2018年01月31日

中国の春の旅(2)(俳句連作ー蘇州)


中国の春の旅(2)(俳句連作ー蘇州)

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春の日に船入りゆく大河かな

六和塔大河を望み白木蓮

春の日に鉄橋火車行く六和塔

菜の花や一望千里船の行く

菜の花や船に泊まりて一夜明く

長大な中華の河や春の星

広々と大陸開け草萌ゆる

(蘇州)

奇岩の庭塔傾きて春の暮

物売りの老人あわれ蘇州かな

春の日や蘇州を巡る舟あまた

春の日蘇州に古りぬ橋あまた

春の日や河と海と船栄かな

城壁を歩み柳の芽吹くかな

城壁の長しや柳船着場

春愁や中華の美女の艶なりき

興亡や千の城壁春の乱

天馬駆け中国に来る春の夢

大海に船の尽きじや春の夢

海濁り長江尽きて船のいず


中国は広くていろいろあるけどやはり蘇州がいい,海と大河と湖とか自然もあるからだ,北京は何かそれと比べると見るものがなかった
中国に海から船で行くと海が濁ったとき中国に来たとわかる、海まで濁るのが中国の大河なのである。

中国は広大な大陸であり歴史の国である。まず歴史でも地理の感覚がわからないと理解できない,その地理が日本とスケールが違いすぎるからその出発点で理解しがたいものとなる
中国だと歴史が長いから人がいたとしてもそれは繰り返し何度もそこにいたとなる
つまりどこでも人が住まなかった所はなく人の匂いがあり人によって自然もある
アメリカ大陸のようにもう人もいなかった荒野の感覚はないのである。

大陸というとき六和塔とかは見物である。巨大な河口があり鉄橋を火車がわたる光景が絶景だとなる
そういう風景は日本では見れない,日本では河口といっても狭いから船の出入りがない
イギリスでは島国でもテムズ河口は広いからそこが港となり海外に航海に出たのである。港のスケールが日本とは違っているのだ
隅田川がにているが河口でも大陸のように広くないのである。

いづれくにろ外国とか歴史を理解するにはまずその地を踏まない限り理解できない
本で読んでも地図を見てもわからないのである。
そこに世界を理解するむずかしさがある
第一俳句というと極めて日本的なものである。島国に適したものとして最短の詩が生まれたのである。だからとても大陸となると俳句では表現しようがないのである。

ただ中国を旅して高い大きな山を見なかった,そういう場に行かなかったのが残念である自分が行ったときはすでに十五六年前であり中国は貧乏な時だった
汽車には家畜のように流民が積み込まれていたから一般庶民と一緒には乗れない時だった本当に乗客は笞で打たれていた。
それが信じられないのは新幹線のようなものも走っているし十数年くらいで中国は日本の高度成長になったのである。
だから本当に人間社会は外国でも変わりやすいからその対応に失敗するのだと思う
地銀など地元で信用されていたがそれも潰れるとかなるから変化が激しいのである

十年一昔というのは実感である

十年たったら本当に昔になる,介護とか自分の病気に追われて十年たったときこれも一昔になったのである。そこでエネルギーは消失して旅もする気力がなくなったのである。
津浪と原発事故でこの辺りは激変した,荒波にもまれてもう十年はすぎた
その間に家族もみんな死んだりとか激変した
だからあの時海外旅行して良かったなとつくづく思う
つまり退職したらやりたいことをやるとしても計画してもできないことになる
常に一身上でも激変に見舞われる,それでエネルギーが消失するのである。

中国とは漢詩を通じて文化的に深い交流があるし俳句だって漢詩が基になっている
だからそういう文化の点では中国に親しみを感じる
ただ中国の歴史と文化とかを理解するのは日本人にとってむずかしい
その地理的感覚が理解できないのである。
あのようなとてつもないでかい国に住んでいたらどんな気持ちになるのか?
それは日本にいてはまず理解不可能だからである。

タグ:蘇州 六和塔

2018年01月30日

中国の旅(春の俳句) (中国の歴史と文化の考察)


中国の旅(春の俳句)

(中国の歴史と文化の考察)

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(寧波)

城門を入りて街や春の月

寧波より運河に上り春の寺

塔いくつ高きや紫春の山

栄えたる唐の日の塔中華の春

(蘇州)

城壁の長く春の日船着場

ここにまた船着場あり春の暮

双塔の古りて曇りぬ春の月

春の日や水満々と太湖かな

春の暮塔傾きて蘇州かな

北塔の厳しくますぐ中華の春

春の日に奇岩に塔や蘇州かな

春の日や力車の老人目の悪し

菜の花千里の運河船の行く

菜の花や豚船に積み運河行く

(西安)


城門を入りて休らふ春の月

楊貴妃の肌の白きや春の雨

華清池に楊貴妃の幻春の夢

我が上る始皇帝陵中華の春

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蘇州春情

蘇州の雲岩寺塔


寧波市(ねいはし、ニンポー)

唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は日本で捕虜となった後も処刑されず助命され、九州などの宋人街などに住んでいた。明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。

唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した

梁甫の吟 諸葛亮孔明(りょうほのぎん しょかつりょうこうめい)


歩出齊城門
遥望蕩陰里
里中有三墳
累累正相似
問是誰家塚
田彊古冶氏
力能排南山
文能絶地紀
一朝被讒言
二桃殺三士
誰能爲此謀
國相齊晏子

斉の城門を歩み出ると、
遥か彼方に蕩陰の里が望まれる。

その里には三つの墓がある。
うずたかく盛り上がって、三つとも同じような形だ。

「これは誰の墓かね」と尋ねると、
田開彊と古冶子と公孫接の墓だという。

その力は南山を引き抜くほど。
その文才は、地紀(大地を保つ綱)を断ち切るほどであった。

ところがある朝三人は讒言を受け、
二つの桃を三人で奪い合って殺されてしまった。

誰がこんなうまい策略をなしたのだろう。
斉の宰相、晏子である。

一つの桃を巡って争うというのは今でも通じている,遺産相続のときなりやすいからだ
中国は古いから墓の国である,そもそも最後に人間が残すのは墓だからである。
それはエジプトでも文明そのものが最後は墓場になるからである。

渡荊門送別 李白

渡遠荊門外
来従楚國遊
山随平野尽
江入大荒流
月下飛天鏡
雲生結海楼
仍憐故郷水
万里送行舟

門を渡りて送別す 李白
渡ること遠し荊門の外
来りて従う楚國の遊
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒に入りて流る
月下に天鏡飛び
雲生じて海楼を結ぶ
仍(な)お憐れむ故郷の水の
万里 行舟(こうしゅう)を送るを

現代語訳
はるばると旅をして、荊門の東まで来て、
楚の国を旅するのだ。

山は平野があらわれるにしたがって無くなり、
長江は果てしない平野の中を流れていく。

満月は傾くのは、天を鏡が飛んでいくように見える。
雲が起こるのは、蜃気楼があらわれたように見える。

それでもなお、しみじみ懐かしく思うのだ。
わが故郷・蜀から流れ出した長江の水が、
万里のかなたまで、行く船を送るのを。

語句
■荊門 長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある山で、蜀と湖北・湖南地方との境目。 ■渡遠 故郷の蜀の国を出て、はるばる荊門の外(東)まで旅をしているという実感■大荒 果てしない空間。湖北・湖南の平野を指す。 ■天鏡 空を移動する月を鏡とたとえた。 ■海楼 蜃気楼。

中国を理解するのはむずかしい、広すぎるからである。ただ中国を理解するのには城壁で街が囲まれている,城門を入るとそこは城壁に囲まれた街で外敵から守られているという感じになり安心感がある,それはヨーロッパでも城壁に囲まれた市壁に囲まれて都市がある。そこがにている,日本の城だと城と町は別であり城は城としてあり城門もあるが街とは一体化していないのである。
中国とかヨーロッパでは戦争になれば一般市民も皆殺しにされる,日本では侍同士の戦いであり庶民はその戦争に巻き込まれなかった

イギリス史では、「シティズン citizen」と「バージェス bourgeois」(フランス語で言うブルジョワ)という言葉が必ず出てきます。字義通りには、シティズンはシティの市民権を持った住民のことで、バージェスは、そうでない都市の住民、有産者と言うことになります。ただしイギリスでは、シティというのは非常に限られた数しかありません。アメリカ英語では、大きな町のことを何でもシティと言いますが、ほんらい、シティというのは、司教座のあった町のことで、イギリスでは26しかありませんでした。シティ・オブ・ロンドンには、司教座がありましたので、シティなのです。司教座がなくて、城塞、つまりブルクから発展した城下町をブルクと言い、そこの住民がブルジョワということになります。

ブルクとは城のことである。つまり城壁の内に住む人達でありそれがブルジュアになったシティズンが司教の座があった街というのもそこにヨーロッパの歴史がある
ヨーロッパと中国の歴史の共通点は城壁の内に入ればそこで安全が確保されていたのである。城壁を城門を出れば安全は確保されない,荒野ともなっていたのだ
その感覚は万里長城にも現れている,あれだけの広大な国を城壁で囲もうとしたことからもわかる,外敵から守るためにあれだけの万里長城を壁で国を囲むことはそうした城壁都市から拡張したものとして生まれたのである。

バベルの塔とか大陸で塔は外敵から守るために監視するために必要だった
これもヨーロッパと中国は共通している
仏塔はインドから伝わったがインドもまた大陸文化を形成した国だからである。
蘇州は塔で有名である。中国では塔はいろいろある,塔にも個性がある。
日本の五重塔は優雅であり優美となるが中国とかヨーロッパの塔は監視の塔としての起源があるから厳しい姿にになっいる、八角形とかなるとひきしまる感覚になる

漢詩でも城門を入ると城門を出るというのは家を出るとか故郷を出るとかまた帰るとかの感覚になる,門がそうした感覚を作り出している,それは日本にはない
城下町でも別に門から入らないし城壁も囲んでいないからである。

自分が旅したのは寧波でありここは日本とも関係深い交流のあった港である。
そこから運河を上り道元が禅の修行した天童寺に船で行った
これも中国的である,運河がどこにも張りめぐらされているからである。
それはヨーロッパともにている,川と運河が交通路になっているからだ

蘇州とか杭州とかこの寧波辺りは中国を旅するにはいい,寧波には唐時代の塔があったとか言っていたが記憶が定かでない,何か旅で思い出すことがなかなかできなくなる
あそこはどこだったのかとか朧になる
d せなんとか記憶をつなぎあせる,前に中国の旅の俳句とか書いたのでそれを参考にまた思い出す旅をする,旅は写真でもメモもしていないと忘れてしまうのである。
外国のことは本を読んだだけではわからない、一見は百聞にしかずである。
自分は50代に旅したから苦しかった,でも中国は二回も行っている,一カ月くらいは日本を出ると旅していた,ただ中国は広すぎて理解するのはむずかしい

西安は長安は唐の都であり日本人の阿倍仲麻呂が奈良時代に留学している
その始皇帝陵とかに上る,墓が巨大な山になっているのも中国の巨大さである
楊貴妃の風呂の華清池があったりそれから観光として地下帝国巡りとかあった
地下に一大宮殿が現実に始皇帝の時代にあった
その豪奢というか享楽の世界も並外れている,そして無数の民がいて大河に藻屑に消えた兵士もいる,そのスケールが日本では想像を絶する世界なのである。
だから大陸からなみはずれた英雄が生まれる,桁違いの人物も生まれても不思議ではないとなる

要するに世界を理解するというときそのスケールの大きさが日本とあまりにも違いすぎることなのである,空時代は日本では山が多いから狭い感覚になる
大陸では空がどこまでも広がっているという感覚になる
空の感覚まで違っているのである。それはアメリカ大陸でもそうである。
ただ中国というのは共産党時代になりこうした歴史ある中国が見逃されている
共産党だから近づきにくいとなる,でも日本と中国の交流が長いのである。
そういう歴史があっても欧米先進国に習ったから中国に習うものがないとかみる
でもそういう時代も終わりつつある,中国の方が技術的にも経済的に大きくなり中国がアメリカを経済ではぬくとか技術もIT分野でぬくとかなるとそうなる
では中国の時代が再び来るのか?その時日本はどうなるのか?今度は中国の属国になるのかただ中国との交流が深まれば再び文化交流も活発になることは確かである。
中国の文化や歴史は欧米一辺倒になったとき見逃されたからである。








2018年01月29日

冬籠もる短歌十首


冬籠もる短歌十首


浪江まで電車二両や冬の山


我が庭に石のひそけく黙しつつ母の面影留めてあらむ

我が家の柱に寄りて姉思ふ常に自慢すその柱かな

ストーブにあたたまりつつ自転車屋に駅や街のこと語りけるかな

冬の日に寒しも今日も駅に来て見送る人あり我も見送る

芒枯れ根雪残りて風寒し常に見る川鴨群れよりぬ

移り住む家にしあれや冬の灯のともり庭にし置きし石かな

冬の夜に月のかそけく雲隠れまた現るも消えにけるかな

手水鉢厚く凍りて溶けざりき薔薇一輪のなお咲きにけり

遠くへと我はいでじも冬ごもりストーブにあたたまり記憶をたどる

一本の薪またくべてあたたまり冬の長き日回想にふける


八畳のストーブをあたためるには丸形のストーブにした,これだと二倍の石油が必要である。でも部屋はあたたまる,椅ゆり椅子に腰掛けてなにることもなくいる
暖炉とか囲炉裏とかは寒いときその火を見ると体も心もあたたまる
そうして記憶をたどる,昔を思い出すのにはいい,だから囲炉裏というのは暖炉でも何か想像力を刺激する,そうして一日家にいることが多いからである。
その時何をするかとなると老人だったら回想に耽るのが向いている
そういう生活に憧れて田舎暮らしをしてみたいとなる人がいることがわかる

近くの薪を積んで暖をとっている人は土地の人ではない,どういう人かわからないがそういう人もいたのかとなる
囲炉裏は炭の時代は街内でもあったし自分の家にもあった
今になるとそんな時があったのかということが不思議になる
その記憶も朧になり思い出せなくなる
その時父親が生きていて怖い存在だった,明治の男性だから怖かった
でも今はそうして過ごした家族もみんな死んだ
結局最後は思い出だけになるのが人生である

駅前の自転車屋に同じ丸形の高いストーブが置いてあった,あそこには駅のことなど話すのに時々行く,あそこは駅前でありいつも駅を見ているから駅の案内所とかに向いているのだ,いつも駅を見ているから自分より案内所としてふさわしいのである。
だからあそこで時々の駅のことを話しているのである。
駅は家族がなくなり他人の家族が見送りするのを自分も見送りしたり迎えているのも奇妙である。駅は何かそうして再開とか別離の場として演出するのである
バスとか車では何かそうした感覚にならない、ただ会って分かれるというだけの感覚になる
駅には何かそうして人生の織りなす舞台を作り出している,また広場の役割もあることを知った

今日老人が来て知った,小高の医者がはじめた絆診療所では車で患者を迎えに来るという専用の運転手もいるとか,そんなことしてくれるのとか疑問だった
往診はしても車で迎えに来るというのは知らなかった
ただあそこは外科であり整形外科とかなるから内科と違っている
あれもできたことはこの辺ではいいことである。
小高で営業できなくなり鹿島に移った医院だったのである。
何かそうした情報が入るのも駅だったのである。

ともかく今年は遠くに行かない,原町までは用事があって自転車で行くが仙台だって去年も一回しか行かない,閉じこもる傾向は介護で強いられてその後も家を留守にすることが何か不安になり遠くに行かない,やはり家を空にすることが不安になる
だからつくづく遠くへ自由に旅できたのは留守する家族がいたからだなとも思う
そして何か旅する気にもなれない,じっとしているのがいいとなってしまった


冬の古き家に

古き家に
また一本
また一本
薪を燃やしぬ
ほのぼのと
あたたまる火よ
家の柱の太く
故郷の森より切りぬ
姉の自慢す柱かな
我は今この家の主
巌のごとく動かざれ
姉死すも
母死すも
六十有余年ともにしあれば
なお石のごとくここにあれ
ああ なお幾年ここに生きむ
我は墓守にもあれ
木の根はこの地に根を張り
冬の日はここに深まりぬ

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自分の家にも鉄瓶があった,重いものだった
ここでは薪を燃やしているからあたたかい
炭だと体全体はあたたまりにくい
薪だったら相当に寒くてもあたたまる

囲炉裏の精(民話)

こういうふうに何か囲炉裏には物語が生まれるのはそこにじっとしてあたたまっていると想像力が刺激されるためである

こんなふうになる,家というのは単なる建物ではない,箱ではないそこには家族の思い出とかありふれで付加価値が生まれる,精神的価値が生まれる
そこで人間が家族が過ごしたという思い出があるから違っている
それで病院で死にたくないとかなる,病院にはそうした思い出もないからである。
原発避難区域でもそうした思い出がある家だから老人は帰りたいとなっている
ただ老人ばかりの町とか村になるともう維持できないともなる

とにかく自分は墓守なのか?そういう役割が残れているということもある
供養が残されている,なぜなら自分の家族は本当に全部死んだからである。
残っているのは墓と思い出だけとなってしまったからである。

2018年01月28日

国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく (ベトナム人の犯罪が増加)


国内の格差社会化,外国人移民で犯罪が増えてゆく

(ベトナム人の犯罪が増加)

外国人犯罪の勢力図に変化? ベトナム人の刑法犯が中国人抜く

ベトナム国内の犯罪組織と連携し、盗んだ工具や盗難バイクを「輸出」した事件もあった「盗品売買や生活保護の不正受給などいろいろな犯罪が行われる。留学生と結託して犯行に及ぶこともある」という。

ベトナム人が駅に二人来ていろいろ聞かれたことを書いた,なぜタブレットなどをもっているのか?留学生なのかもしれない,留学生だと入りやすいからである。
別に悪そうな人には見えない若者である。
ただなぜ石油の空のポリタンクがなくなっていたのか
石油を入れるために自転車に乗せていたのである。
それがそのベトナム人に説明していたときなくなっていたのである。
あれは大きいから落ちようがないのである。
ベトナム人も自転車できていたからもっていたのか?

ベトナム人にはベトナムに行って良かったから親近感をもっていた
でも日本に来たベトナム人は正直危険になる,前は中国人の犯罪率が高かった
それは貧富の差がその時まだ大きかったからである。
今は中国人が日本に来るメリットはもうそれほどないだろう。
だからこそベトナム人が増えて犯罪が中国人より多くなったのである。

犯罪は格差が大きいとどうしても起きる,防ぎようがないのだ。
日本に来たら最低でも日本人と同じように暮らしたいとなるのである。
給料があまりに少ないとそれを埋め合わせるのは犯罪しかないのである。
盗むほかないのである。
そういうふうに格差がありすぎると人間はモラルもなくなる
盗んだ方が手っとり早いとなる

これは外国人だからというのではない,日本人でもそうなのである。
格差社会はモラルを崩壊させるから怖いのである。
いくら働いても給料は上がらない,やっと食べるだけだ
そうなると一部の恵まれた人への風当たりが強くなる
あいつは何であんなに贅沢しているんだとなる
そして現代とは働くモラルが消失した時代である。
働く奴は負けだとかなる,そういう風潮がある
働いてもたいした金にならない金持ちの奴隷にされるだけだとかなる
そういうことは自分にあるから他人には言えないこともある

モラルが崩壊するということは人を信用できない
もともと人を見たら泥棒と思へというのは今も変わりない
金持ちの家で家の中で働いてもらうのは本当に危険である。
その格差が大きければ物色される
そして大金を失った経験があるから今は人を信用できない

その原因が格差社会にある,それが富裕層はか比較的恵まれている人達に関係ないかというと関係がある。格差社会が極端化してゆくとそうした恵まれた層も危険になる
いくら働いてもたいして金にならない馬鹿らしいという気持ちになるとどうなるのか?
盗んだ方がいいとなるのだ
ベトナム人などはそうなりやすいのである。この人達は日本人の最低層より下だからである。
貧乏と言っても知っている人はそうでも食べ物は自分より贅沢している
パンでもわざわざ相馬市からいいパンを買っているしサシミでも個人の店からいいものを買っているとか食べ物は自分と何ら変わりないのである
ベトナム人とかは食べ物でも日本人の最低層より下になる
すると日本で暮らしていればどうしてもその穴埋めするのには盗む他ない犯罪になる
それは善悪とかではなく人間はそういうものなのである。
だからこそ格差社会は危険なのである。

そして現代はグローバル社会になると金があれば何でも買えるとなる非情な社会がグローバルになる
それは別に外国人でなくても日本人同士でも今は人間を人間と見ていない、人間は単なる番号のようになり金としか見ていないのである。
人間は金であり金として勘定されているだけだとなる
それがマルクスの指摘した物神化ということが誰でもそういう社会に生きていればそれが現実なのである。
膨大な商品がありその媒介する金が人間を支配するのである。
みんなそういう世界に生きてきたし生きているのだからそれは単なる理論ではない,現実なのである。

ベトナム人でも観光とかに来て日本人と親しくなるようだったら違う
単純労働者とかはそういうものではない,日本で金を稼ぐという切実なものがあるからだだからそうした外国人労働者は犯罪者に容易になりやすいのである。
日本人人でも格差社会になれば犯罪が増える、モラルが崩壊する
日本人は落した財布がもどってくる平和な社会だとか言うがそれとこれは別問題なのである。
日本人でも何かそうしたささいなことでは律儀である
無人駅でも切符入れに電車賃を入れる,別に通りすぎてもわからない,外国人だったらそんなことしない,だから日本人はそういうモラルがあるんだと外国からは見る
日本人でも盗む奴は盗む,いたるところで会社の金をごまかしたり他の所で盗みは日常的である。戦前生まれの人だと何か貧乏でも盗まないとかモラルがあったが今はないのだ
だから家に入れると本当に危険である。

ともかく格差社会とか階級化社会になると上のものと下のものに階層化して意思疎通ができなくなる,そこで犯罪が増えるのである。
モラルが崩壊してゆくのである,そういうことを今恵まれている者は真剣に考えないとその危険が本当にその身に及ぶ割合が大きくなるのである。
殺されることだってありうる,江戸時代は侍の社会として固定化したけどそこには階級社会でもモラルがあった,今階級社会化するとモラルがないから上のものは非常に危険になるのである。
野獣の中に住んでいるようになる,それを自分は介護自分の病気とかで責められて経験しているからだ
もう食うか食われるか金をとるかとられるかの社会である。
だからこそ格差社会を放置しているとその危険が増大して上のものはフランス革命のようにギロチンにもされるかもしれない,そううい恐怖が迫っているのである。

外国人労働者とか日本国内でも格差社会の危険は深刻になる,格差を埋めるために人は犯罪を恐れない,それより貧乏なものはどう考えているか知るべきである。
金持ちから奪うのは権利だ、俺たちがいくら働いても金をえられないのに金がある奴は許せないとなっている,盗んでも当然だ,金持ちこそ俺たちの働いたものを盗んで金をためたのだとなる,だからそこに犯罪は正当化されるから犯罪を恐れない
そもそも犯罪をしたという意識もないのである。
つまりこの世は今やモラルが崩壊して地獄と化してゆくのである。
自分の経験したことはまさにこの世の地獄だったからである。

あいつには金がある,俺にはない
だからあいつから盗んでもいい
人は平等だからだ
盗むことは悪いことではない
当然の権利なのだ
警察は金持ちの味方だ
法律もそうだ
俺たちの働いている金を盗んでいるのが金持ちだ
だから盗んでも犯罪にはならない

泥棒にも三部の理があることは確かである。ただこういうことを普通に思う人が増えてくると日本人のモラルは崩壊する
格差社会や外国人労働者を受け入れることはモラルが崩壊することなのだ
もし外国人労働者にも日本人の最低の賃金とか暮らしを与えるならそうはならないのである。外国人労働者は日本人の最低層より下になっているから犯罪が増えるのである。

posted by 老鶯 at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

鹿島駅からの交通案内


鹿島駅からの交通案内



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印刷自由

この辺は交通が複雑になっている,そして変わりやすい
鹿島駅からいわき方面に行くのが双葉とか大熊が電車は通れないので不便になる
でも常磐高速道路で原町駅からハイアンズまで行くバスの便が最近出た
4便くらいでているから便利である。
ハアイアンズまで行きそこから湯本駅に送迎バスが出るが
帰りもやはりバスが便利である。

鹿島駅からは直接飯館村に出るバスが出るようになった
4便とか出ている,原町駅までも200円で行けるから電車と同じ料金である。
乗り場みっつくらいあるが駅通りの商工会館から十字路にでて右側にある
ここはわかりにくいつかもしれない

ともかく鹿島駅からは不便である。原町駅に一旦行くと便利になる
仙台行きの直通のバスがまだでている,ただ鹿島には止まらなくなった

2018年01月27日

今日も電車遅れて混乱 (ベトナム人を案内)


今日も電車遅れて混乱

(ベトナム人を案内)

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窓ガラス破損したというのはどういうことなのか?


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ゲームのような表示はアナログであり数字の表示はデジタルになる
数字だとわかりにくい,電車が動いている方がわかりやすいのである。


今日も電車が遅れた,風のためではなかった、ガラスの窓が破損したという,一時運休と出たが消えた,風のためではないから次々とは運休にならなかった
一人は浪江の方からいわきへ行くとかの人がいた,その人は急いでいるのかタクシーを呼んで原町まで行った
中国人も一人いわき市へ行くと言っていた
これも困った,原町駅から高速バスがいわき市まで出るようになった
それは一日四本くらいであるから時間をみないと乗れない
要するにいわき市まで通じないことで不便になっているのだ
この影響はかなり大きい,後二年いわき市まで通じるにかかる
その間はバスを利用するのがいい,原町から高速だと90分で行く

今日はベトナム人の若い人が二人きていた,小山に行くという,それも普通列車で行くというのでその説明にてこづった,一年はいるので多少は日本語は話せて通じる
でもまず小山まで普通列車で行くとしたら乗り換えが三回くらいあり簡単には行けないし時間がかかりすぎる、でもなんとか行こうとしていた
金がないのでなんとか行こうとしていた,でもあきらめて新幹線で仙台から小山に行くことにした
それでその行き方を説明した,乗車証明書のとり方を教え新幹線の乗り方を教えた
小山には止まらない新幹線もあるからだ
そこで間違うと通りすぎてしまう,その確認が必要だった
ただその人は通信のタブレットをもっていてそこに地図が出てくるのでそれで説明できたベトナム人でも今はスマホでもタブレットをもっているのは時代である。
何か連絡するのに必要になったからである。それは携帯とは違うのである。
その人は今日行くのではなく後日だった

外国人だと無人駅になると説明がむずかしくなる,でもあの人はなんとか日本語が通じていた,英語はできない,英語ができればもっと通じたとなる
一年いれば感である程度わかるようになる,若い人は順応性が高いからである。
自分は50代で海外旅行してひどいめにあった
ベトナムにもホーチミンからハノイまで電車で行った,あそこは高低差がかなりあったみたいだ
ベトナムは人間は親しみ安く面白い所だと思った,だから親近感があった

最近増えているのは中国人はフクソウとかで前から若い女性がいた,今もいる,中国人はめずらしくない,仮設の食堂にも中国人の女性が働いている,ただ中国は日本より都市部では豊かな所がでてきているから事情が違ってきた,ITでは日本より進んでいる
紙幣を使わずにスマホでしているから進んでいる
10年一昔というけど世界もこんなに変わるとは思わなかった
自分が行った十数年前はひどい貧乏国だったのである。電車でも家畜のように人間が積み込まれていたのである。命懸けで電車に乗っていたのである。
この辺にきているのは旧満州地域の人である

ベトナム人が増えたのは中国人は日本に来てもそんなにメリットがない
ベトナムはまだ貧乏だから日本に憧れて来る,でも問題はそうした貧乏国の移民はその生活の落差に気づいて犯罪を犯す,かえってその差を具体的に感じてそうなる
だからその人はなんとか新幹線が高いから普通列車で行こうとしていたのである。
それは日本人でも同じだった,知っている人は金がないから普通列車で帰ってくるという旅行なら普通列車でもいいが用事で行くとなるとめんどうである。
まず普通列車で小山まではあのベトナム人は行けない,それでしかたなく新幹線で行くとなった

もう一人地元の青年であり親が大工だけど最近仕事がないという,全般的に震災からの仕事が減っている,仙台の業者が100百万でユニットバスを作ってくれた,高速で来ることができたから進出してきた,イワタニガスでは二百万かかると言っていた
そこの会社は良心的でありいい仕事をしている
だから地元では競争できないということもある
ただ建て売り住宅のようなのは安いからそれなりのものだというのもわかる
土地こみで2000万くらいでも売っていたからである。

今日は混乱した一日だった,国際化した田舎駅でもあった,あういう時は案内がないと困る,これからは風で遅れやすくなるので案内が必要になる
駅員がいないと困るのである。ただ自分は一日のうち一時間いれば長い方である。
今日は混乱したので二時間くらいいた

電光掲示板の案内はゲームのように電車が動くのがアナログでありかえってこっちがわかりやすい,新地駅を出て次は相馬市にきた,日立木に来たとなりわかりやすい,これは時計の針のよう地アナログなのである。
一方数字はデジタルである,このデジタルの方がわかりにくい,なぜなら何分遅れたとかあっても電車がどの辺まで来ているかわからないからである。
アナログ表示だと電車が動くからわかりやすいのである。
数字だと遅れた時間も変わりわかりにくいのである。
つまりアナログ表示も必ず必要であり人間はデジタル表示だけでは頭に入らないのであるだから自動化した無人駅からはいろいろ考えることがあった


タグ:ベトナム人

青年に与える詩 (未来を担う若者よ(詩)


青年に与える詩

(未来を担う若者よ(詩)

若者は竹のように真っ直ぐに伸び
柔軟に風にしなりゆれて伸びる
青々と竹は空に伸びようとしている
老木はその地に深く根を張り
その土地のことを語り朽ちようとしている
様々なものが交じり生きる
子供も若者も老いも老若男女が
若者よ,素直に伸びよこの大地に
その未来を築くは若者なり
汝のすることを省みて正せ
その成すことの良しや
ただ唯々諾々と上の者に従うや
欲にまみれ世知にたけた保身者に
時に雷雲となり電光となり
この世に睥睨する者を震撼ならしめよ
若き力は未来に向かって噴出する
老人は過去を語り死んでゆく
若者はこの地の未来をにない生きる
しかしたちまち若者は老いる
若者よ,悔いなきを生きよ
汝らが未来を築く者にして
今上にあるものにあらじ
この地をいつくしめ
汝らが生きる地をいつくしめ
金のみならず誠と美のある地
今苦しくも若者は未来を担う
その苦しみはやがて喜びになるらむ

森には老木あり多様な樹の種類がある,森は杉だったら杉だけの森はなかったのである。杉林になったのは家の材料などとして使うのに良かったから杉という人工林にしたのである。
松でも海岸の松原は稲作で潮風から防ぐものだった,これも人工林だったのである。
それで津浪で根こそぎ流された,松は根を強く張らないものだったのである。
津浪には弱かったのである。竹の方が強かった
それは人工林になっていたから根こそぎ津浪で流された

森に老木がある,それもまた人間社会とにている,若い樹だけではない,老木も森にあるそしてそれは何かを語るのである。その老木も森に朽ちてゆき森に還る
人間の一生をふりかえると若いときは大事だった
ここをきりぬけないとその後もうまくいかない,つまり若いときはその後の人生の方向を決めてしまうからである。
人生は長いといったけ実は30までで人生は決まってしまう
仕事している人でも20代で身につかなければ仕事をできる人にならないというのもわかるそれからチャンスなど何度でも人生が長いから来ると思っているが実際は一回だとなる
一回のチャンスで人生が決まる

だから青春時代をどう生きるかで人生は決まるともなる,その後の人生は余祿みたくなってしまう。
ただ一方で若いとのエネルギーは無益に消耗しやすいのである。
ありあまるエネルギーがあってもそれが欲望も大きくなるからそれに費やされてしまう。そのうちエネルギーが消失してしまうのである。
まず若い内に宗教だったら求道しなければあとはできない,老人になって求道はできないその時はすでに時遅しになっている

その時大事なことは不純な動機をもたないことである。若い内は一途に求める
それもそこに打算とかそうしたものがない,まっしぐらに突き進む
確かにそこは汚れた場でもそうした真っ直ぐな心をもっていれば汚されない
つまり人間は動機が大事なのである。宗教になれば特にそうである。

この世は暗黒の世界である。それは今だけではない,常にそうだったのである。
この世は変わらないというとき人間は変わらないからである。
確かに技術的に進歩したとしても人間そのものは変わっていない,だからこそ諺が未だに生きていることでもわかる,金の切れ目が縁の切れ目というとき全く今と変わりないからである。進歩したからといって人間の欲が消えるわけではない,それで電子空間でも犯罪が起きてくる,技術が進歩しても戦争はなくならなかった,弱肉強食の世界は変わらなかったのである。

若いときどうせ世の中とはこんなものだと悪に染まっても平気になることである。
銀行員でも何か投資信託などをすすめるのが客にとっていいものなのか?
そういう疑問をもつ,それはいろんな場でそういう疑問をもつ
カルト教団などに入ってもこれが宗教なのか?そういう疑問は若いとき必ずもつ
でもそんなものだと悪があっても正さないし染まってゆく
そうなるともうそこで人生は曲がり曲がった方向に向かってゆく
そこで時間はたちまち過ぎてすぐに老人になって後悔するだけだとなる

まず人間で一番無駄にしているのは時間である。時間などいくらでもあると思ったがたちまちなくなる,何してもなくなる,後は死だけが残されるとなる
もし老人の視点からふりかえれば時間を無駄にしなければ何者かになっていたなとみんな思う,時間の使い方が悪かったから何も意義あるものを残せなかったとなる
何か研究するにしてもそうである。時間がなくて成果があげられないで終わる
みんな金,金,金だけど時間をの大切を感じている人は少ないのである。
そして過ぎ去った時間は取り戻せないのである。

これからは日本は苦しい立場になる,それにしても人間はその時代時代を生きるのでありそれは宿命である。戦争の時代は若くても死ぬほかなかった
江戸時代は江戸時代を生きた,貧乏でもその時代を生きた
戦争が終わり高度成長時代の団塊の世代は恵まれたと言われるのも時代なのである。
この辺が津浪や原発事故で苦難を強いられたのも時代だったとなる
それをになってこれからの人は生きる他ないのである。
ただそれがすべて悪い方向に行くかどうかはわからないのである。
なぜならこれからの若い人が地域を国を担い生きるからである。
その若い人たちが作ってゆくものだからである。
今は苦しくてもその苦しみを担うことで未来が開けるかもしれない
それで原発事故で町や村から避難した人達でもそこに残った若者はそういう苦難を強いられてもそこで踏ん張れば未来を作るものとなるかもしれない
それができるのも若い者であり老人にはできないのである。
老人は昔を語るだけだとなるがそれも後の者に教訓を残してゆく
そういう繰り返しが人生であり歴史だったともなる

タグ:青春時代

2018年01月26日

隠された湖(A hidden lake in a forest)

隠された湖(A hidden lake in a forest)

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隠された湖
森におおわれて
そこに行く道はない
切り立つ山が聳え
太陽がそこに微笑み輝く
湖に微かな波紋
その底に沈んでいるものは何か?
 誰も知らない


A hidden lake
Covered in the forest
There is no way to go there
A standing mountain rises
The sun will smile there and shine
A faint ripple in the lake
What is sinking in the bottom?
no one knows

タグ:LAKE

2018年01月25日

医療介護は負担しきれなくなる (手厚すぎるからいいようでも負担が増えてもたない)


医療介護は負担しきれなくなる

(手厚すぎるからいいようでも負担が増えてもたない)


その人は今度は78才の兄が埼玉で脳出血で手術するから電車賃を要求する
前も親戚が死んだら要求する,何かその人の親戚のために金を払わせられる
何も金をはらわなくてもいいじゃないかとなるから自分が悪いとなる
自分にも払う理由があるからだとなる
その女性は二回離婚しているし極貧であり知的障害者の子供をもっている
ただ知的障害者でも仕事しているから軽いとなる
その人自体がそもそも人の世話をできない状態なのである。

でも埼玉の福祉の人が手術に立ち会う人がいるからなってくれということで連絡がありわざわざその福祉の人が車で迎えに来るという,ただ帰りの電車賃もないから金をくれとなる,そうして常に一万と二万が出てゆく
そんなことしなくてもいいというのはわかる,その女性は会話力があるから払うことになる,その人の不孝は容姿が悪い,若いときだったら近づきたくない,でも老人になってからは違う,容姿よりその女性に会話力があるから払うとなる
容姿はだめでも今になるとその会話力で得しているとなる

ただ別に自分はその兄弟とかと何の関係もないし義理もないのである。
でも福祉の人が来るということでその人は常に金はない
それで払わざるをえなくなる,帰りは上野から普通列車でいわき市まで来るという
それも上野まで福祉の人が送ってくれという
そこまでしてくれるのか,そうなると福祉に金も手間かかるなと思った

その兄は身寄りもないから福祉の世話になることになった,また呼ばれるのではないかと聞いたら今回だけだという,普通は別に福祉の人だけが手術の立会人になることができるそれにしてもわざわざ埼玉から迎えに来ることは手間であり金もかかる
そういうことで負担になると思う
何か今や高齢化社会ではいたりつくせりの医療とか介護は限界にきている
それは数は多すぎるのと負担になるからだ

ここでも社会の負担,税金が払われる,そして手術の負担,それからまた介護の負担となる,生かすのはいいにしてもそれが自分も直接わずかでも負担したことになる
今や犬猫を自治体で殺処分しないと決めたが大量の引き取り手のない犬猫が保護されてもう対処しきれなくなっている,殺処分は残酷だからかわいそうだからとなったのだがこれもまたかわいそうだからだけでは野良の犬猫問題が解決できない
それは人間にも通じているのだ
つまり数が多くなるともう医療でも介護でも負担はできない,限界が来る
かわいそうだというだけでは犬猫でも人間でも対処しきれなくなっているのだ

ただ身寄りがない人が手術したり入院すると本当は怖い,それを自分は経験している
生活保護の人が手術しなくていいの手術されて病院の収入になっていた事件があった
つまり病院とかは無機質な非情な場でありそこにいる医者でも看護師でも実際は情はなく怖い存在なことを知った
それだけではない人間は弱者になったとき本当に怖い,そこにつけいり虐待もあるし
金をとることもある,老人は弱者化したらそうされやいのである。
情なき世界ではそうなるのである。

それで西部邁が癌になり入院したら病院から出れなくなるから自殺したという気持ちがわかる,入院することは刑務所に入ると同じなのである。最後は延命治療とかされて生き地獄になる,病院という場は怖い場所なのである。
そこに人間の情が通わない場所だからそうなっているともなる
病院でも何も病気になったら診てもらい家に帰るとか一時的入院ならいい,病院で死ぬということが怖いものがある
ただそれでも家族が通ってくる短いものならいい,自分の母親は一カ月くらいで別に苦しまずに百才で死んだからである。病院でも一カ月くらいで死ぬのはいいとなるのかもしれない。ただそれでもそこは怖い場所である

そもそも老人の場合は直らないということが多い,寿命だということが多い
それを引き延ばしても胃ろうとかしても苦しいだけだとなる
でも医者にしてみればそうせざるをえないのである。その人を生かしていいのかもうこれで終わりにしていいのか,安楽死させていいのかということがわからないからである。
だから西部邁は妻に二年前に死なれたとかあり介護されたくない,入院するのは嫌だとなったのかもしれない,でも息子もいるし他に娘もいたのかめんどうみる人はいたのであるそれでなぜ自殺したとのか理解しにくいのである。
ただ元気な内に死にたいという願望があった,そしてそのように死んだ
その死をどう考えるかはいろいろである。
都築詠一氏の死は自殺ではない,プログを死ぬ一週間前くらいまで書いていてそれですぐに死んだことには驚いた,最後のメッセージを託していたプログだったのである。
その死は自殺でもない,最後の力をふりしぼりプログを遺言として死んだともなる

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スポーツ日本


病院から出られなくなる

病院で死にたくない

こうここで書いているからそれは自分も経験しているからわかるのである。
それが自殺の原因だったということがわかる,それは本当に切実な問題なのである。

最初は車両点検で30分遅れその後は風で運休?


最初は車両点検で30分遅れその後は風で運休?

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12 時45分で運休になる

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今日はまた改札口のスマホ用の自動改札機を直す人がいた,この前も直していたのである乗車証明書のも直していた。
何か駅というのはこうした点検が本当に多い,結構故障するものだと思った
これはソフトの不具合が起きたためである。

今日は電車が遅れた,そこで一時間以上駅にいた,5人くらい乗る人がいて案内した
遅れるときがわからなちなり困る,どれくらい遅れるのか?
それが問題になる,でも原町駅にインターホンで問い合わせて良くわからないとなる
時間は正確にはわからない
最初は車両点検のために遅れると電光板にテロップが流れた
だから風のためではなかった,30分遅れで電車がきて車両に雪ついていたから雪のために車両点検になったのだろう。

その次運行停止になったのは運休になったのは風のためだろう
車両点検では運行停止にならないからだ
車両の点検が終われば正常どおりになる
でも風の場合は一日吹いているので運休になる
風がやむまで運休になると長くなるから困るのである。
急いでいる人は原町からバスで行ったりした
まだ仙台までのバスは出ているからだ

いづれにしろこの遅れのために長く駅にいた,今日は寒いから暖房もないから待っているのは辛い
新地駅はエアコンがあるからこういうときは恵まれているとなる

以前として仙台行きと原町行きがわかりにくく聞く人がいる,それからタクシーの案内がドアをあけた所にあるのでほとんどの人がわからない,そのことをタクシーの運転手には言った,それが一番聞かれるからである。
この前は小池のコモドインに泊まる人に聞かれた,コモドインに泊まる人はそれなりにいる

その後は運休になっていた,やはり風の影響だろう。この運休は風が吹くとあるから困るのである。

清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・ この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬


清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・
この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬


国の除染事業を請け負った清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬 FNNの取材で明らかに・国が民間企業同士の取引内容を精査できれば、除染費用を大幅に減らせる可能性がある 



震災利権を 
暴力団とかおいしくいただいてるもんな

国と自治体の除染費用は、東京電力に請求することになっていて、税金や電気料金が当てられる可能性がある。

連帯だの絆だの反対しづらいお題目を唱えて 
無理矢理に増税しといて 
草野球の応援に使われるてるとかありえん 
役員報酬も異常すぎる 
国会で必ず取り上げるべき問題だな

清水建設の名前は出るのに、問題の下請け企業の名前は出さない 
福島の会社だから忖度かい? 

原発作っては補助金で儲け 
原発壊れては補償金で儲け 
除染作業ではピンハネで儲ける 
それが福島県民

この会社の清水建設への依存度がかなり高いなら、清水の人間の関与なしにこの利益率や役員報酬はあり得ないな。 
当然、そっちへ金の一部が還元されているのだろう。 
清水建設だけでなく除染事業を管轄している国の関係者も絡んでいるのかもしれんが。 
そうだとしても利益率の異常な高さは何だかなあ? 
利益をもっと圧縮して何らかの経費名目で清水や国の関係者に還元する方がありそうだが。
43億円役員報酬の行き先を精査するととんでもないことになるよ 
国税局が動いてるだろうから政治家とゼネコン関係者の吊るし上げは時間の問題 
楽しみにしてたらいい

105億の売上で、役員報酬43億、利益が56億で残り6億。 
100人以上の除染作業員がいるようだが、仮に従業員100人として、6億全部を人件費にあてたとしての一人当たりの人件費600万。

半分近くが役員報酬って 
全員天下りだろう 
あんたら絶対バチ当たるよ


莫大な除染費用がどこに流れたのか?それは地元だったら下請けの会社でありその役員だった,官僚とかにも流れたし自治体職員にも流れたのかもしれない
第一こんな大きな金が役員に流れていたことの驚きだけど建築関係では普通にあるらしいだから地方で景気がいいときは豪邸が建っているのは建築関係だというのはわかる
現実にこの辺でもそういう人を知っているからである。

そして除染している作業員には回らない,上でピンハネされるからである。
その除染作業をしていた人を知っている,それが清水建設だったのである。
清水建設はいろいろと問題起こしていたのである。
建築関係には必ず暴力団が入ってくる,それで暴力団の組員らしい人が「おいしい仕事」だと言っていたのはそのことである。
芸能関係と暴力団,スポーツ界と暴力団,ゼネコンや建築土木関係と暴力団,自民党と暴力団・・・・なんかこの辺が必ず関係している
原発でもあそこで働かせられるのは暴力団が手配している
それですでに10人くらい現実に死んでいる,それも公表された分である。

役員報酬というとき官僚の天下りでもそうだがこんな高額になるのか?
時代劇で小判が積まれるのとにているのか?そういう構図は変わらないのか?
そして作業員には10分の一くらいしか金はやらないとかなっている

これは地元の人も怒るべきだ!

なぜなら除染は本当に効果あるのか?それも疑問だった,なぜこれほど除染はおいしいのか?それは建築物を建てるとその資材とかいろいろかかるのが目に見える
除染は何しているのかも良く外から見てわからないのである。
そこで手抜きしても全くわからない,放射線量を計るがそれもいいかげんなのかもしれない。現実に大成建設が設置したモニタリングポストの下は土をとっているから低いが回りは倍以上あった,そういう不正みたいなことが行われていた
だから飯館村では比較的まだ高い,でも0.7となればその倍と見なければならない,すると高いとなる,何か放射線量は数字でありまたごまかしやすいのである。
今溜池の除染をしている,これも回りから雨降れば泥が流れてまたたまるのだからどれだけ効果あるのか疑問なのである。

その除染の費用はどこに流れたのか?ゼネンコであり暴力団であり地元の建築土木関係であり地元には恩恵がなかったともなる,除染したというがその効果が疑問だからである。そして役員に億の金が回っていたというのも驚きである。
除染も実際は効果もないしずさんだがその金もずさんに使われていたのである。

そもそも原発は何か莫大な金がかかっていた,それができたのは国民の税金だから湯水が湧くように使われた,東電に要求しても後は国に東電が要求して国が支払っていた,
その国の金とは国民の税金なのである。
この構図は確かに自民党だとゼネコンの結びつきが前からあったからだというのもわかるだから今度市長になった門馬氏は自民党と公明党である。するとそうした不正を見逃すということもあるのか?
そこに確かに今回の選挙の問題があった。ただ自分は地方自治にはそうした国の政党より身近なその土地に根ざした問題の解決にとりくむべきだと思っていた
それで桜井市長がそうしたところに政治力を発揮できなかったのと思い不満だった

前にも書いたけど小高と鹿島の対立は補償金問題にあった,ある程度不満がないように配分すればこんな深刻な対立にはならなかった
実際に清水建設とか地元の会社にそうした巨額な除染費用が流れたからだ

地元の会社はその金を役員に回すのではなく地元に回せ!

お前らだけがうまい汁を吸うのか?

億の金が入って笑っているのか?

地元の人はこれは怒るべきである。それは原発が建ったときからあった
それで船主は事故前も多額の補償金を東電から特に船主はもらっていた
それで原発御殿が建っていたのだ,それで回りの人はうらやましくねたんでいたのであるそれで津浪が来て罰があたったとかその近くの回りの人が言っていたのである。

いづれにしろ桜井市長はこうした南相馬市内の対立に手を打てなかった,それが南相馬市の一番の問題だった,今回起きた問題もそうである。
それは自民党が政権にあるからだともなるのか?
やはり南相馬市長が政治力かないからでありいくら野党系でも市長にあれば権限があるからできたともなる,それで選挙に敗れたということもある

地元だと金にうるさい,田舎だと本当に金にうるさい,するとこうして除染でおおもうけした人への風当たりは強くなる,なぜなら地元に住んでいるからそうなる
それが船主が今は針のむしろに座るようなことになってしまった
あいつらだけが原発事故前もいい目をしてその後はいい目をして真っ先に立派な家を建てたとかなる,その不満は本当に大きいのである。
だから今回のことでも地元の人の不満はその会社に向けられるし経営者に向けられる
そういうことは地元では怖いのである。
東京に社長がいる場合はどんな暮らしをしているかわからない,そういう社長が東北サッシでも駅に来て社員が迎えにくる,そういう場合は地元に住んでいるからねたみの対象になりにくいのである。
地元に住んでいるとそうはいかないのである。

ともかく莫大な除染費用は地元に回らず復興の役にもたたなかった,除染は多少は効果があってもその莫大な金をもっと地元のために利用した方が良かったからである。
この辺は相馬市でも人口がへり相馬市と南相馬市は事業を継続できない人が多く
廃業が多い52市町村に入っている
だからあと3年して国からの支援もなくなる

その時どうなるのか?それが恐怖である。全体的に衰退して市町村すら維持できない状態になるかもしれない,すでに浪江町とか飯館村は復興がむずかしい
南相馬市はなんとかもちこたえても厳しい状態になる
地銀も経営が苦しく廃止になる,地元の会社の後ろ楯になるものもなくなる
その時この辺はどうなるのか?
そういうとき一会社が除染でおおうもけして役員がその金を懐に入れていたとなると地元の人は許さないだろう。それで地元に住むということはそういう怨嗟の目の中に生きることになるから苦しくなるのである。
第一補償金問題でもそうだった,小高でもなぜあんなに優遇されているのかと鹿島の人は延々と言っていたからである。
小高には当然補償されていいものがあった,ただ問題はそうして田舎では不平等になることが許されないのである。
ただ本当の問題は莫大な除染費用などがそうして地元の復興に使われなかった
みんなゼネコンとか暴力団とかに吸い上げられて復興には使われなかったのである。


タグ:除染
posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月24日

小国の地名が多いのはなぜか? (山形県ー福島県(伊達市)→青森県の旅)


小国の地名が多いのはなぜか?

(山形県ー福島県(伊達市)→青森県の旅)

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小国町雪に埋もれて遠きかな電車に乗るも数人のみ

バスをおり小国とあれや梨の花一時おりて我が歩むかな

青森のトンネルぬけて遠きかな小国通るや雪に埋もれぬ

二里三里の険阻な山を越えなければ入っていかれない川内(こうち)が日本には多かった、それを住む人の側ではあるいは小国と読んでいた

 隠口(こもりくの) 泊瀬小国に 妻しあれば 石は履ふめども なほし来きにけり

 大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。

万葉集時代から小国という地名があった,なぜ小国が多いかというと日本は山国でありそうして隔絶された場が多いからである。
そこで自給自足的生活をしていたことが長いのである。

この万葉集の歌などそうである。隠口は隠国でもある,初瀬というとき川であるから川の上流が泊瀬小国になる,初瀬川が流れて長谷寺がある奥が隠国なのである。
そういう地形の地が日本には多いのである。

小国茶畑(バス停)とかがあってそこにおりたのか?福島市にバスでゆくとき一時おりた
そこは山間の中の平坦な地である。ただここでは小国の領域が広いのはなぜなのか?
どこか一カ所が小国という地域でそれが全体に広がったのか?
ただここは山を越えて平坦な地であり福島市に向かうとまた山でありそうした小盆地は日本に多いから小国は地形に由来している

山形県の小国町は町の何しているが実際は一地域の名でありその小国を姓にした武士がいる,土着した武士である。そこまで米坂線で行った,この電車は閑散として数人しか乗っていなかった,その時雪に埋もれた時だった,別にその時は山を越えることはなかった
小国町に入ると山がありその山を越えた地域に隠された小国があり小国町となった
一小地域が字地名が広い地名になる,第一大和(ヤマト)という地名は奈良の小地域字地名のようなものが日本を現すようになったことでもわかる
地名の基は村でありそれも字地名のようなものが村の名となる

市町村合併するとこうした歴史が消失することがある,この辺でも

双葉郡に属するが、1896年以前は標葉郡に属していた地域である。元々は新山町(しんざんまち)と長塚村(ながつかむら)であったが、これら2つが1951年に合併して標葉町(しねはまち)となり、その標葉町が1956年に改名して双葉町となった。

この新山町は自分の父親の勤めていた酒屋があった所である。
長塚駅もあった,双葉駅はなかった,何か合併するとこうして昔のことがわからなくなる原町は原町村があり一騎だけ野馬追いに一応でているが小さな村だった
そこが雲雀が原があり家はなく原っぱだったのである。それが原町市となり合併して南相馬市になった
相馬市ももともとは中村だったのである。いわき市ももともと平駅があった
いわき市というと広すぎる地域になる
だから請戸の篤農の農家が野菜を平に売って財を築いたというとき平は街になっているところであり今のいわき市のように広大な地域ではなかったからまぎらわしくなったのである。

青森県の小国も遠かった,黒石市からトンネルをぬけると小国であり閉ざされた所である。そこから温川温泉の山荘が奥にありそこには一軒しか家がない,その山荘だけである
ただそこから十和田湖に道が通じていたのである。十和田湖が近かったのである。
そこは隠された秘境だともなる,そこに二日泊まった
黒石の街なかには古い小店通りがありおもむきがあり街中に温泉もあった
青森は独特の情緒ある県である。

隠口(こもりくの) 泊瀬小国に 妻しあれば・・・

これが万葉集時代になるとどういう感覚になるのか?そこはまさに隠(こも)る国である
今の感覚で読むことは全くできない,その妻は本当に奥地に隠されて滅多に会えない所に住んでいたのである。山を越えて分け入り歩いて行くほかないからである。
道も悪いし苦労して行かねばならない道だったのである。

今何かみちのくというか東北的なものがどこに残っているかというと青森県かもしれない奥地の秘境という感覚になる,本州の最果てということでも魅力がある。
福島県は東京に近すぎるからそうなりにくいし平泉でも東京から近すぎるのである。

冬の旅は雪に埋もれているから心に残りやすいということかあるかもしれない,雪が積もっているからそこにも人が住み暮らしがあるということで感慨深いものになる






タグ:小国の地名

2018年01月23日

会話なき時代(西部邁の語り) (余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


会話なき時代(西部邁の語り)

(余裕がないからできない,営業は会話力が必要)


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●西部邁の語源論

西部邁が死んだのでyoutube で彼の話を聞いた,同じようなことを感じていた
若い人とも会話ができない,彼は良く語源を言う,学者らしいとなる
この人も海外留学経験があるから深い見方ができる
海外経験ある人がなぜ深い見方ができのか?異質な文化を経験して日本文化を見るからその相違を知るからである。それは外国に暮らしてみないとわからないのだ
旅行したくらいではその深い所がわからない,自分はそこで理解力が不足している
武田邦彦氏も海外であの人は仕事していたから深い見方ができる

その語源論だがビジネスがbusyだというのは面白い,ビジネスマンは忙しいのである。

(negotiation)の語源は

イタリア語で、「店」は bottega のほかに、negozio (ネゴーツィオ)といいます。

元はラテン語の negotium で、neg は「否定のNo」、otium は「暇」ということで、「暇がない」→「忙しい(仕事)」→「商売」となったようです。

西部は常に語源から語ることがあった,語源を調べるとその本質がわかることがある
昔からあったこと起源になったことが現代までつづいていることがわかる
busyとネゴシェエーションは共通した言葉だったのである。

会話力がないというとき今は会話ない社会である。物を買うにしてももうコンビニでもスーパーでも自動化する,すると人間そのものがいなくなる
ロボットが店員となっているとかもうすでに実験は始まっている
人間を雇うことはコストだしめんどうだからそうなる
雇う方にすると人間にはいろいろな要求があるからロボットで機械ですませたいとなる
かつての市場は物を売る場だけでなく人々が遠くからも集まり生の情報交換したり結婚相手を探したりとそこにも物を介して人々が交流する場だったのである。
今は物だけが重点になりそうした人間的なものが省かれる,効率化されるのである。

人間は文字がないとき何でももって伝えたのか,それは言葉があっても語ることによって伝えた,音声が先であり文字は後にできたものである。
バベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなったというときそれは一つの音声だったものが多くの音声になって通じなくなった,音声で話で語ることにより人間は通じ合っていた
話したり語ることはそこに感情的なものがかなり入るから相当に違ってくる
学問でも問答であり師と弟子が直接言葉を交わして真理を探究したとなる

●機械によるコミニケーション方法の変化

現代のコミニケーションの方法はそうした生の会話でのコミニケーションから急激に変化した,最初はラジオでも絶大な力を発揮してナチスの全体主義はラジオから生まれという人もいる,今ならラジオはにそんな力があったのかという疑問になる
ラジオの方が早かった,戦争集結の天皇の玉音放送もラジオだった
ラジオで戦争が終わったということを国民は確認したのである。
次に映像の時代になり映画全盛時代になり子供のときどこにも映画館があり見ていた
ニュースも映画館の時代だった,それでニュースでも汽車で電車で運んでいたので遅くなっていたのである。
その次にテレビ時代になったのである。
テレビの影響も絶大だったのである。テレビは第三の権力と言われるほど力をもった
映像の力は大きいからである。
マスコミと映像の時代が高度成長で全盛期を迎えたのである。
それはNHKの全盛時代でもあった,みんなテレビに映るならなんでもかじりついて見ていたからである。

それがインターネット時代になるとその影響に翳りが見えてきた,テレビ自体を見ない人もいる,インターネットは分散するメデアなのである。一局集中のメデアではない
だから最初何かアメリカで地方新聞なのか本なのか出版したら3000部売れたとかで驚いたという,そういう時代があった
だからみんなが百万以上の人間がテレビにかじりついている時代は異様だったともなる
ただそれだけマスコミの影響が大きく作用されたのである。
マスコミの宣伝力は絶大だから企業は宣伝の媒体として莫大な金を払ったのである。
東電や電事連でも800億とかなんとか払った,だからこそマスコミと一体となり安全神話は作られていた,原発が危険だと言わせないようになっていたのである。
それはメデアの力が大きかった

会話というとき何か変なのだけどインターネットは文字でもってパソコンの画面で話し合うことが生まれた,これは全く対面的ではない新しい会話の方法だった
これは年配の人にはなじめないものである。そんなことで会話できるのか?
それはパソコンという機械がそういうことを可能にした
ただそこでは対面しないのだから本当に会話できるのか?コミニケーションがとれるのかというと疑問になる,行きずりの人とちょっと会話するという感覚になる
ただ一応会話的なのである。インターネットは何かテレビの一方的な放送とは違って会話的なところがある
だからこそ西部邁と本はあまり読んでいないがちょっとした会話を死んだけどする
あの人は会話力があり話しては面白い人だったとなる
また本を読むのとはそうしたちょっとした会話するのとは違う。
武田邦彦氏もyoutube で放送しているから面白い,あの人も話がうまいなと思う
ただやはり深いところになると本を読まないとわからないかもしれない
しかし本を一冊読むのは今になると疲れるのである。本を読むのは相当に頭脳を酷使するのである。だから老人になると長編は読めないのである。

●営業は会話力がないとできない

ともかくビジネスというと営業があるが営業力は会話力になる
地銀の人は押しが強いけど会話が成立しにくかった
それはなぜなのか?相手は一方的に自分で決めてしまうのである。
説明もなく決めてしまう,自分は言いたいことがあったがプロなのだからと思いまかせていた,でも株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのは銀行にとって投資信託が手数料がとれるからだと今では思った
ただその時の判断はこれほど上がると思わないからいちがいに悪いとはならない
ただ明かにその銀行員は自分のことを手数料をとれるものを選んで投資したのである。
それよりそこでちょっとでも話すこと会話することが交渉することすらできなかった
それはネゴシエーションできないのは忙しいからだとなる
相手にも余裕がない,成果をあげる,ノルマを果たすということに追われるからそうなる何か歓談するとかとはあまりに違っていた
それでもやはり相手が若いというときそうなりやすいから一方的には責められないことはある

変な話だけど自分もカルト教団のセールスマンをしていたことがある,そこでも目的は一票をとることであり数を集めることである。それは創価でも幸福の科学であれエホバであれカルト教団は同じなのである。ノルマとして会員にすることを課せられているからにているのである。
それは何のためのなか?それは上から指示されてしている,選挙運動だったのである。
会員を一人獲得することは一票を獲得すると全く同じだった
そこではだから折伏とか強引に会員にする手法がとられたのである。
何かビジネスでも営業でもノルマが課せられているから相手に余裕がないから会話が成り立たない,とにかく投資信託を買わせて手数料を得るとういことが先決でありその過程がない、だから勝手に決めて勝手に株も売る,ただ自分はそこでなぜ株を売るのですか,今上がっているのにと言いたかった,それもできなかった,会話ができなかった
こういう営業の仕方はまずいと思った,性急すぎるのである。
それは男女間でも会話より肉体関係を男性は求めるのともにている
そこで男女間の会話が成り立たなくなる
会話が成り立たなくなることは最終的にどうなるか?
全体主義ファシズムになる,カルト教団がそうである。そこでは会話などない
一方的にその教義なりを押しつけて会員を増やすことしかな
そして最後はハイルヒットラーですべてをかたづけるのである。
現代の大衆社会はそうなりやすいのである。テレビメデアなどもそういう大衆社会の煽動役としてあった

とにかくその人だけではない,今や会話ができない,駅でもみんなスマホを見ていて会話ができない,それも問題だと思った,会話が年齢に限らずできなくなっているのだ
そこに互いの意思疎通がなく問題が生まれる,人間関係が築けなくなる
ビジネスでも営業だと会話力であり融和的な人間関係を築くことである。
それが会話が必要なのだがそれができない,営業は相手の話を聞くことだ,会話はまず相手の話を聞くことだというときそれができない,それは若い人はそういうのが苦手だとなるからしかたないということはある
自分がそもそもビジネスを語ること自体おこがましいということはある
ただそういう人とじかに接して考えざるをえなくなった

とにかくなぜ会話が成り立たないか?何か余裕のない人はそもそもその前提として会話が成り立たない,自分の来た人達とは会話が全く成り立たなかった
それはなぜか?その人たちただ自分から金をとることを目的としていたからである。
そうなればめんどうな会話など必要ない,もう盗めばいいんだとなる奪いばいいんだとなる,いくら相手が金持ちでもそうなると敵対関係しかないのである。
やるかやられるかの関係になってしまう
でも金持ちと貧乏人でも会話はありうるのである。その女性は会話力がある
ただ金を何かと要求する,でもいちいち何に使うのだと会話がある
するとそうなのかと払ってきたのである。それは大きな金でないからできた
後の人は百万以上とかの金であり失った
その女性は問題があったが会話が成立していた,金に困っていることをあからさまに訴えるにしろ嫌にしろその女性とだけは会話が成り立っていたのである。
金持ちでも貧乏人でも会話が成り立てばそこに融和が生まれないこともないのである。

●会話が対話がないと喧嘩になり暴力になり戦争になる

人間は会話を対話をつづける必要がある,それはかなり執拗にしつづける必要がある
もし会話が成り立たなくなると喧嘩になり戦争になる
双方ゆずらないと戦争になる,だから会話は交渉は人間にとって大事なのである。
会話とは双方に協力するためにするのであり対立するためにするのではない
対立点があっても和解する方法を見いだすために会話するから会話は大事なのである。
会話が成り立たないとき喧嘩となり犯罪となり戦争となり人間関係が破綻する
それが悲惨な結果になる,そういう自分は付き合いが苦手で会話しなかった
一種の閉じ籠もり生活を30年とかしていたから異常だった
こんな生活を良くしていたなとふりかえると思う
自分自身が会話しなかったのである。
旅するとき何か会話がむずかしいのである。ゆっくりしていられないということもある
いろいろな辺りの状況もわからないということがある,無人駅を見るとそこに無人駅で間に合うようにできている,慣れた地元の人はわかるが本当にわからないのである。
だから外から来た人には無人駅は困ると思った

情報社会に欠けているのは何か?確かに自動化無人化するときそこにさらに会話がなくなり索漠とした社会になるかもしれない,情報とは情に報いるということである。
情報は会話で得るとすればそこに情を通じさせることがある
ところがスマホとかインターネットの会話では情は通じない,無味乾燥な文字の羅列である。それも役立つものがあるがやはり情が欠けている
機械とかインターネットとかデジタルやロボットの世界の問題は情に欠けることなのである。だから人間を豊かにしないということがある,それが進歩してもマイナス効果となる何か人間の社会は進歩すると同時に必ずマイナスが生まれるのである。
江戸時代が貧乏であり暗黒面があってもやはり情に厚い社会であり良かった面もある
情報は対面でしか得られない時代だから情に報いるということがあった
人間社会は進歩する技術が進歩することは何かをまた失うことである。
車だと光りだとか風とか自然をシャットアウトして感じなくさせる
自転車は不便でも自然の風と光りとか直接感じるのである。
だからこの世の中進歩がすべていいものとして反映されないのである。
そして会話というとき介護では特に必要になる,でも老人と会話できる人は若い人にしにくい,世代の相違もあるし若い人には会話力がないからである。
自分は老人と会話できたのである。世代的に共感するところがまだあったからである。

ただインターネットはメデアとしては個々のメデアであり対話的会話的メデアである。
一対一と一対一〇から1000,多くても1000とかなる
プログでもそうである。テレビのように百万以上を対象とはしていない少人数のメデアである,だから直接の接触はなくても何か対話的会話的にもなっている
ベースが個人であり小地域のメデアにもなる,マスメデアは報道するのが全国放送で六局あってもみんな同じことを報道するのである。インターネットでは無数の多様なメデアになる,その地域で起こっていることはみんな違っているからである。
それで成功していたのがyoutube の武田邦彦氏であり西部のyoutube の放送も面白かったこれもインターネット社会での発言方法だった
ただ何か刺激的な映像をビデオを放送するのはテレビとにていて百万とかに見られればそうである。それはテレビと同じだった,それで宣伝効果も出て収入になっているユーチューバーがいるからだ
ともかく自分のプログでもこうして毎日書いているのはそもそも書きやすいからである。これを本に出すとかなるとめんどうになるからだ
そこがやはりインターネットのいい点である。
ただ自分の場合も一方的だということはある,何か答えるにしても相手がそれなりのものをもっていないとできない,どういう人かもわからない,そこではまた会話が深い会話は成り立たないのである。リアルの社会での会話となるとインターネットの中での会話とは違ってくる,何かそうした矛盾で異常なインターネットの犯罪も生まれている
情報のやりとりは会話でも機械を会する別なものに変容しているかそうなる



2018年01月22日

樹の思考(一本の樹の立つ地(詩)より)


樹の思考(一本の樹の立つ地(詩)より)


一本の樹の立つ地

樹は大地を信頼し
徐々に深く根を張る
静かな冬の日に信頼を深める
樹は大地に根を張り
その土地土地に根付く
風の日も雨の日も雪の日も
その土地に根付いて動かない
そして最後は大地に朽ちて還る
その根を張った地こそ
還るべき場だから
そして大地に抱かれて眠る
ああ その一本の樹のここにありしを
その樹はなお幻となりて立つ
その記憶をここに留めぬ
祖先の霊も地に眠る

one tree trusts in the earth
Gradually deeply root
Deepen trust on a quiet winter day
Trees are rooted in the earth
Rooted in the local land
Wind days, rainy days and snowy days
It takes root in the land and does not move
And finally decaying on earth grounds
The ground that has established its root
Because it is a place to return
And sleeping in the earth
Oh, that there is one tree in here
The tree still stands as a vision
It certainly keep the memory
The spirit of the ancestor also sleeps on the ground

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matukare111.JPG

樹が自分のテーマである。樹を思念するとやはり人間と通じる,人間は万物の霊長だというとき人間は樹でも石でも山でもそこに人間を見る
像で考えよというときそういう自然の事物とアイディンティティ化してゆくのが人間である。
人間は生物の一種だから人間は樹にもなる,人間が樹なのである。
神殿の柱はそれは石としても人間なのである。
こういう生は自然な命の営みである,それは営々とつづけてきたのが人間である。
また生物である,ただ生物は多様だから海となるとまるで違ったものになる
そこは常にゆれうごく不安定なのである。田から津浪が来たりするのである。
大地は全く違ったものなのである。確かに地震があり大地もゆれるから安定しているとはいえないがそれは海とは違っている,山もそうである。

人間の生は基本的に生物の一種だから命でも自然と共にあり朽ちてゆくのがまさに自然だとなる,それに逆らうことはできない,人間が死ぬことは樹が朽ちてゆくことである。
でもその樹の朽ちてゆく場所が地があらねばならない
人間は地からてありえないのである。ただ海があり天がありその志向はまた違ったものなる,地を離れて天に昇る思想があり宗教になった
だから人間は地に朽ちて終わるという思想は農業から生まれ天への志向は砂漠の民とか
草原の民,遊牧民から生まれたのである。

一本の樹が大地に信を深めるというとき何かそれは人間が農業中心になっていたらそういう感覚は人は常にもっていた,そこから二宮尊徳の思想が生まれた
農業は地を離れてありえないからである。ただ現代は地から離れて生活している
東京であれ都会であれ地から離れている,そこには土がないのである。
それでも一千万人が生活できているというのも不思議だとなるし異常だともなる
そこでは人間は大地の志向がないのである。
死んだときも遺骨が団地のような狭い場所に安置されるのもそういう生の延長としてある
今は田舎でほとんど会社員である,例えば銀行員にそうした地銀でも土着的な地の志向などない,グローバル化した中で金を動かす,そういう仕事に地の志向は生まれないのである。そういう人を相手にして自分が株とかしているのも矛盾しているのである。
日本人が貯蓄の志向が強いというときやはり農民であった期間が長すぎるからである。
それがDNAとなっているからである。地は血なのである。

都会での人間の生はこうした自然から離れている,人工的なものに囲まれていて本来の人間の姿を像を失うのである。
だからそこで重厚な文化は生まれない,ただ便利な生活をしているだけで文化は生まれない
なぜなら文化はcultivate→cultureというとき土を耕すことだからである。その土地土地の土を耕すことから生まれているからだ
現代の人間は機械の部品のようになり死ぬともなる、数字化したもの番号になもなる
それで議員が病院で番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
名前すらない,みんな数であり番号だともなる
病院での死は物としての死であり荘厳な樹のような本来の生物としての死はないのである。
だから不思議なのはなぜ原発事故で避難者となった人達は簡単に故郷を捨てたのか?
それは田舎でも実質は都会化しているかもしれない,三分の一は原発で働いていたとか?
別に農民ではないからだ,すると土地に執着する人はまれである
ただ老人はやはり長くその土地に生きていたからその土地にいたいとか死にたいとか生物的志向になる
もちろん放射能汚染のだめだとなる,ただそれが全部が全部そのためだけではないと自分は書いてきたのである。

言葉でも自然から遊離した言葉であり像から思考できないのである。商業の言葉とか法律の言葉とか機械の言葉とかなる,そこにもともと言葉が生まれた自然かないから言葉がロゴスが消失するのである。言葉は本来は詩だったのである。そのエッセンスが文明によって失われたのである。

ローマ文明は土木建築が発達して優れていた,道を作るのにもたけていた,それは公共事業が高度成長時代を作り田中角栄が日本列島改造論を実行したのもそうである。
ところがその時その土地土地の文化が失われる,画一化されてくる
ローマ文明は拡大化することによって終焉した
そして中世は地域地域の文化を基にして生活することになった
その時期は長い,でもゲルマン文化,ドイツ人がゴシック建築などを作ったのはやはりドイツの森を基にして作られたのである。

アメリカはそうした大衆のための大量生産方式を生み出した,現代文明はアメリカ式生活の拡大化でもあった,それはローマとは似ていた,享楽的な所もありにていた。
グローバル経済もそうである。それはアメリカ式生活の普及であり食生活でもハンバーグなどが世界中に広がったからである。
それはその土地土地から文化から離れた無視した強引な同一化だったのである。

それぞれの地に根を張る文化は世界にありそれを無視したアメリカ的生活の押しつけだった,だからグローバル経済というのは世界の文化をも破壊する
金によってなんでも買えるという経済一辺倒の価値観に支配されたのである。
それで歴史のある国はこのグローバリズムに対立するようになる
つまりナショナリズムは悪い面にもとられるがその国々の文化を基礎にして重点にして生活するということである。
グローバル経済になれば言葉でも英語に統一すればいいとなりアメリカ式にそれでなる
そするとアメリカスタンダードになりアメリカが世界を支配しやすいということである。現代は中世への回帰の時代だというときそれぞれの地に還り地に根づいた文化の再生なのである。そこからルネサンスが生まれてくるのである。
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同世代の著名人が死んでゆく (西部邁さん(78)が自殺)


同世代の著名人が死んでゆく

(西部邁さん(78)が自殺)


大鵬(本名・納谷幸喜)が1月19日、心室頻拍のため都内の病院で死去した。72歳だった。

「羽柴秀吉」などの名で東京都知事選や大阪府知事選など全国の選挙に相次いで出馬し、話題になった三上誠三氏が11日、肝硬変のため青森県五所川原市内の病院で死去した。65歳

楽天の星野仙一球団副会長が4日午前5時25分に死去した。70歳だった

21日朝、評論家の西部邁さん(78)が、東京都内の多摩川で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡しました。警視庁は、現場の状況から西部さんが自殺したと見て調べています

都築詠一死亡 腎臓透析17年 遂に力尽きて死す,残したものはプログの「心に青雲」のみ


大鵬は団塊の世代ではヒーローだった,その人も72才で死んでいた,これも意外と早かった,相撲取りは長くは生きられないのが多いみたいだ

羽柴秀吉も城を建てたとかテレビでも有名になった,その人も死んでいたのかこれもわからなかった

星野仙一も死んだ

そして西部邁も昨日自殺したというから驚きだった

そして去年はみんな知らないが都築詠一氏が死亡した,これも自分にとっては大きな死だった,ただその残したものがプログであり全部は残っていないので再検討しにくくなった西部氏だと著作が残っているからできるけど何かこむづかしいところがあり自分には理解しにくかった
自分にとっては都築詠一は簡潔でわかりやすいから理解できたから今でも興味がある
そこから発展させるものがある,対話できるものがあった

人間いくら著名人でも理解できないものは親近感がなく興味ももていなのである。
そして今更それを検討する気にもなれないのである。
西部氏がなぜ自殺したのか?
これも謎だがやはり病気のせいらしい,それと二年前くらいに妻を亡くしたことのショックらしい,とにかくこの病気にだけは勝てないのが人間である。
身内でも健康優良児のような人が最後は認知症になり無惨に醜態を晒し死んだからである何かそうして介護されて死ぬのが嫌で自死した語られる
なかなか自殺の原因はわからない,これも人間は一つの原因ではない複合的な原因で自殺になるからである。一つの原因ではない,その主要なものが病気だったとは推測できる

いづれにしろ同世代が死んでゆく,これから余計にそうなる,80前で死ぬとなると今では早いとなる,スポーツ選手でも体力あっても寿命とは関係ない?
自分の母親もかよわい人だったが百才まで生きたから不思議なのである。

人間の死に興味をもつのは人間は死ぬとその人間について評価しやすいからである。
客観的に評価しやすいからである。
例えば羽柴秀吉は何を残したのか?
巨万の富を残しても何を残したのか?
それを問うとその人間の生きた人生は何だったのかとなる
それは死んでみてそう問いるのである。
生きている内は成功者として通るからである。
田から人間は巨万の富を残しても何かを残したとはならないのである。
その一つの例かもしれない,本物秀吉は違う,それは歴史的人物だからである。

ともかくどんな偉人でも理解できないと興味がないし親近感がないのである。
芸術作品でも理解できないと興味がなくなる,自分が理解しやすいと死んでも作品を残していたらそこからその人を偲ぶとなる
だから西部氏の本は読んだとしても理解しにくい,するとそこでもういくら有名でも関心がなくなるのである。ただ関心をもつ人はもつ,そして死後でも関心を長くもたれる人はやはり歴史的人物だったとなるのである。
実際はほとんどの人は消えてゆくからである。
死後何十年もして語られ人は本当にまれになる,これからは同世代が次々に死ぬからいちいち考えることもできなくなる,あの人も死んだのかあの人もかとなりただそれだけだとなる

でもこの人達は意外と早くしんだなと思う,高齢化社会では早いとなる
三島由紀夫も実は老人になることをものすごく恐れていた,それで若い肉体に鍛えみせびらかして死んだのである。
そして最後は英雄になろうとして自演して死んだ,それは演技だと思っていたがそれを現実に実行したので驚いたのである。
人間は時代の子でありとても英雄にはなれない,吉田松陰も明治に生まれて英雄にされたのである。ただ動乱の時代になると英雄が出やすいことは確かである。
これからそうなってゆくかもしれないから新たな時代の英雄が出るかもしれない

とにかく団塊の世代は死が身近である。大量死の時代になる,その数が多いから火葬場が不足する問題がすでにでている,団塊の世代は学校でも教室が数が多くて用意できないとかあった,それがここにきて火葬場もないとなったのである。

「あだし野の露消ゆるときなく」=化野の石仏には常に露が滴り
「鳥部山の煙立ち去らで」=鳥部野の山では煙が消える事がない
「住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。」=人間が永遠に生きるものだとしたら、いかに世の中はつまらないものだろう
「世は定めなきこそいみじけれ。」

鎌倉時代の徒然草に鳥部野と並び化野が人生の無常をあらわす枕詞に使われております。
こういう時代になってきた,津浪の死も大量死の無常だった,その霊は今も漂っている
そこになんらかの怪があっても不思議ではない,これだけの死があれば怨念か何なのか
漂っているとなる

posted by 老鶯 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年01月21日

<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


200票の差でぎりぎりだった,そんなこと予想されていた,今回は強力な対抗馬だった
特に鹿島区の人は桜井氏に不満が大きかったから入れなかったかもしれない
延々と文句を言っている人がいたからだ
そして二期も市長になっていたから変わったもいいとか思った人もいたかもしれない
自分などはそうだった,それほど実績もないとする二期で十分だとなる

自分は「脱原発」というだけ主張して勝つことは嫌だった
自分も脱原発でもそれだけ叫んでいれば勝つというのは楽である。
それは国政レベルだったらそれを叫んでもいい
自治体レベルではやはり地元に密着した問題なのである。
それは政党ともあまり関係ないことである。

でも意外と投票率が60パーセントが低いなと思った,まだ避難している人が多いからなのか?市の選挙でこれだけ低いのかとなる。関心が低くかったのか?
どっちにしろ相馬市長選挙では70パーセントだからその影響がまだあったのかもしれない

そもそも桜井氏が脱原発だけ叫んで勝つと見込んだのは震災から7年もなるのに間違っていた,震災の復興の進め方がどうだったのか,その議論をすべきだった
それから鹿島区と小高区の対立がありそれも重大な課題だったが具体的なものは何も示していない,ただ小高に病院を再開するという門馬氏は主張しているからそれは実現するのか?
それでも小高の復興は進まない,そもそもそこの住民は復興すとる主体が老人がほとんどでありそれで復興できるのかとなる

いづれにしろ自分が言ったように「脱原発」を声高に叫んでまわり野党の脱原発議員が応援する,それは国政レベルならわかるが地方自治体ではもっと地元に根ざした問題の方が先決なのである。
だから無所属の方が地方自治体ではいいのである。
中央の政党争いを地方にもってくるべきではないからだ

ただ桜井氏との差が200票ということは次の選挙ではまた野党に変わる
何か成果をあげなければ簡単にそうなる,おそらく鹿島区の票が桜井氏に入らずに勝ったのかもしれない,それは開票結果を見ないとわからない
ただ門馬氏も小高と鹿島の対立にどんな施策があるのかわからない
それでまた不満になり次の選挙では野党側に変わるとなるかもしれない
政治は実績でありいくらいいことを言ってもも実行できなければ評価されない
桜井氏にはそういうことがあった,意外と飯館村とか相馬市長には批判があっても
評価が高いのは実行力があるからなのかもしれない

ともかく門馬市長に期待します

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

posted by 老鶯 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

外発的動機と内発的動機の相違 (芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)


外発的動機と内発的動機の相違

(芸術家だけでなく,一般の仕事でも悩むー銀行員を例に)

成功する芸術家と、成功できない芸術家。その運命をわけるものは?

内発的に動機づけられた画家や彫刻家は、発見の喜びと創造へのやりがいが彼らにとっての報酬にあたり、芸術家のキャリアにつきものの困難な時期――収入がない、なかなか認められないといった苦労の多い時期――を切り抜けられる。

アメとムチの致命的な7つの欠陥】

●内発的動機づけを失わせる。
●かえって成果があがらなくなる。
●創造性を蝕(むしば)む。
●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●依存性がある。
●短絡的思考を助長する。

芸術でも賞をとることが目的になるのもあるしまた賞でもとらないと文学では社会的に認められることがない,そのため外発的動機が強く作用する
有名になりたいというのもあるし金も欲しいとなる,有名になれば金が入ってくることがあるからだ,ただその時内発的動機が失われる
賞をもらって有名になった人がその後どうなったのか?
何かその道で大成しているのはわずかだろう。

これを考えると別に芸術家の問題だけではない,社会全般の問題である。
そもそも内発的動機で仕事をしているか,内発的動機で仕事を求めているのか?
そういう人はまれなのかもしれない,知っている人で事業に失敗した人はそうした内発動機はほとんどなかった,ただ経営者になり自分が優秀だということを他人に見せたいためだけだったともなる
だから金持ち相手にもうけるんだとか言っていた,そうでなければ田舎では金にならないとか言っていた,何か事業を起すということは回りの人をまきこむものだと思った
一人ではない,その事業に共鳴する人々を作る必要があるのだ

例えは金を出さなくてもでもそうなのである。この人は社会に何をアピールして会社を起こしたのかということである。
それで「はれのひ」成人式の商売を起こしたのだ失敗した
内発動機として人生の一度の「はれのひ」を提供するものだった,ただその事業が失敗した原因は何かはわからない,でもそうして社会に対してみんなに対して共感させて商売することが会社になると必要になるのだ

例えば銀行がなぜ今問題になっているのか?
それはこれまでしてきたような銀行の役割とか使命感みたいなものが喪失した
銀行が創立された動機があった,地銀だと地域経済を発展させることをになうため会社を育てるとかあった,それがなくなり金を投資する先がなくなりどこでもうけようかとなったとき投資信託とか株を客にすすめる
そして証券会社の支社のようになり地銀の役割が喪失した

すると七つの欠陥のようなことが起きてくる

一軒一軒回る人は若い人だとそうした純粋な動機があり入ってくるがそれがなくなった銀行についていけないとやめているというのもわかる

●好ましい言動への意欲を失わせる。
●ごまかしや近道、倫理に反する行動を助長する。
●短絡的思考を助長する

とにかく手数料とるために客をせかす,過剰にもうかるどうかわからないのにいいことを言いすすめる,もうノルマもありそれに追われる,困窮している人は個人でも余裕がなくなる,投資信託でも買ったらまた売らせてその時大きな手数料が入るからそうする
でも証券会社の人自身が投資信託はもうからないと言っていたから分配金は知らずに元金からまた引かれていたのである。
つまり投資信託は何か仕組みが複雑すぎるからわからないから手数料をとるには好都合だとなる

おそらく銀行員のイメージは律儀であり硬い職業であり地域の人にとって信頼できる人だった,銀行員というと公務員という感じでもあった
それは高度成長があって成り立っていたのである。銀行にあずければ利子がつき安心だ,銀行は金を守ってくれるし利子もつけてくれるということに安心感があり銀行員も固い職業として信頼されていた,証券会社の人もいたが別に見ていたのである。
銀行に就職するにはその家のことを詳しく調査されるという,それは金を扱うから信用第一だからそうなっていた,それでこの辺で孫が銀行に就職したとか自慢していたのもわかる,地方では銀行員というとエリートになっていたのである。

投資信託を株をすすめるとなると前の固い銀行員とは違ったものになる
株や投資信託で客にもうけさせるより自分たちがいかに手数料をとるしか頭になくなる
そこにごまかしや倫理に反することも助長するのである。
短絡的にもうけることが頭に先にあり客のことはないがしろにする

そうなるのはやはり銀行がそもそも地銀であるための地域の人々に何か奉仕するというベースが動機が消失したためだともなる
地域の会社でも金を貸してもうける先がないとなればどうしてもうけるのかとなる
マイナス金利になったのも痛かった,これは政府の責任だという人もいる
銀行は遂に預金の通帳をもっいるだけで金をとるとかなる
利子はなくただ預けるだけで金がとられる時代になった
そしたら銀行の役割はなくなったとなる,それでタンス預金が増えた
銀行はただの貸し金庫になる,それで銀行も信用できないからタンス預金になる
この信用できないということは怖い,やがて銀行から金をみんな下ろしたら銀行が倒産するからである。それは信用がないし金をあずけるメリットもない損するだけだとなればそうなる,貸し金庫でもあれば銀行は銀行でなくなる

自分の失敗は大きな金をもったことがないので金がどういう作用をするのかわからなかったことである。大きな金といってもたいした金ではなかった
でも回りに困窮した人がいるとき金があればそういう人達が目の色変えて寄ってくる
金持ちが不孝になるというときそういうことかあった,金が災禍を生むのである。それ相応の金だったらいいのかもしれないが金が常に人間社会で災禍を生むのである。
自分が病気だろうが介護で苦しんでいても関係ない,弱った時がチャンスとなり金をとろうと寄ってくる,そこに金持ちの危険があり現実に家政婦二人を雇うような不動産屋が強盗に殺されたとか普通にある,そういう困窮した人達に狙われやすいのである。
それを狙っていたのが銀行だったということに気づかなかった

そういうことを知ってる人は銀行に金を預けると投資信託をなどすすめられるから預けないとう言っていた,銀行の強みは金があるということを帳簿を見て知っているからであるそして地元の家を一軒一軒回ることか信頼を築く方法だったのである。
地銀では特にそうだった,それが崩れたとき銀行の最大の財産だった信用が失われる
信用金庫とあるように信用が失われる,それで銀行には金をあづけないとまでこれからはなる,前の銀行員の固いイメージとは違ったものとなっていたのである。銀行には金をあづけられないという時銀行の役割もなくなる

人間にとって信用が一番大事なのである。信用がなくなれば商売すらできなくなる
なぜドルが信頼されるのか?紙切れじゃないかともなる,でもカンボジア紙幣などをもっていて何の価値もないのである。
その信用はどこから生まれているのか?アメリカという世界一の大国があり生まれている
でもまたアメリカが信用できないとなるとドルも紙切れにすらなりかねないのである。
信用は一旦失うと回復するのがまたむずかしい,だから地銀の信用も失うときもう地元では仕事ができなくなることもある
預金もしないとかなり倒産することさえありうる,でも切羽詰まってそうなってしまったともなる

posted by 老鶯 at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月20日

forest and river and rock


forest and river and rock

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one powerful rock
kashimassss23455.jpg
big river at nifht



抽象画も現実にあるものをイメージしてできる,樅の木がそうである。
そういう重厚な樅の木を私は見ているからだ
すると瞬間的にこれは樅の木だなとして変化させたのを見たのである。
だから抽象画も具象画を離れてありえないのである。

Abstract paintings can be imaged in reality, there is a tree of a king.
Because I am looking at such a heavy trees tree
Then I saw that it was instantaneously changed as a tree of trees.
That's why abstract paintings can not leave concrete paintings.

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)


争点は脱原発では桜井市長が勝つ

(他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

脱原発、脱原発,・・・これで勝ちでいいのか


30k圏外約2千余世帯の支給額は市長が要綱を規定し、それにより支給した金額で
総額8億5,593万円は不当公金支出であり市の損害金である。
その責任は全て市長にある事をもって、この金額を遅滞無く弁済を市長に要求する。

こういうことがあった,南相馬市では鹿島には見舞金であれ補償金も払うなということがあった,同じ南相馬市民でもそうだった,原町区の人に多かった
鹿島区は30キロ圏外で排除された,でも桜井市長は鹿島区に補償金を払うことに尽力したとある100億円を仮払いとして払った,一人70万の補償金だった
原町区は30キロ圏内だから3倍くらいもらっているとか言われた,場所によっても違うのか原町の人がいくら本当にもらっているのか言わないからわからない
ただ知っている石神の人が古い家がすみにくいからと新しい家を建てた
それは補償金で頭金が用意できたからかもしれない,でもローンなのだからその補償金で全部まにあうようなものではなかった

鹿島区の不満はその後も根強く残り小高とは反目する関係になってしまった
なぜ小高だけが優遇されるのか?それは避難区域になったから当然であり小高の人になればなぜ鹿島区は不満なのかということで反目しあう結果になった
この反目しあうことは市長の責任があったかもしれない
なにか融和策がとれなかった,これが実際は市政の一番の問題だった
とにかく何兆円もの除染とかいろいろ国から金がおりたのだから方法があったともみる
それがゼネコンとか外部のものに流出しただけだとなる
その構図は前からあり変わらなかったともなる

そもそもこの辺では脱原発は当たり前だと思っていた、いくら自民系でもこの地域で脱原発でないこと自体なんなのだとなる,これだけの被害を受けてまだ原発をしようとしているのか?
そのことが理解できない,脱原発でないかぎりこの地域では負けるのではないか?
ただ桜井市長は左系統であり中央との自民とのパイプをもてないから復興に支障をきたすそれは言えるかもしれない,ここにも政府与党と野党の対立がもちこまれている
自分は極力地方自治体の政治は中央の争いをもちこむべきではないと思う
地方自治体はそうういものではなく,福祉の充実とか雇用の充実とか教育保育とかの充実とかもっとその土地に根ざしたものが争点となるべきなのである。
もちろん脱原発はこの辺では当然だと思っていた
そういうものは争点にならないと思っていた

いづれにしろ明日選挙だけどっちにしていいのかまたわからない,国政選挙でもそうだった,自分はしょうがないから希望の党に入れたのである。
今回も桜井市長の応援に希望の党の議員が来たというから脱原発連合がある
ここでは脱原発でないとしたら勝ちようがないのである。
これだけの被害を受けてまた原発をはじめることはありえていと思っていたからである。争点を脱原発なら国政選挙でありここでは脱原発が当たり前として議論外のものとしてある,そうではなくて別なものが争点になるべきなのである。
国の中央の政治が地方でも行われるのは納得いかないとなる

ここでは脱原発を言うまでもなくそれ意外のことに重点を置き政策をすすめてもらいたいとなる
だから鹿島区と小高区が分断されたことの融和策は何かとか議論してもらいたいがない
それが政治のはずなのである。脱原発言うのは簡単なのである。
この辺ではみんなそうだからである,現市長に不満というとき脱原発ではない
鹿島区と小高区の融和策がとれなかったことなどが深刻だったのである。
脱原発なら鹿島であれ小高であれ同じである。するとそれだけを訴えることはこの辺では楽なのである。
それで勝てるということは他の政策を見ないということになる
国レベルとなると脱原発はかえって重要な争点になる,でも全国レベルでもそうならなかった,国民が求めているのは争点は別なものだったとなる
消費税とかなら国民で一致したものがあり争点になったのである。

ともかくここで中央の政治の争いをもってくるのは納得できない,脱原発だけ言っていれば当選するというのも納得できない,政治的課題は実際はこの辺ではそうではなかった
なぜ鹿島区と小高区など融和策がとれなかったということでもあった
この分断によって南相馬市の一体感がなくなったからだ
脱原発は当然としてそれで一体感はもちえないのである。

自分も脱原発というよりこの辺ではみんな脱原発自明としてある,これだけ被害を受けて原発をまたしたいという人はまれになる,それで選挙を勝つとしたら楽だとなる
それが評価されて当選するとしたらそれは地方自治体の長として楽であり他の政策の実行はないがしろにされるのである。
これが争点になるなら確実に桜井市長が勝つ,結果的にはそうなる勢いなのだとも言われる
でも桜井市長に対して不満な人は多いのは鹿島区と小高区の反目などのことである
そういう対立をなくして南相馬市を一体化するにはどうすればいいのかという問題なのである。

ただ門馬氏の主張もわかりにくい,具体的に小高で入院できる病院をつづけるというから小高の人にとってはいいことである。
ただ一方で小高は南相馬市では負担になっている
小高は帰ったのは老人が多いし福祉の街のようになりそこに生産活動する若い人は本当に少ないのである。
小高は今や重荷なのである。そこに南相馬市で予算をつぎこんだり援助することは南相馬市の財政でも苦しくなるのである。
復興しようとしても老人の街であり簡単にはできないからである。
ただこういうことを言うとまた鹿島と小高の対立になり批判されるのである。
原町区はその中間にありその舵取りをどうするのかとなる
そういう具体的なことを何も主張されていない,ただいいことばかりいう
脱原発だけを言うのは楽なのである。自分も脱原発でありそれは自明としてもっと別な深刻な地元の問題がある,それにエネルギーを注ぐべきなのである。

posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

年明けぬ(短歌十首)


年明けぬ(短歌十首)


新年の真澄の空に鳥一羽羽ばたきゆかむ命なるかな

未来にそなお強くしも羽ばたける鳥にしあれや年の明けにき

大海の寄せにし波の轟きて飛び立つ鴎年は明けにき

広々と海そ開けぬ大望を抱くべしかな年の明けにき

年明けぬ昇竜の年や我が命なお盛りなれや神励まさむ

雪閉ざす蔵王望むや新年に太平洋に陽は昇るかも

船一艘太平洋を進むかな名古屋につき奈良に行きしを

津浪後傷痕の癒えぬ死者の霊なお漂うや年は明けにき

年明けぬ心の広く我があらむ糧は豊かに与えられるべし

新地駅新し遠く金華山望みて仙台年は明けにき

年明けぬ国の境を我が越えて広き世界にまたいで行かむ


今年は自分は昇竜の年かもしれむ,本当にいろいろありすぎて苦しんだ
その苦しみからも解放されて一段落した感じにはなる
旅ばかりしていたがここ十年はほとんどしていない,近辺を回るだけだった
だから視野が狭くなったとは言える

この辺の地理だと蔵王が八沢浦とか磯部からははっきり見える
山形県は雪に閉ざされているが太平洋は開けている
海は何か解放されて大望を抱く,ただ海は津浪で大被害になりその傷痕は癒えていない
ただ太平洋フェリーで名古屋に行き奈良まで行ったことなど思い出した
太平洋フェリーには何度も乗ったからである。

今年はなんとか自分にとっては回復の年でありたい,気持ちも広く大きくもちたい
まだ早いかもしれんが有終の美を飾りたいともなる
創作した詩も山ほどある,それをまとめるのが手間なのである。
芸術となるとなかなか完成しにくい、それだけ世界は自然は奥深いのである。

とにかく波乱激動の年は十年はつづいた,だから一方で安定したいというのがある
だから株とかあまりに変動するのは向いていなかったのである。
老人は内面に熟達するのが向いている,外に向かうことや変化が苦手になるのだ
ただ心は狭められるのも良くない,広い自然を宇宙に目を向けるべきである




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なんでも引かれる時代 (資産は増やせない時代)


なんでも引かれる時代

(資産は増やせない時代)


今テレビでサラリーマンの小遣いが3万とかで減ったと放送した,どこで景気が良くなったのか,株もっている人だけであり他はない
アベノミックスは極一部の人達に恩恵があっただけである。そこにトリックがあった
他に投資でも銀行がすすめる商品は投資信託でも何でも引かれる傾向がある
自分がしたのはみんなそうだった,自分は全く知識がなくてはじめたのも原因だった
銀行に預けたら金が増えるという感覚は高度成長時代にあった
銀行に預けたら金は増えない,利子はつかない,そしてさらに銀行から投資信託などをすすめられて確実にへる,分配金が増えていたと思ったら元本から引かれて減っていた
銀行自体がマイナス金利で日銀から減らされる,銀行自体が増えないから増やそうとして投資信託などをすすめる

それはもうあらゆるところで起きている,保険でもそうだと言っている,ゆうちょでも保険を勧誘するがそこでも損させられている,ゆうちょでも地銀でも儲け口がないから今までの顧客に信用があるから顧客から金をとろうとしている
もうどこも引かれる時代である。
高度成長時代のように郵便局であれ銀行であれ金をあずけていれば増える時代はとっくの昔に終わった,その時郵便局とか銀行員は信頼されて地方でもいい職業だったのである。それがもう信用できないものとなってしまった
そういうことをしていると一時的にはいいがやがて郵便局でも地銀でも信用組合でもこれは何なのだとみんなが気づくようになる,これは前のようなものとは違ってきている
するともう信用しなくなり金もまかせなくなる

それはゆうちょとか地銀とかが悪いともならない,背に腹は代えられないからそうなっている,切羽詰まってそうなっている,もうそこにここでも余裕がないのである。
マイナス金利というけどあらゆる所で引かれる時代なのである。
賃金がわずかにあがったとしても保険料とかが上がり引かれる
年金も引かれるし他にもいろいろ引かれる時代で増える時代ではない,増やせないのである。
何か資産を増やそうとすると減らされる引かれる時代になっている
それは社会全体でそうなっているのだ,高度成長時代なら貯金は別に特別の知識とかなくても貯金すれば増えていたのである。今は利子はゼロであり貯金は全く増えない
物価が上がれば目減りしてゆく

自分の資産もどうして金を失ったか書いたけど引かれるだけだったとなる
回りが困窮していれば増やすことはむずかしいのである
高度成長時代はみんなが右肩上がりの成長時代であり増える時代だったのである。
今は株が上がって一見また景気よくなるのかと見えるがそれは錯覚なのである。
アベノミックスの演出であり本当に景気が良くなっているわけではない
確かに株をもっているとか大企業とかの一部は良くなっているが全体に普及していないのである。
サラリーマンの小遣いが3万に減っているというのがわかりやすいのである。

何か老人はもっと使いというけど何をしても引かれる黙っていても引かれる時代である。すると一番安全なのは貯金なのかとなる,株とか投資信託はリスクが大きすぎるしもうからないのである。それをすすめるのは証券会社や銀行がもうかるからである。
ただ投資信託でも株でも自分の利益を度外視すれば税金にもなったし手数料として証券会社と銀行に金は増えたのである。だから投資することは資本主義では社会全体の金回りを良くするということはありうる,貯金にはそういうことはないからである。
ただそこで金を増やすことが個人的にはほとんどできない仕組みになっていたのである。
だから引かれる時代,マイナスの経済である時代にどう生きるかが問題になる
それは若い人と老人では根本的にその対処が違う,株とかは若い人は向いているが老人には向いていない,老人の先は短いからである。
そして時代にもついていけない,知識もないからである。

それで銀行員が信頼できると頼むと引かれるマイナスになる時代である。
本当に株でもうけるのは個人的に大金持ちがプロにまかせる場合なのだろう
それは個人的に雇いまかせるのである。それは銀行でもない証券会社でもないのである。つまり株をしっている個人的な相談役を雇うことなのである。
そういうことができるのはほとんどいない,だからたいがいは引かれる損するのである。証券会社や銀行に相談するなというときそうである。
株に詳しい相談しろというときそうである。でもそんな友達が普通はいないから証券会社や銀行に資産は引かれる時代なのである。

何か自分の資産を増やそうとすると引かれ時代である。だから増やそうとするより守りになる,特に老人はそうである。だから年金保険みたいなのがいいとなる
確実に将来入ってくるとなると安心するのである。
老人にはそういう金融商品があっていたのである。そして地銀とかでもすすめるのは自分たちがもうかるものでありそういうところに頼めば引かれるだけだとなる
ただ銀行などでも将来を考えるともうそいうことがみんながわかると頼まなくなる
信頼はなくなる,するとどうなるのか?
一時的にもうかったとしてもそういう商売は長くはつづかない,切羽詰まっているからもう地銀などは将来など考えないのかもしれない,第一もう地銀はなくなるとするとこれまでの地元を足で歩いて信頼を築いてきた資産を元に投資信託などでもうけてあとは消滅すればいいとなっているのかもしれない,将来のことすら余裕がないと考えられないのである。

つまり余裕がないということはあらゆるところに悪い影響がでてくる
それは人生でもそうだし社会でもそうである。
勉強でも余裕をもって勉強すれば身につくことがあるから受験だとかせかされるとできないということがある,試験のために追われていたから何が勉強なのかわからなかった
人生でも余裕がないということはあらゆることに影響している
芸術でも勉強でも余裕がないとできない,だから社会にとって余裕が大事である。
その余裕が現代では一番もてない,そうするとそういう社会に生きることは幸福ではない江戸時代は貧乏だけど余裕があったかもしれない,仕事も午後二時で終わったとしたら十分な時間の余裕はあったとなる,田から現代社会の余裕のなさはどこから生まれているのか考える必要がある。

金は否定できないが何か金に追われるのはなぜか?それは足りることを知らないかからかもしれない,これで十分だということは今の社会ではない,これが欲しいあれが欲しいと限りなく欲望を拡大するのが資本主義だからである。
常に充たされない渇望になり餓鬼地獄になっているのが資本主義社会だともなる
だからもうそれも限界に近づいている,幸福を追求しているとして幸福になっていないのが現代である。
栃餅を山では作り食べていた,それは外には売られていない,狭い地域で家族だけで生産して食べていた,それを売り何かを買おうとしたとき大量に栃餅を作ることになる
するとどうなるのか?毎日日夜栃餅を作ることになる,それで時間の余裕がなくなるのである。そういう生活になったのが現代の資本主義社会だとなる

恒産なくして恒心なし

上は父母に十分に仕えられるように、下は妻子を十分に養えるように、そして豊年の年には腹一杯食べることができ、不作の年にも餓死をさせることなく、そのようにしてから国民を励まして善い行いをするように仕向けました。 
そのために国民は君主に従うことがたやすかったのです。

恒産とは常なる産であり常に産出するものとすると農業に由来して生まれた道徳である。だからこれを今にあてはめるのはむずかしいがつまり人間は余裕がないと道徳もありえないことは同じなのである。
この恒産とは金ではない,常に農業時代なら米などの実りがありそれが安心に通じていた今ほど株のように変動しやすい時代では通じない
そういう社会は余裕がないから幸福なの社会ではないのである。
ただ人間は無常というとき常なるものがないのだ,それはいつの時代でもそうである。
この辺は本当に津浪原発事故で無常を経験した,だから恒産をもつといってもそういう平和がつづいた時代も個人的に短いのである。
自分の場合は30年つづいたからこれはありえないことでもあった,そうして生きられていたことは例外的だったともなる
ただその後に家族がみんな死んで急速に無常を経験したのである。

国民は君主に従うことがたやすかったのです。

高度成長時代はこうなっていたのかもしれない,国民は将来の見通しも経済的に明るいしそれは国の政治でも安定して従い安いとなっていたからである。







posted by 老鶯 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月19日

南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える (自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える

(自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市の復興を考える

A 帰還困難区域については移住費用を支援。帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。 
B 除染一辺倒から、除染・インフラ整備・汚染水対策・廃炉を「大きな公共事業」とし、税金を投入する。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

交通インフラの整備とは、企業誘致を当て込んで、道路などの基盤整備を行うということだ。しかし、住民の生活再建が依然として進んでいないのに、企業誘致のための道路建設に復興資金を使うことに住民が納得するだろうか。 
 また、その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

 隣りの宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている。 
 これも、企業誘致のところで見た通り、外国や東京に本社を置く企業が、地域の契約農家を組織し、生産物の加工工場をつくり、それらを販売する店舗を設置するということをやったとしても、その利益は、ことごとく東京や外国の本社に流出し、地域には一部しか循環しない。

 火発も原発も、東京・首都圏への集中・集積やグローバル企業の収益には貢献するが、地域への分配はわずか。住民が受け取る所得は非常に小さい。電力会社の本社は、東京電力は東京に、東北電力は仙台にあり、その所得はこの地域の外に出て行く。むしろ長期的には地域の衰退を促進するものでしかない。 
 これは、脱原発ということで、再生可能エネルギーを導入したとしても問題は同じだ。被災地外の企業が発電設備を運営すればその利益は地域には残らない。

 横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

 汚染を引き起こした加害者が、加害責任を問われていない。それどころか、彼ら自身、加害者だという自覚が全くない。

 福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。それを再び繰り返すのだろうか。そうではなく、その犠牲と教訓から、破産した政策を総括し、社会や経済や政治のあり方を根本的に見直すということではないだろうか。


帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。

これは前から自分も言っていた,補償金でいち早く原町であり鹿島であれ相馬市や新地でも家を建てた人がいた,そういう人に金を支払ったらもうもどらない人なのだから復興はありえないのである。でも現実はそういう人が多かったのである。
そして浪江町の人でも南相馬市とかに「浪江町」を作るとか構想があり二本松でもあったとういがそれは無理である。そしたら南相馬市民との軋轢が生まれるからである。

そもそも復興する主体が誰なのか?

外部の人がいろいろ言ってもそこに住んでいた人のはずだがその人たち故郷を捨てているのである。その町を捨てる人に補償金を払っているのだからますます帰らない
もう自分たちはここに住む他ないとなれば覚悟ができて復興ができるかもしれない
それよりいかに荒廃した町から脱出するからが課題になってしまった
何か町を再生したいという町への故郷への思いがあまり見えないのである。
ただ離散分裂してなんとか一体になり復興しようとする気持ちが感じられないのである。
要するにこの辺でも言っていたが土地が安い時家を建てた人は賢かった
それは小高の人だったのである。
いち早く見切りをつけた人が勝ち組だったとなっている
つまり故郷の人のつながりなどは現代ではない,田舎でもない,金が支配するというとき金があったらどこに住んでもいいならそんな荒廃した町に帰る必要はないとなった
それは現代社会が広域化グローバル化したからである。
一つの土地に執着する必要はない,金さえあればいい場所にどこでも住んでいいのだという社会である。そういう社会は危難にもろく一挙にコミニュティも崩壊したのである。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

この辺はロボットとかドローンの工場基地ができる,ではその収益はどこにゆくのか?
東京に本社があるグローバル企業にゆく,この辺の会社の社長は東京に住んでいる
地元に住んでいないのである。それで社員が駅に社長を迎えに来る
東北サッシでもそうだし友伸エンジニアでもそうである。
つまりその収益は地元に有効に回るとはならないともなる,地元に社長が住んでいればまた別である。
そもそも東電とか東北電力でもそうだというときそれは世界的傾向である

多国籍企業の力は絶大でありそれに逆らうことは不可能になっている
それは国より強力なのである。国すらどうにもならないのである。
地域に金が回らないというとき証券会社がもってきたのは地銀を通してもってきたのはこうしたロボットとか人工知能などのファンドである,だからこういう会社に投資してもうけようとすればそこに投資する
それがグローバル経済なのである。地域に金はおりないというとき矛盾しているけどこういうファンドに投資するほかないのである。地域というのこえてグローバル経済になっているということはそういうことなのである。


このことを感じたのは地銀もそうなっていたのである。東京の証券会社の人が地銀の銀行員を連れて投資信託をすすめる,そういうことができるのは地銀で地元で培った対面的な営業の信頼関係で顧客があるからだ,そうした継続として地銀は信用できるものとして地元で仕事していたのである。
それが東京の証券会社の下請けとなりその出向した証券会社の指示で動いているのであるすると証券会社の支社が地銀なのか?実質はもうそうなっているのである。
地銀はもう地元に貢献するものとしてありえなくなったから合併したり消滅すると言われるようになったのである。
ただ地銀ではつくづく金融商品が本当に少ない,そろえることができない
老人用の保険などが安全なものが作られているからだ
ここだけは田舎は不利だった,東京と田舎の差はここでは歴然としていたのである。
地銀もグローバル化して巨大証券会社の一支店のようにされる
その収入は東京に吸い上げられるともなる,そのおこぼれを地銀が受けるとかなってしまう。

宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている

これも収入は地元にはわずかで東京にある会社に吸収される,それはイオンがそうである地元の商店街が壊滅してイオンだけが郊外に繁栄する,その収益は地元にはわずかだともなる,それが資本主義社会だとなればこういうことは世界中に起きているのである。
するとそもそもが資本主義とか反グローバルにならないと解決しえない問題である。
でもそれに対抗できるものがあるのか?
この巨大な怪物と化した大企業とかグローバル多国籍企業に対抗できるものがあるのか?
そもそもが東電の原発は何も強制的に国とか企業がおしつけたものではない

双葉とか大熊とか出稼ぎ者が多く地元で働きたいということで地元の人が積極的に誘致したものなのである。
もしその時貧乏でも別な志向が働いていれば今日のようにはなっていないのである。
そして現実に東電の原発依存の経済になっていたのである。
それで経済が成り立ってしまったからもうそれ以外のことは考えられなくなったのであるふりかえると本当は原発を誘致するときこそ地元の人が重大の判断と決断をしなければならないときだったのである。
でもほとんどそうした真剣な議論もない,将来の世代のことも考えない
ともかく金だとなり何の抵抗もなく原発は建てられたのである。
その後も原発の安全神話が作られてきた,地元で原発が危険だというと危険人物にされて住めなくすらなっていたのである。

福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。

これは左でも同調する,ただではこうした大企業とかグローバル多国籍企業とかに対抗するものが地域にあるのか?
何をもって地域の経済を成り立たせるのか,漁業では金にならない,農業はだめだ,林業はだめだとなり一体何をもって地域の経済を成り立たせて復興がありえるのか?
それが問われた,何かその対抗策があれば納得するがない
そこに左系統の言い分に同調してもみんなの賛成が得られないからこそ原発でも企業の工場でも誘致されているのである。むしろ積極的に自治体が誘致しているのである。
働く場所がないからそうなる,漁業,農業,林業では成り立たない社会になっているからである。
ただそうしたグローバル多国籍企業とかの影響で今回のような悲惨なことにここがなったことは確かである。

その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

その金をもし地元の復興に使えばもっと有効なものとなった,補償金にだってあてることができて小高とか鹿島とかが憎みあうこともなかったのである。
除染に何兆円もつぎこんでもその金はゼネコンに流れて地元に恩恵がなかったのである。

そもそも右は原発賛成である。左は反対である。そしてそれはそこで二分されてどっちかの陣営につかねばならない,それで武田邦彦氏は原発反対なのだが右であり左の人とはうまくいかないとなる,自分は心情は右である。国の文化と地域の風土とかに根ざした経済とか文化の町作りを推進する方である。
また原発は反対である。第一これだけの被害を受けて脱原発になるのがこの辺では普通である。それが自民系にはないのかとなる
それは党派の問題でもない,地域は党派越えたものがあるからだ
中央の政治の争いをもちこみにくい場でもある,だから無所属の方がいいとなる
今回の門馬氏は明かに自民公明だから保守系として出ているから渡辺氏と同じになるのか?
門馬氏の主張はアピールは何なのかわかりにくい,何が争点なのか?
脱原発になるとそれはこの辺では当たり前なのである。
そのことで勝敗が決まるのか?それも納得いかないのである。
復興の進め方なのか?そこに門馬氏と桜井市で相違があるのか?
右は自民の政権は除染は終わり帰還して普通の暮らしにもどるべきとしている
左はそうではない,除染は必要でありもっと放射能対策を継続すべきだとなる

横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

門馬氏は自民党だから渡辺氏とかと共通しているのか?
今回の選挙も自民と左系統の政党の争いが地方でも行われるのか?
これもどこに判断基準を置くのかむずかしい
ただ門馬氏の主張はもう一つはっきりしないから自民から出た渡辺氏の主張とダブルことがあるのかと検討したのである。





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町(街)作りは土地の特性を活かすこと (相馬地方にも多様な土地の特性がある)


町(街)作りは土地の特性を活かすこと

(相馬地方にも多様な土地の特性がある)

実はドイツにも「まちづくり」のような使い勝手のよい言葉はある。「立地要因」「立地特性」などと訳される”Standortfaktor”がそうだ

市町村でどうして特徴を出した町作りができるか?
ドイツでは町作りという概念がないという
「立地要因」「立地特性」というのがある

これは興味深い言葉である。立地要因とはその土地の特性このである。
相馬地方でも立地特性というときどういうことなのか?
原町の深野のことを例にあげたがそれは地理的特性と歴史的特性とがある
まず地理的特性から人間の住む場所が決められる
だから地理的特性の影響は大きいのである。
海側と山側に住むものは感覚的に相当違ってくるのである。
職業でも漁業にたずさわるものと農業にたずさわるものでは感覚的相当違っている
浜通りにはこの二つの特性がある,常に海に面して山に面しているからである。
ただ山は高くないからどちらかというと森につつまれているともなる
飯館村は森の村だったからである。70パーセントが森だったからである。

相馬地方の立地特性としては海側と山側に分かれるからである。
松川浦があり八沢浦があり津浪の前は右田浜の松原があったが消失して風力発電の風車の風景になった,あとはソーラーパネルになったから土地の特性を失ったのである。
必ず土地の特性はある,新田川とういう浅い川であり瀬音がするから広瀬川とにている
それで青葉城恋歌ができたりする,それは土地の特性と結びついていたのである。

その土地の特性を活かすことが町づくりの基本としてある,松川浦がありそこに海の幸があり特性を活かせる,ただ津浪で松原とかアサリ取りがなくなり打撃が大きかった
その特性を活かせなくなったからである。
松川浦でとれた魚を出せないとしたら魅力がなくなるからだ
その土地の特性が津浪とか原発事故で失われたことは痛手だった
ただ海でも山でも川でもなくなったわけではない,だから高瀬川は景勝の地としてある
そこに相馬焼きの大堀の窯元があった,ふさわしい風光明媚な場所にあって特性を活かしていたのである。

だからどういう町作りをするのか?南相馬市長選挙があり課題となる
そういうことは別に争点にはならないがその土地の特性を活かすことが町作りになる
深野のことを書いたがあそこにユッサがあり温泉が一応あることはその土地とマッチして特性を活かしたものだったのである。
自分は深野というとき何か魅力を感じる,そこは何も変哲のない場所なのである。
その理由はわからない,ふこうのという地名の名もいいのか?
歴史としても中世からあり古いのである。大原より古いのである。
それは歴史的特性としてある,その歴史的特性を活かすことも町作りである。

相馬氏では公共の建物を入母屋作りにして統一しているからそれも街作りになる
そこには相馬の六万石の城跡があるからそこを基点に城下町風の街作りをしている
それはある程度評価するがそんな建物ばかりに金をかけるなという批判もある
何か自分は異常に景観にこだわるから評価している
景観を壊すものソーラーパネルでも過剰になると嫌だとなる
最近は深野でも土がえぐりとられてむき出しになっている所が多いので嫌だとなる
でもそういう景観は金にならないから普通は無頓着なのである。

自分は全国でも旅したからその土地の特性を地理からみる,相馬地方でもそうである。
狭い地域でも実は土地の風土の特性と地勢の特性と歴史的特性がある
これを町作りに活かすことなのである。相馬地方が海と山と森があるから平凡なようで多様な土地の特性がある,それを自分は詩にしてきた
少子高齢化でコンパクトシティが言われるが自分としては村が消失することはその土地の多様性が失われることだから問題があるとみる
街の中心にすべてがあること,病院でもスーパーでも何でもそこで用を足せるから車が無くても暮らせるようにするというのもわかる
鉄道の駅を中心にするというのもそうである。鉄道の場合は老人が車を運転できなくなるからである。

駅で会った元は小高に住んでいた女性も車を運転しなくなったので電車を利用してきた
でも電車の乗り方がわからないといっていた,そういう人も車社会では多いのである。
だから車社会は高齢化社会にはそぐわないものとなる
そのためには小高では乗合タクシーを市の方に何度も陳情して利用できるにしていた
その女性もかかわって何度も要求してできたのだといっていた
ところが鹿島ではそういうことをしないから原発事故の前は小高の方が何かと役所でも立派なものが建ったり高校ができたりと良かったのである。
それはやはりこうして運動する人がいたからだと思った

南相馬市の市長選挙でこうした町(街)作りのビジョンを建てているのか?
そういうものが見えない,何か政策も似たりよったりである。だからどっちに票を入れていいかまたわからないのである。
際だって違うものがないのである。脱原発だけが相違というのでは何かもう一つ地方選挙では目立たないのである。
ただ実務となると自分のように詩的な観点からは見ない,自分はどうしても景観とか詩的美的観点から見ているのである。
だから八沢浦が入江に一時になったとき奇跡だとして感動していたのである。
でもそこで死んだ人がいて幼児でも泥のなから掘り出しているという人がいて叱責されたのは当然だったのである。
一般的には美的観点から見る人はまれだからである。
ただその土地の特性を活かすときそこに安らぎが生まれる,その土地にそぐわないものがあると安らぎが失われる,ソーラーパネルなどはそうなるが経済的には土地を活かすために容認せざるをえないのである。

ともかく津浪原発事故後の町づくりは変わってしまった,すでに変わっている右田は風力発電となり景観がまるで変わってしまった,あそこに植樹して森を作っても森は映えない風力発電の方に圧倒されるしそこからの騒音があるかもしれない,つまりそこがかつての右田の松原のように憩える場ではなくなったのである。
だから50年後でもそこに森が生まれてもそうだろう。自然は活かせないのである。
なんらか人工的なものは自然を破壊して景観を乱すのである。


深野の秋の詩

その家は石神にありて古しも
昔紙漉きをしたる家と
深野より嫁ぎし女は語る
新田川、水無川の清き水に
寒き冬に紙漉きの生業ありぬ
押釜村には一六軒もありぬれ
今日石神村の八坂神社をたずねぬ
団栗の石段に落ちて我が上り
その木々の古りしと秋の日さしぬ
その謂れは何や社も古りしも
石神より深野に来たりて
百井の姓と深野の姓の家や何か語る
その細道行きて土地の人と話しぬ
豪倉という地名は村の米倉
今この一村にも実りのあれ
飢饉の時の備えなりと地名に残りぬ
樹々の根づきて屋敷を囲む
松に蔵ある家や秋の日のさし
落ち着く暮らし継ぎにしも
ここに誠の日と美しき日々のあれ
深野は大原より古き村なり
山陰に墓のもの寂びてあり
新田川の岸辺に芒なびきて
流れに光まぶしく反射しぬ
ここに太陽も喜び輝き沈む
国見山仰ぎて深野の秋の日暮れむ

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この詩でも詩とか芸術は深くその土地の地勢とか歴史的特性から生まれているのである。


八坂神社は日本に多い,この辺では相馬市にもある,いたるところにある
もともとは渡来系である,秦氏関係だという
京都の八坂神社が本殿である。でもなぜ全国にあるのか?
そしてなぜ石神にありいつ建てられたのか?
神社の場合,なぜそこにいつ建てられたのか?
それが不明なのが多いのである。
posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

余裕なき社会は他人を思いやることができない (格差社会で金持ちも危険になる)


余裕なき社会は他人を思いやることができない

(格差社会で金持ちも危険になる)


自分のことばかり書いて恐縮だが自分に起きたことはやはり社会にも起きるし現代の社会現象なのである。
金の社会だというとき今だけではない,金のために日夜ある,金が頭から離れる時はないそういう社会に生きている
結果的にどうなるのか?余裕がない社会になる

事業失敗した人は借金している人はまず余裕などもてない,なんとか借金を返そうとそれしか頭にない,金ことしか頭にない,すると相手のことを思いやることなど微塵もない
ただ金をとってやろうとういう考えになる,それが極端になると盗むとなり犯罪になる
現実にそういう目に自分はあってきた

貧困社会になるとそういう余裕がない人が巷にあふれることになる,するといくら金をもっている金持ちでも実際は危険になり住みずらい世の中にある
ただ本当に自分の場合不思議なのはそういう目に30年間あっていないのだ
だから他者がそんなに困窮していたのかと驚きなのである。
社会と人と接しないでそれなりの財産があって家族が守ってくれればそうなる
ただそうなることは本当にまれなことだった
みんなこうして金に追われて追い詰められて生きていたとなる

そういう人と直接接しなければわからないのである。
だから大金持ちでもそんな金に困っている人いたのとなる
マリーアントワネットが「パンがなければ お菓子を食べればいいじゃない」
とかなる
貴族は宮廷で何不自由なく生活している,そうした貧民と接しないから全くそういう人がいることもわからないのである。
結果的にどうなったか,革命がありギロチンで殺されたのである。
その悲劇はまさに全くそういう貧民がいることすら気づかないとういことにあったのだ

自分は20代は苦しんでいた,アルバイトを転々としていたからである。工事現場でも働いたことがある,例えば冷凍庫の中で働いたのは厳しかった,零下20度くらいになっていたからである。あいういうところで働いていると体を壊しやすいことは確かである。
ただ30以降は全くそうした苦労をしていないのである。旅に明け暮れて終わったとなる
だからこそこうして今苦労を強いられたとなる

ただ自分だけではない,政治家でもそうした貧民がいることをじかに接しないものはわからないのである。野菜の値段が上がったといっても無関心になる
総理大臣でも本当に貧民がいるというこをじかに接しないからわからないのである。
金持ちでもじかに貧民と接しなければそういう人がいるということすら見えないわからないのである。どこにそんな困った人いるのとなってしまう
そういう人もまた多いのである。政治家ですらそうだからおして知るべしとなる

自分でもだから意外だったのである。こんなに困っていたのか?
そんな人がいたのかとなる,それでこれまで書いてきたように自分はそういう人達に苦しめられたのである。
まずそういう人達他人のことを思いやることができない,みんな自分が優先になる
自分のことしか考えられないのである。
だからこいつが金があるんだからとればいいしかない,その人が困り苦しんでいても関係ないのである。
それは結局余裕がないからである。他人に思いやりがある人は余裕があるからなのだ
金持ちは貧乏人をかわいそうだねと言えるのは思いやりをもちうるのは余裕があるからである。貧乏人は明日食べるものどうしようとしたら他人を思いやる余裕がないのである。

そして高度成長から低成長時代になると地銀なども余裕がなくなった
それでどうして収入を得るのかとなる投資信託とか株をすすめることになる
それも相手を思いやるのではない,銀行にとって都合のいいものをすすめるのである。
手数料をとれるものをすすめる,相手のことを考えないのである。
だから自分は何度も別に大きなもうけはいらない,少しで増えればいいと何度も言っていたのである。そういう商品はただここの地銀では買えない
東京のメガバンクとかそうでなくても他では用意してある
それは老人用であり定期預金に多少利子がつくような年金的な保険のようなものである。そういう方が老人には向いていたが地銀とか証券会社ではそれではもうけにならないから投資信託とか株をすすめるのである。それは非常にリスクが大きいので理解するのもむずかしいから老人向きではなかったのである。

そういうことは前からあったにしろ現代は地銀のような固い職業もそうなっている
地銀はもう融資先がなく必要もないとなればどうしてもうけるのだとなり切迫してくる
つまり余裕がないから顧客を本当に思いやる対応ができないのである。
それはあらゆる人がそうなっているのである。
ただ金持ちは喧嘩せずとかあり金持ちは余裕があるからガツガツしない
ただ金持ちでもマリーアントワネットのように格差社会がこれだけすすむと危険になる
なんらか貧民の暴動とかが起きてくる,それは自分が経験している
追い詰められた人間は犯罪など恐れないからである。
格差社会の怖さはそこにあった,田舎などでは金持ちは目立つし真っ先に標的にされる
そういう自覚がない人がマリーアントワネットのように多いのである。
そして現実に貧民の反乱が起きて殺されるということまでなる,そして愕然とするのである。それは貴族が貧民のことに関心をもたない,関係ないとしていたから起きたのである。

タグ:格差社会
posted by 老鶯 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月18日

老後の金の計算のむずかしさ (積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)


老後の金の計算のむずかしさ

(積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)

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これは50から積み立てて90まで5万円もらう年金保険である。

一〇年間毎月60-70の期間を4万もらう保険だった,これは十年間だが民間の年金だった,これは親にかけてもらって役にたった
老後の備えは年金が有効である。毎月もらえるから安心感がある
それが4万でもそうだった,年金がいいのは死ぬまでもらえるものがあることだ
これは十年間だったが年金は死ぬまでだし新商品では九〇まで5万もらえるのは大きい
自分の場合は五〇〇百万かけていたから毎年五〇万くらいもらっていたのである。
これは貯金として五〇〇万円あるより安心なのである。
何か貯金は額が大きくて不安なのである。
老後にいいのは年金なのである。
年金を一定額もらえないと老後は苦しくなる,別に五〇〇万貯金と月々支払われるのと同じじゃないかとなるがそうでもない
これもそういう経験して不思議に思った
考えてみると10年間だと一〇〇〇万になると9万くらい月々支払われることになる

ところが貯金には何かそうした感覚がない,確実に使いすぎたりして目減りしてゆくのだ老後の金の計算はみんなしているだろう。
でも死ぬかわからないしいつ病気になるかもわからないし必ず不測の事態が起きるから困るのである。その時出費が増えて貯金は目減りするのである。
ただ正直金は計算できない,一千万あるとしてもその金がどういうふうになるのか?
みんな20年後まで計算するけどその間に何があるかわからないとしたら不安になるのである。

金はいつも同じ価値ではないからだ,百円の価値が半分の50円に実際はなっているとかなる,金の価値は常に変動しているのである。同じ百円でも千円でも同じ価値ではないのである。
だだ年金として支給されるのはわかりやすいというか安心がある
確実に90まで5万支給されるとなるとそれに厚生年金とかもらえれば安心になるのであるだからそういう保険ができたとんうのもわかる,高齢化社会だからそうなる
自分たちの世代にはまだそういう保険はなかったのである。
でも自分がもらったのはそういう保険の一種だった
ともかく何かと自分は親に良くされたのである。だから懸命に介護するのは当たり前だったのである。

高齢化の問題は実際は様々でありその対策はまだ出ていないのだ,こういう商品が出るのも高齢化社会である。
老後に備えないとならないということが普通になる時代になる
まだ自分たちの団塊の世代はそこまでしていない人が多い,そこまで余裕ある人は少ないだから下流老人化してゆくのが多い,高齢化は日本だけではない中国でも今すでに深刻である,一人っ子政策で親のめんどうみるのが大変なことになっているからだ
その制度も介護保険も整備されていないからだ

老後の問題は高齢化社会の問題はいろいろあるが金の問題が中心になっている
本当はそうではないが金がわかりやすいからそうなっている
現代はこれだけ金の支配する社会になったのだからそれに不満をいってもどうしようもない,金を中心に老後をまず考えるのはやむをえないことである。
なぜなら子供でも金は出せないとか大家族で世話してくれるわけではないからとなる

不思議なのは1000万の貯金を10年間で計算すると月々およそ九万にもなるのかということである。
84000×12=1008000となっている,これがなかなか納得いかないのである。
年金にすると厚生年金とか国民年金を加えると結構大きな額になるからだ
だから金をどう計算するかはむずかしい,とても数式通りにはいかないからである。
一千万の価値がそんなにつづくのか維持できるのかともなるからだ
もしかしたら半分にも低下しているかもしれないからだ

死ぬまでの金の計算などしたくない,でも高齢化ではしたくなくても避けられないのである。金が尽きたら人生も終わりだともなるかもしれないからだ
だからこそ年金は老後には大事なものなのだと最近わかってきたのである。
その自覚が若い人にはない,絶対にもう60代では人は死なない
今の40代は90才が男の平均寿命になるかもしれないからだ
すると60からの生活をどうするか金をどうするかが問題になるから高齢化また金がさらに必要な時代だとなる,それは用意していない人が多いのである。
自分は親に用意されていたが金だけではたりなかった,それで一人孤軍奮闘してきたことを書いた,これからもそうである。

人生は短すぎたから長くなることは悪いことではない,ただそこに数が多いから社会の負担が増えて問題になる
ただ個々人をとってみれば長く芸術でも探求してきたことを追及できる時代だとなるのだ芸術家は特に詩人などでも早く死にすぎたからである。
そうするといい作品も残せないとなる,それより芸術はつくづく時間をかけないと理解できないものだった,それだけ深いものがあるからそうなっていたのである。
鑑賞すること自体がむずかいしものだったのである。

要する高齢化社会は日本だけではない人類の課題として与えられたのである。
高齢を生きることで人生を豊かにする社会なのである。
それが人類史上はじめてのことだから問題が起きているのである。
人間の一つの願いに長寿があったのである。
それはあまりにも人間が早く死にすぎていたからである。
だから長寿が今実現するというときそれは人類の長い間の願いがかなう時代になったということでもある,ただそれだけからこそいろいろな問題が噴出しているのである。

はっきりいって株とか投資信託とかは老人向きではなかった
老後のたしにしようとしたがかえって損したりする
つまり老後に高齢化社会に向いたものでないなと合わないということがあった
それが証券会社でも銀行でも用意していないのである。
投資は若い人向きである。知識も経験も必要だし先が長く考えるのもそうである。
ところが老人向きのはそういう商品ではなかったのである。
東京のメガバンクなどでは老人向きの商品を出していたのである。
やはりこの辺は田舎では不利だったなとつくづく思う
高齢化というとき都会では高齢者だけが集まる食堂もあり高齢者用の食事も出している
それはやはり数が集まるからそういうサービスが生まれる
田舎ではそれだけの金がある老人とかが集まらないから老人向きのサービスが生まれないのである。
ただ高齢化社会ではこうしたサービスを銀行でも証券会社でも考慮せねばならない時代になったのである。
その対応がないから自分は安心安全で冒険したくないと言ったがそういう商品を示してくれなかったのであり
また地銀ではできなかったのである。

地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる (その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)


地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる

(その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)

自分の経験では勉強していないからわからなかったけどいろいろな商品があるし投資信託でも安全に投資できるものがある
地銀には一つ二つしかなく勝手に相手の銀行と証券会社の都合で決められているふしがある
調べればいろいろなものがあった,投資信託でも積み立てとかいろいろな方法があった
でもそんなものは一切紹介されない
そういう商品をそろえられないのである。
メガパンクでそういうものをそろえているからそこの案内に行けば教えてくれる
でも田舎の地銀はそうした商品の知識すらないのである。
大和証券が来たらそこから与えられるものであり地銀はただそれに従う下請けである。
様々な商品を投資の仕方が提示できない,ただ証券会社にとって投資信託などの商品もいろいろあっても銀行がもうかる証券会社がもうかるものを提示するだけである
だからこうした証券関係や投資信託などは田舎では不利である。

要するに地銀では東京のメガバンクなどと比べると格段の商品の差がある
そしてその仕方もいろいろあり安全志向のもある
地銀で損したら半分リスクをとって払いというときそういう商品もあるみたいだ
この世界は商品の種類が多いが田舎に来るときはすでに証券会社と地銀のもうかるものを提示して与える,そしてそれしか方法がないのである。
だから安易に知らないですると損する
本当は少額で訓練してやれば良かったとなる,それなら損しても仕方がないとなるからだそうするとまた証券会社とか銀行でもめんどうだから相手にしないということもある

何も勉強しないで銀行だから安心だとしてまかせたのが自分のもともとの失敗だった
自分では調べることもできない,他にすることがあってできない
だから時間がとられるから頼んだがそこが裏目に出たとなる
つまり人間は何するにも時間が必要であり時間をさかないと実りがないのである。
それは天才とか特別な人でなくても一つのものを探求すればそれなりのものになる
それはそのテーマに時間を費やしたということなのである。
それは株でも投資信託でも同じだった
みんな銀行に一括してまかせたら時間は節約できてもその代わり実りは収入はないのである。

本当は株でもうけるならデイトレイダーのように一日パソコンの画面を見ていることである。だがそうなる他のことは一切できなくなる
その人の時間はパソコンで株をみることに費やしたとなる
ただ結果として大金持ちになることもある
そこに時間を費やして大金を得たのである
ただ貴重な時間はそのために消えた,すると後で老人になって後悔することになる
金はあるけど自分のしたことはパソコンの画面で株の値動きを追うだけだったとかなる
この時間が貴重なことが人間にとって盲点だった
時間などいくらでもあるというが時間は確実に消失する
そして最後は何にもできなくなる,ベッドで病院の天井だけを見て死ぬだけだともなる

だから老人になるとみんなあの時何をしていればよかったとかみんな後悔している
それはどんな優秀な人でもそうなのである。
それだけ時間を有効に使うのはむずかしいのである。
金がいいのは金があれば他人を金で雇うことができる,すると家事してもらえばその人は自分のしたいことに集中できる
金で時間を買うというときはそういうことなのである。
でも人間は何かを経験するというとき家事だって経験なのである。
それに時間をさいて家事を理解する,料理も理解する
それを全部他人にやらせたら経験がないとなり損したともなる
時間はこの世には様々なことがありそれを経験することだからである。

結局株でも投資信託でもそれを経験していないからわからない,わからないのに近くの銀行員だから安心だということはなかった
むしろ東京のメガバンクのような多様な商品がありそれで説明されて入るというものでもない
本当に非常に限られた数個の株でも投資信託しか紹介しないからである。
そのやり方も説明しない,銀行のもうけになるから最初大金を入れてももらうことになるまた売り手数料を稼ぐ,それが全部悪いというのではないが説明もその時ない
それは営業する人にもよるかもしれないが地銀には本当に商品が少なすぎる
メガバンクなら老人にあった投資の商品も仕方もあったのである。
ただ田舎ではそれを申し込むにも店舗に行けないのだからできないのである。
だから田舎では投資信託とか株はすべきではないとなる
すすめれるものでも確かにいいものはある,ただ選べないのである。
田舎はここでかなりこうした商品とか投資では不利になっていたのである。
アマゾンで本を買うなら平等だが投資は平等ではなかったのである。

ただ銀行員は毎日地元の人達の家を一軒一軒回っている,そして何度も来る,それが信用なっていたのである。ネットとは違うリアルな人間が直接来ることが信頼になる
でも証券とか投資信託とか株は必ずしもそしてもうけるものではない
その仕組みがわかればパソコンの画面で取引して一人でもできる
それになるには相当時間をさくし訓練が必要なのである。
そのためには資金も必要なのである。
だからこそ銀行員に頼んだがそれが裏目に出たのである。
銀行員自体が知らないし地銀はそうした老人向きでも多様な商品をそろえられない
またその投資の運用の仕方もいろいろありそれも説明しないのである。

自分は何度もそんなにもうけなくてもいい,、損はしたくないと言っていた
そういう商品が売られていたのである。
銀行員では答えられない,そんな商品をそろえられないからである。
田から証券会社と銀行に都合のいいものだけを紹介されるともなる
確かに一つはなんとか利益を出したみたいだけど元本から分配金はひかれて損もないがもうけもないという感じなのである。

老後に投資などで知らないことで金をとられるな

これは言えたのである。投資は田舎と都会の差が意外と大きかった
地銀では素人に毛がはえたくらいの経験と知識もない
蓄積もないのである。だからそもそもそんな商品を売ることができないから一方的に証券会社の下請けになっている,独自に何か商品をそろえたりその仕方を教えることもできないのである。
ただ銀行に都合のいい商品を売って手数料を稼げばいいとなる
そういうことを知らないで銀行員にあづけたのは自己責任だとされる
ただ何か老人はもう時間がない,将来生きる時間が限られている
それで一から勉強するものは無理になる
その老人の弱点を知ってその需要に答えられる商品があっても紹介されなかったとういことである。また地銀ではできなかったのである。




posted by 老鶯 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自分の失われた金 (カルマの清算のために金は失った)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)

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今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






株や投資信託は経験知識のないものはするな (老人が金をためこむほかない訳)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)


今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






タグ: 投資信託
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2018年01月17日

株や投資信託がわからない人はするな? (すべて自己責任になる)


株や投資信託がわからない人はするな?

(すべて自己責任になる)


人間は何でも知っていたりできない,極一部しか知ることができないしできない,だからこそいろいろな人に頼む,病気になれば医者にみてもらうし家を建ててもらうには建築会社に頼む,大工さんに頼む,墓を作るとしたら墓を作ってくれる会社に頼む
人間はあらゆることに通じることはできない
だから投資信託とかも株でもわからないからこそ銀行員が来ればそれに頼む人が多いのである。

では知らないからとすべてが自己責任になるのか?
投資信託とか株とかはそうなりやすい,私たちは十分に説明してすすめたのです
ただいろいろな状況で株は変動するものですし投資信託でもそうです
それが下がる時も上がる時もあるのです
その責任は私たちにないのですという言えばそれまでで追及はできない
要するに知らないと自己責任になるのである。

別に他にも投資信託をネットでするとか会社もある,ただそうなるとまた手続きがめんどうになったりする,銀行員は近くに支店があり地元を一軒一軒まわることで頼み安いとなる,でも証券とか投資信託とか株はそういうものではない
これは知識とか経験かないとそもそもできなものである
いくら一軒一軒まわって対面的に相談するにしても株とか投資信託とか証券はそういうものではない,一軒一軒まわる銀行員がいてもそれで信頼できるというものではない
ただそれで手続きができて安心感があってすすめられてしている
利子がつかないから投資信託だともうかりますとか言われればそうなる

でも投資信託は実際はもうからない,手数料でも高いし毎月分配はもうからない
仕組み的にはそうなっている,リスクだけが怖いと思うようになった
利益になるよりそっちの方が怖い商品だと思った
だから株とはそもそも大きなもうけがありそれで余裕ができてまた株をするというのがいい,毎月配分型とか利子がつく感覚でやるものではない商品である。
株はそもそもそういうものだからである。時々の状況にも左右されやすいからである。

自分は株にも証券にも国債にも投資信託も知らないけどした
それは結構大金だった,それは銀行員だと地銀だと銀行員は地元をまわっている
それで頼みやすいのである。そこに信頼が生まれている
でも株とか投資信託とかはそういう性質のものではない
銀行員が地元と回って歩いているからと信頼がましてもうけがあるという商品ではない
性質の違った商品なのである。
しょっちゅう顔を合わせているからといって株が上がったり投資信託が上がったりしないからだ

地銀の仕事はなになのか?やはり地元に支店がありface to faceで仕事している
でもこれはそういう仕事とも違う,ただ証券会社とかなると地元に支店もない
地銀というのは地元志向で土着的だともなる
ただ地元の会社を育てるとかなくなるとそれは役割を終えたのかとなる
電子化してゆくと特に金の管理でも自動化するからである。
地銀というのは地銀として本来もっていた役割を終えたのである。

だから今日は大和証券の人が来たが銀行は証券会社の下請けになったのかとなる
つまり銀行はかつてのような信頼できる地元に土着した密着したものとは違う。
証券会社の下請けになったとのかとなる
なぜなら株に投資しろとか投資信託になると証券会社の方が断然上になるからだ
証券会社はそういう仕事をしてきたのだから当然だとなる
すると銀行は何をするところなのか?それが問われることになる

それは商店は地元にありそれは土着的であり信頼感をもつ,ところがインターネット販売になると違ったものになる
それでケーズデンキで通販で調べて最新式のデジタルカメラを買った,店に飾ってある商品が少なすぎるからである。ただアマゾンでノートパソコンを買ったが壊れて修理に出すところがなかった,それで損したこともあり近くに店があると安心なのである。
そのことはアマゾンだけになるとそうした商店は消滅してそこには人間がいなくなる
それで緊急時にはそうした食料すら手に入れらなくなると忠告する人もいる
それは近くに現実のリアル商店がないことからそうなるのである。
だから銀行でも現実にリアル店舗として地元にあることがネット化しても必要なのかもしれない,ただコスト的に女性の窓口業務などは無駄だとなり廃止されてゆくしすでにしている

大和証券がもってきたのはAI化自動化ロボット化する会社の株を買いということである。そのファンドでありそれは毎日のように今や話題になっている
そこが社会を変えるから株が鰻登りに上がっているという,そこに将来性があるというのはわかる,だから納得するから買ってもいいとなるのか思案する
でもまた前の投資信託を解約すると何か金がとられたりする
その株を買えばまた手数料がとられる,その手数料の額が馬鹿にならないのである。
投資する額が多いとそうなる,そのもうけは証券会社と銀行に入るだけだとなったのが現実だったのである。
そもそも銀行が投資信託をすすめるのはメリットがある,それが会計上そうなっている
ただそうした仕組みを理解すること自体むずかしすぎる

だからわからないか人は株や投資はするなというのもわかる
結局説明されてもわからない,そのわからないことで失敗しても自己責任だとなるからだ
ただ金融でもそうだが病気のように自分で直せないから医者に行くのである。
金融商品でもわからないから銀行員にたのみ証券会社に頼むのである。
だから何でもわからないからとすべて自己責任になると社会で生きてゆくこともできなくなる
株とは投資信託はそういうリスクがありますよというのはわかる
そうなると本当に思う,銀行員は特に地銀はそういうリスクをすべて地元の客におしつけるな,すすめるなともなる
もちろん株で投資信託でもそれぞれが自己責任でするならいいとなる
そういう投資信託でもうかる会社はある,ネットに出ているからだ
すると銀行に地銀に頼まずそこに頼めばいいとなる
ただ自分の場合その手続きとかがめんどうでしなかったのである。
やはり近くに銀行があり地元をまわっている銀行員がいるということが信頼を生んでいるのである。

いづれにしろこれもいろいろな問題があり次々に問題がもちこまれているのが自分なのである。それで疲れたともなる,そんなにいろいろなことを自分だけでは処理できないからである。
だから家事でもこれもいろいろあり金融でもあり忙しいのである。
そんなに人間はいろいろなことはできないのである。
だからこそ専門家にみんな頼むのだがそれでうまくいかないとしてもまた自己責任だと責められるのが現代なのである。

でも医者などはいろいろあっても患者を直すためのノウハウがありしている,そして手術などでミスすれば裁判にもなる
建築関係でも建物に手抜きがあって事故になれば責任問題になる
この銀行の投資信託とか株は銀行の責任問題にならない,責任が別な所にどうでも転嫁できるからである
医者の場合や建築関係は具体的に責任問題となり問われる
だから金融関係の仕事は何かというときいい加減な口八丁の仕事なのかともなってしまう。
別に客が損してもいい訳がつくからである。
銀行は融資して失敗したら損する,だから土地などの担保をとる,融資して失敗したら責任をとらされるのである。
だからこそ慎重にもなる,でも投資信託とかは客がすべてその責任をとらされるのである。
そういう商品を買わせているのである。それで銀行も責めることはできない自己責任になるのである。
だから知らない人は株でも投資信託でもするなという結論になるのである。
そして株とか投資信託でも素人が知ることがむずかしすぎるのである。
だからこそ素人は株とか投資信託に手を出すなともなる

ただ人間の仕事は商売でも一時もうかってもあとでそれが信頼を失い会社自体が駄目になることがある
地銀でも投資信託とか株で客にすすめると信頼がなくなるかリスクがある
今はいいけど後で銀行自体が信頼されなるなるのである。
銀行というものはそんなものか証券会社の下請けになったのかとかなる
地銀としての役割もなくなりみんなから見離されてしまうのである。

それは雨漏りを頼んだ大工さんが仕事をしたあとに何がかかったとか五六回も金を請求してくる
金は別に多少高くなってもしょうがない,しかし常識的にあとから何かかかった,またかかったとか次から次と後から要求されたらたまらない,いいかげにしてくれとなる
それで次の仕事は断ったのである。なぜなら仕事した後に何ににかかった今度は何にかかっていたとか要求されるからである。
そしたら頼めるか?怖くて頼めない,一回頼んで仕事してもらったそれがわかったからだ
そういうふうに信頼をなくしてしまい仕事も失うのである。
そういう危険が今や地銀とかにある,それはあせりもある,収入の道がないということもある
ただそこで地元の人からも信頼されなくなったらどうなるのか?
今日来た人は東京から大東銀行に出向してきた人であるから地元とは関係ないともなるからだ
でも地銀は地元密着型でありそこでの信頼関係が失われると地元の人から見離されるということがある
それで投資信託に手を出さないという信用組合とか地銀もある
とにかく今銀行が問われていることは確かである。


銀行にも責任はある,客が損した分の半分くらいは払う必要があるかもしれない
ただ逆に客がもうけたときはその半分はもらうとかなるかもしれない
客もやはり負担が強いられる,そんならしないというのもわかるし自由である。
ただ銀行は客が損したとき何のリスクもとらないことが別に客が損してもかまわないしどうでもいいとなる
手数料さえもらえば関係ないとなれば真剣にもならないのである。
客が損したら銀行も損するとなれば真剣になるからだ
だから銀行はこの点を改善しないと地元の客からも見捨てられるかもしれない・・・


posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

仕事したあとに次々に金を要求する大工 (困窮する人達が増えているためか?)


仕事したあとに次々に金を要求する大工

(困窮する人達が増えているためか?)

雨漏りしたから大工さんに頼んだ,その大工は五六回も仕事が終わったあとに金かかったと請求してくる,すでにそれなりに金を払っている
でも最初に見積もりもなくただ雨漏りを直してくれというだげで頼んだ
一二回ならいいそれが何度も後から後から請求されるのである。

何がここで問題になったのか?
この仕事はだいたいいくらかかりますかとか金額提示されないからだった
それで後から後から金を請求される
工事の請け負いでも落札価格があり決める,どのくらいの値段でしてくれるのかで決めるところが素人にはそうした工事していくらという値段がわからないのである。
ただ領収書で材料費にいくらかかったとかはわかる
その人はその領収書も見せないで後か後から金を請求してくる

つまり最初にいくらいくらでするとかおおよその目安を示してそれで契約する
その時多少高くてもそういう契約したのだからそれは双方で納得したことなのである。
契約がうるさいのは後でこうした問題が常に起きているからである。
ただ素人には例えばリホームとかでその値段がわからないのである。

だから仙台から来たユニットバスを作った会社は良心的だった
百万で作ると言って契約してその通りに立派なものを作ったからである。
イワタニではガス屋ではこれは二百万すると言っていた
もし地元の人に頼んだら知り合いの人を通じて頼んだら後から後から要求されて三百万になっていた
その人はいろいろあって大目に見て金を払ってきたのである。

というのは仮設の食堂で働いていて賃金をもらえなかったからである。
その仮設の食堂には自分は通っていたからである。
七〇万もらえないと自分のところに来て訴えるからかわいそうだと思って払ってきた
そこでは皿二三枚洗うのとは違う,かなりの労働だったからである。

要するに雇う人と雇われる人の関係は何なのか?
そこにはなんらか信頼関係がないと成り立たない
別に雨漏りで頼んだ大工さんが多少高くてもしょうがない,それは交渉である
でもあまりに高いと頼めないのはしかたないことである。
慈善事業ではないからだ
ここで問題は契約が大事なのはこうしてのべつもなく後から金を請求されたり困ることが双方に起きるからである。
それで樋も壊れたので頼んでいたが断った
つまり信頼関係がこれで壊れた,仲介した人との関係も悪化したりする
仲介する人の信頼も壊れてゆくこともある
なぜそんな人を頼んだとなるからである。
人と人の信頼関係が壊れてゆく

この前の家で手伝ってもらった人もそうである,家に来て盗むとなると危険となるその人はこの土地に今も住んでいる
するとこの土地にそういう人が住んでいることはこの土地はそういう危険があり信頼できないともなる,狭い田舎だとそうなる,その市町村は住むにも危険だともなるのである。雇うとか雇われるという関係もつくづくめんどうだった
そんなこと自分は経験していないからだ
雇う人雇われる人には問題が起きやすい,それは双方の信頼関係を築くのがいかにむずかしいかを示しているのである。
信頼関係を築くことがいかに人間はむずかしいかを示しているのである。
それは歴史的にもそうである。人間が信頼し合う関係は最高にむずかしいともなっているからだ

ともかく自分の所にくるものはこうして金を奪おうとうする人達が多かった
一人事業に失敗した人であり借金かかえているからただ金を奪おうという気持ちしかないから自分の困ったことがチャンスとなり脅迫のようになった
例えば銀行員などがまともだと思うと今は違う
地方銀行はもうかつての銀行ではない,収入がなく追い詰められて投資信託とか売っているがそれは手数料商売であり顧客がもうかるとはなっていないので手数料とりすぎるので金融庁から諫められたのである。
この前は親の代の親戚で金貸してくれとかきた,何かこの辺ですでに金がなく困窮している人が多いから余裕がないからそういうことをするとなる
自分の所にはそうした困窮している人が来るからこの辺の経済状態は悪い
それよりそれは下流老人と非正規とかフリーターとかニートとかそうした社会が貧困化している日本の問題が顕在化しているのである。

雨漏りの修理をたのんだ大工さんも仙台の方で働いているという,非正規の人は東京に職探しに行った,そういう何か困窮した人達が増えてきたのである。
それは日本全国でそうである。アベノミックスでいいのは株でもうけた人達である。
その株にしても普通の人はもうからない,極一部の人でありトリプルダウンはなかったのである。
もうこの辺はこうして困窮している人が増えてくる
この辺ではいいのは原発の避難民となり多額の補償金をもらった人達である。
それも全部ではない,復興団地に住んでいる人も多いからである。
豪邸を建てた人はやはり多いとは言えない

もう三年でこの辺は復興事業の予算が国からでなくなる,その時さらにこの辺は高齢化が他より一〇パーセント多いとかなり困窮する人達が増えてくる恐怖である。
それは自分のように今は余裕があっても回りが余裕がないのだから田舎では平等を徹底して要求するからのんきにしてはいられないのである。
三年などすぐだしその時もう自分も年で弱ってくる年齢である
するとさらにこの辺で住むことは苦しいことになってゆく
回りに余裕がないと経済的でもそうだが一人だけのんびりはできないのである。

だから今になるとニートとかフリーターとか非正規とかが社会の重荷になり責められるのである。
そういう経済状況でくなったからである
本当は高度成長時のときこそニートとかフリーターがまだ多くても良かったのである。
全体の経済が良かったからである。
でもその時は自分のようにニートとかになっていたのは本のわずかである。
だからそんな人いたのと誰も注意もしないし話題にもならなかったのである。
でもその時こそそういう人がもっといても良かったなと思うのも時代である。
とにかく時代によって人間はあらゆることの価値観から見方から変わって来るのである




posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題