BSジャパン 日経プラス10 「強権」政治が世界に広がる理由は
(文明はそもそも砂社会化してばらばらになっていた)
この社会の分析は面白かった,土社会(地縁、血縁の結びつきが強い)
とか砂社会(固い枠をあてがわないと形にならない)とかの分析である
現代は砂社会であるから強権政治になる
それは文明そのものがそうであり東京砂漠のように砂社会になっていたのである。
人のつながりが薄い社会である。その反面そこに縛られない拘束されない自由があるともなっていた
文明社会は砂社会でありそこからナチスとかが生まれたという分析はされてきた
もうその頃から人間は砂社会の中に生きていたからこそナチスが生まれた
今でもそれはさらに進行しているのである。
民主主義にしても一人一人が砂粒にすぎない社会である。
一票の権利があっても何十万何百万となって権力を得るシステムである。
つまり一票の力は何十万分の一であり何百万の一でしかないのである。
人間はその中で数字としてカウントされる存在にすぎない社会である。
それでカルト教団でも権力をとるために一票をとるために数集めのために一軒一軒回る
今の社会は数がすべてなのである。個人はなんの力もないもたされないのである。
この社会分析で個人は石社会だとか粘土社会だとか言うのは理解できない
石社会となれば石のように結びつく社会である。共同体が石のように組み合わされた社会なのである。粘土社会でも強く結びついて結合した共同体の中に生きている社会である。そういう社会は古代とか原始時代までもどる,なぜなら部族社会は一番人間の結びつきが強かったからである。
現代は石社会,土社会,粘土社会ではそもそもなくなって久しいのである。
だからなぜ原発事故で簡単に町でも村でも離散して崩壊したかとなるとそれはこうした社会に原因ししているとも書いた
田舎でもそうした結びつきがない農村のコミニュティでも崩壊しているのである。
いくら放射線の恐怖があっても町や村ごと廃墟化することがありうるのかとなるからだ
その結びつきは広域化してグローバル化してかえって経済的にも結びつきは希薄になっていた,別に都会と同じように金があれば食料でも何でも入るでないかという世界である。隣人の関係でも希薄なのである。
そういうことで補償金をもらったらこれ幸いと避難した人達は他で暮らしして帰ってこないとなった
それは前からどこでも田舎でもあなたに一億円やります,どこにでも住んでいいですよとなればどうなるのか、早くこんな田舎から出て行きたいと言っていた若者がいたことでもわかる,故郷がどうのこうのというより一億円の価値の方が大きくなっていたのである。だから現実に補償金をそのくらもらったらこれ幸いと故郷を離散したともなる
それを誰もとがめることはできないからである。
ともかく石社会,土社会,粘土社会は人間の結びつきが強い社会である。
それは簡単にばらばらにはならない粘着性の強い社会である。
自分が目指しているのはこの石社会であり土社会であり粘土社会である。
これはただ拘束力か強いから自分でも田舎は嫌だったのであり旅ばかりしていたとなる
そういう矛盾は常に人間にはある。
今人間の関係はすべて金に換算されている砂社会なのである。
だから強権政治でしかもう統制できないというのはわかる
それはナチスのファシズムになりカルト教団のファシズム宗教団体になる
第一何百万人が示威行動すること自体すでにファシズムなのである。
権力を誇示して圧力を数でかけるのが民主主義になった
だから砂社会の行き着く先はかえって強権政治でしか統制できない
それは社会主義でも同じである。文明そのものがそういう砂社会だからである。
かつては石社会,土社会,粘土社会だったのである,自分が自然とアイディンティティ化しようとした社会はまさにそうである。
なぜなら自然はそういうものであり木でも石でも大地に深く根を張り動かないし石でも岩でも動かないからである。密接に大地と結びついて動かないからである。
そういう社会がかつてあったしそれはエジプトでもマヤ文明でもアンコール文明でも石の建築物が多いのは石社会だからである。ヨーロッパでも中世とかなると石社会なのである堅牢な石の聖堂があり宗教的コミニュティがあり地域の結びつきが強いのである。
岩と岩は厳かに見つめ合う
固い約束を交わして不動なり
嘘,偽りのなく
岩と岩は固く結ばれている
自分の詩の一部だがこういうふうに人間は結び合っていたのである。
だから砂社会となった文明の結びつきが薄弱であり簡単に崩壊するばらばらになる危険性がひそんでいる,それが原発避難区域が事故で一挙に崩壊して廃墟化したのともにている要するに文明そのものが砂社会でありそれを結合させることが一番むずかしいのである。無数に分業化してパーツ化されて結びつくことがむずかしいのである。
だから石社会とか土社会,粘土社会に還るべきだとなるがそれはもう不可能である。
簡単に市町村で何か原発事故のようなものがあると崩壊して廃墟化する危険性がひそんでいる,津浪や原発事故で盛んに絆が象徴されたのもそもそも絆が消失している砂社会だったのが津浪原発事故でそれを見直す風潮が生まれたのである。
絆が大事だということは絆が失われていたからこそである。
でももうこれだけの世界が文明化すると不可能になっている,砂社会のなかで人は死んでゆくともなる,数としてカウントされ死ぬことも統計的数字でしかないとなる
共同体のなかでの自然の中での荘厳な死もありえないからである。