2018年01月18日

老後の金の計算のむずかしさ (積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)


老後の金の計算のむずかしさ

(積み立てて月に年金五万でももらうと助かる)

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これは50から積み立てて90まで5万円もらう年金保険である。

一〇年間毎月60-70の期間を4万もらう保険だった,これは十年間だが民間の年金だった,これは親にかけてもらって役にたった
老後の備えは年金が有効である。毎月もらえるから安心感がある
それが4万でもそうだった,年金がいいのは死ぬまでもらえるものがあることだ
これは十年間だったが年金は死ぬまでだし新商品では九〇まで5万もらえるのは大きい
自分の場合は五〇〇百万かけていたから毎年五〇万くらいもらっていたのである。
これは貯金として五〇〇万円あるより安心なのである。
何か貯金は額が大きくて不安なのである。
老後にいいのは年金なのである。
年金を一定額もらえないと老後は苦しくなる,別に五〇〇万貯金と月々支払われるのと同じじゃないかとなるがそうでもない
これもそういう経験して不思議に思った
考えてみると10年間だと一〇〇〇万になると9万くらい月々支払われることになる

ところが貯金には何かそうした感覚がない,確実に使いすぎたりして目減りしてゆくのだ老後の金の計算はみんなしているだろう。
でも死ぬかわからないしいつ病気になるかもわからないし必ず不測の事態が起きるから困るのである。その時出費が増えて貯金は目減りするのである。
ただ正直金は計算できない,一千万あるとしてもその金がどういうふうになるのか?
みんな20年後まで計算するけどその間に何があるかわからないとしたら不安になるのである。

金はいつも同じ価値ではないからだ,百円の価値が半分の50円に実際はなっているとかなる,金の価値は常に変動しているのである。同じ百円でも千円でも同じ価値ではないのである。
だだ年金として支給されるのはわかりやすいというか安心がある
確実に90まで5万支給されるとなるとそれに厚生年金とかもらえれば安心になるのであるだからそういう保険ができたとんうのもわかる,高齢化社会だからそうなる
自分たちの世代にはまだそういう保険はなかったのである。
でも自分がもらったのはそういう保険の一種だった
ともかく何かと自分は親に良くされたのである。だから懸命に介護するのは当たり前だったのである。

高齢化の問題は実際は様々でありその対策はまだ出ていないのだ,こういう商品が出るのも高齢化社会である。
老後に備えないとならないということが普通になる時代になる
まだ自分たちの団塊の世代はそこまでしていない人が多い,そこまで余裕ある人は少ないだから下流老人化してゆくのが多い,高齢化は日本だけではない中国でも今すでに深刻である,一人っ子政策で親のめんどうみるのが大変なことになっているからだ
その制度も介護保険も整備されていないからだ

老後の問題は高齢化社会の問題はいろいろあるが金の問題が中心になっている
本当はそうではないが金がわかりやすいからそうなっている
現代はこれだけ金の支配する社会になったのだからそれに不満をいってもどうしようもない,金を中心に老後をまず考えるのはやむをえないことである。
なぜなら子供でも金は出せないとか大家族で世話してくれるわけではないからとなる

不思議なのは1000万の貯金を10年間で計算すると月々およそ九万にもなるのかということである。
84000×12=1008000となっている,これがなかなか納得いかないのである。
年金にすると厚生年金とか国民年金を加えると結構大きな額になるからだ
だから金をどう計算するかはむずかしい,とても数式通りにはいかないからである。
一千万の価値がそんなにつづくのか維持できるのかともなるからだ
もしかしたら半分にも低下しているかもしれないからだ

死ぬまでの金の計算などしたくない,でも高齢化ではしたくなくても避けられないのである。金が尽きたら人生も終わりだともなるかもしれないからだ
だからこそ年金は老後には大事なものなのだと最近わかってきたのである。
その自覚が若い人にはない,絶対にもう60代では人は死なない
今の40代は90才が男の平均寿命になるかもしれないからだ
すると60からの生活をどうするか金をどうするかが問題になるから高齢化また金がさらに必要な時代だとなる,それは用意していない人が多いのである。
自分は親に用意されていたが金だけではたりなかった,それで一人孤軍奮闘してきたことを書いた,これからもそうである。

人生は短すぎたから長くなることは悪いことではない,ただそこに数が多いから社会の負担が増えて問題になる
ただ個々人をとってみれば長く芸術でも探求してきたことを追及できる時代だとなるのだ芸術家は特に詩人などでも早く死にすぎたからである。
そうするといい作品も残せないとなる,それより芸術はつくづく時間をかけないと理解できないものだった,それだけ深いものがあるからそうなっていたのである。
鑑賞すること自体がむずかいしものだったのである。

要する高齢化社会は日本だけではない人類の課題として与えられたのである。
高齢を生きることで人生を豊かにする社会なのである。
それが人類史上はじめてのことだから問題が起きているのである。
人間の一つの願いに長寿があったのである。
それはあまりにも人間が早く死にすぎていたからである。
だから長寿が今実現するというときそれは人類の長い間の願いがかなう時代になったということでもある,ただそれだけからこそいろいろな問題が噴出しているのである。

はっきりいって株とか投資信託とかは老人向きではなかった
老後のたしにしようとしたがかえって損したりする
つまり老後に高齢化社会に向いたものでないなと合わないということがあった
それが証券会社でも銀行でも用意していないのである。
投資は若い人向きである。知識も経験も必要だし先が長く考えるのもそうである。
ところが老人向きのはそういう商品ではなかったのである。
東京のメガバンクなどでは老人向きの商品を出していたのである。
やはりこの辺は田舎では不利だったなとつくづく思う
高齢化というとき都会では高齢者だけが集まる食堂もあり高齢者用の食事も出している
それはやはり数が集まるからそういうサービスが生まれる
田舎ではそれだけの金がある老人とかが集まらないから老人向きのサービスが生まれないのである。
ただ高齢化社会ではこうしたサービスを銀行でも証券会社でも考慮せねばならない時代になったのである。
その対応がないから自分は安心安全で冒険したくないと言ったがそういう商品を示してくれなかったのであり
また地銀ではできなかったのである。

地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる (その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)


地銀などの投資信託でも株でも商品の数が少なすぎる

(その説明もないし地銀とか証券会社のもうかるものを提供する)

自分の経験では勉強していないからわからなかったけどいろいろな商品があるし投資信託でも安全に投資できるものがある
地銀には一つ二つしかなく勝手に相手の銀行と証券会社の都合で決められているふしがある
調べればいろいろなものがあった,投資信託でも積み立てとかいろいろな方法があった
でもそんなものは一切紹介されない
そういう商品をそろえられないのである。
メガパンクでそういうものをそろえているからそこの案内に行けば教えてくれる
でも田舎の地銀はそうした商品の知識すらないのである。
大和証券が来たらそこから与えられるものであり地銀はただそれに従う下請けである。
様々な商品を投資の仕方が提示できない,ただ証券会社にとって投資信託などの商品もいろいろあっても銀行がもうかる証券会社がもうかるものを提示するだけである
だからこうした証券関係や投資信託などは田舎では不利である。

要するに地銀では東京のメガバンクなどと比べると格段の商品の差がある
そしてその仕方もいろいろあり安全志向のもある
地銀で損したら半分リスクをとって払いというときそういう商品もあるみたいだ
この世界は商品の種類が多いが田舎に来るときはすでに証券会社と地銀のもうかるものを提示して与える,そしてそれしか方法がないのである。
だから安易に知らないですると損する
本当は少額で訓練してやれば良かったとなる,それなら損しても仕方がないとなるからだそうするとまた証券会社とか銀行でもめんどうだから相手にしないということもある

何も勉強しないで銀行だから安心だとしてまかせたのが自分のもともとの失敗だった
自分では調べることもできない,他にすることがあってできない
だから時間がとられるから頼んだがそこが裏目に出たとなる
つまり人間は何するにも時間が必要であり時間をさかないと実りがないのである。
それは天才とか特別な人でなくても一つのものを探求すればそれなりのものになる
それはそのテーマに時間を費やしたということなのである。
それは株でも投資信託でも同じだった
みんな銀行に一括してまかせたら時間は節約できてもその代わり実りは収入はないのである。

本当は株でもうけるならデイトレイダーのように一日パソコンの画面を見ていることである。だがそうなる他のことは一切できなくなる
その人の時間はパソコンで株をみることに費やしたとなる
ただ結果として大金持ちになることもある
そこに時間を費やして大金を得たのである
ただ貴重な時間はそのために消えた,すると後で老人になって後悔することになる
金はあるけど自分のしたことはパソコンの画面で株の値動きを追うだけだったとかなる
この時間が貴重なことが人間にとって盲点だった
時間などいくらでもあるというが時間は確実に消失する
そして最後は何にもできなくなる,ベッドで病院の天井だけを見て死ぬだけだともなる

だから老人になるとみんなあの時何をしていればよかったとかみんな後悔している
それはどんな優秀な人でもそうなのである。
それだけ時間を有効に使うのはむずかしいのである。
金がいいのは金があれば他人を金で雇うことができる,すると家事してもらえばその人は自分のしたいことに集中できる
金で時間を買うというときはそういうことなのである。
でも人間は何かを経験するというとき家事だって経験なのである。
それに時間をさいて家事を理解する,料理も理解する
それを全部他人にやらせたら経験がないとなり損したともなる
時間はこの世には様々なことがありそれを経験することだからである。

結局株でも投資信託でもそれを経験していないからわからない,わからないのに近くの銀行員だから安心だということはなかった
むしろ東京のメガバンクのような多様な商品がありそれで説明されて入るというものでもない
本当に非常に限られた数個の株でも投資信託しか紹介しないからである。
そのやり方も説明しない,銀行のもうけになるから最初大金を入れてももらうことになるまた売り手数料を稼ぐ,それが全部悪いというのではないが説明もその時ない
それは営業する人にもよるかもしれないが地銀には本当に商品が少なすぎる
メガバンクなら老人にあった投資の商品も仕方もあったのである。
ただ田舎ではそれを申し込むにも店舗に行けないのだからできないのである。
だから田舎では投資信託とか株はすべきではないとなる
すすめれるものでも確かにいいものはある,ただ選べないのである。
田舎はここでかなりこうした商品とか投資では不利になっていたのである。
アマゾンで本を買うなら平等だが投資は平等ではなかったのである。

ただ銀行員は毎日地元の人達の家を一軒一軒回っている,そして何度も来る,それが信用なっていたのである。ネットとは違うリアルな人間が直接来ることが信頼になる
でも証券とか投資信託とか株は必ずしもそしてもうけるものではない
その仕組みがわかればパソコンの画面で取引して一人でもできる
それになるには相当時間をさくし訓練が必要なのである。
そのためには資金も必要なのである。
だからこそ銀行員に頼んだがそれが裏目に出たのである。
銀行員自体が知らないし地銀はそうした老人向きでも多様な商品をそろえられない
またその投資の運用の仕方もいろいろありそれも説明しないのである。

自分は何度もそんなにもうけなくてもいい,、損はしたくないと言っていた
そういう商品が売られていたのである。
銀行員では答えられない,そんな商品をそろえられないからである。
田から証券会社と銀行に都合のいいものだけを紹介されるともなる
確かに一つはなんとか利益を出したみたいだけど元本から分配金はひかれて損もないがもうけもないという感じなのである。

老後に投資などで知らないことで金をとられるな

これは言えたのである。投資は田舎と都会の差が意外と大きかった
地銀では素人に毛がはえたくらいの経験と知識もない
蓄積もないのである。だからそもそもそんな商品を売ることができないから一方的に証券会社の下請けになっている,独自に何か商品をそろえたりその仕方を教えることもできないのである。
ただ銀行に都合のいい商品を売って手数料を稼げばいいとなる
そういうことを知らないで銀行員にあづけたのは自己責任だとされる
ただ何か老人はもう時間がない,将来生きる時間が限られている
それで一から勉強するものは無理になる
その老人の弱点を知ってその需要に答えられる商品があっても紹介されなかったとういことである。また地銀ではできなかったのである。




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自分の失われた金 (カルマの清算のために金は失った)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)

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今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






株や投資信託は経験知識のないものはするな (老人が金をためこむほかない訳)


自分の失われた金

(カルマの清算のために金は失った)


今貯金を計算したら相当へった,それはこれらの人に使ったからである。
その額は大きい,事業失敗者にも払った
盗難の額が一番大きかった,これは痛手だった
親戚の遺産分配もそれなりに大きかった
困窮者が来て援助するはめになった,これもそれなりに要求されて大きかった
そして地銀もまた同じようにもうけ話をもってきても結果は銀行や証券会社に手数料とかとられるだけだった

結果としてずいぶん減ったと思う,ただ助かったのは介護は手間だったけどそれほど金がかからなかった,それは自分一人でのりきったからである
ただその間に自分が病気になったりして盗難にあったり苦しい目にあった
介護は本当は二人だからもっと金がかかっているのが普通である。
でもここで金がかかっていないから残ったともなるかもしれない
病院に入院して治療代とか安いし自宅で介護していてもベッド代にしても安いから意外と金はかからなっかた,手間はかかったがかからなかった
ここで金を使っていたら残らなかった
介護とか病気とかで金がかかると思っているが意外と保険があるからかからない
ただ保険金を払うことにかかるだけである。
だからそこを心配する人がいるが自分の場合介護医療には意外とかからなかった
ただ私的に介護する人をたのんだら月三〇万とか一千万くらいかかったともなる
つまり自宅介護で自力でできるなら金は意外とかからないのである

ともかく金は要求されて出ていったとなる,それもしかたない面はあるがここでわかることは困窮者が多いからこうなっているのである。
一見銀行が関係しないようでも銀行も地銀などが困窮会社になる
もうけることができない,金を貸さない金貸しがいるのかと揶揄されたことでもわかる
金を貸してもうけるのが銀行だけどそれができないから銀行の役割はなくなり消滅してゆく危機である。

事業失敗者の要求も追い詰められているから余裕がないから介護する自分の家にきても助けることなどできない,ただ重荷となって自分に事業失敗の金をなんとかしてくれとくるだけである。それはだんだん自分が死んだら金が入るのではないかとすら思うようになる保険金殺人のようになるから怖い
人間はみんな金に追い詰められればそうなる
わずかの金でも殺すし借金が犯罪の動機になるのが普通である

なぜ自分がこんなに金で責められたのか?
それはみんな金に余裕がないからである。
差し迫ったものがありそれが強盗のようなものにもなり脅迫めいたものにもなり自分は苦しめられたのである。こういう人は他人に同情する余裕もなにもなくなっているから
そういう人が自分が苦しい時に来ればかえって苦しめるだけだったともなる

ただこうなったのも自分の親のカルマと自分のカルマだったのである。
ふりかえるとカルマの清算を強いられたのである。
必ずカルマの清算時期がある,遺産相続したりすると必ずこうした金のことでもめる
だからカルマの清算は過酷なのである。
必ずそのカルマの清算の時はやってくる
へたすると殺されるということさえカルマが重ければなる
それは自分だけではない,例えば親が金があってもその金がブラックな金だとカルマの清算が強いられる,金があればすべていいとはならない,そのブラックな金のためにカルマがまわってきて苦しめられる
それは人生の法則のようなものである。若いときの過ちもそのままでは終わらない
必ずカルマとなり後年責められる苦しむことになる

ただここで銀行に苦しめられというのは無知だからだろう,銀行に責任があるわけではない,それはただ知識がない経験がないことでのってしまっただけだとなる
ただ銀行も今は困窮者になっているから余裕がないから証券会社化したのである。銀行もまた困窮者だから苦しめる側になったともなる
困窮者になれば明日食べるものがなければ相手を襲ってでも奪っても殺してまで得ようとするだろう。そこまで追い詰められている人間は善悪はなくなるからだ
そういう人に出くわすのもカルマだとなるかもしれない
自分がそうだったとなる,でないとなぜある人がなぜ事件にあい,苦しめられるのか理不尽だとなるからだ,

もう自分は自分の親とか自分でもカルマを清算したとしてくれとなる
これ以上金はもうない,それで許してくれともなる
つまり金をもつことはこうしてカルマになるから気をつけろとなる
金の額にもよるが平均的にしても上回る金だと今は貧困者が多いから責められる
田舎では特にそうである。田舎では大金持ちなどは住めない
なぜあいつは金をもっているんだとなるからだ
ともかく金というのはどこまでもついてまわる,そして地獄の沙汰も金しだいになる
金の恐ろしさがわかる,金をめぐって人生も変転する
だから人間は金から解放されたいと心底願うようになる
そして強欲資本主義とか金融資本主義がやがては成り立たなくなる,そして別なシステムが生まれるのか?そういう時代が来ることを願うほかない

ただ天に宝を積めというときこの世に積んだ宝も金もそれは腐れる,死ぬときは結局そんなものは意味がなくなる,天国ではこの世の金で生きるのではない
天に積んだ宝で生きる,金にふりまわされることはもうないのである。

カルマの精算期にきたら

本当にこういうことがある,もうこれは法則のようなものである。
人はカルマから逃れられないのである。ただ苦しみがないと自覚できないのである。
なんらか苦しみがともなうときカルマを自覚するのである

自分はカルマ消すことをしてきた,だからもう金ではめんどう起さないでくれとなる
金のカルマから解放されたいとなる






タグ: 投資信託
posted by 老鶯 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月17日

株や投資信託がわからない人はするな? (すべて自己責任になる)


株や投資信託がわからない人はするな?

(すべて自己責任になる)


人間は何でも知っていたりできない,極一部しか知ることができないしできない,だからこそいろいろな人に頼む,病気になれば医者にみてもらうし家を建ててもらうには建築会社に頼む,大工さんに頼む,墓を作るとしたら墓を作ってくれる会社に頼む
人間はあらゆることに通じることはできない
だから投資信託とかも株でもわからないからこそ銀行員が来ればそれに頼む人が多いのである。

では知らないからとすべてが自己責任になるのか?
投資信託とか株とかはそうなりやすい,私たちは十分に説明してすすめたのです
ただいろいろな状況で株は変動するものですし投資信託でもそうです
それが下がる時も上がる時もあるのです
その責任は私たちにないのですという言えばそれまでで追及はできない
要するに知らないと自己責任になるのである。

別に他にも投資信託をネットでするとか会社もある,ただそうなるとまた手続きがめんどうになったりする,銀行員は近くに支店があり地元を一軒一軒まわることで頼み安いとなる,でも証券とか投資信託とか株はそういうものではない
これは知識とか経験かないとそもそもできなものである
いくら一軒一軒まわって対面的に相談するにしても株とか投資信託とか証券はそういうものではない,一軒一軒まわる銀行員がいてもそれで信頼できるというものではない
ただそれで手続きができて安心感があってすすめられてしている
利子がつかないから投資信託だともうかりますとか言われればそうなる

でも投資信託は実際はもうからない,手数料でも高いし毎月分配はもうからない
仕組み的にはそうなっている,リスクだけが怖いと思うようになった
利益になるよりそっちの方が怖い商品だと思った
だから株とはそもそも大きなもうけがありそれで余裕ができてまた株をするというのがいい,毎月配分型とか利子がつく感覚でやるものではない商品である。
株はそもそもそういうものだからである。時々の状況にも左右されやすいからである。

自分は株にも証券にも国債にも投資信託も知らないけどした
それは結構大金だった,それは銀行員だと地銀だと銀行員は地元をまわっている
それで頼みやすいのである。そこに信頼が生まれている
でも株とか投資信託とかはそういう性質のものではない
銀行員が地元と回って歩いているからと信頼がましてもうけがあるという商品ではない
性質の違った商品なのである。
しょっちゅう顔を合わせているからといって株が上がったり投資信託が上がったりしないからだ

地銀の仕事はなになのか?やはり地元に支店がありface to faceで仕事している
でもこれはそういう仕事とも違う,ただ証券会社とかなると地元に支店もない
地銀というのは地元志向で土着的だともなる
ただ地元の会社を育てるとかなくなるとそれは役割を終えたのかとなる
電子化してゆくと特に金の管理でも自動化するからである。
地銀というのは地銀として本来もっていた役割を終えたのである。

だから今日は大和証券の人が来たが銀行は証券会社の下請けになったのかとなる
つまり銀行はかつてのような信頼できる地元に土着した密着したものとは違う。
証券会社の下請けになったとのかとなる
なぜなら株に投資しろとか投資信託になると証券会社の方が断然上になるからだ
証券会社はそういう仕事をしてきたのだから当然だとなる
すると銀行は何をするところなのか?それが問われることになる

それは商店は地元にありそれは土着的であり信頼感をもつ,ところがインターネット販売になると違ったものになる
それでケーズデンキで通販で調べて最新式のデジタルカメラを買った,店に飾ってある商品が少なすぎるからである。ただアマゾンでノートパソコンを買ったが壊れて修理に出すところがなかった,それで損したこともあり近くに店があると安心なのである。
そのことはアマゾンだけになるとそうした商店は消滅してそこには人間がいなくなる
それで緊急時にはそうした食料すら手に入れらなくなると忠告する人もいる
それは近くに現実のリアル商店がないことからそうなるのである。
だから銀行でも現実にリアル店舗として地元にあることがネット化しても必要なのかもしれない,ただコスト的に女性の窓口業務などは無駄だとなり廃止されてゆくしすでにしている

大和証券がもってきたのはAI化自動化ロボット化する会社の株を買いということである。そのファンドでありそれは毎日のように今や話題になっている
そこが社会を変えるから株が鰻登りに上がっているという,そこに将来性があるというのはわかる,だから納得するから買ってもいいとなるのか思案する
でもまた前の投資信託を解約すると何か金がとられたりする
その株を買えばまた手数料がとられる,その手数料の額が馬鹿にならないのである。
投資する額が多いとそうなる,そのもうけは証券会社と銀行に入るだけだとなったのが現実だったのである。
そもそも銀行が投資信託をすすめるのはメリットがある,それが会計上そうなっている
ただそうした仕組みを理解すること自体むずかしすぎる

だからわからないか人は株や投資はするなというのもわかる
結局説明されてもわからない,そのわからないことで失敗しても自己責任だとなるからだ
ただ金融でもそうだが病気のように自分で直せないから医者に行くのである。
金融商品でもわからないから銀行員にたのみ証券会社に頼むのである。
だから何でもわからないからとすべて自己責任になると社会で生きてゆくこともできなくなる
株とは投資信託はそういうリスクがありますよというのはわかる
そうなると本当に思う,銀行員は特に地銀はそういうリスクをすべて地元の客におしつけるな,すすめるなともなる
もちろん株で投資信託でもそれぞれが自己責任でするならいいとなる
そういう投資信託でもうかる会社はある,ネットに出ているからだ
すると銀行に地銀に頼まずそこに頼めばいいとなる
ただ自分の場合その手続きとかがめんどうでしなかったのである。
やはり近くに銀行があり地元をまわっている銀行員がいるということが信頼を生んでいるのである。

いづれにしろこれもいろいろな問題があり次々に問題がもちこまれているのが自分なのである。それで疲れたともなる,そんなにいろいろなことを自分だけでは処理できないからである。
だから家事でもこれもいろいろあり金融でもあり忙しいのである。
そんなに人間はいろいろなことはできないのである。
だからこそ専門家にみんな頼むのだがそれでうまくいかないとしてもまた自己責任だと責められるのが現代なのである。

でも医者などはいろいろあっても患者を直すためのノウハウがありしている,そして手術などでミスすれば裁判にもなる
建築関係でも建物に手抜きがあって事故になれば責任問題になる
この銀行の投資信託とか株は銀行の責任問題にならない,責任が別な所にどうでも転嫁できるからである
医者の場合や建築関係は具体的に責任問題となり問われる
だから金融関係の仕事は何かというときいい加減な口八丁の仕事なのかともなってしまう。
別に客が損してもいい訳がつくからである。
銀行は融資して失敗したら損する,だから土地などの担保をとる,融資して失敗したら責任をとらされるのである。
だからこそ慎重にもなる,でも投資信託とかは客がすべてその責任をとらされるのである。
そういう商品を買わせているのである。それで銀行も責めることはできない自己責任になるのである。
だから知らない人は株でも投資信託でもするなという結論になるのである。
そして株とか投資信託でも素人が知ることがむずかしすぎるのである。
だからこそ素人は株とか投資信託に手を出すなともなる

ただ人間の仕事は商売でも一時もうかってもあとでそれが信頼を失い会社自体が駄目になることがある
地銀でも投資信託とか株で客にすすめると信頼がなくなるかリスクがある
今はいいけど後で銀行自体が信頼されなるなるのである。
銀行というものはそんなものか証券会社の下請けになったのかとかなる
地銀としての役割もなくなりみんなから見離されてしまうのである。

それは雨漏りを頼んだ大工さんが仕事をしたあとに何がかかったとか五六回も金を請求してくる
金は別に多少高くなってもしょうがない,しかし常識的にあとから何かかかった,またかかったとか次から次と後から要求されたらたまらない,いいかげにしてくれとなる
それで次の仕事は断ったのである。なぜなら仕事した後に何ににかかった今度は何にかかっていたとか要求されるからである。
そしたら頼めるか?怖くて頼めない,一回頼んで仕事してもらったそれがわかったからだ
そういうふうに信頼をなくしてしまい仕事も失うのである。
そういう危険が今や地銀とかにある,それはあせりもある,収入の道がないということもある
ただそこで地元の人からも信頼されなくなったらどうなるのか?
今日来た人は東京から大東銀行に出向してきた人であるから地元とは関係ないともなるからだ
でも地銀は地元密着型でありそこでの信頼関係が失われると地元の人から見離されるということがある
それで投資信託に手を出さないという信用組合とか地銀もある
とにかく今銀行が問われていることは確かである。


銀行にも責任はある,客が損した分の半分くらいは払う必要があるかもしれない
ただ逆に客がもうけたときはその半分はもらうとかなるかもしれない
客もやはり負担が強いられる,そんならしないというのもわかるし自由である。
ただ銀行は客が損したとき何のリスクもとらないことが別に客が損してもかまわないしどうでもいいとなる
手数料さえもらえば関係ないとなれば真剣にもならないのである。
客が損したら銀行も損するとなれば真剣になるからだ
だから銀行はこの点を改善しないと地元の客からも見捨てられるかもしれない・・・


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仕事したあとに次々に金を要求する大工 (困窮する人達が増えているためか?)


仕事したあとに次々に金を要求する大工

(困窮する人達が増えているためか?)

雨漏りしたから大工さんに頼んだ,その大工は五六回も仕事が終わったあとに金かかったと請求してくる,すでにそれなりに金を払っている
でも最初に見積もりもなくただ雨漏りを直してくれというだげで頼んだ
一二回ならいいそれが何度も後から後から請求されるのである。

何がここで問題になったのか?
この仕事はだいたいいくらかかりますかとか金額提示されないからだった
それで後から後から金を請求される
工事の請け負いでも落札価格があり決める,どのくらいの値段でしてくれるのかで決めるところが素人にはそうした工事していくらという値段がわからないのである。
ただ領収書で材料費にいくらかかったとかはわかる
その人はその領収書も見せないで後か後から金を請求してくる

つまり最初にいくらいくらでするとかおおよその目安を示してそれで契約する
その時多少高くてもそういう契約したのだからそれは双方で納得したことなのである。
契約がうるさいのは後でこうした問題が常に起きているからである。
ただ素人には例えばリホームとかでその値段がわからないのである。

だから仙台から来たユニットバスを作った会社は良心的だった
百万で作ると言って契約してその通りに立派なものを作ったからである。
イワタニではガス屋ではこれは二百万すると言っていた
もし地元の人に頼んだら知り合いの人を通じて頼んだら後から後から要求されて三百万になっていた
その人はいろいろあって大目に見て金を払ってきたのである。

というのは仮設の食堂で働いていて賃金をもらえなかったからである。
その仮設の食堂には自分は通っていたからである。
七〇万もらえないと自分のところに来て訴えるからかわいそうだと思って払ってきた
そこでは皿二三枚洗うのとは違う,かなりの労働だったからである。

要するに雇う人と雇われる人の関係は何なのか?
そこにはなんらか信頼関係がないと成り立たない
別に雨漏りで頼んだ大工さんが多少高くてもしょうがない,それは交渉である
でもあまりに高いと頼めないのはしかたないことである。
慈善事業ではないからだ
ここで問題は契約が大事なのはこうしてのべつもなく後から金を請求されたり困ることが双方に起きるからである。
それで樋も壊れたので頼んでいたが断った
つまり信頼関係がこれで壊れた,仲介した人との関係も悪化したりする
仲介する人の信頼も壊れてゆくこともある
なぜそんな人を頼んだとなるからである。
人と人の信頼関係が壊れてゆく

この前の家で手伝ってもらった人もそうである,家に来て盗むとなると危険となるその人はこの土地に今も住んでいる
するとこの土地にそういう人が住んでいることはこの土地はそういう危険があり信頼できないともなる,狭い田舎だとそうなる,その市町村は住むにも危険だともなるのである。雇うとか雇われるという関係もつくづくめんどうだった
そんなこと自分は経験していないからだ
雇う人雇われる人には問題が起きやすい,それは双方の信頼関係を築くのがいかにむずかしいかを示しているのである。
信頼関係を築くことがいかに人間はむずかしいかを示しているのである。
それは歴史的にもそうである。人間が信頼し合う関係は最高にむずかしいともなっているからだ

ともかく自分の所にくるものはこうして金を奪おうとうする人達が多かった
一人事業に失敗した人であり借金かかえているからただ金を奪おうという気持ちしかないから自分の困ったことがチャンスとなり脅迫のようになった
例えば銀行員などがまともだと思うと今は違う
地方銀行はもうかつての銀行ではない,収入がなく追い詰められて投資信託とか売っているがそれは手数料商売であり顧客がもうかるとはなっていないので手数料とりすぎるので金融庁から諫められたのである。
この前は親の代の親戚で金貸してくれとかきた,何かこの辺ですでに金がなく困窮している人が多いから余裕がないからそういうことをするとなる
自分の所にはそうした困窮している人が来るからこの辺の経済状態は悪い
それよりそれは下流老人と非正規とかフリーターとかニートとかそうした社会が貧困化している日本の問題が顕在化しているのである。

雨漏りの修理をたのんだ大工さんも仙台の方で働いているという,非正規の人は東京に職探しに行った,そういう何か困窮した人達が増えてきたのである。
それは日本全国でそうである。アベノミックスでいいのは株でもうけた人達である。
その株にしても普通の人はもうからない,極一部の人でありトリプルダウンはなかったのである。
もうこの辺はこうして困窮している人が増えてくる
この辺ではいいのは原発の避難民となり多額の補償金をもらった人達である。
それも全部ではない,復興団地に住んでいる人も多いからである。
豪邸を建てた人はやはり多いとは言えない

もう三年でこの辺は復興事業の予算が国からでなくなる,その時さらにこの辺は高齢化が他より一〇パーセント多いとかなり困窮する人達が増えてくる恐怖である。
それは自分のように今は余裕があっても回りが余裕がないのだから田舎では平等を徹底して要求するからのんきにしてはいられないのである。
三年などすぐだしその時もう自分も年で弱ってくる年齢である
するとさらにこの辺で住むことは苦しいことになってゆく
回りに余裕がないと経済的でもそうだが一人だけのんびりはできないのである。

だから今になるとニートとかフリーターとか非正規とかが社会の重荷になり責められるのである。
そういう経済状況でくなったからである
本当は高度成長時のときこそニートとかフリーターがまだ多くても良かったのである。
全体の経済が良かったからである。
でもその時は自分のようにニートとかになっていたのは本のわずかである。
だからそんな人いたのと誰も注意もしないし話題にもならなかったのである。
でもその時こそそういう人がもっといても良かったなと思うのも時代である。
とにかく時代によって人間はあらゆることの価値観から見方から変わって来るのである




posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月16日

駅にものものしく警官が来た (高校生に何かあった?)


駅にものものしく警官が来た

(高校生に何かあった?)

今日はばあちゃんが一人きていた,何でも鹿島の仮設に住んでいたから来てみたと言っていた,今は新地に住んでいる,息子が住んでいるのでそこで暮らしているという。
そのばあちゃんは電車に乗っていなかったので電車のことがわからないと言っていた
車の免許をもっていたけど今は乗らないという
80過ぎているからだ,そういう人が増えているのである。
その人は小高の井田川に住んでいたのである。
仮設の食堂には良く行っていたという,仮設は壊されている,残るのはわずかとなる

今日はものものしく警官が五六人駅に出入りした,知っている警官もいた
一人に聞いてみたらなんか丸坊主の高校生とかに何かあったらしい
それで通学しているから電車を待っていたのかとなる
何かものものしいから確実に高校生が問題を起こしたのかもしれない

まず駅にはいろいろあるものだと思った,駅がこんなにいろいろなことにかかわるとは思っていなかった
駅は広場の役割があり人々が交わる場でもある,だから生の情報が得られる
インターネットとかではない直接交わる情報が得られる場である。
外部からも来るから外の人と内の人が交わる場所でもある

小高駅はやはり高校に通う人が五〇〇人とかいるからそこで駅員が必要となり鹿島駅から移ったのか?
何か今日の警官のものものしい出入りではそういうものを感じた
詳しく警官に聞こうおうとしたが後はしゃべれないといった
何か推理ドラマでも警官と記者がやりとりするのとにている
自分はボランティアの記者にもなっているからだ

ともかく駅はいろいろなことが起きる場であるこを知った
それは社会といろいろかかわる場だからそうなっている
外部の人でも多様な人々が出入りして交わる広場の役割をしている
それで振込詐欺の犯人が監視カメラに移り鹿島駅でつかまったというのも驚く
駅は外部の人の出入り口にもなっているからだ
ただ今は車であり道の駅がそうなっている,車だと何かわかりにくいのである。
自転車で旅行していると目立つから職務質問などを受けやすい
車はわかりにくいのである。だから車の犯罪だと警官も追跡しにくくなる



南相馬市長選挙迫る (問題山積みは続いている)


南相馬市長選挙迫る

(問題山積みは続いている)


かねてから南相馬市に住んでいる人、震災後に避難先から戻って来た人、震災後に引っ越して来た人たちが暮らしています。皆、言葉に出すことは少ないですが、震災後に南相馬市に残ったか、残らなかったかという溝や受け取った賠償額の格差による溝ができているのです。

 市選挙管理委員会によると、有権者約5万3千人のうち、約5600人が避難などで市外に住んでいる。

 

津波原発事故の後遺症は傷は深い,津波の被害者がいて原発事故の避難者がいてさらに今南相馬市で問題になるのが浪江町などの原発避難者なのである
その復興団地を見ればわかる,その数が原町区では多いのである。
だから浪江町の人たちも実際は浪江に帰らないというとき南相馬市の住民になっている
ただ浪江町の住民だから選挙権がないのである。それで自分たちの利益を主張できないことはある
ただ税金は別に払っているから何も権利がないのとは違う,外国人でも生活保護の権利があるからだ
ただ今回の選挙で浪江町の人たちのことを考えると選挙権がないからこれはどういうことなのか?
浪江町の人に候補者は訴えることはしないとなる
選挙権がないということは市民権がないということなのか?何かそれに通じるものがある

そもそも浪江のことを考えると何なのだろうとなる、公務員だけが必死に働き町を復興させようとしている
職員がたりなくて新しく採用した人が仕事ができなくてはらはらになったとかある
実際に津波で被害にあった町に外から応援に来たほかの自治体の職員が三人死んでいる
過労になったのである。
不思議なのは公務員が必死になっても肝心の住民がいなくなれば公務員が成り立たなくなったのである。
王様がいて家来がいる、社長がいて社員がいる、住民がいて役所の公務員がいる
家来がいなくなれば王様もなくなる,社員がいなくなれば社長もなくなる,住民がいなくなれば役所は成り立たなくなる、公務員だけが残るともなる
現実に浪江ではそういう状況になっているのである
みんな帰らないと言っているからだ

そしてわからないが浪江の人とか原発避難者は立派な豪邸を建てているのが見かける
ケーズデンキの近くの家の庭が立派なのである。石が豪壮であり見惚れてしまう
自分は石に興味があるから見惚れる
その石だけでも一千万とかかかっても不思議ではないように見える
鹿島地区では新しい家が百軒以上建ってもあれだけの立派な庭は見ていない
ではなぜそれだけの庭と家を建てた人はどういう人なのか?
それはやはり原発避難者だろう、大熊、双葉、浪江とかになる、主に浪江とかかもしれない
一方で深野のユッサの庭はそういうのに比べる貧弱なのである。
あそこはみんなが外部の人も集まるから立派な庭にしてほしいとなる
自分は庭が好きだからそうみる、環境的にもいい庭を作るのに向いているからだ

その土地に市町村に住んでいれば誰でもこうあってほしいなと思うことがある。
ユッサは民間であれ場所的にはいいしもっと庭をいい庭にしてほしいとかなる
駅でボランティアしていると駅でも駐車場が整備されていないので外からの人が入りにくいとか
高齢鹿社会になるから車を利用できなくなる人が増えてくるから対策してほしいとかなる
争点が子育てとか教育になっているのはやはり未来を背負う人を育てないと市町村は将来つぶれてゆくという
ことで全国的にそうなっている
この辺では小高でもそうだが限界集落化したし浪江とか双葉とか大熊では町自体が消滅する危機なのである。
それで南相馬市だけではない浪江町も含んだ広域的なものとしての政治の対策必要になっている
それは県とか国でしているとなるがもう浪江町は維持できるか維持できないのかの瀬戸際なのである。
現実には浪江町の人が南相馬市に千人以上とか住人に実質はなっている
そういう問題も南相馬市にはある,相馬市とか新地でも移り住んだ人があるから同じようにあるが南相馬市は一番多く引き受けているから問題なのである。

桜井氏の評価はいろいろだろう。政治家は何で評価されるのか?芸術家なら作品で評価するからわかりやすい
政治家の実績は何なのか?前の渡辺市長の実績は駅前の図書館を作ったことである。
それは賛否両論があるにしろ実績としてわかりやすい,自分は今では評価していない、インターネット時代になり利用しなくなったからである。
そういう箱物は必要なかったとも時代でなる、街の活性化にも役立たない,ただ買い物するスーパ−とかが併設すれば活性化していたかもしれない
高齢化になると車を運転できない人が増え電車を利用する人が増えてくるかもしれないからである
高齢者対策も必要になる、一方で保育所とか教育とか仕事を作るとか将来のための政策も必要である。

国は東日本大震災の復興事業期間を10年として所得税等の増税により財源を確保しましたその10年の期間も復興創生期間残すところ3年になります

こうなると3年後はこの辺の経済状況はかなり厳しいものになるだろう
今まで復興のために金が入ってきたし工事関係者も入ってきて建築関係は活性化した
息を吹き返した,ただそれが本当に三年後で終わりになることは厳しい状態になる
なぜ最初は地元で除染で働きいわき市の方で働き次にまた働く場所がないとか東京に探しに行った非正規の労働者がいる
これも良くわからないが地元での仕事が減ってきていることは確かなのだろう。
例えば浪江町ではこの駅の公衆電話の修理であった人は浪江の人だけどやはり原発で働いていたのである。
浪江は三分の一は原発で働いていた,葛尾村でも働いていた人があるし飯館村でも原発で働いていた人がいたことには驚く
それだけこの辺は原発依存の経済になっていたのである。
それで船主が原発御殿を建てていたとか津浪で判明したのである。
だからこそ逆に怖いのは原発再稼働しないと経済的に成り立たなくなるということになることである。

その圧力は大きなものになる,そもそも原発は上からだけの要請ではない,地元の要請もあって作られていたからである。背に腹は代えられないとなりかねないのである。
ただこの辺は脱原発になりそれは当然の前提としてあるものだと思っていたが自民党系はそうではない,とるすとまた原発再稼働がありうるのである。
全国レベルでも原発は争点にならなかったがここではやはり脱原発になるのが当然であり前提としてあるものだと思っていた
ただそれをぬきにすれば二期勤めた桜井市長の実績は何だったのか,ただの人気取りパーフォーマンス市長だったのか,それが問われる
やっぱり二期は長い,実績があれば別だが変化を求める人が多いかもしれない

大学を見れば桜井市長とか飯館村の村長も畜産科であり農業になるが飯館村ではいいが門馬候補は東北大の工学部となるとそっちの方に強いのか?
この辺ではともかく理系の知識が必要になった,だから理系の市長でないと勤まらないということがあった,相馬市でも医者だから理系である。
ただ政治となるとこれはまた経営とか関係してくる,専門職とも違う総合職なのである。総合職になると文系的なものが必要になる
本当に総合的に見ると郷土史とかも関係してくるし自分の追及してきた郷土とか自然とのアイディンティティなども関係しているのである。
郷土をトータルに見ることだからである。だから市長の担当する範囲は広い,総合的に判断する能力が必要になるのである。

posted by 老鶯 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月15日

駅前の公衆電話故障の原因 (十円玉がすりへって合わない,昭和の十円玉は使えない)


駅前の公衆電話故障の原因

(十円玉がすりへって合わない,昭和の十円玉は使えない)

公衆電話にも歴史がある,大正時代からはじまってるとすると古い

新潟県中越地震(04年)の発生の際には、公衆電話が減少していたため被災住民に不便となったことや、岩手・宮城内陸地震(08年)の際に公衆電話が最も通じやすかったことが、過去には報道されていた。

公衆電話が災害時に強いのは、NTTが設置する公衆電話が「優先電話」と同様の扱いとなっているため(総務省HPより)。

東日本大震災で帰宅難民があふれた首都圏で、公衆電話の前に長蛇の列ができたことはまだ記憶に新しいところです。停電や規制で携帯電話がつながらない中、優先的に通話ができた公衆電話はその価値を見直されました。

経済状況などによって硬貨の重さや大きさが変わると、公衆電話も対応する必要が出てきます。

新しい5銭硬貨が公衆電話で使えないことを伝える記事=1920(大正9)年12月17日付東京朝日朝刊5面
拡大新しい5銭硬貨が公衆電話で使えないことを伝える記事=1920(大正9)年12月17日付東京朝日朝刊5面
 1920(大正9)年、新しい5銭白銅貨がつくられました。当時の公衆電話ではこの硬貨が使えなかったため、逓信省と大蔵省で対応策が話し合われます。「旧5銭白銅貨と同じ形の金属をつくって、切手のように売る」などの案も出たようですが、最終的には電話機自体をつくりかえることで決着しました。

このうよな歴史がある

今回の故障の原因は十円玉が古くなりすり減ってあわなくなったためだという
そんなことがあるのか?硬貨自体が変わるとそれに合わせられなくて機械自体を変えることになったことはここに書いてある
でも十円玉がすりへって使えなくなり故障になったというのは驚きである。
十円玉がそんなにすりへるのか?それが機械に影響して使えなくなった

それはスーパーのお釣りがでてくる自動機械でもそうである。古い硬貨を入れて不具合になったことがある,何か使い古したものがそうなりやすい。
ただ十円玉がすりへって使えない,故障の原因になっているのとは思わなかった
昭和の十円玉は使えないという,それだけ硬貨でも使っているとすりへってくるのだ

そのNTTの警備員とかになっている人は浪江の人なのでいろいろ話した
その人も原発で働いていたのである,浪江だと三分の一なんらか原発に関係していたのである。
ともかく駅に関していろいろあるものだと思った
それはただ駅を利用して乗りおりするというのではなく駅員のようになり駅を管理するようになったからである。
奇妙なのはそのNTTの職員にごくろうさまとか言うのは駅員がすることである。
駅の管理者がすることである。JRの人がすることである。
この公衆電話も駅の一部なのである。

つくづく機械には弱点がある,昭和の硬貨はまだ使っていたはみたが平成のがほとんどになっているのかもしれない

29歳平成元年1989年
30歳昭和63年1988年

昭和から天皇が代わり平成になった,それは30年前だった,昭和から30年すぎたのか?
これも早かったなと思う,昭和は長かった,平成は天皇退位で来年は年号が変わる
これも時代だと思う,日本の年号は何なのか?
江戸時代などはめまぐるしち数年でも変わっている,でもその年号が郷土史とかでは貴重である。その年号から時代をみるからである。

ただ昭和の時代は平成の時代と比べるとどういう特徴があるのかとなるとわからない
昭和は戦前もあり戦後も長いからそれも長すぎて時代の特徴を出すことができなかった
時代区分では戦前と戦後になるからである。昭和というのがつづいたのは違和感がある
それは天皇の在位期間によって左右されていたのである。

いづれにしろ何か今回の駅前の公衆電話も一つの歴史だと思った
公衆電話は緊急時に役に立ったということはやはり必要なものなのだろう。
でもカードの時代になった,でもテレホンカードなど使っていない
みんなスマホを見ている,携帯を使っている
ただ携帯を忘れたとか,年寄りとかとかまだ使っている人はいる
でも三分の一に減ったとなるとこれも時代だなと思う

今回の公衆電話の故障では機械は万能ではない,十円玉がすり減ったら使えなくなったとかある,これもやっかいである,何か機械ではすべて対応できないものが出てくる
だからAI化とか自動化が盛んに言われるがそれが万能にはなりえないのである。
必ず不具合が生まれ故障したり事故になったりするのである。
それで駅員が必要だとなるがそれがコストの関係でできない,でも自動化してもたりないものがありそれを補うのが人間なのである。

タグ:公衆電話

深野の俳句やユッサの湯の正月


深野の俳句やユッサの湯の正月

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深野の隣は大原冬深む

大原に知る人眠る冬深む

深野に大原村や冬日没る

冬の日や長野に古りぬ墓あわれ


石五つつ庭に変わらず正月に活けにし花は葉牡丹なるかな


深野とは名前も関係していて気にいっている,ふこうのであり深野ではないのだ
その雰囲気も何かいいとういうか独特のものを感じる
外から見たらたいした変わらなくなるしその土地のことはわかりにくいのだ
日本では村が生活の基本の単位だった
だから村には歴史がありそこに本当は日本人の心性がある
むずかしくいえばそうなるがやはり日本人は村で生きていた時間が長いからである。
それは悪い面としても反映される,外からの人を受け入れないということである。

ただ現代だともう隣村とか隣の市だろう町だろうが村だろうが関係ないともなる
それだけ広域的にグローバルにも生活しているからそうなった
ただ歴史的には深野と大原は違っている
ここで錯覚しているのは深野が古いということである。
大原は相馬氏が進出してきたとき大原は開墾されたのである。
深野はその前からあった,だから中世の館の地名が二つもある
館とつく地名があるのは古いのである。
飯館村でも館というつく地名があったから中世からあった村なのである。

つまり郷土史は村でもその新旧を知ることが基本にある,だから戦後開墾に入った村が奥地にある,それが何か古い家だとまちがいやすいのである。
そして豪倉という地名は昭和十年だったのであり新しかったのである。
飢饉のために備える倉のことである,米を貯えていた
そして江戸時代のものは墓でも価値があるがこうして新しいものは歴史がないとなり価値がないのである。

ユッサの湯に行った,あそこは時々休息に行くのにはいい,見るべきものもないが庭に石があり森がある,だから安らぐ場である
でもあそこの湯に入ったことはないのである。自転車だと湯冷めするからである。
そして入浴料が750円とかは高いと思う
それが本物の温泉ならいいがどうもそこが良くわからないのである。
確かに温泉は出たとしてもそれがどんな温泉か確かでないらしい
要するに温泉が出てもどれだけ出ているのかもわからない
ただ温泉とすれば価値が上がるから一応そうしているのかもしれない
この辺では温泉は出ないからである。

ユッサの湯に飾ってあった生け花は正月らしくて良かった
生け花は結構センスがないとできないし暇もないとできない
自分もしているが何かうまくいかない
やはりこれも伝統的なものがあるから身につかないし
生け花は金も暇もかかるのものである
それで忙しいからできないということもあった
家事に時間をとられるからである。

田舎の冬はしんとしていいものである。都会だと騒々しいからだ
しんみりと田舎の冬を味わうのがいい,田舎はやはり老人に向いているのである。
ただ何か田舎は恒産がないと住みにくい,家があったり土地があったり田んぼや畑があったりそれなりの財産がないと住みにくいのである。
ただ今はみんな財産は金であり田舎でもほとんどの人が会社員なのである。
それが都会から見ると錯覚しているのである。

深野の豪倉

ユッサの湯

住所

南相馬市原町区深野字荒戸沢15

時間

10:00〜22:00

入浴料

750円

源泉

PH 9.02 源温 28.2℃

泉質

アルカリ性単純泉

効能

神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進



間違いなく温泉であるがどれだけの温泉なのかわからない,温泉にも評価がいろいろあるからだ

2018年01月14日

ゴッホの絵から抽象画へ From Van Gogh's picture to an abstract picture


ゴッホの絵から抽象画へ

From Van Gogh's picture to an abstract picture

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varied ones from this picture


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mornig forest

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night forest


これは一つの例として出した、こんなふうにソフトで変化するとそれもまた一つの作品となるのか?
私はそういうことをソフトでしてきた
何かこれは新しい創作なのか?第二次三次作品なのかとなる
オリジナルの写真や絵がありそこから無限に変化する芸術だとなる


This was given as an example, if it changes soft like this, will it also be a single work?
I've been doing that kind of software
Is this something new, is it the second tertiary work?
It is an art that has original photos and pictures and changes infinitely from there

氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に (ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)


氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に

(ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)

なぜか田舎でも40代あたりでニートがいる,自分はそういう人間と会いやすい,三人くらいあっている,一人は働いていても非正規なのである。
だからこの前も仕事を探して就職したのに今年になって仕事がないと6月まで休むというから驚きである。
それでその母親が自分に困ったとして金を要求してくる
だから自分はできないと言った,その人はこれまで同情すべきことがあったから援助していた,しかし自分一人ではどうにもならない問題である。

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

しかし仕事が流動化し、一生の職と呼べなくなるなかで、仕事によって人を判断することも、まただからこそ仕事に熱意を注ぐことも、意味のないことになりつつある。

この人は自分の労働観とにた意見になっている,現代の労働はその場限りの日払いのような仕事に変わっている,それまで終身雇用とかで一生勤めていた会社員だったけどそういうのは少ない,非正規の数が膨大になっているからだ
だから働くことは何なのか自分のようにすでに団塊の世代でもあったのである。
ただその時は高度成長時代で会社が大きな価値をもっていたからみんな企業戦士となったのである。

非正規だからこうしたことがないとやっていけないとなる,この記事はその非正規の待遇を考慮するべきだと言っている,つまり非正規が増えすぎたからそれを自己責任として押しつけることができなくなっているのである。
自分も半年工事関係で働いて仕事がない,その間援助してくれとなり二回も金を要求された,その額も大きい,そんな金は自分にはもうないのである。
自分には収入として入ってくるものが国民年金しかないからである。

氷河期とかニート,フリーターは40代で人口も多い
その人たちがなぜ大問題になるのか?
それはその親がその負担を負っているからである。
その親が死んだりするともう生活もできなくなる,その数も多いから問題なのである。

つまり氷河期とかニート,フリーターとか非正規とかの問題は高齢化社会と一体化してあった,これは切り離せない問題である。
親があって親の援助で生きている,その親が介護状態とかなる高齢化社会である。
それはちょうど団塊の世代が親なのである。
その団塊の世代は介護時期になるとその氷河期とかニートとか非正規とかの子は親を介護できるのか?それは思った以上深刻な問題である。

それを自分は自ら被害を受けて具体的に知ったのである。自分にその負担がまわってきたからである。他にも親戚で生活保護の女性が東京にいた,それも40代なのである。
この40代世代が大きな問題をはらんでいる,それも数が多いのである。
団塊ジュニアになるからだ,数が多いということはそれだけ問題が社会に顕在化しやすいのである。
例えばニートとかでも数が少なければ問題化しない,団塊の世代で自分のようにニート化したのは極々まれだからである。そんな人いたのとなるからである
でも社会に数が多くなると問題化してどうしようとなる,社会の負担となるからである。少数だったら負担にならないからである。
その人たちがどうにもならなくなり生活保護になったら国自体が負担して国が傾くのである。

高齢化社会はまた団塊の世代のように数が多いことで問題になる,死体を処理する火葬場すらたりなくなり困ると東京などで問題にふでになっている
つまり数が多いということはあらゆることで問題になるのである。
高齢化社会とは数が多いことによって国の負担になり負いきれないとなる
そこでもう老人の価値は昔と違って格段に低下する,老人は邪魔だ,安楽死して始末させろとか毎日のようにネットで若者が叫んでいることでもわかる
昔のように老人をいたわるというとき敬老の精神は数が少ないときありえたのである。
数が多くなったらただ社会全体の負担になり若者の負担になり老人のために人生が犠牲にされるとまでなる
国の税金も老人のために使われて将来の日本をになうものに使われないとなる

そういう不満が全国に充満している,そこでは愛とか慈悲とか成り立たない,数が多すぎるから成り立たなくなる,そんなこと言っていたら国が破綻するとなるからだ
老人は弱者だからいたわりなさいとかならない,老人は障害者でもありでもその障害者が膨大に増えたらそれにいちいちかわいそうだねとか言えなくなる
みんなそんな余裕がなくなる,だから今病院では老人が無理やり生かされているが早く始末してくれともなる,数が多いと人間は物扱いになる,愛とか慈悲が成り立つのは少人数の時なのである。
数が多いといちいちかわいそうだねとかなりえないのである。
それで病院ではそうした老人ばかり診ているからいらだっている
そこで自分も看護師に虐待されたのである。
数が増えすぎた老人はもうその負担に耐えられないとなり社会的に始末しろとまでなる

つまり今までの宗教観とかモラルも通用しなくなる,それは人間が悪くなったからとも言えない,数が多すぎるとそうなってしまうのである。
数が多いこと自体,人間の価値は比例して低下してゆく
一票の価値でも村のような所だと十票の価値があるが東京とかなる一票の価値は格段に低くなるからだ

いづれにしろ氷河期とかニートとか非正規の問題は深刻である。
日本の経済が景気が良くなったというが株だけ上がり逆に物価が上がり苦しくなっている野菜が高騰して鍋物が作れないと嘆いている
実際は賃金も上がらない,そしてニートとか非正規をかかえた親は負担を強いられるがそれもできなくなる,その時あと20年とかなると社会負担になる人が増えてくるのだ
団塊の世代の高齢者もその氷河期とかニートとか非正規の親であり介護状態になる人が多くなる,認知症の患者が800百万人になるという数字も恐怖である。
認知症の介護に全国がふりまわされてパニック状態になるかもしれない
つまりこの深刻な将来を真剣に考えないともう日本は終わるとなる
あと十年とかでその問題は社会に顕在化してゆく,それは本当に恐怖でありリアルなものなのである。



posted by 老鶯 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

仕事になるのはみんなのためになること (一人はみんなのために みんなは一人のために)


仕事になるのはみんなのためになること

(一人はみんなのために みんなは一人のために) 


仕事というのを考えるとき自分の例だと例えばお手伝いさんを雇うというときそれは自分という一人のためであり家族のためである,でもその範囲は極端に狭くなる
すると社会的にその仕事が認められるにくい
戦前女中が多かったというとき家事が家族だけでできない社会的事情がありそうなった
今は家事は機械化しているしいろいろオカズも買うことができる
家事は一人でもできるようになっている

だからオカズをスーパーなどで売っているというときそれは一家族のためではない,みんなのために売っている,オカズでも食事は家族のために作っていたのである。
家族労働と社会的労働とは違っている,現代は家族的労働が社会的労働にとって変わってきている,掃除すら会社がしてまわる,それは一家族のためではない,みんなのための労働なのである。

まず一家族だけの労働だとすると一個人のための労働だとすると仕事にはならない,収入にもならない,たいがい製品でも食品でも売るものはみんなに受け入れられて評価されなければ売れないのである。
社会的に認められ受け入れられたものが社会的価値あるものとして受け入れられる仕事になる

例えば食堂でもレストランでも一人のために食事を出す所などないのである。
ある程度の人数のためにサービスしているのである。
でも考えてみると金持ちがいて一人でもそのレストランが成り立つようであればできる
そうなるとそれは王様くらいしかいなくなる
そういうのは現代では成り立たない,ただ食事でも高級な食事はある
そういうレストランは都会だとあるし田舎だってある
それは特別であり予約制になっている
一般的にはそういうのはまれであり仕事として成り立ちにくいのである。

仕事というとき何か自分が人を雇って感じたことはみんなのための仕事でないのは仕事として社会的に容認されにくいのである。
社会的に価値が認められないのは仕事となりにくい,介護でも家族内でしていてもそれが社会的には認められない,家族なら当たり前じゃないかとなるだけである
でも他者がかかわり施設などを利用したり入るとそこは社会的に認められた仕事である。それは一人のためにではない,みんなのためにしているからである。

みんなのためになるというとき電気でも石油でもガスでも一軒のために供給するのではない,もうこれは全員に供給しているのである
そういうのが仕事であり社会的に認められる,家族内では家族だけの人のための労働になる,それは社会的労働とは違っている
でも人間は家族内ですべてできればいいのだができない,だからこそ社会的労働が家事の分野まで拡大したのである。

野菜とか米とか農業でも自給自足していても仕事はしている,それは家族内労働とにている,農家では納豆を作っていたとか味噌を作っていたとか自給自足であった
でも現代では文明とは無数の職業がある,分業化した
すると仕事になるにはみんなのためになることをしないと社会的には認められないし金にはならないのである。
家族内で自給自足していているのと野菜でも米でも果物でも売るとなると自分の家族のためだけではない,みんなのためになり仕事となる
でもそうなるとその品質も売れるものとして作らねばならないのである。
市場に出して商品として売れるものみんなに認められるもの必要とされるものを作らねばならない,それは自給自足で野菜などを栽培しているのとは違ったものになる
価格競争もあり品質競争もありそれに勝たないと売れないともなる
自給自足だと競争というのはないからである。

みんなのためになるのが仕事だというとき例えば自分が駅に鉄道の時刻表を作って置いたそれは需要があった,もう千枚以上すっているが以前としてもってゆく人がある
それはみんなのためであり一人のためではない,だからビジネスにもなるのである。
無人駅での案内などは外部の人のためであり町の人のためでありその範囲が広いのである今やグローバル化になると世界の人のためになり世界の人のために売れるものが認められる,世界的に容認されて仕事となる

そしてそういうことができるのは大きな会社組織である,みんなのためになるものを提供するとなると社会組織にならないとできないからである。
だから今は女中のような個人である特定の家族のみに労働を提供することはまれになった掃除するにも会社が多数の家をまわってしているのである。
そういう形態は過去にはなかった,家事でも会社組織となってしているのである。

その女性は一時仮設の食堂で働いていた,その時その食堂は繁盛した
外部の人も大勢来たからである。自分も通っていたから街の人にもサービスしていた
でも外部の人の方が多かったのである
今でも仮設に一軒食堂があるが外部の工事関係者が入っていて成り立っている
つまり仕事になるのはそうしてみんなのためになるもの,より大勢の人のためになると仕事になり収入にもなるのである。
現代はこうしてみんなのために働いている人が多いのである。
それが仕事であり分業化してそうなっている,そうでなければ仕事として認められないからである。

なぜ自分に人を雇う資格がなかったかというとそれは自分一人のためになっていたからである。
「あなたはどこで何して働いていますか」
それがその人をどういう人か見る指標である。
だからどこの会社で働いているかで人を見る,人の価値を決めたりするのである。
「私はある家で家事働きをしています」
そういうのは今では社会的に価値として認められにくいのである。
だから家事サービスでも会社組織になってしているのである。
つまりみんな会社員の時代になったのである。

一人はみんなのために みんなは一人のために

こうならないと仕事になりにくい,みんなそうして仕事しているのである。
自分の場合はそうなっていないから人を雇うことも使うこともできないとなったのかと反省したのである。

この言葉もまた深く解釈すると逆に生活保護とか福祉になるとそういうのはみんなで負担するということになる,みんなの了解を得て給付するとなる
第一自分とか一人に頼られてもできないからだ,そういう余裕のある人はまれだからである。だから福祉関係もみんなで負担して助け合うとういうことで成り立つ
みんなはひとりのために助けるということがある
ただそこにもやはりみんなの了解が必要になる,それが民主主義社会となる
民主主義社会自体みんなの社会であるからだ,王様のための社会ではないからだ
だから格差社会が問題なのである。


posted by 老鶯 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年01月13日

ギャンブルのために費やされる労働の是非 (金になるからいいとすべてなるのか)


ギャンブルのために費やされる労働の是非

(金になるからいいとすべてなるのか)


一時鹿島区では競輪の券売り場で是非を争った,風紀が乱れるとかなんとかあった
でもどちからというと賛成者が多かった,理由は金になるからということである
そこで底辺層は掃除などあるからいいと言っていた
それはパチンコ屋とにている
バチンコ屋があって街もにぎわっているという主張があるからだ

でも問題は何にあったのか?金になればすべていいという論理がまかりとおるのが資本主義であり現代である。
いちいちその金のことなど考えない,金をどう稼ごうとも使うとも自由だというのが資本主義である

しかしそれを深く考えるとそうでもない,そのことが自分の一身上のことで現れたのである。
自分が介護で苦しんでいるときその人は借金してパチンコ屋で働いていたのである。
その時小高の人達が大勢避難してきて仮設に住んですることなくパチンコ屋におしかけた他にも競馬とか競輪とかに通うことになった

別に暇だからいいじゃないか娯楽なんだよという人もいる,気晴らしが人間に必要なんだよという人もいるしいろいろである。
でもその本当の問題は何なのか?
それは金の問題もあるが貴重な人間の労働がそこに費やされていることなのである。
その時介護で自分が苦しんでいたのになぜパチンコ屋で働いていたのか?
それは借金のためしかたなく働いていたとはなる
でも本来は介護して苦しんでいる人のために労力を費やすべきだとはなる
でも金にならないのもは何もしないとなるのが現代である。

自分は駅で案内してそういう競輪の人が来てタクシーを呼ぶ,案内したこともある
でもそんな人のために労力を費やしたくないとはなる
しかしタクシー会社とか金をおとしてくれる人がいいんだという意見の方が根強いのである。

それが資本主義社会に基礎にあるからそうなる
それはいいとして他の人達が困っている時にそういうことで遊んでいる人が許されるのかそういう疑問になる,そんなこといったらパークゴルフ場で老人が毎日遊んでいるではないかともなる
そこにも労力は費やされているのである,そこを作るにもそうだし整地するとかにも今でも金はかかっている,金だけではない必ず労働されて労力が費やされて成り立つ運営されるのである。
だから遊びのためにそんなところに金を使っていいのかという意見もある

ただ自分はパークゴルフはしないけどあそこは気持ちいい場所として散歩に自転車で寄っているのである。
それはレクリーエションで別に今の時代そんなことにめくじらたてる必要もないとはなる
ただ問題はこの世のあるゆるものに人間の労力が費やされて成り立っている
一見それが見えないのである。鉄道など乗っている人にはわかりにくいが毎日のように鉄道の保守点検に下請けの人などが来ている,それだけ鉄道を維持するには金も人手もかかっているのである。
いくら機械化しても自動化しても必ず人手がかかるしそれを全部無くすことはできないのである。
そして人手とは今や貴重なのもでてあり安価には使いないものである。

だから自分には人は使いなかった,使う資格がなかった,そういう立場にもなかったのである。人は単に金だけでは使えない,その仕事にそれだの価値があり社会の用があるとき仕える
医者は看護師を仕える立場にあり社会的にも認められている
それは確かに給料も関係しているが金が関係しているが社会的に必要なものとして認められているから人を使うことができる
自分などの仕事はそんな家事を自分でやれよなとなるのである。
ただ介護のときは苦しいからそうでもなく助けてもらいたかったとなる

まず人の労力は貴重なものでありそれを使える者はそれだけの資格とか社会的必要性があるのかとかで判断される,金があるからは言って人をがむしゃらに使うことはできない
もろろんそれで働く人もいるし資本主義社会では是認されている
でも労働力が貴重であるときすべてが金だけでは決められない
社会的必要性があるもの万人が価値を認めるものでないと人を雇うことはできない

だから例えばオリンピックに今労働力が費やされている,そのために過労で死んだとかいう人もいるし事故で必ず誰かかが死ぬ,ではそれだけの労力を費やしてオリンピックをすべきなのかということになるのである。
それは労働力が貴重だからそうなっている

人生は何か?それは何に時間を費やしたかによって決まる,すると人生は労働なしではありえないのだから何のために何に貴重な時間を労力を費やしたのかとなる
労働というとき必ずしも社会のためにというだけではない,遊びでも旅行とか登山とかその他遊びが貴重な時間を費やして実りとなることもある
ただギャンブルなどがそうして労働の実りとなるとはありえないのである。
ただギャンブルの本当の問題は何か?

そこに貴重な他者の労働力が費やされている

掃除するものも労働だしその労働は本来はもっと社会にとって個人にとっても有効なものに費やされるべきものだからである。
ギャンブルするのはいいとしてパチンコする人が掃除をして他人の貴重な労働を奪うなとなる
それは理想だがそういうことが社会には多いのである。
その時労働をしたくないというのもわかる,自分の貴重な時間をギャンブルする人達のために掃除して他にも費やして何か実りがあるのかとなるからである。
そこまで深く考える人はいないが社会にはそういうことが多いのである。
ただそれが自由社会であり資本主義だとなれば是認される
人はそれぞれの価値観に基づいて金を払うというだけになる
ただその時社会全体が荒廃してゆく,本当に労働の必要な所には労働力が得られなくなるそれは社会全体の被害になる,人手不足の時代は特にそうなるのである。



タグ:ギャンブル
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避難している浪江町民などの問題 (けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


避難している浪江町民などの問題

(けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


小高のときも仮設に住んでいる人が問題になった,毎日パチンコやギャンブルしていて遊んでいた,それでもボランティアが来てかわいそうだからと支援していた
そして鹿島の人は同情もしない冷たい人だと互いにいがみあうようになった
小高の人は鹿島の人の気持ちなど全然考慮していなかったのである。

次に主に浪江町の人が今度は移住してきた,その人たちでもほとんど働いていない,老人が多いということもある
でも不思議なのは他でも問題になったが二本松市とかに移り住んでも以前として浪江町民なのである。だから税金など払わないということが問題になった
それで二本松市に浪江町を作るということを提案した

なぜそうなったのか?浪江町民とは何なのか?それがわからなくなった
漂流する流浪民のようになったからだろう,ただ県と国ではそうしたし人達を援助するから移住先の自治体に金を払うということがあった
だからそうした人達がすべて邪魔者というものではない,それより被害者なのだから保護されるべきだということがあり誰も何も言えないのである。

その保護されるにしてももう60以上は仕事できないから小高の人達は国民年金では足りないからもっと援助しほしてい,年金として死ぬまでもらいたいと現実に要求したのであるつまり被害者だというとき何でも通る,それに批判するのものはなんて非情な人達だとなりマスコミでも応援するから何も言えない
それでNHKでもそのことを言うから余計に原発避難民を非難するものは糾弾されるのである。

でもすでに7年もすぎて以前として同じ状態にある,避難民はどう考えているのか?
誰も小高でも浪江でも帰りたくないという,では他に移りそこで住むのか?
原町とかに家を建てた人が多いのだからすでに浪江町には帰らないのである。
だとするなら南相馬市民として税金も払いとなるだろう。
また南相馬市民として尽くし働いてもらいたいともなる
人手不足で困っているし浪江町の人でも病院とか施設とかその他利用するからである。
そこには金だけではない南相馬市民の労力も費やされているからである。
ただ浪江町の人も看護師とかで働いているとかこの前はnttで働いていたとかありみんながそうではない,それなりに働いている人はいる

ただそれは割合とすると極めて少ないだろう,一割くらいかもしれない,その割合はわからない,ただ小高でもそうだが浪江でも特権意識化してかわいそうであり被害者なのだからいいのだとなんでもなってしまうのも問題なのである。
もう7年もすぎてもそうなのである。

そもそもわからないのは復興するというとき小高でも浪江でも飯館でも誰が復興するのかまたしたいのか?
それもわからない,地元の人達はもうあきらめて家を壊して他の土地に新しく家を建てて生活も別になっている人も多いからだ
公務員などは残り復興したいとしてもその肝心の町民はもう住みたくないとなっている
では一体誰が復興するのか?外部の人がいくら支援しても肝心のそこに住んでいた人が復興とは関係ない,他に移り住み帰らないと言っているからだ

結局それも被害者なのだからどうにもならないとそこに住んでいた人達は言う
それは自分たちの責任ではない,国や東電や原発事故を起こした人達の責任である。
俺たちはもう死ぬまで被害者であり補償されるべきだとなっている
補償金が切られたらあとは生活保護だと遊び人は言っていたからだ

俺たちは被害者だ
俺たちに責任はない
俺たちは最後まで補償されるべきだ
俺たちは働く必要がない
俺たちは被害者だ
回りの人達が支援すべきだ

こうなっているのが原発避難民なのである。でもその責任は一体誰がとるのか?
そこに住んでいた人達にはないと主張するとき誰がとるのか?
そうなら浪江でも小高でも飯館でももうみんな住まない方がいいのではないか?
復興を支援すること自体徒労だとなる
第一そこに住んでいた人達がそこに住むことを拒否して放棄したんだからその人たちはその町村民でもないのである。
ただ補償金をもらうためにそこに土地があれば何か財産があれば金にしたいしかないのである。

それはそれでいいとして別な自治体に籍を移してそこで税金を払いそこの一市民や町民になるべきだとなる,でも現実は南相馬市の市長選挙があっても選挙権はないのである。
南相馬市民の一員ではないからだ,だから権利は与えられないない,でも別な自治体に住むのだからそこで補償金だけをもらいあとはまた生活保護くれとかなると困る
市の負担が増えるからである。

わからないのは浪江町の人が南相馬市であれ相馬市であれ他の市とか町に移り住んでも回りの人があの人達は浪江町民だとか見ていることなのである。
でも実質はもう浪江町とは関係なくなっているのである。
浪江には帰らないからである。家も建てて別な自治体で暮らしているからである。
何かそういうけじめをつける時期に来ている
いつまでもだらだらと訳わからなくしていることはできない
それは浪江町とかの自治体でも公務員でも処理に困る
この人は他に家まで移り住んだし帰ってこない,だから浪江町民ではない
では他の人はどうなのだとか悩むだろう
この人は帰ってくるからなんとか帰ってきてもらい新しい町作りなり復興に役立ってもらいたいとかなる

そういうけじめの時期が来ている
それは自分にも言えたのである。一時は同情してもその人も原発事故とは関係なく被害者でありかかわいそうということがあってもそれなりに援助したのだからだらだらと援助ばかり都合よくすることはできない
現実に一年の内半年も働かない非正規である。そこには確かに事情がある
でもそのために自分が援助するとなると個人的には無理である。
社会的にもなぜ人手不足の時代に正規にもなれるのに定期的に働ける場があるのに働かないのかとなる
自分にそんなに援助する金などないのである
人間はどこかでみんなけじめが必要になってくる,いつまでもだらだらと何か困っていても先伸ばしはできないのである。

タグ:原発避難民
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非正規雇用の問題 (一年の内に半年も仕事がないのか?)


非正規雇用の問題

(一年の内に半年も仕事がないのか?)

その人は建築関係の仕事である。年齢は40代くらいだろう。去年は3ケ月くらい働いていない,その後仕事探していわき市の方に勤めた、前はこの辺で除染関係の仕事をしていたその時は近くだから楽だった
その仕事を終わってまた別な仕事を探しまたせっかくいろいろ書類をそろえて正式に勤めたのにまた仕事がないと6月まで仕事がないからその母親が金を援助てしくれという
その女性にはいろいろあってずいぶん援助してきた
でも遂に限界に達した,前借りから何かと金を要求されるから限界になった
事情があったときはやむをえなかったが限界になった
そんな親子とつきあっていて金払っていたらきりがないからだ

確かに母親は67才くらいと年でいつも腰痛い痛いと言って皿二三枚やっと洗って終わりである。それはもう必要ない仕事である。ただ事情があってさせていたのである。
非正規の問題はそうして途中でブランクができてまた別な仕事を探すことである。
これは手間になる,建築関係とか土木関係はそういうのが多いからしかたがない面があるでも建築関係でも正規に勤めている人はそうではない,その人の兄は同じ建築関係でも
家族を養い足場を組む仕事をしているのである

だから非正規とかなっている人はその時の社会の事情があり氷河期で就職できなかったとかあった,でもそれを全部社会のせいにはできないだろう。
現実にその時でも正規になって働いて来た人はいるからである。
とにかく非正規はこうして一年の内半年くらいブランクができることが問題なのである
その人はその間に何もしないというのではない,手間賃をもらうような仕事はしていた
でも去年もそうでありまた今年もまた半年も働かないのか?
仕事がないとはこの辺では言えないのである。
全国でもそうである。どこも人手不足で苦しみ会社自体が倒産したり起業できなくなっているからだ

特に原発事故周辺はみんな人手不足で困っている,特に病院とか介護関係で困っている
飲食関係でも募集しても時給1000円以上になっても来ないのである。
だから働く場所が仕事がないから困っているということはないのである。
ニートとかフリーターとかの問題を取り上げたけどこの辺の事情が違うし人によっても事情は違ってくる公式のように社会の問題をあてはめることはできない
この辺では働いてもらわないとみんな困るし復興もできないのである。
それで原発避難者が毎日パチンコでありギャンブル指定ことが避難されるのは当然だったのである。それは被害者だからしかたがない,かわいそうだだけでは許されないことだった,今でも今度は浪江町の人達が遊んでいるけどこれもやはり問題になる
浪江町の問題は不思議は南相馬市に特に原町市に5階建ての団地ができて浪江町の人が入った,原町には何千人と入ってきている
でも南相馬市民ではないのである。浪江町民であり南相馬市民として税金も払っていないのである。そのことが問題になった
そして小高の人達と同じように補償金で働かない人が多数なのである。
老人が多くて働けないとういことがある

いづれにしろ働かない自分がなんか言うことはまた考えてみれば矛盾しているともなる
それで自分は反省すれば自分にはそもそも人を雇う資格がなかったともなる
第一自分には人を雇う経験もないし人を雇うことがどういうことかもわからなっかた
それで大金を盗まれたり次は次々にただ金を要求するだけなのかとなる
そこには事情があってもなぜそうなっているのか?
こういう事態になっていればこの辺ではニートとか働かない人は責められて仕方がない面がある,人手が足りなくて困っているのにパチンコ屋で毎日いりびたりで遊んでいたり他に何もしない仕事をしないということは責められる立場にある
すでに事故から7年も過ぎようとしているからである。

結局労働問題になると生活保護であれ非正規であれ確実にその人の資質とか自己責任はある,ただそれが百パーセントあるとはならない,社会の責任も回りの責任もあるからだ
ただ全く全部社会の責任とはならないのである。
どうしてもそういう人達は怠け者が多いとなる,それが別に他人に迷惑をかけないならいいのである。では仕事あるのに働かずに他人に要求してくる
あいつが金があるからせびればいいとかなっている
そして自分自身も問題があり人を雇う資格などなかったのである。
今になれば自分で家事も全部できるから人など雇う必要がない
人を雇うということがどれだけやっかいなものかわかった
そういう資格のある人はできる,また組織として人を雇うシステムがあり伝統があるとかなればできる,一人の普通の金持ちでもない人が人を個人的に雇うことはその雇う人に問題があったのである。
それは自分のことである,自分など仕事もしていないし会社勤めもしていないし人を雇うことがどういうことかもわからない,だから人をたいした金でもないにしても雇う力量も資格もなかったとなる
ただやむをえない事情でそうなったのである。

だから自分はそんな非正規社員で一年の内半年も働かないで金がないからと自分に要求されては困るのである。それは社会に対してもそうである。
今は現実に人手不足でありいくらでも仕事がある,特に原発事故でこの辺は人手不足で困っているからだ,そしたら正規に勤める場もある,近くでもある
それは町を復興させるためにも必要なのである。
67才で今は働いている人もいる,だから67才でも何か病気でない限り働けないということもない,何か市町村のために働くことはある
結局非正規とかフリーターとかニートとかは現代の豊かさから生まれたものである。
でもそれを個々に事情があるからわからないが全部は是認できない
特にこの辺ではみんなで働いて復興しようとしているとき許されないものとなっている
全体的にそうしてここで働かない働けない人が多すぎるのである。
そうなるともう市町村自体が成り立たなくなる

ただ何が優先順位になるかはわからない,葬儀屋などは自分の価値観ではそんなに重要な仕事なのかとなる,でもそれも重要だと社会で位置づける場合もある
ぎりぎりになれば飲食業でも外食はしない,家で食べていろともなる
金があっても人手がないのだからできないともなるかもしれない
でも外食できなくても死ぬことはないから他の病院のようなものだけは人手不足では困るからそっちに働くことを優先するとかなる
人間はぎりぎりになればそうして働くことを強いられるのである。
この辺はそういう事情があるから他とは違っているのである。

タグ:非正規雇用
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2018年01月12日

原町まで行く (南相馬市長選挙のことなど)


原町まで行く

(南相馬市長選挙のことなど)

election12.JPG

今日原町に行ったらいわきまでのバスが新しく出ていた,常磐道で行くから一度乗ってみよう,さくらのバスは鹿島からも出て東京まで行くが遠い
いわきまでなら90分だとある
常磐高速は乗ってみたいと思っていたからだ

それからイオンに行ったら南相馬市長選挙の期日前投票が行われていた
そこで取材していたのが福島民報の記者だった
出口調査しているというが一時間しかいないとういうからたいした取材はできない
鹿島の区役所でも期日前投票をしている

ただ月曜日に討論会したがどういう内容だったのかわからない
今回の選挙の争点とかが良くわからないのだ
ただわかっているのは桜井市長は二期勤めてそれほど実績を出せなかったから変えてもいいという人がいるかもしれない,自分もそういう動機になる
二期もつづくとマンネリ化して癒着したりするからだ
ただ対抗馬の門馬の人となり政策もわからない,だからどうして判断するのか?

桜井市長は脱原発であり門馬氏は自民公明指示であるから今度は保守が一本化したから手ごわいとなる,脱原発はこの辺ではこれだけの被害なのだから当然だとなる
しかし自民では脱原発ではないのである。前の自民の渡辺氏もそうだったのである。
桜井市長は野党系だから脱原発なのである。
第一この地域で脱原発にならないとしたらどういうことなのかとなる
つまりそれは当然としてこの辺ではありそれふまえて争点があり争う
復興の進め方で争うというのもそうである。
それから高齢者が多いから票になるのが高齢者だとなると当然そうなる
この辺は特に高齢化率が他の県より10パーセントとか高くなっているからである。
そして看護師不足も問題である。人手不足もこの辺は他の地域より深刻だからである。

今は取材しているマスコミをまた取材している人が出る,そして報告する人もいる
プログなどがあるからインターネットで報告する
この前はNHKの人と小高であった,そこでNHKの放送が原発避難者のことであまりにも小高寄りであり鹿島は無視されていて不満があるというと俺は下のものだから知らない
上の言う通りにするだけだと怒っていたのである。

今はこうしてマスコミは取材されて標的にされてプログなどに書かれる時代なのである。マスコミは監視されていていてインターネットで報告される
警官でも職務質問を警官に逆にしているのには驚いた
それをyoutube で流している,相手の名前とか役職とかを言いその警官のことを職務質問していたのである。ここまでやることは驚きである。


NHK紅白歌合戦の裏側【金・女・暴力団】を元NHK職員が実名付きで語ります。

これは迫力があり驚きである,こうしてインターネットで告発できる時代なのである。
インターネットでは一人一人が記者にもなれる時代なのである。
ただ影響力は宣伝力はやはりマスコミに以前としてある,インターネットでプログでも読まれているのはわずかだからである。

とにかく南相馬市では小高が復興できない,そこが大問題である
また原発の補償金をめぐって分断されたことも大問題である。
復興の進め方でも問題をかかえている,ここは問題が山積みであり変わっていないのである。

高齢者の住みやすい街作りというのでは高松市が参考になった
商店街に老人を住まわせてそこの狭い範囲で病院まであり何でも用たせるというのはいい高齢になると車も運転するのが危険になり迷惑をかけるからである。
自分もあういう街に住みたいともなる,ただあそこまでやるとなると大事業になってしまう,ただ高齢化社会の一つのモデルなことは確かである。

渡辺氏が作った図書館は立派だったけどそれが今になると十分に利用されているのか?
鹿島から電車で暇つぶしに行っている老人がいる
あとは高校生などのたまり場になっている
本を読むといっても今は少ない,自分は家事が忙しいので調べ物などはインターネットでしている,駅前で買い物ができるならいいが駅前には買い物する場がない
六号線の方とイオンとかは離れているからだ
それが問題なのである。つまり図書館ではなくスーパーとか買い物できるものが必要だったのである。また併設する必要があったのである。
そうすれば駅前が活性化できたが図書館だけではできなかったのである。

イオンで会ったのは飯館村の蕨平の人だった,パチンコに来ていた、この前は鹿島の競輪のギャンブル場に来ていた,原発避難者はパチンコ屋に以前として通っているのだろう。蕨平では女性の年配の人が帰って住んだとか放送されていた
一人住むとなると飯館では苦しいだろうし淋しいとなる

sekeitouhokuuu111.jpg

ツタヤで「政経東北」を買った
浪江町の外郭団体でパラハラというとき浪江は公務員が苦しい状態に置かれて神経質になりパラハラになったとか書いてある,今回は応援に来た公務員が津浪の被害地で三人くらい死んだとかあった,公務員はもう仕事をつづけられるかどうかの瀬戸際まで追い詰めれているのである。仕事が増えすぎたのと職員がたりないから若い人を入れたのはいいが
うまく仕事ができないとなりパラハラとかなった
それもわかる,公務員でもそこで仕事するには経験が必要になるでも緊急事態でそうなったのである。
それは看護師不足でも経験がなくてもなんとか補充して病院を維持するために雇ったのとにている,みんなで経験がなくてもやれることをやらないと病院でもどこでも成り立たなくなるのである。
だからこの辺では何かやれることをしないと自治体を維持できなくなるのである。
ニートとか働かないことはここで責められる度合いが強いのである。
特に病院とかは深刻なのである。



「南相馬市民が被災地支援医者に苦言」の記事は医者が研究調査のためにきていて真面目に診療の方をしない,医者が来て助かるのだが調査や研究対象でありそれで一旗揚げようというのは困る
これもそういうことがある,今もまだ原発事故とかの影響があり医者は調査研究対象にしてそれで名を揚げようとかある
何か興味本位でこうした問題の場所に来る、それはマスコミでもそうである。
こういうとき地元を親身になって助けるというよりボランティアでも宗教団体などが来て売り込んだりもした,詩を書いて売り込んだ人もいる
それはなぜか?それが全国からも世界からさえ注目されるからである。
それで桜井市長は世界の有名人だと今回の市長選挙で宣伝しているのもおかしいのである桜井市長が何か特別復興のために尽力した,実績をあげたのならいいがそういうこともないだろう。
ただ原発事故の当事者で市長だったから世界で有名になったというだけなのである。

自分でも地元だけど何かマスコミ的になることがある
目立ってアクセスを稼ぐとかなる,何かみんな今はインターネットがあって記者になっているからだ,何か一目をひくものを出さないと目にもとまらないのがインターネットの世界だからである。
週刊誌でも「日本は滅びるとか株価が暴落するとか戦争になるとか」
何か一目につきそれを読まさせるような工夫をする
明日も平穏無事で何も起こらないとしたら週刊誌などでも読まないのである。
週刊誌は今は買わない,インターネットでほとんど読めるからである。




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昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評 (今の社会で怖いのは警察と病院)


昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評

(今の社会で怖いのは警察と病院)


このドラマは複雑だけど現代を象徴しているものだった,警察と病院が舞台になっていたからである。
最初は痴漢冤罪だけだと思ったがその背景に病院がからんでいたのである。
まず日本の有罪率が99パーセントとかほとんどが有罪になっているのはおかしいというのは本当である。

こうした警察当局を増長させたのが司法である。日本の刑事裁判の有罪率が99.9%を超えていることは異常だ。先進諸国では7〜8割程度であり、日本では「起訴されたら有罪確定」と考えて間違いない。それだけ無実の罪で服役する(あるいは死刑になる)者も多いはずだ。

そもそも人間はどんな人でもミスを犯す,だから裁判でも人間は公平に裁判できない
人を裁き罪に帰することは最高にむずかしいものとなる,だから神は裁くなと言ったのである。裁くなというより人間は人間を裁けないからそうなった
だから日本では有罪率が高いというときすでに起訴した時点で裁きがついているとなる
そういう事案しか扱わないともなっている
でも本当は人間にはミスがあるのだから冤罪も確実に起きる
それだからこそ外国では7割くらいしか有罪にされないのである。
もちろん弁護してまた誤って罪悪人を無罪にすることもある
これも人間はミスをするからそうなる,でもそれも有罪率99・9バーセンというのはありえない数字だともなる,その中に確実に冤罪があるからだ

ともかく痴漢冤罪というときこれは女性が訴えだけで有罪になるというのも不公平となる女性の権利は格段に主張され法的にも実行力もつものとなった
その権利を逆手にとり男性をおとしいれる悪い女性も出てくる
ちょっと手を触れただけでも訴えられ有罪にされ社会的に抹殺されることは怖いことである。女性の権利が余りにも強くなった結果,男性は結婚がめんどうだとかなり少子化の一員にもなっている,結婚することは女性が断然に有利になっているからである。
少子化の原因はこういうところにもあった,女性は今はいろんな点で守られているのである。女性は大目に見られ犯罪にしても警察は女性には甘いのである。

この痴漢冤罪の背景は病院にあった,病院の院長がホームレスの男性を手術する必要がないのに手術して死なせた,それは生活保護だと手術すると金が入るからである。
だから手術する必要もないのに手術したのである。
ここに病院の怖さがある,生活保護とか身寄りがないとかなるとこの世は一見やさしいようで非情化する,そういう人は病院は恐怖の場所になる
実験材料にもされる,現実に自分が入院した市立病院では隣の福祉施設に入っている患者をおもちゃのように扱っていた
痰がつまってそれを治療するとき苦しんでいたがそれを面白がっていたのである。
その他病院には怖いところがある,確かに治療するにしても病院は無機質な空間であり情に欠けた空間なのである。
だから病院は刑務所のように思えた,見はり役が医者であり看護師であった
その人の言う通りにしなければならなからだ
医者は病院では拒むことのできない絶対的権力をもっているからだ
なぜ医者がこれほど敬われ力をもっているのか?
それは命をあづけるから何も言えないからである。

このドラマのテーマは警官がその痴漢した人を逮捕したのだがそれに疑問をもち独自に探り冤罪を晴らしたのである。
その背景に病院がからんでいたのである。その冤罪した人は病院にとって都合の悪い人だから痴漢にされて逮捕されたのである。それは仕組まれた罠だったのである。
そこで警官は苦悶するのだがどうしても良心があり冤罪にしたら自分が警官をやっていけないとして弁護士を頼み冤罪の証拠を探して遂に病院の院長の悪事を暴いたのである。
でも一警官がそこまでするのは相当に抵抗があり仲間からも注意された
上からの圧力もあった、でも押し切って痴漢冤罪を晴らしたのである。

ただ現実はそうはいかない,むしろ警察は怖い場所であり冤罪にできる権力をもっている検察と警察は今の社会では実行力あるのだから一番力を持っているから怖いのである。
他は会社であれ何であれ実行力がないからそうはならない
そして警官と医者と看護師は頭を下げない,患者様とか言うが現実は病院では頭を下げない,職務質問でも上から権力で拒否できないようになっている
警官に検察には逆らえないのである。
だから今の世の中で一番怖いのは警官と病院の医師とか看護師になる
そこはだからかえって悪が露骨になる
時代劇でも役人が悪人だとそれが露骨に権力を笠にきて威張っているのと同じである。
権力があるから何でもできるということにもなりかねないのである。
実際に実行力があるのが権力でありなければ怖がらないのである。
戦時中では一番威張っていたのは軍人だったという
現在は警官と医者とか看護師とかなる,これには逆らえないからである。
病院長の言い分としてはホームレスを手術したのは生活保護から金を得るためだという
そして優秀な医師や看護師を雇うのには金が必要だからだという
そこに必ずコストの問題が生じる,医も算術だとなっているのが現代だからともなる

このドラマは現代の問題を浮き彫りにした,過度な痴漢の摘発であり法の解釈である。
あまりにも女性側にたちすぎる結果として起きているということもある
それがひいては今度は少子化の原因にもなる,みんな女性に対して怖がるとういことさえある,ちょっと触ったら社会から抹殺されるとなると近づくことさえできないとまでなるそうなると結婚はめんどうだとかなりしない人が出てくるから少子化の原因にもっている何かと女性の権利が強くなりうるさくなっているし人間の善意すらはばまれる
そういう窮屈な社会にも反面なったのが現代なのである。

2018年01月11日

大学は名前だけになり大衆化した (それは団塊の世代から始まっていたー文系大学はいらないのか)


大学は名前だけになり大衆化した

(それは団塊の世代から始まっていた-文系大学はいらないのか)


大東亜帝国以下の大学なので、こんなもんじゃないです。
全国で500弱の大学が該当します。

自分のプログのアクセスを見ると驚くのはこんなに大学があるのかとなる
どこからアクセスしたかわかりにくいけど大学からアクセスするのはわかりやすい
するとこんな大学があったのかと知らない大学が多いのである。
Fランとかなるとそんなに多いのかとなる
何か地方にそうした大学を誘致して活性化を計るために大学を作りすぎたためである。
今日は長崎ウエスレヤン大学とかからアクセスしていた
キリスト教系の小さい大学なのである。

大学とは何なのか今問われている,団塊の世代から大学が大衆化していたのである。
自分の大学は文系でありマンモス大学であり講義を聞く講堂には3千人いたとかなる
これは高校の授業とはまるで違ったものなのである。
今は少人数になっているだろう。高校中学で30人クラスであり恵まれている
団塊の世代は50人くらいが普通だったからである。
そして地方から大学に入る人が多かった,今は有名私立大学は関東圏で70パーセントとかしめているとなるとか変わっている
地方から大学に行ける余裕のある人は少なくなったためである。
関東圏だったら家から通いから金がかからないのである。
地方だったら東京に住むだけで金がかかるからだ

学生運動というときなぜ起きたのか?
それはマンモス化した大学に対する不満があった,学問に身が入らないという不満があり学生運動になり青春のエネルギーを費やしたのである。
青春時代はなんらかでありあまるエネルギーが噴出して爆発するのである。
そして必ず過ちを犯すのが人間としてくりかえされてきたことである。
老人になってその過ちを悔いるのもそうである。

大学というと名前から錯覚しているのである。旧制高校からの帝国大学はまるで違ったものとして私立大学の文系などが生まれたのである。
団塊の世代から大学はそうしたエリートとは違う大衆化した大学となっていたのである。だから何か自分なども大学という名前だけでありその名前で錯覚しているのである。
大学を出たと言ってもほとんど勉強していないのだから大学を出たということにどれだけ意味があるのか?
例えばそこで何かを文系でも研究していたなら別である。そんなことは大学院まで行かないとないのである。

大学でも成城大学とか成蹊大学とか金持ちの行く大学は少人数でかえっていいものだったろう。その学生の数が百倍くらい違っていたからである。
だからその数に圧倒させられる,そんな数がいたことに驚くのである。
数が増えれば大学というっても名ばかりになる,それはすでに団塊の世代からはじまっていたのでありそれがさらに地方に大学は自治体の要請で活性化のために作られたのである最近看護系の学部を設置するのも地方では看護師不足で悩んでいるからである。

大学とは何かというとき戦前の旧制高校の時代とはあまりにも違ってきた,それはすでに戦後の団塊の世代からはじまっていたのである。
大学生の数がふえすぎて価値が低下したのである。
だから一流大学を出ない限り価値がないとなったのである。
むしろ手に職をつけた方が就職するにも世の中をわたるにもいいとなってもいる
大学の教育は役に立たない,特に文系は何のようにもならないとなった
自分は経済学部出ているけど何にも勉強していないから銀行員が来て株のことがわからないのである。
むしろ高卒の人は証券場で働いているから詳しいのである。
債権とか株の相違とか基本的なことがわからないのである。
株式とかが資本主義の中心にあるときそのことすら経済学部出てわからなかったのであるただ経済の分野は広い,哲学でも宗教でも関係しているから自分には本当はあっていたのである。

それにしても資本主義の基本である株式のことすらわからないというのはそれで大学の経済学部を出たと言えるのかとなる
理系と文系の相違は分けることは簡単にはできない
宗教が生まれたのは宗とはむねなることであり全体志向があって宗教が生まれた
だから宗教でも仏教でも医学と関係していたし江戸時代は医は仁術となっていたのである
大学で錯覚しているのは旧制高校の延長として団塊の世代は考えていたふしがある
つまり将来エリートとなり社会を指導する地位にたつことが約束されていたものとしての大学だと錯覚していたのである。
そんなマンモス大学でエリート意識が養われるはずがないのである。
エリート養成は少人数でしかできない,ソクラテスの回りに集まった弟子は数えるほどしかない,キリストでも12人の使途に教えを説いたのである。
講堂で三千人に講義すること自体,それは何なのだろうとなる
すでに授業も成り立たない状態になっていたのである。
だからみんな授業はつまらないとして学生運動で鬱憤を晴らしていた見れるのである。

その後大学を出てみんなが企業戦士となったのも戦前だったら旧制高校なら社会の重要な地位につき指導者になっていた
企業戦士とは会社の一兵卒のように働く人でありみんなが社長になるわけはないのである大量の一兵卒の方が必要とされた時代だったのである。
その人たちが団塊の世代を中心に高度成長時代を築いたのである。
その人たちはエリートではない,高度成長時代に大量生産して消費者となったのである。だから別に大学ではエリートとして社会の指導者としてどうあるべきかなど何にも教えられていない,日本の国をどうすべきかなども論じられないない
なぜならエリートでもなくなっているしそういう志など必要とされなかったからである。そもそも団塊の世代の受験戦争では他者を蹴落としていい大学に入り大企業や公務員になりいい暮らしをしたいということだけをすりこまれたからである。
そこにはエリートだった旧制高校のような矜持は全くなくなっていたのである。

いづれにしろ大衆化した時代というときエリートがいない時代であり何が指針となったかというとただいい暮らしをするしかない,物質的欲望を充たすことしかない
それはカルト宗教団体でもそうである。そこは巨大な欲望の塊りとなり政治化する
日本の戦後はエリートなき大衆社会である。
大衆がリードする社会である。それでマスコミでもその大衆向けに放送する
大衆が主役なのでありそれに答えるためにマスコミがある
パンとサーカスの時代だったのである

大学とは何か高邁な理想を追及するエリート集団を形成することにあったのだろう。
その理想が現実社会から離れていても大学内では理想を追及するとなる
社会の現実はそうでないとしても若いときはそういう純なもの目指すからである。
それに答えるために大学あったともなる
旧制高校とか明治維新の後の侍出身の人達はもともと選ばれた優秀な人達でありその人たちが新しい日本を作ったともなる
その後も旧制高校などのエリート集団が日本には存在したのである。
でも戦後はあらゆるものが大衆化したのである。
高邁なものを追及するものは拒否されて大衆化して堕落したのである。
マスコミがそれを象徴している,そこに本当の知とか何もない
芸能人の馬鹿騒ぎでありそれを見ているのも無知な大衆だとなってしまったからである。
それは日本だけではない世界的なものでありアメリカでもインターネットが発達していても一日十時間以上テレビを見ているというのには驚いた
インターネットを発明して普及しているのにそんなにテレビを見ているのかとなる
そしたらテレビに左右される人が多数だとなる,それで大統領選挙でもテレビを操作すれば勝てるとなり実質トランプ陣営がそれだけの金をテレビ宣伝に使ったとというのもそうなのかとなる

とにかく文系大学がいらないというとき大学が戦前の旧制高校のものとはまるで違ったものとなっていたのである。エリートを養成する場所ではなくなっていた
それは会社の一兵卒になって大量に働く人を大学をランクづけして選ぶことだったのである。もちろん有名大学ならそれは将来の幹部候補生となるからエリートとして選ぶとういことがあるかほとんどは一兵卒として採用されるのである。
だから大学というのは名前だけであり名前を変えないとなにか時代にそぐわないのである大学とついていると何か高校とはまるで違ったエリートのように錯覚するのである。
大学は団塊の世代からすでに大衆化してエリートでもないしその価値は格段に低下していたのである。
特に文系は大学では勉強しないし自分のように経済学部を出ても資本主義の基本の株式すら理解していないのである。
今や大学は名ばかりであり文系の場合どこの大学を出てもそれほど差がない気がする
自らが目的意識があって課題にとりくむことがなければ社会でも全然役に立たない

学問とは何か?それは社会の問題を解決するためにある,例えば今ここで津浪や原発事故で悲惨な状態になった,ではその復興とか解決策はどこにあるのか?
それこそがまさに学問なのである。それは理系が主でも文系も関係している
理系であれ文系であれ総力をあげて解決する策を見いだすことだからである。
それを自分はプログでしてきたのである。
学問とは現実社会がありそこに起きる問題を解決するためにある
それは個々人の問題でもそうである。
ただ学生だと現実社会を知らないから机上の空論になりやすいのである。
でも社会にでると否応なく社会の問題につきあたり解決を求められるのである。
その時大学で勉強していないと答えられない,解決策を見いだせないともなる


タグ:文系大学
posted by 老鶯 at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

墓は何のためにあるのか? (記憶するためにある)


墓は何のためにあるのか?

(記憶するためにある)


墓は何なのか?墓は死んだ人を埋めたのだから死んだ人をそこで供養するということがある
供養のためにあるとなる,一方で記念碑としてあるのは記念するものとしてある
忠魂碑とかあるがあれは墓ではない,墓は死んだ人の骨などを埋めた所だからである。
一つの戦争に貢献した国のために死んだ人としての記念碑になる

墓が何かというとき墓に行けばお参りすると必ず死んだ人を思い起こすのである。
だから母の実家の墓にゆくと享年25才とかで死亡というときその人は若くして肺結核で死んだ,そのことを必ず思うのである

だから何かそこの墓にゆくとしめつけられるような圧迫感を覚える
「俺はもっと生きたかった,生きたかったが生きられなかった」という叫び声のようなものがいつも聞こえるような気がする
それで何かしめつけられるような気分になる
そのことを何回も母から聞かされていたからである。
つまりこの人はもっと生きたかったが生きられなかった,成仏しなかった
だから圧迫されるようなしめつけられるような気分になる

墓でもこの人は安らかに死んだなとなると別にそんなことはない
母は苦労し人だけで百才で死ぬときも楽に死んだからそういうことはない
姉の場合は認知症で苦しんでしんだから違っているが一応85才まで生きたからそれほどそうした圧迫感は感じない,兄は40才で交通事故で死んだから無念がそこに残った

ともかく墓はこうして必ず死んだ人を想起させる場所なのである。
もし墓がなくなればお参りする人もなくなればその人のことは全く忘れられる
確かに記録として書類ではその人が存在したことがあるとしても具体的に墓としてもないのだから墓で想起するのとは違ったものとなる
死んだ人は無数にいるのであり書類にも記されている
でも墓参りするのとは違ってくる,戦争で300百万人も死んでいるからである。
もうその一人一人のことを具体的に知ることはなくなる
だから過去に死んだ人は本当にこの世に存在したのかとなってゆく

墓はそれだけ死んだ人を記憶させる重みをもっているのだ
ただいづれ墓もお参りする人もいなくなると忘れられる
無縁化したりして忘れられる
でも記憶させるものとしての重みをもっているのが墓なのである。

いづれにしろ兄を知っている人は確かに子供のとき5年くらいここにいたけど知る人はいなくなった,そこに墓を建てたことにより毎日自分はそこを通るから記憶されるのであるだから別に骨は埋まっているわけではない,でも墓がありその人を記念するものともなる記憶するものとしてある,
「あなたはここに存在したんですよ,私はあなたの存在をここで確認します」
そういうことにもなる,それだけで死者はなおまだこの世に存在しつづけるということがある。

ただそうはいっても実家の墓には行きたくなくなっている
これまで書いてきたように不和争いの家だったこともある
そして何か圧迫されて苦しくなるのだ
だからかかわりたくないともなる
間違いないことは死者が墓とともに生きていて何かを訴えていることは確かなのである。もし墓がなくなったら墓参りもしなくなったらそんなこと感じないからである。


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2018年01月10日

公衆電話を直していた (浪江の人が働いていた)


公衆電話を直していた

(浪江の人が働いていた)


今日はnttの下請け会社が来て公衆電話を直していた
その下請け会社は原町にあった
そこに勤めていたのが浪江の人だったのである。

ちょうどばあちゃんがきてタクシーに乗りたいと電話したいと言った
ところが公衆電話は修理中でありできなかった
そのばあちゃんは携帯ももっていなかった
それでnttの人が携帯で連絡してくれた

今日はその他に車が二台保守点検の人が来ていた
結局三台も車が来ていたのである。
駅とは何かこうしてそうした保守点検の人が絶えず出入りしている場なのである。

公衆電話でも誰かが連絡しないと来てくれない,駅員がいれば連絡するからいいが無人駅だといないから困るのである。
つまり無人駅だけではやっていけないことがあることがわかった
公衆電話は使う人がまれでもやはり使う人もいる
だから廃止するわけにはいかない

浪江の人は原町に仕事を持ち会社に勤めたからいい,家も建てたという,そうして帰らない人が多いのである。その人も年だから何か仕事につくことがむずかしかったという
その人は幸運だったとなる

今日は風吹いたけど遅れていなかった,これから遅れることが問題である
これも人かいないととまどうことがある
インターホンで原町に連絡できてもそれがどこにあるかわからず連絡できないこともある慣れた人はできるが外から来た人はそういう装置があっても簡単に利用できないのである。

タグ:公衆電話

記憶されることの大事 (記憶は場所と深く関係していた)


記憶されることの大事

(記憶は場所と深く関係していた)

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毎日特定の場所に一つ記されているのを見ると記憶しやすい,頭に残る



人生をふりかえると意外と大事なものが記憶だったなとなる
なぜなら最後は人間は本当に記憶だけに生きることになるからだ
認知症になったら本当に生きることは記憶していたことになる
それで家族の一人がその記憶したことを千回も聞かされたのである。
そして遂に死んだが今になると死んだ人の千回も語ったことが
それがその人の人生だったとなる
老人はみんな人生をふりかえり語る,それは記憶が人生になっているからである。

現実に記憶されないものは本当に存在したのか?
記憶から消えたものは存在したのかとなる
いろいろな人にあってもやがて忘れる
忘れたときその人は存在しないものとなるからだ
とにかく人間は忘れやすいのだ、昨日何かあったことも忘れる

そして人間は死ぬとたちまち忘れられその人が存在していたのかどうかもわからなくなる死んで百年も過ぎてその人が覚えられている人は相当な人物でないといない
墓が一つ墓地に倒れている,そこに名前が記されている,でもいつかこの墓も捨てられてなくなる,その時この人がいたということは誰もわからなくなる
この世に存在したことすらわからなくなるのである。忘れられるのである。

記憶と関係しているのはその場所とか何か一つのものではない
例えばパソコンに付箋がありそこに買い物するものなど書いておく
するとそこを毎日見ているから頭に記憶される
それは毎日見ることで記憶されるのである
そしてそれだけが実は目立つから記憶されやすい
その場所が関係していたのである。

一つの場所→毎日見る→記憶に残る・・・となる
だから英語の単語でも覚える場合,ここに一つの単語を書いて毎日見ると記憶しやすいことがわかった
買い物でも忘れるからここに書いておくと忘れないのである。
勉強でも記憶することが大事でありでもその記憶するにしてもそれが簡単にできない
膨大に記憶するものがありそれでできない
毎日見るものがパソコンの隅にありふれに一語とか書いてあれば記憶しやすいのである。その記憶するものがどこにどの場所にあるか明確だったからである。
つまり記憶は場所と関係していたのである。
それと毎日見ることで確認してゆくと記憶に残る

都会だとどこに何があるかわからない、それはいろいろなものがありすぎてそうなっているのである。本だってありすぎて同じ本を買ったことが何回かある
千冊あったとしたらそんな本を読んでいることを記憶されていなかったのである。
ありすぎることは記憶できないことに通じている
誰も千人の人と会って覚える人などいないのである。
それは数でしかない,統計的数字となってしまうのである。
民主主義だと一見公平なようでもただ数で決まるから顔が見えないから数ですべて決められるとそこに問題が起きる

ともかく人間は何かを記憶してゆく,記憶されなければ何もなかった存在しなかったことになる,それで都会ではなんでも記憶しにくい,膨大な人が流れてゆき,いちいち一人一人を記憶しにくいし過去でももう都会だとわからないのである。
田舎だと墓でも古い碑でも道端の木でも一つ一つが記憶されやすい
それは場所と関係していた
それがどこにあるかとして記憶している

パソコンの隅に付箋がありそこに書かれたものを毎日見て記憶しているのと似ているのだ
一本の松が五本松の松は枯れたが倒れずにありその時も生きていた感じになる
枯松とかの地名があるのもそこに松が枯れてもあったということで地名化する
そして松が枯れて遂に倒れてしまった,でもそれでもなおそこに松があったということを記憶させる,これがかたずけられたときここに松があったことがわからなくなる
でもその場所で見ていたものは記憶しているのである。
その松の記憶はなかなか消えないのである。
それは家族の死とにていたのである。枯れた松は老人でありやがて死んでゆくが以前として家にはいるような感じになる
相馬市の道の駅の五本松も日本は枯れて切られたけど三本は残っている
ここに五本あったときを記憶しているから五本松だということはリアルなのである。

いづれにしろ去る者日々に疎しという時,親戚で離れていると疎遠になる,むしろ毎日顔合わせる人こそ大事になる,その人は毎日見ているし会っているから大事になる
都会になるとどうしても人間の存在は希薄化する,みんな一時的忘れやすい
でも一つの場所に生きていると故郷などに生きているとそこが記憶の場所になる
故郷とは家族であれ記憶の場所なのである。
つまり記憶するには場所が不可欠なのである。
場所とともに記憶されることが多いのである。場所は具体的であるからだ
パソコンの付箋でもこれがテキストとかなって隠れているとわかりにくくなる
一つの場所に記されているということで毎日見ていることで記憶に残るのである。

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一本の松の枯れて立ちにしも遂に倒れて冬の日暮れぬ
タグ:記憶術

2018年01月09日

2018 abstract forest


2018 abstract forest


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Burning forest in the setting sun
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Multilayered forest that sinks to the earth

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a dead tree



なぜこの抽象画が作れるのか?絵の才能も全くないのに作れるのか?
それはインターネット上にある無限の写真や絵や創作品を変化させているからである。
それだけの量がインターネットにありそれを変化させるからいくらでも作れるとなる
自分の才能とは全く関係ないのである。
創作しているのは世界中の人でありその世界中の人の作ったものを変化させているだけなのである。
だからこれがオリジナルな創作なのかとなってしまうのである。


Why can you make this abstract painting? Can you make a painting without any talent?
That is because it changes infinite photographs, pictures and creations on the Internet.
That amount is on the Internet and it makes it possible to make it as much as you can change it
It has nothing to do with my talent.
It is people all around the world who are creating and changing only what people made around the world have made.
That's why it's an original creation.
タグ:abstract forest

風で運休でこれから困る電車利用


風で運休でこれから困る電車利用

今日は昼間風で遅れたと表示がでていたら時間が伸びて赤字になりやがて運休になった
鉄道の問題はこの風による運休である
なぜなら毎日のように風が吹く季節になったからだ,去年もそうだった
新地から高架橋になったから風を受けるためになる

一人は足をひきづって歩いて来た人がいた、30分遅れるよと向かい側のホームに行って連絡した,スピーカーで連絡するのをJRで忘れていたのだ
それをインターホンで言ったらスピーカーから遅れをアナウンスした

でも足ひきづって歩いていた人はそのまま向かい側の待合室にいた
その人は歩くのがひどいから階段を上り渡るのが苦労なのである。
だからその人はそのままいたのだろう。
でも3時間くらいすぎて行ったらいなくなっていた
いくらなんでもそんなに待っていられないだろう。


それから仙台方面に行く人が駅に来て困った,バスで行くということで原町駅にインターネットから連絡した,原町駅から仙台のバスがまだ出ていた,もう鹿島には止まらない
それで行くことにした

何か案内することは駅にある,無人駅でもある,ここは結構まだ人の出入りがある
東京方面に行く人も多いからだ
この風による電車の遅れはこれから必ずあり毎日のようにある
去年もそうだったし今年も同じである。

あの足をひきづって来た人のようにこういうとき駅員がいないと困ることはあるなと思った,つまり無人駅では困ることは必ずある
こうした緊急事態がつづくこと余計にそうなるのである。

今日は知っている人が原町駅に行って帰ってきた
図書館に行ったという,他の人も一緒だった
何か暇な人が高齢者が図書館に行っているみたいだ
あそこは休めるようになっているし駅前だから便利なのである。
他でも図書館が高齢者が集まる場所になっているというのもわかる
高齢者のたまり場になっている
あとはゲートボール場に高齢者が集まる
ただあそこは車をもっていないと行きづらい
車のない人は電車で図書館で暇つぶしとなっているのかもしれない

自分は本当に図書館に行っていない
家事で忙しいし図書館に行く余裕がないのである。
そして調べ物はインターネットでしている
自分が疑問に思うことがインターネットに出ているのでそこから議論を深められる
図書館ではなかなかそういうことができない
だから図書館というのはただ本を読む場所ではなく高齢者とか学生とかのたまり場になっているのかもしれない,今はあまり本を読む人が少なくなっているからだ
ただそれにしても往復400円かかるからそんなに毎日は行けないだろう。

駅が不便なのは買い物ができないことである。
六号線の道の駅にスーパーがありイオンも離れているからだ
自分は買い物ののために自転車でいつも行っている
駅は利用しない,でもこれから高齢化が進んでくると電車を利用する人が増える
車は危険になるからだ,ただ駅の不便なのは駅からの足がないことである。
だからある都市では駅とか通りとかに老人を住まわせた,そこから食事でも買い物でもできる,車を利用しないコンパクトシティを作ったのである。
それは高松市であった,そんなことも高齢化社会では必要になる
ただあそこまでするとなると容易ではないし簡単にまねできないと見た

20代で人生は決まる (人生のチャンスは一回しかない)


20代で人生は決まる

(人生のチャンスは一回しかない)


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。伝道者の書 12章1節

20代という期間はその1年1年が数千万、数億円くらいの価値があると思います。

正社員就職を目指すなら、まず優先すべきは1年でも若いうちに勝負をつけることです

人が最も良いパフォーマンスを発揮するのは、「最適な環境」で、「最も得意なこと」にコミットしたときである。

●青春時代は必ず過ちを犯す
●人生を決めるチャンスは一回しかない
●60代以降はカルマの清算が強いられる
●光陰矢のごとし 無常迅速

人生のバターンは決まっている,それは推理ドラマのテーマとなる,若い内は必ず過ちを犯す,そのエネルギーがあふれて無謀になり過ちを犯す,そして後で悔いる
若いときは暴走しやすいのである。それだけエネルギーが噴出するからである。

そして20代で30代で人生の勝負はついてしまうというのは本当だと思う
ここでビジネスとかで言われるが人生そのものでも20代で勝負がつく,人生は長いから
そんなことないと思っているがみんな年とればわかる
たちまち時間は過ぎてあとは死だけが現実になる

肝心な求道でも20代にしないならもうできない,神を知ることはできないのだ
これは重大なことである。神を求めるのは年取ってからはできないのである。
そしてチャンスは一回しかない,人生は長いから何度もチャンスが来て立ち直れるとか言われるがそれほど人生は長くはない
一回の賭けで決まる,自分もそうは思っていなかったがふりかえればそうである。

また人間は経験を積むにしてもいろいろなことができない,自分は50代で海外旅行していなければできなくなっていた,なぜならその後は介護とか病気になり十年は費やされて時間は消失したからである。自分のように会社に勤めもせず自由に生きたものでも人生は短い,これくらいのことしかできないのかとつくづく思った。
人生は長いから後でやれると思うとできない,老後は自由に生活してやりたいことをやるとか計画するとできない,病気になったり介護になったりまた新しいことについていけないとかなる

人間の時間は限られている,どんなに自由時間が与えられてもたちまち消失するのが時間だったのである。だから時間に万金の値があることを年をとれば知る
金があっても時間がなければあらゆることは身につかない,学習するにしても時間が必要であり金だけではないからでてある。時間が貴重なのである。
そして若いときでないと体力を使うことはできない,登山でもなかなかできなくなる
つまり冒険するのは若いときしかできない,それだけ若いときの価値は大きかったとなる
だから10代から20代は本当に大事だった,その時間を活かした人は成功したのであり幸福だったとなる,若いとき臨んでも苦労しろというのもそうである。
そういう経験が人間を作る,人間はあまりにも恵まれていたら後で苦労する
だから人間は金とかでは金持ちと貧乏人の差がある
でも時間は平等に与えられている,金持ちが特別長い時間を与えられているわけではないだから時間を活かせば貧乏人でも何かしら身につくし一角の人間になりうる
金持ちでも時間を活かせなければ浪費すれば放蕩などしていればもう人間は作るチャンスは消失するのである。

そして60代以降はカルマの清算が強いられる,若いとき成した過ちでも清算を強いられる時間がたってもそういうことは消えないからだ,そこで悔いるのだが遅いとなる
カルマとして苦しみとして現れるのである。
それはどんな人でもカルマを積まない人はいないから60代以降は過酷になる
自分の十年間はそうだったからである。
人生とはこのように同じ道をみんな歩む,それは人間にカルマとして課せられたものだからである。例外はないのである。
ほとんど数式ともなっているのだ,
結局それは人間が今だけではない、長い間そうして綿々とつづいてきたのが人間の生である。そこに教訓が生まれて格言が生まれ宗教哲学が生まれたのである。
庶民の諺でもそうである。そこに普遍的な真理があったことに感嘆するからである。
それは今も通用していることは人間の本性は今も環境が変わっても変わらないからである人間の欲が消えたわけではないから同じことをくりかえすのである。

タグ:20代

2018年01月08日

ニートは憲法違反なのか? (誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


ニートは憲法違反なのか?

(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


●労働の義務が生まれた時代の事情

27条
1.すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 

戦争に負けて、焦土と化した日本を復興させるために、みんなで努力していこうという気持ちを込めて、この規程が入れられたそうである

このサイトで理路整然と勤労は国家の義務ではない,それが作られたのはその時代の事情があったのである。
戦争に負けて焦土と化していた日本を復興させるために時代の要請によって作られたのである。
時代が変われば法律も変わるのである。モラルは時代が変わらず絶対的なことである。
嘘をつくなというときそれはいつの時代でもそうしろとなるのがモラルであり世界的にも普遍的なものとしてモラルがある、法律は誰が定めたのか?
国民がそう決めたわけではない,上の支配者が勝手に決めたことなのである。

ただ勤労が義務だというときその時代とか地域でも違ってくる,国でも違ってくる
この辺は原発事故で若い人が避難して働き手がなくて困っている
それは戦争に負けた時とも似通っているのだ
それで小高辺りでは若い人が介護職員が確保できずに立派な施設があっても仕事ができないのである。他でも農業をはじめたが人手が集まらないから困っているとかある
だからこの辺ではニートとか働かない人は責められる立場にある
他の地域と違って働いてもらわないと困るからである。
それは今や人手不足で日本全体の問題ともなっている,日本の国力が低下してもう日本は人口も減り日本の国土も維持できないとかいう。
だから事情が時代が違ってくれば労働観も変わるのである。

地域でもあるところではスーパーすら維持できなくなり買い物すらできなくなり地域の老人でもそこで働くようになった,そうしなければもう村を維持できないからである。
そういうとき働かないということはもうそこに買い物もできない住めなくもなるから責められて当然だしそういう人は住んでいては困るらか出て行けともなる
原発事故で若い人が流出したこの辺もそれと似たところがあるからニートなどありえないということもある,でも現実にここでもそういう人が結構いる
自分はそういう人と良くあうのである。
だからこの辺では余計に片身の狭い許されないものとなっている
原発避難者が仮設で毎日パチンコしていたときも働いてくれという人が地元でいたことも当然であった
なぜなら地元の人は働いて避難者は毎日パチンコでは何で自分たちだけが働くのだとなったからである。

ただ戦後の焼け野原とかと時代が変わったから豊かになったからフリーターとかニート問題が生まれたのである。
ここで自分の言うのはこの地域の特殊性のことではなく,ニートとか全国的に増えたことの問題である。
ニートが増えたのはそれだけ社会に家族にも余裕があるからなのだ
貧乏だったらそんな遊んで何もしない人を家族も世話はできないからだ
だからニートとかフリーターは時代が生んだものなのである。
時代特有の問題なのである。なぜなら団塊の世代だとそんな人は極々まれでありみんな会社に就職していたからである。
そして猛烈な企業戦士になって働いたのである。
自分からするとなぜみんなそんなに会社のために働いたのかという疑問がある
今の豊かな時代とは違い,ハングリーな時代だったからともなる
自分の場合は特殊な家庭環境とかでなったものでありまれであった
まれなときは極端に少ない時は話題にもならないのである。
今は増えすぎたから話題になり社会でどうしたらいいのかとなったのである。

●労働は権利である

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ

ここで注目したのが勤労の権利を有し・・・ということである
義務ではない,勤労の権利を記されているのだ。
では勤労の権利とは何なのか?義務は押しつけられたものである。
それは勤労したいというとき国家がその権利を認め勤労させることだともなる
国民は勤労の権利をもっているともなる

俺はぶらぶらなどしていたくない,勤労したいのだ,だから勤労する職を与えてくれともなる,勤労の権利があるのだからその職を与えてくれるのも国ですべきだともなる
おそらくこの勤労の権利は自主的なものであり自分がこういうふうに働きたいというボランティア的なものかもしれない,すると自分がしたい働く場がないなら働かないともなるかもしれない,働かないという権利もあるのかもしれないとなる
権利を有すれば必ず義務があるとも解釈している

人間はともかく働かないということはなぜ犯罪者のようにされるのか?
それはみんな毎日働いているからである。お前が毎日食べるものは働いたものが汗水たらして提供したものでありそれを無料で食べられるのかとかなる
それはお前は他人の労働の成果を盗んでいると同じだともなる
実際に社会ではみんな働いているからである
すると毎日何もしないで家にこもっているニートは何なのだ,そんいなもの社会にいらない,負担になるだけだ,障害者と同じだともなる

ただではなぜニートが生まれのか?本当にその人たちが働きたくないからなのか?
本当は働きたいのだが働けない,いろいろな障害があり働けない,それで家族で養ってくれるから働かないでいいとなりそうなっている
国民が税金を払う生活保護者とも違う,自分が働かなくなったのは流れ作業とかが一番していてそれでこんな仕事になんの生きがいも感じない,これは機械と同じだとなり仕事を嫌悪するようになり仕事はしたくなくなった
もし何かそこに仕事に生きがいがあるものとなっていればこうはならなかった

結果的に仕事はしないで旅をしたり一人で学問とか芸術の追及をしていたとなる,だから遊んでいて何もしないともならない,今ではプログで何かを与えていることは確かである現代では働くことが必ずしもすべていいものではない,働くことは他者を無益なのもでも働くことを強制しているのである。
例えは奇妙だが毎日郵便局員が配達しているのと自転車だと良くあう,するとその人は毎日働いている,それが働かない人にとっては圧迫するものとなる
俺は働いている,お前は何しているんだなる
つまり田舎では今は一定数働かないニートとかがいる,田舎ではそういう目があるから片身の狭い思いをしていずらくなるのである。

自分が働かない理由としてむずかしくなるが文明拒否して全人間たらんとしたということもある,文明とは人間がどんな優秀な人でも部品と化してゆくことである。
医者でもその分野が専門化して細分化されるのである。
江戸時代だったら医者は体全体を見て心ともかかわっていた,だから医は仁術となっていたのである。
現代文明はある職につくことがすでに部品化することであり全人間を失うことである。
なぜ英語の先生だったら英語ばかりを教えているのか?
教える方もつまらないと思った,数学の先生は数学ばかり教えている
これも人間が専門化していることである。そういう先生は数学を教えるロボットのようにも見える,実際に人間はこうして部品化して巨大機構とか組織とか機械作業の部品として働いているのである。

だから全人間になるにはアウトサイダーになるほかなくなる,それは特定の専門化した職業につかないことなのである。
ただそういう人は天才とか社会に適合できないのはそれはニートなどと違ってかえって優れているからそうなった,でもそれは別に天才でなくても一般化したのが現代なのである自分も天才ではなくても特殊な家庭環境から社会からはずれてしまったのである。
でも自分には天才的なアウトサイダーとは違っていた

小人閑居して不善をなす

必ずこうなるのが平凡な人ならなる,社会からはずれてニートになってもそこで不善を成す、何か有益なことができないのである。かえって不善を成すのである。
自分でもそういう経験しているからわかる,つまり社会からはずれて生きることはかえってむずかしいとなる
社会で普通に働いている方がかえって楽だともなる,社会から責められることもない,つまらなくても機械的な仕事をしているにしろ組織のロボットになるにしろ楽だとなる
ニートはむしろ落ちこぼれでありアウトサイダーとなると極々まれな人がなっていた
それは百万人に一人とか極めてまれな人がなっていたのである。
それが普通にいるようになったとき社会的問題になったのである。
アウトサイダーは反社会的でも何らかの価値をもたらし提供したがニートなどは何も提供しないからである。だからただの穀潰しと非難されるのである。
だからとてもアウトサイダーとニートとは同一に論じられない問題なのである。
ただ似通っているから何なのだろうと自分でもそういう人は何なのだろうとなる

いづれにしベーシックインカムなどが真面目に論じられたりすでにスイスで実行している時代だというときそういう働かない人が時代が生んだのである。
ただそれは百万人とか一人のアウトサイダーとはまるで違ったものなのである。
自分には絶えず向上心とか勉強もしてきたがニートは何かそういう向上心とかない,
嫌な仕事を嫌うのはわかるがただずるずると怠けていて社会の負担にしかならないと見られているのである。
ただ働くということがすべていいものではない,それは害悪となり本当に自然環境でも破壊してこの辺は原発事故で住めなくなったからだ
自然環境の破壊は人間は働くことによって起きたのである。

●労働によって自然の美は破壊されてきた歴史

農業も自然破壊だったのである。焼き畑がそうである。森を焼いて消滅させたり稲作だって自然破壊だった,海を埋め立てたのもそうである。
松原は自然景観だと思っていたがそうではなかった,もともと松原はなかった
松は根が強く張らないので津浪に弱かったのである。
つまり松原は自然ではなく人工的自然だったから津浪に弱かったのである。
だから文明とは働くことは自然破壊だったということを歴史が示している
人間の過剰な労働が自然環境を破壊してきたのである。
だから文明の跡は砂漠のようになったというのもそのためなのである。
もし人間はこんなに過剰に労働しなかったら天地創造のままの自然景観がありそこで暮らせていたのである。
だから人間の労働がすべて肯定はできない,労働を強制することは危険である。
でも誰かの労働によって過剰にお前は働かないのに与えるものがないのに得ているのだから他人の労働を盗んでいるとなり非難される


労働観にはいろいろ見方がある,でも労働がすべていいものではなく強制される義務とされるのは時と場合によるし賛成できないのである。
自分も働きたい,働く権利がある,でも自分がしたいとする職は与えられない,見いだされないからしないとなる,そんなわがままなことを受け入れる会社も人もいないというのもわかる
そんなことで仕事ができるのかというのもわかる
ただ理想論を言えばそうなるのである。
誰でも実は野菜で作ってみたい,果物でも作ってみたい,ただそれを得るだけではない自ら作ってみたい,そしてその労働の成果を味わってみたいとなる
家を自ら建ててみたい,いろいろしたいことがあってもできない
自分が報道したいとか本を出したいとかあったができなかった
でもインターネットでできたので金にもならないが積極的にしていることでもわかる
労働の権利は得られないのである。そのために労働しないという人も多いのである。


「野の百合はいかにして育つかを思え、労せず、つむがざるなり。されどわれ汝らに告ぐ栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。」(マタイ6章)

労せず、つむがざるなり・・・・華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。

労せずとは労働しないのである。花は別に労苦して労働して育つわけではないのである。ソロモンの栄華とは文明のことでもある
こんなに労働しているのに死ぬほど労働しているのになぜ東京とかニュヨークとかそれが労働の成果であり文明の成果なのかとなる
科学技術の粋を集めた成果は東京砂漠というようにそこに潤いも美もないのである。
江戸にはまだ美があったが今の東京にはないのである。
だから文明そのものが徒労だったともなるのである。
それは働きすぎた結果なのである。もし自然のままだったら東京でもそこには自然環境がそのままのこり美があった,それが労働の結果失われたのである。
この辺で津浪で八沢浦が元の浦にもどったということを報告したとき確かに批判された
でも田んぼを作ることは海を埋め立てて田にしたことは自然破壊だったのである。
なぜならこの辺は浦がまれであり貴重だからである。
ただそれは時代の要請でそうなったのでありそれをとやかくいわないしそんなこと言ったら批判されたこともわかる
ただ確実に文明化することは自然が破壊されその美も破壊される消失することなのである。


posted by 老鶯 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

放射能汚染のために復興できないのか? (農業で生計を立てている人は一割にも満たない)


放射能汚染のために復興できないのか?

(農業で生計を立てている人は一割にも満たない)


江戸時代までは村という強固な社会で縛られていた,移動も移住もほとんどできない社会に住んでいた,今は金さえあれば都会に住もうがどこに住んでもいいのである。
そして不思議なのは放射能汚染にしても実際は田舎でも昔のように8割もの人間が農業して暮らしていたのとは違う,そのことをよくよく考えてみるとそうなれば別に田舎でも
農業で暮らしていない,みんなほとんど会社員とかであるというとき放射能汚染の影響は実は少ないものだったのかともなる

ただ飯館村とかになると牛を飼っていたからその影響は大きかった,牛の村として生計をたてていたから牧草などが汚染されると牛を飼いなくなったからである。
でも他の町では浪江町とか小高とかではそうではなかった,そこではむしろ原発で働く人の方が多かったしそれで経済的に成りたっていたともなる
つまり田舎だとは田畑があり農業で暮らしているというふうに見るが今はそうではない
そこが錯覚しているのである。自分の周りをみても街内だと農業で暮らしている人などいないのである。みんな会社員であり農業などしていないのである。
あとは何で生活しているのか働いているのかわからないような社会なのである。

原発事故では放射能汚染で水や土や空気や森とかが汚染された,それは生活の基本となるものでありそこが汚染されたら生活自体が成り立たないのである。
それはまた農業と深く結びついていたからそれで故郷に住めなくなったのだと自分すら思い込んでいたのである。
でも浪江でも小高でも原町でも鹿島でも他でも農業の生産高の割合は一割にも満たないのである。でも田舎を見れば土地としては田畑の割合が多いから田畑で暮らす人が多いかのと地元の人すら錯覚しているのである。

それで放射能汚染されたらとても暮らせないなと地元の人でもまた外からの人でもそう見るのである。でもみんながほとんど会社員であり工場とか会社で生計をたてているというとき別に地元の田畑でとれたものを食べなければ生きていけないという時代ではない
いくらでも外部から食料は入ってくるのである。
ただ水は飲めないのでペットボトルの水を買って飲んだりしているとその分金はかかる
でもみんな農業できなくなったから帰らない復興できないというのは違っている
工場とか会社に勤めていれば放射能汚染とは関係ないことだったのである。
もちろん工業製品も汚染されたから影響はあった
でもみんな農業できなくなったから帰れないと錯覚しているのである。
それは自分もそうだったし外部でもそう見ていることが多かったかもしれない。
田舎は昔の田舎とは違っている,同じように金が支配しているのは同じなのである。

だからよくよく考えてみると放射能汚染で暮らせなくなったというときみんな農業しているからしかたがないと錯覚する
それより田舎では農業は金にならないからしたくないとかそれで跡継ぎがいないとかなっていたのである。それは農業中心の社会ではなくなくなっていたからである。
漁業にしても同じである。漁業者は原発の補償金で成り立っていて裕福な暮らしをしていたのである,これも原発事故になってわかったことである。

会社員だとかなると浪江の人は会社は二本松に移動して再開したからそっちに移住した
それまでは鹿島からとか原町とかから通っていたのである。
その土地とは関係なく会社であればその会社とともに移動して移住することになる
でも農業だったらその土地に根ざして生活しているのだからそれができない
だからこそ放射能汚染されたから生活できなくなり帰らなくなり復興できないと見ているそれはしかたがないと見ている

すると帰らない復興できないのは別に農業ができないからではない,会社や工場がそこにあれば帰れるともなる,ただそういう場がなくなったなら帰れないとなる
放射能汚染は会社や工場ならそんなに影響はないのだから会社や工場があれば帰ってそこで働けるとなる,その辺がなぜ帰らないかのかと疑問になることである。

放射能汚染されているから帰れない

こういえばすべてが通る,理由になり何も言えなくなる
でも実際は農業している人は本当に少ないとするとその理由が成り立つのかとなる
もちろん避難して帰らない人達には言い分がある
ただ帰らない理由が果たしてすべて放射能汚染だけのためなのか?
それがよくよく考えてみるとそうでもていのかと思う
ただこの辺のことはなぜ帰らないのか,その本当の理由はわかりにくい
みんな帰らない人は街が廃墟化したときとても住めないとして帰らないと言う
それもわかる,もうここには住めないとその荒廃ぶりを見て決めた
それは放射能汚染だから住めないということではない?

だから復興というとき会社とか工場があれば勤める場があればみんな帰って復興できるともなる、つまり放射能汚染だけが理由ではなくて復興できない人々は帰ってこないとなるただなぜ復興できないかとなるとその理由はいろいろあるから自分にはわからないとなるただすべてが放射の汚染のためなのかとふりかえるとそうでもないなと気づいたから指摘したのである。

posted by 老鶯 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月07日

広域社会や企業社会の弊害 (原発事故で離散して町は復興できない)


広域社会や企業社会の弊害

(原発事故で離散して町は復興できない)

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江戸時代からすると良く時代劇で良く家によって両親によって決められた結婚が嫌で恋愛した人と一緒になろうとする,でも駆け落ちするにしても江戸時代だととてつもなく困難なことである。
結婚自体が家と家の結婚であった,格式がありそれに見合った結婚をしていた
だから明治時代まで両方の姓を記した墓がある
つまり自由恋愛とかの結婚はむずかしいものだった

そして江戸時代は移動が自由ではない,藩を出ることは国境があり関所がありそこを出ることだから簡単には出れない,旅でもむずかしいのだから藩を出て別な藩で暮らすことはさらにむずかしくなる
それで相馬藩では越中の方から飢饉の時移住してきたがそれが藩から脱出することは命がけだったのである。そのことが語り草となり物語となった

そういう時代と今はあまりにも違いすぎる,人の移動は容易だして移住も容易である。
交通が発達して人の移住は自由なのである。どこに住んでもいいのである。
商業とかが発達すれば一カ所に農民のように自給自足で住みつづける生活をしなくてもいいとなる
江戸時代は農民は8割であり土地に根ざして生活しているから移動とか移住は滅多にない世界に生活していたのである。
そこにはよそ者は入りにくいしまたその狭い生活圏から出ることもできないものだった

なぜ原発事故で簡単に人々は離散して町に故郷に帰らず復興できないのか?
それは広域社会とかが関係していた,グローバル社会とかも関係していた
多国籍業とか大企業なども関係していた,農民が8割の社会とはあまりにも違う社会である。第一次産業の割合は一割にも満たないのである。

広域化社会は交通の発達で加速される,鉄道で全国が結ばれ日本国民という意識をもったというのもそうである。
最近では常磐高速道路ができてさらに移動が容易になり外部から仕事でも入ってくる
ユニットバスを仙台の業者が百万で請け負い作ってもらった,普通はイワタニのガス屋でも200百万かかるという,でも百万で立派なのができたのである。
そういうふうに広域社会で人はいま否応なく生活しているのである。

するとどうなるのか?別に故郷に住みつづけなくてもいい,どこに住んでもいいとなれば
容易に人は移動して移住もする,江戸時代のように一カ所に定住することもなくなる
故郷にこだわることもなくなるのである
だから一旦町に住んでいた人達が放射能汚染で避難したときもう住みたくないとなり外に移住したのである。なぜなら移住することが簡単だからである。
補償金はその移住のために使われて故郷の復興のためには使われていないのである。

この辺でも自分も経験しているが小高の人が大勢避難して仮設に住んだとき何が起きたのか?仮設の人達が小高の人達がかえって威張っていたというのもなぜなのか?
それは別に鹿島の人たちに世話になるわけではないからだ
何か食べるものにしても金があればスーパーで買いばいいとなっている
もしそれだけの人達が移住して食べるものもないとしたらそれで米でもめぐんで助けねば生きられないようだったらそんなことはなかった
別にそんなこともないから私たちは鹿島で金を使って助けてやっているのよねと言っていたのである。
これこそまさに広域化した社会なのである。金を払っているものが消費者が王様だとなる鹿島では土地を貸していたがその他何か小高の人達のためにしたということもないからである。全部仮設で設備も用意されたからである。

つまり他の土地に行っても別にかねさえあれば同等に住めるのである。
むしろ金があれば金を使えば消費者は王様となり待遇されるとなる
でもそうなると故郷も実はただ一時的にいる場所でありそんなに執着する場ではなくなるどこに住んでもいい,こんな放射能汚染されたところに住めないし住まなくてもいいとなる,補償金ももらったことだか他に移住すればいいやといわき市でたちまち膨大な新築の家が建ったという,それで地元の人が不満になったというのもわかる
それは金がものを言う社会だからどうにもならない,その家を建てるのは大手の建築会社であり地元の人が働いたわけでもなかった
昔はみんな地元の大工が家を建てていたのであるが今や一週間くらいで組み立てるだけなのである。つまり金さえあればどこでも家も簡単に建てられるのである。
またすでにできあがったものを建て売りの家も売られているから金を払えば即入れる
自分の家などはできるまで半年くらいかかったのである。

ともかくこういう広域社会は確かに悪いともいえないし江戸時代のように一カ所に縛られる生活でもないから自由でいいとなる
でも反面また人の絆とか土地の絆とか希薄化してこういう困難のときその絆も簡単に切れてしまう、盛んに津浪や原発事故で絆を言われたが実は絆広域社会でむしろそこに住んでいる地元で失われていたのである。
かえって外からの人達が入ってきて仕事もしたしボランティアもきて外との絆が結ばれたというのもまさに広域社会を象徴した出来事だったのである。
それは悪いことではない,広域的に人間が協力しあうこということだからである。

ボランティアはひっきりなしにきて仮設の人を応援した,だから仮設に住んでいる原発避難者は外部のそういう人達を歓迎して気分よくしていたのである。
でもその時自分は過酷な状況で介護や病気で苦しんでいたがさらに周りから苦しみを受けるだけだし誰も同情などしないのである。普通はそういうものであり特殊な事情でボランティアが全国から来たのである。
それが悪いというのではなく仮設に住んでいる人達はどういう気持ちになったのか?

なんで鹿島の人達はボランティアのように協力しないのだ
なんと冷たい人達なのか
かわいそうなのに同情もしないのか
そして補償金のことばかり言う
そんなこと苦しいのだから当然ではないか

こういう気持ちになっていたのである。でも実際かわいそうかというと毎日ギャンブルであり東京とか遠くに風俗とかで遊びに行った人達もいた,そういう人達がなぜかわいそうなのかと自分も怒りになったのである。
その時自分の状態は介護と自らの病気で苦しんでいたがただ借金している人からは責められるとか苦しいのに責められるだけだったからである。
そして犯罪にもあいさんざんな目にあったのである。そのことで自分は怒りにもなっていたのである。
そんな個人的な事情などこういう大被害になると無視されるのはやむをえないともなるが自分として不満だった

そこで問題はなぜ簡単に人々は故郷を町を捨てたのか?
広域社会だからこそそうなったともなるのではないか?
江戸時代は一カ所の土地に縛られた生活だけで人と人のつながりは強かった
広域化社会になればその人と人の絆も希薄化する
故郷意識も希薄化する,人と人の絆が言われたけどそれは外部との絆のことだった
内部の絆は消失して補償金とかでもめて分断されたのである。
普通だったら内部の絆が強く一致団結した,それがただ補償金でもめたというのは金が第一の広域社会に生きているからそうなったのである。

ただその広域社会のマイナスの点として老人には辛いものとなった,老人にとって今までそこで長く生きてきたし親しい友達もいたとか家族すら離散して絆が断ち切られたのである。そのことはここだけではない,東京のど真ん中でも起きていた
新しい道路ができて古い通りが分断されて団地に老人が住むようになって親しい昔からの友達もいないと嘆いている人がいたからである。
老人はなじみの場所に住むことが精神を安定させる,変化に弱いからだ
だからこそ老人はみんな故郷に帰りたい,家に帰りたいとなるのである。
そして現実に故郷に家に帰っているのは老人なのである。
だからここのところの被害が大きかったなとふりかえれば思う
その精神的被害が大きかったのである。ここはあまり注目していないのである。

自分が家の子とについて語ってきた,家族がみんな死んで家に一人になった
それでも家には家族がいる気分になるとか延々と書いてきたとき家は単なる寝起きする箱ではない,そこに家族が生きた思い出がつまっているからそうなる
そこになお家族がいるような気になるから家に帰りたいというときそういうことがある
それは老人になると特にその思いが強いのである。
だからここでも若い世代と老人世代の心の持ちようの分断が起きたのである
若い人は老人のように一カ所に住むことにこだわらないことがあるからだ
そこで祖父母とか親とかの世代の分断が起きたのである。

家族でもコミニュティでもそれは空間だけではない土地だけではない時間軸でも結ばれたものである。家族にも歴史があり土地にも歴史があるからだ
そういう時間軸で結ばれたものが絆が断たれたことも被害だったのである。
ただもう町自体が崩壊するようになるとそれを復興させることがいかに困難になるか思い知らされた,ただなぜこんな簡単に歴史があり故郷が見捨てられたのかということは
やはり広域社会とか現代の社会がもたらしたものだと思う
それはいい面と悪い面をもたらしたのである。

寒風に耐えて十本変わらぬ木

十本の木が寒風に耐えて立っているがそれが変わらないのである。
そのようにもともと農民社会だったら変わらなかったのである。その絆も土地と結びついて強いものだったのである。
それが広域社会グローバル社会,大企業や多国籍企業の進出,商業の発達,金が万能の社会とか・・・・いろいろな現代社会の要素が複合的に影響して復興をむずかしくしたのである。

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posted by 老鶯 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

新年の松川浦短歌


新年の松川浦短歌

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八沢浦の新しい橋

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雪の蔵王
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松川浦
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クリック拡大(宇多川河口) 白鳥がいた

向こうに百間橋が見える,結構長いから昔この橋をかけることは容易ではなかった

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新しき庭に石七つ冬の暮

街道の祠一つや冬の暮

冬の暮百間橋を渡るかな


雄々しく蔵王を望みみちのくの野の広がりて年の明けにき

我が来たり鴨の千羽の群れさわぎ松川浦の年の明けにき

松川浦鴎あまた群れ宇多川を一羽飛びゆく年の明けにき

立谷川凍りけるかな町場橋夕ぐれあわれ我が去りにけり


蔵王が八沢浦から磯部からも大きく見える,松川浦になると小さくしか見えない
意外と蔵王が大きく見えることに気づいていない
蔵王は福島県と宮城県と山形県の三県に見える,だからこれだけ広範囲に見えるからこそ
陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ 斎藤茂吉

この歌はみちのくといっても福島県と宮城県と山形県までである,だから二わけするとなる,岩手県になると岩手山であり青森県になると岩木山が象徴的山になるし秋田県になると鳥海山である。

松川浦ではレストランに入った,そこは全国からの魚をもともと仕入れていたのである。松川浦だけではない,津浪や原発事故の前から全国から仕入れて出していた
それで沖縄で松川浦から来た人とあった,沖縄からも仕入れていたのである。
石垣水産とか張り紙があり宣伝していた,あそこはだから魚料理が美味いとなる

次に来たのが相馬市をまわり日立木の立谷川でありそこは凍っていた
そこに町場橋があり薬師堂がある
この町場橋はなぜ町場となったのか?この辺の町場だったとなる
人が集まる場所だったのかもしれない,ただ相馬市街までは城のあるところまではそれなりに遠く感じたかもしれない,歩いてゆくと近くても遠く感じるからである。

祠が一つあり街道も冬は淋しかったろう
結局薬師堂があるとするとそれは医者代わりだったのである。
医者に行けいないから薬師堂で祈るほかなかったのである。
だからどこでも薬師堂があり地蔵があり病気になってもいるの他なかったのである。

昨日は風がめずらしくなかったから自転車で行けた,自転車は風に弱い,毎日のように風が吹いていたから相馬市に行ったのは半年ぶりとかなっていた
これが自転車の問題だった,相馬市までは自転車だと遠いのである。






タグ:松川浦

2018年01月06日

無人駅から無人駅にのると切符も買えず金も払えない


無人駅から無人駅にのると切符も買えず金も払えない

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今日来た人は駒ヶ峰が乗っていた,そこも無人駅なのである。そして鹿島駅におりた
その女性は乗車賃を払えず困っていた,それで原町駅にインターホンで連絡した
240円だから切符入れに金を入れてくれとなった

そのことは前もあった、その時は千円とかになっていた,その人も無人駅から乗っていたのである。無人駅が増えるとこのことが一番の問題になる
金が払えようがないのである。車内で車掌に払わないと払うことができない
でも車内だとめんどうで払わないことがある

それより感心するのはそうして別に金を払わなくてもいいの払おうとしていることである自分はそういうことがなかった,かえって得したとかなる
その辺が日本人ならではのものなのか?
外国人でもそういうことがないかもしれない
ただ外国ではヨーロッパなどではなぜ改札しないのか?
それは信用しているからだという,いちいち切符を確かめたりしないのである。
日本ではいちいち切符を検札しているのである。
だからホームに自由に出入りできる,無人駅で便利なのはホームに自由に出入りできることである。

いづれにしろ無人駅の最大の問題はここにあった,無人駅が増えればこのことが一番問題になる,まだ鹿島駅が無人駅になっていることが知らない人もいる
もし無人駅と知っていればこういう人は車内で車掌に金を払うだろう。
ただ無人駅を調べて無人駅から乗り無人駅からおりたら無料で乗れるともなる
無人駅が増えればそうなるのである。

鹿島駅では今日は近くの人がプラタンの花に水をやっていた,その人になぜ掃除をしなくなったのかと聞いたらみんなめんどうだからしないという,金をもらってもたいした金ではないからしないという
プラタンの花に水をやるだけでも手間なこと確かである。
でも掃除がそんなに手間なのかとなるとわからない,ゴミなどほとんど落ちていないからである。

とにかく鹿島の無人駅について書いてきたが他でもこういう問題は起きる
無人駅にはやはり問題が起きる
特に盲人などが乗る時は見ていないと危険ということもある
鹿島駅には一人だけ通う盲人がいる,でもなんとか乗っている
一回原町駅の駅員を呼びつけていたのである。

何か自動化してもそこを管理する人が必要にはなる,なかなか何でも無人化するのはむずかしいことがある,自動化してもコンビニなどでも問題が起きる
だから無人化はむしろ実際は利用する人の問題でもある
まず無人駅から乗って金を払うような人は一回覚えれば車内で払うからだ
無人駅になっても利用する乗客が助けるとやっていける
それで人件費がJRでは節約できるとなる
そして駅の掃除くらい地元の人達が無料ですればいいと思う
そうしないと鉄道そのものが維持できなくなるからだ
まだここはそうして廃止路線にまではなっていないが経営としてはやはり楽ではないからだ

タグ:無人駅