2018年01月08日

ニートは憲法違反なのか? (誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


ニートは憲法違反なのか?

(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない)


●労働の義務が生まれた時代の事情

27条
1.すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 

戦争に負けて、焦土と化した日本を復興させるために、みんなで努力していこうという気持ちを込めて、この規程が入れられたそうである

このサイトで理路整然と勤労は国家の義務ではない,それが作られたのはその時代の事情があったのである。
戦争に負けて焦土と化していた日本を復興させるために時代の要請によって作られたのである。
時代が変われば法律も変わるのである。モラルは時代が変わらず絶対的なことである。
嘘をつくなというときそれはいつの時代でもそうしろとなるのがモラルであり世界的にも普遍的なものとしてモラルがある、法律は誰が定めたのか?
国民がそう決めたわけではない,上の支配者が勝手に決めたことなのである。

ただ勤労が義務だというときその時代とか地域でも違ってくる,国でも違ってくる
この辺は原発事故で若い人が避難して働き手がなくて困っている
それは戦争に負けた時とも似通っているのだ
それで小高辺りでは若い人が介護職員が確保できずに立派な施設があっても仕事ができないのである。他でも農業をはじめたが人手が集まらないから困っているとかある
だからこの辺ではニートとか働かない人は責められる立場にある
他の地域と違って働いてもらわないと困るからである。
それは今や人手不足で日本全体の問題ともなっている,日本の国力が低下してもう日本は人口も減り日本の国土も維持できないとかいう。
だから事情が時代が違ってくれば労働観も変わるのである。

地域でもあるところではスーパーすら維持できなくなり買い物すらできなくなり地域の老人でもそこで働くようになった,そうしなければもう村を維持できないからである。
そういうとき働かないということはもうそこに買い物もできない住めなくもなるから責められて当然だしそういう人は住んでいては困るらか出て行けともなる
原発事故で若い人が流出したこの辺もそれと似たところがあるからニートなどありえないということもある,でも現実にここでもそういう人が結構いる
自分はそういう人と良くあうのである。
だからこの辺では余計に片身の狭い許されないものとなっている
原発避難者が仮設で毎日パチンコしていたときも働いてくれという人が地元でいたことも当然であった
なぜなら地元の人は働いて避難者は毎日パチンコでは何で自分たちだけが働くのだとなったからである。

ただ戦後の焼け野原とかと時代が変わったから豊かになったからフリーターとかニート問題が生まれたのである。
ここで自分の言うのはこの地域の特殊性のことではなく,ニートとか全国的に増えたことの問題である。
ニートが増えたのはそれだけ社会に家族にも余裕があるからなのだ
貧乏だったらそんな遊んで何もしない人を家族も世話はできないからだ
だからニートとかフリーターは時代が生んだものなのである。
時代特有の問題なのである。なぜなら団塊の世代だとそんな人は極々まれでありみんな会社に就職していたからである。
そして猛烈な企業戦士になって働いたのである。
自分からするとなぜみんなそんなに会社のために働いたのかという疑問がある
今の豊かな時代とは違い,ハングリーな時代だったからともなる
自分の場合は特殊な家庭環境とかでなったものでありまれであった
まれなときは極端に少ない時は話題にもならないのである。
今は増えすぎたから話題になり社会でどうしたらいいのかとなったのである。

●労働は権利である

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ

ここで注目したのが勤労の権利を有し・・・ということである
義務ではない,勤労の権利を記されているのだ。
では勤労の権利とは何なのか?義務は押しつけられたものである。
それは勤労したいというとき国家がその権利を認め勤労させることだともなる
国民は勤労の権利をもっているともなる

俺はぶらぶらなどしていたくない,勤労したいのだ,だから勤労する職を与えてくれともなる,勤労の権利があるのだからその職を与えてくれるのも国ですべきだともなる
おそらくこの勤労の権利は自主的なものであり自分がこういうふうに働きたいというボランティア的なものかもしれない,すると自分がしたい働く場がないなら働かないともなるかもしれない,働かないという権利もあるのかもしれないとなる
権利を有すれば必ず義務があるとも解釈している

人間はともかく働かないということはなぜ犯罪者のようにされるのか?
それはみんな毎日働いているからである。お前が毎日食べるものは働いたものが汗水たらして提供したものでありそれを無料で食べられるのかとかなる
それはお前は他人の労働の成果を盗んでいると同じだともなる
実際に社会ではみんな働いているからである
すると毎日何もしないで家にこもっているニートは何なのだ,そんいなもの社会にいらない,負担になるだけだ,障害者と同じだともなる

ただではなぜニートが生まれのか?本当にその人たちが働きたくないからなのか?
本当は働きたいのだが働けない,いろいろな障害があり働けない,それで家族で養ってくれるから働かないでいいとなりそうなっている
国民が税金を払う生活保護者とも違う,自分が働かなくなったのは流れ作業とかが一番していてそれでこんな仕事になんの生きがいも感じない,これは機械と同じだとなり仕事を嫌悪するようになり仕事はしたくなくなった
もし何かそこに仕事に生きがいがあるものとなっていればこうはならなかった

結果的に仕事はしないで旅をしたり一人で学問とか芸術の追及をしていたとなる,だから遊んでいて何もしないともならない,今ではプログで何かを与えていることは確かである現代では働くことが必ずしもすべていいものではない,働くことは他者を無益なのもでも働くことを強制しているのである。
例えは奇妙だが毎日郵便局員が配達しているのと自転車だと良くあう,するとその人は毎日働いている,それが働かない人にとっては圧迫するものとなる
俺は働いている,お前は何しているんだなる
つまり田舎では今は一定数働かないニートとかがいる,田舎ではそういう目があるから片身の狭い思いをしていずらくなるのである。

自分が働かない理由としてむずかしくなるが文明拒否して全人間たらんとしたということもある,文明とは人間がどんな優秀な人でも部品と化してゆくことである。
医者でもその分野が専門化して細分化されるのである。
江戸時代だったら医者は体全体を見て心ともかかわっていた,だから医は仁術となっていたのである。
現代文明はある職につくことがすでに部品化することであり全人間を失うことである。
なぜ英語の先生だったら英語ばかりを教えているのか?
教える方もつまらないと思った,数学の先生は数学ばかり教えている
これも人間が専門化していることである。そういう先生は数学を教えるロボットのようにも見える,実際に人間はこうして部品化して巨大機構とか組織とか機械作業の部品として働いているのである。

だから全人間になるにはアウトサイダーになるほかなくなる,それは特定の専門化した職業につかないことなのである。
ただそういう人は天才とか社会に適合できないのはそれはニートなどと違ってかえって優れているからそうなった,でもそれは別に天才でなくても一般化したのが現代なのである自分も天才ではなくても特殊な家庭環境から社会からはずれてしまったのである。
でも自分には天才的なアウトサイダーとは違っていた

小人閑居して不善をなす

必ずこうなるのが平凡な人ならなる,社会からはずれてニートになってもそこで不善を成す、何か有益なことができないのである。かえって不善を成すのである。
自分でもそういう経験しているからわかる,つまり社会からはずれて生きることはかえってむずかしいとなる
社会で普通に働いている方がかえって楽だともなる,社会から責められることもない,つまらなくても機械的な仕事をしているにしろ組織のロボットになるにしろ楽だとなる
ニートはむしろ落ちこぼれでありアウトサイダーとなると極々まれな人がなっていた
それは百万人に一人とか極めてまれな人がなっていたのである。
それが普通にいるようになったとき社会的問題になったのである。
アウトサイダーは反社会的でも何らかの価値をもたらし提供したがニートなどは何も提供しないからである。だからただの穀潰しと非難されるのである。
だからとてもアウトサイダーとニートとは同一に論じられない問題なのである。
ただ似通っているから何なのだろうと自分でもそういう人は何なのだろうとなる

いづれにしベーシックインカムなどが真面目に論じられたりすでにスイスで実行している時代だというときそういう働かない人が時代が生んだのである。
ただそれは百万人とか一人のアウトサイダーとはまるで違ったものなのである。
自分には絶えず向上心とか勉強もしてきたがニートは何かそういう向上心とかない,
嫌な仕事を嫌うのはわかるがただずるずると怠けていて社会の負担にしかならないと見られているのである。
ただ働くということがすべていいものではない,それは害悪となり本当に自然環境でも破壊してこの辺は原発事故で住めなくなったからだ
自然環境の破壊は人間は働くことによって起きたのである。

●労働によって自然の美は破壊されてきた歴史

農業も自然破壊だったのである。焼き畑がそうである。森を焼いて消滅させたり稲作だって自然破壊だった,海を埋め立てたのもそうである。
松原は自然景観だと思っていたがそうではなかった,もともと松原はなかった
松は根が強く張らないので津浪に弱かったのである。
つまり松原は自然ではなく人工的自然だったから津浪に弱かったのである。
だから文明とは働くことは自然破壊だったということを歴史が示している
人間の過剰な労働が自然環境を破壊してきたのである。
だから文明の跡は砂漠のようになったというのもそのためなのである。
もし人間はこんなに過剰に労働しなかったら天地創造のままの自然景観がありそこで暮らせていたのである。
だから人間の労働がすべて肯定はできない,労働を強制することは危険である。
でも誰かの労働によって過剰にお前は働かないのに与えるものがないのに得ているのだから他人の労働を盗んでいるとなり非難される


労働観にはいろいろ見方がある,でも労働がすべていいものではなく強制される義務とされるのは時と場合によるし賛成できないのである。
自分も働きたい,働く権利がある,でも自分がしたいとする職は与えられない,見いだされないからしないとなる,そんなわがままなことを受け入れる会社も人もいないというのもわかる
そんなことで仕事ができるのかというのもわかる
ただ理想論を言えばそうなるのである。
誰でも実は野菜で作ってみたい,果物でも作ってみたい,ただそれを得るだけではない自ら作ってみたい,そしてその労働の成果を味わってみたいとなる
家を自ら建ててみたい,いろいろしたいことがあってもできない
自分が報道したいとか本を出したいとかあったができなかった
でもインターネットでできたので金にもならないが積極的にしていることでもわかる
労働の権利は得られないのである。そのために労働しないという人も多いのである。


「野の百合はいかにして育つかを思え、労せず、つむがざるなり。されどわれ汝らに告ぐ栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。」(マタイ6章)

労せず、つむがざるなり・・・・華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及かざりき。

労せずとは労働しないのである。花は別に労苦して労働して育つわけではないのである。ソロモンの栄華とは文明のことでもある
こんなに労働しているのに死ぬほど労働しているのになぜ東京とかニュヨークとかそれが労働の成果であり文明の成果なのかとなる
科学技術の粋を集めた成果は東京砂漠というようにそこに潤いも美もないのである。
江戸にはまだ美があったが今の東京にはないのである。
だから文明そのものが徒労だったともなるのである。
それは働きすぎた結果なのである。もし自然のままだったら東京でもそこには自然環境がそのままのこり美があった,それが労働の結果失われたのである。
この辺で津浪で八沢浦が元の浦にもどったということを報告したとき確かに批判された
でも田んぼを作ることは海を埋め立てて田にしたことは自然破壊だったのである。
なぜならこの辺は浦がまれであり貴重だからである。
ただそれは時代の要請でそうなったのでありそれをとやかくいわないしそんなこと言ったら批判されたこともわかる
ただ確実に文明化することは自然が破壊されその美も破壊される消失することなのである。


posted by 老鶯 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

放射能汚染のために復興できないのか? (農業で生計を立てている人は一割にも満たない)


放射能汚染のために復興できないのか?

(農業で生計を立てている人は一割にも満たない)


江戸時代までは村という強固な社会で縛られていた,移動も移住もほとんどできない社会に住んでいた,今は金さえあれば都会に住もうがどこに住んでもいいのである。
そして不思議なのは放射能汚染にしても実際は田舎でも昔のように8割もの人間が農業して暮らしていたのとは違う,そのことをよくよく考えてみるとそうなれば別に田舎でも
農業で暮らしていない,みんなほとんど会社員とかであるというとき放射能汚染の影響は実は少ないものだったのかともなる

ただ飯館村とかになると牛を飼っていたからその影響は大きかった,牛の村として生計をたてていたから牧草などが汚染されると牛を飼いなくなったからである。
でも他の町では浪江町とか小高とかではそうではなかった,そこではむしろ原発で働く人の方が多かったしそれで経済的に成りたっていたともなる
つまり田舎だとは田畑があり農業で暮らしているというふうに見るが今はそうではない
そこが錯覚しているのである。自分の周りをみても街内だと農業で暮らしている人などいないのである。みんな会社員であり農業などしていないのである。
あとは何で生活しているのか働いているのかわからないような社会なのである。

原発事故では放射能汚染で水や土や空気や森とかが汚染された,それは生活の基本となるものでありそこが汚染されたら生活自体が成り立たないのである。
それはまた農業と深く結びついていたからそれで故郷に住めなくなったのだと自分すら思い込んでいたのである。
でも浪江でも小高でも原町でも鹿島でも他でも農業の生産高の割合は一割にも満たないのである。でも田舎を見れば土地としては田畑の割合が多いから田畑で暮らす人が多いかのと地元の人すら錯覚しているのである。

それで放射能汚染されたらとても暮らせないなと地元の人でもまた外からの人でもそう見るのである。でもみんながほとんど会社員であり工場とか会社で生計をたてているというとき別に地元の田畑でとれたものを食べなければ生きていけないという時代ではない
いくらでも外部から食料は入ってくるのである。
ただ水は飲めないのでペットボトルの水を買って飲んだりしているとその分金はかかる
でもみんな農業できなくなったから帰らない復興できないというのは違っている
工場とか会社に勤めていれば放射能汚染とは関係ないことだったのである。
もちろん工業製品も汚染されたから影響はあった
でもみんな農業できなくなったから帰れないと錯覚しているのである。
それは自分もそうだったし外部でもそう見ていることが多かったかもしれない。
田舎は昔の田舎とは違っている,同じように金が支配しているのは同じなのである。

だからよくよく考えてみると放射能汚染で暮らせなくなったというときみんな農業しているからしかたがないと錯覚する
それより田舎では農業は金にならないからしたくないとかそれで跡継ぎがいないとかなっていたのである。それは農業中心の社会ではなくなくなっていたからである。
漁業にしても同じである。漁業者は原発の補償金で成り立っていて裕福な暮らしをしていたのである,これも原発事故になってわかったことである。

会社員だとかなると浪江の人は会社は二本松に移動して再開したからそっちに移住した
それまでは鹿島からとか原町とかから通っていたのである。
その土地とは関係なく会社であればその会社とともに移動して移住することになる
でも農業だったらその土地に根ざして生活しているのだからそれができない
だからこそ放射能汚染されたから生活できなくなり帰らなくなり復興できないと見ているそれはしかたがないと見ている

すると帰らない復興できないのは別に農業ができないからではない,会社や工場がそこにあれば帰れるともなる,ただそういう場がなくなったなら帰れないとなる
放射能汚染は会社や工場ならそんなに影響はないのだから会社や工場があれば帰ってそこで働けるとなる,その辺がなぜ帰らないかのかと疑問になることである。

放射能汚染されているから帰れない

こういえばすべてが通る,理由になり何も言えなくなる
でも実際は農業している人は本当に少ないとするとその理由が成り立つのかとなる
もちろん避難して帰らない人達には言い分がある
ただ帰らない理由が果たしてすべて放射能汚染だけのためなのか?
それがよくよく考えてみるとそうでもていのかと思う
ただこの辺のことはなぜ帰らないのか,その本当の理由はわかりにくい
みんな帰らない人は街が廃墟化したときとても住めないとして帰らないと言う
それもわかる,もうここには住めないとその荒廃ぶりを見て決めた
それは放射能汚染だから住めないということではない?

だから復興というとき会社とか工場があれば勤める場があればみんな帰って復興できるともなる、つまり放射能汚染だけが理由ではなくて復興できない人々は帰ってこないとなるただなぜ復興できないかとなるとその理由はいろいろあるから自分にはわからないとなるただすべてが放射の汚染のためなのかとふりかえるとそうでもないなと気づいたから指摘したのである。

posted by 老鶯 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連