2018年01月14日

ゴッホの絵から抽象画へ From Van Gogh's picture to an abstract picture


ゴッホの絵から抽象画へ

From Van Gogh's picture to an abstract picture

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varied ones from this picture


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mornig forest

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night forest


これは一つの例として出した、こんなふうにソフトで変化するとそれもまた一つの作品となるのか?
私はそういうことをソフトでしてきた
何かこれは新しい創作なのか?第二次三次作品なのかとなる
オリジナルの写真や絵がありそこから無限に変化する芸術だとなる


This was given as an example, if it changes soft like this, will it also be a single work?
I've been doing that kind of software
Is this something new, is it the second tertiary work?
It is an art that has original photos and pictures and changes infinitely from there

氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に (ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)


氷河期世代高齢化社会で日本は共倒れになる危機に

(ニート,非正規などと高齢化問題はセットである)

なぜか田舎でも40代あたりでニートがいる,自分はそういう人間と会いやすい,三人くらいあっている,一人は働いていても非正規なのである。
だからこの前も仕事を探して就職したのに今年になって仕事がないと6月まで休むというから驚きである。
それでその母親が自分に困ったとして金を要求してくる
だから自分はできないと言った,その人はこれまで同情すべきことがあったから援助していた,しかし自分一人ではどうにもならない問題である。

低賃金の仕事で生活することや、インフォーマルな仕方で紹介されることが多い職をそもそもみつけることは、家族や家族のように付き合う仲間がいない場合、途端に難しくなるからである。

しかし仕事が流動化し、一生の職と呼べなくなるなかで、仕事によって人を判断することも、まただからこそ仕事に熱意を注ぐことも、意味のないことになりつつある。

この人は自分の労働観とにた意見になっている,現代の労働はその場限りの日払いのような仕事に変わっている,それまで終身雇用とかで一生勤めていた会社員だったけどそういうのは少ない,非正規の数が膨大になっているからだ
だから働くことは何なのか自分のようにすでに団塊の世代でもあったのである。
ただその時は高度成長時代で会社が大きな価値をもっていたからみんな企業戦士となったのである。

非正規だからこうしたことがないとやっていけないとなる,この記事はその非正規の待遇を考慮するべきだと言っている,つまり非正規が増えすぎたからそれを自己責任として押しつけることができなくなっているのである。
自分も半年工事関係で働いて仕事がない,その間援助してくれとなり二回も金を要求された,その額も大きい,そんな金は自分にはもうないのである。
自分には収入として入ってくるものが国民年金しかないからである。

氷河期とかニート,フリーターは40代で人口も多い
その人たちがなぜ大問題になるのか?
それはその親がその負担を負っているからである。
その親が死んだりするともう生活もできなくなる,その数も多いから問題なのである。

つまり氷河期とかニート,フリーターとか非正規とかの問題は高齢化社会と一体化してあった,これは切り離せない問題である。
親があって親の援助で生きている,その親が介護状態とかなる高齢化社会である。
それはちょうど団塊の世代が親なのである。
その団塊の世代は介護時期になるとその氷河期とかニートとか非正規とかの子は親を介護できるのか?それは思った以上深刻な問題である。

それを自分は自ら被害を受けて具体的に知ったのである。自分にその負担がまわってきたからである。他にも親戚で生活保護の女性が東京にいた,それも40代なのである。
この40代世代が大きな問題をはらんでいる,それも数が多いのである。
団塊ジュニアになるからだ,数が多いということはそれだけ問題が社会に顕在化しやすいのである。
例えばニートとかでも数が少なければ問題化しない,団塊の世代で自分のようにニート化したのは極々まれだからである。そんな人いたのとなるからである
でも社会に数が多くなると問題化してどうしようとなる,社会の負担となるからである。少数だったら負担にならないからである。
その人たちがどうにもならなくなり生活保護になったら国自体が負担して国が傾くのである。

高齢化社会はまた団塊の世代のように数が多いことで問題になる,死体を処理する火葬場すらたりなくなり困ると東京などで問題にふでになっている
つまり数が多いということはあらゆることで問題になるのである。
高齢化社会とは数が多いことによって国の負担になり負いきれないとなる
そこでもう老人の価値は昔と違って格段に低下する,老人は邪魔だ,安楽死して始末させろとか毎日のようにネットで若者が叫んでいることでもわかる
昔のように老人をいたわるというとき敬老の精神は数が少ないときありえたのである。
数が多くなったらただ社会全体の負担になり若者の負担になり老人のために人生が犠牲にされるとまでなる
国の税金も老人のために使われて将来の日本をになうものに使われないとなる

そういう不満が全国に充満している,そこでは愛とか慈悲とか成り立たない,数が多すぎるから成り立たなくなる,そんなこと言っていたら国が破綻するとなるからだ
老人は弱者だからいたわりなさいとかならない,老人は障害者でもありでもその障害者が膨大に増えたらそれにいちいちかわいそうだねとか言えなくなる
みんなそんな余裕がなくなる,だから今病院では老人が無理やり生かされているが早く始末してくれともなる,数が多いと人間は物扱いになる,愛とか慈悲が成り立つのは少人数の時なのである。
数が多いといちいちかわいそうだねとかなりえないのである。
それで病院ではそうした老人ばかり診ているからいらだっている
そこで自分も看護師に虐待されたのである。
数が増えすぎた老人はもうその負担に耐えられないとなり社会的に始末しろとまでなる

つまり今までの宗教観とかモラルも通用しなくなる,それは人間が悪くなったからとも言えない,数が多すぎるとそうなってしまうのである。
数が多いこと自体,人間の価値は比例して低下してゆく
一票の価値でも村のような所だと十票の価値があるが東京とかなる一票の価値は格段に低くなるからだ

いづれにしろ氷河期とかニートとか非正規の問題は深刻である。
日本の経済が景気が良くなったというが株だけ上がり逆に物価が上がり苦しくなっている野菜が高騰して鍋物が作れないと嘆いている
実際は賃金も上がらない,そしてニートとか非正規をかかえた親は負担を強いられるがそれもできなくなる,その時あと20年とかなると社会負担になる人が増えてくるのだ
団塊の世代の高齢者もその氷河期とかニートとか非正規の親であり介護状態になる人が多くなる,認知症の患者が800百万人になるという数字も恐怖である。
認知症の介護に全国がふりまわされてパニック状態になるかもしれない
つまりこの深刻な将来を真剣に考えないともう日本は終わるとなる
あと十年とかでその問題は社会に顕在化してゆく,それは本当に恐怖でありリアルなものなのである。



posted by 老鶯 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

仕事になるのはみんなのためになること (一人はみんなのために みんなは一人のために)


仕事になるのはみんなのためになること

(一人はみんなのために みんなは一人のために) 


仕事というのを考えるとき自分の例だと例えばお手伝いさんを雇うというときそれは自分という一人のためであり家族のためである,でもその範囲は極端に狭くなる
すると社会的にその仕事が認められるにくい
戦前女中が多かったというとき家事が家族だけでできない社会的事情がありそうなった
今は家事は機械化しているしいろいろオカズも買うことができる
家事は一人でもできるようになっている

だからオカズをスーパーなどで売っているというときそれは一家族のためではない,みんなのために売っている,オカズでも食事は家族のために作っていたのである。
家族労働と社会的労働とは違っている,現代は家族的労働が社会的労働にとって変わってきている,掃除すら会社がしてまわる,それは一家族のためではない,みんなのための労働なのである。

まず一家族だけの労働だとすると一個人のための労働だとすると仕事にはならない,収入にもならない,たいがい製品でも食品でも売るものはみんなに受け入れられて評価されなければ売れないのである。
社会的に認められ受け入れられたものが社会的価値あるものとして受け入れられる仕事になる

例えば食堂でもレストランでも一人のために食事を出す所などないのである。
ある程度の人数のためにサービスしているのである。
でも考えてみると金持ちがいて一人でもそのレストランが成り立つようであればできる
そうなるとそれは王様くらいしかいなくなる
そういうのは現代では成り立たない,ただ食事でも高級な食事はある
そういうレストランは都会だとあるし田舎だってある
それは特別であり予約制になっている
一般的にはそういうのはまれであり仕事として成り立ちにくいのである。

仕事というとき何か自分が人を雇って感じたことはみんなのための仕事でないのは仕事として社会的に容認されにくいのである。
社会的に価値が認められないのは仕事となりにくい,介護でも家族内でしていてもそれが社会的には認められない,家族なら当たり前じゃないかとなるだけである
でも他者がかかわり施設などを利用したり入るとそこは社会的に認められた仕事である。それは一人のためにではない,みんなのためにしているからである。

みんなのためになるというとき電気でも石油でもガスでも一軒のために供給するのではない,もうこれは全員に供給しているのである
そういうのが仕事であり社会的に認められる,家族内では家族だけの人のための労働になる,それは社会的労働とは違っている
でも人間は家族内ですべてできればいいのだができない,だからこそ社会的労働が家事の分野まで拡大したのである。

野菜とか米とか農業でも自給自足していても仕事はしている,それは家族内労働とにている,農家では納豆を作っていたとか味噌を作っていたとか自給自足であった
でも現代では文明とは無数の職業がある,分業化した
すると仕事になるにはみんなのためになることをしないと社会的には認められないし金にはならないのである。
家族内で自給自足していているのと野菜でも米でも果物でも売るとなると自分の家族のためだけではない,みんなのためになり仕事となる
でもそうなるとその品質も売れるものとして作らねばならないのである。
市場に出して商品として売れるものみんなに認められるもの必要とされるものを作らねばならない,それは自給自足で野菜などを栽培しているのとは違ったものになる
価格競争もあり品質競争もありそれに勝たないと売れないともなる
自給自足だと競争というのはないからである。

みんなのためになるのが仕事だというとき例えば自分が駅に鉄道の時刻表を作って置いたそれは需要があった,もう千枚以上すっているが以前としてもってゆく人がある
それはみんなのためであり一人のためではない,だからビジネスにもなるのである。
無人駅での案内などは外部の人のためであり町の人のためでありその範囲が広いのである今やグローバル化になると世界の人のためになり世界の人のために売れるものが認められる,世界的に容認されて仕事となる

そしてそういうことができるのは大きな会社組織である,みんなのためになるものを提供するとなると社会組織にならないとできないからである。
だから今は女中のような個人である特定の家族のみに労働を提供することはまれになった掃除するにも会社が多数の家をまわってしているのである。
そういう形態は過去にはなかった,家事でも会社組織となってしているのである。

その女性は一時仮設の食堂で働いていた,その時その食堂は繁盛した
外部の人も大勢来たからである。自分も通っていたから街の人にもサービスしていた
でも外部の人の方が多かったのである
今でも仮設に一軒食堂があるが外部の工事関係者が入っていて成り立っている
つまり仕事になるのはそうしてみんなのためになるもの,より大勢の人のためになると仕事になり収入にもなるのである。
現代はこうしてみんなのために働いている人が多いのである。
それが仕事であり分業化してそうなっている,そうでなければ仕事として認められないからである。

なぜ自分に人を雇う資格がなかったかというとそれは自分一人のためになっていたからである。
「あなたはどこで何して働いていますか」
それがその人をどういう人か見る指標である。
だからどこの会社で働いているかで人を見る,人の価値を決めたりするのである。
「私はある家で家事働きをしています」
そういうのは今では社会的に価値として認められにくいのである。
だから家事サービスでも会社組織になってしているのである。
つまりみんな会社員の時代になったのである。

一人はみんなのために みんなは一人のために

こうならないと仕事になりにくい,みんなそうして仕事しているのである。
自分の場合はそうなっていないから人を雇うことも使うこともできないとなったのかと反省したのである。

この言葉もまた深く解釈すると逆に生活保護とか福祉になるとそういうのはみんなで負担するということになる,みんなの了解を得て給付するとなる
第一自分とか一人に頼られてもできないからだ,そういう余裕のある人はまれだからである。だから福祉関係もみんなで負担して助け合うとういうことで成り立つ
みんなはひとりのために助けるということがある
ただそこにもやはりみんなの了解が必要になる,それが民主主義社会となる
民主主義社会自体みんなの社会であるからだ,王様のための社会ではないからだ
だから格差社会が問題なのである。


posted by 老鶯 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題