2018年02月28日

最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作


最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作




最上川流るる水に春日かな

松江にて茶町とあわれ秋柳


石の橋かかりてあわれ遠きかな左沢(あてらさわ)の町春の灯ともりぬ

最上川流れくねりて滔々と春日輝き写りけるかな


最上川流れくねりて滔々と流れゆくかな春の日写りぬ

虫の音や旅人の影ここにあれはるか流るる最上川かな

幽遠に白糸の滝下る川紅葉に映えて夕べ淋しも

最上川船着場かな大石田実り豊かに昔栄いぬ

最上川下りて酒田や秋のくれ栄し昔しのび泊まりぬ

酒田なれ灯ともりあわれ旅の宿木の灯台や秋の夕暮

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

波の音の心にしみぬ古き岩月のいでにつあわれ深まる

月まるく海にい出にき夕日没る湊々のもの寂びあわれ

船とまる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

佐渡島遠くもあわれ岩あらわ雨に打たるる野菊の花かな

佐渡島流される人の跡とあれ枯野に海やあわれ深まる

船泊まる小さき漁港日本海家々あわれ秋の陽没りぬ

旅人の遠く来たりぬ秋の雨山越え暮れぬ関所をあとに

旅人のいづこさまよふ山越えて関所のあれや秋の夕ぐれ

隠岐の島ここより遠き松江かな我は行かじも秋の夕ぐれ

旅終えて我が影なおもさまようや今宵いづこに泊まる宿かな

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

松江と常夜塔

また最近旅をふりかえる,印象に残るのはやはり自転車で旅したことである。電車で旅したさともありそれも思い出してこの短歌連作になった
思い出す旅も不思議なのである。
この思い出す旅をするにはやはり歩くとか自転車とかでないとできない
電車の旅ではできない,峠を越えたとか何かそうした体に記憶できないのである。
風でも雨でも感じないとまず旅にはならないからだ,車は風でも雨でも自然をシャットアウトするから旅にならないのである。
だから現代から旅は消えたし旅人もいないのである。
旅人が存在したのは山頭火までだったのである。

最上川は水量が日本で一番豊かだろう,だから船運があった,日本ではあれだけの水が豊かに流れている川はない,必ず浅瀬になり船でゆくことはむずかしい
でも最上川でもそういう場所があり船を曳くところがありそれを仕事にしていた村があった,最上川で気持ちがいいのはあれだけの水が流れていることなのである。
中国でもヨーロッパでも大河があり船の運行があったし今でもある
日本にはあっても短い距離である,最上川は長い距離だから日本ではそういう川はほとんどないのである。

最上川から日本海に出る,日本海は太平洋側とは全然違った趣になる
海から太陽が出て海に沈むからまるで変わった感覚になる

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます

なぜ島がこれほど入っているのか?隠岐も入り佐渡島も入っている,ということ海人族が日本本土に島伝いに渡ってきたことを示唆している
佐渡島まで入っているのは日本海は航海しやすいからである。日本海側の歴史が古いのである。そうでなければこれだけの島を神話に記さないだろう。
本州が一番最後に生んだというのもそうである。

いづれにしろ旅をふりかえると不思議である。何かまださまよっている感覚になる
それだけ旅をしたということもある,記憶に残るのは自転車の旅だった
さまよっている感覚になるというときやはりそれは歩くか自転車の旅である
電車の旅ではさまよっているとはならないからである。
そして記憶が定かでないからそのさまよった場所があいまいとなるのである。

現代はいろいろなものを得たのだが旅はなくなり旅人はいない
それで皮肉なのは今ほど旅をしている時代はないとなっている
でもその旅は観光旅行とかグルメ旅行とかなっていて本当の旅ではない
旅人はいないのである。時々確かに国道を歩いて旅している人がいても
それが外から見て旅人に見えないのである
その姿は車の喧騒に消されて旅人は旅人でありえないのである。
江戸時代は庶民でも普通に旅人にもなっていたのである。
それは歩いていたから自ずと旅人となっていたのである。

ともかくずいぶん自分も旅したけどそれも10年間はしていない,つまり旅は終わったともなる,それだけの気力もなくなったとなる
でも自分の人生をふりかえると旅だったともなる
仕事もしていないし残ったのは旅の記憶だとなる

人生というものは60以降になり必ずふりかえりその人生が何であったのかわかる
会社に一生勤めた人はそれが人生だったのである。
それが何であれそうである。だからもう一度病気になった人は仲間と一緒に働きたいと思ったのはわかる,その人は倉庫係とかで働いていたのである。
たから常々に言っているけど何であれそれが外から見た無益であれ無駄であれ何に時間を費やしたかが人生だったとなる
人生も最後になればただ記憶をたどることが生きることにもなるからだ
そして最後に人間は最も印象に残ったことを記憶を語りつづける
戦争を経験した人は認知症になって千回もそのことを語りつづけた
それで嫌になったがそれが人生で一番印象に残っていたからそうなったのである。

あしなたは最後に何を語るのか?

その語ったことが人生だったともなる

陽炎のゆらめく中に山頭火埃の道を歩む影見ゆ

山頭火は最後の旅人だった,あそこまで旅できるエネルギーがあったことは驚きである。旅に憑かれた人だったのである。ただ作品的には俳句でも深いものがない
その時々のものを簡単に俳句にしたという感じである。
でもあれだけの旅をした旅人であった最後の人だったとなる
芭蕉は旅を深い哲学的な人生論にまで昇華した,それと比べると山頭火はそうはなっていないが最後の旅人だったのてある。なぜならまだ歩いて旅していたからである。

ある時社会の光景から消えてゆくものがある,江戸時代から明治時代になったときそうである。鉄道ができればどうしても歩く旅自体が消えてゆく,でも明治から戦前までは歩いて旅していた人が結構いる,文人でもいる
戦後はその旅人が消えたのである。車時代になったらもう旅人である余地もなくなったのである。
観光旅行している人は無数にいる,でも旅人ではない,旅人はいないのである。
バイクでも車でも旅していてもその人たちが旅人には見えないのである。
何か通過してゆく物体ののように見えてしまうのである。
だから一見文明化して便利になったとしても実際はいろいろな今まであったものを失っているのである。
それは人間として生きることをつまらなくしているのである。
旅人など無用のものでありそんなものいなくてもいいともいえる
でも何かそれが社会でも人間としてつまらないものにしている
ただ現代で旅しようとする時,かなりの演出をしなければならない,労力もかかるのである。江戸時代なら歩いているのだから何も演出しなくても旅していたのである。

ふりかえると自分は以前として旅していて全国をさまよっているという感覚になる
でも十年とか二十年とか三十年とか過ぎる記憶も定かでなくなっくる
でも何かまださまよい旅しているのである。
人間は様々な場所に住んでいる,旅をしてその様々な場所を思い出す
左沢(あてらさわ)というのは印象に残っている
あの石の橋とか何か遠い場所に思えた,それが記憶の中に浮かんでくる
山形県ではあそこが印象に残っている、あそこには電車で行ったのである。
そこは秋ではなく春だったのである。
でも前に書いていたからその記録から記憶をたどる旅をしているのである。


東北-新潟県(旅の思い出)

なぜ老後の資産形成に投資が不可欠とかすすめるのか? (9割は損しているのに・・・)


なぜ老後の資産形成に投資が不可欠とかすすめるのか?

(9割は損しているのに・・・)

雑誌でも老後の資産形成には投資が必要だと良く書いてある
それは理論的にも納得いくように書いてある
だから何か自分もそれを読んだり目にしたりしてそういうものなのかとなり
投資信託を買った

でも9割も損しているのになぜすすめているのか?

90パーセントは投資で損している

まずこういう見出しが書いてあれば普通は投資はしない
そういうことを書いていないし何かめんどうな投資や株のことは書いてある
まず知るべきは

90パーセントは投資で損している

このことはyoutubeでも言っている人がいる,これは自分が適当に言っているのではない統計的真実なのである。
だからどうしてこんなに雑誌でも株や投資のことが宣伝されるのかわからない
それは投資する方ではなく投資させる方の宣伝だとなる
証券会社や銀行の宣伝のために何か投資が老後の資産形成には不可欠だとなる

「利子がつかないですから投資で増やすほかないでしょう」

こういわれると知らない人はそうかなとなる,投資になにか甘い期待をもつのである。
それは人生百年とか言われるようになり老後の資金がたりなくなったからである。
そこでどうしても穴埋めするための資金が必要になる
その不安につけこまれて投資の話が雑誌でも常に宣伝される

ところがまず自覚すべきことは90パーセントの人は投資で損している
この厳格な事実を知るべきなのである。
でも雑誌などでもいろいろな投資のことを書いてある
ここが一番肝心なことだけで書いていないのである。

老後の資産形成に投資は欠かせない

でも90パーセントは損しているとは書いていないのである。

これもなぜそうなっているのか?それが良くわからないのである。

原発の時も原発は安全だとなって危険だということすら口に出せなかった
「安全神話」が作られていたからだ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

原発は安全だ

・・・・・・

原発は危険


こういうふうになっていればまず原発は安全だということしか目にしない,書店でも原発の危険性を指摘していた本も出されていたがそれは冗談だとかSF的なストーリーに見られていた注目されなかったのである。

人間は何か権力をもつものがそうして洗脳しているのではないか?

老後の資産形成には投資が不可欠だ

そのことがすりこまれる,すると証券会社や銀行にとって都合いいからである。
もちろん株や投資ではリスクは常に言っているから原発とは違う
でもそのリスクの伝え方が十分ではないのである。

投資で90パーセントは損している

このことが最も大事なことなのだからそのことを見出しとして雑誌でも出すべきだが出ていない,youtubeとかには出ているからわかりやすかったのである。

この社会のわからないのは事業をしても成功しているのは20人に一人である。
そうしたら簡単に事業などできないとなる
失敗したらどん底に落されるからである。それでも事業をする人はいる
投資も同じなのである。ものすごく成功率が低いのである
投資の場合は損失が大きくなる


老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

老後の資産形成には投資が不可欠だ

投資で90パーセントは損している



投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

投資で90パーセントは損している

老後の資産形成には投資が不可欠

何かこのように洗脳されているのである。最初に頭の中が老後の資産形成には投資が不可欠だというのが先入観として入る,そして投資で90パーセントは損しているということが見逃される
そして何か甘い期待を抱いていてるのである。自分もそうだった

もし最初に投資は90パーセント損しているという事実を指摘していればこうはならないのである。
それと投資にもいろいろあり投資信託もありその仕組みが複雑だからいろいろあってその中で成功するものがあると錯覚するのである
投資全体では90パーセントは損しているのである。
この情報こそ一番重要なものでありそこから投資する人はすればいいとなるが
余りにも甘い期待でしている,それは投資が複雑だから理解できないからである。
やはり何か現代とは心理学が生まれたように人間の心理を利用するのが多いと思う
それは社会が見えない複雑すぎて情報も膨大であり投資すべきだという人とするべきではないという人に必ず分かれるからである。
この薬は効くという人と危険だという人もあり食べ物でもいろいろな情報が出る
そして遂には情報パニックになっているのが現代だからである。
その判断の根拠をどこに置くかわからなくなるからである。

問題は投資をすすめたい人達が証券会社や銀行である。
その人たちは金をもっているから宣伝するから操作される
それは原発でも国家権力と一体となり原発神話が作られたのと同じである。
それでインターネットのyoutubeの情報などは意外と中立であり的を得ているなと思った
要するにyoutubeの解説がわかりやすいということにあった
雑誌とか文章になるとわかりにくくなる,youtubeの特徴は浅い知識でもわかりやすいのである。
だから人間社会がこれだけ複雑でもわかりやすく説明されればわかることはある
だからyoutubeの情報はそうした投資でも権力をもつものに抵抗できるメデアだと思った
ただ最近見始めたので遅かったとなる
情報はいろいろあってもやはり人間は体験しないものは理解しにくい
そして痛みを負ったとき本当に理解するのである。

posted by 老鶯 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月27日

石油が下がりベネゼエラ国家が破産状態に (カナダ国債でも下がり損した)


石油が下がりベネゼエラ国家が破産状態に

(カナダ国債でも下がり損した)

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この記事に興味をもったのはカナダ国債で損したためである。急激に石油が下がった,カナダは石油が世界で四番目とかとれていた資源国だった

だが最高値130ドルだった原油価格は30ドル台なので、採掘して輸出しても赤字を出しています。

ここも石油が急激に下がって国家崩壊状態になった,国民は食料がなく10キロやせたとかその影響が大きかった,グローバル経済というのはこういうところに影響していることを実感した

自分も石油のことで損したのでこの痛みがわかる,ただこんな悲惨な状態になるのはやはり国自体が小さいのと他に産業がないためだろう。
日本とかでもグローバル経済の影響を受ける,すでに受けている
家電は売れなくなり日本の経済は20年停滞したままなのである。
かろうじてトヨタとか車が売れているので輸出で稼ぎ石油を買う,それができているからベネゼエラのようにはならない

でもグローバル経済になると日本もこうした窮地に陥るかもしれない
輸入に頼るのが多いからである。だから食料だけは自国でまかなえるようにしておくべきだとなる
つまりここにリスクがあるからだ,そのリスクに備えないと危険になる

何か人間の社会はリスクがありそのリスクにどう対処するか?
それを事前に知っている必要がある
津浪もそうだし原発事故もそうだし投資でも絶えずリスクがありそのリスクによって大損になるのだ

経済の三要素は石油と金利と為替とそれに加えて技術革新(イノベーション)である
石油の値段も金利も常に変動していてその影響が大きいのである。
それでUSリートとは金利が上がり証券会社の人が来て売れといわれ売った
それは正しい判断だった,円高にもなったからである。
石油と金利と為替の影響は本当に大きいのである。
一円円高になるとトヨタ百億とか損するというから大きい
外国に投資する場合は為替の影響が大きいからその幅で利益も出るし損も大きくなる
それで一回円安になりUSリートを売った時もうかった
これだけはもうかったとなるがそれもたいしたことはなかった
一番もうけられたのはリーマンショック前にもっていた株だったのである。
それを投資信託にしたから総合的には損した

ただ石油が下がって損したのは自分だけではなかったとこの記事を見て知った
だからこそベネゼエラはひどいめにあったなと自分も損したので共感したのである。
これがグローバル経済なのである。
石油を売れば莫大な利益をグローバル経済で得る,しかし一旦石油が下がれば小国はその他の産業がない国は破産状態にもなる
つまり小国は石油に頼りすぎてそうなったのである。
商品作物としてのコーヒーばかり作り輸出していた小国もその価格で大きな影響を受ける飢饉状態にもなる,なぜならバランスよく食料を栽培していないからである。
商品作物としてのコーヒーばかり作っていたらコーヒーの値段が下がったりしたら他に地元で食べるものがなくなるのである。

そういうことはすでにあった,江戸時代の東北の飢饉は米が商品作物となり多く作られ江戸に運ばれ売られていた,米はあったのだか江戸の大消費地に高く売れるので地元にまわらなかったのである。

江戸時代の飢饉の要因 〜経済が発達した社会の弱点〜

これも地域経済から広域経済になったときこういう問題が起きた,それはグローバル経済では大規模に世界的に起きるのだ,日本は車だけを作っていろとかアメリカでも世界でも冗談でなく言う,そしてアメリカの牛肉を買いオレンジを買い米も作っているから買いとか現実にグローバル経済では要求されるのである。
それは無謀なことでもアメリカにしたら車を買うのだかさら当然だとなるのだ
そこにグローバル経済の危険がある

ともかく遅かったが相当に株とか投資信託とか国債とか買ってみて具体的にグローバル経済を実感した
だから経済を理解するには今は株をすることは不可欠である。少額でもいいから実験してみるといい,こんなふうに世界が動いていたのかと実感するのである。
グローバル経済の危険も理解する,それは小国も巻き込んでいるからそうした小国は破産もさせられるのである。
石油が売れないので食料すら買いない状態になり10キロ国民がやせる,飢饉状態にもなる石油だけに頼っているとそうなる
アメリカでシェール石油がとれるようになったのは技術革新(イノベーション)があったためである。これもグローバル経済では影響する
何か新しい技術が生まれるとそれでグローバル経済は富をもたらす
そもそも産業革命はそうして蒸気機関車とかの発明から始まったからである。
その時のイギリスの人口は1600万くらいだというから驚きである。
イギリスは小国である。でも技術革新によって世界を制覇したともなる

いつれにしろ経済の動きを知るには株をするとわかりやすい,ただこれも9割が損しているというとき少額で試しにやるというのがいい,自分はそれなりのものを投資したから失敗したのである
負けてもいいやというくらいの金でやれば別にもうからなくても勉強にはなったのである人間はなにごと経験であり本を読んでも経験を積まないとなんでも理解できないのである

posted by 老鶯 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

わからないことで損したりだまされる (それがひいては社会をゆがめ社会の損失になる)


わからないことで損したりだまされる

(それがひいては社会をゆがめ社会の損失になる)


現代社会は複雑である。これを理解することはもう不可能である。どんな才能があり優れた人でもほんの一部しか理解できない
それは理系の科学技術分野でもそうである。
そこから何が起きてくるのか?人間の無力化である。それはイリイチが言っているように専門家に牛耳られ無能化される
そして金でも奪われるし奴隷化されるのである。
それはあらゆるところに起きている社会全般の問題である。

なぜ弁護士に相談に行っただけで百万もとられたのか?
それは相談に行った人が弁護士のことも知らないからである。
相談だけでそんなに金をとることはない,何かそこで弁護とかの仕事をすれば払う
最初から何もしないのに百万とることはありえないのである。
実際に何かしたのは仕事したのは交通事故の保険会社の人であり
弁護士は何もしていない,これは今考えると悪どいとなる

渡辺病院でMRIで認知症の写真をとったけどそんなもの何の役にもたたない
それは写真をとる人が知っていたのである。
そこは払うのが3万だったから払う方にしてそれほどでもない
でも実際は十倍払っている,その負担は国民の負担ともなっていたのである。
そもそも認知症の治療などその原因もわからないのでできないのである
わずかに郡山市とかに二台ある機械ではわかるというがこれも認知症のこと自体わからないのだからそれで何かわかることもない,第一治療方法がないのが認知症なのである。

次に銀行がすすめる投資信託もその仕組みが複雑でわからない,そのわからないことが銀行とか証券会社にとって都合がいいものだった
あなたにはわかりませんとなれば銀行側の言いなりにされる
説明してもあなたにはわからない,現代は複雑だからそうなることが多い

みんなあなたはわからないい,説明してもわからない,だから支持通りにしなさい

原発事故でもそうだった,あなたは原子力とか核のことはわからない
だから私たちの支持通りにしていればいいのです
私たちが専門家が安全だと言えば安全なのです,そこで「安全神話」が作られたのである
そういうことが社会にどう影響するのか?

社会の健全性とかモラルをゆがめるのである。そして国民自体がその影響を受けて原発事故だったら大損失になる,個々人が損しただけではすまないのである。
そうしてわからないことで利益を得たからいいと思っていても回り回って社会に影響して社会自体が損なわれる,何もそうしてもうけることは悪いことではないと会社では思っている,その会社員だったそうしてもうけなければ会社が成り立たないともなる
そんないいことばりでこの世は生きていけないと主張する

でも公益的観点からするとそれが社会全体を損ねる,ゆがめる,損失を与える結果となるなぜこれが大きな問題なのか?
それは公益性の高いもの権力を有するものだからである。
弁護士だってやはり社会の正義を看板にしている,でも金のために悪徳弁護士にもなる
病院も公益性の高いものである。それは国民保険とかで成り立っているからである。
そこで病院がもうけても国民の負担となってゆく
銀行も証券会社でも公益性が高い,それも自分たちの会社の利益だけを追及すれば社会自体がゆがめられるのである。

ともかくわからないいうことが人間を無力化させられるのである。
それは宗教だって同じである。宗教も詐欺になりやすいのはわからないということでそうなる
宗教にすすめに来るのは自発的に信仰へ向かわせるものではない
最初から悪い意図でくる,ある団体は一票をとるためでありある団体は会員を増やすために勢力拡大するために一軒一軒回って歩く,そして会員にして奴隷にするのである。
宗教は会員にして勢力を持つの好都合なのである。
やめると罰があたるとか脅されるとやめられなくなるからである。
それでカトリックでは免罪符を売りつけたのである。
商売にしたのである。そういうことは特に現代のカルト教団に受け継がれている
だから宗教にも歴史があり歴史はくりかえすとなる

つまり人間は死後のことはわからない,病気のことはわからない、法律のことはわからない、原子力,核のことはわからない・・・・わからない・わからないということで
そこにつけこまれて致命的な損失を受ける,わからないということをいいことに金を奪われたり精神の自由が奪われたり遂には原発事故では故郷に住めなくさえなったのである。わからないこと人間を不安にする,そこでおびえる,そこにつけこむ
週刊誌でも絶えず株が暴落するとか大地震が来るとか不安をあおる,すると読む人も不安になり増えるということもある
情報社会でも不安をあおる,それは結局わからないということに由来しているのだ

投資の世界もわからないことが多すぎる,そこで常に不安になる,銀行員や証券会社の人がプロでわかっているかと思ったらそうでなはい,自分たちの都合のいい投資信託を買わせて手数料をもらう商売である。
ただ前に書いたように投資でもわかることはあった
そのわかることをやれば損してしょうがないとなる
ただかわらないものをしているとただ銀行や証券会社のいいようにされる
だからわからない人,経験しない人はやるなとなる

三方よし(売り手よし 買い手よし 世間よし)/近江商人

無理に売るな、客の好むものも売るな、客の為になるものを売れ

商売にも教訓がありモラルがはぐくまれた,客のためになるものを売れ・・・それが銀行のためになるもの証券会社のためになるものしか投資でもすすめないし売らないのである江戸時代の方が何かモラル的には良かったのである。
だから外国人が来た時日本人はみんないい顔していたというのである。
それはモラルとしては安定していたからである。
今は安心できない,安心できると思った銀行自体が安心できないものになった
それは社会が変わりやすいからそうもなる,江戸時代は多少変化して変わらない社会だから安定していたからモラル的にも安定していたのである。
そして現代は遠くの人とグローバルに交わったり見知らぬ人と交わることが多いのも信用ができないとなる,信用は簡単に築けない,時間もかかるしやはり近くに長く住むと作りやすい,それで農家の人は三代になってはじめて仲間入りさせられるというのもわかる
そういう社会は信頼できるし安心であり安定していたとなるからだ









posted by 老鶯 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月26日

株は自分で判断できるものをやる (投資信託はめんどうだからするな!)


株は自分で判断できるものをやる

(投資信託はめんどうだからするな!)


株と投資信託で経験したことは銀行や証券会社に頼むとしてもまかせきりではだめ

収支もはっきりしない分配型投資信託はしない

月々の分配金がもらえる投資信託は利子のようにもらえるから得に見える
自分も最初はそう思っていた,でも長くはつづかない,必ず変動する,投資信託も株なのである。
景気の変動の波をもろに受ける商品である。
特に海外だと為替の影響が大きく損失が大きくなる
だから分配金をもらうのではもうけられない,むしろ株をもっていた方がいい
投資信託がその仕組みがむずかしすぎる
株ならその時いくらで買った,上がったから売れば得するということは素人でもわかる
そうしてわかりやすいものを買うのである。
だからFXはわかりやすいから素人でも銀行や証券会社に頼んでももうかる
放っておいても上がったり下がったり一年二年の間するから安い時買って高い時に売るということでわかりやすいのである

他でも投資信託ではないものは株でもわかりやすいなら自分の判断ですべきである。
株は長い間で上がったり下がったりするからである。
だから暴落のときは買いなのである。ただそれなら小学生でもわかるのだ
銘柄など選べないからそういう株の商品を銀行でも頼んでもいい
でも銀行は投資信託をすすめるから危険だったのである。
それでリーマンショクで半分になったのが売った値段に回復したとき売って損したとなるそれは銀行にまかせたからである。
それはわかりやすいから自分で判断すべきだったのである。

証券会社、銀行に頼んでもいいが売り買いの判断は自分ですべきである。
それができるのは株とFXである,これは何も考えなくてもできる
株でも十年とか放っておいても上がったり下がったりしているから下がったとき買い上がったとき売るだけなのである。
そういうふうにわかりやすいものは自分で判断できるものはしてもいいのである。

投資信託は仕組みがわかりにくいからわからないからすべきではない

これは証券会社とか銀行がもうけるためのものである。
これをすすめる人が多いがそれがどうしてかわからない
現実に株が上がっているのにチャート見れば普通は売らないのに売った
投資信託に売ったのは自分たちがもうけるために手数料をとるためにそうしたのである
証券会社や銀行は顧客をもうけさせる人達ではない
それは別にプロがいることを書いた

商売を考えるとこれがだましだとかでたらめだとかなるが実際は商売にもモラルがないと成功しないと思った
顧客にとってももうけるものを提供すべきなのである。
もちろん売る方ももうけていいが売る方だけを考慮していたら成功しない
何かこれは商売全般に通じているものである
だから損して得しろというとき損してもいいから客にまず得させろということなのだ
自分がまずもうけるんだ,今もうければいいとなればもう長続きはしない
でもそういう人が多い,そうなりやすいのである。
おそらく東北人などは融通性がないか商売に向いていない
商売は相手をだますことではない,それ相応の値段で売り売る方も買う方も得することなのである。

売り手によし、買い手によし、世間によし』を示す『三方よし』という表現は、近江商人の経営理念を表現するために後世に作られたものであるが、そのルーツは初代伊藤忠兵衛が近江商人の先達に対する尊敬の思いを込めて発した『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉にあると考えられる。」

これを株には適用できないが何か通じるものがあった
もちろん自分がビジネスを語ることはできないが損させられたことでこれを思った
三方良しというとき世間よしも入っている,世間とはその地域地域であれ売り買いで豊かになることである。
株には通用しないかもしれないが自分が株でもうかればそれを地域の人に消費したり配分すれば世間よしともなるからだ
ところがもう頭の中がノルマが課せられて売らねばならないというもうけねばならないということが脅迫観念のようになり顧客のことは考えられなくなる
でもそうして自分たちだけ売る方だけがもうけようとするとかえってビジネスでも商売手も失敗する,客は逃げてゆく

株の場合はいくらでもいいわけができるからである,売った方の責任はないとなるからだだからこそ退職して投資のことがわからない人は銀行や証券会社に頼んだとしてもわかりやすいのを選び売るときは自分で判断することである。
それで失敗しても自分で判断したのだから納得がいく
でも頼んだ銀行とか証券会社はプロではなかったのだ
プロを雇うことができるのは一億円とか軽くまかせられる人である。
普通の人はそういう人を頼めない,証券会社や銀行の人はプロではなかった

それよりこうして単純な投資のノウハウもわからないのだからやるべきではないとなる
結果的に投資信託をすすめられて証券会社や銀行の餌食になる
投資信託は本当に売る方にとっては実に都合いいようにできている
それがなぜ野放しになっているのか?
金融庁からも注意されていたのである。
買う方にとってはこれはめんどうなものであり損しやすいものだったのである。
でも何か雑誌でももうかるようなことが書かれているのが多いのである
老後の資産形成には利子がつかないから不可欠だともなっている
そういうことは投資信託ではまずできない
もちろん成功している人はいる、その確率は9割が損しているように損する仕組みであるつまり売る方だけが得する仕組みだからやるべきではないのだ


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東風(こち)が吹き春北風(きた)が吹く


東風(こち)が吹き春北風(きた)が吹く

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浜通り東風(こち)に春北風(はるきた)風変わる

山鳩の三羽来たりて梅開く

何励むパークゴルフや冬芒

目覚めれば知らずにふりぬ夜半の雪


時にして春の嵐や時代かな若き命を散らしけるかな


出典新古今集 雑上
「めぐり逢(あ)ひて見しやそれとも分かぬ間(ま)に雲隠れにしよはの月影」

夜半(よは)の月の歌である。ここでは夜半の雪である。
夜半に目覚めたら隣の屋根に雪が薄くふっていたのである。
この辺ではあまり雪は積もらないけど今年は一時積もった
これもいろいろに鑑賞できる,何かこの句が死をイメージする
ひっそりと死んでそのあとに白い雪がおおっているとかなる
この辺では雪はなかなか降らないから雪にたいしてイメージがわかないのである。

今年は寒いから冬が長い,パークゴルフは今日もにぎわっている
とにかく老人が多いからいつもにぎわっている,それは無用な冬芒なのかとなる
何かこの辺では人手不足だけど老人は強いられない限り働かない
今日も駅に杖ついてきた老人が5人くらい見かけたのである。
本当に老人が多すぎるのである

今日は東風(こち)が吹き春北風(きた)も吹いた
今頃浜通りでは海からの東風と山からの春北風が吹く
その東風が原発事故で災いしたのである。
東風が福島市の方まで吹いて放射性物質を運んだからである。
これは本当に不運だった,一月頃だったら良かった
まだ東風が吹かないからである。
そして飯館村があんなふうになったのはショックだった
飯館村は森の国であり森に隠された村だったからだ

近くの梅は開いた,まだわずかである。徐々に増えてはきているがまだまだである。
今年は春が遅い,東風でも冷たいのである。
風というのはその土地特有の風が吹く,だから風土となっている
この風を感じるには車ではできない,風を自然を遮断するからである。
ただ自転車は最近疲れる,節々が痛くなる
だから遠くに行くのが億劫になった
後で筋肉が痛くなのである。
知っている人は腰が痛い痛いと実際はなにもしていない
ただ畑をやる気はある,そこに生きがいを見いだしている
腰が痛くてもやりたいことはやろうとする
自分にとって自転車を乗っているのと同じなのである。


タグ:東風

人間はタイミングで勝負が決まる (チャンスは一度であり何度もまた来ない)


人間はタイミングで勝負が決まる

(チャンスは一度であり何度もまた来ない)

誰だったかビジネスでもチャンスは一度で決まるとか言っている人がいた
何度もチャンスなど来ないのである。
大きな仕事をまかせられるチャンスはめぐってくる
でもその仕事で一回でも成功しないとはたしてまた回ってくるだろうか?
一回でも失敗するとその人は失敗する人だ,実際はそれだけの実力がない人だとされてしまい,金持ちでもヘッジファンドでもプライベートファンドでも雇わなくなる
今回は失敗しましたが次は必ず成功させますといっても頼む方にすると断るとなる

ただ株とかでも投資はつくづくこれもタイミングだと思った
その時の情勢とかが影響していた
なぜカナダ国債で失敗したのか?
石油があれだけ下がることが予測できなかったのである。
あの時は石油がずっと上がっていたしカナダで石油が世界で4番目にとれているから国債も評価が高かったのである。
一年くらいは配当とかでうまくいっていたのである。
ただその期間は短いから分配金があってもたまらないのである。

投資信託の月々の分配金は割りが悪い,損しやすい

元金から引かれていたことがわからなかった,分配金が月々配分されていたからこれは生活費として老後の資金として役に立つなとくらいにしか考えていなかった
投資信託はその計算ができないのである。
複雑でできない,収支報告もはっきりしないのである。
手数料がどれだけとられているかもはっきりしないのである。
それで金融庁ではっきりさせろと注意されたのである。
それより変動が激しいから利子のように投資では株ではもうけることはできない
急激に何かの要因で上がったり下がったりする
だから基本的には株は下がったときに買い上がったときに売る
それがわかりやすいがそこをどこで見極めるかもむずかしい
わかりやすいのは暴落したときである。
その時株を買うチャンスだったのである。
そこがタイミングだったのである。

ただすべてがまかせた銀行員が悪いとはならない,その時の情勢が関係しているからだ
要するにタイミングが悪いと何でも失敗しやすいのである。
例えば暴落しているときは逆にチャンスだった,その時株を買ってしこんでいればもうかったのである。
そして株の上がるチャートを見ていれば15000円で買ったものが回復したとき売らねばよかったのである。
それは素人でもそう思う,チャートで株が上がっているのに売るということは普通しないからである。チャートをいつも見ているからである。
その株が貴重だったのはリーマンショックとかをのりこえて長くもっていた株だからである。別に自分は放置していたから今回も放置していたら良かったのである。
下がるわけではないからである。

人間はやはりタイミングなのである。株が必ず暴落する,でもその暴落がかえってチャンスになることを経験でわかった,でも株でも退職した人とか60代以降に学ぶとするとむずかしくなる
若いときから経験していなと株は損する
自分は今回数年で外国の国債も買ったしUSリートも買ったし日本の株も前に買ったしJリートも買った,だから数年で体験を積んだ,それで損して痛みを負ったから身をもって学んだとなる,それでも証券の世界は本当に複雑であり多様だから理解できないものだと思った,おそらく基本的なことを体験したというだけだろう。
それでもグローバル経済というのがどういうものなのか身をもって知ったのである。
株をしないかぎり資本主義でもグローバル経済でも実感としてわからないのである。
それで勉強にはなったがそういう実験している余裕がなくなっていたのである。

結局これからの予測はいいものはない,日本の経済は低迷期が以前としてつづく,アメリカも停滞してゆく,だから株がいつ暴落すると専門家は言っている
中国の経済もゆきづまりでありいつ破綻するかもしれないと予測する専門家も多い
つまり経済はもう伸びない,資本主義はもう限界に来ている
それで銀行がなくなるとか大量のリストラになるとか騒いでいるしすでに実行されていることでもわかる
個々には以前としてもうける人がいてもそれは限られた金持ちとか極一部の人である。
あとはみんな負けになる可能性が大きいのである。
つまりタイミングがそういう時代に入っているということを見るべきである。

人間の勝負はタイミングで一回のチャンスで決まる、信長の桶狭間でありそれはタイミングを活かして勝負して勝ったのである。
その時の天候とか勝つ要因があった,それは運だったともなるがやはりタイミングだったのである。そのタイミングを逃すとまた同じチャンスはめぐってこない
その一回のタイミングを活かしたことにより信長は天下制覇に踏み出したのである。
それは一種の運だったのかもしれない,運も実力の内ともなる

では投資は運なのかというとそうでもない,何か予測するものがありチャートをいつも見ているからだ,ある程度は予測できるものとして専門家は見ているのである。
だから暴落のときはチャンスだというのが自分でも今回実感としてわかった
ただそれはリーマンショックからだから10年とか過ぎてわかったことなのである。
だから長い目で見れば株は上がったり下がったりしている
それで必ず下がれば上がるから長くもっているといいともなる
それも一つの戦略である

人間は時代に左右される,これはどうにもならない,高度成長時代は恵まれていたのである。その恩恵は十五六年前の保険金が倍以上になっていたとか郵便局にあづけた貯金の利子があづけたときの高い利率で支払われていたから今の老人は貯蓄だけで財産を形成できたのである。
それが時代だったのである。今は退職金が二千万だとしてもそれだけの価値しかないから老後資金としてたりないとなっている,これも時代で損しているなと思った
利子が全然つかないからわからない投資の話にのせられやすいのである。
利子がつくならこんなことにはなないからである。
銀行にしても金だけあづけられても迷惑とすらなっている
それで投資信託をすすめて手数料商売になる
そういう時代の変化がタイミングが悪い時代になったのである。

人間はその時代時代を懸命に生きるほかない,こういう時代に株とか投資に賭けることは危険だとなるしそれよりもう資本主義が投資先もなく終わりだというとき何か心の持ちようも時代に対応して変えねばならない
グローバル経済も変わる,何か新しいものを模索する時代になる
株とか投資信託をあおっているのは証券会社とか銀行とかでありそれらは商売だからそうしている
実際は今の時代は日本が貧困化しているし株で一稼ぎするとかの時代ではない
むしろ無駄な消費をおさえるとかヨーロッパの中世とか江戸時代に回帰する
内需志向であり外国貿易でもうけるグローバル経済でもうける時代は世界中で拒否されている
グローバル経済の矛盾が噴出して爆発寸前になっているからだ
だから資本主義の株式会社がなくなるとか学者も言うのである。

時代を見て対応しないと失敗する,これからは貧困化してゆく日本はどういう生活態度がいいのかとなる
今までの豊かになった消費優先の社会でいいのか,すでにそれはゆきづまっている
物価を上げようとしても上げられないのは当然なのである。
これだけ物はあふれていても賃金も上がらないからである。
外国人の観光客でも中国人でも日本に求めているのはもう物ではない
事の消費であり日本がもっている環境とか人の優しさとかそうした文化的なものが価値をもつようになっている
そういう時代が変化するときであるが過去の幻影に人は酔うのである。
金持ちが貧乏になっても以前として金持ちとしてふるまったりすることからぬけだせない贅沢を覚えるとそれからぬけだせない,変えられないのである。
一度王様になったら貧乏人になってもやはり王様だったときのことが忘れられないのである
日本は高度成長とか豊かだった時がありそのことがまた起きるとかそういう時代をなつかしむ,でもその時代は帰ってこないのである。
時代が逆戻りすることはない,江戸時代に帰るといってもその様相はまた違っているのである。

posted by 老鶯 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月25日

自己責任とは何なのか? (原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのか?

(原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのだろうとなる,民主主義社会は自己責任社会である。職業でも選べるし住む場所も選べるし自由である。
ただ自己責任というのを今は必ず問われる社会である。
その自己責任が問われる前提というものもある
民主主義社会だと情報が開示されているとか十分に事前に納得してもらうとかある
原発事故でも自己責任が問われた,事故を起こしたけど原発を積極的に誘致したのだから誘致した村でも町でも県でも責任があり自業自得だとなる
そのために十分な金を支払われていたのだからそんなに補償金を要求するな
それは税金だから国民に要求するなという批判があった

でも自己責任というとき自己責任をもちうるものが情報が開示されていて責任がもちえたまず政府とか官僚とか東電やマスコミでも「安全神話」を作ったのだから何か原発に対して危険を感じても質問すらできない状態だったのである。
「お前ら原子力のことなどわかるのか,専門家に政府にまかせておけばいいんだからひっこんでいろ」
「お前らには十分な金をやる,飴をやるから黙っていろ」
とかなっていたのである。そして地元では原発が危ないというだけで地元にいずらくなっていた,なぜなら三分の一も原発にかかわって生活しているとなるとそうなる
事故が起きて今度はお前たちの自己責任だというときその自己責任になる条件が欠けていたのである。
つまり民主主義社会が自己責任だというときそのためには情報開示が必要であり何かそれを充たすものが必要なのである。
「安全神話」になればもう何も言わせない状態を政府と一体になり作り出されていたのである。
だからどこまで自己責任なのかそれが良くわからないのである。

民主主義社会ではあらゆる所に自己責任が問われているのである。
交通事故でも必ず自己責任が問われる,ルールに違反していた信号を無視してわたっていたとか落ち度があったら責任が厳しく問われるのである。
何か知らなかったとかでは通らなくなる
何でも知らなかったでは通らないのであり知らないということが自己責任にされるのである。
でも人間はあらゆることに通じることはできない,一部しか知らないのである。
でも自己責任にされるのが民主主義社会なのである。
何かそうなると万能性すら要求されているのである。そんなに知識がある人などいないのである。

今回の株や投資信託の問題でもそうだった、損したのは別に銀行のせいでも証券会社のせいでもない,知らなかったお前が悪いのだとなる,お前の自己責任だとなってしまう
ただ自己責任というのは何かわからない,完全に自己責任というのはないようにも思う
株でも一番ふりかえり失敗したのは株があがってきているのに売って投資信託に金をつぎこんだことである。
それは銀行員がそうしたのである。その時強引にそうした
ただ自分は銀行員でもその人がプロであり知っているからそうしているものとしてまかせたのである。
でも損したら全面的に自己責任になる,証券会社も銀行員も悪くはない,知らないお前が悪い,まかせたお前が悪いとなる,でも何かこれも納得いかないのである。

ただ今反省すると株とかでも実際は自分の判断ですべきものであった,それをまかせたことが失敗だった,なぜなら自分の判断でしていたなら損してもあきらめがつく
それをプロだと思いまかせたから失敗したのである。
まかせたということは銀行員にも責任が生じていたのである。
でも銀行ではその責任は一切とらない,顧客が損しても銀行や証券会社は絶対に損しない仕組みになっている,つまり銀行や証券会社は手数料は確実に入り損はしないのである。自己責任を言う前に確実に人間は失敗の責任をとらされるのである。
原発事故でもそうである。そこに住んでいた人達は故郷に住めなくなる責任を負わされたからである。

株でも金持ちならヘッジファンドとかに投資して損しない方法がある
またプライベートファンドとかに頼む,そういう人達が本当のプロだったのである。
その人たちはもうかったらそのもうかった分から報酬をもらうのである。
もうからなかったらやめさせられたり一文の金にもならないのである。
だから真剣にもうかるように努力するのである。
投資信託などとはまるで違ったものとなっていたのである。
その人たちは責任をとらされるから真剣になっているのである。
投資信託はそんなことはないい,ただ金を集めて適当にやっているだけである
別に損はしないからである。責任をとることもない,責任をとらされるのは顧客だけである。
ただそうはいってもやはり銀行などはもともと信用があって成り立っていたからその信用を失うこともありもう地道な前のような活動ができない,信用されなくなるからである。「なんでこんなもうからない投資信託を売りつけたんだ,もう信用しない」
こうなるからやはり何らか責任が問われるのではないか?
原発事故では責任を問われたから国では莫大な補償金を支払ったのである。
それだけの理由があったためである。

自己責任というとき例えば何か人を仕事でも紹介するときでも紹介した人が責任を言われる,お前の紹介した人は何なのだ,仕事ができないとか言われる
その人は何か仕事についてルーズであり紹介した大工も何か支払いについてルーズだったのである。責任というとき親戚とかなると意外と連帯責任のようにされる
事業に失敗したらそのことと関係ないと思っていたが自分が苦しいとき借金を迫ってきた関係ないと思っても事業失敗の責任が回ってくるのである。
他人がしたことで関係ないと思っても責任が回ってくる場合もある
親戚関係になるとそういうことが逃れられないようになるから怖いのである

ともかく自己責任といっても全部が自己責任にはなりえない,そうなことを言っていたら人間は万能人間になるほか生きていけない,万能人間なら責任をとれるからである。
それは神にもなってしまう。
社会自体が連帯責任で成り立っている,保険などはそうである。
あらゆる責任をとれないから保険でみんなで責任をとりあっている
交通事故が起きたからと何千万円の金など払えないからである。
みんなで責任を負うことで自己責任を軽くしているのである。

だから自己責任を言いすぎるのが現代だと思う
自己責任は確実にある,病気でも不摂生で病気になったのだからお前の責任だといわれてもしょうがないことはある
病気でも自己責任が問われる,何か知らないで失敗すればお前は勉強しないから自己責任だとなる,株でもそうである。
でもすべて自己責任など負いようがないのである。
人間はあらゆることについてしりえようがないからだ
放射能のことを株のことを簡単にわかるかといえばわかりえようがないからだ
法律のことがわかるか?それも複雑だからわかりえよがない
そうして複雑な社会でわからないことが多すぎる,それで自己責任を問われるとなると
こういう世界に生きていけるのは万能の超人,神のようになってしまう

原発事故だと国民にも責任があった,原発を造ることを許したのは国民だからである。
選挙で自民党を勝たせて原発を造らせたともなる
戦争でも同じでありあらゆる人か責任になる,戦争を望んだのは国民にも責任があるとされる
だから自己責任でなんでもかたづけるのは疑問なのである。
株や投資信託でも銀行がすすめれば全部ではないにしろ責任が生まれる
わざわざ銀行まで行って投資信託をしますなどと言う人はまれだからである。
銀行員が一軒一軒回って話してすすめるから買うとなる
だからそこまですすめる方にも責任が生じる
銀行員にもすべての責任があるわけではない,ノルマを課してすすめさせる銀行とか会社が責任があるのも確かだからである。
全部を個人に自己責任としておしつけるのは疑問になる
ただ自己責任もいろいろあり海外で危険な目にあい死んだ人は自己責任だとされる
そこに国民の同情はない,勝手に警告している危険な場所に入り死んだから自己責任だとしてかたづけられていた,そこは政府でもそもそも戦場なのだからそんなところで死んでも自己責任であり人質になっても助けない,金は払わないとなったのである。
自己責任もケースバイケースだからちがってくるからいちがいに数式のように判定できないのである。
タグ:自己責任
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時代の変革期には痛みがあり犠牲がある (明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代の変革期には痛みがあり犠牲がある

(明治維新に太平洋戦争でもそうだった)


時代を歴史をみると戦国時代でもそこで生きていた人は必死である。
今は娯楽として戦争を見ているのだ,そこでは生きる死ぬかのなかで生きていた
例えば戦争があっても名もない人達が無数に死んでいる
戦国時代だと信長とか秀吉とか家康とかが常に話題になるがその他の雑兵はその他大勢になる,その時農民でも商人でも職人も生きていたのである。
そこで悲惨な状態で生きていても話題にならないのである。
でも戦国時代は華やかな時代にも見えるのである。
それはただそうしたその当時生きて苦しんでいたことは時代が変わればなくなるからである。

人間の一生でも苦しんだことがあっても過ぎ去ると笑い話にすらなるのとにている
ただ自ら痛みを負った人はそうした苦しんだことはなかなか忘れられないのである。
人間は何か痛みを負うとそれが忘れられないものとなる
痛みを負うことによって他者のこともわかることがある
だから障害者を子供にもった人が苦しみを言うが障害者をもって実際に苦しんでみないと痛みを負わないとわからないのである。

ただこうして人間の歴史をみると戦国時代でも別にそこに生きて苦しむわけではないから娯楽として今では見る,戦国絵巻だとかなる,かえって戦国時代は安土桃山時代で華やか時代だったとみる
でも庶民などはそうした華やかさとは何のかかわりもなかったのである。
要するに一時代が終わるとそれは過去になり何か娯楽化して回想する
そこで塗炭の苦しみを受けた人のことなどを見ないのである。
別に自分が苦しむわけでもないし痛みを負うこともないから娯楽にもなる

時代の変革期には必ず痛みがあり犠牲がある
明治維新でもこれも同じようにその時の英雄がドラマとなる,西郷ドンとかなる
でも無名の内に死んだ志士も多いし会津のように犠牲にされた人達も多い
時代の変革期には必ず痛みと犠牲がある,武士が職を失ったことは余りにも大きな変化だから武士でありたいと西南戦争が起きたことも理解できる
時代が変わると産業も変わるから失業する,新しい職に就くのは容易ではないからだ
それで大井川の渡しを職にしていた人達が鉄道で職を失った
その人たちは茶を作りはじめて名物になったとかある
川越人足の仕事が幕府でできなかったのは川越して金を得ているものが1000人とか多いためにその人たちの既得権をとりあげることができなかった
その人たちが職を失うことはそれだけ大問題になるからである。
橋もかけられたし船で渡せばいいとなるしそれも技術的にもできるとしたらそうなる
そういうことは江戸時代には何か多いのである。
である。でも既得権となって守られていたとなる

そのことで気鋭の学者がAI化するために既得権者がいてできない
その既得権者を退場させないとAI化はできないと訴えていた
日本でIT技術が遅れた,20年間で進歩がなかったのは既得権者がいてだめになったという何か新しいもので社会化できない,反対がありすすめられなかったと言っていた
江戸時代はそういうふうに保守的であり外圧もないから技術革新もできなかった
必ずしも時代が変わったからマイナスにならない,プラスに転じることもある
それでもそこに痛みがあり犠牲になる人がかならずいる
歴史となりふりかえるとそういう痛みや犠牲より時代が変わり新しいものが生まれることで全体的には良いものとして見ているのである。
戦国時代でも安土桃山時代とか明治時代でも新時代として華やかなものとして見ている
ただ太平洋戦争は焼け野原になったから華やかなものとしては見ない
でもなぜ破壊しつくされた国土,焼け野原から復興したのか?

これもふりかえると不思議である。戦国時代よりも明治維新の時より徹底的に日本は壊滅的状態になったのである。
そこから復興して高度成長時代になった,これも全体的に見てふりかえればそこで痛みがあり犠牲があった,300百万人が戦死した犠牲がありその後に復興があったがそこでも痛みと犠牲があった,引揚者が働く場がなく土地の悪い場所に開墾に入ったからである。
戦後十年は日本人はみんな一様に貧乏だったのである。
焼け野原になったときそこでは食べるものもなかったから苦しかった
そういう時代を経て今日の繁栄があった

そして今は変革期になっている,津浪とか原発事故も大きな変革をうながすものだった
街ごと消失したのだからそうなる,その後に前とは全く違う街を作ることになったからである。天変地異でもそういうことが起こる
何かそうした大きな変革期になり痛みがあり犠牲にされる人たちもある
では一体明治維新から70年後で太平洋戦争があり敗戦があり79年過ぎて何が起こるのか?
それは大きな変革である。銀行がなくなるとかいうのもそうである。
そこで痛みがあり犠牲がある
でもそこで大きな変革をしないと時代に世界に遅れるのである。
そこで破壊が起きないと次の時代は来ないのである。
規制のものや旧弊なものの破壊である,その破壊があって新しい時代が来ているからである。
現代とはそういう変革期にあることを自覚すべきである。

グローバル資本主義も金融資本主義であり格差社会を世界的に生んだ,だからこれも機能しなくなるからもしれない,銀行がなくなるとかいうのもそうである
ではその後に何が来るのか?
それは未だわからないにして大きな変革期にさしかかっている
イギリスのEU離脱でもそうだしトランプ大統領が出てきたのもそうである。
ナショナリズム,国内経済にもどるというとき日本もそうなる
グローバル経済はもう限界なのである。むしろブロック経済になりそこで複雑ではなく血の通った人間的経済にもどる
中世にもどるというときもそうかもしれない,道州制というのもそうである。
なぜなら東京一極集中は明治維新からの政策でそうなっていたからである。
何か大きな変革が世界で社会で要求されているのである。
ただその変革期には大きな痛みがあり犠牲がともなうのである。
でもその痛みがあり犠牲がないと新しい時代は開けないのである。
それは歴史をふりかえればわかるのである。
posted by 老鶯 at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年02月24日

株や投資信託で9割は損している (得しているのは大金持ちだけであるー 資本主義はもう信じられないシステムになっている)


株や投資信託で9割は損している

(得しているのは大金持ちだけであるー
資本主義はもう信じられないシステムになっている)

金融の世界では、オープンに価格が形成される「市場のリスク」よりも、意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪いというのが、筆者の偽らざる感想だ。

東証REIT指数は、昨年10.4%下落しました。ただし、1年間で約4%の分配金(税引前)が出ています。分配金まで勘案すると、昨年の投資利回りは約6.4%のマイナスだったことになります。

 日本は今、不動産ブームの渦中にあります。都心不動産は値上がりが続いています。それでも、J-REITが嫌われて下がってきたのは、不動産市況に過熱感があり、先行きブームが終わる懸念があるからです。

 REITとは?投資効果をわかりやすく解説

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

これが銀行員だったとは・・・???

銀行は苦しくて投資信託とかができるようになり銀行にとって有利な商品をもってくる,手数料の高くとれるものをもってくる
そういう意図が確実にあってすすめたのである。

ただこの投資の世界はあまりにも複雑であり不可解であり理解できないものだと思った
ヘッジファンドとかもありこれは金持ちが利用している
これはプライベートファンドであり金持ちが委託してまかせる,それは成功報酬なのである。成功して利益を上げれば10パーセントとかもうかる仕組みである。
だからこれは一億円くらい元金がないと参加できない
もともと金持ちの貴族の資産保護のために作られていたのである。

そもそも市場が公平なのかということが疑問としてあった
つまり株はギャンブル性が高く結局胴元だけがもうかるという説もある
本当に株式市場は公平なのか?それが疑問なのである。
そこに陰謀論も生まれる理由がある
ある人の説では金持ちだけが金を安全に得るのが株の世界だという
だから金持ちはいつまでも金持ちであり貧乏人はいつまでも貧乏人になる
景気の波がありその景気の波は株の上がり下がりは実は金持ちと言われる層が操作しているためなのだという
だがらそうした金持層は株が下がっても上がっても損しない,株が下がる景気が悪くなるとほとんどの人は生活が苦しくなるから金を借りる,すると借りた金を返すために働かざるを得ない,また株が上がると景気が良くなると金持ちには金が入る
でも株をもっていない大多数の人はその恩恵を受けられないとなる
つまり金持ちは景気に左右されず金持ちであり続けるとなる
その方法として投資でももうける方法を知っている

金持ちというとき少なくても一億円でも金持ちでは今はない,2億円以上であり10億円とかにもなる,なぜならヘッジファンドだと一億くらいまかせるからである。
そういう人は株が上がろうが下がろうが損はしないとなる
他の一般的な人は株ではもうけられない,損する仕組みになっている

9割は株でも投資信託でももうかっていないのである。

この統計的事実を株や投資信託をする人は胆に命じるべきである

銀行とか証券会社の人は

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪

これらの人は金を集めてあとは手数料だけをとるサラリーマンだというのもわかる

でも別に株が一般人でももうからないということはない,公平さはあった
それはリーマンショックの前にもっていた株だった
一時は半分になったが元の値段に回復した,それをもちつづけいてればもうかっていたから一般人でももうかることがあるから公平性が全くないかとはいえない
その株も銀行員がきて投資信託に回した

日本株が上がっていたのに早めに売ってもうけることができなかった

カナダの国債の投資→石油が急激に下がり失敗

USリートも金利があがりとんとんとかになる

為替に影響がないJリートは指数が下がりその将来性も実際は危ぶまれている

ただJリートは今年の後半からは上がるという説もある
一般的予想ではそうなっている
でも実際は空き室率が増えているし将来性がないのがJリートとだとこのサイトには書いてあった

石油が下がった,円高になった,アメリカの金利が上がった,もともとJリートは将来性がないものだった
こうして銀行にすすめられたものはみんな失敗して損したのである。

自分はそもそも株のことなど投資信託のことなどわからないから銀行が信用できると思ってまかせたのである。
第一いちいち株を見て売り買いなどできないからである。
いづれにしろここでも大きな損失を出した
奇妙だけど二回ばかりFXをしたがこれは成功したのである。
ただその差益はたいしたことがないからもうかったとはいえない,FXは株とか投資信託などと違いめんどうなことがない,簡単であり理解できるからかえって初心者にはいいとあった

いづれにしろ自分は株とか何にも知らないで銀行にまかせたのである。

それは知らないお前が悪いのであり自己責任だとなってしまう。
ところが人間はそんなにいろんなことに通じることはできないのである。
そうなら株など投資信託などしなければ良かったのだとなる
それがお前の責任だとなってしまう。

何にも知らないものがまかせてしたのだからお前の自己責任だ

結果的にはそうなる,ともかく何か金融関係は公平な所があってもブラックである。
それはその仕組みがわかりにくいのと複雑で理解できないからである。
そういう場で株式の取引をしている,そこに何も知らない人が入るのは危険だとなる
でもそこに水先案内人として銀行がありその銀行員が来たからまかせてしまった

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

その銀行員でも証券会社員でもこういう人だったのかともなる

中世では金融が盛んになり金の貸し借りも増えた,そこで不正も行われた
親鸞が対象としていたのはそういう混乱の中で悪が跋扈して悪人が増えて
その悪人正機説が生まれた
つまりその時代に今のような金だけを求めて血走っているような時代だったとなる
そういう中で自分が悪人ではないかと不安になる人が増えたのかもしれない
それでその人たちは悪人正機の教えに救われたとなるのか?

いづれにしろ今の社会は複雑である。でも株式でも資本主義でも根底がゆらいでいる
信用がなくなり公平性が維持できない,株式が公平だというときそれはあることはある
でも素人の人は9割が損する世界だったのである。
それでは公平とは言えない,素人はカモにされるだけの世界だったとなる

アメリカの景気も実際はその実体ではないく株によって仮想的好景気になっているというアメリカ人は株をもっている人が多い,年金生活者でもそうである。
だから株が上がれば消費もあがる,でも株だけの操作では限界がくる
アベノミックスもそうである。金融の操作であり実体の経済とは違っているのだ
だからアメリカは金利があがり景気後退にはいり暴落も近いと分析する人もいる
ただ暴落でももうけるし株の世界で生きている人はかえって歓迎しているのである。
そこで損するのは自分のようなみんなまかせてしまっている人なのである。

ともか資本主義とか株でもモラルはない,投機であり投資ではない,投資は会社育てて社会のためにするものである
地銀だったら地元の会社を育ててそれが地元のためになりその資金を活かすことが基本にあった,それがなくなったとき銀行でも投資先がなくなったときもう資本主義は終わりだという人もいる
現代のグローバル経済とか資本主義はモラルが欠如している
投機的資本主義であり例えば中国人の金持ちのマネーが日本の不動産とかビルとかマンションとかに流れている,それから北海道の土地も買われている
それは日本の国土が中国人のものになってゆくことであり防衛上も良くないから何らかの国でとめるべきだというのもわかる

意図を持って近づいてくる「人間のリスク」の方が遙かに恐くてたちが悪い

これは国の関係でも個々人でも同じである。
それで右翼系は韓国と在日とか中国人を警戒しているのである。
もし日本をのっとろうとする意図があって入ってきたら危険だからである。
現実に資料とかがもちだされたり意図的にマスコミでもそういう人達が入り操作されているとしきりに言う人がいるからだ

神は人間の心を見ている

こういうとき人間はその意図を見るべきなのである。動機を見るべきなのである。
犯罪でも何が動機なのかで罪の軽重がある
何を意図して活動しているのか?それが人間にとって重要なのである。

確かに株式でも公正なものがあることはある,でもそれは一部の金持ちにとって公正なのであり一般の人には公正ではないのである。
そういう人達は金持ちの駒にされる,株式に参入したらその金は吸い上げられるのであるそして証券会社とか銀行とかに流れる
それで9割の人間は損していることでもわかる

ただなぜそんなに損しているのに結構投資信託とかでも株でもする人がいるのかは不思議である。むしろビットコインなどはわずかの金でも十倍になったというから公正なのかとも思う,まず株式では億以上の金がありさらに余裕がないとできない,億というとき一億を軽くあづけられる人なのである。

とにかくアメリカが衰退して崩壊してゆくということもしきりに言われる
それはなぜなのか?こんなモラルもなにもない仕組みで一握りの人間に富が独占されているからである。
そういう社会では労働意欲もまず消費もできなくなる,そしたら企業も物を作っても売れないのである。そういう矛盾が回り回ってその富を独占する人達にもゆく
遂にはそういう人達への憎悪となり革命も起きる,国は分裂してアメリカは衰退して崩壊する,それは中国に言える,共産党の幹部が兆の富を独占しているのは同じだからであるつまり資本主義とかグローバル経済とか共産主義でも革命前夜なのかもしれない
またリーマンショックなみの暴落が来る
何か致命的なものとなり崩壊してゆく,そこにはモラルなどないからである。

人間には何かそんなことをしていると罰があるのかもしれない
資本主義はグローバル経済は必要なものとして普及した,でもそれが限界に来たのであるその後に何が来るのか?
みんな株とか資本主義には嫌気がさしている,一握りの人間が大金持ちになり操作される世界を複雑なりに見抜くようになっている
資本主義自体信じられなくなっているのだ
その資本主義の先兵が銀行であり証券会社とか金融にたずさわるものなのである。
ここが一番ブラックになっていればもう社会は暗黒になる
だから資本主義は共産主義でも格差社会は何らかで崩壊するし崩壊すべきだとなる
もうそういうシステムや社会を信じるなともなる
それが地銀とかが信じられなくなったということに一番現れていたのである。


この文章は自分の考えたものではないです
他のプログとか本とかを編集して書いたようなものです
自分の文はそういうものが多くなっている
雑誌とかには経済でもかたよっている,ただプログとかなると個々人の体験が赤裸々に語られいるから雑誌とは違っている
例えば日経とかでもあまり株について弱気なことは書かない
投資信託でももうかるような記事を書いている,本当に株とか投資信託で老後の資産を形成できるのか?
実際に9割が損している世界なのである。
おそらく証券会社とか銀行から宣伝費をもっらいっているのではないか?
そうでなければそんなに損するものにみんなするわけがないからだ
ただ株とか投資信託は複雑だから自分は初心者でありわからない
自分がもうけていたらこんなことは書かないから自分の言っていることがすべて正しいとはならない
でも何か銀行なども加担してのせられている
銀行でも儲け先がなくなりそうなっている,インターネットの情報は今回も役に立ったが遅かったとなる
これは簡単にインターネットでも理解できないものだったからだ














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abstract rivers


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morning river
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Sound of the river

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eroded  land by the sea

川を見ればリアルな川でも様々な表情がある,ただそれを表現しようとするときどうするのか?
言葉で伝えることもあるし絵で伝えることもあるしまた音楽でも川を表現できる
多様な方法で表現するのが芸術である
普通には見えないものを芸術に表現して見る
ただこの抽象画は変形して作られたものであるが一つのソフトからできやすいものである
それは機械的操作で作られるからそうなる

If you look at the river there are various expressions in a real river, but what do you do when you try to express it?
Sometimes I tell words, I tell them with pictures, I can express rivers with music
Expressing in various ways is art
Express what you can not see normally in art
However, although this abstract picture was made by deforming it is easy to make from one software
It is because it is made by mechanical operation
タグ:abstract rivers

2018年02月23日

海からの視点 (南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)

海からの視点

(南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)
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津浪が来た地点に古代の地名が残っていた
大船は烏崎である

●海からの視点が日本では先にあった

日本の神話は国産み神話は海人族のものである。その国土形成もイザナギとイザナミであるが島々を作るというとき塩の滴りから作るというとき海人族のものである。

この地球を見るとき山から見る視点になると国見というとき

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

《訓読》
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和国は

これは山からみて国を見る,南相馬市にも原町区に国見山がありそれがちょうど小高とか鹿島の範囲が見える,だから南相馬市は地理的に一体感があった
相馬市となると国見山から見える範囲からはずれてくる
この万葉集の歌では海原(うなはら)や鴎が出てくるくることが大きな疑問になっている
それでもともと奈良は太古から大阪湾から奈良まで入り込んでいたという説がある
その当時の地理がありそれで歌われていた
それは今回の津浪でわかったように海は陸に深く入り込んでいたことが証明された
それで日下石(にっけし)は太陽の陽の沈む場所でありその古い地理の痕跡を示していた
なぜそこが陽の沈む場所だったのか?それは陸から見ていたらむしろ陽の昇る場所だからである。
現実に日下石まで津浪が来て太陽がかがやき沈んでいったのを見たときは本当に驚いたのである。それほど深く海は陸の方に入り込んでいたのである。

海から見る視点が欠けるのは海は日常的に歩かない,海に通じているのは漁師などだけど漁師のことは良くわからない,漁師は山を目印として見ている,船に乗れば意外と山だけが見えるし目印になりやすいのである。
その山を目印にして航行できる,例えば新地からは牡鹿半島が見える,金華山も見える
新地駅は新しくなって高いから駅から見える
意外とこれも近いなと思う,すると船で渡ってもまようことがない,目印がはっきりしているからである。こういうふうに海から見る視点は違ったものとなる
それでも海から国見などはできない,山がありそこから平地を見て山を見て海を見るのである,でも日本では盆地が多いから海は見えないことが多いのである。
福島県だと浜通りは海が見えるから会津とは相当に感覚的にも違う世界なのである。
それで海からの視点とか歴史をみることが必要になる

その海の視点として見るとき万葉集の「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)」この草原(かやはら)は萱のことではなく地名であり港のことだと自分は解明した、なぜなら塩崎まで海になっていてそこに船着とありそのすぐ近くまで津浪が来たからである。そこは低い所でありそうした奥まで入り込みやすかったのである。
烏崎から船が津浪で六号線まで流されてきたことには本当に驚いたのである。
そこが万葉時代は海であり平安時代あたりまで船が行き来していたとなる
それで市庭(いちば)という地名も残っている,市庭とは古くから日本では市がたつ場所だった,だからなんらか商品の売買があったとなる
そこが真野の草原(かやはら)として地名とは断定できない,石巻にも萱原という地名がありそこが江戸時代からこの歌の場所だとされてきたからである。
その後の考古学の発見で南相馬市の鹿島区の真野が有力になったのである。

海を視点にして見ることが歴史的にも弱いのは海は何も残さない,そこで戦争があっても船は海に沈んでしまう,すると証拠がなくなる,それで最近は海にもぐり沈んだ船を探している,モンゴルの船も沈んだし太平洋戦争でも沈んだからである。
船はそうして証拠を残さないから海の視点から見ることがむずかしいから海はないがしろにされる,陸だったら小さな古墳でも残っていてここで確かに死んだ人が埋まっていると見れるからである。海だと海には何も残らないから歴史として遺物が残らないからただ想像力の世界となりそれが架空の世界ともなり認められないのである。
推理ドラマでは常に証拠を見せろとなるからだ,証拠がないといくら推測で言っても裁判でも負けるからである,だから海からの視点はないがしろにされてきたのである。
それで網野善彦とかが海からの視点で歴史を見直したのである。

船というとき船が単体であるわけではない,船を航行する技術とかそれを作る技術とか材料とかそこに波及する技術は多様なのである。
それは車でも飛行機でも同じである。それは政治的にも様々なものに影響する
エジプトではナイル川があり船の運行がしやすかった,するとあれだけ大きい王国でも川で結ばれたということがある,ピラミッドは川に通じていたともなるからだ
船の木材はレバノン杉が必要だというときそこに外国まで広がる貿易が必要になる
船を作り運行することはまた方向とかあり星座に通じる天文学とかが必要になる
羅針盤などがそれで中国で発明された,そして船によって大航海時代が作られたのであるその時オランダの風車の技術が船作りに応用されたのである。
日本では船の材料は山で供給されるから船木山とかあれば船に使用した木材を取り出したやまだとなる

●網野善彦の海民から見直す日本の歴史

網野善彦の農民だけではない海からの視点から日本の歴史を見直したことに評価がある

北条氏は津軽から若狭までの要津にをほぼすべてのその直轄下に置く一方、湊々浦々の
「大船」に過所を発給し,その直属の廻船として海上交通を支配した(日本社会再考-海民と列島文化)

この意味が良くわからないが過所とは許可証のようなものだろう。
そういう文書が残っている,大船という地名が鎌倉とか大船渡とかあるがここにもあった製鉄跡の東北電力がある所が大船という地名なのである。今は使われていない
ここで生産された鉄が運ばれたから大船なのか,鉄が運ばれたというとき船で宮古から浪江の請戸湊に運ばれて葛尾村で精錬されて葛尾大臣が富を築いた
鉄を運ぶとして重いから船が有利になる

海人などの長の立場に立つ人は刀禰(とね)と呼ばれていた(日本社会再考-海民と列島文化)

すると利根川が刀禰である
海人は海だけではない川にも通じて支配したのは交通ができたからだとなる
バイキングでもセーヌ川をさかのぼってパリに攻め入ったからである。
海と川は一体化しやすいのである。オランダが発展したのはライン川の出口の河口にあり海に通じていたからである。物資の集散する場所だったのである。
そういう地の利から小国でも貿易が商業が発達して富を築いたのである。

11世紀後半からの院政期には紀伊半島を中心に東は東国,東北、西は土佐、九州にいたる太平洋の海上交通が安定した航路となり活発な船の往来があったことは確実に証明できる
伊勢志摩の海民的な商人,回旋人はその広域的な海上交通を通じて根強く強い生命力をもつ自治都市(公界」を育てあげたのである

(日本社会再考-海民と列島文化)

移動しつつ各地に定着していった,綿津見系と宗像系という二大海人を想定する

この辺で神社として多いのが綿津見系である,宗像系ではない,それから熊野神社も多い八竜神社も多い,これは海と関係した神社なのである。

『長野県史 通史編 1 原始・古代』(長野県編 長野県史刊行会 1989)
 p414「安曇郡」の項に「安曇の地名は海人の統率者だった安曇氏の定着したところともいわれ、安曇郡の中央にある延喜式内大社の穂高神社(南安曇郡穂高町)は海神である綿津見命(わだつみのみこと)を合祀している。」

こうして海人族が長野県のような山奥まで入ってきて定着しているのである。
熊野神社が多いのと鈴木の姓がこの辺などで多いのは熊野系統なのである。
渡辺党というのもありこれも粋郡系統でありこの辺に多いのである。

そして熊野系統は南朝方についたというとき海人を味方にして海運をにぎり海を支配しようとしていたのである。

この辺の歴史でももともと相馬氏は北朝であったが海に海岸に館を置いていた豪族と相馬氏が進出してきてそれらのものが抵抗して苦戦した
なぜなら小高でも蔵院とか湊があり船があまたあり海運の拠点ともなっていたからである今回の津浪でわかったように小高の城近くまで津浪が来ていたからである。
そこは船の出入りする物資が流通する港だったのである。

それから相馬氏が高平に進出して西殿とか古屋敷とか地名が残るように相馬氏でもみんな一体でなく争うこともある,そこで海側を支配していた泉氏と対立した

泉廃寺跡は泉間が跡として知られ古代からかんがが置かれていた,その延長として中世までその機能が港があり海運をになっていた
13世紀後半から15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

河川交通と海上交通の結節点に位置して中世を通じて流通にかかわる遺跡だあった可能性が高い
古代行方郡家が置かれた新田川流域,泉地区は中世において地域支配の中核であり在地領主の屋敷地が鎌倉時代に作られた

泉観音堂に安置された一一面観音像菩薩立像から「弘安六年一二月・・」と記されている胎内銘が確認されている(原町市史)

この高平地区で南北朝の時代争いがあったのは相馬氏が北朝であり海側の港を根城にしていた人達,相馬氏でも分裂している場合があり対立した
西殿という地名はそこに館があった,でも海側にも館があり争いがあった
南朝は海人を味方にして勢力をもっていた,日吉神社もまた南朝方でありそれで霊山が炎上して落ち延びたとき鹿島区の真野に逃れたのである。
その逃れた系統に海人系統がまじっていた,それで烏崎にも住んだのである。
烏崎では鎌倉時代にすでに岩松氏が船でついたという伝説がある
これは磐城から来たといわれる,何か南朝と北朝の争いで混乱していたが相馬氏は先は北朝だったのである。
そして熊野神社系統も南朝だったのである。海の支配権は南朝がもっていたのである。
相馬市では磯部館があり佐藤氏が支配していた,海から急襲されたとかの言い伝えがあり海を通じての興亡があったとなる,後に佐藤氏は相馬市の道の駅にある鬼越館に移ったのである。それは津浪が来る前だった,だからこれも不思議だと思う

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

●津浪が語る昔の地形

今回の津浪では古代にさかのぼり地形が明らかになった,海だったところが本当に海になったのである。
それで大内の古い地名のそが船とか塩崎の船着や市庭という地名が現実を反映したものであり地名の化石であることを実感した
地名はそれほど古い歴史の痕跡だったのである。
曽我船とは船がそこをさかのぼっているという意味である。
そういう地名がつくのはいつも船がさかのぼってくるからこそいつもそういう船を見ているからこそそういう地名がついた
たまたま来るのではない,日常的に来ていなければそういう地名はつかないのである。

そして津浪が来た到達点からみると鎌倉時代の中世の板碑がある高平を見るとすぐ近くまで津浪が来ていたし鹿島区だと田中城は古い城だがそこも近くまで津浪が来ていたのである。だからその位置が地理が歴史を語っていたのである。
田中城は湿地帯に囲まれ守られていた,だから昔は海というより湿地帯になっていたのである。高平では屋敷があったのは西殿でも津浪が来ない場所である。
だから津浪の来た場所は湿地帯で人が住みにくい場だった

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に慶長三陸地震があり津浪があった

15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した

慶長時代までこうした貿易が行われていたのである。だからその時まで小高でも原町でも鹿島でも磯部でも港を根城とする土着勢力があり相馬氏はその後に入ったから対立した
そこで争いがあり海老の大工が大原の相馬氏と関係した伝説が残っている
それは相馬氏が中村に城を天守を造るとき何か抵抗した
その理由はわからないが津浪も関係していたのかもしれないと考察した
何か異変があり相馬氏の命令に従うことを拒否したのである。
そこで板挟みにあって大工が苦しんだ伝説だったのである。
時代の中で争いの中で必ず苦しむ人がでてくるのである。
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高平の中世の石塔群から見て津浪が来た距離が鹿島区の田中城からの距離とほぼ同じだというのも不思議である。
何かここに因果関係があるのか?

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)






2018年02月22日

日本に来る中国人の動機 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


 日本に来る中国人の動機

 (今は経済的なものだけではない,別な価値を求めている)


まだ一軒残っている仮設の食堂は嫁さんが中国人である。
その人は中国に研修とかで十日間ほど休んだ
今日中国のことを聞いてみた
自分が疑問に思っていたのは

なぜ中国人が豊かになったのにまだ日本に働きにきているのか?

そのことだった,聞いてみたらもう中国は日本とさほど変わりない,日本人より金持ちの人がいるという,その人が行った先はハルビンである。
元の満州であるが寒い地域である
なんでも日本に行くか中国で働くか悩んでいる人がいるという
つまり日本にはそれほど来たいという強い願望はなくなっている
その中国人の嫁さんはそうした経済的格差とは関係なく日本にひかれているのは別な要素だった
つまり街中がきれいだとか日本人がやさしいとかなにか経済が豊かだからではない
それは中国人の観光でも事の観光となり爆買いが下火になって物ではないのに変わってきたということでもわかる

ハルピンには新幹線も通っているというからその変わり方が激しいのである。
自分の行った十数年前は電車に家畜か物のように人間がつめこまれていたのである。
そんな所に乗った死ぬ思いになった,笞で打たれてつめこまれていたから本当に家畜の扱いだったのである。
それが新幹線になったということはその変わり方は早すぎるのである。
物価もすでに十年前でも北京辺りは日本と変わらないように高くなっていたのである。
満州でもロシアの国境にある満州里ではトヨタに乗っていた金持ちもいたのである。
それから十年も過ぎたからその変わり方は激しいものとなる
確かに中国は広いから貧乏な人も多いが都市は日本と変わりなくなっているみたいだ

そうなると日本に経済的価値だけをも求めるのではなく日本の環境がいいとか日本が好きだからとかなる,それは貧乏な人が求める価値観とは違っているのである。
新幹線があり車も乗っている人が多くなればたいして日本と変わりないとなるからだ
ただ自分はそのことを経験していないから実感としてはわからない
ただ物価が十分の一の時代から同等になってしまったのである。
だから中国で格安に旅行する時代は終わったのである。
満州となると飛行機でも近い,3時間くらいだから楽である。

ロシアから満州に電車できた時はどこまでもとうもろかて畑しか見えなかった
その中に汚い川が流れているだけだなと見た,たた外国で自然は良くわからないのである自然の中に入ることは危険になるからだ
その人は言葉が通じなくて困るではないかと言ったらそうでもないと言っていた
日本語を結構覚えたとも言っている,中国語はまるでわからなかった
英語の方がわかって英語で会話したしまた漢字を書いて会話した

国際化というとき田舎でも国際化している,まず中国人を嫁さんにしていれば中国がより身近になる,その人は中国を案内してもらうから中国通になる
近いから行き来も楽である。
でもなぜまたフクソウとかで働いてる中国人の女性がいるのかとなる
別に中国で働いていた方がいいのではないか?
逆に中国で働いている若者がいた,youtubeで紹介されていた
中国の方が日本より働く場としていいともなっている時代なのである。
ただその人が言うように中国でもいいが日本にも行ってみようかというとき
すでに経済的なものが動機ではない,日本と中国でそれほど賃金も変わらないとなったら日本に来てもしょうがないとなるからだ
今多くなったのはベトナム人である,だからベトナム人の犯罪が増えている
この辺でも駅で何人かにあっているからだ,前の中国人がベトナム人に変わったのである。

日本が先端分野のITとかドローン技術では中国はすすんでいる,それで日本がその下請けになるとか記事にもある,そうんな時代になっていたのである。
とにかくその変わり方の速さについていけないのである。
それで判断を誤るのである。



タグ:中国人
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人間を見る心理学 (ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


人間を見る心理学

(ギャンブルでも最初にもうけさせてあとで負けさせるのが定理)


今回の自分の投資信託でもうやる気がなくなったのは最初から負けたからである。
それは予測しないことが起きたこともある
カナダの国債が石油が急激に下がって損した
石油は今までずっと高かったのに急激に下がったのである。
まずこのことを予測できないから失敗したとなる
先を見ることができなかったとなる

もう一つの大きな失敗はリーマンショク前から株をもっていたのである。
それが15000円になったとき回復して元にもどった
でもその時株は上がり調子だから上向きのトレンドだからそういうときはチャートを見て専門家は売らないのである。絶えずチャートのグラフを見ているからだ
でもなぜ自分の担当の銀行員は売ったのか?
それを投資信託に回したのは手数料がとれるからだったのである。
その時自分は売らなくてもいいではないかとも思った
上がってきているからそう思った,しかし相手はプロだと思いまかせたのである。
でも前に書いたように大手証券会社でも銀行は特にプロでも何でもないのである。
プロとはプライベートファンドのように利益を上げたらその10パーセントはもらうという商売である。最初から手数料をとるということはすでに損は投資信託を売った時点で損はしない仕組みになっているのである
ただそこで手間隙かかるからその分とるということはわかる
でも損はしないのだからそれもいいわけにはならないだろ。

ともかく人間の心理として最初にもうけるとまたギャンブルでも賭ける
これは人間の善悪の問題ではない,人間の心理が古来変わらないのである。
そういうふうに人間が変わらない心理がありそこから人間を見るということも必要であるそれで中国とかでは絶え間なく戦乱であり人間を策略で陥れる
そういう非情を見てきたから孫子の思想とかがが生まれる
マキャベリもそうである。

人間はだいじに扱うか、叩きのめすか、どちらかにすべきである。小さな傷を受けた者は復讐するかもしれないが、重傷を負えば復讐できない。人を傷つけるときは、必ず復讐のおそれを断っておくべきである。

これを日本にあてはめると日本は原爆を落されて完全に打ちのめされて抵抗できなくなったのである。だからアメリカでは容易に日本を支配できるようになったのである。
日本人はあれほど鬼畜米英になっていたのにすんなり原爆をおとされて従順になったのを不思議がるが原爆の影響が大きかった,この言葉のように完全に打ちのめされたのである
日本が戦争に突入した原因としてギャンブル的に考えれば日本は日清日露戦争で一応勝ったので傲慢になった
それはギャンブルで最初に勝ったことによりそうなったともいえる
もし日露戦争でも負ければ日本は弱いのだという自覚をもつから次の戦争でも躊躇したことはありえる,つまり最初に勝つことは人間の心理としてかなり影響する
次もまた勝つという奢りが生まれるのである。
だから日露戦争に反対した内村鑑三などいたが後は日露戦争を賛美する人が今でも多いし当時は国民がロシアに勝ったと熱狂していたのである。
それも実は危険なことであり奢りとなり次の太平洋戦争に突入した

信長は桶狭間で勝ったけどその後は同じ戦法を使わなかったというときそこに信長の優れたものがあった,同じ戦法では時と場合がありケースバイケースであり勝てないのであるともかく人間は一回勝利するとその成功体験に酔う,次も同じように勝つと奢りになるのである。
だから必ずしも最初から勝つということはその後がありいいとういことはない
要するに日本の戦争でも日露戦争で負けていたらうちのめされていたらアメリカと戦うようなことはしなかったのである。

ともかく自分はとてもまた投資信託などやる気がしなくなった
これだけ負ければやる気がなくなる,ただもし勝っていたらまたやることは間違いないのである。
だから株をすすめる人は最初いいものをもってきて勝たせる必要があると思った
ただそういうことは投資信託ではない,ほとんど手数料をもらう商売であり客にもうけさせるということはないのである。
だからもうそのことを客がわかってくるとやる人がいなくなる
投資信託は7割がもうかっていない,でも3割はもうかっているとなるがその3割は大手証券会社とか銀行にすすめられたものではない,別な証券会社であり手数料をとらないものとかいろいろある,まず大手証券会社と銀行にすすめられるものはもうかる人がいても一割くらだろう。だからほとんどは損しているのである。
つまり投資信託の仕組み自体がそうなっているからもうからないのである。

いづれにしろ自分の場合は人間の心理として最初に負ければ損すれば次にまた賭けるということはしなくなる,それは人間の心理でありどうにもならないとなる
だから人間の心理というのを良く知ることも必要だなと思った
悪知恵にしても最初はもうけさせない限り人はもうその後は賭けないからである。
結局全敗だったからやる気がなくなったとなる,分配型は知らぬ間に元金からひかれていたのも錯覚をもたらしていたし収支決算もしないしすべて投資信託をすすめる人が有利になっている仕組みなのである。
だからこそすすめるのである。

ただネットでもどこでも様々な情報がでる,では投資信託の情報で気をつけねばならいなのは投資信託をすすめる商売をしているものとそれを買う側とに分けるべきである
投資信託をすすめる商売の人は投資信託を言いも気としてすすめるからいいことを書いている,でもそれで失敗した人はそうは書かないのである。
でも失敗した人は一部だとも言うことはできる他の人に言える
でも統計的にも7割しか成功していないし3割が成功しても大手証券とか銀行にすすめられたものは成功していない確率が多いのである
だから統計的にも合理的なものである。一人一人はいろいろあってもやはり統計的に答えが出ているのからだ

ただわからないのはどうして投資信託のようなものが世間に出回りそれがもうかるような錯覚をもたらしているのか?
それになぜ銀行までが加担して広めているのか?
それは一時的にはもうけをだしてもみんなもうからないとか損したとなると信用がなくなる,なぜこんなものをすすめたのだと客が銀行でも不信をいだくようになるとあと何をすすめてもしんようできないとなる
信用を損なうようなことをして将来的に成り立つのかという疑問である。
別に銀行員が悪いということはない,銀行の方針としてノルマを課して投資信託をすすめさせているからだ

こういうことは自分も経験している,カルト教団では会員を獲得することがノルマである一票をとるために毎日奔走する,それはなぜだったのか?
それがその団体が権力を得るためにそうしている,数が増えれは社会的勢力となり影響力をもつのが民主主義だからである。
そういうふうに圧力をかけているのは誰なのか?
それは上に立つものだともなる,若い人は別に従わなくてもいいが銀行に勤める限り従わざるを得ないのである。
だからそもそも銀行自体が問題視される,そういう経営で社会のためになるのか?
社会の中で存在意義があるのかということにもなる
なぜなら会社とは会社の利益だけを追及するものではないからである。
必ず公益的なものがありそれでなければ存続しえないからである。
それで金融庁から投資信託のことで注意されたのである。
つまり銀行自体が実は問われているのである。
ただ銀行側にすると投資信託はもうかるものだからそうしている,でもそれが信用を失うことになり社会的公益性からして銀行はすでにもういらないとされるようになる
そういう危機に直面しているのが銀行だともなる

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2018年02月21日

無駄に金が使われすぎる (弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


無駄に金が使われすぎる

(弁護士とか銀行とか医療関係とかゼネコンとかで無駄に使われた)


今になると経済を知るには株をやるといい,それも百万とか実験的にする,それは損してもいいとしてやる,すると相当経済の勉強になっていたなとこれも後悔する,今頃それをしても遅かったのである。
これも失敗だったと思う,実感としての経済学がわかることが大事なのである。
株をしていると確実に損したり得したりするとそこから実感として学ぶからである。
それがまさに資本主義社会なのである
株をしないと実感的に資本主義とかグローバル経済というのがわからないのである。
カナダの国債で円高になり相当に損したということで円高のことがわかる
トヨタなどでも一円で百億円とかの損益でるとなるとこの為替の上がり下がりは怖いなと実感した
最近USリートを売ったのはアメリカの金利が上がったからである。金利が上がる住宅関係は借りにくくなるから指数が下がってきたのである

人間は経済的な面から見ると損したことは良く覚えている,あれは損だったということを実感として脳裏に刻まれるのである。
でも成功した体験は何か忘れやすいのである。
おそらく心理学的にはギャンブルで最初もうかるということが危険なのである。
そこに有頂天になるとか俺はついているとか過信が生まれたりするから危険なのである。ただ人間の心理として最初にもうかるとまたギャンブルでは賭ける
だから最初にもうかることはかえって危険だとなる
ただ心理学的には人間は最初もうかると必ずまたもうかると思い賭けるのである。
そして今度は損したとしても何か最初にもうかったからあきらめるともなるのが不思議である。人間の心理としてそれがある、だから心理学的に人間をだますこともできると思った,ギャンブルでは最初は勝たせないともうその後は賭けないからである。
今回の自分の投資信託は全敗だったからもうやらないと決心したのである。

損したというとき自分は直接かかわっていないが弁護士に何もしてもらわないのに相談料で百万とられたのは今ふりかえるとただ金をとられたというだけになった
なぜなら実際の交渉は保険会社の人がしたからである。弁護士は一切なにもしていない
ただ弁護士に頼んだということを相手には言ったが実際は何もしないのに相談料だけ最初に百万とったのである。これも理不尽だなと今ふりかえる
それから前の渡辺病院でMRIで認知症になった姉の写真をとったが3万とられた
でもその機械でまず認知症のことはわからない,写らないのである。
郡山とかに二台ある機械だと多少わかるようだがそれでも認知症がわかる機械はないのである。

3万払ったとしても実際は一割だから30万も払ったことになる
これもその時は考えなかったが今になるとそのことに気づいた
30万は大きな金である,なぜこうしてこういうふうに金がかかることは実は自分の家族だけの問題ではない,税金となり保険となるから国民の負担となっている
医療関係にはそうした無駄な治療とか検査とか多すぎるのである
でも病院とかではそれで稼がないといい機械を買えないとかありそうするのである
3万で安いと思っても実際は医療の場合は馬鹿高くなっている
他でも医療費がふくれあがりもう保険でも介護でももたないというときそこには相当な無駄があるためである。減らすことができるが無駄がありすぎる
何か税金は無駄が多い,その額も大きいのである。

この辺で除染で何兆円も欠けたけどそんなに必要だったのか?
むしろその金を南相馬市だったら小高とかと鹿島区ではもめたからその金によって争いをなくすようにできたのである。
また公共の建築土木関係には大きな金の無駄が指摘されてきた
その無駄が国民にはねかえり税負担になる
人間は自分の金は大事にするけど他人の金は大事にしない,それで官僚は税金を無駄にするというのもわかる,自分の金だったらそういうことはしない,やはり十円でも百円でも損失には敏感だからである。
本当に大きな金になると無駄も大きくなるのである。

弁護士であれ医療であれ株とか大きな金が動く,そこでその金をとりこむことができる
それは不正というのではないが合法的に金がとられとなる
でもそれはだましにもなっている,弁護士の相談料に100万を払う必要はなかった
自分が払うとなるとそんなにかかるのとなるからだ
今はみんな自分で払うから自分の金だから痛みになる
ただ医療費はいくら3万でもしかたがないのかとなりやすいのである。
薬でも高いのもしかたがないとなるのは病気に人間は弱いからである。
弁護士でももめごとで困っているから頼むのである。
そこに常に弱みがありその弱みに合法的につけこまれるのである。

銀行でも証券会社でも大きな金が動く,するとそこに暴利のようなものにもなる
ビットコインなどもそうである。そこでは普通の社会では得られない金を得た人がいた
そういう株の世界には不自然なものがあり理不尽なものもある
ただ金を得ればいいとうだけのことしかない,日常の生活ではそういうことはない
野菜でも果物で何か作って売ってもそれ相応の分しか金はもらえないからだ
だから仙台の優創建とかのユニットバスを作った人は百万で安かったしできたものはいいものだった,ガス屋では200百万かかるというのを百万で作ったのである。
地元の大工だと3百万かかっていた,知り合いの人に頼むとそうなった
なぜなら見積もりもなにもないからそうなるのである。

結局人間は何か地道な仕事がモラル的にはいいとなる,ただそうなると収入が少なくなるから嫌だとなる,肉体労働となるとまたきついから嫌だとなる
でも弁護士でも銀行でも医療関係でもブラック化しやすいなと思った
金融関係は一般的にそうなりやい,地道に働くのとは違っているからだ
人間がどういう職につくのかは大事である。
なぜならもしそこで人生の時間を費やすとしたらそこに費やした時間が人生になってしまうからだ,そこがモラル的には悪いとなるそれが後で影響が出てくる
何か顔を見ると人間がわかるというがそういう仕事をしていると人間は心も歪んでくる
それがあとで結果として出てくるから怖いのである。

自分が思うには江戸時代がみんないい顔していたということを外人が言うとき貧乏でも今のような多様な職業の中でモラル的に歪んだものではなく天に恥じないような仕事をしていた,農業だと今の弁護士だと金融関係などの仕事とは根本的に違うからである。
そういう影響で素朴な人が多く人をだましたりしない,何か弁護士でも正義のためにするのではない,口八丁でだますということがしやすいのである。
法律する人をだますものとして悪用しやすいものだからである。
何か現代の職業はそういう職業にかえって憧れるし楽で金が入るとかなるけどそういう職業はモラル的に問題あるなと思った

投資信託の話などでたらめだとなる,自分たちの銀行でも証券会社の利益が優先されているから顧客のことより手数料の多い投資信託をすすめる
そこで判断が誤るということもある,なぜなら株をリーマンショクの前にもっていたのにそして上がってきたのにその時売って投資信託につぎこんだからである。
それはその時の判断がありいちがいに批判はできない
でもその言っていることがただ自分たちの銀行の利益が優先で顧客のことは二の次三の次だなと経験して思った
そして損すれば株とは上がったり下がったりいろいろな政治とかその時々の様々な影響がありますといえばいいのである,そう嘘でもいいわけがしやすいのである。
素人にはわからないからである。

結局安全なのは貯金だとなる,これも問題あるにしろもう年になれば株は無理である。
手堅くいく他ない,底辺層が貯金がないから安心がないというのもわかる
株で投資信託などで増やそうとするのではなく手堅く財産を守るとなる

●節約する
●消費を極力減らす
●財産は守る,なるべく減らさない

このように保守的になる,それは老人はみんなそうでありそうすることがしやすいのである。老人は消費するにもできない,いい長距離用の電動マウンテンバ自転車が出たから買いたい,でも体力もないし遠く行く旅行は無理だとか思い買っても無駄だとなる
すると老人自体が消費できないのである。消費することもエネルギーが必要なのである。現代は消費することが生産すると同じようにエネルギーが必要なのである。
だから自分の生活の仕方,方針を転換した
それで75歳から5万もらえる保険がいいとか思った
ただ75歳前に死ぬとゼロになる,でも安心だともなる,自分の場合国民年金だとたりないからである。でも5万は結構大きい金だからそれでなんとかのりきれるとかなる
つまり保守的になってしまうのである。
退職してから株とか投資に向かいないのである。
これも相当な訓練と経験がないとできないからである。




タグ:無駄な金
posted by 老鶯 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない (その人達は金融のプロではない)


銀行,大手証券のすすめる投資信託はもうからない

(その人達は金融のプロではない)



投資信託だけは買ってはいけない3つの理由 − 金融のプロはどうやって儲けているのか

ここで言っていることは経験してわかった、金融のプロがどうしてもうけているのか?
その金融のプロとはどういう人なのか?

プライベートファンドの多くは、信託報酬の他に「成功報酬」として「運用で勝った場合に、勝ち分の〜%を貰います」という報酬形態を採用しています。

彼らの給料の内多くはこの成功報酬から払われることになりますので、手数料の面で一見投資信託よりも高く映ります。
しかし、むしろ実質的な運用の質は遥かに高いものが期待出来ると言えます。

これはわかる,銀行とか大手証券会社で手数料をとるのはまるで違っている
失敗しようが全然損益にはならない,手数料は確実に入ってくるのである。
でも証券会社でも銀行でも個々人に投資させれば投資するものが損する
証券会社とか銀行は何の不利益にもならないのである。

だからある程度大きな金ならプライベートファンドを見つけて金をまかせた方がいい
大手証券でも銀行でも手数料が多くとれることしか考えていないからである。

相手をもうけさせようとしているのではない

証券会社が銀行がもうけるためにまずすすめるのである。

それでリーショックの時株もっていた半分になった,でもその後倍になった
でもその時投資信託をすすめたと銀行員はその株を投資信託に回した
なぜか?

銀行にとって手数料がとれる投資信託がもうかるからである

つまり顧客のことより自分たち銀行のもうけを優先しているからである。
それで今になると株が上がったたのだから売れば相当な利益になっていたのである。
ただその時の判断はあるが自分はその銀行員がプロだと思いまかせたのである。

大手証券会社とか銀行員は金融のプロではない

ここがはっきりと認識すべきである。
だからここのサイトはその要点をついているからわかりやすいのである。
もちろん投資信託でも株でも金融商品にはいろいろな見方がある
だからいちがいに自分の経験が参考にはならない

でもカナダの国債が石油が下がりusリートでも一時売ってもうかったがまた買ったとして手数料がとられる,3パーセントは大きな額になる,投資信託の金が大きければその額は大きいのである。

まず証券会社の人でも銀行でも投資信託はしていない

それは証券会社と銀行はもうけるのであり顧客をもうけさせるもののためではないからだただ手数料をとればいいという商売である。

だからこそ株が上がっていたのにその株を売って投資信託にしたのである。
そして今度はJリートにしたがこれも指数が下がり今は損して売れない
つまりみんな実際は自分の場合は投資信託でも外国の国債でも失敗したのである。
そして次々に新しい投資信託を買わせるのはその時大きく手数料が入るからである。

投資信託はもうからない仕組みになっている,もうかるのは手数料をとるリスクもなにもない,大手証券と銀行である,だから詐欺ともにているのだ
投資信託を売りつければ自分たちは絶対に損はしない手数料だけはいただくという商売だからである。

損して得をしろというけど投資信託は得して絶対損しない商売である。

そういう商売自体が一時的にもうけてもその後は成り立たなくなる
まず銀行員が投資信託をすすめても信用できない,いいことを言ってもこれだけ失敗すれば信じることはできない,株とかそういうものだとしてもプロとしてまかせたからである
でも証券会社や銀行は金融のプロではない

金融のプロとはプライベートに大金をまかせられる人なのである。それは大手証券会社とか銀行ではないのである。
金融のプロはそこで顧客をもうけさせれば何パーセントと利益を得るが失敗すれば何も得られないからである。
それはただ相当な金持ちしかそういう人には頼めないのである

実際投資信託でも手数料が安いとそれなりの対応しかしてくれないというのはわかる
でも自分はそれなりの大きな金を頼んだのである。
金持ちとは違っていても手数料も大きかったのである。
それで失敗したとなるともう何を言っても信用できない,まずその証券会社と銀行員は金融のプロではないのだ
ただ手数料をとるために適当に金集めしているだけだというのもわかる
つまり顧客をもうけさせるのではなくまず彼らが考えているのは手数料をとることである
だから商売でも相手を得させるということは損しても得しろということが諺として残されている,それとは全く違う世界である。
でもその諺も通用する,もし最初にもうかっていればまたもうかるのではないかと別な投資信託をすすめられれば投資することになるからだ
ギャンブルでも最初にもうけた人はまた賭けるのと同じである
これだけ損して全敗のようになれば賭けたりしないのである。
投資でも最初分配金が払われて信用したということもある
全く自分の場合は全部失敗したのだからとてもこれ以上すすめられてもそんなことできなくなったのである。

そもそも銀行自体信用できなくなったともなる
そのことを知っている人がしきりに言っていたから当たっていたとなる
金融は複雑だからだましやすいのである。何かもうかるような気分にさせる
でも現実にこれだけ全部失敗して損させられればもうまかせることはできない
それが小さい金だったらこうはならなかった
それなりの金をまかせたのにその人は金融のプロではなかったのである。
一般的に普通の人が接するのは金融のプロではない
ただ手数料をとるだけの自分たち確実に得するが顧客は損しようがかまわない商売なのである。
ただそういうものが社会にまかり通っていることが納得がいかない
それも銀行という固い職業でそうだとういことは銀行の信用は失墜する
それでもしているのは銀行が追い詰められているからだとなる

ともかく人間は経験である。もし株でも経験していればこうはならなかった
本を読んでもわからないことがこの世にはいくらでもある
経験しない限り株なら損するとかしないとその世界のことはわからないのである。
それがわかるのは学者が経済や経営を教えているけど株でもうけられないことでもわかるそういう世界に通じるにも経験なのである。それがないからたやすくだまされるともなるのである。
ただわからないのは銀行がそこまでするということは切羽詰まっているからでありでも結果的には最大の財産である信用失うということになりかねない
その怖さを認識しないと会社自体が危うくなる,すでになっているからこそそうしたものに手を出さざるをえなくなったとなる



posted by 老鶯 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

掃除は商工会の女性がしていた


掃除は商工会の女性がしていた

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商工会で掃除とかJRに頼まれたのを断ったというが今日はホームのゴミをかたづけたらしい
自分はゴミがはみ出したのでゴミ袋に入れてかたづけた
そのーとに制服を来たような女性が二人あと二人とか来て掃除したらしい
あそこは別に掃除といってもホームのゴミ箱にたまるのをかたづけるくらいである。
でも商工会に頼むとJRでは金を払っている

最近は駅であまりすることがない,ただなぜ自分が時刻表とか無料で配ったりしたのか?
それもカルマだったのである。自分は鉄道旅行が長いから相当にJRに世話になったとなるするとそこにカルマが生まれていたのである。
人間の一生をふりかえると必ずカルマが蓄積される
カルマをもたない人はいないのである。

それで介護とかもカルマなのである、親に世話になったから介護がカルマとしてのしかかる,カルマというのはなかなか気づかないのである。
でもどこかでカルマを返すことを要求されるのである。
それが強制される場合があるときは相当に重いカルマなのである

駅ではなにかある,今度は駅舎内にスーピカーをつけた,ホームにはあったが駅舎内にはなかった
何かこうして駅は仕事がある,ただ今はさほど仕事がなくなったことは言える











2018年02月20日

北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)


北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)

無念の声が
北海道の厳しい
大地に埋もれぬ
その分厚い雪の下に
無念の声が埋もれる
開墾に敗れし者
その無念の声が
冬の過酷な大地に
閉ざされ埋もれぬ
雪はふぶき非情
しかしそこに挑みし者は
無益ならざれ
北海道の大地の実り
その実りを味わう者は
また悲痛なる無念の
大地に埋もれし声を聞くべし
その大地に蕗の薹
力強く芽吹きぬ
北海道の大地の春は輝きぬ
悲痛に埋もれし者も
その命の芽吹き見る
死者の願いはそこにかないぬ
そこに死者は輪を作り立ち上がる
力強いその群像を見る
死者はそこにありて
その大地と共に生きつづける

北海道の魅力はやはり北海道は広くても一つの国として見る,本州だと一部をみていても北海道のように全体を見れない,福島県だって広いから会津は別な国であり一つの県として見れないのである。そこでなかなか福島県の詩とか作りにくいのである。
北海道はあれだけ広いの一つの国のように見ている
榎本たけようの蝦夷共和国というのは何か地理的なものとしてそうなったのである。
江戸幕府が敗れても北海道に新天地を見いだそうとしたのである。

北海道に入れば空気まで違う,苫小牧に船で上陸したとき必ずその空気が違ってるのだ
澄んでいるのであるそこに野の花々が咲いている
そういう原始性が残っているから違っている
本州だとどうしても町とか市とかに出る,どこまでも広がる大地とか草原とかそういうものは本州にはない,だからそこで心まで解放された気分になる

ただそこで生活するとなると過酷である。自分など体力がないから耐えられないとなる
北海道開墾はそこで敗れた者も相当に多い,猪狩満直もその一人であり他に大勢いるのである。
彼らは北海道の実りを享受できなかった,しかしその後の人はその実りを享受する
それがまた人間の歴史だったのである。
何らかの犠牲の上に次の時代も築かれるとなる
戦争の犠牲の後に日本の高度成長があったのもそうである。
何にもない焼け野原から良く高度成長になったのは驚嘆すべきである。
でもそれは中国でも20年くらいで同じように起きていたのである。
だからそれは世界的なものであり日本だけのものではない
何かそういう力が日本に働いて高度成長になったのである。

北海道は明治になりフロンティアになった,そこから日本の新生が始まったのである。
もし北海道がなかったら日本は失業した武士などの受け入れる場がなかった
アイヌはいたにしろ手つかずの未開の地が開けていたのである。
ただ北海道で犠牲になった人達も多い,それだけ厳しい大地だったのである。

おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

猪狩満直「移住民」

これはこの詩人だけではない,北海道の開墾に敗れたものは大勢いる
それらの人達の代表としてこういう人がいて詩に残したのである。




















タグ:北海道の詩
posted by 老鶯 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

高度成長グローバル資本主義の終わり (宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


高度成長グローバル資本主義の終わり

(宗教,哲学,芸術などの内面化意味を求める社会に)


小さな庭

沈黙の深く
一人一人の
意味あるものと
顕れるべしかな
一人一人の声を聞き
雑多なる声は
騒音語となり消えぬ
小さな庭の
一つ一つの石は
確かに組まれて
意味を深める
人は意味なき世界に
生きることあたわず
小さなる世界に
その意味を求め安しも
経済のための社会にあらず
社会のための経済
その小さな世界に具現化す
グローバル経済には意味は求めがたし
ただ経済のため金のために翻弄されるだけ

今の時代は何なのか?それは実際は今の人にはわからないのである,歴史は一時代が終わったとき冷静に見れるし評価も定まってゆく,人間も生きている内は評価しにくいのである。
今の時代は何か?それがしきりに言われるようになったのが中世にもどるということである。
ただ中世とは何かというとこれまた見方がありいろいろである
日本の中世はかえって動乱の時代だったからヨーロッパの中世とは違う
ヨーロッパの中世はグローバル社会とはまるで違った閉鎖された江戸時代のような世界である。だから暗黒社会だとも言われる

ではなぜ中世なのか?それは資本主義がグローバルに展開した時代が終わったとういことである。グローバル資本主義がありえたのは投資先が常にあって成り立っていたのであるそれがなくなったとき銀行に金をあづけても利子がつかない,むしろ金をあづけると事務費とかはられることになる
そのことが何か資本主義の終焉を象徴していたのである。

日本は戦後焼け野原から何もない世界から急速に高度成長したのである。
中国とにている,中国の二十年前は再貧困国のようになっていた
それが二十年すぎたら新幹線のようなものも走るしとか日本の高度成長と同じだったのである。世界も十年単位とか20ねん単位急速に変わるものだと思った
だからその変わりように追いつけなくなるのである。
人生もまた70年単位にして急速に変化してその変化に対応できなくなる
現代は変化のスピードが早いのである。

日本が敗戦になったのはこの変化についていけないとういことがあった
戦艦大和のような船の時代は終わり飛行機の時代になったときそれは無用化されて海の藻屑と消えたのである。
20世紀は科学技術の時代である。科学技術が社会を席巻した時代である。
それと高度成長とグローバル資本主義の時代だった
そしてもう日本ではインフラ整備も終わりかえって道路でも橋でもトンネルでも老朽化して修復する時代である。また無用な道路なども作りすぎた時代にもなった
高度成長が終わり長く経済が停滞するしグローバル資本主義でも投資先がなく金融資本主義になった
金融資本主義とは本来の資本主義とは違う,ただ金を右から左とながしてし利ざやを稼ぐのであり投資しているのではないのである。
投資する先がなくなっていたのである。
地銀なども地元の企業に投資して育てるという役割があったがそれないから証券会社の支店化して投資信託とかで利ざやをかせぐだけの商売である
銀行の役割はもうなくなり消えるという時代になっていた

こういう時代は何なのか?
物理的空間的拡大の時代であったのも現代である。それは交通面で飛行機とか車社会とかなり人間は外へ外へ向かうようになった
広域社会化でありグローバル化社会である。人も物も自由に行き来することが可能になったからである。
ただそのグローバル化も移民問題などで世界的にゆきづまった
それがアメリカでもそうでありグローバル化は失敗してもうこれ以上できないとなった
資本主義も投資先がなく銀行に利子がつかないようにもうゆきづまり終わるとされているビットコインバブルなどもそれを象徴している
資本主義は必ずバブル化して破綻しやすいからである。

そして次なる時代は何なのか?ITとかAI,通信時代になった,この特徴は物の流通ではない,物理的リアル空間の拡大ではない,その中心が頭脳に左右するものであり心の世界に向かう,内面世界に向かうものである。
だから今までも物理的物の豊かさを目指すものではないのである。
その技術は精神に影響してくるものである。
そもそもインターネットを介して物の流通があってもそれよりそこで人間が情報をやりとりしていることが主だとするとそれは情報も精神の世界なのである。
膨大な情報のやりとり交通の世界になったのである。

インターネットでもその発信方法が変わる,最近youtubeを見ているとこれは学習能力がある,テレビとは違うメデアである。それも誰でも簡単にテレビのように放送できることが強みである。それでユーチュバーが生まれたのもわかる
ただそのユーチュバーが稼いでいるのはテレビと同じ手法である。
何か刺激的な映像を出して視聴率をとるのである。
でもその他にも多様であり学べるものがある
インターネットのメデアは一方的でなく対話的な面がある
だから引用して議論しやすいのである。本とも違ったメデアなのである。
どちらかというと広く浅い知識を得るメデアである。
現代は多様な複雑なの社会だから広く浅い知識も必要なのである。
それには要点をついたyoutubeが向いているなと最近思った

ただ現代はこうしてインターネットとか世界的につながるとしてもそのアイディンティティを得る場はどこなのか,それはやはりリアルに自然とか社会と結びついている場なのである。
小さな庭というときそれが拡大したのが故郷かなる,リアルな自然があり村があり町があり市がある所である
そこで意味を探求して進化させるのが人間的なのである。
だから像で考えよというときその像が都会にはない,自然がないから像として考えられないのである。毎日高層ビルを見上げていかなる像が浮かぶのかとなる
ヨーロッパでは都市が歴史的に作られそこが一つの世界となり世界観を作る
地方都市が充実しているからミクロコスモスとなり文化が興隆した
フィレンツでも4万くらいの人口だった,小都市にすぎなかったのである。
ヨーロッパではそうした小都市が歴史的に作れらて文化が育まれたのである。
日本にはそうした小都市は歴史的に少ない,城下町は都市とは違うからである。
だからこれから地方の小都市の充実がかえって望まれている
東京一極集中は文化的に不毛なのである。

自分は田舎で石とか樹とか森とか山とかのアイディンティティ化することをしてきた
そこに意味を求めてきた,それを短歌や詩にしたりした,それは意味を求めていたのである。自然の意味を求めていたのである。
それは科学技術とかとは違う芸術とか哲学とか宗教の分野にもなる
今の時代は経済一辺倒の世界が収束して宗教,哲学,芸術とか内面的な精神的価値を求める時代になる
グローバル経済社会ではとても意味など求められないのである。
それは非人間的な世界であり株の世界でも世界の賭博場のようにしている
ただ人間はそこで経済に金にふりまわされているだけなのである。
そしてそこでもうけるのは極一部の人しかなく後は世界的格差社会になったのである。

人間的な世界を求めるとき小さな庭のように狭い世界でないと一つの区切られた世界でないとできない,例えば会津は万葉時代から一つの国として意識されていたからそこで意味を深めるアイディンティティ化しやすいのである。
今の県は廃藩置県後にできたのもであり風土とか地理を歴史を考慮していないから一体感がないのである。
例えは北海道は広いのだけど原始性が残っていて一つの国と見れる
それで榎本たけようが蝦夷共和国を目指したのが理解できるのである。
北海道は自然でも原始性が残りそこに日本では別個の一つの世界を作り出すことができると明治維新の時も思われていたのである。
北海道はだから今でも蝦夷共和国を目指し得るのである。

結局戦後焼け野原から高度成長時代へと発展したが日本は高齢化したように老人になると過去をふりかえるようになる,そういう時代になった
過去をふりかえるということは老人ならどんな人でもしている,そしてその意味を求めるようになる,俺の人生はこうだったとあれも失敗だったとか悔いるのである。
そういう反省の時代でありそこから若い人も学ぶものがある
若い人だけで議論していると何か深いものの見方ができないのである。

いづれにしろ今の時代はもうグローバル経済とか金だけに経済だけに翻弄される時代は終わったという認識をもつべきである。
だから株とか投資とかで期待してそうした狂騒の世界に巻き込まれるべきではない
それは自分も最後にしたがもうやめた,結局投資信託でも手数料をとられだけであり銀行の最後のあがきとしてすすめているだけなのである。
銀行がなくなるということがまさにグローバル経済の終焉の時代を告げていたのである。ただすぐにはグローバル経済とか資本主義はなくならない,ただ傾向としてはもうそういう経済だけの世界は終焉に向かっているのである。
そういう時代認識をしないと何かまた過去の幻影にふりまわされるのである。
時代というのは社会でも常に変化しているけどその変化に対応できないのである。

とにかく小さな世界だと意味を求めやすい,禅宗だとその小さな庭に一つの宇宙をも世界を見たのと同じである。大きな世界になると社会でも自然でも意味づけることがむずかしくなるからだ,そこに自然を庭化する日本的なものがあるといえばそうである。
ただ世界的にも意味を求める時代は宗教は哲学,芸術などの時代になるのである。
インターネットとかはそういう精神世界の追及に向いているものがある
いろいろな人からの情報とか知識を得やすいからである。また対話的にもなっているからである。ただ草創期だと日常のささいなことの対話になるがだんだん成熟すると深いものの見方をする人などもインターネットに現れてきている
そして死んだ人が「心の青雲」のプログの著者の都築詠一氏だったのである。
なぜならその人はインターネットでプログを書いただけで本には出ていないからである。そういう人も出てきたのだと驚いたのである。
インターネットで発表することは発信する方にすると楽なのである
publishとはpublicであり公表するということであり公(おおやけ)にすることである。
今なら本は簡単に安く作れる,でも公表するとなると簡単にはできない
その公表するということでインターネットでは気軽なのである。
そして人間は書きながら文章で思考することがあるなと思った
文章を書くことで思考を深めている,思考を具体化しているのである。
だから自分はこうして毎日書いているのはそういうことをインターネットではしやすいからなのである。だから現代はインターネットでも文章の時代だともなる
自分はしゃべることは苦手だから文章を書く方がいいとなりプログなどは向いているのである。
文章の方が深いものを探求できる,しゃべるだけではできない,ただ広く浅くなる知識や情報だとしゃべるyoutubeの放送が向いているなと思った




2018年02月19日

南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える (国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える

(国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


知人の母と息子が住んでいた家は息子が40くらいでありいわきの方に正社員として建築関係で仕事していたが仕事がないとなりその息子は決断した
東京に仕事探しに行きアパートを七万で借りて帰ってこないという
東京だと仕事がないということがない,建築関係でもそうである。
そして七万の家賃でも今は建築関係は人手不足だからやっていけると踏んだのだろう。

この状況からみてこの辺は意外と復興関係の仕事も減り仕事がない状態になっているのかその人は前はここで除染の仕事をしていた,それも終わった
まだ外部から来ている人がいるが大分少なくなっているだろう
統計的にも一段落して復興関係の仕事はもう減ってゆくだけである。

仙台のユニットバスの会社がまた家のリホームをしないかときた
その会社は百万でユニットバスを作った,ガス屋に聞くとこれは二〇〇百万かかると言っていた,確かにそれだけの仕事であり安いと思った
地元で知っている人に頼んだら三百万はかかっていた
その人の知っている大工でも仕事してもらったが何かいいかげんだった
だからあてにならないと思い頼んだのである。
この辺は何か家でもほとんど大手の住宅会社が建てている

仙台でも震災関係の仕事がなくなったからこちらの方に進出してきたとなる
つまり仕事がないということが仙台周辺でも起きているのだろう。
大きな仕事もなくなっている

そうなるとこの辺では若い世代の流出が震災直後から問題になっていた
原発避難区域ではそうなって若い世代が帰ってこないとなった
だからその知っている人の息子もそうなったのである。
その人は別に原発事故のために地元にいられなくなったとかではない
ここで仕事がないということで東京に出て帰らないという
それはここで仕事がないし生活できないと決断したのである。

まだ40くらいだからそれができた,50代とか60代になると東京とかに出て働くのもむずかしいとも思う
自分はもともと田舎志向だから東京などにごみごみした所にゆきたくないとなる
介護十年でもう東京には10年以上行っていない,そして仙台にも去年は一回しか行っていないのである。
旅ばかりしていたがここ十年は近間を回っているだけなのである。

この辺で人手不足というとき介護とか看護師とか飲食関係とかが深刻であり建築関係の仕事はなくなっている
ただそうして若い世代が流出してゆくことはここには老人ばかり増えて働き手が減少するすでに他の県より市よりこの辺は高齢化率が10パーセントくらい高くなっている
それがさらに増えてくる,南相馬市だと小高は老人の街となりそれを補佐するのは容易でなくなる,だから立派な老人ホームがあっても介護士がいなくて運営できなくている
親が住んでいても子供たちはその親を見捨てて流出したから帰ってこないのである。
親は帰ってくるというけど一旦流出したら別な土地で暮らし始めたら仕事をはじめたら簡単には帰れなくなったのである。
それで妻まで子供の方に移り住んで老人が一人小高とか復興住宅とかでも浪江の老人が残される結果になったのである。
つまり浪江の人が南相馬市にも住んでいるから実質の老人はさらに多くなっているのだ

あと三年後に国からの援助もなくなるとか補償金もすでにもらえないとかなり苦しくなる本当にこの辺は危機的状態になるかもしれない,ただそういう危機感はない
人間はそうなってみないと何でもリアルに感じないのである。
そして個々人でも介護でも病気でも自分がそうならないかぎり他人事なのである。
でも市全体が疲弊したら必ず個々人にもその影響がでてくる
だから後三年後というのはこの辺では具体的にその影響が現れてきて苦しみ感じる人々が増えてくる、生活保護だって増えれば財政負担が増えるし老人は病気になりやすいし介護になりやすいからそれが負担になる

posted by 老鶯 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

経済のための社会か社会のための経済か? (仲間となりうるものは誰なのか?)


経済のための社会か社会のための経済か?

(仲間となりうるものは誰なのか?)

人手不足で低賃金の理由(宮台真司)

ここで社会(仲間)のための経済のための社会の議論


この問いかけは興味深い,でも仲間とは何かなのか仲間からcompanyに発展した,仲間から会社に成ったことは理解できる
会社は今でもそこでともに働くのだから強い仲間意識をもっている
だからこそ会社人間となり企業戦士となり高度成長時代があった
仲間意識というとき江戸時代なら会社がないのだから身分社会だから身分によって仲間意識をもっていた,侍は侍で農民は農民で職人は職人で住み分けられて仲間意識をもっていた

そもそも仲間というとき一番親密なものは家族である。ただ家族からではなく仲間とか友達は家族意外のもとの仲間関係である。家族はそもそも仲間という意識から成り立っていないからである。
他人との関係で仲間意識が形成される,その仲間意識がどうして培われたのか?
それは友は共でありもともと共にする,共同して働くとかから起きている言葉である。
共同して働くことが友となり仲間となることを意識させたのである。
だから働くというとき端を楽にするということで働くとなった,それは家族が仲間が労働していて苦労していることを見て自分も手伝ってやろうという意識が生まれた
だから仲間意識は協同して働くことから起きてくる

村とか今でも協同して除草をしている,今より前は必ず協同しないと農民は成り立たないだから街内から離れて農家のあるところに住んでいる人は農家がありつきあいがめんどうだから嫌だといっているのもわかる
その人は農民ではなくトラック運転手だったり電気工だったり会社員になっていたからである。農民と協同する立場にないからそうなった
その人にとって共同しているのは会社だったのである。
ただ今は退職しているからその会社とは関係ないけどその農家のいる所に住んでいるから付き合いが嫌だと言っているのである。

ただこの仲間というのを深く考えると何なのか?
仲間内では協同しても仲間意外の人とは協同しないということがある
一つの村では協同しても他の村とは協同とはならない,利害で対立することがある
水争いとか木材資源の争いとかあった,そこで武士が加勢して戦争にもなった
ある仲間ができればその仲間内では協力するが外に対しては仲間でないから対立して戦争になる
そういうのも人間の歴史だった,部族同士では猿族とか犬族とかトーテムで形成されて仲間意識が作られた,でもその他の部族のトーテムとは争うことになる
仲間意識は必ずそうして仲間同士では協力するがその外に対しては協力しない敵対する
それで日本の村では閉鎖的でありよそ者を受け入れないのである。

この仲間意識の形成は仲間内では仲間と認めて協同するのである。
例えば今の会社だってそうである。同じ会社なら協同する関係で仲間である。
まず会社のために働くことは仲間のために働くことになる
地銀などでもまず自分たちの会社のために働くことが至上命令になる
どうしても利益をあげねばならない,だから手数料のとれる投資信託をすすめるのである顧客の利益も計ることは計るが会社の利益が会社の仲間の利益のために収益をあげることノルマが課せられている
顧客は損しても仲間(company)は損してはならないのである。
それはどこの会社でも同じだが会社意外の人をただ金儲けの対象としているとき自分たちがもうければいいとなるとき顧客から見離されることがある
顧客ともなんらか協同関係がないと協力してくれない,金はあずけないとなるからだ

そういう問題はいろんな場面で起きている,病院でも患者を仲間とみるのか?
ただ金をとれる人としてみるとそこでいらない薬を与えたりまた極端にるなといらない手術をして保険の点数を稼ぎもうける,病院にも医者にもそういうことはあり問題になる
患者をただ金をとるたげのものと見ればそうなる,仲間とみればそうはならない
その差は大きいとなる,例えば患者が友人だったりすればそういうことはしないからである。

要するにその人を仲間とみるか見ないかでその待遇も相当に違ったものとなる
ベトナム人が出稼ぎにくる,ただ安く使えるからと働かせる
でもベトナム人でも日本に来ればそれ相応の生活をしたいとなるのが人情である
それで盗むことや犯罪が多くなるのである。

ベトナム人は仲間ではない,働く道具である

そういうふうに見ている,これは経営者と雇う人と雇われる人の間でも起きている
雇う人が雇われる人をどう見ているのか?
ただ安くこき使い収入をあげれば会社の人達にとってもうけとなると見ているのか?
それは非正規と正社員の間でもあった,非正規は会社員で正社員でないから仲間ではないとかなる
仲間と認めるものと認めないもので待遇は相当に変わってしまうのである。

日本人は仲間だが外国人は仲間ではないから安く使ってもいい,日本人のような扱いにしなくてもいいというのも仲間と認めないからである。
ただ外国人でもスキルがある人は待遇が良くなるし日本人より良くなる
それは日本人にとって会社にとって利益になるからである。
ではたいして利益にならないベトナム人は最低辺でこきつかいばいいともなる
それは外国人でなくても日本人内部でも起きていることである。
だから誰を仲間とするかという問題も複雑なのである。

ただ現在のグローバル経済,資本主義は経済のために社会がある,社会が仲間意識だとすると経済が優先される,仲間のために経済が金が回っていない
そもそも誰か知らない人のために地球の裏側の人のために働いていれば物でも売り買いしていれどはそうなるのである。
例え外国から物が入っていいとしてもそれで仲間意識はもたないのである。
仲間意識は狭い範囲でしかもてない,福島県でも仲間意識をもっているのかというと広すぎるからもちにくい,それが全国になるとさらにもちにくいのである。
第一仲間意識をもったのは日本だったら村という狭い地域だったからである。

それで地元を良くするために地元で買い物しろ地元の商店で買いというとき地元は仲間なのだから仲間のために買いとなる
それからユニットバスを仙台の業者に頼んだら百万でできた,ガス屋では二百万かかると言っていた,ただ家に来ている人は建築関係者を知っていてそこに頼むべきだとしきりに言っていた,その人には庭作りなどをしてもらったからである。
それは地元の人は仲間のなのだから仲間のために仕事させろ金を使いということなのである。地元が豊かにならなければそこに住んでいる人も豊かにならない
そして病気になったり何かあったら地元の人に助けてもらうのだからそうしろ,仲間なのだからそうすべきだとなる
でもその人に頼めば三〇〇百万はかかった,その人の知っている大工はあとからあとから金を請求してきたからである。
仲間だからといって経済のためだけではせない,社会=地元とするとき地元のためだけに仲間のためにだけにすると経済の原理と反することになる
損害も受けるから金が三倍もかけて地元の人に頼むのかともなる
こういう問題も広域化したグローバル化した社会の問題である。
地銀に証券会社の人が出向して株や投資信託をすすめるのもそうである。
それは地銀の枠をこえたグローバル経済の中に組み込まれるからそうなる

地元を優先しろ,仲間を優先しろ

これが常に言われるがそうするとこういうい問題も起きてくるのである。

ただ仲間意識というのは会社だけではない宗教によっても作られる
カルト教団でもそこに所属して仲間意識をもつことはもつ,だから宗教の対立も同じ宗教だと仲間意識をもつがそうでないと深刻なの対立になるのである。
人間の対立はそもそもそうして仲間意識をもつ故に他の仲間意識をもつ人達と争いになる国があれば日本国意外の人とは仲間意識をもちにくいしそれは世界共通である。
グローバル経済は資本主義はただ経済の原理しかない,仲間など関係ないという世界である。これも一見いいようで失敗したのは人間はそうした経済だけの無機質的な物だけのやりとりのつながりに価値と意味を見いだせないからである。
イギリスはイギリスに生きてきたもののものであり外国人のものではないとかなる
外国人は仲間として認められないから移民はもういらないとなるのが世界で起きてきたのである。

つまり経済の原理だけで人手がたりないから人間を部品のようにもってくることはできない,まず仲間として認めないと人間は機械ではないのだから不満になるのである。
人間は必ずしも働く動機が経済利益の原理だけで働いているのではない
仲間のために働いているということがある,仲間と認めるから働くということがある
だからグローバル経済はそうした人間的なものを無視しているから失敗になるしそういう世界に人間は耐えられないのである。
だから経済のための社会はゆきづまり人間のための経済へと変換する
世界的市場でやりとりするのは無理だとなる

一円でも円高になれば百億もトヨタとかで損する世界は異常なのである。
そんな世界に人間はもう対応できない,それより内需型で安定している方がいいとなる
国内の仲間中心の経済がいいとなる,それは世界中で起きているのである。
アメリカだったら一体この国は誰のものなのか?
肝心のこの国を作った子孫なのに貧困化している,移民に職も奪われている
移民は仲間ではない,一時的に金を稼ぐだけの人達にすぎない,国が危機になっても協同しない奴らだとなる

現実に日本人でも韓国でも中国人でも日本で働く人は実は中国韓国の工作員であり何か緊急自体になったとき戦争などが起きれば日本で中国のために働くように法律まである
つまり中国人は中国人は仲間だけど日本人は仲間ではないとなる
だからスキルをもった優秀な人達でもそういう人こそ実は内部資料とか日本の中枢部に入るから危険だとなる
つまりその人たちは日本人ではないから日本のために尽くすわけではない,何かあったら戦争のようになったら危険分子となる
だからいくらスキルがあってもそういう人を安易に受け入れていいのかという警戒するのもわかる

だからここで問題になっているのは仲間とは何なのか?
日本だったら戦争のとき生死をともにしたから仲間である。
生死をともるするともなると強固な仲間意識をもつ
でも敵対するものは仲間ではないから殺しても平気だとなる
つまり仲間意識を強固にもつことはその外のものに対しては排他的になり殺してもいいともなる
それは別に国内でも起きている,カルト教団でもある団体組織に所属すれはその中では仲間意識を強固にもつが外に対して容易に敵対関係になる
そしてその組織や団体を批判するとその団体組織ぐるみでその人に対して攻撃する
それは宗教を誹謗するからだとかなるがそれだけではない,その団体組織内で強固な従属仲間意識をもつからそうなるのである。

いづれにしろグローバル経済は人間的なものから逸脱した経済の原理のみから成り立つからそれに人間は耐えられない,世界的にそんな経済で一体化することはない
むしろ一握りのものの利益のために働かせられているというだけになり崩壊する
そこに仲間などいないのである。金の道具としての人間がいるだけだからである。
金の奴隷として使える人間であり仲間のためになど関係ないからである。
それは金をくれと自分の家に来た人がそうである。
自分の家のために自分など仲間でもなんでもない,金をとれるものとしてしか見ていない近くに住んでいてもそうだった,そこでは完全に人間関係は断絶しているのである。
相手は金をとるものでありそれしか意味がないのである。
たとえ金持ちでも何か人間として交流がありうるからである。仲間意識だってつくりえるそれも一切ない,金あるものから金を奪えばいいとういだけの関係になる
だから金あるものから盗めばいい殺しても盗めばいいとしかならない
現代のグローバル経済は田舎でもその中に組み入れられているからそうなる
金のために経済のための社会であり他人であり仲間のための社会では経済ではないのである。そうなると仲間はいないのだから弱肉強食の社会となる
それは地獄にいるとなる,特に家族がいないものはそうなる







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2018年02月18日

人間の歴史は挫折の歴史だった (個人的にも挫折があり未来がある)


 人間の歴史は挫折の歴史だった

 (個人的にも挫折があり未来がある)


大鳥の飛翔の挫折

大鳥は
果てなき大空へ
その真澄みの空に
飛びたとうとする
大いなる志
大いなる野望
大いなる希望
大地に海に果てなし
大鳥よ
その翼を張れ
大鳥の志の良しも
そはストレートに飛び立ちぬ
あとをふりかえず飛び立てり
しかし大鳥のその半ば墜ちぬ
その志の良しも悲し
大鳥は墜ちぬ
されど大鳥は翔けぬ
かなたへと遠く高く
例え墜ちしも
大鳥はかなたに向かい
希望の地に向かい
幻となり翔りゆく
大いなる挫折
そは挫折にあらじ
次なる未来に向かう
次なる未来を作るもの
大いなる希望の飛翔なりしも
挫折を恐れざれ
高き大いなる志をもて
その実る必ず来たらむ


人間の歴史をふりかえるとき必ず挫折がある,すんなりと何でもうまくいかないのであるそれはあらゆる分野でそうなっている,政治でも経済でも科学でも技術分野でもあらゆる分野でそうである。
科学技術関係でも神話にあるようにイカロスが墜落がある

蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。

これも技術的なものの人間の奢りとして語られる,科学技術でもそれが発明され開発される過程で必ず挫折がある,そういう実験がつづけられて科学技術は発展してきた
常に挫折があり越えられない壁があり人間はそれに挑戦し続けてきたのである。
この神話が科学技術の奢りに対しての警告だったというのもわかる
最近では小保方が万能細胞を発明したとか話題になったがこれも実際にはなく研究の挫折だった,そういうことは他にもいろいろある,どこかで挫折してゆく
それは人間が万能ではないからでてある。
神は全能であり不可能なことはない,人間の力は神に及ばないからそうなる

政治的にも常に挫折がある,信長でも最期は本能寺の乱で野望は挫折したし秀吉でも朝鮮半島の征服は挫折した,政治でも挫折の歴史なのである。
二本の戦争でも敗戦してその野望は挫折したのである。
何かを目指しても必ず挫折する,そういうことは歴史にいくらでもある
そもそもいろいろ文明があってもその文明も最後は挫折する
例え長く栄えてもつづいてもいつかは挫折して衰退して終わる
エジプト文明でもローマ帝国でもマヤ文明でも挫折してその繁栄は終わる
挫折は宿命としてある,挫折は人間の成すことに避けられないのである。

津浪の被害でも原発事故でも大いなる挫折だった,原発神話が作られたがそれも事故で一挙に崩壊した,挫折したのである。
反れば文明の挫折にも匹敵していたのである
人間の成すことは挫折がつきものなのである。個人的にそうである。
例えば事業を起す人で成功している人は二〇人に一人なのである。
これからみればいかに事業に失敗した人がどれだけ多いかわかる
それは自分も実際にそういう人に接しているからわかった
事業を起こして成功している人はまれなのである。

では挫折したから何をしても無駄なのかとなる,個人的にも人間の成すこと挫折が多いから一層何もしない方がいいともなるからだ
ここで取り上げるのは北海道開墾に挑んで挫折した一人の詩人の猪狩満直である。
四〇歳くらいで北海道の開墾に挑んで死んだのである。
だから常に戦いだ,戦いだとして呪って死んだのである。

火のような呪いがある

そういって無念に死んだのである。そういう無念に死んだ人もまた人間の歴史では多い
なぜなら人間はそもそも挫折が宿命づけられているからである。
人間とは挫折するものだという宿命である。みんななんでもすんなりと成功などしないのである。キリスト自体が成功はしていない,十字架で終わって挫折して死んだとなる
偉人がいたとしてもみんな成功して終わるとは限らない,必ず挫折がある
ただ挫折があるとしてもではその人生とか科学の研究でも政治上のことでも無駄だったのかとなるとそうはならない
人間はやはり困難に挑戦して新たな未来を開いてゆく,それが人間の歴史だったからである。大航海時代でもやはり海を渡ることは最大の難関でありそれが成功したがそれで沈没したり挫折したものは多いのである。
みんなが挑んでも成功するわけではないのである。

人間はそもそもなぜ挫折するのかというと人間がみな死ぬということは挫折なのである。だから挫折が宿命づけられている,何をしようと人間は最後は死ぬのだから挫折なのである。そしてなかなか仕事でも完成できずに死ぬ
特に寿命が短い時は芸術家でも十分な成果は上げられずに死ぬ,啄木も病気で挫折したりと挫折が多いのである。
人間は百歳まで生きても最後は死ぬから挫折なのである。何かやり残したことがそれでもあるのが人間である。人間に限界があり挫折するのである。

だから挫折しても挫折がすべて無駄ととはならない
それより何を目指して何を残したのかが問題になる
それは挫折したからといってそれですべて無意味だとはならないからだ
かえって成功して失敗したともなるからだ
原発などは最初成功していて原発と共に未来ある街となっていた
その成功がかえって事故で挫折して無に帰したのである。

猪狩満直は北海道の開拓に挑んで失敗した,病気で挫折してもその目指したこと残したものがあり後世に伝えるものがあった
挫折したからといってそれで終わっていなかった
一方でこの辺では原発で成功したがあとで挫折して悲惨な結果になったのである。

こう考えると人間は何を目指すかが大事である,志が大事だとなる,動機も大事だとなる仕事でもその人の目指しているのは何なのか?それが問われる
ただ成功すればいいもうければいいというときそれが成功したとしても成功と言えるのかとなる,でも挫折しても失敗しても目指すものが間違っていなければそのことは時間がたって見直されることがある
確かにみんな成功を目指しているし成功しないものは認められない
でもその成功したことが悪いものとして成功することもある
カルト宗教団体などは大成功したがその成功したことが社会にとって悪であり害を及ぼすものにもなる,だから社会にとって成功が失敗だったということもある
事業をするにも何を目指しているのか志は何なのかということが問題になる
その人は事業に失敗したのは志もなにもない,ただ自分が頭がいい,有能だからそれを示したいためにまたはもうけるたげに事業を起こしたのである。
それが挫折したがもともと志も何もないのである。
だから失敗しても挫折してもそれだけのことだとなってしまうのである。
もしそこに何か高い志があればそうはなっていないのである。
例え挫折しても失敗してもそうである。

「心に青雲」のプログの著者都築詠一氏のように志を高くもてということは言える
この人の志は何であったのか?ともかく志をもっていてプログで語り死んだのである。
ここでもやはり挫折したのである。もっと語れることがあったが中途で病気で挫折したのである。
こういうことは人間である限りありふれていることなのだ
なぜなら人間の命は有限であり寿命があるのだからその内に何でもできないからである。だから大芸術家でもみんな未完に終わるのである。
何かもっと成し得たが成し得ないということで終わっているのだ
それが人間の宿命なのである。完全に成功しえるのは全能の神しかえないのである。
人間は挫折して失敗することに定められているのだ
だから問題は挫折することでも失敗することでもないのである。

猪狩満直は北海道に開墾に挑み挫折して失敗して死んだけど後世に伝えるものがあった
それを次の世代の人はくみとる必要がある
農業しか仕事がない時代であった,でもなぜ今農業が無視されているのか?
原発があった周辺でもそうである。それは全国でそうなったのが時代である。
だからこそ原発が建てられたのである。
そこで確かに成功したのである。収入も多くなったが結果的には故郷に住めなくなったのである。
農業などで暮らしていけるか,農業など誰もやりたくないと金にならないとしていたのである。だから農業をそれほど軽視することが拒否することがそもそも間違っていたのかともなる,みんな現代の贅沢を享受したいとなりそうなった
でもそこに落とし穴があった,原発の危険性はその甘い誘惑に無視されたのである。

ただ人間は誰でも楽をしたいのである。求めて苦しむ人はいないのである。
猪狩満直でも三野混沌でもそうである。それは時代で強いられたのである。
一方で山尾三省は求めて苦難に生きて六二歳で死に妻はもっと早く死んだのである。
そういうことは何か不自然に見えるのはやはり人間は強いられてしか苦しまないからである。みんな楽な道を選ぶのである。
なぜこの辺で避難区域になったところに若い人でも脱出したのかというと楽な方を求めて去ったのである。それは時代であり誰も強いられなければ苦しむのは嫌だからである。
楽な道があればそっちの方を人間は選ぶからである。
ただ楽なことだけを求めて未来が開けるのかというとそれはわからない
長い目で見ればわからない,そうして苦しんだ人は未来を開き後世の人から見直されてその価値を高めるかもしれない,一方で楽な道を選んだ人は後世の人からどう見られるのかそれは時代が変わると価値が変わるしその人生は評価されないとなる
三野混沌などはあれだけ苦しんで来てきたのにさらに最後に困難な道を行けと遺言している
たいだいこれ異常御免だとなる,猪狩満直の場合は若くて死んだから呪詛になっていたのである。

それで人間はいろいろ仕事していても未来に通じているのか?
後世の人に評価されるのか?
そういう視点から仕事しているのかとなると目前の利益だけを求めている人が多いのである。それは今の時点で成果となり利益となり評価されるが未来に通じているのか?
それはわからないのである。かえって成功して失敗していることがあるのだ
それは成功しているが故に失敗しているともなる
だから未来を見据えて仕事することが肝要にもなるが若い人にはそれが見えないのであるただがむしゃらに成果を上げる利益を上げることに費やされるのである。



タグ:挫折の人生

北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道原始のままに飾らずにますぐに太く立ちにし樹かな

高きより滝の落ち来る新緑の巌に映えて層雲峡かも

自由なる旅人一人北海道の郭公の声かなたにひびけり

北海道大地の広くその空に郭公の声ひびきわたれり

底までも澄みにけるかな山上湖原始のままにけがれなきかな

北海道流れの清く蕗の薹芽吹きけるかなその数多しも

アイヌの顔彫りの深しも哀しかなその民滅び和人となりぬ

きれぎれのアイヌの言葉残りしも継ぐ人なくて絶えにるかな

ここにしもアイヌの民の物語深くも尋ぬ人は少なし

ラベンダーの中に揚羽舞い来たりひそみ長くまた飛びたちぬ

ラベンダーの紫つつむ富良野かな鉄路の長くまた旅たちぬ

大いなる挫折にありや大鳥の半ばとびたち墜ちにけるかも



北海道は十回くらい行っている,これだけ旅するには勤めていてはできない
自転車でも何回も行っているからだ,だから北海道はほとんど回っている
一番長い旅は苫小牧から宗谷岬をめぐり稚内に行った時だった
その時六月で稚内に桜が咲いていたのである。

その時はまた郭公がどこまでもひびいていた,その声がひびきわたる大地の広さがいいのである。
北海道の良さはまだ全体的に原始性を残していることなのである。
原始的な清純な自然に触れることなのである。
それは本州とかなるとそこには確かに自然があっても全体としてはどこもないのである。北海道は全体として原始性が残されている,それが魅力なのである。

アイヌも住んでいたからそこに物語も残されているから深く尋ねれば興味深いものとなるただアイヌ語はもう死んだ言葉だし不明となっている
それでも彫り深い顔だちの人がいてその人はアイヌの末裔なのかと見る
その顔はもしかしたら西洋的というか何かそっち系統の顔なのかもしれない
縄文人とつながっているのかどうかは不明である。
言葉の痕跡として動詞が主語によって変化するとかあり英語などに通じるものがある
アイヌ民族の謎は未だに解明されていないのである。
アイヌが存在したということ,それも歴史だったということを日本史の中に記されるべきなことは確かである。

北海道の開墾に入り猪狩満直は挫折した,でもその人を考えるとそれが大いなる挫折だったということである。
その挫折には意味があったなと思う,啄木も挫折したがまた猪狩満直などは違う
啄木は注目されているが猪狩満直などは詩人としては注目されていない
三野混沌などもそうである。
その当時は農業中心の社会でありみんな農業で生活をたてるほかなかった
それは戦後の戦争の引揚者の時代までつづいたのである。
だから戦後の引揚者が入った場所がいたるところにある
この辺でも山には必ずそうした引揚者が入って開墾した場がある
それは全国的に仕事がないからそういう場に入ったのである。
北海道でも農業中心の社会ではそうなったのである。
だからそういう時代だったとなる,時代の犠牲になったともなる
戦争で犠牲になったのと同じである。

ただ挫折したからといって今考えるとそれが無意味だったとはならない
それは大いなる挫折だったのである。北海道の大地に挑み挫折した
それは大いなる挫折でありその残したものが何なのか考察する必要がある
挫折しても大いなる挫折でありそこに未来に残すものがあった

そのことはこの辺で原発事故で前にも書いたがみんな原発にかかわる人が本当にこの辺では多かった,南相馬市でもそうである。この人も原発にかかわったのかと新たにまた知った,それだけ原発の影響はこの辺で大きかったのである。
飯館村の人も原発で働いていた,川内村は近いから三分の一が原発で働いていたのであるそれで実際は村が成り立っていたのである。飯館村はそれほどではなかった
だから一番福島県で低所得だったのである。

そして小高に住んでいた人が子供のとき親から農業だけがするなと殴られたという
それだけ農業は過酷だったから経験でそう子供に言ったのである。
その子供は原発と建築関係で渡り働いたのである。
その原発があったことが事故後は仇となり生活そのものを見直す結果ともなった
でも事故後も補償金でもめたりただ補償金だけが頼りとなり分裂したのである。
水俣でも公害があっても分裂したのは補償金のためだったと書いてある
だから三野混沌とか猪狩満直などの農民詩人が見直したのである。
その人たちの後世に残したメッセージは何だったのかとなる
それは大いなる挫折であり後世にメッセージを残したことに気づいたのである。
それは宮沢賢治でもそうである。農業は過酷でありそこに戦ったのが挫折したのである。その挫折した歴史に教訓があったとなる

ともかく北海道に十回も行ったし北海道にひかれる、だからもう北海道は第二の故郷だともなる,外国旅行しても何か原始の自然に触れることはなかなかできない
やはり歴史とか文化を都市中心に見るからである。
ただネバールには驚いた,犀がいたというのも驚きである,象でジャングルに入り観光する,つまりなぜネバールにジャングルがあるのか驚きだった
あそこには原始的自然がある,人間も高地を裸足で歩いていたのである。
ボールペンをくれというときそこにはそういうものも売っていないのである。
だから原始的な生活があり自然がありヒマラヤの高峰を望む所に生活しているのも驚きである。
そこで現実に生活するとなると過酷だとなる,それは北海道とにているのである。
中国の帰りの船で一緒になった若い人はモンゴルで羊を飼うことを習うために一年間くらい一緒に暮らしたという
冬になると一間回り痩せるという,それは冬の生活がそれだけ厳しいためなのである。
その人は北海道で羊を飼って生活をしている,羊を飼うことを広めたいと言っていた
農業大学出身だった,その人がNHKのテレビでドキュメントして放送していたのである。
その後はどうなったかわからない,でも恋人が一緒に船にいてその後結婚して子供も何人かいて生活が苦しいとテレビで訴えていた

何か自分は東京が大学時代いたけど嫌になった,それから自然志向で北海道に旅したのである。
だから自分は北海道のような所で死にたいとまでなる,東京のような都会で死ぬのも無惨である。北海道のような所に死んだら本望だ気持ちいいとかなる
つまり生きたい場所が死にたい場所なのである。東京などに生きたくないということは死にたくもないということなのである。
ただ自分の場合は遊びだったから猪狩満直のように呪いにはならない,ただ旅した思い出だけだとなる,それで思い出す旅をしているのである。






タグ:北海道短歌
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2018年02月17日

北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道美し厳し一詩人命短く呪いつつ死す

開墾に挑むも成らず捨てられし家そちこに北海道かな

タンボボのまばゆく映えて草原や真昼間に鳴く雲雀のひびきけり

煙吐く十勝岳かなボプラの木丘にますぐに草萌えるかな

煙吐く樽前山に藪萱草放牧の牛たむろするかな

針葉樹厳粛にして北海道の大地の広く国を成すかも

トドマツの太くもあれな大雪山残れる雪や層雲峡見ゆ

北海道針葉樹林の黒々と打ちひびくかな原始の山見ゆ

沼一つ宗谷の果てや隠されて森の影深く陽の写し輝く

霧深く陽の輝くやこの辺りいづこやキタキツネの現れ消えぬ

霧流るえりも岬に菖蒲咲きその霧深く隠しけるかな


おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

移住民(猪狩満直)


猪狩満直は四〇歳くらいで北海道の開墾に入り肺病で死んだ,絵も描いていたから相当に才能があった,でも厳しい開墾で病に倒れた,だからしきりにこうして呪っていたのである。
まず開墾となれば旅ではないのだから厳しいのである。
だから北海道にはそうして捨てられた家がそちこちにある
みんなが成功したわけではない,挫折した人も多いのである。
猪狩満直は北海道の厳しい自然と格闘して敗れ死んだのである。

北海道には本州と違うのはまだ原始的自然が残っている,それが北海道全体で感じる
北海道に入ると本州の空気まで違ってくるのである。
だから自分は十回も北海道をさまよい旅したのである。
その記憶もあいまいとなっているがこうして時々思い出して短歌と詩にしている

例えば福島県でも長野県でも県単位だと一つのものとして見れない,岐阜県の人とあったけど名古屋が岐阜県だと勘違いしていた,岐阜県はどういう地域なのかイメージできないのであてる。福島県でもそうである。ハマ,ナカ,アイヅで気候が違っているからである地形も違っていて一つの県としてイメージできない
北海道は広いのだけど一つの国としてイメージできる
そこはいろいろあるが一つの北海道として見る
そこには荒々しい原始的な自然を感じる,だから北海道に船で苫小牧から上陸したとき違った世界に来たとその時感じたのである。

旅の記憶をたどると宗谷岬に行く途中にカムイト沼がありここは本当に神秘的である。
原始の自然の沼である。こういう沼は本州では見れない,なぜか?
本州では人が住んですぐ近くに村でも町でも都会にもすぐ出るからである。
ここは町とか村でも離れていて家も少ないから自然のままなのである。
宗谷岬当たりは本当に人家もまばらだからである。
そこにはハクサンチドリとかの高山に咲く花も咲いていた
北海道には高山植物が寒いから咲いている,それが魅力的なのである

十勝岳は美瑛から見える,北海道には今も煙を吐いている山がある
樽前山もそうだった,だからここにも原始的なものを感じる
やはり北海道の魅力は北国の自然でありそれが厳粛なのである。
南国と北国でも自然が違っている,針葉樹林でありトドマツとかであり太いし荒々しいという感じになる,ドイツの黒い森とにているだろう。
そこは樅の木である。樅の木でも飯館村の奥に隠されていた樅の木には感動した
二本とかあったが太い樅の木だった,一般的に樅の木はあるがあのように太い樅の木は見ていない,同じ樅の木でもいろいろある,飯館村は森の村なのである。
この辺はまだ森がある,海から森へと通じる自然がある,ただ山はないのである。

こうして思い出す旅をしているのも介護が終わり余裕ができたからでもある
何か思い出すにしても時間と余裕が必要なのである。
介護しているとそういう余裕すらなくなっていた
冬はこうして思い出す記憶をたどる旅に向いているのだ
ストーブにあたたまり思い出す旅をしているのである。
ただ旅ももう何か終わったという感じにはなる
何か介護十年して消耗して疲れたのである。
だから旅する気にもならなくった,そのエネルギーもなくなったのかとなる


カムイト沼
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安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ (日本の中世の混乱の時代とにている?)


安定の時代は終わり不安定と混乱の時代へ

(日本の中世の混乱の時代とにている?)

村共同体→武家共同体→国家国民共同体→会社共同体→グローバル多国籍企業共同体→

共同体は時代と共に急激に変化した,もともとあった共同体が破壊され新しい共同体になる,その時の変化が大きかったし心理的にも相当な変化であり不安定なものとなる
そこで顕著に現れるのは今までの職を失うことである。
職を失うことは一番社会でも不安定になる,高度成長時代は職を失うということはまれである。中小企業でも安定していたのである。
今は大企業でも安定していない,というのはグローバリゼーションの中で経済が動けば世界の動向に左右されるから不安定になる
その中で熾烈な競争が強いられるし安定しないのである。
だから為替でも一円でも上がったり下がったりするとトヨタでは何百億とか損失になるとかなる,そのこと自体が常に変動する世界であり安定しないのである。
何か北朝鮮のような所で問題が起きるとすぐに株は下がり不安定化する

働き方もフリーターとかパートとかが常態化している,その日暮らし日銭稼ぎのような人が増えてくる,それは会社自体が安定していないからである。
今までなら大企業でも中小企業でもそこに勤めれば一生勤めることができた
そういう社会は安定していたのである。
だから高度成長時代は人心も安定していた時代だったとなる
フリーターとか派遣とか非正規労働者はまれだったのである。
自分のような人は特別な例外だったのである。
それがそうしたフリーターとか非正規,その日暮らしの人が常態化した社会となった

何かそうして急速に社会が変わる,それに追いついていけない社会でもある
銀行が地方でも最も安定した職業だと見られていたのである。
それが地銀が消失するとか危機になっている
それで銀行員が必死に投資信託をすすめる,もう背に腹をを代えられないからしている
それは手数料ばかりとられるもので素人は株とかではもうけられない仕組みになっていたのである。
ただ銀行は信用できると思い銀行員にまかせたのである。
そういうふうに時代が急速に変わるから追いつけないのである。

そういう変化は中世に平家の時代や鎌倉時代に起きたというので今の時代とにているというのも共通性があるのか?
その時代に海運が発達して物の流通が活発になり宋銭が出回り物価があがり庶民が苦しんだ,そこで商工業者が勃興してその人たちは社会を牛耳るようになるとモラルが頽廃したそれで親鸞などが生まれそういう悪人でも往生できるとか説いたという説もそうなのかと思う。
現代も異常に金の力が社会を席巻しているからである。
どの顔を見ても金が欲しい金から離れられないものとなっている
金のことしか頭にないのである。

自分の所に来た人もみんなそうだった,金をくれと家に手伝いに来た盗む女性がいたり事業じ失敗して自分が苦しんでいるのも関係なく借金しているから脅迫するようにもなる
銀行までが窮地に追い込まれているから投資信託で手数料をとる商売になる
それは社会全体で起きている現象なのである。
人間=金となった時代である。

そして海運が発達した結果投機的になった社会だとうい「二一世紀をどう生きるか」野田宣雄氏の見方は興味深い
海運は投機的である,沈没したりするからである。船が沈没すれば投資してもその見返りはゼロになるからだ,それは株の投資ともにているし資本主義がそういう船への投資から始まったという説もうなづける
オランダがそうした海外貿易で栄えたのもわかる,それで金余りになり最初のバブルが起きた,チューリップバブルが起きたのである。
オランダはだから最初の資本主義国家を具現化したともなる
オランダにはユダヤ人が集まりそこで金融が発達したというのもわかる
大航海時代はそうして船への投機がありそれでヨーロッパに富がもたらされたのである。植民地経営でも莫大な富がヨーロッパにもたらされたのである。

時代が変わるともともとあった共同体が破壊される,消失する,国家国民共同体が戦争で破壊されて会社共同体になった,高度成長時代があり社会は安定していた
でもその会社共同体がゆらぎ消失してゆくと不安定な時代になる
フリーターとか非正規労働者が常態化する,その日暮らしになり格差社会化する
そういう不安定な社会では犯罪も増えるはずである。
ただ犯罪自体は増えていないがモラルは荒廃してゆく
金のみが価値になり親子の間でも財産だけが欲しいとなり親は捨てられる
世界的にも金を求めて人も物も移動する,移民労働者も不安定な社会に拍車をかける
今はベトナム人が最底辺で働いているが犯罪が多くなっているのでもわかる
どうしても日本に来れば金がかかるからそうならざるをえないのである。

人間は清貧などには一般的にはなりえない,恒産がなければ恒心がないというのが普通である,何か安定して収入がなけれは人間のモラルは荒廃するのである。
田舎では特にそうなのである。土地とか家とか何か他に田畑とか恒産がないと安定しないのである。今までは銀行などは安定した職場だったのである。公務員は今でも安定した職場である。それすらこれからゆらいでくるから不安定になる
そういう社会はモラルが荒廃してゆく,すでに荒廃している
みんな真面目に働かなくもなる,投機でもうける株でもうけるのがいいとかなる
FXとかで利ざやを稼ぐとかなる,それは労働倫理が社会的に消失していることなのである一攫千金がいい真面目にこつこつ働くことは馬鹿らしいとなっているからだ

そうしてモラルが荒廃したから親鸞とかが他に新宗教が生まれたというのも現代とにているという。
もう一つの見方として今までの安定した共同体が破壊されることである。
では新しい共同体を作れるのかというと簡単にはできない,当分混乱状態になる
なんらか中世の混乱時代,戦国時代のようになる
すでになっている,もう安定はないのである。
だからこれから生きる人は若い人はその最初から困難を強いられているのだ
高度成長の団塊の世代は最初は貧乏だったけどその後は安定していたからである。

ただ中世にもどるというとき中世とか江戸時代とかは閉鎖された社会でありそこで安定したと見る,資本主義やグローバル経済とは違い内需だけで生活していたと見る
だからグローバル経済に影響されないから国内で安定してモラルが形成されるとなる
江戸時代はそうだった,貧乏でも外国人が来て言うようにみんないい顔していたとかなるそれは国内経済だけで安定していたからである。貧乏であってもモラル的に安定していたからである。侍でも庶民でも食べるものはさほど変わらない,平等だったということも日本ではあり安定していたのである。
身分社会でも安定した社会が形成されていたからモラルもありえた
現代のように金だけに価値をおく社会ではなかった,金がこれほど価値があるようになったのはやはりグローバル経済とか社会に物があふれ豊かになったからである。
農業中心の社会では米が貨幣であり貨幣そのものがすべての価値ではなかったのである。

いづれにしろこれからは混乱と不安定の時代である。
その中で生きることは容易でなくなる,アメリカが衰退して中国にどう対処するかなども大問題であり日本は危機と困難の時代に突入したのである。
この辺は原発事故で困難に直面した,その解決はなく混乱している
津浪原発事故はそうした時代の変化のときに起きた,だから日本の中世の混乱期とにているとなる

こういう時代に人間の心境はどうなるのか?

なるべく早くこの世を去ってあの世に行きたい
成仏してあの世に行きたい,極楽に行きたい
念仏を一心にあげることが救いだ
それしか望みはない

そんな心境になる,自分も早くこの濁世を去ってあの世に行きたい,天国に行きたいとなる,それが望みだとなる,老人になると先が短いとういことで余計にそうなる
ただ若い人になると欲望が強いからそういう心境になりにくいのである。
いづれにしろ鎌倉時代に念仏とか法華経とか普及したのは時代背景があった
要するにそれだけ混乱して乱れた末世であり宗教に救いを求めたのである。



タグ:二一世紀
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2018年02月16日

グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ? (国家を越える共同体を作ることができないから)


グローバリゼーションの行き詰まりはなぜ?

(国家を越える共同体を作ることができないから)


人間の歴史は何か?道具を使う人間,ホモファーベルとか言葉をもつ人間とかいろいろ見方がある
重要なことは見方として人間の歴史と共同をめざす歴史だったとういことである

共同するために歴史は変化して作られてきた

言葉でも英語だったらcoがつく言葉が多い,それは共同という意味なのである。
日本語だとあうというのが語尾につく,・・・・しあうというのは合わせるという意味であり合わせるということは共同して生活することなのである。
人間の歴史は共同するための歴史だったとなる

まず家族がありそこに共同の基があり発展する,強力な有力な家族が国家の基礎にもなる家族は今でも変わらない人間の共同体としてある
ところが共同するにしても人間の社会は常にその共同体を破壊することで社会が変化した進歩したとなる
進歩というとき技術の進歩に着目するがそれとともなって共同体が変化することなのである。
共同体は常に家族が基礎にあってもより大きな共同体へと拡大して変わる
その大きな共同体を作る時,これまであった共同体が破壊される
だから歴史をふりかえれど共同体の破壊が歴史だったとなる

共同体を破壊して新しい共同体を作ることが歴史の進歩だった

歴史が変わるとき必ずもともとあった共同体が破壊されるからである。
家族があり村があり村には群れるという意味であり狭い範囲の共同体である。
それが国(くに)となるとクニは区切るからきていて境界をもうける
そしてそこが国となる,ただその国にしても今の国家とは違い規模が小さいのである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

国はそれなりに広い範囲だが何かそれでも自然の中に区切られた一地域なのである。
オクニはどこですかというとき今は県になるが前は藩だった,会津藩とか仙台藩とか相馬藩とかなる,そこが国だったのである。

国が大きくなるとき必ずこれまであった共同体が破壊される,大和王権になるとき蝦夷制服があり蝦夷という大和王権に反抗する共同体は破壊される
蝦夷共和国などと榎本たけようが函館の五稜郭で宣言したのはそこに新しい共同体を作ろうとしたためである。
蝦夷というときそこに一つのまとまった国は国家はなくても蝦夷と言われる共同体が存在したともなる,それはアメリカだったらインディアンが原住民がいてそこに共同体があった,でも異民族の侵入でその共同体は破壊された
蝦夷民族もそうした原住民もいたしその他大和王権に所属したくない人達がいたのであるでも大きな共同体,国家を形成するときそうした共同体は破壊される

これは常に人間社会であったことなのである。
わかりやすいのは江戸時代から明治になるとき侍という階級がなくなったことである。
侍というのは当時の支配階級であり共同体である。そこに侍の文化が歴史の中で作られてきたのである。
江戸時代は身分社会であり固定した社会だから金だけが通用するような社会ではない
身分として人は生きていたのであり金があってもそれが力を持ち得ないのである。
そして侍階級が明治維新で破壊されたとき日本は古代の天皇の臣民になった
天皇によって日本を再統一したのである。
その時ヨーロッパで起きた市民革命とかはない,貴族階級を庶民が倒すということはなかった,侍同士の戦いで侍階級をなくした戦いだった
それはヨーロッパから見ればありえない革命だったともなる

侍階級がなくなったとき日本の共同体は国民共同体に変貌した,でも国民という意識がないからそれは作られ必要があった
西南戦争で政府軍が国民軍を編成して侍の集団に勝ったことにより国民の意識をもったのである。政府軍はもう侍も混じっていたが平民主体となりそれは国民軍だったのである。国民という共同体がそこに生まれたのである。
国民というのもはもともとあったものではない,確かに日本人というのは存在した
日本語を話す人々は存在して日本民族は存在した
でも民族と国家は国民は違っていたのである。国民は歴史の中で新たに作られたものだったのである。
それは世界的に国民が形成されて今度は国民同士が戦いになったのが第二次世界大戦だったのである。

そして日本が目指したのは大東亜共栄圏である,それはやはり日本だけではない大きな共同体を目指すものだったのてある。そのためにもともとあった共同体を戦争で破壊するのである。
でもそれは挫折した,国家とは何かというときそれは歴史的に作られてきたのもであり必ずしも同じ民族ということではない,外国で民族が入り交じるからである。
国家と民族は違っているのである。
人間はより大きな共同体を目指すために歴史がある,そこでは戦争もある
戦争だけではない商業とか貿易はより大きな共同体を目指すものとしてあった
だからハンザ同盟とかは貿易のために商人が作った国家なのである。
それは今まである封建国家と対立する存在ともなる

戦前は強固に国家共同体があった,戦後は日本はアメリカに負けてその強固な国家共同体が破壊された,そして新たな共同体になったのが会社であり企業である。
企業戦士というのでもわかる,国家に忠誠を誓っていたのが会社に忠誠を誓い猛烈な企業戦士となり高度成長時代を築いたのである。
その時国家共同体は希薄化していた,何かいくらナショナリズムを煽ってももう一つ戦前のようにならないのは共同体が歴史的に変わってしまったからである。
ただ民族とか国家は共同体として根強く残る
なぜなら中国であれロシアであれアメリカであれヨーロッパの諸国であれ国家は残っているからだ,その間でまだ戦いがある

でもそうした国家とか民族を越えた共同体を目指したのがグローバル経済である
地域とか国とか人種とか関係なくグローバルに人も物も行き来する社会である。
それもまた国家を越えた共同を目指すものだったのである。
その時国家とか民族の共同体が破壊されるのである。
でも結果的には国家とか民族は強力であり反発がヨーロッパでもアメリカでも起きたのである。
グローバリゼーションというのは世界的人類的共同体を目指すものだったのである。
civilizationは文明でありその基は技術ではなくcivil(市民)なのである。
その市民は城壁に囲まれた市壁に囲まれた中での市民のことである。
でも文明とはより大きな共同を目指すものでありその基に市民があった
それはヨーロッパの歴史から生まれたのである

歴史でもエジプト文明とかマヤ文明とかローマ帝国とかあればそれは大きな共同体を形成した文明だとなる。
その大きな文明を共同体を形成するものとして共産主義がありマルキシズムの思想を基にして生まれた,これも資本主義とは違うようでグローバリゼーションとは違うようでも同じだった、なぜなら人種とか国家を越えて共同を目指したからである。
世界のプロレタリアートよ団結せよというときそうである。
それは民族とか人種とか国家を越えたものとして思想が普及して実現したものなのである
ただこうしたグローバリゼーションがゆきづまっているのはなぜか?
そこに共同しえないものとしての壁がありそれでかえってイギリスで反抗してアメリカですら反抗してナショナリズム的傾向になったのである。
経済だけで国は形成できない,国は歴史的に形成されたものでありそれを無視してもできない,国家を越えて民族を越えた共同体の理想は挫折する
グローバリゼーションとか多国籍企業は国家とか民族がない経済中心の共同を目指しているのである。
そしてそのグローバリゼーションは金だけに支配される世界となる
そこでユダヤ人は金融で支配しているとか陰謀論にもなる
ユダヤ人は国を土地をもちえなかったから金融が発達したとなる

グローバリゼーションが失敗したのは人間は経済だけで金だけで共同できない
何かそこには経済だけではないもの,共同するものが必要なのである。
それが宗教であったり民族の文化であったり歴史であったりする
そういうものを破壊して成り立つ経済だけのグローバル経済社会は人間社会にとって不可能だったとなる
それを理想としてありえない,異常な世界とも化していたのである。
世界の富がわずかの人に集中して格差社会が生まれたのもそうである。
共同を目指すならそんな極端な世界はありえないからである。
グローバリゼーションは共同することに失敗したのである。
それは経済だけを中心にしてグローバルを目指したからである。
資本主義のゆきづまりも同じように経済の論理だけでは世界は共同を目指すことができないということである。
共産主義でもその思想は経済だけの論理であり人間が生きるのは経済だけではない
様々な要素があり文化かあり歴史があり生きてきたからそれを無視することはゆきづまるのである。その文化とか歴史は人間的なものであり金だけが非情に支配する社会とは違うのである

身近なことでは例えば地銀が消滅するというとき今地銀には証券会社が入ってきている
証券会社がしていることはグローバリゼーションの経済である。
世界的に金が流通する株式の世界である。でも地銀はもともと地域に根ざし金融だったのである。それがグローバル化すると金が世界を流通するのである。
それで投資信託をして何か違和感を自分は感じたのである。
それは地域に住むものとは関係ない所で金が動いている,もうそこは人間的感覚からはずれた世界になる,経済でもそういうふうにグローバル化するともう人間の感覚から隔絶した所で動き何かその実体もつかめないものとなる
ただグローバル化とはそうした地域的なものを破壊するのである。
多国籍企業が一つの国家のように巨大になると国家でも地域でも破壊される
でも多国籍企業に所属して共同体を形成できるのかとなるとできない
なぜなら多国籍企業とは何か一部を作り生産して売るものである。
車であり薬でもそうだがそれは社会の一部であり全体ではないのである。
国とか民族とかはそうした一部を部品を作るものではなく全体のことだからである。
それは風土と一体化して作られてきたのもである。
そこに国があり故郷があるとなるからだ
そういうものを越えて一企業に所属して人は共同できないしそうあるのが人間としてあるべき姿なのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

会津嶺でもそうだが山が国の象徴としてあるのは日本的だとなる、山に固まれた国が日本には多いからである。
そこは経済的要素だけではない,美しい自然がありそこに囲まれた国がまほろばであり故郷なのである。
だから東京が首都でもそこにはまほろば,国はないのである。
ただ経済的な膨張した都市でありそこにあるのはやはり経済的なものだけになり殺伐としたものになる,そこに文化もないし文化も起こらないのである。

グローバリゼーションの資本主義も共産主義もゆきづまり失敗した
それは当然だったのである。文化とか歴史とか自然をとかを無視して来たのだからそこに共同はありえないのである。共同は経済だけでは成り立たないのである。
世界的共同を無視するというのではない,経済だけが金だけが唯一の価値となり世界を支配する,それはドルが支配することでありアメリカが支配することに通じている
ただ人間の歴史は共同を目指す歴史でありそのことはやはり以前として追及されるが経済的なものだけを追及しても挫折するのである。
それは資本主義でも共産主義でも同じでありゆきづまるのである。


故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

ここで考察したように市町村合併でうまくいかないときより大きな共同体として結合したが原発の補償金問題などで分裂したのである。
金というのは人間を分裂させる,原発避難民が金があるからいわき市などに家を次々に建てた,それも数が多いからもともといた住民は迷惑になった
なんであいつらが家を建てられるのだ,こっちは元から住んでいるのに家も建てられないのにとか不満になった,金が万能の社会はそうしてその土地の歴史でも文化でも破壊する消費者が王様だというのもそうである。
そういう金だけに支配された現代のグローバル経済の歪みがあちこに出てきている
人間は共同を目指して歴史的に進歩してきたというとき金だけの経済はゆきずまりグローバリゼーションもゆきづまる
金は何か暴力的でありそれだけに価値を置くと社会でも世界でもゆがめるのである。
金はあくまでも流通の交換の手段であったがそれが人を何か暴力的に支配するとなる
その矛盾が格差社会となり人々のモラルも崩壊してゆく
それは世界的なことでありグローバリゼーションの実験は挫折したともなる



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故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)


故郷意識国意識とは何なのか?

(南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

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冬の樹の真澄の空に今日も立つ故郷に根付き支え立つかも

故郷意識とか国意識とかはそもそもどこから作られてきたのか?
それは自然に生まれたのではない,歴史の中で積み重ねられて作られてきた
相馬藩だったら戦国時代から相馬氏が支配するようになって作られてきた
それは支配者から上からおしつけられて藩民の意識が醸成されてきた
政治行政的なものとして作られてきた
国家でもそうである。政治権力とか行政として上から支配者によって作られてきた
最初の大和王権でもそうである。それは武力により蝦夷を征伐して作られてきたものである。
でも何か故郷というときそれは何なのか?
それはそうした上からおしつけられるものとは違うもともとその土地に住んで醸成されたものである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

このクニはそういう政治権力とも行政単位としての国ではない
会津という国に住んで民の中から生まれ作られてきたものである。

古代でも郡とか置かれたときはそれは上からの行政の区割りであり故郷という感覚ではないし国(クニ)という感覚でもない、オクニはどこですかというときそのクニは必ずしも行政的区割りではない,村というのは緊密な共同体であり行政的な区割りとは違うのである
一番わかりやすいのが家の共同体である。だから故郷というとき家の共同体から発しているのかもしれない,故郷の故は故ある地というとき血縁の地ということもある
でも日本では血縁よりその土地に重きをおいて生活してきた
だから日本人の姓は必ず土地に由来しているのである。
必ず姓をたどると村の土地の名に由来しているのである。
つまりその土地に土着してその土地の地名を姓にしている
外国では血縁をたどるのであり土地の名を姓にするのではないからだ
そこに村の共同体があり日本人のアイディンティティがあるとなる
血縁より地縁の方が大事だったとなる

故郷意識は明かにその土地に根付き家をもち生活をはじめたとき起きてくる
そこに父母がいて祖父母がいてと家族がいて故郷意識をもつ
だからヨーロッパでハプスブルク家が発展して大きな帝国に発展したことでもわかる
家が国の基となっていたのである。
有力な家が権力をもち国を作る,それが国家となる,だから家が強固な共同体でありそれが大きな国の共同体となる,そういうことは人間の歴史にあっても不思議ではないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

自分の家も姉の同級生の橲原(じさばら)の人に木材を切ってもらい柱にした
その柱のことを良く自慢していたからわかる
その土地のもので作りその土地の大工が作りそこに住むことで家意識が生まれ故郷意識が生まれる,その土地に家をもつことは土着することになる
木のように根付くことになるからだ

共同体とはそうして作られてきたものなのである。
civilzationとはcivilとは市民のことだからである。文明は市民によって作られてきたということはどういうことなのか?
それはヨーロッパでは塀に囲まれた中に外敵から守る市民共同体を形成していたからである。そういう歴史があったということである。
イタリアでフィレンツでも他の都市でも国家と同じであり戦争もしている
日本だと藩同士が戦争しているがヨーロッパでは市同士が互いに敵となり戦争していたのである。そこでマキャベリの思想が生まれた
その辺の歴史がわかりにくいから日本では市民というのを理解できないのである。

共同意識が歴史的に作られてきたというとき日本には日本国民という意識がなかった
それぞれの藩の中で暮らしていて藩の意識があっても日本国民の意識がなかった
その国民意識が作られたのは明治維新後のことである。
それは西南戦争によって国民意識が作られたのである。
武士階級と侍でない一平民が一致して政府軍となり戦ったことにより国民軍となり国民意識が生まれた,国民意識はそれから対外的に戦争によって強固なものになった
日清日露戦争に勝ったことにより国民意識がさらに強固になり太平洋戦争で国民が三〇〇百万人が国のために犠牲となり死んだのである。
その国民意識は日本だけではないフランスでもドイツでもヨーロッパでもなかったのである。ナポレオンが出てきてフランス国民意識が生まれた
国民というものも実際はもともとなく歴史的に作られたものなのである。

日本は戦争で負けてそうして日本という国民意識も失われた
そして今度は高度成長時代になり企業戦士とかなり会社共同体意識になった
会社が最も重要なものとなった,会社に生涯所属すれば自ずとそうなる
その会社の共同体意識も今度は社会が変わり会社が倒産するとかなくなるとかなると
共同意識もなくなる,銀行なども地方では安定した職業でありエリートだったが今は消えるという危機にまでなっていた
そうなると会社に所属してもそこで共同意識はなくなる
これまた時代の変化であり共同意識もそこで変わってくるのである。

ただなぜ原発避難地域では放射能の問題があっても簡単に故郷が捨てられたのか?
それはやはり故郷でも村とかの強固な共同体意識はすでに失われていた
田舎でも専業農家は一割くらいである。あとはみんな会社員なのである。
すると村としての共同意識は希薄化するのである。
そうしてグローバル経済とかなると金だけが唯一の頼りとなり力となる
金さえあればどこにでも住めるというのもそうである。
そうなれば補償金をもらってどこでも移り住めばいいとなったのである。
金というのは金があまりにも力ももつとそうなるのである。
その土地に執着しないからである。
また商業工業化した世界は農業のように土地に執着する必要もないからである。
それで簡単に原発事故で避難して帰らなくなったということもある
放射能だけで故郷は捨てられたのかというと疑問だからである。

共同体意識というとき南相馬市が小高と原町と鹿島で合併したが今回の原発事故で合併しても補償金で分裂してしまったのである。
小高が特別優遇されたことはわかるがそれでも鹿島での不満は大きかったのである。
小高で逆に鹿島の奴らは何なのだ,人の苦しみもわからないのかと不満が大きくなった
そして外部から来たボランティアの方がいいとなったのである。
でも小高の人達は原発避難民は毎日パチンコやギャンブル三昧だったのである。
だからその人たちがなぜ一方的にかわいそうだったのかともなり自分も不満だったのである。
行政的に合併してもいろいろな過程をへて市も形成される
それはヨーロッパの市を見ればそうなっている
だから行政的に合併しても市としての共同体が作られるのには時間がかかるとなる
その時間の中でいろいろなことがあり共同体が形成される
そういうことは一朝一夕にはできないことなのである。
つまり行政的なものと実質そこで暮らす人の乖離がある,実質的共同体はいろいろな困難を乗り越えて作られる,歴史はそうして作られてきたのである
今この辺は南相馬市は原発事故で危機的状態に陥った,それを乗り越えて修復して一体化できるのか?それが問われているのである。






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2018年02月15日

白鳥の短歌十首(白鳥は神々しく魅せられる)


白鳥の短歌十首(白鳥は神々しく魅せられる)

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今日見た白鳥

白鳥の暁に映え凍る湖(うみ)

白鳥の凍れる湖に目覚め鳴くその声ひびきしみとおるかな

白鳥の凍れる湖にその翼広げ飛びたたむあかつきの空

この一日吹雪きけるかな白鳥の鳴く声ひびく北海道の夜

白鳥の北海道に映えるかな神々しくもけがれざるかな

山上の湖美し白鳥やスイスの古都を落葉踏み歩む

スイスなる古城のあわれ山険し湖の清しく白鳥浮かぶ

教会も古りて鐘鳴る白鳥の浮かび静けし湖も古りにき

白鳥の真澄の空に列をなし白さの映えてその飛行かな

白鳥の列を乱さず美しく真澄の空に翔りゆくかな

白鳥の白さの映えて神々し神の使いとふさわしきかな


絶景広がる”砂の岬”尾岱沼はオオハクチョウが見ごろ


北海道の尾岱沼(おだいぬま)の白鳥を見た,冬にも北海道に行っていたのである。
北海道は電車でも自転車でもほとんど回った,十回くらい行っていた
それだけ暇だったのと家族がいて安心して旅できたとなる

白鳥には本当に魅せられてしまうのである。神々しい感じになる,まず人間の社会のことをどうのこうのと語ってみてもそこがどんなことをしても穢れの世界でありブラックなのである。結局資本主義社会であれ社会主義共産主義社会であれ人間そのものが汚れたものだから社会もまた汚れたものになる
人間の社会に理想社会などありえないのである。

一方自然を見るとそこに神の技をみる,神の成したイデアを見る,白鳥などは神々しいものであり魅せられてしまうのである。
その神の作り出した技に美に魅せられてしまうのである。
人間でもいくら美人でも人間である限り醜いものがある
何か白鳥とか見ると自然の花でもそこに穢れない,だから神々しく感じるのである。

そして白鳥でもそのいる場所が問題である。この辺ではその場所としてふさわしくない
きれいな湖とか背景が良ければ一段と映えるのである。
ヨーロッパでは何か白鳥が映える静謐な場がある,それが古い歴史とマッチして映える
スイスで晩秋に見た白鳥がそうだった

スイスのルツエレンで見た白鳥がそうだった,山上の湖から清涼な冷たい水が川に流れそこに白鳥がいた,落葉を踏んで川沿いを静かに歩む,そこには古城もあり険しい山が迫ってくる,あそこはいい場所だと思った

神の目的は何か?神が創造したものその中に神を見る,美に神を見る,その美は神の技でありイデアなのである。神のイデアは不滅でありそこに神の創造の技を見て驚嘆する
なぜ人間はいくら社会が進歩したなどと言ってもその大都会を見ればわかる
そこにいかなる美があるのか?高層ビルを見上げて何かあるのか?
毎日蟻のように仕事に追われている,その仕事がいかにも重要なことのように言うが
それならそこになぜ美がないのか?そこにいかにその労働を強いても賛美しても絶望してしまうのである。

神の世界はそういうものではない,神が作り出した技こそ自然にこそ感嘆する賛嘆するものがありそれに魅せられてしまうのである。汚れた人間社会で死ぬより荒寥としてもそこに美があればそこで死ねば満足だともなる
都会のビルの間で死ぬのは無惨である。富豪でもうらやましくもない,自然の美の中にあって暮らし死ぬなら貧乏でも満足だということはある
ただ正直あまり過酷になると詩人が呪い死んだようになるから嫌だとなる
自分は別にそんな過酷な農業をするわけでもない,ただ旅しただけだから良かったとなる
白鳥は猪苗代湖とかでも見られるしその背景が良くないと映えないのである。
それは何でもそうである。自然の美は背景が良くないと映えないのである。


白鳥の詩

ルツエレン写真
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タグ:白鳥

night forest(数式のようにして森の抽象画ができる)


night forest(数式のようにして森の抽象画ができる)

You can create an abstract picture of the forest like a mathematical expression


forest in the evening

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night forest

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この森の抽象画の制作過程は定型化している,数学の公式のように決まった手順で作られる
ソフトの同じ操作でできる,そこに何か才能とか創造力とかも必要ないのである。
機械的に生産しているとなる,だから大量に作れるのである。
不思議なのは現実の森にこれだけ多様なものとして見ていない
単一的に黒い森のようにしか見ていないのである。
でも森でも太陽とか朝とか夕べと夜では違った森の表情がある
でも現実の森からそれが見えないのである。
それもやはり芸術の不思議だとなる,現実には見えないものを芸術化して見えるにしているのである。

The process of creating this abstract painting of this forest is made in a routine procedure, like a mathematical formula

You can do with the same operation of software, there is no need for any talent or creativity.
It is mechanically produced, so it can be made in large quantities.
It is strange that I have not seen it as diverse as this in the reality forest
It looks like a black forest on a single basis.

But in the forest there is a different forest expression in the sun or in the morning or evening and night
But it can not be seen from the real forest.
It is also making it artistic to see what is invisible to reality, which is also a mystery of art.
タグ:abstract forest

2018年02月14日

無常の世の短歌十首 (空家が増えたり団塊の世代が大量に死ぬ時代)


無常の世の短歌十首

(空家が増えたり団塊の世代が大量に死ぬ時代)


死ぬ前にもだえ騒ぎて声やみぬひぐらしの声耳に残りぬ

その土地に根付き朽ちにし老木のこの土地にこそ思いは残る

大原の知りにし人の眠る墓ここに生きにし思い出深しも

大原に住みにし人の病院に語りつつ死に心に残りぬ

大原に空家のありや誰か住むなお残りつつ冬の日暮れぬ

今日もまた死ぬ人ありぬ 誰なれや何か語らむ一言なりも

近くにそ空家となるもこの女のいづこにあらむ冬の日暮れぬ

家の跡一本残る松静か冬の日さして今日も暮れにき

たちまちに灰となりにし人の生その声やみて訪ふ人もなし

津浪にて消えにし村や形見とて残る碑一つ冬の日暮れぬ

捨てられし墓もありなむ何語る何か思いをここに残しぬ

亡き人の時に顕れ住みし家生きにし土地をなつかむかも

人間の世は無常である。自分はそのことを家族の死で経験したし回りでも津浪原発事故で大きな無常を経験した,人間のはかなさを経験した
死ぬ前に人はもだえ騒ぐ,でも一旦死ぬと何も語らない,あれほど騒ぎ語ったのにもう何も語らない,遺影に向かって話しても返事は全くない
その変化が大きく人間は耐えられないのである。
そうなると喧嘩していたときもなつかしいなとかなる
それはこの世に生きているときが一時だとなるからである
長いようでもいづれは死に永遠に別れてしまうのが人間である。

南相馬市立病院で一カ月入院したとき最期に語ったのが大原の人だった
その人は話することができなくなっていた,ただ最期に話ができるようになった
だから大原のことで生活したことなどの話を聞けたのである。
それもふりかえれば貴重なことだったとなる
その人の墓は大原にあるが家は空家となって跡を継ぐ人は市内に住んで住まない
それも淋しいとなる,何か今はこうなりやすい,空家が膨大に増えてくる
近くでも空家が多いし一人ず住んでいる人が多いのである。
一人暮らしの人が組で四人とか多いし空家が多い
これはここだけではない,一人暮らしと空家が多い時代になったのである。

近くに家だった跡がありそこに一本松が立っている,そこでここに家があったのだと知るが自分はすぐ近くなのに記憶がないのである。
ここに家があったという記憶がないのである。これも奇妙である,宅地整備で変わったためでもある
ただそこに一本の松が立っている,それが形見のように立っている
ここに庭があり立っている,それでここに家があったということを知る
そうでなければ荒地となりここに家があったこともわからなくなる

ともかくその土地に生きたとしたらその土地に思いは残る
何かそうした思いが残る土地が故郷でもある
だから津浪や原発事故とかで故郷を離れた人達は特に老人は悲劇だったのである。
そのことはあまり語られないがやはりその土地に生きてきたのだから思いは残る
人の生が短いとするときやはり長く一緒に暮らした人とかその土地のことは忘れがたいとなるからだ

人は次々に死んでいる,めずらしくもない,これから死ぬ人が増えてくるから駅前の農協の葬儀部門が繁盛するし都会では火葬場がないとか問題になる
田舎の仕事が介護とか医療関係とか葬儀屋が繁盛する,それで地方が活気が出るのかとなると疑問である。駅前だって葬儀屋があるのが場違いに見えるからだ

姉が火葬場で焼かれるときひぐらしが鳴いていた,姉は社交的な外交的な陽気な女性だった,だから認知症になっても同じことを千回もしゃべりつづけた
それを聞いているのが嫌になったがしゃべりつづけた
暴れたり騒いだりもした,でも死んだから何の声もない,返事もない
人生も終わってみれば一時であったとなる,そうして膨大な人が灰となり忘れ去られるだけだとなる

墓地に行けば捨てられた墓も必ずありそれらは誰なのか,何者なのかもわからなくなる
墓は最期の形見でもそれすら忘れられてしまう。
結局この世が無常ということは変わりなかった,ただ多少長く生きて死ぬかの差はあったでも長く生きても遂に死ぬ,それは変わりないことである。
人間は無常の中に生きる,無常から人間を見るべきだともなる
この世のことはすべて無常のことなのである。
だから人生でいろいろあってもこれも無常でありこの世を生きることに生に執着しないことであるとなる
それは一時のこの世のことでありそれは無常となり終わる
そういう無常の観点からこの世を人を見るべきだとなる

家の跡に残された松

ここに家があった
その跡に一本の松が残り立っている
その松は何を語るのか
その松はこの地に根を張り
枯芒の中に家なき跡も立っている
冬の日がさして静かに立っている
松には誠実を感じる
家なき跡も誠実を示しているのか
何かそう人間はありたい
人が死んだ後にあの人はどうだったとなる
死んだ後の評価は大事である
巨万の富を残しても評価されない人もいる
人間の価値は死後に正しく評価される
この松のように人は残るものがあってほしい
誠実な松がここにいつまでもまだ立っている
地に根付いてここを離れず立っている

matuakichi1.jpg

原発事故で避難した人々の家はまるでもぬけの殻のよう地なり残っている
それも不思議なの光景である。
あんなふうに街自体が廃墟のようになるとはイメージもできなかった
それこそ無常だとなる,津浪でも村が全部消えたというのもそうである。
そんなことがありうるのかということがこの辺ではつづいたのである。
そうでなくても人間の世は無常である。この辺ではその無常なことに津浪や原発事故で拍車をかけて無常になったのである。
街自体が廃墟化することば一軒の家が空家となり空き地となるのとはまるで違っていた
まだ人が継続して住んでいるから町全体が無常化することはないからだ
それが何を意味しているのかもわからないともなる
ただそこにも継続して人が住んでいたのでありだから愛着が残る
そういうものが失われることはさらに無常であり他とは違っている