2018年03月31日

国家は何のためにあるのか? (富裕層をまもるためにある?)


国家は何のためにあるのか?

(富裕層をまもるためにある?)

国家というのはなんのためにあるのか,国家とは何なのか?国家と民族は違うともいう。
日本の場合は国家と民族が一体化しているのは特異なのである。
大きな国家は様々な民族の集合体だからである。
ロシアでも中国でもアメリカでも多民族国家であり民族=国家ではない

国家の歴史をたどれば国家は軍人が作ったものである。
武力で作られたものである。奈良時代でも貴族は天皇守る兵士に由来していることでもわかる,天皇のために死ぬものとして守護するものとしてあった

海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おほ君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑のどには死しなじ)

それは太平洋戦争でも日本を鼓舞するものしとて利用されたのである。
ただ天皇の場合は権力者とは違っている
ただ天皇でも支配階級側につくものであり守護するものを必要としていたのである。

人間はまず群れをなして生活する,村は群れるから名付けられたとすればそうである。
村というのは最初の国家だったのである。
人間が群れて存在するというときトーテムがあり猿族,犬族とかあり群れがそれぞれ分かれて暮らしていた,でもその群れ同士が何かの理由で狩猟していればその獲物の取り合いで争いになる
何かしたら人間には争いの種は尽きることがないのである。
犬猿の仲というがまさに猿族と犬族も人間になると争うのである。

資源とか財産とか富をめぐって争うのが一番人間では多い
丸森には名前のように豊富な森林資源がありそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩が三つ巴の争いをしていたことは有名である。
そして入会権のある森林資源をめぐって戦国時代が生まれたという説もあながち否定できないのである。
木材資源がそれだけ大きな資源だったからである。
今なら石油資源をめぐって中東で熾烈な戦争があるのとにている
そういうことは人間社会である限り変わらずにある
そういう争いは変わらないからわかりやすいのである。

では兵士が国を作ったとして何を守ろうとしていたのか?
それは当時の支配層の富を守ろうとしていた
それはやはり土地であり森林資源であり何か財産となりうるものである。
そういうものを所有していることは奪われる対象になる
女性もまた略奪されることがあり守る必要がある
遊牧民社会ではそういうことは普通に行われていたからである。
羊でも常に奪われるし牛でも奪われる
つまり盗まれるということである。
財産をもつものは常に奪われるという危険がある
だからどうして財産を守るかが問題になる

個人的にも大金持ちになると都会では高い塀をめぐらしているとか今でもある
ブラジルとかメキシコとかでも大金持ちがいてその人たちは財産を守るために私兵を雇っているのである。そこは一つの小国家なのである。
大国家とはその小国家が発展したものなのである。
要するに財産をもつことはそれを奪われることが盗まれることが常に心配になるのだ
それを守るためにはどうするかが問題になり高い塀をめぐらしたり私兵を雇うことになるそれが国家のはじまりだともなる

貧民から国家は生まれないだろう,支配階級があり国家が生まれる
支配階級の富を守るために国家が生まれる,支配階級が財産を守るために軍隊を作るとなる
だから会津ではあれだけ白虎隊とか美化されているけど城の外に住んでいた人は全く城が萌えることで薩摩長州軍が侵略することでも無関心だったのである。
また庶民は被害をある程度はあったとしても受けなかった,殺されるとういことはなかった,それで会津が落城してなくなるときヤーヤー一揆が起きたのである。

農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した
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かえって城の落城を喜んでいた,これこそ重税とかの日頃の恨みを晴らす機会ととらえていたのである。
貧民と金持ちの関係も同じである。支配者が金持ちが弱体化するとそれが狙い目となり責めてくる,日頃の不満が一気に爆発する,これが人間の歴史の真実でもあった
だから会津武士道とか美化する一方なのもどうかなと思う
回りの庶民にとって武士道など関係なかったのである。
ただ重税にあえいでいたからその負担を減らすために好機となり一揆を起こしたのである
では日本の戦争ではなぜあれほど国家に忠誠を三百万人も犠牲になったのか?
それはただ日本の財産を守るためだけではないとうことは言える
なぜならそこには膨大な貧民が兵士として参戦していたからである。
江戸時代までは貴族を守るための軍隊であり国民の軍隊ではなかったからである。

ただ基本的には支配階級の財産を守るために国家が生まれる
太宰治の家は大地主だった,それで小作から搾取していたので小作の反乱を恐れていた
それで警官に金をやり高いレンガの塀を作って反乱して攻めてくることに備えていたのである。富裕層は財産を守るためにそうするのである。

中国でも共産党の幹部は莫大な富を貯えた,するとどうしてその財産を守るのかと心配する,だから海外に金をもちだすための算段をしている
支配階級もまた膨大な貧民の反乱を恐れているのである。
現実に膨大な反乱暴動は小規模でも起きている,それが報道されないだけだとなる
中国がネットげて盛んに分裂すると言われるのも今度は利権争いであり軍区で争うことになる,軍人が共産党では最大の権力なのである。
軍隊はそもそもそうした支配階級の財産を守るためにあるのが基本である。
だから支配階級に雇われる,でもやがて軍人が事実上の権力をもつとういことで支配者になる,それが共産党では露骨なのである。
共産主義が平等を目指していても極端な格差社会になった

人間の心理として一旦富をもつと金でも減らしたくないのである。
そういう心理が働く,それは例えは一億円もっていても十億円もっていても減らしたくないということでは同じなのである。
だから金を持っている老人でも減らしたくない,今利子がつかないから使わないとなる
ただ老人の金は増えることはない減るだけだからである。
それで老人は消費しないのである。
そんなこと贅沢だというときそれが人間の心理なのである。
財産があれば富を守りたいとなる,それで保守化するのである。
だから革命というとき明治維新でもそうだが支配階級は保守になる
侍でも下級武士がいてその人たちは貧乏だったのである。
だから明治維新では下級武士が革命を起こしたのである。
殿様とかは今の地位を守りたいとなるからそなん革命は起こし得ないのである。

「たとえ政権の正当性が全住民に浸透していなくても,体制そのものに結びつくエリートたち,とりわけ支配政党や軍隊や警察などの強圧権力を一手ににぎっているエリートたちのところでその正当性がゆらぎはじめないかぎり,その政権は危機に陥ることはない
政権をうまく機能させてゆくにはこれらエリートたち団結が不可欠でありそして独裁制度における正統性の危機というのはこのエリート集団内の危機にほかならない」
(歴史の終わり、フランシスフクヤマ)

こういうことは中国で起きている,軍区のエリートたちが分裂して反乱する危機にある
共産党の政権の権力は軍隊に支えられているからだ
選挙もないから軍隊の力関係によって権力の行方が決められるのである。
それは内戦でしか決着がつかないともなるのである。

2018年03月30日

人手不足時代のいい面 (もう物でも売れない,需要がない,無理やり売ることが害になる)


人手不足時代のいい面

(もう物でも売れない,需要がない,無理やり売ることが害になる)

警官まで募集しているのに来ないというのを福島のテレビで放送していた,それで警官になってもらうおうと誘っている警官がいた
いたるところで人手不足になる,それで待遇を良くしないと人が集まらない
時給でもそうだが働く環境でもそうである。

これは働く人にとってはいい時代になった,金がないと無理やりに嫌な会社でも働かざるを得ない,待遇が悪い会社はつぶれる,経営すらできなくなる
現実になっている,その方が労働環境としては正常だったのである。

そもそもなぜ人手不足になるのか?
それが若年世代が減少していることもある,それより何か人間は文明は無駄な労働が多すぎるのである。無駄なものを作りすぎている
その無駄なものを作るために労働させられている人が多すぎるのである。

そして物が売れないとか需要かない時代にもなっいてる,あらゆるものが売られていて売れない,それはもともと需要がないからである。
本当に需要がないものまで欲望を刺激させて宣伝で売るの資本主義である。
ところがそうして刺激しても物があふれているから売れないのである。
物は過剰であり何か特別欲しいものが少なくなった
物の飽和状態になっているからである。

そうして売れないからなんとか売ろうとする,医療関係だといらない薬を患者に買わせる本当はいらなくても病気には必要だとして薬を与える,そこで収入になる
そうして需要を医療関係者が作り出している時代である

そもそも医療関係ならかえって患者が少ないということは健康たからいいことなのである医者に来るということ薬を飲む人が多いはいうことは不健康な人が多いことだから好ましくないのである。
第一医者が病院がもうかるということはいいことではない,なぜならそれだけ患者が増えて病人が増えているからである。

例えば警官とかでも募集しても来ない,人気がないというのは悪いとは言えない
警官が増えることは犯罪などが増えているから必要になる
理想を言えば警官がいないということはいなくてもいい社会は最高にいい理想社会なのである。
兵隊もいない,役にたたない社会もそうである。戦争がない社会になっているのだからいい社会なのである。

なんか人間が無駄なことに労働を費やされている,そしてその無駄なことがただ無駄ならいい,害を及ぼすから怖いのである。
銀行員でもノルマを課せられているから詐欺的な投資信託をすすめる,するとそんな仕事をさせるなとなるが銀行がもうけるために生き残るためにそうしている
すると銀行員は害にもなるなとみるようになった

何かそうして無駄なことのために人は働かせられることが多いのだ
極端な例は兵器を作る会社でありそれは戦争がないと会社は継続できない,つぶれるのである。
アメリカの軍需産業は巨大でありアメリカの屋台骨のようになっている
すると怖いのは戦争しなければ武器でもミサイルでも弾薬でも戦闘機でも何の需要もなく金にならないとなり国で戦争してくれとなる
そのためにアメリカという国は政治を動かして戦争してきたと真顔で言われている

戦争という需要がなければ商売あがったりだと戦争してくれと政治家に頼んでいるとするとそんな会社があること自体がブラックであり無くすべきだとなる
何らかで無害にすべきだとなる
それは病院であれ医者であれ薬会社であれ患者がいなければ薬が売れなくて困るから病気をつくりだしてくれとまでなっていて一部は現実に実行されているのである。

自分は無用の用とか老子の思想に共鳴してきた,文明は新奇なものをいろいす作り出す,一番の味は無味の味であり水がいいというときもそうである。
様々なジュース類も実際は90パーセントは水が成分だからである。
ジュースでもいろいろ飲ませる工夫をするがそれによってまた労働が増えるのである。
そんなに多くの種類のジュースがそもそも必要なのかとなる

それも害にならなければいいが害になる食品だってある,それは無理やり需要を作り出して売っているからである。
そして売れなければ会社がやっていけないとなり躍起になる
ノルマを課して銀行でも投資信託を売らせるしどこでもノルマを課して売らせる
そうしなければ収入がなくなるからそうなる

だからこれだけもう物があふれた状態ではもう売れない,それが自然なのことなのであるもう物はいらないとなる,作る必要もないとなる
必要ないものを,作り出して無理やり売ること自体異常なのである。
少子高齢化でますます需要はなくなる,老人は消費するエネルギーがなくなっている
金をもっても消費できないのである。

老人が求めているのは物ではないからだ,人のあたかいサービスなのである。
それは物では金では計れないものでもある
AI化でも仕事がなくなる,機械がロボットが仕事をしてくれる,それで人手不足も補えるそれでベーッシクインカムが必要だと言われるようになった
これは夢物語かと思っていたがそれも社会の要請でそうなるかもしれない現実性を帯びてきた
なぜならみんなブラック会社では働きたくない,何か意義があることも価値あることを求めて働きたいとなっているからだ
だから人手不足で待遇が悪い会社は淘汰されてつぶれのはいいことだと労働者は言っているのである。

高度成長時代のように物がないときは売れるものが必要だった,今はなんでもあるのだから売れないというのも自然なのことなのである。
その方が正常であり売れるものを無理やり作りだしていることこそ異常だったのである。警官のなり手がないというときもそれは悪いことではない,警官になりたい人が多いということは兵士になりたいという人が多いのと同じである。
そういう仕事はなるべく少ない方がいいのである。
そういう人が増えることは社会が平和ではないということだからである。

要するに兵士とか警官とか医療関係でもそうしたものは少なければ少ないほど実際は平和ないい社会なのである。
需要を無理やり作り出す社会を見直すべきなのである。
そうなると景気が悪いからなんとかしようとする,GDPが減ると国力がなくなり日本は侵略される,だから経済成長はつづけるべきだというのもこれも戦争するためにそうしなければならないとしたら邪道である
戦争に備えなければならないという社会は平和がないからそうなっているのだ

ともかく現代は資本主義でも転換期なのである。
今までのような物を際限なく作り出すのも限界であり資本を無理やり投下して発展させるという思想も無理がある
世界的にも経済が限界にきている,それは悪いことではない,無限の際限のない経済発展とか成長はそもそも無理なのである
それは自然破壊につながり公害にもなるからだ

つまり資本主義でもそうだが社会全体が世界経済でも無限に成長と拡大とか目指す時代は終わったのである。
ローマ帝国は拡大の時代だったし大航海時代でもそうである。
これからは中世になるというのもそうである。中世は修道院にこもる内面化した閉鎖された世界で生きていた
そういう社会に変化してゆく,人間の内面の心の探求に変わってゆく
それは確かに老人はそう自然となってゆく,だから老人的志向であり問題があるというのもある,若者はそういう見方をしないうというのもわかる
ただ時代的にはどうしてもそうなっているしそれに適応しなければならなくなる
これ以上無理やり需要を喚起することは社会に害をもたらすからである

軍需産業→戦争起こして景気よくしてくれ
警官→犯罪者をふやしてくれ
医療関係→病人を増やしてくれ

こういうことは異常な世界である。そのことを二千年前に老子が指摘していたのである。無駄なことに人間の労力が費やされすぎているのである。
それは働く方でも強制されるからそうなる
でもベーシックインカムなどで働くことが強制されなければそうはならないかもしれないそれもまた理想論だから実際は矛盾が出てくるし失敗だったともなる
ただその時代に社会に適応したものがシステムでも何でも生まれてくる
軍需産業の会社が国に戦争してくれとロビー活動していることなど異常だからである。
戦争をなくすことはそうした軍需産業がなくなることなのである。

ただ人間の社会はそもそも戦争が作り出されたりナチスでもカルト教団でも必要ないものが無理やり作り出されて最悪の災禍をもたらしてきた
だからそうした害あるものがなくなることはない
かえってそうした害あるものによって滅びるともなる
宗教でも組織化すると利権団体化して社会に害悪をもたらすし現実にもたらしているのである。
それは宗教でもなんでもない,社会にとって必要でないものだか需要を作り出して利権化権力化しているのである。
もしかしたらこの地球にとって宇宙にとって人間存在そのものが害悪なのかもしれないということである。それは不必要なもの作り出すからである。
文明自体がそうだともなる,それは2000年前に老子が言ったことなのである。


posted by 老鶯 at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

風についての考察 (自然や風を感じなくなった現代人,文明人)


風についての考察

(自然や風を感じなくなった現代人,文明人)

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北風の吹くとき山を思いしも東風(こち)吹くときに海を思いぬ

山側の方まで東風が吹いてきたときは春を感じる,この辺では東風は海を意識する
でも阿武隈高原を越えると中通りになるがそこで東風が吹いている
でもその東風に海を意識するかとなるとしにくい
回りが山に囲まれているからだ
でも川俣の峠を越えた辺りでもビュビュー東風が吹いていた
これは福島市まで吹いて原発事故で放射性物質を運んで意識させられたのである。
まず福島市は盆地であり海を意識できない
この風は春になると吹く,3月11日にこの風が吹いたから不運だったのである。

つまりいくら科学時代でも技術が発達しても人間は自然の影響から逃れられないのである津波自体が自然にとっては定期的に起こるものなのである。
ただそのことを忘れていただけなのである。
おそらく科学技術が発達したことで人間は自然のことを実感として知らなくなったこともある
風の影響を受けずに船でも車でも飛行機でも動くからである。
山があればトンネルをほるし自然が障害にならないのである。
そこで自然に無感覚になる,人工的空間で生きることになる
そこに思わぬ落とし穴が待っているのである。

風土というとき風のことである。風が土地によって違ってくる
海側だと海から吹いてくる風が東風があり海を意識するが山だと意識しにくい

菅原道真の歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」

京都は盆地であるが東風が吹いたとき春を意識した,東山がありそこは海を意識するよりは朝日が上る方向として意識された,海は意識されないのである。

風を一番意識するのは船を操る漁師だったというのは当然である。風の影響をもろに受けるからである。それでいろいろな土地の風の名前が生まれた

伊勢で カウヤマ 吉田で ナライ
尾張 北ブキや いつも吹く

同じ風でも土地によって呼び名が違ってくる、カウヤマとは小山であり神山と柳田国男はしている,山から吹いてくる風としてとらいている,ナライとはナラスであり平地から吹いてくる風としての意識なのか?

お伊勢さがるは北のよの西よ,こちゃいなさはもどりの風

桑名四日市から神宮に参る海路は,北の様,すなわち北によった西風を帆に受けて大湊か神社(かみやひろ)の諸港に向かい、帰路は帰路は東風かイナサ風によったのである。

イナサは東南風でありそれは太平洋沿岸伝いに同じ呼び名だというのもやはり海洋民族として言葉を伝えた,それは同じ風が吹くからである。
日本海の風はまた違っているから別な呼び名になっている

ともかく船は風の影響が大きい,風を知らないと航海できないから風について敏感になる

風吹きて進まぬ自転車いづこかな我が旅路を思い出すかな

自転車は風に弱い,すすまなかなる,電動自転車だと風にも強い,その時は電動自転車はなかった、それで峠とか風には苦しんだのである。
今でも風吹くと自転車は出れなくなる

あいが吹かぬ荷が無うて来ぬか,ただしや新潟の川留めか

これもいかに風によって交通も妨げられたかを伝えるものである。川留めでもそうであるこの辺では津浪で新地から一部高架橋になった結果風の影響を受けるようになった
北風が毎日吹く季節がある,相馬の空っ風として有名である。
それで毎日のように電車が風で遅れて困る,一日運休にもなる
それを駅で見ていて経験しているから風の影響は電車でも受ける
電車は本当に風の影響を受けやすくなったのである。
ただバスはまだ原町から仙台まで出ている,バスは風の日も運行しているのである。

風はこうして生活の障害になるのだがまた風を感じることは自然を感じることなのである車では風をさえぎるから風を感じない,ということは自然を感じないのである。
すると旅しても風土を感じないから記憶にも残らないともなる

ともかく現代人は文明人は自然を感じる力がかえって減退している,それは科学技術にみな頼っているからである。みんな機械で計測しているからである。
風をじかに自然をじかに感じることが少ないのである。
旅をすれば方向が気になる,方向感覚がわからなくなる,それは近くでも飯館の山を越えてさまよったときもそうだった,山に入ると盆地だとどこでも山であり太陽が昇るのも山であり沈むのも山だからである。
海側に住んでいれば太陽が昇るのは東であり山側に西に太陽は没するからである。
だから地名の基本が方角地名、東西南北にある,方向がわからないとまず行く先もわからないからだ

航海民は草原とか砂漠で暮らす人達も方向が一番大事であり方向を見失うと死ぬことになる,それで北斗七星信仰が生まれた,それは妙見様であり野馬追いでも相馬藩でも信仰の対象になった,それは大陸からもたらされたものなのである。

自分は旅ばかりしてたから何か航海民とかに興味をもった,移動する民に興味をもった
ただ今になると旅することはしていない,何か体力的にできなくなったのである。
ただ思い出の旅をしているのである。

タグ:風の方言

2018年03月29日

abstract forest in spring


abstract forest in spring

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森の抽象画を作るのはパターン化している
ただソフトを同じように操作するとできる
それでもそこに多様な変化がある
その辺かは尽きずにある

そして森の抽象画が大量生産できるのはパタ-ン化して
ソフトで機械的に作り出しているからである。

ただ現実の森がこのように見えるかとなると見えない
それがパソコンの森の抽象画を作っていて不思議なところである。
こんなに多様な森を現実の森から見えないからである。

だからその森は現実にない森なのかともなる
人工的に作り出された架空の森だともなる
ただ暗い森とか青い森とか緑の森はありうる
森が赤く見えることは夕日にそまっても必ずしも見えないだろう
それがパソコンで作り出す抽象画の森の不思議である。


It is patterned to make forest abstract paintings
You can just operate the software in the same way
Still there are diverse changes there
There is nothing left there

And we can mass produce forest abstract painting pattern
It is because it is soft and mechanically created.

However, it will not be visible if the real forest looks like this
It is a strange place to make an abstract picture of the forest of a personal computer.
Because we can not see such a diverse forest from the real forest.

So that forest is also a reality forest
It is also an imaginary forest created artificially
There can be only dark forests, blue forests and green forests
Watching the forest looking red may not necessarily be visible even when it sits in the sunset
It is a wonder of the forest of abstract painting that it creates with a personal computer
タグ:spring forest

地方が田舎が与えるものは何か? (癒しの場であり文化的なものー飯館村には音楽堂が向いている)


地方が田舎が与えるものは何か?

(癒しの場であり文化的なものー飯館村には音楽堂が向いている)

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東京の人とかは田舎は地方は経済的に非効率だから無駄だとかインフラに金がかかるから税金の無駄だとかいろいろ言う
確かにそれもある,では地方の田舎の存在の意味は何なのだろう。
田舎は農業であり食料を提供する場である,それは物質的な面で地方や田舎の評価であり価値である。

しかし価値観は変わってくる,現代では物質的なものは満たされると次に何を求めるのかまず腹を満たす,それが先決なことは確かである。
でもその次にどうなるのか?人間はがつがつ食べていればいいとういものではない
動物とは違うからである。それで今度はそこで食べる雰囲気とか談笑するとか食べることによって仲間意識を作るとか食べるほかの付加価値を求める
レストランでも内装とかで安らぎを与える,それは食べることだけではない価値である。
今までの価値観は貧乏なときはまず腹を満たすことだとなるが今は違う。
もちろん味も大事である,基本的な価値である。
ただそれ以上に今求めているのがある,それは何なのか?
癒しとなるものである。安らぎとなるものである。
ただ立ち食い蕎麦で腹を満たせばいい,食べ物をかきこめばいいとはならない
それは豊かさではない,だから今は都会的なものより田舎的なものを求めるというとき
食べ物だけではない,田舎は癒しの場であり安らぎの場として求める

例えば森があるとして森をただ木材の供給地として見るのではない
森そのものの価値である。それを追及したのが森の中で暮らしたソーローであった
彼はそうして木材だけを森の価値として見ていた商人を批判していたからだ
森というのは荘厳な一つの世界である。
ドイツではそうした樅の木などの森がおおっていた,その森からゴシック建築がイメージされて作られたことでもわかる
自然を基に文化は生まれる,それはヨーロッパでも田舎に地方都市でもはせいみい4,5万の都市であり回りは自然に囲まれていた,森に囲まれていたのである。

ヨーロッパでは地方都市が充実している,そしてその地方都市から文化が生まれた
ルネサンスが生まれたフィレンツは4万くらいの小都市だったのである
そこからあれだけの文化が生まれたというのは驚きである。
天才もあれだけ輩出したというのも驚きである。
ミケランジェロを生んだのは確かに近くに大理石がとれる場があったからだともなる
だから素材が近くにあったから地産地消としたともなる

地方都市でも都会的要素と田舎的要素があり文化が生まれた
メジチ家が薬を売り財を成してそれで富を得て文化が栄えたとういこともある
やはり何らかと富が蓄積されないと文化は生まれないことはある
では今の東京などは一番が富が蓄積しているのにそこに文化は生まれないのはなぜなのかそこには物質的な繁栄しかないのである。
やはりそこには文化の基になる自然から切り離された完全な人工都市化しているからである。
そこでは自然をイメージできない,ビルの谷間と毎日高層ビルを見上げるだけで自然はないのである。一方で田舎だったらここには高い山がないが高い山を仰いでいたらその心も高まるのである
確かに自然ではない人工的美は存在する,それでラファエロのアテネィの学堂の絵では
ローマのア-チの建築がバックになっていて荘厳さを演出する
それは人工的なものである,ヨーロッパにはそうした人工的な美を作り出した
ただレオナルドダビンチのモナリザのバックは幽邃な巌の谷間になっている
処々に岩が描かれて人が天使が描かれている,そういう自然がまだバックにありイメージされていたとなる

山であれ森であれ川であれ海であれ自然がなければそもそも美でも産み出されない
音楽でも自然と結びついてある,何か自然を川の流れと潮騒とか山とか岩の沈黙とかあり森の中で鳥が鳴くとかそういうものは音楽からイメージされるからである。
クラシック音楽だとそうなる,ポピュラー音楽はただ激しいリズムなのである。
だから音楽を聴くには実際は森の中が一番向いているのである。
そこにクラシック音楽は調和してひびくのである。
都会の騒音の中では向かないのである。

だから飯館村は森に囲まれた村である。すると飯館村に本当は音楽堂があるのが向いている,そこでクラシックの演奏することが向いているのである。
震災以後そうした演奏会が行われた,でも音楽堂は人の集まりやすい都会にある
わざわざ飯館村のような不便な所には行かないだろう
でも音楽のクラシックの演奏を心にひびかせるにも森の中がふさわしいのである。

現代は文明都市でありヨーロッパのように文化都市を形成していない
これから求められるのは文化都市である。
最近良く言われるAI化で人間が働かなくてもよくなる,そしてベーシクインカムになるというのは何なのだろうと思う
これも一つの時代が変わることなのか,そうなると必ず価値観が変わる
人間は今ただ食べることだけではない文化的価値を求めることになる
それでみんなアーティストになるとか言われる

田舎に求めるものも食料だけではない,むしろその食料を提供するとしても付加価値が求められる,田舎が癒しの場としての機能がありそういうものが価値として求められる
自分の場合は田舎で働いていない,農業もしていない,ただ自然の中で森とか木とか岩とかにアイディンティティを求めてきたのである。
ただ文明というときカンボジアのアンコールワットでも森に埋もれている,マヤ文明の神殿でもそうである。それは森と切り離されて存在していなかった
深い森のなかにあった文明都市だったのである。
それが古代文明と今の文明との相違である。

今回の原発事故で飯館村などは悲惨だった,今でもフレコンバッグとかあり景観は乱された,ソーラーパネルなどでも景観は乱された
森も確かに放射能で汚染されたのだが別に森そのものは残っているのである。
ただその森で食べるものキノコとか山菜は食べられなくなったのである。
でも森に囲まれた癒しの場の機能は失っていないのである。
だから音楽堂などがあることが向いているのである。
本当に奥の方に太い樅の木があった,それは神殿の柱のように見えたのである。
飯館村は全体が森に囲まれている,原町からでも飯館村に入るには暗い森の中を通るのである。この辺はまだ森におおわれた自然がありそれが癒しとなるのである。



2018年03月28日

春の俳句十句(新しい自転車で近辺を回る-pass vienta8)


春の俳句十句(新しい自転車で近辺を回る-pas vienta8)

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新しき自転車に乗り初燕

春風を切って走るやクロスバイク

紅梅に木蓮のつぼみふくらみぬ

沈丁花匂い静かに石のあり

春の日や駅に長くも待てる人

草むしる道具の良しと春の畑

蕗の薹水無し川の流るかな

春の鳥声高に啼く森のあり

牛にさす春日やここにいつくかな

春日さす小池の古墳や祖の眠る

近くなれ安政の墓や落椿


ヤマハの2018年度のVIENTAを買った,これはロードとマウテンバイクの特徴を備えたものだった,ロードは軽くて早い,マウテンバイクは悪路に強いし安定しているから安全である。ロードは早すぎて危険なのである。
それでロードは早く軽く走るが危険だと感じた
大怪我した人もいたからである。
この二つの特徴を備えたこの自転車は使える
多少の悪路もタイヤが太めなので走れるしまたスピードも20キロはでる

ただそれ以上になると出ないがこれだたけ出れば早い
ロードだと20キロ簡単に越える速さになる,だからこの自転車は20キロでありそれだけの速さはでない,やはり電動だから重い感じになる
でも20キロということでこれにした,電動自転車は重いのが多いからだ
自転車はまず軽いか重いかで相当に差があることがわかったからである。

今日この自転車にのって近辺を回った,初燕を河原で見た,今年は早いと思う
普通は4月になってから来るからである。
これも何か原因があるのか,渡り鳥だから渡ってくる場所が南の方だとするとそっちが暑く感じたから渡って来たのかとなる

知っている女性が畑で草むしりしていた,とにかく春になるとまた草がはえてくる
それでその草むしるのにいい道具を使っていた
盗まれたという道具でも自分が払わされるのである。
なにやかにやと金を要求される,別に自分の家では今は三日に一度くらいきて皿洗うとしてもそれも数分で終わるのである。その仕事はしなくてもいいのである。

水無し川は今日は流れていた,蕗の薹がでていた,水無し川はどこにでもある
最近雨があったから水が流れていた
小池は古墳が多い,古墳の町として鹿島区がある,だから古墳を見に来たという人もいる古墳でも小さい古墳が多いのが特徴である。
原町には大きな桜井古墳があるがここは小さな古墳である。

小学校の前のところに竹藪がありそこに不動明王が祭ってあった
そこでもそのために自分が金を払っている,その近くに住んでいる女性が金がないと言われ払っているのである。
何かと金を払っているのが自分なのである。
そこに安政と記した墓があり僧侶の墓である。

安政(1854年)は明治に近い,天保でも明治で活躍した人が生まれている年代である。
それだけ明治時代とつながる時代である。
だからこの年代の墓でも碑が多いのである。飢饉のあった天明は相当に古いのである。
あそこは鹿島村内に入る,近くでも知らないものがある

ともかくこの自転車は近くでも利用できる,買い物でも利用できる,遠出もできるものだから便利だ,ただ本当の自転車の醍醐味はロードにある
風のように走る感覚になるからだ,ただ危険になる
この自転車は何かやはり重い感覚がある,自然な走りではないのである。
ただ十分に遠出できるものなのでもう一つバッテリーを買って行ってみよう。














権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する (なぜ歴史はくりかえすのか?)


権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する 


(なぜ歴史はくりかえすのか?)


人間の歴史をふりかえると同じようなことくりかえしている,だからカルマ論があり歴史はくりかえすとなる
そもそも人間そのものは変わらないからである。人間がもっている欲望がなくなるわけでもない,文明がいくら発達しても人間は変わらない,欲望はなくならない
とすればその欲望があるからカルマとなり同じことをくりかえすとなる
犯罪でもそうである。犯罪の動機でも男女関係などの犯罪は変わりなくある
その動機はわかりやすいのである。
人間そのものが変わらないとしたら社会でも歴史でも同じことをくりかえすことになる

人間は権力を求めるというときもそうである。権力というときいろいろあるが地位とか財力とかである。権力闘争が常にありくりかえされているしそれは凄惨なものになる
ロシア革命でも中国革命でも一千万人が粛清されたとかある
そういう権力闘争は今も変わっていない,民主主義ではその権力闘争を選挙という形で置き換えたから共産主義などと違って凄惨な争いが起きていないのである。

人間の心理をみると富を財産をもつとそれを失いたくないという力が働く
何か金というのはいくらあっても減らしたくないのである。
老人が金があっても使わないというときもういくら貯金していても増えないからである。もし高度成長時代のように利子がついていれば老人でも使う,でも利子もつかないから減るだけなので使わないともなる

人間はなんとか財産をもつと減らしたくない失いたくないという力が働く,保守的になるその財産を富を守るにはどうするのか?
そのために実は警察権力とか軍隊とかもかかわってくる,政治がかかわってくる
アメリカでは金持ちが自分たちの財産を守るために政治でロビー活動して献金するので金持ちに有利な政策にさせる,露骨なのは後進国でも桁外れの金持ちがいてその人たち私兵を雇い自分たちの財産を守る
このようにこうした大金持ちが発見したのが国家だということもある
国家は巨大な権力を利権を左右できるからだ

そしてこうした大金持ちとか権力者が恐れるのは何か?
権力や地位や財産を奪われることなのである。
そのために戦々恐々としているのである。
いつ部下にでも裏切られ権力を地位を財産を失うかもしれないと恐れる
だからこそ粛清して自分の地位の権力を維持しようとしている
権力でも地位でも財産でも守ることが権力者は第一に考える
国民のことなど貧民のことなど考慮しないのである。
だから中国では巨万の富を貯えた共産党の幹部の人達はなにかあったら外国に逃げる算段をしている,金も外国に移してなにかあったら脱出しようとしている
それは日本の金持ちでもそう考える人がいる

その人たちは何を恐れているのか?膨大な貧民がまたいてその人たちが反乱することを恐れている
その人たちに権力も地位も富も奪われることを恐れているのである。
金持ちはその財産をいかに守るかが最大の問題になるのだ
中国で頼りになるのは家族だけだというとき家族のことを第一に考える
財産を維持して家族を守ることを優先させるのである。
貧民は絶えずありその人たちの不満がいつ爆発するかわからないからだ
中国では膨大な数の暴動が起きている,小規模だからニュースにもならないが起きている不満がそれだけあるということである。
コネ社会だというとき賄賂がやらないと何もできないとかでもそうである。
中国では利権を一人じめしようとすることが多いからである。
共産党が平等を目指したのに極端な格差社会であり王朝ができているのと同じであり
これも歴史はくりかえすとなる

そしてこれだけ格差が大きいと貧民が反乱して暴動を起す,それが革命になる
その時今権力をもっている人も地位ある人も金ある人も一挙に失うのである。
そのことを一番恐れているのが権力がある財力がある人達なのである。
日本では中国やアメリカのように極端な金持ちとかはいない
まず歴史的に村社会であり狭い地域で生きていたから突出した富をもてば回りから責められる,田舎に住めばわかる
金持ちではいられない,回りの目が常にありそんな極端な金持ちは田舎に住めないのである。つまり日本はもともと平等志向が強いのである
天皇というのは王様ではない,天皇そのものが質素であり中国とかの王様とは違っているだから天皇を倒すということはしないのである。天皇は必ずしも権力者ではないからである。

革命とか社会が変わるというときこうした既得権者が一掃されることなのである。
明治維新はまたそうした革命とは違っていてもやはり侍階級がなくなり平民の時代になった,太平洋戦争でもそうでありその時の既得権者が軍人でも地主階級でも一挙にその権力と財力を失ったのである。
その結果として新しい国造りができたとなる
人間の歴史もまたそういう繰り返しだったとなる
権力や地位や財力をもてばそれを失いたくない守りになる
それで社会は停滞する,腐敗する,それで権力は腐敗する,絶対的に腐敗するとなる
政権で長期化すると腐敗してゆく,利権かしてゆき腐敗する
だから政権交代が必要として民主主義が生まれたのである。
中国にはそれがない,習近平が終身のトップに君臨する,それはまさに王様であり中国王朝なのである。それは中国では歴史でくりかえされてきたことである。

ただそれが安泰かというとまた同じように反乱が起きてくつがえされるから権力や財力をもつものは恐れる,それがくりかえされた人間の業(カルマ)である
そもそも人間は権力とか地位とか財力を求める,それは貧民でも同じである
むしろそういう虐げられた人達は余計にそうなのである。
だからそういう虐げられた人達を利用して政権の転覆をねらう
それはカルト教団などもそうである。宗教も権力とか金と離れて考えられないのである。カトリックでも権力集団化した政治化したのもそのたである。
そういうことは創価でも他のカルト宗教団体でも同じである。

ではその人たちが権力をにぎるとどうなるのか?やはり同じことをくりかえすのである。
権力や地位や財力をもつとそれを失いたくないとなる
そういう繰り返しが人間の歴史だったのである。

金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい

つまりこの世の欲から人間は離れられないのである。心理的にも一旦富を所有したらその富を失いたくないとなり守りになる
そしてそれが奪われることを恐れるようになる
本当は別にその富を分ければいいともなるがそれもできない,権力と地位でも富でも独占したいからそれができない,それが人間であり変わらないから同じことをくりかえしているのである。
自分もたいして富でもないがそのことを経験した,格差がなくならないかぎりこういうことはなくならないのである。


2018年03月27日

春霞(故郷の春の俳句十句)


春霞(故郷の春の俳句十句)

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老木に紅梅映えて農家かな

春うらら孫と畑や里の山

春の日や畑を前に語りあう

春光の川面にきらめき朝の里

春の川流れのはやし子供の声

鳥飛びて流れのはやし草萌ゆる

鳥とまり川面光りて芽吹きかな

川の岸子供あそぶや猫柳

山脈のつづきて遠く春霞

春霞家々離れ隠されぬ


今日は春霞だった,湿り気がでてきて霞になる,のどかな日だった,あそこの老木は記念物に指定されるような木である。紅梅が映えているのもいい
老木は何か田舎的なのである。

孫と畑を耕やしている,それはのどかな風景である。でもその近くの知っている人の畑には延々と問題が起きている,それでその負担を自分がさせられている
今度は小屋に置いた道具が盗まれたとまた負担させられる,今月だけで額も大きい
金だけが費やされるのが現実なのである。
畑を趣味でしていたらかえって相当な金がかかってしまうのである。

流れが早い,そこに鳥が飛び,子供の遊ぶ声がする,それが何かめずらしいともなる
第一今は子供も川で遊んでいないし見かけないからだ
見かけるのは老人だけなのである。
避難区域にった小高とかでも30パーセントが帰っても老人がほとんどなのである。
そういう街になると異常だともなる
老木があって紅梅があって犬ふぐりとかたんぽぽとか花が咲く
それは人間でも子供から老人と世代でも平均して住んでいるのが調和しているのである。老木ばかりだったらそういう世界は自然にもないのである。

故郷とはこうしてやはりこういう景色がある所である。四季があるところである。
季節の変化がありそれで感じるものがある
真野川の岸辺は散歩するのには一番いい場所である。
そういう場所は田舎ではどこでもある,原町だって大きくても新田川がある
ただ相馬市の宇多川は細い,川でも何かもうひとつものたりないのである。
新田川はそれなりに浅瀬でも瀬音がして気持ちいい川なのである。
浪江では川が二つあるからもっといいのである。
あそこの岸にも桜が咲く,それで人がそこに住んでいないのは悲しいとなる

つまり人が住んでいないとなるとそこはどうなるのか?
自然も死んでしまうともなる,人が住んでいて自然も映える,人が住んで生活する中に自然も息づくということがある
それが人が住んでいないとなると何か自然でも空洞のようになる
孫と畑を耕しているのをみればわかる,その時自然と人間は調和しているのである。





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石神村の紙漉きの歴史 (天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)


石神村の紙漉きの歴史

(天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)

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この抽象画が和風であり和紙に見える


この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる


いの町紙の博物館について

石神村に嫁いだ女性の家は紙漉きしていた家だった,その家は古い家である。
その紙漉きの技術は加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだことがはじまりだという
これも興味深い歴史である。
現実に自分は越前和紙の里に行ったしその土佐の町の紙の博物館にも行っている
越前和紙ではそこで実際に紙漉きをしていたし誰でも紙漉きを試すことができる

土佐の紙漉きが古いから越前に職人を呼んではじめた,だから土佐と越前が結びつく,
それも自分はその二つに実際に行っていたことをふりかえるとずいぶんあちこち旅していた結果だったことをつくづく感じる
そんなに旅している人はいないと思う,それで歴史がたどれるとなる

越中の移民などは農民として来たのでありそうした技術をもたらした人達とは思わなかった,ただ宗教も真宗ももたらしたように何らか移民は文化をもたらすのである
天明の飢饉の時相馬藩では三分の一に人口が激減した,その穴埋めを移民がしてくれた
その時紙漉きの技術が伝わったことは知らなかった
ともかく相馬藩では越中などからの移民が本当に多いのである。
祖先をたどれば越中からの移民だとわかるので交流もある

紙漉きは古くから大きな産業だった,ただ冬に紙漉きをするので紙漉きは女性でもしたくないものだったのである。
石神に嫁いだ女性は農家だったとしても何にも農家のことはしない農作業もしない
夫は会社員であり農家の生まれでも農業はしていない
だから何か農家がどういうものなのかもわからない
サラリーマンの家庭なのである。農家では今はそういう人が多いのである。
純粋の農家は少ないのである。この辺では梨農家とか花栽培している農家とかは現金収入があるのでやっていけるが他はむずかしいからだ

ともかく石神の紙漉きは明治までつづいて有名だったのは意外だった
技術を伝える伝習所までもうけられていたということでもそうである。
それだけ紙漉きが盛んだったのである。
それが越中などの移民の歴史と重なり一つの郷土史として見逃せないものであった
でもそういう技術も絶えて語る人すらいなくなるのも淋しいとなる

インターネットだとこうして貴重な情報が見いだされる場合がある
図書館で何か検索するということ調べることはめんどうなのである。
今は時間がないからしていない,これで興味をもったのはやはり越前和紙の里に行って実際に紙漉きのまねごとをしたことや土佐のいの町の紙の博物館に実際に行ったことであるこれもかなり前になるがいかに自分が旅していたかということに我ながら感心するともなる

晩秋に越前和紙の里たずぬ

あしらいぬ越前和紙に楓かな

いの町や蓮華の咲きて和紙の里

posted by 老鶯 at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

fortuneとは(財産を得るのは運なのか)


fortuneとは(財産を得るのは運なのか)

運、幸運にもこと、幸運、果報、繁栄、成功、出世、運勢、(将来の)運命、富

富とか財産を得たいというのは誰でも思っている,ではどうして富が得られるのか?
毎日勤勉にこつこつ働いて貯蓄してゆくことが正道だとなるのが普通である。
金が富が棚からぼた餅のように落ちてくるなど期待するなとなる
こつこつ働いてこそ富は得られるのだ,そうすべきでありただ何もしないでなまけていて富は得られない,そう普通には言われる

一方でなぜここでfortuneが財産が運なのかとなる,運の作用で富が得られということも人間社会がはじまってからあった
例えば株式投資などでも運の作用が確かにある,あらゆることを考慮して投資できないからである。そこに思わぬリスクがありそれが予測できないのである。
いくらチャートを見ていても例外的に動くこともあるからだ
だからこれも運が関係しているのかとなる,その時代の影響もある
常に世界情勢でも動いているからその変化の中で経済が株でも影響されるからである。
そうしたものを全部をみぬいて投資することは不可能だとなるからである。
そこで運だともなってしまう。

自分は全く働いて金が得てえない,ただ親の財産があり暮らしてきただけである。
ただその暮らしは最低限のものである。旅をしたとしても金も最低しか使っていない
何か贅沢などしていない,だから自分で百万の金を使ったことがないから今でも使えないのである。そうして金を使わないものは大金が入っても使えないのである。
そういう習慣が身についているからそうなる

運というのはどこでも作用している,親の影響も大きく親によってその将来も左右される生まれた親によって大きな差が生まれるからこれも運だとなる
そういう星の下に生まれたとなり運だともなる
だから人間には宿命論が生まれる,そういう定めに生まれるカルマがありそうなったのだとなる

ただ一方で人間の運は決まっていない,どんな親に生まれたとしてもそれですべてが決まる訳でもないとかある,そして人間を作るのは生まれつきで天分で決まっているかとなればそうでもないのである。
その人生も必ずしも親によって決められるものでもない
天才とかはたしかに例外的にいたとしても人間の人生を決めるのはその人であり親でもないし環境でもないことがある
ただその人の人生がどういうふうに展開するかは本人でもわからないし他者でもわからないのである。

事業をはじめて失敗したのは時代だとか運がなかったとか言うがそもそもその事業の計画がずさんすぎたということがある,でも成功すると確信していた
失敗したら運が悪かった時代が悪かったとか言い訳するのも自分勝手だともなる
すべてがそうして運でもないし生まれつきでもないし親によって決まる訳でもない
投資でもそうである。何も知らないで銀行にまかせたのが悪いということがあったからだそれは運でもない経験もないのに銀行がプロだと思いまかせたことに失敗があった
だからそれは運ではない予測できたことだから自己責任だとなる

なんらかで人間は自己責任があることは確かである。でもまたそこには運がある
その運がわからないのである。
この辺で確かに原発事故などで被害があったがそれで大金を得た人もいた,それも運だった,一方で津浪で無惨に死んだ人もいる,それも運だったのかとなる
死ぬ人と死なない人がいたからである。
海岸に住んでいた人は運が悪かったとなるのか?
それより原発事故も運が悪かったから不可抗力だったとなるのか?
津浪は予測できなかったとしているが実際は予測していたが備えをしなかったとなると運ではない
それで東電には責任があったと賠償が請求される

ただ間一髪で助かったのは運が良かったなとか常にある,それはやはり何かしら運が関係しているのか?
つまり人間にはどうしても不可抗力なのもがあり予測できないことがある
だからこそ運で決まるともなる,様々な要素があって株が決まってくるからもうどんな人も予測できないからである。
だから運だとなってしまう,ギャンブルももうかるのも損するのも運だとなる

運がなければどんなにこつこつ努力しても金持ちにもなれないし才能ある人間にはなれないともなる,もともと天分がなければ才能はありえないともなる
もしでも人間が生んですべてが決まるとしたら努力もしなくなるだろう
どうせ努力しても無駄だとなってしまうからである。
ただ努力をしつづけるのはやはり運だけでは人生は作れない,富も幸運ももたらされないから努力するのである。なんらか精進しなければ何も成せないということはある
物作りでも日本人は精進して励むからこそ品質がいいものを作る

人間は運だけに頼っても富は得られない,また努力だけでも幸運は富も得られないことは確かである。ただ運は常に人間社会では左右していることも確かである。
なぜなら天候というのも必ず左右している,桶狭間で信長が勝ったのは天候のせいだんたとか他にもモンゴルの船が台風で沈んだのも天候のせいだったとかなると運がそこに左右したとなるからだ
でも人間は信長でも運を呼びこむということで決断したことで勝利を得たとういこともある、運が左右しても座して待っているだけでは運は開けない
果断に決断して運が開ける,人が英雄となったときは時代の影響がある
そこにも運が左右している,明治維新でもあえなく死んだ人が多い,英雄として残っているのはわずかだとなるからだ

世代的にも運不運がある,まず戦争の時に生まれたらもう最悪である。3百万人が死んだ
そうなるともう死ぬ他ない,死ぬのが人生だとなってしまう
つくづく団塊の世代などは戦争の後に生まれたから幸運だったとなる
高度成長時代も運が良かったともなる,そういう時代であり環境があり団塊の世代は恵まれていたとされる
どんなことしても時代の影響がありまねがれないからである。

正直この世では運というとき神の采配が神が運命に加担している,それは聖書の世界ではそうである。何か事を成すことは人の力ではない神が加担して介入して事が成されたとしている,とすると運を作るのは神だとなるからだ
そうなると宿命論になるがただ宿命によって人間が決まる訳ではない
努力でも精進することでもまたはこつこつ働くことでも研究することでも積み重ねることで人間が天才でも成し得ないこと成す場合もあるからだ

人間の社会が不可解だというとき不可抗力なものがあり未来がわからないのである。
それで運だとなる,でも何も求めないものは何も得られないのである。
求めなさい,さらば与えられるだろうとなる
求めるということは人間の意志であり運ではないのである。運とは何もしないで何かを得るとういことだからである。
何も求めないものは何も得られないのである。それは運ではない,求道心がないものがそもそも悟りとか信仰にいたるわけがないのである。

ただなんらか人生でも歴史でも神の介入がある,そこで歴史を解きあかすことも人間にはできないし人生にもできないのである。
いろいろ言っても将来のことが未来は神の手中にあるとなる
未来をにぎっているのは神であり人間にはないとなる
それは神が万能だからそうなっているのである。
人間はいくら科学技術を発展させても駆使してもそれで社会が良くなるということではない,現実に原発事故などがあり不孝にしたからである。
神のみが最終的に人間の運命をにぎっていることは否定できないのである。
これはいくら人間が努力しても無駄だとなる
神のみが一瞬にして世界も滅ぼすことができなるからである。
神の御意にかなわないとしたら世界を一瞬で滅ぼす,そのことは予言されているからだ



2018年03月26日

鉄道員(ぽっぽや)の映画と無人駅


鉄道員(ぽっぽや)の映画と無人駅

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この映画は国鉄時代のものであり国鉄時代を知らないと理解できないだろう。
駅が人情の駅になっていた,それはそこに人間がいたからである。
国鉄時代という一時代があった
国鉄で働く人が地方でも多かった,国鉄で働く人も地方では実際は恵まれた人達だった
近くにも鉄道工夫をしていた人を知っているし国鉄職員だった人も近くでいた
それは国鉄時代はどこでもそうだったのである。
小学生の時親が鉄道に勤めていた人が鹿島駅でも今の駐車場になっている所が官舎になっていたのである。

鉄道はそのように働く人も多いしそれで社会党があってそれは国鉄の組合をバックにしていたことでもわかる,それだけ国政を左右するものですらあったのだ
だから中曽根首相の時民営化するとき反対したが実はその時は高度成長時代であり
民営化するにあたり退職した人達は労働組合で運動して退職しても困らない金をもらったのである。それは高度成長時代の恵まれた時だったからである。
それだけの資金を出す余裕があったのである。
そして社会党自体もなくなったのである。

つくづく国鉄は一時代を築いたのでありその時の物語だったとなる
自分は蒸気機関車で原町の高校に通っていたがその時あまり鉄道に興味がなかった
だから記憶があまりない,トホネルをぬけるとすすけたとうことはあった
鉄道は今の感覚とは違う交通の要であり大動脈として日本全国に活きたものとして縦横につながっていた,それは血管のような働きをしていたのである。
鉄道の時代は明治時代からであり長いのである。

ただ国鉄時代のことがわらないとこの映画もわかりにくいだろう。
今の人には理解しがたいものともなる

しかし、民間では大手企業でもたくさんの募集があるのに、国鉄職員採用の就職情報が高校に入ってこない。当時は「国鉄一家」と呼ばれていて、いわゆる「コネ」がないと就職できないと言われていた。実際は「局報」と呼ばれる国鉄内の新聞に職員採用の募集が載っていることが多く、一般には知らせることがあまりなかった

まさに「国鉄一家」であり強いつながりをもっていたのである。
鉄道病院が仙台にあり全国にあったことでもわかる
鉄道一家として病院ももっていて支えていたのである。

国鉄というとき最初は炭鉱があり石炭を運ぶものとして鉄道があった,貨物輸送が主だったのである。北海道などはほとんどそうである。石炭を運ぶ貨物輸送のために鉄道が作られたのである。
つまり乗客を運ぶというよりは石炭などの貨物輸送のためだったのである。
それだけ車がない時代は輸送は鉄道に頼っていたのである。
子供のとき貨物の車両を数えていた,それだけ長い貨物列車がいつも通っていたのである何かその辺が今の鉄道とは違う,今のロジステックであり社会の縁の下の力持ちのような役割を果たしていた

ともかく鉄道の歴史は長いのである。明治からだからすでに150年とかなる
だから鉄道に愛着が生まれのも当然だとなる
鉄道には鉄道員だけではない代々働いた人達がいてその人たちの汗と涙もしみついているともなる
それが鉄道員の映画にもうまく表現されていた
最後はホームに雪にうもれて死んで一両の車両で棺が運ばれた
駅には何か伝説にもなるような幽霊が出るような古い歴史がある

結局この映画を見て無人駅と比べると駅長がいてその駅長が主人公なのである。
そこには人情味がありストーブでみんながあたたまんていたり人情がある
人の情が伝わる空間だった,人の情がしみこんだ空間だった
それで駅前の食堂でも今とは違っている,駅前がにぎわっていたのである。
駅の延長として駅前の食堂もあった

無人駅で自分が経験したことはそこに無機質な空間と化している,すべてが機械化自動化している,すると主人公は誰なのか?ロボットなのかともなる
そして将来的には駅には人がいなくなる
ロボットが送り迎えするのである。果たして人はそういう世界でいいのかともなる
その差があまりにも大きい,小さな駅に駅長がいてその駅長が物語の主人公になる
今やその駅長も駅員もいない,主人公は機械になりロボットになる
そんな世界に人間は耐えられるのか?それはどこでもそうなりやすいのである。

別に鉄道員だけではないのである。人間の一生は働くことにするとそこで費やされた時間が人生になる,だからそこに仲間がいてそこで働いた思い出が人生になる
それは鉄道だけではない,倉庫係としてフォークリフトを使い働いていた人が癌になり死ぬというときもう一度仲間と倉庫で働きたいというのもわかる
それは鉄道員と同じ心境なのである。
なぜならそれが人生だったからである。人生の愛着がそこにあり遂にそこで死ねば本望だったともなる

駅とか鉄道は何か伝説にもなるような場になっているのか?それはそこが出会いと別れの場であり人間的なもの情が通う場であり人間的なものがしみついているからである。
それが機械化自動化されるときそういう人間的なもの極力省いてしまう
人間はいらないんだとなる,それがコスト的にもそうした方がいいとなる

この映画の鉄道員は妻をなくした,子供もいなかった,何か淋しい,そこで誰かが幽霊が死んだ子供が成長して女高生になり鍋物の食事を作ってくれる
何かそれが自分も家族がみんな死んでそういうことをしてもらいたいなとなり共感する
それは妻をなくした人がいて今でも妻を思っていることを知っている
その人も一人で暮らしているからである。
この映画にはこうして共感することが多い,その気持ちがわかる
ただあまりにも感傷的に作られているとも思った
そんな鉄道員が現実にいるのかと思う,それほど鉄道一筋の人がいるのかとなる
自分が鉄道で旅しても駅員のことをこんなふうに見ていない
ただ通りすぎるだけだともなる

実際に自分は鉄道の旅が長いから鉄道に愛着がある,それはただ乗せられたものとして鉄道を経験していた,でも乗せる方として鉄道は経験していない
この映画では電車に乗せているのは機械ではない人間なのである
だから人間が人間を運んでやっているということで感謝していると言う人がいた
でも電車に乗せられる人が感謝などしないだろう
自分も全然していなかった,それはなぜか?
人間ではなく機械が運んでいるという感覚になるからである。
こんなに人間が主人公になっていることはないからだ,それは今の社会はそうである。
人間がこれほど主人公になることはない,人間味のない情のない社会である。
金だけが頼りともなり人間は非情化している,人間の心は情は通わない社会になっている便利でいいのだが反比例して人間の情は失われるというのも人間を幸福にするのだろうか?

そうはいっても人間は技術が進歩することがいいことだし追及してゆく
ますます鉄道でも新幹線になり早くなりゆっくり見送ることもできなくなっている
新幹線だとそこには人間の情をはぐくむものがないのである。
ただ一地点から一地点に早く移動する機械でしかないのである。
それは人間が運んでいるのではない,機械が自動化して運んでいると同じなのである。
そこでは人間的なものが余計なものとして排除されているのである。
ただ技術とかは人間の幸福など考えないない,人間の幸福は技術とか科学の進歩と比例することはないのである。
でもそういう情もない世界に人間は生きたいだろうか?
そういう疑問が無人駅で案内して感じたのである。


消えた鉄路

北の果て一本の線路が通じている
それは人と人を結ぶ道路
それははるか遠くまで通じている
駅には駅長が待っている
そして一両の車両を見送る
風の日も雨の日も雪の日も
一両の電車は客を乗せ走り
人と人をつなぎ運ぶ
駅には雪にうもれても
あたたかい灯がともっている
それは人間のあたたかい心の灯
しかし遂にその鉄路も消えた
その鉄路は荒野に帰り雪に埋もれる
その駅も駅長のいたことも忘れられてゆく
それが人の世である
でも聞こえてこないか?
ぽっぽっと笛の音が
辺りにひびきわたる
それは幻覚なのか
一両の電車が走ってくる
何か人間のように懸命に走ってくる
そしてそこに人間の駅長が待っている
手動で操作して電車を迎える
そこには人間がいる
機械ではないロボットが待つのではない
人間が待っている,人間が見送る
人が人を待ち見送る駅
そして鉄路が消えても
そこにいた人間を思い出す
機械やロボットは道具である
主役は人間なのだ
主人公は人間なのだ
その人間がいなくなるとき
機械や道具は必要なのか
人間いてこそそこは活きる
いつまでもそこにいた人間を思い出す
またそこに人間はいつまでもいたい
人間が仕事していたのだ
機械やロボットではない
人間の一生がそこにあり
人間の喜びや悲しみとともに
鉄道はあったのだ
鉄路は消えても人間の記憶はとどまる
無人駅には人間がいない
だから人間が主人公ではない
だから記憶にもとどまらない
もともと人間がいなかったから


二両の電車

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駅淋し二両の電車や眠る山

冬の山二両の電車や暮れてゆく

冬の山二両の電車浪江まで

しぐるるや二両の電車あわれかな

山に没る冬陽や二両の電車かな

.................

なにかこうして二両の電車が一時津浪で途切れたとき相馬市と原町を行き来していた
それも不思議な光景だった,なぜか二両と四両と六両とかで感じが違ってくる
二両となると人間的になり一両だったらそれは本当に人間に見えるのである。
それでこの映画では一両の電車であり哀愁がにじみでていたのである。
急行とか新幹線になるともう人間的なものを越えて哀愁などなくなるのである。
機械化は何か人間の情を抹殺してゆく,それは老子の時代から言われてきたことである。文明は人間的なもの人間の情を抹殺してゆく,文明は何でも便利でも効率的でも人間の情はそこで失われてゆくのである。
自分は車には鉄道とは違って人間的なものを感じないのである。
なぜ鉄道にはこうして人間的なもの感じるのか?
鉄道の歴史は古く人間の情的なものが結びついているからだろう。
ただの便利な物でも人間でも運ぶ道具ではないものとなっていたのである。
鉄道というのはそれだけ人間の歴史とともにあったからだともなる
150年もあればそうなる,ただの機械とか道具ではないものになっていたのである。

枯野(人間的な二両の電車)



2018年03月25日

地元の銀行の歴史をふりかえる (養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)


地元の銀行の歴史をふりかえる

(養蚕から絹織物産業から銀行が生まれた)

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政経東北3月号

明治に入ってから、蚕の卵(蚕種)は特に有名で、質の高い蚕種を全国に出荷しました。また、外国からの需要が多くなったため、福島町の問屋は生糸・絹織物を買い集め横浜の貿易会社から海外に輸出していました。明治20(1887)年の東京・福島間の鉄道開通も有効に働き、やがて、福島町は東北全体の生糸の中心地となり、生糸も福島町の絹問屋を通して販売するようになりました。生糸は当時取引額の最も多い商品で、明治32(1899)年6月に日本銀行福島出張所が東北で最初に福島に造られました。

中小の商工業者や養蚕農民の力を結集した協同組合方式で、地元の資金を地元で活用する方法でした。大正3年(1914)6月に設立された高崎信用組合(現高崎信用金庫)がそうでした。高崎信用組合は、二宮尊徳の「報徳思想」を基盤に、商工業者や農民の相互扶助の精神が、金融方面に結実して設立されたものでした。

銀行というのがなぜ生まれたのか?それはいろいろある,ここでは日本の場合,養蚕業,絹織物業から銀行が生まれた,なぜならその時一大産業が養蚕であり絹織物だからであるそこに資金が集まり貯えられたからである。

こうしして新しい産業が生まれるときそれと平行して交通も発達する
外国との貿易がはじまり横浜がその窓口となった
それで大正生まれの自分の母親が原町紡績(原紡)で働いていたのである。
そして原町紡績に門がありそこに引き込み線があった
直接そこから絹織物でも運んでいたとなる
自分の母親はそこで十年間働いていたのである。
そこでの苦労はそれほど語らない,女工哀史でもない,月給もらったから良かったとか言っていた,その頃の女性の働き口はほとんど農民だとすると農家では養蚕であり街では絹織物工場で働くのと後は女中が仕事だったのである。

銀行を考えるとき養蚕とか絹織物と深く結びついて生まれていたのである。
信用金庫でもそうである。「報徳思想」の相互扶助の団体として信用組合が生まれたというときもそうである。それは養蚕と絹織物工場を主体にした資金を出し合う組合だったのである。

銀行の起源は何なのか?それは養蚕とか絹織物工場の増加で資金が作られそこに資金が集まり銀行が派生して生まれたのである。
金持ちは自ずと金貸しとかになりやすい,それは資金が集まり貯えられるからである。
それで銀行の前進ともなる,その金をいかに有効に活かすかが実は金持ちに託されているのである。その金を元手で産業の振興を託されているのが金持ちである。
だから金持ちだからといってそれを自分の贅沢だけに使うのは本当は許されないのである金持ちには金持ちの役割があるというときそのことだともなる
その他にも金持ちには文化的なものを追及するとかただ無駄に使うということは許されない,もしそうだとするとあの人は金を持っていても金持ちの資格がないと見られるのである。ただその金でもたいした金でないとしたらそうはならない
それは相当な金をもったときそうなるのである。

ただ銀行がつぶれないかというと大正時代もつぶれているし戦争のときもつぶれている
銀行はつぶれないものではない,つぶれるのである。
その時代の経済に大きく左右されるのが銀行なのである。
今時代が変わるというとき銀行が苦境にたたされ合併とかつぶれるとかなる
自分も銀行から投資信託をすすめられて損したから銀行のことを真剣に考えるようになった,なんで銀行のために損しなければならなかったのかと考えるようになったからである人間はみんな金に対してはそれだけ真剣になる,金に笑い金に泣いているのが現実だからである。

大東銀行と福島銀行が合併するというのもそういう時代だからである。
ただ最低ランクの銀行だから合併してもメリットがないということは指摘される
インターネットなどの新しい手法を用いることもできないからである。
銀行とは何かというとき銀行に金をあづけるのは貸し金庫に金を保管するのとは違う
銀行にとっての債務だという,あづけられた預金は借りた金と同じだから本来は利子を払わなければならないものなのである。
その金を活かすことを活かして利子をつけることを要求されている
でもそれを今銀行ができないから苦境にたたされる
つまり金持ちが金がいくらあってもそれを活かせないとその金持ちはみんなからそんなに金をもっていてどうするんだ,お前には金をもつ資格がないとされるのと同じなのである金は貯えるためにあるのではなく社会で活かすものとしてある
それで金は天下の回りものと言われていた,金が回らないとただ蓄蔵されただけでは社会は繁栄しないからである。

いづれにしろ銀行とは資本主義社会と深くかかわるものである。
そのシステムの中核に銀行があった,それが今消失の危機にある、もうその資金を活かせないということは資本主義が機能しなくなったのかとまでなる
資本主義の限界説が生まれる,資金が世界的にだぶついて行き場がない
それでどこにその資金が流れるかとなると今だとビットコインになりオランダでは貿易でもうけた金がチューリップに投資されたり高度成長時期は土地とか絵画にも法外な値段で買われたのである。そういうバブルになるのも資本主義の行き着く先でありそこから崩壊現象が起きてくる

これは郷土史でもあった,銀行も郷土の歴史としてふりかえる,それは江戸時代になると頼母子講になっていたから金融でも歴史がある
まずこの辺ではどういうわけか原町に銀行があったのはわかるがなぜ双葉の新山に銀行があったのか?
そこには自分の父親が酒屋で丁稚として働いていたことは書いた
新山村と長塚村があり双葉郡とは明治移行にできた,そして長塚駅が開業した
新山に銀行があったというのはなぜなのだろうか?
原町なら大きいが新山は小さいからである。酒屋があったとしてもそれで養蚕や絹織物のように富を産むとは思えない,ただその時酒も大きな以前として大きな産業だった
ただこの辺の歴史は調べないとわからないのである。

姉が良く新山の銀行で遊んでいたというのを聞いているからである。
自分の父親は暖簾分けして鹿島に移った,その後勤めた酒屋は倒産したのである。
その当時の産業として一番大きいのが養蚕と絹織物工場である。
いかに兜型の屋根が残されているか,三分の一くらいはその二階を利用して養蚕していたのである。だから桑畑も自分の家の裏にあった
そして絹織物工場というとき自分の母方の実家の父親は祖父は機織工場を経営して失敗して破産してその後家族が離散したのである。
これをみてもいかに当時はみんな養蚕とか機織り工場にかかわって暮らしていたかわかるのである。
郷土史はそれぞれの家の歴史が基本にある。そこに一番興味をもつからである。

郷土史というときいろいろな側面から考察できる,明治以降はまだまだ生々しいものとしてある,なぜなら自分の父親は明治生まれだったし母親は大正生まれだからである。
ただ父方の祖父は何をしていたのかわからない,それだけ自分の家は歴史が浅いともなるただ自分の家についてはみんな興味をもくその祖先を調べる,ルーツを調べるのはわかるただ他の人にとってはそういうことは必ずしも関心をもたないことがある
ただ銀行にしても歴史がありそれをたどることは今を考えることでも大事である。
なぜなら銀行はつぶれないものではない,大正時代とか恐慌とかありつぶれているのだ
戦争のときもつぶれているからである。
とりつけ騒ぎもあったから同じようなことでも起きる,つまり何でも歴史はくりかえすということである。

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みんながアーティストの時代になるのか? (AI化で働くなくてもいい社会になる?)


みんながアーティストの時代になるのか?

(AI化で働くなくてもいい社会になる?)

働かなくては人間は存在し得ない時代がこれまでつづいた,それより働かざるもの食うべからずであり働かないものは犯罪者と同じである。
それは働かねば食料も得られないのだから当然だとなる
働かないものは食うべからずであり餓死して死ぬべきであり現実社会ではそうなっていただからこんなことを言っていることが信じられないベーシックインカムも信じられないことである。
だからそんなもの実際は夢物語だというのもわかる
そんな社会などありえないということである。
ニートがヤクザより役に立たないとか言う人もいるからどれだけ嫌われているかである
もちろん自分はこの辺では働かないことで病院とか介護関係で困っている許されないという状態にある,でもそういう人は別にこの辺でも同じようにいる

そもそも人間は無駄飯食わせるということを相当に抵抗感じるだろう
親でもニートを嫌うのはなぜただ食って寝ているだけの人間を世話し続けなければならないのかということである。
だから親さえもういいかげんにしてくれとなっている,殺人事件も起きる
社会的にも何の価値も認められないし片身が狭い
ただなぜそんな人が増えたのかというと親に経済的余裕が生まれたからできているのである。

団塊の世代が生まれたのは貧乏な時代であるから物質的に何かを得たいという欲望が強い時代だった,それでみんな企業戦士となったのである
会社で働けばその欲望を達成できるからである
電化製品から次には車からマイホームと欲しいものがありそのためにがむしゃらに働いた働けばそれだけ給料も鰻上りに上がる時代だったし利子でも7パーセントだったから信じられないとなる
今はマイナス金利である,なぜなら物価があがれば金は目減りするからである。
貯金しても実際は割引でみる,それでたりないと株とか投資で増やすとかなり失敗する
高度成長時代は一千万を銀行にあづければ十数年で倍になっていたのである。
その差も大きいと思った,そして今銀行自体がつぶれるという時代になったのである。
そういうふうに時代が変わることで追いついていけないのである。

みんながアーティストになる時代というけどアーティストとして歌ばかり歌っているとか何かそんなことで人が認めるのか,それはあくまでも素人の遊びでしかないとなるだろうそこにプロ級のアーティストが生まれることはまれなのである。
そもそもアーティストという時何かプロをイメージするのであり素人はイメージしていない,俳句でも芭蕉とか一茶とか正岡子規とか特別な人をアーティストとしている
絵画の分野でも音楽の分野でもいろいろな分野でぬきんでた人でありそれは極々まれなのである。確かに俳句などいくらでも作る人がいてもそれらはディレタントでありそれで日本人がみんな芸術家でありアーティストだとはならない
アーティストは極々まれな存在なのである。誰でもなれるものではない
相当な訓練と天分もそうだが訓練期間も必要になる,ピアノを例にしてもそうである。
楽器一つを習得するにしても長い訓練期間が必要なのである。
自分も時間があったか楽器を習得しようとしたが挫折した
それは子供のときから習いごととしてやっていないとできない
それでもピアノを習ってもものになるのは極わずかなのである。

人間は何か飯を食わせるにしても金を出す方になると親でも子供が何の社会に役にたたない,無駄飯食らいを養うことができるのか?ニートがどれだけ社会に嫌われているか?
それは社会的に存在価値がないものとして見られているからである。
そのために俺たちは働かせられていることでそうなっている
人間はもしAI化でも機械化でもロボット化でもいい,働かなくてもいい時代がきたとしても人間は必ずその存在価値が問われる
これまでは何でもいい働いて稼いで食べている人はその労働がなんであれ価値あるものとして社会的に認められている
ではそんなにみんなが働かなくなってもいいとなったらその存在価値は何なのだと逆に問われる
誰も無駄飯食らいに金を払うのかとなる

例えば僧侶というのが世界中に存在した,その人たちは働かなくても存在が認められていた,かえって社会で価値あるものとして認められていた
それも今になると僧侶は価値が認められなくなる,それで檀家をやめる人も増えてくる
ただ金をとられるだけでありがたみもないということでやめる
実際僧侶は信長の時代でもそういうことがあった
それは武士でも働かないから農民から米を税としてとりあげている搾取者だという思想家もでている,つまり働かないということはそういうふうに常に批判の的になるのである。それは貧乏な時代なら余計にそうなっていた

自分の場合は特殊な過程環境で働く無くてもいいようになっていた
でも一時は働くことを強制されて苦しんだ,自分は学校でもそうであり会社勤めもできない性格だった,団体生活できないのである。
わがままといえばそうなるがそれで特殊な過程環境で働かないまま遂に老人になったのである。
実際自分は60までも旅していた,これも今になると異常だったなとなる
ぶらぶら旅している人はいる,でも60までしている人はいない
退職して旅しているのとは違うからである。
こうなったのは自分の性格と特殊な過程環境のためにそうなれたとなり普通はなれない
なぜそうなったのか?それはたまたまそういう特殊な環境がありなっていたとなる

そもそもアーティストというとき悲惨な天才的芸術家をイメージする
その人たちは天才であるからそうなった,なみはずれたものを生来備わった人達である。それは社会では極々まれなのである。
だからみんなそんなアーティストになどなれないのである。
そういう人達はアウトサイダーであり社会からはずれた人達であったがその価値は認められている,ただ生前は悲劇的に認められず終わったのである。
ゴッホは一枚の絵も売れなかったのである。

ただAI化とか機械化とかロボット化時代になるとき人間的なものは何かとなるとどうも感情的なもの感性的なもの情感とか宗教的なもの愛とかそういう方面がAI化とか機械化できないものとして見るようになることらしい
なぜならそういうものはAI化できないし機械化できないからである。
するとそういう面での価値が高くなる,それは医者とか看護師とか介護士とか人と直接接する仕事である。そこにはどうしても感情が働くからそうなる
感性という面でもとてもAIとか機械には芸術の鑑賞もできないだろう。創作もできない。だからこそみんながアーティストになるとかなる

いづれにしろベーシックインカムが絵空事ではなく真面目に議論されること自体考えられないし銀行がなくなるというのもイメージできなかった
つまり社会の変わり目には価値観が大きく変わる
江戸時代の身分社会から明治に変わるときもそうだった
だからこそそんなことありうるのという驚きになる
自分の一生は旅と遊びだったけどそれも社会に認められなかったけど今になってそういう人生がすすめられること自体これはなんなのだとなる
蟻とキリギリスの例えがあるが蟻はもう認められない,キリギリスの一生を送れとなるのも時代のの大きな変化である。
ただそうなってもキリギリスでも下手な歌手ではその存在意義は認められないだろう。
そんな人のために飯を食わせておくのかともなる
ただ働きづめの蟻のような人は逆に社会的に批判の的ともなる
そういう人を身内で知っているから自分の親は異常だったと書いてきた
働くことしかしないし価値を認めないから異常だった
でももし芸術でも絵でもなんでも金になれば認めていたのである。

蟻はいらない,キリギリスにみんななれ

こういう社会は何なのだろうととまどう,そんなに簡単に価値転換はできないだろう。
働かなくてもいいからいい社会だとなるのか?
でも以前として人間はその存在価値を問われる
こんな下手な歌い手を養う必要はないとかなる,そうなるとまたそういう人達は社会的価値を認められないから苦しいともなるのである。
猫でも犬でもなぜ養っているのか?それは癒しとなるからである。ネズミをとるとか猟犬とか番犬ではない癒しとなるから飼っている,それも価値観が変わったからである。女性は男性にとって癒しとなるからそういう面での価値は変わらない
別に家事は機械でできるしオカズは買えばいいともなる,現実に自分は全部家事をしているしそこで女性の役割はない
ただ一人だと淋しいとなり癒しが必要になる,そこで女性は必要なのである。
つまり今までの女性の働きは家事だったがそうでなくなったときどうなるのか?
女性も家事だけできても価値ないとなる,生け花をしたりピアノをひいてなぐさめるとか何かそこにも芸術的なものが求められる
それはAIで機械でできないからその価値が逆に高まり家事ができるというたげではいい嫁にはならないとなる
そういうふうに常に価値が変わるから今までの価値観を変えねばならない時人は困惑する
そこで教育の仕方もかえねばならないとかあらゆるものを見直すようになる
そうならざるをえないのである。

posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年03月24日

日本製品は品質がいいが発明発見がない (ものまねだけでは世界から遅れをとった)


日本製品は品質がいいが発明発見がない

(ものまねだけでは世界から遅れをとった)

「追及して磨きをかける」ことで偉業を成し遂げる日本人

DERKNRESで言うのもわかる,日本人はこういうところは歴史的にそうだったのだろう。
職人気質でありもの作りをとことん追及してゆく
それはまさに精進であり神に潔斎してまで追及してゆく
日本刀などを作るにもそうだろう。

ところがそれは日本人のいい点としてあるのだがまたそうでないマイナスの面もある
つまりもの作りにしても発明したものは電器製品でもほとんど欧米のものなのである。
その発明された製品を改良して壊れないものを追及してゆく

でも日本人は猿まねだというとき何か日本人自身で発明したものがない
改良したものはある,そこが日本人としての弱点である。
なぜ発明できないのか?そこに日本人の弱点がある

欧米にはなぜ天才が多いのかということもそうである
ヨーロッパには歴史的にも天才がなぜあのように多く輩出しているのか?
それは単に一人二人だけ突出して出ているのではない
科学の分野でも何の分野でも天才が多いのである。
すると天才が突然生まれるのではなく天才を産む土壌があって生まれてくる
何か発見したのは科学をとってもヨーロッパの天才達であった

日本人はそうして発明されたものを磨き追及するのは得意である。
では全く新しいものを発明するとなると不得意なのである。
それはなぜなのか?
そういう土壌があるからだとなる
その土壌となっているものはいろいろあるから一概には言えない
でも確実に日本人には新しいものを発明する能力には欠けている

そして現代では必要なもの,日本人に必要なものはそうした発明されてできあがったものを改良したり磨きをかけることより何か新しい技術をでも科学の分野でも発明することなのである。
だからITとかで遅れをとった,これも発明したのはアメリカだったのである。
日本でも一時トロンとかでパソコンを発明できる素地があったのだができなかった
そういう能力がないというのではなくなにか日本ではできない環境にあったのかとなる

何でも個人でも国単位でもいい面と悪い面がある,でも日本人の弱点はこうして発明とか発見ができないことで世界に遅れをとる,世界をリードできないのである。
日本にはそういう環境がないと外国に出る人も多いことでわかる
能力があってもそういう環境がない,それで研究者も不満になったり研究とか開発もすすまない,そういう面に力をそそがないしまた出る杭は打たれるのが日本なのである。

武田邦彦氏も言っているが日本では特別金持ちになる人を嫌う,アメリカなどでは特別な法外な金持ちがいてもその金持ちたたくよりみんなそうして金持ちになることを望む
特別の金持ちをたたいてもみんなが金持ちにならないからそうするという。
そういう気質がある,日本では特別な変わった人を養成しない,そういう人は叩かれる
ただ欧米で発明されたものを磨き改良するのは得意なのである。

それは明治維新から西欧化するということ西欧に追いつくということでは良かった
でもそれが成されたときでは次はどうなるのか?
日本人自身が発明しないと世界はリードできない,そこでITでも先を越された
ソフトでもアメリカのが優れていて日本はいいものがでない
それははり発明能力が欠けているということにある

日本人はもともと外国のまねは得意でも自ら開発して発明することが遅れている
それはすでに歴史的にヨーロッパではなぜあれほど天才が生まれたのかということであるそういう土壌があって生まれたのであり何か一人の人間の特別な才能の結果でもない
その生まれた背景がある,それは何なのかというのもテーマになる

なぜなら日本は世界から遅れをとり貧困化するとか三流国になる後進国に追いつかれるというときまさに現実にそうなっているからである。
その原因は日本人はヨーロッパに追いついたとしてもその上をいくことができなかった
ただまねして追いついたがではその上にゆく開発とか発明ができなかったのである。
日本製品がいいというのはわかる
ただそれだけでは世界をリードできない,日本の行き詰まりがそこにある

つまり天才をはぐくむ土壌がないのである。天才とは別に生まれつきのものとは限らない確かにそういうのが天才だけどではそれがその時代とか国とか背景があって生まれる
音楽の天才でもそこにヨーロッパの音楽の作られた歴史があり生まれてくるからだ
例えば日本の音楽というときそれが発展しないのは発明がないからだともなる
伝統は同じものでありそこから革新的なものが生まれないのである。

ともかく天才を作るには生まれつきだけではできない,そういう土壌があり発明をすることを子供のときから訓練する,ただ暗記だけではない,ものを考えるとか工夫するとかを訓練するのである,それが受験戦争とかではできない
要するに発明発見が常にどこでもありその能力を高める訓練することである。
教育でもいつも型にはまったように教師から学ぶ時代は終わる
ITとかAI化とかで自主的に開発してゆく能力が必要になる
ただ一方的に先生から教えられるような時代ではなくなっている

インターネットだとこうして人の意見でもマスコミでも週刊誌でも雑誌でも引用して対話して考えることができる
自分は対話していないがこうしてダークネスとか武田邦彦氏とか前は「心の青雲」の都築詠一氏とかとは対話して書いた,やはりそこには一貫した主張があり反発もあるが読むべきものがあるからだ
確かに日本人のいい点として改良して磨きをかけることはあってもそこにたりないものもある
その足りないものこそ日本では今必要とされているのである。

ただそうなると簡単にいかない,なぜならその土壌は歴史的にも作られているとしたら即席に作れるものではないとなるからだ
ただ日本人に必要とされているのはそうした開発とか発明とか新しいシステム作りとかである,そういう改革できないのでヨーロッパに追いついても世界をリードする国とは成らず後進国にもの作りではおいつかれて日本自身が三流国に転落しつつある
貧困化してしているのである。欧米で発明されものを磨き改良したのはいいがその先をいくことができなかった,そこに行き詰まりの原因がある
原発事故などでも「安全神話」を作ってももともとアメリカより技術や安全については遅れていたのである。
日本人は技術的に優秀だというのもうぬぼれだったのである。
だから日本人を自画自賛しすぎるのも問題と思う,いい点は認めるとして一方でそれでたりないものがありそこが今問題になっているからである。

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

スマホばかり見ていると人間の五感が衰える (駅でもスマホばかり見ているのは異様)


スマホばかり見ていると人間の五感が衰える

(駅でもスマホばかり見ているのは異様)

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週刊朝日3月30日号

駅でまずスマホを見ていると会話ができない,スマホを見ているのに話しかけることができない
スマホを見ている人は他者とのコミニケーションを拒否しているのである。
駅で気づいたことは外部から来た人とか5分でも待っているから話しやすいのである。
だけどみんなスマホを見ていて互いに話あわないというのも何か異様に感じる
ひたすらスマホを見ている,無人駅でスマホだけを見ている光景は異様にも感じる
ただスマホで即座にわかりにくいのがタクシーの番号などである。
タクシーの案内は駅舎を出たところに表示してある,でもそれがわかりにくいからスマホで調べる,でも即座に検索ではでてこないのである。
意外とインターネットは即座に出てこないものがある
家で調べると時間があるから検索を時間をかけてやれるからあったものが出てくる

駅でも無人化するとそこには人がいない,乗客同士も会話もしない
ただひたすらスマホを見ている,何かそれが異様なのである。
ただではなぜタクシーの番号がわからないのか?
もしロボットをそこにおいてタクシーといえば番号を教えるしタブレットを置いてタッチしたりしても案内はできる
でもインターホンがあるのだがそれに気づかない人もいるのである。
地元の人は慣れているからわかるがはじめての人はわかりにくいのである。
そこに無人駅の盲点があった

駅で一番感じたことは必ず待つ時間がある

その待つ時間が人間的なものを作り出していたのである。
電車が来るのを待つ,そこで5分でも必ず待つからちょっとした会話をする
今日も仕事できた人が香川に行くとか行ったので自分も行ったことがあるので
話する,それはほんのわずかだけど直接話する
うどんばかり食べるなというのもわかる,全国を飛び回ると地元の名物の食べ物は食べられるなとか話する

その人はその時駅舎から出た喫煙場になっているところで二人で話していたからその話を聞いて語りかけたのである。たわいのないことだがそんなふうにちょっと話して見送る
そういうことはつづいている,自動化しているから何か教えることがなくても待つ時間に語りかけるのである。

確かに手紙でも手紙を出す返事を待つ間に今までは時間があった,二三日とかで届く
それまで待っている時間がわくわくするとかどんな返事がくるのかとかあった
今は手紙も出さない時代である。電子空間で即座に返事がくる
待っている時間がないのである。
常磐高速の鹿島のセディティは間違って解釈していた,この辺の方言連れて行ってという意味だった,方言を使っていないから忘れて英語だと思っていたのである。

それは別として車だと待つ時間がない,車は着いたら用事をたしてあとはまた車に乗ればいい,そこで休んでいても待つ時間がないのである。
電車には必ず待つ時間がある,そこで人間的な時間が生まれる
現代はなんでもそうした無駄な時間が効率化して省かれるのである。

週刊朝日でスマホばかりしているとかえって知能が劣るとか高齢者は認知症になるとか警告しているのもわかる,第一インターネット空間で旅などできない,実際に旅した後にインターネットでその旅をたどるのはいいがインターネットの仮想空間では旅の体験はできない,旅は五感でするものでありそこで記憶される
そうして自分は旅をふりかえり短歌とか俳句とか詩にしている
それは実際にそこに行ったことを五感で記憶していたからである。
それで記憶が蘇り記憶しての旅ができたのである。

確かに老人になって孫をあやすときスマホを見ていたりしたらできない,幼児には絶えず顔の表情とか見たり一対一の対応が求められるからである。そこにスマホばかり見ていたらそれができなくなる
それは駅でもスマホばかり見ている人には話しかけることもできないからである。
もちろん会話など駅でしたくないさける人もある
そんな場でないという人もいる,でも駅は待つ時間がありそれでちょっとでも会話する
そういう人間的な場所を演出するものとしてあった
無人駅でも待つ時間がありそこで話しかけることはありえたのである。

とにかくこれだけスマホの時代になるといろいろ影響する,脳が変化するというのもありうる,スマホはまた自宅でインターネットしているのとも違う
それは外の空間で絶えず使っていることは外の認識力が衰えることにも通じる
その場の雰囲気などがありスマホではわからないことが新しい所に行ったから感じる
でもスマホばかり見ていたらそうした五感で感じるものも感じられなくなる
スマホばかり見ていたらそこで一句でも俳句を作るとかできなくなる
その場の雰囲気とかを感じなくなるからである。

その駅でも田舎でも何か見るものがあるが見ない,合歓の花が咲いていたり柿がなったりしている,外の風景もある,電車のなかでも外の景色を見ずにスマホばかり見ていてもそうである。
何か五感で感じるものがかえってそうした文明の利器で衰えてくるというのも逆説であるそういうことは前にも書いてきた
ただ自分はスマホしていないから実際のことがわからない
ただインターネットは自宅で絶えずしている,今回の朝日新聞の記事でも今はインターネットで詠んでいる、それでその記事に答えるというのもインターネットなのである。
何かそうした今までのマスコミに個人が答えて書くということはできなかった
今だと気軽にできる,ただ読む人の数が格段に少ないというだけである
週刊誌だったらやはり読む人の数が今でも多いのである。
でも最近週刊誌はつまらなくなったと本当に思う
書く人が決まっているしつまならい芸能人などに書かせているからである。
むしろ無数のプログの記事に面白いものがあるがそれがなかなか出会いないのが難点なのである。

いづれにしろ情報化社会ではスマホを否定しても紙幣とかがなくなりスマホで決済するようになると必需品になる,だからスマホにも問題があるのだがそれを否定はできない
ただ人間的なものが失われ人間の五感が衰えるというのも文明の逆説である。
江戸時代の旅なら濃密な旅をしていた,それは人間との出会いでもそうである。
旅は道連れとなっていた,それは交通が不便だから一回会って分かれたら二度と会えないからである。そこで出会うということは人生の貴重な時間だったのである。

現代は便利すぎて何か人間と人間がすれちがいただ去ってゆく,そこに必ず情が失われている,文明がすすめばすすむほど反比例で情が失われる
その情が失われることで殺伐とした社会が生まれる
インターネットとかの人間でも出会うとそこに危険があり信じられない殺人が起きたこともそうである。面と面で向かって接していればそうはならなかった
それがインターネットの負の面だったともなる
ただ車でもそうだし原発でもそうだったが技術は負の面をもたらすのである。
それを否定すると技術は進歩しないのである。
自動運転でもそうである。歩行者をひいて死なせたというのもそうである。
新しい技術は必ずそうして負の面をもたらすのである。

スマホをもつな、するなとはもう言えない,でもすべてスマホに頼ることはそうしてまた人間的なものを失うのでスマホばかりに頼らないで人間的五感を働かせることに注意を向けることも大事だとなる
スマホですべて何でもわかるわけでないのである。知らない土地に行ったらその雰囲気とかを五感で感じる,そして記憶にとどめる,それは旅でも結局すでに車だと風も光り感じない、運転に集中しているとできないのである。景色もゆっくり見れないのである。
それと同じだからスマホだけを批判するのは間違っているともなる
そういうことはすでに弁明の利器を使うときどこでも起きていたことだからである。

老人は消費能力が減退する (景気が良くならないのはそのためもある)


老人は消費能力が減退する

(景気が良くならないのはそのためもある)


何かこれまで消費してきたしてきたことの延長として老人もある
これまでしてきたことを継続してする
新しいことをはじめるのはむずかしい
それで登山したなとリュックを通販で買った,ところが登山する力がなくなった
自転車でまた遠く行こうかと思いいい長距離用の電動自転車を買おうかと思ったが
それも体力的に無理になったとか,旅行するからスマホとタブレットをもってプログで報告しようとか考えた
だけどそれもめんどうになった,金銭的問題ではない,手間だなと思うようになった
旅行するのもめんどうになった,なんか外人が多くて落ち着かないなホテルはとれるのかなとかなる
それはすでに介護十年で旅はしていないこともあった,何か気力が失われた

これをしてきたから何かしようとして買おうとしてもそれが消費できない,何か活用できないのである。それは金の問題ではない,消費するというとただ金を無駄にするというのではなく何か買っても金を使うにしても活用できないのである。
何かそれが年取ることなのかと思った
それで今度買ったのが近間を回る電動自転車だった
今の大きいのと重いからである。現実に自分は近間を回っているだけだからである。

それで昨日いいロードに乗っている若い女性をコンビニでみかけた
それはアメリカ製でspecilaizedという会社であり相当にいいものだった
カーボン制だから軽い,カーボンになると相当に高くなる,8キロだという
自転車は軽いのがいいのである。
その人は靴もペダルから離れない競走用のものを使っていた
目を防備するために眼鏡をかけていた,それは目が悪いからではない
だから本格的なのである。
そして坂がきついから自分は電動自転車にしたというと

私は坂を上るのが好きなんです

本当にロードに乗る人はそういうことで乗っている,若い人ならそうである。
その女性は二十代である、その人は近くに住んでいる女性だった
ただここに前から住んでいる人には見えない,なぜならこの辺は外から入って来た人が多くなっているからだ
ただ前にも相馬市の人がフランス製のロードに乗っていた,そんな外国製の自転車を買えるのかと思った,ここでの一軒の自転車屋では外国製は買えないからだ

この女性を見ればわかるようにろうしたいい自転車にのり坂でも上ることをかえって自転車に乗る醍醐味にしている
一方自分は若いときでも40代から自転車をはじめたが坂が嫌で嫌でしょうがなかった
だから歩いて上っていたのである。
つまり消費する活用するというとき物を買ってもできないなと思うようになった
なにかレジャーでもそれは一見遊びのようでも消費する活用するエネルギーがないとできないのである。
それで老人は消費能力がないことに気づいたのである
消費するというとき知っている人はしっょちゅう病院通いでありそういうことに一番消費されているのである。医療関係とか介護関係に老人は消費している
ではレジャーとかに暇と時間があればしているのかとなるとしている人もいるが老人が消費するのはどっちかというと定着的であり動的なものには消費しない傾向がある

意外と老人は食にはこだわる,自分は今まで食にはこだわらない,腹を満たせばいいとかなっていた,それより三色用意されていたから何を食べるかなど考えたことはない
一人でなんでもするようになって何を食べるか選択するようになり考えるようになった
でも簡単にすませるのがいいと最近は野菜でも多くて時間がたち腐らすので冷凍食品がいいと今になり気づいた,要するに一人は何を料理するのかではない,何を買うかがいろいろありわからないのである。
冷凍食品は簡単にするには便利だと今になってきづいたのである。

老人はいろいろでも比較的あまり動かない,家にいる時間が長くなる
すると家が住みやすいように環境を整えるということになる
内装とかにこる人もいるだろう
庭作りとか近くで畑で野菜を作るとかに励むのが向いている
家庭菜園などもそうである。そういう方面でも老人の消費するものは変わるなと思った
あとはテレビでも時代劇が面白いなと良く見ている
BSで今度は桃太郎とか毎日やっている,この前は暖簾分けとかいろいろ江戸時代のことを放送している,江戸時代のことをもっと知りたいと自分は思っている
長屋があるとしてそこではプライバシーがないのだが家族のようにもなっていた
部屋を空けるにしても他の人が見ているから心配ないのである。
長屋が家族のようになっていた,それは仮設暮らしがみんなひどいと思う人がいたがそこでは長屋のようになって毎日顔合わせて親しくなって女性の人は楽しいと言っていたのである。補償金ももらえるし悪いものではなかったのである。
手に入らない大金を手にした人も多いのである。

思うに現代と江戸時代を対比するとき,江戸時代にも隠居文化みたいのが盛んになった
盆栽とか花を楽しむとかあった,それは共通している,これだけ高齢化社会になると新しい隠居文化が生まれるかもしれない,パークゴルフなどはそうである。
ただ江戸時代と現代は違うからでは隠居文化とはなにになるのか?
プログでその人の人生経験を語るとかもそうかもしれない,老人は今何か語る場がないからである。会社人間から地域人間になりえないというより地域のコミニュティなど存在しなくなったからである。

何か自分と書くことは得意である。だから対話もなく延々と自分の興味あること経験したことを書いているのである。
もう一つは抽象画が新しく開発した分野である,これも本当に不思議だなと思う
これはまさに新しい芸術だなと我ながら思う,なぜなら膨大な写真とか絵がインターネット上に無限にある,するとそれを変化させることも無限にある
その写真や絵があるからこそ変化させるのも無限だとなる不思議である。
現代はとにかく写真の時代でありデジタル化して膨大な写真が簡単に見れるようになり撮れるようになった時代である。それはやはり一つの時代を象徴している
写真や絵が言葉以上に情報化した時代だとなる

とにかく何かを売ろうとするとき老人向きなものが売れることはある
電動自転車が売れているのは老人向きということもある
時代劇をもともと好む人がいたが老人向きでもある,それより江戸時代は隠居文化があったように江戸時代を知ることは何か心を豊かにするのである。
だから長屋で暮らしていたとかその当時の暮らしを知りたいとなる
それもそんなところでどうして暮らしていたのかと不思議になる
人生百年を生きるとしたら何かそういうふうに老人の消費というものがどうなるか知らなければ売れないともなる
若者向きだった消費でも老人向きの消費となると会社でもあまり考えていないからである。


隠居のつとめ 

隠居文化というとき武家の文化人のことだとここでは書いている
そういう人達はもともとそういう素養がありだからこそ隠居文化を自然と作り上げた
町人とかでも農民でも急に文化人にはなれない,武家でもそういう人達は屋敷で使用人を雇っていたのである。
だから隠居文化もそうして金銭的にも余裕がないとできない
ただ現代は老人も貧困者が多いが恵まれている人もいる
そういう中から何か隠居文化のようなものが生まれる可能性はある
ただ浪費されるういこともある,何か文化の時代になっていることは確かなのである。
物質的繁栄の後には文化の時代になる
そもそも情報化時代とは文化の時代であり物質だけを追及するものではないからである
posted by 老鶯 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2018年03月23日

彼岸(家族は悲劇で終わる-家族の詩)


彼岸(家族は悲劇で終わる-家族の詩)


かよわきも遂に生き抜く百歳を母は死にしもここにありなむ

姉と母我が家を支え久しきを争い憎むも墓に眠りぬ

草うもるこの墓あわれ誰と知る彼岸にあれば花を挿しにき

墓参りつとめとあれや故郷に彼岸にあれば花を挿しにき

この家に長くもあれなその思いここに残るや我が跡つぎぬ


一家族の終わり

悲しみも苦しみも喜びも
ともに過ごしてこそ家族なり
それぞれの家に思い残りぬ
憎しみ争いもつづきしを
最後は悲劇となりて終わりぬ
長い歳月に記憶はここに刻まれ
荒れにし家も静まりぬ
蠟梅の庭に咲きつ雪のふり
寒の戻りや我が家の古りぬ

彼岸だけど昨日は寒かった,前には雪もふった
今年は寒い日がまだつづいた
ストーブから離れられない,でもそもそもあたたかくなる
暑さ寒さも彼岸までというからそれにあっている

自分の家族はみんな死んだ,最後は悲劇として終わった
シェークスピアが悲劇を題材にしたのはやはり人間は悲劇的存在だからである。
悲劇になるようにできている,家族でもそうなのである。
家族でもそれぞれ違っている,同じ家族はない
家族というとき必ずしも血縁とは限らない
家族とは悲しみも苦しみも喜びもともにした一つの仲間なのである。

喜びだけをともにした家族は家族とはいえないだろう。
必ず悲しみがあり苦しみがある
それをともにしてこそ家族なのである。
なにがそれは故郷にも通じるものがある
故郷とは本当は仲間であるとしたら悲しみも苦しみも喜びもともにした人達の集まりともなる
戦後開墾に入った人達は結束力が強いというときそういうことを経験しているからであるだから故郷から離れたくないとかもどりたいとなっているのが老人なのである。
若い人はまだそうした苦しみとか悲しみ喜びを経験していないからである。

人間は悲劇的存在である。それで「悲しむのは幸い」なりとキリストは諭した
なぜ悲しむ者が幸いなのか?みんな悲しむようになることは嫌なのである。
それがなぜ幸いなのか?これは本当にわからないことである。
つまり人間は悲劇的存在なのである。悲しみに終わる存在なのである。
そういうふうにあらかじめ定められている,それは死があるから誰でも最後は悲惨だとなる
そして人間は家族でもなんらか必ず争いが起きて一つにはなれない
たからこそ離婚が三人に一人とか多いのである

人間は最後は悲劇的に終わる,自分の家族も悲劇だった,でも何かそれでもその悲劇の中に人生の深い意味があったことを実体験からしる
悲しみの故に人間はあり悲しみの涙を神はぬぐいさってくれるというとき
この世はそういう場所だということである。
正直家族というのは血縁というのをキリストでも仏陀でも否定したのはそこに真の人間としての愛が通わないからである。
家族にはそんなことがあるかというとそれは肉の愛だからである。
そういう悲劇が自分の家にあった,それはどこの家にでもある問題である。
この世の肉の家族には平和はない,そこに争いが必ずある
それで嫁に来た女性が嫁いだ先の墓に入りたくないという人が三分の一でもいるのがわかる,そこに平和がないからこそ血縁を否定したのである。
だからこそ人間の最後はみんな悲劇なのである。
悲しみの中で死ぬのである。それは定められたことである。
この世自体も最後は悲劇で終わる

一個人も悲劇で終わる
家族も悲劇で終わる
人類も悲劇で終わる
それがこの世の定めである
そのあとに神の国が来る

いづれにしろ死ぬとたちまち忘れられる,こんなに早く忘れられることに驚く
誰かその人を思い出すだろうかともなる,それだけ死んだとたんに人間は忘れられるのである。草に埋もれてその墓は誰かもわからなくなる
60年一緒にいてもそれが本当に一緒にいたのかふら定かでなくなる
それだけ人間は家族でも忘れやすいのである。
60年も一緒にいたのにまた現実の生活に追われ忘れるのである。
彼岸だから死者のことを思い出すということで墓参りがあるのはいいことである。
それでこの一文を書いたのである。




タグ:家族 悲劇

大きな時代の変わり目 (銀行であれ大きな会社であれつぶれてゆく時代)


大きな時代の変わり目

(銀行であれ大きな会社であれつぶれてゆく時代)

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文藝春秋(4月号)

時代が変わるとき今までの規制のものが崩壊してゆく
その象徴が銀行だった,銀行などつぶれない安定したものだと思っていた
地方で銀行と公務員と農協職員はエリートであり安定の象徴だったのである。
そういうものが不安定になるということは時代が大きく変化しているからである。

紙幣を金を流通させることは手間がかかりそこに膨大な費用がかかる
それをスマートホンとかで決裁すれば電子情報として金が流通する
すると手間も費用も大幅に削減される
つまり紙幣と金貨は過去のものとなってしまう
そういう時代にすでになりつつあるし中国では実現している
紙幣を使うことは前時代的になる
それも大きな変化であり銀行が無用化する大きな原因である。

自分はスマホは使っていない,そこで遅れるということはある
60代以降はスマホを使わない人が多い
そこに世代間の格差が生まれる
スマホが紙幣の金の代わりになるときスマホをもたないと買い物もできなくなる
中国ではすでに小さな商店でもスマホが紙幣の代わりになっている

銀行にはただ預金だけが増えてその資本を貯えてもそれを活かすことができない
利子もつけられない,ただ金だけが貯えられてもそこで富が産み出せない
それでどうするのかとなり投資信託などを顧客にすすめる
それは銀行にとっては手数料を稼げるものだが顧客にとってはもうからないものである
なぜなら手数料は確実にとれるが客がもうからないものだからである。
そういうものを投資のことを知らない老人にすすめている
でももうからない事がわかれば銀行を信用しなくなる
銀行から客も離れてゆく,自分も銀行の見方が変わったからである。

銀行が窮地にたたされているのは大きな時代の変化のためである。
技術革新があり社会の変化のためである。
金融というときそれが情報時代に最も情報化しやすいものだった
銀行は情報産業だったのである。
一面そうだからこそ情報化しやすいからこそ情報社会で無用化されるようになったのである。

時代の変革期には今まであったものが消失して新しいものが生まれる
その時必ず痛みが生じる,それを今銀行が負っている
大規模なリストラとか合併とか投資信託とか株への移行とか起きている
それは一時的なしのぎのようにもなっている
銀行が生き延びるのはどういうものになるのか見えないのである。

銀行は本当に店舗がありそこに人員を配置して対面的信頼関係を地元で築いてきた,
それが機能したのは高度成長時代だったのである。
それから銀行は貸し渋りとか企業に一般の預金する人にも利子がつかないのでただの貸し金庫のようになってしまったのである。
その放題な金融資産も活かせない,かえって預金してもらうと困るともなって金をあづければ事務費をもらうとまでなってしまった
そして預金がある人は目をつけられ詐欺的な投資信託をすすめられるのである。

もう銀行というシステム自体崩壊しつつある,デジタル化情報化社会に適応できないのである。店舗型経営というとき通販とかもあって書店が消えるように物として管理するものは機能しなくなる,本は情報でありこれも電子化しやすいし例えは絵画とか音楽でも映画でも情報化しやすいのである。
だから別にこれは電子化しても問題ないのである。
ただ対面的なものとして人間しかできないことは残る,AI化しても人間にしかできないことがある
それは愛情とかいたわりとかやさしさとか何か機械ではAIではできないことである。
医者とか看護師とか介護とかにはそういうものが求められるがAIではロボットではできないのである。
物理的な移動とか物をもちあげるとか機械でできるものは機械化されるがどうしても機械化ロボット化AI化できないものがありそれが人間的な労働となり価値を産むようになる

銀行は何か金を扱うのだが数量化しやすいし数値化情報化しやすい,電子化しやすいのである。仕事の性質が何か電子化しやすいものだった,だから情報化デジタル化電子化の技術の変化を一番受けているともなる
株式でも何か電子化しやすいのである。もう人間だけではとてもグローバルした株式市場とか情報化社会のデーターを処理できないのである。

これからの銀行はどうあるべきなのか?
そう考えている余裕もなく時代が進行している,否応なく銀行は時代の変化によって淘汰されてゆく
そういう変化にあることを自分も知らないから銀行で投資信託などすすめられてのったのが失敗だったとなる

一番不要になるのは預金、為替などのテラー業務。 
いわゆる一般職のおねーちゃん達。 
銀行でも渉外や融資管理、債権回収などはむしろ人手不足なんだわ 
銀行総論ではこれから人手余剰だけど、内部では人員足りない部門が厳然としてある 
おねーちゃん達に今更そのへんを教育、再配置する時間がない 
県二番手以下の零細地銀とかは会社丸ごと不要、淘汰だけど

銀行員として本当に相手の人格や事業可能性を見て金貸ししていたならまだしも 
日本の銀行員なんて土地しか見てこなかったからな

銀行は本業だめだから手数料が高い保険とか投信の販売で 
稼ごうとしているが、そんなの証券会社の猿真似でしかない。 
証券会社で以前問題視された投信の回転売買を今頃真似して儲けようとするとかアホの極み。 
銀行としての本来の業務を正常化させないと株が取り扱えない劣化証券会社に成り下がる。

早々に口座解約しようかな 
この人たちは身を切るってことを知らないのかな 
自分たちの給与ボーナスは維持して 
しわ寄せを客に押し付けるつもりか? 
利息もほとんどつかないし
公務員よりも害悪じゃないか

銀行は今まで特別楽だったのである。公務員と変わりなかった,マイナス金利になり金が国から入ってこなくなり窮地にたたされている
やはり楽しすぎると後で人間は苦しいことがやってくる
それは自分もそうだった,社会的に訓練していれば苦しい目にあっていればこうはならなかった
楽しすぎることは後で必ず苦労するのである,銀行は国から資金が出てつぶれなかったりと公務員並だったからである。
なにかこの世で安定しているものがないのかもしれない
津浪や原発事故でも公務員は今生き残るために四苦八苦している
もうやめたいというのもわかる,住民がいない町が成り立つのかとなる
銀行はどう生き残ってゆくのか,そこには相当な痛みが生まれる
その痛みを負わされたのが投資信託をすすめられて損した客でもあった自分にも負わされたのである。だから銀行は何なのだと身内のことのように考えるようになったのである。

タグ:銀行の危機
posted by 老鶯 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

駅は誰のものか? (JRだけのものではない,みんなが利用するから)


駅は誰のものか?

(JRだけのものではない,みんなが利用するから)

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JRで張ったバス停の表示-時間などはでていない


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自分の作ったもの

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北郷タクシー 電話番号 0244-48-4135

これがわかりにくい,スマホでもわかりにくくすぐ呼び出せない,駅舎を出た所でわかりにくい,
このことをタクシー会社に言ったが変えていないのである。



二カ所駅からバス停の案内を駅にはってあった
自分がはったのは撤去した
ルールだからと他のパンフレットも撤去した
そしてバス停の案内をだしていたがこれは時刻などは書いていない
自分のには「鹿島駅の交通案内」として詳しく表示していた

でも想像するには自分の鹿島駅交通案内を参考にして
バス停を表示したのかもしれない
何かJRは駅を管理するのはJRであり他の人をかかわらせたくないのである。
自分の表示の方がみんなにとってわかりやすいことは確かだからである
ただ別に申請して許可されれば張ることはできる

でも何かJRではJRの縄張り意識がある,それはどこでもある
自転車屋でも医院でも他の医院にかかるなとか占有したいとなる
でも個人経営ならわかるがJRとなると相当に公共性が高い
みんなが利用するからである。
駅という空間は公共性が高いのである。
ただホームとかに入ると危険なこともあり勝手に入るのは問題かもしれない
ヨーロッパでは出入りは自由である

ともかく何かJRは駅はJRで管理するから他のものをかかわらせたくないのである。
それは間違いないと思う
でもなんかJRでも例えば警察でも大きな会社になると公共性が高くなる
それで東電なんかは本当に公共性が高いものであり一旦事故を起こしたら
とりかえしつかないものだから東電とか政府とかだけにまかせておけないものだった
そこは東電のものしか立ち入りできないとなると危険も指摘できないのである。

では外部のものが立ち入るというときマスコミとか記者とかがたちいる
なにかその内部を知らせる人が必要なのである。
それができなかったら内部で何をしているのか?
東電のように外部のものが立ち入ることもできないとき今回の大事故になりとりかえしのつかないようになる
だから誰かが監視する必要があったのだができなかった
できないようにされていたのである。

まず外部から監視するといっても一個人がそんなところに入ることもできない
つまりなんらかの権力をもたされないとできないのである。
それは警察でもそうだしどこでも権力をもつ組織に一個人など入り込めないのである。
ただ記者とかの役目はそうした大きな権力をもつ内部のことを知らせる役目があった
そうしなければ権力の成すがままになり暴走する
原発事故では実際にそうして原発内部のことはしりえようがないからそうなった
原子力のことがわからないから教えても無駄だとか危険だとか立ち入れることはできないマスコミも原発については宣伝費をもらうから追及しなかったのである。
そうして大事故になったのである。

JRはまた別だが駅はJRで管理するから他の人はかかわるなというのがポリシーである
でも駅は公共性が高い,みんなのものなのである。
ただもしJRだけで管理するとなる駅を二分化することが必要になる
駅の待合室は市で管理するとかそこから切符とか鉄道にかかわることは別にするとかなる管理するものを市とJRに分けるのである。
実際はトイレは市で作り毎日掃除を金を払って頼んでいるからである。
そしてホームの内部のトイレはJRで頼んで掃除してもらっているのである
そういうことが可能でもある
ただめんどうになることは確かである。

いづれにしろ自分のしていることは一プライベートな記者なのだろう。
だからなんの力もない,ただプログで報告はできるからしているだけである。
今はそれほどすることはない
ただ良く聞かれるのはわからないのはタクシーの北郷の電話番号である
駅舎を出た所に表示してあるからわかりにくいのである。
そのことを何回も自分はタクシー会社に言ったが変えていない
スマホとかでタクシー会社を調べてもわからない人がいる
スマホだとインターネットでもそうだが検索がめんどうになる,時間がかかる
それで急いでいるとき役に立たないということがある
それは津浪とか緊急時に検索している時間がないということがあり役に立たなかったともなる
一方で緊急時にインターネットが役に立つこともあるからすべてはそうではない
緊急にわからないことがあるとき検索で即座に出てくることもあるからだ

ともかくJRとなると公共性が高いからJRだけで管理することはできない
駅前の広場でもそこはJRの土地だがではみんなが車で利用する場でもある
公共性が高いということは自治体がかかわることになる
その地区の人もかかわる,だから公共性が高いものはみんなが利用するものは
外からの意見とか要望とか監視が必要になる
それがJRではJRで管理するから他の人は立ち入るなという縄張り意識になっている
危険があれば別だがそもそも無人化しているのだから
監視カメラを四台あるとしてもそれで立ち入るなといっても自由に出入りしているのである。
もしJRだけで管理するとなると駅員を置いた方がいいとなる
その人は四六時中監視しているからJRで全部管理できるとなるからである。
タグ:JR 無人駅

2018年03月22日

詐欺まがいの投資信託を売る銀行 (士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


詐欺まがいの投資信託を売る銀行

(士気があがらなくなり客も働く人もやめてゆく・・)


特に外資などの場合、成績を上げなければ明日にでもクビになってしまうのでその売らなければいけないプレッシャーやストレスたるや物凄いものがあります。なぜなら、お客様が儲かろうと損しようと関係なく手数料収入をとって利益を上げなければ、金融マン自身の給料すらも貰えなくなる可能性があるからです。

当然だれもがお客様の大切なお金を減らしてやろうなどとは最初から思っていないと思います。ただ、大きな商業系の銀行で営業マンとして採用されている立場の場合、新しい投信のキャンペーンなどがあるとどうしても一定数以上を見込み客に売らなければならないというノルマを課されます。

銀行は信用するなというときこれだった,まず銀行では顧客のためにすすめるのではない必ずすすめるのが今はやりのものである。
AIとかロボット関係などを今度はすすめてきた
でもこれもチャートでは上昇曲線でもその上昇曲線になっているときはすでに下がる兆候なのである。そこに投資が集中していることもある
つまり銀行員や証券会社の人達がすすめるときはすでに旬が過ぎているのである。
もうけるにはずっと前に投資して上がったとき売らなければならない
だから銀行とか証券会社がすすめるのはほとんど旬が過ぎたものであり下降線になるときのものなのである。
だから投資は上昇するものを早くから見込んで投資すれば上昇すれば利益を得られる
見通しが大事だとなる,銀行とか証券会社は常に今はやりでみんなが投資しているものをすすめる,その時は遅いのである。

投資信託は本当に詐欺的商品である。その仕組みなど複雑でわからない,そのわからないことにつてこんですすめている
そしてまず手数料が確実に入るものであり銀行には何のリスクもないのである。
銀行自体で投資すればリスクがあるが投資信託のリスクは全部客がかぶることになるからだ,これほどいい商売はないのである。
それは銀行自体で知っているのである。投資信託は銀行にとってもうかるものであり顧客にとってもうかるものではない,そのことは知っている
営業に来る人はノルマを課せられているからそんなことを言っていられないのである。

現実になぜリーマンショックでもっていた株が上がってきたのにそれを投資信託に回したのかとなる,その時の状況があってもそこで自分は言いたいことがあったが勝手に強引に投資信託に株を売って回したのである。
分散投資するなら株と投資信託とリートと国債ともっていれば確かにもうかることもないが損することもなかったのである。
USリートは良かったが後は全滅になったのである。

ただ正直こうして何も知らないで銀行をプロの人だと思いまかした自分にも責任があり自己責任だといわれればそうである。
しきりにプロですからまかせてくださいというが実際のプロは別にいた
それは本当の富裕層であり株を知っている人なのである。
そういう人達は金を増やす術を知っているのである
まず証券会社とか銀行に頼む人は株のことや投資のことは知らないのである。
自分も全然知らずに金融のプロだと思いまかせたのである。
その時はこの人は金融のプロだと思っていたからである。
証券会社や銀行はプロとはいえない,会社のための利益を優先する人達であり顧客は二の次三の次である。
だからこそ投資信託をすすめる,それは証券会社や銀行にとって利益があがるものであり客にとってあがるものではないのである。

そして投資するならわかるものをやれとなる,株だったら別に安いとき買って高いとき売ればいいだけでありそれは自分で決めるべきなのである。
銀行でもそれがプロだとしてまかせたら銀行員は自分のノルマを果たすことと銀行のために利益になることしか眼中にないのである。
そこで逆に判断を誤ると思った,つまり株が上がってきたのにそのままにしておけばいいのに自分のノルマを果たす利益をあげるために投資信託をすすめたのである。
そういう商売をしていたら一時的にはいいとしても銀行自体の信頼が喪失する
もう喪失している,なんだ銀行はそんなものだったのか,詐欺的なものでも堂々とすすめる,ただ別に投資をすすめても悪いことはないのである。
それは顧客の利益をまず考えることである
株が上がっているのになぜ投資信託に回したのか?
それは自分のノルマと銀行の利益を優先するからそうなった

自分にしてもあくまでもわかるものを自分の責任で決めるべきだったとなる
別に株などは安いとき買ってあがった時売ればいいのである。
だから自分で決断できるのである。その責任は自分にあるから銀行にあるとはならない
でも金融のプロだと思いまかせた,それは自分で決断すべきものだった
投資信託は複雑でわからないから自分で決断もできないのである。
だからわからない人はやるべきでとないというのは本当だった
これも結局後の祭りだったとなる

ただ「銀行よ,お前もか」という暗殺されたシーザーの最後の言葉を理解した
シーザーが信頼していた部下にすべて裏切られてその言葉を残して死んだとなる

ブルータス お前もか 銀行よ,お前もか

なんか盗まれたとか事業に失敗して借金を迫られるとかその他人間社会の非情を経験した銀行にはそういうイメージはなかったが銀行自体が苦境においこまれているからそうなった,追い詰められた人はモラルを喪失するから危険である。
自分に来た人はそういう人達だったからである。
銀行員も投資信託を売らなければもうけにならない食べていけないとなり必死になっている,そこでモラルが喪失するのである。
そこに人間社会の暗黒が生まれる,とにかく窮地に追い込まれた人間がいかに危険なものになるか?
そこで犯罪が起こる,銀行自体がそうして追い詰められているからこそモラルが喪失したのである。

でも本当はそうして働く人も嫌だとなる,銀行がブラックになっていたらそこで働く人の士気もあがらない,一見ノルマを果たしたから自分のために銀行のためになっていても
それが顧客のためになっていないとすると士気があがらない
駅で道案内しているだけでありがとうと言われる,そうなると教える方も気持ちがいい
それは金にならないにしてもそうである。
でも金をもらってもそうしてありがとうと言われるものにならないならその士気はあがらない,やがてその仕事にも嫌気がさしてくる

この仕事はなんなのだろと疑問に思うのが人間であれば普通である。
銀行がモラルが喪失したとするともう一時的に利益をあげたとしても何かやる気がなくなってくる
やはり例えば戦争でもいろいろあるが死ぬとなると何らかの動機がモラルが必要になる
そうでなければ士気があがらないのである。
会社というのは利益をあげればいいとなるがではそれだけで士気があがるかとなると上がらないのである。
働く気力もなくなってくる,そうなるといくらもうけをだしてもそれで満足させられない働く人もやがて離れてゆく,現実に銀行をやめさせられる人や自らやめる人がでてくるのも当然だとなる

posted by 老鶯 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

自転車屋を考える (商売となると接客がありそこがむずかしい)


自転車屋を考える

(商売となると接客がありそこがむずかしい)



個人店でアホな事してるクセに、本人がそれに気付かず、何でも文句言えば言いなりになる「大手が良い」って思い込む典型的な人。 
地域が育てる商店だよ? 
街の自転車屋は(笑)

個人店?殆どが駄目だね。 
学校前のスポーツ店と同じ。今まで「あそこで買わないと気まずいから」で生きてきたツケ。 

昭和の時代、チイキに甘やかされてきた既得権。 

裸一貫やり直せ。 
これは君たちの為を思って言ってやっている。

一般に 起業というのは 大半が失敗する。 
自転車屋が 生き延びてるのは 修理のおかげ。 
物品販売業というより サービス業に近い。 
理髪店みたいに。 
別に 愛想悪くても いいんじゃないか?(笑) 
腕が確かならね。職人なんだから。 
確かに 金儲けは ヘタかも知れないね 
好きでやってる仕事だしな

自転車のみの店はさらに厳しくなるだろうな 
女性が入りやすい店 
今の自転車屋は油まみれの怖いオヤジがいる感じだもんな

自転車屋に行ったら、店舗で購入したもの以外受け付けない、帰ってくれ!と追い返されたと友人が泣きついてきたので、俺は優しく正規の1.4倍の料金で電動コンポを付けてあげました 

それにしても買ったもの以外受け付けないとか酷い自転車屋もあるもんですね、許せないです

いまはほんとに自転車に金使わないからなー 
都内で車が必要でない地域でさえ一人あたり年平均8000円〜使えば良いほうじゃない? 
儲からないと言われてる美容院より更に少ないんだぜ笑っちゃうよ

街の自転車屋さんは営業センスゼロだからな


もう個人商店の時代じゃないんだよね

車を購入維持できない層の増加分<少子高齢化で減った人口なんかな

自転車屋さんで、笑顔で愛想よく迎えてくれる店主に会ったことがないんだよね。 
ママチャリの時はパンク修理ぐらいしか用がないから気にならなかったけど、 
ロードバイクだといろんな用件ができて、行く回数や滞在時間が増えて気になるように 
なった。 

特殊技術で、基本的に競争がなくて、いやなら来なくていいよと言える 
お仕事だからなのかな。

なるほど。自転車屋さんは、場所代かからないからそんなに売上する必要がないのですか。 
なんとなく無愛想の謎が解けました。確かに家族が食える分稼げれば、それ以上は 
客こなくても生きていけますね。 

同時に、元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 


自転車屋は自分の町で一軒しかなくなった,その人も後継者がいないから病気になったとか聞いているしいつまでつづくのかとなる
そこが終わると一軒も自転車屋がなくなる
原町が近いから今でも行っている人がいる,でも修理とかなると買った店でしろといわれる

自分は高い電動を原町で買ったけどその自転車屋はお前は鹿島で買ったからその自転車屋に行けと断った,聞きたいことがあるだけだったが「お前は来るな」と面と向かって言われたことには驚いた
何か自分の店で買わないものは客でもないという意識が強い
それは歯医者とか医院とかでもそういうことがあった
自分で客を占有したいのである。だから他にも行くと面白くないとなる
ただその言い方が露骨なのである。
それは東北人らしいといえばそうなる

自転車屋は何十年前とかなるがその時は一万くらいの町でも4軒くらいかわからないがあった,少なくても三軒はあったろう。
つまりそれだけの需要があったからでてある。
でも自転車は子供のとき乗ったとしてもそれは今の自転車とは全然違って子供用の自転車などなかった,なにかごつい自転車だった
そして自転車は一回買ったらめったに買い換えないのである。
それだけ自転車は高級品だったとなる
まず10万の電動自転車など買わないのである。一回買った自転車をていねんにみがいて修理して使っていた,その頃は物を大事にしていたから機械でも修理して使うことが多かった,電器製品でもそうでありまたその時は街の電器店でも直すことができたのである。
それほど機械が複雑ではなかったのである。
それで街の電器屋が繁盛していたし何でも個人商店でも繁盛していた
それで街に活気があったとなる

そうした店が高度成長時代だったのである。小さな個人商店がどこでも繁盛したし中小企業も繁盛したのである。だからさほど資本が無くても個人で店でも会社でもはじめられたのである。そういう時代は今では良かったなと一面思う。
商売を考えるとどうしても接客がありそれがむずかしいのである。

元々人と関わるの苦手な人が多くないですか? 
物と接しているほうが好きなような。 

自転車屋も技術者であり職人気質なのである。そういう人は物作りは得意でも接客は不得意になる,愛想笑いなどしない,それは物を売るにしてもそうである。
それで東北人は農民気質であり職人気質であるから向いていない
何かそうした商売というのも伝統があり関西とかでは商人の街だからそうした気質が養われたのである。
言葉使いからして商売用になっているからである。
何かその土地の性格でも歴史的に培われ作られてきたのである。

ただでは今東北人がみんなそうして商売に向いていないというかとそうでもない
ここの自転車屋は接客がいいし感心する,前の小高の一人親方の大工さんも本当に接客がうまいのである。一人親方となるとただ職人として大工だけするのとは違う
そこで接客が営業が必要になるからだ
物を作ることから物を売る段階になるとどうしても売るということは人と接することなのである。
ヤクルトでもそうである。会社で物を作っても売るとなるとまた別な問題が生じる
直接一軒一軒回ってお客さんと接して手渡しにする,それで売れているのである。
そういう商売の仕方で成功しているのだからヤクルトという物だけの価値で売れているのではないのである。

つまり商売にはそうした接客が欠かせない,それは別に必ずしも媚びを売るとかではない人に直接接するということは相手のことを思いやるとかが関係してくるのである。
それはなんでもそうである。営業に来るひとはそうである。
銀行でもそうである。何か相手に対してのおもいやりがなく売ってもうければいいというのでは果たして一時的に会社でもうけがだせる,でも長続きしないのではないか?
なんでほとんどもうからない投資信託を一軒一軒回って売りつけているのか?
そのこと自体がもうすでに客のことへの思いやりがない
ただ会社にとって手数料とれるものを売ればいいとしかないのである。
それは銀行だけが悪いのではないがその商売の仕方がボリシーがいいものではない
でもまず利益を出せということでそうしている

もちろん自分に商売を語る資格がないといえばそうである。
ビジネスにかかわったことなどないし会社に勤めたことがないからである。
ただ商売というのは何も悪いものではない,客にとっていいものを与えるという行為であれば何も悪いことはないのである。
仙台から来たユニットバスを百万で作ってくれた人は何も悪いことはない
むしろ安くていいものを作ってくれたと感謝しているのである。
そういう会社はいくらすすめても営業してもごまかすことなどないのである。
何か営業というと悪い感じをいだく人がいるがすべてがそうではないのである。
安くていい仕事してくれれば客も得したとなり感謝するのである。

医者でも接客がある,人間の体を直接ふれて診ることでただ物を売るというより人への気遣いが必要になる,人のことをロボットのように機械のように診れないのである。
機械を修理するように診れないのである
そこに優しさとか愛とか同情心とかがかかわってくる
ただそうはいっても医者にもいろいろいる,近くにいた医者は口が悪いことで有名だったでも見立てがいいということで繁盛していたのである。
医者にそういう人はいる,そんな愛とか優しさなどどうでもいい伎倆が問題だとなる
手術とかになるとその伎倆が問われるからだ

ただいくらAI化しても人間的なものが必要になる,AI化するとかえってそうした人間にしかできないことの価値が高まる
原町の福寿園でロボットを導入した,それはただ物を運び人を案内するロボットである
それによって施設で労働力を人間だけができるものに集中させる
ではその人間だけにできるものとは介護となると直接人に接することでありそこには愛とか同情心とかやさしさとかが必要になる
ただ現実はそういう仕事はみんな嫌っている,だからいちがいにそういう仕事がいいとはならない
でもなんても機械がしてAIがするとなると人間は何をするんだとなる社会が来る
すると人間だけしかできないことの価値が高まるのである
経営者はコスト削減することに勤めるから効率化するからなるべく人件費がかからない
ようにするため機械化AI化するからである。
でもどうしても機械化AI化できないものがある

それを自分は無人駅でしてきたのである。確かに無人化しても困らないようにできているそれでもたりないものがあった,それはそこでの人との接客サービスであった
足の悪い人が来たら話しかけてどうですかとか聞いたり盲人を案内したり
困った人がいたらわからないことがあったら道案内したり何かあった
つまり無人化で事はすむのだがやはりそこに人間がいて温情ある駅になる
ただJRでは時刻通りに運ぶことだけに勤めている,人間へのサービスはない
だから半分も無人駅化しているのである。駅にはもう人はいらないとしている
コスト削減するためにもそうなる,それはやはり乗客が減ったためでもある
そういう人へのサービスまでできないからこそ無人化しているのである。
そういう社会は何か索漠としたものとなる,現実になっているのでありますますそれが加速されてゆくのである。

現代は情のない社会として作られてきた,それは情というのがあいまいなものであり何か具体的に金にならないものだからである。具体的に見えるものとして利益をあげないとういことがあるからだろう。
物を売りいくらだとして金になる,そこに愛情こめて売るとか言ってもその愛情とは何なのだとなると具体的に現れないからである。
ただ病院とか介護ではそういうものを要求する場だということである
何か物を売れば終わりだとなるが物を売ることでも人間の関係があり継続する
だからカスタマーというのが習慣的に来る人が客だとなる
そのカスタマーにこだわるから一元さんはお断りとかなる
それは自転車屋でも言えたし開業医でもそのことにこだわっていたのである。
カスタマーになれば情をかけてもろるとなる
一元さんとかいつも来る客でなかったらそうはならないというのもわかる
ともかく物作りから物を売るという段階になると人間的なものが加味されることは確かである。






posted by 老鶯 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

ice forest in northen europe(2)

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2018年03月21日

関西生コンに検察の捜査が入った (その事実がマスコミで報道されない怪)


関西生コンに検察の捜査が入った

(その事実がマスコミで報道されない怪)

金をもらうことは義務と責任が生まれると書いたけど報道機関でもテレビは電波の権利を政府から与えられている
すると報道する義務と責任が生じる
重大な事を国事にかかわることを報道しないとしたらその権利を剥奪しろという人もいる森友問題で政府を追及するのはいい,だかそれだけをマスコミは全部一致して追及して
いることが問題なのである。

関西生コンに検察の家宅捜査が入りました

ただこの事実だけを報道すれば何があったのだろうとなる,その事実も報道しないとすると国民は何があったかもわからない,知ることができないのである。
知る権利を奪われているともなる
このことに関して何なのだろうというのは左翼でも言い分がある,検察の横暴だとかなんとかあるしそれを言えばいいのである。

原発でも政府と官僚とマスコミとかで「安全神話」を作ってきた。
報道も99バーセントが安全だとして報道されていたのである。
原発が危険だという報道は一パーセントくらいだったのである。
だからこそ安全神話になっていたのである。
国民も信じきっていたのである。それは原発に関するものが強力な政府とか官僚とか電事連とかマスコミとか一体となり安全神話を作ってきたからである。

なぜこの関西生コンについて全く報道されないのか?
これはマスコミでも報道官制がしかれている
そのことでマスコミに不信感をいだくようになっている
検察が捜査することに是非がある
でも報道することに是非はない
実際NHKでも取材に行っている
でも報道しないのである。

ただここの背後にあるものがそんなに力が権力が強いのか?
それが在日の団体でありそんなに力があるのか?
その辺が東北では部落とか差別された団体のことが実感としてわからないのでぴんとこない
でもこのことを最近はネットでしきりに言う人がいる
それでそういうことなのかとそれなりに右の言い分を浸透してきているのである。
「心に青雲」の都築詠一氏は死んだけど強烈な右の主張があった
また「ダークネスドュオ」のプログも常にそのことを言っている
右もまた過激なところがある,そこで反発されることもある
でも左翼系も学生運動の革マル派とか派生して暴力的なものをもっている
左翼系も平和的なものではない,左翼の背後には在日から北朝鮮とか中国がかかわる

ただ言えることはマスコミは明かに今回の関西生コンのことを一致して報道しないということで左に占拠されていることがこのことで判明したのである。
でも原発だったら政府と官僚と電事連でも一体となっていたからその権力は強力だったのである。
では関西生コンなどがなぜそんなに力を持っているのか?

何をマスコミは怖がっているのか?

暴力団がかかわり暴力で報復されることなのだろうか?
そのことを言っている人はいる
でも自分から見ると原発にかかわった権力の方が怖いものだと思う
実際に検察も原発推進だかち原発訴訟では権力側についていたからである。
だからなぜマスコミが事実だけでも報道しないのか?
もう報道機関としての義務と責任をこのことで放棄したともなる重大なことではないか?

だから今後も国事にかかわる重大なことがあってもマスコミは報道しない
どこも地方紙でも報道しない,そうしたらマスコミに与えられた電波の権利を剥奪すべきだとかもっと他にも電波の権利を与えるべきだという政府の意向は実施されるべきたとなる

とにかく今森友問題でマスコミが一体となり追及しているがこれも冷めた目で見るべきだろう。
もし関西生コンのことも事実だけでもマスコミで報道するなら公正だとなるがみんなが一斉にこのことだけを追及して茶の間を占領するのは偏向報道なのである。
それはもうナチス的やりかたなのである。
左によって言論統制されて阿部政権の転覆だけを目的にしている
森友問題も報道されて追及されるべきである
でも関西生コンに検察の捜査が入ったという事実も報道するべきなのである。

銀行で投資信託すすめるのは銀行側にたった利益追及である,でも投資信託について知りたければ知ることはできた,めんどうではあるがその批判をしている人は普通にいたからである。ただ銀行ということで信用したとなる
これは自己責任として追及される,全部ではないにしろあったとなる
関西生コンについては全く事実が知らされていないのだから検討もできない
ただネットで報道されているから関心をもった
これについては知り得ようがないのだから自己責任もなにもないのである。

その責任は誰にあるのか?

報道の権利を与えられたマスコミにある

NHKでも取材しているのに報道しないから責任がある,つまり報道機関として与えられた権利を行使していない,だからその責任を全うしないからその権利を剥奪すべきとまでなる
金を与えられることは義務と責任が生じると書いたが権利を与えられることにも義務と責任が生じる,民主主義でも報道の自由は守られる
でも報道しない自由もあるとなるがマスコミにはない
それは特別与えられた権利だからである。ネットだと別に報道しなくてもいいとなる
それは特別与えられた権利ではないからである。


posted by 老鶯 at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

ボランティアと正規の仕事の相違 (金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアと正規の仕事の相違

(金をもらえば義務と責任が生まれる)


ボランティアしてみてわかったことはボランティアには義務とか責任がないことである。それが課せられていない,では一般の仕事はどうかとなると必ず義務と責任が課せられている,自転車屋でも安全に自転車に乗るようにして買うものに与えたり修理したりする
鉄道でもそうである。安全に時刻通りに走らせることに対して義務と責任が生じている
医者でもなんでも仕事は金をもらうしそこに義務と責任が生じる
金をもらうということは義務と責任が生じることなのである。

ではボランティアというとその義務と責任がない,時刻表を駅に置いたとしてなぜJRでは断ったのかというとその時刻表について文句が言われる,責任をおしつけられるからである。
そういうことがあるのかとわかった,確かに時間が間違ってたりすると駅に置いたのだからJRの責任が問われることにもなる,つまり苦情が来るとなる
たから駅に置くものはJRの許可がないと置けないルールになっている
でもパンフレットの類が責任はJRにはないのである。
それは観光案内でありその連絡は発行した商工会などにある
でも相馬市のレストラン案内のパンフレットも撤去されていたのである。
JRの許可がないと置けないということを知らなかったのである。

ボランティアの問題は何か?それは社会にも法的にも守られないし認められていないことである。
自分がしたことは誰も認めなかった,ただ道案内したときありがとうとか言われたからそのことで感謝されたから役に立ったとはなっている
でもこれをJRとか地元の人でも認めていない,ただありがとうと言ってくれたのだからそれが役に立つものとして認めたのである。
そういうことを言われたことがないので気分良くしたということは確かである。
JRでは駅でボランティアしようが一言も言わない,こいつうるさいなとかしか見ていないのである。それは他の人にもそう言っているからである。

ともかくボランティアの問題は義務と責任がないことである。
別に金をもらっていないのだから適当でいいし何かをしなければならないという義務もない,仕事だと定時に出勤しなければならないがボランティアは適当なのである。
金ももらっていないのだから真剣にやる必要もないし義務も責任もないのである。
そこにボランティアが認められない問題があったことに気づいた

まずどんな仕事でも義務と責任がある,それは金をもらい金を動かしているからである。銀行が投資信託をすすめるのはいい,でもその説明もあやふやでありもともと仕組みがむずかしくてわからない,それをいいことに手数料とる商売にはいいとなる
でも金を扱うということ顧客から金をあづかりそれを運用するとなると責任が生まれる
ただ株とか投資信託でも市場の相場に左右されるからどうにもならなといえばそれまでである
結局自己責任だとなる,知らないからあづけたのでありお前が悪いで結局は終わる
それは自己責任だから銀行にまかせたものが悪いのであり銀行は悪いとはならない
責任は全部自分になるとなっている

そうなるとするとよほど慎重にしなければならない,事前の知識も必要である。
経験者にも聞いたりといろいす調べてからしないといけない
なぜなら銀行にまかせたらまかせた方が悪いとなるからだ
だからそうして何も知らないでまかせる方が悪いとなるのだから慎重にすべきだとなる
一方で銀行で投資信託がどういうものかしっていて客にすすめる
そこにもやはり責任が生じていたのである。
なぜならわざわざ株をやりたいとか投資信託したいと銀行までゆく人はまれだからであるそうして一軒一軒回ってすすめることはやはり責任がともなっているのである。
そんなにもうかるものなのですか?銀行自体で投資信託をしていないとういことも聞いているからである。そういうものを客にすすめるのは詐欺的だとなるからだ

金とは何か?金から一秒も離れられない社会である。
たとえ仕事しなくても金をもつということはすでにそこに責任を課せられている
百万もてば百万の責任が課せられ、一千万もてば一千万の責任が課せられている
別に遺産としてもらったからどう使うとも勝手だとはならない
そうしている人もいるが社会から良くは思われないのである。
金とは社会的責任なのである。だからその社会的責任を果たせる者なら金をもってもいいとなる
そうでないものは日々の生活にかかるものはいいとしてもそれ以上の金をもたせるべきでないともなる
社会的責任として仕事があり金があるからだ

だから地区の協議会で地区の振興するというとき市から金をもらったら義務と責任が生じる,何をしたとか何に使ったとか報告する必要もあるし成果も出す必要がある
そうしないとしたらその金は市から出るとしても市民の税金とか国の金も使っていることになるからだ
国の金というときそれは国民の税金なのである。
それで生活保護はうるさくなるのである。

金とはなにか?義務と責任をもたされるのが金である。
だから途方もない金を資本主義の中でもうけたのもはそれだけの義務と責任が課せられているのだ,それをただ私益に贅沢に使うことは本来できないのである。
だから石の貨幣があるとしてそんな大きな石は流通もしないの貨幣だった
その貨幣は威信とかと関係していた,社会的威信として石の貨幣があった
別に流通しないがその石の貨幣をもっていることでその人は社会的威信をもつことができたのである。金だけが社会にとって価値あるものとはならない
その社会の中で何か認められるものがあればその人は価値ある人となる
現代はただ金をどれだけとるかもっているかで評価されるが社会的評価はそれだけではない,ただ金は具体的に人に義務と責任を課すのである。
それを果たせないとすると金は与えられないし与えるべきではないのである。

だからボランティアがいかにも人助けでいいようでもそこに問題があった
ボランティアなど義務も責任もない適当なものだ
だから重要な仕事はまかせられないとかなる
また仕事している人からすると鉄道会社でも義務と責任を課せられているから邪魔だとまでなってしまうのである。
それは自分が経験したことである。
仕事とは何かとなればいろいろあっても義務と責任が課せられたものである。
それは金をもらう報酬をもらうということでそうなっている
ただボランティアが何も与えられないかというとありがとうと言われることが報酬であるでもそれは仕事としてではない,JRの職員だったら給料をもらっているから義務と責任がありそれでクレームが言われるのが嫌だとなり駅に時刻表を置かせなかったのである

まず人間は仕事しないと社会のことはわからない,それで自分は社会性がなく社会のことがわからないとなる,こういうことは実際に仕事にたずさわらないとわからないからである
まず学問だけではわからない,現実の社会の場で実感しないとわからないのである。
ただ別に仕事しなくても義務と責任が社会に対してある。
それは国家に対しても自治体に対してもあるし家族に対してもある
日本国民であること国籍をもつことはすでに日本国に対して義務と責任がありパスポートでも付与されているのである。
ただ国家というと大きいから意識しにくい,でも戦争のときのように命までささげなければならなくなるときもある,その時国家の義務と責任を痛切に感じさせられるのである。
人間は義務と責任から逃れられない存在である。親と子でもお互いにすでに義務と責任がある,結婚でも義務と責任がある,金をもらえば責任が生まれる
でもその金でもいい金と悪い金がある,でも金をもらえば義務と責任がやはり生じる
金をもらったから義務があり責任があるからと悪いことでもしなくてはならなくる
報道関係とかなると大会社から宣伝費をもらうからそのスポンサーの悪口は言えない
そうして原発の「安全神話」は作られてきたからである。
金をもらうにしてもそれによって義務と責任がおしつけられるのである。
そういうことも世の中に多い,金でもなんでもいい面と悪い面に働くのが人間社会なのである。

だから別に金をもらわないから適当でもいいとはならない,出版とかになるとそこにいろいろな圧力がかかる,出版社は売れるものを書けとかなり自由な発言が規制される
ネットだと無料だから自由にみんな発言しているのである。
それは金がかからないからである。金がかかれば逆に今度はその金を払った人達,会社でも義務と責任が生まれる
だから無料だからといって義務と責任がないとはいえない
ただボランティアに関しては金をもらわないのだから適当にやっていればいいとなる
責任は問われないとなるからだ,でも報道関係でネットでも適当にフェクニュースでも流していればいいとはならない,報道するものの責任があるともなる
第一報道しているとしても自分の場合はボランティアでありネットで金をもらっている人は本当に少ないのである。そこにも問題があるが現実はそうなっている
ただ宣伝が全然なされていないかというとグーグルとかでネットでしているしネットが盛んになればグーグルがもうかるようになっているのである。


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2018年03月20日

老人と病人ばかり増えてくる (夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


老人と病人ばかり増えてくる

(夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


夕張で見たのは辺境の貧しさではなく、唐突に終わりを告げた豊かさと、偽りの希望の残滓だった


昔は市立の総合病院だったものが財政破綻で縮小して診療所に改組したのだ。いまは市内にCTやMRIが1台もなく、人工透析も廃止して、病床数は171から19に減ってしまった。

そもそも貧しい山村であれば、このようなかたちで破綻しない。石炭産業が盛んで人々が集まったからこそ、夕張は他の地域よりもずっと豊かだったし、国のエネルギー政策転換の煽りを受けて急激に寂れてしまった訳だ


夕張と原発事故周辺はにている,そもそもエネルギー政策として石炭産業に頼った街だったからである。10万から一万に人口が激減した
石炭産業により異常に繁栄した結果だった
それはこの辺でも原発ある所は原発に頼る,でも一旦事故になったり石炭から石油とかにエネルギー政策が変わると一挙に衰退する
だからこれは限界集落とまた違ったものとしてそうなったのである。
エネルギーが石炭から石油に変わる,鉄道でも車に変わるというときこうした大きな変化が起きてくる

夕張のような状態が避難区域で起きている,もう町は運営できないような状態になっている,医療でもゴミ収集でも水道でもサービスが受けられない,受けるとしても馬鹿高くなる,すると若い人中心にここには将来がないと移住してゆく
住民がいないと公務員の役所に勤める人も失業したり月給が減りやめる人もでてくるそういうところで働きたくないともなる
それは浪江の人と良くあうけど浪江の人は浪江町であ南相馬市とか相馬市でも相当数復興住宅とか団地に住んでいる
浪江の人達を南相馬市でかかえるようになったのである。
小高はまた別であり南相馬市民としての問題だった
小高は浪江の人から言わせるといいとなっているのだ
実際浪江で電車で行ったとき街中には誰も住んでない,廃墟の街になっていた
あれを見ると帰る気がなくなるのがわかる

この辺の問題は全国的な問題,少子高齢化とかがあるが極端になる,それは夕張とにてくるのである。
ただまだそうした深刻な状況にはなっていないがいづれそういう深刻な状況になってくるなぜなら老人と病人が多いのである。
駅に来た人も浪江の人だった,病院に来る
杖ついてっと歩いている,妻が補佐している,子供たちはみんな散り散りになった
南相馬市でもなく遠くに去ったとなる,つまり老人と病人が南相馬市に移った人でも多いのである。
そうした人達を南相馬市でもかかえることになったのである。
そういう人は補償金で金をもらっているから老夫婦でも家を建てたという
でもそういう人達はもう生産労働をしない,ただ介護とか医療とかで南相馬市の人達に世話になるだけなのである。
一応金をもっているにしても人手不足人的負担も大きくなる
なぜなら浪江町でも若い人が南相馬市に移るというのではなく他に移住してしまっているからである。
そして取り残された老人達が復興住宅や団地に住んでいる

それから浪江町にしても土地があっても固定資産税がとられるとかありそうした家でも土地でも負の遺産になる,補償金がもらえるときは土地や家の賠償があった
でもそれがなくなればもうない,そして生産活動はできないのである。
果たしてそういう社会が成り立つのだろうか?
それは日本全国の少子高齢化の問題が夕張でもそうだが極端なものとして現れている
自分の家に来ている人も毎日のように病院通いである。
それで自分に負担を強いる,つまり老人と病人の街と化しつつあるのだ
そういう人達増えすぎればかわいそうだとか愛だとかも成り立たなくなる
その負担の大きさに個人でも家でも市町村でもつぶれてゆくともなる
もう夕張では透析もないとすると生きるためには外部に出るほかないとなっている

愛とか同情とかが成り立つのは余裕ある場合なのである
現実自分は全く余裕ない人が自分が介護の時とか自分が病気の時来た
だから犯罪にあい,事業に失敗して借金に追い詰められた人は金を欲しいというだけで迫ってくる,死んでくれれば金が入るとまでなってくるから恐怖だった
つまりそういう状態に市町村全体が追い詰められる
財政的余裕もなくなれば今まで受けていたサーヒスすら受けられなくなる
馬鹿高いものとなるからその金も払うことができない

南相馬市ではあと3年で原発の国からの支援が切られる、それで財政的に苦しくなる
それは市全体に影響する,この辺は何かと原発事故でも国からの支援がありかえって潤っていたということがあった
それもなくなる,だから夕張のように深刻な状態になる
それが最も顕著に現れるのが医療とか介護関係でありそういうものは負担が大きいからである。人的にも財政的にもそうである。
それは国全体でもその医療費が膨大なものとなり国がつぶれるとまでなる
つまり老人と病人で国がつぶれる危機とまでなる

そうなると老人を尊ぶ人などいない,今でもいない,早く死んでくれとなり病気になったら治療より早く死なせろとかなるかもしれないし現実になっている所もある
何かこうなるとかわいそうだとかいっていたら若い人たちとか世話する人からみると
もうその負担に耐えられないとなるのだ
それは自分が家族二人の介護で経験したことである。
一人はひどい認知症だった,一人は最後まで死ぬ一週間前まで立ってポータブルトイレに行っていて寝たきりでもなくオムツもしないから自分のようなルーズなものでも介護ができた
そして介護が終わったから自分ではふりかえり恩返しができたから良かったと思っているでもみんながそうはいかない,みんな介護でも事情が違ってくる
それは家族だけで処理できればいいが自治体とか国の負担にもなるし若い人の負担にもなる,実際に介護しなくても税金でひかれるからである。

いづれにしろ地方はさらに疲弊する,地銀も投資信託であこぎに稼ぐほかないとか銀行がなくなるとかあったりこれから地方はさらに衰退する
最大の問題は老人と病人が増えてそれがプレッシャーとなり自治体すら維持できなくなるそして老人が老人をめんどうみれない,頼れないのである。
老々介護とかなると過酷だし老人は将来の街作りをしようにもできない
それで小高に帰った老人が死ぬことしか考えられないという言っていた
こういう人が帰って何するのか,ただそこで死を待つだけにしかならない
そこは墓場の街になるのではないか?

ただそうして老人がみんな無用なものかといえばそうでもない,経験があり次世代に教えることができるものもある
でもとにかく老人と病人が多すぎることなのである。パークゴルフ場では元気な老人がいることはいる,でもどうしても老人はやがて病気になりやすいし介護状態になる人が増えてくるのである。
街に出ると杖ついて歩いているような人が目立つ,そういう人が増えることはとても活気ある街にはならない,地域振興の協議会などがあっても年配の人が多いだろう
すると何か街の将来を考えるとしてもできない,ただ老人クラブのようになってしまうかもしれないのである。

結局病気になったとしても一二週間で死ぬ,介護を最低5年とかさらに十年とかなるともうできなくなる,そうはいっても見捨てるわけにいかない
そういうジレンマにおちいる,家族を介護してもそういうことが起きているからだ
いくら愛だとか言っても限度がある,若い人がそれで人生を犠牲にされたらあとで親だって恨まれるのである。
そういうけど自分でも病気になり介護になれば頼らざるをえないのである。
ただ団塊の世代などは数が多いので2025年ころはもう負担が増して自治体でも国でもつぶれるというほどまでになる
そういう時期はすでにもうすぐであり始まっているのである。





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鹿島地区協議会で駅の活性化を考えていた (駅を視察もして予算が市より出ていた)


鹿島地区協議会で駅の活性化を考えていた

(駅を視察もして予算が市より出ていた)

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これも知らなかった,駅の活性化を図る駅を視察していたのである。その予算は市からでていた,ここの協議会では10人くらい人が集まり鹿島区の活性化を推進する
その一貫として駅が入っていたのである。

しかしこの会で駅のことを無人化した鹿島駅のことをどさだけ知っているのか?
何かしたのか,要望を聞いたのか?
一番駅に関係していたのは駅前の自転車屋とか商工会で掃除した人とか地区で花壇の手入れをした人とがである。
ではこの協議会で何をしていたのか?
それが知らなかったのではっきりしない

無人化した駅で今何が要望されているのか?
それはいちいち時刻表を見に来る人がいるから大きな時刻表である
それを自分は無料で駅に置き配った
でもそれはJRの許可がないと置けない,パンフレットも置けない
だからそういう要望があるということをまず知らない
それはなぜか?
駅に直接かかわっていないからである。
自分は駅で案内しているからそれがわかったのである。

何か案内のパンフレットなど置けばいい,それは団体になるとしやすいのである。
なぜ駅に置けないかというと責任が生じるからである。
時刻表でももしまちがっていると駅に置くとJRに文句がいくばあいがあるからだ
ただパンフレットに関しては連絡先があるし関係ないと思う
でもルールだからとして食堂の案内をしたものも撤去された
これもルールにしばられた温情もない地域のサービスとか人のサービスを考えないJRだからこそである。

確かにここの協議会ではアンケートとかとり要望を調べている
でも駅に関しては直接関係していないとわからない
それで自分がJRにはじめてくる人が仙台行きと原町行きの番線がわからないので良く聞かれると言ったら表示板を作ったのである。
だから何か要望があれば別に個人でもしてくれたのである。
ただ要望しないとしてくれないのである。
時刻表についてもそれを必要な人がかなりの数いても要望としてまとまらないと作ってくれないのである。

でも自分はそのことを地域振興課に何回か言った,でも関係ないと何も教えてくれなかったのである,ではなぜ他の駅の視察に協議会で行ってそこに市の予算が使われているのか?
十人分の視察費用ならそれなりにかかるのである。
それなら時刻表とか案内とかのパンフレット置くようにJRと交渉すべきだとなる

つまり金をもらうことは責任が生まれているのである。
それは市から出たものとなると南相馬市民から出たものだからである。
勝手にそれを使うということはできない
ただ駅だけではないからそこにも金を使うことはありうる
でも駅の視察まで行っているのだから駅の活性化を計るとしたらやはり駅前の自転車屋と直接駅にかかわる人の意見を聞くべきだとなる

では市はどう関係しているのか?
その人たちの活動を認めて予算をだしている,ではなぜ時刻表が欲しいという要望があるその要望を知るべきだとなる,それはなかなか直接駅にかかわらないとわからないのである。
第一駅長すら鹿島駅に来るけど仙台行きとか原町行きがはじめての人にはわからないということを知らないのである。
なぜなら無人化しているからである。それを伝える人もいないのである。
それは外部からの要望でもあり内部の人もわからない
その駅にいた自分だけが知ったということにもなるのだ
つまりJRでは無人化をすすめている,その数も多い,でも無人化しても困ることがあってもその要望が何かわからないのである。
鹿島駅からの交通案内とういうのも置いたが撤去された
それもやはりはじめてくる人でも地元の人でもわからないことがある

ただボランティアでもなんてもしいいとはならない,何か責任が生まれている
無料でしても責任が問われるからJRでは駅に許可しないと置かせないのである。
ただパンフレットなどは何の責任もとる必要がないのである。
だからこれも置けいなというのはおかしいとなる
杓子定規に考えすぎるとなる
JRはまず人のサービスを全く考慮しない会社だからうそなっているのである。

ともかくこういう団体があるということすら知らない,でも広報誌に入っていたので知った
まず活動を知らせるということも市の予算からもらっているのだから必要となる
ただ報告はだしている,これも印刷などすると金がかかるし知らせるのに金がかかるとなる
インターネットはともかく無料なのである。だからやりやすいのである。
でもみんながしているわけではない,特に年配の人はしていない
そしてその地域活性化協議会でも老人が多いのである。
そこが少子高齢化の問題である。
小高でも浪江でも帰るのは老人であり駅で浪江の人にあうが杖ついて病院に来る人とか良くあう,そうした老人社会だから復興ができないのである。
若い人は外部に流出した
そして原町とか鹿島で相馬市でも新地でも周辺に移住したがそれも老人が多いのである。でも補償金で金があるから二人とも原町に家を建てたという
でもその子供は外部に流出しているのである。
つまり南相馬市とか相馬市とかでもそういう避難している老人をかかえてますます福祉にかねがかかるとなっているのだ

まず地域活性化というとき若い人がいないとむずかしいだろう。
ただ老人でも経験があるし何か教えることはある
ただ地域といっても意外と身近なことを知らないのである。
だから駅でも実際無人化してどうなったかを知らない
知っていたのは駅前の自転車屋と直接かかわった自分だったともなる
その他地区の人とか商工会とかになる
市の職員も知らない,でもそういう協議会に金をだしている
どうしてその金がてるのかというのも政治なのかもしれない
つまりそれも民主主義なのである。
市民が自発的に市政に参加するということである。

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これだけ無人化しているのである。
JR西日本でも東海でもそうなのである。これは多すぎると思う

タグ:駅の活性化

2018年03月19日

盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)


盛岡短歌十首(秋から冬)

(盛岡は芸術都市:詩人の街(続2)

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中津川の瀬音を聞きつ岸歩む秋の日の石にさして休みぬ

長々と柳しだれて白壁の商家も古りて秋の日暮れぬ

上の橋わたりてあわれ芒かな晩菊映えて夕暮れにけり

擬宝珠の古きやあわれ芒かなその色錆つ秋の夕暮

上の橋わたりてあわれ夕ぐれや盛岡の街の青きともしび

啄木に賢治歩むや盛岡のともしびあわれ秋の夕暮

盛岡の銀行古りて秋の薔薇咲きつつあわれ心にしみぬ

盛岡に三色の秋の薔薇咲くや煉瓦の銀行古りて残りぬ

盛岡の城跡歩みて紅葉映え散りて美し流れの音聞く

盛岡の川の岸辺にコスモスのゆれて歩むも街のにぎわい

長々と柳しだれて白壁の商家の古りて秋の日さし暮る


盛岡は詩の街であり浮世絵のような版画のような絵になりやすい街である。
二つの川が流れていて中津川は浅い川であり瀬音がする、一方北上川になると
流れが速く深いからまた別である。
一番情緒があるの東北では盛岡市である。あとは東北で盛岡市のように感じる街がない,全体的にみて乱雑ではないし一応自然が街の中にあるたかもしれない
街が仙台のように拡大化すると情緒が失われるのである。

古い煉瓦の銀行が未だに残っているのもいい,あの銀行は貫祿がある
銀行というのはそれだけ文明の象徴だったともなる
何かそこでは質実な感じになるし銀行は今とは違っていた

ともかく盛岡市は啄木が住んでいたり賢治が来たりしていた街である
東北では仙台と並んで都会だったのである。
相馬市となるとそういう都会になっていない,仙台市は大きすぎるが盛岡はちょうど30万とかで大きいしまたそれほど大きくないということで情緒がある
岩手山とかもまじかに見えるし川が二つあるしそれがいいのである。
散歩するにもいいのである。

そして今は自分は介護を十年するようになってから遠くへ出かけない
ついに去年から春まで一回仙台に行ったきりで行っていない
ほとんど近間を回っているだけなのである。
ただこうして思い出す旅をしているのも不思議だとなる
盛岡はもう新幹線で50分でありここから仙台へゆくより近い
だからいつでも行けるのだけど回想の旅をしているのである。
ただ春の桜は盛岡では見ていないのである。

タグ:盛岡の短歌

道徳を離れて経済もありえない (人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)


道徳を離れて経済もありえない

(人へのサービスにば愛とか同情心とかが必要になる)

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社会を構成するものはなにか?
社会を大きく分類すると分解すると物作り,商品作り、製品化があり次にそれらを売るということがある、製品は消費者に利用してもらわなければ意味がないし価値もないし金にもならないからだ
製品をいくら作っても消費者に利用されない消費されないとするとそもそもその製品はなくてもよいものだったとなる
そして物作りとかなるとそこは人へのサービスはない,人へのサービスがあったとしてもそれを作り出す人には人とは直接かかわらないのである。
物作りというときそれを開発するのは研究部門でありそこでいい製品を利用者になるためのものを作り出そうとしている,それは主に理系の仕事だとなる

例えば自転車屋から考えると自転車を作る人がいる,自転車でもそこには様々な技術が駆使されている,今電動自転車時代だから電気系統もかかわるから複雑なのである。
そしてそこでの技術の開発は車でも飛行機でも電車でもにたものがある
軽量化でありパッテリーを長持ちかするとかいい素材の追及である。
鉄よりアルミニウムが軽くなりさらにカーボンだとさらに軽くなる
それは共通していたのである。
そういうふうに絶えず研究して新しい製品を作り出さないと売れない
それはまさにイノベーションなのである。
そのために投資する,それが資本主義だとなる
技術開発が常に必要なのが資本主義である。
それはあらゆる分野でそうなのである。薬の分野でもそうである。
病気との戦いは歴史的に継続されている,だから効果的な薬を産み出せば大きな利益となる,今は癌とか長寿にする細胞を若返らせる研究をしているうあるそれも発見があり実現してくる、人類はいい面と悪い面があるにしろさらに長寿化してゆくのは技術的に間違いないのである。
常に技術は進化して追及されているからである。

でも社会はこうして技術を追及する,ではその技術だけで事足りるかというとそうはならない,今AI化とかロボット化を追及している,すると鉄道でも無人駅にするしコンビニでもスーパーでもレジがいらないとか極力無人化する
病院でもAI化してロボット化がすすめられる,ロボットの方が正確に手術できるともなるそういうことは確実にすすめられてゆく、ではそれで人間社会は成り立つのか?
そうはいかない,どうしても人間がいなければならないものがある
機械ではロボットではAIではできないものがある

それがなにかというと人へのサービスなのである。製品を作る人は人とは直接かかわらない、でも薬でも売る人は人と直接かかわる,薬屋でも医者でもかかわる
この薬はききますよというのはわかる,では人間はその薬だけでたりるのか?
薬がすべて人間が直せるのか?そうはならない
その薬を与えるにしても医者であれ看護師であれその人に対して愛とか同情心とかをもって薬をわたすのと医者でも看護師でもただ病人をロボットがするように扱ないのである。もちろんロボットの役割はある,人が重いのでもちあげるとかはロボットがするがでは介護とかなるとどうしても愛情が必要になる,同情心とかも必要になる
それはロボットにはできないのである。機械にはできないのである。
だからいくらAI化してもロボット化しても機械化しても人間にしかできないことがある

この人とと直接かかわることが常にある,物を売るでも例えばヤクルトなどが成功したのはヤクルトを売る人に重きを置いて成功した
女性が一軒一軒回り配ることをして成功した,ヤクルト自体の製品だけの力ではないのである。サービスする人に重点を置いたのである。
そしてヤクルト配るにしても人から直接渡されるからそこに愛がこもるというか人間の心が加味されるのである。
そういうことはロボットとか機械とかAIではできないことなのである。
だから人間的なものは何なのだろうとなるとそうしたロボットとかAIにできないものである。
愛とか同情心とか優しさとかなにかそうしたものが人間的なものだとなる

そして一見ビジネスという何かそうした愛など同情心など全く関係ない非情な世界のように見える,でも人間はまず自己の利益を考えて生きている
これを否定はできない,そして会社に入ると会社の利益を考える,でも会社だけの利益を追及してそれが社会的に有益なのもの公益性がなっかたら会社が繁栄するだろうか?
自己の利益→会社の利益→社会の利益になればいい
そうならなければ会社でも社会にとって害悪となったりしたら存続できるだろうか?
銀行でも投資信託など自分の会社の利益になるだけのものを押し売りしてもうけていたら社会にとって利用者にとって必要なものなのか?
だから一見自己の利益になる,会社の利益になることはいいことおように見える
でも結果的に社会にためにならない,利用者のためにならないとしたらそういう会社が繁栄したりするものだろうか?
何かそういうことを会社が考えない経営者が考えないというのもおかしいとなる

経済とは何か?経世済民とかから経済がある、それはモラルのこと道徳のことである。
道徳を離れて経済はありえいなのである。では利益をあげることが不道徳なことかというとそうはならない,例えば駅で必要とされているものが大きな時刻表である。
それを自分は無料で置いた,なぜなら必ず時刻表を見に来る人がいたからである。
確かにJRでは小さな時刻表を置いているが小さすぎるのである。
字も小さすぎるからみにくいのである。
大きな時刻表を家にはっておけばいちいち駅に見に来る必要もない
それは原町と相馬市では商工会で大きな時刻表を出している
それをビジネスにして売って利益をあげても別に悪いことではないのである。
もうけることがみんな悪いことではない
そんなことしていたらこの社会は成り立たなくなる
ポーターのようなものでも金をもらって運んだら金をもらうことが悪いことではない
本人がそうしてもらいたいのであり金を払ってもそうしてもらいたい助けてもらいたいとなればビジネスになり金をもらうのも当然だとなる

とにかく社会にかかわり感じたことは経済は決して道徳と離れてありえないことである。道徳など愛とか同情心とかいたわりとか関係ない世界だと今は思っている
でもウェバーが資本主義は修道院からはじまったというとき神への奉仕であり他者への隣人愛としてはじまったことに由来しているというときそこに経済は道徳から離れてありえないからそうなったのである。
他者を搾取してむさぼるというのが経済ではないのである。
そういう会社が成功することはありえないのである。
そうなったらこの世は暗黒であり生きていることすらできなくなる


「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

常識とは、道徳であり、仁義であり、公共の利益であり、私の利益です

信用金庫の人がこう言っている、投資信託をすすめるような銀行にはそれがない
銀行員はノルマを課せられて自己の利益を目指す,銀行は銀行だけの利益を目指す
それも結局時代が変わり利益をあげられないからそうなったことはわかる
要するに常に時代が変化してゆく,それに対応できないものは滅びるのがこの社会だともなる
自分自身は社会から離れた人間であり社会性がなかった
ただ介護十年したとかその後今度はたいしたことではなくても無人駅などでボランティアして社会とかかわった,これは誰も認められないしJRからかえって煙たいものとして扱われ無視された,地域でもなんら認められなかった
ただ道を教えただけでありがとうと言われた,自分は何かそういうことを言われたことはない,そのことで自分も他者のために何かしているのかという意識をもったのである。
自分は他者に対してありがとうと言わなかった,だからそんなことでしありがとうというのが意外だったのである。それだけ自分には社会性がなかったのである。
都築詠一氏などがベートベンとか天才芸術家が社会性がないということを批判していた

何かそういう人は社会からはずれていてもいいということが言う人もいる
ただそれにも問題があり社会に生きることはどういうことなのか?
宗教でも社会にとって必要なのはなぜなのか?それが社会と全く離れてありえないだろう
また逆に社会にどっぷりつかって俗化してもありえないのである。
だから僧院とか寺とかに籠もり社会から離れた生活では何か説教することもできない
そういう人は社会から離れていて社会のことがわからないからである
ただ社会がすべてではない,社会は世の中はどうしても汚れたものでありどんなことしても改革できない,だからこそ世から離れた世界を追及するのも宗教だったとなる

宗教と経済は不可分に関係している,ただカルト宗教団体となると別物である。
資本主義が崩壊の危機にあるというときそれはモラル的な面にもある
一握りの人が世界の富を独り占めするようなことはモラルに反するからそうなる
そういう社会はグローバル経済でも世界の公益性に反するから資本主義は修道院から始まったものとはまるで違ったものとなり
崩壊してゆく,グローバル経済にはモラルがないからである。
道徳を離れて経済もありえないからである。


タグ:経済と道徳
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2018年03月18日

自転車は人間の性格などの相違とにていた (その多様性に共通性があった)


自転車は人間の性格などの相違とにていた

(その多様性に共通性があった)

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重くて走りが鈍い,悪路に強いマウテンバイクだった

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図体が大きいが小回りがきかない
28インチのタイヤが大きすぎる
坂をすいすいと上れない
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これは一番いいロードだった,軽快に走る,でも坂をのぼるとバッテリーがすぐきれてしまう
それが弱点だがあとは一番いいものだった
26万とか高いとしてもすでにロードとしてそれだけの価値あるものだった




自転車の種類はいろいろある,メーカーによっても違う。
基本的にロードとクロスバイクとマウテンバイクがある
でも同じロードでも乗り心地とかが違ってくる
百種類の自転車があるとしてその百種類の自転車はみんな乗り心地が違う
それがなんとも不思議なのである。

遠くに行くということで28インチのパナソニックの自転車をすすめられてかった、
それはバッテリー容量が多いということですすめられた
長距離用としてすすめられた,それは28インチのタイヤだから早く進むことは確かだったでも婦人用タイプでありスポーツタイプではない
だからデザインとか乗り心地は違っていた
早く軽快に走るものとは違っていた
そしてパナソニックの電動自転車は坂をスムーズに上りにくいのである。
ヤマハの電動自転車は坂を上り安いようにできている

本当に乗ってみてそれも一年くらいとか乗ってみてわかる
この自転車はこういう自転車なのだとわかる
ヤマハのパスブレイスはずいぶん前である。だから重いし走り自体が重いのである。
でも馬力がすごくて悪路をぐんぐん上るのには驚いた
だからマウテンバイクなのである。
でも遠出をするとなると重くて走りが遅いから向いていなかった
それで今度は軽いものにしようとした

今パナソニックの電動自転車は買い物用にしているがこれもあっているとは言えなかったタイヤが28インチであり大きから小回りがきかない,街を乗るのには適していないし何かぎこちないのである。
一番気にいったのはヤマハのYPJ=Rである。これは26万したとしても高いものではなかった
それだけの価値あるものだった,これ自体優れたロードだったのである。
電動はおまけについたという感じである。
ただこれは坂を上ると電池がすぐきれるので長距離に向いているとは言えない
めしてドロップハンドルだと危険になる,急ブレーキをかけにくいのである。

こうして自転車はつくづく一長一短でありなにもかも満足するものはない
それで人間を考えたら人間も同じだなと思った
人間でも同じ人間はいない,みんななにかしら違っている
性格も違っている,でもその人をわかるには自転車をのりこなして一年二年とかでその自転車の良さと悪さがわかる
人間も同じである。何でもいい人間はいない,何かしら欠点がある
何かが得意であり得意ではないものがある
人間は人間の数だけ多様なのである。だから自転車ともにているなと思った

東北人だからといって社交的ではない,接待とか商売が下手とかではない,一般的にはそういうイメージでも全然違った人もいるのである。
その人は一人親方として庭作りから大工でも塗装でも何でもできる
そして人を接待することがうまいのである。
しゃべることがうまいのである。そういう人は東北人でもいる
だからこそこの人は一人親方として営業もできる
営業となると人と接することであり商売であり話が上手でないとできないからだ
ただこの人の欠点は八方美人なのである。
なんでもできるのだかやらなくてもいい仕事まで手を出している
それも金のためならなんでもするという何でもできるという器用さがそうしている
器用貧乏なのである。こういう人もまたいる

大工というと職人気質であり全然話せない人も普通にいるからだ
でも親方となるとそうはいかないのである。
事業を起こして失敗した人も職人としては優れていたが事業で社長になると仕事をとりにゆかねばならない,営業になるから商売になる
それがうまくいかず失敗したのかと思う
自転車屋でも接待が営業がありそれに向いていないる人といない人がある
でも自転車屋は職人としての技術的な面と客に接するサービス業なのである。
この二つを兼ね備えている自転車は少ないだろう
自分の町の自転車は兼ね備えている,いつも店では誰かと地元の人と話しているのであるそしてその人も人と会話するのがうまいなと思う
だから別に東北人だからといってすべて商売に向いていないとはならない

隣の街の自転車屋は古いタイプの人なのだろう
お前はここで買う必要はない,いつも買っているところで買いと知らないことがあり
ミヤタの最近出た電動自転車について聞きたかったからだ
そこで外国製まで扱っていたからである。
それをただ聞きたいのにお前はここに来る必要ないとまでなっていた
一回も買っていないならいい,パナソニックの電動自転車を買っているしパンクしてタイヤも交換したことがあるからだ

それで開業して5年になり、リコのFC店でも潰れたお店も見てきました。
それを見て感じることは、やはり接客に問題がある店は愛されない。

こういうことは別に他にもある,歯医者とかにもある,そこも接客が悪かった
でも歯医者とか医者だと尊敬されるから低姿勢になって接客する必要もない
だがやはり歯を直すだけではない,接客がある
でも看護師が何人かいて接客を担当してくれからいいのである。
それでも歯医者は対人商売であり人と直接接するからそうして人への気遣いが必要になる客に直接接する仕事はとうしても人とも接しないで物作りに励んでいる人とは違う
相手をロボットのように見て診れないのである。
だからそうした接客AI化しても残るとなる
JRなどでもまず接客のこと人のへのサービスは念頭にないのである。
だから駅を無人化してコストを減らせばいいとしかなっていないのである。

いづれにしろ人間と自転車を比べるのも変だが自転車はそれだけ多様だとなる
一台一台個性をもっているのである。
その乗り心地はまた乗ってみないとわからない,人間一人一人もつきあってみないとわからないのである。
人間の場合は生い立ちも違うし住む場所も違っているし男女もあるし年齢差もあるから自転車より多様なのである。
そういう多様な人達とどう接するかとなると本当にむずかしいとなる
自転車もつくづく一長一短であり人間もそうである。
それがにているということも人間と共通点があるという発見があった
おそらく車でもそうである。それぞれに用途があり乗り心地も違うからである。
ただ車に乗っていないからわからないのである。
家にしてもみんな違ったものになっている,建て増ししたりもするし家の造りは違っている
住む人によっても家は違っていて個性がある,庭でもそうである。
だから時々他人をの庭を自分は見ているのである。
自分は石に興味があるから特別見ているとなる

posted by 老鶯 at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

銀行は江戸時代の金貸しにもどった? (投資信託はだまし的要素があり危険)


銀行は江戸時代の金貸しにもどった?

(投資信託はだまし的要素があり危険)

日本古来のクラウドファンディング「頼母子講」とは

銀行というのがかかわってわからない,わからないのは金融業がわかりにくいからである自転車屋とかでもわからないことがあったがインターネットで調べるとそういうものかと納得する,でもまず銀行とか証券会社とかは理解できない
このサイトでは頼母子講から銀行が分化したとある,保険や投資もしていたのが頼母子講でありこれは相互扶助組織だった,何か協力するものとして生まれた
それは明治以降も活きていたという,つまりまだ銀行はそれほど普及していなかったのである。
自分の父親は酒屋をしていて暖簾分けした,それが双葉の新山だった,そこに姉が良く行っていてそこに銀行があり遊んでいたという,その時銀行はめずらしいものだったのである。

もともと金貸し業が基になっているのが銀行だというのもある
すると江戸時代のようなあこぎな金貸しの面もある
消費者金融の親になっているのが出資しているのが銀行だからである。
ヤクザまがいの人間を雇ってとりたてをするのは江戸時代と同じだとなる
ただ裏でいい顔して役人のようにしているともなる
今までは銀行をそのように見ていない,やはり高度成長が終わって利子がつかなくなったときから銀行は変質した
金を貸すもうけさきがないからそういうあこぎな金貸し業に先祖返りしたのかとなる

ただ資本主義社会では銀行は必要欠かせぬものとしてある,だから銀行の役割はある
ただ資本主義がもうこれ以上投資先がないとかなりただ金をためていても銀行にとっては負債を抱え込んでいると同じだとなる
金をあづかってもかえってそれで投資してもうけが出ている場合良かったのである。
それで地元でも助かった会社いるし育てられた会社もある
ただそれは高度成長時代に銀行は別に悪いものではなく良いものとして機能していたのである。

だから銀行が今地銀などでも苦境にありどうしてもうけるのかとなり投資信託とかすすめることになった,これはとてももうけられる仕組みになっていないのである。
ではなぜすすめるのかというと手数料を高くとれるからである。
銀行自身が投資して株をしているがそれは失敗したら損になる,リスクをかぶらざるをえない,でも銀行が手数料をとって買わせる株でも投資信託でも手数料がとれるから損することがないからである。

でもこうして自分でもそうだが投資信託は詐欺的商品だというとき何かわかりにくいからそうなっている,わかりにくいとごまかしやすくなるからしている
株だと意外と買った時点で安ければ株が上がればもうかるということは子供でもわかる
だから株の方がわかりやすいのだが投資信託をすすめるのである。
それは銀行や証券会社にとって都合いいものだからである。

銀行側にすれば借金している人のように追い詰められている,だからノルマも課せられているから押し売りのようになっている
そもそも貯金をしてもらってもそれは銀行の債務だというときそうなのだろう。
なぜならその金をあづけられても活かさなければただもっているだけでも費用がかかり事務費をとるということにもなる
では銀行自身が投資してもうければいいが銀行とはいえ株の世界では簡単にもうけられない,リスクがあり損することがあるからだ
だから投資信託でも株でも手数料を確実にとるのが一番楽なのである。

銀行はもう社会の中で正業として機能しなくなったのではないか?
それは銀行だけではない,官僚が経営する財務省でも不正が行われていた
財務省とは金融庁であり銀行を監督する立場にある
その大元が不正していたのである。そのために自殺した人まででてきた
財務省そのものが国民から税金をとりたてて不正しているとなる
金融資本主義は世界的にも格差社会を産みわずかの人達が私腹を肥やすものとなっているだから資本主義自体が危機になっているのだ
資本主義はもう機能しなくなっりつつあるのだ
すると銀行も機能しなくなりたまった金を活用できないのである。
もうけ先がなくなり預金者に投資信託などをすすめて手数料で稼ぐ
つまりあこぎな江戸時代の高利貸しのようになっている
銀行はこうなると社会にとっての悪であり必要ないともなる
銀行の役割が喪失したともなる

時代の変化で永続するものなどない,銀行もそのために変質した
何か変化しなければならないのだがそれができない
だから消滅の危機にあるのかもしれない,誰もそんなことしていたらかかわりたくないとなる
最初はいいにしてもいづれみんなそのことがわかる
得するのは銀行だけであり金をむしりとられるだけだとなる
そうなると預金者も銀行にいい顔をしなくなる
かつての銀行のイメージとは違う、あこぎの高利貸しにもどったともなる

そういうところで働いていると人相まで悪くなるかもしれない
消費者金融の人達とにたようになるかもしれない,紳士面していてもその中味はもう高利貸しと同じだとなる
銀行の社会的使命があったがそれが時代が変わり変質してもうその役目は終わったのかとなる
何か正業として利益をあげる方法がないのかもしれない
となると社会にとって害悪な存在ともなる,そういうことが預金者も気づきはじめたらどうなるのか?
銀行は信用されなくなりいらないとなる,でもどこに金をあづけるのかタンス預金なのかとなるとこれも危険である。
するとそれぞれ株をやればいいのかとなるとそれも危険である。
ただ銀行はかつての銀行とは違っていた,それだけはみんなも知るべきである。


posted by 老鶯 at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題