも進んでいるように見えてかえって後退してしまったいることもある
原始人の方が機械も何もない時代の方が認識力や感性にすぐれていたともなるのだ。

「心に青雲」の都築詠一氏のプログはいろいろ参考になった
ただ弁証法はわかりにくい,陰謀論もうけいれがたい,陰謀は陰謀を生み何がなんだか最後はわからなくなる,だからすべてを受け入れることはできない
人間はあくまでも他者の思想でも何でも批評してみる必要がある
ただ鵜呑みにしているだけでは本も何も読んだことにならないのである。

stonedface.jpg

a face of underground

自然界の多様な姿も実は人間の顔になる,アイディンティティ化されるのである。

2017年09月20日

報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


報道はともかく事実を多面的に報道すべき

(津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは

美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。


確かにこのことは相当に批判される
家が水に浮いていてそこにきらきら波が光たよせた光景は信じられない風景だった
なんかいろいろ言われるのは確かである。
小高の人にはお前は同情しないのかとかそんなことを書いて楽しいかとか批判される
人間はどんなことを書いても必ずそれにケチつける人はいるからどうにもならない

八沢浦が美しい入江にもどったというときそれは事実だった,その事実を報告したのである。一方でそれに感情を加えるのは事実ではないのである。
事実というのはそのままを報告することである。

だから一方で自衛隊の人が水が引いたとき泥のなから子供の死体を掘り出しというのも事実である。美しい入江にも一時もどったのも事実である。
そして子供を泥からかきだしていたというのも事実なのである。
つまり事実にはいろいろな側面が実際はある
でも一場面だけを事実として報道すればただ瓦礫の山しか津浪にはなかったともなる
まず自分のように津浪を報告した人はいない,ただ小高の干拓された井田川で縄文の海がよみがえったと報告した人はいた。

ともかく津浪は信じられない光景をもたらしたのである。
それを報告するとき事実にもいろいろな側面がある,その時そこに死んだ人がいるというのも事実である。
お前はそういう人達に同情しなかったのかとなる
でもその時津浪が来て人々がどういう状態になったかわからなかったのである。
あとでここで死んだとかいろいろ聞いたのである。

津浪とか原発事故の避難者に対してはただただまず同情すべきだかわいそうだと言うべきだとなっていた。そうしないものはお前はなんなのだ,非情な人間だとされて批判の嵐になっていた。
現実津浪で家を流されて家族を失った人達の悲しみは想像を絶する
そのことに関して他者が何か慰めの言葉も言えないような悲惨があった
その時かわいそうだとか同情してもとても慰められるような状態ではなかったろう

人間はそういう悲惨な状態になると容易に近づけないとなる,何かしようにも何もできないとなるからだ。
ただ津浪は自然の作用だから確かに一時美をもたらしたのである。
これが戦争だったら爆撃で焼け野原になり無惨なものしか残らなかった
津浪は自然作用でありそこに一時美が生れたのである。
もしそこが家が密集しているような石巻のような所だとただ家がめちゃめちゃになり流されて無惨な光景しかなかったのである。
井田川とか八沢浦とか磯部でも田んぼのあるところは一時湖のようになったのである。
その光景は信じられないとなるのだ。

その時自分がどういう状態にあったかを書いた,身体障害者となり病院に入院したあとであり介護状態にもあり苦しい状態にあった。
それも実際は事実なののである。そんな個人的なことは報道されないのである。
ただただ津浪の被害者が原発避難者に関心は向けられていたのである。
八沢浦が美しい入江にもどったというときそれを批判するのわかる
ではその人が自分の個人的事情とか事実を知らないのである。
なんだこいつは八沢浦が美しいとかどうかしているとなる
つまりなぜこうして批判が常にあり誤解があるかというと人は多様な事実を知らないからそうなる
報道は常に一面的だからである。
人が何か批判するとき必ず一面的なものしか見ず批判しているのである。
報道にはそうした一面的報道が多いからそこに真実が何なのか見誤るのである。

報道には多様な事実が実際にある,殺人事件がある,それがどういう場所で起きたのか?
どういうふうに殺されたのか,何か証拠が残っていないか?
一つの殺人事件でもそこにさまざまな事実がありそれを検証する
殺人事件でもリアルにものをみなければならないのである。
そこに感傷的にみるより冷静に事実を見ることを第一とする
そこから犯人を割り出してゆく,つまり報道するということもそういうことなのかもしれない,事実は多面的でありだからこそ現場に通って感を働かせるのが捜査だとなる
この辺で起きたことは例えば原発避難民がパチンコ屋通いであり多額の補償金をもらって遊んでいたとういことも事実なのである。そんなことを言うなとかかわいそうだとばかり言うのもまた事実を無視して感傷的になっているからである。

北朝鮮の報道でも多角的にみればその実情が像としてイメージされる,youtubeで見たが公園で草をむしって集めている人がいた,するとそれは草を食料とするために集めていたそんなに食料がないのかという事実に驚く
それから喜び組というのがあり女性が品定めされている,まるで江戸時代の遊女である。すると北朝鮮は奴隷国家だということがわかる,金王朝に仕える奴隷国家なのである。
そんな国がどうして国家として維持できなるのか?
やはり内部から瓦解してゆくのではないか?民衆は草を食べ幹部は女性を品定めして遊女のように扱う,そんな国が維持できるのかとなる

ともかくそういう事実はいろいろありそこから像を作り多面的に見ていくべきなのである北朝鮮の民衆は悲惨なのである。その支配者が悪いのであり民衆はかわいそうだとも見る
でも事実というのは無数にある,今でも無数の事実が産み出される,それらの事実を現実に確かめて知ることは不可能である。
事件にしても無数の事実である。それは毎日のように報道される
でも深くその事実を知ることはできない,次々に事実は新たに生れてきりないからである

ニュースで伊豆に東京の人達のために老人ホームを作る,そこに入る人は家族が行くのに遠すぎるとので困ると言っていた,ところが身寄りがない人も入るから家族は関係ないと福祉関係の人が言っていたのも納得する
身寄りのない人も多いのが現代である。事実として様々な事実がありいちがいに遠いから家族が行けないからと判断はできないのである。
伊豆がどういう所かまず地理とか環境もわからないからそこで報道だけを見ていると誤って判断する,何でも多面的な事実がある
報道は一面的報道になりやすい,次々に問題が起きるしニュースがあり事件があるからだ

津浪でも様々な事実があり海が近いのに前に山のようなものがありそれにさえぎられて被害少なかった家もある,そこには様々な事実が生れていたのである。
一時八沢浦が美しい入江にもどったというのも事実である。
そこであとで泥にうまった幼児を自衛隊がほりだしたというのも事実である。
死体を探していたというのも事実である。
そこには様々な事実がありそれを冷静に報告することが報道の基本としてあった
かわいそうだという前に現実を事実を写真で見せられればわかるからである。

ただ原発避難者がパチンコ通いとかギャンブルに興じていたことは事実であったけどそれは報道されていない,そういう事実を無視してかわいそうだとばかり外から感傷的に見られるとき事実が見逃されてそういうマイナスの面は隠される,事実は隠される
すると現実が見えなくなる,そこに報道の問題があった
報道は今までは個人ではしていないできなかった,マスコミだけがしていたのである。
それでマスコミによって操作されていたのである。
いろいろなことを解説するのにもいろんな手法がある,マスコミの解説とは違う解説の仕方がある,すると別な風に見えてくるのである。

だから本当はマスコミでも局によって違った報道するのがいいのである。
すると多面的な見方ができるようになる,でも見る方もそんな暇がない,時間がないからてっとりばやい一面的な報道で判断するのである。
要するにあらゆることに様々な多面的な事実がある,それをそのまま報道すれば何かが見えてくる,でもその事実の取捨選択はマスコミがしている
報道されないことでもある人にとっては重要かもしれないし本当にみんなにとって重要なものもある,でも報道されないとそれは闇に埋もれるのである。

八沢浦が元の美しい入江にもどった

「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題 (確立していないインターネットのルール)


「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題

(確立していないインターネットのルール)

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著作権は、通常の財産と同様に相続の対象となります。遺言によって誰かに譲り渡すこと(遺贈)も可能です。本コラム執筆時点までの報道によれば、やなせさんには法定相続人はいないようですが、遺言により受取人を指定していれば、指定された法人や個人が著作権を引き継ぐことになります。

著作権について複数の相続人がいる場合は、著作権は共有されることになります。著作権が共有されている場合、共有著作権者全員の同意がなければ著作権を行使することができません(法65条2項)。対象となる著作物の著作者(=著作権者)の死後、著作権保護期間中に著作物の利用を希望する人は、原則として全相続人から許諾を得る必要があることになります

著作権者が死亡し、通常の財産であれば国庫に帰属することになる場合、著作権はなんと消滅してしまうのです(法62条1項)。「著作権が消滅する」ということは、誰もその作品が使えなくなるという意味ではありません。著作権の保護期間が満了した状態と同様に、誰もがその作品を自由に使えるようになるのです

著作者の名誉・声望を害するような方法での利用は著作権法で禁じられているということは、心に留めておいてほしいと思います

「目的上正当な範囲内」の引用であることが求められている(32条)。ここから派生して、「人の作品を借りて来るだけのある程度の必然性・関連性が問われる」と説明されることもある。


本は出版社が仲介として大きな役割を果たしていた,出版社を通じてしか本は出せない仕組みになっていた,その前に取り次ぎを通さないとまた出版できない仕組みになっていたインターネットはそうした仲介者が省かれているのだ

そこで何が起きてくるのか?今回のようなプログだけに書き続けた都築詠一の死亡がなげかけた問題である。
グーグルですべてではないがログは保管されていたのである。
これも不思議なのだけど普通は本だったら図書館とか出版社で保管されている
でも本を出すことはむずかしいのでどこにも保管されていない場合だってあるのだ
ところがインターネットでは誰でも一庶民でも何でもくだらないものでもとるにたらないものまで出せるし記録されているのである。
なぜならインターネットでは記録するということは簡単だからである。
そしていくらでもその記録を残すことができる,本のようにもう国会図書館で収蔵しきれなくなるということはない,物理的に場所を全くとらないから無制限に貯蔵できるのである。
ではそれがどれくらいの期間記録されているかとなるとわからない,本なら50年くらいはもつかもしれないがその頃からぼろぼろになってくるのである。
電子空間では50年ももつのかとなるとわからない,電子空間は消えやすい弱点ももっているからである。

ともかくインターネット上にだけ公表されて本としては出版されないものがこれからは増えてくる,出版というのはハードルが高いからである。
インターネットだと気楽にいくらでも書ける,一人の人間が出版社ともなれるテレビ局ともなれるのである。youtubeがそうである。
かえって例えば武田邦彦氏はそうした放送局となっている,科学者として専門性があるから参考になる,テレビだと専門家を呼んでテレビ局の意向によって編集しているからかたよっているのである。テレビはその局の意向を報道しているのであり専門家はただテレビ局の意向のために使われているだけなのである。
だから最近はなるべくテレビは見ないようにしている
テレビを見ていると知らずに洗脳されていることが多いからである。

いづれにしろインターネットでは例えは都築詠一氏が死んでも著作権はあり全文転載はできない,心に青雲の旧フログが一部ログを他のサイトで保存されていたが許可があってできていた,なぜ全文転載ができないかというと宣伝に使われたりするからである。
引用は可能である。それも引用する方が主になり引用される方がその主文に従属するような文でないとできないのである。
なぜなら引用とはあくまでも主なる引用する人の創作の中で利用されるものとして許されているからである。

ただ都築詠一氏のプログの文を本に出すとなると著作権を受け継いだ家族の人とかの許可が必要になるだろう。
でも不思議なのは別に本にならなくてもグーグル内にログは全部ではないが保存されているのである。それは一種の図書館に本として貯蔵されていると同じなのである。
ただそれがいつまで保存されているかとなるとわからないのである。
グーグルというのはこうして何か実際は大きな権利を得ているともなる
まず国会図書館にいくちら貴重な資料があったとしても利用できないものが多い
図書館でも資料があってもそれを調べるのが容易でないから今は行っていない
自宅で調べて書けるようにならないと知的作業はできない
だからある程度の私設図書館が必要になってくるのである。

ともかくインターネットもすでに20年以上とか利用するようになっているしこれからも利用されるようになる,それは世界ともかかわりそのルールが確立されていない
そこに今回のような都築詠一氏の死亡などで問題が浮き彫りにされたのである。
死んだら死んだ人は何も言えないのである。
すると何かそこで問題が起きてくる,ただ何か今も死んだように思えない不思議があるのだ。

「心に青雲」の都築詠一の遺したもの (その死は何を語っているのか?)


「心に青雲」の都築詠一の遺したもの

(その死は何を語っているのか?)

死者のほとんどはもっと生きていたいと願いつつ、この世を去ったのであろうし、災害や戦争の死者はさらに非業の死を遂げたので、その無念の思いは強かろうと想像する。
人間は必ず死ぬけれど、死に甲斐というものはあったほうがよい。この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

 震災の慰霊はほどほどに

こういった残された文章を読むと不思議である。

この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

それは「心に青雲」の都築氏の場合はプログしかない,でもそれも消してくれとか言っていたのがわからない,ここでは証を遺すことだと言っているからだ

人間はつくづく自分のプログでもそうだが自分の書いたものが読み返してみてこんなことが書いていたのとなる,忘れるのである。
都築氏のプログだって読んでいても忘れていた,だから記録すること何かに文章でも人間は遺さない限り何も残らない,忘れるからだ。

今読み直してこんなこと書いていたのと再認識する,その時読んでいても忘れるのである都築氏はいろいろなことを言っていた,その言い方が卑近な例から語りわかりやすいのである。学者のような言い方をしないからである。

でも自分の書いた唯一の生きた証であるプログまで消してくれとういかのがわからなかった
人間の不思議は死んだらその人をどう評価するかは生きているときわからない,だから死んでみて本当に不思議になる
とても死んだとは思えないのはなぜなのかとなる
何か今でも継続して熱く語っている感じになる,死というのが意識されない不思議がある第一インターネットの中で書いて死んだというのはあまり経験しないだろう
癌を告白して死んだ人などそういう人は増えているかもしれない
ただ病気が苦しいとか病気のことばかり書いていたら読むの嫌になることがあるだろう

都築氏は一切病気のことを語らなかった,透析のことはたまたま語っているがそのことは語らず様々なことに評論をしていたのである。
その見識の深さは瞠目するものがあった,だから毎日読んでいたのだけどやはり読みかえすと忘れていたことが多いなとつくづく思う
人間は忘れやすいのである。それが人間の大きな弱点なのである。
あれだけ悲惨な戦争のことだって忘れる,時間がたつにつれて人間はあらゆることを忘れてゆく,忘れるからこそ嫌なことを忘れるからこそ生きていられるともなる

無念の死のことを語っているけど自分自身もそうだったのではないか?
70くらいまで生きたとしても今の時代なら早いとなってしまう。
何かもっと書きたいこと言いたいことがあったと思う
それが途中で中断して死んだのである。
現代は長生きだから成果を示すのは遅くなる
人生50年とかなると早い内に示さないと死ぬから違っていた
斎藤茂吉は長生きだったと言われるが70才で死んでいたのである。
あとは40代50代で死んだ人が実に多いのである。
今の時代は普通に80才まで生きるから成果を示すのは遅くなる傾向があるのだ

都築氏の評論はいろんな分野にわたっていたのである。
空手をしていたからスポーツ評論があり文芸評論が人物評論があり科学評論まであった。これだけ多岐にわたる評論をできる人は今の時代でもそんなにいないだろう。
ただ死ぬとは思っていなかった,だからそんなに真剣に読んでいない,突然死んだので
驚いた,そしてプログの記録が貴重なものとなったのである。
インターネットにはグーグルでは全部は記録されていない,省かれているが要旨になるような所は残っているみたいだ
だから再検討できるのである。

プログはなにか本とは違う,生放送のようにリアルに今が伝わってくるメデアである。
だから死んだように思えないのである。有名な俳優でも死んでテレビの画面でドラマに写っていると死んだように思えないのである。
プログでしか知らなければやはりこれと同じように死んだように思えないのである。
ただ死んだ結果,こうして自由に語れるとなる,生きていればこきおろされるからできないとなっていたのである。
だから人間は生きているときは評価しにくいのである。

いづれにしろこうしてまたインターネットで自分が都築氏のことを語っているのをあの世でどう思っているのだろうと不思議になる
インターネットだけで語り死んだということが不思議である。
たいがい今までは本で遺していたからである。ただ本は限られた人しか出せないのである過激なものは出せないのである。
それでインターネットだけで語り記録して死んだということは今までにないことかもしれないと思った。
もちろんプログは無数にあるがこれだけのものを語れる人はいない,病気をのことを延々と語っても後世には残らないと思う,なぜならみんな病気になり死ぬからである。

ともかく都築氏の遺したことの再検討は必要である。ただ死んでもやはり著作権があり
そっくり転載することはできないだろう。
だからインターネットだけで語り文章として遺して死んだ場合そういうものがどうなるのか?それもまたわからなくなる,インターネットというのはそういうルールが確立していないからである。

自分がインターネットにある写真や絵から抽象画をソフトで変化させているのもこれも何なのだろうとなる,そこには何かしら著作権が関係している
そんなことしてそれが創作品になるのかとなる,そんなこと今までありえなかったのであてる。
ただアメリカの人たちが定期的に見ているのである。
だからなんらか評価されているとなる
でもなんらか著作権の問題が生じているかもしれないのである。
それもやはりインターネットという空間が何なのかわからないからそうなっているのだ。いづれにしろ都築氏の死はそういう点でも考えさせられるものだったのである。

2017年09月19日

看護のための「命の歴史」の物語を読む (都築氏の相互浸透などの思想の基となった本)


看護のための命の歴史」の物語を読む

(都築氏の相互浸透などの思想の基となった本)


はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた

地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。



「心に青雲」の都築詠一氏の評論のバックボーンになったものは「看護のための命の歴史」の物語という本にあった,それで早速アマゾンで注文して読んだ
アマゾンの便利なのは自分の関心ある本を読めることである。
だから今になって読む本がまた増えて困っているのである。
安いなら買う,古本だと買いやすい,なかなか全文を読むとなると苦労になる

都築氏が言ってこと相互作用相互浸透とかの言葉はこの本を参考にして生れている
ただなぜこの本が看護と関係あるのかというとわかりにくいだろう
相当に難解になるだろう。
わかりやすいのは母乳が必要だというとき牛乳ではなぜだめなのか?
それは命の歴史にかかわっていたからである。
人間が母乳を飲むということ母乳には人間が生れた地球の歴史とかかわっていた
人間から出る乳と牛から出る乳は違っていたのである。
そういうことは確かに看護と関係していることは確かだかその他のことはわかりにくい

ただ聖書の天地創造と一致していたのは水の重要性だった,聖書でも最初に水があり
地球とは水の惑星だったのである。水はまた生命の源だから水の重要性を聖書で記していることは一致しているのである。
そこにも聖書の不思議があるのだ,なぜ科学が発達しない時代に水の重要性を指摘したかも不思議だとなる
何か水の中で生命が育まれたことをこの本でも書いてあるからだ
水の作用の中で相互作用して相互浸透して生まれのが命だとなる
水の中でこそ命はまずありえたのである。陸地で命が存在することはできなかった
地球創生時代の陸地は非常に危険な場所であり生物がまともに棲めない,まともに光を受けるし暑いし火山の爆発もあり危険な場所だった,水の中は安全だったのである。
放射性物質も水の中にあるとき冷やされ放射線がさえぎられるというとき何かそうして防護の役割を果たしていたのである。

太陽の光に直接さらされることは生命にとって危険だったのである。
それで両生類が水の中でも生きられる陸地でも生きられる,でも陸地で生きるためには危険だから厚い甲羅で皮膚で覆われることになったのである。
紫外線とか光を直接受けることは生物にとって危険だった,今年は自分も熱中症になった恐竜がなぜ陸地で生き延びられなかったのか?
陸地は危険な場所であり水生動物のように水では保護されない,するとまともに光でも何でもその体に受ける,すると陸地では耐えられずに滅びたとなる
だから何か急激な変化,小惑星の衝突とか火山の爆発とかで滅びたというのもそのためだろう。

その時ものすごい熱になりその熱に耐えられないのである。
水生動物だったらそうした熱から守られるからである。
哺乳類が生き延びたというときネズミなどは激しく動き回る,その動き回ることによって生き延びたというのも面白い説だとなる
そして多産であり常に若い新鮮な命が送り出される,その命は激変する陸地でも生き延びたとなる,ネズミが生命連鎖では餌になるからネズミが生き延びることは他の動物も生きることになる
相互作用相互浸透するというとき水がその最たるものなのである。
水の中で命が作れたということは聖書とも一致している

聖書では段階的に水が作られ光が生れ陸が生れ草が生れ動物が生れるとかなる
ここでは混沌から水の作用で生命が誕生して適応してゆく
段階的に考えるのは西欧的科学技術の思考である。
荘子の混沌から生れというのは東洋的思想になるかもしれない。
生命を地球でも分離して分けるというのは分子を分けてまた結合させるというのににているのだ。
この本ではそうではなく相互作用相互浸透の中で生命が生れたとなる

確かに猿と木の関係というのも面白い見方である。木と猿は同時に生れた,木と猿は相互浸透して生れたというのも興味深いとなる
猿と木は一体のものだというとき世界もそうみている
それは東洋的思考なのかもしれない,部分に分解しないからである。
では猿が人間に進化したとか動物が進化したとかの説はありえないのである。
様々なものは神が別な種として創造したのである。
猿から人間が進化したのではない,人間という種は別個のものとして神が創造したのである。
なぜなら神は自分の姿ににせて人間を創った,人間は猿とは全く別物なのである。
そして人間として創造されたのはアダムからでありその前の北京原人とかジャワ原人とかピテカントロプスとかなんとかは人間の亜種であり人間ではないのである。人間を塵から創造してそこに霊を吹き込んだとき人間になったのである。

だから魚から両生類になり動物になり猿になり人間になったという進化論はありえないのである。確かにそういう過程が人間の中にふくまれたとしても人間は猿とは別個の種であり進化して作られたものではないのである。
人間とはみんなアダムの子孫であり進化した猿の子孫ではないのである。
だから魚から両生類へ進化して両生類が鳥になったとか動物になったとかないのである。神がその適した場所に創造したのである。
人間の中にそうした進化の過程がふくまれていたとしても人間は別個の種であり進化してできたものではないのである。

これは別に異論はあるが進化論はまた唯物論とも通じているのである。
都築氏は神を信じていない唯物論者だった,ただそれは宗教があまりもに歴史でもゆがめられたものとなっていたからとういことはある。
今でもイスラム教徒のロヒンギャを仏教徒が惨殺しているというのも信じられないとなる仏教もそんな残酷なことをするのかともなる,他にも虐殺の原因があるにしても仏教徒がそんなことをするのかということにもるな,そういうことが宗教を毛嫌いする原因になっているのだ。

人間は魚から猿に進化したとなると人間は魚の子孫なのかともなる,猿の子孫なのかともなる,そういうことはないのである。
人間は神がアダムを作ったその子孫なのである。神の系統に入るものであり進化した猿の子孫ではないのである。
進化論と唯物論が通じているのかというと要するに生命も生物も物質であり人間も物質であり原子でありやがては消滅するという思想になる
ところが人間は肉体は仮のものであり神が霊を吹きこんだものでありそこが根本的に違っているのだ。
そこに結局進化論とか唯物論とかの限界があり都築氏の限界もあったとなる

ただ批評する価値はある,大きな存在だったとはなる。批評するというときまず対等かそれより上にたつと批評はできない,一段上にたたないと批評はできない,そこに批評のむずかしさがある。だから若いときは批評はできない,ただまねるだけなのである。
それで師でも偶像化したりいろいろな論があるときただそれをまねるだけになるのであるともかく批評精神をつちかわないと結局カルト宗教団体とか権力集団組織にとりこまれて自主的に考えることもなにもできなくなるのである。
だから右で左でも何かの団体に所属している人は信じられないのである。
それらは集団で組織で圧力をかけるからである。

その点,都築氏にはなかったから好感をもって読んでいた。相いれない所があってもそういう組織団体に属していないことで自分は評価していたのである。
別に敵でも高邁な敵だったら剣の世界でもおのしやるなとなりかえってそういう手ごわい相手との勝負を望むのである。それは学問とかでもそうなのである。
論敵がありかえってそれで説が磨かれるということもある
世界を見ることは様々な視点があり一つではないからである。
死んでしまったけど都築氏はそういう手ごわい相手であり評論に値する人物だったとなるのである。



ただこの本などは知らない人が多いのではないか?
つくづく本というのはその数に種類に今になり驚くのである。
こんなに本があったというのが驚きなのである。
それがボタン一つで配達されるとなると知の世界が飛躍的に拡大した
自分は本を買うために仙台に行かなければならなかったし本は高いから買いにくいこともあった
でも仙台の本屋でも今になると本当にわずかの本だけだったのである。
それでベストセラーになって百万部売れた本などがあった
冠婚葬祭の本とかである。なぜそんなに売れたのか?

地方の小さな本屋でしか本が買えないとういことがあったからだ
だからそうした本屋ではベストセラーだよと置けば商売になったのである。
あと専門的な本など小さな地方の本屋にはなかった
このハンディキャップは大きかったなと今では思う
古本も膨大であり安く買える,これも知的な世界を追及するには有利である。
何か興味がありそれと関連したものが読めるということがいいのである
だから田舎でも今までのような知識のギャップを感じることがなくなっているのだ
こうなると別に文系などなら東京の大学などに行かなくても学問はできなるとなる
タグ:天地創造論

文明は滅び生態系は残る (原子力文明は生態系を破壊し滅びる)


文明は滅び生態系は残る

(原子力文明は生態系を破壊し滅びる)


文明とは何かというとき様々な見方がある。だからいちがいには言えない,でも幾多の地球上の文明は滅びたのである。

文明を作ったものは人間である

生態系を作ったものは神である

文明の象徴としてエジプトのピラミッドなどがある。エジプト文明は三〇〇〇年つづいたというから寿命が長かった,その寿命が長いのはもともとエジプト文明はナイルの賜物というとき生態系に依存して作られていたからである。
その生態系を壊さないように作られた文明なのである。
だから今になると様々な動物が神になっているのはそれは生態系の中でこそ動物は生きられる,生態系が破壊されたら動物は生きられないのである。
農業は生態系に依存している,そしてこの辺で鷺が一時いなくなった
それは田んぼがなくなったからである。田んぼには鷺の餌となる蛙とかがいたからであるその田んぼが回復したとき蛙も増えて鷺も増えたのである。
そして元のように川の竹藪の所に鷺の塒ができてコロニーが回復したのである。
飯館村では田んぼもないから蛙もいてもわずかだし鷺もいないとなる

生態系があって生物は生きられる,人間もその生物の一種だから生きられる,ただ現代はその生態系が文明の系統になっている
東京など大都会には田んぼもないし土も見ることもできない,だから生態系とは関係なく存在しているように見える
時々ダムの水が渇水状態になったとき水がなくなるということで生態系に依存しているということを意識する,でもなかなか大都会では生態系を意識するということができない
でも上流の水がやはり放射能で汚染されたとき生態系が汚染されたということを東京でも意識したのである。

生態系が破壊されたら文明も滅びる,なぜなら文明は人間の知恵で作ったものであり生態系は神の知恵で作ったものだからである。
人間は絶対に神の知恵を越えることはできないのである。
たからこそ人間の知恵で作った文明は滅びるのである
不思議なのはマヤ文明でもピラミッドに神殿が森に埋もれてしまった
同じように原子力文明も森に埋もれるというのもにている

チェルノブエリでは森が復活してヘラジカがもどりそれを餌とする狼がもどってきたのである。田んぼが復活して蛙が増えて鷺がもどってきたのとにている
ただ放射能汚染で怖いのは遺伝子が損傷すると次の代からさらに次の代まで影響するとも言われる,それはどうなるかはわからない未知のものとしてある。
原子力,核の恐ろしさは生物の種を絶えさせるとかなることにある
もうそうなるとその土地には人は生きていけないのである。

文明とは何か?それは人間の知恵で作ったものであり人間が神のごとくなることである。
神のごとくなるとはどういうことか?原子力文明では科学者が神のごとくなることである
マヤ文明ではやはりテクノクラートが天文学の高度な知識をもったものが支配階級になっていたのである。
文明が崩壊するとは滅びるということはどういうなのか?
マヤ文明は何か最後はカルト宗教のようになり迷信的になり滅びた
それはそこに知の限界が生じたからである。
原子力でも人間では操作できない,知の限界が生じたのである。
人間の知恵で作ったものが崩壊して滅びるということである。
ただ生態系に依存した文明は農業文明は長寿になる
でもその上に築かれた文明は崩壊して滅びているのだ

そして資本主義は農業に関しては土地に関してはなじまない通用しない,物を効率的に製造するようにはいかないというとき農業は生態系に属しているからである。
生態系を離れてありえないのである。資本主義は土地の生産性をあげようとしても生態系に依存しているからできない,二十日大根があるとすると大根を早く作ろうとしてもできない,それは土という生態系に依存しているからである。
資本主義もまた反生態系であり資本主義が生態系の環境を破壊するというのもそのためである。経済をすべてとする原理は生態系とは相いれないのである。

原発事故は原子力文明の崩壊現象が起きたのである。
なぜなら原発を支えてきたのは科学者であり政治家であり官僚でありマスコミであり今の支配体制を作るものが一挙に崩壊したからである。
その誇りも砕かれたからである。
それられの人達は国家を形成するものたちでもあったからだ
だから国家自体の崩壊現象が起きたのである。

つまり必ずしも国家と生態系は今や一致しない,江戸時代あたりの農業社会だったら一致していた。これだけの科学と技術とか大規模な経済をになうとなるともうそれは今までの農業文明などとは桁の違う世界に生きているのだ
この辺では国家権力によって地方の生態系が破壊されたのである。
国家権力が地域を破壊する,地域の生態系を破壊するのである。
それは一種の人間の奢りに対する神からの罰だったともなる
それはギリシャ神話時代から指摘されていたことである。

人間の知恵で作った文明は滅びる

神の知恵で作った生態系は残る

ただ神の知恵で作った生態系も実は完全ではない,弱肉強食の世界は神の御意にかなったものではないから是正されることを聖書では説いている
いかなる文明も砕かれその誇りも砕かれる
これからもそうである。AI文明人工知能文明だろうが何かの原因でつまずき崩壊する
AIといったってそれもしょせん人間の知恵で作ったものだからである。
神でもなんでもないからである。

人間はいくら努力しても理想社会は生れない,人間の知恵では作れないからである。
最終的には神による天国の創出であり神の業による天国の形成である
だから人間の知恵ではできないのである。
いくら文明が発達したといってもただ実際は変化しただけであり人間の心は罪に汚れ変わっていないのである。ただその形が変わっただけであり人間の悪はぬぐいされないのである。機械が発達すればその機械で悪いことをする人がいる
核を発明すれば核を悪いことに使い核戦争になり人類が滅びるとなる
いくら科学技術が発達して人類には平和は来ないのである。
そこに人間の限界がある。その限界の故に必ず文明は滅びてきたしこれからも滅びるのである。
posted by 老鶯 at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年09月18日

原町の道の駅で山口県の人と会う (自転車で日本一周四〇日目)


原町の道の駅で山口県の人と会う

(自転車で日本一周四〇日目)


原町の道の駅では自転車旅行している人と会う,その人は学生であり日本一周四〇日目だという,これから帰るが四国の方にもよるからまた三〇日くらいかかるとか言っていた。自分も30日くらい自転車で旅したらくらくらしてきた。
これから飯館の方に行くと行ったが坂を上るのが大変である。
その坂は予想もしないような坂がある,それが自転車旅行では怖いのである。
若い人はまだそうういことができる,でも若い人でもみんなが日本一周しているとは限らないのである。それがどのくらいの冒険になるのかわからないがそれなりの冒険にはなる
その学生が山口の宇部だというとき山口県というときまず萩とかをみる,そこから明治維新が起きたからである。
そして下関からは韓国への船がでている,自分も行ったことがある。
その時ははじめてで滋賀県の大津の人に助けてもらったのである。
そのお礼も言わないままになっていた。

山口県をみるときつくづくそれもわかりにくいのである。
萩は日本海の方であり何か繁華な所には見えなかった
ただ山口県は長州だがなぜそこから明治維新が起きたのか?
それはやはり地の利だったのである。

下関から韓国への船が出ているようにそもそも韓国も外国であり外国が身近なのである。九州でも古代から密接な関係が韓国とあった
それが東北辺りの地理感覚とは相当に違っているのである。
会津と比べればわかる,歴史はだから地理が基になっているのだ

なぜ薩摩と長州が手を組んだのか?
それもなぜ高知から出た坂本竜馬によって薩長同盟ができたのか?
それも地理からみればわかりやすい
薩摩も中国とかの貿易があり外国が身近なのである。
長崎も出島があり鎖国していても外国に開いていたのである。

外国がそれだけみじかになるときいち早く時代を感じた
それは江戸幕府があった江戸や会津よりもその外国が身近だったのである。
歴史が地理が基だというとき地理がわからないと見当はずれの見方をするのである。
そしてなぜ坂本竜馬が薩長同盟の担い手になったのか?
それも四国の高知だということでわかる
薩摩があり長州がありそれを結ぶものとして四国があったとなる

四国がそういう位置にありそこから担い手の人物が生れたとなる
地理と密接に結びついて人物も生れているのである。
だから地理がわからないと歴史もわからないのである。
だから自分は外部の人と駅でも道の駅で話するときそこがどういう場所なのか
全国を行っているから考える

では山口県というときこの山口県全体を知ることはむずかしい
それは福島県全体を知るのがむずかしいと同じなのである。
宇部というと何かなじみがないからである。
でもそうして全国の人とあって話するとき自分は全国に実際にその土地を踏んでいるので旅したことを思い出してイメージするのである。
一回も行っていなかったらイメージもできないのである。
山口県の像をイメージできないのである。

原町の道の駅は車でとまる人も多い,あそこに自転車旅行でテントを張る人もいる
道の駅は外部の人のたまり場になっている,特に原町の道の駅は便利なのである。
スーパーも近いしホテルの湯も入れるよと言った
その学生は入ることはなかった

原町の道の駅で案内のボランティアをするのもいい,あそこでは自転車旅行の人と会うからである。そういう人とは話しやすいとなる
ただ学生が多いからあまり相手から話は聞けない
ただ山口県の宇部から来たというだけで宇部はどこなのだろう,何なのだろうと考える
地理からまずイメージするのである。

原町の道の駅は外部から来る人が多いから鹿島の駅より話できるということはあるかもしれない。そこで道案内のボランティアをする
あそこではあやしいと通報されることはないかもしれない
いろいろな人が出入りするところではかえってそういうことがないのである。
あまり人が出入りしない本当の田舎になると変わったことをすると目立つのである。
ただ原町の道の駅が近いとしてもそんなには行けないから困るとなる

原町でいいのはマルマツとか簡単に食事する所があることなのである。
食事を用意するのが一人だとめんどうになるからだ
あそこでは納豆定食など安いものも出しているからである。
一人暮らしはある程度,都会の方がしやすいことがある
食事関係ではそうである。鹿島にはマルマツとか外食する所が少なすぎるのである。
二三軒しかないからである。

ともかく一人で家にいると誰かとしゃべりたくなる,それで駅で気晴らしに話したりしていた,道の駅でも原町辺りは外から来る人が多いから話できるということはある。
ただ自転車旅行の人などは話やすいが車の人となると別である。
車の人は車の中にいるからわからないのである。
車は開かれた場ではなく閉鎖された空間なのである。
車は外部との交流も遮断している感覚になるのである。

だからテントを張ったときそこに止まっている車に人がいたことがわからなかったのである。だから旅では車の人との交流はあまりないとなる
ただ別に自分は旅してそんなに話したりはしなかった
それはなぜかというと疲れて話する気にもなれないということもあった
自転車旅行はぐったりと疲れるからである。

話するにもやはり余裕がないとできないのである。
地元にいるからこっちは疲れていないから話ができる,相手は疲れているのだから話たくないということもある,駅のような所は別に相手も疲れていないのである。
駅で休む人は車で来たりしている人だから疲れないないから話しやすいとはなる。
ただ道の駅に車を止めている人は疲れてはいない,だから話はできるがしにくいとなる
ともかく駅でも道の駅でも外部との接点になる場である
そういう場所は自分にとって見聞を広める場だともなる
内部だと同じような話になるが外部だと広い世界の話になるから面白いとなる

2017年09月17日

秋の夜の大河(big river at autumn night)


秋の夜の大河(big river at autumn night)  

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big shokking waves

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大河の対岸に家の灯がともる
月の明かるく星はきらめく
その岸は遠く大河のはばむ
そして秋の夜はふけゆく

on the opposite side of the big river 
a few houses lighted on in the distance
clear moon and strary sky
the deepening gloom at autum night

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moonlight

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railway at night
タグ:大河 big river

死から偲ぶ俳句と短歌 (心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・)


死から偲ぶ俳句と短歌

(心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・)



空に伸ぶ竹や秋風にそよぎゆる

ふるさとや夕日のさして実りかな

虫の音の今日は聞こえず夜のふけぬ



「 空蝉の すがれる庵の はしらかな 」 川端茅舎


壮年のわがうつしみは若やぎつついつよりそ死を育みいしは

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかな妻に子にしたたりて

上田三四二


「心に青雲」のプログの著者の都築詠一氏の死は衝撃だった,直接かかわったわけでもないし相手自分に関心は全然なかった,ただもしかしたら一〇年くらいも毎日読んでいたのかとなる,とするとその影響はやはり知らず受けていたことになる
相当に人間としても文学関係でも造詣が深くハイレベルの人だった
だから近づきがたいとなる,陰謀論になると特にそうだった

インターネットは何かレベルが低いということがあるし言葉の遊びとか匿名でいい加減なものが多いとか無責任でその場限りの発言で終わるとかある
だから言葉の重みが伝わらないし発言する責任も薄い
誰でも発言できるのだがそれだけ大衆化して低レベルにもなっている

ただではマスコミとかその他が高レベルかとなるとそうでもなくなっている
芥川賞などは出版社が売るために企画されているから低レベルになった
ただ本になるとやはりレベルが一定の高さにあるとみる
都築詠一が死んでも空手関係では暴言を今も吐いている
その人たちは空手には通じていても文学関係など何も知らないとなるからだ

ともかく何か文学関係などは俳句とか短歌でも低レベルなのである。
ただ歴史関係,古代史などは密度が相当に濃いから参考になった
その他で参考にするものが少ない感じがする

俳句とか短歌は短いから鑑賞する方が相当によみこまないと鑑賞できない
その人の鑑賞の仕方によって価値が生れる文学だと思う
読みを深くするというとき死というのは人間にとって最大の変化である。
その死からみるとき物事でも俳句や短歌でも平凡なものでも平凡なものでなくなるのだ。

都築詠一氏が死んでそのことを感じたのである。

空に伸ぶ竹や秋風にそよぎゆる

これは今までなら単なるそれだけの俳句とかなる,でもこれを都築氏の死から読むと「心に青雲」はそうしてまっすぐな竹が空に伸びるという感覚になる
そういうものが文章から感じられた

ふるさとや夕日のさして実りかな

都築氏は人工透析をはじめてからプログをかきはじめた,二〇〇二年でありそして二〇一七年に死んだ,それも長いなと感じた,透析もやはり闘病だったのだろう。
ただ闘病しているという感覚はプログにはなかった
それはすでに晩年のことであり遅かったとなる,現代は長生きだから実りとなるのはそうして遅くなる傾向がある
実りに夕日がさしているというのも自分と重ねて見ているのである。

虫の音の今日は聞こえず夜のふけぬ

虫が今は盛んに鳴いているけど今日は聞こえなかったなというときプログをあんなに盛んに書いていたのに中断してしまい死んでしまったとなる
それはやはり一人の人間の死から感じたものである。

「 空蝉の すがれる庵の はしらかな 」 川端茅舎

この俳句はたまたまインターネットで発見したが深い俳句だなと思った

空蝉(うつせみ)は蝉の殻でありそれが柱にすがっている,それがなんとも不思議である。それは一つの命を象徴して人間と重ね合わせる

例えば柱というとき一家の柱とかいう,空蝉はその柱にすがり死んでいたのである。
柱は残っているのである。
俳句は短いから相当に読みを深くしないと鑑賞できないのである。
死から人間でも事物でもなんでも見ると深いものになる

壮年のわがうつしみは若やぎつついつよりそ死を育みいしは

上田三四二

この人は四〇代で死んだからしきりに死と病気のことを語っていた

壮年になってわかやぐ老人になって若やぐということもある
都築氏のプログの発言にはそうした若やぎがあった,ただ死はその時育まれていたとなる透析が長いからそういう死を身近に感じていたかもしれない,ただ死は急激だったと外からは見る,とても病人が発言しているようには見えなかったからである。
病気だと延々とその苦しみを書くプログが多いだろう。
そういうのがないから死ぬとは思えなかったのである。

死を意識するとき時間は貴重になる,その時やはり重い言葉となり深いものができる
啄木などでも死が迫ったときあれだけのものを書いたということでもわかる
死がなかったら人間の生は何か緩慢なものとなってしまうだろう。
死が人間に緊張をもたらしているのである。

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかな妻に子にしたたりて

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかなプログにしたたりて

こんなふうになっていたのかもしれない,ただ読んでいる人はそんな重いものとして意識していない,でも死んでみてそれを意識したのである。
死というのは人間に重さを与えるのである。

都築氏は文学にも通じていた,ただ「風雅和歌集」などを評価して写生をリアリティあるとしていたので写生についてもっと書いてもらえばよかった
ただ写生俳句の元祖の正岡子規などを評価しなかった
それだけの時間がなかったともなる,それが惜しいなと思った
十分な評論の展開ができなかったのが惜しいとなる

いづれにしろインターネットではまだレベルが低いし大衆化している,マスコミも大衆化して視聴率をかせぐ,それをまねたのがyoutubeだとなる
テレビも大衆向きに作るし硬いものは視聴率がとれないから出さない
結局なんでもこの世の中低レベル化して俗化する,カルト宗教団体でも大衆化して低レベル化して俗化する,それがこの世だからどうにもならないともなる

ただ今回の「心に青雲」の都築氏の死は高邁なものを追及して死んだので違っていた
インターネット上でもこういうことが起きたということで衝撃を受けたのである。

2017年09月16日

病気とブログと私 (心に青雲の都築氏の病気との戦いそして死)


病気とブログと私

(心に青雲の都築氏の病気との戦いそして死)

//kokoroniseiun.seesaa.net:80/archives/201112-1.html

ここに都築氏の病気の姿勢が書いてあった。


私は平成14(2002)年11月に腎不全で入院し、人工透析を受けなければ死ぬと言われて、とうとう障害者の仲間入りをしてしまった。

なにも社会に恩返しもせず、ただボケ老人となって週3回、病院のベッドに寝そべってカネをかけてもらうというのはみっともない。なかには完全にボケ、植物化しているのに、家族の「生きているだけでも…」というわがまま、もしくは生きていさえすれば年金をもらえることを狙いに、意味のない透析をさせられている者もいる。

返す刀でというか、私はブログでしきりに弱者の甘えを叱った。不妊症の女性が人工授精に走ることや、鬱病、ボケ老人、被災地の避難所で昼寝している怠け者などを叱った。
 それに対して、お前は健常者だから他人の痛みがわからないのだと、猛烈な罵倒を浴びることとなった。

 私だって障害者なんだ、弱者なんだとは言わなかった。



この姿勢には感心する,人間はどんな人でも病気には弱いのである。
自分も自分の病気と介護で苦しんだことをプログに書いた
都築氏からはそうした苦しみが伝わってこない,プログを読む限りそういう弱さを感じない,吐露していない,だから何か病気なのかと読んでいた
ただプログからだけではその人のことはわかりにくい

そもそも人工透析でそんなに生きられるのかということが理解できない
2002年からはじまり2017で死んだとかなる
30年も透析していた人もいるから驚きである。
要するに他人の病気というのも理解しにくいのである。
自分の病気なども何の理解もされなかった,ただその病気をいいことに責められたたげなのである。
人間は他人の苦しみを理解することはむずかしい

都築氏の感心するのは死ぬ直前までそういう病気の苦しさをプログではみせなかった
そして体の調子が悪いと書き込みがなくなって一カ月くらいで死んだのである。
寝たきりになり介護状態にもなっていない,死ぬ直前までプログに書くことに情熱を注いでいたのである。
それは意味あることだった,透析で金を使わせてもらい生かしてもらっているからという負い目がありそれで何か社会に役立つことをしてたいとそうしていたのである。

だから他人の介護と老いとか病気に厳しいから批判があった
自分が病気になのにそういう人達に同情しなかったからである。
現実に最後まで強気だったしそういう同情も要求していない,俺はこうして病気で苦しみながらプログを書いているんだよとか同情をかうようなことをしていないのである。
自分などは延々と書いていたのである。別にそれで同情されたこともないけどそうだった

死んでから思うのはそういうふうに苦しいものとして読んでいなかった
今思うと必死になって書いていたのかとなりそのことで書いたことの重みが残った
もっと日本文化面でも展開することがあった,それだけの多様なことに造詣が深かった
日本文化を追及しているのでそのことに共感していた

なぜこういうことがプログで起きたのか?
それはインターネットはプログは生放送なのである。
本とはできあっがものであり性質が違っているのである。
刻々自分の生きている,感じていることを書いているのである。
だからそうして日々書いていることは日々生きていることを伝えていたのである。
それが突然中止となったとき死んでいたのである。
本だったら有名な人でも日々は出していない,一年に一回とかだろう。
本は一冊で完成されたものとして書いてあるし死んでもそのように読んでいる

プログは毎日書いている,それは本とは違って日々の生きているその人の鼓動が伝わるようなものになっている
ただそうして他人のプログを毎日読んでいるのはわずかである。
自分は三人しか毎日読んでいない,第一それだけのものを書ける人はプログを書く人ではまれである。
だから熱心にアジ演説をしていた人が急に倒れて死んだという感じになったのである。
だから今でも死んだように思えないのである

ただインターネットは今までとは違いそういう人もでてくる。軽いメデアとも違い命をかけて書いている人もいるということに気づいた
それは日々の生放送なのである。
ただ都築氏の場合,他だったら癌のことをプログに書いているがそれは苦しみを書く,そういう病気のことはほとんど書いていない,文章からそういうものが全然感じられなかったのである。
だから死んでみてそこが一番不思議だった,自分は直接つきあいがないからわからないこともあった
でもプログを読んでいた人がみんなつきあいがあるわけではない,ただプログからしかその人のことはわからないのである。

だから都築氏のインターネット上でのプログで書き続けた死というのは今までにはありえない死だったともなる
今までインターネットは架空のことだとか重いものと感じていない人が多かった
今や命をかけて書いている人もいるという時代にもなったのかとなる
日々の生放送として伝えることができるということが今までのメデアと違っている
ただインターネット上でプログを書きつづけて死んだということが今でも何かその意味がのみこめないのである。

いい自転車に乗っている人がいた (駅はいろいろ人がきて休んだりする場所でもある)


いい自転車に乗っている人がいた

(駅はいろいろ人がきて休んだりする場所でもある)


「これは外国製だな」
「フランス制か」
「自転車はヨーロッパがいいですよ,本場ですから」
「でもシマノはやはりこのロードにも使われているな」
「シマノはたいだい使われている」
「自分もドイツ製の折り畳み自転車買ったけど
これどこで買ったの?」
「相馬市だよ」
「どこの店?」
「相馬市に外国製の自転車買える所あるんだ,原町に佐藤自転車屋あるけど,あそこでは外国製の自転車売っているよ,いつも試乗して買ってくると言っていた」


あのロードはいくらくらいしているのか?値段は言わなかったが30万以上しているかもしれない,相馬市でも高いロードに乗る人がいる,この前きたのは仙台からかもしれん,
自転車はまず高い自転車は確実にいいのである。それは間違いないのである。
いい材料も使っているからそうなる。高いものを買って損することはないのである。
自分も25万でヤマハの電動自転車のロードを買ったがいいものであり損したとは思わないのである。
その人は電車できたのではなく駅に休むために来たらしい
駅は何か街の中心でありランドマークとしてくる人がいる
そういう機能がある,ここには道の駅はないからだ

あといたのは病気になっているとか生活保護受けている老人だった
前も事業に失敗した人も病気で生活保護だったらしい,何か外から来る人はそういう人が多い,落ちこぼれた人が多い,
第一履歴書も書かなくても働けるのはこうした建築関係とか除染でもそうだがそういう人である。

もう一人はいわきナンバーの人であり双葉とか大熊とか浪江辺りの人である。
原町から待っている人が来た,車で乗って去った
いわきナンバーの人達も相当来ているのがこの辺である。

ともかく駅は警察に通報されたり嫌な目にあったがいろいろな人の出入りがある場所なのである。
今まで駅は電車に乗るだけの場所だとして利用していたのである。
駅で話したことないのである。
ふらっとちょっと寄ってもいろいろな人がいるのである。
相馬市から来る人が結構いた,厚生病院に相馬市から来た女性もいた,それはなぜか?
この女性もなんらかの関係で相馬市にいても鹿島の病院に来る必要があった
この人もやはり大熊や双葉や浪江などから移住してきた人なのである。
そううい人がこの辺では多いから当然いても不思議ではないのである。

今日は駅内に原町の駅員が来てビラ張りをしていた。駅は人の出入りが多いか宣伝の場にもなる,あれは結構目立つだろう,インターネットだと宣伝してもなかなかわかりにくいのである。使わない人もいるから宣伝効果があるとも言えない

ともかく駅は電車に乗るだけではないその他に人が集まる休む場にもなっている
毎日ジュースを飲みに来る老人がいる,あの人は毎日何もしない,何か生き生きしていない,人間は目を見るとそれがわかるみたいだ,何もしないと生きがいがないと目が死んでくる,とろんとしている
自分の家族で認知症になったのも退職してから生きがいをあるものを見いださずなまけるばかりだっからである。それが実際は老後で怖いことのなのである。
だんだん心も死んだような状態になり認知症になる度合いが強くなるから怖いのである。これは明らかに高齢化社会の大きなテーマとなっている
その準備は退職してからでは遅い,老人になったからといってすぐに何かできるわけではない,今まで積み重ねたことしかできないからだ
パソコンだって自分ができるのは今まで20年とかしているからである。
でも実際はパソコンのことは良くまだわからないしめんどうなのである。
自分は機械が苦手だからである。

ともかくふらっと駅によりそこに誰かがいて話したりするのは気張らしである。
社会にはそうした場所も必要なのである。小さな街だってどういう人が住んでいるのかもわからない,それが多少でもわかるし外からの人も来て生の情報を得ることもある
実際原町でも相馬市でもわからないことが多いからだ
外国製の自転車を売っている所があるというのもわからなかったからである。
近くでも意外とわからないことが多いのである。