2018年03月02日

津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因 (自然に悪意はない)


津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因

(自然に悪意はない)

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津浪の被害はあまりにも大きかった,それでどう解釈していいかわからなかった
それで自然でも海でも天でも被害にあった人は呪ったのである。
でも自然には悪意があるだろうか?
悪意というとき人間にのみ悪意がありこの悪意が一番怖いのである。
投資関係でも投資自体は公平だとしても悪意をもって接触してくる人は危険である。
投資でだまされやすいのは投資の世界がわからないからである。
悪意というとき自分たちだけもうければいいという考えの人も実は危険だった
それが銀行にも今はなっていたのは経営的に追い詰められていたからそうなった
人間は借金でもなんでも追い詰められると危険になる

自然に悪意がないというときそのことこそ自然と人間の一番の相違である。
石や花でも木でも動物でも本来は悪意はない,蛇などは嫌だとなるが何か全般的に悪意をもっていない,だからこそその無垢なる状態に感嘆する
人間社会は虚偽の世界であり常に偽りの中に生きている,嘘つかない人がいないことでもわかる
その自然がどうして人間社会に対して悪意をもって災害を起すのか?

自然災害が起きるのはなぜなのか?
ノアの洪水とか確かにあったけどそこに神の意志が働いていたとなる,だから自然に神の意志が働くことはある,聖書は神の意志が働いた記録である。
だからモーゼが海を割ったとか太陽が止まったとかいろいろある
自然をも左右するのが神だとなればそうなる
ただその後は自然と神はきりはなされ科学的に自然を見るようになった

なぜ自然災害が起きるのか?それは自然を人間が改造して破壊して住んだことに根本的な原因があった
今回の津浪で甚大な被害あった所は自然を無視して住んだ場所である。
本来住むべきではない所が甚大な被害にあった
石巻は被害が大きかったけどあそこは家が密集していたのである。
だからこんなに海に近くてこんなに家が密集しているのは不自然だなと見ていた
そこが根こそぎ津浪で破壊されたのである。

そもそもなぜ海側にこれほど家が密集したのか?その原因は便利だからである。
漁業するに便利だから海側に人家が集中した
磯部などでもあんなに家が集中してそこが根こそぎ失われた
でも高台がありそこは無傷だったのである
あれを見れば高台に住んでいれば助かったのにとつくづく思う
でもそこは不便な場所なのである。

日本は国土が狭いから海側に開拓して米作りをした,その田んぼにしたところが津浪の被害があった
そして縄文時代の海が再現したのには驚いた
どこでも縄文時代に海だったところは海になったのである。
要するに自然が元の自然にもどったのである。
つまり人間はもともと海だった所を開拓して住むようになった
もしそういうことをしなかったら自然災害があったとしてもこんな甚大な被害にはあっていない
江戸の安政地震で被害にあったのは埋め立てて作った深川とかが死者が多かった
そこは海であった所を埋め立てて住んだから地盤が悪いし液状化が起きたとも推測している

人間は文明が発達するに連れて自然にそって住んでいない,不自然に住んでいる
東京という大都会を見ればわかる,そういうところで大地震が起きれば当然大被害になる神戸でもそうである。大都会とかは自然にそって作られていない
異常な密集状態になり不自然なのである。
だからこそ大きな自然災害があると被害が大きくなる
それは自然が悪意をもって人間を苦しめるために災害が起きているのではない
文明とは自然を改造して破壊した結果として自然災害が起きている

例えば極端になるが家が二階になると危険が増す,それよりもし弥生時代のような掘っ建て小屋のようなものにに住んでいれば地震が来ても壊れてもまたすぐ建てられるともなる
倒れるものがないから安全だともなる
つまり家すら文明が発達すると高度なものになり便利なものになるが危険も増していたのである。都市は便利なものとして人間が作り出したものである。
でも人間が密集して住めば便利なのだけど危険にもなる
人間はまず便利なものを追及する,それが自然災害には弱いものとして危険なものになっていたのである。
大都会は地震か自然災害で甚大な被害を出すのは自然ではない不自然に人間が便利さのために密集して住んでいるからなのである。
自然が別に悪意をもって人間を苦しめるために災害を起こしているのではない
人間がそもそも災害を作りだすものを便利さを追及して作り出していたのである。
それは原発だってそうである。科学技術は便利さを追及してきたからである。
でもその結果として自然災害に弱い社会が生まれたのである。

不思議なのは四倉とかでも前は広く砂浜がある場所は被害があったが大きな被害にはならなかった,あそこだって海に面しているから相当な被害になり街ごと消失するようにもなっていた,でも街全体がなくなるようなことはなかった
それは前に広い砂浜がありそこが緩衝地帯になっていたためである。
それは自然な状態がそこに残されていたからである。
砂浜もなく直接海に面していた磐城の漁港などは豊間などは被害が大きかったのである。九十九里浜でもあういう緩衝地帯があると津浪を弱めるのである。

文明が発達するとそうした緩衝地帯は海側になくなり漁港が便利さのために作られそこに人が密集して住んだ結果被害が甚大なものとなった
文明とは便利さを追及することである。その便利さが人間に仇にあだ)になるということがあった
便利さを追及することが誰も悪いものとは思わないからこそこれだけ便利な社会になったでもその便利さは自然に逆らうもの改造して破壊するものとして働くものでもあったことを津浪で思い知らされたのである。
なぜなら縄文時代のような一番不便な生活をしていたなら被害も最小限にくい止められたからである。海であったところに縄文人は住んでいないからである。
新地の山から手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人伝説でも貝塚が高台にあり高台で縄文人は生活していた,海側にあんなに接近して住んでいなかったのである。



江戸幕府以前の江戸

現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

これは実際の景色を詠んでいたのである。江戸というのはベネチアのように美しい街だったのである。江戸なら今の東京と違い住んでみたいとなる
江戸城の前まで海だったというときそれだけでも景色が良かったことがイメージできる

posted by 老鶯 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2018年03月01日

駅の保守点検は毎日のようにしている (駅前の活性化をどうするかが課題)


駅の保守点検は毎日のようにしている

(駅前の活性化をどうするかが課題)
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人のいるところに車がとまっているのを見たことがない


駅では何かしている,電気系統の保守点検も常にしている,掃除はJRの委託会社の人が駅舎の中を掃除するようになった
商工会はホームのゴミとトイレを掃除する,周に一二回である
だから掃除の問題はかたづいた

タクシーの乗り場と白線の字を消していたのは電気系統の小屋のようなものを建てるので車の置き場を確保するためである。
あそこにタクシーと白線で書いてあるから利用できない
ここは駐車場が駅前だけであり狭いから問題なのである
あの白線をさけてとめている
するととまる場所が限られるようになる
でも北郷タクシーではそこを確保するために金も払っているのかもしれない
でも実際にあそこにとめているタクシーを見たことがないのである。

自転車屋の人が一番駅を見ている,だからあそこが切符売り場とか駅を利用する人の便宜を計るのに向いているのである。
しきりになにかしたいと言っていた,ただおおがかりなことになると無理である。
鹿島区にも資金が援助されていたがそれも使ってあとつづきしなかったという
そのことをしきりに山梨から来た事業に失敗した人が言っていたのである。
あの人は経営のセンスがある人だったのだろう。
失敗しても事業のことを知っているのである
だから外部からそういう人を招きしてもらうこともいいとなる

地銀とか信用組合とかはそもそも地元に根ざした金融だとすると地域を良くするために活性化するために資金を投入することが本来の役割だったのだろう。
でもグローバル経済へ投資させて自分は損したのである。
自分で選んだことでもあるがグローバル経済には疑問が前からあった
地銀が生き残るにはグローバル経済とか投資信託を売るとなると
地域には必要ないものになるかもしれない
まず地域を良くしようとか銀行では考えないのである。
まず自分たちが損しないで利益をあげることを目的にしている
そしてたら地域の金融なのかとなる,証券会社なのである。
地銀としての役割はなくなったとなる

別に何か休息する飲み物を出す食べ物を出すような所はある
前にしていたところもあり空いている,使われていないか喫茶室とか休み場として利用できる,でもそうなると賃料を払わなくてはならない
人の流れが少ないからあそこで利益を出すのはむずかしいだろう
ただ休む待つ時間が電車の場合あり長くなる時があるからそういう場所が必要になる
小高辺りで事情があってお茶のみ場とか無料で提供している
小高の場合はいろいろ援助があってできたのである。

いづれにしろまず大きな事業となるともうできない
ただ小さなことはできる,自転車屋だって一部を休息所にできるかもしれない
そこでお茶やコーヒーやおにぎりくらい用意しておくのである。
そこでまず利益をあげようとすると失敗する
それほどの人の流れがないからである。
常磐高速のセデッティは人の流れがあれだけあれば商売になる

あそこで果物のジュースをミキサーで出していた,それを自分もまねして作ってみた
2500円のミキサーで簡単に作れた,リンゴだと材料がリンゴ半分でできた
あそこでは350円くらいで出していた,するともうかっているのかと思った
そのジュースをミキサーで出すのもいいかもしれない
なぜなら駅にある自動販売機は一番売れているからだ
必ず待ち合わせがありコーヒーとか飲んでいるからだ

今日は雨はあがったが後から強風になり運休になっていた
今日は風が吹かない前に磯部で始まったパン屋にパンを買いにいった
あそこだと鹿島からも近いのである。相馬市まで行くと遠いのである。
鹿島区ではパン屋がないので焼きたてのパンは食べられない
誰かやればいいとも思う,なぜか新地にはパン屋がある
焼きたてのパンを売っているのである。
磯部のパン屋は民家を改造してしている
まだパンの種類が少ない,だから期待したものとは違っていた
ただあそこから海が見えて眺めがいい所だった
復興住宅もありあそこの民家はもともとあそこにあった
磯部でも広いからあそこには行ったことがなかった

意味を求める人間 (宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)


意味を求める人間

(宗教や哲学などの意味を求める時代になっている)

この地球とか宇宙はなぜあるのだろうか?
こういうふうにまず考えるのが人間なのである。
そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある
これだけ多様な生物がいて宇宙があり地球がある
しかしその意味を考える人はいない
考えて意味を与えているのが人間なのである。
神が創造主だけど意味を価値を与えることは人間なのである。

動物は腹が減った今日食べるものがあった腹は充たされた満足だとなる
それ以外なにもない,自分が生きる意味など考えないのである。
人間も最初はそうだった,狩猟するにしろ漁労で生活にしろ食べることに追われていた
そこに余暇はないのである。
「俺たちは何で生きているのか,働いているのか?」
とか考える余裕もなく食べることに追われていた。
暇ができなければ考えたりしない,意味を求めたりしないのである。

ただ人間が言葉をもつというときその言葉がすでに動物にはない高度なものである。
言葉があるというとき人間はすでに意味を求めるものとして言葉があった
言葉がロゴスが最初にあったというときそれだけ人間にとって言葉はその存在を問うものとして欠かせないものになっていた
バベルの塔の意味しているのは人間は一つの言葉を話ししていたとき神が怒って言葉が通じなくさせたことなのである。
人間が通じ合えるのは言葉によってだったのである。
何かこうして延々と一人プログで自分は書いているけど書きながら考えているのである。それがプログとかではしやすいのである。
言葉や文章は考える道具なのだとつくづく思う
もちろん言葉で話しても考えるが文章で考えることは深くなる

なぜ人間に宗教や哲学が生まれたのか?
それが大きな疑問がありその解答を得るためである。
最大の人間の問題は死だった,なぜ人間は死ぬのか?
それがどうしても今だって納得がいかないからである。
死によってすべてが終わるのかとなれば生きる意味もなくなってしまう
どうせ死ぬんだ,無になるんだ,だからどんな生き方してもいい
悪も善もないとか自暴自棄のようにもなってしまうだろ。
それだけ死はすべての人間の存在を否定するものなのである。
だからこの解決なくして人間の生きる意味は様々なことを言ってもなくなる

その解答は永遠の命を説いたキリスト教しかないともなる
ただ死後の生があるということで宗教は共通している
この世だけで生が終わらないということは死んだら天国とか地獄とかあるとなれば
そのことに恐怖して現世も生きることになる
その来世をも否定する無神論者が普通に多い
でも無神論者がどこまで真剣にそのことを考えるかとなると考えない
人間はそのことで人間でいられなくなるとか結論した人もいる
人間が存在して自分でも自然でも宇宙があるのではない,神が存在して人間があり宇宙があり自然がある
自然は自然に生成したという人がいる,それは違う,明かに人間であれ万物は目的があり神によって創造されたのである。
ただその意味とか価値は人間が求める,人間が解答を出すようにしたのである。
山でも木でも石でもそれがなどういう意味をもっているかは神は教えない
その答えを出すのは人間なのである。

今は日本では豊かになったから暇も生まれた,働かない人が膨大なのである。
一億人にいるとして65歳以上が4人に一人とかなる時代である。
その老人の大半は働かないのである。その他ニートとかも働いていない
それができたのは高度成長時代に親が金を貯えたからだともいう
自分などもそうだった,自分が働くこともしないで旅ばかりしていたというのも親がいたからである。
高度成長時代はまずがむしゃらに欲望を達成するために働いた時代である。
そういう時代は何のために働くかなど考えない,家電製品が欲しい家が欲しい車が欲しいうまいものを腹一杯食べたいしかないのである。
そういう時代は何でも意味を求める時代ではなかった
働くことにも意味など求めないのである,金になればいい欲望を達成すればいいとしかならない
でも豊かになると人は意味を何でも求める,働くことにも消費することにも何かしら意味をもとめる,中国人でも最初は物の消費だったが今は事の消費だというときもそうである何かしらその国の文化とかその国のもっている価値を見いだそうとしているのである。

老人になると人生をふりかえり自分の人生は何だったのだろう?
このように必ずその人生の意味を求めるのである。
でもそう思ってももうその人生の意味を老人になってから求めることができない
意味を求めたらこんな人生を送らなかったといっても後悔してももう人生をやり直すことができないのである。
そして金持ちにっても何か虚しいなとなっていることもある
自分が求めたのは結局金だった,でも金だけでは意味ある人生を送れなかったとかなる
ただ金にふりまわされで生きてきただけだとか後悔する
老人になるとこうしてみんな哲学的になるのである

今の時代は高度成長も終わり経済は成長しなくなった,成長を求めてももう無理である
そういう時代ももどってこない,今は宗教とか哲学とか芸術とか他でも何か意味をあるものを求める考える時代なのである。
そして価値観とかも変わってしまったのである。がつがつと欲望を充たすために働いた時代は終わった,一人一人が意味ある生を求めているのである。
老人の貧困が問題になるが老人は欲望が一般的には減退する,あまり消費しない
自分も電動自転車のマウテンバイクを欲しいと思った,それは30万以上する
でもそれに乗るエネルギーがなくなったのである。
節々が痛くなるとか疲れるとかなる,新しい道具でも何か電器製品でも使いこなせないことがある,パソコンでもそうである。
それを教えてもらいたいが量販店では物を売るだけしかしないのである。
そういうことでも需要に答えていないのである。
高齢化社会というのも時代的に違った価値観になる
つまりまだ高度成長時代の延長のような価値観が尾をひいている
その価値観を高度成長も終わり高齢化社会になり変わっているのである。
だからそれに適合した社会にも経済にも働き方にもなる必要がある

とにかくこうして延々と自分一人で書いているのも書きながら考えるのにいいからであるここに対話がないのだけど思索を深めているのである。
要するに人間はいくら他者がいていろいろ言っても結論は自分で出すほかないのである。投資でもなんでも結論をだして選択するのは自分しかないのである。
それを誰かの言う通りにしていたら自主性と独立はなくなるからだ
それでカルト教団とかに入り奴隷にされたりいろいろ洗脳されて投資させられたり
原発を造らされたりして甚大な被害を受けるからだ